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一、差出人さしだしにん真珠しんじゅ小包こづつみ ――父を尋ねる可憐の一美人

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「こういうわか御婦人ごふじんかた貴方あなたさまにともうして御訪おたづねでございます」。
と、取次とりつぎの者が、一まい女形おんながた名刺めいし呉田くれた博士はかせ卓上テーブル差出さしだした。
それ受取うけとった博士はかせは「なに、須谷すだに丸子まるこ一向いっこうらぬだが、まアとおしてください。いや中沢なかざわくんはずさなくてもよい、きみほうい。」
もなく須谷すだに丸子まるこ確乎しっかりした歩調あしどりで、沈着ちんちゃく態度たいどよそおうて我々われわれへやはいってた。金髪きんぱつ色白いろじろわか婦人ふじんである。せい小柄こがらで、綺麗きれいな人だ。手袋てぶくろふか穿め、此上このうえもなく上品じょうひんととのえてる。が、何処どこやらに質素しっそふうのあるのはあまゆたか生活くらしをしてる人ではあるまい。かざりもなければ、みもないくすんだ鼠色ねずみいろ衣裳いしょうちいさなにぶ色気いろけ頭巾ずきん、その片側かたがわちょぴりとかざしたしろとり羽根はねがそれでもわずか若々わかわかしさをえてる。かお目鼻立めはなだちがととのうてるわけでもなければ、容色ようしょくなるわけでもなけれど、その表情ひょうじょうがいかにも温淑おんしゅく可憐かれんち、わけてもおおきな碧色みどりいろ活々いきいきとして同情どうじょうあふれている。自分じぶん自分じぶんとは、中沢なかざわ医学士いがくしのことなり。本書ほんしょ中沢なかざわ医学士いがくし記録きろくにより著述ちょじゅつせしゆえ、「自分じぶんまたは「」という文字もんじおおし。)は随分ずいぶん各国人かくこくじんせっして色々いろいろおんな観察かんさつしたけれども、いま此様このよう優雅ゆうが敏感びんかんおんなことがない。と同時どうじ自分じぶんはまたういうこと見遁みのがさなかった。それは博士はかせすすめた椅子いす腰掛こしかけたときに、彼女かのじょくちびるふるえ、そのかすかにおののいていたことである。なに余程よほどはげしいこころ苦悶くもんいだいてたらしい。
きゃくくちひらいて、
先生せんせいわたくし先生せんせいことをばわたくし只今ただいま御世話おせわになってりまする築地つきじ濠田ほりた瀬尾子せおこさまからうけたまわって御伺おうかがいたしましたのでございます。なにか一家庭かてい事件じけん御願おねがいたしましたときに、大層たいそう御上手おじょうずに、また御親切ごしんせつ御骨折おほねおくださいましたともうしますことで、」
濠田ほりた瀬尾子せおこさん、はア、些細ささいことで、一御相談ごそうだんおうじたことりました。」
「でも、濠田ほりたさま大層たいそう感謝かんしゃしていらっしゃいます。わたくしのは先生せんせいそのよう些細ささいことではございません。ほんとにわたくし自分じぶんながらわたくしはなしほど奇体きたいなことがろうかとおもうのでございますよ。」
うけたまわりましょう。」と博士はかせ擦合すりあわせ、ひからせて熱心ねっしん椅子いすからからだ乗出のりださせる。
自分じぶんすこしく自分じぶん立場たちばこまったので、「ぼくちょっ失礼しつれいします。」
ちかけると、意外いがいにもきゃく手袋てぶくろげて押止おしとどめ、
「アノ、どうぞ、御迷惑ごめいわくでも御一所ごいっしょ御聞おきくださいますれば幸福しあわせなのでございます。」
うので、またもやこしろす。
手短てみじか事実じじつだけを申上もうしあげますれば此様このようわけなのでございます。」と丸子まるこ言葉ことばをつぎ、「一体いったいわたくしちち英領えいりょう印度インド植民地しょくみんち駐屯ちゅうとん或聯隊あるれんたい将校しょうこうございましたが、わたくしはまだおさなおりははうしないまして、英国えいこくにはほか親戚しんせきございませんのでわずかの知辺しるべ便たよりに、横浜よこはまのハリス女学校じょがっこう寄宿舎きしゅくしゃれさせられまして、そこで十七まですごしました。その卒業そつぎょうとしございます、ちち聯隊れんたい先任せんにん大尉たいいございまして、十二ケ月間げっかん休暇きゅうか上海シャンハイまいりました。上海シャンハイきまするとわたくし電報でんぽうちまして、久振ひさしぶりではやから至急しきゅう上海シャンハイ蘭葉旅館ランバホテルよとございましたので、わたくしいそいで神戸こうべからふね上海シャンハイきまして、その旅館ホテルへ参りますと、『須谷すだに大尉たいいさまたしか当方とうほう御泊おとまりではございまするが、御着おちゃく晩些ちょっそと御出掛おでかけになりました御戻おもどりがございません』とのことに、一日いちにちくらしましたれどかえりませぬ。で、其夜そのよ旅館ホテル支配人しはいにん忠告ちゅうこくもどづきまして、警察けいさつ捜索そうさくねがいだし、翌朝よくちょう諸新聞しょしんぶん広告こうこくいたしましたけれど、なん甲斐かいもなく、今日こんにちいたまでさら行衛ゆくえわかりませぬ。ちち印度インドから上海シャンハイまいりましたのは、安楽あんらく平和へいわ余生よせい見付みつけますためで、それはそれは希望きぼうちてまいりましたのに、それどころかかえっ其様そのようなわけになりまして―――。」
いさして、たえやらずむせかえってしまう。
「それは何時いつごろ出来事できごとですか。」
呉田くれた博士はかせ手帳てちょうひらく。
いまから十年前ねんぜん十二月じゅうにがつ三日みっかございます。」
荷物にもつはどうしました。」
旅館ホテルのこってりましたが、手懸てがかりになりそうなものひとつもございませんでした。着物きものや、安陀漫アンダマン群島ぐんとう印度インド馬来マレイ半島はんとうとのあいだ、ベンガル湾中わんちゅう群島わんちゅう)からってまいりました珍奇ちんき産物さんぶつなぞばかりで――ちち其島そのしま囚徒しゅうと監視かんしめに出張しゅっちょういたしてりましたから、」
上海シャンハイには御尊父ごそんぷ御友人ごゆうじんはなかったのですか。」
わたくしぞんじまするところではたっ一人ひとりございました。それ山輪やまわ省作しょうさくさまもうしまして、矢張やはちち同様どうようボンベイのだい三十四歩兵ほへい聯隊れんたい少佐しょうさございましたが、此方このかたちち上海シャンハイまいりますよりすこ以前いぜん退職たいしょくいたしまして上海シャンハイ御住居おすまいござりました。無論むろんその当時とうじ山輪やまわ少佐しょうさにも御問合おといあわいたしましたけれども少佐しょうさ上海シャンハイまいったことさえ御存知ごぞんじないとの御返事ごへんじございました。」
不思議ふしぎ事件じけんですな。」
博士はかせった。
「いえ、まだまだ不思議ふしぎことるのでございますよ。六ねんほど以前いぜんの四がつ四日よっか東京とうきょう英字えいじ新聞しんぶんに『須谷すだに丸子まるこじょう現住所げんじゅうじょし、じょう利益りえきかんする事件じけんあり」という広告こうこくましたのです。然雖けれども広告主こうこくぬし姓名なまえ住所じゅうしょいてございません。其頃そのころわたくし現今ただいま濠田ほりたさま御邸おやしき家庭教師かていきょうしはいったばかしでございましたが、濠田ほりたさま御勧おすすめにまかせてその番地ばんち新聞しんぶんこたえたのでございます。しまするとそのうち小包こづつみで一名刺函めいしばこだれからともなくわたくし到着とうちゃくいたしました。けてますると、非常ひじょうおおきな立派りっぱ真珠しんじゅ一個ひとつはいってりました。それからともうすもの今日こんにちまでねんあいだ毎年まいねんおなつきおなになりますと、一個ひとつずつ真珠しんじゅとどきまするが、差出人さしだしにんさらわかりませず、宝石商ほうせきしょう鑑定かんていしてもらいますと、めずらしい高価こうかものだともうしますので、コレ、此様このよう結構けっこうものございます。」
一個ひとつひらた小函こばこけて差出さしだすのをのぞけば、成程なるほどかつざる真珠しんじゅ珍品ちんぴん潸然さんぜんひかってる。
じつ面白おもしろい。それでほかなに新事実しんじじつおこりましたか。」
博士はかせく。
「ハイ、それがツイ今日こんにちなので厶いますよ。そのためにうして御伺おうかがいたしましたので厶います。じつ今朝けさほど此様このよう手紙てがみ受取うけとりましたので、何卒どうぞ先生せんせい御覧ごらんくださいまし。」
「ドレドレ、そちらの封筒ふうおうさきに――消印けしいん江戸橋えどばしきょくですな、日附ひづけは十一がつ、ふン!すみおとこ指紋しもんがあるが……多分たぶん配達夫はいたつふのでしょう。紙質ししつ最上等さいじょうとう、一じょう十銭じっせん以上いじょう封筒ふうおうです。これでると差出人さしだしにん文房具ぶんぼうぐぜいつくひとらしい。さて本文ほんもんは……差出人さしだしにんいてない。ええと、文句もんくは、
じょうよ、今晩こんばんしょう劇場げきじょう帝国座ていこくざ入口いりくちひだりより三本目ぼんめはしらところたまえかし。不用心ぶようじん思召おぼしめさば御友人ごゆうじんめい御同伴ごどうはんたまうともくるしからず。貴嬢きじょう或者あるものよりがいこうむらしめられたる不幸ふこう御身おんみうえなりしが、今宵こよい御会見ごかいけんによりて幸福こうふく御身おんみかえたまうべし。ゆめゆめ警官けいかんをなともなたまいそ。警官けいかんおもなたまわばなん甲斐かいもなかるべし。――未知みちともより。
成程なるほど非常ひじょう興味きょうみのある怪事件かいじけんですな。須谷すだにさん、貴女あなたはどうなさる御意おつもりか。」
いえそれ御相談ごそうだんいたいのでございます。」
「では無論むろんまいろうではありませんか。貴女あなたわたくしと――おお、中沢なかざわ学士がくしという適当てきとうひとがある。手紙てがみには友人ゆうじんめい同伴どうはんくるしからずとりましょう。この中沢なかざわくん始終しじゅうわし一所いっしょはたらひとです。」
「ハ、けれどらしつてくださいますから。」
丸子まるこ嘆願的たんがんてきこえ表情ひょうじょうとをした。
自分じぶん熱心ねっしんに、
まいりますとも、わたくしでも御役おやくてば満足まんぞくです、幸福こうふくです。」
「まア、りょう先生せんせいとも御親切ごしんせつがとう厶います。わたくし、ほんとに孤独ひとりぼっちで厶いましたから此様このようとき御相談ごそうだんいた御友人おともだちとては一人ひとりかったのでございますわ。では今晩こんばんまで此方こちらあがりましてよろしゅうございましょうか。」
「六よりおおくれなさらぬように。ああ、もうひとつ、この手紙てがみ手蹟しゅせき真珠しんじゅ小包こづつみ手蹟しゅせきおなじでしょうか。ちがいますか。」
小包こづつみほうみなってまいりました。」
と六まい包紙つつみがみ差出さしいだす。
「ああ、仲々なかなか御用意ごようい周到しゅうとうなことじゃ。」
博士はかせそれ卓上テーブルうえひろげて手紙てがみ文字もじ比較ひかくしてたが、博士はかせ意見いけんでは小包こづつみほうことごとわざちがえてかいてあるけれど、まさ手紙てがみ手蹟しゅせき同一人どういつにん相違そういないと断定だんていした。
須谷すだにさん、これは御尊父ごそんぷ御手おてとはちがいましょうな。」
てもつかぬございます。」
「そうでしょう。よろしい、では六御待受おまちうけしましょう。此等これら手蹟しゅせき暫時ざんじ御預おあずけをねがい。ことくと研究けんきゅうしてましょう。いまはまだ三時半じはんです。では、サヨナラ。」
「では後刻ごこく御免ごめんあそばせ。」
丸子まるこ活々いきいきとしたなつかしげの瞥見べっけん我々われわれかおげ、真珠しんじゅはこ懐中かくしおさめていそった。自分じぶん窓際まどぎわって、ちまた小刻こきざみにあゆ彼女かのじょ後姿うしろすがた目送もくそうした。その鼠色ねずみいろ頭巾ずきんしろとり羽根はねとが群集ぐんしゅうなか消去きえさまでつくしたが、ようや博士はかせほう振向ふりむいて、
じつひとこころきつけるちからのあるおんなですな……」
感嘆かんたんすると、博士はかせふたた煙管パイプをつけながら、
「あの婦人ふじんがかね。フウ、わしtuかなかった。」
先生せんせいはほんとうに自動じどう人形にんぎょうみたいです。時々ときどき先生せんせいこころ木石ぼくせきのように冷々たんたんとなることがあります。」と真面むきになってうと、
「それが不可いかん個人こじんしつによって判断はんだん偏頗へんぱならしむるのが、だい一にくない。」
と、これから、問題もんだいまえには人間にんげんたんに一因子いんし見做みなすというれい先生せんせい非人情論ひにんじょうろんかせられ、ひと外貌みかけによらぬものという実例じつれいひとふたかせられ、最後さいご丸子まるこのこきし手蹟しゅせき鑑定かんていったが、博士はかせ観察かんさつによれば、いやしく日常にちじょう文字もんじたずさわるものかか乱次だらしなき筆法ひっぽうむ、この手蹟しゅせきは一めん優柔不断ゆうじゅうふだん、一めん自惚うぬぼれ筆法ひっぽうであると罵倒ばとうした。そして博士はかせお二三の調査ちょうさ事項じこうるから、一時間じかんばかり外出がいしゅつしてるとかれた。
自分じぶん窓際まどぎわ腰掛こしかけたが、こころ今日きょううつくしききゃくうえはしってた。――あの微笑びしょう、あの豊麗ほうれいなるこえ調子ちょうし彼女かのじょ半生はんせいおおいし奇怪きかいなる秘密ひみつ夫等それらすべむねいた。ちち行衛ゆくえ不明ふめいときが十七さいとすれば今年こんねんまさに二十七さいである――旨味うまみのある年頃としごろだ。青春せいしゅんその自覚じかくうしない、人生じんせい経験けいけんれてすこしく落着おちついた生涯しょうがいらんとする年頃としごろだ。腰掛こしかけたままそれからそれ沈思ちんしふけったが、ゆくりなくもある危険きけんなる思想しそうあたまなかひらめしたので、立上たちあがってつくえはしり、此頃このごろ研究中けんきゅうちゅう最近さいきん病理学びょうりがく論文ろんぶんなか没頭ぼっとうせんとこころみた。何者なにものぞや、わずか医科大学いかだいがくえ、大学院だいがくいんせき一介いっかい書生しょせいにして、仮初かりそめにもおおそれたことおも無法むほうおさよ。しかり、彼女かのじょ単位たんいである、因子いんしである――それ以上いじょうものではない。将来しょうらいにして暗黒あんこくならんか、男子だんし決然けつぜんとそれにむかうのみ、なまじいに想像そうぞう鬼火おにびもってそれをかがやかさんとほっせぬこそよけれ。


二、劇場げきじょうまえ怪馬車かいばしゃ ――濃霧衝きて何処へ行く

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呉田くれた博士はかせ帰宅きたくしたのは五時半じはんはなは上機嫌じょうきげんである。かたえちゃすすりながら、
この事件じけんたいした怪事件かいじけんでもなんでもないらしい。一言いちげんにして説明せつめいべき性質せいしつのものじゃ。」
「ハハア、ではもう真相しんそうがおわかりになったのですか。」
「いや、まだそうわれてもこまるが、しか一個ひとつ手懸てがかりになるべき事実じじつ発見はっけんした。わしはあれから英字えいじ新聞社しんぶんしゃって、ふる綴込とじこみせてもろうたところが、丸子まるこじょうはなしにあったボンベイだい三十四歩兵ほへい聯隊れんたい退しりぞいて上海シャンハイすもうてった山輪やまわ少佐しょうさは、いまから六ねん以前いぜんの四がつ二十八にち意外いがいにも東京とうきょうんでるわい。」
「それがなに手懸てがかりになるのでございましょう。」
おどろいたな。ではこういう順序じゅんじょかんがえて見給みたまえ。須谷すだに大尉たいい行衛ゆくえ不明ふめいとなった。大尉たいい印度インドから上海シャンハイ訪問ほうもんするような友人ゆうじんというのは一人ひとり山輪やまわ少佐しょうさあるのみじゃ。しかるにどう少佐しょうさ須谷すだに大尉たいい上海シャンハイったのさえらぬとう。その山輪やまわ少佐しょうさも四ねん東京とうきょうんだ。その日附ひづけいまはなしたとおり四がつ二十八にちさ。ところがそれから一週間しゅうかんたたぬうちに、須谷すだに大尉たいい令嬢れいじょう何者なにものよりともれず高価こうかなる贈物おくりものけ、爾後じご年間ねんかん毎年まいとしつづいて、つい今回こんかい呼出よびだし手紙てがみとなったではないか。その手紙てがみ丸子まるこじょうしょうして『ものよりがいこうむらしめたる不幸ふこうなる婦人ふじん』と云う。彼女かのじょにとつてちち喪失そうしつ以外いがいなん不幸ふこうがあるだろう。それに贈物おくりもの何故なぜ山輪やまわ少佐しょうさ死後しごただちにはじまったのだろう。こうかんがえてると、少佐しょうさなにぞがある秘密ひみつでもってって、その弁償べんしょう丸子まるこじょういたさんとほっしたもののようにもゆるではないか。それともきみにはほか有力ゆうりょく解釈かいしゃくでもあるのか。」
弁償べんしょうとすればじつ奇体きたい弁償べんしょうですなあ!それにその仕方しかたおかしいようにおもわれますが!丸子まるこじょう手紙てがみおくるにしても、なぜ六年前ねんぜんおくらなかったでしょう。手紙てがみには今夜こんや会見かいけんによりて彼女かのじょ幸福こうふくるとありましたが、はたしてよう幸福こうふくるでしょうか。まさかちち大尉たいい生存せいぞんしてるともかんがえられませんが。」
矢張やはむずかしい、むずかしい。」と博士はかせ沈鬱ちんうつ口調くちょうで「しか今夜こんや探検たんけん万事ばんじ解決かいけつされるだろう。ああ、馬車ばしゃた。丸子まるこじょうたのだろう。きみ支度したくければ階下したりようじゃないか。」
自分じぶん帽子ぼうしかぶり、すこぶおもステッキ取上とりあげたが、れば博士はかせ抽斗ひきだしから短銃ピストルして懐中かくしれた様子ようす、このぶんでは今夜こんや探検たんけん危険きけんともなうてるように自分じぶんおもった。
博士はかせ自分じぶんは、丸子まるこ馬車ばしゃった。丸子まるこくろ外套がいとうた。その多感たかんらしいかお落着おちついてはたが蒼白あおじろかった。かかときにしも多少たしょう不安ふあんかんぜざるものとせば、彼女かのじょ男優おとこまさりとわねばならぬ。しか彼女かのじょ完全かんぜん自己じこ制御せいぎょしてた。そして博士はかせ質問しつもん二三にたいして躊躇ちゅうちょなくこたえをした。
ちち山輪やまわ少佐しょうさとはおな安陀漫アンダマンとう軍隊ぐんたい指揮しきしてりましたところから、それはそれは少佐しょうさとは親密しんみつ間柄あいだがらようでしたよ。ちち手紙てがみ少佐しょうさうわさのないのはございませんでした。それはかく、ここにちち行李こうりなかから発見はっけんいたしましたへんな一まい紙切かみきれございます。なにいてありますけれどだれにもその意味いみわかりませぬ。なにかの御参考ごさんこうになるかもれぬとぞんじまして、只今ただいま見付みつしてまいりました。」
じょう差出さしだ紙片しへん受取うけとった博士はかせは、馬車ばしゃなかながらひざうえひろげてしわのばし、れいの二じゅう拡大鏡かくだいきょうにて仔細しさいこれ検査けんさする。
純粋じゅんすい印度製いんどせいかみですな。かついたなにかへピンめられたあとがある。ここにいてある図表ずひょうなに沢山たくさんへや廊下ろうかなぞをったある大建築物だいけんちくぶつ一部いちぶ設計図せっけいずらしい。かみ片隅かたすみあかインキでいた一個ひとつちいさな十字形じがたりますな。はア、そのうえ鉛筆えんぴつ大分だいぶえてはいるが『ひだりから三・三七』といてある。それからひだり片隅からすみには奇体きたい形象文字けいしょうもじがある。四つの十字形じがたが一れつならんでそのうでってるようなかたちじゃ。いやそのそばにもなにかあるわい。莫迦ばかあらっぽい文字もじじゃな。なに『簗瀬茂十やなせもじゆう真保目宇婆陀まほめうばだ阿多羅漢陀あたらかんだ波須戸阿武迦はすどあぶか――以上いじょうにん署名しょめいによりて』とある。ふフウ、これが今度こんど事件じけんよう関係かんけいがあるやらわしにはまだわからぬ!しか何様なにさま大切たいせつ書類しょるいにはちがいありませぬぞ。これは多分たぶん手帳てちょうなか丁寧ていねいしまわれてあったものですな。さもなくて此様このよう両側りょうがわとも綺麗きれいはずがない。」
仰有おっしゃとおちち手帳てちょうなかから見付みつしました。」
かく非常ひじょう必要品ひつようひんになろうもれぬから大切たいせつ保存ほぞんなすったほうよろしい、いや、この事件じけんわし最初さいしょかんがえたよりははるかふかく、はるか精巧せいこうなものかもれん。わしかんが必要ひつようがありますわい。」
ったあとは、博士はかせ馬車ばしゃかかって沈思ちんし黙考もくこうふけした。自分じぶんひと丸子まるこじょうをお相手あいてに、低声こごえ彼此あれこれ事件じけんうわさをしつつすすんだ。
十一がつ夕暮ゆうぐれである。いまだ七ならざるに暗澹あんたんとしてれ、細雨こさめごときり大都だいとおおつくした。雲泥色どろいろをしたくもはぬかるみのちまたうえ陰惨いんさんとしてさがってる。
銀座ぎんざどおりの両側りょうがわ家々いえいえ瓦斯ガス電燈でんとう朦朧もうろうとしてひかりらす斑点はんてんごとく、粘泥ねんでい舗石しきいしうえ弱々よわよわしき円形えんけい微光びこうぐるのみ。商店しょうてん陳列ちんれつまど黄色きいろ閃光せんこうは、蒸気じょうきごと空気くうきつんざいて、人通ひとどおしげ街衢がいくうえ変転へんてんつねなき陰暗いんあんたる光輝こうきいた。此等これらせまひかりせん横切よこぎって疾飛しっぴする数多あまたかお――悲喜哀楽ひきあいらく種々さまざまかぎりなきかお行列ぎょうれつつつこころには、がた畏怖凄惨いふせいざんじょうおこった。かおやみよりひかりび、ひかりよりやみ吸込すいこまれる。その普通ふつう印象いんしょう恐怖きょうふかんじたのではないが、憂鬱ゆううつにして重苦おもくるしき黄昏たそがれ目下もくか不可思議ふかしぎなる仕事しごととがむすいてこころ圧迫あっぱく神経的しんけいてきならしむるのであった。丸子まるこじょうはとれば、これまたおな感情かんじょうくるしんでいる態度さま歴歴ありありえる。このあいだにあって博士はかせ一人いちにんのみ、些々ささたる刺戟しげきから超越ちょうえつしてる。博士はかせひざうえ手帳てちょうひらき、えず懐中かいちゅう電燈でんとうひかりしたなにをかめつつある。
帝国座ていこくざく。観客かんきゃくすで両側りょうがわ入口いりぐち充満じゅうまんしてる。前面ぜんめん大玄関おおげんかんには馬車ばしゃや、自動車じどうしゃやの乗物のりもの蝟集いしゅうして、盛装せいそう紳士しんし淑女しゅくじょろしてはく。我々われわれいましも指定してい会合点かいごうてんたる三本目ぼんめはしらるがいなや、はやくも一人ひとり馭者ぎょしゃ服装ふくそうしたる小柄こがら色黒いろくろ敏捷びんしょうなるおとこ挨拶あいさつした。
「ええ、貴君あなた様方さまがたしや須谷すだに丸子まるこさんの御連中ごれんちゅうではございますまいか。」
わたくし丸子まるこございます。この御二方おふたかたわたくし御懇意ごこんいかたございます。」
令嬢れいじょうすする。
おとこおどろくほどとおごとき、また疑問的ぎもんてき我々われわれうえけたが、頑固がんこなる態度たいどにて、
須谷すだにさん、御不礼ごぶれい御宥おゆるくださいまし。貴女あなたさま御連おつれかたはまさか警察官けいさつかんではござりますまいな。」
「いいえ、ちかって左様さようではありませぬ。」
おとこ一声ひとこえするど口笛くちぶえならす。と、一人ひとり別当べっとうが一だい四輪よりん馬車ばしゃ近付ちかづひらく。我々われわれ挨拶あいさつしたおとこ馭者ぎょしゃだい腰掛こしかけ、我々われわれにんれにえる。こしをおろすもなく、馭者ぎょしゃうまむちうってす。かく我々われわれ全速力ぜんそくりょくもっ濃霧のうむちまた疾駆しっくする。
おもえば奇異きいなる位置いちにもくものかな。我々われわれいま未知みち使命しめいいだいて、未知みちけりつつあるのである。今宵こよい招待しょうたい欺瞞ぎまんであらんとはおもわれざれども、全然ぜんぜんしからずともがたい。あるいかえっ良好りょうこうなる結果けっか持来もちきたすべき旅行りょこうであるかもからず、そもまたがたい。丸子まるこ態度たいど相変あいかわらず沈着ちんちゃくである、相変あいかわらず決然けつぜんとしてる。自分じぶんそのこころなぐさめんめに、友人ゆうじん南洋なんようにおける冒険譚ぼうけんだんこころみたが、自分じぶんほうかえっ興奮こうふんしていために、はなし屢々しばしば混線こんせんするのであった。
はじめにこそ自分じぶん馬車ばしゃ行手ゆくて多少たしょう見込みこみもあったが、まれ濃霧のうむめに何処いずくはしりつつあるやわからなくなった。ただ随分ずいぶん長途ちょうとでるという観念かんねんがあるのみ。しかしながら博士はかせいたっては馬車ばしゃ辻広場つじひろばよぎり、まがりくねれる小路こうじ出入でいりするたび其名そのなつぶやいてく。「ははア、みょうほうたな、こりゃ本所ほんじょうほうへやってくな……ソーラはたしてじゃ……もうはしうえた……かわかすかえるだろう……。」
成程なるほど隅田河すみだがわゆるながれが瞥乎ちらりはいる。ひろ沈黙ちんもくした河面かわづらふねゆらめきるとたも瞬時しゅんじ馬車ばしゃたちまはしはしえて、ふたたむこぎしちまた迷宮めいきゅうへとすすむ。
博士はかせはつぶやいた。「はハア、このぶんでは今夜こんや招待おきゃくあまにぎやかなところではないわい。」
まった我々われわれ何時いつしかあやしげなる郊外こうがいはこばれていた。陰気いんき煉瓦造れんがづくりいえながつづいて、処々ところどころすみ可厭いや派手派手はではでしい洋館ようかん野鄙やひかがやきをせてる。それをとおすと、各々めいめいささやかな前庭まえにわった二階造かいづくり別荘べっそうならび、つぎにはまたもや目立めだつほどのあたらしい煉瓦屋れんがやながれつあらわれた――巨大きょだいなる帝都ていと田舎いなかほうへニュッとのばばした異形いぎょう触覚しょっかく、それをつとうて我我われわれはしってくのだ。兎角とかくしいて馬車ばしゃあたらしき露台ろだいのある一けんいえまえとまった。近所きんじょいえ空家あきやらしい。馬車ばしゃとまったいえいえども、勝手かってまどるる一じょう光線ひかりのほかはすべ黒暗々こくあんあんである。しか馭者ぎょしゃおとこがホトホトとおとなこえに、たちまうちよりひらかれて、一人ひとり印度人いんどじんらしいしもべあらわれた。黄色きいろ頭巾ずきんしろきダブダブの衣裳いしょうおなじく黄色きいろ腰帯こしおび――そういう東洋風とうようふう服装ふくそうしたおとこが、此辺このへん平凡へいぼんなる郊外こうがいいえ入口いりぐちわくとして突立つったった光景こうけいへんなんとなく不似合ふにあいかんじがした。
大人たいじん、おねであります。」
ぼくもなく、おくほうへやよりたかふえくようなこえが聞える。
真戸迦まとがよ、御客様おきゃくさま御通おとおもうせ、ズッと此方こちら御通おとおもうせ。」


三、待受まちうけたは禿頭はげあたま異様いよう人物じんぶつ ――亡父の秘密を物語らん

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燈火微暗ほのぐらく、装飾そうしょく俗悪ぞくあくなる一どう穢苦むさくるしき廊下ろうかおくつづいてる。我々われわれ印度人いんどじんしもべ案内あんないされてそれすすんでく。右手みぎてのとあるまえくと、かれはそれをひらく。黄色きいろひかりなみさっ我々われわれうえちた。そしてひかり中央ちゅうおう一人ひとりひくおとこ突立つったってる。ひくいがあたまだけは莫迦ばかたかとんがってる。あかこわがグルリとふもと取巻とりまいてえ、其中そのなかにテラテラと禿げた頭頂てっぺんそびえているかたちは、宛然さながら樅林もみばやしなか山峰やまみね髣髴さもにたり。かれ突立つったったままにてこすわせる。その顔面かおがまたえず疳症かんしょうのようにビクビクうごいてる。あるい微笑ほほえみ、あるいしかめ、一瞬時いっしゅんじだも静止せいしせぬ。自然しぜん此男このおとこにダラリと垂下すいかしたるくちびると、あまりにも露出むきだしきいろ乱杭歯らんぐいばとをあたえた。かれはそれをかくさんと絶時ひっきりなしにくちあたりってる。あたまこそおもって禿げてはいるが、年輩ねんぱいはまだわかいらしい。のちにてけば三十をしたばかりであったそうだ。
須谷すだに丸子まるこさん、うこそ御出おいくだすった、うこそ……」と主人しゅじんほそたかこえ幾度いくたびか繰返くりかえし「御両君ごりょうくんうこそ。これはわたくし私室ししつわたくしにとってはせまいながらも一聖所せいしょであります。令嬢れいじょうじつせまいです。しかわたくしおもどおりにかざってあります。東京とうきょう郊外こうがい沙漠さばくようむらおいては美術びじゅつ豪家オーシスです。」
しん我々われわれにん此室このへや光景こうけいおどろかされた。かか陰気いんきいえなかに、かか豊麗ほうれいなるへやるべしとはたれおもおうぞ。もっと高貴こうきなる、もっと光沢こうたくある窓帷カーテン掛布かけぬの四方しほうかべれ、そのあいだ此処ここ彼処かしこには、贅沢ぜいたく装架そうかしたる絵画かいがや、東洋とうようかめなぞがかざられてある。琥珀色こはくいろくろとのまじりの絨氈じゅうたんはいともやわらかに、いともあつく、めばこけしとねごとあししずこころよさ、そのうえななめにかれた二まいとらかわと、室隅すみむしろうえてる大形おおがた水煙管みずぎせるとは、一そう東洋とうよう豪奢ごうしゃしのばせるたねである。ぎんはとかたちしたるランプは、ほとん弁分みわがた黄金こがね針金はりがねつながれてしつ中央ちゅうおうかかっている。そしてそのひかりは一しゅ微妙びみょうなる芳香ほうこう空気くうきみなぎらせる。
主人しゅじん依然いぜん顔面がんめんをビクつかせ、微笑ほほえみつつ、
わたくし山輪やまわ周英しゅうえいもうします。貴女あなた無論むろん須谷すだに丸子まるこさんでしょうが、この御両君ごりょうくんは――」
此方こちら呉田くれた医学いがく博士はかせで、此方こちら中沢なかざわ医学士いがくしございます。」
「ああ、医師ドクトルでいらっしゃいますか。」とかれ非常ひじょう興奮こうふんして「先生せんせい聴診器ちょうしんき御持おもちでございますか。なんならひと御診察ごしんさつ御願おねがいたしたいもので、じつ心臓しんぞうわるくないかと日頃ひごろそればかりが気掛きがかりでしてな。失礼しつれいですが、是非ぜひ御診察ごしんさつください。」
わるるままに自分じぶんかれ心臓しんぞう診察しんさつしたが、何等なんら病気びょうき徴候ちょうこうもない。ただ全身ぜんしん戦慄せんりつさせているところにてれば恐怖きょうふめに心身しんしん顚倒てんとうさせてるのであろう。
心臓しんぞう異状いじょうはありません。にも御心配ごしんぱいおよばぬでしょう。」
うとかれきゅう嬉々にこにこして、
丸子まるこさん、わたくし心配しんぱいひと大目おおめいただきたい。わたくしながことくるしみましてな、以前いぜんから心臓しんぞうべん異状いじょうがありはせぬかとうたがってったのです。只今ただいま御診察ごしんさつ安心あんしんはしましたが、それにつけてもおもすのは貴女あなな御尊父ごそんぷですな。心臓しんぞうのようにいきませなかったならば、いまでも御存命ごぞんめいはずであったのにと残念ざんねんおもいますよ。」
自分じぶんかっとしてこのおとこかおをピシャリとひとなぐってやろうかとおもった。このよう慎重しんちょうようする事件じけん最中さいちゅうにあって、なんたる冷淡れいたんなんたる出放題でほうだいことおとこだろう。丸子まるこ椅子いすこしろしたがそのかおくちびるまで蒼白まっさおである。
「ええ、ちちくなったにちがいないとはおもうてりました。」とかすかった。
主人しゅじん言葉ことばをつぎ「貴女あなたには今晩こんばんのこらず御打明おうちあけします。それにある権利けんりをも差上さしあげます。同時どうじわたくしもその権利けんりけます。あに建志けんしがどうもうそうとかまいません。貴女あなたこの御両君ごりょうくん御連おつくだすったのははなは満足まんぞくです。ただ貴女あなた御力おちからとなるのみならず、またこれからわたくしさんとすること申上もうしあげんとすること証人しょうにんとなってくださること出来できる。これだけの同勢どうぜいならばあにたいしておもった対抗たいこう出来できます。このほかにもう局外者きょくがいしゃれたくない――警察官けいさつかんだの役人やくにんだのというもの真平まっぴら御免ごめんです。此上このうえ他人たにん容喙ようかいなしに、我々われわれ万事ばんじ円満えんまん解決かいけつすること出来できます。官吏かんりが,まじるということあにって最大さいだい苦痛くつうなのです。」
ひく椅子いす腰掛こしかけたまま、弱々よわよわしくみずっぽいあおものさぐるがごと我々われわれほうまたたきする。
貴君あなたがどのような告白こくはくをなさろうとも、だんじて他人たにんへはらさぬつもりです。」
博士はかせうた。自分じぶん首肯うなずいてみせた。
「それで安心あんしんしました!安心あんしんしました!丸子まるこさん、タスカニーでき赤葡萄酒あかぶどうしゅでも一ぱい差上さしあげましょうか。それともハンガリアでき葡萄酒ぶどうしゅはいかが。そのほか葡萄酒ぶどうしゅはないのです。御所望ごしょもうでない。はア、むをません。それならばちょっ御免ごめんこうむいことがあります。わたくしがここで煙草たばこいますが御許おゆるくださいましょうな、東洋とうようやわらかなかおり煙草たばこです。どうもすこ神経的しんけいてきになってますから、こういうときには水煙管みずぎせるなによりの鎮静薬ちんせいやくです。」
かれは一ぽん小蠟燭ころうそくおおきな雁首がんくびってく。と、けむり薔薇水しょうびすいとおって愉快ゆかいげにずッずッとのぼる。我々われわれにん半円形はんえんけいめ、あたまし、あごって固唾かたずんでひかえている。其中そのなかでこの突兀とつこつたる禿頭はげあたまひかりらせた不思議ふしぎなるヒクメキおとこは、なんとやら不安ふあんげに煙草たばこうのであった。
今度こんどわたくしこの告白こくはく貴女あなたむかっていたそうと決心けっしんしたときに、自分じぶん住所じゅうしょ姓名せいめい御打明おうちあけするのはなんでもなかったのですが、多分たぶん貴女あなた此方こちら申出もうしいで胡散うさん思召おぼしめして、不愉快ふゆかい警察官けいさつかん御同行ごどうこうなさるだろうということをおそれましたので、そこでしもべ旦助たんすけ御目おめらせて、しかのち御面会ごめんかいいたそうという順序じゅんじょいたしたのでした。わたくしかれ分別ふんべつことごと信用しんよういていますから、かれ不満足ふまんぞくであったらば其儘そのまま事件じけん進捗しんちょくさせぬようじつ命令めいれいしました。此様このよう用心ようじんりましたことは何卒どうぞしからず、それともうすのが、ちち上海シャンハイから東京とうきょううつにましてからは、わたくし隠遁的いんとんてき生活せいかつをしてりまして、自分じぶんでももうすもなものですが、高尚こうしょう趣味しゅみったおとこ自信じしんしてりますゆえ、わたくしにとっては警察官けいさつかんほど美的びてきでないものはないのです。わたくしあらゆる俗悪ぞくあく実断主義じつだんしゅぎというものに、うまれつき怖気おじけってます。ですから俗人ぞくじん交際こうさいすることもまれであります。御覧ごらんごとく、住居すまいなぞも多少たしょう高雅こうが空気くうきしてるつもりでして、これでも自分じぶんから美術びじゅつ保護者ほごしゃもっにんじてるのです。それがわたくし弱点じゃくてんですな。御覧ごらんください、その風景画ふうけいがはコロー(仏国ふつこく画家がか)の真筆しんぴつです。このサルポトルロサ(伊太利イタリー画家がか)のには鑑定家かんていかすこくびかたむけるかもれませんが、此方こちらのブーゲロー(仏国ふつこく画家がか)にいたってはだんじて真物ほんものです。わたくし趣味しゅみ近世きんせい仏蘭西フランスかたむいています。」
御言葉おことばなか失礼しつれいございますが、」と丸子まるこくちした。
私共わたしどもなに貴君あなた御話おはなしが御有おありだと仰有おっしゃいますので御伺おうかがもうしたのでございますが、もうけますことゆえなるべく御用ごようほうはやうけたまわございます。」
「いや、御道理ごもっともですが、どんなにはやいたしても、多少たしょう御暇おひまかかります。ともうすのはあに建志けんしが、ついこのさき砂村すなむらちちんでましたいえいまりますので、是非ぜひうていただかねばなりませんからです。勿論もちろん御両君ごりょうくん御一所ごいっしょに、そしてひとあにせていただこうではございませんか。わたくし正当せいとうしんじてろうといたした手段しゅだんについて、あに非常ひじょう立腹りっぷくしてまして、げん昨晩さくばん大激論だいげきろんをやりましたが、いやかれおこったとき猛烈もうれつさともうしたら御想像ごそうぞうにはとておよびません。」
砂村すなむらまでくとしたらば、即刻そっこく出掛でかけられたらば如何いかがです。」と自分じぶんうた。
主人しゅじんみみ根迄ねまで真紅まっかになるほど哄笑こうしょうして、
「それはおよびもかぬことです。そんなに不意ふい押掛おしかけたらあにがまアなんというかわかりません。いや、どうしても相当そうとう準備じゅんびをしてから御目おめかかっていただかねばなりませぬ。第一だいいち、これからおおはなしいたす事柄ことがらにつきましても、わたくしわからぬてん数個所すうかしょあります。ですからわたくしれるままを御話おはなもうすにぎませんのです。」とうてかたす。
わたくしちちもうしますのは、さだめてもう御推察ごすいさつでしょうが、かつ印度いんど軍隊ぐんたいりました陸軍りくぐん少佐しょうさ山輪やまわ省作しょうさくであります。ちち退職たいしょくしましたのが十一ねん以前いぜん、それから私共わたしどもともな上海シャンハイまいり、もなく東京とうきょううつり、砂村すなむら住居すまいさだめましたが、印度いんど大分だいぶかね出来でき莫大ばくだいかね珍奇ちんき価値ねうちのある沢山たくさん産物さんぶつとをってて、土人どじんしもべ二三にん使つかってました。そして夫等それら財産ざいさんいえって非常ひじょう贅沢ぜいたくくらしをいたしました。わたくしあに建志けんしとは双生児ふたごでありまして、ほかに兄弟きょうだい一人ひとりもありませんでした。
須谷すだに大尉たいい行衛ゆくえ不明ふめい事件じけんですが、わたくし其時そのときさわぎを記憶きおくしてります。詳細しょうさい新聞しんぶんみ、それに大尉たいいちち友人ゆうじんということりましたゆえ、我々われわれ兄弟きょうだいちち面前めんぜん遠慮えんりょなくそのうわさをいたしますと、ちちくちして大尉たいい行衛ゆくえにつき色色いろいろ想像そうぞうせつたたかわせたりなどしますので、ちちがまさかにその事件じけん秘密ひみつむねおくかくしてり、ぜん世界中せかいじゅうちち一人いちにん大尉たいい運命うんめいっているひとであろうなぞとは、ゆめにもおもおよばなかったのです。
しかそのうち我々われわれ秘密ひみつが――確実かくじつ危険きけんちち頭上ずじょうかかっていることさとりました。ちち一人ひとり外出がいしゅつするのを大層たいそうこわがりましてな、毎時いつも二人ふたりちからつよ拳闘家けんとうかやとうて日頃ひごろ門番もんばんとして使つかっていました。今日きょう貴君方あなたがた御迎おむかえに旦助たんすけ、あれがその一人ひとりでしたよ。ちちなにおそれるのか我々われわれには一言いちげんもうしませんでしたが、あしですね、片脚かたあしひとなどのよく使つかう、ああいう義足ぎそくったものを一ばんきらったのは事実じじつです。一なぞはそういうおとこ途中とちゅう見掛みかけて短銃ピストルちかけたことなぞもありましたがな、これがなんでもない注文ちゅうもんりにまわある商人あきうどだったので、そのくちふさぐために大枚たいまいかねられたりなぞをしたのです。我々われわれたんちち気紛きまぐれとばかりおもうていたのですが、そのいたって我々われわれ想像そうぞうかわらせるべき事件じけん出来しゅったいしました。
ちち印度インドから移住いじゅうねんすなわいまから六ねんばかりまえはることでした。ちちもと印度いんどから一ぽん手紙てがみとどきましたが、これがちちにとって大打撃だいだげき手紙てがみであったと見え、朝飯あさはん卓子テーブルでそれをむなりほとん昏倒こんとうし、爾来じらい死病しびょうかれたのでした。手紙てがみ内容ないようさらわかりませんでしたが、ちらところでは文句もんくみじかく、悪筆あくしつしたためてあったとおもいます。ちち元来がんらい脾臓ひぞう膨張ぼうちょうする病気びょうきくるしんでいたのですが、れから段々だんだんわるくなり、そのとしの四がつ末頃すえごろには医師いしからも見放みはなされ、ちち覚悟かくごいたしたとえて、臨終りんじゅう我々われわれ告白こくはくすることがあるとしました。
ばれて病室びょうしつはいってくと、ちちまくらちから起返おきかえふといきいてましたが我々われわれ姿すがたると厳重げんじゅうなかからめさせて、寝台ねだい両側りょうがわ腰掛こしかけさせました。そして両手りょうて兄弟きょうだいにぎって、苦痛くつう感動かんどうとで途切とぎ途切とぎれになるこえしぼって、じつおどろ告白こくはくいたしたのです。それをちち言葉通ことばどおりにひと御話おはなししてましょうか。」


四、臨終りんじゅうまどのぞ奇怪きかい髭面ひげづら ――天井の密室に五拾万円の宝石函

編集
ちち言葉通ことばどおりだと、ことわって山輪やまわ周英しゅうえいはなしすすめる。
ちちもうしたのです――おれこの臨終りんじゅうときまでこころかぶさっているたった一つのことがある。それはあわれな須谷すだに大尉たいい孤児みなしごに対するおれ処置しょちだ。おれ貪慾どんよくのろわれて一生いっしょうそのつみのためにくるしんだがここに須谷すだにむすめすくなくも当然とうぜんその半分はんぶんくべきたからがある。それまでをも慾深よくぶかおれ横領おうりょうしてったのじゃ。それが我身わがみ利益ためになったかとうにすこしもなってらん――まこと盲目めくらおろかなものは貪慾どんよくということじゃのう。ただたからにぎってるということのみのうれしさに、他人たにんけることなんだのじゃ。い、その規尼涅キニーネびんそばに、真珠しんじゅ尖頭さきにつけた珠数じゅずがあるだろう。元々もともと須谷すだにむすめおくるつもりであったのが、それさえ手放てばななんだよ。だからお前達まえたち兄弟きょうだいは、おれかわってむすめ印度いんどたからけてやってくれ。が、おれまでなにおくってはならぬ――珠数じゅずをやることさえならぬ。
そこでお前達まえたち須谷すだに大尉たいいんだ真相しんそうはなしてこう。一たい大尉たいい長年ながねん心臓しんぞうわずろうてったのじゃが、だれかくしてったがおれ一人ひとりってた。ところ印度いんど在任中ざいにんちゅうおれ大尉たいいとは、特別とくべつ事情じじょうつながれて、莫大ばくだいなるたかられること出来できた。それを全部ぜんぶおれ上海シャンハイかえってったところ、翌年よくねん須谷すだに大尉たいい印度いんどからやってて、其夜そのよ真直まっすぐおれところたずねてまいっての、たから配分わけまえわたしてれいともうすのじゃ。かれはホテルからおれいえまで徒歩かちまいったそうで、大尉たいいむかれたものんだ良張陀りょうちょうだ忠義ちゅうぎ爺様じいさんであった。さて大尉たいいうてると、たから配分ぶんぱい割合わりあいについて意見いけんちがい、しまいには双方そうほう真紅まっかになってろんうという有様ありさまそのうちにかっ憤怒ふんぬおそわれた大尉たいいはスックと椅子いすからあがったとおもうたが、不意ふいむねてた。顔色かおいろ次第しだい物凄ものすご薄黒うすくろ変色へんしょくする、やがてドタリとたおれたが、たおれる拍子ひょうしあたまった宝玉函ほうぎょくばこかどつよ打付うちつった。おれおどろいてこごんでると慄然ぞっとした。かれいきえてるではないか。
うしたらかろうと、おれながあいだ呆然ぼうぜんとして居縮いすくまっていた。無論むろん真先まっさきおこったかんがえは、ひとぼうというかんがえであった。が、かえりみれば此場このば光景こうけいすべてが、おれ大尉たいいころしたとよりほかおもわれない。激論げきろん最中さいちゅうい、頭部とうぶ大傷おおきずといい、ことごとおれ不利益ふりえき証拠しょうことなるもののみである。それにじゃ、宝玉ほうぎょくの一けんおれえず秘密ひみつ秘密ひみつにと苦心くしんしてったのだが、弥々いよいよそのすじもの臨検りんけんいたすとなれば自然しぜんその秘密ひみつにもくことになる。大尉たいい自身じしんところによれば、かれ上海シャンハイちゃくのち行動こうどうは、天地間てんちかんいまだれしるものもないとのこと、しからばかれ消息しょうそくいて他人たにんらしむる理由りゆうもない、とおれかんがえたのじゃ。
そうはいながらもおも思案しあんれてった。其時そのときかおをふと擡上もちあげてると、何時いつにやらしもべ良張陀りょうちょうだ扉口とぐちってるではないか。かれ忍足しのびあし室内しつないすべんでかんぬきけ、こううのだ――大人たいじん御心配ごしんぱいたまうな、大人たいじん大尉たいい御殺おころしになったことはだれにもらせるにおよびませぬ。屍体したいかくしてしまえばこれ上越うえこ手段しゅだんはないではございませぬか――で、おれ自分じぶんころしたのではないとうたが、かれかしらって微笑ほほえみながら、大人たいじん老爺おやじのこらずつぎきました、喧嘩けんかをなされた御声おこえきましたし、ドウと御擲おなぐりなされたおときました。しかしそれを口外こうがいいたすような老爺おやじではござりませぬ。いま家内中かないじゅうみなねむってますから、さアはや屍体したい片附かたづけましょう。とるのだ。でおれもツイ其気そのきになってしもうた。自分じぶん日頃ひごろ召使めしつかしもべにさえ無実むじつしんじられぬ此身このみが、なん理屈りくつ一方いっぽう裁判所さいばんしょ陪審官ばいしんかんまえって無実むじつ弁明べんめい出来できようぞ。そうおもうたから、おれ老爺おやじ手伝てつどうて其夜そのようち死体したい始末しまつをして何喰なにくわぬかおると、さア四五にちしてから上海シャンハイじゅう新聞しんぶん須谷すだに大尉たいい奇怪きかいなる行衛ゆくえ不明ふめい事件じけんについて大騒おおさわぎしててたわい。けれどものういまはなしでお前達まえたち合点がてんがいったろうが、おれかれについてめらるる理由いわれずない。ただかれ死骸しがいのみならず、宝玉ほうぎょくまでかくして、須谷すだに分配わけまえ横領おうりょうしたという事実じじつ、これはまったおれ落度おちどであった。だからおれ自分じぶん死後しごその賠償ばいしょうをしたいのじゃ。兄妹ふたりとも、もっとみみおれ口端くちはたにつけてくれ。その宝玉函ほうぎょくばこかくしてあるところはの――とけたその瞬間しゅんかんちち顔色かおいろさっおそろしくかわったのです。あららかに見据みすえ、あごらし、『彼奴あいつ追払おっぱらえ!さア、はや追払おっぱらえ!』とさけびました。そのこえというものはいまだにみみいてますな。ちち見詰みつめたのはにわいたまどでしたから、我々われわれ何事なにごとぞと振向ふりむけば、こは什麼いかにひとつの人間にんげんかおやみなかから我々われわれのぞいているのです。窓硝子まどがらすはな押付おしつけたところ白々しろじろしたのもみとめられます。なんでも毛深けぶか髭面ひげづらで、粗暴そぼう残忍ざんにん悪意あくい集注しゅうちゅうしたという表情ひょうじょうをしてました。我々われわれ兄弟きょうだいおのれッとばかりまど突進とっしんしましたが、もう曲者くせものりません。ふたた寝台ねだいもともどってると、ちちはダラリとあたまれてるので、脈搏みゃくはくしらべるとまったまってました。
その庭園ていえんないくまなく捜索そうさくしましたけれども、曲者くせもの闖入ちんにゅうしたらしい形跡けいせきがない。ただまど直下すぐした花壇かだんなか人間にんげん片足かたあし足跡あしあとひとったばかりでした。その足跡あしあとさえかったならば、我々われわれのせいでようあらおそろしいかおたのだとおもめてしまったかもれません、しかしながらぐにの、しかも一そう顕著けんちょなる証拠しょうこあらわわれて、ある秘密ひみつ曲者くせもの我々われわれ周囲しゅうい徘徊はいかいしていること確実かくじつとなりました。その翌朝よくあさことです。ちちへやまどけられて、戸棚とだな手函てばこなどがさがされてある形跡けいせき発見はっけんしました、のみならずちち死骸しがいむねうえに一まいかみ切端きれはしめてあって、それには『四にん署名しょめい』というがなぐりきにしてありました。なん意味いみやら、また曲者くせもの何者なにものやらさらあたりがつきません。我々われわれ判断はんだんいたしたところでは、亡父ぼうふ所持品しょじひん転覆ひっくりかえしこそされたれ、なに一つ紛失ふんしつしなかったということとどまります。我々われわれ兄弟きょうだいこの奇怪きかいなる出来事できごとを、日頃ひごろちちいだいていた恐怖きょうふむすけてかんがえてましたが、今日こんにちいたまで秘密ひみつ依然いぜんとして秘密ひみつのまま、解決かいけつされずのこってるのであります。」
主人しゅじんはもう水煙草みずぎせるともすのをめ、二三分間ぷんかん思案しあんりげにけむりく。予等よらにんこの異常いじょうなる物語ものがたりれて黙然もくねんとしてせるのみ。丸子まるこちち死去しきょはなしかせられたとききゅう死人しにんごと蒼白そうはく顔色かおいろとなった。自分じぶん昏倒こんとうするにあらずやとおそれて、早速さっそく卓子テーブルうえ水罎みずびんみずを一ぱいすすめるとようや恢復かいふくした。博士はかせ放心ほうしんていにて眼瞼まぶたをばかがやうえらして椅子いすらせてる。其態さま瞥見べっけんした自分じぶんは、今度こんど博士はかせすくなくもその智慧ちえ極度きょくど試験しけんするべき事件じけん遭遇そうぐうしたのだとおもった。山輪やまわ周英しゅうえい自分じぶん物語ものがたりしはなしが、異常いじょう感動かんどうあたえたのに得意とくい顔付かおつきをして、一人ひとり一人ひとり順次じゅんじうつしながら、ふたたけむりいてかたした。
すで御想像ごそうぞうでもありましょうが、あにわたしとはちちはなした宝玉ほうぎょくけん夢中むちゅうとなり、数週間すうしゅうかん数月間すうかげつかんわたって邸内ていないくまなく捜索そうさくしたりったりしましたが、さらまいりません。そのかく場所ばしょ臨終りんじゅうちちくちびるのこったまま永久えいきゅうほうむられたのをおもうとくるうばかりでした。宝玉ほうぎょく立派りっぱさはまえにおはなした珠数じゅずても判断はんだん出来できます。この珠数じゅずかんしてもあにわたしとは小争闘こぜりあいいたしました。それにいて真珠しんじゅじつ高価こうかものであったところから、あに手放てばなすのをしがったのです。兄妹ふたりはじもうようですが何方どちらかとえばあに多少たしょうちち欠点けってんけついでましたからな。あにかんがえでは、珠数じゅず手放てばなしたらばうわさたねとなって、んだ面倒めんどう持上もちあがりはすまいかと心配しんぱいしたのです。それをうにかうにかせて、丸子まるこさんの御住所ごじゅうしょさぐり、珠数じゅず真珠しんじゅひとひとはなして毎年まいねんおなつきおな差上さしあげたらば、令嬢れいじょう生活上せいかつじょう御困難ごこんなんもなかろうかと、ようやそのさく実行じっこうしたのであります。」
御親切ごしんせつ御考おかんがえであった。貴君あなたにとってきわめてことであった。」と博士はかせめた。
主人しゅじん残念ざんねんそうにって、
我々われわれわば令嬢れいじょう信托人しんたくにんであったのです。あにかくわたくしだけはそうおもっていました。財産ざいさん沢山たくさんあり、わたしはもうそのうえ利慾りよくほっしない。であるのに、うらわか婦人ふじん其様そのよう無情むじょう境遇きょうぐうくのは非常ひじょうわる趣味しゅみであるとかんがえました。が、その問題もんだいになるといつでもあに意見いけんちがう、それでわたしいっ別居べっきょ得策とくさくと、しもべ旦助たんすけ真戸迦まとが爺様じいさんとをれて一昨年おととしからうちうつりました。
ところがツイ昨日さくじつことです、一大事件いちだいじけんおこりました。それは宝玉函ほうぎょくばこがとうとう発見はっけんされたというのです。で、わたくしあに相談そうだんして即刻そっこく丸子まるこさんにあのよう御招待ごしょうたい手紙てがみ差上さしあげました。ですからのこ問題もんだいはこれから御一行ごいっこうあにたくまいって各々めいめい配分わけまえ要求ようきゅうすればよろしい。その意見いけん昨晩さくばんあにもうしてきました。そのようなわけで、私共わたしどもあにたいしてはあま歓迎かんげいすべき御客様おきゃくさまでないかもれませぬがあに待受まちうけてはるだろうとおもいます。」
周英しゅうえいはなしって、れいかおをピクピクさせながら贅沢ぜいたく椅子いす腰掛こしかける。自分じぶんもこの怪事件かいじけんあたらしき発展はってんこころわれて、依然いぜん沈黙ちんもくつづけていたが、博士はかせ真先まっさきあがった。
貴君あなたはじめからまでじつうなすった。そのかわ我々われわれ多分たぶんいま貴君あなたにとって不可解ふかかいなる暗黒あんこくてんに、幾分いくぶん光明こうみょうとうじてげること出来できようとおもいますわい。かく丸子まるこさんのわるるとおりもう時刻じこくおくいことゆえ、即刻そっこく運動うんどう着手ちゃくしゅしようではありませんか。」
主人しゅじんすこぶ落着おちつはらって水煙管みずぎせるくだおさめ、窓帷カーテン背後うしろから莫迦長ばかなが外套がいとう取出とりいだしてのこらずボタンけ、みみまでおおれのくだがっているうさぎ皮製かわせい帽子ぼうしかぶってようや身支度みじたくむと、あらわれてる個所かしょは、かんやすほねっぽい顔面がんめんばかりである。
わたしからだはどうも薄弱はくじゃくです、どうも病身びょうしんになってしまったのです。」
いながら、かれ玄関げんかんへと案内あんないする。
馬車ばしゃすで玄関げんかん待受まちうけていた。一同いちどううつるやいな驀地まっしぐらいだす。周英しゅうえい車輪しゃりんひびきをあっするたかこえで、絶時ひっきりなしにしゃべつづける。
あに怜悧りこうおとこですよ。まア宝玉ほうぎょく所在ありかをどうしてさがてたと思召おぼしめす。だい一にあにはどれがうちうちにあると断定だんていしたのです。で、家中うちじゅう汎有あらゆ立方りっぽう空間くうかん捜索そうさくし、また方々ほうぼうしゃくはかってて一すんでもちがいのあるかどうかを調しらべました。その結果けっかひとつとしてういうこと発見はっけんしました。それは建物たてものたかさが二十四しゃくある、しかるに各階かくかいへやたかさ、およへやへやとの間隔かんかくなぞをすべせてるとニ十しゃくたない。つまり四しゃくというちがいが出来できました。このちがいはべつ個所かしょにはない。うち一番いちばん頂上ちょうじょうにあるにまっています。そこであに一番いちばんうえへや天井てんじょうあなけてました。するとうでしょう、天井てんじょううえだれにもらさぬようつくった一個いっこ密室みっしつがあって、へや中央ちゅうおう二本にほん組合くみあわさったたるきうえに、はたして宝玉函ほうぎょくばこいてあったではございませんか。早速さっそく天井てんじょうあなからろしましたが、あに眼分量めぶんりょうによれば、宝玉ほうぎょく価値ねうちすくなくも五十万円まんえんくだらぬそうであります。」
五十まん大金たいきんくと、予等よらおもわずまろくした見合みあわせた。丸子まるこにしてはたして正当せいとう権利けんり享受きょうじゅするならば、今日こんにちまずしき家庭かてい教師きょうし境遇きょうぐうよりだっして、一やくもっと富裕ふゆう相続人そうぞくにんとなるであろう。これけいすべきか、とむらうべきか、自分じぶんはずかしけれども此時このときたましい自我じがねんとらわれ、しんなまりよりもおもしずんでいた。丸子まるこむかって二言ふたこと三言みことどもりながら祝辞しゅくじべたのみ、あと山輪やまわくん饒舌おしゃべりをもよそに鬱々うつうつとしてこうべれていた。この周英しゅうえいくんたしか依卜昆垤児ヒポコンデリヤすなわ精神系しんけいけい知覚ちかく過敏かびん患者かんじゃである。ゆめのようにおぼえているが、かれ病気びょうき徴候ちょうこうはてしなくはなし、藪醫者やぶいしゃからもらった沢山たくさん秘薬ひやく処方しょほうその作用さようについて絶間やえまなくてた。げん懐中かくしなか鞣皮なめしがわ小箱こばこには夫等それらくすりはいってるそうである。其晩そのばんがした返答へんとうかれおそらくひとつだもおぼえてはいまい。博士はかせところによれば、自分じぶん周英しゅうえいくんむかって、カストル油剤ゆうざい二滴にてき以上いじょうもちいる危険きけん注意ちゅういしてたそうである。それはかく馬車ばしゃようや一軒いっけんもんまえとまって、馭者ぎょしゃひらくべくりたときには自分じぶんはホッとしたのである。
丸子まるこさん、これがあにいえです。」
周英しゅうえいくん丸子まるこたすおろろしつつった。


五、月光げっこうへや物凄ものすご生首なまくび ――果然、宝玉函の紛失

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今宵こよい冒険ぼうけんこの最後さいご舞台ぶたい予等よら到着とうちゃくしたのは十一ちかくであった。帝都ていと冷湿れいしつなる濃霧のうむすでしりえり、いまうららかにわたってる。一陣いちじんぬくかぜ西方さいほうより黒雲こくうん悠々ゆうゆうそらぎゆくなべに、一ぺん半月はんげつその切目きれめより折々おりおり下界げかいのぞく。可成かなりはなれても物象ぶっしょう弁別みわけのつくあかるさであったが、周英しゅうえいくん馬車ばしゃ側燈そくとうの一つをろして予等よらめにみちてらすのであった。
硝子ガラス破片はへんんだすこぶたかへいが、グルリとやしきめぐってる。入口いりぐちただ一ヶしょ其処そこにはせまてつ釘絆かすがいしたまっている。それをば案内人あんないにん周英しゅうえいくんは、郵便屋ゆうびんやのような一しゅ特別とくべつたたかたをした。と、なかから
誰方どなただね。」と怒鳴どな苛酷かこくこえがする。
甚吉じんきちおれだよ。ようやおれたたりをんだとえるな。」
なにやらブツブツいうこえきこえる、かぎのガチャガチャおとがする、重々おもおもしくギーといてあらわれたのはズングリとしたむねあつぼッたいおとこ角燈かくとう黄色きいろひかりその突出とびだしかおと、パチクリする疑深うたがいぶかそうなとをてらした。
「ああ、分家ぶんけ旦那だんなさまですか。けれど御連おつれのかた誰方どなたですか。貴君あなたさまほかかたについちゃア旦那様だんなさまからなんとも御命令おいいつけがなかったですがね。」
御命令ごめいれいがなかった?おどろいたなア!あにには、一しょに二三にんるかもれぬと昨夜ゆうべことわっていたのに。」
旦那だんなさま今日きょう一日中いちにちじゅう居間いまから御出おでましがないから、わたくし其様そのようことはまだツイぞうけたまわりません。貴君あなた御承知ごしょうちとおり、おやしき規則きそくやかましいのです。で、貴君あなただけはおとおもうこと出来できますが、おれのほうっていただかなくちゃアなりません。」
周英しゅうえいくん困却こんきゃくして、つれなかには婦人ふじんことだからほとん哀願あいがんしたが、門番もんばん先生せんせいがんとしておうじない。この門番もんばん博士はかせ旧知きゅうちでなかったならば予等よら一晩中ひとばんじゅう往来おうらい立往生たちおうじょうしたかもれぬ。意外いがいにも以前いぜん大学だいがく病院びょういん難病なんびょう治療ちりょうしてやったこと発見はっけんされて、閻魔面えんまづらたちまやわらぎ、ようやとおしてもらわれたのは幸福しあわせであった。
門内もんないはいると一条ひとすじ小砂利こじゃりみちれた地面じめんをうねりまがって、一けんのヌッとそびえたいえほうはしっている。四角しかく殺風景さっぷうけいいえで、すべやみなかしずみ、ただそのかく月光げっこうながれて一つの屋根部屋やねべやまどてらしているのみである。陰暗いんあんとしてごと沈黙ちんもくうち突立つったっている宏大こうだいなる建物たてもの姿すがたは、こころに一しゅ戦慄せんりつあたえた。流石さすが周英しゅうえいくんさえ不気味ぶきみえて、角燈かくとうがガタガタとふるえてる。
「どうもわからない、なに間違まちがいじゃないかな。あににはたしか今夜こんやたずねるとっていたのに、居間いままどには燈火あかりしてない……あのつきしてところあにまどです。なか真暗まっくらのようじゃありませんか……ああ、玄関側げんかんがわまどにチラと燈火あかりえると仰有おっしゃるのですか……あれは女中じょちゅうのおすてへやです。ちょっとここにおください、ひとわたし案内あんないいましょう。」
りしも、おおきな真黒まっくろうちうちより、ものおどろいたようおんな悲痛ひつうきわまりなきするど泣声なきごえれてる。
「あれはおすてこえです。どうしたんでしょう。」
周英しゅうえいくんって、ためし配達夫はいたつふてきたたかたをすると、たか一人ひとり婆様ばあさんあられたが周英しゅうえいくん姿すがたると大悦おおよろこびでからだすって、まアかったかったとさけびながら、二人ふたりからだやがうちえ、婆様ばあさんこえとおくなる。
あと呉田くれた博士はかせ周英しゅうえいくんわたきし角燈かくとうしずかって、熱心ねっしん建物たてものと、みちふさいだやまよう土砂どしゃとをてらながめる。丸子まるこおそろしさに自分じぶんにぎってならってる。あやしくも微妙びみょうなるはこいちょうものかな。いまやみてる二人ふたり昨日きのうまであいらざりしもの何等なんら愛情あいじょう言葉ことば愛情あいじょう眼色めいろをもわさざりし男女だんじょである。しか今宵こよいこの難事件なんじけん最中もなかにして、たがいれにもなく相手あいてもとめてるではないか。のちにこそかえりみておどろいたが、其夜そのよ其時そのとき彼女かのじょにそう為向しむけるのがもっと自然しぜんことのようにおもわれたのである。丸子まるこ後日ごじつ屢々しばしばうたところによれば、彼女かのじょもまた本能的ほのうてきあいもと保護ほごもとめたのだそうである。うして予等よら両人りょうにん子供こどもごとつらねてっていた。数多あまたくら秘密ひみつ囲繞いにょうされながらしんとも平和へいわであった。
丸子まるこ四辺あたり見廻みまわしながら、
なにという奇態きたいところでしょう!」とった。
「まるで日本中にほんじゅう土竜もぐらもちが、此処ここからのこらず逃出にげだしたようですね。先生せんせいわたくし西大久保にしおおくぼさきおか中腹ちゅうふくで、恰度ちょうどこれとおな状態ありさまました。もっと其処そこ人類学じんるいがく教室きょうしつ連中れんちゅう発掘はっくつしたところでありましたが。」
いや此処ここ同様どうようさ。これはたからさがしの痕跡あとだからな。かんがえても見給みたまえ、山輪やまわ兄弟きょうだいは六ねんというもの宝玉ほうぎょくさがしてったんじゃ。地面じめんはちようになるのも無理むりではないのじゃ。」
此時このときいえがサッとひらいて、周英しゅうえいくん駆出かけだしてたが、両手りょうてまえしてには恐怖おそれたたえている。
あになに間違まちがいがあったようです!うもおどろいてしまいました!わたくし神経しんけいではとてもたまりません。」
というその態度ありさまは、まった恐怖おそろしさ半分はんぶんきくずれている。大形おおがた羊皮ようひせい襟飾カラーからあらわれてるそのビクビクした弱々よわよわしいかおには、子供こども威嚇おどかされたときよう繊弱かよわ哀願あいがんてきいろ浮出うきでている。
かくうちはいろう。」
博士はかせためし底力そこじからのあるこえで、決然きっぱりうと、
「ええはいりましょう!」と周英しゅうえいくんが「ほんとにわたくしあたまはもう滅茶苦茶めちゃくちゃになってしまいました。」
どうかべについて玄関げんかん左側ひだりわき女中じょちゅ部屋べやはいりみれば、おすてばあさんはふるあがって彼方此方あちこちあるまわっていたが、いましも丸子まるこかおると余程よほどしん落付おちついたものとえて、
「まアなんというおうつくしいおだやかなおかおかたでしょう!」とヒステリーふう啜泣すすりなきながらも「貴嬢あなたくだすったんでほんとに安心あんしんしました。ああわたくし今日きょうという今日きょう寿命じゅみょうちぢまるくらい心配しんぱいしましたよ!」
呉田くれた博士はかせばあさんのはたらつかれたせたかるたたいた。そうして親切しんせつおんならしいなぐさめの言葉ことば二言ふたこと三言みことささやいてやると、ばあさんの蒼白あおざめほおにみるみるのぼってた。
旦那だんなさま今日きょうはおへやじょうおろして御閉籠おとじこもりになったまま、終日いちにち御外出おでましにもならず御声おこえもいたしませぬので、つい一時間いちじかんばかりまえことでございます。なに変事へんじでも御有おありになりはせぬかとおもい、わたくしあがってってかぎあなからのぞいてたのでございますよ。周英しゅうえいよう貴君あなたもまアって御覧ごらんなさいまし、わたくし御当家ごとうけにはながあいだ御奉公ごほうこうしましてかなしい御顔おかおうれしい御顔おかお見慣みなれてりますけれども、まだ今夜こんやよう御顔おかおをばことがありませぬ。」
今度こんど博士はかせがランプをって先頭せんとうった。周英しゅうえいくんわずふるえていて到底とても始末しまつにおえぬ。階段かいだんあがろうとするのだがひざがガクガクしてのぼられそうにもないので、うでかかえてやるという始末しまつである。のぼりながら博士はかせ二度にどばかり拡大鏡かくだいきょう取出とりだして、階段敷かいだんじきうえの、我々われわれにはにもとまらぬ泥濘どろ汚点しみえるものあと仔細しさい検査けんさしてく。のランプをひくめ、左右さゆうするど眼光がんこうくばりつつ、一段いちだん一段いちだん徐々じょじょのぼってく。丸子まるこじょうはおすてばあさんと一所いっしょに、女中じょちゅ部屋べやのこっていた。
三個さんこ階段かいだんのぼつくすと、ややなが真直まっすぐなる廊下ろうかた。右手みぎてにはおおきないた印度いんど掛毛氈かけもうせんかかり、左手ひだりてにはつのぎにならんでいる。博士はかせ依然いぜんたるしずか規則きそくてき歩調ほちょうすすんでゆく。そのかかと引添ひきそうて、予等よら二人ふたりなが陰影いんえい廊下ろうかゆかきつついてく。三番目さんばんめ目指めざしたへやである、博士はかせはコツコツとたたいてたがなん返事へんじもない。把手ハンドルまわしてけようとしたが、うちからふとかんぬきけてある様子ようすしかかぎだけはまわり、鍵穴かぎあなかすかいているので、博士はかせからだかがめてたが、たちまちホーとするどいきいてあがった。
中沢なかざわくんなにかこれはこのなか極悪ごくあくことおこなわれたにちがいない。きみはまアなんおもう。」
というこえいままでになき感動かんどうした口調くちょうである。
何事なにごとならんとおなじくかがめて鍵穴かぎあなからのぞいてたが、あまりのおそろしさにおもわずアッとかあえった。月光げっこうながりて、漠然ばくぜんたるかわやすひかりつる室内しつないに、よ、ほうをヒタと真向まむきながめて、一個いっこ人間にんげんかおそらかかってるではないか。それより以下いか陰影いんえいなかぼっしてえざるゆえに、宛然まるでそら懸垂けんすいせりとえるその首級くびが、だれあろう、同行者どうこうしゃ山輪やまわ周英しゅうえいくんかおではないか。突兀とつこつたる禿頭はげあたまその周囲しゅういあら紅毛あかげのなき顔色かおいろたとはおろか瓜二うりふたつである。ただこの首級しゅきゅうほうにはおそろしき微笑びしょうがこびりいている。じっと、不自然ふしぜんあらわしたままくうかかっている。その不気味ぶきみなる笑顔えがおこの闃寂げきせきたる月光げっこうへやのぞくのだから、顰顔しかめづらをされているよりは神経しんけい慄然ぞっひびく。あまりの不思議ふしぎさにきゅう四辺あたり見廻みまわした。すると真物ほんもの周英しゅうえいくんまさ判然はんぜんそばふるえている。ハテ面妖めんような……と怪訝けげんえなんだが、たちまおもおこしたことがある。周英しゅうえいくんそのあに建志けんしくんとは双生児ふたごであったのだ。
じつおそろしいですな!うしたものでしょう。」
うと、博士はかせは、
やぶるばかりじゃ。」
そこで三人さんにん満身まんしんちからめてからだ衝突うちつけ、あし蹴飛けとばしするほどに、流石さすがかんぬきもミリミリとくだけていた。予等よら直様すぐさまんだ。
このしつ一見いっけん化学かがく実験室じっけんしつにでもてたものらしく、正面しょうめんたなには硝子ガラスぶたびん二列にれつにならび、卓上テーブルうえにはブンゼンしき火口ひぐち蒸留器じょうりゅうき試験管しけんかんなぞが散乱さんらんしてる。室隅しつぐうには柳細工やなぎざいくかごれてさんびんっているが、そのひとつのびんこわれたかるのか、黒色こくしょくえきがドクドクとながで、空気くうきはタールのごと一種いっしゅ独特どくとく刺戟性しげきせい臭気しゅうきよどんでる。しつ片側かたがわには漆喰しっくい木摺きずりなぞの破片はへん散乱さんらんしたなかに、一脚いっきゃく踏台ふみだいち、その真上まうえ天井てんじょう人間にんげん一人いちにんからだとおられそうなあないてる。踏台ふみだいすそには、ながき一じょうなわ乱雑らんざつ蜷局とぐろいてる。
さて卓上テーブルまえ一脚いっきゃく木製もくせい肘掛ひじかけ椅子いすに、此家このや主人しゅじん山輪やまわ建志けんしくんが、手足てあしちぢめて一塊いっかい肉団にくだんとなり、あたま左肩さけんうずめ、思議しぎからざる幽霊ゆうれいごと蒼白そうはく微笑びしょうかおうかめて蹲踞うずくまっていた。身体しんたいすで硬直こうちょくし、冷却れいきゃくし、あきらか死後しご数時間すうじかんる。そして顔面がんめんのみならず四肢ししみな異様いよう盤曲ばんきゃく変化へんかしてるように見受みうけられる。卓子テーブルうえせたそのそば一個いっこ奇体きたいなる器械きかいよこたわっている――褐色かっしょくの、木目もくめりのぼうであって、つちごといしあら縒糸よりいとそのあたましばけてある。そのまたかたわらなにやらん悪筆あくひつにて文字もじしたためた手帳てちょうかみ切端きれはし一枚いちまいある。博士はかせ一眼ひとめ手渡てわたして「見給みたまえ。」と意味いみりげにまゆげる。
角燈かくとうひかりにてんで戦慄せんりつした。文字もじなんぞや。いわく、
四人よにん署名しょめいにて」
「これは殺人ひとごろし意味いみするのだ。」と博士はかせ死骸しがいうえかがかかりつつ「ああ、我輩わがはい予期よきしたとおりじゃ。ここを見給みたまえ!」
ゆびさすのをれば、みみうえ皮膚ひふに、一本いっぽんはりともゆるながくろものさってる。
矢張やはりこれははりだ。いて見給みたまえ。たまえよ。どくいてるから。」
母指おやゆび人差指ひとさしゆびとでそれをはさんでいた。存外ぞんがい楽々らくらくけた。あとにはほとんなん痕跡こんせきのこらぬ。ただ微少びしょう一滴いってき血潮ちしお刺傷さしきずからしたばかりである。
「どうもわたくしにとってはなにからなにまで不可解ふかかい秘密ひみつばかりで、段々だんだん秘密ひみつくらくなるようにおもわれます。」
「いや、わしには反対はんたい一秒いちびょう一秒いちびょう真相しんそうわかりかけてるわい。ただ全体ぜんたい事件じけん連鎖れんさの中にほん四五鐶しごかんまだけているてんがある。それをさがしさえすればいのじゃ。」
博士はかせこのしつはいってから以来いらい周英しゅうえいくん連立つれだってこと全然すっかりわすれていたが、いま気付きづけばかれ扉口とぐちちしまま、両手りょうてねじわせたり、独語ひとりごとうてうめいたり、何様なにさまたましいそこまでおびった有様ありさまである。そうしてうちに、不意ふいするど叫声さけびごえげた。
「やや、宝玉函ほうぎょくばこくなってる!曲者くせもの宝玉函ほうぎょくばこぬすんでった!あれが宝玉函ほうぎょくばこおろした天井てんじょうあなです。わたくしげんあに手伝てつだいをしました!あに一番いちばん最後さいごたのはわたくしです!昨夜ゆうべ此室このへや階段はしごだんりながら、あに此室このへやかぎうのをたしかきました。」
「それは何時頃なんじごろであったろう。」
「十でした。ああああ、あにころされてれば、警察官けいさつかんるでしょう、そしてわたくし嫌疑けんぎかかけられるでしょう。ええ、屹度きっとそんなことにある。雖然けれど御両君ごりょうくんだけはまさか御疑念ごぎねんはないでしょうな。わたくし所業しわざだなぞと御考おかんがえはくださらぬでしょうな。犯人はんにんわたくしであったら、どうして今夜こんや態々わざわざ貴君方あなたがたをここへ御案内ごあんないしましょう。ああああ、まるで狂人きちがいになりそうだ!」
両手りょうてすやら、狂気きょうきごとゆからすやら、
そのかた博士はかせ親切しんせつかるたたきながら、「山輪やまわくんなに其様そのようにビクビクすることはない。わし忠告ちゅうこくするから、早速さっそく警察署けいさつしょ馬車ばしゃはしらせて警官けいかん事情じじょうをおげなさい。万事ばんじにつけて警官けいかんたすけになるようにおしなさい。我々われわれはここで貴君あなたのおかえりをこととしましょう。」
かれ半分はんぶん夢中むちゅうその忠告ちゅうこくしたごうた。あいだもなく予等よらくら階段かいだんはしりるかれ跫音あしおといた。


六、天井裏てんじょううら密室みっしつ臨検りんけん ――驚くべき犯罪史上の新生面

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二人ふたりりになると、博士はかせ両手りょうてこすせつつ、
「さア、中沢なかざわくん三十分さんじゅっぷんだけは猶予ゆうよ出来できた。これをもっと有効ゆうこう利用りようしなくちゃならぬ。いまはなししたとおわし見込みこほとんってる。が、無暗むやみしんむと失敗しっぱいする。事件じけん一見いっけん簡単かんたんであるが、そのそこには深遠しんえん意味いみよこたわってるかもれぬ。」
この事件じけん簡単かんたんですか!」
たしか簡単かんたんだ!」と博士はかせ医学校いがっこうにて臨床りんしょう講義こうぎをする教授きょうじゅといった態度たいどで「まアそのすみこしかかたまえ。きみ足跡あしあと方々ほうぼうにつくとまぎらわしくて不可いけぬ。し、これからが弥々いよいよ活動かつどうじゃ!第一だいいち研究けんきゅうきは、曲者くせもの如何いかにして此室このへやはいり、如何いかがにしてったかとてんである。昨夜ゆうべ以来いらいかつけられなかったそうだ。するとまどうであろう。」とランプをってまど近寄ちかより、かせるというよりは独語ひとりごとをするかたちで「まどなかからじている。枠紐わくひも細工さいく仲々なかなかかたい。横手よこてには蝶番ちょうつがいもついてらぬ。けてよう。ちかところ雨樋あまどいかかってらぬ。屋根やねたかくてとどきそうもない。が、一人ひとりおとこまどからしのんだのはたしかじゃ。昨夜ゆうべすこあめったらしい。ソラ、窓台まどだい此刳型くりがたうえひとつの足跡あしあとがあるだろう。ここにはまる泥濘どろあとがある。このゆかうえにもある。ソラ、その卓子テーブルわきにもある。見給みたまえ!中沢なかざわくん!これはじつ有力ゆうりょく実証じっしょうじゃないか!」
まる判然はんぜんいんせられた泥濘どろあとながめたが、
「これは人間にんげん足跡あしあとではないらしいようです。」
人間にんげん足跡あしあとよりも我々われわれにとっては一層いっそう有力ゆうりょくなものだよ。この窓台まどだいうえひとつの靴跡くつあとのあるのがわかるだろう。ひとつだよ。ひろかねかかとったおもくつちがいない。それからそのわき義足ぎそくのあるあとのあるのもわかるだろう。」
「じゃ、片足かたそくおとこでしょうか。」
「そうそう、しかほかにもう一人ひとりやつる――つまり共犯者きょうはんしゃじゃ。きみこのかべ目分量めぶんりょう出来できるかな。」
まどそとながむれば、がつ依然いぜん建物たてものこの一角いっかくかがやいてる。予等よらへや地上ちじょうことやく六十尺ろくじっしゃくであろう。されど見廻みまわしたところ足場あしばければ、煉瓦れんが割目われめさそうである。
此処ここのぼことおよびもつきません。」
手伝てつだいがなければ到底とうてい不可能ふかのうじゃ。しかしここに室内しつない一人ひとり同類どうるいがあると仮定かていして見給みたまえ。その同類どうるいが、あのすみにある丈夫じょうぶなわを、このかべおおきなかぎむすけて地面じめんろしたとする。したらば一本いっぽんあしにせよ、二本にほんあしにせよ、活潑かっぱつおとこであったらばそれをつとうてのぼってられるだろう。勿論もちろん仕事しごとをしたあと同様どうよう方法ほうほうりてゆく。すると同類どうるいなわ引上ひきあげ、かぎからはずし、まどをおろしてなかからめ、最初さいしょはいってところからまたくのにわけもあるまいではないか。それにういうことわかる。」
くだんなわいじりつつ「その一本いっぽんあしおとこなわのぼるのはたくみかもらぬが、本職ほんしょく航海者こうかいしゃではない。その航海者こうかいしゃのようにかたくはない。わしいま拡大鏡かくだいきょうると、このなわ沢山たくさん血痕けっこん附着ふちゃくしてる。ことすえほうになるとひどい。で、わしかんがえでは、先生せんせい非常ひじょう速力はやさすべりる拍子ひょうしに、かわりむいたものとえるのだ。」
成程なるほど先生せんせい観察かんさつはえらいものです。しか事件じけん益々ますますがたくなります。その同類どうるいというのが、うして此室このへやはいんだのでしょう。」
「そうだ、その同類どうるいことだナ!」と博士はかせ思案しあんりげに「それが至極しごく面白おもしろてんだ。わしこの同類どうるいやつ日本にほんおいける犯罪史はんざいしうえ一個いっこ新生面しんせいめんひらいたものとおもう――もっともこれと同様どうよう事件じけん印度いんどにもあったし、阿弗利加アフリカにもあったとおぼえてる。」
「では、何処どこからはいったでしょう。じてあるし、まどにはとて地上ちじょうからとどかないし、煙突えんとつからとおったのでしょうか。」
「いや、火格子ひごうしせまくて煙突えんとつとおられぬ。が、わしにはチャンととおったみちわかってるじゃ。」
「では何処どこからでございましょう。」
すくなくともからでも、まどからでも、煙突えんとつからでもない。さりとて室内しつないこのとおりだから此処ここ潜伏せんぷくしてりようもない。するとのこったとこは何処どこだ。」
屋根やねあなからはいったのですか。」とさけんだ。
無論むろんそうじゃ。それにちがいない。きみ御苦労ごくろうだがランプをっててくれたまえ、いよいよひとつの宝玉ほうぎょくかくしてあった天井てんじょう密室みっしつ調しらべてよう。」
博士はかせ踏台ふみだい頂上ちょうじょうのぼり、両手りょうてたるきつかみヒラリと屋根部屋やねべやのぼった。そして平匍伏へいつぐばりになってランプを受取うけとり、のぼあいだしたてらしてせてくれる。
天井裏てんじょううらこの密室みっしつ十尺じっしゃく六尺ろくしゃくばかりのひろさである。ゆかたるき合間あいま合間あいまうす木摺きずり漆喰しっくいとでかためたものゆえ、梁材はりから梁材はりんでわたらねばあぶなくてあるかれぬ。天井てんじょう三角形さんかっけいをしている。そのそとすなわこのいえ全体ぜんたい屋根やね頂上ちょうじょうとなってるのであろう。室内しつないなに器具きぐ装飾そうしょくとてもなく、年古としふ塵芥ちりいたずらにゆかうずめて居るのみである。
博士はかせ傾斜けいしゃせるかべ一個所いっかしょたたきながら
「ソーラ、此処ここだよ、これが屋根やねつうじている刎出扉はねだしどさ。こうすと、ソラ、ゆる傾斜けいしゃえがいた屋根裏やねうらえるだろう。これがつまり真先まっさき第一だいいち曲者くせもの忍入しのびいっただ。ほかにもなに手懸てがかりがあるかもれぬぞ。」
とランプをひくめてゆか検査けんさしているうちに、これで今宵こんや二度目にどめ驚絶愕絶きょうぜつがくぜついろさっ博士はかせかおにのぼった。また博士はかせ見詰みつめたてん不図ふとると、一時いちじ身内みうち血潮ちしおこおるかとおもわれた。ゆか一面いちめんいているのは跣足はだし足跡あしあとである。じつ判然はっきりいているその足跡あしあとは、普通ふつうおとこのそれの半分はんぶんぐらいのおおきさしかない。
低声こごえで「先生せんせい同類どうるい子供こどもじゃないでしょうか。」
そのこえ博士はかせたちまれにかえって、
「ああ、流石さすが我輩わがはいもこれにはおどろいた。しかかんがえてるとなに不思議ふしぎもない。わしはすっかりわすれてしまっていたが、さもなければこのことあるのを予言よげんしたかもらぬ。もう此処ここにはしらべることはないから、きみりよう。」
で、ふたたもと兇行きょうこうへやりると、熱心ねっしんいた。
「では、あの足跡あしあとについて先生せんせいはどうおかんがえですか。」
中沢なかざわくんきみすこ自分じぶん分解ぶんかいをやって試給みたまえ。」と博士はかせ短気たんきこえして、
わし方法ほうほうはかねてっているじゃないか。それを応用おうようして見給みたまえ。きみかんがえた結果けっかと、わしかんがえた結果けっかとを比較ひかくしてるのも有効ゆうこうだろう。」
「どうもわたくしにはしっかりした見込みこちません。」
「いや、わかる。わしところでは、もう此処ここには格別かくべつ大切たいせつ証拠しょうこのこってるまいとおもう。がしかし、もう一応いちおうあらためてよう。」
拡大鏡かくだいきょう巻尺まきじゃくとを取出とりだし、れいながうすはな床板ゆかいたより二三寸にさんずんへんまで押付おしつけ、とりごと小粒こつぶかがやかせて、あるい比較ひかくし、あるい検査けんさする。その動作どうさ軽快けいかい沈黙ちんもく熱心ねっしんなることは、獲物えものくるらされたる猟犬りょうけんごとくである。博士はかせにしてその精力せいりょく才智さいちとを法律ほうりつ擁護ようごもちいずして悪事あくじ応用おうようせんか、如何いかがなる戦慄せんりつすべき兇悪きょうあく案出あんしゅつするだろう。傍観ぼうかんしつつそうかんがえずにはられなかった。博士はかせうしてしらまわりながらなにをか独語ひとりごとをしてはいたが、つい一大いちだい歓呼かんここえげた。
「もうめたものだ。もうわけはないぞ。第一だいいち曲者くせものやつ不幸ふこうにして結列阿曹篤ケレオソート一種いっしゅ油状液ゆうじょうえきにて医用いようまた防腐用ぼうふようのもの)に蹴躓けつまずいたのだ。ソラ、此処ここ見給みたまえ。この悪臭あくしゅうはな乱雑物ごたごたもの右手みぎてに、その曲者くせものちいさなあし爪先つまさきかたいているではないか。つまり蹴躓けつまずいたものだから、かごりのびんれてくすりしたのだ。」
「すると?」
「すると、曲者くせものつかまえたも同然どうぜんではないか。わし一疋いっぴきいぬってる。そのいぬであったら、このはげしいにおいを世界せかいはてまでも曲者くせものめるにちがいない――がたまえ!警官けいかんがやってたようじゃから。」
成程なるほど重々おもおもしき跫音あしおとと、声高こわだかひびきとが階下したよりえ、いましも広間ひろまがドシンとまったところである。


七、おどろくべし、死因しいん毒刺どくしり ――死人に対する警部の誤解

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博士はかせそのおとみみましながら、
警官けいかんこのしつまえにちょッときみ、この死骸しがいうでさわって見給みたまえ。それからこのあしにも。どうおもうか。」
筋肉きんにくがまるでいたのようにこわいです。」
まったこわい。普通ふつう死後しご硬直こうちょくして収斂しゅうれんはるかつよいのじゃ。顔面がんめんこの偏枉へんおうと、このあやしい微笑びしょうとのふたつから、きみのような断定だんていくだるか。」
わたしかんがえでは、死因しいんある激烈げきれつ植物性しょくぶつせい亜爾加魯乙土アルカロイド植物中ちょくぶつちゅうふくめる塩基性えんきせい化合物かごうぶつ)にするとおもいます。つまりある斯篤里規尼涅ストリキニーネごと薬物やくぶつのために強直きょうちょく痙攣けいれんおこしたのでございましょう。」
わし顔面がんめん縮小しゅくしょうした筋肉きんにく一眼ひとめときからそうおもうたのじゃ。此室このへやはいった瞬間しゅんかんわしぐに毒物どくぶつ組織内そしきないはいんだ手段しゅだんかんがえた。きみってのとおり、わし一本いっぽんとげ発見はっけんした。これはあまたいしたちからあたまかわなかしたものではない。見給みたまえ、これがさったところは、にんこの椅子いす真直まっすぐ腰掛こしかけてたならば、その方向ほうこう丁度ちょうど天井てんじょうあなから打込うちこまれたことになるではないか。そこでとげ仔細しさいしらべて見給みたまえ。」
用心ようじんしてそれを取上とりあげて、角燈かくとうひかりてらながめた。ながく、するどく、黒色こくしょくとげである。して尖端せんたんちかところある護謨性ゴムせい物質ぶっしつ附着ふちゃくして乾燥かんそうせしごとくギラギラとなってる。にぶ尖端せんたん小刀ナイフにて手入ていれをし円形えんけいになしたるごとえる。
「これは日本にほん出来できはりだろうか。」
博士はかせくゆえ、
「いや、まったちがってります。」
「これだけの材料ざいりょうったらば、きみある正確せいかく結論けつろんくだこと出来できるだろう。ああ、しか警官けいかんのぼってたわい。では我々われわれ手伝てつだれん退出ひきさがってもい。」
いつつあるあいだに、次第しだい近付ちかづきれりし人々ひとびと跫音あしおと廊下ろうかひびきをて、あいだもなく一人ひとり鼠色ねずみいろそろいのふく非常ひじょう頑健がんけんそうなおとこが、威風堂々いふうどうどうとして室内しつないあゆった。此男このおとこ赭顔あからがおにて、肥満ひまん多血質たけっしつすこぶちいさけれども、えずまたたするどってる。あとつづいて制服せいふく巡査じゅんさ部長ぶちょう一人ひとり、そして山輪やまわ周英しゅうえいくん相変あいかわらずあせみどろになっていてた。
さて肥満ひまんおとこはなかかった嗄声しゃがれごえで「ほオ、これは事件じけんだ!大事件だいじけんだ!ところでこの方々かたがた誰方どなたかね。」
阿瀬田あせだ警部けいぶわしおぼえがおりのはずじゃが。」と呉田くれた博士はかせしずかかにった。
「ああ、無論むろんおぼえてますとも!」とゼイゼイこえを出して「医学いがく博士はかせ呉田くれたさんでしょう。貴君あなたわすれてなるものですか!従来じゅうらい種々しゅじゅ探偵たんてい事件じけんいて、貴君あなた原因げんいん結果けっか推理すいりかんして講釈こうしゃくをしてくだすったことおぼえてます。貴君あなた我々われわれまさしい探偵たんてい方針ほうしんさずけてくだすったのは事実じじつだ。しかなんでしょう。貴君あなた色々いろいろ事件じけん成功せいこうなすったのは、実際じっさいのところは善良ぜんりょう指導しどうによるとうよりも、やはりそのとき好運こううんによるほうおおかったのでしょう。」
「なに、ほんの簡単かんたん推理すいり結果けっかほかならないのですわい。」
「はア、なになに、有体ありていにおっしゃってもすこしも御恥おはじではない。それはかく、こりゃうしたものでしょう。こりゃ厄介やっかい事件じけんですな!厄介やっかい事件じけんだ!事実じじつ厳然げんぜんとしてそんしてって――理論りろん余地よちがない。わたくしほか事件じけん今日きょう砂村すなむら出張しゅっちょうしてったのは偶然ぐうぜんとはじつ幸福しあわせであった!丁度ちょうど警察けいさつ分署ぶんしょるとうったえがあったのです!この被害者ひがいしゃ死因しいんについてはなん御考おかんがえですか。」
いや、これは理論りろん余地よちのない事件じけんです。」
博士はかせ素気そっけがない。
「や、そうは仰有おっしゃるが、貴君あなた理論りろん時々じじ的中てきちゅうなさるのは我々われわれみとめています。オヤ、入口いりぐちこのかべかんぬきけてあったとえるな!それで五十万円ごじゅうまんえん価値ねうちある宝玉ほうぎょく紛失ふんしつしたとは奇怪きかいだ。まどはどうでした。」
じてあったです、しか窓台まどだいうえには足跡あしあとがありますよ。」
よろしい、よろしい、まどじてあった以上いじょう窓台まどだい足跡あしあとなぞは事件じけんなん関係かんけいもない。これは常識じょうしきわかるのです。主人しゅじんあるい痙攣ひきつけたままんだのかもれぬ。しかし、宝玉ほうぎょく紛失ふんしつということがあるな。はハア!なるほどわかったわ。ういう閃光ひらめき時々じじわたくしむねおこことがある。部長ぶちょうすこ室外そとていてください、山輪やまわさんも何卒どうぞ。いや、呉田くれたさんのおれのかたはそれにはおよびません。さて呉田くれたさん、貴君あなた御意見ごいけん如何いかがでしょう。かれ山輪やまわ周英しゅうえい陳述ちんじゅつするところによれば、かれ昨晩さくばんあに一所いっしょったのです。で、わたしかんがえでは、あに痙攣けいれんけたままんでしまった。そこでかれ周英しゅうえい宝玉ほうぎょくげした。とういうのであるが、どんなものでしょう。」
げしたあとで、死人しにん御念ごねんにもあがって、なかからとざしたとわるるのですか。」
「フン!そのてんすこ間隙すきがあるな。かく常識じょうしきもっひと事件じけん判断はんだんしてましょう。かれ山輪やまわ周英しゅうえいあに同室どうしつったト……兄弟喧嘩きょうだいげんかをしたト……あにんで宝玉ほうぎょく紛失ふんしつしたト……それで周英しゅうえいへや立去たちさって以来いらいだれあに姿すがた見掛みかけなかったト……あに寝床ねどこけずにあるト。ところで周英しゅうえいあきらかに今日こんにち周章狼狽しゅうしょうろうばいていである。その顔付かおつきは――ふム、尋常じんじょうではないぞ。呉田くれたさん、わたくしこの周英しゅうえい周囲しゅういあみってりますぞ。しかそのあみ段々だんだんこまかくなる。」
貴君あなたはまだ全事実ぜんじじつをおつかみになってらん。このとげですな、これは凡有あらゆ理由いわれからしてたしかどくってあるとしんずるのであるが、これが死骸しがいあたまさってった、そのあと御覧ごらんとおりここにいてる。それからいてあるこの紙片しへん卓子テーブルうえにあった。そのそばには此様このよういしあたまのついた奇体きたい道具どうぐもあったのです。此等これらのものは貴君あなた理論りろんのように適合てきごうするでしょうな。」
「や、すべ確認かくにんします。」と肥満ひまん警部けいぶ容体振ようだいぶって「此家このいえには印度いんど出来でき珍物ちんぶついっパイある。このとげなぞも周英しゅうえいってたのであって、はたしてどくってあるとすれば、うたがいもなく殺人用さつじんようきょうしたものである。紙片しへんごときはほんの手品てじなぎぬものでしょう。ただ唯一ゆいいつ疑問ぎもんかれ室外そとった方法ほうほうであるが……ああ、無論むろんそうだ天井てんじょうにあんなあながある。」
ふとった体軀からだ注意ちゅういしながら、敏捷びんしょう踏台ふみだいのぼってれい屋根裏やねうら密室みっしつったが、もなく刎出扉はねだしど見付みつけたとってよろこさわかれこええてる。
博士はかせかたそびやかしながら「先生せんせいにだってなにかは発見はっけん出来できるだろう。時々ときどき推理すいりちからひらめことがあるから!」
りて阿瀬田あせだ警部けいぶ御覧ごらんなさい!事実じじつ畢竟ひっきょう理論りろんよりは有力ゆうりょくですぞ。本事件ほんじけんたいするわたくし意見いけん確定かくていしました。屋根裏やねうら密室みっしつには屋根やねつうずる刎出扉はねだしどがありますぞ。のみならずすこいてる。」
「あれをけたのはわしです。」
「はア、そうですか!すると貴君あなたもあれに御気付おきづきですな。」と少々しょうしょうふさんだが、
「なに、だれきに気付きづいたにせよ、あれがたしか曲者くせもの出道でみちちがいない。部長ぶちょう……」
「ハイ。」と廊下ろうかからはいってる。
山輪やまわ周英しゅうえいくんはいってるようにつたえてください。ああ、山輪やまわくん本職ほんしょく職務上しょくむじょうから一言いちげん御注意ごちゅういするが、貴君あなた今後こんご弁解べんかいをなさるとかえっ貴君あなために不利益ふりえきとなる。本職ほんしょく貴君あなた令兄れいけい建志けんしくん横死おうし事件じけんかんする嫌疑者けんぎしゃとして、法律ほうりつによって貴君あなた捕縛ほばくしますぞ。」
「ああ、こんなことだろうとおもった!だから御両君ごりょうくんにおはなししたじゃありませんか!」
周英しゅうえいくんどくにも両手りょうてひろげて煩悶はんもん表情ひょうじょうをなし、一同いちどうかおをキョロキョロと見廻みまわすばかり。
山輪やまわさん、さほど御心配ごしんぱいのことはない。わし多分たぶんその嫌疑けんぎらしてうえげること出来できようとおもう。」と博士はかせえば、警部けいぶあわててくちして
「いや、理論家りろんか博士はかせあまたいした御約束おやくそくはなさらんがいでしょう。たいした御約束おやくそくをなさると、屹度きっと後悔こうかいなさる。仲々なかなかこの事件じけん貴君あなた御見込おみこみよりは困難こんなんらしい。」
阿瀬田あせださん、わしのつもりでは、ひと山輪やまわくん嫌疑けんぎらすのみならず、昨夜ゆうべこのしつ闖入ちんにゅうした二人ふたり曲者くせものうち一人ひとり姓名せいめいおよその人相にんそうまでをも御知おしらせすること出来できる、その姓名せいめい簗瀬やなせ茂十もじゅうなるものであることは、各方面かくほうめんより推論すいろんしてけっしてあやまらざるところです。このおとこあま教育きょういくなぞはけず、身体しんたい矮小わいしょうしか敏捷びんしょうで、みぎあし一本いっぽんなく義足ぎそく穿めてるが、この義足ぎそく内輪うちわほうこすってる。のこった左足ひだりあしくつ其処そこ爪先つまさき角形かくがたかかとほうにはてつおびってある。年齢ねんれい中年ちゅうねん顔色かおいろけてくろく、一度いちど懲役人ちょうえきにんであった。これだけの事実じじつでも御知おしらせすれば随分ずいぶん御参考ごさんこうになるでしょう。それにもうひと附加つけくわえることは、そのおとこひらかわ大分だいぶこすけてはずである。そこでもう一人ひとり曲者くせものうのは――。」
「はア、もう一人ひとりおとこは?」
警部けいぶ嘲笑あざわらい気味ぎみったが、しか博士はかせ詳細しょうさいなる説明せつめいには内心ないしんすくなからずしたいた気色けしきえる。
何方どちらかとえば不思議ふしぎ人物じんぶつです。」と博士はかせかかとでグルリとからだまわしながらった。
多分たぶん近々きんきんうち二人ふたりとも御紹介ごしょうかい出来できるだろうとおもうのです。中沢なかざわくん、ちょッとはなしがある。」
廊下ろうか階段かいだん降口おりくちみちびき「きみ意外いがい事件じけんのために我々われわれ今夜こんや最初さいしょ目的もくてきほう何処どこへかんでってしまったかたちじゃないか。」
わたくしいまそれをおもしてりましたところです。丸子まるこさんを此様このようおそしいいえめてくのはくないとおもいます。」
まったくない。きみうちおくかえ義務ぎむがあるね。あのにん築地つきじ濠田ほりた瀬尾子せおこという婦人ふじんいえんで居るそうだからそのいえまで、きみおくかえしてるなら、わしはここでってよう。が、きみ疲労くたびれたろうなア。」
ちっとも疲労くたびれはいたしません。かえっってこの怪事件かいじけん真相しんそうをもうすこきわめなくちゃやすまれそうにもございません。わたくし段々だんだん人生じんせいあらっぽい方面ほうめんすこしずつまいりましたが、先生せんせい今夜こんやのようなあとからあとからと椿事ちんじ衝突ぶつかっては流石さすが脳神経のうしんけい滅茶滅茶めちゃめちゃになってしまいます。いずれにせよ、先生せんせい御手腕ごしゅわんで、もうすこ事件じけんふかところりたいとおもいます。」
わしきみもらえれば、非常ひじょう好都合こうつごうじゃ。そこで我々われわれ我々われわれ独立どくりつはたらこう。あの阿瀬田あせだなぞは勝手かって理屈りくつて、其実そのじつ馬鹿ばかげたこと大層たいそう発見はっけんらしくさわいでよろこんでいればよろいのだ。そこで、きみ丸子まるこじょうおくとどけたらば、ぐに馬車ばしゃ城辺河岸しろべかしって、呉服町ごふくちょう三番地さんばんちってくれたまえ。そこの右側みぎがわ三番目さんばんめいえ仙助せんすけという剝製屋はくせいやうちでね、まど鼬鼠いたち小兎こうさぎくわえている看板かんばんがあるからわかるよ。きみ仙助せんすけ爺様じいさんたたおこして、わしよろしくうたとつとえて、至急しきゅうトビーをいと申込もうしこむのだ。そして一所いっしょれててくれたまえ。」
いぬですか。」
「そう、不思議ふしぎ雑種ざっしゅいぬでね、ものちからおどろきものさ。わしはもう東京とうきょうじゅう探偵たんてい応援おうえんしてもらうよりも、トビー一疋いっぴき加勢かせいしてもろうたほうのくらいいかれないのだ。」
「では、ってまいります。いま午前ごぜん一時いちじですから三時さんじまでにはもどられるでしょう。」
そのわし女中じょちゅのおすてばあさんと、印度人いんどじんしもべ、ソラ、周英しゅうえいくん彼方あっち屋根やね部屋べやねむってるとうたやつさ。この二人ふたりしらべてこう。そうしていて阿瀬田あせだ大探偵だいたんてい方針ほうしん研究けんきゅうし、かれまず諷刺ふうしでもいてよう。」


八、深夜しんや馬車ばしゃこい苦悶くもん ――帰りの馬車は犬と同乗

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警官けいかんって一台いちだい馬車ばしゃたすせ、丸子まるこじょう東京とうきょうおくことになった。女中じょちゅのおすてばあさんはもうたましいわぬまで吃驚びっくりしてる。そのそば彼女かのじょあかるかおをして落着おちついてた。じつかたわら扶助ふじょすべき弱者じゃくしゃがあるかぎり、彼女かのじょ婦人ふじん特有とくゆう天子エンゼルごと態度たいどもって、平静へいせいよそおい、もっこの難関なんかんこらえてたのである。しか弥々いよいよ馬車ばしゃったらば、めしのゆるみしにやはじめてウンと昏倒こんとうした。昏倒こんとうからめるとサメザメとした。今宵こよい出来事できごとがいかばかりかひど繊弱かよわこころったのであろう。其時そのときひやかなる人間にんげんえ、みちかぎりもなくとおおもわれたとあとから彼女かのじょはなした。してれば彼女かのじょむね苦悶くもん推察すいさつしなかったのだ。控目ひかえめにさせた自制じせいちから想到そうとうしなかったのだ。同情どうじょうあいとは、被害者ひがいしゃやしきくら庭園ていえんそのったとき彼女かのじょほう奔流ほんりゅうしたのである。せつかんじたが、今日きょう一日ひとひしき経験けいけんは、多年たねん人生じんせい習慣しゅうかんおしえなんだ事柄ことがらおしえた。それは、彼女かのじょ温雅おんがにして雄々おおしき心根こころねである。しか其時そのとき二個にこ思想しそうあってくちびるかんし、あい言葉ことばらさしめなかった。丸子まるこいまこころ神経しんけい振蕩しんとうせられた繊弱かよわたすけなきおんなである。かかとき彼女かのじょあいいるのはあまりにこころなき惨酷ざんこく仕業しわざである。一層いっそう都合つごうわるいのは彼女かのじょ金持かねもちであることだ。万一まんいち先生せんせい探偵策たんていさくにして成功せいこうしたならば、彼女かのじょ莫大ばくだいなるとみにんとなるであろう。ごと書生しょせい此時このときって、偶然ぐうぜん機会きかいもたらきたった親密しんみつ利用りようせんとすることはたして公正こうせいであろうか、正直しょうじきであろうか。彼女かのじょしてたんなる下賎げせん慾張よくばり見做みなしはせぬだろうか。そうかんがえられてはまらぬ。いずれにしてもこの未見みけん宝玉函ほうぎょくばこからざる堡砦ほさいとなって彼女かのじょとのあいだ隔離かくりしてるのである。
馬車ばしゃ築地つきじ濠田ほりた夫人ふじんやしき到着とうちゃくしたのは午前ごぜん二時にじごろ召使めしつかいとく熟睡じゅくすいして深更しんこう今頃いまごろを、女主人おんなしゅじんのみは電話でんわはなしていたとはうものの丸子まるこ今宵こよい成行なりゆきこころいためつつももやらずっていた。年齢とし中年ちゅうねんにして、愛嬌あいきょうのある夫人ふじんである。丸子まるこかえれる姿すがたきゅういでいだかかえたやさしき愛情あいじょうその無事ぶじしゅくははらしき言葉ことば主従しゅじゅうというよりは友人ゆうじん同士どうしった打解うちとけた態度たいどいずれも安心あんしんあたえたたねである。丸子まるこ紹介しょうかいするままに、夫人ふじんせつ引留ひきとめて今日きょう顚末てんまつかんとほっしたが、博士はかせ命令めいれいもあり、その余裕よゆうなきとて、他日たじつやくいて振切ふりきって其家そのやした。馬車ばしゃまどより振返ふりかえれば、玄関げんかん相縋あいすがれる二人ふたり姿すがたも、なかひらきし焼付やきつけ硝子ガラスしにかがや広間ひろまともしもよくえる。おそしき暗黒あんこくなる怪事件かいじけん心身しんしんわれ最中さなかにして、かか平和へいわなる家庭かていながむることは、なにという慰楽いらくであろう。
怪事件かいじけんえば、かんがえればかんがえるほどその真相しんそう暗晦渾沌あんかいこんとんたる姿すがたていしてる。瓦斯ガスひとまたた寝鎮ねしずまれる深更しんこうちまた馬車ばしゃはしらせながら、奇怪きかいなること成行なりゆき最初さいしょより繰返くりかえして追懐ついかいしてた。須谷すだに大尉たいい丸子まるこ受取うけとった真珠しんじゅ小包こづつみ彼女かのじょ在所ありかさが新聞しんぶん広告こうこく丸子まるこ呼出よびだし手紙てがみ――此等これら問題もんだいすで明瞭めいりょうである。雖然けれども此等これら根本こんぽん問題もんだいさら吾人ごじんらっして一層いっそうふかき、一層いっそう悲劇ひげきてきなる秘密ひみつなかさそうてく。印度いんど宝玉ほうぎょく須谷すだに大尉たいい行李こうりちゅうより不思議ふしぎなる図面ずめん山輪やまわ少佐しょうさ臨終りんじゅうさい奇光景きこうけい宝玉ほうぎょく発見はっけん、それにつづいた発見者はっけんしゃ横死おうし犯罪はんざいあやしき共犯者きょうはんしゃ不思議ふしぎ足跡あしあとめずらしき毒刺どくし石器せきき須谷すだに大尉たいい図面ずめんにありし同様どうようなる怪文字かいもじ紙片しへん――これじつ稀代きだい難事件なんじけんあらずしてなんぞ。
博士はかせから指定していされた呉服町ごふくちょう馬車ばしゃいそがせて、其処そこ三番地さんばんち剝製屋はくせいや仙助せんすけじいさんのうちたたおこす。暫時しばらくたたいてからようやまどからかおを出した爺様じいさん酔漢よっぱらい浮浪漢ごろつき間違まちがえて、
し、いつまでもそうして騒々そうぞうしくたたいてろ。狗舎いぬごやひらけて四十三疋しじゅうさんびきいぬのこらずけしかけてやるから……」
らい権幕けんまく威嚇おどしまくったが、
じつ呉田くれた博士はかせから――」
一言ひとこと博士はかせ姓名なまえうと、成程なるほどたいした功徳くどくのあるもので、爺様じいさんきゅう柔順すなおになり、あわててけてむかれてくれた。そしており鉄棒てつぼうあいだからくびあなぐまてんしかりながら用向ようむきき、手燭てしょくけていくつかならんだ狗舎いぬごやほうみちびいた。彼処かしこ此処ここすみ割目われめから動物どうぶつあやしくやみひかりところとおり、たるきまった家禽かきんども夢駭おどろかされてあしかわえるしたすすんでった。
博士はかせのぞんだトビーは不格好ぶかっこうな、ながさ、みみれたいぬであったが、雑種ざっしゅにて毛色けいろとびしろとのぶち、ヨタヨタしたすこぶ変梃へんてこ歩態あるきざまをする。だいごう狗舎いぬごやから引出ひきだされたのを、爺様じいさんからわたされた砂糖さとうかたまりとむらって馬車ばしゃ一所いっしょれる。それからいそいで砂村すなむらいたのはしょう三時さんじ不在ふざいあいだ門番もんばん甚吉じんきち従犯者じゅうはんにんとして捕縛ほばくせられ、周英しゅうえいくんともすで分署ぶんしょ護送ごそうされたよしにて、もんには二名にめい警官けいかん見張みはりをしてった。


九、呉田くれた博士はかせおお軽業かるわざ ――薬臭を嗅ぎゆく猟犬の鋭敏

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博士はかせ玄関げんかんきに両手りょうて懐中かくしに、くちにパイプをくわえてってた。
「ああ、れててくれたか!柔順すなおいぬだね!阿瀬田あせだ警部けいぶはもうってしまうた。きみってからの活動かつどうたいしたものさ。先生せんせい周英しゅうえいくん捕縛ほばくするのみならず、門番もんばんげる、女中じょちゅげる、印度人いんどじんしもべげる。みん引張ひっぱってってしもうた。しかしもう階上うえ警官けいかん一人ひとりのこって居るだけでこれからは我々われわれ世界せかいだ。いぬ其処そこつないで階上いえこう。」
で、トビーをば広間ひろま卓子テーブルつなぎ、階段かいだんのぼってった。兇行きょうこうへやは、死骸しがい敷布しきふおおけただけにてほかかわりはない。疲労つかれたかおをした警官けいかん一人ひとり片隅かたすみ椅子いすもたれてた。博士はかせはそれにむかって、
「ちょっと貴君あなた角燈かくとうしていただい。それからこの紙片しへん何卒どうぞわしくび周囲まわりから、むねれるようにけてください。有難ありがとう。ところでくつ靴下くつしたとをぐから、中沢なかざわくんきみこれをしたときってってくれたまえ。もう一度いちど天井てんじょう部屋べやのぼってたいから、わしのこの半巾ハンケチをその結列阿曹篤ケレオソートなかひたしてください。それでよろしい。きみ一所いっしょにちょっとのぼって見給みたまえ。」
両人ふたりふたた天井てんじょうあなくぐって密室みっしつのぼる。博士はかせまたもや角燈かくとうひかりゆか塵埃ほこりうえ足跡あしあとけて、仔細しさいなにをかしらべて居たが、
中沢なかざわくんきみには此等これら足跡あしあとについて、なに特徴とくちょうのあるてんわかるかね……此処ここ見給みたまえ!これ曲者くせものみぎ足跡あしあとだから。ところでぼく跣足はだし足跡あしあとをそのそばひとけてる。両方りょうほうおもなる相違ちがいは、どのへんるじゃろう。」
先生せんせい[1]足跡あしあとほうゆびみな一所いっしょ緊付くっついて[2]曲者くせものほうののは一本いっぽん一本いっぽんはなれていてる。」
「そうそう、そこじゃ。それを記憶きおくしてたまえ。さて今度こんどは、きみその刎出扉はねだしどところって木造部もくぞうぶはしいでてくれたまえ。わしはここに半巾ハンケチってうしてってるから。」
その言葉ことばどおりにしてると、たちまいタールのごとにおいがはなく。
そのがいよいよ曲者くせもの逃出にげだしたみちまった。きみにおいをてるくらいなら、あのいぬならさらじゃ。さア、きみ階下したはしりていぬわかくのじゃ。そして我輩わがはい軽業かるわざ見物けんぶつしてくれたまえ。」
にわったときには、博士はかせすで屋根やねのぼってた。したよりあおげば博士はかせ姿すがた徐々じょじょとして屋根やねむね匍伏ほふくするおおきな山蛍やまほたるのようである、煙突えんとつ背後うしろ一旦いったんえたとおもったらたちま再現さいげんしたが、もなくまたむこがわえなくなる。で、むこがわまわってると、博士はかせ一方いっぽうすみなるのきまってた。
中沢なかざわくん此処ここりたところだよ……そのくろものはなにか、天水桶てんすいおけか……梯子はしごりそうもないね……と、フウ合点がてんかぬな!此処ここ非常ひじょう危険きけん個所かしょだのになア。しか曲者くせもののぼったあとならば、我輩わがはいだってくだれぬ道理どうりはない。雨樋あまどい随分ずいぶん緊固しっかりしてるね。かく、やッつけてよう。」と、博士はかせ雨樋あまどいつたってようとする。
足裏あしうられるおとがガサガサときこえる。角燈かくとうかべつとうて急速きゅうそくりてる。とおもあいだもなく、博士はかせ翻然ひらりかる天水桶てんすいおけうえへ、そこからさら地面じめんりた。
って靴下くつしたくつとを穿きながら「曲者くせものけるのはもうわけない。その通路とおりみちかわらみなゆるんでいる。そして余程よほどあわてたとえて此様このようものおとしてった。君等きみら医師ドクトル言草いいぐさではないが、これでわし診断しんだんもピタリとあたったわけじゃ。」
差出さしだしたのは、草織くさおりの一個ひとつ小型こがた革嚢かわぶくろ派手はで珠数玉じゅずだまいつむっいてる。形状かたちおおさも煙草入たばこいれぐらい、なかあらためると、六本ろっぽんくろ木製もくせいはいってる。一端いったんまるく、一端いったんとがり、まさ建志けんししたものと同一物どういつぶつである。博士はかせうには、
「こりゃじつ兇悪きょうあく品物しなものじゃよ。間違まちごうてでもさぬように注意ちゅういたまえ。かくこれがはいったのは幸福しあわせであった。つまり毒刺どくし弥々いよいよ曲者くせもの所有しょゆうであったことが偶然ぐうぜんわかったからね。これからが戦場せんじょうじゃ。中沢なかざわくんきみはこれから六哩マイルほどはし勇気ゆうきがあるかね……る……だがあしうことをくかな……く……ではよろしい……おおおおトビーくんだ。だ!いでくれ、いでくれ!」
いぬ鼻先はなさき結列阿曹篤ケレオソートひたみた手巾ハンケチ差出さしだすと、いぬ柔毛やわげうまえたあし踏張ふんばり、あたまかわそびやかしてフンフンした。うしてにおいにらされた博士はかせはやがて手巾ハンケチ遠方えんぽうて、いぬ首輪くびわ頑丈がんじょうなる革紐かわひもをつけて、水桶みずおけふもとへと引張ひっぱってく。と、いぬたちまたかふるえるよう吠方ほえかたつづけ、をピンとはな地面じめんけ、おなにおいをぎ、庭内ていない踏付路ふみつけみち革紐かわひもれるかぎっていだす。予等よら全速力ぜんそくりょくにていだす。
ときしもひがしそら次第しだいしらはじめ、ひややかなる灰色はいいろひかりなか四辺あたりもの朦朧もうろうとしてうかず。くろひとなきまどたか趣味しゅみなきかべ、かの四角しかくなる巨大きょだいいえは、かなしくも孤独こどく姿すがたよこたえて予等よら背後うしろり。予等よらみぞあななどの縦横たてよこられし凋萎敗残ちょういはいざんにわよこぎりてすすむ。
境界きょうかい煉瓦塀れんがべいたっすると、いぬはクンクンきながらその陰影いんえいうてはしったが、一本いっぽん若樹わかぎぶなえた一隅いちぐうるや突然とつぜんまった。其処そこ煉瓦れんが所々ところどころゆるみて、あたか梯子はしご代用だいようごと足掛あしがかりがいくつか出来できる。博士はかせいぬ引張ひっぱったままそれをのぼる。つづいてのぼく。
「ここに片脚かたあしおとこあとがあるぞ。」と博士はかせはやくもけた。「見給みたまえ、しろ漆喰しっくいうえ汚点しみいているから。それにしても昨日きのう以来いらい大雨たいうらぬのはじつ幸福こうふくじゃ!此分このぶんではれいにおいもすで二十八にじゅうはち時間じかん経過けいかしているけれども、依然いぜん道路どうろみてるだろうとおもう。」
白状はくじょうすればは、縦横じゅうおう無尽むじん蜘蛛手くもでごと大都だいと貫通かんつうする東京とうきょう市中しちゅう往来おうらいを、如何いか鋭敏えいびんなりともこのいぬらるるものぞとうたごうた。が、その心配しんぱいもなくれた。煉瓦塀れんがべい飛降とびおりるやいやや、がトビーはかつ躊躇ちゅうちょせず、かつまよわぬ。かれ特有とくゆうあひるあるごと滑稽こっけいなる姿勢しせいもってヨチヨチとはしすすんでく。たしか結列阿曹篤ケレオソート強烈きょうれつなるにおいは、往来おうらい雑多ざったにおいをあっしてかれはな刺戟しげきするに相違そういない。
はしりながら、むねたまっていた疑問ぎもん博士はかせたずねる機会きかいを得た。
一体いったい先生せんせいがどんなにくわし片脚かたあしおとこ鑑定かんていけられたのはういう理由いわれございますか。」
「それはきみなにでもない簡単かんたんことだ。すべてが明々白々めいめいはくはくさ。かんがえて見給みたまえ。印度いんど懲役人ちょうえきにん看守かんしゅやくをしていた二人ふたり将校しょうこうが、うずもれて宝玉ほうぎょくかんする重大じゅうだい秘密ひみつったのだ。彼等かれらめに英国人えいこくじん簗瀬やなせ茂十もじゅうなるもの一枚いちまい地図ちずいた。とうのは、須谷すだに大尉たいい行李こうりちゅうからあらわれた地図ちず簗瀬やなせ茂十もじゅうといういてあったのをきみおぼえているだろう。茂十もじゅう自分じぶん三人さんにん仲間なかまとのめにそれへ署名しょめいをしていたのだ――気取きどって『四人よにん署名しょめい』と時々ときどきいてあったのはそれなんだ。この地図ちずたよりにして須谷すだに山輪やまわ二名にめい将校しょうこう――もしくは其中そのなか一人ひとり――がうずもれた宝玉ほうぎょくおこしてそれを上海シャンハイってたのだね。だがさっするところその将校しょうこう茂十もじゅうたいして約束やくそく報酬ほうしゅうをせずに上海シャンハイしもうたらしい。しからば茂十もじゅう自身じしん何故なにゆえ宝玉ほうぎょくれなかったのか。そのこたえは明白めいはくである。地図ちず記載きさいされてある日附ひづけると、丁度ちょうど須谷すだに大尉たいい懲役人ちょうえきにん看守かんしゅしてった時代じだい日附ひづけになってる。すなわ茂十もじゅう其頃そのころ懲役人ちょうえきにんであって身体しんたい自由じゆうなかったがめに、自分じぶんから宝玉ほうぎょくれること出来できなんだのじゃ。」
しかしそれは推察すいさつとどまるのでございましょう。」
たん推察すいさつのみではない。もろもろ事実じじつおおうところの仮説かせつはそれ以外いがいにないのじゃ。まアどのへんまでその仮説かせつ結果けっか符合ふごうするかを見給みたまえ。山輪やまわ少佐しょうさ数年間すうねんかんというものは、宝玉ほうぎょくにぎって安全あんぜん幸福こうふくくらしてった。するとある印度いんどから一本いっぽん手紙てがみんだ。それをると先生せんせい大恐慌だいきょうこうきたした、さアこれは何故なにゆえであろう。」
少佐しょうさ損害そんがいくわえていた懲役ちょうえき者共ものどもが、放免ほうめんになった報知しらせ手紙てがみかなぞではないでしょうか。」
放免ほうめんか、しからずんば脱獄だつごくじゃ。脱獄だつごくほう有力ゆうりょくらしいテ。何故なぜというのに、少佐しょうさ彼等かれら服役ふくえき期間きかんくらいはくに承知しょうちはずじゃから、今更いまさら手紙てがみまいったとておどろはずがないではないか。それを大恐慌だいきょうこうきたしたというのは、彼等かれら脱走だっそうして予想外よそうがいはや自分じぶん面前めんぜんあらわれきたらんとしたからじゃ。ことここいたって少佐しょうさ如何いかがなるさくったものであろう。かれ片脚かたあし義足ぎそくをしておとこ用心ようじんした――だんってくが、それは印度人いんどじんではうて白人はくじんだよ。何故なぜというのに、少佐しょうさ白人はくじん行商人ぎょうしょうにんそのおとこおもちがえ、短銃ピストルかかけたことまであるのをもっ判断はんだんしてもわかる。ところで地図ちずいてある四人よにん姓名せいめいうち白人はくじんは『簗瀬やなせ茂十もじゅう一人ひとりのみである。ほか三名さんめいいたっては、宇婆陀うばだ漢陀かんだ阿武迦あぶかなぞとうて、いずれも印度人いんどじんまたは回々フイフイ教徒きょうとである。すなわ片脚かたあしおとことは簗瀬やなせ茂十もじゅうほかならぬということ確乎かっことして立証りっしょうさるるではないか。それともわし推理すいりなに申分もうしぶんがあるだろうか。」
ございません。じつ簡潔かんけつ明瞭めいりょうございます。」と今更いまさらながら自分じぶん感服かんぷくしてこたえた。


一〇、おどろ推論すいろんあたるかあたらぬか ――猟犬トビーの滑稽なる失敗

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博士はかせ言葉ことば
「さて今度こんどりに自分じぶん簗瀬やなせ茂十もじゅう境遇きょうぐういてる。かれ見地けんちからかんがえてる。かれ印度いんどから東京とうきょうへやってたことにはふたつの希望きぼうがある。ひとつはかつ自分じぶん権利けんり所有しょゆうしてたところの宝玉ほうぎょくかえことひとつは自分じぶん損害そんがいあたえたおとこたいする復讐ふくしゅうである。かれ山輪やまわ少佐しょうさ住居すまいさぐり、少佐しょうさ邸内ていない或者あるものひそかあいおううたにちがいない。我々われわれわなかったがかれやしき印度人いんどじん羅羅雄ららおなる賄方まかないかたがあった。女中じょちゅのおすてばあさん善人ぜんにんなところから、ツイこの賄方まかないかた信用しんようぎてったとえる。で、その賄方まかないかた文通ぶんつうはしてっても、茂十もじゅうには宝玉ほうぎょくかく場所ばしょわからぬ。これは無理むりもないはなしで、それをもの天地間てんちかん山輪やまわ少佐しょうさと、すでくなった一人いちにん忠僕ちゅうぼくあるのみであった。そのうち茂十もじゅう突然とつぜん少佐しょうさやまいあつすで臨終りんじゅうひんしていることく。かれ狂人きちがいのようになった。宝玉ほうぎょくかく場所ばしょ少佐しょうさとも永遠えいえん埋没まいぼつするのをおそれて、かれ少佐しょうさてい忍入しのびいり、病室びょうしつまどせまった。少佐しょうさ枕頭まくらもとには二人ふたり兄弟きょうだいがいて闖入ちんにゅうするわけかなかったが、少佐しょうさたいする極端きょくたんなる憎悪にくしみかれって其夜そのよ病室びょうしつしのらしめた。かれ万一まんいち宝玉ほうぎょくかく場所ばしょ手懸てがかりりもあらんかと、其時そのときすでんで少佐しょうさ手文庫てぶんこ書類しょるいとうさがしたけれども無効むこうおわった。で、しのんだ記念きねんとして、紙片しへんれい文字もじしたためてったのである。一体いったいかれ少佐しょうさころ場合ばあいがあったらば、死骸しがいうえ同様どうよう文字もじのこすつもりでまえからたくらんでいたに相違そういない。そのこころたんなる殺人ひとごろしあらずして、同志どうし四人よにん署名しょめいもと正義せいぎ復讐ふくしゅうおこなうたということらせるめであったろう。此様このよう奇怪きかいなる思想しそう犯罪史上はんざいしじょうあえめずらしくない。そしてつね犯人はんにんかんして有力ゆうりょくなる証徴しょうちょう供給きょうきゅうしているものである。どうじゃ、中沢なかざわくん我輩わがはいせつことごと首肯うなずくかね。」
はなは明晰めいせきだとおもいます。」
「ところでかれ簗瀬やなせ茂十もじゅう其後そのご行動こうどう如何いかんかれ山輪やまわ兄弟きょうだい宝玉ほうぎょく発見はっけん努力どりょくたいしてえずひそか注意ちゅういはらるにぎなんだ。多分たぶん東京とうきょうには常住じょうじゅうせず、時々ときどき様子ようすうかがいにたものであろう。暫時しばらくすると天井てんじょう密室みっしつ発見はっけんされ、それがちにかれところとなった。ここでまたもや我々われわれ山輪やまわ邸内ていない同類どうるい活動かつどう注目ちゅうもくせねばならぬ。茂十もじゅう片脚かたあしこととて山輪やまわ建志けんしたかへやのぼこと到底とうてい不可能ふかのうじゃ。しかるにここ一個ひとつ奇怪きかいなる同類どうるいがあって、この困難こんなんったが、そのかわ跣足はだしあしをば結列阿曹篤ケレオソートなかひたしてしまうた。ここおいてかがトビーの現出げんしゅつとなり、きみ我輩わがはいとが六哩マイルけねばならぬこととなったのだ。」
しか実際じっさいつみおかしたもの茂十もじゅうでなくして、その同類どうるいでしょうか。」
「それはまさにそうじゃ。のみならず茂十もじゅうは、殺人ひとごろしいとうてった。とうのは、かれ室内しつない闖入ちんにゅうしたその経路けいろ判断はんだん出来できる。かれ元来がんらい山輪やまわ建志けんし其人そのひとにはなん怨恨うらみもない。なるべくはたんばくして猿轡さるぐつわ穿めるくらいにおもうてったのじゃ。かれとても自分じぶん絞首台こうしゅだいのぼるのは可厭いやだろうから。しかむをなかったとうのは、共犯者きょうはんしゃ野蛮やばんてき本能ほんのうはっしてつい毒刺どくし[3]もちいるにいたったのじゃ。ころしたものはもう仕方しかたがない。で、茂十もじゅう署名しょめい紙片しへんのこし、宝玉函ほうぎょくばこつなにて地面じめんげ、つい自分じぶんりたのである。ずこれが我輩わがはいわかかぎりの事件じけん連続れんぞくだ。茂十もじゅう人相にんそういたっては、年齢ねんれい三十六七さんじゅうろくしちでもろうか、顔色かおいろ安陀漫アンダマンごと酷熱こくねつ海中かいちゅう群島ぐんとう懲役ちょうえきふくしてったのじゃから無論むろんけてる。たけ一歩いっぽながさから容易ようい推量すいりょう出来できる。そして髭男ひげおとこだ。山輪やまわ周英しゅうえいくんまどからはじめてそのかお第一だいいち印象いんしょうかれ髭面ひげづらであったのでもれる。このほか不明ふめいてんずあるまいとおもわれる。」
「では、その共犯者きょうはんしゃほう如何どうでしょう。」
「ああ、そうそう、共犯者きょうはんしゃては格別かくべつおおして疑点ぎてんはない。きみにもわかときるだろう。じつあさ空気くうき爽快そうかいだね!見給みたまえ、あのちいさなくもを、まるでおおきな紅鶴あかづるからけた一本いっぽん真紅まっか羽根はねのようじゃないか。アレアレ、太陽たいようあかふちとお棚雲たなぐもうえかがやしたね。あの太陽たいようには数知かずしれぬ地球上ちきゅうじょう人間にんげんてらされるが、おもえば我々われわれのような不思議ふしぎ使命しめいおびびてものほかにはなかろう……とき不思議ふしぎ使命しめいえば、きみ短銃ピストル用意よういしてなんだろうなア。」
そのかわりステッキがございます。」
「ふム、かく曲者くせもの巣窟そうくつめば武器ぶき必要ひつようだよ。茂十もじゅうほうきみまかせよう。ほかやつ抵抗ていこうしたらわしちのめそう。」
短銃ピストル取出とりだしてあらためてて、またみぎ懐中かくしんい入れる。
かかあいだにも我々われわれはトビーにかれて、別荘べっそうだてならんだ田舎いなかめいたみち首都みやこほうへといそせてつい本所ほんじょた。もう場末ばすえまちなかはいってる。種々しゅじゅ労働者ろうどうしゃ船渠ドック人足にんそくはもううごし、だらしのおんなたちは鎧戸よろいどけたり、玄関げんかん掃除そうじしたりしてる。深川ふかがわ木場きば仕事しごとはじまったとえ、粗雑そざつ顔付かおつきおとこどもかけるところである。見知みしらぬおおくのいぬ四辺あたり徘徊はいかいし、我々われわれ驚異きょういけるが、無双むそう良犬りょうけんトビーは左顧右眄さこうべんせず、鼻面はらづらりつけしまま、時々ときどきはげしいにおいをらせかお熱心ねっしんえつつ前進ぜんしんまた前進ぜんしんする。
猿江町さるえちょう大工町だいくちょう霊顔町れいがんちょうとおっていま冬木町ふゆきる。そのあいだどれだけ小路こうじけたか数知かずしれぬ、予等よら追躡ついじょうする曲者くせものども追手おってくらますめに変哲へんてつもなきウネクネせるみち故意わざえらんだらしい。正徳寺しょうとくじ小路こうじ入口いりぐちにて彼等かれらひだりかた大和町やまとちょうまがってる。この大和町やまとちょう和倉町わくらちょうまがらんとするところにて、いぬ前進ぜんしんめ、片耳かたみみて、片耳かたみみらし、はなはまよていにて前後ぜんご左右さゆうはしした。にはグルングルンとまわはじめ、時々ときどき予等よらかおあおおの困却こんきゃく同情どうじょうもとむるごと姿態ようすをする。
このいぬはどうしたとうんだろう。」と博士はかせうめくようなこえして「まさか曲者くせものども馬車ばしゃってしまいはすまいな。飛行機ひこうきそらんでしまいはすまいな。」
此処ここ暫時しばらくってでもたのでしょう。」
「ああ、め!またした!」とホツと一安心ひとあんしん
いぬいましもぎながらグルリとまわったが、不意ふい決心けっしんいたものか。今迄いままでになき精力せいりょく決意けついとをもっごと突進とっしんした。においが以前いぜんより強烈きょうれつとなったのであろう。最早もはやはなをば地面じめん緊付くっつけず、れるかぎ革紐かわひもって驀進ばくしんする。博士はかせ異様いようかがやはじめた。もう目的地目的地とおくはあるまい。
予等よらいま鶴歩町つるあしちょうとおけてつい深川ふかがわ木場きば到着とうちゃくした。といぬ俄然がぜん狂熱ねっきょう状態じょうたいていして、あるいえ耳門くぐりから木挽こびきどもはたらいてかこいなかおどった。そして鋸屑おがくず鉋屑かんなくずあいだくぐけ、小径こみちはしり、行廊わたりをめぐり、ついほこった叫声さけびごえげて一個いっこ大樽おおたるかかった。それははこんでたままで手押車ておしぐるまうえっているものである。トビーはだらりとしたらし、またたきをしつつたるうえから賞讃ほめことばもとむるもののように予等よらかおかたがわりにながめるのであった。たるいたも、手押車ておしぐるまも、一様いちよう黒色こくしょく液汁しるよごれ、四辺あたり一面いちめん結列阿曹篤ケレオソートつよただようてる。
博士はかせおもわず茫然ぼうぜんとして見合みあわせたが、こられずにドッとしてしまった。


一一、ああつい端艇ボートにて逃走とうそうか ――貸船屋に於ける思わぬ手懸り

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うしたらいでしょう。このいぬ特質もちまえ確実性かくじつせいくしてしまったようですね。」とえば、
「なに、矢張やは此奴こいつ自身じしん権利けんりしたごうてはたらいたのさ。」と博士はかせ大樽おおたるうえよりいぬきおろしてかこいそとでながら「なにしろひろ東京とうきょうじゅう運搬うんぱんされる結列阿曹篤ケレオソートかずかんがえたらば、我々われわれけてゆくみち色々いろいろまようのもあやしむにあしらぬ。こといま材木ざいもく乾固用かんこようおおもちいられてるのだから可哀相かあいそうに、トビーにつみはないわい。」
「もう一度いちどおもにおいのほうもどらなければなりませんな。」
「そうだ。幸福しあわせたいした路程みちのりではなかった。あの大和町やまとちょうかどいぬまようたのは、たしかふたつのにおどう反対はんたい方向ほうこうについていたに相違そういない。それを我々われわれ間違まちがうたみちったのじゃから、今度こんどほかほうへさえすすめばよろしい。」
これは格別かくべつ困難こんなんかった。以前いぜんまよったつじまで引返ひきかえすと、いぬおおきなひとつグルリとえがいたあとあたらしき方向ほうこう突進とっしんした。
此度このたび黒江町くろえちょう福住町ふくすみちょうなどぎて大川端おおかわばたほうくびける。中島町なかじまちょう出端ではずれると、右手みぎて河岸かしで、其処そこ一個ひとつ木製もくせい埠頭はとばがある。トビーはそのしんはずれまで予等よらいざない、眼下がんかくろながれにしてえつつ突立つったった。
失敗しまった。此処ここからボートでげられた。」
博士はかせった。
小形こがた平底船ひらそこぶね軽艇けいてい何艙なんそうとなく、埠頭はとば水際みぎわよこたわってる。で、夫等それら順々じゅんじゅんはなをつけさせたが、トビーは熱心ねっしんいでるものの、なん合図あいづもせぬ。
粗末そまつなるうて一軒いっけんちいさな煉瓦建れんがだていえがある。二番目にばんめまどれた掲示板けいじばんにはおおき文字もじにて「隅原介作すみはらかいさく」とあり、そのそばさらに「端艇ボートあり」とある。大扉おおどうえにも広告こうこくているので、予等よら此家このや一艘いっそう小蒸気こじょうきがあることった。埠頭はとば石炭せきたんんであるのでたしかであろう。グルリと見廻みまわした博士はかせ縁起えんぎわるそうな顔付かおつきで、
「どうも形勢けいせいわるい。曲者くせものわしかんがえたよりも怜悧りこう奴等やつらだ。まった踪跡そうせきくらまそうとしたらしくえる。ひょっとすると此処ここなに打合うちあわせがあったかもれぬぞ。」
いて其家そのや近寄ちかよおりしも、なかよりきて、六歳ろくさいばかりの縮毛ちぢれけ頭髪あたま子供縮毛一人ひとりしてた。あとつづいてデブデブにふとえた赭顔あからがおおんなが、おおきなタオルをってはした。そしてわめくには、
「コレ、作坊さくぼうはやあらうのだよ。はやるんだよ。真実ほんとうことかないだッちゃりやしない。御父様おとっさまかえっててそんな真黒まっくろけなかおをしていると、またしかられるじゃないか!」
博士はかせむね一物いちもつすすて「オオ、ぼっちゃんだね!まるで頰辺ほっぺた薔薇ばらのようないろをしているじゃないか!作坊さくぼうさんか、さくちゃん、なにしいものげよう、なにがいいだろうな。」
子供こどもちょっ思案しあんあと
ぼく五銭ごせんしいや。」
「それよりしいものは?」
十銭じっせんならいやい。」
「じゃ叔父おじさんが十銭じっせんあげよう!ソラをお出し!ハハハ、おかみさん、可愛かあいぼっちゃんだねえ。」
「まア、みませんねえ、有難ありがとございます。御覧ごらんとお腕白者わんぱくものなんですよ。いえね、わたくしなぞのにおえたものじゃござんせん。ことやどでもなが不在るすをしますと、もうもうやりれないこま坊主ぼうずなんですよ。」
「ハア、御主人ごしゅじん御不在おるすか。」と博士はかせ落胆がっかりした声音こわねで「それはあいだわるいなすこもちがあったのに。」
「ええ、昨日きのうあさましたきりいまかえりませんのでね。わたくしじつうしたわけかとこまっているんでござんすよ。しか端艇ボート御用ごようならわたくしでもわかりますが。」
じつ蒸気艇ランチくてたのでね。」
「オヤオヤ、生憎あいにくござんすねえ。その蒸気艇ランチって出掛でかけてしまったのですよ。だからわけわからない。ともうしますのはね、旦那だんな、あの蒸気艇ランチには石炭せきたんあまんでござんせんで、そうですね、ほん鐘ヶ淵かね ふちあたりまで往復おうふくするくらいもったでしょうか。はしけったのならみはしませんけれどね。なに、はしけなら勝浦かつうら浦賀うらがのようなとおいところまでってことめずらしくはりませんし、用事ようじおもなれば随分ずいぶんとまってることもりますけれど、石炭せきたんのない蒸気艇ランチしてうするつもりなんでござんしょう。」
何処どこかで石炭せきたんんだのかもれないね。」
「さア、そうかもれませんが、滅多めったにないことござんすよ。それにわたくしはあの片脚かたあしの、脇杖わきづえをついている外国人がいこくじんおとこがどうもむしきませんでね。あの醜悪みっともなつらたり、野卑やひ外国訛がいこくなまりの言葉ことばきますとむねわるくなりますよ。なにだってまた時々ときどき我家うちへあんなやつたずねてるのでしょうねえ。」
「ええ、片脚かたあしおとこ?」
博士はかせ鷹揚おうようおどろいてう。
「ええ、鳶色とびいろの、おさるのようなつらをしたおとこ再々さいさいやどたずねてまいるんでござんすよ。昨夜ゆうべそれおこしにたのもそのおとこござんしてね、それにやどそのおとこるのをってったもんでござんしょうかね、ああして蒸気艇ランチかけましたのは。わたくしなにだか気懸きがかりでたまりませんよ。」
博士はかせかたそびやかしつつ、
「おかみさんもつまらぬこと心配しんぱいしたものだね、昨夜ゆうべたのがその片脚かたあしおとこだとまりもせぬだろう。どうしてまたそのおとこ判断はんだんしなすったのかね。」
旦那様だんなさま、そりゃこえわかりまさア。あのこえというものがにごったしずんだようなこえござんしてね。昨夜ゆうべも、そうでござんしたよ、三時さんじごろでもあったでござんしょうか、まどをトントンたたいて『オイ、オイ、おこきてくれ。もう見張みはなんとかする時分じぶんだぜ』ともうしますと、それ貴方あなた長男ちょうなん晋一しんいちおこしましてね、わたくしには一言いちげんもうしませんでってしまったのでござんす。あの義足ぎそくいしひびおとえましたからあのおとこちがいありませんわ。」
そのおとこ一人ひとりであったろうか。」
「そこまでたしかござんせんが、ほかおとここええませんでしたよ。」
かく汽艇ランチりたかったのにこまったな。そのかわおもわぬことを――いや、なに、おかみさん、ええと、汽艇ランチなにったっけね。」
北光丸ほっこうまるござんすよ。」
「ああ、北光丸ほっこうまる、そうそう!たしか、緑色みどりいろふるふね船幅ふなはば馬鹿ばかひろくて、きいろい筋が一本入って居たあれだっけかね。」
いいえ、ちがいますよ。小奇麗こぎれいふねでしてね。あたらしえたばかりで、いろくろですよ。あかすじ二本にほんはいってるのでござんすよ。」
有難ありがとう、御主人ごしゅじん便たよりもはやわかるといいですね。我々われわれはこれからかわくだるから、もし北光丸ほっこうまる遭遇でおうたらば、おまえさんが心配しんぱいしているとつたえましょう。くろ煙筒えんとつだっけかね。」
「いいえ、煙突えんとつくろなか白筋しろすじいてありますよ。」
「ああ、そうかそうか。真黒まっくろなのは舷側げんそくだったね。じゃ、おかみさん、サヨナラ……。」
中沢なかざわくん、そこに船頭せんどうきのはしけ一艘いっそうるね。あれで向岸むこうぎしわたろう。」


一二、自分じぶん勝手かって新聞しんぶん記事きじ――阿瀬田警部の活躍振り

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はしけうつると博士はかせう。
おもめにきみおしえてくが、ああいう種類しゅるい者共ものどもからものさぐそうとするときには、相手あいてこと自分じぶんにとってすこしでも必要ひつようだとうような顔付かおつきをせぬことじゃ。そう気取きどったが最後さいごうはかきのようにピタリをくちつぐんでしまう。それをばいまのように、何気なにげなくよそおうて色々いろいろ茶々ちゃちゃれてしゃべらせると、ツイのぞどおりのことをらしてしまうものである。」
「それはそうと前途ぜんとはもう平々坦々へいへいたんたんですな。」
きみならうするつもりか。」
わたくしなら汽艇ランチ一艘いっそうやとって北光丸ほっこうまるあといます。」
きみ、それは大仕事おおしごとだよ。北光丸ほっこうまる墨田川すみだがわすじ両岸りょうがんにある埠頭はとばいくったかわかりはせぬ。永代えいたいから下流かりゅうすうマイル上陸点じょうりくてんたらば、まった迷宮めいきゅうのような有様ありさまじゃからね。単身たんしんくだそうものならば、それこそ幾日いくかたっても功績こうせきあがりはすまい。」
「では警察けいさつちからります。」
「そりゃ不可いかんわしかんがえでは阿瀬田あせだ譲作じょうさくなぞは一番いちばん最後さいごときぼうとおもう。かれとても悪人あくにんではないゆえ我輩わがはい職業上しょくぎょうじょうかれきずつけるようなことなるるべくしたくないのじゃ。しかしここまで我々われわれ捜索そうさく進行しんこうした以上いじょう、やはり独力どくりょくでやりついげてたいがするのじゃ。」
「では、かく埠頭はとば監守人かんしゅにんから報告ほうこくけたいと広告こうこくしては如何どんなものでしょう。」
まずい!広告こうこくなぞしたらば、曲者くせものども追跡ついせききゅうなるをって外国がいこく逃走とうそうする。つまりは外国がいこくるものではあろうが、安全あんぜんおもうてかぎりはきゅうぎはせぬ。阿瀬田あせだ警部けいぶそのてんおいはじめて必要ひつようになるのじゃ。何故なぜというのに、本件ほんけんたいするかれ意見いけんかなら新聞しんぶんあらわれる。すると曲者くせものどもそのすじ探偵たんていことごと間違まちがうていることをるから安心あんしんしてこしえてる。」
兎角とかくするに、予等よらむこぎし埠頭はとば上陸じょうりくする。
「では一体いったいどうしたらばいんでしょう。」とくと、
彼処あすこ自動車屋タクシー[4]自動車じどうしゃ一旦いったん自邸うちかえろう。そして朝飯あさはんでもべて一時間いちじかんばかりゆっくりとよう。今晩こんばんもう一度いちど追跡ついせきつづけなければならぬことってるからね。運転手うんてんしゅくん電信局でんしんきょくまえちょっめてもらい。トビーはまだるかられてこう」
自動車じどうしゃ[5]電信局でんしんきょくまえまると、博士はかせりて電信でんしんってたが、ふたた自動車じどうしゃはしすと、
何処どこったかってるか。」
わたくしにはりません。」
「あの有楽町ゆうらくちょう探偵局たんていきょく支局しきょくがあるだろう、これを昨年さくねんわし事件じけんやとうたのをおぼえてるだろう。」
ります。」とわらった。
今度こんど事件じけんにもまさ彼等かれら必要ひつようになった。彼等かれら失敗しっぱいすれば方法ほうほうもある。ためしにやとうてみよう。いま電報でんぽう銀公ぎんこうったのさ。ああっていたから、先生せんせい我々われわれ朝飯あさはんまぬうちに手下てしたひきいてやってるだろう。」
いま午前ごぜん八時はちじ九時くじとのあいだである。前夜ぜんやつづけた興奮こうふんあと反動はんどう自覚じかくされる。こころいたずらに昏迷こんめいし、肉体にくたい疲労困憊こんぱいきょくたっしてる。博士はかせってこのごろごと活動かつどうせしむるほど職業上しょくぎょうじょうねつゆうせず。さりとて事件じけんたんなる抽象的ちゅうしょうてき智的ちてき問題もんだいとしてながむること出来できぬ。山輪やまわ建志けんし横死おうし問題もんだいのみにては、建志けんし人格じんかくにつきあまうわさかざるゆえしたがってその下手人げしゅにんむかって非常ひじょうなる嫌悪けんおかんじなかったが、宝玉ほうぎょく事件じけんいたってはことおのずか別趣べっしゅとなる。かの宝玉ほうぎょくは、すくなくともその一部いちぶ丸子まるこぞくしたるものである。それを取戻とりもど機会きかいかぎりは、その目的もくてきって努力どりょくする。雖然けれども一旦いったん予等よらがそれを発見はっけんせんか、彼女かのじょとどかざる高嶺たかねはなとなるであろう。とはかか思想しそう支配しはいせらるるあい微々びびたる自我的じがてきあいであろう。呉田くれた博士はかせにして罪人ざいにん捜索そうさく奔走ほんそうせんか、おいても当然とうぜん宝玉ほうぎょく発見はっけん熱中ねっちゅうすべき十倍じゅうばい有力ゆうりょくなる理由りゆうがあるのである。
高輪たかなわ博士はかせいえもどっての一風呂ひとふろと、絶対ぜったい安静あんせいとはおどろくほど身心しんしん爽快そうかいならしめた。へやかえってると朝飯あさはん用意よういり、博士はかせすで珈琲コーヒーいでいるところ自分じぶん姿すがたると、わらいながら新聞紙しんぶんしゆびさして、
はたしてだ。精力家せいりょくか阿瀬田あせだと、何処どこへでももぐ新聞記者しんぶんきしゃとが自分勝手じぶんがってでっちあげてしまうたが、きみ随分ずいぶんはたらいたから、まア朝飯あさめしほうきにやりたまえ。」
新聞しんぶん取上とりあげてれば「砂村すなむら怪々かいかい事件じけん」とだいして、ごと記事きじってる。
昨夜半さくやはん十二時じゅうにじごろ郊外こうがい砂村すなむらすまえる英国人えいこくじん山輪やまわ建志けんしなるものその居間いまにて横死おうしついたること発見はっけんせられたり。吾人ごじん探訪たんぼうせるかぎりにては被害者ひがいしゃ身体しんたい何等なんら暴行ぼうこうけたる痕跡こんせきなけれども建志けんし亡父ぼうふより継承けいしょうせし印度いんど宝玉ほうぎょくはいりし貴重きちょうなるはこ紛失ふんしつれり。はじめて珍事ちんじ発見はっけんせしは呉田くれた博士はかせ中沢なかざわ医学士いがくし二氏にしなるが、二氏にし昨夜ゆうべ被害者ひがいしゃおとうと同姓どうせい周英しゅうえいども被害者ひがいしゃ邸宅ていたくいしなり。しかしてここ僥倖ぎょうこうともいいきは、有名ゆうめいなる阿瀬田あせだ警部けいぶが、偶然ぐうぜん砂村すなむら警察署けいさつしょ出張しゅっちょうちゅうなりしことにて、うったえをくや半時間はんじかんでざるにはやくも現場げんじょうり、熟練じゅくれんしたる慧眼けいがんただちに下手人げしゅにん探偵たんてい方面ほうめんけられ、おとうと周英しゅうえいその捕縛ほばくせられ、女中じょちゅすて印度人いんどじん賄方まかないかた羅羅雄ららお門番もんばん甚吉じんきちども引致いんちせられたり。強盗ごうとう一名いちめいもしくは二名にめいにしてども同家どうけ模様もよう熟知じゅくちせるものなること阿瀬田あせだ警部けいぶ観察かんさつによりて寸分すんぶんうたがいをれず。どう警部けいぶ評判ひょうばん専門せんもん知識ちしき緻密ちみつ周到しゅうとう観察眼かんさつがんとをもって、したごと断案だんあんくだすにいたりたり。そは曲者くせものしのりたる経路けいろは、にもあらまどにもあらず、じつ同家どうけ屋根やね穿うがち、刎出扉はねだしどによりて、被害者ひがいしゃ発見はっけんせられたる居間いまとをとおずる一室いっしつきたりしものなりと。この事実じじつすこぶ明確めいかく証明しょうめいせられれり。これってるに、今回こんかい犯罪はんざい原因げんいんたるたんなる偶然ぐうぜん強盗ごうとうあらざることあきらかなりとうべし。
じつ堂々どうどうたるものじゃないか!」と博士はかせ珈琲コーヒー茶碗ちゃわんしに冷笑せせらわらって「きみはどうおもう。」
「これでると、下手へたをすると私共わたしどもまでがあぶなげられるところでございました。」
わしもそうおもう。いや、まだ安心あんしん出来できぬ。先生せんせい、もすこ蛮力ばんりょくふるしたら実際じっさい我々われわれほうへやってぬともかぎらぬわい。」
かかりしも案内あんないベル気魂けたたましくわたった。
はハッとしてこしうかせて、「警部けいぶじゃないでしょうか。」


一三、浮浪人ふろうにん探偵たんてい局員きょくいん召集しょうしゅう ――共犯者は印度人か……

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自分じぶん狼狽ろうばいきかえ博士はかせすこしもどうぜず、
「なに、それほどこわがるものでもない。あれは民間みんかん探偵たんていどもさ――れい有楽町ゆうらくちょう探偵たんてい支局しきょく不正規兵ふせいきへいさ。」
あいだも、階段かいだんせわしげなるはだし跫音あしおと声高こわだかなるひびき、そして十二にんきたな襤褸ぼろまとえる浮浪漢共ごろつきどもがドヤドヤと闖入ちんにゅうしてた。はい間際まぎわ喧噪けんそうったらかったが、彼等かれらあいだにも幾分いくぶん訓練くんれんるとえ、ちに一れつ横隊おうたい形作かたづくって、なにをか期待きたいするごと面貌つらつきならべた。なか一人ひとりものよりも丈高いたか年長ねんちょうなるが、首領顔しゅりょうがおして前方ぜんぽう突立つったっているのが、その威張いばかおまでノラクラして、かかるボロボロの鄙陋ひろうなる案山子かかしてき軍隊ぐんたいであるだけに一層いっそう滑稽こっけいである。
旦那だんな電報でんぽういただきやした。」とくだん親方おやかたくちる。「電車代でんしゃだいをおねがえしてえもので、ヘイ。」
「やア、御苦労ごくろう御苦労ごくろう。」と博士はかせ若干いくらか銀貨ぎんか取出とりだしながら「だが、銀州ぎんしゅう、これからは手下てしたものがおまえ報告ほうこくし、おまえからまたおれ報告ほうこくしてれるようにしておくれよ。[6]みんなで押上おしあがられては閉口へいこうじゃからな。しか今日きょう初回はじめてだからおれ注文ちゅうもんそろうていていてくれるのも丁度ちょうどいかもれぬ。注文ちゅうもんうのは、北光丸ほっこうまるという汽艇ランチ所在ありかさがしてもらいたいのだ。持主もちぬし隅原すみはら介作かいさくもので、ふね黒塗くろぬりで二ほん赤筋あかすじはいっている、煙筒えんとつくろしろすじが一ほんいている。何処どこ下流かりゅうにいるはずなのだ。で、一人ひとりはあの蒸田むしだどてむかうたその隅原すみはら物揚ものあ張込はりこんで北光丸ほっこうまるかえってるかどうかばんをしていてもらいたい。そのほかはお前達まえたち適宜てきぎけて、隅田河すみだがわ両側りょうがわをすっかりさがすようにしてれ。そして手懸てがかりがついたら、即刻そっこく報告ほうこくしてほっしいのじゃ。わかったかな。」
「へえ、わかりやした。」と銀公ぎんこうう。
日当にっとう此前このまえとおり、汽艇ランチ見付みつけたもの余分よぶんれいをする。ソラ一日分にちぶん前金まえきんじゃ。受取うけとったらさがってよろしい!」と五十せんずつを各々めいめいわたす。みなガヤガヤいながら階段かいだんりて行く。そしてもなく街頭がいとうながれゆく彼等かれら姿すがたえる。
博士はかせ卓子テーブルはなれてパイプをともし、
汽艇ランチ水面すいめんうかんでいるかぎりは、彼等かれらかならさがしてる。彼等かれらたら、凡有あらゆところもぐみ、凡有あらゆもの凡有あらゆにんくからね。おそらく日暮前ひぐれまえにはなにかの手懸てがかりりをしてるだろう。ずしばらくは報告ほうこくつよりほかなにもすることが出来できないね。北光丸ほっこうまるか、もしくは隅原すみはら介作かいさく見付みつさぬかぎりは、我々われわれこの中断ちゅうだんした手懸てがかりをまたひろげるわけには行かない。」
「トビーはこんな残物ざんぶつべるでしょうか。先生せんせいすこ御眠おやすみになりますか。」
「いいや、わし疲労つかれてらん。我輩わがはい体質たいしつは一しゅ別誂べつあつらえであってね。なまけているとからだがグダグダになるけれども、まだ活動かつどうして疲労くたびしたおぼえがないよ。あの美人びじんんで事件じけんんだ不思議ふしぎなものになった。わし煙草たばこいながらしばらく熟考じゅくこうしつつ不思議ふしぎなものとはうものの、このくらいわけのない事件じけんりはせぬ。片脚かたあしおとこあま普通ふつうほうではないが、しかしもう一人ひとり同類どうるいいたっては、此奴こいつじつためしいわい。」
「はア、矢張やっぱりその同類どうるいですか!」
「いや、きみそのおとこ不思議ふしぎかんじをさせるというつもりでもないが、きみ自分じぶん意見いけんというものをたまにはこしらえて見給みたまえ。事実じじつかんがえてると、小形こがた足跡あしあとくつ拘束こうそくされたあとのないはなれたあしゆびさはだしあしさ。其他そのほかいしあたまのついた槌矛つちぼこちいさなどく投矢なげやなど色々いろいろある。此等これらのものを綜合そうごうしてたらばなにかの発見はっけんがつきそうなものではないか。」
「はハア、野蛮人やばんじんですな!」と自分じぶんおもわずさけんだ。「多分たぶん簗瀬やなせ茂十もじゅう同類どうるいであった印度人いんどじんうち一人ひとりじゃないでしょうか。」
いや、そうではない。わし最初さいしょ奇体きたい兇器きょうきときにはそうおもうたけれども、あの特別とくべつ足跡あしあと研究けんきゅうするにおよんでかんがした。印度いんど半島はんとうなかある人種じんしゅいたって矮小わいしょうであるが、さりとてのような足跡あしあとのこものはない。印度いんど本部ほんぶ人民じんみんあしながくてほそい。回々フイフイ教徒きょうとあしゆびさおおきくて皮靴せった穿いてる。がその革緒かわおなかせままってるゆえゆびさ自然しぜんはなれてる。また、此等これらちいさな投矢なげやすなわ毒針どくしんだね、これをつにはただ一個ひとつ方法ほうほうがあるばかりじゃ。つまり吹竹ふきだけからすのだ。してるとには何処どこ野蛮人やばんじんであろう。」
南亜米利加アメリカでしょうか。」とひとばち自分じぶんうてた。
博士はかせのばべて、書棚しょだなより一さつ嵩張かさばったほんろした。
「これはいま刊行中かんこうちゅう地名辞書ちめいじしょだいかんである。ずこれは最近さいきんおいけるたしか著書ほんだ。これになんとあるだろう。『印度いんど安陀漫アンダマン群島ぐんとうはスマトラのきた三百四十マイル、ベンガルわんり』か。フン!フン!くわし説明せつめいがある。『気候きこう湿潤しつじゅん珊瑚礁さんごしょうあり。さめおおし。武礼留ブレールこうには囚徒しゅうと屯営とんえいあり。良土蘭ラットランドとうよりは綿わたさんす――。』はア、土人どじん説明せつめいがある。
安陀漫アンダマン群島ぐんとう土蕃どばんおそらく地球上ちきゅうじょう人種じんしゅちゅうもっと矮小わいしょうなるものならん。平均へいきん身長しんちょうしゃくいだです、成熟せいじゅくしたる大人おとなにありてさえこれよりはるかかにひくものあり。せい兇暴きょうぼう慓悍ひょうかんにして陰険いんけんなり、れども友愛ゆうあいじょうみ、一旦いったんしんずればたがい水火すいかなんせざる友情ゆうじょうむすぶにいたる。』ふム、中沢なかざわくん、これをおぼえてたまえ。それからこんなこともある。
その容貌ようぼうかしら不格好ぶかっこうおおきく、ちいさくしてするどく、顔面がんめんねじゆが醜悪しゅうあくなり。四肢ししすこぶちいさし。彼等かれら狂暴きょうぼう慓悍ひょうかんなることは、英国えいこく政府せいふ凡有あらゆ努力どりょくかつその征服せいふく成功せいこうせしためしなきにるもべし。彼等かれら偶々たまたま難船なんせんなどの生存者せいぞんしゃあれば石頭せきとう棍棒こんぼうもっのう打砕うちくだき、あるい毒矢どくやもっ射殺いころすをもって、航海こうかい業者ぎょうしゃつね彼等かれらおそるることはなはだし。』どうじゃ、中沢なかざわくん素的すてき蛮民ばんみんじゃないか!しあの同類どうるいやつおもうままに振舞ふるまわせたならば、今回こんかい事件じけん一層いっそう惨劇さんげきとなったかもれぬ。流石さすが茂十もじゅうさえ、其様そのよう同類どうるいたのんだことを後悔こうかいするくらいな野蛮やばんころほうをしたかも知れん。」
茂十もじゅうなにだってそんな同類どうるいつくったでしょう。」
「それまではいまわしにもわからぬ。が、すで茂十もじゅう安陀漫アンダマンとうからたのがわかった以上いじょうかれ島民とうみん同類どうるいとするにいたったのもふかあやしむるにらぬではないか。それにしか追々おいおい明瞭めいりょうになるだろう。ああきみ大分だいぶねむそうだね。し、その長椅子ながいすよこになりたまえ、わしが一ばんきみかしつけてやろう。」
博士はかせへやすみからヴァイオリンを取出とりだした。そして自分じぶん長椅子ながいすよこたわわるのをるとそれしたが、ゆめのような、ひくい、調子ちょうしきょくである――博士はかせ仲々なかなか即興そっきょう演奏えんそうちょうじてられるから、おそらく自分じぶん作曲さっきょくであろう。いてるうちに、博士はかせせぎすの四肢ししも、熱心ねっしんかおも、楽弓がくきゅうの一こうてい次第しだいおぼろになる。にはまったやわらかなる音律おんりつうみに、やすらかに漂蕩ひょうとうなしつつゆめくにへとすすみゆく。何処どこやらかかおやさしくのぞものがある。ひとみむればなつかしき丸子まるこかお


一四、一夜いちやにして憔悴しょうすい枯槁ここう ――汽艇の捜索悉く無効に終る……

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自分じぶんふたた心気しんき爽然そうぜん勇気ゆうき満々まんまんとして起出おきいでしころは、午後ごごけていた。博士はかせ依然いぜんとして先程さきほどごと椅子いす腰掛こしかけている。ただヴァイオリンはそばき、一冊いっさつほん熱中ねっちゅうしてる。自分じぶんがムクムクと起出おきいずるをるや、流眄ながしめ此方こなたながめたが、どうしたものか、そのかおくら困惑こんわくちている。
たね。我々われわれ話声はなしごえめはせぬかとおもってじつはビクビクしていた。」
「いや、一さい無我夢中むがむちゅうございました。じゃアなにあたらしく吉報きっぽうが。」
遺憾いかんながらノーじゃ。白状はくじょうすればわし少々しょうしょうおどろいた、失望しつぼうした。今度こんどなにかしら確実かくじつことにぎられると期待きたいしてったのに、いましがた銀公ぎんこう報告ほうこくたが、汽艇ランチ行衛ゆくえさら不明ふめいなようだ。いまは一時間じかんでも大切たいせつときであるのに、じつれったくて仕方しかたがない。」
睡眠すいみんによって、わたくしうすっかり勇気ゆうき恢復かいふくしましたから、これから活動かつどう着手ちゃくしゅいたしましょう。」
「いや、なにけることが出来できん。ただいたずらにつあるのみじゃ。我々われわれ出掛でかけるとその不在るす報告ほうこくる。するとしたがって活動かつどうおくれる。きみきな用事ようじをしたまえ。我輩わがはいはもうすこうしてらねばならぬ。」
「じゃア、わたくしその築地つきじ濠田ほりた夫人ふじんのところへ一走ひとはしってまいりましょう。昨日きのう、またたずねる約束やくそくをしてきましたから、」
濠田ほりた夫人ふじんをかえ。」と博士はかせ微笑びしょううかめたしばたたく。
左様さようです、無論むろん丸子まるこじょう一所いっしょですが。二人ふたりとも今度こんど事件じけん大層たいそう心配しんぱいしてりますから。」
しかあまくわししくはなさんほういね。由来ゆらいおんなというものほど信用しんようにならぬやつはないから――もっとやされた婦人ふじんべつだけれども。」
へん心得こころえります。では一二時間じかんうちにはかえります。」
いともいとも!って来給きたまえ!ああ、ついでにあの呉服町ごふくちょうまわって、トビーをかえしてってもらいたい。もう必要ひつようはあるまいとおもうから。」
自分じぶんいぬれてれい剝製屋はくせいやいたり、若干いくらか謝礼しゃれいどもにそれを爺様じいさんかえし、さて濠田ほりた夫人ふじんたくいたると、丸子まるこ前後ぜんご事件じけん疲労つかれをまだまったりやらぬ風情ふぜいであったが、しか夫人ふじんども熱心ねっしん物語ものがたりせまるのであった。事件じけん比較的ひかくてきおそろしき方面ほうめんだけを隠蔽かくして、昨夜来さくやらい顚末てんまつのこらず物語ものがたった。山輪やまわ建志けんし横死おうしてもはなししたが、その横死おうし状態じょうたいはなさなんだ。其様そのよう省略しょうりゃくしたにもかかわらず、物語ものがたり非常ひじょう彼等かれら魂消たまげさせたのである。
「まるでお伽譚とぎばなしのようですわね!」と濠田ほりた夫人ふじんさけんだ。「貴婦人レディ災難さいなんうたり、五拾万円の宝玉ほうぎょくたり、黒奴くろんぼ食人種ひとくいや、片脚かたあし悪漢わるものなぞが出没しゅつぼつしたり、むかしはなしなかによくりゅうだの、わる伯爵はくしゃくだののかわりに、いま其様そのようなものが跋扈ばっこするのですね。」
「そして二人ふたり武者修行者むしゃしゅぎょうしゃ救助すくいえたり。」
丸子まるこ活々いきいきした瞥見ながしめける。
「まア、丸子まるこさん、貴女あなたはこひらけるひらけないは、まった今度こんど捜索そうさく結果けっかによるのではないの。貴女あなたあまかかけている様子ようすもないのね。すこしは想像かんがえても御覧ごらんなさいよ。お金持かねもちになって、世間せけん眼下めした見下みくだすのはうすればいか。」
こころおもわず喜悦きえつじょうふるえた。丸子まるこその希望きぼうめにすこしも得意とくい姿態ようすがない。のみならず彼女かのじょは、宝玉ほうぎょく事件じけんなに興味きょうみもなき世間せけん普通ふつう問題もんだいででもあるかのごとく、昂然こうぜんとしてそのかしらもたげているではないか。
わたくし気掛きがかりなのは山輪やまわ周英しゅうえいさま御身おみうえございますわ。」と彼女かのじょった。「ほかのことはなにでもございませんの。けれどもほうはほんとにはじめからしまいまで、じつ親切しんせつただしく仕向しむけてくだすったですものね。ですから一はやおそろしいむじつつみからおすくもうすのは私共わたしども義務ぎむおもいますわ。」
濠田ほりたていしたのは黄昏時たそがれどき高輪たかなわくとまったくられてた。博士はかせほんとパイプとは椅子いすうえほうしてあるけれども、おも姿すがたがない。なにのこしてきはせぬかと見廻みまわしたが、それらしいものも見当みあたらぬ。
其処そこ下婢げじょ鎧戸よろいどをおろしにのぼってたので、
先生せんせいったのだね。」
いい先生せんせいは、御加減おかげんでもわるいのじゃないかとおもいますよ!」
「なぜ。」
「でも、御様子ごようすへんなんですよ。貴君あなた御出おでましになってから、おへやなか彼方あっちったり、此方こっちったり、此方こちらったり、彼方あっちったり、もうその跫音あしおと階下したいていてさえウンザリするくらい御歩おあるきなすってね。なにかクドクドと独語ひとりごとをなさるかとおもえば、案内あんないベルたんびに階段かいだん下口おりぐちかお御出おだしになって、だれだ、と御訊おききになるんです。そうかとおもうともうおへやなかかごもっておしまいなすったけれど。相変あいかわらず根気こんきよくあるまわっていらっしゃるんですよ。わたし万一もしかして御病気ごびょうきにならねばよいと心配しんぱいしてりますの。」
「なに、そんなに心配しんぱいすることはないよ。なにすこしばかりかかことがあって、それであんなにソワソワしてられるのだ。」
って下婢かひ退しりぞけたが、さて自身じしん多少たしょう心配しんぱいでないことはない。何故なぜうのに、其夜そのよほとん終夜しゅうや博士はかせあるまわにぶ跫音あしおといた。博士はかせするど精神せいしんは、この不本意ふほんいなる活動かつどう休息きゅうそくめに如何いかがげきしていたことであろう。
翌日よくじつ朝飯あさめしときると、一晩ひとばんおとろえて憔悴しょうすいした顔付かおつきをしてる。両頰りょうほおにはねつッぽい紅味あかみが一てんしてる。
先生せんせいは、昨夜ゆうべ一晩中ひとばんじゅうあるまわってられたようでございますが、あれじゃからだがお疲労つかれになるるでしょう。」とえば、
「でもねむられぬのだから仕方しかたがない。今度こんど極悪ごくあく問題もんだいわしつくさなくてはまぬ。ほかこと大抵たいてい見込みこみがいたのに、あんな些細ささい障害しょうがいめにくじかれるのはまらぬ。曲者くせものも、汽艇ランチも、なにもかもわかってる、しかなに手掛てがかりもられぬ。銀公ぎんこうのほかにも一たい応援おうえんたのんでいまはたらかして最中さいちゅうである。わし出来できかぎりの手段しゅだんつくしている。墨田川すみだがわ両岸りょうがんくまなく捜索そうさくさせたが、一つとして吉報きっぽうはいらず、また船宿ふなやど隅原すみはら介作かいさく女房にょうぼうにも依然いぜんおっと行衛ゆくえわからぬそうじゃ。この形勢けいせいでは多分たぶん彼奴等きゃつらふねみずかあな穿けてしずめてしもうたのかもれぬ、ともおもわれるが、さりとてその推察すいさつには異論いろんもある。」
「で、なければ、隅原すみはら女房にょうぼうわざ我々われわれ方針ほうしんまよわせてるのかもれません。」
「いや、そのあんじはあるまいとおもう。十分じゅうぶん質問しつもんもしたし、そういう汽艇ランチもあるのだから。」
しや上流じょうりゅうったのではないでしょうか。」
「「ムム、わしじつはそう気付きづいたから、一たい其方そのほう派遣はけんして鐘ヶ淵かね ふちから千住せんじゅう方面ほうめんまで捜索そうさくさせてあるのじゃ。で、今日中こんにちじゅう手掛てがかりがつかねば、わし明日みょうにち自身じしん出掛でかける。そして汽艇ランチさがすよりはいっ曲者くせもの直接ちょくせつさが決心けっしんをした。が、屹度きっと屹度きっとなに吉報きっぽうるにちがいあるまい。」
れども吉報きっぽうなかった。銀公ぎんこうからも応援隊おうえんたいからも一言いちごん報告ほうこくにだもせっせぬ。砂村すなむら怪殺人かいさつじん事件じけんまた毒針どくしん事件じけん宝玉函ほうぎょくばこ行衛ゆくえなどとだいして、新聞しんぶんという新聞しんぶんにはみなあらわれている。いずれもあわれな周英しゅうえいくんたいして不利益ふりえき記事きじばかりであるが、格別かくべつ新事実しんじじつがってらぬ。ただ審理しんり明日みょうにちわれる予定よていであることだけはわかった。その夕刻ゆうこくまた濠田ほりた夫人ふじんていいたり、二人ふたり結果けっかおもわしからぬよしげてもどってると、博士はかせ落胆がっかりした顔付かおつき鬱憂むっつりとしてる。ものいてもロクに返事へんじもせず、一しょう懸命けんめい奥妙おうみょうなる科学上かがくじょう分析ぶんせき着手ちゃくしゅしてられる。
曲頸瓶レトルトねっしたり、蒸留水じょうりゅうすいったりしていたが、しまいにはまらぬ悪臭あくしゅうてて、室外しつがい退散たいさんせしめてしまった。あかつきちかくまでも試験管しけんかん触合ふれあおときこえる。先生せんせいはまだ悪臭あくしゅう実験じっけん熱中ねっちゅうしているとえる。
不図ふとものおどろいてれば、意外いがいにも枕頭まくらもとった博士はかせうしたものか粗末そまつあつ上衣うわぎ海員服かいいんふくけ、あら紅色あかいろ襟巻えりまきくびいた異様いよう風体ふうていで、
中沢なかざわくんわしはこれから隅田河すみだがわ捜索そうさく出掛でかける。色々いろいろかんがえてたがほか手段しゅだんがない。どんな困難こんなんはいしてもこれをひと実行じっこうしてようとおもう。」
わたくし同行どうこういたしますか。」
いやきみわし代理だいりとして此処ここのこっていてもらうたほう都合つごうがよい。わしじつくはないのだ。銀州ぎんしゅう昨夜ゆうべ悲観ひかんしたことうてったが、それにしても今日きょううしてもひるのうちになに報告ほうこくなければならぬはずだ。で、きみ手紙てがみでも電報でんぽうでもかまわずひらいてて、何等なんらかの報告ほうこくでもあったならばきみ自身じしん判断はんだん適宜てきぎ処理しょりしてくれたまえ。」
「ハア、承知しょうちいたしました。」
ただこまるのは、いまところまだ何処どこくということ断定だんてい出来できぬのだから、きみわし電話でんわなり電報でんぽうなりをとおずるにまようであろうが、うまきさえすればあま手間てまかからぬつもりだ。かくかえまでには何等なんらかの吉報きっぽうれるだろう。」


一五、常識じょうしき警部けいぶ来訪らいほう ――打って変った謙遜な口調

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朝飯あさめしときまではまだ博士はかせから何等なんら消息しょうそくもない。しか新聞しんぶんひらいてればつぎよう記事きじってる。
れい砂村すなむら宝玉函ほうぎょくばこ事件じけん真相しんそうは、吾人ごじん事件じけん発生はっせい当初とうしょ想像そうぞうせしよりも一そう複雑ふくざつに一そう難解なんかいなりとしんずるにいたれる理由りゆうあり。最近さいきん証拠しょうこてらすに、嫌疑人けんぎにん山輪やまわ周英しゅうえい殺人事件さつじんじけん関係かんけいありたるちょうことは絶対ぜったい不可能ふかのうとなれり。よりて周英しゅうえい女中じょちゅすてとは昨夕さくゆう放免ほうめんせられたり。しかれども警察けいさつ当局者とうきょくしゃいましん犯人はんにんたいする一手掛てがかりにぎりたるは確実かくじつなるがごとし、これまった警視庁けいしちょう阿瀬田あせだ警部けいぶ独特どくとく精力せいりょく鋭敏えいびんとによるものにして、しん犯人はんにん逮捕たいほあまとおきにあらざるべし。


なんにしてもこれだけはこべば満足まんぞくだ。」とかんがえた。「周英しゅうえいくんいずれにせよ自由じゆうとなった。このあたらしい証拠しょうこうのはなんだろうな。こんなことをうのは、警察けいさつ馬鹿ばか間違まちがいをやったとき紋切形もんぎりがたにはちがいがないが。」
新聞しんぶん卓子テーブルうえほおしたが、れたのは案内欄あんないらんにあるつぎごと広告文こうこくぶんである。
失踪人しっそうにん広告こうこく――さる火曜日かようびあさ三時さんじごろ汽艇ランチ北光丸ほっこうまるにて自己じこ船宿ふなやどまえ埠頭はとばりし隅原すみはら介作かいさくそのせがれ晋一しんいちとの所在ありかもとむ。北光丸ほっこうまる船体せんたい黒色こくしょく二本の赤筋あかすじあり。煙筒えんとつおなじく黒色こくしょく、一じょう白筋しろすじく。みぎ隅原すみはら介作かいさく父子ふしおよ北光丸ほっこうまる所在ありか隅原すみはら物揚場ものあげばなる隅原すみはら不在るすたくもしくは高輪町たかなわちょう二十二番地ばんち報告ほうこくせられたるほうにはきんえん礼金れいきん呈上ていじょういたすべし。
まさ呉田くれた博士はかせ仕業しわざである。高輪町たかなわちょう番地ばんちでそれとられる。これはたくみな遣方やりかたであるとおもった。何故なぜならばこれを隅原すみはらは、自分じぶん女房にょうぼう自分じぶん失踪しっそうたいして心配しんぱいして居るということよりほかには格別かくべつ意味いみをも感ずまいからである。
其日そのひじれったいほどながかった。たたおとがするびに、博士はかせかえってたんじゃないかとおもう。あわただしげなまち跫音あしおとびに、失踪しっそう広告こうこく何者なにものこたえにたんじゃないかとむねとどろかす。読書どくしょまぎらせようとしても、こころ何時いつしかって、我々われわれ関係かんけいした奇怪きかいなる今回こんかい問題もんだい我々われわれ追跡ついせきしつつある二人ふたり兇悪漢きょうあくかんうえ彷徨さまよし、博士はかせ推理すいりうえなに根本的こんぽんてき破隙すきがあったのではあるまいか。何等なんらおおいなる自欺じきによりきたった苦悶くるしみけているのではあるまいか。博士はかせ敏捷びんしょうなる推理的すいりてきこころが、あやまった前提ぜんていうえかか奇矯ききょう理論りろん打建うちたてたということはないだろうか。博士はかせ失策しっさくえんじたためしはまだざるところであるが、もっと怜悧りこうなる観察者かんさつしゃ往々おうおうあざむかれないということ断言だんげん出来できぬ。それにつねかんがえることであるが、博士はかせ兎角とかく自己じこ論理ろんり精美せいびにしぎる。それから一層いっそう平易へいいなる、一層いっそう通俗つうぞくなる説明せつめいがあるにもかかわらず、なるるべく微妙びみょうなる、奇怪きかいなる説明せつめいはしらんとする。さはいえ今回こんかい自身じしん証拠しょうこ目撃もくげきし、自身じしん博士はかせ演繹法えんえきほう推理すいりいた。今更いまさら今回こんかい怪事件かいじけんなが連鎖れんさ回顧かいこした。そのおおくの事実じじつろんずる価値あたいもなき微力びりょくなるものなれど、しかみな同一どういつ結果けっかはしってる。かんきたれば、たとえ博士はかせ説明せつめいあやまりなりともせよ、その真相しんそうしん驚絶愕絶きょうぜつがくぜつのものであるとかんがえぬわけにはかぬのである。
午後ごご三時さんじごろであった。案内あんないりんたからかにらすものがある。広間ひろまなにやらいかついこええたとおもうと、もなくへやのぼってたのはおもいもかけぬ警視庁けいしちょう常識じょうしき警部けいぶ阿瀬田あせだくんであった。が今日きょう日頃ひごろ無作法むぞうさひとにはもやらぬ。今回こんかい怪事件かいじけん一人ひとり背負しょってったような所謂いわゆる常識じょうしき博士はかせ尊大そんだいなる阿瀬田あせだ其人そのひととは別人べつじんごと鬱々うつうつたる顔付かおつきをなし、その態度たいど謙譲けんじょうというよりはむし謝罪しゃざいひょうするふうがある。
「いや、中沢なかざわさん、先日せんじつは、……御機嫌ごきげんよく……呉田くれたさんは多分たぶん御不在おるすでしょうな。」
不在るすです。何時いつかえりますかそれもわかりません。が、御待おまちになったらよろしいでしょう。どうぞおください。その巻煙草まきたばこ召上めしあがってください。」
有難ありがとう、おかまくださるな。」とあかおおきなハンケチでかおく。
「ウイスキイと曹達ソーダすい一杯いっぱいいかが。」
「では、半杯はんぱいほど頂戴ちょうだいしましょう。今頃いまごろ割合わりあいにしては非常ひじょうあたたかいですな。それにわたし随分ずいぶん辛労しんろうかさなってますからな。貴君あなた今回こんかい事件じけんたいするわたし意見いけん御存知ごぞんじでしょう。」
かつ御明言ごめいげんなすったのをおぼえています。」
ところがです、余儀よぎなく今度こんど見込みこみをかわえねばならぬこといたりましたわい。わたしはあの山輪やまわ周英しゅうえい身辺しんぺんへギッシリあみまわしたところ、先生せんせい、ポンと、あみ中央まんなかあなくぐってられてしまいました。つまりかれ凶行きょうこう現場げんじょうなかったといううごかすからざる明白めいはく証拠しょうこちましたからな。かれあに建志けんしへやって以来いらいかれえず誰彼たれかれとなく応接おうせつしてった。で、あにいえ屋根やねのぼって刎出扉はねだしどから闖入ちんにゅうしたのは、かれ所業しわざであるということわれなくなったのです。うなってると、本事件ほんじけんじつ暗黒あんこく事件じけんであって、したがってわたくし職業上しょくぎょうじょう信用しんよう危殆きたいひんしています。で、是非ぜひともすこ御助力ごじょりょくねがわんければならぬ仕儀しぎになってまいった。」
だれでも他人たにんたすけをりねばならぬ場合ばあいますよ。」
貴君あなた先生せんせい呉田くれた博士はかせおどろくべきかたです。」としゃがれた信用しんよういたこえで「あのかたてんところのないかたです。随分ずいぶん今迄いままで沢山たくさん事件じけん御関係おかんけいのようであったが、呉田くれた博士はかせ着手ちゃくしゅしていま解決かいけつされなかったというれいかん。探偵たんてい方法ほうほうもうせば不規則ふきそくで、何方どちらかとえばすこ性急せいきゅう理論りろん組立くみたててなさるくせがある。が、大体だいたいて、あのかた警官けいかんであったらじつ理想りそう探偵たんていになられたにちがいないとまでわたしおもいます。じつ今朝けさほど博士はかせから電報でんぽういただきましてな。なに有力ゆうりょく手掛てがかりことりました。これがそうです。」
懐中かくしから一つう電報でんぽう取出とりだしてわたす。れば十二時じゅうにじ両国局りょうごくきょくからったのである。文句もんくは「即刻そっこく高輪たかなわ本邸やしきかれよ。帰宿きしゅくらざれば御待おまちあれ。犯人はんにん行衛ゆくえほとん探偵たんていなるる。事件じけん終局しゅうきょくのぞまば今晩こんばん予等よらども出動しゅつどう御用意ごよういあれ」という意味いみである。
「これはすこぶ吉報きっぽうですね。してるとたしかにまた手掛てがかりいたにちがいない。」
「はア、すると呉田くれたさんも一失敗しっぱいなすったのですか。」と警部けいぶ十分じゅうぶん満足まんぞくいろうかべ、「もっと老練ろうれんものさえときとすると負投しょいなげをわされます。無論むろん今回こんかいこと警告いましめになるでしょうが、行政官ぎょうせいかんとしてのわたくし義務ぎむからえばけっして間違まちがいをしてはならぬはずなんです。ああ、だれたようですぜ。呉田くれたさんではないかな。」


一六、あらいで蹌踉そうろう怪船乗かいふなのり ――仮髪を取ればここは如何に

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階段はしごだんのぼ重苦おもくるしき跫音あしおとがする。それにまじって如何いかがにも喘々ぜいぜい、ガラガラという息苦いきぐるしい呼吸使いきづかいもきこえる。のぼるのが大儀たいぎなように一二まったが、ようやくのことで我々われわれへやまで辿たどいたとえてはいってた。其者そのものなにだとれば、いまくるしげの呼吸使いきづかいに相応ふさわしき人物じんぶつ。もう余程よほど年寄としよりにて、海員服かいいんふくまとい、厚上衣あつうわぎ咽喉のどまでふかボタンけている。こしあずさゆみり、ひざはガクガクとしてまらず、たしか喘息持ぜんそくもちらしいのがいたましい。にしたかし棍棒ぼうりかかり、ホッといきをすると両肩りょうかたたかまる。くび周囲まわりにはいろのついた襟巻えりまき深々ふかぶかとしてるので、一そうするどくろと、それをモジャモジャとおおうたしろ眉毛まゆげと、なが灰色はいいろ頰髯ほおひげとのほかにはしか人相にんそうわきまえることも出来できぬ。さはいえ一見いっけんして老齢ろうれい貧困ひんこんとにおちいりたるいやしからぬ高等海員こうとうかいいんなるれのてとは首肯うなずかれる。
御老人ごろうじんなん御用ごようですか。」
ねると、老人ろうじんゆっくりした整然きちょうめんかたで、四辺あたりをグルリとながまわしたが、
呉田くれた先生せんせい御在宅おたくでござるかの。」
博士はかせ只今ただいま不在るすですが、わたくし万事ばんじ委任いにんされていますから、なに御用ごようならばうけたまわっていて差支さしつかえありません。」
「いや、呉田くれた先生せんせい直々じきじきでのうては申上もうしあげられぬ。」
しかわたくし代理だいりだとうたではありませんか。しや隅原すみはら介作かいさく汽艇ランチの一件ではありませんか。」
左様さようじゃ。わし汽艇ランチ所在ありかぞんじてる。呉田くれた先生せんせい追跡ついせきしてなさる人々ひとびと居処いどころぞんじてる。宝玉ほうぎょく所在ありかぞんじてる。なにもかものこらずぞんじてる。」
じゃ。尚更なおさらおはなしください。屹度きっと博士はかせつとえましょう。」
「いやいや、直々じきじきでのうては申上もうしあげられぬ。」と癇癖かんぺきらしい頑固がんこ繰返くりかえ繰返くりかえう。
「それならば仕方しかたがありません。おちになるだけです。」
「いやいや、わしは一無益むだついやすわけにはまいらぬ。そうしたところでだれにもなりはせぬ。呉田くれたさんが御不在おるすならばあのかた不幸ふしあわせみん御自分ごじぶん探偵たんていなさらねばならぬのじゃ。御二人おふたりともそのようなかおをされてもわし平気へいきじゃ。申上もうしあげぬとうたら、一言いちごん申上もうしあげぬ。」
ほうへノロノロあるす。それへふさがった阿瀬田あせだ警部けいぶ
老人ろうじんすこっていただきたい。貴君あなた大切たいせつはなしってらるる以上いじょう、ここを立去たちさることは相成あいならん。貴君あなた不平ふへいであろうと、あるまいと、呉田くれたさんのかえまで我々われわれ貴君あなたきます。」
老人ろうじん扉口とぐちってすこはし気味ぎみにしてたが、警部けいぶ幅広はばひろ背中せなかをそれにててふさいでいるのをると、抵抗ていこう無益むだなことを断念あきらめたらしい。
あやしからぬされかたじゃ!」とつえをトントンとてつつ「わしがここへまいったのは呉田くれたさんにおうがめじゃ。しかるにかつ御目おめかかったこともない貴君あなたがた御二人おふたりが、年寄としよりつかままえて此様このようされかたというものは!」
ただ御引留おひきとめするだけで、なにひどことをしようというのではないから御安心ごあんしんなさい。そのかわ貴君あなた隙潰ひまつぶしをさせた御礼おれいはします。まアあま御手間おてまらせませんからこの椅子いすへおけなさい。」
なだむれば、老人ろうじん仏頂面ぶっちょうづらをして椅子いすもどり、つえさきなる両手りょうてうえかおやすませた。阿瀬田あせだ警部けいぶとは老人ろうじんうしろにして、ふたた巻煙草まきたばこい、ふたた談話はなしつづけた。と、不意ふい何処どこからともなく博士はかせこえきこえる。
我輩わがはいにも巻煙草たばこれてもさそうなものじゃ。」
予等よらおもわず吃驚びっくりして椅子いすからあがった。れば何時いつほどにか博士はかせ予等よらうしろに、非常ひじょうよろこったかおをして腰掛こしかけてるではないか。
先生せんせいじゃありませんか!先生せんせい何時いつのまに……そして爺様じいさん何処どこったろう。」
爺様じいさんはここにるよ。」と一塊ひとかたまり白髪しらば差出さしだして「ここにる――ソラ、仮髪かつら頰髯ほおひげ眉毛まゆげ其他そのほかゴタゴタもの我輩わがはいはね、可成かなりうま変装へんそうはしたつもりではあったが、このように両君りょうくんだまおおせようとはおもわなかった。」
「ああ、とんだ悪戯いたずらです!」と警部けいぶすこぶ興味きょうみもよおして「貴君あなた役者やくしゃにもなれますな。しか名優めいゆうになれますな。あの養育院的よういくいんてき咳嗽せき仕方しかたうまさなぞというものはない。それにそのヨボヨボしたあしつきなぞは、まさ俳優はいゆうとして一週間いっしゅうかんえん価値ねうちはありますな。ただあらそわれないのは貴君あなたひかりりです。頑固がんころうとしたとき[7]のあのひかりりであやしいとはおもいました。」
博士はかせ巻煙草たばこをつけながら、
わし今日きょう一日いちにちいまの変装へんそう活動かつどうしてた。御承知ごしょうちとおり、悪漢者わるものども可成かなりおおくが此頃このごろわしかお見知みしってた。だからたとえ簡単かんたんでも此様このよう仮装かそうせねば戦場せんじょう踏込ふみこめぬことになったのです。貴君あなた電報でんぽう御覧ごらんですか。」
いただきました、で、御訪おたづいたしたわけで。」
事件じけんへんまで御進行ごしんこうですか。」
すべ徒労とろうおわりました。嫌疑者けんぎしゃうちめいすで放免ほうめんし、の二めいたいする証拠しょうこもまだひとつもそろわぬ有様ありさまです。」
御心配ごしんぱいなさるな。そののこった二人ふたり嫌疑者けんぎしゃかわりに、二人ふたりしん犯人はんにん差上さしあましょう。しか貴君あなたわし命令めいれい御聴おきくださらねばこまる。貴君あなた職業上しょくぎょうじょう信用しんようというものはすべ尊重そんちょうしますが、わし御指定ごしていする範囲内はんいないはたらいていただかねばなりません。それを御承知ごしょうちでしょうか。」
犯人はんにんげられることならなになりとも御言葉おことばどおはたらきましょう。」
よろしい。ではだい一に一そう快速かいそく水上署すいじょうしょ端艇ボート――汽艇ランチります。それを今晩こんばんまで新大橋しんおおはし埠頭はとばまわしていただい。」
「それはわけりません。彼処あすこには始終しじゅうそうはずです。しかおも電話でんわ打合うちあわせをしてきましょう。」
「それから、犯人はんにん抵抗ていこうとき用意よういに、丈夫じょうぶひと二人ふたり用意よういしていただい。」
ふねにはいつも二三にんめてります。それから。」
犯人はんにんげさえすれば宝玉ほうぎょくるのです。その半分はんぶん御承知ごしょうち丸子まるこじょう当然とうぜんぞくすべきものゆえ、わしこの中沢なかざわくんをしてそのはこじょうもととどけさせたならば、中沢なかざわくん大悦おおよろこびだろうとおもうのです。つまり真先まっさきひらかせるのです。」
「それはすこ不規則ふきそくなやりかたですが……」と警部けいぶあたまったが、「いやしか今度こんど万事ばんじ不規則ふきそくずくめです。黙許もくきょして差上さしあげなくてはなりますまい。そのかわ御済おすみでしたならば公判こうはん終決しゅうけつまではしょほう御渡おわたしをねがわれましょうな。」
無論むろんです。ぐにおわたしします。それからもひとつ。わし今回こんかい事件じけん詳細しょうさいなる真相しんそう簗瀬やなせ茂十もじゅう自身じしんくちから是非ぜひおもうてます。御承知ごしょうちでもあろうが、わしは一事件じけんそこそこまで研究けんきゅうせねばまない。で、犯人はんにん十分じゅうぶん警護けいごしてかぎり、このへやおいてか、もしくは場所ばしょおいてか、わし犯人はんにん非公式ひこうしき会見かいけんげても別段べつだん差支さしつかえあるまいとおもうのですが。」
よろしい。貴君あなたいま場合ばあい主人公しゅじんこうです。その簗瀬やなせ茂十もじゅうとやらの存在そんざいたいする証拠しょうこは、わたしいまひとつもにぎってらぬのですが、そのもの貴君あなた御縛おあげになるとすれば、其者そのものとの御会見ごかいけんわたくし御妨おさまたげする理由りゆうずありますまい。」
「では、おわかりですな。」
わかりました。まだなに御話おはなございますか。」
最後さいご御注文ごちゅうもんは、貴君あなた我々われわれ晩餐ばんさんどもにしてくださること要求ようきゅうします。なに三十分さんじゅっぷん用意ようい出来できるのです。今日きょうかき松鶏らいちょうと、上等じょうとう白葡萄酒しろぶどうしゅとを用意よういしてあります。」


一七、機関士きかんし全速力ぜんそくりょく――呉田博士等水上署艇にての追跡

編集
食事しょくじ愉快ゆかいぎた。博士はかせ御機嫌ごきげんばんってかわって饒舌おしゃべりになるのがくせであるが、今夜こんやその御機嫌ごきげんばんあたったのである。その状態ようすがまるで神経しんけいまでもふるうごくというような悦喜よろこびである。博士はかせまで快活かいかつ振舞ふるまうことはかつてないことだ。話題わだい絶時ひっきりなしにそれからそれへとかわってく。――むかし宗教しゅうきょうげきから、中世ちゅうせい陶器談とうきだん有名ゆうめい伊太利イタリー音楽家おんがくかストラジバリのつくったヴァイオリンの価値ねうちから、錫蘭セイロン仏教ぶっきょううわさ将来しょうらい軍艦ぐんかん予想よそうから――どれにもこれにも特別とくべつ研究けんきゅうげたらしいかおをしてべんてる、陽気ようき滑稽こっけいまじえてはなしその話振はなしぶりが、この二三にち闇黒あんこく圧迫あっぱくくるしめられていた博士はかせべると宛然えんぜん別人べつじんかんがある。阿瀬田あせだ警部けいぶかか休養きゅうようときには天晴あっぱれ社交しゃこうながじた紳士しんしである。しそれいたっては、流石さすが怪事件かいじけん終局しゅうきょく近付ちかづかんとするのをおもうだに意気揚々いきようようたるものがある。博士はかせ感化かぶれておおいはしゃいでしまった。食事しょくじあいだ誰一人だれひとり事件じけん言及げんきゅうするものもない。
食卓しょくたくきよめられると、博士はかせちら懐中時計かいちゅうとけいながめ、三にんのコップに葡萄酒ぶどうしゅ満々なみなみいで、
我々われわれしょう冒険ぼうけん成功せいこうしゅくして満杯まんぱいげてくれたまえ。ところでもう時間じかん十分じゅうぶんじゅくしてる。中沢なかざわくん短銃ピストルってるか。」
つくえ抽斗ひきだしふる軍隊ぐんたいよう短銃ピストルございます。」
「じゃそれを用意よういたまえ。万事ばんじ用心ようじんくはなしだから。自動車じどうしゃももうているはずだ。六時半じはんるように約束やくそくしていたから。」
予等よら新大橋しんおおはし埠頭はとばいたときは七ときぎていた。汽艇ランチすでけている。博士はかせはそれを仔細しさいながめてから、
此艇ふねにはなに一見いっけん水上署すいじょうしょのだとわかしるしでもりますか。」
ります――舷側げんそくのあの緑色みどりいろあかりがそうです。」
「じゃ、あれをそとしてしまっていただい。」
ふねわずか変化へんかほどこされた。予等よら一同いちどう甲板かんぱんうつると、繋綱もやいづなさっわかく。警部けいぶ博士はかせとは船尾せんび腰掛こしかける。ほかかじ一人ひとり機関室きかんしつ一人いちにんたくましき巡査じゅんさ二人ににん
さきは?」と警部けいぶく。
越中島えっちゅうじままで。彼処あすこ箱部はこべ工場こうじょうむかいのところでめさせてください。」
汽艇ランチまった快速力かいそくりょくしていた。荷物にもつんだ伝馬船でんまぶねをばあとからあとからとけてく。ほかふね碇泊ていはくしてうごかないのじゃないかとおもわれるくらいにはやい。一そう河蒸気かわじょうきはるかうしろけたときは、博士はかせ満足まんぞくそうに微笑ほほえんだ。
このかわうかんでいるものはなんでもこと出来できんではこまる。」と博士はかせう。
「そうもかぬかもれませんが、しかしこのふねてる汽艇ランチ沢山たくさんりません。」
北光丸ほっこうまる是非ぜひともつかまえねばならぬ。ところであのふねはやはり快船かいせんといわれていますからね。……そこで中沢なかざわくん今迄いままで我輩わがはい偵察ていさつ順序じゅんじょはなしてこう。きみおぼえてるだろう、わしたっひとつの些細ささい問題もんだいめにあんなにまってウンウンってくるしんだことを。」
おぼえてります。」
「あの挙句あげくわし断然だんぜん精神せいしん休養きゅうようさせる必要ひつようかんじて化学かがく分析ぶんせきかかったのじゃ。英国えいこくだい政治家せいじかある一人いちにんは、最良さいりょう精神せいしん休養きゅうようほう仕事しごと変化へんかであるとうてるが真実まったくであった。かねてりかけてった炭化水素たんかすいそ分析ぶんせきそのときようよ成功せいこうしたから、そこでふたた今回こんかい事件じけんかえって熟慮じゅくりょついやしてた。わしたのんだ捜索隊そうさくたいは、上流じょうりゅう下流かりゅうあまね偵察ていさつしたけれども効果こうかがらぬ。北光丸ほっこうまる何処いずく物揚ものあにも、埠頭はとばにもかげせず、さりとて錨地びょうちもどった様子ようすもない。手掛てがかりかなくなってると、のこった推察すいさつ曲者くせもの汽艇ランチみずか沈没ちんぼつせしめたのじゃないかということである。その推察すいさつえずむねおこったが、そこまでは断行だんこう出来できまいと推察すいさつされるふしもある。元来がんらいこの茂十もじゅうなる犯人はんにんある程度ていどまでは小刀細工こがたなざいく出来できおとこであるということはってる、けれども到底とうていだい策略家さくりゃくかうつわかんがえることは出来できぬ。おおきな術策じゅっさくいじするやつは、もうすこ高等こうとう教育きょういくけたものかぎるからね。我輩わがはいはまた此様このようことがついた、それはかれ時々ときどき東京とうきょうことがあるゆえに――その証拠しょうこかれ山輪やまわえず注意ちゅういはろうてった事実じじつわかるが――かれ凶行きょうこうただちに東京とうきょうったとはおもわれぬ、仮令よしわずか一日いちにちであったにせよかく善後策ぜんごさくこうずるために相当そうとうときしたろうとおもう。いずれにせよ其様そのよう見込みこみをつけるのが公平こうへいであるのだ。」
「それはすこ薄弱はくじゃく観察かんさつではないでしょうか。犯罪はんざい着手ちゃくしゅするまえにそのくらいな善後策ぜんごさくこうじてきそうなものだ、とるのが至当しとうではないでしょうか。」と警部けいぶがいう。
いやわしはそうはおもわぬ。かれ隠家かくれがというものは万一まんいち場合ばあいにはかれってすこぶ大事だいじところであって、それがくても安全あんぜんだというまでになれば格別かくべつ、さもなくば容易ようい見棄みすてるような隠家かくれがではない。しかるに此処ここにまたようだい二のかんがえがわしむねきた。かれ簗瀬やなせ茂十もじゅう同類どうるいやつがじゃ、外人がいじんしか特別とくべつ容貌ようぼう風采ふうさいおとこのようにふか外套がいとうかくしてろうとも、にんかずにはむまい、したがうて今回こんかい殺人事件さつじんじけん関係じけんあるものと観破かんぱされやすい、と茂十もじゅうかんじたのである。事実じじつかれはそのくらい先見せんけんめいはあるおとこである。で、彼等かれらやみじてその本営ほんえいからついにあのよう凶行きょうこうついげたが、茂十もじゅう夜明よあけぬうち隠家かくれがかえるつもりであったろうとおもう。ところ船宿ふなやど隅原すみはら女房にょうぼう言葉ことばによれば、彼等かれら汽艇ランチしたのは午前ごぜんときぎであったとう。午前ごぜんぎと言えば、もう夜明よあけもなく、一時間じかんもすれば世間せけんでる。彼等かれらあまりにとおまでなんだとわし見込みこみをてたのは此処ここことである。彼等かれら隅原すみはら金轡かなぐつわ穿ませてそのくちじ、最後さいご逃走とうそうようその汽艇ランチさせ、ぬすんだ宝玉函ほうぎょくばこもっ隠家かくれがきゅういだのだ。そして二日間ふつかかんほどは、新聞しんぶん記事きじ様子ようす自分じぶんかんする嫌疑けんぎ形勢けいせいなぞをて、やはり暗夜あんやでも利用りようし、横浜港よこはまこうなんぞに碇泊ていはくある汽船きせんって亜米利加あめりかか、あるい何処どこかの植民地しょくみんちにでも突走つっぱし企劃たくらみであったのである。」
しか汽艇ランチ始末しまつはどうするでしょう。まさか汽艇ランチ宿屋やどやまでむわけにはきますまい。」
「それは無論むろんのことだ。わし見込みこみでは、汽艇ランチ随分ずいぶんたくみに姿すがたかくしてはいるけれども、あまとおくにはってまいとにらんだ。で、わしりに茂十もじゅう位置いちき、茂十もじゅうおなほど頭脳あたまおとことなって形勢けいせいかんがえてみた。すると、汽艇ランチ隅原すみはら物揚ものあもどしても、また何処どこぞの埠頭はとば碇泊ていはくさせていても危険きけんである。何故なぜえば万一まんいち警官けいかん自分じぶん追跡ついせきする場合ばあいには容易よういあしがつきやすい。このくらいな茂十もじゅう気付きづいたにまっている。しからば汽艇ランチかく手段しゅだんはどうしたものであろう、また何時いつでも必要ひつようおうじて使用しよう出来できるようにしてくにはのような工夫くふうらしたものか。茂十もじゅうであったらばこの難問題なんもんだい如何いか解決かいけつしたろう。それにはただ一個ひとつ方法ほうほうがある。すこしばかりはいれてもらいたいとうので、汽艇ランチ何処どこぞかの造船所ぞうせんじょか、修繕所じゅうぜんしょたくすることである。すれば自然しぜん仮庫かりぐらもしくは工場こうじょうなかうつされる、一船体せんたい人目ひとめからかくれる、同時どうじにいつでも随意ずいい使つかわれる。」
「なるほど簡単かんたん理窟りくつですな。」
此様このよう簡単かんたん理窟りくつにん往々おうおう見逃みのがやすいものである。が、わしそのかんがえでしととおそうと決心けっしんしてぐに海員かいいん変装へんそうし、凡有あらゆ船着場ふなつきば偵察ていさつ着手ちゃくしゅした。その結果けっか十五番目ばんめまでは無益むだであったが、十六番目ばんめ――つまり箱部はこべ造船所ぞうせんじょだね――彼処あすこくとはじめてわかった。二日ふつか以前いぜん一人ひとり片脚かたあしおとこが、かじすこしてもらいたいとうて北光丸ほっこうまる工場こうじょうたのんだそうだ。『かじにはなんにもいたんだ個所かしょなんざりやしません。そこに赤筋あかすじりのあれが北光丸ほっこうまるです』と職工長しょくこうちょうゆびさった。其折そのおりにじゃ、一人ひとり構内こうないはいっておとこがある。これが行衛ゆくえ不明ふめいになっていた隅原すみはら介作かいさくさ。酒好さけずきだとえて酔払よっぱろうてった。わし無論むろんはじめてうたおとこだから、かれ自分じぶんくちからその姓名せいめい汽艇ランチとをしゃべらなければ、ついにそれとよしもないところであった。しかるにかれは『今夜こんやまで修繕なおしてもらいたいんだがね、八きッちりに。じつなんだ、ふね出来上できあがるのをってござかた二人ふたりあるんだ。』などとうのさ。犯人はんにんたしかかれ金轡かなぐつわをはませたね。沢山たくさんかねっている様子ようすで、職工しょくこう惜気おしげもなく銀貨ぎんかくのだ。ですこあとけてたけれども、そのうちに一けん麦酒ビーアホールへ消込きえこんでしもうたので、また造船所ぞうせんじょかえろうとすると、途中とちゅうわしやとうている一人ひとり捜索隊そうさくたい少年しょうねん遭遇でおうた。で、それをば暫時しばらく北光丸ほっこうまる監視役かんしやくとして、河岸かし見張みはらせ、ふねったらば我々われわれ手巾ハンケチって合図あいづすることに手筈てはずめてたのだ。で、其辺そのへんふねちかづけて形勢けいせいねばならぬが、これほどに用意よういして、犯人はんにん宝玉ほうぎょくなにもかもつかまれぬようであったら不思議ふしぎことわねばならぬとおもう。」
「いや、それは真正しんせい犯人はんにんしの奈何いかんかかわらず、貴君あなた御工夫ごくふう非常ひじょう結構けっこうでありました。」と警部けいぶった。「しかしですな、わたくしその場合ばあいったとしたならば、わたくし箱部はこべ造船所ぞうせんじょへ一たい警官けいかんけて、彼等かれらたらば捕縛ほばくさせてしまいますな。」
「それはもってもほかの拙策せっさくです。この茂十もじゅうなるもの仲々なかなか抜目ぬけめのないやつゆえ、かならあらかじ哨兵しょうへい一人ひとりぐらいはしてく。そしてすこしでも胡散臭うさんくさいところがれば、もう一週間しゅうかんぐらいは隠家かくれが蟄居ちっきょするのです。」
しかし、隅原すみはら介作かいさくつかままえて、彼等かれら隠家かくれが案内あんないさせればかったかもれません」と自分じぶんった。
「そうするときには、また一にちついやさねばならぬ。それに隅原すみはらは九りんまでは彼等かれらしん棲家すみからぬとた。隅原すみはらというやつさけかねとがありさえすれば、なに彼等かれら隠家かくれがなぞを必要ひつようろう。用事ようじがあれば茂十もじゅうほうから使つかいをすにまってる。我輩わがはい凡有あらゆ手段しゅだんかんがえないではない。その結果けっかやはりいまはなししたさく最上さいじょうかんがえたのだ。」
かたに、ふね永代橋えいたいばしくぐえて、いつしか越中島えっちゅうじまた。
博士はかせ左岸さがんほう帆檣ほばしら林立りんりつへんし、
「あれが箱部はこべ造船所ぞうせんじょだ。さいわこの数多あまた達磨船だるませんかげかくれて此辺このへんしずかかに遊弋ゆうよくしていてください。」
懐中かいちゅうより照夜鏡しょうやきょう取出とりだして、暫時しばしきしほう視察しさつしてたが「わし哨兵しょうへい彼処あすこえる、が、手巾ハンケチ合図あいづはない。」
「どうです呉田くれたさん、すこ下流かりゅうさがってかまえては。」
阿瀬田あせだ警部けいぶ熱心ねっしんう。ひと警部けいぶのみならず、予等よら此時このときのこらず興奮こうふんしてた。勿論もちろん巡査じゅんさも、事情じじょうらぬ火夫かふまでも。
「そりゃ多分たぶん下流かりゅうくでしょう。が、それも確定かくていしてはらぬ。此処ここからならば造船所ぞうせんじょへの入口いりぐち監視かんしされて、しかうからは此方こちらえぬ。今夜こんやれて、ふねともしびおおくなるでしょう。矢張やは此辺このへん見張みはってらねばならぬ。彼処あすこ見給みたまえ、人間にんげんかげがガスの燈影ほかげえるから。」
工場こうじょうからかえ職工しょくこうでしょう。」
自分じぶんこたえた。
手巾ハンケチはまだえぬかな。ああ、彼処あすこなにしろものがヒラヒラするぞ。」
「そうです、たしか先生せんせいめいじた見張番みはりばんです。判然はっきりえます。」
「そして北光丸ほっこうまるるわい。」と博士はかせさけぶ。「まるで鬼火おにびのようにんでくじゃないか!機関士きかんし全速力ぜんそくりょく!あのきいろあかり汽艇ランチいてくれ。おのれ、此方こっちすようであったら承知ききはせぬぞ……」


一八、物凄ものすご水上すいじょう大活劇 だいかつげき――恐ろしき犯人の捕縛と黒奴銃殺

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にも北光丸ほっこうまる何時いつしかひそか造船所ぞうせんじょ構内こうない入口いりぐちで、二三そう小船こぶねうしろぎてくのであった。その予等よら気付きづかぬあいだ充分じゅうぶん快速力かいそくりょくこと出来できいまぎしうて疾風しっぷうごと下流かりゅう航走こうそうする。
阿瀬田あせだ警部けいぶはその姿すがたじっおごそかに見詰みつめて、くびりながら、
非常ひじょうはやい。追付おいつけるから。」
「いや、是非ぜひとも追付おいつかねばならぬ!火夫かふくん!ドンドンいてくれ!全速力ぜんそくりょくしてくれ!此方こっちふねけてしもうても、あれをばつかまえねばならぬ!」
博士はかせりきむ。
予等よらいま陣容じんようととのえて北光丸ほっこうまる追跡ついせきみちいた。火炉かろ咆哮ほうこうし、強大きょうだいなる機関きかんあるはピューピューとり、あるい金属きんぞく{{{2}}}せいだい心臓しんぞうででもあるかのきんぞくくカタンカタンとひびきをてた。するどとがった船首せんしゅしずかかなる河水かすいつんざいて、左右さゆう二条にじょうなみころがさせる。機関きかんの一鼓動こどうごとに、ふね生物いきもののように跳躍ちょうやく戦慄せんりつした。船首せんしゅけた一だいなる黄色きいろ舷燈げんとうは、予等よら行手ゆくて一条ひとすじなが飄揺ひょうようする漏斗状じょうごがたひかりげた。前方ぜんぽう右方うほうって水上すいじょうの一てん黒影こくえいこそは北光丸ほっこうまる船体せんたいである。そのしりえしろ泡沫あわ渦巻うずまきは、如何いかふねけりつつあるかをしめしてる。予等よら伝馬船でんまぶね汽船きせん商船しょうせんとうえた。かれみぎにし、これひだりにし、一船いっせんうしろで、一船いっせん周囲しゅういめぐり、何処どこまでも何処どこまでもと追跡ついせきする。
いてくれ!いてくれ!」と博士はかせ機関室きかんしつのぞみ「蒸気じょうきりッたけしてくれ。」と怒鳴どなる。その熱心ねっしんわしごとかおは、したからはげしい火気かき真紅まっかかがやいた。
幾分いくぶんちかくなったようです。」
警部けいぶ北光丸ほっこうまるよりはなたずにった。も、
たしかかに接近せっきんしました。もう五、六ぷんったら追付おいつきます。」
しかるになんたる不幸ふこうぞや。此時このときしも三そう小船こぶねきたる一そう曳舟ひきふねわれてきとのあいだまじんだ。かじころじてあやう衝突しょうとつだけはまぬかれたが、それをめぐってふたたさき航路こうろについたときは、北光丸ほっこうまるすでゆうに六百しゃくへだてていた。しかしながら船体せんたいいま判別はんべつ出来できる。そしてくら朦朧もうろうたる黄昏たそがれひかりしずんで、かえっ晴明せいめいなる星月夜ほしづきよとなった。機関きかん極力きょくりょく緊張きんちょうされた。もろふねするど精力せいりょくめに振動しんどうし、きしみつつ予等よら驀進ばくしんさせた。すで石川島いしかわじま造船所ぞうせんじょはるかあとにし、佃島つくだじまわたしよぎり、かちどきのわたしえ、いま浜離宮はまりきゅううらけつつある。
前方ぜんぽう模糊もこたる黒斑点こくはんてん此時このときまぎれもなく凄愴せいそうなる北光丸ほっこうまる姿すがたあらし、炳然へいぜんとしてった。阿瀬田あせだ警部けいぶ探照燈たんしょうとうけた。かの艇上ていじょう人物じんぶつ歴々れきれきとしてる。その船尾とも[8]には一人ひとりおとこがゐる。おとこひざあいだなにやらんくろものはさ其上そのうえこごかかってる。其傍そのかたわらには一ぴきいぬともゆるやはり一塊いっかいくろものうずくまっている。一人ひとり少年しょうねん舵柄かじづかにぎっている。そして火炉かろ灼熱しゃくねつひかりけて、こしまではだかとなり、懸命けんめい石炭せきたんはいれつつあるのは隅原すみはら老爺おやじである。
彼等かれらはじめこそ、予等よらはたして追跡隊ついせきたいなるやいややをうたがうもののごとくであったが、はしかたはしり、まがかたまがりつついゆくのをたるいまにあっては、最早もはや寸分すんぶん疑念うたがいはさまず、愈々いよいよそれと見極みきわめたらしい。すでにして、てきやく三百あるさら一層いっそう接近せっきんして二百五十となった。随分ずいぶん狩猟しゅりょうをなし、獲物えものかかけた経験けいけんもあるけれども、いま獰悪どうあくなる犯人はんにん追跡ついせきするこの狂猛きょうもうなる狩猟しゅりょうごとこころ刺激しげきあたうるものはなかったのである。ふね着々ちゃくちゃくとして堅実けんじつ一歩いっぽ一歩いっぽせまる。よるいと闃寂しずかなれば、敵艇てきてい機関きかんあえぎとひびきとをこと出来できる。船尾せんびおとこ依然いぜんとして甲板かんぱんこごみ、なにやらんせわしげに両手りょうてうごかしてる。うごかしつつ時々ときどきげては両艇りょうてい距離きょり目算もくさんするもののごとくである。
接近せっきん、また接近せっきん阿瀬田あせだ警部けいぶすでに、
まれ!コラ、まれ!」
怒鳴どなっている。
距離きょりようやじてわずかかに四艇身ていしん両艇りょうていはしことごとくもごとし。予等よら叫声さけびごえれ、くだん船尾せんびおとこ甲板かんぱん突立つったあがり、甲高かんだか亀裂ひびはいったごと変妙へんみょうこえにてののしりつつ、ふねけて握拳にぎりこぶしまわした。堂々どうどうたる偉丈夫いじょうぶである。が、両足りょうあし踏張ふんばって突立つったったその姿勢しせい不図ふとれば、おどろくべし、その右足うそくももよりしたあしではないか。此男このおとこ甲走かんばしった怒号どごうれて、甲板かんぱんうえよこたわって一塊いっかい怪物かいぶつうごした。ながまったところをれば、怪物かいぶつへんじて一個いっこちいさき黒奴くろんぼとなったのである。それはかつざるほどの矮人わいじんにて、あたまばかりは不格好ぶかっこうおおきく、一束ひとたば蓬々ぼうぼうたる乱髪らんぱつかぶってる、怪漢かいかん博士はかせすで短銃ピストルかまえている。この野蛮人やばんじん姿すがたると自分じぶん短銃ピストル取出とりだした。矮人こおとこ毛布もうふごとものくるまり、わずか顔面がんめんのみをあらわわしているのであるが、その顔面がんめんたるのみにてたしか一晩ひとばんうなされる代物しろものである。凡有あらゆ獣性じゅうせい残忍ざんにんとをまでふかそなえた容貌ようぼういまためしがない。その小粒こつぶ陰気いんきなるひかりかがやき、そのあつくちびるうしろかえりて露出むきだし、なか動物的どうぶつてき狂猛きょうもうもっ予等よらある嘲笑あざわらいし、ある喋々ちょうちょうするのであった。
彼奴きゃつげたらはなせ。」
博士はかせ落着おちついてった。
両艇りょうていはますます接近せっきんしてすでに一艇身ていしんとなった。獲物えものれたも同然どうぜんである。二凶漢きょうかん立姿たちすがた眼前がんぜんにある。茂十もじゅう相変あいかわらずあし踏張ふんばってののしさけび、けがらわしき一寸法師いっすんぼうしふねひかりみにくいをかおげ、厳丈がんじょうきいろしてにらめてる。
此様このよう黒奴くろんぼ姿すがた判然はっきりえているのが幸福しあわせであった。さもなくば、かれ毛布もうふしたから簿記棒ぼきぼうごと一本いっぽんみじか丸木まるき取出とりだしてくちてたのを、あやう見逃みのがすところであった。それと同時どうじ予等よら短銃ピストル一斉いっせいひびわたる。と、黒奴くろんぼからだはクルクルと回転かいてんした。両腕りょううで差出さしだして、咽喉のどまるような咳嗽せきをしたかとおもうと、ドタリとたおれて其儘そのままドブーンと水中すいちゅう顚落てんらくした。しろ渦巻うずまきなかにその毒々どくどくしい、にんおどかすような瞥乎ちらりえる。くと片脚かたあしおとこかじいてギーとまわす。ふね南岸みなみぎし真直まっすぐ突掛つっかけようとする。ふね敵艇てきてい船尾せんび五六しゃくへんれにとおって、ただちにてきせまらんとしたが、すでおくし、北光丸ほっこうまるはもはやほとん埋立地うめたてちきし乗上のりあげんとするところである。
此辺このへん人里ひとざとはなれた荒寥こうりょうたるきしである。其処此処そこここみずよどんだたまりと、うられた植物しょくぶつとが入混いりまじった一面いちめんひろ泥海どろうみうえがつかがやいている。この泥堤どろづつみ眼掛めがけて北光丸ほっこうまるいましも一声いっせいにぶきドサリとおとども乗上のりあげたから、船首みよしそらい、船尾ともみずちた。犯人はんにんぐに甲板かんぱんから飛降とびおりた。が、あしはズゴズゴズゴと泥土でいどなかしずんでゆく。それをこうとしてもがいたりからだねじったりするが益々ますますしずむばかり、まえへもあとへも一歩いっぽうごかばこそ、ちからなきこえにていかののしり、丈夫じょうぶほうあしにてくるわしげにどろ蹴立けたてるのであるが、ればるほど片方かたほうあしは、粘々ねばねばしたどろなか陥込おちこむばかりである。予等よらかろうじてふねせたごろには、かれまった泥濘でいねいけられていた。むを一条すじ捕縄とりなわをばさっとかれくびげ、さめでも引張ひっぱよう引寄よきよせるよりほかにさくがなかった。隅原すみはら父子ふし陰気いんきつらをして汽艇ランチなかったが、めいずるままに、柔順すなお此方こちらふねうつった。北光丸ほっこうまるみなしてようやきしよりろし、ふね船尾ともかたむすけた。
印度インド細工ざいく一個いっこ堅固けんごなる鉄函てつばこ甲板かんぱんいてある。これはうたがいもなく、山輪やまわ不吉ふきつ宝玉ほうぎょくれてあるはこであろう。かぎひとつもいてらぬ。非常ひじょう重量めかたがある。で、予等よら注意ちゅういして自分じぶんせま船室せんしつにそれをうつした。
くしてしずかかに船首せんしゅをめぐらしてながれをさかのぼはじめたが、探照燈たんしょうとうにて四方あたりてらても、黒奴くろんぼかげかたちもない。おそらく水底すいていふかくら軟泥なんでい何処いずくにかいてよこたわっているのであろう。
此処ここ見給みたまえ。あのとき丁度ちょうど短銃ピストルってまアかった。」
博士はかせ艙口そうこうゆびさしてった。
成程なるほど予等よらっていたうしろところに、れい見慣みなれた凶悪きょうあくなる毒矢どくや一本いっぽんさっている。予等よら短銃ピストルったその瞬間しゅんかんに、ビューとんで二人ふたりあいだけたものにちがいない。博士はかせ毒矢どくやながめて微笑びしょうみ、れい調子ちょうし一寸ちょっとかたそびやかしたにぎなかったが、おそろしきまでちか身辺しんぺんおそうていたあやうさをおもうと、流石さすが慄然ぞったらざるをなかった。


一九、兇悪きょうあくなる船室せんしつない犯人はんにん ――宝玉函の陸上げ

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犯人はんにん茂十もじゅう船室せんしつない鉄函てつばこかれ多年たねん苦心くしん惨憺さんたんしてんとほっしたその鉄函てつばこ相対あいたいしてすわった。打見うちみたところかおけ、落着おちつきがなく、大皺おおじわ小皺こじわあみよりもしげく、いかにも過去かこ難渋なんじゅうなる戸外こがい生活せいかつ面影おもかげかたっている。髯武者ひげむしゃあご奇妙きみょうなるかたち突出つきでているが、これはおおむ目的もくてき執着しゅうちゃくするおとこ人相にんそうである。くろちぢれた頭髪かみのけあつしもいたところでれば、年輩ねんぱいは五十前後ぜんごでもろうか。その重々おもおもしきひたい喧嘩好けんかずきらしいあごとは、先程さきほどとお憤怒ふんぬじたときには、一しゅおそろるべき印象いんしょうあたえるけれども、平静へいせいなるとき顔付かおつき夫程それほど不愉快ふゆかいかんじもおこさせぬ。いまかれ手錠てじょうめられた両手りょうてひざにし、こうべむねれてすわっている。が、するどまたたは、悪行あくぎょうもといをなせし鉄函てつばこながめている。そのギクギクした、鬱憤うっぷんおさえたいやなかおには、憤怒いかりうよりもむし悲哀かなしみほうおおているようにには見受みうけられた。
「さて簗瀬やなせ茂十もじゅう。」と博士はかせ巻煙草たばこてんけながら「とうとう此様こん始末しまつになったのはどくであるな。」
「ヘエ、わたくしもそうおもうんで、ヘエ。」と茂十もじゅう淡泊たんぱくこたえる。「わたくし旦那だんな神様かみさまちかってもうしますが、わたくしにゃア山輪やまわ兄子息あにむすこたいしてコレンばかりも抵抗はむかはなかったんですぜ。それをのまアおそろしい毒矢どくや射掛いかけたのは、矮人こびと黒奴くろんぼ頓迦とんが畜生ちくしょうでさア。旦那だんなまったわたくしアそれにゃアすこしも関係かんけいはありません。かえっ親類しんるいでもころされたくらいにくやみましたよ。わたくし其時そのとき黒奴くろんぼ畜生ちくしょうなわはしたたいたのです。でもしまったことはしまったことでかえしがつきませんからねえ。」
巻煙草たばこうか。それからおまえうてるようだから、わし水筒すいとうみず一杯いっぱいんだがかろう。一体いったい、あの黒奴くろんぼのような小男こおとこが、山輪やまわ建志けんしめて、おまえなわつとうてのぼってあいだおさけてられると、おまえはどうしておもうたのか。」
博士はかせえば、
旦那だんな宛然まるであのばんことていたように仰有おっしゃいますね。実際まったくのところはわたくしへやそらいているときはいかったのです。わたくしアあのいえ様子ようすっていましてね。あのとき丁度ちょうど毎時いつも主人しゅじん夕飯ゆうめしいに階下したりてゆく時間じかんあたったはずなんです。とうのは、敵手あいてんだ山輪やまわ少佐しょうさだったら文句もんくもなくかかります。どんな陰険いんけん手段しゅだんもちいてもころくらいのことは朝飯前あさめしまえなんですけれど、さて敵手あいてつみうらみもない兄息子あにむすこるから、それをひどわすのはいかにも不憫ふびんですからねえ。」
「おまえ警視庁けいしちょう阿瀬田あせだ警部けいぶ監督かんとくしたにあるのじゃ。警部けいぶさんはおまえ高輪たかなわわしやしきれてかれるはずであるから、其時そのときわしはおまえ事件じけん真相しんそうたずねるりである。おまえつつみかくさずもうべるがいぞ。そうすればまたおまえ利益ためはかってもやれるとうものだ。わしかんがえではあの毒矢どくやはまだおまえへやかぬまえ建志けんしたおれてしもうたほどはやはたらいたにちがいない。そうかんがえらるる証拠しょうこもあるがうだ。」
まった旦那だんな其通そのとおりでしたよ!わたしなわのぼってってまどから不図ふとかおすと、貴君あなた毒矢どくやされた主人しゅじんあたまをこうダラリとかたれて、わたくしほう剝出むきだしましたがね、其時そのとき可厭いや心持こころもちというものはうまれてからはじめてでしたよ。わたくしおもわずブルブルふるえましたね。あんまり忌々いまいましいから頓迦とんがやつころしてやろうとすると、先生せんせいあわ狼狽ふためいて逃出にげだしてしまいましたが、あとからけばそのめにいしあたまのついた道具どうぐやら毒矢どくやふくろやらをわすれてしまったそうで、わたしかんがえじゃア、まア旦那だんな私達わたしたち御附おつけになったのもそのかげだとおもいやす。とってそれについてもわたし旦那だんなをおうらもうすじひとつもございませんがね。ただながら不思議ふしぎなのは」といたましい微笑ほほえみうかめて、「不思議ふしぎなのは、ざっと五十万えんだけははいれる正当せいとう権利けんりのあるわたし一生いっしょう半分はんぶん印度いんど安陀漫アンダマンとう防波堤ぼうはていきずためおくってしまい、今日きょうからあと半分はんぶんをどうせ今度こんどつみでまた溝掘みぞほりでもしておくらなけりゃアならないということです。かんがえてればわたくし商人あきうど滅土めつどって宝玉ほうぎょくけなけりゃならないようになったのがそもそわたくしにとっての悪日あくにち、あの宝玉ほうぎょくちゃアその持主もちぬしうえにさえ不孝ふしあわせらしたほかなんにもやくにはたなかった。とうのは持主もちぬしそのめにいのちとし、山輪やまわ少佐しょうさっちゃア一しょう恐怖おそれたねつみたねとなり、わたしにゃまた一しょう奴隷どれいたねとなりました。」
此時このときせま船室せんしつにはだだッひろかおふとかたとをしたのは阿瀬田あせだ警部けいぶ
一家団欒だんらんという有様ありさまですね。呉田くれたさん、わたくしも一パイ頂戴ちょうだいしてもよろしいでしょう。まったく祝杯しゅくはいげてもいですぞ。ただ黒奴くろんぼ生擒いけどりにせなんだだけが残念ざんねんだが、あの場合ばあい仕方しかたもない。呉田くれたさん、あのとき貴君あなたふね御手際おてぎわは、内心ないしん御自慢ごじまんでしょう。我々われわれはただ追及ついきゅうするのが精一せいいっパイでしたからなア。」
およ計画けいかく成功せいこう不成功ふせいこううものはその結果けっかから判断はんだんすべきもので、途中とちゅう困難こんなん不幸ふこう目勘定めかんじょうはいれるものではないのです。」と博士はかせ格言かくげんめいたことい「しか北光丸ほっこうまるがあのように快速力かいそくりょくろうとはわし意外いがいでした。」
隅原すみはらところによれば、北光丸ほっこうまる大河中おおかわちゅうもっと速力はやさのあるふねで、今夜こんやなぞも機関きかんにもッと手伝てつだいがればけっして追付おいつかれなんだとうています。それに今回こんかい強盗ごうとう殺人事件さつじんじけん自分じぶんすこしもらぬとちこうていますよ。」
「そりゃ真実ほんとうです。」と茂十もじゅうさけんだ。「私達わたしたち北光丸ほっこうまるはやいといて其奴そいつえらんだだけです。隅原すみはら爺様じいさんにはなににもはなししちゃアありません。ただ謝礼れい沢山たくさんしました。私達わたしたち横浜よこはま碇泊中ていはくちゅうのブラジルきの汽船きせんのタコマまる無事ぶじ乗込のりこめたらば、謝礼しゃれいをするはずでした。」
し、爺様じいさんつみがなければつみせないだけじゃ。我々われわれ犯人はんにんげるにははややかったけれども、にんばつするにはそうはや無謀むぼうことはせん。」
尊大そんだい阿瀬田あせだ警部けいぶがもう犯人はんにんまえ威張いばしたのが面白おもしろい。博士はかせ内心ないしんそうおもうとえてかすか微笑びしょううかべている。
警部けいぶはそれともらず言葉ことばをつぎ、
「もう永代橋えいたいばしです。中沢なかざわさん、貴君あなた宝玉函ほうぎょくばことは其処そこ御上陸おあげしましょう。今更いまさら申上もうしあぐるまでもないが、この処置しょちについてはわたし非常ひじょう責任せきにんおびびています。じつ不規則ふきそく処置しょちです。が、御約束おやくそく御約束おやくそくですからなア。しか貴君あなたすこぶ高価こうか荷物にもつ御抱おかかえになるわけだから、職務上しょくむじょうめい巡査じゅんさしてうえげぬわけにはきません。無論むろん馬車ばしゃ御出おいででしょうな。」
左様さよう馬車ばしゃきます。」
かぎがなくて、我々われわれ真先まっさき検査けんさすることの出来できぬのは遺憾いかんです。貴君あなたこわさなければなりますまい。コレ、かぎはどうしたか。」
かわそこにありますよ。」
茂十もじゅうましたもの。
「ふム!そんな無益むだ手数てすうけんでもいじゃないか。おまえ捕縛ほばくするだけでもいい加減かげんほねらせられたぞ。いや、中沢なかざわさん、もうまでもなく注意ちゅういしてっていらっしゃい。」

二〇、如何いかに?如何いかに ――嗚呼、宝玉は藻抜けのから

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永代橋えいたいばしると、鉄函てつばこと、一人ひとり武骨ぶこつある温和おとなしき巡査じゅんさども上陸じょうりくした。
其処そこよりおよそ一五分間ぷんかん馬車ばしゃると、明石町あかしちょうなる濠田ほりた夫人ふじんやしきく。女中じょちゅときならぬきゃくおどろいたらしかった。夫人ふじん外出がいしゅつしてかえりはおくからんとのことしか丸子まるこ客間きゃくまりとのことに、巡査じゅんさをば馬車ばしゃのこしおき、鉄函てつばこいだえて客間きゃくまへとはいってった。
丸子まるこくびこしとにわずかばかり紅色こうしょくほどこしたるしろ透明とうめいきぬまとうて、ひらいた窓際まどぎわ腰掛こしかけていた。おおいをかかけたランプのひかり藤椅子とういすれる彼女かのじょうえち、そのうつくしくも打沈うちしずめるかんばせうえ逍遥さまよい、房々ふさふさとしたる頭髪かみのけゆたかなる渦巻うずまき微暗ほのぐら黄金こがねごとひらめきをばしめた。ゆきあざむ片方かたほう椅子いすそとにダラリとれている。すべじてその姿勢しせい恰好かっこうまさにこれこころ吸込すいこまるるごと憂鬱ゆううつ化身けしんである。
が、おもわぬ跫音あしおとにアナヤとばかりあがった。驚愕おどろきうれしさとあかる閃光ひかりが、蒼白あおしろほおさっめる。
只今ただいま馬車ばしゃおときこえましたから、夫人ふじん大層たいそうはや御帰おかえりだとおもっていましたが、貴君あなたとはゆめにもおもいませんでしたわ。今頃いまごろなにかわったことでもおりになって?」
かわったことぐらいのさわぎではない。今夜こんや非常ひじょう御土産おみやげってましたよ。」
と、鉄函てつばこをば卓子テーブルうえいてった。
こころおもしずんでいるが、うわべはさも快活かいかつげに騒々そうぞうしく「世界中せかいじゅう凡有あらゆ珍聞ちんぶんあたいするほどのものですよ。わたくしってたものは財産ざいさんです。」
丸子まるこちら鉄函てつばこながめ、
「では、それがあのおはなし宝玉ほうぎょくございますか。」
意外いがい冷淡れいたんなもの。
「そうです。これが印度いんど宝玉ほうぎょくです。半分はんぶん貴女あなたの、半分はんぶん山輪やまわ周英しゅうえいくんのです。まアかんがえて御覧ごらんなさい!わか婦人レディ貴女あなたより金持かねもちにん貴女あなた本国ほんごく英国えいこく沢山たんとありますか。じつ美事みごとなわけじゃありませんか。」
すこ祝賀しゅくが誇張こちょうぎたにちがいない。言葉ことばなか不信実ふしんじつひびきのあるのを丸子まるこさとったと眉毛まゆげげて不思議ふしぎそうにかお瞥見べっけんし、
しそうなりますれば、貴郎あなたのおかげございますわ。」
「いやいや、わたくしではない、わたくし先生せんせい呉田くれた博士はかせのおかげです。先生せんせい分析的ぶんせきてき天才てんさい頭脳あたまもちいてようや目的もくてきたっしたので、わたくしなぞであったらば世界中せかいじゅう応援おうえんてもひとつの証拠しょうこさえ発見はっけんすること出来できなかったくらいです。」
「どうぞおかかあそばして、その模様もようをば御話おはなしくださいまし、中沢なかざわさま。」
で、此前このまえ彼女かのじょわかれた以来いらい出来事できごとざっ物語ものがたった。――呉田くれた博士はかせ新偵察法しんていさつほう北光丸ほっこうまる発見はっけん阿瀬田あせだ警部けいぶ訪問ほうもん東京湾上とうきょうわんじょう敵艇てきてい追跡ついせき、とじゅんうてはなししてゆくと、丸子まるこくちびるひらかがやかせていていたが、黒奴くろんぼ毒矢どくやあやう予等よらあいだかすめてんだその最後さいご一幕ひとまくかたると顔色かおいろかわえて、気絶きぜつするかとおもわれたので、おどろいてり、みずませようとすると、
「いえ、なにともございませんの。もうくなりましたの。わたくしわたくしめに皆様みなさまがそのような危険きけんにおいなされたとおもうと、ハッとむねたれてどういたそうかとおもったのでございますよ。」
「なに、もうなにもかもったことです、にも御心配ごしんぱいにはおよびません。もうそんな陰気いんきはなしめて、もっとあかるいことにうつりましょう。ここに宝玉ほうぎょくがあるじゃありませんか。このくらい光明こうみょうたねになるものがありましょうか。わたくしなにでも貴女あなた真先まっさきいただい。貴女あなた満足まんぞくなさろうとおもって、こうして許可ゆるしってたのです。」
「はア、わたくしにはなによりの満足まんぞくございますわ。」
ったが、どうもこえ熱心ねっしんひびきがない。自分じぶんでも其様そのようほねってはいれてもらった宝玉ほうぎょくたいして、あま冷淡れいたん態度たいどをするのは無礼ぶれいえるだろうとさとったのか、
なんという綺麗きれいはこございましょう!」とかがかかってはこめ出した。「これが印度インド細工ざいくもうすのでございますか。」
「そうです、これが有名ゆうめい印度インドのペナレス金細工かねざいくです。」
丸子まるこちょっかかけてて、
「まア!おもいこと!これははこだけでもたいしたものでございますのね。かぎはどこにございまして?」
犯人はんにん茂十もじゅう大河おおかわそこはいれてしまったそうです。だから夫人ふじん火箸ひばしでも拝借はいしゃくしなくては。」
はこ前方ぜんぽうに、仏陀ぶっだ坐像ざぞうったあつひろかきがねがついている。そのした火箸ひばしはし突込つっこみ、桿杆てこなにぞのように外部そとねじげた。かきがねはパチンとかきがねしてはなれる。そのふたふるえるうしろねた。と、二人ふたりおもわず吃驚びっくりしてすくんだ。はこ空虚からであった!宝玉ほうぎょくかげかたちもない。
おもかったのは不思議ふしぎでない。グルリと三分さんぶんインチあつさある鉄細工てつざいく出来できているはこだ。堅牢けんろう無比むひ貴重品きちょうひん運搬うんぱんひつおよばぬ厳然がっしりしたものであるが、なかには金属きんぞく一屑ひとくず宝玉ほうぎょく一砕片ひとかけらさえない。空虚からっても此上このうえ空虚からりようがない。
宝玉ほうぎょくくなってりますよ。」
丸子まるこ落着おちついてった。
その言葉ことばき、その言葉ことばなかふくまれている意味いみ感得かんとくしたときだいなる黒雲こくうんたましいうえからはらわれたがした。この印度いんど宝玉ほうぎょく如何いかがこころ圧迫あっぱくしつつあったかは、それがのぞかれたいまにしてはじめてるをた。無論むろんこれは自我主義じがしゅぎである。不信実ふしんじつである。不当ふとうである。にもかかわらず黄金おうごん障壁しょうへき二人ふたりあいだより消失しょうしつしたというおもよりほかにかんずることが出来できぬ。
「ああ、有難ありがたい!」
おもわず中心ちゅうしんから感謝かんしゃこえげると、丸子まるこ素早すばやうたがわしげの微笑ほほえみふくんで、
「なぜでございますの。」
「それは?貴女あなたというにんがまたわたくしとどところたから。」と丸子まるこった。その彼女かのじょほどこうともせぬ。「丸子まるこさん。わたくし貴女あなたあいするからうのですよ。古来こらいおとこおんないしたかぎ真実ほんとうこころうのですよ。この宝玉ほうぎょくこの今迄いままでわたくしくちびるふうじていたのです。けれどもこれがくなったいまは、わたくしがどのように貴女あなたあいしていたか、その心持こころもちやすんじて貴女あなたげることが出来できます。ああ、有難ありがとい!とったのはそういう心持こころもちなのです。」
そのからだ引寄よきよせると、丸子まるこも、
「では、わたくしいますわ、ほんとに有難ありがたいわ」
小声こごえささやいた。
宝玉ほうぎょくうしなくしたかわりに、今夜こんや丸子まるこという宝玉ほうぎょくた。


二一、ひろわれぬ河底かてい宝玉ほうぎょく――犯人の驚く可き自白

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天下てんか辛棒人しんぼうにんうのは馬車ばしゃなかなる巡査じゅんさことである。ふたた馬車ばしゃったのはときてのごろであるのに、不平ふへいわずにっていた。が、空函からばこしめすとかおくもらせてらなそうに、
報酬ほうしゅうがどこかへんでしまいましたね!かねがなくてははらいも出来できない道理どうりです。今夜こんや仕事しごと宝玉ほうぎょくったらば、同僚どうりょうわたくしとが各々めいめいえんずつ賞与しょうよされるはずでしたのになア。」
山輪やまわ周英しゅうえいくん金持かねもちだから安心あんしんおしなさい。宝玉ほうぎょく有無あるなしにかかわらず御礼おれいはするでしょう。」
なぐさめても巡査じゅんさ落胆がっかりしたらしくあたまって、
失敗しっぱいだ。阿瀬田あせだ警部けいぶもそうおもうに違いない。」
巡査じゅんさ予言よげん的中てきちゅうした。高輪たかなわ本邸やしきいて空函からばこしめすと、警部けいぶほとんいろうしなうた。
呉田くれた博士はかせ警部けいぶ犯人はんにん一行いっこう予定よてい変更へんこうして、きに警察署けいさつしょ立寄たちよってたとうことで、此処ここへはいまいたばかりとのこと、博士はかせれい無頓着むとんちゃく表情ひょうじょうをして肘掛ひじかけ椅子いすにダラリと腰掛こしかけている。茂十もじゅうそのまえ義足ぎそく丈夫じょうぶほうあしうえせて、どんよりと腰掛こしかけていた。ところが、この空函からばこふたひらくと、かれ後様うしろざまかえって、カラカラとわらした。
茂十もじゅう貴様きさま仕業しわざだろう。」
警部けいぶ腹立はらだたしそうに怒鳴どなった。
「そうです。旦那だんながたのとてもとどかぬところへ打棄うっちゃってしまったのです。」と茂十もじゅうはさもうれしげに「あれはわたしたからですからね。折角せっかく戦利品せんりひんわたしはいらないことになってると、ほか奴等やつらにゃアたせくありません。ねえ、あれを権利けんりのあるもの世界せかいひろしといえども、印度いんど安陀漫アンダマンとう監獄かんごくにいる三人さんにん仲間なかまわたくしこの四人よにんのほかにはいんですぜ。ところが今日こんにちになってると、到底とうていわたしのものにゃアならない。したがって仲間なかま奴等やつらのものにもならないのがわかった。わたくし今日こんにちまではたらいたのはまった自分じぶんめばかりじゃアない。仲間なかまめもおもっていたのです。何時いつ如何いかなるときでも四人よにん仲間なかまめ、そういうこころせたことはないのです。だからあのたから山輪やまわ少佐しょうさ須谷すだに大尉たいい親類しんるいるよりもと一思ひとおもいに大河おおかわながしやした。その所業しわざについて仲間なかまだって彼此かれこれ苦情くじょう気遣きづかいはいとおもいます。私達わたしたち商人しょうにん滅土めつどからあんな仕事しごとをしたなア、なに山輪やまわ須谷すだに畜生ちくしょうたちを金持かねもちにしようめではかったんですからね。たからかぎのあるところにりまさア。頓迦とんが死体したいるところにりまさア。今夜こんや旦那だんながたのふねにもううしてもかれるにちがいないとおもったときわたくしいそいでたから大丈夫だいじょうぶのところへうつしたんです。だから今夜こんや御仕事おしごとにゃア一もんとくもなくてんだ御気おきどくのわけでさアね。」
「コラ、我々われわれあざむこうとしてもそうはかぬぞ。」と警部けいぶ厳然げんぜんとして「貴様きさま大河おおかわ宝玉ほうぎょくほうげようとおもうならば、はこもろともになぜげぬ。其方そのほうがどれだけらくであるかれぬではないか。」
らくですとも、そのかわ旦那だんながたひろもどすのもらくですからね。」と茂十もじゅうはしこそうな流眄ながしめをくれて、
わたくしつかままえるくらいなうでのあるかたなら、かわそこからこの鉄函てつばこさがすくらいの智慧ちえなんでもありませんや。ところがげたのは中味なかみだけですからね。そうですね。ざっと二百あいだぐらいのあいだらしたから、さがすにしても容易よういことじゃありませんぜ。わたくしはやッつけようと決心けっしんしたんです。われていたとき半分はんぶんくるっていましたからね。しかしもううなっちゃアべつくやむところもりませんや。わたくし随分ずいぶん今迄いままでにゃア七転ななころ八起やおきしてたんですが、愚痴ぐちっぽいなみだはツイぞしたことりませんや。」
茂十もじゅう今回こんかいことじつ重大じゅうだい事件じけんであるぞ。貴様きさま此様こんおおそれた邪魔じゃまいたさず正義せいぎ公道こうどうしたごうて神妙しんみょうにしてったならば、おかみでもまた不憫ふびんくわえるということもあるではないか。」
茂十もじゅうはいがみうようなこえした。
「ヘン。正義せいぎ公道こうどうですッて!正義せいぎ公道こうどう、こりゃア面白おもしろい!あの宝玉ほうぎょくわたくしたちのものでねえとしたら一体いったいだれのですい。わたし自分じぶんれたものを、ただあそんでいて、はずもねえひとらなけりゃアならねえという正義せいぎ公道こうどう何処どこにありますね。まアわたしがあれをはいれた筋道すじみちかんがえて御覧ごらんなすってください。二十ねんながあいだというものの熱病ねつびょう流行はや湿地しっちなかはたらいたんですぜ。ひる終日いちにちマングローブじゅした酷使こきつかわれ、よる一晩ひとばん穢苦むさくるしい監獄かんごく打込ぶちこまれ、にはわれる。おこりにはめられる、真黒まっくろかおをした巡査じゅんさからはおどされる、そういう責苦せめくってはいれた宝物たからものなんです。それを他人たにんるとはこのましくねえとわたしおもったからって正義せいぎ公道こうどうけているとわれちゃア間尺ましゃくいませんや!わたしなんです、自分じぶんものであるはずたから他人たにんいだいて栄耀えいようつくしているとおもいながら、監獄かんごくなかくるしんでいるほどなら、いつ黒奴くろんぼ毒矢どくやからだしてんでしまったほうがいくらいかれやしないとおもうんです!」
茂十もじゅうさき淡泊たんぱくなりし仮面かめんいだ。その物言ものいいの渦巻うずまごとげきせることよ。両眼りょうがんえ、手錠てじょうおのずからなる感動かんどうふるえにカラカラとった。この迫害はくがいされたる前科ぜんか犯人はんにんんだ山輪やまわ少佐しょうさまわしていたのである。それを少佐しょうさはじめてったとき恐怖おそれけっして無理むりでなかったということを、いま目前もくぜん茂十もじゅう憤怒ふんぬ激情げきじょうとをるにおよんでさとったのである。
「それはおまえ無理むりじゃ。我々われわれはおまえのそういう事情じじょうすこしもらぬではないか。」と博士はかせおだやかにった。「我々われわれはまだすこしもおまえ身上みのうえいてらぬ。したがって当初はじめまえほうにどれほどの正当せいとう理窟りくつがあるものやらそれも判断はんだんすること出来できぬではないか。」
「なるほどね、旦那だんなのようにそう仰有おっしゃればわけっていまさア。そりゃアわたくしうして手錠てじょう穿められるようになったのは、わば旦那だんなのおかげなんですけれど、今更いまさらうらみはもうしません。何事なにごと公正明大こうせいめいだいさりかたですからね。で、わたし身上みのうえいと仰有おっしゃるならなにもおはなししないというわけじゃアありません。おはないたしやしょう。おだんわりしてきますが、わたししゃべることは一ごんかみかけて真実しんじつのことですからね。いやおそります。そのコップは其処そこわたしそばにおください、そこなら咽喉のどかわいたときくちってゆけますから。」
と、かれごと長物語ながものがたりはじめた。
わたしうま故郷こきょう英蘭イングランド織巣オースというちいさな田舎町いなかまちです。いまでもそこへけば、わたくし同姓どうせい簗瀬やなせといういえ何軒なんげんもあります。わたくしもね、時々ときどき故郷こきょうってたいなアというおこらないでもないですが、真実まったくのところわたし一家いっけ親類中しんるいちゅうつめあかほども信用しんようというものがないんですからね。かえってったってあんまりかおもされまいとおもっているんです。なにしろあの連中れんちゅうちゃア、田舎いなかでも有名ゆうめい教会きょうかい御有難おありがた連中れんちゅうで、真面目まじめはたら小百姓こびゃくしょうばかりのところへもっって、わたしったら年中ねんじゅう其辺そこら彷徨うろつまわるノラ野郎やろうだったですからねえ、ところがそれも二十はたちごろまでで、それから以後いご一家いっけ親類しんるいにも迷惑めいわくをかけなくてみました。とうのは一人ひとりおんなことから失敗しくじりをやらかして、その揚句あげく兵籍へいせきことになり、其頃そのころ丁度ちょうど印度いんど出発しゅっぱつしかけていただい聯隊れんたいくわわったのです。
しか兵隊へいたいにもあまはこがなかったのですかねえ。印度いんどって兵隊へいたい調練ちょうれんはじ足踏あしぶみぐらいもまし、鉄砲てっぽうあつかかた一通ひととおおそわったころあとからかんがえると馬鹿ばかなことをやらかしたものですが、ガンジスがわ水泳およぎ出掛でかけたのです。さいわいなことには其時そのときわたくし友達ともだち連隊中れんたいちゅうでの水練家すいれんか針戸はりど軍曹ぐんそう一所いっしょかわはいっていたのでかったんですが、一疋いっぴき鰐魚わにざめやつて、中流ちゅうりゅうおよいでいたわたし右足みぎあしへガンといついたんですぜ。そして外科醫者げかいしゃにでもスッパリられたように、ひざうえのところから綺麗きれいってしまったんです。たれたのと、出血しゅっけつはげしいのとで、わたくし気絶きぜつしてしまいましたよ。あやうそののまま溺死できしするところを、いま針戸はりど軍曹ぐんそう早速さっそく引抱ひっかかえてきしおよぎついてくれました。それから病院びょういんに五ケげつるうち、御覧ごらんとお義足ぎそく穿められ、どうやらこうやらちんばあるかれるようにはなったんですが、そのかわりもう兵隊へいたいなぞにはおよびもつかぬ不具者かたわもの兵隊へいたいどころか、うごきのある仕事しごとにゃアなにひとせないからだとなってしまいました。


二二、印度いんど叛軍はんぐん大暴動だいぼうどう ――義勇兵となり城門守護

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そういう次第しだいでしてね、大抵たいてい御察おさっしもつきましょうが、ようや二十歳はたちしたばかりで、やくたねえ不具者かたわものというんだ不幸ふしあわせ人間にんげんになりさがってしまったんですが、此奴こいつぐにまたひっくらかえって幸福しあわせたねとなった、――いや、表面うわべばかりの幸福こうふくだったかもれねえが――とうのは、其頃そのころ内地人ないちじん阿張あばり保一ほいちというにんが、印度インドあい栽培さいばい手広てびろくやっていたんです。そのひと沢山たくさん人夫にんぷ使つかう、その人夫にんぷ監督かんとくしてはたらかせるようなものさがしていたので、すると、鰐魚わにざめ事件じけん以来いらいわたくしたちの大佐たいさわたくし特別とくべつをかけてくれるようになっていたが、大佐たいさ阿張あばり友人ゆうじんであったという関係かんけいから、わたくし適任者てきにんしゃとして熱心ねっしん推薦すいせんしてくれたんですね。また実際じっさいわたし不具かたわあしたいして邪魔じゃまにはならない。仕事しごと大抵たいてい馬上ばじょうであるので、片足かたあし丈夫じょうぶなんだからくらからちないだけのちからったんです。つまり耕地こうちあいだうままわしながら人夫にんぷはたらきあんばいにけ、なまけているやつがあれば報告ほうこくすりゃいんです。給料きゅうりょうし、宿舎しゅくしゃ結構けっこうなり、だからわたしよろこんでまア一しょう奉公ほうこうしようとおもみましたね。雇主やといぬし阿張あばり親切者しんせつもので、時々ときどきわたしせま宿舎しゅくしゃなかへブラリとやってて、一所いっしょ煙草たばこいながらはなしをする。これが人情にんじょうでしてね。内地ないちじゃさほどにもおもわねえが、とお印度いんどなどへってみると、御互おたがい本国人ほんごくじんってはなしをするなんて、どんなにたのしみだかれやしませんわ。
ところがわたし幸福しあわせもまた長続ながつづきがしませんでしてね。突然だしぬけに、それこそなに前触まえぶれもなく大暴動だいぼうどうきたんです。何方どっちからても静穏おだやか平和へいわであった印度インドが、翌月よくげつには二十万という黒奴くろんぼ畜生共ちくしょうどもあばして、一こくたちま修羅しゅらちまたってしまいました。無論むろん旦那方だんながた学問がくもんがおりだからわたくしどもよりゃアくわししく御存知ごぞんじでげしょう。わたくしめませんから、このただけのこと申上もうしあげるんです。わたくしたちの栽培地さいばいち西北にしきたりのくにさかいちか陸久良ムクラというところでしたが、毎晩まいばん毎晩まいばん焼打やきうち火事かじひかりでそら真紅まっか昼間ひるま昼間ひるまで、幾組いくくみもの欧洲人おうしゅうじん妻子さいし引連ひきつれて阿虞良アグラ避難ひなんするのが続々ぞくぞくとおる。この阿虞良アグラはまア軍隊ぐんたいまちでは一番いちばんちかまちなんです。ういう形勢けいせいになっても頑固がんこなのは雇主やといぬし阿張あばりさん、なあ暴動ぼうどうったところでたいしたことはあるまい。大分だいぶ誇張おまけおおいだろう。おこかたはやければかたはやいにちがいないくらいにたかをくくって、近所きんじょめんかなえようさわぎのなかに、いえ露台ろだい腰掛こしかけ、悠々ゆうゆう煙草たばこったり、さけんだりしていたものです。勿論もちろんわたくしたちもそばました。わたくしたちとうのはわたくし槇根まきねという夫妻者ふうふもので、この槇根まきね帳簿方ちょうぼかた管理方かんりかたとをしてたものです。うしてるうちに天気てんきことですが、とうとうだい珍事ちんじ持上もちあがりました。
其日そのひわたくしすこ遠方えんぽう栽培地さいばいち出掛でかけて、夕方ゆうがたそろそろとうまたせてかえりかけますと、あるけわしい谷川たにかわ乾枯ひからびたそこに、なにかしらまるくなってうずくまってるものがあるのにをひかれました。さてなにだろうとおもいながらりてってるとおどろいた。おもわず慄然ぞっとしやしたね。なにだって貴君あなた槇根まきね女房かみさんが寸断寸断ずたずたりさいなまれて、その死骸しがい半分はんぶんさい野良犬のらいぬなどにわれているじゃありませんか。そのすこ上手かみてみちにはまた槇根まきねまった息絶いきたえて、から短銃ピストルにぎったまま俯伏うつぶせになってんでいる。そのさきには四人よにん印度兵インドへい印度インドにて英国えいこく陸軍りくぐんもと兵役へいえきふくする土人どじん)がさんみだしてへたばってる。さすがのわたし狼狽ふたしましたね。いきなり手綱たづなめて何方どっちこうかとまよったんですが、ればけむり主人しゅじんいえからあがっている。あか火焔かえんがメラメラと屋根やねめてるという状態ありさまに、これはもうれがったところやくにやたない。それに、下手へた飛込とびこんだが最後さいごいのちくすばかりだとこうおもいました。小手こてをかざしてながめると、幾百人いくひゃくにんとない悪魔あくまよう土人どじんあか上衣うわぎ背中せなかにまとい、焼落やけおちいえ周囲まわりんだりねたりまわったりしてます。なかにはわたくしほうゆびささすやつがある。すると鉄砲丸てっぽうだまが一二はっあたまうえをかすめてとおる。で、わたくし一目散いちもくさん其処そこちのび、水田みずたいくつも突切つっきけぬけて、夜更よふけてから漸々ようよう無事ぶじ阿虞良アグラ市壁しへきなか避難ひなんしました。
ところがたのみにしたそのまちが、実際じっさいってるとあまたいした安全あんぜん場所ばしょでもないことわかって落胆がっかりなにしろ国中くにじゅうはちついたような沸騰ふっとう仕方しかたですからねえ。我々われわれ英国人えいこくじんすこしでも団隊だんたいめるところでは、ぐに大砲たいほう用意よういしてかためるという有様ありさまですからその陣地じんち一歩いっぽでもっちゃア我々われわれはカラ意気地いくじなくまわらなきゃアなりませんでした。なんことはない蟷螂とうろう竜車りゅうしゃむかうようなもの。それに一ばん厄介やっかいことは、歩兵ほへいにせよ、騎兵きへいにせよ、砲兵ほうへいにせよ、私共わたしどもたたかてきというやつが、今迄いままで英国えいこく軍隊ぐんたい旗下きかにあった一ばん精鋭せいえい軍隊ぐんたいなので、つまり英国人えいこくじんおしえ、英国人えいこくじん訓練くんれんした奴等やつらなんです。英国えいこく軍隊ぐんたい武器ぶき使つかい、英国えいこく軍隊ぐんたい喇叭らっぱいているんです。当時とうじ阿虞良アグラ市内しない守備兵しゅびへいというのは、だい三ベンガル軽騎兵けいきへい、二中隊ちゅうたい騎兵きへい、一中隊ちゅうたい砲兵ほうへい、それに印度兵インドへいすこしばかりでした。そこで義勇隊ぎゆうたいというやつ出来できましたね。商会しょうかい書記しょき商人しょうにんなぞのてあいで。で、わたし不具かたわながら其奴そいつくわわりやした。そして六がつ上旬じょうじゅん沙寒寺シャカンジというところ進軍しんぐんして叛軍はんぐんたたかい、一てき退却たいきゃくさせたのはいいが、弾薬だんやくきたので、また城内じょうない逆戻ぎゃくもどりという始末しまつ。四ほうからくしをひくように情報じょうほう敗報はいほうばかり――それも無理むりがありませんや。地図ちず御覧ごらんになりゃア御解おわかりですが、まるで我々われわれ包囲ほうい攻撃こうげきっていた有様ありさまなんですからね。ひがしに百マイル良久野ラクノみなみ同距離どうきょりぐらいの乾保留カンポール其他そのほか東西南北とうざいなんぼくいたところから惨刑ざんけい殺戮さつりく暴虐ぼうぎゃく悲報ひほうぬところはないんです。
阿虞良アグラという随分ずいぶんひろでしてね。色々いろいろ宗旨狂しゅうしきちがい偶像ぐうぞう悪魔あくま崇拝者すうはいしゃなぞがウヨウとむらがっている。うしたのか味方みかたへいすこしばかりでしたが、そのせままがくねったまちなか行衛ゆくえ不明ふめいになってしまったので、司令官しれいかんはそれでは不可いけぬというので、かわして阿虞良アグラふる堡砦ほさいなか司令部しれいぶうつしたのです。旦那方だんながたこのふるとりではなし御聞おききになったことがるかいかぞんじませんがね。まアわたくしなぞはあんな奇体きたい場所ばしょあとにもまえにもはいったことがございませんね。だいなかひろいことひろいこと何里なんり四方あたりりましょうか。一部分ぶぶんには割合わりあいあたらしい建物たてものっています。へや沢山たくさんあったから守備兵しゅびへい女子供おんなこども食糧品しょくりょうひんなぞみなそこに収容しゅうようしたが、しかこの部分ぶぶんのこりの古臭ふるくさ屯営とんえいひろさにべれば粟粒あわつぶほどのせまいもの。さればこの古臭ふるくさ屯営とんえいほうにんもなく、れにれてとかげ百尺むかでののたくるままにまかせてある。おおきなダダっひろへやいくつとなくなり、そのあいだなが廊下ろうかや、グルグルまわりのえん縦横たてよこはしっているので、不知ふち案内あんないものが一たんまよんだが最後さいご旦那だんな容易よういられやアしません。だから時々ときどきになって松燈たいまつなぞをともして探検たんけんくことがあっても、一人ひとりなぞじゃア滅多めったこうというものい。
このふるふさまえほう城壁じょうへきあらうくらいにかわながれていたから自然しぜん防禦ぼうぎょとなったが、あとの三ぽうはそれがうえに、沢山たくさんがくッついてあるからおと不用心ぶようじん新旧しんきゅう両方りょうほう屯営とんえいまもらなきゃアならいのですが、何分なにぶん味方みかた少数しょうすうているから、建物たてもの角々すみずみへい配置はいち砲兵ほうへい陣地じんちまもらせるだけでもりないあんばいです。して数限かずかぎりもないもんひとひと有力ゆうりょく兵数へいすう配置はいちしようとおもっても出来できない相談そうだん。さりとて打棄うっちゃってもけずと、そこでとりで中央まんなか主力しゅりょく守備隊しゅびたいあつめていて、各門かくもんへは英兵えいへいめい印度兵インドへい二三めいずつをくばことにしました。わたしもそのにんあたりましてね、一ばんみなみ突端とっぱずれのちいさなさびしいもんを、夜中やちゅう幾時間いくじかんとか時間じかんめてまもることになったんです。部下ぶかには二にん印度インド騎兵きへいくことになったが、なに異変いへんおこって主力しゅりょく守備隊しゅびたいから急援きゅうえんときには何時いつでも鉄砲てっぽうって合図あいづするようにとおしえられて出掛でかけましたがね。かんがえてると、守備隊しゅびたいのいるところとそのもんとは二百以上いじょうはなれていて、おまけにそのあいだれい百曲ひゃくまがりの廊下ろうか緣側えんがわへだてられているという有様ありさまなんですからね。さアてき不意ふいちだというのであわてて鉄砲てっぽうったところで、応援隊おうえんたいがうまくうかわぬか心細こころぼそいものでしたよ。
それはかくわたし新兵しんぺい不具者かたわている。それがたとえ二めい部下ぶかにせよ其頭かしらになったんだからおお得意とくいです。で、二晩ふたばんというものは無事ぶじ印度兵インドへい哨兵しょうへいやくつとめました。このにん印度兵インドへい一人ひとり真保目宇婆陀まほめうばだ一人ひとり阿多羅漢陀あたらかんだって、いずれもおそしい形相かたちをした大入道おおにゅうどう英国えいこく印度インド征服せいふくするにつれて、かつては英国えいこくゆみいた戦場せんじょう往来おうらい古武士ふるつわものでしてね。二人ふたりとも英語えいご達者たっしゃだったが、わたくし印度インドことばてはカラわかりゃアしません。二人ふたりはいつも一所いっしょにくッついて、夜中よちゅうへんテコな言葉ことばしゃべらしていましたっけ。わたしそのあいだもんそとちましてね。まがってながれてゆくひろかわや、おおきなのチラチラするのをながめながら警戒けいかいしていました。すると太鼓たいこおときこえてる、銅鑼どらひびきがつとわってる。蛮民ばんみん鯨波ときこえがワーワーととおくからかすれてる。あんまり心地こころもちはしませんや。旦那だんないまにもかわわたって突貫とっかんしてるかとおもってね。二時間じかんごとには当番とうばん士官しかん巡視じゅんして、警戒けいかい様子ようす調しらべてきました。
ところで大事件だいじけん出来しゅったいしたのは、その翌晩よくばんのことです。


二三、仲間なかまにならねばころすぞ ――印度兵の恐しき脅迫

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三日目みっかめばん真暗まっくら細雨こさめがジョボジョボとっていました。そんなばん幾時間いくじかんさびしいもんって哨戒しょうかいしているのは陰気いんきなものでしてね。時々ときどき印度兵インドへいはなしけるけれども二人ふたりともあま返事へんじをしない。そのうちに午前ごぜんとき巡視じゅんしがやってたから一寸ちょっと退屈たいくつまぎらせたが、って了うるとまたもと物侘ものわびしさ。そうかとって二人ふたり部下ぶかは、話相手はなしあいてになりそうもないゆえ、パイプを取出とりだしてじゅうかたわらき、マッチをはじめました。すると、二人ふたり印度兵インドへい突然とつぜんわたくし飛附とびついてたんですぜ。一人ひとりわたくし鉄砲てっぽうって弾金ひきがねげてわたしあたまねらい、一人ひとり一挺いっちょうおおナイフを咽喉のどきつけて、一歩いっぽでもうごいたが最後さいごいのちはないぞとうんじゃありませんか。
こりゃア此奴こいつらアてき内通ないつうしていたんだな、そしてはじめにおれ取占とっちめてかかろうとするんだな、と其時そのときにはおもいました。失敗しまった、このもんおちいちればとりでちる、可哀相かあいそう女子供おんなこども情報じょうほういた乾保留カンポールでやられたとおりの大虐殺だいぎゃくさつうことだろうと、さアわたしくちからったらなに加減かげんことをほざくと旦那方だんながた御思おおもいかもれませんが、まったくそうかんがえやした。すると咽喉のどにナイフをてられてはたが、わたくし大声おおごえげようとおもってくちきかけましたね。そのままグサリとやられてもかまわねい、守備隊しゅびたいこえさえすりゃアいいんだと度胸どきょうえましたね。と、わたしおさけたやつわたしむね観破みやぶったとえて、わたしきっ身構みがまえをすると、英語えいごで、
こえてなさるな。とりで心配しんぱいはないぞ。まだかわから此方こちらにゃア叛徒はんと一人ひとりもいない。」
ささやくんでさア。
その言葉ことばつきが満更まんざら虚言うそらしくもない。それにこえてたが最後さいごころされるということは相手あいて眼色めいろわかりましたからね、わたくし一寸ちょっとってた。一体いったいなんめだろうとだまってっていました。
と、二人ふたりなかで、けても丈高せいだかで、けてもおそかお阿多羅漢陀あたらかんだというやつうには、
大人だいじん、まアたまえ。いまわたし味方みかたせぬとき大人たいじんいのちがない、よろしいか。もううなっては躊躇ちゅうちょする必要ひつようのない、これは大問題だいもんだいだ。大人たいじん基督キリスト十字架じゅうじかちかって、身心しんしんふたつながら私等わしらくみすればし、さもなくば私等わしら大人たいじん死骸しがいほりとうじて叛軍はんぐんほうはしるばかりである。か、しょうか?ときせまっているから決断けつだん猶予ゆうよ三分間さんぷんかんだけあたえてあげる。また巡視じゅんし士官しかんまえ決行けっこうせねばならぬ。」
で、わたくし返事へんじをしやした。
「どうしておれ決断けつだん出来できるものか。君等きみらはまだなに目的もくてきういう乱暴らんぼうことをするのかおれ打明うちあけないじゃないか。しかことわってくがね、すこしでもとりで安全あんぜんそむくようなことだったら、おれはどんな交換こうかん問題もんだい御免ごめんだぜ。だからまアそのナイフをいてくれ。そして落着おちついてはなあおうじゃないか。」
「いやけっしてとりで関係かんけいしたことじゃない。英国えいこくにんたちが印度インドわたって目的もくてきですね、その目的もくてきうたことを大人たいじんにしていただけばいいのだ。つまり大人たいじん金持かねもちになっていただきたいのだ。大人たいじん今夜こんや私等わしら味方みかたをしてくれるならば、私等わしらかみかけて盟言めいげんするが、大人たいじん莫大ばくだいもないたから分配わけまえられる。そうだ、四分しぶんいちだけはどんなことをしても大人たいじんはいるにまってる。」
わたしきやしたね。
一体いったいそのたからたアなにことだい。その手段てだてさえ打明うちあけてくれれば、君等きみら同様どうよういつでも、金持かねもちにはいのさ。」
「では大人たいじん父君ちちぎみによってちこうてくだされ、母君ははぎみによってちこうてくだされ、大人たいじん信仰しんこう十字架じゅうじかによってちこうてくだされ、現在げんざいも、それから将来しょうらいも、私等わしらたいしてげない、また一言ひとことうまいとうことをちこうてくだされ。」
とりでさえ危険きけんおちいることでなくば、おれ其通そのとおちかおう。」
「ではわし仲間なかまたちも大人たいじんちかおう。大人たいじんかならたから四分しぶんいちおくる、つまり私等わしらは四にんおなじようにたからけるのだ。」
私等わしら四人よにんうが、ここには三人さんにんだけじゃないか。」
「いや、浪須戸阿武迦はすどあぶか分配わけまえを取らなくちゃ、ならない。それじゃアあれるのをあいだ打明うちあけて事件こと真相わけをおはなしましょう。オイ、宇婆陀うばだわれもん張番はりばんして、一件いっけんるのををつけてろよ。」
と、さてはなしたのはおそろしい魂胆こんたんうんです。
なんでも印度いんどきたりのくにに、支配しはいする土地とちせまいが大層たいそう裕福ゆうふく一人ひとり王様おうさまがある。父王ちちおう遺産いさん沢山たくさんあったうえに、自分じぶん一方ひとかたならぬ守銭奴しゅせんどであったから財産ざいさんまるばかり。ところが今度こんど叛乱はんらんです。其様そんおうだからはじめは日和見ひよりみのつもりで叛軍はんぐんへもけば、英国方えいこくがたへも色目いろめ使つかうといった有様ありさまでげしたが、つらつらと形勢けいせいかんがえるに結局けっきょくやはり白人はくじん勝利しょうりかえしそうにえる。が、そこに抜目ぬけめはない。ういう計画けいかくてた。それは何方どっちとうがけようが、すくなくも自分じぶんたから半分はんぶんだけはいというのです。で、金銀類きんぎんるい自分じぶん王宮おうきゅう穴蔵あなぐらかくしたが、一ばん貴重きちょう宝石類ほうせきるいえらみにえらんだ真珠しんじゅなぞはひとつの鉄函てつばこれ、一人ひとり信用しんようあるけらい商人風しょうにんふう仕立したてさせ、阿虞良アグラ城中じょうちゅうませ、叛乱はんらんおわまで鉄函てつばこをそこで保護ほごしてもらおうという計画けいかくてたそうです。うして二股ふたまたけてきさえすりゃア何方どっちころんでも無難ぶなんというもの、叛軍はんぐんてば王宮おうきゅう穴蔵あなぐら財産ざいさん当然とうぜん無事ぶじだし、英軍えいぐんてば阿虞良アグラ宝玉ほうぎょくそのままもどるというけですからね。そうしていてひどいじゃアありませんか、その当時とうじ自分じぶんくにでは叛軍はんぐんほう威勢いせいかったというので、叛軍はんぐんとうじていたんだそうですぜ。
それはき、商人しょうにんけたれい王様おうさま臣殿けらいどの滅吐めつどとかいう段々だんだんたびをしてて、もう阿虞良アグラ市中しちゅうき、しろはい方法ほうほうかんがえて最中さいちゅうとか。それには一人ひとり道連みちづれがあるが、それが漢陀かんだ乳兄弟ちきょうだい阿武迦あぶかというやつで、ことごと王様おうさま今度こんど秘密ひみつっている。で、阿武迦あぶかこの二人ふたり印度兵インドへいしめあわせて、滅吐めつどをわざととりで側面そくめんみちびき、此門このもんして今夜こんややって手筈てはずになってる。もうもなくえるはずだ。こんなさびしい場所ばしょであってれば誰一人だれひとりそのけらい姿すがた見掛みかけるものもあるまい。したがってそのからだがどうえて失敗しまおうとなかではものもなく、此方こっち宝玉ほうぎょくさえけてしまえばそれで仕事しごとむのだ。大人たいじん一体いったいどうおもいなさる?」
ういうはなしなんです。
旦那方だんながたかんがえて御覧ごらんなさい。常時ふだんでこそ人間にんげん一人ひとりいのち神聖しんせいなんですが、四方八方しほうはっぽう火炎かえんだらけ、何方どっちいても殺人ひとごろしばかりに衝突ぶつかるというときじゃア、わたしにとってさえ商人しょうにん滅吐めつどきようがのうが、むこ河岸かし火事かじよりもなんでもないばかりか宝玉ほうぎょくはなしにゃア素的すてきこころかれやしてね、わたくしかんがえた。やくざもの評判ひょうばんわたし大金たいきん懐中ふところにして故郷くにかえってったら、故郷くに奴等やつら眼玉めだまをでんぐりかえしてなんうだろう。とそうおもうともう決心けっしんをしやした。漢陀かんだわたし躊躇しりごみしているとてかしきりにすすめる。どうせ滅吐めつど司令官しれいかんまえりゃアくびしぼめられるか銃殺じゅうさつされるかして宝玉ほうぎょく分捕ぶんどりされるばかりだから、それをただ此方こっちせしめるばかりだ。たからやまりながらむなしくしてることがるものか。さア決断けつだんするのはいまのうちだとあおりつけるので、
し、君等きみら加担かたんしよう、きっと加担かたんする。」
決然きっぱりいますと、はじめて鉄砲てっぽうかえしてくれやした。
決心けっしんしてくだすった。わしたちは大人たいじん信用しんようします。もう兄弟きょうだい商人しょうにんとをつばかりだ。」
いますゆえ、
きみ兄弟きょうだい君等きみらくわだてを、ってるのか。」ときますと、
っているだんじゃアない。元来がんらいこのたくらては兄弟きょうだいかんがしたんです。さアもん宇婆陀うばだ一所いっしょ見張みはってろう。」
また姿勢しせいととのえて哨戒しょうかいちました。


二四、雨夜あまよしろ商人しょうにんころし ――死骸は地下へ、宝玉函は壁中へ

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丁度ちょうど印度インド雨期うきはい季節きせつのせいか、あめはますますってる。褐色とびいろ重苦おもくるしいくもそらおおうて、半丁はんちょうきもえぬくらさ。わたしたちのまもっているもんまえふかほりがあるが、所々ところどころみずかわいてそういうところわけなくとおされるのです。かんがえてれば自分じぶんながらかわ気持きもちでしたね。なにしろ二人ふたり印度人インドじん一所いっしょに、らぬがほとけににおとこけてようという場合ばあいですからねえ。
不図ふとくと、ほりがわおおいをした角燈かくとうがチラリとひかりるのがした。
どてかげかくれたが、またあらわれて段々だんだん此方こちらしてやって様子ようす
た!」
うと、漢陀かんだ小声こごえで、
大人たいじん貴君あなた毎時いつもとおまして誰何すいかしてください。相手むこう不安心ふあんしんあたえちゃアなりませんからね。そして私等わしらにさえおくりこんでくださりゃアあと料理りょうり私等わしら引受ひきうけまさア。角燈かくとうおおいを用意よういをして置いてくださいよ。真実ほんと商人しょうにんだかどうか見極みきわめなくちゃアならねえからね。」
注文ちゅうもんしました。ているとむこうのひかりまったり、またあるしたり、チラチラとまたたきながら近付ちかづいてる。そのうちにほりむこがわ人影ひとかげくろふたうごした。っているとダラダラとどてくだる。ほりそこ泥土どろつちねながらすすんでる。そしてまた此方こちらどてもんへとのぼってる。ころ見計みはかってわたしこえ押殺おしころして誰何すいかしました。
だれかッ?」
仲間なかまだ。」
という返事へんじ。そこで角燈かくとうおおいをけてさっひかりびせかかけると、真先まっさきったのは腰帯こしおびへんまで長髯ながひげらした大男おおおとこ印度兵インドへいそのうしろひく丸々まるまる肥満ひまんした一人ひとりおとこおおきな黄色きいろ頭巾ずきんかぶり、肩掛ショールつつんだ一個いっこ荷物にもつかかえているのです。余程よほどこわいとえて体中からだじゅうふるわしている。おこりをふるってるようにガタガタとれている。あたま彼方此方あっちこっちうごかしては、ちいさなひかりひかりらせてさまが、まるであな出掛でかかったねずみといったかたちなんです。此奴こいつころすのかなアとおもうと流石さすがにゾッとしやしたね。けれども宝玉ほうぎょくはいるんだとおもかえすと、こころおにになりましたよ。それともらぬ商人しょうにんは、白人はくじんわたしかおると、さも安心あんしんしたらくしチューチューと鼠鳴ねずみなきをしてんでて、
大人たいじんすくたまえ、不幸ふこう商人しょうにん滅吐めつどすくたまえ、私は阿虞良アグラじょうむために一生懸命いっしょうけんめいたびをしてまいりましたが、わたし英国方えいこくがただともうすので、強奪ごうだつはされる、なぐられる、ののしられる、いや散々さんざんいました。しかしまアうしておしろ辿たどいたのはなん幸福しあわせなことか――わたくしばかりか、荷物にもつまでも。」
一体いったいその荷物にもつなにか。」
きますと、
てつはこであります。なに一二通いちにつうわたくしいえ書類しょるいでしてね。他人様たにんさまにはなに価値ねうちもないものでも、わたくしっては失敗くしてはならぬものであります。しかわたくし乞食こじきではございませぬから、おわか大人たいじん貴君あなたにはおれいいたします。またわたし保護ほごしてくれましたら司令官しれいかん殿どのにも御礼おれいいたします。」
そのふとったおびえたかおていればるほど此方こっち残忍ざんにんにぶるので、此奴こいつながはなしをしてては利益ためにならぬ、はや引渡ひきわたしてしまうが得策とくさくだとおもって、
このひと司令部しれいぶ御案内ごあんないせい。」
めいじると、宇婆陀うばだ漢陀かんだ二人ふたり左右さゆうってくらもんはいってく。背後うしろには大男おおおとこ阿武迦あぶかいてく、わたくし角燈かくとうったままもんのこってました。
寂然しんとした廊下ろうかひび三人さんにん跫音あしおと暫時しばらくはパタンパタンとひびいてる。それをいているうち不意ふい足音あしおとんだんです。そしてののし声々こえごえ立廻たちまわりのおと、ぶんなぐおとなどがえてます。もなく、わたし怯然ぎょっとしましたね。一人ひとりおとこいきらしながらバタバタと此方こっちけてるじゃありませんか。で、廊下ろうかほう角燈かくとうひかりけてると、はたして商人しょうにん疾風しっぷうのようにけてる。かおからはながれている、そのあとから大男おおおとこ髯面ひげづら印度人インドじんが、じんにナイフをきらめかしながらとらのようにせまってる。わたし商人しょうにんげかたのはやいのには魂消たまげやしたね。印度人インドじんけそうだ。一わたし面前めんぜんとおぎたが最後さいご先生せんせい広場ひろっぱしていのちたすかるかもれない。ああ、そうしてれればいい……とおももなく、ええ宝玉ほうぎょくだッとおもうとまた無慈悲むじひになる。そうして丁度ちょうどわたくしまえけてころ見計みはからって、商人しょうにん股倉またぐら鉄砲てっぽう台尻だいじりつッはさむと、先生せんせい弾丸たまたれたうさぎみたように二ばかりコロコロところびましたが、二度目どめあがろうとするもあらばこそ、阿武迦あぶかはやくもしかかった、そしてナイフをきばかり横腹よこッぱらんだ。そのままさね。商人しょうにん先生せんせいウンともスンともわねえ、手足てあしうごかさねえ、たおれたまんま御陀仏おだぶつになってしまった。ねえ、旦那方だんながたわたくし御約束おやくそくしたがってりのままを真正直ましょうじきもううえげてるんですよ、自分じぶん利益ためになったってらねえたって仕方しかたアありませんや。


茂十もじゅう此処ここまでかたって言葉ことばり、手錠てじょう穿めた差出さしだして、博士はかせいでやったウイスキーとみずとをったのをした。白状はくじょうするが、いまこそ判然はっきり此男このおとこ残忍ざんにん酷薄こくはくなる性質せいしつわかった。それはかれおこのうた冷血的れいけつてき行為こういせいではない、じつかれがそれを物語ものがた無遠慮ぶえんりょ流暢りゅうちょうなるひとげなる言葉付ことばつきにおいて、そうかんじたのである。かれ如何いかなるおも刑罰けいばつしょせられんとも、すくなくともおいては一ぺん同情どうじょうはらわぬつもりだ。博士はかせ阿瀬田あせだ警部けいぶとはひざいてふかくも興味きょうみのあるふう傾聴けいちょうしていたが、二人ふたりかおにも嫌厭けんえんじょうることが出来できる。茂十もじゅうはそれを観察かんさつせしものか、こえにも態度たいどにも幾分いくぶん反抗はんこうふくんで、
無論むろんわたし行為おこないめたものじゃアありません。けれどもですね、りにあのときわたくし位置いちって、咽喉のどされようという場合ばあいに、宝玉ほうぎょく分配わけまえこばにん何人なんにんあるでしょう。それにあの商人しょうにん一度いちどとりでなかはいった以上いじょうわたくしきるか、かれきるか、何方どっちかの問題もんだいでさア。かれ逃出にげだしたとしたら、悪計あくけいたちま露見ろけんして私共わたしども軍法会議ぐんぽうかいぎまわされて、銃殺じゅうさつものとまってますからね。」
つづきをかしてくれ。」
博士はかせ簡単かんたんうながした。
で、またはなしす。


さて死骸しがい始末しまつをしなけりゃなりません。門衛もんえいほう宇婆陀うばだ一人ひとりにんせて、わたしと、漢陀かんだと、阿武迦あぶか三人さんにん死骸しがいかつれました。ひくかったが仲々なかなかおもやつで、漢陀かんだたちがまえから用意よういしていた場所ばしょまではこんだのです。そこは可成かなりおくほうで、まがった廊下ろうかひとつのおおきな空間あきまはいろうとするところ煉瓦れんがかべがボロボロにちているところです。そこにつちゆかふかくぼんで自然しぜん墓形はかなりになっているところがある。そのなか死骸しがいうずめて煉瓦れんがおおかかけ、さて宝玉ほうぎょくもともどってきました。
宝玉ほうぎょく所在ありかは、商人しょうにん一番いちばんきになぐられてそれをしたところにるんです。その鉄函てつばこはつまりいま旦那方だんながた眼前めのまえにあるこれなんで、ふた彫刻ちょうこくした把手とってかぎ絹紐きぬひもむすんでありました。けてると、角燈かくとうひかりにキラキラとかがやいた宝玉ほうぎょく一団いちだん子供こどもときからほんんだり想像そうぞうしていたりしたのが、いま眼前めのまえあらわれたので、そのひかりりにはアッと眼惑めまいがするほどでしたよ。みんおも存分ぞんぶんながめたすえに、宝玉ほうぎょく取出とりだして目録もくろくつくってると、まア御聴おきください、最上等さいじょうとう金剛石ダイヤモンドが百と四十三そのなかには「だい蒙古もうこてい」という仇名あだなのある世界せかいおおきさが二番目ばんめという素晴すばらしいやつまじっていたんです。それから緑柱石エメラルドが九十七すこしは小形こがたのものもあったが紅宝玉ルビーが百七十紅玉こうぎょくが百四十青玉せいぎょくが二百十瑪瑙めのうが六十一其他そのた緑玉石りょくぎょくせき縞瑪瑙しまめのう、トルコだまなぞいうものが数限かずかぎりもなくあって、のちにはおぼえたけれども其時そのとき到底とてらないものおおかった。このほかにざッと三百ばかりの上等じょうとう真珠しんじゅがあって、其中そのなかのニ十だけはかね珠数じゅずつないでありましたっけ。この真珠しんじゅ数珠じゅずだけはのち取出とりだされたとえ、今度こんど山輪やまわやしきわたし鉄函てつばこもどしたときにははいってませんでした。
宝玉ほうぎょく勘定かんじょうむと、またはこもどして宇婆陀うばだにもせるためにもんまではこんでった。そして四人よにんしてあらためてちかいをてて、たがいたすうてけっして秘密ひみつ口外こうがいせぬ約束やくそくをした。宝玉ほうぎょくいま分配わけまえしても仕方しかたがない。下手へた身分みぶん不相応ふそうおうものっているのが見付みつかるとかえっうたがいをまねもと、それに城内じょうないでは御互おたがい自分じぶん私室ししつもないことゆえ人目ひとめにつきやすい。で、鉄函てつばこをば商人しょうにんうずめたへやかえり、一方いっぽうかべ煉瓦れんがおくあなつくって其中そのなかかくしてしまったのです。他日たじつそのかく場所ばしょまよわぬため念入ねんいりに其所そこおぼえてき、翌日よくじつわたし同様どうよう図面ずめん四枚しまいき、その片隅かたすみ四人よにん署名しょめいをして一枚いちまいずつくばりました。つまり四人よにん一心同体いっしんどうたいはたらくというちかいのためでさア。わたしはこのちかいはけっしてやぶらなかったんですよ。
印度いんど叛乱はんらん結末けつまつについちゃアおはなしするまでもなく御存知ごぞんじはずだ。つまり色々いろいろ雄将ゆうしょうがやってたちま叛軍はんぐん平定へいてい平和へいわ克復こくふくとなりそうになったが、そこでいよいよわたくしたちも宝玉ほうぎょくはいれるるわいとよろこんでいると、なにのことぬかよろこび、滅吐めつどころしの下手人げしゅにんというわけで、四人よにんとも美事みごと捕縛ふんじばられて、よく希望のぞみ粉微塵こなみじんとなりました。


二五、宝玉ほうぎょく報酬ほうしゅう島破しまやぶり ――欺した少佐へ復讐の計画

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何故なぜまた露見ろけんしたかとうのに、れい慾張よくばりおう滅吐めつど宝玉ほうぎょくたくしたときには、滅吐めつど正直しょうじきおとこであるとしんじてたが、そのくらいな二股ふたまたかかける用心深ようじんぶかおうだからうたぐりふかい。で、もっと信用しんようある一人ひとりけらい密旨みっしさずけ、隠目附かくしめつけとして滅吐めつどあとけさせたのです。此奴こいつかげかたちうように瞬時しゅんじ商人しょうにんからはなさず、其晩そのばんとりでそばまでいてて、商人しょうにんもんはいんだのをたしかに見届みとどけた。無論むろんうま城内じょうないかくまってもらわれたことしんじたが、おものため翌日よくじつ其奴そやつ自身じしんとりできたり、許可ゆるしなかはいったが、さて肝心かんじん商人しょうにん姿すがたえないところから不審ふしんおこしましてね、案内あんない軍曹ぐんそうわけはなす、軍曹ぐんそうから司令官しれいかん報告ほうこくする。たちま塞中とりでじゅうだい捜索そうさくとなって、死骸しがいもなく見付みつされたんです。ういうわけで宝玉ほうぎょく分配わけまえゆめている最中さいちゅう四人よにんとも商人しょうにんころしの下手人げしゅにんとして捕縛ふんじばられやした。しか吟味ぎんみときにも宝玉ほうぎょくことは一ごんなかった。とうのは王様おうさまあいだもなく廢黜はいちゅつされて印度いんどから追出おいだされたものですからね。自然しぜん宝玉ほうぎょく問題もんだい立消たちぎえとなってしまったが、四人よにんとも殺人ひとごろし罪状ざいじょう明白めいはくとなり、三人さんにん印度兵インドへい終身懲役しゅうしんちょうえきわたくし死罪しざい宣告せんこくされましたが、わたしのちになってつみじられて終身懲役しゅうしんちょうえきにされました。
かんがえてると其時そのときわたくしたちの境遇きょうぐうというものはへんなものでさア。現在げんざい莫大ばくだい宝玉ほうぎょくうずめてある、それがはいりさえすりゃア一人ひとり一人ひとり立派りっぱ金持かねもちになれる身分みぶんでありながら、牢獄ろうやめられてこと出来できない始末しまつなんですからね、めるってこんなめてはらつことアりゃアしませんや。ほんとに忌々いまいましくってくるうばかりにもがいてもましたが、しか元来がんらいわたくし強情ごうじょう性質たちだから、じっと我慢がまんしていたんです。
そのうちに阿虞良アグラからマドラスにうつされ、其処そこからまた安陀漫アンダマン群島ぐんとうひとつのしまながされました。ここの殖民地しょくみんちには白人はくじん罪囚ざいしゅうすくなく、それにわたし最初さいしょから神妙しんみょう服役ふくえきしたものだから、ってあいだもなく役人やくにんにははいられて特別とくべつ取扱とりあつかいをされるようになりました。針枝山はりえざんというやまふもと帆立ほだてというちいさな場所ばしょがある。そこへ一軒いっけん小舎こやもらってんだのですが、なにうにも熱病ねつびょう流行はや荒寥こうりょうとしたしまでしてね。わたしたちのすこしの開墾地かいこんち周囲まわりには、喰人種しょくじんしゅが一パイはびこってて、機会きかいさえあったら毒矢どくやげようというのだからまりませんや。わたくしたちの仕事しごと鉱山こうざんったり、ほりったり、芋薯やまのいもえたり、其他そのほかなにやかやで一日中いちにちじゅうせわしく、わずか夕方ゆうがたひまがあるくらいでした。そんな仕事しごとなかでもわたくし軍医ぐんいたすけをしてくすりることをおぼえましてね。其方そのほう生嚙なまかじりの智慧ちえもつきました。それでもうかして逃出にげだそう逃出にげだそうというおもいは、一日いちにち一時いっときだもむねはなれなかったが、何分なにぶん大陸たいりく何百なんびゃくマイルというなみうえ、おまけにかぜのないうみているので、とても容易よういなことじゃられそうもありませんでした。
軍医ぐんい染原そめはらさんというので、忠実ちゅうじつひとだったが、ねんわかいだけに仲々なかなかあそきで、したがって毎晩まいばんそのへやには士官しかんたちがあつまっては骨牌カルタをする。わたし調剤ちょうざいをする外科室げかしつ軍医ぐんい居間いま隣室りんしつで、あいだにはひとつのちいさいまどがあるので、物淋ものさびしいときなぞはわたしはランプをしてその窓際まどぎわって、士官しかんたちのはなしいたり、骨牌カルタ勝負しょうぶながめたりしたもんです。元来がんらい自分じぶんきだから、ながめてるだけでもえきれません。あつまものこのしま軍隊ぐんたい指揮官しきかん山輪やまわ少佐しょうさ須谷すだに大尉たいい振尾ふりお中尉ちゅうい染原そめはら軍医ぐんい其他そのた二三にん看守かんしゅなぞで、いつもたのしそうな会合かいごうをするのがつねでした。
毎晩まいばんながめているうちういうことにがつきやした。それは将校しょうこうほうかならけて、看守かんしゅたちのほうがかなら勝負しょうぶつということです。一晩ひとばんごとに将校しょうこうたちは貧乏びんぼうになる、なればなるほど躍起やっきとなる。こと山輪やまわ少佐しょうさひどい。はじめは金貨きんか紙幣しへいなぞ現金げんきんけをしていたが、しまいにはそれもきて約束やくそく手形てがたでやる、かもそれが莫大ばくだいがくにのぼる。ときには数番すうばんつづけてることがあっても、またドカリとちてまえよりは一層いっそうわる始末しまつで、そうなると一日中いちにちじゅう不機嫌ふきげんかおをしてそこらを彷徨うろつまわったり、自棄酒やけざけをグイグイあおったりする。山輪やまわ少佐しょうさ須谷すだに大尉たいいとはくの親友しんゆうだが、二人ふたりとも益々ますます景気けいきわるく、もう二進にっち三進さっちかなくなったらしい。
そこへわたしんだんです。
ある少佐しょうさ一人ひとり海岸かいがん散歩さんぽしているところ見込みこんではなしかけた。
少佐しょうさ殿どのすこ御相談ごそうだん申上もうしあげたいことがございます。」
「おお茂十もじゅうか、なにじゃ。」
少佐しょうさくちから巻煙草たばこはなして振向ふりむいた。
じつうずめてある宝玉ほうぎょく御手渡おてわたしするにはのような方法ほうほうよろしいか、おしえていただいのであります。わたくしは五拾万ばかりの価値ねうちのある宝玉ほうぎょくうずめてあるところをぞんじてますけれども、到底とてわたし使つかわけにはまいりませんからいっ適当てきとう御役人おやくにん差上さしあげて、すこしでも刑期けいきらしていただいたほう上策じょうさくだとおもいましてね。」
「なに、五拾万の価値ねうちのある宝玉ほうぎょく!」
少佐しょうさこえはずませてわたしかおました。
「そうです――真珠しんじゅ瑪瑙めのう緑柱石エメラルドなどです。だれでもけるばかりにうずまっています。そして不思議ふしぎなことにはその真正ほんとう持主もちぬしというものがそれを占有せんゆうする法律上ほうりつじょう権利けんりがなくなってますから、一番いちばんきにけたかた所有しょゆうになるのでございます。」
「それは政府せいふさなくちゃ不可いかん政府せいふへ。」
ったが、判然はっきりとはれない。その言葉ことばきで、大抵たいてい少佐しょうさむねわかったのです。
で、わたくし落着おちつはらって、
「では総督そうとく閣下かっかもうほういと御考おかんがえなのですか。」
うと、
て、軽率けいそつなことをして後悔こうかいしてもやくたんぞ。にかく一什いちぶ始終しじゅうくわしくかしてくれ。どういう事実じじつなのか。」
そこでわたし最初さいしょからの事件じけんかしてやった。もっと宝玉ほうぎょく所在ありかしかわかってはならぬから、その場所ばしょだけは曖昧あいまいはなしすこえてはなしてやると、少佐しょうさ莫迦ばかかんがえにしずんで石地蔵いしじぞうみたいに佇立つったってしまったね。くちびるしきりにねじれてるところでると、心中しんちゅうだい苦悶くもんがあるなとったんです。やがてのことに、
「コりゃアじつ大事件だいじけんだぞ茂十もじゅうだれにもらしてはならんぞ、もう一度いちどって相談そうだんしようから。」
ってわかれたが、えて二日目ふつかめ真夜中まよなかに、今度こんど須谷すだに大尉たいいれ、角燈かくとうをつけてわたくし小舎こやしのんでました。
須谷すだに大尉たいいにおまえくちから事件じけん顚末てんまつかせい。」
というので、わたし繰返くりかえしてはなしました。
「ねえきみ真実ほんとうらしいじゃないか、ねえ、こりゃア一番いちばんはたらきものだぞ。」
少佐しょうさうと、大尉たいい首肯うなずくので、少佐しょうささらに、
「コレ茂十もじゅう、よくけ。我々われわれ二人ふたりこの問題もんだい慎重しんちょう討議とうぎったすえまいったのであるが、結局けっきょく問題もんだい政府せいふにかけるべき性質せいしつのものではないのみならず、おまえの一私人しじん問題もんだいであるゆえ、無論むろんまえ自由じゆう処分しょぶんすることが出来できることなのじゃ。そこで最後さいご論点ろんてんは、おまえがこれをゆずわたすについてどのような報酬ほうしゅうのぞむかというてんにある。相談そうだんまとまりさえすれば、我々われわれしてるつもりはある。すこくもってたいとはおもうとるのじゃ。」
う、そのざま如何いかにも冷淡れいたんに、無頓着むとんちゃくよそおっているけれども、なアにわたしにだってがありまさア。少佐しょうさ熱心ねっしんよくとでひかりってるくらいは見抜みぬいてまさア。
わたしってはたが、わざと素気そっけなくってやったんです。
「なに、旦那方だんながた報酬ほうしゅうもうして、どうせういう境遇きょうぐうにある私等わたしら御願おねがいすることアひとつきしゃございませんや。つまり旦那方だんながたのおかげこのしま逃出にげだすことが出来できさえすりゃアいいんです。ほか三人さんにん印度人インドじん同様どうようです。そしたら旦那方だんながた二人ふたり仲間なかまにして五にんたからけようじゃございませんか。」
「ふム!いつつにけるのか!そりゃアあんまりゾッとしないな。」
「でも一人ひとりて拾万えんずつになるじゃございませんか。」
「それにしても我々われわれがどうしておまえたちをさせることが出来できるか。それは不可能ふかのうなことを請求せいきゅうするというものじゃ。」
「いえ、けっして出来できない相談そうだんをおねがいたすんじゃございません。御願おねがいをするまでにゃアこれでもそこそこまでかんがえたんです。わたしたちがすのにだい一の困難こんなんというのは航海こうかいえるふねのないこと航海こうかいあいだ食糧しょくりょうのないことです。それが陸地りくちのカルカッタかマドラスにけば沢山たくさんふねがあります。それをしまっててさえいただけりゃア、まぎれて乗出のりだしますから、印度インド大陸たいりくほう何処どこでもかまいませんが、がれさえすりゃアそれでよろしいんです。」
うと、須谷すだに大尉たいいが、
「どうもまず仕事しごとだな。しかしそれだけのたからはいれば、埋合うめあわせがつくというものか。」
少佐しょうさはまたわたしむかって、
よろしい、かくやってることにしよう、そのうえいずれとも決定けっていしよう。それでは無論むろん真先まっさき宝玉ほうぎょく真否しんぴたしかかめねばならぬ。その鉄函てつばこうずめてあるところをおしえてくれ。そうすれば休暇きゅうかって印度いんどって調しらべてるから。」
むこうがねつすればねつするだけ、わたしほうでは益々ますます落着おちついて、
「なに、そんなに御急おいそぎにならんでもよろしいんです。ほか三人さんにん仲間なかま同意どういねばなりませんから。まえにもおはないたしますとお私共わたしども四人よにん一心同体いっしんどうたいございますからねえ」とうと、それにはおよばぬと大分だいぶ反対はんたいしましたけれども、わたし飽迄あくまで頑張がんばったので遂々とうとうそうすることになり、二度目にどめ会見かいけん宇婆陀うばだ漢陀かんだ阿武迦あぶか三人さんにん立合たちあい、いろいろと談判だんぱんがあったすえようや相談そうだんととのいました。それはわたしたちが宝玉ほうぎょく場所ばしょしめしたくわししいとりでを一まいずつ二人ふたり差出さしだす。少佐しょうさはそれをもっだい一に印度いんどわたって、こと真否しんぴしらべる。はたして鉄函てつばこったらば、其儘そのままうずいて食糧しょくりょうんだふね一艘いっそうしまおくり、なにわぬかお勤務きんむもどる。わたくしたちはそのふねしま抜出ぬけだす。今度こんど須谷すだに大尉たいい休暇きゅうかって印度いんどわたり、阿虞良アグラわたくしたちと落合おちあって大尉たいい少佐しょうさ二人ふたりぶん分配わけまえ受取うけとる。ういう手筈てはず極秘ごくひ約束やくそくのもとにめました。其晩そのばんわたくし黎明あけがたまでかかって二枚にまいをひき、真保目宇婆陀まほめうばだ浪須戸阿武迦はすどあぶか阿多羅漢陀あたらかんだ、それにわたし簗瀬やなせ茂十もじゅうこの四人よにん署名しょめいをして少佐しょうさたちにわたしたのです。
旦那方だんながたあまはなしながくて御疲労おつかれでしょう。それに警部けいぶさんもわたし絞首台こうしゅだいにおけなさるのがさだめて御待遠おまちどおでしょうから、あと出来できるだけちぢめて御話おはなしいたしてしまいましょう。悪人あくにん山輪やまわ畜生ちくしょう印度いんどわたったままとうとうしまかえらないんです。そして叔父おじんで遺産いさんはいったとかって、軍隊ぐんたい退さがってしまったんです。あいだもなく須谷すだに大尉たいい阿虞良アグラじょうってるとはたして宝玉ほうぎょくかげかたちもない。山輪やまわやつ一人ひとりせしめてしまったんですね。其時そのとき以来いらいわたくしはまるで復讐ふくしゅうめにきてました。
夜昼ひるよる絶間やえまなく其事そのことばかりかんがくらして夢中むちゅうになるようになりました。もう法律ほうりつおそれない、絞首台こうしゅだい眼中がんちゅうにない。どうしてしまのがれようか、どうして山輪やまわやつめようか、どうしてころしてやろうか――其事そのこと以外いがいにはかんがえないのです。山輪やまわころそう!その一念いちねんべては、もう宝玉ほうぎょくなぞはなにでもなくなってしまいました。


二六、博士はかせまった探偵たんてい天才家てんさいかである ――長き長き茂十の物語は尽きた

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機会きかいねらってうちにとうとうしまけのうんいてました。とうのは、わたくし医者いしゃ真似事まねごとすこしばかりおぼえたとおはなししたでしょう、それです。或時あるとき丁度ちょうど染原そめはら軍医ぐんい熱病ねつびょうかかって最中さいちゅう一人ひとりこのしま蛮民ばんみんもりなか暴民共ぼうみんどもされてにかかった。それをばわたくしたすけてとうとう全快ぜんかいさせてやったものですから、以来いらいすっかりわたしおんましてね、もりへはかえらずわたくし小舎こやそばばかりを彷徨ふらついているんです。こと其奴そいつからしま言葉ことばならおぼえるようになってからは一層いっそうわたしきになったらしいんです。
頓迦とんがいましてね、こそ莫迦ばかひくいが、船乗ふなのりのうでたしかなもので、一艘いっそうおおきな独木舟カヌーさえっていました。彼奴きゃつ心底しんそこわたし帰依きえして、わたくしことならなにひとそむかぬのを見極みきわめたので、此奴こいつしまけの相手あいてにしようと覚悟かくごしました。そしてその決心けっしんけたのです。で、談合だんごう結果けっかふね見張みはのないふる埠頭はとばまわさせて、そこからとも乗船じょうせんする。ふねには飲水のみみずをいれた瓢箪ひょうたん五六芋薯やまのいも椰子やし馬鈴薯じゃがいもなぞをませることにしました。
おそらく頓迦とんがほど忠実ちゅうじつやつはまたとりますまい。約束やくそくになるとチャンと埠頭はとば独木舟カヌーまわしやした。しかるところ、ここ鬼藤きどうってわたくしをば日頃ひごろかたきにしていじめた一人ひとり看守かんしゅがある。其奴そいつ丁度ちょうど其時そのとき埠頭はとば来合きあわせました。どうかしてかたきろうろうとねらっていたのが、いましまるにのぞんで来合きあわせたこそてんあたえとおもってると彼奴きゃつそうともらず鉄砲てっぽうかついだまま此方こちらけてきしっている。わたくし脳味噌のうみそくだいてれようと手頃てごろいしさがしたが見当みあたらない。其時そのときふッとおかしなかんがえがあたまうかんだ。此奴こいつなぐってやろうと、暗闇くらやみはまこしおろして、この木製きづくり義足ぎそくき、ピョンピョンピョンとみっつばかり片足かたあしびをやらかして、それと気付きづいた彼奴きゃつ鉄砲てっぽうかまえるあいだもあらばこそ、たちま義足ぎそくりあげて真向まっこう微塵みじんろし、とうとう即死そくしをさせてしまいやした。其時そのとき割目さけめいまでもこの義足ぎそくについてまさア。そうしていて二人ふたりとも大急おおいそぎで水際みぎわき、首尾しゅびよくふねしました。頓迦とんが所持品しょじひん一切いっさいふね持込もちこんだが、其中そのなかに一ぽんなが竹槍たけやり椰子やしせいむしろとがあったので、わたしはそれでつくった。こうして十日間とおかかんというものなみのまにまに大海たいかいながれていると、十一日目にちめとおかかりの商船しょうせんすくげられました。
それからのわたし頓迦とんがとのながあいだ冒険譚ぼうけんだん一々いちいちはなしていたらけたってりないくらいですから御迷惑ごめいわくでしょう。私等わたしらはまア長年ながねんあいだ世界中せかいじゅう漂浪ひょうろうしてたんです。そのあいだだって山輪やまわ復讐ふくしゅうのことはわすれやしません。英国えいこくかえったとき山輪やまわ上海シャンハイることをり、とうとうその上海シャンハイることが出来できました。それからじき山輪やまわ住家すみかがたなくきとめたが、東京とうきょう移住いじゅうしたというので、彼奴きゃつ宝玉ほうぎょくをもう正金しょうきんえてしまったか、それともだそのままでっているか、それをたしかめるために内通者ないつうしゃ一人ひとり二人ふたりこしらえて、とも東京とうきょうまいりました。その内通者ないつうしゃ宝玉ほうぎょくがまだ其儘そのままであることがわかりました。で、如何いかにもしててき接近せっきんしようと、いろいろに工夫くふうしたが、彼奴きゃつもさるもの、護衛人ごえいにん幾人いくたりいてるので、容易よういくだすことが出来できない有様ありさまです。
するとある山輪やまわにかかってるという報知しらせ。それは大変たいへん仇討あだうちもせずになれてなるものかとわたし狂人きちがいのようになってまど近寄ちかよってると、成程なるほど病床びょうしょうよこたわって、二人ふたり子息せがれなにっている様子ようすおの相手あいて三人さんにんでもいいからもうとおもったときはやくも彼奴きゃつはガックリと落入おちいってしまった。仕方しかたがないからわたくし其晩そのばん彼奴きゃつへやしのり、宝玉ほうぎょく所在ありかさぐ手掛てがかりりもあるかと書類しょるいひっくりかえしてたが、それにかんしては一ぎょういてないんです。忌々いまいましいから他日たじつ仲間なかま三人さんにんったとき心慰こころいせに、と紙片かみきれはし四人よにん署名しょめいとして死骸しがいむねはりめてやした。わば私共わたしども彼奴きゃつ財産ざいさん強奪ごうだつされ、愚弄ぐろうされたようなもの、その怨恨うらみ言葉ことばえずに墓場はかばおくむのは如何いかにも残念ざんねんでしたからねえ。
ところで私共わたしどもってくにはかねるので、矮人島こびとじま黒奴くろんぼ頓迦とんが観世物みせものなぞにし、生肉なまにくをムシャムシャわせたり、戦踊いくさおどりをさせたりして、それでも可成かなりせんってやした。山輪やまわほうでは、子息むすこたちが宝玉ほうぎょくさがしているというほか、数年間すうねんかんなん珍聞ちんぶんもなかったが、やがてちにった宝玉ほうぎょく見付みつかったという報告しらせがあった。それはぼう少佐しょうさいえ最頂上さいちょうじょう密室みっしつ丁度ちょうど山輪やまわ建志けんし科学かがく実験室じっけんしつ真上まうえあたへやということわかったんです。わたくし早速さっそくってそっとそのへやそとからながめたが、不具かたわあしでどうしたらのぼられるだろうとよわっていると、その密室みっしつ刎出扉なねだしどのあることと、主人しゅじん建志けんし夕飯ゆうめしりる時間じかんとがわかったので、やっぱり頓迦とんが使つかうにしたことはないとかんがいた。で、あのばんかれ彼処あすこれてき、こし周囲まわりなわ巻付まきつけさせてのぼらせると、ねこのようにスルスルとのぼってって、屋根やねから天井てんじょう密室みっしつ密室みっしつから実験室じっけんしつへとりてったが、意外いがいにも建志けんし夕飯ゆうめしりぬとそのしつった。これが建志けんしのために不運ふうんだったんです。たちま頓迦とんがママ毒矢どくやころされてしまった。このまた黒奴くろんぼが、つみもない建志けんしうまころしたのを天晴あっぱれわたくし忠義ちゅうぎでもてたつもりか、わたしなわつたわってのぼってってると、さもさも得意とくいそうなつらをして傲歩ごうほしてるので、流石さすがわたしかっとしてなわはしなぐろうとすると、いや、やっこさんの魂消たまげかたったらなかったね。しかころしたものは仕方しかたがないから、宝玉ほうぎょくはこきへろしていてわたしりてしまった。そのまえに、宝玉ほうぎょくつい正当せいとう権利けんりものはいったことをらせるつもりで、卓子テーブルうえれい四人よにん署名しょめいのこしやした。それから最後さいご頓迦とんがなわ引上ひきあげていて、のぼったとき同様どうよう屋根やねからけてりてしまいました。
さア、もうあんまりおはなしすることものこってないようだな。ああ北光丸ほっこうまるのことがる。隅原すみはらというもの所持船もちぶね北光丸ほっこうまる快速力かいそくりょく汽艇ランチだということはぜんママからいていたので、いま自分じぶんげるには適当もってこいだわいといたから、早速さっそく隅原すみはら老爺おやじやとって、無事ぶじ自分じぶんたちを汽船きせんまではこんだらたいした御礼おれいをするということにした。爺様じいさんすこしはくさいとはおもったろうが秘密ひみつ真相しんそうまでは到底とてりようがなかったんですね。これまでのはなしひとつも虚言偽うそいつわりのないことですぜ。わたしはただわたしというものがれだけ山輪やまわ少佐しょうさだまされたか。その建志けんし横死おうしついちゃアまった自分じぶんつみがないということを世間せけんらせることが出来できさえすりゃア本望ほんもうなんです。」
ながなが茂十もじゅう物語ものがたりようやきた。
すこぶおどろくべきはなしだ」と博士はかせくちひらいて、
非常ひじょう面白おもしろ事件じけんだ。結末けつまつ適当てきとうについている、もっとわしにとっては格別かくべつあたらしい内容ないようもない。ただあのなわがおまえってたのだとはらなんだ。それに頓迦とんが毒矢どくやのこらずおとわすれてったろうとおもうた。そうのぞんでたんだが、今夜こんや追跡ついせきふねなか一本いっぽん我々われわれったわい。」
旦那だんなみんくなしたんです。丁度ちょうど吹竹ふきだけはいっていたのが、一本いっぽんのこってたんです。」
「ああ、成程なるほどな、そこまでかなんだ。」
「まだなに御不審ごふしん個所かしょでも御有おありですかね。」
犯人はんにん温和おとなしくいた。
「いや、もうなんにもない、御苦労ごくろう御苦労ごくろう。」
呉田くれたさん。」と阿瀬田あせだ警部けいぶった。「貴君あなたまった犯罪はんざい鑑定家かんていかでおありですな。しか職務しょくむ職務しょくむです。じつ貴君あなた中沢なかざわさんとが仰有おっしゃるままにすこ寛大かんだいにやりぎました。馬車ばしゃってるし、二名にめい部下ぶかってます。いや、御両君ごりょうくん今回こんかい御助力ごじょりょく感謝かんしゃのほかはありません。無論むろん裁判所さいばんしょへはまた御立会おたちあいをねがわねばなりますまいが、今夜こんやはこれで失礼しつれいいたします。」
旦那だんながた、サヨナラ。」
茂十もじゅうった。
茂十もじゅう貴様きさまきにて。」と警部けいぶ用心深ようじんぶかい。「安陀漫アンダマンとう看守かんしゅのように、うしろから義足ぎそくでガンとやられてはまらぬから、警戒けいかいせねばならぬわい。」
警部けいぶ犯人はんにんうしてった。
くしてこの翌日よくじつから都下とか新聞しんぶんには、おどろくべき顚末てんまつ連載れんさいされ、ひとしく耳目じもく聳動しょうどうした。しかもこれがほどなく、山輪やまわ少佐しょうさ茂十もじゅう本国ほんごくなる英国えいこくつたわって、英国えいこく新聞紙しんぶんしは、日本にほん探偵界たんていかい呉田くれた博士はかせのあることを、賞揚しょうようしてあらゆる讃辞さんじ羅列られつした。呉田くれた博士はかせは、一事件いちじけんごとに、隆々りゅうりゅうとして、社会しゃかいわたった。博士はかせまった探偵たんてい天才家てんさいかである。
また丸子まるこ中沢なかざわ医学士いがくしとは、其後そのご一層いっそうしたもっ交際こうさいつづけてた。

  1. 先生せんせい」は中興館書店本では「きみ
  2. る」は中興館書店本では「る」
  3. 毒刺どくし」は中興館書店本では「毒矢どくし
  4. 自動車屋タクシー」は中興館書店本では「タクシー」
  5. 自動車じどうしゃ」は中興館書店本では「馬車ばしゃ
  6. 「しておくれよ。」は中興館書店本では「してくれる、」
  7. 頑固がんころうとしたとき」は中興館書店本では「容易よういきなさらんとき
  8. 「とも」は中興館書店本では「みよし」。みよしは船の前方先端部。ともは船の後方部
 

この著作物は、1915年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。