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永享後記
 
永享の末かとよ、関東公方管領の中、不和に成給ふか、持氏たちまち亡ひ給ふ、安房守憲実は、随分の忠臣成しか、如何おもひけるにや、去る正月の比、都よりの御使に、柏心和尚下り給ひし時、持氏の御振舞ありのまゝに申上し程に、武田刑部入道佐々河川野等の諸勢、かさねて責下り、関東の諸家にふれ廻し、永安寺にて終に御生害ありし、若公北の政所も皆ほろひ給ひ、残る公達両人、日光山にかくれ給ふ、いつまてかくてあるへきとて、永享十三年三月四日、常陸国中那濃庄木所の城にて義兵を御起し給ふ、其時小田の一門熊野別当朝範のすゝめにより、其兄筑波法眼玄朝弟美濃守定朝同伊勢守持重以下旧功の輩、木所之城に馳集る、同国小栗へ御出有、是も分内せはしとて、同十八日、伊佐の庄へ御出ありしを、同廿八日御結城中務大輔氏朝、子息七郎御迎に参り、結城へ御座を移し奉る、同卯月十八日に、中畑へ御出、長沼の淡路守御供をは不申、忽に陰謀を起し、已か本城に引籠る、氏朝大に腹立、時日不廻をしよせ、合戦度々におよひける、桃井岩松打立、七拾日責戦しかとも、長沼か城名城にて、終に責不落して、筑波法眼以下の味方、数ヶ所の疵を豪り本城へ引返す、同十四年、改元して嘉吉元年卯月十六日、惣責に落城して、結城氏朝子息七郎其身朝兼氏朝の弟原の三郎光義駿河守朝助以下の侍、悉討死或は自害しけるに、若君達落給ひしを、長尾因幡守生捕申て、御上洛有しか、美濃国埀井の金輪寺にて、佐々木大夫参りてさしころし奉る、其弟を、めのとかいたきて、信濃国に落行、大井越前守源持光を頼、山中にて養育し奉る、其後都公方義教も不慮に生オープンアクセス NDLJP:387害に逢給ふ、其比古老の歎きけるは、あはれむかし康暦元年の事にや、尊氏の御孫永安寺殿、御在世の時、御威勢たくましくて、十一ヶ国随ひ申奉る、御子あまたおはしまし、奥州へも御下向有、篠川の御所と聞えしは、彼氏満の一男満貞の御事也、関東をたなこゝろのうちにおさめ、已に京都を責落し、一天下を一旗にとおほしめしたち給ふ、その比の管領上杉刑部大夫憲春に請合られしかは、上杉承り大に驚き諫しは、扨は此殿は武威にほこり、終に御身を亡し給ふへし、其故は等持院左大臣殿、天下を治め、京鎌倉に御子を置、行するまても両方水魚のおもひをなし、天下安全と、ちかひ給しそのかひもなく、幾ほとなくして、惣領家を亡し給はゝ、又京方の御一門、又は普代の大名有、縦一旦勝事有も、却て関東も亡へし、只両口の鳥のつたなくて、毒のむしを食ひて、一つの体を失ひしに異ならす、足利家の絶事なるへしと様々申上ける、去にても、故尊氏の掟をそむき、京都へ弓を引給はん事、歎てもあまり有、たとひ打かち給ふとも、関東の諸家皆悉滅ひん事うたかひなし、其上公の御元服有し時、左馬頭の御望ありしに、左馬頭あかされは、去る応安六年十一月廿九日、鹿苑院殿未左馬頭にて御座候か、忽にあけられ、君を左馬頭に任し給ふ事、御懇情の有難きは、つゝの間に忘給ふへき、方々天罰をそれ有と、かきくとき諫しかとも、聊用不給、已に上洛の御用意有し時、憲春いさめかね、出家し閑居せんとおもはれしかとも、いやとよ、弓取の不覚なるへし、しよせんかなふましくよしの諫状を奉り、自害せんとおもひつめ、女房を近付、いかに女房所望の候かなへ給はんやと云、女房さる人なれは、何事にか君か事のかなはさらんや、とくとのたまへは、上杉よろこひ、今夜尼に成て得させ給へと有、女房聞て、こは不思儀の所望かなと、歎かしくおもへとも、男に随ふ女のならひ、いかてかそむき可申候、さりなから物くる​ひカ​​し​​ ​をしてもや有り、かくのたまふかと、色々心見けれとも、さもなし、とかくすれは夜更る、とくこしに打乗り、脇と云所のびくに寺へ行、尼に成けるそあはれなる、扨上杉は持仏堂へ入、内より戸さして、公の御謀叛難叶由の諫状、一通書置、康暦元年七月十九日、自害して失給ふ、氏満而召、大に後悔有て、忽京都の望を留給ふ、彼の一人の自害により、諸人の命をたすけ、国土安全成しをもて、是を大沼院高源道珍と申て、今に鎌倉中奉吊は彼の憲春の御事也、憲実も正敷一門そかし、いかにためしなく、二代の主君を責亡しけるそやと、諸人口々につふやきしかは、安房守もさる人にて、いよ後悔にて、さすかに世になからへんも恥敷思ひ、二人の若公諸共に出家し、兄をは徳丹、弟は清蔵主、我身は長棟庵主と号し、衣鉢を持て、大衣を着し、仏道修行に出、いつくともなく失給ふか、後に因幡国にて、応仁の比終り給ふと聞えし、さるあひた、京にも義教の公達を、公方に仰き奉り、又関東にも、上杉大夫持朝長尾左衛門兼仲以下相計、持氏の末子永寿王丸殿、信濃にしのひたまひしを取出し、成氏と号し、公方に仰き、又安房守三男龍若丸、伊豆に捨置しを呼越、上杉右京亮憲忠と号し、長尾一家補佐して、十年の春秋を静に送りむかへける、又結城氏朝父子三人自害しける時、三男長朝北殿と号しけるは、武州へ出発し、四男成朝は其比三歳なりしを、家老多賀谷彦四郎抱取て、佐竹へ遁出、十年の春、十三才とて鎌倉へ申立て、則本領安堵し、結城へ帰りし、鎌倉殿より一字オープンアクセス NDLJP:388下、結城七郎成朝と号し、普代のやから来集り、威勢父祖にをとらす、或時は在鎌倉しけるに、御前近く寄り、直に往事を語り、只涙計にて有しか、扨も上杉は、公方の御ためにも、父の御敵、結城にも大敵也、如何にもして、憲実をこそうたんと思へとも、出家して失ぬ、もし死もやしけん、憲忠は彼か子也、安房守におとるまし、いさや討たん​本マヽ​​尤か​​ ​のと談合有て、亨徳三年十二月廿七日、結城成朝大将にて、鎌倉西御門管領の亭へ打て入る、成朝か家人に武州牢人金子と云もの兄弟あり、大手より責入、憲忠を害し、御首取てまいりたり、成朝大によろこひ、則かれらをめしつれて、御所中へ参上仕、御白洲に畏る、彼兄弟は無位の者なれとも、憲忠の御首平地置へからすとて、たゝみを敷、彼両人を置、公方両人の名字を御尋あり、成朝かねことは不呼、結城家老の多賀谷か同名に被成、多賀谷とめす、此両人則常陸の下妻の多賀谷の元祖祥永祥賀兄弟是也、依之多賀谷の庭たゝみと云は此由来也、又家の紋に瓜を用し事も彼の首に敷きたる紙に、瓜のことく血の付たるゆへに、此家のもんに定る也、此時上杉大夫并長尾左衛門入道、憲忠の弟兵部少輔房顕を取立、同月廿八日、鎌倉赤坂にて合戦あり、成氏の御方小田中務大夫結城七郎先陣して、ことくおひちらすといへとも、敵猛勢にして、結城以下数ヶ所の疵を蒙り、馬もいられてかち立に成、武州さしてをちて行、成氏御めしかへの鶴毛の御馬も成朝に給りし、かくて翌年正月廿七日、長尾上杉長野光阿弥を先かけの大将として、武州の原に陣を取、御所かたに、結城筑波定て安芸守松田左衛門大森式部大夫以下の侍、命を塵芥、義は金石と思ひつめ、入乱合戦し散々に追ちらし、明日廿二日、同国府中へ押寄る、御所方の人々、昨日の戦に草臥、ことくかけまけ引退、それより相州武州の一揆とも、管領にしよくするもあり、又総州​本マヽ​​上総​​ ​野州の侍とも、御所かたに心をよせ、或は管領かたに成、己か城に籠り居ける、長尾昌賢謀を廻し、康正元年十月十七日、八ケ国の軍兵を催し、武州滝山の城主大石源左衛門を先かけの大将として、岡部の羽継原に陣を取、御所方にも木戸将監一色を初め、結城筑波二階堂高相馬山名佐野千葉介小山小四郎加勢しけれは、原高城ことく馳加り、魚鱗に陣を張たりし、鎌倉勢三方より押寄、荒手を入かへ責けれは、御所陣かたに、むねとゝたのみ給ふ野田斎藤討死し、成氏も御手をおひたまへは、一陣破れて残党不全、ことくうちまけ引返す所に、千葉介同城主大須加大夫荒手になりて、佐々木本郷足達本庄爰にて討死しける程に、管領方二度め戦に討負、相引にこそ引にける、羽継原の一戦是也

  明治十七年八月                 近藤瓶城校

  同 三十四年十一月再校             近藤圭造


永享物語終
 
 

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