河底の宝玉
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編集一、差出人 無 き真珠 の小包 ――父を尋ねる可憐の一美人
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- 「こういう
若 い御婦人 の方 が貴方 様 にと申 して御訪 ねで厶 います」。 - と、
取次 の者が、一枚 の女形 の名刺 を呉田 博士 の卓上 に差出 した。 夫 を受取 った博士 は「なに、須谷 丸子 、一向 に知 らぬ名 だが、まア通 して下 さい。いや中沢 君 外 さなくてもよい、君 も居 た方 が好 い。」間 もなく須谷 丸子 は確乎 した歩調 で、沈着 の態度 を裝 うて我々 の室 に入 って来 た。金髪 の色白 の若 い婦人 である。背 は小柄 で、綺麗 な人だ。手袋 を深 く穿 め、此上 もなく上品 に身 を整 えて居 る。が、何処 やらに質素 な風 のあるのは余 り裕 な生活 をして居 る人ではあるまい。飾 りもなければ、編 みもない燻 んだ鼠色 の衣裳 、小 さな鈍 い色気 の頭巾 、その片側 に些 ぴりと挿 した白 い鳥 の羽根 がそれでも僅 に若々 しさを添 えて居 る。顔 は目鼻立 ちが整 うて居 るわけでもなければ、容色 が美 なる訳 でもなけれど、その表情 がいかにも温淑 、可憐 に満 ち、わけても大 きな碧色 の眼 が活々 として同情 に溢 れている。自分 (自分 とは、中沢 医学士 のことなり。本書 は中沢 医学士 の記録 により著述 せし故 、「自分 」又 は「予 」という文字 多 し。)は随分 各国人 に接 して色々 の女 を観察 したけれども、未 だ此様 な優雅 敏感 の女 を見 た事 がない。と同時 に自分 はまた斯 ういう事 も見遁 さなかった。それは博士 が勧 めた椅子 に腰掛 けた時 に、彼女 の唇 が顫 え、その手 が微 かに戦 いていた事 である。何 か余程 烈 しい心 の苦悶 を抱 いて来 たらしい。偖 て客 は口 を開 いて、- 「
先生 、私 、先生 の事 をば私 が只今 御世話 になって居 りまする築地 の濠田 瀬尾子 様 から承 って御伺 い致 しましたので厶 います。何 か一度 家庭 の事件 を御願 い致 しました時 に、大層 御上手 に、また御親切 に御骨折 り下 さいましたと申 しますことで、」 - 「
濠田 瀬尾子 さん、はア、極 く些細 な事 で、一度 御相談 に応 じた事 が有 りました。」 - 「でも、
濠田 様 は大層 感謝 していらっしゃいます。私 のは先生 、其 様 な些細 な事 では厶 いません。ほんとに私 、自分 ながら私 の話 ほど奇体 なことが世 に有 ろうかと思 うので厶 いますよ。」 - 「
承 りましょう。」と博士 は手 を擦合 せ、眼 を光 らせて熱心 に椅子 から体 を乗出 させる。 自分 は少 しく自分 の立場 に困 ったので、「僕 は些 と失礼 します。」- と
立 ちかけると、意外 にも客 は手袋 の手 を挙 げて押止 め、 - 「アノ、どうぞ、
御迷惑 でも御一所 に御聞 き下 さいますれば幸福 なので厶 います。」 - と
言 うので、またもや腰 を下 ろす。 - 「
手短 に事実 だけを申上 げますれば此様 な訳 なので厶 います。」と丸子 は言葉 をつぎ、「一体 私 の父 は英領 印度 植民地 駐屯 の或聯隊 の将校 で厶 いましたが、私 はまだ極 く幼 い折 に母 を失 いまして、英国 には他 に親戚 も厶 いませんので僅 かの知辺 を便 りに、横浜 のハリス女学校 の寄宿舎 へ入 れさせられまして、そこで十七迄 過 しました。其 卒業 の年 で厶 います、父 は聯隊 の先任 大尉 で厶 いまして、十二ケ月間 の休暇 を得 て上海 に出 て参 りました。上海 へ着 きますると私 に電報 を打 ちまして、久振 りで早 く逢 い度 い故 至急 上海 の蘭葉旅館 へ来 よと厶 いましたので、私 も急 いで神戸 から船 で上海 に行 きまして、其 旅館 へ参りますと、『須谷 大尉 様 は確 に当方 へ御泊 りでは厶 いまするが、御着 の晩些 と外 へ御出掛 けになりました限 り御戻 りが厶 いません』とのことに、其 の日 は一日 待 ち暮 しましたれど帰 りませぬ。で、其夜 旅館 の支配人 の忠告 に基 づきまして、警察 へ捜索 願 を出 だし、翌朝 の諸新聞 へ広告 も致 しましたけれど、何 の甲斐 もなく、今日 に至 る迄 も更 に行衛 が解 りませぬ。父 が印度 から上海 へ参 りましたのは、安楽 な平和 な余生 を見付 けますためで、それはそれは希望 に満 ちて参 りましたのに、それどころか却 て其様 なわけになりまして―――。」 - と
言 いさして、堪 やらず咽 び返 って了 う。 - 「それは
何時 頃 の出来事 ですか。」 - と
呉田 博士 は手帳 を開 く。 - 「
今 から十年前 の十二月 三日 で厶 います。」 - 「
荷物 はどうしました。」 - 「
旅館 に残 って居 りましたが、手懸 になりそうな物 は一 つも厶 いませんでした。着物 や、安陀漫 群島 (印度 と馬来 半島 との間 、ベンガル湾中 の群島 )から持 って参 りました珍奇 な産物 なぞばかりで――父 は其島 の囚徒 監視 の為 めに出張 致 して居 りましたから、」 - 「
上海 には御尊父 の御友人 はなかったのですか。」 - 「
私 の存 じまする所 では僅 た一人 厶 いました。夫 は山輪 省作 様 と申 しまして、矢張 り父 と同様 ボンベイの第 三十四歩兵 聯隊 の少佐 で厶 いましたが、此方 は父 が上海 へ参 りますより少 し以前 に退職 致 しまして上海 に御住居 で厶 りました。無論 其 当時 山輪 少佐 にも御問合 せ致 しましたけれども少佐 は上海 に参 った事 さえ御存知 ないとの御返事 で厶 いました。」 - 「
不思議 な事件 ですな。」 - と
博士 が言 った。 - 「いえ、まだまだ
不思議 な事 が有 るので厶 いますよ。六年 ほど以前 の四月 の四日 、東京 英字 新聞 に『須谷 丸子 嬢 の現住所 を知 り度 し、嬢 の利益 に関 する事件 あり」という広告 が出 ましたのです。然雖 広告主 の姓名 も住所 も書 いて厶 いません。其頃 私 は現今 の濠田 様 の御邸 へ家庭教師 に入 ったばかしで厶 いましたが、濠田 様 の御勧 めに任 せて其 番地 を新聞 で答 えたので厶 います。しますると直 ぐ其 日 の中 に小包 で一個 の名刺函 が誰 からともなく私 に宛 て到着 致 しました。開 けて見 ますると、非常 に大 きな立派 な真珠 が一個 入 って居 りました。それからと申 すもの今日 迄 六年 の間 毎年 同 じ月 の同 じ日 になりますと、一個 ずつ真珠 が届 きまするが、差出人 は更 に解 りませず、宝石商 に鑑定 して貰 いますと、世 に珍 しい高価 な物 だと申 しますので、コレ、此様 に結構 な物 で厶 います。」 - と
一個 の平 い小函 を空 けて差出 すのを覗 けば、成程 嘗 て見 ざる真珠 の珍品 六個 が潸然 と光 って居 る。 - 「
実 に面白 い。それで他 に何 か新事実 が起 りましたか。」 - と
博士 が訊 く。 - 「ハイ、それがツイ
今日 なので厶いますよ。そのために斯 うして御伺 い致 しましたので厶います。実 は今朝 ほど此様 な手紙 を受取 りましたので、何卒 先生 御覧 下 さいまし。」 - 「ドレドレ、そちらの
封筒 を先 ず先 に――消印 は江戸橋 局 ですな、日附 は十一月 七日 、ふン!隅 に男 の指紋 があるが……多分 配達夫 のでしょう。紙質 は最上等 、一帖 十銭 以上 の封筒 です。これで見 ると差出人 は文房具 に贅 を尽 す人 らしい。さて本文 は……差出人 が書 いてない。ええと、文句 は、
嬢 よ、今晩 正 七時 、劇場 帝国座 入口 、左 より三本目 の柱 の処 に待 ち給 えかし。若 し不用心 と思召 さば御友人 二名 を御同伴 し給 うとも苦 しからず。貴嬢 は或者 より害 を蒙 らしめられたる不幸 な御身 の上 なりしが、今宵 の御会見 によりて幸福 の御身 に立 ち返 り給 うべし。ゆめゆめ警官 をな伴 い給 いそ。警官 を伴 い給 わば何 の甲斐 もなかるべし。――未知 の友 より。
- 「
成程 、非常 に興味 のある怪事件 ですな。須谷 さん、貴女 はどうなさる御意 か。」 - 「
否 、夫 を御相談 致 し度 いので厶 います。」 - 「では
無論 参 ろうではありませんか。貴女 と私 と――おお、中沢 学士 という適当 な人 がある。手紙 には友人 二名 同伴 苦 しからずと有 りましょう。此 中沢 君 は始終 俺 と一所 に働 く人 です。」 - 「ハ、けれど
行 らしつて下 さいますか知 ら。」 - と
丸子 は嘆願的 の声 と表情 とをした。 自分 は熱心 に、- 「
参 りますとも、私 でも御役 に立 てば満足 です、幸福 です。」 - 「まア、
両 先生 とも御親切 に有 り難 う厶います。私 、ほんとに孤独 で厶いましたから此様 な時 に御相談 致 す御友人 とては一人 も無 かったので厶 いますわ。では今晩 六時 迄 に此方 へ上 りまして宜 しゅう厶 いましょうか。」 - 「六
時 よりお遅 れなさらぬように。ああ、もう一 つ、此 手紙 の手蹟 は真珠 の小包 の手蹟 と同 じでしょうか。違 いますか。」 - 「
小包 の方 も皆 持 って参 りました。」 - と六
枚 の包紙 を差出 す。 - 「ああ、
仲々 御用意 の周到 なことじゃ。」 - と
博士 は夫 を卓上 の上 に広 げて手紙 の文字 と比較 して見 たが、博士 の意見 では小包 の方 は悉 く態 と手 を違 えて書 てあるけれど、正 に手紙 の手蹟 と同一人 に相違 ないと断定 した。 - 「
須谷 さん、これは御尊父 の御手 とは違 いましょうな。」 - 「
似 ても似 つかぬ手 で厶 います。」 - 「そうでしょう。
冝 しい、では六時 に御待受 けしましょう。此等 の手蹟 は暫時 御預 けを願 い度 い。事 は熟 くと研究 して見 ましょう。今 はまだ三時半 です。では、サヨナラ。」 - 「では
後刻 、御免 遊 ばせ。」 - と
丸子 は活々 とした懐 しげの瞥見 を我々 の顔 に投 げ、真珠 の函 を懐中 に収 めて急 ぎ出 て行 った。自分 は窓際 に寄 って、巷 を小刻 みに歩 み行 く彼女 の後姿 を目送 した。その鼠色 の頭巾 と白 い鳥 の羽根 とが群集 の中 に消去 る迄 立 ち尽 したが、漸 く博士 の方 を振向 いて、 - 「
実 に人 の心 を惹 きつける力 のある女 ですな……」 - と
感嘆 すると、博士 は再 び煙管 に火 をつけながら、 - 「あの
婦人 がかね。フウ、俺 は気 が附 かなかった。」 - 「
先生 はほんとうに自動 人形 みたいです。時々 先生 の心 は木石 のように冷々 となることがあります。」と真面 になって云 うと、 - 「それが
不可 。個人 の質 によって判断 を偏頗 ならしむるのが、第 一に好 くない。」 - と、これから、
問題 の前 には人間 を単 に一個 の因子 と見做 すという例 の先生 の非人情論 を聞 かせられ、人 は外貌 によらぬものという実例 を一 つ二 つ聞 かせられ、最後 に丸子 の残 し行 きし手蹟 の鑑定 が有 ったが、博士 の観察 によれば、苟 も日常 文字 に携 わる者 は斯 る乱次 なき筆法 を忌 む、此 手蹟 は一面 優柔不断 、一面 自惚 の筆法 であると罵倒 した。そして博士 は尚 お二三の調査 事項 が有 るから、一時間 ばかり外出 して来 ると出 て行 かれた。 自分 は窓際 に腰掛 けたが、心 は今日 の美 しき客 の上 に走 って居 た。――あの微笑 、あの豊麗 なる声 の調子 、彼女 の半生 を覆 いし奇怪 なる秘密 、夫等 が総 て胸 に湧 いた。父 の行衛 不明 の時 が十七歳 とすれば今年 正 に二十七歳 である――旨味 のある年頃 だ。青春 が其 自覚 を失 い、人生 の経験 に触 れて少 しく落着 いた生涯 に入 らんとする年頃 だ。予 は腰掛 けたままそれから夫 と沈思 に耽 ったが、ゆくりなくも或 危険 なる思想 が頭 の中 に閃 き出 したので、衝 と立上 って我 が机 に走 り寄 り、此頃 研究中 の最近 病理学 の論文 の中 に没頭 せんと試 みた。我 れ何者 ぞや、僅 に医科大学 を卒 え、大学院 に籍 を置 く一介 の書生 の身 にして、仮初 にも左 る大 それた事 を念 う無法 さよ。然 り、彼女 は単位 である、因子 である――それ以上 の者 ではない。若 し我 が将来 にして暗黒 ならんか、男子 決然 とそれに対 うのみ、なまじいに想像 の鬼火 を以 てそれを輝 かさんと欲 せぬこそよけれ。
二、劇場 前 の怪馬車 ――濃霧衝きて何処へ行く
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呉田 博士 が帰宅 したのは五時半 、甚 だ上機嫌 である。側 の茶 を啜 りながら、- 「
此 事件 は大 した怪事件 でも何 でもないらしい。一言 にして説明 し得 べき性質 のものじゃ。」 - 「ハハア、ではもう
真相 がお解 りになったのですか。」 - 「いや、まだそう
言 われても困 るが、併 し一個 の手懸 になるべき事実 は発見 した。俺 はあれから英字 新聞社 へ行 って、古 い綴込 を見 せて貰 うたところが、丸子 嬢 の話 にあったボンベイ第 三十四歩兵 聯隊 を退 いて上海 に住 うて居 った山輪 少佐 は、今 から六年 以前 の四月 二十八日 に意外 にも東京 で死 んで居 るわい。」 - 「それが
何 の手懸 になるので厶 いましょう。」 - 「
驚 いたな。ではこういう順序 に考 えて見給 え。先 ず須谷 大尉 が行衛 不明 となった。大尉 が印度 から上海 に来 て訪問 するような友人 というのは一人 山輪 少佐 あるのみじゃ。然 るに同 少佐 は須谷 大尉 が上海 へ行 ったのさえ知 らぬと云 う。其 山輪 少佐 も四年 後 に東京 で死 んだ。其 日附 は今 も話 した通 り四月 二十八日 さ。処 がそれから一週間 も経 ぬうちに、須谷 大尉 の令嬢 は何者 よりとも知 れず高価 なる贈物 を受 け、爾後 六年間 毎年 続 いて、終 に今回 の呼出 の手紙 となったではないか。其 手紙 は丸子 嬢 を称 して『或 る者 より害 を蒙 らしめたる不幸 なる婦人 』と云う。彼女 にとつて父 の喪失 以外 に尚 お何 の不幸 があるだろう。それに贈物 が何故 山輪 少佐 の死後 直 ちに始 まったのだろう。こう考 えて来 ると、少佐 の子 か何 ぞが或 秘密 でも知 って居 って、その弁償 を丸子 嬢 に致 さんと欲 したもののようにも見 ゆるではないか。それとも君 には他 に有力 な解釈 でもあるのか。」 - 「
弁償 とすれば実 に奇体 な弁償 ですなあ!それに其 仕方 が怪 しいように思 われますが!丸子 嬢 に手紙 を送 るにしても、なぜ六年前 に送 らなかったでしょう。手紙 には今夜 の会見 によりて彼女 が幸福 を得 るとありましたが、果 して何 の様 な幸福 を得 るでしょうか。まさか父 の大尉 が生存 して居 るとも考 えられませんが。」 - 「
矢張 り難 かしい、難 かしい。」と博士 は沈鬱 な口調 で「併 し今夜 の探検 で万事 解決 されるだろう。ああ、馬車 が来 た。丸子 嬢 が来 たのだろう。君 、支度 が好 ければ階下 に降 りようじゃないか。」 自分 は帽子 を冠 り、頗 る重 き杖 を取上 げたが、見 れば博士 は抽斗 から短銃 を出 して懐中 に入 れた様子 、この分 では今夜 の探検 は危険 が伴 うて居 るように自分 は思 った。博士 と自分 は、丸子 の馬車 に乗 った。丸子 は黒 い外套 を着 て居 た。其 多感 らしい顔 は落着 いては居 たが蒼白 かった。斯 る時 にしも尚 お多少 の不安 を感 ぜざるものとせば、彼女 は男優 りと謂 わねばならぬ。而 も彼女 は完全 に自己 を制御 して居 た。そして博士 の質問 二三に対 して躊躇 なく答 えをした。- 「
父 は山輪 少佐 とは同 じ安陀漫 島 の軍隊 を指揮 して居 りました所 から、それはそれは少佐 とは親密 な間柄 の様 でしたよ。父 の手紙 に少佐 の噂 のないのは厶 いませんでした。それは兎 に角 、ここに父 の行李 の中 から発見 致 しました変 な一枚 の紙切 が厶 います。何 か書 いてありますけれど誰 にも其 意味 が解 りませぬ。何 かの御参考 になるかも知 れぬと存 じまして、只今 見付 け出 して参 りました。」 - と
嬢 の差出 す紙片 を受取 った博士 は、馬車 の中 ながら膝 の上 に披 げて皺 を伸 し、例 の二重 の拡大鏡 にて仔細 に之 を検査 する。 - 「
純粋 の印度製 の紙 ですな。嘗 て板 か何 かへ針 で留 められた跡 がある。ここに描 いてある図表 は何 か沢山 の室 、廊下 なぞを持 った或 大建築物 の一部 の設計図 らしい。紙 の片隅 に赤 インキで書 いた一個 の小 さな十字形 が有 りますな。はア、其 上 に鉛筆 で大分 消 えてはいるが『左 から三・三七』と書 いてある。それから左 の片隅 には奇体 な形象文字 がある。四つの十字形 が一列 に列 んで其 腕 が触 れ合 って居 るような形 じゃ。いや其 傍 にも何 かあるわい。莫迦 に荒 っぽい文字 じゃな。なに『簗瀬茂十 、真保目宇婆陀 、阿多羅漢陀 、波須戸阿武迦 ――以上 四人 の署名 によりて』とある。ふフウ、これが今度 の事件 と何 の様 な関係 があるやら俺 にはまだ解 らぬ!併 し何様 大切 な書類 には違 いありませぬぞ。これは多分 手帳 の中 に丁寧 に蔵 われてあったものですな。さもなくて此様 に両側 とも綺麗 な筈 がない。」 - 「
仰有 る通 り父 の手帳 の中 から見付 け出 しました。」 - 「
兎 に角 非常 な必要品 になろうも知 れぬ故 大切 に保存 なすった方 が宜 しい、いや、此 事件 は俺 が最初 に考 えたよりは遥 に深 く、遥 に精巧 なものかも知 れん。俺 は考 え直 す必要 がありますわい。」 - と
言 った後 は、博士 は馬車 の背 に倚 り掛 って沈思 黙考 に耽 り出 した。自分 は独 り丸子 嬢 をお相手 に、低声 で彼此 と事件 の噂 をしつつ進 んだ。 - 十一
月 の夕暮 である。未 だ七時 ならざるに日 は暗澹 として暮 れ、濃 き細雨 の如 き霧 が大都 を覆 い尽 した。雲泥色 をした雲 はぬかるみの巷 の上 に陰惨 として垂 れ下 って居 る。 銀座 通 りの両側 、家々 の瓦斯 や電燈 は朦朧 として光 を散 らす斑点 の如 く、粘泥 の舗石 の上 に弱々 しき円形 の微光 を投 ぐるのみ。商店 の陳列 窓 の黄色 の閃光 は、蒸気 の如 く空気 を劈 いて、人通 り繁 き街衢 の上 に変転 恒 なき陰暗 たる光輝 を撒 いた。此等 の狭 き光 の線 を横切 って疾飛 する数多 の顔 ――悲喜哀楽 種々 の限 りなき顔 の行列 を見 つつ行 く予 の心 には、言 い難 き畏怖凄惨 の情 が起 った。顔 は闇 より光 に飛 び、光 より闇 に吸込 まれる。其 普通 の印象 に恐怖 を感 じたのではないが、憂鬱 にして重苦 しき黄昏 と目下 身 を措 く不可思議 なる仕事 とが結 び付 いて我 が心 を圧迫 し神経的 ならしむるのであった。丸子 嬢 はと見 れば、これまた同 じ感情 に窘 んでいる態度 が歴歴 と見 える。此 間 にあって博士 一人 のみ、些々 たる刺戟 から超越 して居 る。博士 は膝 の上 に手帳 を開 き、絶 えず懐中 電燈 の光 の下 に何 をか書 き留 めつつある。帝国座 に着 く。観客 は既 に両側 の入口 に充満 して居 る。前面 大玄関 には馬車 や、自動車 やの乗物 が蝟集 して、盛装 の紳士 淑女 を降 ろしては行 く。偖 て我々 が今 しも指定 の会合点 たる三本目 の柱 に寄 るが否 や、早 くも一人 の馭者 の服装 したる小柄 の色黒 く敏捷 なる男 が挨拶 した。- 「ええ、
貴君 様方 は若 しや須谷 丸子 さんの御連中 では厶 いますまいか。」 - 「
私 が丸子 で厶 います。この御二方 は私 の御懇意 な方 で厶 います。」 - と
令嬢 が進 み出 る。 男 は驚 くほど刺 し透 す如 き、また疑問的 の眼 を我々 の上 に向 けたが、稍 や頑固 なる態度 にて、- 「
須谷 さん、御不礼 は御宥 し下 さいまし。貴女 様 の御連 の方 はまさか警察官 では厶 りますまいな。」 - 「いいえ、
盟 って左様 ではありませぬ。」 男 は一声 鋭 い口笛 を吹 き鳴 す。と、一人 の別当 が一台 の四輪 馬車 に近付 き扉 を開 く。我々 に挨拶 した男 は馭者 台 に腰掛 け、我々 三人 は夫 れに乗 り替 える。腰 をおろす間 もなく、馭者 は馬 に鞭 って駆 け出 す。斯 て我々 は全速力 を以 て濃霧 の巷 を疾駆 する。思 えば奇異 なる位置 にも身 を置 くものかな。我々 は今 未知 の使命 を抱 いて、未知 の地 に駆 けりつつあるのである。今宵 の招待 が欺瞞 であらんとは思 われざれども、全然 否 らずとも言 い難 い。或 は却 て良好 なる結果 を持来 すべき旅行 であるかも知 る可 からず、そもまた言 い難 い。丸子 の態度 は相変 らず沈着 である、相変 らず決然 として居 る。自分 は其 心 を慰 めん為 めに、友人 の南洋 における冒険譚 を試 みたが、自分 の方 が却 て興奮 していた為 めに、話 が屢々 混線 するのであった。初 めにこそ自分 は馬車 の行手 に多少 の見込 みもあったが、稀 に見 る濃霧 の為 めに何処 を駛 りつつあるや解 らなくなった。只 随分 長途 でるという観念 があるのみ。併 しながら博士 に至 っては馬車 が辻広場 を過 り、曲 りくねれる小路 を出入 する度 に其名 を呟 いて行 く。「ははア、妙 な方 へ来 たな、こりゃ本所 の方 へやって行 くな……ソーラ果 してじゃ……もう橋 の上 へ来 た……河 が微 に見 えるだろう……。」成程 、隅田河 の緩 い流 れが瞥乎 と眼 に入 る。広 い沈黙 した河面 に船 の燈 が揺 めき居 ると見 たも瞬時 、馬車 は忽 ち橋 を駛 り越 えて、再 び向 う岸 の巷 の迷宮 へと衝 き進 む。博士 はつぶやいた。「はハア、此 分 では今夜 の招待 は余 り賑 かな処 ではないわい。」全 く我々 は何時 しか怪 しげなる郊外 へ運 ばれていた。陰気 な煉瓦造 の家 が長 く続 いて、処々 の隅 に可厭 に派手派手 しい洋館 が野鄙 な輝 きを見 せて居 る。それを通 り越 すと、各々 小 やかな前庭 を持 った二階造 の別荘 が列 び、次 にはまたもや目立 つほどの新 しい煉瓦屋 の長 い列 が現 われた――巨大 なる帝都 が田舎 の方 へニュッと伸 ばした異形 の触覚 、それを伝 うて我我 は駛 って行 くのだ。兎角 しいて馬車 は新 しき露台 のある一軒 の家 の前 に駐 った。近所 の家 は空家 らしい。馬車 の駐 った家 と雖 も、勝手 に窓 を洩 るる一条 の光線 のほかは総 て黒暗々 である。併 し馭者 の男 がホトホトと訪 う声 に、扉 は忽 ち内 より開 かれて、一人 の印度人 らしい僕 が現 われた。黄色 の頭巾 、白 きダブダブの衣裳 、同 じく黄色 の腰帯 ――そういう東洋風 の服装 した男 が、此辺 の平凡 なる郊外 の家 の入口 を枠 として突立 った光景 は変 に何 となく不似合 な感 じがした。- 「
大人 、お待 ち兼 ねであります。」 - と
僕 が言 う間 もなく、奥 の方 の室 より高 い笛 を吹 くような声 が聞える。 - 「
真戸迦 よ、御客様 を御通 し申 せ、ズッと此方 へ御通 し申 せ。」
三、待受 けたは禿頭 の異様 の人物 ――亡父の秘密を物語らん
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燈火微暗 く、装飾 俗悪 なる一道 の穢苦 しき廊下 が奥 へ続 いて居 る。我々 は印度人 の僕 に案内 されて夫 を進 んで行 く。右手 のとある扉 の前 に着 くと、彼 はそれを開 く。黄色 の光 の波 が颯 と我々 の上 に落 ちた。そして光 の中央 に一人 の背 の低 い男 が突立 って居 る。背 は低 いが頭 だけは莫迦 に高 く尖 がって居 る。紅 く硬 き毛 がグルリと麓 を取巻 いて生 え、其中 にテラテラと禿 げた頭頂 が聳 えている形 は、宛然 、樅林 の中 の山峰 に髣髴 たり。彼 は突立 った儘 にて手 を擦 り合 わせる。其 顔面 がまた絶 えず疳症 のようにビクビク動 いて居 る。或 は微笑 み、或 は蹙 め、一瞬時 だも静止 せぬ。自然 は此男 にダラリと垂下 したる唇 と、余 りにも露出 の黄 い乱杭歯 とを与 えた。彼 はそれを隠 さんと絶時 なしに手 を口 の辺 に持 って来 る。頭 こそ思 い切 って禿 げてはいるが、年輩 はまだ若 いらしい。後 にて聞 けば三十を越 したばかりであったそうだ。- 「
須谷 丸子 さん、能 うこそ御出 で下 すった、能 うこそ……」と主人 は細 く高 い声 で幾度 びか繰返 し「御両君 、能 うこそ。これは私 の私室 、私 にとっては狭 いながらも一個 の聖所 であります。令嬢 、実 に狭 いです。併 し私 の思 い通 りに飾 ってあります。東京 の郊外 の沙漠 の様 な村 に於 ては美術 の豪家 です。」 真 に我々 三人 は此室 の光景 に驚 かされた。斯 る陰気 な家 の中 に、斯 る豊麗 なる室 の在 るべしとは誰 か思 おうぞ。最 も高貴 なる、最 も光沢 ある窓帷 や掛布 は四方 の壁 に垂 れ、其 間 の此処 彼処 には、贅沢 に装架 したる絵画 や、東洋 の瓶 なぞが飾 られてある。琥珀色 と黒 との混 りの絨氈 はいとも柔 かに、いとも厚 く、踏 めば苔 の褥 の如 く足 の沈 む快 さ、その上 に斜 めに敷 かれた二枚 の虎 の皮 と、室隅 の蓆 の上 に立 てる大形 の水煙管 とは、一層 東洋 の豪奢 を偲 ばせる種 である。銀 の鳩 の形 したるランプは、殆 ど弁分 け難 き黄金 の針金 に繋 がれて室 の中央 に懸 っている。そして其 光 は一種 の微妙 なる芳香 を空気 に漲 らせる。主人 は依然 顔面 をビクつかせ、且 つ微笑 みつつ、- 「
私 は山輪 周英 と申 します。貴女 は無論 須谷 丸子 さんでしょうが、この御両君 は――」 - 「
此方 が呉田 医学 博士 で、此方 が中沢 医学士 で厶 います。」 - 「ああ、
医師 でいらっしゃいますか。」と彼 は非常 に興奮 して「先生 は聴診器 は御持 ちで厶 いますか。何 なら一 つ御診察 を御願 い致 したいもので、実 は心臓 が悪 くないかと日頃 そればかりが気掛 りでしてな。失礼 ですが、是非 御診察 下 さい。」 乞 わるるままに自分 は彼 の心臓 を診察 したが、何等 病気 の徴候 もない。只 全身 を戦慄 させている所 にて見 れば恐怖 の為 めに心身 を顚倒 させて居 るのであろう。- 「
心臓 に異状 はありません。何 にも御心配 に及 ばぬでしょう。」 - と
言 うと彼 は急 に嬉々 して、 - 「
丸子 さん、私 の心配 は一 つ大目 に見 て頂 きたい。私 は長 い事 窘 みましてな、以前 から心臓 の弁 に異状 がありはせぬかと疑 って居 ったのです。只今 の御診察 で安心 はしましたが、それにつけても憶 い出 すのは貴女 の御尊父 ですな。心臓 を彼 のようにいきませなかったならば、今 でも御存命 の筈 であったのにと残念 に思 いますよ。」 自分 は嚇 として此 男 の面 をピシャリと一 つ擲 ってやろうかと思 った。此 様 な慎重 を要 する事件 の最中 にあって、何 たる冷淡 、何 たる出放題 の事 を言 う男 だろう。丸子 は椅子 に腰 を下 ろしたが其 顔 は脣 まで蒼白 である。- 「ええ、
父 は逝 くなったに違 いないとは思 うて居 りました。」と微 に言 った。 主人 は言葉 をつぎ「貴女 には今晩 は残 らず御打明 けします。それに或 権利 をも差上 げます。同時 に私 もその権利 を享 けます。兄 の建志 がどう申 そうと関 いません。貴女 が此 御両君 を御連 れ下 すったのは甚 だ満足 です。啻 に貴女 の御力 となるのみならず、またこれから私 が為 さんとする事 、申上 げんとする事 の証人 となって下 さる事 が出来 る。これだけの同勢 ならば兄 に対 して思 い切 った対抗 も出来 ます。このほかにもう局外者 は入 れたくない――警察官 だの役人 だのという者 は真平 御免 です。此上 他人 の容喙 なしに、我々 は万事 に円満 に解決 する事 が出来 ます。官吏 が,混 るという事 は兄 に取 って最大 の苦痛 なのです。」- と
低 い椅子 に腰掛 けたまま、弱々 しく水 っぽい碧 き眼 で物 を捜 るが如 く我々 の方 に瞬 きする。 - 「
貴君 がどのような告白 をなさろうとも、断 じて他人 へは洩 らさぬつもりです。」 - と
博士 が言 うた。自分 も首肯 いてみせた。 - 「それで
安心 しました!安心 しました!丸子 さん、タスカニー産 の赤葡萄酒 でも一杯 差上 げましょうか。それともハンガリア産 の葡萄酒 はいかが。その他 の葡萄酒 はないのです。御所望 でない。はア、止 むを得 ません。それならば些 と御免 蒙 り度 いことがあります。私 がここで煙草 を吸 いますが御許 し下 さいましょうな、東洋 の柔 かな香 の好 い煙草 です。どうも少 し神経的 になって居 ますから、こういう時 には水煙管 が何 よりの鎮静薬 です。」 彼 は一本 の小蠟燭 の火 を大 きな雁首 に持 って行 く。と、煙 が薔薇水 を通 って愉快 げにずッずッと立 ち騰 る。我々 三人 は半円形 に座 を占 め、頭 を突 き出 し、頤 に手 を支 って固唾 を呑 んで控 えている。其中 でこの突兀 たる禿頭 を光 らせた不思議 なるヒクメキ男 は、何 とやら不安 げに煙草 を吸 うのであった。- 「
今度 私 が此 告白 を貴女 に対 って致 そうと決心 した時 に、自分 の住所 姓名 を御打明 けするのは何 でもなかったのですが、多分 貴女 は此方 の申出 を胡散 に思召 して、不愉快 な警察官 を御同行 なさるだろうということを怖 れましたので、そこで僕 の旦助 に先 ず御目 に掛 らせて、然 る後 に御面会 を致 そうという順序 に致 したのでした。私 は彼 の分別 に悉 く信用 を措 いていますから、彼 は不満足 であったらば其儘 事件 を進捗 させぬよう実 は命令 しました。此様 な用心 を取 りましたことは何卒 悪 しからず、それと申 すのが、父 が上海 から東京 に移 り死 にましてからは、私 は隠遁的 の生活 をして居 りまして、自分 でも申 すも異 なものですが、高尚 な趣味 を持 った男 と自信 して居 りますゆえ、私 にとっては警察官 ほど美的 でないものはないのです。私 は有 ゆる俗悪 な実断主義 というものに、生 れつき怖気 を振 って居 ます。ですから俗人 と交際 することも稀 であります。御覧 の如 く、身 を置 く住居 なぞも多少 高雅 の空気 を出 して居 るつもりでして、これでも自分 から美術 の保護者 を以 て任 じて居 るのです。それが私 の弱点 ですな。御覧 下 さい、その風景画 はコロー(仏国 の画家 )の真筆 です。このサルポトルロサ(伊太利 画家 )の絵 には鑑定家 も少 し首 を傾 けるかも知 れませんが、此方 のブーゲロー(仏国 の画家 )に至 っては断 じて真物 です。私 の趣味 は近世 の仏蘭西 派 に傾 いています。」 - 「
御言葉 の中 で失礼 で厶 いますが、」と丸子 が口 を出 した。 - 「
私共 は何 か貴君 が御話 しが御有 りだと仰有 いますので御伺 い申 したので厶 いますが、もう夜 も更 けますことゆえなるべく御用 の方 は早 く承 り度 う厶 います。」 - 「いや、
御道理 ですが、どんなに早 く致 しても、多少 の御暇 は掛 ります。と申 すのは兄 の建志 が、遂 この先 の砂村 の父 の住 んで居 ました家 に今 も尚 お居 りますので、是非 会 うて頂 かねばなりませんからです。勿論 、御両君 も御一所 に、そして一 つ兄 を説 き伏 せて頂 こうでは厶 いませんか。私 が正当 と信 じて取 ろうと致 した手段 について、兄 は非常 に立腹 して居 まして、現 に昨晩 も大激論 をやりましたが、否 、彼 が怒 った時 の猛烈 さと申 したら御想像 には迚 も及 びません。」 - 「
砂村 まで行 くとしたらば、即刻 出掛 けられたらば如何 です。」と自分 は言 うた。 主人 は耳 の根迄 真紅 になるほど哄笑 して、- 「それは
及 びも附 かぬ事 です。そんなに不意 に押掛 けたら兄 がまア何 というか解 りません。いや、どうしても相当 の準備 をしてから御目 に掛 って頂 かねばなりませぬ。第一 、これからお話 いたす事柄 につきましても、未 だ私 の解 らぬ点 が数個所 あります。ですから私 の知 れるままを御話 し申 すに過 ぎませんのです。」と云 うて語 り出 す。 - 「
私 の父 と申 しますのは、定 めてもう御推察 でしょうが、曾 て印度 の軍隊 に居 りました陸軍 少佐 山輪 省作 であります。父 が退職 しましたのが十一年 以前 、それから私共 を伴 い上海 に参 り、間 もなく東京 に移 り、砂村 に住居 を定 めましたが、印度 で大分 金 が出来 、莫大 の金 と珍奇 な価値 のある沢山 の産物 とを持 って来 て、土人 の僕 二三人 を使 って居 ました。そして夫等 の財産 で家 を買 って非常 に贅沢 な暮 しを致 しました。私 と兄 の建志 とは双生児 でありまして、ほかに兄弟 は一人 もありませんでした。 偖 て須谷 大尉 の行衛 不明 事件 ですが、私 は其時 の騒 ぎを能 く記憶 して居 ります。詳細 は新聞 で読 み、それに大尉 が父 の友人 という事 も知 りましたゆえ、我々 兄弟 は父 の面前 で遠慮 なく其 噂 さを致 しますと、父 も口 を出 して大尉 の行衛 につき色色 想像 説 を闘 わせたりなどしますので、父 がまさかに其 事件 の秘密 を胸 の奥 に隠 して居 り、全 世界中 父 一人 が大尉 の運命 を知 っている人 であろうなぞとは、夢 にも思 い及 ばなかったのです。併 し其 中 に我々 も或 る秘密 が――或 る確実 の危険 が父 の頭上 に降 り掛 っている事 を悟 りました。父 は一人 で外出 するのを大層 怖 がりましてな、毎時 二人 の力 強 い拳闘家 を雇 うて日頃 は門番 として使 っていました。今日 貴君方 を御迎 えに出 た旦助 、あれが其 一人 でしたよ。父 は何 を怖 れるのか我々 には一言 も申 しませんでしたが、木 の脚 ですね、片脚 の人 などのよく使 う、ああいう木 の義足 を持 った者 を一番 嫌 ったのは事実 です。一度 なぞはそういう男 を途中 で見掛 けて短銃 を撃 ちかけた事 なぞもありましたがな、これが何 でもない注文 取 りに廻 り歩 く商人 だったので、其 口 を塞 ぐために大枚 の金 を取 られたりなぞをしたのです。我々 は単 に父 の気紛 れとばかり思 うていたのですが、其 後 に至 って我々 の想像 を変 らせるべき事件 が出来 しました。父 が印度 から移住 後 五年 、即 ち今 から六年 ばかり前 の春 の事 でした。父 の許 へ印度 から一本 の手紙 が届 きましたが、これが父 にとって大打撃 の手紙 であったと見え、朝飯 の卓子 でそれを読 むなり殆 ど昏倒 し、爾来 死病 に取 り附 かれたのでした。手紙 の内容 は更 に解 りませんでしたが、瞥 と見 た所 では文句 は短 く、且 つ悪筆 で認 めてあったと思 います。父 は元来 脾臓 の膨張 する病気 で窘 んでいたのですが、夫 れから段々 悪 くなり、其 年 の四月 の末頃 には医師 からも見放 され、父 も覚悟 致 したと見 えて、臨終 に我々 に告白 する事 があると言 い出 しました。呼 ばれて病室 へ入 って行 くと、父 は枕 を力 に稍 や起返 り太 い息 を吐 いて居 ましたが我々 の姿 を見 ると扉 を厳重 に内 から閉 めさせて、寝台 の両側 に腰掛 けさせました。そして両手 に兄弟 の手 を握 って、苦痛 と感動 とで途切 れ途切 れになる声 を絞 って、実 に驚 く可 き告白 を致 したのです。それを父 の言葉通 りに一 つ御話 して見 ましょうか。」
四、臨終 の窓 を覗 く奇怪 の髭面 ――天井の密室に五拾万円の宝石函
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父 の言葉通 りだと、ことわって山輪 周英 は話 を進 める。- 「
父 は斯 う申 したのです――己 は此 臨終 の時 迄 も心 に押 し冠 さっている只 た一つの事 がある。それは哀 れな須谷 大尉 の孤児 に対する己 の処置 だ。己 は貪慾 に呪 われて一生 其 罪 のために窘 んだがここに須谷 の嬢 が少 くも当然 其 半分 を受 くべき宝 がある。それ迄 をも慾深 の己 は横領 して居 ったのじゃ。それが我身 の利益 になったかと言 うに毫 もなって居 らん――誠 に盲目 で愚 なものは貪慾 という事 じゃ喃 。ただ宝 を握 って居 るという事 のみの嬉 しさに、他人 へ分 ける事 を能 う為 し得 なんだのじゃ。見 い、その規尼涅 の瓶 の傍 に、真珠 を尖頭 につけた珠数 があるだろう。元々 須谷 の嬢 に贈 るつもりであったのが、それさえ手放 し得 なんだよ。だからお前達 兄弟 は、己 に代 って嬢 に印度 の宝 を分 けてやってくれ。が、己 が死 ぬ迄 は何 も贈 ってはならぬ――珠数 をやることさえならぬ。 - そこでお
前達 に須谷 大尉 の死 んだ真相 を話 して置 こう。一体 大尉 は長年 心臓 を煩 うて居 ったのじゃが、誰 に隠 して居 ったが己 一人 が知 って居 た。所 で印度 在任中 、己 と大尉 とは、或 る特別 な事情 に繋 がれて、莫大 なる宝 を手 に入 れる事 が出来 た。それを全部 己 が上海 に持 ち帰 って居 ったところ、翌年 須谷 大尉 が印度 からやって来 て、其夜 真直 に己 の所 へ訪 ねて参 っての、宝 の配分 を渡 して呉 れいと申 すのじゃ。彼 はホテルから己 の家 まで徒歩 で参 ったそうで、大尉 を迎 い入 れた者 は死 んだ良張陀 と言 う忠義 な爺様 であった。さて大尉 と逢 うて見 ると、宝 の配分 の割合 について意見 が違 い、終 には双方 真紅 になって論 じ合 うという有様 、其 うちに嚇 と憤怒 に襲 われた大尉 はスックと椅子 から立 ち上 ったと思 うたが、不意 に手 を胸 へ当 てた。顔色 は次第 に物凄 く薄黒 く変色 する、やがてドタリと倒 れたが、倒 れる拍子 に頭 を其 の場 に在 った宝玉函 の角 に強 く打付 け居 った。己 は驚 いて潜 んで見 ると慄然 とした。彼 は最 う息 が絶 えて居 るではないか。 何 うしたら好 かろうと、己 は長 い間 呆然 として居縮 まっていた。無論 真先 に起 った考 えは、人 を呼 ぼうという考 えであった。が、顧 みれば此場 の光景 の総 てが、己 が大尉 を殺 したとよりほか思 われない。激論 最中 の死 と言 い、頭部 の大傷 といい、悉 く己 の不利益 の証拠 となる物 のみである。それにじゃ、宝玉 の一件 は己 が絶 えず秘密 秘密 にと苦心 して居 ったのだが、弥々 其 筋 の者 が臨検 致 すとなれば自然 其 秘密 にも手 が付 くことになる。大尉 自身 の言 う所 によれば、彼 が上海 着 の後 の行動 は、天地間 未 だ誰 知 る者 もないとのこと、然 らば彼 の消息 を強 いて他人 に知 らしむる理由 もない、と斯 う己 は考 えたのじゃ。- そうは
言 いながらも尚 おも思案 に暮 れて居 った。其時 顔 をふと擡上 げて見 ると、何時 の間 にやら僕 の良張陀 が扉口 に立 って居 るではないか。彼 は忍足 に室内 へ辷 り込 んで扉 に閂 を掛 け、こう言 うのだ――大人 、御心配 し給 うな、大人 が大尉 を御殺 しになったことは誰 にも知 らせるに及 びませぬ。屍体 を隠 して了 えば此 に上越 す手段 はないでは厶 いませぬか――で、己 は自分 が殺 したのではないと言 うたが、彼 は頭 を振 って微笑 みながら、大人 、老爺 は残 らず次 の室 で聞 きました、喧嘩 をなされた御声 も聞 きましたし、ドウと御擲 りなされた音 も聞 きました。併 しそれを口外 致 すような老爺 では厶 りませぬ。今 は家内中 皆 眠 って居 ますから、さア早 く屍体 を片附 けましょう。と言 い張 るのだ。で己 もツイ其気 になって了 うた。自分 の日頃 召使 う僕 にさえ無実 を信 じられぬ此身 が、何 で理屈 一方 の裁判所 の陪審官 の前 に立 って無実 を弁明 出来 ようぞ。そう思 うたから、己 は老爺 と手伝 うて其夜 の中 に死体 の始末 をして何喰 わぬ顔 で居 ると、さア四五日 してから上海 中 の新聞 が須谷 大尉 の奇怪 なる行衛 不明 事件 について大騒 ぎして書 き立 てたわい。けれども喃 、今 の話 でお前達 も合点 がいったろうが、己 は彼 の死 について責 めらるる理由 は先 ずない。ただ彼 の死骸 のみならず、宝玉 迄 も隠 して、須谷 の分配 を横領 したという事実 、これは全 く己 の落度 であった。だから己 は自分 の死後 其 賠償 をしたいのじゃ。兄妹 とも、もっと耳 を己 の口端 につけてくれ。其 宝玉函 の隠 してある所 はの――と云 い掛 けた其 瞬間 、父 の顔色 が颯 と怖 ろしく変 ったのです。眼 を荒 らかに見据 え、頤 を垂 らし、『彼奴 を追払 え!さア、早 く追払 え!』と叫 びました。其 声 というものは未 だに耳 に付 いて居 ますな。父 の見詰 めたのは庭 に向 いた窓 でしたから、我々 は何事 ぞと振向 けば、こは什麼 、一 つの人間 の顔 が闇 の中 から我々 を覗 いているのです。窓硝子 に鼻 を押付 けた所 の白々 したのも認 められます。何 でも毛深 い髭面 で、粗暴 な残忍 な眼 を持 ち悪意 を集注 したという表情 をして居 ました。我々 兄弟 は己 れッとばかり窓 へ突進 しましたが、もう曲者 は居 りません。再 び寝台 の許 へ戻 って見 ると、父 はダラリと頭 を垂 れて居 るので、脈搏 を検 べると全 く止 まって居 ました。 其 夜 庭園 内 を隈 なく捜索 しましたけれども、曲者 の闖入 したらしい形跡 がない。只 窓 の直下 の花壇 の中 に人間 の片足 の足跡 が一 つ有 ったばかりでした。其 足跡 さえ無 かったならば、我々 は気 のせいで彼 の様 な荒 い怖 ろしい顔 を見 たのだと思 い定 めて了 ったかも知 れません、併 しながら直 ぐに他 の、而 も一層 顕著 なる証拠 が現 われて、或 秘密 の曲者 が我々 の周囲 に徘徊 している事 が確実 となりました。其 翌朝 の事 です。父 の室 の窓 が開 けられて、戸棚 や手函 などが掻 き捜 されてある形跡 を発見 しました、のみならず父 の死骸 の胸 の上 に一枚 の紙 の切端 が留 めてあって、夫 には『四人 の署名 』という字 がなぐり書 きにしてありました。何 の意味 やら、また曲者 が何者 やら更 に当 りがつきません。我々 の判断 致 した所 では、亡父 の所持品 は転覆 しこそされたれ、何 一つ紛失 しなかったという事 に止 まります。我々 兄弟 は此 奇怪 なる出来事 を、日頃 父 の抱 いていた恐怖 に結 び付 けて考 えて見 ましたが、今日 に至 る迄 秘密 は依然 として秘密 のまま、解決 されず残 って居 るのであります。」主人 はもう水煙草 を点 すのを止 め、二三分間 思案 有 りげに煙 を吹 く。予等 三人 は此 異常 なる物語 に聴 き惚 れて黙然 として坐 せるのみ。丸子 は父 の死去 の話 を聞 かせられた時 は急 に死人 の如 く蒼白 な顔色 となった。自分 は昏倒 するに非 ずやと懼 れて、早速 卓子 の上 の水罎 の水 を一杯 勧 めると漸 く恢復 した。博士 は放心 の体 にて眼瞼 をば輝 く眼 の上 に垂 らして椅子 に背 を倚 らせて居 る。其態 を瞥見 した自分 は、今度 は博士 が少 くも其 智慧 を極度 に試験 するべき事件 に遭遇 したのだと思 った。山輪 周英 は自分 の物語 りし譚 が、異常 の感動 を与 えたのに得意 の顔付 をして、一人 一人 順次 に眼 を移 しながら、再 び煙 を吹 いて語 り出 した。- 「
既 に御想像 でもありましょうが、兄 と私 とは父 の話 した宝玉 の件 に夢中 となり、数週間 、数月間 に亘 って邸内 を隈 なく捜索 したり掘 ったりしましたが、更 に出 て参 りません。其 隠 し場所 が臨終 の父 の唇 に残 った儘 永久 に葬 られたのを思 うと気 も狂 うばかりでした。宝玉 の立派 さは前 にお話 した珠数 を見 ても判断 が出来 ます。此 珠数 に関 しても兄 と私 とは小争闘 を致 しました。それに付 いて居 る真珠 が実 に高価 な物 であった所 から、兄 は手放 すのを惜 しがったのです。兄妹 の恥 を申 す様 ですが何方 かと言 えば兄 は多少 父 の欠点 を受 けついで居 ましたからな。尚 お兄 の考 えでは、若 し珠数 を手放 したらば噂 の種 となって、飛 んだ面倒 が持上 りはすまいかと心配 したのです。それを何 うにか凭 うにか説 き伏 せて、丸子 さんの御住所 を捜 り、珠数 の真珠 を一 つ一 つ放 して毎年 同 じ月 の同 じ日 に差上 げたらば、令嬢 も生活上 の御困難 もなかろうかと、漸 く其 策 を実行 したのであります。」 - 「
御親切 な御考 えであった。貴君 にとって極 めて善 い事 であった。」と博士 が賞 めた。 主人 は残念 そうに手 を振 って、- 「
我々 は謂 わば令嬢 の信托人 であったのです。兄 は兎 も角 私 だけはそう思 っていました。財産 は沢山 あり、私 はもう其 上 の利慾 は欲 しない。であるのに、うら若 い婦人 は其様 な無情 の境遇 に置 くのは非常 に悪 い趣味 であると考 えました。が、其 問題 になるといつでも兄 と意見 が違 う、それで私 は寧 そ別居 が得策 と、僕 の旦助 と真戸迦 爺様 とを連 れて一昨年 から此 の家 に移 りました。 所 がツイ昨日 の事 です、一大事件 が起 りました。それは宝玉函 がとうとう発見 されたというのです。で、私 は兄 と相談 して即刻 丸子 様 にあの様 な御招待 の手紙 を差上 げました。ですから残 る問題 はこれから御一行 に兄 の宅 へ参 って各々 配分 を要求 すれば宜 しい。其 意見 は昨晩 兄 に申 して置 きました。其 様 なわけで、私共 は兄 に対 しては余 り歓迎 すべき御客様 でないかも知 れませぬが兄 も待受 けては居 るだろうと思 います。」周英 は話 を切 って、例 の顔 をピクピクさせながら贅沢 な椅子 に腰掛 ける。自分 等 もこの怪事件 の新 しき発展 に心 を奪 われて、依然 沈黙 を続 けていたが、博士 が真先 に飛 び上 った。- 「
貴君 は初 めから終 り迄 実 に善 うなすった。其 代 り我々 は多分 、未 だ貴君 にとって不可解 なる暗黒 の点 に、幾分 の光明 を投 じて上 げる事 が出来 ようと思 いますわい。兎 に角 丸子 さんの言 わるる通 りもう時刻 も遅 いことゆえ、即刻 運動 に着手 しようではありませんか。」 主人 は頗 る落着 き払 って水煙管 の管 を巻 き収 め、窓帷 の背後 から莫迦長 い外套 を取出 して残 らず釦 を掛 け、耳 まで覆 う垂 れの下 がっている兎 の皮製 の帽子 を冠 って漸 く身支度 が済 むと、露 れてる個所 は、感 じ易 い骨 っぽい顔面 ばかりである。- 「
私 の体 はどうも薄弱 です、どうも病身 になって了 ったのです。」 斯 う言 いながら、彼 は玄関 へと案内 する。馬車 は既 に玄関 に待受 けていた。一同 が乗 り移 るや否 や驀地 に駆 け出 す。周英 は車輪 の響 きを圧 する高 い声 で、絶時 なしに喋 り続 ける。- 「
兄 は怜悧 な男 ですよ。まア宝玉 の所在 をどうして索 し当 てたと思召 す。第 一に兄 はどれが家 の内 にあると断定 したのです。で、家中 の汎有 る立方 の空間 を捜索 し、また方々 の尺 を測 って見 て一寸 でも喰 い違 いのあるかどうかを調 べました。其 結果 の一 つとして斯 ういう事 を発見 しました。それは建物 の高 さが二十四尺 ある、然 るに各階 の室 の高 さ、及 び室 と室 との間隔 なぞを総 て合 せて見 るとニ十尺 に満 たない。つまり四尺 という喰 い違 いが出来 ました。此 喰 い違 いは別 の個所 にはない。家 の一番 頂上 にあるに定 まっています。そこで兄 は一番 上 の室 の天井 へ穴 を明 けて見 ました。すると何 うでしょう、天井 の上 に誰 にも知 らさぬ様 に作 った一個 の密室 があって、室 の中央 に二本 の組合 さった桷 の上 に、果 して宝玉函 が置 いてあったでは厶 いませんか。早速 天井 の穴 から降 ろしましたが、兄 の眼分量 によれば、宝玉 の価値 は少 くも五十万円 を下 らぬそうであります。」 - 五十
万 の大金 と聞 くと、予等 は思 わず円 くした眼 を見合 せた。丸子 にして若 し果 して正当 の権利 を享受 するならば、今日 の貧 しき家庭 教師 の境遇 より脱 して、一躍 最 も富裕 の相続人 となるであろう。これ慶 すべきか、吊 うべきか、自分 は恥 かしけれども此時 魂 は自我 の念 に囚 われ、心 は鉛 よりも重 く沈 んでいた。丸子 に向 って二言 三言 吃 りながら祝辞 を述 べたのみ、後 は山輪 君 の饒舌 をもよそに鬱々 として頭 を垂 れていた。此 周英 君 は確 に依卜昆垤児 、即 ち精神系 知覚 過敏 の患者 である。夢 のように覚 えているが、彼 は病気 の徴候 を果 しなく話 し、藪醫者 から貰 った沢山 の秘薬 の処方 と其 作用 について絶間 なく述 べ立 てた。現 に懐中 の中 の鞣皮 の小箱 には夫等 の薬 が入 って居 るそうである。其晩 予 がした返答 を彼 は恐 らく一 つだも覚 えてはいまい。博士 の言 う所 によれば、自分 は周英 君 に向 て、カストル油剤 の二滴 以上 を用 いる危険 を注意 して居 たそうである。それは兎 に角 、馬車 が漸 く一軒 の門 の前 に止 って、馭者 が扉 を開 くべく飛 び降 りた時 には自分 はホッとしたのである。 - 「
丸子 さん、これが兄 の家 です。」 周英 君 は丸子 を扶 け下 ろしつつ斯 う言 った。
五、月光 の室 に物凄 き生首 ――果然、宝玉函の紛失
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今宵 の冒険 の此 最後 の舞台 に予等 が到着 したのは十一時 近 くであった。帝都 の冷湿 なる濃霧 は既 に後 に去 り、夜 は今 麗 かに霽 れ渡 って居 る。一陣 の温 き風 西方 より吹 き黒雲 悠々 空 を過 ぎゆくなべに、一片 の半月 其 切目 より折々 下界 を覗 く。可成 離 れても物象 の弁別 のつく明 るさであったが、周英 君 は馬車 の側燈 の一つを下 ろして予等 の為 めに途 を照 すのであった。硝子 の破片 を植 え込 んだ頗 る高 い塀 が、グルリと邸 を繞 って居 る。入口 は只 一ヶ所 、其処 には狭 い鉄 の釘絆 した扉 が閉 まっている。それをば我 が案内人 周英 君 は、郵便屋 のような一種 特別 な叩 き方 をした。と、内 から- 「
誰方 だね。」と怒鳴 る苛酷 な声 がする。 - 「
甚吉 、己 だよ。漸 く己 の叩 き振 りを呑 み込 んだと見 えるな。」 何 やらブツブツいう声 が聞 える、鍵 のガチャガチャ鳴 る音 がする、扉 は重々 しくギーと開 いて現 われ出 たのはズングリとした胸 の厚 ッたい男 、角燈 の黄色 の光 は其 突出 た顔 と、パチクリする疑深 そうな眼 とを照 した。- 「ああ、
分家 の旦那 様 ですか。けれど御連 れの方 は誰方 ですか。貴君 様 の他 の方 についちゃア旦那様 から何 とも御命令 がなかったですがね。」 - 「
御命令 がなかった?驚 いたなア!兄 には、一所 に二三人 来 るかも知 れぬと昨夜 ことわって置 いたのに。」 - 「
旦那 様 は今日 は一日中 お居間 から御出 ましがないから、私 も其様 な事 はまだツイぞ承 りません。貴君 も能 く御承知 の通 り、お邸 は規則 が厳 しいのです。で、貴君 だけはお通 し申 す事 が出来 ますが、お連 れの方 は待 って頂 かなくちゃアなりません。」 周英 君 が困却 して、連 の中 には婦人 も居 る事 だから殆 ど哀願 したが、門番 先生 頑 として応 じない。此 門番 が博士 の旧知 でなかったならば予等 は一晩中 往来 に立往生 したかも知 れぬ。意外 にも以前 大学 病院 で難病 を治療 してやった事 が発見 されて、閻魔面 が忽 ち柔 ぎ、漸 く通 して貰 われたのは幸福 であった。門内 に入 ると一条 の小砂利 の路 が荒 れた地面 をうねり曲 って、一軒 のヌッと聳 えた家 の方 へ走 っている。四角 な殺風景 な家 で、総 て闇 の中 に沈 み、ただ其 一角 に月光 が流 れて一つの屋根部屋 の窓 を照 しているのみである。陰暗 として死 の如 き沈黙 の中 に突立 っている宏大 なる建物 の姿 は、心 に一種 の戦慄 を与 えた。流石 の周英 君 さえ不気味 と見 えて、手 に持 つ角燈 がガタガタと震 えて居 る。- 「どうも
解 らない、何 か間違 いじゃないかな。兄 には確 に今夜 訪 ねると言 って置 いたのに、居間 の窓 には燈火 が射 して居 ない……あの月 が射 して居 る所 が兄 の窓 です。内 は真暗 のようじゃありませんか……ああ、玄関側 の窓 にチラと燈火 が見 えると仰有 るのですか……あれは女中 のお捨 の室 です。些 とここにお待 ち下 さい、一 つ私 が案内 を乞 いましょう。」 - と
言 う折 りしも、大 きな真黒 な家 の中 より、物 に驚 いた様 な女 の悲痛 極 りなき鋭 い泣声 が洩 れて来 る。 - 「あれはお
捨 の声 です。どうしたんでしょう。」 - と
周英 君 は扉 に駆 け寄 って、例 の配達夫 的 の叩 き方 をすると、背 の高 い一人 の婆様 が現 れたが周英 君 の姿 を見 ると大悦 びで体 を揺 すって、まア好 かった好 かったと叫 びながら、二人 の体 は軈 て扉 の内 へ消 え、婆様 の声 も遠 くなる。 後 に呉田 博士 は周英 君 の渡 し行 きし角燈 を静 に振 って、熱心 に建物 と、路 を塞 いだ山 の様 な土砂 とを照 し眺 める。丸子 は怖 しさに自分 の手 を握 って列 び立 って居 る。怪 しくも微妙 なるは恋 ちょうものかな。今 闇 に立 てる二人 は昨日 迄 相 識 らざりし者 、何等 愛情 の言葉 、愛情 の眼色 をも交 わさざりし男女 である。而 も今宵 此 難事件 の最中 にして、互 に手 は我 れにもなく相手 の手 を求 めて居 るではないか。予 は後 にこそ顧 みて驚 いたが、其夜 の其時 は彼女 にそう為向 けるのが最 も自然 の事 のように思 われたのである。丸子 は後日 屢々 言 うたところによれば、彼女 もまた本能的 に予 に愛 を求 め保護 を求 めたのだそうである。斯 うして予等 両人 は子供 の如 く手 を連 ねて立 っていた。数多 の暗 き秘密 に囲繞 されながら心 は共 に平和 であった。丸子 は四辺 を見廻 しながら、- 「
何 という奇態 な処 でしょう!」と言 った。 - 「まるで
日本中 の土竜 が、此処 から残 らず逃出 した様 ですね。先生 、私 は西大久保 の先 の岡 の中腹 で、恰度 これと同 じ状態 を見 ました。尤 も其処 は人類学 教室 の連中 が発掘 した処 でありましたが。」 - 「
否 、此処 も同様 さ。これは宝 さがしの痕跡 だからな。考 えても見給 え、山輪 兄弟 は六年 というもの宝玉 を探 して居 ったんじゃ。地面 が蜂 の巣 の様 になるのも無理 ではないのじゃ。」 此時 家 の扉 がサッと開 いて、周英 君 が駆出 して来 たが、両手 を前 に突 き出 して眼 には恐怖 を湛 えている。- 「
兄 に何 か間違 いがあった様 です!何 うも驚 いて了 いました!私 の神経 ではとても堪 りません。」 - という
其 態度 は、全 く恐怖 に半分 泣 きくずれている。大形 の羊皮 製 の襟飾 から露 れて居 るそのビクビクした弱々 しい顔 には、子供 が威嚇 された時 の様 な繊弱 い哀願 的 の色 が浮出 ている。 - 「
兎 も角 も家 へ入 ろう。」 - と
博士 が例 の底力 のある声 で、決然 と言 うと、 - 「ええ
入 りましょう!」と周英 君 が「ほんとに私 の頭 はもう滅茶苦茶 になって了 いました。」 - 一
同 壁 について玄関 左側 の女中 部屋 に入 りみれば、お捨 婆 さんは慄 え上 って彼方此方 と歩 き廻 っていたが、今 しも丸子 の顔 を見 ると余程 心 が落付 いたものと見 えて、 - 「まア
何 というお美 しい温 かなお顔 の方 でしょう!」とヒステリー風 に啜泣 きながらも「貴嬢 が来 て下 すったんでほんとに安心 しました。ああ私 、今日 という今日 は寿命 の縮 まる位 心配 しましたよ!」 呉田 博士 は婆 さんの働 き労 れた痩 せた手 を軽 く叩 いた。而 して親切 な女 らしい慰 めの言葉 を二言 三言 囁 いてやると、婆 さんの蒼白 た頰 にみるみる血 の気 が上 って来 た。- 「
旦那 様 は今日 はお室 に錠 を下 して御閉籠 りになったまま、終日 御外出 にもならず御声 もいたしませぬので、つい一時間 ばかり前 の事 でございます。何 か変事 でも御有 りになりはせぬかと思 い、私 は上 って行 って鍵 の穴 からのぞいて見 たので厶 いますよ。周英 様 、貴君 もまア行 って御覧 なさいまし、私 は御当家 には永 い間 御奉公 しまして悲 しい御顔 も嬉 しい御顔 も見慣 れて居 りますけれども、まだ今夜 の様 な御顔 をば見 た事 がありませぬ。」 今度 は博士 がランプを執 って先頭 に立 った。周英 君 は歯 の根 も合 わず慄 えていて到底 始末 におえぬ。階段 を上 ろうとするのだが膝 がガクガクして登 られそうにもないので、予 が腕 を抱 えてやるという始末 である。登 りながら博士 は二度 ばかり拡大鏡 を取出 して、階段敷 の上 の、我々 には眼 にも止 らぬ泥濘 の汚点 と見 える物 の痕 を仔細 に検査 して行 く。其 のランプを低 め、左右 に鋭 き眼光 を配 りつつ、一段 一段 徐々 に登 って行 く。丸子 嬢 はお捨 婆 さんと一所 に、女中 部屋 に残 っていた。三個 の階段 を登 り尽 すと、やや長 き真直 なる廊下 に出 た。右手 には大 きな絵 を画 いた印度 の掛毛氈 が掛 り、左手 には三 つの扉 が次 ぎ次 ぎに列 んでいる。博士 は依然 たる静 な規則 的 な歩調 で進 んでゆく。其 踵 に引添 うて、予等 二人 も長 き陰影 を廊下 の床 に曳 きつつ踉 いて行 く。三番目 の扉 が目指 した室 である、博士 はコツコツと叩 いて見 たが何 の返事 もない。把手 を廻 して開 けようとしたが、内 から太 き閂 が掛 けてある様子 。併 し鍵 だけは回 り、鍵穴 も微 に明 いているので、博士 は体 を屈 めて見 たが、忽 ちホーと鋭 い息 を引 いて立 ち上 った。- 「
中沢 君 、何 かこれは此 内 で極悪 の事 が行 われたに違 いない。君 はまア何 と思 う。」 - という
声 が今 迄 になき感動 した口調 である。 予 は何事 ならんと同 じく身 を屈 めて鍵穴 から覗 いて見 たが、余 りの怖 しさに思 わずアッと跳 ね返 った。月光 流 れ入 りて、漠然 たる変 り易 き光 に満 つる室内 に、見 よ、予 の方 をヒタと真向 に眺 めて、一個 の人間 の顔 が空 に懸 って居 るではないか。それより以下 は陰影 の中 に没 して見 えざる故 に、宛然 空 に懸垂 せりと見 える其 首級 が、誰 あろう、我 が同行者 山輪 周英 君 の顔 ではないか。突兀 たる禿頭 、其 周囲 の剛 き紅毛 、血 の気 のなき顔色 、似 たとは愚 か瓜二 つである。但 し此 首級 の方 には怖 しき微笑 がこびり付 いている。熟 と、不自然 に歯 を露 わしたまま空 に懸 っている。其 不気味 なる笑顔 を此 闃寂 たる月光 の室 に覗 くのだから、顰顔 をされているよりは神経 に慄然 と響 く。予 は余 りの不思議 さに急 に四辺 を見廻 した。すると真物 の周英 君 は正 に判然 と予 の傍 に顫 えている。ハテ面妖 な……と怪訝 に堪 えなんだが、忽 ち想 い起 した事 がある。周英 君 と其 兄 建志 君 とは双生児 であったのだ。- 「
実 に怖 しいですな!何 うしたものでしょう。」 - と
言 うと、博士 は、 - 「
扉 を打 ち破 るばかりじゃ。」 - そこで
三人 が満身 の力 を籠 めて体 を衝突 け、足 で蹴飛 ばしするほどに、流石 の閂 もミリミリと折 れ砕 けて扉 が開 いた。予等 は直様 飛 び込 んだ。 此 室 は一見 化学 の実験室 にでも充 てたものらしく、扉 の正面 の棚 には硝子 蓋 の瓶 が二列 にならび、卓上 の上 にはブンゼン式 火口 、蒸留器 、試験管 なぞが散乱 して居 る。室隅 には柳細工 の籠 に入 れて酸 の罎 が立 っているが、其 一 つの罎 が壊 れたか漏 るのか、黒色 の液 がドクドクと流 れ出 で、空気 はタールの如 き一種 独特 の刺戟性 の臭気 に澱 んで居 る。室 の片側 には漆喰 、木摺 なぞの破片 の散乱 した中 に、一脚 の踏台 が立 ち、其 真上 の天井 に人間 一人 の体 の通 られそうな穴 が明 いて居 る。踏台 の裾 には、長 き一条 の縄 が乱雑 に蜷局 を巻 いて居 る。- さて
卓上 の前 の一脚 の木製 の肘掛 椅子 に、此家 の主人 山輪 建志 君 が、手足 を縮 めて一塊 の肉団 となり、頭 を左肩 に埋 め、思議 す可 からざる幽霊 の如 き蒼白 の微笑 を顔 に浮 めて蹲踞 っていた。身体 は既 に硬直 し、冷却 し、明 に死後 数時間 を経 て居 る。そして顔面 のみならず四肢 皆 異様 に盤曲 し変化 して居 るように見受 けられる。卓子 の上 に乗 せた其 手 の傍 に一個 の奇体 なる器械 が横 っている――褐色 の、木目 塗 りの棒 であって、槌 の如 き石 が剛 き縒糸 で其 頭 に縛 り付 けてある。其 また傍 に何 やらん悪筆 にて文字 を認 めた手帳 の紙 の切端 が一枚 ある。博士 は一眼 見 て予 に手渡 して「見給 え。」と意味 有 りげに眉 を挙 げる。 角燈 の光 にて読 んで予 は戦慄 した。文字 は何 ぞや。曰 く、- 「
四人 の署名 にて」 - 「これは
殺人 を意味 するのだ。」と博士 は死骸 の上 に屈 み掛 りつつ「ああ、我輩 が予期 した通 りじゃ。ここを見給 え!」 - と
指 すのを見 れば、耳 の直 ぐ上 の皮膚 に、一本 の針 とも見 ゆる長 き黒 き物 が刺 さって居 る。 - 「
矢張 りこれは針 だ。抜 いて見給 え。気 を付 け給 えよ。毒 が附 いて居 るから。」 予 は母指 と人差指 とでそれを挟 んで抜 いた。存外 楽々 と抜 けた。後 には殆 ど何 の痕跡 も残 らぬ。ただ微少 な一滴 の血潮 が刺傷 から滲 み出 したばかりである。- 「どうも
私 にとっては何 から何 まで不可解 の秘密 ばかりで、段々 秘密 が暗 くなるように思 われます。」 - 「いや、
俺 には反対 に一秒 一秒 と真相 が解 りかけて来 るわい。只 全体 の事件 の連鎖 の中に僅 の四五鐶 まだ欠 けている点 がある。それを捜 し出 しさえすれば宜 いのじゃ。」 博士 と予 は此 室 に入 ってから以来 、周英 君 が連立 って来 た事 を全然 忘 れていたが、今 気付 けば彼 は尚 お扉口 に立 ちしまま、両手 を捻 り合 わせたり、独語 を言 うて唸 いたり、何様 魂 の底 まで怯 え切 った有様 である。そうして居 る中 に、不意 に鋭 い叫声 を挙 げた。- 「やや、
宝玉函 が無 くなって居 る!曲者 が宝玉函 を窃 んで行 った!あれが宝玉函 を下 した天井 の穴 です。私 は現 に兄 の手伝 いをしました!兄 を一番 最後 に見 たのは私 です!昨夜 此室 を出 て階段 を降 りながら、兄 が此室 の鍵 を閉 うのを確 に聞 きました。」 - 「それは
何時頃 であったろう。」 - 「十
時 でした。ああああ、兄 が殺 されて見 れば、警察官 が来 るでしょう、そして私 が嫌疑 を掛 けられるでしょう。ええ、屹度 そんな事 にある。雖然 御両君 だけはまさか御疑念 はないでしょうな。私 の所業 だなぞと御考 えは下 さらぬでしょうな。若 し犯人 が私 であったら、どうして今夜 態々 貴君方 をここへ御案内 しましょう。ああああ、まるで狂人 になりそうだ!」 - と
両手 を突 き出 すやら、狂気 の如 く床 を踏 み鳴 らすやら、 其 肩 を博士 は親切 に軽 く叩 きながら、「山輪 君 、何 も其様 にビクビクする事 はない。俺 が忠告 するから、早速 警察署 へ馬車 を走 らせて警官 に事情 をお告 げなさい。万事 につけて警官 の助 けになるようにおしなさい。我々 はここで貴君 のお帰 りを待 つ事 としましょう。」彼 は半分 夢中 で其 忠告 に従 うた。間 もなく予等 は暗 い階段 を走 り降 りる彼 の跫音 を聞 いた。
六、天井裏 の密室 の臨検 ――驚くべき犯罪史上の新生面
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二人 限 りになると、博士 は両手 を擦 り合 せつつ、- 「さア、
中沢 君 、三十分 だけは猶予 が出来 た。これを最 も有効 に利用 しなくちゃならぬ。今 も話 した通 り俺 の見込 は殆 ど立 って居 る。が、無暗 に信 じ込 むと失敗 する。事件 は一見 簡単 であるが、その底 には或 る深遠 な意味 が横 って居 るかも知 れぬ。」 - 「
此 事件 が簡単 ですか!」 - 「
確 に簡単 だ!」と博士 は医学校 にて臨床 講義 をする教授 といった態度 で「まア其 隅 に腰 を掛 け給 え。君 の足跡 は方々 につくと紛 らわしくて不可 ぬ。好 し、これからが弥々 活動 じゃ!先 ず第一 に研究 す可 きは、曲者 が如何 にして此室 に入 り、如何 にして出 で去 ったかと言 う点 である。扉 は昨夜 以来 嘗 て開 けられなかったそうだ。すると窓 は何 うであろう。」とランプを持 って窓 に近寄 り、予 に聞 かせるというよりは独語 をする形 で「窓 も内 から閉 じている。枠紐 の細工 も仲々 堅 い。横手 には蝶番 もついて居 らぬ。開 けて見 よう。近 い所 に雨樋 も掛 って居 らぬ。屋根 は高 くて届 きそうもない。が、一人 の男 が窓 から忍 び込 んだのは確 じゃ。昨夜 は少 し雨 が降 ったらしい。ソラ、窓台 の此刳型 の上 に一 つの足跡 があるだろう。ここには円 い泥濘 の跡 がある。この床 の上 にもある。ソラ、其 卓子 の傍 にもある。見給 え!中沢 君 !これは実 に有力 な実証 じゃないか!」 予 は円 く判然 と印 せられた泥濘 跡 を眺 めたが、- 「これは
人間 の足跡 ではないらしい様 です。」 - 「
人間 の足跡 よりも我々 にとっては一層 有力 なものだよ。此 窓台 の上 に一 つの靴跡 のあるのが解 るだろう。一 つだよ。広 い金 の踵 を持 った重 い靴 に違 いない。それから直 ぐ其 傍 に木 の義足 のある跡 のあるのも解 るだろう。」 - 「じゃ、
片足 の男 でしょうか。」 - 「そうそう、
併 し他 にもう一人 の奴 が居 る――つまり共犯者 じゃ。君 は此 壁 を目分量 が出来 るかな。」 窓 の外 を眺 むれば、月 は依然 建物 の此 一角 に輝 いて居 る。予等 の居 る室 は地上 を距 る事 約 六十尺 であろう。されど見廻 した所 、足場 も無 ければ、煉瓦 に割目 も無 さそうである。- 「
此処 を登 る事 は及 びもつきません。」 - 「
手伝 いがなければ到底 不可能 じゃ。併 しここに室内 に一人 の同類 があると仮定 して見給 え。其 同類 が、あの隅 にある丈夫 な縄 を、この壁 の大 きな鉤 に結 び付 けて地面 へ降 ろしたとする。したらば一本 足 にせよ、二本 足 にせよ、活潑 な男 であったらばそれを伝 うて登 って来 られるだろう。勿論 仕事 をした後 は同様 の方法 で降 りてゆく。すると同類 が縄 を引上 げ、鉤 から外 し、窓 をおろして内 から閉 め、最初 に入 って来 た所 からまた出 て行 くのに訳 もあるまいではないか。それに斯 ういう事 も解 る。」 - と
件 の縄 を弄 りつつ「その一本 足 の男 は縄 を登 るのは巧 みかも知 らぬが、本職 の航海者 ではない。其 掌 は航海者 のように硬 くはない。俺 が今 拡大鏡 で見 ると、此 縄 に沢山 の血痕 が附着 して居 る。殊 に末 の方 になると甚 い。で、俺 の考 えでは、先生 非常 な速力 で辷 り降 りる拍子 に、掌 の皮 を剝 りむいたものと見 えるのだ。」 - 「
成程 、先生 の観察 はえらいものです。併 し事件 は益々 解 し難 くなります。其 同類 というのが、何 うして此室 へ入 り込 んだのでしょう。」 - 「そうだ、その
同類 の事 だナ!」と博士 も思案 有 りげに「それが至極 面白 い点 だ。俺 は此 同類 の奴 は我 が日本 に於 ける犯罪史 の上 に一個 の新生面 を開 いたものと思 う――尤 もこれと同様 の事件 は印度 にもあったし、阿弗利加 にもあったと覚 えて居 る。」 - 「では、
何処 から入 ったでしょう。扉 は閉 じてあるし、窓 には迚 も地上 から手 が届 かないし、煙突 から通 ったのでしょうか。」 - 「いや、
火格子 が狭 くて煙突 は通 られぬ。が、俺 にはチャンと通 った路 が解 って居 るじゃ。」 - 「では
何処 からでございましょう。」 - 「
少 くとも扉 からでも、窓 からでも、煙突 からでもない。さりとて室内 は此 通 りだから此処 に潜伏 して居 りようもない。すると残 ったとこは何処 だ。」 - 「
屋根 の穴 から入 ったのですか。」と予 は叫 んだ。 - 「
無論 そうじゃ。それに違 いない。君 、御苦労 だがランプを持 って居 てくれ給 え、いよいよ一 つの宝玉 の隠 してあった天井 の密室 を調 べて見 よう。」 - と
博士 は踏台 の頂上 に登 り、両手 で桷 を摑 みヒラリと屋根部屋 に登 った。そして平匍伏 になってランプを受取 り、予 の登 る間 下 を照 して見 せてくれる。 天井裏 の此 密室 は十尺 に六尺 ばかりの広 さである。床 は桷 の合間 合間 を薄 い木摺 と漆喰 とで固 めたものゆえ、梁材 から梁材 を踏 んで渡 らねば危 なくて歩 かれぬ。天井 は三角形 をしている。其 外 は即 ち此 家 全体 の屋根 の頂上 となって居 るのであろう。室内 は何 の器具 装飾 とてもなく、年古 る塵芥 の徒 らに床 を埋 めて居るのみである。博士 は傾斜 せる壁 の一個所 を叩 きながら- 「ソーラ、
此処 だよ、これが屋根 と通 じている刎出扉 さ。こう押 すと、ソラ、緩 い傾斜 を画 いた屋根裏 が見 えるだろう。これがつまり真先 に第一 の曲者 が忍入 った扉 だ。他 にも何 か手懸 があるかも知 れぬぞ。」 - とランプを
低 めて床 を検査 している中 に、これで今宵 は二度目 の驚絶愕絶 の色 が颯 と博士 の顔 にのぼった。予 も亦 博士 の見詰 めた点 を不図 見 ると、一時 に身内 の血潮 が凍 るかと思 われた。床 に一面 に印 いているのは跣足 の足跡 である。実 に判然 と印 いている其 足跡 は、普通 の男 のそれの半分 ぐらいの大 きさしかない。 予 は低声 で「先生 、同類 は子供 じゃないでしょうか。」其 声 に博士 は忽 ち我 れに返 って、- 「ああ、
流石 の我輩 もこれには驚 いた。併 し考 えて見 ると何 の不思議 もない。俺 はすっかり忘 れて了 っていたが、さもなければ此 事 あるのを予言 したかも知 らぬ。もう此処 には検 べることはないから、君 降 りよう。」 - で、
再 び元 の兇行 の室 へ降 りると、予 は熱心 に訊 いた。 - 「では、あの
足跡 について先生 はどうお考 えですか。」 - 「
中沢 君 、君 も少 し自分 で分解 をやって試給 え。」と博士 は短気 な声 を出 して、 - 「
俺 の方法 はかねて知 っているじゃないか。それを応用 して見給 え。君 の考 えた結果 と、俺 の考 えた結果 とを比較 して見 るのも有効 だろう。」 - 「どうも
私 には確 かりした見込 が立 ちません。」 - 「いや、
直 ぐ解 る。俺 の見 る所 では、もう此処 には格別 大切 な証拠 も残 って居 るまいと思 う。が併 し、もう一応 検 めて見 よう。」 - と
拡大鏡 と巻尺 とを取出 し、例 の長 く薄 き鼻 を床板 より二三寸 の辺 まで押付 け、鳥 の如 き小粒 の眼 を輝 かせて、或 は比較 し、或 は検査 する。其 動作 の軽快 、沈黙 、熱心 なる事 は、獲物 を嗅 ぎ分 くる慣 らされたる猟犬 の如 くである。博士 にして若 し其 精力 と才智 とを法律 の擁護 に用 いずして悪事 に応用 せんか、如何 なる戦慄 すべき兇悪 を案出 するだろう。予 は傍観 しつつそう考 えずには居 られなかった。博士 は斯 うして検 べ廻 りながら何 をか独語 をしてはいたが、終 に一大 歓呼 の声 を挙 げた。 - 「もう
占 めたものだ。もう訳 はないぞ。第一 の曲者 の奴 、不幸 にして結列阿曹篤 (一種 の油状液 にて医用 又 は防腐用 のもの)に蹴躓 ずいたのだ。ソラ、此処 を見給 え。此 悪臭 を放 つ乱雑物 の右手 に、其 曲者 の小 さな足 の爪先 の形 が附 いているではないか。つまり蹴躓 ずいたものだから、籠 入 りの罎 が割 れて薬 が洩 れ出 したのだ。」 - 「すると?」
- 「すると、
曲者 を捕 えたも同然 ではないか。俺 は一疋 の犬 を知 って居 る。其 犬 であったら、此 烈 しい臭 いを嗅 ぎ嗅 ぎ世界 の端 までも曲者 を跟 き留 めるに違 いない――が待 ち給 え!警官 がやって来 たようじゃから。」 成程 重々 しき跫音 と、声高 の響 きとが階下 より聞 え、今 しも広間 の扉 がドシンと閉 まったところである。
七、驚 くべし、死因 は毒刺 に在 り ――死人に対する警部の誤解
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博士 は其 音 に耳 を澄 ましながら、- 「
警官 が此 室 に来 る前 にちょッと君 、この死骸 の腕 に触 って見給 え。それから此 脚 にも。どう思 うか。」 - 「
筋肉 がまるで板 のように硬 いです。」 - 「
全 く硬 い。普通 の死後 硬直 に比 して収斂 の度 が遥 に強 いのじゃ。顔面 の此 偏枉 と、此 怪 しい微笑 との二 つから、君 は何 のような断定 を下 し得 るか。」 - 「
私 の考 えでは、死因 は或 激烈 な植物性 の亜爾加魯乙土 (植物中 に含 める塩基性 化合物 )に帰 すると思 います。つまり或 斯篤里規尼涅 の如 き薬物 のために強直 痙攣 を起 したので厶 いましょう。」 - 「
俺 も此 の顔面 の縮小 した筋肉 を一眼 見 た時 からそう思 うたのじゃ。此室 に入 った瞬間 、俺 は直 ぐに毒物 が組織内 に入 り込 んだ手段 を考 えた。君 も知 っての通 り、俺 は一本 の刺 を発見 した。これは余 り大 した力 で頭 の皮 の中 へ突 き刺 したものではない。見給 え、これが刺 さったところは、若 し人 が此 椅子 に真直 に腰掛 けて居 たならば、其 方向 が丁度 天井 の穴 から打込 まれたことになるではないか。そこで刺 を仔細 に検 べて見給 え。」 予 は用心 してそれを取上 げて、角燈 の光 に照 し眺 めた。長 く、鋭 く、且 つ黒色 の刺 である。而 して尖端 に近 き所 は或 護謨性 の物質 が附着 して乾燥 せし如 くギラギラとなって居 る。鈍 き尖端 は小刀 にて手入 れをし円形 になしたる如 く見 える。- 「これは
日本 で出来 る針 だろうか。」 - と
博士 が訊 くゆえ、 - 「いや、
全 く違 って居 ります。」 - 「これだけの
材料 が有 ったらば、君 も或 正確 な結論 を下 す事 が出来 るだろう。ああ、併 し警官 が登 って来 たわい。では我々 手伝 い連 は退出 っても宜 い。」 斯 く言 いつつある間 に、次第 に近付 き来 りし人々 の跫音 は廊下 に響 きを立 て、間 もなく一人 の鼠色 の揃 いの服 を着 た非常 に頑健 そうな男 が、威風堂々 として室内 に歩 み入 った。此男 は赭顔 にて、肥満 、多血質 、頗 る小 さけれども、絶 えず瞬 く鋭 き眼 を持 って居 る。後 に続 いて制服 の巡査 部長 が一人 、そして山輪 周英 君 も相変 らず汗 みどろになって従 いて来 た。- さて
肥満 の男 は鼻 に掛 った嗄声 で「ほオ、これは事件 だ!大事件 だ!ところで此 方々 は誰方 かね。」 - 「
阿瀬田 警部 !俺 に覚 えがお有 りの筈 じゃが。」と呉田 博士 が静 かに言 った。 - 「ああ、
無論 覚 えて居 ますとも!」とゼイゼイ声 を出して「医学 博士 の呉田 さんでしょう。貴君 を忘 れてなるものですか!従来 種々 の探偵 事件 に就 いて、貴君 が原因 、結果 、推理 に関 して講釈 をして下 すった事 は能 く覚 えて居 ます。貴君 が我々 に正 しい探偵 方針 を授 けて下 すったのは事実 だ。併 し何 でしょう。貴君 が色々 の事件 に成功 なすったのは、実際 のところは善良 な指導 によると言 うよりも、やはり其 時 の好運 による方 が多 かったのでしょう。」 - 「なに、ほんの
簡単 な推理 の結果 に外 ならないのですわい。」 - 「はア、なになに、
有体 におっしゃっても少 しも御恥 ではない。それは兎 に角 、こりゃ何 うしたものでしょう。こりゃ厄介 な事件 ですな!厄介 な事件 だ!事実 が厳然 として存 して居 って――理論 の余地 がない。私 が他 の事件 で今日 砂村 に出張 して居 ったのは偶然 とは云 え実 に幸福 であった!丁度 警察 分署 に居 ると訴 えがあったのです!此 被害者 の死因 については何 と御考 えですか。」 - 「
否 、これは理論 の余地 のない事件 です。」 - と
博士 は素気 がない。 - 「や、そうは
仰有 るが、貴君 の理論 も時々 的中 なさるのは我々 も認 めています。オヤ、入口 の此 壁 は閂 が掛 けてあったと見 えるな!それで居 て五十万円 の価値 ある宝玉 が紛失 したとは奇怪 だ。窓 はどうでした。」 - 「
閉 じてあったです、併 し窓台 の上 には足跡 がありますよ。」 - 「
宜 しい、宜 しい、窓 が閉 じてあった以上 、窓台 の足跡 なぞは事件 と何 の関係 もない。これは常識 で解 るのです。主人 は或 は痙攣 けたまま死 んだのかも知 れぬ。併 し、宝玉 の紛失 という事 があるな。はハア!なる程 解 ったわ。斯 ういう閃光 は時々 私 の胸 に起 る事 がある。部長 、少 し室外 へ出 ていて下 さい、山輪 さんも何卒 。いや、呉田 さんのお連 れの方 はそれには及 びません。さて呉田 さん、貴君 の御意見 は如何 でしょう。彼 山輪 周英 が陳述 する所 によれば、彼 は昨晩 兄 と一所 に居 ったのです。で、私 の考 えでは、兄 が痙攣 けたまま死 んで了 った。そこで彼 周英 は宝玉 を持 ち逃 げした。と斯 ういうのであるが、どんなものでしょう。」 - 「
持 ち逃 げした後 で、死人 が御念 にも起 き上 って、内 から扉 を鎖 したと言 わるるのですか。」 - 「フン!その
点 に少 し間隙 があるな。兎 に角 常識 を以 て一 つ事件 を判断 して見 ましょう。彼 山輪 周英 が兄 と同室 に在 ったト……兄弟喧嘩 をしたト……兄 が死 んで宝玉 が紛失 したト……それで周英 が室 を立去 って以来 誰 も兄 の姿 を見掛 けなかったト……兄 の寝床 も手 を付 けずにあるト。ところで周英 は明 かに今日 は周章狼狽 の体 である。その顔付 は――ふム、尋常 ではないぞ。呉田 さん、私 は此 周英 の周囲 に網 を張 って居 りますぞ。而 も其 網 の目 が段々 細 くなる。」 - 「
貴君 はまだ全事実 をお摑 みになって居 らん。此 木 の刺 ですな、これは凡有 る理由 から推 して確 に毒 が塗 ってあると信 ずるのであるが、これが死骸 の頭 に刺 さって居 った、其 跡 が御覧 の通 りここに印 いて居 る。それから字 の書 いてある此 紙片 は卓子 の上 にあった。その傍 には此様 な石 の頭 のついた奇体 な道具 もあったのです。此等 のものは貴君 の理論 に何 のように適合 するでしょうな。」 - 「や、
総 て確認 します。」と肥満 の警部 は容体振 って「此家 には印度 出来 の珍物 が一 パイある。この刺 なぞも周英 が持 って来 たのであって、果 して毒 が塗 ってあるとすれば、疑 いもなく殺人用 に供 したものである。紙片 の如 きはほんの手品 に過 ぎぬものでしょう。只 唯一 の疑問 は彼 が室外 に出 で去 った方法 であるが……ああ、無論 そうだ天井 にあんな穴 がある。」 - と
肥 った体軀 に注意 しながら、敏捷 に踏台 に登 って例 の屋根裏 の密室 に消 え去 ったが、間 もなく刎出扉 を見付 けたと言 って悦 び騒 ぐ彼 の声 が聞 えて来 る。 博士 は肩 を聳 かしながら「先生 にだって何 かは発見 出来 るだろう。時々 は推理 の力 が閃 く事 があるから!」降 りて来 た阿瀬田 警部 「御覧 なさい!事実 は畢竟 理論 よりは有力 ですぞ。本事件 に対 する私 の意見 は確定 しました。屋根裏 の密室 には屋根 に通 ずる刎出扉 がありますぞ。耳 ならず少 し開 いて居 る。」- 「あれを
開 けたのは俺 です。」 - 「はア、そうですか!すると
貴君 もあれに御気付 きですな。」と少々 鬱 ぎ込 んだが、 - 「なに、
誰 が先 きに気付 いたにせよ、あれが確 に曲者 の出道 に違 いない。部長 ……」 - 「ハイ。」と
廊下 から入 って来 る。 - 「
山輪 周英 君 に入 って来 るように伝 えて下 さい。ああ、山輪 君 、本職 は職務上 から一言 御注意 するが、貴君 が今後 弁解 をなさると却 て貴君 の為 めに不利益 となる。本職 は貴君 の令兄 建志 君 の横死 事件 に関 する嫌疑者 として、法律 の名 によって貴君 を捕縛 しますぞ。」 - 「ああ、こんな
事 だろうと思 った!だから御両君 にお話 したじゃありませんか!」 - と
周英 君 は気 の毒 にも両手 を拡 げて煩悶 の表情 をなし、一同 の顔 をキョロキョロと見廻 すばかり。 - 「
山輪 さん、さほど御心配 のことはない。俺 が多分 其 の嫌疑 を晴 らして上 げる事 が出来 ようと思 う。」と博士 が言 えば、警部 は慌 てて口 を出 して - 「いや、
理論家 博士 、余 り大 した御約束 はなさらんが好 いでしょう。大 した御約束 をなさると、屹度 後悔 なさる。仲々 此 事件 は貴君 の御見込 よりは困難 らしい。」 - 「
阿瀬田 さん、俺 のつもりでは、独 り山輪 君 の嫌疑 を晴 らすのみならず、昨夜 此 室 へ闖入 した二人 の曲者 の中 の一人 の姓名 及 び其 人相 までをも御知 らせする事 が出来 る、其 姓名 は簗瀬 茂十 なる者 である事 は、各方面 より推論 して決 して誤 らざる所 です。此 男 は余 り教育 なぞは受 けず、身体 矮小 、併 し敏捷 で、右 の足 が一本 なく木 の義足 を穿 めて居 るが、此 義足 の内輪 の方 が擦 り減 って居 る。残 った左足 の靴 は其処 の爪先 が角形 で踵 の方 には鉄 の帯 が打 ってある。年齢 は中年 、顔色 は日 に焼 けて黒 く、一度 は懲役人 であった。これだけの事実 でも御知 らせすれば随分 御参考 になるでしょう。それにもう一 つ附加 える事 は、其 男 の手 の掌 の皮 が大分 擦 り剝 けて居 る筈 である。そこでもう一人 の曲者 と言 うのは――。」 - 「はア、もう
一人 の男 は?」 - と
警部 は嘲笑 気味 で言 ったが、併 し博士 の詳細 なる説明 には内心 少 なからず舌 を巻 いた気色 が見 える。 - 「
何方 かと言 えば不思議 な人物 です。」と博士 は踵 でグルリと体 を廻 しながら言 った。 - 「
多分 近々 の中 に二人 とも御紹介 出来 るだろうと思 うのです。中沢 君 、ちょッと話 がある。」 - と
予 を廊下 の階段 の降口 に導 き「君 、意外 な事件 のために我々 の今夜 の最初 の目的 の方 が何処 へか飛 んで行 って了 った形 じゃないか。」 - 「
私 も今 それを想 い出 して居 りました所 です。丸子 さんを此様 な恐 しい家 に留 めて置 くのは好 くないと思 います。」 - 「
全 く好 くない。君 が家 へ送 り返 す義務 があるね。あの人 は築地 の濠田 瀬尾子 という婦人 の家 に住 んで居るそうだから其 家 まで、若 し君 が送 り返 して来 るなら、俺 はここで待 って居 よう。が、君 は疲労 れたろうなア。」 - 「
些 とも疲労 れは致 しません。却 って此 の怪事件 の真相 をもう少 し窮 めなくちゃ休 まれそうにも厶 いません。私 も段々 人生 の暴 っぽい方面 を少 しずつ見 て参 りましたが、先生 、今夜 のような後 から後 からと椿事 に衝突 っては流石 の脳神経 も滅茶滅茶 になって了 います。何 れにせよ、先生 の御手腕 で、もう少 し事件 の深 い所 を知 りたいと思 います。」 - 「
俺 も君 に居 て貰 えれば、非常 に好都合 じゃ。そこで我々 は我々 で独立 に働 らこう。あの阿瀬田 なぞは勝手 な理屈 を立 て、其実 馬鹿 げた事 を大層 な発見 らしく騒 いで悦 んでいれば宜 いのだ。そこで、君 が丸子 嬢 を送 り届 けたらば、直 ぐに馬車 を城辺河岸 に駆 って、呉服町 三番地 へ行 ってくれ給 え。そこの右側 の三番目 の家 が仙助 という剝製屋 の家 でね、窓 に鼬鼠 が小兎 を咬 えている看板 があるから直 ぐ解 るよ。君 は仙助 爺様 を叩 き起 して、俺 が宜 しく言 うたと伝 えて、至急 トビーを借 り度 いと申込 むのだ。そして一所 に連 れて来 てくれ給 え。」 - 「
犬 ですか。」 - 「そう、
不思議 な雑種 の犬 でね、物 を嗅 ぐ力 は驚 く可 きものさ。俺 はもう東京 中 の探偵 に応援 して貰 うよりも、トビー一疋 に加勢 して貰 うた方 が何 のくらい好 いか知 れないのだ。」 - 「では、
行 って参 ります。今 午前 一時 ですから三時 迄 には戻 られるでしょう。」 - 「
其 間 に俺 は女中 のお捨 婆 さんと、印度人 の僕 、ソラ、周英 君 が彼方 の屋根 部屋 に睡 って居 ると言 うた奴 さ。此 二人 を尚 お検 べて置 こう。そうして置 いて阿瀬田 大探偵 の方針 を研究 し、彼 の拙 い諷刺 でも聴 いて居 よう。」
八、深夜 の馬車 に恋 の苦悶 ――帰りの馬車は犬と同乗
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警官 の乗 って来 た一台 の馬車 に扶 け乗 せ、予 は丸子 嬢 を東京 に送 り行 く事 になった。女中 のお捨 婆 さんはもう魂 も身 に添 わぬ迄 吃驚 して居 る。其 傍 に彼女 は明 い顔 をして落着 いて居 た。実 に我 が傍 に扶助 すべき弱者 がある限 り、彼女 は婦人 特有 の天子 の如 き態度 を以 て、平静 を装 い、以 て此 難関 に耐 えて居 たのである。併 し弥々 馬車 に乗 ったらば、張 り詰 めし気 のゆるみしにや初 めてウンと昏倒 した。昏倒 から醒 めるとサメザメと泣 き出 した。今宵 の出来事 がいかばかりか酷 く繊弱 き心 を撲 ったのであろう。其時 は予 が冷 かなる人間 に見 え、行 く手 の路 は限 りもなく遠 く思 われたと後 から彼女 は話 した。して見 れば彼女 が予 の胸 の苦悶 を推察 しなかったのだ。予 を控目 にさせた自制 の力 に想到 しなかったのだ。予 の同情 と愛 とは、被害者 の邸 の暗 き庭園 で其 手 を取 った時 に彼女 の方 に奔流 したのである。予 は切 に感 じたが、今日 の一日 の奇 しき経験 は、多年 の人生 の習慣 も教 えなんだ事柄 を予 に教 えた。それは、彼女 の温雅 にして将 た雄々 しき心根 である。併 も其時 二個 の思想 あって予 の唇 を緘 し、予 に愛 の言葉 を洩 らさしめなかった。丸子 は今 心 も神経 も振蕩 せられた繊弱 く助 けなき女 である。斯 る時 彼女 に愛 を強 いるのは余 りに心 なき惨酷 の仕業 である。一層 都合 の悪 いのは彼女 は金持 である事 だ。万一 先生 の探偵策 にして成功 したならば、彼女 は莫大 なる富 を嗣 ぐ人 となるであろう。予 の如 き書生 が此時 に当 って、偶然 機会 が齎 し来 った親密 を利用 せんとする事 は果 して公正 であろうか、正直 であろうか。彼女 は予 を目 して単 なる下賎 の慾張 と見做 しはせぬだろうか。そう考 えられては堪 まらぬ。何 れにしても此 未見 の宝玉函 が越 す可 からざる堡砦 となって予 と彼女 との間 を隔離 して居 るのである。馬車 が築地 の濠田 夫人 の邸 に到着 したのは午前 二時 頃 。召使 等 は夙 に熟睡 して居 る深更 の今頃 を、女主人 のみは電話 で話 して置 いたとは言 うものの丸子 の今宵 の成行 に心 を傷 めつつも寝 もやらず待 っていた。年齢 は中年 にして、愛嬌 のある夫人 である。丸子 の帰 れる姿 を見 て急 いで抱 き擁 えた柔 しき愛情 、其 無事 を祝 す母 らしき言葉 、主従 というよりは友人 同士 と言 った打解 けた態度 、何 れも予 に安心 を与 えた種 である。丸子 の紹介 するままに、夫人 は切 に予 を引留 めて今日 の顚末 を聴 かんと欲 したが、予 は博士 の命令 もあり、其 余裕 なき身 とて、他日 を約 し強 いて振切 って其家 を辞 した。馬車 の窓 より振返 れば、玄関 に相縋 り寄 れる二人 の姿 も、半 ば開 きし扉 も焼付 硝子 越 しに輝 く広間 の灯 もよく見 える。恐 しき暗黒 なる怪事件 に心身 を吸 われ居 る最中 にして、斯 る平和 なる家庭 を眺 むる事 は、何 という慰楽 であろう。怪事件 と言 えば、考 えれば考 えるほど其 真相 は暗晦渾沌 たる姿 を呈 して来 る。予 は瓦斯 の灯 孤 り瞬 く寝鎮 まれる深更 の巷 に馬車 を走 らせながら、奇怪 なる事 の成行 を最初 より繰返 して追懐 して見 た。須谷 大尉 の死 、丸子 の受取 った真珠 の小包 、彼女 の在所 を探 す新聞 広告 、丸子 呼出 の手紙 ――此等 の問題 は既 に明瞭 である。雖然 此等 根本 の問題 は更 に吾人 を拉 して一層 深 き、一層 悲劇 的 なる秘密 の中 に誘 うて行 く。印度 の宝玉 、須谷 大尉 の行李 中 より出 て来 た不思議 なる図面 、山輪 少佐 臨終 の際 の奇光景 、宝玉 の発見 、それに続 いた発見者 の横死 、犯罪 の怪 しき共犯者 、不思議 の足跡 、珍 しき毒刺 と石器 、須谷 大尉 の図面 にありし同様 なる怪文字 の紙片 ――これ実 に稀代 の難事件 に非 ずして何 ぞ。博士 から指定 された呉服町 へ馬車 を急 がせて、其処 の三番地 の剝製屋 の仙助 爺 さんの家 を叩 き起 す。暫時 叩 いてから漸 く窓 から顔 を出した爺様 、予 を酔漢 の浮浪漢 と間違 えて、- 「
好 し、いつ迄 もそうして騒々 しく叩 いて居 ろ。狗舎 を開 けて四十三疋 の犬 を残 らずけしかけてやるから……」 - と
強 らい権幕 で威嚇 しまくったが、 - 「
実 は呉田 博士 から――」 - と
一言 博士 の姓名 を言 うと、成程 大 した功徳 のあるもので、爺様 急 に柔順 になり、慌 てて扉 を開 けて迎 え入 れてくれた。そして檻 の鉄棒 の間 から首 を出 す貛 や鼬 を叱 りながら予 の用向 を聴 き、手燭 を点 けて幾 つか列 んだ狗舎 の方 へ導 いた。彼処 此処 の隅 や割目 から動物 の目 の怪 しく闇 に光 る所 を通 り、桷 に棲 まった家禽 共 が夢駭 かされて脚 を変 える下 を進 んで行 った。 博士 の望 んだトビーは不格好 な、毛 の長 さ、耳 の垂 れた犬 であったが、雑種 にて毛色 は褐 と白 との斑 、ヨタヨタした頗 る変梃 な歩態 をする。第 七号 の狗舎 から引出 されたのを、爺様 から渡 された砂糖 の塊 で吊 って馬車 へ一所 に入 れる。夫 から急 いで砂村 へ着 いたのは正 三時 。予 の不在 の間 に門番 の甚吉 は従犯者 として捕縛 せられ、周英 君 と共 に既 に分署 へ護送 された由 にて、門 には二名 の警官 が見張 りをして居 った。
九、呉田 博士 の大 軽業 ――薬臭を嗅ぎゆく猟犬の鋭敏
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博士 は玄関 先 きに両手 を懐中 に、口 にパイプを咬 えて待 って居 た。- 「ああ、
連 れて来 てくれたか!柔順 な犬 だね!阿瀬田 警部 はもう行 って了 うた。君 が行 ってからの活動 が大 したものさ。先生 、周英 君 を捕縛 するのみならず、門番 を縛 げる、女中 を縛 げる、印度人 の僕 を縛 げる。皆 な引張 って行 って了 うた。併 しもう階上 に警官 が一人 残 って居るだけでこれからは我々 の世界 だ。犬 を其処 へ繋 いで階上 へ行 こう。」 - で、トビーをば
広間 の卓子 に繋 ぎ、階段 を登 って行 った。兇行 の室 は、死骸 に敷布 を覆 い掛 けただけにて他 に変 りはない。疲労 れた顔 をした警官 が一人 片隅 の椅子 に凭 れて居 た。博士 はそれに向 って、 - 「ちょっと
貴君 の角燈 を貸 して頂 き度 い。それから此 紙片 を何卒 俺 の首 の周囲 から、胸 に垂 れるように掛 けて下 さい。有難 う。ところで靴 と靴下 とを斯 う脱 ぐから、中沢 君 、君 これを下 へ行 く時 持 って行 ってくれ給 え。もう一度 天井 の部屋 へ登 って見 たいから、俺 のこの半巾 をその結列阿曹篤 の中 へ浸 して下 さい。それで宜 しい。君 も一所 にちょっと登 って見給 え。」 両人 は再 び天井 の穴 を潜 って密室 に登 る。博士 は又 もや角燈 の光 を床 の塵埃 の上 の足跡 に向 けて、仔細 に何 をか検 べて居たが、- 「
中沢 君 、君 には此等 の足跡 について、何 か特徴 のある点 が解 るかね……此処 を見給 え!之 は曲者 の右 の足跡 だから。ところで僕 の跣足 の足跡 をその傍 へ斯 う一 つ附 けて見 る。両方 の主 なる相違 は、どの辺 に在 るじゃろう。」 - 「
先生 [1]の足跡 の方 は指 が皆 一所 に緊付 いて居 る[2]。曲者 の方 ののは一本 一本 離 れて附 いて居 る。」 - 「そうそう、そこじゃ。それを
能 く記憶 して置 き給 え。さて今度 は、君 、其 刎出扉 の所 へ行 って木造部 の端 を嗅 いで見 てくれ給 え。俺 はここに半巾 を持 って斯 うして立 って居 るから。」 其 言葉 通 りにして見 ると、忽 ち強 いタールの如 き臭 いが鼻 を衝 く。- 「
其 扉 がいよいよ曲者 を逃出 した路 と定 まった。君 が臭 いを嗅 ぎ当 てるくらいなら、あの犬 なら尚 お更 じゃ。さア、君 は階下 へ走 り降 りて犬 を解 くのじゃ。そして我輩 の軽業 を見物 してくれ給 え。」 予 が庭 へ降 り立 った時 には、博士 も既 に屋根 に登 って居 た。下 より仰 げば博士 の姿 は徐々 として屋根 棟 を匍伏 する大 きな山蛍 のようである、煙突 の背後 に一旦 消 えたと想 ったら忽 ち再現 したが、間 もなく又 向 う側 に見 えなくなる。で、向 う側 へ廻 って見 ると、博士 は一方 の隅 なる檐 に止 まって居 た。- 「
中沢 君 、此処 が逃 げ降 りた所 だよ……その黒 い物 はなにか、天水桶 か……梯子 は有 りそうもないね……と、フウ合点 が行 かぬな!此処 は非常 に危険 な個所 だのになア。併 し曲者 が登 った跡 ならば、我輩 だって降 れぬ道理 はない。雨樋 は随分 緊固 して居 るね。兎 に角 、やッつけて見 よう。」と、博士 は雨樋 を伝 って降 り様 とする。 足裏 の摺 れる音 がガサガサと聞 える。角燈 が壁 を伝 うて急速 に降 りて来 る。と思 う間 もなく、博士 は翻然 と軽 く天水桶 の上 へ、そこから更 に地面 に飛 び降 りた。予 の持 って来 た靴下 と靴 とを穿 きながら「曲者 を跟 けるのはもう訳 ない。その通路 の瓦 は皆 緩 んでいる。そして余程 慌 てたと見 えて此様 な物 を落 して行 き居 った。君等 医師 の言草 ではないが、これで俺 の診断 もピタリと当 ったわけじゃ。」- と
差出 したのは、草織 りの一個 の小型 の革嚢 、派手 な珠数玉 が五 つ六 つ付 いて居 る。形状 も大 さも先 ず煙草入 ぐらい、内 を検 めると、六本 の黒 い木製 の刺 が入 って居 る。一端 が円 く、一端 が尖 り、正 に建志 を刺 したものと同一物 である。博士 の言 うには、 - 「こりゃ
実 に兇悪 な品物 じゃよ。間違 うて手 でも刺 さぬように注意 し給 え。兎 に角 これが手 に入 ったのは幸福 であった。つまり毒刺 が弥々 曲者 の所有 であったことが偶然 解 ったからね。これからが戦場 じゃ。中沢 君 、君 はこれから六哩 ほど走 る勇気 があるかね……有 る……だが足 が言 うことを聴 くかな……聴 く……では宜 しい……おおおおトビー君 、好 い犬 だ。好 い犬 だ!嗅 いでくれ、嗅 いでくれ!」 - と
犬 の鼻先 へ結列阿曹篤 の浸 みた手巾 を差出 すと、犬 は柔毛 の生 えた足 を踏張 り、頭 を変 に聳 やかしてフンフン嗅 ぎ出 した。斯 うして匂 いに慣 らされた博士 はやがて手巾 を遠方 へ投 げ棄 て、犬 の首輪 に頑丈 なる革紐 をつけて、水桶 の麓 へと引張 って行 く。と、犬 は忽 ち高 き震 える様 な吠方 を続 け、尾 をピンと張 り鼻 を地面 に擦 り付 け擦 り付 け、同 じ匂 いを嗅 ぎ嗅 ぎ、庭内 の踏付路 を革紐 の張 れる限 り張 って駆 け出 す。予等 も全速力 にて駆 け出 す。 時 しも東 の空 は次第 に白 み始 め、冷 かなる灰色 の光 の中 に四辺 の物 も朦朧 として浮 び出 ず。黒 き人 なき窓 、高 き趣味 なき壁 、かの四角 なる巨大 の家 は、悲 くも孤独 の姿 を横 えて予等 の背後 に在 り。予等 は溝 、穴 などの縦横 に掘 られし凋萎敗残 の庭 を横 ぎりて進 む。境界 の煉瓦塀 に達 すると、犬 はクンクン吠 きながら其 陰影 に添 うて走 ったが、一本 の若樹 の橅 の生 えた一隅 に来 るや突然 立 ち止 まった。其処 は煉瓦 が所々 緩 みて、恰 も梯子 の代用 の如 き足掛 りが幾 つか出来 て居 る。博士 は犬 を引張 った儘 それを攀 じ登 る。予 も続 いて登 り行 く。- 「ここに
片脚 の男 の手 の跡 があるぞ。」と博士 は早 くも眼 を付 けた。「見給 え、白 い漆喰 の上 に血 の汚点 が附 いているから。それにしても昨日 以来 大雨 の降 らぬのは実 に幸福 じゃ!此分 では例 の匂 いも既 に二十八 時間 経過 しているけれども、依然 道路 に浸 みて居 るだろうと思 う。」 白状 すれば予 は、縦横 無尽 に蜘蛛手 の如 く大都 を貫通 する東京 市中 の往来 を、如何 に鋭敏 なりとも此 犬 が嗅 ぎ分 け得 らるるものぞと疑 うた。が、其 心配 は間 もなく霽 れた。煉瓦塀 を飛降 りるや否 や、我 がトビーは嘗 て躊躇 せず、嘗 て踏 み迷 わぬ。彼 特有 の鶩 の歩 く如 き滑稽 なる姿勢 を以 てヨチヨチと走 り進 んで行 く。確 に結列阿曹篤 の強烈 なる匂 いは、往来 の他 の雑多 の匂 いを圧 して彼 の鼻 を刺戟 するに相違 ない。予 は走 りながら、胸 に溜 っていた疑問 を博士 に訊 ねる機会 を得た。- 「
一体 、先生 がどんなに詳 く片脚 の男 と鑑定 を付 けられたのは何 ういう理由 で厶 いますか。」 - 「それは
君 、何 でもない簡単 な事 だ。凡 てが明々白々 さ。先 ず考 えて見給 え。印度 で懲役人 看守 の役 をしていた二人 の将校 が、埋 れて居 る宝玉 に関 する或 る重大 な秘密 を聞 き知 ったのだ。彼等 の為 めに英国人 の簗瀬 茂十 なる者 が一枚 の地図 を引 いた。と言 うのは、須谷 大尉 の行李 中 から現 われた地図 に簗瀬 茂十 という名 が書 いてあったのを君 も覚 えているだろう。茂十 は自分 と他 の三人 の仲間 との為 めにそれへ署名 をして置 いたのだ――気取 って『四人 の署名 』と時々 書 いてあったのは夫 なんだ。此 地図 を頼 りにして須谷 、山輪 の二名 の将校 ――若 くは其中 の一人 ――が埋 れた宝玉 を掘 り起 してそれを上海 に持 って来 たのだね。だが察 する所 、其 将校 は茂十 等 に対 して約束 の報酬 をせずに上海 に来 て了 うたらしい。然 らば茂十 自身 が何故 宝玉 を手 に入 れなかったのか。其 答 えは明白 である。地図 に記載 されてある日附 を見 ると、丁度 須谷 大尉 が懲役人 を看守 して居 った時代 の日附 になって居 る。即 ち茂十 等 は其頃 懲役人 であって身体 の自由 を得 なかったが為 めに、自分 から宝玉 を手 に入 れる事 が出来 なんだのじゃ。」 - 「
併 しそれは推察 に止 まるので厶 いましょう。」 - 「
単 に推察 のみではない。諸 の事実 を覆 うところの仮説 はそれ以外 にないのじゃ。まアどの辺 まで其 仮説 が結果 と符合 するかを見給 え。山輪 少佐 は数年間 というものは、宝玉 を握 って安全 に幸福 に暮 して居 った。すると或 日 印度 から一本 の手紙 が舞 い込 んだ。それを見 ると先生 大恐慌 を来 した、さアこれは何故 であろう。」 - 「
少佐 が損害 を加 えて置 いた懲役 の者共 が、放免 になった報知 の手紙 かなぞではないでしょうか。」 - 「
放免 か、然 らずんば脱獄 じゃ。脱獄 と見 る方 が有力 らしいテ。何故 というのに、少佐 は彼等 の服役 期間 くらいは夙 くに承知 の筈 じゃから、今更 手紙 が参 ったとて驚 く筈 がないではないか。それを大恐慌 を来 したというのは、彼等 が脱走 して予想外 に早 く自分 の面前 に現 われ来 らんとしたからじゃ。事 茲 に至 って少佐 は如何 なる策 を取 ったものであろう。彼 は先 ず片脚 の木 の義足 をして居 る男 を用心 し出 した――断 って置 くが、それは印度人 では無 うて白人 だよ。何故 というのに、少佐 は白人 の行商人 を見 て其 男 と思 い違 え、短銃 を撃 ち掛 けた事 まであるのを以 て判断 しても解 る。ところで地図 に書 いてある四人 の姓名 の中 、白人 の名 は『簗瀬 茂十 』一人 のみである。他 の三名 に至 っては、宇婆陀 、漢陀 、阿武迦 なぞと言 うて、何 れも印度人 または回々 教徒 の名 である。即 ち片脚 の男 とは簗瀬 茂十 に他 ならぬという事 が確乎 として立証 さるるではないか。それとも俺 の推理 に何 か申分 があるだろうか。」 - 「
厶 いません。実 に簡潔 明瞭 で厶 います。」と今更 ながら自分 は感服 して答 えた。
一〇、驚 く可 き推論 は当 るか当 ぬか ――猟犬トビーの滑稽なる失敗
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博士 は言葉 を次 ぎ- 「さて
今度 は仮 りに自分 が簗瀬 茂十 の境遇 に身 を置 いて見 る。彼 の見地 から考 えて見 る。彼 が印度 から東京 へやって来 たことには二 つの希望 がある。一 つは嘗 て自分 が権利 を所有 して居 たところの宝玉 を奪 い返 す事 、他 の一 つは自分 等 に損害 を与 えた男 に対 する復讐 である。彼 は山輪 少佐 の住居 を捜 り知 り、少佐 邸内 の或者 と密 に相 応 じ合 うたに違 いない。我々 は会 わなかったが彼 の邸 に印度人 羅羅雄 なる賄方 があった。女中 のお捨 婆 さん善人 なところから、ツイ此 賄方 を信用 し過 ぎて居 ったと見 える。で、其 賄方 と文通 はして居 っても、茂十 には宝玉 の隠 し場所 が解 らぬ。これは無理 もない話 で、それを知 る者 は天地間 山輪 少佐 と、既 に逝 くなった一人 の忠僕 あるのみであった。そのうち茂十 は突然 、少佐 が病 篤 く既 に臨終 に瀕 している事 を聞 く。彼 は狂人 のようになった。宝玉 の隠 し場所 が少佐 の死 と共 に永遠 に埋没 するのを恐 れて、彼 は少佐 邸 に忍入 り、病室 の窓 に迫 った。少佐 の枕頭 には二人 の兄弟 がいて闖入 する訳 に行 かなかったが、少佐 に対 する極端 なる憎悪 は彼 を籍 って其夜 病室 に忍 び入 らしめた。彼 は万一 宝玉 の隠 し場所 を知 る手懸 りもあらんかと、其時 は既 に死 んで居 た少佐 の手文庫 、書類 等 を掻 き捜 したけれども無効 に終 った。で、忍 び込 んだ記念 として、紙片 に例 の文字 を認 めて立 ち去 ったのである。一体 彼 は若 し我 が手 が少佐 を殺 す場合 があったらば、死骸 の上 に同様 の文字 を残 すつもりで前 から企 んでいたに相違 ない。其 心 は単 なる殺人 に非 ずして、同志 四人 の署名 の下 に正義 の復讐 を行 うたという事 を知 らせる為 めであったろう。此様 な奇怪 なる思想 は犯罪史上 敢 て珍 しくない。そして常 に犯人 に関 して有力 なる証徴 を供給 しているものである。どうじゃ、中沢 君 、我輩 の説 に悉 く首肯 くかね。」 - 「
甚 だ明晰 だと思 います。」 - 「ところで
彼 簗瀬 茂十 の其後 の行動 は如何 。彼 は山輪 兄弟 の宝玉 発見 の努力 に対 して絶 えず密 に注意 を払 い得 るに過 ぎなんだ。多分 は東京 には常住 せず、時々 様子 を覗 いに来 たものであろう。暫時 すると天井 の密室 が発見 され、それが直 ちに彼 の知 る所 となった。ここで又 もや我々 は山輪 邸内 の同類 の活動 に注目 せねばならぬ。茂十 は片脚 の事 とて山輪 建志 の高 い室 へ登 る事 は到底 不可能 じゃ。然 るに茲 に一個 の奇怪 なる同類 があって、此 困難 に打 ち勝 ったが、其 代 り跣足 の足 をば結列阿曹篤 の中 へ浸 して了 うた。茲 に於 てか我 がトビーの現出 となり、君 と我輩 とが六哩 を駈 けねばならぬ事 となったのだ。」 - 「
併 し実際 罪 を犯 した者 は茂十 でなくして、其 同類 でしょうか。」 - 「それは
正 にそうじゃ。耳 ならず茂十 は、殺人 を厭 うて居 った。と言 うのは、彼 が室内 へ闖入 した其 経路 で判断 が出来 る。彼 は元来 山輪 建志 其人 には何 の怨恨 もない。成 べくは単 に縛 して猿轡 を穿 めるくらいに思 うて居 ったのじゃ。彼 とても自分 が絞首台 に登 るのは可厭 だろうから。併 し止 むを得 なかったと言 うのは、其 の共犯者 の野蛮 的 の本能 が発 して終 に毒刺 [3]を用 いるに至 ったのじゃ。殺 したものはもう仕方 がない。で、茂十 は署名 の紙片 を残 し、宝玉函 を綱 にて地面 へ下 げ、次 で自分 も降 りたのである。先 ずこれが我輩 が読 み解 き得 た限 りの事件 の連続 だ。茂十 の人相 に至 っては、年齢 は三十六七 でも有 ろうか、顔色 は安陀漫 の如 き酷熱 の海中 の群島 に懲役 に服 して居 ったのじゃから無論 日 に焼 けて居 る。身 の長 は一歩 の長 さから容易 に推量 が出来 る。そして髭男 だ。山輪 周英 君 が窓 から初 めてその顔 を見 た第一 印象 は彼 の髭面 であったのでも知 れる。此 他 に不明 な点 は先 ずあるまいと思 われる。」 - 「では、
其 共犯者 の方 は如何 でしょう。」 - 「ああ、そうそう、
共犯者 に就 ては格別 大 して疑点 はない。直 き君 にも解 る時 が来 るだろう。実 に朝 の空気 は爽快 だね!見給 え、あの小 さな雲 を、まるで大 きな紅鶴 から抜 けた一本 の真紅 の羽根 のようじゃないか。アレアレ、太陽 の紅 い縁 が遠 く棚雲 の上 に輝 き出 したね。あの太陽 には数知 れぬ地球上 の人間 が照 されるが、思 えば我々 のような不思議 な使命 を帯 びて居 る者 は他 にはなかろう……時 に不思議 な使命 と言 えば、君 は短銃 を用意 して来 なんだろうなア。」 - 「
其 代 りステッキが厶 います。」 - 「ふム、
兎 も角 も曲者 の巣窟 へ乗 り込 めば武器 が必要 だよ。茂十 の方 は君 に任 せよう。他 の奴 が抵抗 したら俺 が撃 ちのめそう。」 - と
短銃 を取出 して検 めて見 て、また右 の懐中 んい入れる。 斯 る間 にも我々 はトビーに牽 かれて、別荘 建 の列 んだ田舎 めいた路 を首都 の方 へと急 ぎ馳 せて遂 に本所 へ来 た。もう場末 の街 の中 へ入 って来 て居 る。種々 の労働者 や船渠 人足 等 はもう動 き出 し、だらしの無 い女 たちは鎧戸 を開 けたり、玄関 を掃除 したりして居 る。深川 の木場 の仕事 も始 まったと見 え、粗雑 な顔付 の男 共 が出 かける所 である。見知 らぬ多 くの犬 が四辺 を徘徊 し、過 ぎ行 く我々 に驚異 の眼 を向 けるが、我 が無双 の良犬 トビーは左顧右眄 せず、鼻面 を地 に擦 りつけしまま、時々 烈 しい匂 いを知 らせ顔 に熱心 に吠 えつつ前進 また前進 する。猿江町 、大工町 、霊顔町 を通 って今 は冬木町 に在 る。其 間 どれだけ小路 を抜 けたか数知 れぬ、予等 の追躡 する曲者 共 は追手 を晦 ます為 めに変哲 もなきウネクネせる路 を故意 と選 んだらしい。正徳寺 小路 の入口 にて彼等 は左 の方 大和町 へ曲 って居 る。此 大和町 が和倉町 に曲 らんとする処 にて、犬 は前進 を止 め、片耳 を欹 て、片耳 を垂 らし、甚 だ踏 み迷 う体 にて前後 左右 に走 り出 した。次 にはグルングルンと廻 り始 め、時々 予等 の顔 を仰 ぎ見 て己 が困却 に同情 を求 むる如 き姿態 をする。- 「
此 犬 はどうしたと言 うんだろう。」と博士 は唸 くような声 を出 して「まさか曲者 共 が馬車 へ乗 って了 いはすまいな。飛行機 で空 へ飛 んで了 いはすまいな。」 - 「
此処 へ暫時 立 ってでも居 たのでしょう。」 - 「ああ、
占 め占 め!また駈 け出 した!」とホツと一安心 。 犬 は今 しも嗅 ぎながらグルリと廻 ったが、不意 に決心 の付 いたものか。今迄 になき精力 と決意 とを以 て矢 の如 く突進 し出 した。匂 いが以前 より強烈 となったのであろう。最早 鼻 をば地面 に緊付 けず、張 れる限 り革紐 を張 って驀進 する。博士 の眼 が異様 に輝 き始 めた。もう目的地 も遠 くはあるまい。予等 は今 鶴歩町 を通 り抜 けて遂 に深川 の木場 に到着 した。と犬 は俄然 狂熱 の状態 を呈 して、或 家 の耳門 から木挽 共 の働 いて居 る囲 の中 へ躍 り入 った。そして鋸屑 と鉋屑 の間 を潜 り抜 け、小径 を走 り、行廊 をめぐり、終 に勝 ち誇 った叫声 を挙 げて一個 の大樽 に飛 び掛 った。それは運 んで来 たままで手押車 の上 に載 っているものである。トビーはだらりと舌 を垂 らし、瞬 きをしつつ樽 の上 から賞讃 を求 むるもののように予等 の顔 を互 み代 りに眺 めるのであった。樽 の板 も、手押車 の輪 も、一様 に黒色 の液汁 で汚 れ、四辺 一面 に結列阿曹篤 の強 い香 が漂 うて居 る。博士 と予 は思 わず茫然 として眼 を見合 せたが、耐 え切 れずにドッと吹 き出 して了 った。
一一、噫 、遂 に端艇 にて逃走 か ――貸船屋に於ける思わぬ手懸り
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- 「
何 うしたら好 いでしょう。此 犬 は特質 の確実性 を失 くして了 ったようですね。」と予 が言 えば、 - 「なに、
矢張 り此奴 自身 の権利 に従 うて働 いたのさ。」と博士 は大樽 の上 より犬 を引 きおろして囲 の外 に出 でながら「何 しろ広 い東京 中 で運搬 される結列阿曹篤 の数 を考 えたらば、我々 の跟 けてゆく路 が色々 に迷 うのも訝 むに足 らぬ。殊 に今 は材木 の乾固用 に多 く用 いられて居 るのだから可哀相 に、トビーに罪 はないわい。」 - 「もう
一度 主 な匂 いの方 へ戻 らなければなりませんな。」 - 「そうだ。
幸福 と大 した路程 ではなかった。あの大和町 の角 で犬 が迷 うたのは、確 に二 つの匂 う道 が反対 の方向 についていたに相違 ない。それを我々 は間違 うた道 を取 ったのじゃから、今度 は他 の方 へさえ進 めば宜 しい。」 - これは
格別 の困難 は無 かった。以前 の迷 った辻 迄 引返 すと、犬 は大 きな輪 を一 つグルリと画 いた後 、新 しき方向 に突進 した。 此度 は黒江町 、福住町 等 を過 ぎて大川端 の方 に頸 を向 ける。中島町 を出端 れると、右手 は直 ぐ河岸 で、其処 に一個 の木製 の埠頭 がある。トビーは其 真 の端 れまで予等 を誘 い、眼下 の黒 き流 れに俯 して吠 えつつ突立 った。- 「
失敗 った。此処 からボートで逃 げられた。」 - と
博士 が言 った。 小形 の平底船 や軽艇 が何艙 となく、埠頭 の水際 に横 って居 る。で、夫等 へ順々 に鼻 をつけさせたが、トビーは熱心 に嗅 いで見 るものの、何 の合図 もせぬ。粗末 なる揚 げ場 に添 うて一軒 の小 さな煉瓦建 の家 がある。二番目 の窓 に垂 れた木 の掲示板 には大 な文字 にて「隅原介作 」とあり、其 傍 に更 に「貸 し端艇 あり」とある。尚 お大扉 の上 にも広告 が出 ているので、予等 は此家 に一艘 の小蒸気 がある事 を知 った。埠頭 に石炭 を積 んであるので確 であろう。グルリと見廻 した博士 は縁起 の悪 そうな顔付 で、- 「どうも
形勢 が悪 い。曲者 等 は俺 の考 えたよりも怜悧 な奴等 だ。全 く踪跡 を晦 まそうとしたらしく見 える。偶 とすると此処 に何 か打合 せがあったかも知 れぬぞ。」 斯 く言 いて其家 に近寄 る折 しも、内 より扉 は開 きて、六歳 ばかりの縮毛 の頭髪 の子供 が一人 飛 び出 して来 た。後 へ続 いてデブデブに肥 えた赭顔 の女 が、手 に大 きなタオルを持 って走 り出 た。そして喚 くには、- 「コレ、
作坊 、早 く来 て洗 うのだよ。早 く来 るんだよ。真実 に言 う事 を聴 かない児 だッちゃ有 りやしない。御父様 が帰 って来 てそんな真黒 けな顔 をしていると、また叱 られるじゃないか!」 博士 は胸 に一物 、進 み出 て「オオ、好 い坊 ちゃんだね!まるで頰辺 が薔薇 のような好 い色 をしているじゃないか!作坊 さんか、作 ちゃん、何 か欲 しい物 を上 げよう、何 がいいだろうな。」子供 は些 と思案 の後 、- 「
僕 、五銭 欲 しいや。」 - 「それより
欲 しいものは?」 - 「
十銭 なら尚 お好 いやい。」 - 「じゃ
叔父 さんが十銭 あげよう!ソラ手 をお出し!ハハハ、お神 さん、可愛 い坊 ちゃんだねえ。」 - 「まア、
済 みませんねえ、有難 う厶 います。御覧 の通 り腕白者 なんですよ。いえね、私 なぞの手 におえた者 じゃ厶 んせん。殊 に夫 でも長 く不在 をしますと、もうもうやり切 れない困 り坊主 なんですよ。」 - 「ハア、
御主人 は御不在 か。」と博士 は落胆 した声音 で「それは間 が悪 いな少 し用 があったのに。」 - 「ええ、
昨日 の朝 出 ましたきり未 だ帰 りませんのでね。私 も実 は何 うした訳 かと困 っているんで厶 んすよ。併 し端艇 の御用 なら私 でも解 りますが。」 - 「
実 は蒸気艇 を借 り度 くて来 たのでね。」 - 「オヤオヤ、
生憎 で厶 んすねえ。その蒸気艇 に乗 って出掛 けて了 ったのですよ。だから訳 が解 らない。と申 しますのはね、旦那 、あの蒸気艇 には石炭 が余 り積 み込 んで厶 んせんで、そうですね、僅 の鐘ヶ淵 辺 まで往復 するくらいも有 ったでしょうか。艀 で行 ったのなら気 を揉 みはしませんけれどね。なに、艀 なら勝浦 や浦賀 のような遠 いところまで行 って来 る事 が珍 しくは有 りませんし、用事 が重 なれば随分 泊 って来 ることも有 りますけれど、石炭 のない蒸気艇 で乗 り出 して何 うするつもりなんで厶 んしょう。」 - 「
何処 かで石炭 を買 い込 んだのかも知 れないね。」 - 「さア、そうかも
知 れませんが、滅多 にない事 で厶 んすよ。それに私 はあの片脚 の、木 の脇杖 をついている外国人 の男 がどうも虫 が好 きませんでね。あの醜悪 い顔 を見 たり、野卑 な外国訛 りの言葉 を聞 きますと胸 が悪 くなりますよ。何 だってまた時々 我家 へあんな奴 が訪 ねて来 るのでしょうねえ。」 - 「ええ、
片脚 の男 ?」 - と
博士 は鷹揚 に驚 いて言 う。 - 「ええ、
鳶色 の、お猿 のような顔 をした男 は再々 夫 を訪 ねて参 るんで厶 んすよ。昨夜 夫 を起 しに来 たのも其 男 で厶 んしてね、それに夫 も其 男 の来 るのを知 って居 ったもんで厶 んしょうかね、ああして直 ぐ蒸気艇 で出 かけましたのは。私 は何 だか気懸 りでたまりませんよ。」 博士 は肩 を聳 かしつつ、- 「お
神 さんも詰 らぬ事 を心配 したものだね、昨夜 来 たのが其 片脚 の男 だと定 まりもせぬだろう。どうしてまた其 男 と判断 しなすったのかね。」 - 「
旦那様 、そりゃ声 で解 りまさア。あの声 というものが濁 った澱 んだような声 で厶 んしてね。昨夜 も、そうで厶 んしたよ、三時 頃 でもあったで厶 んしょうか、窓 をトントン叩 いて『オイ、オイ、起 きてくれ。もう見張 を何 とかする時分 だぜ』と申 しますと、夫 が貴方 、長男 の晋一 を起 しましてね、私 には一言 も申 しませんで出 て行 って了 ったので厶 んす。あの木 の義足 が石 に響 く音 が聞 えましたからあの男 に違 いありませんわ。」 - 「
其 男 は一人 であったろうか。」 - 「そこ
迄 は確 で厶 んせんが、他 の男 の声 は聞 えませんでしたよ。」 - 「
兎 に角 汽艇 を借 りたかったのに困 ったな。其 代 り思 わぬことを――否 、なに、お神 さん、ええと、汽艇 の名 は何 と言 ったっけね。」 - 「
北光丸 で厶 んすよ。」 - 「ああ、
北光丸 、そうそう!たしか、緑色 の古 い船 で船幅 が馬鹿 に広 くて、黄 い筋が一本入って居たあれだっけかね。」 - 「
否 え、違 いますよ。小奇麗 な船 でしてね。新 く塗 り代 えたばかりで、色 は黒 ですよ。赤 い筋 が二本 入 って居 るので厶 んすよ。」 - 「
有難 う、御主人 の便 りも早 く解 るといいですね。我々 はこれから河 を下 るから、もし北光丸 に遭遇 うたらば、お前 さんが心配 していると伝 えましょう。黒 い煙筒 だっけかね。」 - 「いいえ、
煙突 は黒 の中 に白筋 が巻 いてありますよ。」 - 「ああ、そうかそうか。
真黒 なのは舷側 だったね。じゃ、お神 さん、サヨナラ……。」 - 「
中沢 君 、そこに船頭 附 きの艀 が一艘 居 るね。あれで向岸 へ渡 ろう。」
一二、自分 勝手 の新聞 記事 ――阿瀬田警部の活躍振り
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偖 て艀 へ乗 り移 ると博士 が言 う。- 「
念 の為 めに君 に教 えて置 くが、ああいう種類 の者共 から物 を捜 り出 そうとする時 には、相手 の言 う事 が自分 にとって少 しでも必要 だと言 うような顔付 をせぬ事 じゃ。そう気取 ったが最後 、向 うは蠣 のようにピタリを口 を噤 んで了 う。それをば今 のように、何気 なく装 うて色々 な茶々 を入 れて喋 らせると、ツイ望 み通 りのことを洩 らして了 うものである。」 - 「それはそうと
前途 はもう平々坦々 ですな。」 - 「
君 なら何 うするつもりか。」 - 「
私 なら汽艇 を一艘 傭 って北光丸 の後 を追 います。」 - 「
君 、それは大仕事 だよ。北光丸 は墨田川 筋 の両岸 にある埠頭 に幾 つ寄 ったか解 りはせぬ。永代 から下流 数 哩 の上陸点 と来 たらば、全 く迷宮 のような有様 じゃからね。単身 手 を下 そうものならば、それこそ幾日 たっても功績 は挙 りはすまい。」 - 「では
警察 の力 を借 ります。」 - 「そりゃ
不可 。俺 の考 えでは阿瀬田 譲作 なぞは一番 最後 の時 に呼 ぼうと思 う。彼 とても悪人 ではない故 、我輩 も職業上 で彼 を傷 つけるような事 は成 るべくしたくないのじゃ。併 しここまで我々 の捜索 が進行 した以上 、やはり独力 でやり遂 げて見 たい気 がするのじゃ。」 - 「では、
各 埠頭 の監守人 から報告 を受 けたいと広告 しては如何 なものでしょう。」 - 「
尚 お拙 い!広告 なぞ出 したらば、曲者 共 は追跡 の急 なるを知 って外国 に逃走 する。つまりは外国 に去 るものではあろうが、身 が安全 と思 うて居 る限 りは急 ぎはせぬ。阿瀬田 警部 は其 点 に於 て初 めて必要 になるのじゃ。何故 というのに、本件 に対 する彼 の意見 は必 ず新聞 に現 われる。すると曲者 共 は其 筋 の探偵 が悉 く間違 うていることを知 るから安心 して腰 を据 えて居 る。」 兎角 する間 に、予等 は向 う岸 の埠頭 に上陸 する。- 「では
一体 どうしたらば好 いんでしょう。」と予 が訊 くと、 - 「
彼処 に居 る自動車屋 [4]の自動車 で一旦 自邸 に帰 ろう。そして朝飯 でも喰 べて一時間 計 りゆっくりと寝 よう。今晩 もう一度 追跡 を続 けなければならぬ事 は分 り切 って居 るからね。運転手 君 、電信局 の前 で些 と止 めて貰 い度 い。トビーはまだ要 るから連 れて行 こう」 自動車 [5]が電信局 の前 に止 まると、博士 は降 りて電信 を打 って来 たが、再 び自動車 が走 り出 すと、- 「
何処 へ打 ったか知 って居 るか。」 - 「
私 には分 りません。」 - 「あの
有楽町 に探偵局 の支局 があるだろう、これを昨年 俺 が或 る事件 で雇 うたのを覚 えて居 るだろう。」 - 「
居 ります。」と予 は笑 った。 - 「
今度 の事件 にも正 に彼等 が必要 になった。彼等 が失敗 すれば他 に方法 もある。先 ず試 しに雇 うてみよう。今 の電報 は銀公 に打 ったのさ。ああ命 って置 いたから、先生 、我々 の朝飯 の済 まぬうちに手下 を率 いてやって来 るだろう。」 今 は午前 八時 と九時 との間 である。前夜 為 し続 けた興奮 の後 の強 き反動 が自覚 される。心 は徒 らに昏迷 し、肉体 は疲労困憊 の極 に達 して居 る。予 は我 が博士 を籍 って此 の頃 の如 く活動 せしむる程 の職業上 の熱 も有 せず。さりとて彼 の事件 を単 なる抽象的 の智的 問題 として眺 むる事 も出来 ぬ。山輪 建志 の横死 の問題 のみにては、建志 の人格 につき余 り好 き噂 も聞 かざる故 、従 って其 下手人 に向 って非常 なる嫌悪 も感 じなかったが、宝玉 事件 に至 っては事 自 ら別趣 となる。かの宝玉 は、尠 くとも其 一部 は丸子 に属 したる物 である。それを取戻 す機会 の有 る限 りは、予 は其 目的 に向 って努力 する。雖然 、一旦 予等 がそれを発見 せんか、彼女 は予 の手 の届 かざる高嶺 の花 となるであろう。とは言 え斯 る思想 に支配 せらるる愛 は微々 たる自我的 の愛 であろう。我 が呉田 博士 にして罪人 捜索 に奔走 せんか、予 に於 ても当然 宝玉 発見 に熱中 すべき十倍 の有力 なる理由 があるのである。高輪 の博士 の家 に戻 っての一風呂 と、絶対 の安静 とは驚 くほど身心 を爽快 ならしめた。室 に帰 って見 ると朝飯 の用意 成 り、博士 は既 に珈琲 を注 いでいる所 。自分 の姿 を見 ると、笑 いながら新聞紙 を指 して、- 「
果 してだ。精力家 の阿瀬田 と、何処 へでも潜 り込 む新聞記者 とが自分勝手 に捏 ちあげて了 うたが、君 も随分 働 いたから、まア朝飯 の方 を先 きにやり給 え。」 新聞 を取上 げて見 れば「砂村 の怪々 事件 」と題 して、左 の如 き記事 が載 って居 る。
昨夜半 十二時 頃 郊外 砂村 に住 える英国人 山輪 建志 なる者 其 居間 にて横死 を遂 げ居 たる事 発見 せられたり。吾人 の探訪 せる限 りにては被害者 の身体 に何等 暴行 を受 けたる痕跡 なけれども建志 が亡父 より継承 せし印度 宝玉 の入 りし貴重 なる函 紛失 し居 れり。初 めて珍事 を発見 せしは呉田 博士 、中沢 医学士 の二氏 なるが、二氏 は昨夜 被害者 の弟 同姓 周英 と共 に被害者 邸宅 を訪 いしなり。而 して茲 に僥倖 とも謂 つ可 きは、有名 なる阿瀬田 警部 が、偶然 砂村 警察署 に出張 中 なりし事 にて、氏 は訴 えを聞 くや半時間 を出 でざるに早 くも現場 に在 り、氏 の熟練 したる慧眼 は直 ちに下手人 探偵 方面 に向 けられ、弟 周英 は其 場 に捕縛 せられ、尚 お女中 お捨 、印度人 の賄方 羅羅雄 、門番 甚吉 等 も共 に引致 せられたり。強盗 は一名 若 くは二名 にして共 に同家 の模様 を熟知 せる者 なる事 は阿瀬田 警部 の観察 によりて寸分 の疑 いを容 れず。同 警部 は評判 の専門 知識 と緻密 周到 の観察眼 とを以 て、下 の如 き断案 を下 すに至 りたり。そは曲者 の忍 び入 りたる経路 は、扉 にも非 ず窓 にも非 ず、実 に同家 の屋根 を穿 ち、刎出扉 によりて、被害者 の発見 せられたる居間 とを通 ずる一室 に降 り来 りしものなりと。此 事実 は頗 る明確 に証明 せられ居 れり。此 に依 って見 るに、今回 の犯罪 の原因 たる単 なる偶然 の強盗 に非 ざる事 明 かなりと言 うべし。
- 「
実 に堂々 たるものじゃないか!」と博士 は珈琲 の茶碗 越 しに冷笑 って「君 はどう思 う。」 - 「これで
見 ると、下手 をすると私共 までが危 く縛 げられるところで厶 いました。」 - 「
俺 もそう思 う。いや、まだ安心 は出来 ぬ。先生 、も少 し蛮力 を揮 い出 したら実際 我々 の方 へやって来 ぬとも限 らぬわい。」 斯 る折 りしも案内 の鈴 が気魂 しく鳴 り渡 った。予 はハッとして腰 を浮 せて、「警部 じゃないでしょうか。」
一三、浮浪人 探偵 局員 の召集 ――共犯者は印度人か……
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自分 の狼狽 に引 きかえ博士 は少 しも動 ぜず、- 「なに、それほど
怖 がるものでもない。あれは民間 の探偵 共 さ――例 の有楽町 の探偵 支局 の不正規兵 さ。」 - と
言 う間 も、階段 を踏 み来 る忙 しげなる跣 の跫音 、声高 なる響 き、そして十二人 の汚 き襤褸 を纏 える浮浪漢共 がドヤドヤと闖入 して来 た。入 る間際 の喧噪 と言 ったら無 かったが、彼等 の間 にも幾分 の訓練 は有 ると見 え、直 ちに一列 横隊 を形作 って、何 をか期待 する如 き面貌 を列 べた。中 の一人 、他 の者 よりも丈高 く年長 なるが、首領顔 して前方 に突立 っているのが、其 威張 り顔 までノラクラして、斯 るボロボロの鄙陋 なる案山子 的 軍隊 であるだけに一層 滑稽 である。 - 「
旦那 、電報 を頂 きやした。」と件 の親方 が口 を切 る。「電車代 をお願 えしてえもので、ヘイ。」 - 「やア、
御苦労 、御苦労 。」と博士 は若干 の銀貨 を取出 しながら「だが、銀州 、これからは手下 の者 がお前 に報告 し、お前 からまた己 に報告 して呉 れるようにしておくれよ。[6]斯 う皆 なで押上 がられては閉口 じゃからな。併 し今日 は初回 だから俺 の注文 を揃 うて聴 いて置 いてくれるのも丁度 好 いかも知 れぬ。注文 と言 うのは、北光丸 という汽艇 の所在 を捜 して貰 いたいのだ。持主 は隅原 介作 と言 う者 で、船 は黒塗 りで二本 の赤筋 が入 っている、煙筒 は黒 で白 い筋 が一本 巻 いている。何処 か下流 にいる筈 なのだ。で、一人 はあの蒸田 の堤 と対 い合 うた其 隅原 の物揚 げ場 に張込 んで北光丸 が返 って来 るかどうか番 をしていて貰 いたい。其 他 はお前達 が適宜 に手 を配 けて、隅田河 の両側 をすっかり捜 すようにして呉 れ。そして手懸 がついたら、即刻 報告 して欲 しいのじゃ。解 ったかな。」 - 「へえ、
解 りやした。」と銀公 が言 う。 - 「
日当 は此前 の通 り、尚 お汽艇 を見付 けた者 は余分 の礼 をする。ソラ一日分 の前金 じゃ。受取 ったら下 って宜 しい!」と五十銭 ずつを各々 に渡 す。皆 ガヤガヤ言 いながら階段 を降 りて行く。そして間 もなく街頭 に流 れゆく彼等 の姿 が見 える。 博士 は卓子 を離 れてパイプを点 し、- 「
汽艇 が水面 を浮 んでいる限 りは、彼等 は必 ず捜 し出 して来 る。彼等 と来 たら、凡有 る処 に潜 り込 み、凡有 る物 を見 、凡有 る人 に聞 くからね。恐 らく日暮前 には何 かの手懸 りを嗅 ぎ出 して来 るだろう。先 ずしばらくは報告 を待 つよりほか何 もすることが出来 ないね。北光丸 か、若 くは隅原 介作 を見付 け出 さぬ限 りは、我々 も此 中断 した手懸 をまた拾 い上 げる訳 には行かない。」 - 「トビーはこんな
残物 を喰 べるでしょうか。先生 、少 し御眠 みになりますか。」 - 「いいや、
俺 は疲労 れて居 らん。我輩 の体質 は一種 別誂 であってね。怠 けていると体 がグダグダになるけれども、まだ活動 して疲労 した覚 えがないよ。あの美人 が持 ち込 んで来 た事件 が飛 んだ不思議 なものになった。俺 は煙草 を吸 いながらしばらく熟考 しつつ不思議 なものとは言 うものの、このくらい訳 のない事件 は有 りはせぬ。片脚 の男 も余 り普通 の方 ではないが、併 しもう一人 の同類 に至 っては、此奴 は実 に例 が無 いわい。」 - 「はア、
矢張 りその同類 ですか!」 - 「いや、
君 の眼 に其 男 を不思議 な感 じをさせるという意 でもないが、君 も自分 の意見 というものを偶 には拵 えて見給 え。先 ず事実 を考 えて見 ると、小形 の足跡 、靴 で拘束 された跡 のない離 れた足 の指 、跣 の足 さ。其他 石 の頭 のついた木 の槌矛 、小 さな毒 の投矢 など色々 ある。此等 のものを綜合 して見 たらば何 かの発見 がつきそうなものではないか。」 - 「はハア、
野蛮人 ですな!」と自分 は思 わず叫 んだ。「多分 簗瀬 茂十 の同類 であった印度人 の中 の一人 じゃないでしょうか。」 - 「
否 、そうではない。俺 も最初 奇体 な兇器 を見 た時 にはそう思 うたけれども、あの特別 な足跡 を研究 するに及 んで考 え直 した。印度 半島 の中 の或 人種 は至 って矮小 であるが、さりとて彼 のような足跡 を残 す者 はない。印度 本部 の人民 の足 は長 くて細 い。回々 教徒 は足 の指 が大 きくて皮靴 を穿 いて居 る。が其 革緒 が間 に狭 まって居 るゆえ指 は自然 離 れて居 る。また、此等 の小 さな投矢 、即 ち毒針 だね、これを撃 つには只 一個 の方法 があるばかりじゃ。つまり吹竹 から吹 き出 すのだ。して見 ると他 には何処 の野蛮人 であろう。」 - 「
南亜米利加 でしょうか。」と一 か八 か自分 は言 うて見 た。 博士 は手 を伸 べて、書棚 より一冊 の嵩張 った本 を取 り下 ろした。- 「これは
今 刊行中 の地名辞書 の第 一巻 である。先 ずこれは最近 に於 ける確 な著書 だ。これに何 とあるだろう。『印度 安陀漫 群島 はスマトラの北 三百四十哩 、ベンガル湾 に在 り』か。フン!フン!詳 い説明 がある。『気候 湿潤 、珊瑚礁 あり。鮫 多 し。武礼留 港 には囚徒 の屯営 あり。良土蘭 島 よりは綿 を産 す――。』はア、土人 の説明 がある。 - 『
安陀漫 群島 の土蕃 は恐 らく地球上 人種 中 最 も矮小 なるものならん。平均 の身長 四尺 を出 です、成熟 したる大人 にありてさえこれより遥 かに低 き者 あり。性 兇暴 、慓悍 にして陰険 なり、然 れども友愛 の情 に富 み、一旦 信 ずれば互 に水火 の難 を辞 せざる友情 を結 ぶに至 る。』ふム、中沢 君 、これを覚 えて置 き給 え。それからこんな事 もある。 其 容貌 は頭 不格好 に大 きく、眼 は小 さくして鋭 く、顔面 捻 り歪 み醜悪 なり。四肢 は頗 る小 さし。彼等 が狂暴 慓悍 なる事 は、英国 政府 の凡有 る努力 も嘗 て其 征服 に成功 せし例 なきに見 るも知 り得 べし。彼等 は偶々 難船 などの生存者 あれば石頭 の棍棒 を以 て脳 を打砕 き、或 は毒矢 を以 て射殺 すを以 て、航海 業者 が常 に彼等 を懼 るる事 甚 し。』どうじゃ、中沢 君 、素的 な蛮民 じゃないか!若 しあの同類 の奴 が思 うままに振舞 わせたならば、今回 の事件 は一層 惨劇 となったかも知 れぬ。流石 の茂十 さえ、其様 な同類 を頼 んだことを後悔 するくらいな野蛮 な殺 し方 をしたかも知れん。」- 「
茂十 が何 だってそんな同類 を作 ったでしょう。」 - 「それまでは
未 だ俺 にも解 らぬ。が、既 に茂十 が安陀漫 島 から来 たのが解 った以上 、彼 が島民 を同類 とするに至 ったのも深 く訝 むるに足 らぬではないか。それに併 し追々 明瞭 になるだろう。ああ君 は大分 睡 そうだね。好 し、その長椅子 に横 になり給 え、俺 が一番 君 を寝 かしつけてやろう。」 博士 は室 の隅 からヴァイオリンを取出 した。そして自分 が長椅子 に横 わるのを見 ると夫 を弾 き出 したが、夢 のような、低 い、調子 の佳 い曲 である――博士 は仲々 の即興 演奏 に長 じて居 られるから、恐 らく自分 の作曲 であろう。聴 いて居 るうちに、博士 の痩 せぎすの四肢 も、熱心 の顔 も、楽弓 の一高 一低 も次第 に朧 になる。次 には身 は全 く柔 かなる音律 の海 に、安 らかに漂蕩 なしつつ夢 の国 へと進 みゆく。何処 やらか我 が顔 を優 しく覗 く者 がある。瞳 を定 むれば我 が懐 しき丸子 の顔 。
一四、一夜 にして憔悴 枯槁 ――汽艇の捜索悉く無効に終る……
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自分 が再 び心気 爽然 、勇気 満々 として起出 でし頃 は、午後 の日 も早 や長 けていた。博士 は依然 として先程 の如 く椅子 に腰掛 けている。只 ヴァイオリンは傍 に置 き、一冊 の本 に熱中 して居 る。自分 がムクムクと起出 ずるを見 るや、流眄 に此方 を眺 めたが、どうしたものか、其 顔 は暗 く困惑 に満 ちている。- 「
能 く睡 たね。我々 の話声 で眼 が醒 めはせぬかと思 って実 はビクビクしていた。」 - 「いや、一
切 無我夢中 で厶 いました。じゃア何 か新 しく吉報 が。」 - 「
遺憾 ながら否 じゃ。白状 すれば俺 は少々 驚 いた、失望 した。今度 は何 かしら確実 な事 が握 られると期待 して居 ったのに、今 しがた銀公 が報告 に来 たが、汽艇 の行衛 は更 に不明 なようだ。今 は一時間 でも大切 な時 であるのに、実 に焦 れったくて仕方 がない。」 - 「
睡眠 によって、私 も最 うすっかり勇気 を恢復 しましたから、是 から夜 の活動 に着手 致 しましょう。」 - 「いや、
何 も手 を附 けることが出来 ん。ただ徒 らに待 つあるのみじゃ。若 し我々 が出掛 けると其 不在 へ報告 が来 る。すると従 って活動 が遅 れる。君 は好 きな用事 をし給 え。我輩 はもう少 し斯 うして居 らねばならぬ。」 - 「じゃア、
私 は其 間 に築地 の濠田 夫人 のところへ一走 り行 って参 りましょう。昨日 、また訪 ねる約束 をして置 きましたから、」 - 「
濠田 夫人 をかえ。」と博士 は微笑 を浮 めた眼 を瞬 たく。 - 「
左様 です、無論 丸子 嬢 も一所 ですが。二人 とも今度 の事件 を大層 心配 して居 りますから。」 - 「
併 し余 り詳 しく話 さん方 が宜 いね。由来 女 という者 ほど信用 にならぬ奴 はないから――尤 も優 れた婦人 は別 だけれども。」 - 「
其 の辺 は心得 て居 ります。では一二時間 の内 には帰 ります。」 - 「
好 いとも好 いとも!行 って来給 え!ああ、序 でにあの呉服町 へ廻 って、トビーを返 して行 って貰 いたい。もう必要 はあるまいと思 うから。」 自分 は犬 を連 れて例 の剝製屋 に至 り、若干 の謝礼 と共 にそれを爺様 に返 し、さて濠田 夫人 の宅 へ到 ると、丸子 は前後 の事件 の疲労 をまだ全 く去 りやらぬ風情 であったが、併 し夫人 と共 に熱心 に予 に物語 を迫 るのであった。予 は事件 の比較的 怖 しき方面 だけを隠蔽 して、昨夜来 の顚末 を残 らず物語 た。山輪 建志 の横死 に就 ても話 したが、其 横死 の状態 は話 さなんだ。其様 に省略 したにも係 らず、予 の物語 は非常 に彼等 を魂消 させたのである。- 「まるでお
伽譚 のようですわね!」と濠田 夫人 が叫 んだ。「貴婦人 が災難 に遭 うたり、五拾万円の宝玉 が出 て来 たり、黒奴 の食人種 や、片脚 の悪漢 なぞが出没 したり、昔 の譚 の中 によく出 て参 る竜 だの、悪 い伯爵 だのの代 りに、今 は其様 なものが跋扈 するのですね。」 - 「そして
二人 に武者修行者 が救助 に見 えたり。」 - と
丸子 が活々 した瞥見 を予 に向 ける。 - 「まア、
丸子 さん、貴女 の運 の開 ける開 けないは、全 く今度 の捜索 の結果 によるのではないの。貴女 は余 り気 に掛 けている様子 もないのね。少 しは想像 えても御覧 なさいよ。お金持 になって、世間 を眼下 に見下 すのは何 うすれば好 いか。」 予 の心 は思 わず喜悦 の情 に顫 えた。丸子 は其 希望 の為 めに少 しも得意 の姿態 がない。耳 ならず彼女 は、宝玉 事件 が何 の興味 もなき世間 普通 の問題 ででもあるかの如 く、昂然 として其 頭 を擡 げているではないか。- 「
私 の気掛 りなのは山輪 周英 様 の御身 の上 で厶 いますわ。」と彼女 は言 った。「他 のことは何 でも厶 いませんの。けれども彼 の方 はほんとに始 めから終 まで、実 に親切 に正 しく仕向 けて下 すったですものね。ですから一日 も早 く恐 しい冤 の罪 からお救 い申 すのは私共 の義務 と思 いますわ。」 濠田 邸 を辞 したのは黄昏時 、高輪 に着 くと全 く暮 れて居 た。博士 の本 とパイプとは椅子 の上 へ放 り出 してあるけれども、主 の姿 がない。何 か書 き残 して行 きはせぬかと見廻 したが、夫 らしいものも見当 らぬ。其処 へ下婢 が鎧戸 をおろしに登 って来 たので、- 「
先生 は出 て行 ったのだね。」 - 「
否 え先生 は、御加減 でも悪 いのじゃないかと思 いますよ!」 - 「なぜ。」
- 「でも、
御様子 が変 なんですよ。貴君 が御出 ましになってから、お室 の中 を彼方 へ行 ったり、此方 へ行 ったり、此方 へ行 ったり、彼方 へ行 ったり、もう其 跫音 を階下 で聞 いていてさえウンザリするくらい御歩 きなすってね。何 かクドクドと独語 をなさるかと思 えば、案内 の鈴 が鳴 る度 びに階段 の下口 へ顔 を御出 しになって、誰 だ、と御訊 きになるんです。そうかと思 うともうお室 の中 へ閉 じ籠 もってお了 いなすったけれど。相変 らず根気 よく歩 き廻 っていらっしゃるんですよ。私 、万一 して御病気 にならねばよいと心配 して居 りますの。」 - 「なに、そんなに
心配 する事 はないよ。何 か少 しばかり気 に掛 る事 があって、それであんなにソワソワして居 られるのだ。」 斯 う言 って下婢 を退 けたが、さて予 自身 も多少 心配 でない事 はない。何故 と言 うのに、其夜 は殆 ど終夜 博士 の歩 き廻 る鈍 き跫音 を聞 いた。博士 の鋭 き精神 は、此 不本意 なる活動 の休息 の為 めに如何 に激 していた事 であろう。翌日 の朝飯 の時 に見 ると、一晩 で痩 せ衰 えて憔悴 した顔付 をして居 る。両頰 には熱 ッぽい紅味 が一点 潮 して居 る。- 「
先生 は、昨夜 一晩中 歩 き廻 って居 られたようで厶 いますが、あれじゃ体 がお疲労 れに成 るでしょう。」と言 えば、 - 「でも
睡 られぬのだから仕方 がない。今度 の極悪 の問題 は俺 を喰 い尽 さなくては止 まぬ。他 の事 は大抵 見込 みが付 いたのに、あんな些細 な障害 の為 めに挫 かれるのは耐 まらぬ。曲者 も、汽艇 も、何 もかも解 って居 る、而 も何 の手掛 りも得 られぬ。銀公 等 のほかにも一隊 応援 を頼 んで今 働 かして居 る最中 である。俺 は出来 る限 りの手段 を尽 している。墨田川 は両岸 を隈 なく捜索 させたが、一つとして吉報 は手 に入 らず、また船宿 の隅原 介作 の女房 にも依然 夫 の行衛 が解 らぬそうじゃ。此 形勢 では多分 彼奴等 は艇 を自 ら孔 を穿 けて沈 めて了 うたのかも知 れぬ、とも思 われるが、さりとてその推察 には異論 もある。」 - 「で、なければ、
隅原 の女房 が態 と我々 の方針 を迷 わせて居 るのかも知 れません。」 - 「いや、その
案 じはあるまいと思 う。十分 質問 もしたし、そういう汽艇 もあるのだから。」 - 「
若 しや上流 に行 ったのではないでしょうか。」 - 「「ムム、
俺 も実 はそう気付 いたから、一隊 を其方 に派遣 して鐘ヶ淵 から千住 方面 まで捜索 させてあるのじゃ。で、若 し今日中 に手掛 がつかねば、俺 は明日 は自身 で出掛 ける。そして汽艇 を捜 すよりは寧 そ曲者 を直接 に捜 す決心 をした。が、屹度 、屹度 、何 か吉報 は有 るに違 いあるまい。」 然 れども吉報 は来 なかった。銀公 等 からも他 の応援隊 からも一言 の報告 にだも接 せぬ。砂村 の怪殺人 事件 又 は毒針 事件 、宝玉函 の行衛 などと題 して、新聞 という新聞 には皆 現 われている。何 れも哀 れな周英 君 に対 して不利益 な記事 ばかりであるが、格別 の新事実 も挙 がって居 らぬ。只 審理 が明日 行 われる予定 である事 だけは解 った。予 は其 夕刻 又 も濠田 夫人 邸 に到 り、二人 に結果 の思 わしからぬ由 を告 げて戻 って来 て見 ると、博士 は落胆 した顔付 で鬱憂 として居 る。物 を聴 いてもロクに返事 もせず、一生 懸命 奥妙 なる科学上 の分析 に着手 して居 られる。曲頸瓶 を熱 したり、蒸留水 を取 ったりしていたが、終 には耐 まらぬ悪臭 を立 てて、予 を室外 へ退散 せしめて了 った。暁 近 くまでも試験管 の触合 う音 が聞 える。先生 はまだ悪臭 の実験 に熱中 していると見 える。不図 物 に驚 いて飛 び起 き見 れば、意外 にも予 が枕頭 に立 った博士 は何 うしたものか粗末 な厚 い上衣 の海員服 を着 け、荒 い紅色 の襟巻 を首 に巻 いた異様 の風体 で、- 「
中沢 君 、俺 はこれから隅田河 へ捜索 に出掛 ける。色々 に考 えて見 たが外 に手段 がない。どんな困難 を排 してもこれを一 つ実行 して見 ようと思 う。」 - 「
私 も同行 致 しますか。」 - 「
否 、君 は俺 の代理 として此処 に残 っていて貰 うた方 が都合 がよい。俺 も実 は行 き度 くはないのだ。銀州 は昨夜 悲観 した事 を言 うて行 き居 ったが、それにしても今日 は何 うしても昼 のうちに何 か報告 が来 なければならぬ筈 だ。で、君 は手紙 でも電報 でも関 わず開 いて見 て、何等 かの報告 でもあったならば君 自身 の判断 で適宜 に処理 してくれ給 え。」 - 「ハア、
承知 致 しました。」 - 「
只 困 るのは、今 の処 まだ何処 へ行 くという事 を断定 出来 ぬのだから、君 が俺 に電話 なり電報 なりを通 ずるに迷 うであろうが、若 し巧 く行 きさえすれば余 り手間 は掛 らぬつもりだ。兎 に角 帰 る迄 には何等 かの吉報 を手 に入 れるだろう。」
一五、常識 警部 の来訪 ――打って変った謙遜な口調
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朝飯 の時 迄 はまだ博士 から何等 の消息 もない。併 し新聞 を開 いて見 れば次 の様 な記事 が載 って居 る。例 の砂村 の宝玉函 事件 の真相 は、吾人 が事件 発生 の当初 に想像 せしよりも一層 複雑 に一層 難解 なりと信 ずるに至 れる理由 あり。最近 の証拠 を照 すに、嫌疑人 山輪 周英 が殺人事件 に関係 ありたるちょうことは絶対 不可能 となれり。よりて周英 と女中 お捨 とは昨夕 放免 せられたり。然 れども警察 当局者 が今 や真 の犯人 に対 する一個 の手掛 を握 りたるは確実 なるが如 し、これ全 く警視庁 の阿瀬田 警部 の独特 の精力 と鋭敏 とによるものにして、真 の犯人 逮捕 の期 も余 り遠 きに非 ざるべし。
- 「
何 にしてもこれだけ運 べば満足 だ。」と予 は考 えた。「周英 君 は何 れにせよ自由 の身 となった。この新 しい証拠 と言 うのは何 だろうな。こんなことを言 うのは、警察 で馬鹿 間違 いをやった時 の紋切形 には違 いがないが。」 - と
新聞 を卓子 の上 に放 り出 したが、偶 と眼 に触 れたのは案内欄 にある次 の如 き広告文 である。
失踪人 広告 。――去 火曜日 朝 三時 頃 汽艇 北光丸 にて自己 の船宿 前 の埠頭 を去 りし隅原 介作 と其 倅 晋一 との所在 を求 む。北光丸 は船体 黒色 二本の赤筋 あり。煙筒 同 じく黒色 、一条 の白筋 を巻 く。右 隅原 介作 父子 及 び北光丸 の所在 を隅原 物揚場 なる隅原 不在 宅 、若 くは高輪町 二十二番地 に報告 せられたる方 には金 拾円 の礼金 を呈上 致 すべし。
正 に呉田 博士 の仕業 である。高輪町 の番地 でそれと知 られる。これは巧 みな遣方 であると思 った。何故 ならばこれを読 む隅原 は、自分 の女房 が自分 の失踪 に対 して心配 して居るという事 よりほかには格別 の意味 をも感ずまいからである。其日 は焦 ったいほど日 が長 かった。扉 を叩 く音 がする度 びに、博士 が帰 って来 たんじゃないかと思 う。慌 しげな街 行 く跫音 を聞 く度 びに、失踪 広告 へ何者 か答 えに来 たんじゃないかと胸 を轟 かす。読書 で紛 らせようとしても、心 は何時 しか散 って、我々 の関係 した奇怪 なる今回 の問題 や我々 が追跡 しつつある二人 の兇悪漢 の上 に彷徨 い出 し、博士 の推理 の上 に何 か根本的 の破隙 があったのではあるまいか。何等 か大 なる自欺 により来 った苦悶 を受 けているのではあるまいか。博士 の敏捷 なる推理的 の心 が、誤 った前提 の上 に斯 る奇矯 の理論 を打建 てたという事 はないだろうか。博士 が失策 を演 じた例 はまだ予 の見 ざる所 であるが、最 も怜悧 なる観察者 が往々 欺 かれないという事 は断言 出来 ぬ。それに予 は常 に考 える事 であるが、博士 は兎角 自己 の論理 を精美 にし過 ぎる。それから一層 平易 なる、一層 通俗 なる説明 があるにも係 らず、成 るべく微妙 なる、奇怪 なる説明 に走 らんとする。さはいえ今回 は予 自身 証拠 を目撃 し、予 自身 博士 の演繹法 の推理 を聞 いた。予 は今更 に今回 の怪事件 の長 き連鎖 を回顧 した。其 多 くの事実 は論 ずる価値 もなき微力 なるものなれど、而 も皆 同一 結果 に走 って居 る。斯 く観 じ来 れば、たとえ博士 の説明 が誤 りなりともせよ、其 真相 は真 に驚絶愕絶 のものであると考 えぬわけには行 かぬのである。午後 の三時 頃 であった。案内 の鈴 を高 らかに鳴 らす者 がある。広間 で何 やら厳 つい声 が聞 えたと思 うと、間 もなく予 の室 に登 って来 たのは思 いもかけぬ警視庁 の常識 警部 阿瀬田 君 であった。が今日 は日頃 の無作法 の人 には似 もやらぬ。今回 の怪事件 を一人 で背負 って立 ったような所謂 常識 博士 、尊大 なる阿瀬田 其人 とは別人 の如 く鬱々 たる顔付 をなし、其 態度 も謙譲 というよりは寧 ろ謝罪 を表 する風 がある。- 「いや、
中沢 さん、先日 は、……御機嫌 よく……呉田 さんは多分 御不在 でしょうな。」 - 「
不在 です。何時 帰 りますかそれも解 りません。が、御待 ちになったら宜 しいでしょう。どうぞお掛 け下 さい。其 巻煙草 を召上 って下 さい。」 - 「
有難 う、お構 い下 さるな。」と赤 い大 きなハンケチで顔 を拭 く。 - 「ウイスキイと
曹達 水 を一杯 いかが。」 - 「では、
半杯 ほど頂戴 しましょう。今頃 の割合 にしては非常 に暖 いですな。それに私 は随分 辛労 が重 なって居 ますからな。貴君 は今回 の事件 に対 する私 の意見 を御存知 でしょう。」 - 「
嘗 て御明言 なすったのを覚 えています。」 - 「
所 がです、余儀 なく今度 見込 みを変 えねばならぬ事 に立 ち至 りましたわい。私 はあの山輪 周英 の身辺 へギッシリ網 を張 り廻 したところ、先生 、ポンと、網 の中央 の穴 を潜 って抜 け出 られてしまいました。つまり彼 が凶行 の現場 に居 なかったという動 かす可 からざる明白 な証拠 が立 ちましたからな。彼 が兄 建志 の室 を去 って以来 、彼 は絶 えず誰彼 となく応接 して居 った。で、兄 の家 の屋根 へ攀 じ登 って刎出扉 から闖入 したのは、彼 の所業 であるという事 は言 われなくなったのです。斯 うなって来 ると、本事件 は実 に暗黒 な事件 であって、従 って私 の職業上 の信用 も危殆 に瀕 しています。で、是非 とも少 し御助力 を願 わんければならぬ仕儀 になって参 った。」 - 「
誰 でも他人 の助 けを籍 りねばならぬ場合 が出 て来 ますよ。」 - 「
貴君 の先生 の呉田 博士 は驚 くべき方 です。」と嗄 れた信用 を置 いた声 で「あの方 は点 の打 ち所 のない方 です。随分 今迄 に沢山 の事件 に御関係 のようであったが、呉田 博士 が着手 して未 だ解決 されなかったという例 を聞 かん。探偵 の方法 を申 せば不規則 で、何方 かと言 えば少 し性急 に理論 を組立 てなさる癖 がある。が、大体 に見 て、あの方 が若 し警官 であったら実 に理想 の探偵 になられたに違 いないとまで私 は思 います。実 は今朝 ほど博士 から電報 を頂 きましてな。何 か有力 な手掛 を得 た事 を知 りました。これがそうです。」 - と
懐中 から一通 の電報 を取出 して予 に渡 す。見 れば十二時 に両国局 から打 ったのである。文句 は「即刻 高輪 の本邸 に行 かれよ。予 が帰宿 し居 らざれば御待 ちあれ。犯人 の行衛 殆 ど探偵 成 る。若 し事件 の終局 を望 まば今晩 予等 と共 に出動 の御用意 あれ」という意味 である。 - 「これは
頗 る吉報 ですね。して見 ると確 にまた手掛 が付 いたに違 いない。」 - 「はア、すると
呉田 さんも一度 は失敗 なすったのですか。」と警部 は十分 満足 の色 を浮 べ、「最 も老練 の者 さえ時 とすると負投 げを喰 わされます。無論 今回 の事 は好 い警告 になるでしょうが、行政官 としての私 の義務 から言 えば決 して間違 いをしてはならぬ筈 なんです。ああ、誰 か来 たようですぜ。呉田 さんではないかな。」
一六、現 れ出 た蹌踉 の怪船乗 ――仮髪を取ればここは如何に
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階段 を登 り来 る重苦 しき跫音 がする。それに混 って如何 にも喘々 、ガラガラという息苦 しい呼吸使 いも聞 える。登 るのが大儀 なように一二度 止 まったが、漸 くのことで我々 の室 の扉 まで辿 り着 いたと見 えて入 って来 た。其者 を何 だと見 れば、今 の苦 しげの呼吸使 いに相応 しき人物 。もう余程 の年寄 にて、海員服 を纒 い、厚上衣 を咽喉 まで深 く釦 を掛 けている。腰 は梓 の弓 を張 り、膝 はガクガクとして定 まらず、確 に喘息持 ちらしいのが傷 ましい。手 にした樫 の棍棒 に凭 りかかり、ホッと息 をすると両肩 が高 まる。首 の周囲 には色 のついた襟巻 を深々 として居 るので、一双 の鋭 く黒 き眼 と、それをモジャモジャと覆 うた白 い眉毛 と、長 い灰色 の頰髯 との他 には確 と人相 を弁 えることも出来 ぬ。さはいえ一見 して老齢 と貧困 とに陥 りたる卑 しからぬ高等海員 の成 れの果 てとは首肯 かれる。- 「
御老人 、何 の御用 ですか。」 - と
訊 ねると、老人 の悠 くりした整然 の遣 り方 で、四辺 をグルリと眺 め廻 したが、 - 「
呉田 先生 は御在宅 でござるかの。」 - 「
博士 は只今 不在 ですが、私 が万事 を委任 されていますから、何 か御用 ならば承 って置 いて差支 えありません。」 - 「いや、
呉田 先生 へ直々 でのうては申上 げられぬ。」 - 「
併 し私 が代理 だと言 うたではありませんか。若 しや隅原 介作 の汽艇 の一件ではありませんか。」 - 「
左様 じゃ。俺 は汽艇 の所在 を能 う存 じて居 る。呉田 先生 の追跡 して居 なさる人々 の居処 も存 じて居 る。宝玉 の所在 も存 じて居 る。何 もかも残 らず存 じて居 る。」 - じゃ。
尚更 らお話 し下 さい。屹度 博士 に伝 えましょう。」 - 「いやいや、
直々 でのうては申上 げられぬ。」と癇癖 らしい頑固 で繰返 し繰返 し言 う。 - 「それならば
仕方 がありません。お待 ちになるだけです。」 - 「いやいや、
俺 は一日 無益 に費 すわけには参 らぬ。そうしたところで誰 の得 にもなりはせぬ。呉田 さんが御不在 ならばあの方 の不幸 、皆 な御自分 で探偵 なさらねばならぬのじゃ。御二人 ともそのような顔 をされても俺 は平気 じゃ。申上 げぬと言 うたら、一言 も申上 げぬ。」 - と
扉 の方 へノロノロ歩 き出 す。それへ立 ち塞 がった阿瀬田 警部 。 - ご
老人 、少 し待 って頂 きたい。貴君 は大切 な話 を知 って居 らるる以上 、ここを立去 ることは相成 らん。貴君 が不平 であろうと、あるまいと、呉田 さんの帰 る迄 は我々 は貴君 を留 め置 きます。」 老人 は扉口 へ向 って少 し走 り気味 にして見 たが、警部 が幅広 の背中 をそれに押 し当 てて塞 いでいるのを見 ると、抵抗 の無益 なことを知 り断念 めたらしい。- 「
怪 しからぬ為 されかたじゃ!」と杖 をトントンと突 き立 てつつ「俺 がここへ参 ったのは呉田 さんに会 おうが為 めじゃ。然 るに嘗 て御目 に掛 ったこともない貴君 がた御二人 が、年寄 を捕 まえて此様 な為 されかたというものは!」 - 「
只 御引留 めするだけで、何 も酷 い事 をしようというのではないから御安心 なさい。其 代 り貴君 に隙潰 しをさせた御礼 はします。まア余 り御手間 は取 らせませんから此 椅子 へお掛 けなさい。」 - と
慰 むれば、老人 は仏頂面 をして椅子 に戻 り、杖 の端 なる両手 の上 に顔 を休 ませた。阿瀬田 警部 と予 とは老人 を後 にして、再 び巻煙草 を吸 い、再 び談話 を続 けた。と、不意 に何処 からともなく博士 の声 が聞 える。 - 「
我輩 にも巻煙草 を与 れても好 さそうなものじゃ。」 予等 は思 わず吃驚 して椅子 から立 ち上 った。見 れば何時 の程 にか博士 は予等 の直 ぐ後 に、非常 に悦 に入 った顔 をして腰掛 けて居 るではないか。- 「
先生 じゃありませんか!先生 が何時 のまに……そして爺様 は何処 へ行 ったろう。」 - 「
爺様 はここに居 るよ。」と一塊 の白髪 を差出 して「ここに居 る――ソラ、仮髪 、頰髯 、眉毛 、其他 ゴタゴタ物 。我輩 はね、可成 巧 く変装 はしたつもりではあったが、このように両君 を欺 し完 せようとは思 わなかった。」 - 「ああ、とんだ
悪戯 です!」と警部 は頗 る興味 を催 して「貴君 は役者 にもなれますな。而 も名優 になれますな。あの養育院的 の咳嗽 の仕方 の巧 さなぞというものはない。それに其 ヨボヨボした脚 つきなぞは、正 に俳優 として一週間 千円 の価値 はありますな。只 争 われないのは貴君 の眼 の光 りです。頑固 に立 ち去 ろうとした時 [7]のあの眼 の光 りで怪 しいとは思 いました。」 博士 は巻煙草 に火 をつけながら、- 「
俺 は今日 一日 いまの変装 で活動 して来 た。御承知 の通 り、悪漢者 の可成 多 くが此頃 は俺 の顔 を見知 って来 た。だからたとえ簡単 でも此様 に仮装 せねば戦場 へ踏込 めぬ事 になったのです。貴君 は電報 を御覧 ですか。」 - 「
頂 きました、で、御訪 ね致 したわけで。」 - 「
事件 は何 の辺 まで御進行 ですか。」 - 「
総 て徒労 に終 りました。嫌疑者 の中 二名 は既 に放免 し、他 の二名 に対 する証拠 もまだ一 つも揃 わぬ有様 です。」 - 「
御心配 なさるな。其 残 った二人 の嫌疑者 の代 りに、二人 の真 の犯人 を差上 ましょう。併 し貴君 が俺 の命令 を御聴 き下 さらねば困 る。貴君 の職業上 の信用 というものは総 て尊重 しますが、俺 の御指定 する範囲内 で働 いて頂 かねばなりません。それを御承知 でしょうか。」 - 「
犯人 が縛 げられる事 なら何 なりとも御言葉 通 り働 きましょう。」 - 「
宜 しい。では先 ず第 一に一艘 の快速 な水上署 の端艇 ――汽艇 が要 ります。それを今晩 七時 迄 に新大橋 の埠頭 へ廻 して頂 き度 い。」 - 「それは
訳 も有 りません。彼処 には始終 一艘 居 る筈 です。併 し念 の為 め電話 で打合 せをして置 きましょう。」 - 「それから、
犯人 の抵抗 の時 の用意 に、丈夫 な人 を二人 用意 して頂 き度 い。」 - 「
船 にはいつも二三人 は詰 めて居 ります。それから。」 - 「
犯人 を縛 げさえすれば宝玉 が手 に入 るのです。その半分 は御承知 の丸子 嬢 に当然 属 すべきものゆえ、俺 は先 ず此 中沢 君 をして其 函 を嬢 の許 へ届 けさせたならば、中沢 君 は大悦 びだろうと思 うのです。つまり真先 に開 かせるのです。」 - 「それは
少 し不規則 なやり方 ですが……」と警部 は頭 を振 ったが、「いや併 し今度 は万事 が不規則 ずくめです。黙許 して差上 げなくてはなりますまい。其 代 り御済 みでしたならば公判 の終決 までは署 の方 へ御渡 しを願 われましょうな。」 - 「
無論 です。直 ぐにお渡 しします。それからも一 つ。俺 は今回 の事件 の詳細 なる真相 を簗瀬 茂十 自身 の口 から是非 聴 き度 く思 うて居 ます。御承知 でもあろうが、俺 は一事件 を底 の底 まで研究 せねば止 まない。で、犯人 を十分 警護 して居 る限 り、この室 に於 てか、若 くは他 の場所 に於 てか、俺 が犯人 と非公式 の会見 を遂 げても別段 差支 えあるまいと思 うのですが。」 - 「
宜 しい。貴君 は今 の場合 主人公 です。その簗瀬 茂十 とやらの存在 に対 する証拠 は、私 は未 だ一 つも握 って居 らぬのですが、その者 を貴君 が御縛 げになるとすれば、其者 との御会見 を私 が御妨 げする理由 は先 ずありますまい。」 - 「では、お
解 りですな。」 - 「
解 りました。まだ何 が御話 が厶 いますか。」 - 「
最後 の御注文 は、貴君 が我々 と晩餐 を共 にして下 さる事 を要求 します。なに三十分 で用意 は出来 るのです。今日 は蠣 と松鶏 と、上等 の白葡萄酒 とを用意 してあります。」
一七、機関士 、全速力 !――呉田博士等水上署艇にての追跡
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食事 は愉快 に過 ぎた。博士 は御機嫌 の好 い晩 は打 って変 って饒舌 になるのが癖 であるが、今夜 は其 御機嫌 の好 い晩 に当 ったのである。其 状態 がまるで神経 までも顫 え動 くというような悦喜 である。博士 が斯 く迄 快活 に振舞 うことは嘗 てないことだ。話題 は絶時 なしに夫 から夫 へと変 って行 く。――昔 の宗教 劇 から、中世 の陶器談 、有名 な伊太利 の音楽家 ストラジバリの製 ったヴァイオリンの価値 から、錫蘭 の仏教 の噂 、将来 の軍艦 の予想 から――どれにも此 にも特別 の研究 を遂 げたらしい顔 をして弁 じ立 てる、陽気 な滑稽 を交 えて話 す其 の話振 りが、此 二三日 の闇黒 な圧迫 に窘 められていた博士 に比 べると宛然 別人 の観 がある。阿瀬田 警部 も斯 る休養 の時 には天晴 社交 に長 じた紳士 である。若 しそれ予 に至 っては、流石 の怪事件 も終局 に近付 かんとするのを思 うだに意気揚々 たるものがある。予 も博士 に感化 れて大 に囃 いで了 った。食事 の間 は誰一人 事件 に言及 する者 もない。食卓 が清 められると、博士 は瞥 と懐中時計 を眺 め、三人 のコップに葡萄酒 を満々 と注 いで、- 「
我々 の小 冒険 の成功 を祝 して満杯 を挙 げてくれ給 え。ところでもう時間 は十分 熟 して居 る。中沢 君 、短銃 を持 って居 るか。」 - 「
机 の抽斗 に古 い軍隊 用 の短銃 が厶 います。」 - 「じゃそれを
用意 し給 え。万事 用心 に若 くはなしだから。自動車 ももう来 ている筈 だ。六時半 に来 るように約束 して置 いたから。」 予等 が新大橋 の埠頭 に着 いた時 は七時 を稍 や過 ぎていた。汽艇 は既 に待 ち受 けている。博士 はそれを仔細 に眺 めてから、- 「
此艇 には何 か一見 水上署 のだと解 る標 でも有 りますか。」 - 「
有 ります――舷側 のあの緑色 の燈 がそうです。」 - 「じゃ、あれを
外 して了 って頂 き度 い。」 船 に僅 な変化 が施 された。予等 一同 が甲板 へ乗 り移 ると、繋綱 を颯 と解 く。警部 と博士 と予 とは船尾 に腰掛 ける。他 に舵 に一人 、機関室 に一人 、逞 しき巡査 が二人 。- 「
行 く先 は?」と警部 が訊 く。 - 「
越中島 まで。彼処 の箱部 工場 の対 い合 いのところで止 めさせて下 さい。」 汽艇 は全 く快速力 を有 していた。荷物 を積 んだ伝馬船 をば後 から後 からと追 い抜 けて行 く。他 の船 は皆 な碇泊 して動 かないのじゃないかと思 われるくらいに速 い。一隻 の河蒸気 を遥 か後 に追 い抜 けた時 は、博士 も満足 そうに微笑 んだ。- 「
此 河 に浮 んでいるものは何 でも追 い付 く事 が出来 んでは困 る。」と博士 が言 う。 - 「そうも
行 かぬかも知 れませんが、併 しこの船 に勝 てる汽艇 は沢山 は有 りません。」 - 「
北光丸 は是非 共 捕 えねばならぬ。ところであの船 はやはり快船 といわれていますからね。……そこで中沢 君 、今迄 の我輩 の偵察 の順序 を話 して置 こう。君 は覚 えて居 るだろう、俺 が僅 た一 つの些細 の問題 の為 めにあんなに行 き詰 まってウンウン言 って窘 んだことを。」 - 「
覚 えて居 ります。」 - 「あの
挙句 俺 は断然 精神 を休養 させる必要 を感 じて化学 の分析 に取 り掛 ったのじゃ。英国 の大 政治家 の或 一人 は、最良 の精神 休養 法 は仕事 の変化 であると言 うて居 るが真実 であった。かねて行 りかけて居 った炭化水素 の分析 が其 の時 漸 う成功 したから、そこで再 び今回 の事件 に復 って熟慮 を費 して見 た。俺 の頼 んだ捜索隊 は、上流 下流 を普 く偵察 したけれども効果 が挙 がらぬ。北光丸 は何処 の物揚 げ場 にも、埠頭 にも影 を見 せず、さりとて錨地 へ立 ち戻 った様子 もない。斯 う手掛 が付 かなくなって来 ると、残 った推察 は曲者 が汽艇 を自 ら沈没 せしめたのじゃないかという事 である。其 推察 は絶 えず胸 に起 ったが、そこまでは断行 出来 まいと推察 される節 もある。元来 この茂十 なる犯人 は或 程度 までは小刀細工 の出来 る男 であるということは知 って居 る、けれども到底 大 策略家 の器 と考 えることは出来 ぬ。大 きな術策 を弄 する奴 は、もう少 し高等 の教育 を受 けた者 に限 るからね。我輩 はまた此様 な事 に気 がついた、それは彼 が時々 東京 へ来 た事 がある故 に――その証拠 は彼 が山輪 家 に絶 えず注意 を払 うて居 った事実 で解 るが――彼 が凶行 後 直 ちに東京 を去 ったとは思 われぬ、仮令 僅 か一日 であったにせよ兎 に角 善後策 を講 ずるために相当 の時 を要 したろうと思 う。何 れにせよ其様 に見込 をつけるのが公平 であるのだ。」 - 「それは
少 し薄弱 な観察 ではないでしょうか。犯罪 に着手 する前 にそのくらいな善後策 は講 じて置 きそうなものだ、と見 るのが至当 ではないでしょうか。」と警部 がいう。 - 「
否 、俺 はそうは思 わぬ。彼 の隠家 というものは万一 の場合 には彼 に取 って頗 る大事 な処 であって、それが無 くても身 が安全 だという迄 になれば格別 、さもなくば容易 に見棄 てるような隠家 ではない。然 るに此処 にまた此 の様 な第 二の考 えが俺 の胸 に起 きた。彼 簗瀬 茂十 の同類 の奴 がじゃ、外人 で而 も特別 は容貌 風采 の男 が何 のように深 く外套 で身 を隠 して居 ろうとも、人 の眼 に付 かずには済 むまい、従 うて今回 の殺人事件 と関係 あるものと観破 され易 い、と斯 う茂十 が感 じたのである。事実 彼 はその位 な先見 の明 はある男 である。で、彼等 は闇 に乗 じて其 本営 から脱 け出 し竟 にあの様 な凶行 を遂 げたが、茂十 は夜明 けぬ中 に隠家 へ帰 るつもりであったろうと思 う。処 で船宿 の隅原 の女房 の言葉 によれば、彼等 が汽艇 で乗 り出 したのは午前 三時 過 ぎであったと言 う。午前 三時 過 ぎと言えば、もう夜明 に間 もなく、一時間 もすれば世間 も起 き出 でる。彼等 が余 りに遠 く迄 逃 れ得 なんだと俺 が見込 みを立 てたのは此処 の事 である。彼等 は隅原 に金轡 を穿 ませて其 口 を緘 じ、最後 の逃走 用 に其 汽艇 を出 させ、盗 んだ宝玉函 を以 て隠家 へ急 いだのだ。そして二日間 ほどは、新聞 記事 の様子 、自分 等 に関 する嫌疑 の形勢 なぞを見 て、やはり暗夜 でも利用 し、横浜港 か何 ぞに碇泊 の或 汽船 に乗 って亜米利加 か、或 は何処 かの植民地 にでも突走 る企劃 であったのである。」 - 「
併 し汽艇 の始末 はどうするでしょう。まさか汽艇 を宿屋 まで持 ち込 むわけには行 きますまい。」 - 「それは
無論 のことだ。俺 の見込 みでは、汽艇 は随分 巧 みに姿 を隠 してはいるけれども、余 り遠 くには行 って居 まいと睨 んだ。で、俺 は仮 りに茂十 の位置 に身 を置 き、茂十 と同 じ程 の頭脳 の男 となって形勢 を考 えてみた。すると、汽艇 を隅原 物揚 げ場 へ戻 しても、また何処 ぞの埠頭 に碇泊 させて置 いても危険 である。何故 と言 えば万一 警官 が自分 等 を追跡 する場合 には容易 に足 がつき易 い。このくらいな理 は茂十 も気付 いたに定 まっている。然 らば汽艇 を隠 す手段 はどうしたものであろう、また何時 でも必要 に応 じて使用 出来 るようにして置 くには何 のような工夫 を凝 らしたものか。茂十 であったらば此 難問題 を如何 に解決 したろう。それには只 一個 の方法 がある。少 しばかり手 を入 れて貰 いたいと言 うので、汽艇 を何処 ぞかの造船所 か、修繕所 へ托 することである。すれば自然 仮庫 、若 くは工場 の中 へ移 される、一時 船体 が人目 から隠 れる、同時 にいつでも随意 に使 われる。」 - 「なるほど
簡単 な理窟 ですな。」 - 「
此様 な簡単 な理窟 を人 は往々 見逃 し易 いものである。が、俺 は其 考 えで押 しと通 そうと決心 して直 ぐに海員 に変装 し、凡有 る船着場 の偵察 に着手 した。その結果 十五番目 までは無益 であったが、十六番目 ――つまり箱部 の造船所 だね――彼処 へ行 くと初 めて解 った。二日 以前 に一人 の片脚 の男 が、舵 を少 し直 して貰 いたいと言 うて北光丸 を工場 に頼 んだそうだ。『舵 には何 にも傷 んだ個所 なんざ有 りやしません。そこに在 る赤筋 入 りのあれが北光丸 です』と職工長 が指 し居 った。其折 にじゃ、一人 構内 へ入 って来 た男 がある。これが行衛 不明 になっていた隅原 介作 さ。酒好 きだと見 えて酔払 うて居 った。俺 は無論 初 めて遇 うた男 だから、彼 が自分 の口 から其 姓名 と汽艇 の名 とを喋 らなければ、終 にそれと知 る由 もないところであった。然 るに彼 は『今夜 八時 迄 に修繕 して貰 いたいんだがね、八時 きッちりに。実 は何 だ、船 の出来上 るのを待 って厶 る方 が二人 あるんだ。』などと言 うのさ。犯人 等 は確 に彼 に金轡 をはませたね。沢山 金 を持 っている様子 で、職工 等 に惜気 もなく銀貨 を振 り撒 くのだ。で少 し後 を跟 けて見 たけれども、其 うちに一軒 の麦酒 ホールへ消込 んで終 うたので、また造船所 へ帰 ろうとすると、途中 で俺 の雇 うている一人 の捜索隊 の少年 に遭遇 うた。で、それをば暫時 北光丸 の監視役 として、河岸 に見張 らせ、若 し船 が立 ったらば我々 に手巾 を振 って合図 することに手筈 を定 めて来 たのだ。で、先 ず其辺 に舟 を近 づけて形勢 を見 ねばならぬが、これほどに用意 して、犯人 も宝玉 も何 もかも捕 れぬようであったら不思議 の事 と言 わねばならぬと思 う。」 - 「いや、それは
真正 の犯人 で有 る無 しの奈何 に係 らず、貴君 の御工夫 は非常 に結構 でありました。」と警部 が言 った。「併 しですな、若 し私 が其 場合 に立 ったとしたならば、私 は箱部 の造船所 へ一隊 の警官 を向 けて、彼等 が来 たらば捕縛 させて終 いますな。」 - 「それは
以 てもほかの拙策 です。此 茂十 なる者 が仲々 抜目 のない奴 ゆえ、必 ず予 め哨兵 の一人 ぐらいは出 して置 く。そして少 しでも胡散臭 いところが有 れば、もう一週間 ぐらいは隠家 に蟄居 するのです。」 - 「
併 し、隅原 介作 を捕 まえて、彼等 の隠家 に案内 させれば好 かったかも知 れません」と自分 は言 った。 - 「そうする
時 には、また一日 を費 さねばならぬ。それに隅原 は九分 九厘 までは彼等 の真 の棲家 を知 らぬと見 た。隅原 という奴 、酒 と金 とがありさえすれば、何 で彼等 の隠家 なぞを聞 く必要 が有 ろう。用事 があれば茂十 等 の方 から使 いを出 すに定 まってる。我輩 も凡有 る手段 を考 えないではない。其 結果 やはり今 話 した策 が最上 と考 えたのだ。」 斯 く語 り合 う間 に、船 は永代橋 を潜 り越 えて、いつしか越中島 に来 た。博士 は左岸 の方 の帆檣 林立 の辺 を指 し、- 「あれが
箱部 の造船所 だ。幸 い此 数多 の達磨船 の陰 に隠 れて此辺 を静 かに遊弋 していて下 さい。」 - と
懐中 より照夜鏡 を取出 して、暫時 岸 の方 を視察 して居 たが「俺 の哨兵 が彼処 に見 える、が、手巾 の合図 はない。」 - 「どうです
呉田 さん、少 し下流 へ下 って待 ち構 えては。」 - と
阿瀬田 警部 が熱心 に言 う。独 り警部 のみならず、予等 は此時 残 らず興奮 して居 た。勿論 巡査 も、事情 を知 らぬ火夫 等 までも。 - 「そりゃ
多分 下流 へ行 くでしょう。が、それも確定 しては居 らぬ。此処 からならば造船所 への入口 が監視 されて、而 も向 うからは此方 が見 えぬ。今夜 は霓 れて、船 の燈 も多 くなるでしょう。矢張 り此辺 に見張 って居 らねばならぬ。彼処 を見給 え、人間 の陰 がガスの燈影 に見 えるから。」 - 「
工場 から帰 る職工 でしょう。」 - と
自分 は答 えた。 - 「
手巾 はまだ見 えぬかな。ああ、彼処 に何 か白 い物 がヒラヒラするぞ。」 - 「そうです、
確 に先生 の命 じた見張番 です。判然 見 えます。」 - 「そして
北光丸 も居 るわい。」と博士 が叫 ぶ。「まるで鬼火 のように飛 んで行 くじゃないか!機関士 、全速力 !あの黄 い燈 の汽艇 に追 い付 いてくれ。己 れ、此方 を駈 け越 すようであったら承知 はせぬぞ……」
一八、物凄 き水上 の大活劇 ――恐ろしき犯人の捕縛と黒奴銃殺
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実 にも北光丸 は何時 しか密 に造船所 の構内 入口 を抜 け出 で、二三艘 の小船 の後 を過 ぎて行 くのであった。其 為 め予等 の気付 かぬ間 に充分 快速力 を出 す事 が出来 、今 や岸 に添 うて疾風 の如 く下流 へ航走 する。阿瀬田 警部 はその姿 を熟 と厳 かに見詰 めて、頭 を振 りながら、- 「
非常 に疾 い。追付 けるか知 ら。」 - 「いや、
是非 とも追付 かねばならぬ!火夫 君 !ドンドン焚 いてくれ!全速力 を出 してくれ!此方 の船 は焼 けて終 うても、あれをば捕 えねばならぬ!」 - と
博士 が力 む。 予等 は今 陣容 を整 えて北光丸 追跡 の途 に就 いた。火炉 は咆哮 し、強大 なる機関 は或 はピューピューと鳴 り、或 は金属きんぞく 製 の大 心臓 ででもあるかの如 くカタンカタンと響 きを立 てた。鋭 く尖 った船首 は静 かなる河水 を劈 いて、左右 に二条 の波 を転 がさせる。機関 の一鼓動 ごとに、船 は生物 のように跳躍 し戦慄 した。船首 に点 けた一個 の大 なる黄色 の舷燈 は、予等 の行手 に一条 の長 き飄揺 する漏斗状 の光 を投 げた。前方 の右方 に当 って水上 の一点 の黒影 こそは北光丸 の船体 である。其 後 に曳 く白 き泡沫 の渦巻 は、如何 に彼 の船 が疾 く駈 けりつつあるかを示 して居 る。予等 は伝馬船 、汽船 、商船 等 を乗 り越 えた。彼 を右 にし、此 を左 にし、一船 の後 に出 で、一船 の周囲 を繞 り、何処 までも何処 までもと追跡 する。- 「
焚 いてくれ!焚 いてくれ!」と博士 は機関室 を覗 き込 み「蒸気 を有 りッたけ出 してくれ。」と怒鳴 る。其 熱心 な鷲 の如 き顔 は、下 から来 る烈 しい火気 に真紅 に輝 いた。 - 「
幾分 は近 くなったようです。」 警部 は北光丸 より眼 を放 たずに斯 く言 った。予 も、- 「
確 かに接近 しました。もう五、六分 も経 ったら追付 きます。」 然 るに何 たる不幸 ぞや。此時 しも三艘 の小船 を曳 きたる一艘 の曳舟 が我 と敵 との間 に混 り込 んだ。舵 を転 じて危 く衝突 だけは免 れたが、それを繞 って再 び前 の航路 についた時 は、北光丸 は既 に優 に六百尺 を距 てていた。併 しながら船体 は未 だ判別 が出来 る。そして暗 く朦朧 たる黄昏 の光 は沈 んで、却 て晴明 なる星月夜 となった。我 が機関 は極力 緊張 された。脆 き船 は鋭 き精力 の為 めに振動 し、軋 みつつ予等 を驀進 させた。既 に石川島 の造船所 を遥 か後 にし、佃島 の渡 を過 り、かちどきの渡 を越 え、今 や浜離宮 の裏 を駈 けつつある。前方 の模糊 たる黒斑点 は此時 紛 れもなく凄愴 なる北光丸 の姿 を現 し、炳然 として眼 を搏 った。阿瀬田 警部 は探照燈 を向 けた。かの艇上 の人物 は歴々 として能 く分 る。其 船尾 [8]には一人 の男 がゐる。男 は膝 の間 に何 やらん黒 き物 を挟 み其上 に屈 み掛 って居 る。其傍 には一疋 の犬 とも見 ゆるやはり一塊 の黒 き物 が蹲 まっている。一人 の少年 は舵柄 を握 っている。そして火炉 の灼熱 の光 を受 けて、腰 まで裸 となり、懸命 に石炭 を投 げ入 れつつあるのは隅原 の老爺 である。彼等 は初 こそ、予等 が果 して追跡隊 なるや否 やを疑 うものの如 くであったが、走 る方 に走 り、曲 る方 に曲 りつつ追 いゆくのを見 たる今 にあっては、最早 寸分 の疑念 を挟 まず、愈々 それと見極 めたらしい。既 にして、敵 を距 る約 三百歩 、更 に一層 接近 して二百五十歩 となった。予 は随分 狩猟 をなし、獲物 を追 い掛 けた経験 もあるけれども、今 獰悪 なる犯人 を追跡 する此 狂猛 なる狩猟 の如 く予 の心 に刺激 を与 うるものはなかったのである。我 が船 は着々 として堅実 に一歩 一歩 と追 い迫 る。夜 いと闃寂 なれば、敵艇 の機関 の喘 ぎと響 きとを聞 く事 が出来 る。船尾 の男 は依然 として甲板 に屈 み、何 やらん忙 しげに両手 を動 かして居 る。動 かしつつ時々 目 を挙 げては両艇 の距離 を目算 するものの如 くである。接近 、また接近 。阿瀬田 警部 は既 に、- 「
止 まれ!コラ、止 まれ!」 - と
怒鳴 っている。 距離 漸 く減 じて僅 かに四艇身 、両艇 の走 る事 矢 の如 く雲 の如 し。予等 の叫声 に連 れ、件 の船尾 の男 は甲板 に突立 ち上 り、甲高 き亀裂 の入 った如 き変妙 の声 にて罵 りつつ、我 が船 に向 けて握拳 を振 り廻 した。堂々 たる偉丈夫 である。が、両足 を踏張 って突立 った其 姿勢 を不図 見 れば、驚 くべし、其 右足 の腿 より下 は樹 の脚 ではないか。此男 の甲走 った怒号 に連 れて、甲板 の上 に横 って居 た一塊 の怪物 が動 き出 した。見 る見 る長 まったところを見 れば、怪物 は変 じて一個 の小 さき黒奴 となったのである。それは嘗 て見 ざるほどの矮人 にて、頭 ばかりは不格好 に大 きく、一束 の蓬々 たる乱髪 を冠 って居 る、怪漢 。博士 は既 に短銃 を構 えている。予 も此 野蛮人 の姿 を見 ると自分 の短銃 を取出 した。彼 の矮人 は毛布 の如 き物 に纏 まり、僅 に顔面 のみを露 わしているのであるが、其 顔面 を見 たるのみにて確 に一晩 は魘 される代物 である。凡有 る獣性 と残忍 とを斯 く迄 深 く備 えた容貌 を予 は未 だ見 た例 がない。其 小粒 の眼 は陰気 なる光 に燃 え輝 き、其 厚 き唇 は後 に反 り返 りて歯 を露出 し、半 ば動物的 の狂猛 を以 て予等 に向 い或 は嘲笑 し、或 は喋々 するのであった。- 「
彼奴 が手 を挙 げたら撃 っ放 せ。」 - と
博士 は落着 いて言 った。 両艇 はますます接近 して既 に一艇身 の差 となった。獲物 に手 を触 れたも同然 である。二凶漢 の立姿 は眼前 にある。茂十 は相変 らず足 を踏張 って罵 り叫 び、穢 わしき一寸法師 は我 が船 の光 に醜 いを顔 を挙 げ、厳丈 な黄 い歯 を剝 き出 して睨 めて居 る。此様 に黒奴 の姿 が判然 見 えているのが幸福 であった。さもなくば、彼 が毛布 の下 から簿記棒 の如 き一本 の短 き丸木 を取出 して口 に当 てたのを、危 く見逃 すところであった。それと同時 に予等 の短銃 が一斉 に響 き渡 る。と、黒奴 の体 はクルクルと回転 した。両腕 を差出 して、咽喉 の塞 まるような咳嗽 をしたかと思 うと、ドタリと倒 れて其儘 ドブーンと水中 に顚落 した。白 い渦巻 の中 にその毒々 しい、人 を脅 かすような眼 が瞥乎 と見 える。斯 くと見 た片脚 の男 は舵 に飛 び付 いてギーと廻 す。船 は南岸 に真直 に突掛 けようとする。我 が船 は敵艇 の船尾 五六尺 の辺 を擦 れ擦 れに通 って、直 ちに敵 に迫 らんとしたが、既 に遅 し、北光丸 はもはや殆 ど埋立地 の岸 に乗上 げんとするところである。此辺 は人里 離 れた荒寥 たる岸 である。其処此処 に水 の澱 んだ溜 と、うら枯 れた植物 とが入混 った一面 の広 き泥海 の上 に月 が輝 いている。此 泥堤 を眼掛 けて北光丸 は今 しも一声 の鈍 きドサリと言 う音 と共 に乗上 げたから、船首 は空 に向 い、船尾 は水 に落 ちた。犯人 は直 ぐに甲板 から飛降 りた。が、足 はズゴズゴズゴと泥土 の中 に沈 んでゆく。それを抜 こうとして悶 いたり体 を捻 ったりするが益々 沈 むばかり、前 へも後 へも一歩 も動 かばこそ、力 なき声 にて怒 り罵 り、丈夫 の方 の足 にて狂 わしげに泥 を蹴立 てるのであるが、蹴 れば蹴 るほど片方 の木 の足 は、粘々 した泥 の中 へ陥込 むばかりである。予等 が辛 うじて船 を寄 せた頃 には、彼 は全 く泥濘 に吸 い付 けられていた。止 むを得 ず一条 の捕縄 をばさっと彼 の首 に投 げ、鮫 でも引張 る様 に引寄 せるよりほかに策 がなかった。隅原 父子 は陰気 な面 をして汽艇 の中 に在 ったが、命 ずるままに、柔順 に此方 の船 に乗 り移 った。北光丸 を皆 して漸 く岸 より引 き下 ろし、我 が船 の船尾 に緊 く結 び付 けた。印度 細工 の一個 の堅固 なる鉄函 が甲板 に置 いてある。これは疑 いもなく、彼 の山輪 家 の不吉 な宝玉 を入 れてある函 であろう。鍵 は一 つも付 いて居 らぬ。非常 に重量 がある。で、予等 は注意 して自分 等 の狭 い船室 にそれを移 した。斯 くして静 かに船首 をめぐらして流 れを遡 り始 めたが、探照燈 にて四方 を照 し見 ても、彼 の黒奴 は影 も形 もない。恐 らく水底 深 く暗 い軟泥 の何処 にか血 を吐 いて横 っているのであろう。- 「
此処 を見給 え。あの時 丁度 に短銃 を撃 ってまア好 かった。」 - と
博士 は木 の艙口 を指 して斯 う言 った。 成程 、予等 が立 っていた直 ぐ後 の所 に、例 の見慣 れた凶悪 なる毒矢 が一本 突 き刺 さっている。予等 が短銃 を撃 った其 瞬間 に、ビューと飛 んで来 て二人 の間 を突 き抜 けたものに違 いない。博士 は毒矢 を眺 めて微笑 み、例 の調子 で一寸 肩 を聳 かしたに過 ぎなかったが、予 は怖 しき死 の手 が斯 く迄 近 く身辺 を襲 うていた危 さを想 うと、流石 に慄然 たらざるを得 なかった。
一九、兇悪 なる船室 内 の犯人 ――宝玉函の陸上げ
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犯人 茂十 は船室 内 の鉄函 、彼 が多年 苦心 惨憺 して獲 んと欲 した其 鉄函 に相対 して坐 った。打見 たところ顔 は日 に焼 け、眼 に落着 きがなく、大皺 小皺 は網 の目 よりも繁 く、いかにも過去 の難渋 なる戸外 の生活 を経 て来 た面影 を語 っている。髯武者 の頤 が奇妙 なる形 に突出 ているが、これは概 ね我 が目的 に執着 する男 の人相 である。黒 く縮 れた頭髪 に厚 く霜 を置 いたところで見 れば、年輩 は五十前後 でも有 ろうか。其 重々 しき額 と喧嘩好 きらしい頤 とは、先程 見 た通 り憤怒 に乗 じた時 には、一種 の怖 るべき印象 を与 えるけれども、平静 なる時 の顔付 は夫程 不愉快 な感 じも起 させぬ。今 や彼 は手錠 を嵌 められた両手 を膝 にし、頭 を胸 に垂 れて坐 っている。が、鋭 く瞬 く眼 は、我 が悪行 の基 をなせし鉄函 を眺 めている。其 ギクギクした、鬱憤 を抑 えたいやな顔 には、憤怒 と言 うよりも寧 ろ悲哀 の方 が多 く浮 き出 ているように予 には見受 けられた。- 「さて
簗瀬 茂十 。」と博士 は巻煙草 を点 けながら「とうとう此様 な始末 になったのは気 の毒 であるな。」 - 「ヘエ、
私 もそう思 うんで、ヘエ。」と茂十 は淡泊 に答 える。「私 ア旦那 、神様 に盟 って申 しますが、私 にゃア彼 の山輪 の兄子息 に対 してコレンばかりも抵抗 う気 はなかったんですぜ。それを彼 のまア怖 しい毒矢 を射掛 けたのは、矮人 の黒奴 の頓迦 の畜生 でさア。旦那 、全 く私 アそれにゃア少 しも関係 はありません。却 て親類 でも殺 されたくらいに悔 みましたよ。私 ア其時 黒奴 の畜生 を縄 の端 で打 ッ叩 いたのです。でも為 て終 ったことは為 て終 ったことで取 り返 しがつきませんからねえ。」 - 「
巻煙草 を吸 うか。それからお前 は酔 うて居 るようだから、俺 の水筒 の水 を一杯 飲 んだが好 かろう。一体 、あの黒奴 のような小男 が、山輪 建志 を取 っ占 めて、お前 が縄 を伝 うて登 って来 る間 押 え付 けて居 られると、お前 はどうして思 うたのか。」 - と
博士 が問 えば、 - 「
旦那 ア宛然 あの晩 の事 を見 ていたように仰有 いますね。実際 のところは私 ア室 の空 いている時 に入 り度 かったのです。私 アあの家 の様子 を能 く知 っていましてね。あの時 は丁度 毎時 主人 が夕飯 喰 いに階下 へ降 りてゆく時間 に当 った筈 なんです。と言 うのは、敵手 が死 んだ山輪 少佐 だったら文句 もなく飛 び掛 ります。どんな陰険 な手段 を用 いても打 ち殺 す位 のことは朝飯前 なんですけれど、さて敵手 が罪 も怨 みもない兄息子 と来 て居 るから、それを酷 い目 に遇 わすのはいかにも不憫 ですからねえ。」 - 「お
前 は警視庁 の阿瀬田 警部 の監督 の下 にあるのじゃ。警部 さんはお前 を高輪 の俺 の邸 に連 れて行 かれる筈 であるから、其時 に俺 はお前 に事件 の真相 を訪 ねる積 りである。お前 も包 み隠 さず申 し述 べるが好 いぞ。そうすればまたお前 の利益 を計 ってもやれると言 うものだ。俺 の考 えではあの毒矢 はまだお前 が室 へ行 き着 かぬ前 に建志 が斃 れて了 うたほど疾 く働 いたに違 いない。そう考 えらるる証拠 もあるが何 うだ。」 - 「
全 く旦那 其通 りでしたよ!私 が縄 を登 って行 って窓 から不図 顔 を出 すと、貴君 、毒矢 を刺 された主人 が頭 をこうダラリと肩 に垂 れて、私 の方 を向 き歯 を剝出 しましたがね、其時 の可厭 な心持 というものは生 れてから初 めてでしたよ。私 ア思 わずブルブル顫 えましたね。余 まり忌々 しいから頓迦 の奴 を打 ち殺 してやろうとすると、先生 慌 て狼狽 めいて逃出 して了 いましたが、後 から聞 けば其 為 めに石 の頭 のついた道具 やら毒矢 の袋 やらを忘 れて来 て了 ったそうで、私 の考 えじゃア、まア旦那 が私達 に目 を御附 けになったのも其 お蔭 だと思 いやす。と言 ってそれについても私 が旦那 をお怨 み申 す筋 は一 つも厶 いませんがね。ただ我 ながら不思議 なのは」と傷 しい微笑 を浮 めて、「不思議 なのは、ざっと五十万円 だけは手 に入 れる正当 な権利 のある私 が一生 の半分 は印度 の安陀漫 島 で防波堤 を築 く為 に送 って了 い、今日 から後 の半分 をどうせ今度 の罪 でまた溝掘 りでもして送 らなけりゃアならないという事 です。考 えて見 れば私 が商人 の滅土 に遇 って宝玉 に目 を付 けなけりゃならないようになったのが抑 も私 にとっての悪日 、あの宝玉 と来 ちゃア其 持主 の上 にさえ不孝 を降 らしたほか何 にも役 には立 たなかった。と言 うのは持主 は其 為 めに命 を殞 とし、山輪 少佐 に取 っちゃア一生 の恐怖 の種 、罪 の種 となり、私 にゃまた一生 の奴隷 の種 となりました。」 此時 狭 い船室 にはだだッ広 い顔 と太 い肩 とを突 き出 したのは阿瀬田 警部 。- 「
一家団欒 という有様 ですね。呉田 さん、私 も一パイ頂戴 しても宜 しいでしょう。まったく祝杯 を挙 げても好 いですぞ。ただ黒奴 を生擒 りにせなんだだけが残念 だが、あの場合 仕方 もない。呉田 さん、あの時 の貴君 の艇 の御手際 は、内心 御自慢 でしょう。我々 はただ追及 するのが精一 パイでしたからなア。」 - 「
凡 そ計画 の成功 不成功 と言 うものは其 結果 から判断 すべきもので、途中 の困難 や不幸 を目勘定 に入 れるものではないのです。」と博士 は格言 めいた事 を言 い「併 し北光丸 があのように快速力 が有 ろうとは俺 も意外 でした。」 隅原 の言 う所 によれば、北光丸 は大河中 の最 も速力 のある船 で、今夜 なぞも機関 にもッと手伝 いが有 れば決 して追付 かれなんだと言 うています。それに今回 の強盗 殺人事件 は自分 は少 しも知 らぬと盟 うていますよ。」- 「そりゃ
真実 です。」と茂十 が叫 んだ。「私達 が北光丸 が速 いと聞 いて其奴 を撰 んだだけです。隅原 の爺様 には何 にも話 しちゃアありません。ただ謝礼 は沢山 しました。私達 が横浜 に碇泊中 のブラジル行 きの汽船 のタコマ丸 に無事 に乗込 めたらば、尚 お謝礼 をする筈 でした。」 - 「
好 し、爺様 に罪 がなければ罪 を被 せないだけじゃ。我々 は犯人 を挙 げるには速 やかったけれども、人 を罰 するにはそう速 く無謀 な事 はせん。」 尊大 な阿瀬田 警部 がもう犯人 の前 に威張 り出 したのが面白 い。博士 も内心 そう思 うと見 えて微 な微笑 を浮 べている。警部 はそれとも知 らず言葉 をつぎ、- 「もう
直 き永代橋 です。中沢 さん、貴君 と宝玉函 とは其処 で御上陸 しましょう。今更 申上 ぐる迄 もないが、此 処置 については私 が非常 な責任 を帯 びています。実 に不規則 の処置 です。が、御約束 は御約束 ですからなア。併 し貴君 は頗 る高価 な荷物 を御抱 えになるわけだから、職務上 一名 の巡査 を附 して上 げぬわけには行 きません。無論 馬車 で御出 ででしょうな。」 - 「
左様 、馬車 で行 きます。」 - 「
鍵 がなくて、我々 が真先 に検査 することの出来 ぬのは遺憾 です。貴君 は打 ち壊 さなければなりますまい。コレ、鍵 はどうしたか。」 - 「
河 の底 にありますよ。」 - と
茂十 は澄 ましたもの。 - 「ふム!そんな
無益 な手数 を掛 けんでも好 いじゃないか。お前 を捕縛 するだけでもいい加減 骨 を折 らせられたぞ。いや、中沢 さん、申 す迄 もなく注意 して行 っていらっしゃい。」
二〇、此 は如何 に?此 は此 は如何 に ――嗚呼、宝玉は藻抜けのから
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永代橋 へ来 ると、予 は鉄函 と、一人 の武骨 ある温和 しき巡査 と共 に上陸 した。其処 より凡 そ一五分間 も馬車 を駆 ると、明石町 なる濠田 夫人 の邸 に着 く。女中 は時 ならぬ夜 の客 に驚 いたらしかった。夫人 は外出 して帰 りは遅 からんとの事 。併 し丸子 は客間 に在 りとの事 に、巡査 をば馬車 に残 しおき、鉄函 を抱 えて客間 へと入 って行 った。丸子 は頸 と腰 とに僅 ばかり紅色 を施 したる白 き透明 の衣 を纏 うて、開 いた窓際 に腰掛 けていた。覆 いを掛 けたランプの光 は藤椅子 に倚 れる彼女 の上 に落 ち、其 美 しくも打沈 める顔 の上 に逍遥 い、房々 としたる頭髪 の豊 なる渦巻 に微暗 き黄金 の如 き閃 きを帯 ばしめた。雪 を欺 く手 の片方 は椅子 の外 にダラリと垂 れている。総 じて其 姿勢 も恰好 も正 にこれ心 を吸込 まるる如 き憂鬱 の化身 である。- が、
思 わぬ予 の跫音 にアナヤとばかり立 ち上 った。驚愕 と嬉 さと明 い閃光 が、蒼白 い頰 を颯 と染 める。 - 「
只今 馬車 の音 が聞 えましたから、夫人 が大層 早 く御帰 りだと思 っていましたが、貴君 とは夢 にも思 いませんでしたわ。今頃 何 か変 ったことでもお有 りになって?」 変 った事 ぐらいの騒 ぎではない。今夜 は非常 に好 い御土産 を持 って来 ましたよ。」- と、
鉄函 をば卓子 の上 に置 いて斯 う言 った。 心 は重 く沈 んでいるが、表 はさも快活 げに騒々 しく「世界中 の凡有 る珍聞 に値 するほどの物 ですよ。私 が持 って来 たものは財産 です。」丸子 は瞥 と鉄函 を眺 め、- 「では、それがあのお
話 の宝玉 で厶 いますか。」 - と
意外 に冷淡 なもの。 - 「そうです。これが
印度 の宝玉 です。半分 は貴女 の、半分 は山輪 周英 君 のです。まア考 えて御覧 なさい!若 い婦人 で貴女 より金持 の人 が貴女 の本国 の英国 に沢山 ありますか。実 に美事 なわけじゃありませんか。」 予 は少 し祝賀 の辞 を誇張 し過 ぎたに違 いない。予 の言葉 の中 に不信実 の響 きのあるのを丸子 は悟 ったと見 え稍 や眉毛 を挙 げて不思議 そうに予 の顔 を瞥見 し、- 「
若 しそうなりますれば、貴郎 のお蔭 で厶 いますわ。」 - 「いやいや、
私 ではない、私 の先生 、呉田 博士 のお蔭 です。先生 が分析的 天才 の頭脳 を用 いて漸 く目的 を達 したので、私 なぞであったらば世界中 の応援 を得 ても一 つの証拠 さえ発見 する事 が出来 なかった位 です。」 - 「どうぞお
掛 け遊 ばして、其 模様 をば御話 下 さいまし、中沢 様 。」 - で、
予 は此前 彼女 と別 れた以来 の出来事 を略 と物語 った。――呉田 博士 の新偵察法 、北光丸 の発見 、阿瀬田 警部 の訪問 、東京湾上 の敵艇 追跡 、と順 を追 うて話 してゆくと、丸子 は唇 を開 き眼 が輝 かせて聴 いていたが、黒奴 の毒矢 が危 く予等 の間 を掠 めて飛 んだ其 最後 の一幕 を語 ると見 る見 る顔色 を変 えて、気絶 するかと思 われたので、予 は驚 いて駆 け寄 り、水 を飲 ませようとすると、 - 「いえ、
何 とも厶 いませんの。もう快 くなりましたの。私 は私 の為 めに皆様 がそのような危険 な目 にお遭 いなされたと思 うと、ハッと胸 を撲 たれてどう致 そうかと思 ったので厶 いますよ。」 - 「なに、もう
何 もかも過 ぎ去 ったことです、何 にも御心配 には及 びません。もうそんな陰気 な話 は止 めて、もっと明 るいことに移 りましょう。ここに宝玉 があるじゃありませんか。このくらい光明 の種 になるものがありましょうか。私 は何 でも貴女 に真先 に見 て頂 き度 い。貴女 も満足 なさろうと思 って、こうして許可 を得 て持 って来 たのです。」 - 「はア、
私 には何 よりの満足 で厶 いますわ。」 - と
言 ったが、どうも声 に熱心 の響 きがない。自分 でも其様 に骨 を折 って手 に入 れて来 て貰 った宝玉 に対 して、余 り冷淡 な態度 をするのは無礼 に見 えるだろうと悟 ったのか、 - 「
何 という綺麗 な函 で厶 いましょう!」と屈 み掛 って函 を賞 め出した。「これが印度 細工 と申 すので厶 いますか。」 - 「そうです、これが
有名 な印度 のペナレス市 の金細工 です。」 丸子 は些 と手 を掛 けて見 て、- 「まア!
重 いこと!これは函 だけでも大 したもので厶 いますのね。鍵 はどこに厶 いまして?」 - 「
犯人 の茂十 が大河 の底 へ投 げ入 れて了 ったそうです。だから夫人 の火箸 でも拝借 しなくては。」 函 の前方 に、仏陀 の坐像 を彫 った厚 い広 い鐉 がついている。其 下 へ予 は火箸 の端 を突込 み、桿杆 か何 ぞのように外部 へ捻 じ曲 げた。鐉 はパチンと音 して飛 び離 れる。其 蓋 を顫 える手 で後 へ跳 ねた。と、二人 は思 わず吃驚 して立 ち縮 んだ。函 は空虚 であった!宝玉 は影 も形 もない。重 かったのは不思議 でない。グルリと三分 の二 吋 の厚 さある鉄細工 で出来 ている函 だ。堅牢 無比 、貴重品 運搬 の櫃 も及 ばぬ厳然 したものであるが、内 には金属 の一屑 、宝玉 の一砕片 さえない。空虚 と言 っても此上 の空虚 は有 りようがない。- 「
宝玉 は失 くなって居 りますよ。」 - と
丸子 は落着 いて言 った。 其 言葉 を聞 き、其 言葉 の中 に含 まれている意味 を感得 した時 、予 は大 なる黒雲 が我 が霊 の上 から吹 き払 われた気 がした。此 印度 の宝玉 が如何 に予 の心 を圧迫 しつつあったかは、それが取 り除 かれた今 にして初 めて知 るを得 た。無論 これは自我主義 である。不信実 である。不当 である。にも係 らず予 は黄金 の障壁 が二人 の間 より消失 したという念 よりほかに感 ずることが出来 ぬ。- 「ああ、
有難 い!」 - と
予 は思 わず中心 から感謝 の声 を挙 げると、丸子 は素早 き疑 わしげの微笑 を含 んで、 - 「なぜで
厶 いますの。」 - 「それは?
貴女 という人 がまた私 の手 に届 く所 へ来 たから。」と丸子 の手 を取 った。其 手 を彼女 は振 り解 こうともせぬ。「丸子 さん。私 が貴女 を愛 するから言 うのですよ。古来 男 が女 を恋 いした限 り真実 の心 で言 うのですよ。此 宝玉 、此 富 は今迄 私 の唇 を封 じていたのです。けれどもこれが失 くなった今 は、私 がどのように貴女 を愛 していたか、其 心持 を安 んじて貴女 に告 げることが出来 ます。ああ、有難 い!と言 ったのはそういう心持 なのです。」 - と
其 体 を引寄 せると、丸子 も、 - 「では、
私 も言 いますわ、ほんとに有難 いわ」 - と
小声 に囁 いた。 宝玉 を失 くした代 りに、予 は今夜 丸子 という宝玉 を獲 た。
二一、拾 われぬ河底 の宝玉 ――犯人の驚く可き自白
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天下 の辛棒人 と言 うのは馬車 の中 なる巡査 の事 である。予 が再 び馬車 に乗 ったのは時 経 ての頃 であるのに、不平 も言 わずに待 っていた。が、予 が空函 を示 すと顔 を曇 らせて詰 らなそうに、- 「
報酬 がどこかへ飛 んで了 いましたね!金 がなくては払 いも出来 ない道理 です。今夜 の仕事 は若 し宝玉 が在 ったらば、同僚 と私 とが各々 十円 宛 賞与 される筈 でしたのになア。」 - 「
山輪 周英 君 は金持 だから安心 おしなさい。宝玉 の有無 にかかわらず御礼 はするでしょう。」 - と
慰 めても巡査 は落胆 したらしく頭 を振 って、 - 「
失敗 だ。阿瀬田 警部 もそう思 うに違いない。」 巡査 の予言 は的中 した。高輪 の本邸 へ着 いて空函 を示 すと、警部 は殆 ど色 を失 うた。呉田 博士 、警部 、犯人 等 の一行 は予定 を変更 して、先 きに警察署 に立寄 って来 たと言 うことで、此処 へは今 着 いたばかりとのこと、博士 は例 の無頓着 の表情 をして肘掛 椅子 にダラリと腰掛 けている。茂十 は其 前 に義足 を丈夫 な方 の足 の上 に乗 せて、鈍 よりと腰掛 けていた。ところが、予 が此 の空函 の蓋 を開 くと、彼 は後様 に反 り返 って、カラカラと笑 い出 した。- 「
茂十 、貴様 の仕業 だろう。」 - と
警部 は腹立 たしそうに怒鳴 った。 - 「そうです。
旦那 方 のとても手 の届 かぬところへ打棄 って了 ったのです。」と茂十 はさも嬉 しげに「あれは私 の宝 ですからね。折角 の戦利品 が私 の手 に入 らない事 になって見 ると、他 の奴等 にゃア持 たせ度 くありません。ねえ、あれを持 つ権利 のある者 は世界 広 しと雖 も、印度 の安陀漫 島 の監獄 にいる三人 の仲間 と私 、此 四人 のほかには無 いんですぜ。ところが今日 になって見 ると、到底 私 のものにゃアならない。従 って仲間 の奴等 のものにもならないのが解 った。私 が今日 まで働 いたのは全 く自分 の為 めばかりじゃアない。仲間 の為 めも思 っていたのです。何時 如何 なる時 でも四人 の仲間 の為 め、そういう心 が失 せた事 はないのです。だからあの宝 を山輪 少佐 や須谷 大尉 の子 や親類 に与 るよりもと一思 いに大河 へ流 しやした。其 所業 について仲間 だって彼此 苦情 を言 う気遣 いは無 いと思 います。私達 が商人 の滅土 からあんな仕事 をしたなア、何 も山輪 や須谷 の畜生 たちを金持 にしよう為 めでは無 かったんですからね。宝 は鍵 のあるところに有 りまさア。頓迦 の死体 の在 るところに有 りまさア。今夜 旦那 がたの艇 にもう何 うしても追 い付 かれるに違 いないと思 った時 、私 ア急 いで宝 を大丈夫 のところへ移 したんです。だから今夜 の御仕事 にゃア一文 の得 もなくて飛 んだ御気 の毒 のわけでさアね。」 - 「コラ、
我々 を欺 こうとしてもそうは行 かぬぞ。」と警部 は厳然 として「若 し貴様 が大河 へ宝玉 を放 り投 げようと思 うならば、函 もろともになぜ投 げぬ。其方 がどれだけ楽 であるか知 れぬではないか。」 - 「
楽 ですとも、其 代 り旦那 方 が拾 い戻 すのも楽 ですからね。」と茂十 は敏 そうな流眄 をくれて、 - 「
私 を捕 まえるくらいな腕 のある方 なら、河 の底 からこの鉄函 を捜 し出 すくらいの智慧 は何 でもありませんや。ところが投 げたのは中味 だけですからね。そうですね。ざっと二百間 ぐらいの間 に撒 き散 らしたから、捜 すにしても最 う容易 な事 じゃありませんぜ。私 はやッつけようと決心 したんです。追 われていた時 は半分 狂 っていましたからね。然 しもう斯 うなっちゃア別 に悔 むところも有 りませんや。私 も随分 今迄 にゃア七転 び八起 きして来 たんですが、愚痴 っぽい涙 はツイぞ出 した事 が有 りませんや。」 - 「
茂十 、今回 の事 は実 に重大 事件 であるぞ。貴様 が此様 な大 それた邪魔 を致 さず正義 公道 に順 うて神妙 にして居 ったならば、お上 でもまた不憫 を加 えるということもあるではないか。」 茂十 はいがみ合 うような声 を出 した。- 「ヘン。
正義 公道 ですッて!正義 公道 、こりゃア面白 い!あの宝玉 が私 たちの物 でねえとしたら一体 誰 のですい。私 が自分 で手 に入 れた物 を、只 遊 んでいて、取 る筈 もねえ人 に与 らなけりゃアならねえという正義 公道 は何処 にありますね。まア私 があれを手 に入 れた筋道 を考 えて御覧 なすって下 さい。二十年 の長 い間 というものの熱病 の流行 る湿地 の中 で働 いたんですぜ。昼 は終日 マングローブ樹 の下 で酷使 われ、夜 は一晩 穢苦 しい監獄 に打込 まれ、蚊 には喰 われる。瘧 には責 められる、真黒 な顔 をした巡査 からは嚇 される、そういう責苦 に遭 って手 に入 れた宝物 なんです。それを他人 に与 るとは好 ましくねえと私 が思 ったからって正義 公道 に欠 けていると言 われちゃア間尺 に合 いませんや!私 ア何 です、自分 の物 である筈 の宝 を他人 が抱 いて栄耀 を尽 していると思 いながら、監獄 の中 で窘 んでいるほどなら、寧 そ黒奴 の毒矢 を体 へ刺 して死 んで了 った方 がいくら好 いか知 れやしないと思 うんです!」 茂十 は先 の淡泊 なりし仮面 を脱 いだ。其 物言 いの渦巻 く如 く激 せることよ。両眼 は燃 え、手錠 は自 らなる感動 の顫 えにカラカラと鳴 った。此 迫害 されたる前科 犯人 は彼 の死 んだ山輪 少佐 を跟 け廻 していたのである。それを少佐 が初 めて知 った時 の恐怖 が決 して無理 でなかったということを、予 は今 目前 茂十 の憤怒 と激情 とを見 るに及 んで悟 ったのである。- 「それはお
前 が無理 じゃ。我々 はお前 のそういう事情 を少 しも知 らぬではないか。」と博士 が穏 かに言 った。「我々 はまだ少 しもお前 の身上 を聞 いて居 らぬ。従 って当初 お前 の方 にどれほどの正当 の理窟 があるものやらそれも判断 する事 が出来 ぬではないか。」 - 「なるほどね、
旦那 のようにそう仰有 れば訳 が分 っていまさア。そりゃア私 が斯 うして手錠 を穿 められるようになったのは、謂 わば旦那 のお蔭 なんですけれど、今更 お怨 みは申 しません。何事 も公正明大 な為 さりかたですからね。で、私 の身上 を聞 き度 いと仰有 るなら何 もお話 しないというわけじゃアありません。お話 し致 しやしょう。お断 わりして置 きますが、私 の喋 ることは一言 一句 神 かけて真実 のことですからね。いや恐 れ入 ります。そのコップは其処 の私 の傍 にお置 き下 さい、そこなら咽喉 が乾 いたとき唇 が持 ってゆけますから。」 - と、
偖 て彼 は次 の如 き長物語 を始 めた。 私 の生 れ故郷 は英蘭 の織巣 という小 さな田舎町 です。今 でもそこへ行 けば、私 と同姓 の簗瀬 という家 は何軒 もあります。私 もね、時々 は故郷 へ行 って見 たいなアという気 が起 らないでもないですが、真実 のところ私 ア一家 親類中 に爪 の垢 ほども信用 というものがないんですからね。帰 って行 ったって余 まり好 い顔 もされまいと思 っているんです。何 しろあの連中 と来 ちゃア、田舎 でも有名 な教会 の御有難 い連中 で、真面目 に働 く小百姓 ばかりのところへ持 て行 って、私 と言 ったら年中 其辺 を彷徨 き廻 るノラ野郎 だったですからねえ、ところがそれも二十 頃 までで、それから以後 は一家 親類 にも迷惑 をかけなくて済 みました。と言 うのは一人 の女 の事 から失敗 をやらかして、その揚句 が兵籍 に入 る事 になり、其頃 丁度 印度 へ出発 しかけていた第 三聯隊 に加 わったのです。併 し兵隊 にも余 り運 がなかったのですかねえ。印度 へ行 って兵隊 の調練 を初 め足踏 ぐらいも済 まし、鉄砲 の扱 い方 も一通 り教 わった頃 、後 から考 えると馬鹿 なことをやらかしたものですが、ガンジス河 に水泳 に出掛 けたのです。幸 いなことには其時 、私 の友達 で連隊中 での水練家 の針戸 と言 う軍曹 が一所 に河 へ入 っていたので好 かったんですが、一疋 の鰐魚 の奴 が出 て来 て、中流 に泳 いでいた私 の右足 へガンと喰 いついたんですぜ。そして外科醫者 にでもスッパリ断 られたように、膝 の上 のところから綺麗 に嚙 み取 って了 ったんです。気 を撲 たれたのと、出血 の烈 しいのとで、私 は気絶 して了 いましたよ。危 く其 のまま溺死 するところを、今 の針戸 軍曹 が早速 引抱 えて岸 に泳 ぎついてくれました。それから病院 に五ケ月 居 るうち、御覧 の通 り木 の義足 を穿 められ、どうやらこうやら跛 曳 き曳 き歩 かれる様 にはなったんですが、其 代 りもう兵隊 なぞには及 びもつかぬ不具者 、兵隊 どころか、動 きのある仕事 にゃア何 一 つ手 を出 せない体 となって了 いました。
二二、印度 叛軍 の大暴動 ――義勇兵となり城門守護
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- そういう
次第 でしてね、大抵 御察 しもつきましょうが、漸 く二十歳 を越 したばかりで、役 に立 たねえ不具者 という飛 んだ不幸 な人間 になり下 ってしまったんですが、此奴 が直 ぐにまた引 くら返 って幸福 の種 となった、――いや、表面 ばかりの幸福 だったかも知 れねえが――と言 うのは、其頃 内地人 の阿張 保一 という人 が、印度 藍 の栽培 を手広 くやっていたんです。其 人 が沢山 の人夫 を使 う、其 人夫 を監督 して能 く働 かせるような者 を探 していたので、すると、鰐魚 の事件 以来 私 たちの大佐 は私 に特別 に目 をかけてくれるようになっていたが、大佐 が阿張 の友人 であったという関係 から、私 を適任者 として熱心 に推薦 してくれたんですね。また実際 私 の不具 の足 も大 して邪魔 にはならない。仕事 は大抵 馬上 であるので、片足 は丈夫 なんだから鞍 から落 ちないだけの力 は有 ったんです。つまり耕地 の間 を馬 で乗 り廻 しながら人夫 の働 きあんばいに目 を注 け、怠 けている奴 があれば報告 すりゃ好 いんです。給料 は好 し、宿舎 は結構 なり、だから私 も悦 んでまア一生 奉公 しようと思 い込 みましたね。雇主 の阿張 は親切者 で、時々 私 の狭 い宿舎 の中 へブラリとやって来 て、一所 に煙草 を吸 いながら話 をする。これが人情 でしてね。内地 じゃさほどにも思 わねえが、遠 い印度 などへ行 ってみると、御互 本国人 が逢 って話 をするなんて、どんなに楽 みだか知 れやしませんわ。 - ところが
私 の幸福 もまた長続 きがしませんでしてね。突然 に、それこそ何 の前触 もなく大暴動 が起 きたんです。何方 から見 ても静穏 で平和 であった印度 が、翌月 には二十万という黒奴 の畜生共 が暴 れ出 して、一国 忽 ち修羅 の巷 と化 って了 いました。無論 旦那方 は学問 がお有 りだから私 どもよりゃア詳 しく御存知 でげしょう。私 ア字 が読 めませんから、此 目 で見 ただけの事 を申上 げるんです。私 たちの栽培地 は西北 寄 りの州 の境 に近 い陸久良 という処 でしたが、毎晩 毎晩 焼打 に遭 う火事 の光 りで空 は真紅 、昼間 は昼間 で、幾組 もの欧洲人 が妻子 を引連 れて阿虞良 へ避難 するのが続々 通 る。此 阿虞良 はまア軍隊 の居 る町 では一番 近 い町 なんです。斯 ういう形勢 になっても頑固 なのは雇主 の阿張 さん、何 に暴動 と言 ったところで大 した事 はあるまい。大分 誇張 が多 いだろう。起 り方 も早 ければ消 え方 も早 いに違 いないくらいに高 をくくって、近所 一面 鼎 の沸 く様 な騒 ぎの中 に、家 の露台 に腰掛 け、悠々 と煙草 を吸 ったり、酒 を飲 んだりしていたものです。勿論 私 たちも傍 に居 ました。私 たちと言 うのは私 と槇根 という夫妻者 で、この槇根 は帳簿方 と管理方 とをして居 たものです。斯 うして居 るうちに或 る天気 の好 い日 の事 ですが、とうとう大 珍事 が持上 りました。 其日 私 は少 し遠方 の栽培地 へ出掛 けて、夕方 そろそろと馬 を打 たせて帰 りかけますと、或 嶮 しい谷川 の乾枯 びた底 に、何 かしら丸 くなって蹲 って居 るものがあるのに眼 をひかれました。さて何 だろうと思 いながら降 りて行 って見 ると驚 いた。思 わず慄然 としやしたね。何 だって貴君 、槇根 の女房 さんが寸断寸断 に切 りさいなまれて、其 死骸 が半分 豺 や野良犬 などに喰 われているじゃありませんか。その少 し上手 の路 には又 槇根 が全 く息絶 えて、手 に空 の短銃 を握 ったまま俯伏 になって死 んでいる。その先 には四人 の印度兵 (印度 にて英国 陸軍 の下 に兵役 に服 する土人 )が算 を乱 してへたばって居 る。さすがの私 も狼狽 しましたね。いきなり手綱 を締 めて何方 へ行 こうかと迷 ったんですが、見 れば濃 い煙 が主人 の家 から巻 き上 っている。赤 い火焔 がメラメラと屋根 を嘗 めて居 るという状態 に、これはもう己 れが行 った処 で役 にや立 たない。それに、下手 に飛込 んだが最後 命 を失 くすばかりだとこう思 いました。小手 をかざして眺 めると、幾百人 とない悪魔 の様 な土人 が赤 い上衣 を背中 にまとい、焼落 る家 の周囲 を飛 んだり跳 ねたり吠 え廻 ったりして居 ます。中 には私 の方 を指 さす奴 がある。すると鉄砲丸 が一二発 頭 の上 をかすめて通 る。で、私 は一目散 に其処 を落 ちのび、水田 を幾 つも突切 り駆 けぬけて、夜更 けてから漸々 無事 に阿虞良 の市壁 の中 に避難 しました。- ところが
頼 みにした其 市 が、実際 に行 って見 ると余 り大 した安全 の場所 でもない事 が解 って落胆 。何 しろ国中 が蜂 の巣 を突 ついたような沸騰 の仕方 ですからねえ。我々 英国人 が少 しでも団隊 を組 めるところでは、直 ぐに大砲 を用意 して固 めるという有様 ですから其 陣地 を一歩 でも去 っちゃア我々 はカラ意気地 なく逃 げ廻 らなきゃアなりませんでした。何 の事 はない蟷螂 の竜車 に向 うようなもの。それに一番 厄介 な事 は、歩兵 にせよ、騎兵 にせよ、砲兵 にせよ、私共 の闘 う敵 という奴 が、今迄 英国 軍隊 の旗下 にあった一番 精鋭 な軍隊 なので、つまり英国人 が教 え、英国人 が訓練 した奴等 なんです。英国 軍隊 の武器 を使 い、英国 軍隊 の喇叭 を吹 いているんです。当時 阿虞良 市内 の守備兵 というのは、第 三ベンガル軽騎兵 、二個 中隊 の騎兵 、一個 中隊 の砲兵 、それに印度兵 が少 しばかりでした。そこで義勇隊 という奴 が出来 ましたね。商会 の書記 、商人 なぞの輩 で。で、私 も不具 ながら其奴 に加 わりやした。そして六月 の上旬 に沙寒寺 という処 へ進軍 して叛軍 と闘 い、一時 敵 を退却 させたのはいいが、直 き弾薬 が尽 きたので、また城内 へ逆戻 りという始末 。四方 から櫛 の歯 をひくように来 る情報 は皆 な敗報 ばかり――それも無理 がありませんや。地図 で御覧 になりゃア御解 りですが、まるで我々 は包囲 攻撃 を喰 っていた有様 なんですからね。東 に百哩 余 の良久野 、南 に同距離 ぐらいの乾保留 、其他 東西南北 至 る処 から惨刑 、殺戮 、暴虐 の悲報 の来 ぬところはないんです。 阿虞良 という市 は随分 広 い市 でしてね。色々 な宗旨狂 、偶像 、悪魔 の崇拝者 なぞがウヨウと群 っている。何 うしたのか味方 の兵 が少 しばかりでしたが、その狭 い曲 り歪 った巷 の中 で行衛 不明 になって了 ったので、司令官 はそれでは不可 ぬというので、河 を越 して阿虞良 の古 い堡砦 の中 へ司令部 を移 したのです。旦那方 ア此 古 い塞 の話 を御聞 きになったことが有 るか無 いか存 じませんがね。まア私 なぞはあんな奇体 な場所 へ後 にも前 にも入 ったことが厶 いませんね。第 一内 の広 いこと広 いこと先 ず何里 四方 有 りましょうか。一部分 には割合 に新 しい建物 も建 っています。室 も沢山 あったから守備兵 、女子供 、食糧品 なぞ皆 そこに収容 したが、併 し此 部分 は残 りの古臭 い屯営 の広 さに比 べれば粟粒 ほどの狭 いもの。さればこの古臭 い屯営 の方 は住 む人 もなく、荒 れに荒 れて蜴 や百尺 ののたくるままに任 せてある。大 なダダっ広 い室 が幾 つとなく連 なり、其 間 を長 い廊下 や、グルグル廻 りの緣 が縦横 に走 っているので、不知 案内 の者 が一旦 迷 い込 んだが最後 、旦那 、容易 に出 られやアしません。だから時々 組 になって松燈 なぞを点 して探検 に行 くことがあっても、先 ず一人 なぞじゃア滅多 に行 こうという者 は無 い。此 古 い塞 の前 の方 は城壁 を洗 うくらいに河 が流 れていたから自然 の防禦 となったが、後 の三方 はそれが無 い上 に、沢山 扉 がくッついてあるから尚 おと不用心 。新旧 両方 の屯営 を守 らなきゃアなら無 いのですが、何分 味方 は少数 と来 ているから、建物 の角々 に兵 を配置 し砲兵 陣地 を護 らせるだけでも足 りないあんばいです。況 して数限 りもない門 へ一 つ一 つ有力 な兵数 を配置 しようと思 っても出来 ない相談 。さりとて打棄 っても置 けずと、そこで塞 の中央 に主力 守備隊 を集 めて置 いて、各門 へは英兵 一名 、印度兵 二三名 ずつを配 る事 にしました。私 もその任 に当 りましてね、一番 南 の突端 れの小 さな極 く極 く淋 しい門 を、夜中 幾時間 とか時間 を定 めて守 ることになったんです。部下 には二人 の印度 騎兵 が付 くことになったが、若 し何 か異変 が起 って主力 守備隊 から急援 を乞 い度 い時 には何時 でも鉄砲 を打 って合図 するようにと教 えられて出掛 けましたがね。考 えて見 ると、守備隊 のいるところと其 門 とは二百歩 以上 も離 れていて、おまけに其 の間 が例 の百曲 りの廊下 や緣側 で距 てられているという有様 なんですからね。さア敵 の不意 撃 ちだというので慌 てて鉄砲 を打 ったところで、応援隊 がうまく間 に合 うか合 わぬか心細 いものでしたよ。- それは
兎 も角 、私 は新兵 の身 で不具者 と来 ている。それがたとえ二名 の部下 にせよ其頭 になったんだから大 得意 です。で、二晩 というものは先 ず先 ず無事 に印度兵 と哨兵 の役 を勤 めました。此 二人 の印度兵 は一人 を真保目宇婆陀 、一人 を阿多羅漢陀 と言 って、何 れも恐 しい形相 をした大入道 、英国 が印度 を征服 するにつれて、嘗 ては英国 に弓 を引 いた戦場 往来 の古武士 でしてね。二人 とも英語 は達者 だったが、私 は印度 の語 と来 てはカラ解 りゃアしません。二人 はいつも一所 にくッついて、夜中 変 テコな言葉 で喋 り散 らしていましたっけ。私 は其 間 門 の外 に立 ちましてね。曲 って流 れてゆく広 い河 や、大 きな市 の灯 のチラチラするのを眺 めながら警戒 していました。すると太鼓 の音 が聞 えて来 る、銅鑼 の響 きが伝 わって来 る。蛮民 の鯨波 の声 がワーワーと遠 くから微 れて来 る。余 まり好 い心地 はしませんや。旦那 、今 にも河 を渡 って突貫 して来 るかと思 ってね。二時間 毎 には当番 の士官 が巡視 に来 て、警戒 の様子 を調 べて行 きました。 - ところで
大事件 の出来 したのは、其 翌晩 のことです。
二三、仲間 にならねば刺 し殺 すぞ ――印度兵の恐しき脅迫
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三日目 の晩 は真暗 で細雨 がジョボジョボと降 っていました。そんな晩 に幾時間 も淋 しい門 へ立 って哨戒 しているのは陰気 なものでしてね。時々 印度兵 へ話 し掛 けるけれども二人 とも余 り返事 をしない。そのうちに午前 二時 の巡視 がやって来 たから一寸 退屈 が紛 らせたが、行 って了うるとまた元 の物侘 びしさ。そうかと言 って二人 の部下 は、話相手 になりそうもないゆえ、パイプを取出 して銃 を傍 に置 き、マッチを擦 り始 めました。すると、二人 の印度兵 が突然 私 に飛附 いて来 たんですぜ。一人 は私 の鉄砲 を取 って弾金 を上 げて私 の頭 を覘 い、一人 は一挺 の大 ナイフを咽喉 へ突 きつけて、一歩 でも動 いたが最後 命 はないぞと言 うんじゃありませんか。- こりゃア
此奴 らア敵 に内通 していたんだな、そして初 めに己 を取占 めて掛 ろうとするんだな、と斯 う其時 には思 いました。失敗 った、此 門 が陥 ちれば塞 が陥 ちる、可哀相 に女子供 は情報 に聞 いた乾保留 でやられた通 りの大虐殺 に遭 うことだろうと、さア斯 う私 の口 から言 ったら何 を好 い加減 な事 をほざくと旦那方 ア御思 いかも知 れませんが、まったくそう考 えやした。すると咽喉 にナイフを当 てられては居 たが、私 は大声 を挙 げようと思 って口 を開 きかけましたね。そのままグサリとやられても関 わねい、守備隊 へ聞 こえさえすりゃアいいんだと度胸 を据 えましたね。と、私 を抑 え附 けた奴 が私 の胸 を観破 ったと見 えて、私 が屹 と身構 えをすると、英語 で、 - 「
声 を立 てなさるな。塞 は心配 はないぞ。まだ河 から此方 にゃア叛徒 は一人 もいない。」 - と
囁 くんでさア。 其 言葉 つきが満更 虚言 らしくもない。それに声 を立 てたが最後 刺 し殺 されるということは相手 の眼色 で解 りましたからね、私 も一寸 待 って見 た。一体 何 の為 めだろうと黙 って待 っていました。- と、
二人 の中 で、特 けても丈高 で、特 けても恐 い顔 の阿多羅漢陀 という奴 が言 うには、 - 「
大人 、まア能 く聴 き給 え。今 私 等 に味方 せぬ時 は大人 は命 がない、宜 しいか。もう斯 うなっては躊躇 する必要 のない、これは大問題 だ。大人 が基督 の十字架 に盟 って、身心 両 つながら私等 に与 すれば好 し、さもなくば私等 は大人 の死骸 を濠 に投 じて叛軍 の方 へ走 るばかりである。死 か、生 か?時 が迫 っているから決断 の猶予 を三分間 だけ与 えてあげる。また巡視 の士官 等 の来 ぬ前 に決行 せねばならぬ。」 - で、
私 は斯 う返事 をしやした。 - 「どうして
己 が決断 の出来 るものか。君等 はまだ何 の目的 で斯 ういう乱暴 な事 をするのか己 に打明 けないじゃないか。併 し断 って置 くがね、少 しでも塞 の安全 に背 くようなことだったら、己 はどんな交換 問題 も御免 だぜ。だからまア其 ナイフを引 いてくれ。そして落着 いて話 し合 うじゃないか。」 - 「いや
決 して塞 に関係 したことじゃない。英国 の人 たちが印度 へ渡 って来 る目的 ですね、其 目的 に添 うたことを大人 にして頂 けばいいのだ。つまり大人 が金持 になって頂 きたいのだ。若 し大人 が今夜 私等 の味方 をしてくれるならば、私等 は神 かけて盟言 するが、大人 は莫大 もない宝 の分配 を得 られる。そうだ、四分 の一 だけはどんなことをしても大人 の手 に入 るに定 まって居 る。」 私 は訊 きやしたね。- 「
一体 その宝 たア何 の事 だい。その手段 さえ打明 けてくれれば、君等 と同様 いつでも、金持 には成 り度 いのさ。」 - 「では
大人 の父君 の名 によって盟 うて下 され、母君 の名 によって盟 うて下 され、大人 の信仰 の十字架 によって盟 うて下 され、現在 も、それから将来 も、私等 に対 して手 を挙 げない、また一言 も言 うまいと云 うことを盟 うて下 され。」 - 「
塞 さえ危険 に陥 ることでなくば、己 は其通 り盟 おう。」 - 「では
私 の仲間 たちも大人 に盟 おう。大人 に必 ず宝 の四分 の一 を贈 る、つまり私等 は四人 で同 じように宝 を分 けるのだ。」 - 「
私等 四人 と言 うが、ここには三人 だけじゃないか。」 - 「いや、
浪須戸阿武迦 も分配 を取らなくちゃ、ならない。それじゃア彼 の来 るのを待 つ間 打明 けて事件 の真相 をお話 しましょう。オイ、宇婆陀 、汝 は門 に張番 して、一件 の来 るのを気 をつけて居 ろよ。」 - と、さて
話 し出 したのは恐 しい魂胆 、先 ず斯 う言 うんです。 何 でも印度 の北 寄 りの州 に、支配 する土地 は狭 いが大層 裕福 な一人 の王様 がある。父王 の遺産 が沢山 あった上 に、自分 も一方 ならぬ守銭奴 であったから財産 は貯 まるばかり。ところが今度 の叛乱 です。其様 な王 だから初 めは日和見 のつもりで叛軍 へも附 けば、英国方 へも色目 を使 うといった有様 でげしたが、つらつらと形勢 を考 えるに結局 やはり白人 の勝利 に帰 しそうに見 える。が、そこに抜目 はない。斯 ういう計画 を立 てた。それは何方 が勝 とうが負 けようが、少 くも自分 の宝 の半分 だけは取 り留 め度 いというのです。で、金銀類 は自分 の王宮 の穴蔵 に匿 したが、一番 貴重 な宝石類 、選 みに選 んだ真珠 なぞは一 つの鉄函 に入 れ、一人 の信用 ある臣 を商人風 に仕立 てさせ、阿虞良 の城中 に入 り込 ませ、叛乱 の終 る迄 鉄函 をそこで保護 して貰 おうという計画 を立 てたそうです。斯 うして二股 掛 けて置 きさえすりゃア何方 に転 んでも無難 というもの、叛軍 が勝 てば王宮 の穴蔵 の財産 は当然 無事 だし、英軍 が勝 てば阿虞良 の宝玉 も其 まま手 に戻 るという訳 けですからね。そうして置 いて酷 いじゃアありませんか、其 当時 は自分 の州 では叛軍 の方 が威勢 が好 かったというので、叛軍 に投 じていたんだそうですぜ。- それは
偖 て置 き、商人 に化 けた例 の王様 の臣殿 、滅吐 とかいう名 で段々 旅 をして来 て、もう阿虞良 の市中 に着 き、城 へ入 り込 む方法 を考 えて居 る最中 とか。それには一人 の道連 があるが、それが漢陀 の乳兄弟 の阿武迦 という奴 で、悉 く王様 の今度 の秘密 を嗅 ぎ知 っている。で、阿武迦 は此 二人 の印度兵 と諜 し合 せて、滅吐 をわざと塞 の側面 に導 き、此門 を指 して今夜 やって来 る手筈 になって居 る。もう間 もなく見 える筈 だ。こんな淋 しい場所 であって見 れば誰一人 其 臣 の姿 を見掛 ける者 もあるまい。従 ってその体 がどう消 えて失敗 おうと世 の中 では知 る者 もなく、此方 は宝玉 さえ分 けて了 えばそれで仕事 は済 むのだ。大人 は一体 どう思 いなさる?」 - と
斯 ういう話 なんです。 旦那方 も考 えて御覧 なさい。常時 でこそ人間 一人 の命 は神聖 なんですが、四方八方 が火炎 と血 だらけ、何方 を向 いても殺人 ばかりに衝突 るという時 じゃア、私 にとってさえ商人 の滅吐 が生 きようが死 のうが、向 う河岸 の火事 よりも何 でもない許 りか宝玉 の話 にゃア素的 に心 を牽 かれやしてね、私 は考 えた。やくざ者 の評判 の私 が大金 を懐中 にして故郷 へ帰 って行 ったら、故郷 の奴等 ア眼玉 をでんぐり返 して何 と言 うだろう。とそう思 うともう決心 をしやした。漢陀 は私 が躊躇 していると見 てか尚 お頻 りに勧 める。どうせ滅吐 が司令官 の前 に出 りゃア首 を絞 められるか銃殺 されるかして宝玉 を分捕 りされるばかりだから、それをただ此方 で占 めるばかりだ。宝 の山 に入 りながら手 を空 しくしてることが有 るものか。さア決断 するのは今 のうちだと煽 りつけるので、- 「
好 し、君等 に加担 しよう、きっと加担 する。」 - と
決然 と言 いますと、初 めて鉄砲 を返 してくれやした。 - 「
好 く決心 して下 すった。私 たちは大人 を信用 します。もう兄弟 と商人 とを待 つばかりだ。」 - と
言 いますゆえ、 - 「
君 の兄弟 は君等 の企 てを、知 って居 るのか。」と聴 きますと、 - 「
知 っている段 じゃアない。元来 は此 企 ては兄弟 が考 え出 したんです。さア門 へ出 て宇婆陀 と一所 に見張 って居 ろう。」 - と
又 も姿勢 を整 えて哨戒 に立 ちました。
二四、雨夜 の城 の商人 殺 し ――死骸は地下へ、宝玉函は壁中へ
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丁度 印度 が雨期 に入 る季節 のせいか、雨 はますます降 って来 る。褐色 の重苦 しい雲 が空 を覆 うて、半丁 先 きも見 えぬ暗 さ。私 たちの護 っている門 の直 ぐ前 に深 い濠 があるが、所々 水 が乾 いてそういう所 は訳 なく通 り越 されるのです。考 えて見 れば自分 ながら変 な気持 でしたね。何 しろ二人 の印度人 と一所 に、知 らぬが仏 で死 にに来 る男 を待 ち受 けて居 ようという場合 ですからねえ。不図 気 が付 くと、濠 の向 う側 に覆 いをした角燈 がチラリと光 るのが見 え出 した。- 一
度 堤 の蔭 に隠 れたが、また現 われて段々 此方 を指 してやって来 る様子 。 - 「
来 た来 た!」 - と
言 うと、漢陀 が小声 で、 - 「
大人 、貴君 は毎時 の通 り済 まして誰何 して下 さい。相手 に不安心 を与 えちゃアなりませんからね。そして私等 の手 にさえ送 りこんで下 さりゃア後 の料理 は私等 が引受 けまさア。角燈 の覆 いを取 る用意 をして置いて下 さいよ。真実 に其 の商人 だかどうか見極 めなくちゃアならねえからね。」 - と
注文 しました。見 ていると向 うの光 は止 まったり、また歩 き出 したり、チラチラと瞬 きながら近付 いて来 る。そのうちに濠 の向 う側 に人影 が黒 く二 つ動 き出 した。待 っているとダラダラと堤 を匍 い下 る。濠 の底 の泥土 を跳 ねながら進 んで来 る。そしてまた此方 の堤 を門 へと匍 い登 って来 る。頃 を見計 って私 は声 を押殺 して誰何 しました。 - 「
誰 かッ?」 - 「
仲間 だ。」 - という
返事 。そこで角燈 の覆 いを除 けて颯 と光 を浴 びせ掛 けると、真先 に立 ったのは腰帯 の辺 まで長髯 を垂 らした大男 の印度兵 、其 後 に背 の低 い丸々 と肥満 した一人 の男 が大 きな黄色 の頭巾 を冠 り、肩掛 で包 んだ一個 の荷物 を手 に抱 えているのです。余程 怖 いと見 えて体中 を顫 わしている。手 が瘧 をふるって居 るようにガタガタと揺 れている。頭 を彼方此方 へ動 かしては、小 さな光 る眼 を光 らせて居 る態 が、まるで穴 を出掛 かった鼠 といった形 なんです。此奴 を殺 すのかなアと思 うと流石 にゾッとしやしたね。けれども宝玉 が手 に入 るんだと思 い返 すと、心 が直 ぐ鬼 になりましたよ。それとも知 らぬ商人 は、白人 の私 の顔 を見 ると、さも安心 したらくしチューチューと鼠鳴 きをして飛 んで来 て、 - 「
大人 、救 い給 え、不幸 な商人 滅吐 を救 い給 え、私は阿虞良 城 に逃 げ込 むために一生懸命 旅 をして参 りましたが、私 が英国方 だと申 すので、強奪 はされる、擲 られる、罵 られる、いや散々 な目 に遇 いました。併 しまア斯 うしてお城 に辿 り着 いたのは何 と言 う幸福 なことか――私 ばかりか、荷物 までも。」 - 「
一体 その荷物 は何 か。」 - と
聴 きますと、 - 「
鉄 の函 であります。なに一二通 の私 の家 の書類 でしてね。他人様 には何 の価値 もないものでも、私 に取 っては失敗 くしてはならぬものであります。併 し私 も乞食 では厶 いませぬから、お若 い大人 、貴君 にはお礼 を致 します。若 し又 私 を保護 してくれましたら司令官 殿 にも御礼 は致 します。」 - と
言 う其 肥 った怯 えた顔 を見 ていれば見 て居 るほど此方 の残忍 な気 が鈍 るので、此奴 は長 く話 をして居 ては利益 にならぬ、早 く引渡 して了 うが得策 だと思 って、 - 「
此 人 を司令部 へ御案内 せい。」 - と
命 じると、宇婆陀 、漢陀 の二人 が左右 へ付 き添 って暗 い門 へ入 って行 く。背後 には大男 の阿武迦 が跟 いて行 く、私 は角燈 を持 ったまま門 に残 って居 ました。 寂然 とした廊下 に響 く三人 の跫音 は暫時 はパタンパタンと響 いて来 る。それを聞 いている中 に不意 に足音 が止 んだんです。そして罵 る声々 、立廻 りの音 、ぶん殴 る音 などが聞 えて来 ます。間 もなく、私 は怯然 としましたね。一人 の男 が息 を切 らしながらバタバタと此方 へ駆 けて来 るじゃありませんか。で、廊下 の方 に角燈 の光 を向 けて見 ると、果 して商人 が疾風 のように駆 けて来 る。顔 からは血 が流 れている、其 直 ぐ後 から大男 の髯面 の印度人 が、手 にナイフを閃 かしながら虎 のように迫 って来 る。私 も商人 の逃 げかたの速 いのには魂消 げやしたね。印度人 も負 けそうだ。一度 私 の面前 を通 り過 ぎたが最後 、先生 広場 へ飛 び出 して命 は助 かるかも知 れない。ああ、そうして呉 れればいい……と思 う間 もなく、ええ宝玉 だッと思 うとまた無慈悲 になる。そうして丁度 私 の前 へ駆 けて来 た頃 を見計 らって、商人 の股倉 へ鉄砲 の台尻 を衝 と挟 むと、先生 弾丸 に撃 たれた兎 みたように二度 ばかりコロコロと転 びましたが、二度目 に起 き上 ろうとする間 もあらばこそ、阿武迦 は早 くも押 しかかった、そしてナイフを二 タ突 きばかり横腹 へ刺 し込 んだ。そのままさね。商人 先生 ウンともスンとも言 わねえ、手足 も動 かさねえ、倒 れたまんま御陀仏 になってしまった。ねえ、旦那方 、私 は御約束 に従 って有 りのままを真正直 に申 し上 げて居 るんですよ、自分 の利益 になったって成 らねえたって仕方 アありませんや。
茂十 は此処 まで語 って言葉 を切 り、手錠 を穿 めた手 を差出 して、博士 が注 いでやったウイスキーと水 とを割 ったのを飲 み乾 した。予 は白状 するが、今 こそ判然 と此男 の残忍 酷薄 なる性質 が解 った。それは彼 が行 うた冷血的 の行為 の故 ではない、実 に彼 がそれを物語 る無遠慮 に流暢 なる人 も無 げなる言葉付 きに於 て、そう感 じたのである。彼 が如何 なる重 い刑罰 に処 せられんとも、少 くとも予 に於 ては一片 の同情 を払 わぬ積 りだ。博士 と阿瀬田 警部 とは手 を膝 に置 いて深 くも興味 のある風 に傾聴 していたが、二人 の顔 にも嫌厭 の情 を見 ることが出来 る。茂十 はそれを観察 せしものか、声 にも態度 にも幾分 反抗 の気 を含 んで、- 「
無論 、私 の行為 は賞 めたものじゃアありません。けれどもですね、仮 りにあの時 の私 の位置 に立 って、咽喉 を刺 されようという場合 に、尚 お宝玉 の分配 を拒 む人 が何人 あるでしょう。それにあの商人 が一度 塞 の中 に入 った以上 、私 が生 きるか、彼 が生 きるか、何方 かの問題 でさア。若 し彼 が逃出 したとしたら、悪計 忽 ち露見 して私共 ア軍法会議 に廻 されて、銃殺 ものと定 まって居 ますからね。」 - 「
続 きを聴 かしてくれ。」 - と
博士 は簡単 に促 した。 - で、また
話 し出 す。
- さて
死骸 の始末 をしなけりゃなりません。門衛 の方 は宇婆陀 一人 に任 せて、私 と、漢陀 と、阿武迦 の三人 が死骸 を担 ぎ入 れました。背 は低 かったが仲々 重 い奴 で、漢陀 たちが前 から用意 して置 いた場所 まで運 んだのです。そこは可成 奥 の方 で、曲 った廊下 が一 つの大 きな空間 に入 ろうとする所 、煉瓦 の壁 がボロボロに落 ちているところです。そこに地 の床 が深 く陥 ち窪 んで自然 の墓形 になっているところがある。その中 へ死骸 を埋 めて煉瓦 を覆 い掛 け、さて宝玉 の許 へ戻 って行 きました。 宝玉 の所在 は、商人 が一番 先 きに殴 られてそれを取 り落 したところに在 るんです。其 鉄函 はつまり今 旦那方 の眼前 にあるこれなんで、蓋 の彫刻 した把手 に鍵 が絹紐 で結 んでありました。明 けて見 ると、角燈 の光 にキラキラと輝 いた宝玉 の一団 、子供 の時 から本 で読 んだり想像 していたりしたのが、今 眼前 に現 われたので、其 光 りにはアッと眼惑 がするほどでしたよ。皆 な思 う存分 に眺 めた末 に、宝玉 を取出 して目録 を製 って見 ると、まア御聴 き下 さい、最上等 の金剛石 が百と四十三個 、其 中 には「大 蒙古 帝 」という仇名 のある世界 で大 さが二番目 という素晴 しい奴 も混 っていたんです。それから緑柱石 が九十七個 、少 しは小形 のものもあったが紅宝玉 が百七十個 、紅玉 が百四十個 、青玉 が二百十個 、瑪瑙 が六十一個 、其他 緑玉石 、縞瑪瑙 、トルコ玉 なぞいうものが数限 りもなくあって、後 には覚 えたけれども其時 は到底 も名 を知 らない物 が多 かった。尚 お此 ほかにざッと三百個 ばかりの上等 の真珠 があって、其中 のニ十個 だけは金 の珠数 に繋 いでありましたっけ。此 真珠 の数珠 だけは後 に取出 されたと見 え、今度 山輪 の邸 で私 が鉄函 を取 り戻 した時 には入 って居 ませんでした。宝玉 の勘定 が済 むと、また函 へ戻 して宇婆陀 にも見 せるために門 まで運 んで行 った。そして四人 して改 めて盟 いを立 てて、互 に扶 け合 うて決 して秘密 を口外 せぬ約束 をした。宝玉 は今 分配 しても仕方 がない。下手 に身分 不相応 の物 を持 っているのが見付 かると却 て疑 いを招 く基 、それに城内 では御互 に自分 の私室 もないことゆえ人目 につき易 い。で、鉄函 をば商人 を埋 めた室 へ持 ち帰 り、一方 の壁 の煉瓦 の奥 に孔 を製 って其中 へ隠 して了 ったのです。他日 其 隠 し場所 に迷 わぬため念入 りに其所 を覚 えて置 き、翌日 私 は同様 の図面 を四枚 引 き、その片隅 に四人 の署名 をして一枚 ずつ配 りました。つまり四人 が一心同体 に働 くという盟 いのためでさア。私 はこの盟 いは決 して破 らなかったんですよ。印度 の叛乱 の結末 についちゃアお話 するまでもなく御存知 の筈 だ。つまり色々 な雄将 がやって来 て忽 ち叛軍 平定 、平和 克復 となりそうになったが、そこでいよいよ私 たちも宝玉 を手 に入 れる日 が来 るわいと歓 んでいると、何 のこと糠 よろこび、滅吐 殺 しの下手人 というわけで、四人 とも美事 に捕縛 られて、慾 も希望 も粉微塵 となりました。
二五、宝玉 の報酬 は島破 り ――欺した少佐へ復讐の計画
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何故 また露見 したかと言 うのに、例 の慾張 王 は滅吐 へ宝玉 を托 した時 には、滅吐 が正直 な男 であると信 じて居 たが、そのくらいな二股 掛 ける用心深 い王 だから疑 ぐり深 い。で、もっと信用 ある一人 の臣 に密旨 を授 け、隠目附 として滅吐 の後 を跟 けさせたのです。此奴 が影 の形 に添 うように瞬時 も商人 から眼 も放 さず、其晩 も塞 の傍 まで跟 いて来 て、商人 が門 へ入 り込 んだのを確 かに見届 けた。無論 巧 く城内 に匿 まって貰 われた事 と信 じたが、念 のため翌日 其奴 自身 で塞 へ来 り、許可 を得 て内 へ入 ったが、さて肝心 の商人 の姿 が見 えないところから不審 を起 しましてね、案内 の軍曹 に訳 を話 す、軍曹 から司令官 に報告 する。忽 ち塞中 の大 捜索 となって、死骸 は苦 もなく見付 け出 されたんです。斯 ういうわけで宝玉 分配 の夢 を見 ている最中 、四人 とも商人 殺 しの下手人 として捕縛 られやした。併 し吟味 の時 にも宝玉 の事 は一言 も出 なかった。と言 うのは王様 が間 もなく廢黜 されて印度 から追出 されたものですからね。自然 宝玉 の問題 は立消 えとなって了 ったが、四人 とも殺人 の罪状 は明白 となり、三人 の印度兵 は終身懲役 、私 は死罪 と斯 う宣告 されましたが、私 も後 になって罪 一等 を減 じられて終身懲役 にされました。考 えて見 ると其時 の私 たちの境遇 というものは変 なものでさア。現在 莫大 な宝玉 が埋 めてある、それが手 に入 りさえすりゃア一人 一人 立派 な金持 になれる身分 でありながら、牢獄 へ押 し籠 められて出 る事 も出来 ない始末 なんですからね、気 が揉 めるってこんな気 が揉 めて腹 の立 つことア有 りゃアしませんや。ほんとに忌々 しくって気 も狂 うばかりに悶 いても見 ましたが、併 し元来 が私 ア強情 な性質 だから、じっと我慢 していたんです。其 うちに阿虞良 からマドラスに移 され、其処 からまた安陀漫 群島 の一 つの島 に流 されました。ここの殖民地 には白人 の罪囚 は少 なく、それに私 は最初 から神妙 に服役 したものだから、行 って間 もなく役人 には気 に入 られて特別 の取扱 いをされるようになりました。針枝山 という山 の麓 に帆立 という小 さな場所 がある。そこへ一軒 小舎 を貰 って住 んだのですが、何 を言 うにも熱病 の流行 る荒寥 とした島 でしてね。私 たちの居 る少 しの開墾地 の周囲 には、喰人種 が一パイはびこって居 て、機会 さえあったら毒矢 を投 げようというのだから堪 まりませんや。私 たちの仕事 は鉱山 を掘 ったり、濠 を掘 ったり、芋薯 を植 えたり、其他 何 やかやで一日中 忙 しく、僅 に夕方 隙 があるくらいでした。そんな仕事 の中 でも私 は軍医 の助 けをして薬 を盛 ることを覚 えましてね。其方 の生嚙 りの智慧 もつきました。それでも何 うかして逃出 そう逃出 そうという念 は、一日 一時 だも胸 を放 れなかったが、何分 大陸 を距 る何百 哩 という浪 の上 、おまけに風 のない海 と来 ているので、とても容易 なことじゃ脱 け出 られそうもありませんでした。軍医 は染原 さんというので、忠実 な人 だったが、年 が若 いだけに仲々 の遊 び好 きで、従 って毎晩 その室 には士官 たちが集 っては骨牌 をする。私 が調剤 をする外科室 は軍医 の居間 の隣室 で、間 には一 つの小 さい窓 があるので、物淋 しい時 なぞは私 はランプを消 して其 窓際 に立 って、士官 たちの話 を聴 いたり、骨牌 の勝負 を眺 めたりしたもんです。元来 自分 が好 きだから、眺 めて居 るだけでも堪 えきれません。集 る者 は此 島 の軍隊 指揮官 山輪 少佐 、須谷 大尉 、振尾 中尉 、染原 軍医 、其他 二三人 の看守 なぞで、いつも楽 しそうな会合 をするのが常 でした。毎晩 眺 めている中 に斯 ういうことに気 がつきやした。それは将校 の方 が必 ず負 けて、看守 たちのほうが必 ず勝負 に勝 つということです。一晩 ごとに将校 たちは貧乏 になる、なればなるほど躍起 となる。殊 に山輪 少佐 が酷 い。初 めは金貨 や紙幣 なぞ現金 で賭 けをしていたが、終 にはそれも尽 きて約束 手形 でやる、而 かもそれが莫大 の額 にのぼる。時 には数番 も続 けて目 の出 ることがあっても、またドカリと落 ちて前 よりは一層 悪 い始末 で、そうなると一日中 不機嫌 な顔 をしてそこらを彷徨 き廻 ったり、自棄酒 をグイグイ呷 ったりする。山輪 少佐 と須谷 大尉 とは極 くの親友 だが、二人 とも益々 景気 が悪 く、もう二進 も三進 も行 かなくなったらしい。- そこへ
私 ア附 け込 んだんです。 或 日 少佐 一人 で海岸 を散歩 している所 を見込 んで話 しかけた。- 「
少佐 殿 、少 し御相談 申上 げたいことが厶 います。」 - 「おお
茂十 か、何 じゃ。」 - と
少佐 は口 から巻煙草 を放 して振向 いた。 - 「
実 は埋 めてある宝玉 を御手渡 しするには何 のような方法 が宜 しいか、教 えて頂 き度 いのであります。私 は五拾万ばかりの価値 のある宝玉 の埋 めてあるところを存 じて居 ますけれども、到底 も私 が使 う訳 には参 りませんから寧 そ適当 な御役人 へ差上 げて、少 しでも刑期 を減 らして頂 いた方 が上策 だと思 いましてね。」 - 「なに、五拾万の
価値 のある宝玉 !」 - と
少佐 は声 を喘 ませて私 の顔 を見 ました。 - 「そうです――
真珠 、瑪瑙 、緑柱石 等 です。誰 でも手 を付 けるばかりに埋 まっています。そして不思議 なことには其 真正 の持主 という者 がそれを占有 する法律上 の権利 がなくなって居 ますから、一番 先 きに手 を付 けた方 の所有 になるので厶 います。」 - 「それは
政府 へ出 さなくちゃ不可 、政府 へ。」 - と
言 ったが、判然 とは言 い切 れない。其 言葉 付 きで、大抵 少佐 の胸 も解 ったのです。 - で、
私 は落着 き払 って、 - 「では
総督 閣下 へ申 し出 た方 が好 いと御考 えなのですか。」 - と
言 うと、 - 「
待 て待 て、軽率 なことをして後悔 しても役 に立 たんぞ。兎 にかく一什 始終 を詳 しく聞 かしてくれ。どういう事実 なのか。」 - そこで
私 は最初 からの事件 を聞 かしてやった。尤 も宝玉 の所在 が確 と解 ってはならぬから、其 場所 だけは曖昧 に話 を少 し変 えて話 してやると、少佐 は莫迦 に考 えに沈 んで石地蔵 みたいに佇立 って了 ったね。唇 が頻 りに捻 れて居 るところで見 ると、心中 に大 苦悶 があるなと見 て取 ったんです。やがての事 に、 - 「コりゃア
実 に大事件 だぞ茂十 、誰 にも洩 らしてはならんぞ、もう一度 逢 って相談 しようから。」 - と
言 って別 れたが、越 えて二日目 の真夜中 に、今度 は須谷 大尉 を連 れ、角燈 をつけて私 の小舎 へ忍 んで来 ました。 - 「
須谷 大尉 にお前 の口 から事件 の顚末 を聞 かせ度 い。」 - というので、
私 は繰返 して話 しました。 - 「ねえ
君 、真実 らしいじゃないか、ねえ、こりゃア一番 働 きものだぞ。」 - と
少佐 が言 うと、大尉 も首肯 くので、少佐 は更 に、 - 「コレ
茂十 、よく聴 け。我々 二人 は此 問題 を慎重 に討議 し合 った末 参 ったのであるが、結局 問題 は政府 の手 にかけるべき性質 のものではないのみならず、お前 の一私人 の問題 であるゆえ、無論 お前 の自由 に処分 することが出来 ることなのじゃ。そこで最後 の論点 は、お前 がこれを譲 り渡 すについてどのような報酬 を望 むかという点 にある。若 し相談 が纏 まりさえすれば、我々 は手 を出 して見 るつもりはある。少 くも触 って見 たいとは思 うとるのじゃ。」 - と
言 う、其 言 い態 が如何 にも冷淡 に、無頓着 を装 っているけれども、なアに私 にだって眼 がありまさア。少佐 の眼 が熱心 と慾 とで光 って居 るくらいは見抜 いて居 まさア。 私 も気 が立 っては居 たが、わざと素気 なく言 ってやったんです。- 「なに、
旦那方 、報酬 と申 して、どうせ斯 ういう境遇 にある私等 の御願 いすることア一 つきしゃ厶 いませんや。つまり旦那方 のお蔭 で此 島 を逃出 すことが出来 さえすりゃアいいんです。他 の三人 の印度人 も同様 です。そしたら旦那方 御二人 も仲間 にして五人 で宝 を分 けようじゃ厶 いませんか。」 - 「ふム!
五 つに分 けるのか!そりゃア余 まりゾッとしないな。」 - 「でも
一人 当 て拾万円 ずつになるじゃ厶 いませんか。」 - 「それにしても
我々 がどうしてお前 たちを逃 げ出 させることが出来 るか。それは不可能 なことを請求 するというものじゃ。」 - 「いえ、
決 して出来 ない相談 をお願 い致 すんじゃ厶 いません。御願 いをする迄 にゃアこれでも底 の底 まで考 えたんです。私 たちが脱 け出 すのに第 一の困難 というのは航海 に堪 える船 のない事 。航海 の間 の食糧 のないことです。それが陸地 のカルカッタかマドラスに行 けば沢山 船 があります。それを島 へ持 って来 てさえ頂 けりゃア、夜 に紛 れて乗出 しますから、印度 の大陸 の方 の何処 でも関 いませんが、上 がれさえすりゃアそれで宜 しいんです。」 - と
言 うと、須谷 大尉 が、 - 「どうも
拙 い仕事 だな。併 しそれだけの宝 が手 に入 れば、埋合 わせがつくというものか。」 少佐 はまた私 に向 って、- 「
宜 しい、兎 に角 やって見 ることにしよう、その上 で何 れとも決定 しよう。それでは無論 真先 に宝玉 の真否 を確 かめねばならぬ。その鉄函 の埋 めてあるところを教 えてくれ。そうすれば休暇 を取 って印度 へ行 って調 べて来 るから。」 向 うが熱 すれば熱 するだけ、私 の方 では益々 落着 いて、- 「なに、そんなに
御急 ぎにならんでも宜 しいんです。他 の三人 の仲間 の同意 も得 ねばなりませんから。前 にもお話 し致 します通 り私共 四人 は一心同体 で厶 いますからねえ」と言 うと、それには及 ばぬと大分 反対 しましたけれども、私 が飽迄 頑張 ったので遂々 そうすることになり、二度目 の会見 で宇婆陀 、漢陀 、阿武迦 の三人 も立合 い、いろいろと談判 があった末 、漸 く相談 が整 いました。それは私 たちが宝玉 の埋 め場所 を示 した詳 しい塞 の図 を一枚 ずつ二人 に差出 す。少佐 はそれを以 て第 一に印度 に渡 って、事 の真否 を検 べる。果 して鉄函 が有 ったらば、其儘 埋 め置 いて食糧 を積 んだ船 を一艘 島 へ送 り、何 喰 わぬ顔 で勤務 に戻 る。私 たちは其 船 で島 を抜出 す。今度 は須谷 大尉 が休暇 を取 って印度 に渡 り、阿虞良 で私 たちと落合 って大尉 は少佐 と二人 分 の分配 を受取 る。斯 ういう手筈 を極秘 の約束 のもとに取 り定 めました。其晩 私 は黎明 まで掛 って二枚 の図 をひき、真保目宇婆陀 、浪須戸阿武迦 、阿多羅漢陀 、それに私 の簗瀬 茂十 、此 四人 の署名 をして少佐 たちに渡 したのです。 旦那方 、余 り話 が長 くて御疲労 でしょう。それに警部 さんも私 を絞首台 にお掛 けなさるのが定 めて御待遠 でしょうから、後 は出来 るだけ縮 めて御話 致 して了 いましょう。悪人 の山輪 の畜生 、印度 へ渡 ったままとうとう島 へ帰 らないんです。そして叔父 が死 んで遺産 が手 に入 ったとか言 って、軍隊 を退 って了 ったんです。間 もなく須谷 大尉 が阿虞良 城 へ行 って見 ると果 して宝玉 の影 も形 もない。山輪 の奴 が一人 で占 めて了 ったんですね。其時 以来 私 はまるで復讐 の為 めに生 きて来 ました。夜昼 絶間 なく其事 ばかり考 え暮 して夢中 になるようになりました。もう法律 も恐 れない、絞首台 も眼中 にない。どうして島 を逃 れようか、どうして山輪 の奴 を突 き留 めようか、どうして殺 してやろうか――其事 以外 には考 えないのです。山輪 を殺 そう!其 一念 に比 べては、もう宝玉 なぞは何 でもなくなって了 いました。
二六、博士 は全 く探偵 の天才家 である ――長き長き茂十の物語は尽きた
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機会 を的 って居 る中 にとうとう島 脱 けの運 が向 いて来 ました。と言 うのは、私 が医者 の真似事 を少 しばかり覚 えたとお話 したでしょう、それです。或時 丁度 染原 軍医 が熱病 に罹 って寝 て居 る最中 、一人 の此 島 の蛮民 が森 の中 で暴民共 に刺 されて死 にかかった。それをば私 が助 けてとうとう全快 させてやったものですから、以来 すっかり私 に恩 を着 ましてね、森 へは帰 らず私 の小舎 の傍 ばかりを彷徨 いているんです。殊 に其奴 から島 の言葉 を習 い覚 えるようになってからは一層 私 が好 きになったらしいんです。名 は頓迦 と言 いましてね、背 こそ莫迦 に低 いが、船乗 りの腕 は確 なもので、一艘 の大 きな独木舟 さえ持 っていました。彼奴 が心底 私 に帰依 して、私 の言 う事 なら何 一 つ背 かぬのを見極 めたので、此奴 を島 脱 けの相手 にしようと覚悟 しました。そして其 決心 を打 ち明 けたのです。で、談合 の結果 、舟 を見張 のない古 い埠頭 に廻 させて、そこから共 に乗船 する。尚 お舟 には飲水 をいれた瓢箪 五六個 、芋薯 、椰子 、馬鈴薯 なぞを積 み込 ませることにしました。恐 らく頓迦 ほど忠実 な奴 はまたと有 りますまい。約束 の夜 になるとチャンと埠頭 へ独木舟 を廻 しやした。然 るところ、茲 に鬼藤 と言 って私 をば日頃 目 の敵 にして虐 めた一人 の看守 がある。其奴 が丁度 其時 埠頭 に来合 わせました。どうかして仇 を取 ろう取 ろうと的 っていたのが、今 島 を出 るに臨 んで来合 わせたこそ天 の与 えと思 って見 ると彼奴 そうとも知 らず鉄砲 を担 いだまま此方 に背 を向 けて岸 に立 っている。私 は脳味噌 を打 ち砕 いて呉 れようと手頃 の石 を探 したが見当 らない。其時 ふッと怪 しな考 えが頭 に浮 んだ。好 し好 し此奴 で擲 ってやろうと、暗闇 の浜 に腰 を卸 して、此 木製 の義足 を解 き、ピョンピョンピョンと三 つばかり片足 飛 びをやらかして、それと気付 いた彼奴 が鉄砲 を構 える間 もあらばこそ、忽 ち義足 を振 りあげて真向 微塵 に打 ち下 ろし、とうとう即死 をさせて了 いやした。其時 の割目 が今 でも此 義足 について居 まさア。そうして置 いて二人 とも大急 ぎで水際 に飛 び着 き、首尾 よく舟 を乗 り出 しました。頓迦 は所持品 一切 を舟 へ持込 んだが、其中 に一本 の長 い竹槍 と椰子 製 の蓆 とがあったので、私 はそれで帆 を造 った。こうして十日間 というもの浪 のまにまに大海 を流 れていると、十一日目 に通 り掛 りの商船 に救 い上 げられました。- それからの
私 と頓迦 との長 い間 の冒険譚 を一々 お話 していたら夜 が明 けたって足 りないくらいですから御迷惑 でしょう。私等 はまア長年 の間 世界中 を漂浪 して居 たんです。其 間 だって寝 る間 も山輪 に復讐 のことは忘 れやしません。英国 へ帰 った時 山輪 は上海 に居 ることを知 り、とうとう其 の後 に上海 へ来 ることが出来 ました。其 から直 に山輪 の住家 は難 なく突 きとめたが、東京 へ移住 したというので、彼奴 が宝玉 をもう正金 に換 えて了 ったか、それとも未 だそのままで持 っているか、それを確 めるために内通者 を一人 二人 こしらえて、共 に東京 へ参 りました。其 内通者 の手 で宝玉 がまだ其儘 であることが解 りました。で、如何 にもして敵 に接近 しようと、いろいろに工夫 したが、彼奴 もさるもの、護衛人 を幾人 も置 いて居 るので、容易 に手 を下 すことが出来 ない有様 です。 - すると
或 日 山輪 が死 にかかって居 るという報知 。それは大変 、仇討 もせずに死 なれてなるものかと私 は狂人 のようになって窓 へ近寄 って見 ると、成程 病床 に横 って、二人 の子息 に何 か言 っている様子 。己 れ相手 は三人 でもいいから跳 り込 もうと思 った時 、早 くも彼奴 はガックリと落入 って了 った。仕方 がないから私 は其晩 彼奴 の室 に忍 び入 り、宝玉 の所在 を捜 る手掛 りもあるかと書類 を引 くり返 して見 たが、それに関 しては一行 も書 いてないんです。忌々 しいから他日 仲間 の三人 に遇 った時 の心慰 せに、と紙片 の端 に四人 の署名 として死骸 の胸 に針 で留 めて来 やした。謂 わば私共 は彼奴 に財産 を強奪 され、愚弄 されたようなもの、その怨恨 の言葉 も添 えずに墓場 へ送 り込 むのは如何 にも残念 でしたからねえ。 - ところで
私共 も喰 って行 くには金 が要 るので、矮人島 の黒奴 頓迦 を観世物 なぞに出 し、生肉 をムシャムシャ喰 わせたり、戦踊 りをさせたりして、それでも可成 な銭 を取 って居 やした。山輪 の方 では、子息 たちが宝玉 を捜 しているというほか、数年間 は何 の珍聞 もなかったが、やがて待 ちに待 った宝玉 が見付 かったという報告 があった。それは亡 少佐 の家 の最頂上 の密室 、丁度 山輪 建志 の科学 実験室 の真上 に当 る室 という事 が解 ったんです。私 は早速 行 って密 とその室 を外 から眺 めたが、不具 の足 でどうしたら登 られるだろうと弱 っていると、その密室 に刎出扉 のある事 と、主人 建志 の夕飯 に降 りる時間 とが解 ったので、やっぱり頓迦 を使 うに越 したことはないと考 え付 いた。で、あの晩 彼 を彼処 へ連 れて行 き、先 ず腰 の周囲 へ縄 を巻付 けさせて登 らせると、猫 のようにスルスルと登 って行 って、屋根 から天井 の密室 、密室 から実験室 へと降 りて行 ったが、意外 にも建志 は夕飯 に降 りぬと見 え其 室 に居 った。これが建志 のために不運 だったんです。忽 ち頓迦 の為 〔ママ〕に毒矢 で殺 されて了 った。このまた黒奴 が、罪 もない建志 を巧 く殺 したのを天晴 れ私 に忠義 でも立 てたつもりか、私 が縄 を伝 って登 って行 って見 ると、さもさも得意 そうな面 をして傲歩 して居 るので、流石 の私 も嚇 として縄 の端 で打 ん殴 ろうとすると、いや、奴 さんの魂消 げかたったらなかったね。併 し殺 したものは仕方 がないから、宝玉 の函 を先 きへ下 ろして置 いて私 も降 りて了 った。その前 に、宝玉 が終 に正当 の権利 を有 つ者 の手 に入 ったことを知 らせるつもりで、卓子 の上 に例 の四人 の署名 を残 しやした。それから最後 に頓迦 は縄 を引上 げて置 いて、登 った時 と同様 、屋根 から抜 けて降 りて了 いました。 - さア、もう
余 まりお話 することも残 ってないようだな。ああ北光丸 のことが有 る。隅原 という者 の所持船 北光丸 が快速力 の汽艇 だということは前 〔ママ〕から聞 いていたので、今 自分 等 が逃 げるには適当 だわいと気 が付 いたから、早速 隅原 の老爺 を雇 って、若 し無事 に自分 たちを汽船 まで運 んだら大 した御礼 をするということにした。爺様 、少 しは臭 いとは思 ったろうが秘密 の真相 までは到底 も知 りようがなかったんですね。これまでの話 は一 つも虚言偽 りのないことですぜ。私 はただ私 というものが何 れだけ山輪 少佐 に欺 されたか。其 子 の建志 の横死 に就 ちゃア全 く自分 に罪 がないということを世間 へ知 らせることが出来 さえすりゃア本望 なんです。」 長 い長 い茂十 の物語 が漸 く尽 きた。- 「
頗 る驚 くべき話 だ」と博士 は口 を開 いて、 - 「
非常 に面白 い事件 だ。結末 も適当 についている、尤 も俺 にとっては格別 新 しい内容 もない。只 あの縄 がお前 が持 って来 たのだとは知 らなんだ。それに頓迦 は毒矢 を残 らず落 し忘 れて行 ったろうと思 うた。そう望 んで居 たんだが、今夜 追跡 の艇 の中 で一本 我々 に撃 ち居 ったわい。」 - 「
旦那 、皆 な失 くなしたんです。丁度 吹竹 に入 っていたのが、一本 残 って居 たんです。」 - 「ああ、
成程 な、そこ迄 は気 が付 かなんだ。」 - 「まだ
何 か御不審 の個所 でも御有 りですかね。」 - と
犯人 は温和 しく訊 いた。 - 「いや、もう
何 にもない、御苦労 、御苦労 。」 - 「
呉田 さん。」と阿瀬田 警部 が言 った。「貴君 は全 く犯罪 の鑑定家 でおありですな。併 し職務 は職務 です。実 は貴君 と中沢 さんとが仰有 るままに少 し寛大 にやり過 ぎました。馬車 も待 って居 るし、二名 の部下 も待 って居 ます。いや、御両君 の今回 の御助力 は感謝 のほかはありません。無論 裁判所 へはまた御立会 いを願 わねばなりますまいが、今夜 はこれで失礼 いたします。」 - 「
旦那 がた、サヨナラ。」 - と
茂十 も言 った。 - 「
茂十 、貴様 が先 きに立 て。」と警部 は用心深 い。「安陀漫 島 の看守 のように、後 から義足 でガンとやられては堪 まらぬから、警戒 せねばならぬわい。」 警部 と犯人 は斯 うして出 て行 った。斯 くしてこの翌日 から都下 の新聞 には、此 の驚 くべき顚末 が連載 され、均 しく世 の耳目 を聳動 した。而 もこれが程 なく、山輪 少佐 や茂十 の本国 なる英国 に伝 わって、英国 の新聞紙 は、日本 の探偵界 に呉田 博士 のあることを、賞揚 してあらゆる讃辞 を羅列 した。呉田 博士 の名 は、一事件 を経 る毎 に、隆々 として、社会 に鳴 り渡 った。博士 は全 く探偵 の天才家 である。又 丸子 と中沢 医学士 とは、其後 一層 に親 し味 を以 て交際 を続 けて居 た。
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