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時、   現代 初秋 夜七時頃
人物、  學生二人
尾形宏作(二十二歳)
中野正剛(二十一歳)
他に通行人、及び巡査
場所、  大阪長堀河岸


場面
河岸の道路、柳の木二本、電柱一本、川に面して木柵結ひある。通行人時々通る。艶めきたる三弦ママの音時々響き來る。
尾形及び中野、河向ふを見ながら右手より登場。
兩人とも昂奮を壓へてゐる樣に見える、一心に河向ふを見つめる。急な鋭い短い語調、聲は高くない。


中野 どれだ?どの家だ?
尾形 閉つてゐる樣だな。(心配らしく窺ふ。)
中野 三軒、軒並びになつてゐる東の端だらう。(指して、)あれがそママうぢやないか。
尾形 一つ、二つ、三つ、と。そうだ。開いてゐる、開いてゐる二階だ。二階に誰かゐる。
中野 ゐる、――女だ、若い女だ。
尾形 髪は?
中野 日本髪。まだゐる、男がゐる、女がも一人ゐる。
尾形 よく見えないな、ぢや三人かい。
中野 四人だ、男二人に女二人。
尾形 もう一人の女は?束髪ぢやないか?
中野、束髪だ、確に束髪だ。
尾形 芳子は束髪に結つてゐる筈なんだが……
中野 型の古い束髪らしいぜ。
尾形 そうだ、ぢや芳子かも知れない。色は白いだらう。
中野 うん、そう云へばそうだな。君が見えると申し分がないんだけど少しも見えないか?
尾形 六度 (一心に凝視めてゐる)左の端が女だらう、あれが日本髪か?
中野 そうだ、團扇を持つてゐるだらう。見えるかい?
尾形 その右が男、和服だね。
中尾 うん、毛を分けてゐるらしい。
尾形 叔父さんかも知れないぞ。やはり來てゐてゐたんだ。その次が芳子で次が白い洋服だらう。
中野 そうだ、俺も二十度位の眼鏡をかけるとよく見えるんだが、それぢやはつきりしない。然し君には見せてやりたいな。
尾形 俺が君程見えるといゝんだが、これぢや遠見で逢つたとも云へない。
中野 だけど、立つたりする時の恪構(恰好)でわかるだらう、まあ待つてゐろ、交番は直ぐそこだ。
怪しまれちやいけないからこの柵へ腰でもかけてゐやママう。――さつき電話をかけた時は確かに叔父さんが出て來たんだね。
尾形 そうだ、あの聲は確かに叔父さんだ。だからあちらも警戒してゐるに違ひない。
俺が大阪迄來たと知つてはあちらも安閑としちやゐまい。頭の毛を分けたのは確かに叔父さんだ。
中野 一人立つて來た、おい、しやがめ。俺達に氣が付いたんぢやないか?
尾形 手摺りの所まで立つて來たね。
中野 おい、見るな。(兩人とも川に背を向ける。)日本髪ぢやなかつたぜ。女優髷だよ。
尾形 ぢや博士の奥さんかも知れない。君の眼も信賴出來ないね。


通行人、通る。


中野 おい、座ママれ、この電柱の電燈が明るすぎる、隱れろ、帽子をとれ、柳の蔭へ行かう。(中野 柳の蔭へゆく。)
尾形 芳子だ、芳子だ。(狂へるものゝ如く云ふ。)


通行人、怪しみつゝ通る。


中野 しっ、そんな大きな聲で。どうしたんだ。――(柳の蔭から見る。)え、あれか?束髪が、え、今座つた?え、本當か?
尾形 俺が來たのを氣が付かないのかな。(悲しき顏。)
中野 芳子さんが氣が付く位なら叔父さんも芳子さんの夫も氣が付くよ。
それぢや逢へないぢやないか、とにかく怪しまれちや駄目だ。おい洋服が立つて手摺りの所へ來た。感付いたんぢやないか。
尾形 ひげはあるか?
中野 こちらを見てる樣だ、おい座れ、座つてしまへ、もう見るな、――あるある、摘んだひげだ。
芳子さんのhus.のひげはどうなんだ。
あれは摘んだひげだよ。(煙草を出して火をつける。)
尾形 摘んだひげだ。肥えてゐるか、(煙草を呉れと手まね。)
中野 うん肥えてゐる、ブルジョア然としてゐる。(煙草を渡す。)
尾形 ぢやそうだ、(煙草の火をつける。)ぢや見な來てるんだな。叔父さんと夫が歸らなきや今夜は逢へない。うん、たしかに芳子だ。
中野 今何時だ?
尾形 (腕時計を見つゝ)七時前だ。
中野 ぢや落ち付ママけ、まだ時間はある、二人は歸るんだらう。
尾形 二人とも妾の家があるからそこへ歸るんだらう、兎も角あの家は博士の自宅なんだから。
中野 階下は診察室らしいね。
おい、何か飮んでゐる。酒ぢやないのか。女優髷が酌をしてゐる。おい、芳子さんはもう酒なんぞ飮んでもいゝのか?
尾形 まだそんなに快くなつてゐる筈はないんだ、そして酒なんぞのむ女ぢやない。
中野 でも。――おい巡査が來た、靜かにしてゐや{{sic}}う、擧動不審とは俺達の事だからな、もう見るのは止せよ。


二人、無言、巡査通り過ぎる、二人をぢろっと見る。


中野 おい巡査が何か云ふと五月蠅いからもう見ない樣にしやママう。こゝにゐるだけが卽に怪しいと思はれるだらうと思ふよ。
隣人の妻を貪る者の弱味さね。もう叔父さんとhus.と芳子さんは ゐることは十中八九間違ひはないんだから いくら見たつて同じことだ。
尾形 どうだ、この上は叔父さんとhus.とが歸ればいゝんだ。(時計を見る。)
でも氣が氣ぢやない。君にも苦勞をかけるね。
俺はもう何だか逢っへる氣がする。今日大阪の土を踏んだ時は、芳子と同じ空の下へ入つた様な氣がした。さつきあの橋の上を通つた時は 丁度一週間前に逢つて二人が物を云はずに泣いてばかりゐたのを思ひ出して又泣きたい氣持になつたが。君には今日は無理を云つて……
中野 俺の苦勞が何かいゝ事のためになれば俺は嬉しいよ。然しね、
――君には不愉快なことを云ふに忍びないが――何だかあまり盲目的に一途になつてやしないか? といふ氣がしてね。俺はさつきから不安でならないんだ。俺は先程から考へてゐるのだが、俺は實際こんな事にまで立ち入つて行動するのは一寸差出がましい樣な氣がしてならないんだ。(煙草を出す。)――まあ、落ち付ママいて話でもしやママうよ――君の戀にも、その當初から今日の此頃の樣に立ち入つた事は知つてゐなかつたし、君の打ち明けて詳しい話をしたのは一月程前だからな。
それに、今芳子さんと君と逢ふのも俺はよい事ぢやなからうと思ふんだ。芳子さんの手紙にあつた様に、自分の研究に沒頭して芳子さんをあきらめるのが一番いゝと思ふんだ。一旦他人の妻になれば、一步進めば二人とも死ななけれやならないんだからな。君がよく云ふ樣に、よし芳子さんを今の苦境から救ひ出して誰もゐない所へ隱れても 死なねばならない樣になるのは當然だ、いや當然とは或は云へないかもわからん。然し、芳子さんは豪家の娘だし 君もほんのお坊ちやんだ、二人が共稼ぎをしてもやがて苦しみにたえママかねる時が來るだらう、それは當然だ。それに二人は社會に背いたものだ、君は罪名を負ふんだ、姦通罪とね。だから心中するのはまあ普通だ。それもいゝとする。芳子さんの外に希望も光明もない人生なら、華々しく死んだ方が君も本望だらうし、芳子さんも夫の呵責や叔父さんへの氣兼ねから逃れて君と添ひ遂げる事が出來る。死に勝る喜びだらう。俺はそれもいゝといふんだ、然し君はそれも逡巡してゐる。そうだらう?君は一人息子だから、お父さんも氣の毒だからね、無理もない。
然し俺だつたらあくまでも生き拔いて見せるね、心中するのが生きる道だといふのなら仕方がないが
俺にとつては死ぬことは惡だからね、必ず荊きよく(棘)の道を光の方に切り拔ける。
この場合、君は斷崖の上へ來てゐるんだ。一步進めば死、死はいけない。とすると、あきらめるより仕方がないんだ。だからこれ以上關係を濃くしちやいけないんだ。逢へばあきらめにくゝなるからね。もう逢ふのは止せと云ひたいね。男らしくあきらめることは出來ないか。
尾形 今夜あへたら、そして心殘りなく俺の心を芳子に通じたら俺はあきらめるよ。もうこの悲しみには耐へて行くつもりだ。
中野 君の心はよくわかるよ。俺はこれだけ云つて あまり干渉するのは止す。然し今日はあまり圖に乘り過ぎはしないかと思ふよ。
考へて見給へ。さつき食事をとつた家から電話をかけた時、叔父さんが出て來たと云つて君が失望した時、君は京都へ歸つて有り切りの金で飮みまわママらうと云つたらう。それに俺が賛成したらほんの一目も逢えなかつたんだよ。
それから此所から河をへだてゝあの家が見えることも全然當てにはしてゐなかつたんだから。そして京都から來る時は電話をかけて呼び出すだけの積りだつたんだらう。云はゞ、一寸したはづ(ず)みのそのはづママみに君が今夜逢ふ希望を托したんだ。あまりそれに一途になるのはよくないね。
尾形 然し俺は今日逢ひに來たのだ、逢へる機會を見逃して歸らうとは思つてゐなかつた。君は一體、今になつて何故そんなことを云ひ出したのだ。
中野 しかしね、圖に乘るなと云ふのは、君にそれだけの用意が出來てゐないことを心配するんだ、下手を打てば芳子さんが苦しむばかりだから。
小魚をとる積りで川へ出て大きな鯉を見付けてそれをとりたいと思つても小さい竿は折れるばかりだからね。
然し――あ、まだゐるね、和服の男は歸つたらしい。看護婦がこちらを向いてる樣だな。
尾形 おぢさんは歸つたんだな。もう一人、hus.さへ歸れやいゝんだ、會へる樣な氣がするよ。
中野 會ふつもりか? よく考へろよ。
尾形 希望を失ふまで斷じて逢ふ。
君は逢ふなと云ふが、どううして逢へ(は)ないでゐられやママう。俺は苦しむばかりだ、思つてゐることを彼女に撤(徹)底して云ひ拔くまでは俺はあきらめることは出來ない。
あゝあ、この川の水を見てゐると死にたくなる。親父も氣の毒だが、なんだか死ぬ方が自然な樣な氣がする、その方が無理のない道の樣な氣がする。
芳子も弱い女だけど俺も弱い。
一度は生の方が深秘だといふ氣がしたが、叔父さんやhus.の前で死の勝利を謳ひたい氣がする、弱い俺達の最期の反抗だ。
中野 芳子さんは君の子をお腹に宿してゐてよく結婚が出來たね。時々俺は芳子さんは思つたよりも强い女ぢやないかと思つたりする……。
尾形 それだけ弱いんだ。
中野 何だか强そママうな氣がしたが。
尾形 强さを思はせる程弱いんだよ、弱い女はあんなものだ。叔父さんは芳子の義父なんだから、叔父さんの命令はしのばなきやならなかつたんだ。
然し俺との關係がわかつてからhus.と叔父さんは死ねない樣に充分警戒して死ぬより以上の苦しみを毎日與へてゐるんだからな、芳子は氣が變になつて流産するし、今度は二度目の大病だつたんだ。
それも此の間迄俺は知らなかつたんだ。どうして芳子に手紙を書いて出す隙があつたか不思議だ。(悲しい身振。)モルヒネが手に入つたと云ふから死ぬ氣なら一緒に死んでやるぞ。
中野 おい、洋服の男が今立つた、


此の時分より河面に「オーイ オーイ」といふ陰惨なひゞきが呼びかわママされる。云ひ得べくば水死人を捜す人々の發する樣な不吉な聲。


尾形 何だらう、いやな聲。
中野 投身だ。
尾形 (ギヨッとして、)何?投身?
中野 女郎の投身がよくある。松島の女郎の投身は滿潮でこゝの河岸へよく浮く。新町の女郎の投身を俺は子供の時からよく見た。
この暗い水は見てゐても死神の手が出そうだからな。女郎ばかりぢやない。
尾形 おい。俺は何だか、氣味が惡い。俺達の運命が暗示されてゐる樣な氣がしてならない。
變に芳子が死んだ樣な氣がする。芳子だと思つて見てゐる女は、ひよっとすると違ふ女の樣な氣がする、實際俺は博士の家のどの部屋に彼女が養生してゐるのか知らないんだから。
中野 洋服の男は歸つて來ないぢやないか、女二人きりだ。
おい注意してゐないと、hus/はこの道を通つて歸るかも知れないぞ。
尾形 自動電話はどこだ。(決然と云ふ。)
中野 おい、かけるのか?
尾形 かける。芳子が投身した樣な氣がしてならないから。
中野 よく考へて見たかい、下手を打てば芳子さんが苦しくなるばかりだから。電話もどんな邪魔が入るかも知れたものぢやないからね。
尾形 よしわかつてゐる。
もうかけるよ。自動電話は交番の橫だね。
中野 どう云つてかける?
尾形 芳子の親類だと云つてかけるんだ。それからあの橋の上で逢ふ樣にする。
中野 策略は嫌ひだが、一つ敎へてやろママう。芳子さんのためだから構はない。さきに、叔父さんか、hus.かがゐないかときくんだ。
ゐなけれや、仕方がないから芳子さんを呼んで呉れといふ風に云ふんだ。あちらからきくまで名前を云ふな、いゝか。
尾形 ぢや行くよ、電話をかける間 二階の二人の女に注意してゐて呉れろ、右側が芳子だらうから。
中野 あゝ、いいよ(尾形立ち去る。)


「オーイ」「オーイ」の聲。
中野腕を組みて川面を見る。よき頃に、家の女に注意する。


中野 あ、立つた、尾形はどんなに嬉しいだらう。尾形、逢はしてやりたかつた、あいつは苦しみ過ぎたんだ。
(手にて輕く拍子を取りながら口笛を快活に吹く。)然し、尾形が會つた方がいゝのか惡いのか本當はわからない。俺がこんなに世話燒きに氣を揉むのも本當はこれでよかつたのかどうかわからない。(口笛を吹く、)何でもいゝ。とママうとう話が出來た。あれで尾形も氣が靜まる。
おれの心も逢はす事で躍氣になつてゐたらしい、滅茶に嬉しい。(口笛を吹く。)
あゝ二人の幸福を祈つてやらずにはゐられない。(口笛を吹く。)


「オーイ」「オーイ」の聲。


中野 投身する人もあるし、戀する男もあるし、みな一人一人の運命を背負つて行く。(口笛を吹く、)


自動電話の方角より尾形の呼ぶ聲きこゆ。


中野 え? 其處へ行くの。
よし、行くよ。


走り去る。「オーイ」「オーイ」の聲。


――幕――

 

この著作物は、1932年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。