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この遺書を発表するなら、なるべく大正二十年後にしてくれたまえ。今から満十か年以上後のことだ。それでも迷惑のかかる人がいそうだったら、お願いだから発表を見合わせてくれたまえ。
僕は怖いのだ。現在背負わされている罪名の数々が、たまらなく恐ろしいのだ。万一、君が、僕の冤罪(えんざい)をすすぐべく、この遺書を発表してくれた場合に、こんなひどい罪に僕を陥れた責任を問われる一が、一人でもできてはならないと、そればかりを気にかけているのだ。そんな人々を僕が怨(うら)んでいるかのように思われるのが、自分の罪科以上にたまらなく辛(つら)いのだ。できることならかような未練がましい手紙なんか書かないほうがいい。黙って一切合財(いっさいがっさい)の罪を引き受けたまま死んでいったほうが、かえって気楽じゃないかとさえ思っているくらいだ。
だから僕はこの事件に関係している人々の氏名や官職名、建物、道路等の名称、地物の状況、方角なぞを、事件の本質に影響しない限り、できるだけ自分の頭で変装(カムフラージ)させている。事実の相違や、推移の不自然を笑われてもしかたがない。ただこの事件を記憶している人々の、そうした記憶を換(よ)び起すだけに止めている。そうして僕のこの事件に対する責任の程度を明らかにするだけで満足している。……それほどに不愉快な、恐ろしい、驚くべき事件なのだ。
この事件はもはや、内地に伝わっているかもしれない。または依然として厳秘に付せられているかもしれない。
僕は現在、自分自身に対してすら弁解のできないくらい、複雑、深刻を極めた嫌疑を、日本の官憲から受けているのだ。捕(つかま)ったら最後八ツ裂きにされるかもしれない恐ろしい嫌疑を……。
僕――陸軍歩兵二等卒、上村作次郎が、ハルビン駐箚(ちゅうさつ)の日本軍司令部に当番卒として勤務中に、司令部付の星黒主計と、十梨通訳と、同市一流の大料理店、兼、待合業「銀月」の女将(おかみ)、富永トミの三人を惨殺して、公金十五万円を盗み出した……同時に日本軍の有力な味方であった白軍の総元締オスロフ・オリドイスキー氏とその一家を中傷、抹殺(まっさつ)し、同氏の令嬢ニーナを誘拐(ゆうかい)した上に、銀月を焼き払って赤軍に逃げ込んだものに相違ない……だから、それに絡まる売国、背任、横領、誣告(ぶこく)、拐帯、放火、殺人、婦女誘拐、等々々……といったような想像も及ばない超記録的な罪名の下に、現在、絶体絶命の一点まで追い詰められてきているのだ。
もちろん、そんな戦慄的(せんりつてき)な大事件が次々にハルビンで渦巻(うずま)き起ったのは事実だ。同時に僕が、そんな事件の中心になっているハルビン駐箚の日本軍司令部に、当番卒として勤務していたことも、たしかな事実に相違ない。
しかしそれにしても、そんな大事件を巻き起こすべく余りに無力な僕……むしろ小さな、間接的な存在にすぎなかったでろう一兵卒の僕が、どうしてそのような怪事件の大立物と見込まれるに至ったか……白状するまでもなく、中隊でも一番弱虫の小心者といわれていた僕が、づして日本軍、白軍、赤軍の三方からにらみつけられ、警戒され、恐れられて、生命までも脅かされる立場に陥ってきたのか、そうしてその真相を発表する機会をトウトウ発見しえないまま、思いもかけない氷の涯(はて)に生涯(しょうがい)を葬らなければならなくなったのか……という疑問は、現在でも、多少にかかわらず抱いている人がいるに違いないと思う。たとえば僕の平生(へいぜい)を知っている戦友や、直属の上官なぞ……そんな人々のそうした疑問を今から解きたいと思っているのだ。その変幻不可解な惨劇の大渦巻を作り出した真相の数重奏をこの手紙の中に記録してみたいと考えているのだ。
けっして口惜(くや)しいから書くのじゃない。こおうして正義を主張するものでもない。僕は、そうした事件の全部に対して、いうにいわれる良心的の責任を負うているのだから……。この事件のすばらしい旋回力に抵抗しえなかった僕自身の無力を、衷心から恥じ悲しんでいるのだから……。
さもなくとも戦時状態の大渦紋(だいかもん)の中では種々な間違いが起りやすいものだ。しかも、それは、いつでも例外なしに深刻を極めた、恐怖的な悲劇であると同時に、世にもばかばかしい喜劇にほかならないのだ。そうして次から次に忘れられて、闇(やみ)から闇へと葬られていきやすいのだから……。
のみならず僕は、君の知っているとおりの文学青年だ。今でもチットも変っていない……。過って美術学校(チヤカホイ)にはいつて、過って恋をして、過って退校されるとソレッキリの人間になってしまった。スッカリ世の中がイヤになったあげく、活動のピアノ弾きからペンキ職工にまで転落しているうちに兵隊に取られた。それから上等兵候補になって、肋膜(ろくまく)で落第すると間もなく出征して、現在、ハルビン駐箚の〇〇〇団司令部に所属している意気地(いくじ)のない一等卒だ。ただそれだけの人間だ。惜しがるほどの一生じゃない。恥ずかしがるほどの名前でもない。親も兄弟もないんだからね。
ただし……タッタ一人君だけは僕を惜しがってくれやしないかと思っている。僕を何かの芸術家にすべくあれだけの鞭撻(べんたつ)を惜しまなかった君だからね。
しかし僕は君の鞭撻に価しない人間だった。僕は一種の虚無主義者(なまけもの)だった。黙々としてコンナ運命に盲従しつつ落ち込んで行った。
だからただ君に対してだけは何となく心掛かりがしている。このまま黙って死んでいってはすまないような気がするからこの手紙を書くのだ。
この手紙を僕は、このウラジオにいる密輸入常習の中国人崔(さい)に託する。崔は来年氷が解けてからこの手紙を一番信用のある戎克舟(ジャンク)に託して上海(シャンハイ)で投函(とうかん)させる約束をしてくれた。だからこの手紙が君の手に届くのはたぶん夏頃になるだろう。
迷惑だろうが読んでくれたまえ。あとは紙屑籠(かみくずかご)に投げ込んでもいい。それでも僕は報いられすぎるだろう。


日本は現在(大正九年)欧州大戦の影響を受けてシベリアに出兵している。同時に北満守備という名目で〇個旅団の軍隊がハルビンに駐箚している。その中で歩兵第〇〇〇連隊第二中隊に属する上等兵一名を入れた七名の兵卒が、キタイスカヤに在る派遣軍司令部に当番卒として、去年(大正八年)の八月に派遣された。その中に僕はいたのだ。
司令部にあてられた家はキタイスカヤ大通りの東南端に近い、ヤムスカヤ街の角に立っている堂々たる赤煉瓦四階建の旧式建築で、以前はセントランニヤという一流の旅館だったという。在留邦人は略してセントランセントランと呼んでいるそうな。地下室が当番卒や雇人の部屋と倉庫。一階が調理室、食堂、玄関の広土間等。その上の二階が本部、経理部なぞいういろいろな事務室、三階が将校や下士の居室。その上の四階の全部がこの家の所有者オスロフというロシア人とその家族の部屋になっていた。
ところで最初から曝露(ばくろ)しておくが、このオスロフという家主と、その家族は、この事件の隠れた犠牲者だったのだ。僕の罪名をいやがうえにも重くすべく一家そろって犬死にしたという世にも哀れな人間たちだったのだ。だからここで少しばかり、その家族について印象さしてもらいたいのだ。やはりこの事件に大関係のある屋上庭園の光景と一緒に……。
オスロフは黒い鬚(ひげ)を顔いちめんに生やした六尺五、六寸もある巨漢であった。碧(あお)い無表情な眼をキョトンと見開いている風tきが、いかにも純粋のスラブらしかった。いつも茶色がかった狩猟服や、青いコールテンの旅行服を着込んで、堂々と司令部に出たりはいたりしていた。そうかと思うとバッタリ姿を見せなかったりしたので、最初のうちはどこかの御用商人かと思っていたが、どうしてどうして極東ロシアにおける屈指の陰謀政治家ということがそのうちにだんだんと首肯されてきた。
第一に驚かされたのは彼の居室になっている四階のりっぱさであった。たぶん、以前に一等の客室か貴賓室にあてていたものであったろう。大理石とマホガニーずくめの荘重典麗を極めたもので、閉め切ってある大舞踏室なぞを隙見(すきみ)してみると、ロシア一流の黄金ずくめの眼も眩(くら)むような装飾であった。
ハルビン市中の商人という商人は皆、彼にお辞儀をしていた。なかには、わざわざ店を飛び出して通りがかりの彼と握手しに来る者もいた。この辺一流の無頼漢や、馬賊の頭目と呼ばれている連中なぞも裏階段からコソコソ出入していた一方に、彼が銀月という料理屋で開く招宴には、日本軍の司令官新納(にいろ)中将閣下も出席しなければならなかったらしい。
彼は別に大した財産を持っていなかったが、金を作ることには妙に得ていたという。のみならず持って生れた度胸と雄弁で、日米露中の大立物を、片端から煙に巻いて隠然たる勢力を張りつつ、白軍のセミヨノフ、ホルワットの両将軍を左右の腕のように使って、シベリア王国の建設を計画していたものだそうな。自分の所有家屋を、軍隊経理と同価格の賄つきで、日本軍司令部に提供したのも、そうした仕事について日本軍と白軍の連絡を取るのに便利だからといって、進んで日本軍当局に要請したものであったという。
ところがこの頃になってまたすこし風向きが変ってきたという噂(うわさ)も伝わっているようであった。
白軍の軍資金が欠乏したために活躍が著しく遅鈍になった。ホルワット将軍は、病気と称して畑の向うの旧ハルビンの邸宅に寝ているらしく、彼が行っても容易に面会しない。同時にセミヨノフ将軍も以前のように彼の手許へ通信をよこさなくなった。それは日本当局が貪欲(どんよく)な両将軍を支持しなくなったのに原因しているということであったが、そのために立場がなくなった彼は目下躍起となって日本軍の司令部に食ってかかっているという。
「閣下よ。窓から首を出してハルビンの街を見られよ。ロシア人の性格はあのとおり曲線を好まないのだ」……といって……。
むろんこれは我々司令部の当番仲間だけが、勤務中に聞き集めた噂の総合だったからそのような噂はドンナ将来を予告しているかはもちろんのこと、はたして事実かどうかすら保証できないのであったが、しかし何にしてもハルビンを中心にしたオスロフの勢力が大したものであることは周知の事実であった。そのせいか司令部の中をチョコチョコと歩きまわる日本の将校や兵卒が、彼を見るたんびに仰向けになって敬礼する恰好(かっこう)がこの上もなく貧弱で、滑稽(こっけい)に見えた。
彼は以上陳(の)べたような偉大な勢力を象徴するりっぱな建物の中に、タッタ三人の家族を養っていた。まっ白髪(しらが)の母親と、瘠(や)えこけた鷲鼻(わしばな)の細君と、それから現在、僕がこの手紙を書いているすぐ横で湯沸器(サモワル)の番をしいしい編物をしているニーナと……。
ことわっておくがニーナはけっして別嬪(べっぴん)ではない。コルシカ人とジプシーの混血児だと自分でいっているが、そのせいか身体が普通よりズット小さい。濃いお化粧をすると十四、五ぐらいにしか見えない。それでいて青い瞳(ひとみ)と高い鼻の間が思い切って狭い細面で、おまけに顔いちめんのヒドイ雀斑(そばかす)だから素顔の時はどうかすると二十二、三に見える妖怪(ばけもの)だ。ほんとの年齢は十九だそうで、ダンスと、手芸と、酒が好きだというから彼女のいう血統は本物だろう。
性格はわからない。異人種の僕には全くわからないのだ。ばかばかしい話だが彼女が平生、何を考えているのか、彼女の人生観がドンナものなのか、全く見当がつかないのだ。ただぜひとも僕と一緒に死にたいというから承知しているだけのことだ。そうしてこの手紙を書いてしまうまで死ぬのを待ってくれというと簡単にうなずいただけで、すぐ落着いて編物を始めている女だ。だから僕にはわからないのだ。
死ぬ間ぎわまで平気で編物をしている女……。
すこし脱線したようだ。
ニーナは十四の年に落魄(らくはく)した両親に売り飛ばされて、ネルチンスクから上海へ連れて行かれるところであった。それを横奪(よこど)りしてハルビンへ連れて来た無頼漢の手から、また逃げ出したニーナは、キタイスカヤの雑踏の中に走り込むと、向うから来かかったオスロフの首ッ玉に飛びついて、
「お父さん……・」
とでたらめを絶叫したものだという。それから大笑いのうちにオスロフの養女になって、語学だの、計算だの、自動車の運転だのを教わる身分に出世したが、酒を飲ませると悪魔のような記憶力をあらわすので皆あきれている。そのなかでも自動車の運転はアンマリ上手(じょうずう)すぎて先生のオスロフが胆をつぶすくらい無鉄砲だったのでこの頃は禁じられていたという。むろん本人の話だから真実らしい。事実、酒を飲ませるとステキな才能と美しさを発揮する。雀斑までも消え薄れて気がつかなくなるのだから……。
また、脱線しかけた。
旅行がちなオスロフの留守(るす)中、司令部の上の四階には、そのお婆さんと細君とニーナの三人が、いるかいないかわからないぐらいヒッソリと暮らしていた。もっともそのなかでニーナだけは特別であった。彼女はいわゆる少女病の傾向に陥りやすい無邪気な司令部の将校や、下士連中に引張り凧(だこ)にされていたので、いつもスラブ式の垂髪(おさげ)を肩の左右に垂らして、コッソリとお酒を飲んでは、三階の居室から、二階の事務室の間を、木戸御免式の自由自在に飛びまわっていた。もっとも誰かに戒められていたらしく、二階から下へはめったに降りて行かなかったので、兵隊連中にはあまり評判がよくなかった。……「あれはタダの女じゃないぜ」……なぞと陰口をいう兵卒もいたが、しかし、彼女がドンナ意味のただの女じゃないかを知っている者は一人もいなかったようだ。
それから次は問題の屋上であるが、これはいちめん平べったい展望台になっていた。時々散歩に行ってみると紂王の四本の煙突を包み囲んだ四角い装飾煉瓦を中心にした黒タイル張りの平面に、いろいろな形の大小の植木鉢が、何百何十となく並んでいた。しかもそれがみな、サボテンの鉢ばかりでいちいち番号札が付いていた。これは当時ここいらで大流行をしていたもので、ニーナからせがまれるまにまにオスロフが買い集めてやったものだという。ニーナは勉強や毛糸細工に飽きると、すぐこの屋上に出て来て、小さなバケツに水を汲んで支那筆を湿しながら、そんなサボテンの一つ一つにたかっている満洲特有のホコリを払ってやる。それから大通りに面した木製の棚(たな)の上に毎日毎日並べ換えてやるのであった。
しかし僕がよくその展望台に行ったのはニーナを見るためではなかった。ニーナはここへ来た初めにタッタ一度、階段でスレ違いざまに「ズアラスウィッチ」と挨拶(あいさつ)をしたら、ジロリと僕の顔をにらんだきり返事もしないで逃げ降りて行ったから、ソレ以来、行き会っても知らぬ顔をすることにきめたぐらいだ。耳だけ発達している僕のロシア語が通じなかったせいじゃない。僕の興味を惹くべく、ニーナがあまりに小さかったのだ。のみならず僕がアレ以来一種の女嫌いになっていることは君も知っているとおりだからね……。
僕がよく展望台へ上ったのは景色(けしき)がいいからであった。平凡な形容だが、そこから眺(なが)めるとハルビンの全景が一つのパノラマになって見えた。邪魔になるのは向い家のカボトキン百貨店の時計台だけであった。
ハルビンはさずがに東洋のパリとか北満の東京とかいわれるだけはあった。
何丁という広い幅でグーッと一直線に引いてある薄茶色の道路からして、日本内地では絶対に見られない痛快な感じをあらわしていた。小さな葉を山のようにつけた楡(にれ)の大木が、その左右と中央を三筋も四筋も縦貫ひている間から、ロシア式の濃艶な花壇がチラチラしているところを見ると、それだけで異国情緒が胸一パイにコミ上げてくる。
あっち、こっちにコンモリとした公園が見える。その間を鉄道線路が何千マイルにわたる直線や曲線ではいまわって、眼の下の停車場を中心に結ばれ合ったり解け合ったりしている。その向うにお寺の尖塔(せんとう)がチラチラと光っている。そのまたはるか向うには洋々たるコーヒー色の松花江(スンガリー)が、どこから来てどこへ行くのかわからない海みたように横たわっている。三千百九十フィートとかいう大鉄橋も見える。そのまた向うには何千マイルかわからない高粱(コウリャン)と、豆と、玉蜀黍(とうもろこし)の平原が、グルリとした地球の曲線をありのままに露出している。大空と大地とが、あんなにまで広いものと誰が想像しえよう。司令部の地下室から出てあの景色を見回すと僕はボーッとなってしまうのであった。
……スバラシイ虚無の実感……。
その景色を眺めているうちに見当をつけておいた地域を、休みの時に散歩するのがまた、僕の楽しみの一つであった。
十万のロシア人は新市街に、三十万の中国人は傅家甸(フーチャンテン)に、五千足らずの日本人は埠頭区(ふとうく)といったふうに、それぞれ固まり合って住んでいる。そのそれぞれの生活を比較してみるのがまたなかなかの楽しみであった。キタイスカヤ界隈(かいわい)の豪華(ごうか)な淫蕩(いんとう)気分、傅家甸のアクドい殷賑(にぎやか)さ、ナハロフカの気味悪い、ダラケた醜怪さ……そんなものが大きな虚無の中に蠢(うごめ)くいろいろな虫の群れか何ぞのように見えた。
ところが、そんな所を丹念に見まわっているうちに、その副産物というわけではないが、市中にあるいろいろな銀行や両換店の名前、工場、商店、料理屋の大きなもの、劇場、娘子軍(ろうしぐん)の巣なぞいうものを僕はスッカリ憶え込んでしまったので、司令部のお使いというとすぐに「上村」と指名されるくらい、重宝がられるようになった。そのたんびにいよいよハルビン通になっていって、もらい集めたり買い集めたりした古雑誌の類(たぐい)が、整頓棚と同じ高さになっていた。……退屈な、話相手もない、兵卒の中の変り種である文学青年の僕にとっては、読書以外の何の慰安もなかったので……。
事実……屋上の展望と散歩を除いたハルビンの生活は、僕にとって退屈以外の何ものでもなかった。町のスケールが大きければ大きいだけ、印象がアクドければアクドいだけ、それだけハルビンの全体が無意味な空っぽなものに見えた。その中に一直線の道路と、申合せたようなモザイク式花壇を並べているロシア人のアタマの単調さ、退屈さ、それは我々日本人にとってとうてい想像できないくらい無意味な飽きっぽいものであった。その中で毎日毎日判で捺(お)したような当番の生活をする僕……眺望(ちょうぼう)と、散歩と、読書以外に楽しみのない無力は兵卒姿の僕自身を発見する時、僕はいつも僕自身を包んでいる無限の空間と、無窮の時間を発見しないわけにはいかなかった。宇宙は一つのスバラシク大きな欠伸(あくび)である。そうして僕はその中にチョッピリした欠伸をしに生れてきた人間である……という事実をシミジミと肯定しないわけにいかなかった。
ところが九月初旬の何日であったか。ちょうど月曜日だっから、僕たちが司令部にはいってから五週間目だったと思う。その不可抗的に大きな退屈を少しばかり破るに足る事件が持ち上った。むろんそれは最初のうち僕自身にだけソウ感じられたので、事実はトテモ大きい……シベリアから北満にかけての政局と戦局に、重大関係を及ぼすほどの事件の導火線だったことが後になってからうなずかれた。
それは経理室付の星黒という二等主計が公金十五万円をかっさらって、同じ司令部付の十梨という通訳と一緒に逃亡した事件であった。
そうした事実が発覚したのは月曜日の午前中であったが、取調べの結果判明したところによると、星黒主計が朝鮮銀行の支店から金を引き出したのは土曜日の午前中であった。それから何食わぬ顔で経理部へ来て、平常のとおり事務を執っていたのだから、行くえをくらましたのは土曜日の晩から日曜の朝にかけてのことらしかった。なお帳簿を調べて見ると星黒主計は、それまでに千五百円ばかりの官金を費消していたというのだから、たぶん、近いうちに実施の予定になっている軍経理部の会計検査を恐れて、毒皿方針をとる決心をしたものであったろう。……また、一緒に逃げた十梨通訳は七月の下旬に内地から来た者で、来る早々ホルワット将軍の手記を翻訳させられていたものだという。そのうちに星黒主計とも懇意になったらしく、よく一緒にどこかへ飲みに行く姿を見かけたものであるが、それが日曜の朝からフッツリ姿を見せなくなったのでテッキリ共犯とにらまれてしまったものである。……二人とも戦闘員ではないので軍人精神が薄弱である。おまけに旧式露人の豪華な生活や、在留邦人の放縦な交際に接する機会が多かった関係から、コンナ堕落した心理状態に陥ったものであろう……将校連中はいっていた。
しかし、こうした憤慨は将校連中よりも兵卒のほうがひどかった。この時の戦争の特徴として、どこをあてどもなく戦争しに来ているような、タヨリない、荒(すさ)んだ気持に兵隊たちは皆なっているところであった。そのくせ、相手はいつどこでドンナ無茶を始めるかわからないパルチザンや土匪(どひ)ときているのだから、何のことはない一種の人間狩みたようなモノスゴイ気持で毎日毎日ウズウズしている兵隊連中であった。そこへ思いがけないハッキリした売国奴同然の奴が、二人もそろって、味方の中から飛び出したのだからたまらない。上官だろうが何だろうがかまわない。見つけしだいノシちまえといった調子でトテモすばらしいセンセイションを巻き起こしたものであった。
むろん司令部は大狼狽(だいろうばい)であった。事件の発覚した朝のこと、僕たちがまだ何の事かわからないまま、眼の色を変えて出入りする特務機関所属の参謀や、憲兵や、銀行員らしいものの顔を茫然(ぼうぜん)と見まわしているうちに、当番係の上等兵が降りて来て、三階のまん中の一室に積み上られているおびただしい椅子を十個だけ残して、あとを全部四階の大舞踏室へ持って行けと命令を下した。そうしてそのアトに急設された捜索本部(仮りにそういっておく)に六人の憲兵がドカドカと詰めて来た。上席が中尉で、左右に曹長と伍長、そのほかに上等兵が三名で合計六名であったが、みな腕ッコキの連中という評判であった。


あの憲兵の黒い襟章というものはナカナカ考えたものだ……とその時に僕は思った。それだけの連中が揃(そろ)いの黒襟章でズラリと椅子にかかっているところを見ると、今にも犯人が捕まりそうな空恐ろしい気持がした。……むろん僕が犯人ではなかったのだが……。
その連中が詰めかけて来ると間もなく当番係の上等兵の命令で、戦友の一人が当番卒を拝命して行ったが、そのうちに午後になると、上等兵がいくらかフクレ気味になって僕を呼び出した。
「……オイ。上村、すまんが君代りに捜索本部へ行ってくれ。もっとハルビンの事情に明るい者をよこせって曹長に怒鳴りつけられたんだ。君がいなくなると司令部が不自由するんだが……」
僕は笑い笑い身仕度をした。不平どころか……一種の探偵劇でも見るような斬新な気持で、勢よく階段を駆け上ったものであった。
行ってみると捜索本部には、今いった六人のほかに司令部付の鬚達磨(ひげだるま)と綽名(あだな)された歩兵少佐と特務機関から派遣されたらしい色の生白い近眼鏡の中尉と、それから当の責任者らしい上席の一等主計が控えていた。ちょうどセントランニヤ内部の参考人調べがすんだところであった。
僕はその部屋の入口に近い当番用のテーブルと椅子とに納まって、並居るお歴々の諸氏がドンナ捜索をするかを一生懸命に注意していた。むろんそれは大きな退屈から絞り出された、つまらない一種の探偵趣味にすぎなかったがしかし、それでもこの部屋に集まって来る報告はできるだけ頭に入れておこう。まかり間違ったら、おれ一人で犯人を捕まえるのもおもしろかろう……ぐらいの野心はいささかながら持っていたことを白状する。とにかくいつも引っ込み思案の僕が、永い間の退屈病に悩まされていたせいであったろう。この時に限って、今までにないいきいきした興味の中に蘇生し始めていたのであった。
捜索本部のはもはや、午前中に八方に伸ばされていた。ハルビン市中はいうに及ばず、東は露中国境のポクラニーチナヤ、寧古塔(ニクク)、北は海倫(ハイリン)、西は斉々哈爾(チチハル)、満洲里(マンチュリー)、南は長春、奉天と厳重な警戒網が張られていて、今にも犯人が引っかかるか引っかかるかと鳴りを鎮めて待っている状態であった。
いったいこの星黒という主計は、名前のとおり色の浅黒いツンとした小柄な男で、イヤに神経質にもったいぶったやかまし屋であった。ふだん戦闘員から軽蔑(けいべつ)される傾向を持っている計手とか軍楽手とかにありがちなヒガミ根性が、この男にも執念深くコビリついていたものらしい。戦時にはあまりやかましくいわれない欠礼を、この男は発見しだいに怒鳴りつえたので人気が恐ろしく悪かった。
しかしこれに反して一緒に逃げた十梨通訳は格別、憎まれていなかった。ちょっと見たところ、何の特徴もないノッペリした色男だったので、兵卒連中から幾分、軽蔑されている傾きはあったが、それでも外国語学校出身のりっぱな履歴を持っていたそうである。人間が如才ない上に、ロシア語が読み書き共にステキに達者なので、着任早々から三階の連中に重宝がられていた事実と、これも如才ない一つであったろうか、軍隊内で禁物の赤い思想の話が、どうかした拍子にチョットでも出ると、たちまち顔色を変えてロシアの現状を罵倒(ばとう)し始めるのが、特徴といえば特徴であったという。もっとも「あいつはロシア語ばかりじゃないぜ。中国語もステキにできるらしいぞ」という兵隊もいたが、しかし本人は絶対に打消していたという。
その二人はいまや全軍の憎しみを引き受けつつ行くえをくらましているわけであったがしかし、捕(つか)まったという情報はなかなか来なかった。そうしてその日が暮れて、翌(あく)る日の火曜日になると、もう、そろそろと大陸特有の退屈が舞いもどってきた。入口の扉に新しく「〇〇〇〇軍政準備室」と貼紙(はりがみ)をした以外には何一つ変ったことのない捜索本部の片隅に腰をかけて、北満特有の黄色い窓あかりを眺めているうちに、ともすると腹の底から巨大な欠伸がセリ上ってくるのをジッと我慢しなくてはならなくなった。
もっとも、それは僕一人じゃなかったことを間もなく発見することができた。
僕は最初のうち憲兵諸君の行儀のいいのに感心していた。芝居の並び大名といった格で、一列一体に威儀を正したまま、いつまでもいつまでもかしこまっている。執務中のつもりであろう煙草(たばこ)一服吸う気色もない。時々思い出したように「電話はかからないか」とか「電信はこないか」とかいって一軒隣りの司令部に僕を聞きにやる。そうかと思うとまた、思い出したように地図を引っぱり出したり、一度投げ出した汽車の時間表を拾い上げて繰返し繰返し検査したりする。……この辺は汽車の時間表はないほうが正確なのに……と思ったがおそらくこれは退屈しのぎのつもりであったろう。
この連中が腕ッコキといわれている理由は、発見された犯人を勇敢に追跡して、引っ捕らえてタタキ上げて、処刑するまでの馬力がトテモ猛烈で、疾風迅雷式をきわめているからであった。ただそれだけであった。だからその犯行の経路(すじみち)を推理したり、犯人の遁路(にげみち)を判断したりするところのいわゆる、警察式の機能、もしくは探偵能力といったようなものは絶無なので、何でも嫌疑者と見れば片ッ端から引っ捕えて処刑していく。その中のどれかが真犯人(ほんもの9であればそれでよろしい……というところに黒襟のモノスゴサが認められているのであった。これは決して悪口ではない。戦地では内地の警察みたような丁寧親切な仕事ぶりでは間に合わないことを僕らは万々得ていたのだ。したがって軍政下における「静寂」とか「戦慄(せんりつ)」とかいうものは実に、こうした黒襟の権威によって裏書きされてるといってもよかったのだ。
彼ら黒襟の諸君は、だからこうして威儀を正しながら偶然の機会を待っているのであった。犯人が高飛びをするとなれば必ず鉄道線路を伝うに相違ない。それ以外の地域はまだ交通、生命の安全を保障されていないのだからその要所要所に網を張っておけばキット引っ掛るに相違ないという確信を持っているらしかった。しかもその要所要所に見張っている黒襟の諸君がやはりコンナふうに、その要所要所で一団となって、威儀を正しているであろう光景を想像すると何ともハヤ、たまらないアクビがコミ上げてくるのであった。
そいつを我慢しいしい向いの家のカポトキンの時計台が報ずる十一時の音を聞いた時にはもはや、トテモ我慢できない大きなアクビが一つ絶望的な勢でモリモリと爆発しかけてきた。ソイツを我慢しようとして俯向(うつむ)きながら両手を顔に当てようとすると、その時遅くかの時早く、その欠伸が真正面の中尉殿の顔に公々然と伝染してしまった。そこで待っていましたとばかり上席から末席にわたって一つ一つに欠伸玉の受け渡しが始まったが、しかし感心なことにそのややこしいアクビのリレーが片づいても笑う者なぞ、一人もいなかった。間もなく元のとおりのモノスゴイ、静粛な捜索本部に立帰ってしまったのであった。
僕は後悔した。僕を捜索本部の当番の刑に処した上等兵を怨んだ。汽車の通らない停車場の待合室よりもモット無意味だと思った。
しまいには自分自身が厳然たる憲兵に取り巻かれ、第三等式の無言の拷問を受けている犯人みたようなものに見えてきた。……これじゃ、とても辛抱しきれない。いよいよやりきれなくなったら「私が犯人です」といって立ち上ってやろうかしらん。そうしたら、いくらか退屈がしのげるかもしれない……なぞ途方もないことまでボンヤリと空想し始めていた。そのうちにヤット昼食の時間が来た。
僕は本部の連中に、弁当のライスカレーとお茶を配った。それから自分の食事をすまして地下室へ降りると、そこでまた、悲観させられた。当番連中がいっせいに僕の周囲に集まって来て、
「どうだ。捕まりそうか」
と口々に聞くのであった。そのまわりを料理人の中国人や、雇人頭のコサック軍曹、耳の遠(とう)い掃除(そうじ)人夫の朝鮮人といった連中が取り巻いて、青や、茶色や、黒の眼に、あらん限りの興味をキラキラと輝かしているのであった。
僕は手を振って逃げるように自分の食卓についた。
「……だめだよ。捕まったのはアクビだけだよ」
といいたいのを我慢しいしい皮のままのジャガイモを頰張った。
食事をすました僕は、地獄に帰る思いで地下室を出た。イヤに長い午後の時間を考えながら、屠所(としょ)の羊よりもモット情ない恰好で、三つの階段をエンヤラヤット登ったが、早くも出かかった欠伸をかみ殺しながら入口の扉を押すと同時にビックリした。出会い頭に待ち構えていたらしい、曹長のキンキン声が機関銃みたいに飛びついてきたので……。
「オイ。当番。これを第二公園裏の銀月という料理屋に持って行け。知っとるだろう。経理部の取調べがすんだから返すのだ。銀月の会計掛の阪見という男に返すんだ。阪見がおらなければ銀月の女将(おかみ)に渡せ、それ以外の人間に渡すことはならんぞ。ええか」
僕は曹長の手から四角い平べったい、青い風呂敷包みを受け取った。
「ハッ。復誦します。上村当番はこの帳簿を銀月の……」
「ばか……誰が帳簿というたか」
曹長は千里眼に出会ったように眼を剝(む)いた。
「その包みの内容は極秘密になっとるんだぞ」
僕は情なくなった。これが帳簿だとわからないくらいなら一等卒を辞職してもいいと思った。
「ハッ。上村はこの四角い箱を銀月に持って行きます。そのこ会計主任か、女将に渡します。それ以外の人間に渡さなければならない場合は持って帰ります」
「よし……女将の名前は知っとるじゃろう」
「ハイ。知りません」
「富永トミというのだ。ええか」
曹長は重大そのもののような顔をした。
僕は巻脚絆(まききゃはん)と帯剣を巻きつけて外へ出た。
何を隠そうトテモ嬉しかった。死よりも辛い退屈地獄から思いがけなく救い出された愉快さで一パイになっていた。あいすまぬ話だが司令部から遠ざかれば遠ざかるほど救われたような気持になっていった。
僕は悪いことと知りつつわざと遠まわりをした。キタイスカヤの雑踏を避けて、第二公園の方向から外れた広い通りへ広い通りへ出て行った。
道の両側に並んだ楡(にれ)や白楊(はこやなぎ)の上にはモウ内地の晩秋じみた光が横溢(おういつ)していた。歩道の一部分に生垣をめぐらした広い公園だの、白楊の青白い幹が幾十と並んだ奥に、巨大なお菓子か何ぞのように毒々しい色の草花を盛り上げた私人の庭園だの、サボテン、棕櫚(しゅろ)、蝦夷菊(えぞきく)、ダリヤなぞいう植物をコンモリと大らかに組合わせた花壇だのが、軒並に続き繋(つな)がっているのを、僕は今更のようにもの珍しくのぞいていった。その奥に見える病院みたような窓の中から、おもしろそうな手風琴の音が洩れてくるハルビンの午後の長閑(のどか)さ。なつかしさ……。
青い風呂敷包みを抱えた僕は口笛を吹きながらユックリユックリと歩いて行った。そうして茶鼠色(ちゃねずみいろ)の薄い土煙をあげる歩道をみつめながらいつの間にか眼の前の退屈事件のことを考え続けていた。
……星黒と十梨は今頃どこにいるだろう。
……二人ははたして共犯者だろうか。
仮におれが犯人だとすればドンナづうに逃げるだろう。捜索本部の能力を最初から看破(みやぶ)っているとすればさほどに怖がる必要はないかもしれないが、しかし逃げる身になってみたらそうタカをくくるわけにもいかないだろう。否(いや)でも応でも、あらん限りの知恵を絞らずにはいられないだろう。捜索本部ははたしてソンナところまで犯人の心理作用を警戒しているだろうか……。
……汽車で逃げるのは一番捕まりやすい道を行くようなもんだ。ハルビン以西の安全区域だけを上下している、松花江通いの汽船に乗っても同じことだ。目下のところ日本官憲の手が届くのは、そうした交通機関の動いている範囲内に限られているのだから。そんなものを利用して逃げるのは官憲の手の中をはい回るのと同じことになる。それを知らない二人ではあるまい。
……ところでそれ以外の通路を伝ってハルビンの外まわりの茫々(ぼうぼう)たる大平原の起伏に紛(まぎ)れ込んだらばどうだろう。人間も虫も区別がつかなくなるのだから、ただ日本の官憲に捕まらないだけが目的ならこの方法が一番であろう。
……しかしそこには日本の官憲よりもモット恐ろしい者が知らん顔をして待ち構えている虞(おそ)れがある。その第一はシベリアから北満へかけた平原旅行につきものの飢餓行進曲だ。難破船の漂流譚(ひょうりゅうたん)を自分の足で実験しなければならないばかりでなく、日本人と見たら骨までタタキつぶす赤の村がどこにに隠れているかわからないのだ。そんな村に片足でも踏み込んだら最後、〇〇支隊でも全滅するのだからかなわない。
……その次はお膝元(ひざもと)のハルビン市中に潜り込んでいて、ホトボリの醒(さ)めた頃、変装の高跳びを試みる手段がある。ナハロフカだの傅家甸(フーチャテン)だのにはそんな潜入孔がイクラでもあるだろう。ナハロフカは横着部落という意味だそうだ。だからそこいらにウロついている縮緬(ちりめん)の上衣(うわぎ)を着た唇のまっ赤なロシア女でも、赤いスウェータを着た賭博宿の婆さんでも、十円札の二、三枚ぐらい見せたら一週間や十日ぐらいはオンの字で奥の室を貸してくれるであろう……。イヤイヤ、そんな剣呑(けんのん)な所へ飛び込まなくとも傅家甸の平康里(娼婦街(しょうふやど))に紛れ込んで、釣鐘形に紅(あか)い紙の房を下げた看板の下を、煉瓦造りの中へ一歩踏み込めばモウこちらの物と思っていい。支那人が珍重する十二、三の子供みたような女を買い続けているうちに、絶対安全の遁道(にげみち)が、自然とわかってくるものだ……という話も聞いている。
……この三つしか目下のところ、抜け路はないようだ。一方に星黒が想像どおり露語通訳を連れているものとすれば、その逃亡計画は遠大なものと見なければならないが、サテどの方法を取っているのであろう。
……捜索本部の連中は夢にもそんなことに気づいていないようであるが……。
そんなことを考え考え司令部からシコタマ溜めて来た欠伸を放散しいしい歩いているうちに僕は、小脇に抱えている帳簿の風呂敷包みが落ちそうになったので、チョット立ち止まって抱え直した。……と……同時に僕はまた、心機一転してある重大な想像を頭の中に旋回させ始めたのであった。
のちから考えると僕がんこの時に心機一転した結果が……モット端的にいうと、僕はこの時に青の風呂敷包みを抱え直した一刹那(いちせつな)が、今日のような重大な政局の変化を東亜の政局にもたらした一刹那だったともえるように思う。……といっても何も別に気取るわけじゃあい。僕がソンナに偉かったという説明にはもうとうならないが、いわゆる、魔がさしたというものであろうか。ハルビン市中を彷徨(ほうこう)している巨大な退屈魔の一匹が突然に一種の尖鋭(せんえい)な探偵趣味に化けて僕のイガ栗頭に取りついた結果、今日のようなモノスゴイ運命に我とわが身を陥れることになったとも、考えれば考えられるであろう。
僕は帳簿の包みを抱え直したトタンにある一つの大きなヒントを受けたのであった。もしや星黒主計は銀月に隠れているのではないかしらん……と……。
これは単なる僕の想像程度のものにすぎなかったが、しかし、それでも全然理由のない考えではなかった。今持って行く帳簿は、星黒主計が費消した官金の行くえを調べ上げる参考にしただけの物であることはわかりきっているが、しかし今までチットも話を聞かなかった銀月が、犯人の秘密の遊び場所だったとすると、そこを犯人の有力な隠れ場所の一つとして数え上げないわけにはいかないであろう。これが憲兵だから気づかないでいるようなものの、内地の警察か何かだったら、ドンナ鈍感な刑事でも、すぐに疑いをかけてみるところであろう。
銀月はハルビンきっても一流料理店だという。同時に北満きってのみごとな日本建築の室(へや)があって「モスコーの洞穴(ほらあな)」を真似(まね)た秘密の娯楽室が幾室でも在るという話だが……待てよ。
コンナふうに頼まれもしない事件の真相をタッタ一人で……おそらく世界中でタッタ一人でしんけんに考えめぐらしながら、覚えず知らず探偵趣味を緊張させているうちに、どこをどう曲って来たものか銀月の三層楼閣がモウ向うに見えてきた。何という式か知らないが、スレート屋根のすてきに大きい、イヤに縦長い窓をやたらに並べたカーキ色の化粧煉瓦張りの洋館に、不思議によく似合った日本風の軒灯。二階三階の窓ガラスに垂れこめた水色のカーテン……そんなものが気のせいか妙に秘密臭くシインと静まり返って、正午下(ひるさが)りの秋日をマトモに吸い込んでいた。
僕はチョット躊躇(ちゅうちょ)しながら往来に面した魏に炉のダイヤグラスの扉を押し開いた。わざと玄関へ回るのを避けて勝手口に来たのだ。……やはり僕の探偵趣味がそうさせたのかもしれないが……。三坪ばかりの白タイル張りの土間の上り口から右に回るとすぐに玄関へ出るらしい。一段高くズーッと奥の方へ寄木細工(よりきざいく)の廊下が抜け通って右と左に扉が並んでいる。ちょうど正午過ぎの掃除が始まった時分と見えて、その扉が一つ一つ開け放されていた。
いま一度、躊躇しながら上り口の呼鈴を押すお、奥の方からバタバタと足音がして十六、七の小娘が出て来た。その小娘がまだ立ち止まらないうちに僕が敬礼しながら、
「阪見さんは居られませんか。司令部から来ましたが……」
と怒鳴ると、ちょうど待っていたかのようにすぐ横の応接間らしい扉が開いて、奥様風の丸髷(まるまげ)に結った女が顔を出した。
与謝野晶子(よさのあきこ)と伊藤燁子(てるこ)の印象をモット魅惑的に取り合せた眉目形(みめかたち)とでも形容しようか。年増(としま)盛りの大きく切れ上った眼と、白く透った鼻筋と、小さな薄い唇が水々した丸髷とうつり合って、あらゆる自由自在な表情を約束しているらしかった。その黒い黒いうるんだ瞳と、牛乳色のこまかい肌が何ともいえない病的な、底知れぬ吸引力を持っているようにも感じられた。それが僕の顔をチラリと見ると、すぐにイソイソと出て来て廊下の端にしなやかな三指を突いた。
「……あの……阪見はちょっと出かけておりますが……わたしはアノ……富永でございますが……」
「あ。そうですか。富永トミさんですね」
「ハイ……」といううちに女将(おかみ)はいかにも心安そうに僕の前の板張りへペタリと座った。一種のスキ透った、なまめかしい匂(にお)いをムーッと放散させながら大きな瞳をゆるやかにパチパチさせた。
僕は固くなった。
「司令部から来ました。……昨日お借りした……帳簿をお返し……しに来ました」
と一句一句石ころみたいな口調を並べた。
「まあ。御苦労様。いつでもよござんしたのに……すみません。たしかに……お受取りを差し上げましょうか」
「どうぞ。……しかし帳簿と書かないで下さい」
「かしこまりました」
といううちに女将は何かしらニッコリしながら風呂敷を解いた。中からは封印した新聞紙包みが出てきた。
女将の笑顔(えがお)がいっそう、深くなった。
「……では……あの新聞包み一つと書いておきましょうね」
「ハイ。結構です」
僕はヤット冷静になった。コンナ所でドギマギしていた自分のばかさ加減を自覚すると同時に、最初から僕を呑んでかかっているらしい女将の態度に軽い反感をさえ感じた。
「かしこまりました……ホホ……」
と女将は笑い笑い立ち上ったが、そのついでに僕の腕章をチラリと見るとまた、立ち止まった。
「……あの……ちょっとお上りになりませんか。只今お受取りを、こしらえさせますから……」
そういう女将の言葉が終るか終らないうちに、小娘が飛び降りて来て、僕の靴にカバーを押しつけた。
「……や、これは……」
とばかり僕はまたも躊躇してドギマギした。むろん平常の僕だったらここで九十九パーセントまで御免こうむるところであったろう。上り口に腰をかけて待っていても用は足りるばかりでなく、ただの当番卒でしかない僕が、公用のお使いに来て上り込んだりするのは、非常に不自然な行動に違いなかったのだから……。
ところがこの時ばっかりはソンナ遠慮気分や、不自然な感じがチットもしなかったから妙であった。たぶんそれは何か物いいたげな女将の素振りが、最前から働きかけていた僕の、銀月そのものに対する探偵趣味をそそったせいであろう。そのうちに一種の勇気を奮い起した僕は、案内されるままに黙って左右を見まわしながらタッタ今女将が出て来た応接間にはいった。
それは実にりっぱな部屋であった。何もかもがまだ一度も見たことのない風変りな、凝(こ)った物であったばかりでなく、ヒイヤリするほど薄暗かったので、最初のうちは何が何やら見当がつかなかったが、よく見るとそれは印度風と支那風を折衷した、夏冬兼用の応接間であったように思う。低い緞子(どんす)の椅子に座ると弾力に乗せられて思わず背後の方へ引っくり返りそうになった。トタン頭の上のバンカーが香水を含んだ風をソヨソヨと煽(あお)り出したので僕は思わず赤面させられた。
するとまた、入口の扉が音もなく開いたから、モウ受取りができたのかと思って腰を浮かしかけるとあにはからんや、大きな銀盆の上にいろいろな抓(つま)み肴(ざかな)と、果物(くだもの)と、ビールを載せたものを、白い帽子に白い覆面の中国人が二の腕も露(あら)わに抱え込んで来たのであった。
これにはイヨイヨ驚いた。いくらハルビン一流の銀月でもアンマリ手回しがよすぎる。いわんや普通の兵卒がお使いに来たのに対してこのもてなしは少々大げさすぎる……と内心疑わぬでもなかったが、そんな考えをめぐらす隙(すき)もなくはいって来た女将は、螺鈿(らでん)の丸テーブルの向うにイソイソと腰をかけた。水蒸気に曇ったビールのコップをすすめながら極めて自然に話しかけた。
「……どうもお待ち遠さま。只今阪見を呼んでおりますから……お一ついかが……」
「すみません」
「どういたしまして、お国のために遠い所からお出でになってねえ。失礼ですけれど、お国はやはり〇〇の方で……」
「あっ。どうしてわかります」
「ホホ。お言葉の調子でわかりますわ。いつ頃から司令部にお出でになりまして……」
「八月からです」
「御苦労さまですわねえ。これからまたズットハルビンにいらっしゃるんですってね」
「ハア……どうして御存じですか」
「ホホホホホホ……」
女将は生娘のように顔を染めて笑った。
僕はその笑い声の前で身体(からだ)が縮まるような気がした。こんなふうに自由自在に顔を染めうる女が、いかに恐ろしい存在であるかを、僕は知りすぎるくらい知っていた。のみならずこの女将の言葉がサッキから非常なスピードで、うち解けた合の子語に変化していくに連れて、何かしら僕に重大な事を尋ねたがっているらしい気はいを感じていたが、はたして……はたしてと気がつくと、油断なく腹構えをしながら冷たいビールをグッと飲んだ。
「ホホホホ。そりゃあ存じておりますわ。商売のほうと関係がございますからね。今、日本軍の方が引き上げて行かれたら、この店はモウとても……ねえ……そうでしょう……」
僕は深くうなずいた。なるほどと気がついたのでまたも赤面した。
「……でもねえ。ロシア人仲間にいわせると、日本軍は来年の春になったら立ち退くにきまっているって……そういうのですよ」
「ロシア人ってオスロフがですか」
今度は女将のほうが驚いたらしい。またも、ちょっと顔を赤らめながら衣紋(えもん)をつくろった。
「ええ。そうなんです。公然の秘密だって……そういっておりますけれどね……」
「そんなばかな事はないでしょう。いまさら日本軍が引き上げるなんて……」
「……ねえ……そうでしょう。兵営の設計もチャントできているし、飛行機の着陸場も松花江の近くのどこかに買ってあるっていうお話でしょう」
「それは誰が話したのですか」
「ホホホホホ。でもほんとうでしょう」
「ええ。僕もその図面っていうのを曹長に見せてもらったんですが……もしや星黒さんが話したんじゃないでしょうか……ここで……」
この質問は僕としてはあまりに不謹慎であった。僕の探偵的興味がいかに高潮していたとはいえ、まだ女将が知っていないかもしれない……と同時に知っているとすればなおさら危険な十五万円事件の急所を、曝露したも同様な質問をここで発したのは、あまりに無鉄砲であった。……とすぐに気がついたがモウ遅かった。
……女将は僕の言葉が終らぬうちにサッと顔色を変えた。眼をマン丸にして僕の顔を凝視したが、間もなく大きな瞬(またた)きを二つ三つしたかと思うと、みるみるうつむきがちになって、左右の耳朶(みみたぶ)をポッと染めた。
「ええ。そうなんです。ですけどこの事ばかりは後生ですから内密にしといて下さいましね。ドンナお礼でもいたしますから……星黒さんばかりじゃありません……わたしを……可哀そうと思し召して……」
女将は顔を上げえないまま螺鈿のテーブルの上に石竹色の指を並べた。前髪がテーブルの平面にクッつくほどお辞儀をしたが、その神妙らしい婀娜婀娜(あだあだ)しい技巧にはまたも舌を巻いて感心させられた。
しかし幾分、ビールが回っていたせいでもあったろう。愚かにも僕は女将のこうしたデリケートな技巧を、さほど重大に考えなかった。後から思い合わせるとこの時に女将は、どこかに隠してあった呼鈴のボタンを押したに違いないのであったが、それさえもこの時には気づかなかった。ただ相手に事件の内容を感づかせないまま図星?を指しえたもの……とばかり考えていたので、多少の誇りに満たされながら軽く頭を下げたように思う。
「……ハハハ……心配しなくともいいですよ。僕らの眼にはいるくらいのことなら秘密でも何でもないにきまっていますからね。しかし星黒さんはショッチュウこちらへ来ましたか」
「ええ。ほんの時々ですけど……」
「十梨君と一緒にですか」
「…………」
女将は返事をしなかった。ちょうどその時に最前の小娘が扉からのぞいたので、女将は何かしらうなずきながら立ち上った。
「……・あの……ちょっと失礼を……」
といううちにバタバタと逃げるような足音が、重たい扉で遮られてしまった。
僕はホンノリとした頰を両手で押えた。いまさらのようにフワフワする椅子の中に反りかえってノウノウと伸びを一つした。久しぶりで飲んだせいかビールが恐ろしく利いてしまって、何も考えることができなくなった。モウこの上に女将から事件の真相を探り出す方法はないものかと焦りながらも、首のつけ根を通る動脈の音がゾッキゾッキと鳴るのを聞いているばかりであった。あんまり酔ったのでもしや麻酔をかけられたんじゃないか……なぞとばかばかしいことを考えているうちにいつの間にはホントウに眠り込んでしまったらしい。
扉の開いた音で目を醒ますと、女将がお盆の上に紙布を載せながらニコニコしてはいって来た。
「どうもお待たせしまして……阪見が先から先に回っていたものですから……どうぞ司令部のほうによろしく……」
僕はあわてて眼をコスリながら跳ね起きた。
「ヤ……どうも……」
と頭を下げながら腕時計を見ると三時半近くになっている。先刻から二時間余りも睡っていたわけだ。
「ホホホホホ御迷惑でしたわねえ。司令部へお電話しておきましょうか。阪見がいないので、お引き止めしたわけを……」
「ハア。どうか……イヤ。司令部から電話が掛ったら、そういっといて下さい。それでいいです……」
といううちに僕は狼狽して帯皮を締め直した。
「……失礼ですけど……これはお小遣いに……」
といって女将が差し出す紙包みを極力押し除けながら靴カバーをとるなり逃げるように表へ飛び出した。
……イヤ大失敗大失敗。捜索本部へ帰ったら曹長に大眼玉を食うかもしれないぞ。酒と女に心許すな……か。イヤ大失敗大失敗……。
微苦笑しいしいビールの酔いを醒ますべく帽子を脱いでは汗をふきふきした。
ところがこの時に演じていた僕の失敗はソンナ浅はかなものではなかった。銀月の応接間でウッカリ洩らした僕の一言が、それからタワイもなく居眠りしている間に驚くべき事件を誘発して、東亜の政局の中心にグングンと展開していた……それを夢にも思い知らないまま西日にさゆらぐ楡並木の下をセッセと司令部の方向に急いでいるのであった。
僕はセントランの階段を大急ぎで二階へ駆け上った。いま一度帽子を冠り直しながら、捜索本部の扉をノックしてみたが誰も返事をしない。
僕はチョット変に思った。
思い切って扉を開いてみると誰もいない。……オヤ……と思って司令部に引っ返してみるtここにはチャント鍵(かぎ)がかかっている。鍵穴へ耳を当ててみたがシイーンとしていて咳払(せきばら)い一つ聞えない。また……オヤと思わせられた。平生より一時間以上早く引けている。
三階へ駆け上ってみると、将校以下、下士官の部屋まで一つ残らずガラ空きになっていた……。
僕はその時に何かしら胸騒ぎがした。星黒主計が捕まったにしては少し様子が変だが……もしかするとそれ以上の大事件ではないかと気がついたので、そのまま一階へ駆け降りて、玄関の入口に立っている〇〇連隊の歩哨(ほしょう)に様子を問い訊(ただ)してみると、歩哨も何かしら不安を感じているらしく、妙な顔をしながら眼をパチパチさせた。
「……イヤ。おれは何も知らない。しかし司令部の様子は、すこしおかしいようだ。……何でもおれの前の前の一時の歩哨が立っているうちにこの箱(歩哨の背後二、三歩の街路に面した壁に取り付けてあるセントラン専用の郵便受箱)の中から当番係の上等兵が取り出した手紙の中一通、妙なのが混っていた。赤いロシア活字で裏書した白い、大きな西洋封筒で、郵便切手が一枚も貼ってないのに郵税不足にもなっていないので上等兵は歩哨に見せて『何だろう』……と話し合った。たぶんゾロゾロ通っている毛唐の中の一人が、歩哨の気づかないうちに投げ込んで行ったものだったろう。
……ところで上等兵は洋文字に苦手だったらしい。階段の上を通りかかった雇人頭のコサック軍曹を、歩哨のところへ呼び下して読んでもらうと『日本軍司令部御中』とだけ書いて発信人の名前が書いてないことがわかった。するとまたちょうどそこへ、どこからか帰って来た憲兵中尉が、二人の背後から『何だ』といってのぞき込んだので二人はあわてて敬礼したついでに、その封筒を見せたものだそうな。
……何気なく受け取った憲兵中尉はスラスラと上書を読みながら、『フン。また何かの広告だろう』といいいい無造作に封を切ったそうだ。ところが、その中にはいっている青いロシア文字の奥の方をチラリと見ると中尉の顔色が少々変テコになってきた。あわててその手紙を握りつぶしたまま、黙って二階に駆け上ってしまったそうだが、それから急伝令が二、三人どこかへ飛んだと思うと、上等兵を残した当番卒の全部が召集された。そうしてその当番卒と一緒に、何かしら書類の包みらしいのを手に手に持った司令部の連中が、愉快そうに笑っている旅団副官を先に立てながら出て行ったと……いう話だが詳しい事情は知らない。みんな『何だろう何だろう』と不思議がってはいるが、いまだにその手紙の正体はわからずにいる。しかし、そのうちに当番連中が帰って来たらアラカタ様子がわかるだろう。
……そのほかに変ったことは一つも聞かない。……ウン……それからチョッとしたことだけれども、その後で立った二時の歩哨がおれと交代するジキ前のことだったという。停車場の方からこちらへ曲り込んで来た一台のりっぱなタクシーが、向うの辻(キタイスカヤとヤムスカヤの交合点)のまん中で故障を起してしまった。猛烈なプロペラみたいな爆音と一緒に、まっ白な煙を吹き出してヘタバッたので、通りがかりの人が見な立ち止まって見物した。するとその中から旅行服(狩猟服の見誤り?)に黒のハンチングを冠った背の高い紳士が一人、片手に新聞を持って出て来たが、それと一緒に見物人の中で帽子を脱ぐ者がチラホラいたので、変に思ってよく見ると、それは久しく姿を見せなかったオスロフだった。……オスロフはニコニコ顔で答礼しながら運転手に金をやると、自分で鞄(かばん)をさげて、何か話しかけようとする連中を、手を振って追い退け追い退けサッサとセントランへはいって来た。……するとまた、そいつを四階の窓から見ていたらしい、まっ白にお化粧をした嬶(かかあ)と娘が出迎えて、歩哨の前で飛びついたりかじりついたり、長い長いキッスをしたりしながら引っ込んで行ったので、かなりアテられたという話だ。しかし往来に立っていた連中は、それを笑いもせずにジイッと心配そうな顔をして見送っていたので歩哨な妙な気がしたというが、オスロフはソレキリ出て来ないようだ……捜索本部の連中も最前から一人も降りて来ないのだから、みんないると思っていたが、どこへ行ったんだろう。
……当番の上等兵が、もちっと前に司令部付の少尉殿から呼ばれていたそうだが、何か知っているかもしれない。聞いてみたまえ、君も宿なしになっちゃ困るだろう。ハハハ……しかし歩哨の守則(警戒上の注意事項)は平生のとおりだから大した事件じゃないかもしれないよ」
……と答えながらモウ一度眼をパチパチさせるばかりであった。だから僕もしかたなしに要領を得ないまま眼をパチパチさせた。そうして今さっきはいりがけに歩哨に見せるのを忘れていた「公用外出証」と出して見せた……。
……僕はここでもウッカリしていたのだ。
僕がもしこの時に、いま少し注意深くそこいらを見まわしたら、僕の背後の階段に陰に、この家の雇人たちの不安そうな眼が黒や、青や、茶色をとりまぜて、憂鬱(ゆううつ)に光っているのを発見したであろう。……表の往来にひしめくキタイスカヤ特有の夕暮の人出が妙に減少して向いの家のカボトキン百貨店の黄金色(こがねいろ)の大扉が、今日に限ってピッタリと閉まっているのに気がついたであろう……更にモット以前に帰って、僕が銀月を出た瞬間から、もう少し注意深く往来を見まわして来たら、このキタイスカヤを中心とする大通りの辻々に、平服を着た、または労働者や支那人に変装した日本の軍人が三々五々と配置されていて、その連中の一人が片手を挙げると同時に、辻辻が機関銃で封鎖されるという、オキマリの非常警戒の準備ができていることを看破したであろう。……同時に司令部が立ち退いたのは万一の場合を警戒したものであることを察しえたであろう。……そして司令部付の当番卒の中でタッタ一人その事情を知って居残っている上等兵が、わざと寝台の上に引っくり返って眠ったふりをしているのに気づいたであろう。
しかし遅刻のほうにばかり気を取られていた僕は、そんな重大な形勢をミジンも感づかなかった。それよりも捜索本部が留守になったおかげで、予期していた曹長の大眼玉とキンキン声にぶつからなかったのをもっけの幸にして、帯剣を地下室に解き棄てると、何食わぬ顔で、空っぽの捜索本部に帰って来たのは我ながらおぞましい限りであった。
僕はそれから捜索本部の机の上をグルグルと見てまわった。拳銃と帯剣と帽子がなくなっている巨大な帽子掛を見上げながら、取調べに関係した書類が、どこかにありはしないかと探しまわったが、そんな物はどこに片づけられたものか影も形もなかった。ただ市内で売っている、いい加減な案内図だの、洋食屋の受取りだの、二、三枚の新聞紙が散らばっているきりであった。
僕はガッカリして入口の横の机に帰った。そのうちに連中が帰って来たら事情が判明するだろうと諦(あきら)めをつけると、机の上に頰杖(ほおづえ)を突いたまま天下泰平の大欠伸(おおあくび)を一つした。ビールの酔いが醒めかけたせいであったろう。女将の媚(なま)めかしい眼つきだの、薄い唇だの、日本風の襟化粧だの、その上に乗っかっている丸髷の恰好だのを考えているうちにまたもグウグウと机の上に寝込んでしまった。


捜索本部はトウトウ日暮まで帰って来なかった。だから僕も眼を醒ますとすぐにキチンと掃除をして室内を片づけてしまった。それから地下室に帰って、シャツ一枚のままタッタ一人で夕食をすましたが、サテ外出しようか……どうしようかと思い思い向うの隅を見ると、僕の外出許可証を預かっている上等兵が、昼間の弾薬盒(だんやくごう)を解くのも忘れて寝台の上に横向きになっている。スウスウと寝息を立てている気はいである。ほかの当番連中もまだ帰って来ないらしく銃架がガラ空きになっている。しかたがないからシャツ一枚の上に帽子を冠ってスリッパばきのまま裏口の鉄梯子(てつばしご)伝いに迂回して、新しい棕櫚(しゅろ)のマットを踏み踏み、五階の屋上庭園に上って行った。この迂回は規則違反の服装を三階の上官連中に見つからない用心であった。サッキの歩哨の話を一寝入りした間にスッカリ忘れてしまっていた僕は、習慣的に三階の連中が五人や十人はいるものと思い込んでいたのだから……。
屋上に来てみると黒タイルを張り詰めた平面の所々に新しく水をこぼした痕跡がある。その片端に、ぬれたままの如露(じょうろとバケツが置きっ放しにしてあるところを見ると、ニーナが水をやりかけたままどこかへ行ったものであろう。往来に面した木製の棚の上に手入れをすましたらしい二、三十の鉢が、中途切れしたまま三段に並んでいる。この鉢の並び方が同じになっていたことは今までに一度もないので、大きいのや小さいのが毎日のように、取換え引換え置き直されていることを僕はズッと前から気づいていた。しかもそれが向いの家の百貨店の時計台以外に相手のない、高い五階の屋上だから、考えてみるとずいぶん御苦労千万な、無意味(ナンセンス)な趣味ではあった。
……僕は実をいうと、この時この屋上にサボテンを見に来たのではなかった。例によって、ハルビンを取り囲む大平原の眺望を見回しながら深呼吸でもしてやろう……ついでに銀月の方向を眺めて、十五万円事件の解決法でも考えてやろうか……といったような、至極ノンビリした気持に誘われて上って来たのであったが、しかしこの時の僕の頭は最前のビール酔醒めと、思いがけなくありついた十分な午睡(ひるね)のおかげで、いつもよりズッと澄み切っていたのであろう。最初は何の気なしに見ていたこのサボテンの大行列が、いつの間にか世にも不思議な行列に見えてきたのであった。
僕は念のために、サボテンの棚の前を、往来に向かったタイルの端まで歩いて来た。その縁端にある、古風な鉄柵につかまって、できr限り頭を低くしてみたが、このサボテンの棚を見うる場所は、どう見まわしても一階低い向いの家のカボトキンの時計台しかなかった。そんな位置に棚を置いた理由が、どうしてもわからないのであった。
僕はだんだんしんけんになってきた。今日が今日までこんな不思議な事実にドウして気がつかなかったんだろうと思い始めた。
僕は何でもカンでもこの理由を研究してみたくなった。これも僕のいわゆる「退屈魔」がさせた気まぐれに相違なかったが、どうせ夜は閑散(ひま)なんだからこの薄明りを利用し一つ研究してやれ……という気になってタイルの中央に並んでいる鉢を四百五十幾個かまで数え上げた。それからその鉢の一つ一つに立ててある白塗りの番号札を一から二、二から三と順々に拾い探しながら数え上げてみるとまた、奇妙な事実を発見した。百以下の番号が二、三十欠けている上に同じ番号の札がいくつも並んでいる。二百四十二が四つ、三百八十五が三つというふうに……。しかもそれが、同一種類のサボテンに立てたものでないことは一目瞭然なのだ。
何でもない頭で見たらコンナ事実は、この札を立てたニーナの気まぐれとしか考えられなかったであろう。また学者か何かの頭で考えたら、こうした現象は、ニーナが先天的に数字に対する観念を持たない、一種の痴呆患者か何かと思えたかもしれないが、しかしこの時の僕の頭にはドウシテドウシテ……身体じゅうがシインとなるほどの大発見と思えたのであった。
……すぐに下から紙と鉛筆とを取って来て、この番号の欠けたところと重複したところとを順序よく書き並べてみようかしらん……ついでに棚の上の行列についている番号札をその順序に書き並べて、それが何かの暗号通信になっているかどうかを突き止めてやろうか……それとも向い家の時計台からこの暗号を読み取っているであろう何者かの正体を探り出すのが先決問題か……
……なぞといろいろに考え直しながら、暗くなってゆく屋上をソロソロ行ったり来たりしていた。はるかに西北、松花江尾の対岸から、大鉄橋を覆うて襲来する濃厚雄大な霧の渦巻を振り返り振り返り立ち止まったりしていた。
ところがそのうちに間もなく、その霧の大軍がグングン迫って来そうに見えたので僕はトウトウ決心した。とりあえず番号だけを写しておくつもりで、裏の鉄梯子の方へ鋭角の回れ右をすると、それとほとんど同時に、本階段の方向から不意に、あわただしげな靴音が駆け上って来て、思いがけない軍装の憲兵上等兵が眼の前にバッタリと立ちはだかったのであった。
僕はギョッとして一歩退いた。シャツ一枚のスリッパばきで屋上に出ることは、風紀上厳禁してあったので、さては見つかったかと思いながらあわてて不動の姿勢をとって敬礼した。
ところが妙なことに、その憲兵も何かしら面食らっているらしかった。僕の姿を夕闇(ゆうやみ)の中に認めるとハッとしたらしく、軍刀をつかんで立ち止まった。眼をすえて僕の顔を見たが、それが顔なじみの当番卒であったことがわかるとホッと安心したらしい。簡単に敬礼を返しながらそこいらを探るように見回しているうちにまたも僕の顔に瞳をすえた。
「オイ当番。ここに誰か来はしなかったか」
「ハッ。誰も来ません」
といいいい僕は敬礼を続けていた。
「……よし。手を下せ……ニーナが来はしなかったか……この家の娘だ」
僕はなにかしらドキンとしながら手を下ろした。
「イヤ。誰も来ません」
「フーン。お前はいつからここに居たんか」
といううちに憲兵上等兵はモウ一度、疑い深い眼で屋上をにらみまわした。
「ハッ。上村は一時間ばかり前からここを散歩しておりました」
「フーム。たしかに誰も来なかったな」
「ハッ。さようであります」
憲兵は依然として狼狽しているらしく、またも大急ぎで本階段へ降りかけたが、途中でチョット立ち止まって振り返ると厳重な口調でいった。
「誰か来たらすぐに知らせよ。おれは四階の舞踏室の前に居るから……ええか……」
「ハッ。四階の舞踏室……」
と僕が復誦し終らないうちに軍刀を押えた憲兵のうしろ姿が、階段を跳ね上り跳ね上り下の方へ消えて行った。


僕は何が何やら訳がわからなくなった。
いないとばかり思い込んでいた憲兵が、突然にどこからか湧き出して来て、そうしてまたどこへ消えて行ったのか……何のためにニーナを探しているのか……第一彼らが用事のありそうにもない、閉め切ったままの舞踏室の前で、今まで何をしていたのか……ということすらサッパリ見当がつかなかった。……否。見当がつかなかったというよりも気がつかなかったと説明したほうがホントウであったろう……。
それはむろん、僕の頭が「暗号問題」の一方にばかり集注しすぎていたせいに違いないと思う。さもなければ眼の前のサボテンの不思議と、眼の色を変えてニーナを探している憲兵を結びつけて考えるくらいの頭の働きは誰でも持っているはずだったから。そうして同時に、そうした二つの事実の交錯が生み出す簡単明瞭なクロスワードに気づいて、肝をつぶすか、飛び上るかするくらいの芸当は、誰でもできるはずだったのだから……
ところがこの時に限っては僕の頭は、そんな方向にちっとも転換しなかった。ちょうど下へ降りようとする出鼻をくじかれた形で、呆然と突っ立ったまま憲兵の背後姿(うしろすがた)を呑み込んだ暗い、四角い階段の口を凝視しているばかりであったが、やがてまた、我に帰ると、急に気抜けしたような深いタメ息を一つした。柄にもない大きな難問題に、夢中になりかけていた僕自身をヤット発見したような気がしたので……。
……ばかばか……おれはなんというばかだったろう。おれはタカの知れた当番の二等卒じゃないか。特務機関の参謀連中が考えるような仕事を、手ブラのおれが思いついたって、誰も相手にしてくれないことはわかりきっているじゃないか。おれはコンナ仕事に頭を突っ込みこの展望台へ出て来たのじゃなかったではないか。
……第一いくらおれが暗号を研究しようと思ったって、万一それがロシア文字でできていたらドウするんだ。英語しか読めないおれにはとうてい、解読できないにきまっているじゃないか。……そうかといってでたらめ同様な数字の排列を、これが暗号でございといって捜索本部に担ぎ込んでもはたして感心してもらえるかどうか。……タカの知れた二等卒のおれが、屋上のサボテンと、十五万円事件との間に重大な関係があるなぞと主張しようものなら物笑いの種になるぐらいが落ちだろう。……また、はたしてソンナ重大な暗示が、このサボテンの排列に含まれているかいないかも、よく考えてみると大きな疑問といっていいのだ……。
……あぶないあぶない。今日はよっぽどドウカしているらしいぞ、先刻からとんでもない大それたことばかり考えているようだ。コンナ時に屋上から飛び降りてみたくなるのじゃないか……ケンノンケンノン……ソロソロ下へ降りて行くかな……。
気の弱い僕はソンナふうに考え直しながらモウ一度ホーッと深呼吸をした。タッタ今憲兵が降りて行った本階段の前に立ち止まって、中央の煙突の付根に、こればかりは動かされたことのない等身大のサボテンの葉の間に暮れ残る、黄色い花をジイッと凝視しているうちにトウトウまっ暗になってしまった……と思ううちに向い家のカポトキンの時計台の中へポッカリと灯(ひ)がはいった。それがいつもよりも三時間以上遅れた九時半前後であったと記憶している。
その時であった。
不意に僕の背後で、またもや何かしら人の来る気はいがした……と思う間もなく僕は夢中になって右手を振りまわした。
僕は喧嘩(けんか)なぞしたことは一度もない。銃剣術でも駆け足でも、中隊一番の弱虫であったが、この時はほとんど反射的な動作であったろう。手応えのあった黒い影を引っつかんで、思い切りタイルの上にタタキつけてねじ伏せると間もなくモジャモジャした髪の毛が左右の指にからみついているのに気がついた。
相手が女だとわかると弱虫の僕は急に気が強くなった。卑怯(ひきょう)な性格だが事実だからしかたがない。何だか剣劇の親玉みたような気持になって、肉づきのいい女の右手をグイグイと背後にねじまわしながら、指の間にシッカリと握っているロシア式の短剣を無理やりにもぎ取ってしまった。そいつを口にくわえて片膝で背中をグイグイと押えながら、左手でモジャモジャした髪毛をつかんで、首から上を仰向かせてみるとまっ白にお化粧をした顔だ。眉毛の長い……眼と鼻の間の狭い……オスロフの令嬢ニーナに相違ないのだ。
僕は仰天した。実際面食らった。
早くも二人を包みかかった霧の影をキョロキョロと見まわした……「いったい、何だってコンナことを」……といおうとしたが、あいにく、一夜漬の軍用ロシア語がなかなか急に思い出せない。確かに冷静を失っていたらしい。しかたがないからニーナにも多少わかるはずの日本語で、
「……静かになさい……」
というと組み敷かれたままのニーナが案外にハッキリとうなずいた。そこで僕は少しばかり手を緩めて、霧の中に立たせてやろうとした……が、そのわずかな隙を狙(ねら)ったニーナは突然にビックリするほどの力を出して跳ね起きた。両手を顔に当てたまま、濃い霧の中に身を翻して消え込んだ。階段を飛び降りて行く跣足(はだし)の足音だけが耳に残った。


……開いた口が塞(ふさ)がらないというのはこの時の僕の恰好であったろう。ちょっとの間に讐敵(しゅうてき)同士と思える日本の憲兵とロシア語が、互い違いに飛び出して来た……と思ううちに、その二人をまたも鮮やかに吸い込んでしまった階段の口を、手品に引っかかった阿呆みたように見下ろしながら、長いこと突っ立っていたように思う……が、そのうちにフト気がついてみると、僕は右の手にニーナが落して行った短剣をシッカリ握っているのであった。
……僕はハッとした。トタンに気持がシャンとなったように思う。
向いの家の時計台から、霧にしみ込んでくる光線に短剣の刃を透かしてみると、血は付いていないようである。身体をゆすぶってみても別にけがはしていないようであるが、その代りにゾクゾクと寒気がしてきた、日が暮れると同時に急速度寒くなるのがこの辺の大陸気候だ。北の方から霧が来ると、なおさらそうだ。
その肌寒い暗黒の中に突っ立ってニーナ短剣をヒイヤリと凝視しているうちに僕は、いろんなことがしだいしだいにわかってくるように思った。今の今まで逃げ出そうと思っていた恐ろしい問題の渦(うず)の中へ、正反対にグングン吸い込まれかけている僕自身を発見したように思った。そうして思わずブルブルと身ぶるいをしたのであった。
……ニーナは僕が、このサボテンの秘密を看破った……もしくは看破りかけているものと思い込んで襲撃したものに違いない。このサボテンの中ある恐ろしい秘密が匿(かく)されていることはもはや、疑う余地がないのだから……。
……しかも……もしそうとすればニーナの家族は、この司令部の上の四階に陣取って日本軍最高幹部の厳重な監視を受けながら、どこかと内通しているに違いないことが考えられる。そうしてその内通の相手といえば、目下のところ、赤軍以外にありえないことが、あらゆる方面から推測されるではないか。
……そうしてまた、そうとすれば、星黒、十梨の両人の非国民、非軍人的行為と、オスロフの陰謀的性格と、その双方からいろいろな秘密を聞いているらしい銀月の女将との間に、何らか三角関係式の糸の引っぱり合いが存在していないとはドウしていえよう……この三人の間を疑問の線を結びつけてみるのはこの場合たしかに自然である。僕の知っている限りこの三人の間以外に疑問符(クエスチョンマーク)を置くところは、ハルビン市中にないのだから……。
……捜索本部はむろん、夢にもソンナ方向へ視線を向けえないでいるのだ。世界じゅうにタッタ一人おれだけがづいていることを彼らは……といってもまだ正体がハッキリしていないのだが……少なくともニーナだけはチャンと看破しているのだ。だからおれをタッタ一突きで沈黙させようとしたのだ。
……おれは自分でも気ふかないうちに、今までの興味本位とは全然正反対の意味で、是非ともこの事件を解決しなければならない立場に追い詰められてしまっていることがタッタ今わかったのだ……。
……ニーナの一撃によって……。
僕はこうした事実に気がついてくるにつれて全身を縮み上らせた。短剣を握ったままそこいらの暗黒を見回した。今にもどこからかピシリピシリとニッケル弾丸が飛んできそうな気がした。話に聞いた名探偵の勇気なぞは思いもよらない。ただゾクゾクと襲いかかってくる強迫観念を一生懸命に我慢しながら、できる限り神経を押付け押付け本階段を降りて行ったが、その途中からまた気がついたので、スリッパの足音を忍ばせて、用心しいしいソロソロと四階の廊下へ降りた。なおも息を殺しながら、ニーナの家族の部屋の前に来てみると、鍵の掛った扉の中はまっ暗で、話声一つ聞えない。ニーナが逃げ込んだものがドウかすら判断しないのだ。
……おかしいな。こんなに早く寝るはずはないが。それともいないのかな……。
と気がつくと僕はまたも一つの不思議に行当った気持になってドキンとした。刹那的に……今まで考えていた推理や想像は、みんな間違っていたのじゃないかしらん……とも考えて少しばかり気を弛(ゆる)めかけていたようにも思う……が、そう思い思いフト向うを見ると、はるか向うの廊下の外れにある大舞踏室に、カンカンと灯火がついている様子である。ピッタリと閉された緋色のカーテンの隙間(すきま)から、血のような光の曲線が一筋、微かに流れ出しているのが見える。
……僕はその時に驚いたか、怪しんだか記憶しない。その神秘めかしい赤い、微かな光線をドンナ性質の光線と判断したかすら思い出せない。気がついた時には、その光線の洩れてる緋色の窓掛の隙間にピッタリと眼を当てて、二重に卸された分厚いガラス越しに見える室内の光景を一心に見守っていた。
窓掛の隙間から辛うじて横筋違(よこすじか)いに見える、右手の壁のズット上の方に、巨大な風車のある風景画が掛かっている。筆者は誰だかわからないが、たぶん、オランダあたりの古典派であろう。その下の赤と、黄金色の更紗(サラサ)模様の壁に向かって三個の回転椅子が並んでいて、その上に白い布で眼隠しをされた人間が一人ずつ、やはり壁に向かって腰をかけている。その人間の風采(ふうさい)をよく見ると中央が茶革製の狩猟服を着た鬚武者の巨男(おおおとこ)で、その右手が白髪頭(しらがあたま)のお婆さん。それから巨男の左手が瘠せこけた鷲鼻の貴婦人……オスロフ夫妻と、その母親に間違いないのだ。
その中で毅然(きぜん)としているのはオスロフだけであった。あとは射たれたのか気絶したのかわからないが、死んだようにグッタリとなったまま椅子に縛りつけられていた。ロシアでは死刑になることを壁に向かって立たせるというそうであるが、これは壁に向かって腰かけさせられているのであった。相手は窓掛の陰になっているから見えないが、見えなくともわかっている。捜索本部の連中に相違ないのだ。
僕は何もかもない、釘付けにされてしまった。夢のようにとよくいうが、この時の気持ばかりは、たしかに夢以上であった。ツイ今しがたまでシベリア政局の大立物だった巨人が、その妻子と共に銃口を向けられている。白い眼隠しをされたまま、石のように固くなっている。宮殿のような大舞踏室の中で……二重ガラスの遮音装置の中で……悪夢だ……悪夢以上の現実だ……。
僕の頭の中から判断力がケシ飛んでしまった。夢にも想像しえなかった事実が、あまりにも突然に眼の前に実現されたので……。
むろん僕は、そうした頭の片隅でニーナのことを考えないではなかった。捜索本部の連中が、これだけの断固たる行動をとりながらニーナだけを見逃している。自由行動をとらしている……という不可解な事実に気づいているにはいた。しかし、そんなことを突き詰めて考えてみる余裕がその時の僕の頭にどうしてありえよう。……ダラララッ……という拳銃の一斉射撃の音が、今にも二重ガラスを震撼(しんかん)する……とばかり思って息を殺していたのだから……。
ところが僕の予期に反して、そんな物音はなかなか聞こえてこなかった。ただ左側の窓掛の陰から、微かな虫の啼(な)くような日本人の声が、時々断続して聞えてくる。それに対して背中を向けているオスロフが栗色の蓬々(ほうほう)たる頭髪をゆすぶりながらパクパクと顎鬚(あごひげ)を上下するのが見える。……と思うとその胴間声の反響が遠い風の音のように、あるかないかに仄(ほの)めいてくるばかりであったが、それはこの晩に限って近所界隈(かいわい)が妙にヒッソリとしていたおかげで辛うじて聞き取れたものであったろう。意味なんかはむろんわかりようがなかったが、それだけに室の中の形容に絶した物凄(ものすご)さが、悪夢以上の切実さでヒシヒシと総身に感じられた。そうしてその中でタッタ一言でもいいから聞き分けてやろう……それによってオスロフが赤軍のスパイだった事実がどこから発覚したかを判断してやろう……自分の推理がいかに正しいかを証明してやろうと焦りに焦っている横顔を、いっそう強くガラス板に引きつけたのであった。
……ところがこの時のこうした僕の推理や想像のほとんど全部が間違っていた。……同時に日本の官憲がこの時にオスロフに対してとっていた、こうした態度がはなはだしい見当違いであった……僕とおんなじような推理の間違いから、オスロフが赤軍に通じているものとばかり結論しきっていた官憲は、この時シベリアじゅうで行なわれた過失の中でも最も大きな一つを演じかけていた事実がズット後になってニーナの実話を聞いた時に、身ぶるいするほどうなずかれた……といったらこの事件の関係者は皆ビックリするであろう。おそらく僕の虚構だといって、極力打消そうとするであろう。
しかし僕はかまわない。虚構でも何でもいい。話の筋を混乱させないために、僕が後から聞き出した事実の真相なるものをここにサラケ出しておく。
僕が後で当番係の上等兵や、官憲の取調べを直接に見聞したニーナから聞き集めた話の要点を総合すると、二重ガラスの中の事件の正体は、あらかた次のようなものであった。


僕が銀月から帰って来た時に、捜索本部がガラ空きになっていたのは当然であった。
きょうの午後一時半頃(僕が出て行ってから約一時間後)に、先刻の歩哨が話していた赤いタイプライターのロシア文字で裏書した差出人不明の手紙が一通、司令部に届くと間もなく、司令部と捜索本部の連中が妙にソワソワと動き出して、旅団の幹部や、特務機関の首脳部宛に+++(シキツ)符合の自転車伝令を飛ばし始めた。そのうちに司令部の連中が、何事もなさそうに三人四人と談笑しながら、一人残らず出て行ったと思うと、最後に残っていた古参中尉が、当番係の上等兵を本部の事務室に呼びつけて次のような厳重な注意を与えた。
一、明朝までオスロフの雇人を一歩も外へ出ないように命じて監視せよ。万一彼らの態度に少しでも怪しいところがあったら直ちに、歩哨と協力して引っ捕えて、四階の廊下に立っている憲兵上等兵に引き渡せ。
一、万一危急と思われる事態を発見するようなことがあっても絶対に、銃剣を使用したり大声を発したりしてはいけない。沈着した態度で歩哨の前の街路に出て、帽子を脱いで上下に二、三度動かせ。
一、御用商人、オスロフの知人、その他セントラン宛の訪問客があった場合、および、電話がかかってきた場合にはこの部屋の扉をノックして自分(古参中尉)の指揮を仰げ。歩哨と協力して何者も司令部内に立ち入らせないようにせよ。
一、その他、司令部内の状況に関しては、一切の秘密を厳守してできる限り注意を払いつつ、かつ、できる限り平常どおりの勤務状態を装いつつ明朝まで徹夜せよ。(以上)
といったような奇妙な命令を下すと、自身は窓の鎧戸(ブラインド)を卸して部屋の中をまっ暗にしてしまった。それから上等兵を廊下に閉め出して、内側から鍵をかけてしまったので、上等兵は面食らったまましばらくの間、廊下に突っ立って、命令の意味を考えていたという。
その上等兵が翌(あく)る朝、僕に話したところによると、この日、ハルビンの駐剳の日本軍が非常警戒を始めたのが急伝令の復命によって司令部が引き上げたのと同時刻の、二時チョット前ぐらいであったらしい。上等兵が司令部付の少尉から注意命令を受けたのがやはり同時刻が、地階の張出し窓から見える辻々に警戒兵らしい姿が見え始めたのが三時間後で、それから十分と経たないうちに向いの家のカポトキン百貨店の大扉が閉鎖されて店の中がシンカンとなってしまった。それにつれて、さしも賑(にぎ)やかであった表の人通りが、しだいしだいに疎(まば)らになり始めた……というのだから、ほとんどアッという間もないうちにハルビン全市を押えつける準備が整ったものらしい。白軍と赤軍が束になって騒ぎ出してもビクともしないと同時に、オスロフの審問を極力、秘密にしてミジンも外部へ洩らさない手配りが、それこそ疾風迅雷式に遂行されたものらしい。……しかもこうした物凄い事実の全部が先刻の奇怪な手紙の内容をいかに雄弁に裏書きしていたか。その文面の事項が、わが軍の首脳部を首肯させ、かつ、驚かすべく、どの程度までの真実性を帯びておったかという事実を、いかに有力に実証していたかは説明するまでもないであろう。
オスロフは、そんなこととは夢にも知らないまま、二週間ばかり滞在していた露中国境のボクラニーチナヤから汽車に乗って帰って来た。ほど近い停車場から自動車に乗って新聞を読み読みヤムスカヤの近くまで来ると、偶然に故障を起したので、気軽に車を降りてセントランまで歩いて来た。妻子の出迎えを受けて三階に上ったのが三時ちょっと前であったというが、その時すでに、極度の緊張裡に手筈(てはず)をきめて待ち構えていた捜索本部の一団は、否応なしにその足を押えてしまった。同人の全家族……といっても白髪頭の母親と、オスロフ夫妻と、ニーナを入れた四人きりであったが……を舞踏室に連れ込んだ。そうして廊下と裏口の見張りのために一人の憲兵上等兵を、扉の外の窓ぎわに立たせたまま、例の手紙を突きつけて厳重な審問を開始したのであった。
その手紙の内容は大略次のとおりであったという。(細かい点はニーナも記憶していなかったが……)
一、オスロフは欧露における過激派軍の優勢に鑑み、今年の春以来、白軍を裏切って赤軍に内通し、ハルビン奪取の計画を立てていたところ、すでにその気勢が十分に熟し、優秀なる赤軍スパイを全市に配備して日本軍の動向と配備を詳細にわたって探らせている形跡がある。キタイスカヤにある日本軍司令部の秘密命令が、時々赤軍に洩れるのはこのためである。
一、オスロフは日本軍が、アメリカ上院の圧迫外交に押されて、遠からずシベリアを引き上げるに違いないといいふらしている。日本軍がハルビンに永久的な軍事施設を施すべく準備をしているというのは、不意打ちに撤兵を断行するための逆宣伝にすぎないとも強弁している事実がある。これは日本軍の権威を無視して自分の勢力を張る一方に、人心を動揺させて一仕事しようと試みている一種の策動と認めうべき理由がある。
一、今度の十五万円事件も実にオスロフが黒幕となって決行したものである。彼はこの十五万円をもって家族をどこかに避難させると同時に、一挙に日本軍の司令部を殲滅(せんめつ)し、北平(ペーピン)と上海(シャンハイ)に根拠を置く共産軍の首脳部と呼応して事を挙げようと企んでいる者である。
右御参考までに密告する。

日本贔屓(びいき)の一白系露人より――


ところでその審問には、武装した捜索本部の全員のほかに、オスロフも顔も知らないらしい、相当の年輩をした背広服の二人が立ち会っていたそうである。二人とも額が白くて、露語が達者だったというからたぶんそれは日本軍の参謀か何かであったろう。実に鋭い突っ込み方で、さすがのオスロフも最初のうちは少々、受太刀であったという。
しかしそのうちにだんだんと様子がわかってくると、そこは千軍万馬の陰謀政治家だけあって、グングンと二人に逆襲し始めた。
一、劈頭(へきとう)の赤軍スパイの件に関しては、近来市中に噂が高まっていることだし、自分からもたびたび、日本軍の上官諸君に御注意申上げたことだからここには別に弁解しない。願わくば一日も早く、一挙に勦滅(そうめつ)せられんことを希望するに止めておく。
一、自分の家族は御覧のとおり、軍事や政治には全然無理解な老人と、病人と、女の児である。たとえ拷問にかけられても知らないことは知らないというよりほかはないばかりでなく、そんな正体の知れない一片の投書によって、諸君が狼狽しておられると、窮極するところ、日本軍の権威に影響してきはしないか。
一、自分が日本軍と緊密な握手をしている周囲(まわり)に、どれだけの嫉妬(しっと)深い、盲目の幽霊が渦巻いているかを諸君は今日まで気ふかずにおられたのか。
一、いかにも日本軍の機密に関する事項が、赤軍に洩れているのは事実と認むべき理由がある。三週間ばかり前にも、畑の向うのホルワットと病床で面会した時に、同人からコンナ話を聞いた、「オスロフ君。君の手を通じて白軍に渡るべき日本軍の秘密通牒が、どこかで洩れているのじゃないかと疑われることが、よくあるぞ。ことに後方勤務で、日本軍と協定した糧食買込みの予定地が、先回りをした赤軍のスパイに荒されていることがたびたびあので、実はこの間から不思議に思っている次第だ。日本軍でも時々ソンナ眼にあうらしいが、一つ気をつけてみたらどうか」云々(うんぬん)と不平を並べていた。嘘だと思われるならばホルワットに問うてごらんなさい。まだ畑の向うの旧ハルビンの自宅に寝ているはずだ。自動車で行かれても十分とかからないであろう。
一、何を隠そう今度の旅行は、その事実を実地調査に行ったものにほかならない。日軍と白軍に対する自分の信用を、根底から、覆(くつがえ)す大問題と思ったから、この一週間半にわたって、しんけんな調査と研究を遂げて帰って来たものである。論より証拠、満洲とシベリアの地図を持って来てごらんなさい。このノートに控えて来た場所と、時日と、司令部から命令の出た日付と対照して、赤軍スパイの活動状態を探り出すと同時に、秘密の漏洩(ろうえい)している場所を的確に推理してお眼にかけるから……
一、もし御面目に関しないならばモウ一つ別にハルビン市街の明細図を持って来ていただきたい、私が今日まで眼をつけているスパイの隠れ家らしい建築物の位置を一々指摘して印を付けて差し上げるから。但し、その中には貴官方が非常に意外とされる建築物があるかもしれないからあらかじめ御立腹のないように、お断わりしておきます。
一、なおそれからついでに、十五万円事件の真相は、この密告書の出所と一緒に、おおよその見当がつくように思う。第一、この文章の語法が、ロシア人らしくない上に、日本贔屓の白系露人なぞと、いうまでもない無用の断わり書がしてあるところから察すると、これは一種の敵本主義から出た奸策(かんさく)で、私という人間の存在を恐れている。白軍赤軍以外の、ある一個人の所業ではないかと思う。はなはだ抽象的な議論のようであるが声より姿だ(論より証拠の意)。お差支えなければ詳細に事情を承った上で、犯人の行動と、十五万円の所在を突き止めてやりたいと思う。つまり犯人の恐れている事態を実現さして、私の無罪を証明さしていただきたいと思うがどうですか、私の部下はハルビンの裏面という裏面のあらゆる方面に潜り込んでいるのだから……ただ日本軍の内部に立ち入っていないだけだから……。万一この金が赤軍の手にでもはいったら由々しい一大事だと思いますが……ドンナものでしょうか……。
といったような調子でスッカリ煙に巻いてしまったものだという。
もっともこんなふうに纒(まと)めて説明するおわけはないが、この間の押問答がタップリ三時間ぐらいかかったそうである。それからオスロフは帳面を出して、地図の上に一々印を付けながら、赤軍スパイの連絡網と活躍状態を説明し始めたが、それがまた二時間ぐらいかかったらしくかなり詳細を極めたものであったという。
ところでその説明を聞いていたニーナはその間じゅう巨大な父親のへヘバリついて、それとなく図面をのぞいていた。そうして時々、話の切れ目切れ目に、
「サボテンが枯れる」
といっては父親からにらまれたり、鉛筆で頭をタタカレたりしていたそうであるが、しまいには泣き面になって、
「……ねえ……お父さんでばよう……水をやりに行っていいでしょ。じき帰って来ますから……ねえいいでしょう……お父さん……」
と甘たれかかるので、母親が無理に引き取って自分の膝に腰かけさした。ニーナは前にもいったとおり子供らしいお化粧をしていたばかりでなく、その態度がいかにもネンネエらしかったので、ホントの年を知らない憲兵連中の眼には十四、五ぐらいにしか見えなかったであろう。
そのうちにオスロフの説明がだんだん細かになってきて、赤軍スパイの活躍の中心は、どうしてもこのハルビン市中の、しかも司令部の中か、もしくはその付近になくてはならぬ。十五万円事件というのも、そいつらの手で企まれたものではないかと疑われる節がある。これは自分が、奉天に滞在している留守中に発せられた司令部の命令が洩れている事実や、今度の不在中に、十五万円事件が起ったことによっても、朧気ながら立証されうると思う……云々というところまで来ると、モウたまらなくなったニーナがイキナリ母親の膝に突っ伏してワッとばかり泣き出してしまった。
「……サボテンが枯れるよう。水をやりたいよう……」
とオイオイ大声をあげ始めたのであった。
さすがの参謀や憲兵たちも、これにはみごとに引っかかったらしい。あいにくとサボテンの栽培法に通じた者が一人もいなかったばかりでなく、もはや、外がまっ暗になりかけているのだからドンナに聞き分けのいい子供でもお腹が空いているに違いない。それだのに自分のことは忘れてサボテンのことばかりいっているのだから、かなりのイジラシイ要求だと考えられたであろう。にらみつけていたのは話の邪魔をされた父親だけで、お祖母さんも母親も、ハンカチを顔に当てたままギクギクとシャクリ上げ始めたので、とうとう審問が中絶してしまった。
参謀らしい背広服の二人はそこで、何かしらヒソヒソと打合わせをしていたが、やがて若いほうの一人が舞踏室の扉をあけて、下へ降りて行った。それはたぶん、上官と電話で打合わせに行ったものと思われたが、間もなく帰って来ると、
「今夜の十時に山口少将閣下がここへ来られて再審問をされるから、それまでに皆、食事をすましておくように……それからその子供のことは別に許可を得なかったが、すぐに帰って来るなら出してもよかろう。そんなに泣かれちゃ第一審問ができない。いいかね。ニーナさん。すぐに帰って来るんだよ。御飯が来るんだから……」
といったようなことで、ニーナが外へ飛び出したのが八時半頃であったという。そこでニーナは水をやるふりをしいしい、この大事件を赤軍に報道すべく、大急ぎでサボテンを並べ換えていると、突然に裡梯子(うらばしご)から、僕が上って来る足音がしたので、素早く煙突の陰に身を潜めて様子をうかがった。するとまた、意外千万にも、平凡な当番卒とばかり思っていた僕が、サボテンの秘密を知っているらしく、熱心な態度で鉢の数を勘定したり、向い家の時計台を凝視したり始めたので、彼女は思わずカーッと逆上してしまった。
サボテン通信はオスロフ一家の知ったことではなかった。彼女一人が、赤軍に頼まれて極秘密のうちに受け持っていた仕事だったのだからたまらない。同時にオスロフを密告したものこの当番卒に違いない。ことによるとこの当番卒は、この司令部の中でも一番恐ろしい任務を帯びている密偵かもしれないとまで思い込んだ彼女は、僕に気づかれないように煙突の陰を出て、張番の憲兵の眼を忍びながら四階の物置に潜り込んだ。その奥の古新聞の堆積の間に隠しておいた短剣とピストルと、お金と、宝石を取り出してシッカリと身に着けたが、出がけに物置の扉に取り付けた星形のガラス窓からのぞいてみると、今まで舞踏室の廊下に張番をしていた憲兵が、廊下の角を大急ぎで曲って来る様子だ。しかもそのキョロキョロしている態度が、どうやら自分を探しに来ているらしい様子である。
彼女は、そこで息を殺して様子をうかがった。そのうちに同じ憲兵が、今度は階下の方を探すべく駆け降りて行ったらしいので、やり過しておいて階段を飛び出して、前後に気を配りながら僕を狙い始めた。そうしてイヨイヨ暗くなったんを見すまして、飛びかかって来るまでの間が前後を合わせて約一時間……それが失敗して、裏階段から行くえをくらましたのが向いの家の大時計にによると九時半前後であった。
ところがその三十分ばかり前の九時前後と思われる時分に、モウ一つニーナにとって致命的な事件が発覚していった。それは向い側のカポトキン百貨店を閉鎖さして、変装の軽機関銃隊を詰め込んで、万一を警戒させているうちに、展望哨に立ち行った二人の歩哨が、時計台の下の鉄梯子の蔭に頭を突っ込んだままガタガタ震えている、若いロシア人を発見した事件であった。
その青年は案外、意気地のない男であった。自分の頭の周囲にズラリ並んだ銃剣を見まわすと一も二もなく手を合わせて泣き出しながら、白状しなくともいい事までじゃべってしまった。
彼はアブリコゾフという貴族出の美青年で、相当の学問があった上に一種の奇形的な頭の冴えを持っていたらしい。時計の玉や、指環の宝石スリカエの熟練家(エキスパート)であったばかりでなく、暗号解読の天才だったので、赤軍の細胞に巻き込まれて非常に重宝がられていた。それがこの二、三年、カボトキン百貨店の三階にある貴金属部に雇われて、懐中時計の修繕と、大時計の係を引き受けていたものであったが、そのうちに窓越しのニーナと顔を見合わせて笑い合ったり、顔を赤らめ合ったりするようになったものであった。
けれども二人は話をすることは愚か、手紙のやり取りすら思うようにできなかった。アブリコゾフの背後には赤軍の監視の眼が光っているし、ニーナの陰には祖母と母親と、相当の年輩の女が二人もついているのでどうにもしようがなかったが、そのうちにアブリコゾフのほうが思いついて、当時大流行のサボテンを応用した暗号通信法を、僅かの機会を利用してニーナに教えると、これがみごとに成功した。ニーナの神速な記憶力と、持って生れた冒険癖が、みるみる驚くべき作用を現わし始めたので、そのおかげで二人はヤット自由自在に媾曳(あいびき)のできる嬉しい仲になったのであった。
ところが最近に至って日本軍の司令部が、ニーナの足の下に引っ越して来る段取りになると、このサボテン通信の甘ったるい内容が俄然として一変し始めたのであった。冒険好きのニーナの眼と耳が、司令部の中を飛び回って拾い集めてくる、物凄い「殺人用語」ばかりが、サボテンの行列の中に勇躍し、呼号するようになった。一方にアブリコゾフも毎日正午になると時計台の上に昇って、時計の時差を計る。そのほかイツ何時でもニーナの合図を受けしだいに、便所に行くふりをしてはコッソリと時計台に登って、文字板の横の隙間から、精巧な望遠鏡を使用しながら、向い家の屋上に並んでいるサボテンの暗号を、右から左の順に書き取ってくる、そいつを往来から合図する通行人や、お客のふうをして来るスパイの手に渡さなければならないので、トテモ忙しくなっていた……現にタッタ今もニーナから受けた、
「オスロフが殺されそう……全赤軍のスパイ網が曝露した。十五万円……」
という意味の途中半端な暗号通信を伝票の裏面に書き取って、下をのぞくと同時に帽子をウシロ向きにした通行人に投げつけて、その続きを待っていたところであった……云々というのがアブリコゾフ青年の告白の大要であったらしい。
この告白を聞いた軍人たちが「テッキリこれはオスロフの仕事」と思い込んだのは無理のない話であろう。そこでこの報告が一直線に特務機関に飛び込む。
「猶予なくオスロフ一家を捕縛せよ。事態切迫の虞れあり」
といったような命令が出る……という順序になったものであろう。ちょうど僕を殺し損ねたニーナが裏階段を駆け降りて行く姿を、いつの間にか帰って来ていた憲兵が認めたので、またも独断で追いかけて行った留守中に、食事を終ったばかりのオスロフ一家が、有無をいわさず椅子に縛りつけられて拷問されることになった。そうして、その拷問が始まったばかりの光景を、僕が外からのぞいていたのであった。
だからその瞬間は、後から考えると実に恐ろしい瞬間であったのだ。単に眼の前の光景が恐ろしかったばかりでない。ハルビン市に横溢している最も重大な危険な諸要素が、眼にも見えず、耳にも聞えない戦慄的な波動を作って、二重三重の渦巻を起しかけている。その中心の重苦しい無風帯に、僕は何も知らずに突っ立っているのであった。
事実、僕は何も知らなかった。否、そんなことを察するだけの余裕がなかった。二重ガラスの中の生きた活人画とも形容すべきモノスゴイ光景を、タッタ一眼見ただけで僕はモウ、驚きと恐怖を通り越した心理状態に追い上げられていた。二重ガラスの外側に顔の半面を押しつけながら今にも左側の窓掛の陰から……ダダーン……という大音量の火花が、迸(ほとばし)り出るか出るかと石のように固くなっているばかりであった。
しかし僕がそうしていた時間は、ものの五分間と経過しなかったであろう。間もなく更にさらに驚くべき事件に僕は襲われた。その固くなっている僕の右手から突然に、ニーナの短剣を奪い取って行った者があった……と思って振り返る間もなく、誰だかわからない疾風のような人影が、ヒラリとまっ暗な屋上の方へ消え失せて行ったのであった。
その時に僕は何かしら奇妙な声をあげたように思う。しかしその声は幸か不幸か、舞踏室の内部には反響しなかったらしい。
僕は気が遠くなりかけたようであった。舞踏室内の光景も何も全然忘れてしまっていたようであった。そうして間もなく、何者かが飛びかかって来るような次の瞬間を、暗黒の廊下で想像すると、思わず身を翻して長い廊下を一走りに、四ツの階段を駆け降りて、地下室に転がり込んだ。そこでやっと少しばかり気を落付けて、冷(さ)め切った白湯(さゆ)を二、三杯飲むと、そのまま自分の寝台に潜り込んで、頭から毛布を冠(かむ)ってしまった。臆病者と笑われてもしかたがない……。
だから僕はオスロフ一家の運命が、それから先ドウなったか知らない。ただ……その翌る日からセントランの雇人が、金聾(かなつんぼ)同様の朝鮮人とその妻を残して、一人もいなくなったことを知っている。そうしてその代りに日本兵の伍長以下四名の兵卒が入り込んで来て兵営式の炊事を始めたこと……オスロフ一家が、それから後一度もセントランに姿を見せなかったこと……そうして、それから間もなくセミヨノフとホルワット両将軍の反目が露骨になって、白軍の勢力がバタバタと地に墜ち始めたことをズット後になって聞き及んでいるだけである。
……とはいえオスロフの一家がコンナ悲惨な運命の坑(あな)の急転直下して行った原因だけは、その夜のうちにスッカリ見当をつけていた……東亜政局の中心にうがたれた底なしの坑に、彼ら一家を突き落した、白い、冷たい手の動きにチャント気がついていた。
……といったら僕がトテもすばらしい名探偵に見えるだろう。または性懲(しょうこ)りもなく、この事件の外殻を包む探偵趣味の第二層へ、突入して行った勇者とも思えるだろう。……ところが実は、それどころの沙汰(さた)ではなかったのだ。きょうの出来事におびえきっていた僕は、一刻も早く事件の真相を発見しなければ、安心して眠れないぐらい、神経が冴え返っていたのであった。……とてもジッとしてはいられないくらいたまらない脅迫観念に襲われていたのであった。
これは気の弱い、神経質な僕が、永年囚われて来た悪癖だった。何でも変った出来事にぶつかるたんびに、すぐにその原因を考えて、結論をつけてしまわなければ安心できない性分だったのだ。想像でもいい。仮定でもかまわない。または文学青年にありがちな空想的なローマンス病と笑われてもしかたがない……。
但し……僕はその時までサボテン暗号通信を、オスロフの指導を受けたニーナの仕事とばかり思い込んでいたものであった。アブリコゾフの捕縛事件を全然知らなかったのだから……。また、ハルビン市内の大警戒の状況も、翌日の朝になってから上等兵に聞かされて初めて驚いたくらいのことであった。だから僕は、その時までに見聞した十五万円事件とか、銀月の女将の印象とか、サボテンの不思議とか、ニーナの怪行動とか、舞踏室の戦慄的光景とかいったような表面的な印象ばかりを毛布の中でガタガタ震えながら、頭の中でグルグルグルグルと走馬灯のように空転させた結果にすぎないのであったが、それでもその中から辛うじて臆測しえた事件の真相なるものは実に身の毛もよだつ性質のものであった。
それはその「臆測の中の臆測」ともいうべき最後の結論を先にして説明すればすぐにわかる。
この事件の中心になっている者は誰でもない。やはりあの銀月の女将に相違ないとおもえるのであった。この事件の表面に交錯している直線や、曲線の出発点を求心的に探って行くと、縦から見ても横から見てもあの女将の魅惑的な、自由自在の表情の上に落ちて行くのであった。すえてを操る眼に見えぬ糸が、彼女の白い指の先に帰納されてゆくのであった。
彼女に対する僕の第一印象は誤っていなかった。彼女はハルビンと名づくる北満の美果の核心に潜み隠れている一匹の美しい毒虫であった。その果実の表面に、一見別々に見える巨大な病斑を描きあらわしている……。
彼女はさすがに、ハルビン一流の豪華建築の女主人公として、人気の荒っぽい北満の各都市に雄見するだけの、アタマと度胸を持っている女性であった。彼女はその冷静、透徹した頭脳でもって、変幻極まりない当時の北満の政情の動きを予測して、銀月の経営方針と一致させることを怠らなかった。銀月と名づくる豪華壮麗な浮草の花を、どちらの岸に咲かせようかと、明け暮れ怯(おび)え占っていたに違いなかった。なぜかというと、その当時まではハルビンの将来が、日本軍と、赤白両軍のいずれの支配下に置かれるか……ことに日本軍の駐屯期間がいつまで続くかということは、ハルビン全市……否、北満全局の生命(いのち)がけの疑問として、各方面の注視の焦点となっていたものだから……そうしてこの問題に関する日本政府の態度については、肝腎カナメの日本軍の司令部自体すら、いい知れぬ不安を懐いているらしく見えたのだから……。
しかしその間にタッタ一人、彼女だけは窮しなかった。彼女は、彼女一流の知恵を絞って、どちらに転んでも間違いのない方針をとることにきめた。日本軍と一緒に引き上げるにしても、または踏み止まって第二期の発展を計画するにしても、決定的に必要な軍機の秘密と、資金をつかむ手段を考え始めた。そうしてその解決を女性のみが実行しうる非常手段に訴えた。
彼女はオフロフと星黒の双方に彼女自身を任せたに違いないのだ。そうしてその結果オスロフからは軍機の重大秘密を……また、星黒からはその正反対な機密事項と同時に、多額の資金を獲得したものに相違なのだ。しかもその機密と巨万の金とが、これを逆に利用する時は、同時に二人を別々にノックアウトするに足るほどの恐ろしい性質のものであったことはいうまでもない。
しかし極度に用心深いと同時に、あくまでも機敏な彼女は、ここでモウ一つ感覚を緊張さした。問題の根本になっている日本軍の進退についてオスロフの予測と、星黒の口占(くちうら)とのドチラが真相に触れているかを、全然違った方面から当ってみるべく苦心していた。それによってオスロフと星黒の両人をいかに活殺したらいいかを決定すべく、全神経を尖らしているところであった。
ところが、そっこへ司令部の内情と、捜索本部の形勢と、ハルビン市内の実情に通じているらしい僕が、公用でやって来ることを早くも聞き知ったので彼女は、迅速に準備を整えて待ち構えた。そうして何食わぬ顔で応接間に引き入れて、さり気ない問答をしながら様子を探っているうちに、僕が不用意に洩らした兵営と、飛行場に関する一言から、彼女は早くもオスロフが、もはやトックの昔に日本軍から見放されているらしい……日本軍が白軍を度外視して、満洲とシベリアに雄飛しようとしているらしい事実を推測することができた。
彼女は大胆にもこの推測を確信することにきめた。そうしてすぐに手を回してオスロフを排斥にかかった。しかもその排斥の手段たるや、古来の女流政治家とか毒婦とかいう連中が、必ず一度は使ってみることにきめている世にも冷血、邪悪な逆手段であった。彼女はオスロフから軍機の秘密を聞き出した事実を、逆に利用した誣告文(ぶこくぶん)を誰かに打たして(もしくは打たしておいたものを)僕が、銀月の応接間で眠っている間に、司令部の郵便受箱に投げ込ましたものと考えられるところがその誣告文の内容がまた、そこに暗示されているとおりの軍機漏洩の形跡に悩まされ続けてきた(ニーナのいたずらとは気づきえなかった)日本軍最高幹部の注意の焦点を、たちまちピタリと合わせることに役立った。「なるほど、ほかに疑うべき人物はいない」ということになった……ものと見れば、前後の事実がほとんど完全に、一貫した筋道で説明できるではないか。……タッタ一つニーナの短剣に関する不思議を除いては……すべてが合理的にうなずかれてゆくではないか。
僕はこうして推理とも想像ともつかない……もしくはその両方をゴッチャにした怖ろしい結論を、ホコリ臭い毛布の中で長いこと凝視していた。そうしてオスロフ一家の運命が、全然オスロフの自業自得であると同時に、全然僕の責任でもあるという不思議な結論の交錯を、何度も何度も考え直してみた。
それからモウ一歩を進めた万一の場合に、銀月の女将、富永トミの致命的な秘密をつかんでいる僕……あの邪悪な露語の誣告文が、僕の想像どおりに彼女の手から出たものに相違ない事実が、何らかの理由で彼女の立場を危うくしそうになった場合、最も重要な生き証拠となるかもしれない僕……彼女がオスロフと星黒から軍機の秘密を聞き出していることを知りすぎるぐらい知っている僕を、彼女がドンナふうに処理するか……という問題に考え及んだ時、僕は思わずドキンとして寝返りを打たせられた。頭を抱えて縮み上らせられた。僕の想像が的中しているとすれば、彼女がキットそうするに違いないであろう手段と、それに対抗する手段を、ああかこうかと取越苦労が、いつの間にかタッタ一つ、最後に残る重大な疑問に向かって集中してきたのであった。……この事件に対する僕の臆測の全体が、確実であるかないかを決定するものらしく見えるタッタ一つの疑問の鍵……。
それはニーナの短剣が描きあらわした不可思議現象に対する疑問であった。
ニーナの短剣に関する不可思議現象……この事件の中心の中心とも見るべき時間と、場所を択(えら)んで突発した奇怪事……事件の根本に触れているらしいデリケートな怪事件……あの厳重な警戒の中で、あの戦慄的(せんりつてき)な場面を眼の前にして、僕の手から、あの短剣を奪い取って行った不敵な人間は何者か。赤の手か……白の手か……それともそれ以外の人間の手か……あんな大胆不敵な行動をあえてした原因がどこにあるか……そうして、あれだけの冒険をあえてしながら僕を殺そうとしなかった理由は如何(いかん)……という疑問は、この事件に対する僕の結論では、どうしても説明しきれない疑問であった。言葉を換えていうと、この疑問のタッタ一つが、僕の結論の真実性の全部を裏切ってしまっているとさえ思えるのであった。このタッタ一つが説明できない以上、僕の結論は一片の空中楼閣になる……。
……ニーナの短剣を奪った者は、僕の味方か……敵か……。
という簡単な疑問が、この事件の全体を解決する最後の鍵とsっひか思えなくなったのであった。同時に、その手によって助けられるか、殺されるかが僕の運命の分れ目だとしか考えられなくなったのであった。
こうした煩悶(はんもん)と迷いとが、要するに、事件全体の恐ろしさにおびえきって、疲れ切ってしまっていた僕の神経細胞から生み出されたところの、一種の笑うべき幻覚であったことは改めて説明するまでもないであろう。……とはいえ、こうした思いもかけない大事件にぶつかって、徹底的に面食らわせられた意気地のない人間が、コンナような幻覚的な結論をドンナに一生懸命になって固執してゆくものか……そうしてみすみす大事を誤まって、悲惨な運命に陥ってゆくものか……という事実は、実地の体験を持った人でなければ首肯できないであろう。
毛布の中で縮こまった僕は、この幻覚的な結論を解決すべく、あらん限りの想像を逞(たくま)しくしてみた。しかし、こればかりはイクラ考えてもわからなかった。ドンナ想像を付け加えても説明ができなくなっていくうちに、とうとう頭が古い鏡餅(かがみもち)みたように痺(しび)れ上って、固結して、ピチピチとヒビがはいりそうな感じがしてきた。
そのうちにニーナの顔や、銀月の女将の笑顔が、オスロフの無表情な瞳や、その母親の白髪頭の横顔などと一緒に、眼の底の灰色の空間をグルリグルリと回転し始めた。そうして、いつの間にかグッスリ眠ってしまったものらしい。
あくる朝はばかに早く眼が醒めた。
気がついてみると当番の連中は、いつの間に帰って来たものか、僕の左右にズラリと枕を並べてグーグーと眠りこけていた。
便所に行ったついでに歩哨の前から、表口の往来をのぞいてみるとすてきにいい天気である。昨日の出来事は嘘のような感じのする青空が、向い家の時計台の上に横たわっている。
歩哨に聞いてみると司令部の連中はツイ今しがた、当番簾中を引き連れて、どこからか帰って来たところだ。昨夜は何らの異状もなかったという。辻々の警戒ももはや、解かれていたのであろう。朝の人通りはいつものとおりで、カポトキンの大扉も開かれて、四、五人の人夫が方々の窓を拭いている。
僕は何だがばかにされているような気持になった。しかし、そうかといって文句をつけるところはどこにもないので、少々睡いのを我慢しいしい捜索本部の掃除をすましたが、そのついでにチョット四階のオスロフの居室の様子をのぞきまわってみると、どの部屋もどの部屋も窓掛が卸されて鍵が掛かっている上に、向う側のブラインドが卸してあるらしく、まっ暗で何も見えない、そのシンカンとした気はいに耳を澄ましているうちに、またも、昨夜と同じような寒気がしてきそうになったから、あわてて階下へ駆け降りた。
下へ降りてみると食事がモウできているのに驚いた。むろんこれは、炊事係が入れ代ったせいであったが、その時に初めてそうした事実に気がついた僕は、今更のようにオスロフ一家がどうなったかと考えて黯然(あんぜん)となった。何だか自分が意気地がないために見殺しにしたような、たまらない責任観念に囚われながら、タッタ一人で箸を取ったが、久しぶりに食った軍隊飯のまずかったこと……オスロフ一家の事が胸につかえていたせいばかりではなかった。
そのうちに上等兵が起き上って煙草を吸い始めたので、早速、昨夜からの出来事をコッソリ話し合ったが、双方が双方とも、眼を丸くして驚き合ったことはいうまでもない。それからそれへと煙草を吹かしながら声を潜めているうちに、いつの間にか時間が経ったらしい。突然に、いつもと違った長靴の音がボカボカボカボカとコンクリートの階段を降りて来た……と思ううちに、いつも間に出勤したものか、憲兵上等兵の一人が僕の顔を見るなり、
「オイ。何しとるんか。早く来んか」
と階段の途中から怒鳴った。またも大事件らしいのだ。
僕は退屈だった昨日の午前中が恋しくなった。タッタ一晩、考えただけで頭がくたびれてしまったものらしい。実に意気地のない名探偵だ。……と自分で思い思い上衣を着て二階へ駆け上がって、捜索本部の中を一眼見ると、思わずサッと緊張してしまった。……十梨通訳が帰って来ているのだ。星黒と一緒に行くえをくらましていた十五万円事件の片割れが……。
十梨は僕と向かい合った、室の隅に近い藤(とう)の肘掛椅子(ひじかけいす)に、グンナリと腰をかけていた。女のように小肥りした男だったのが、二、三日の間に薄汚なく日に焼けて、ゲッソリと頰を瘠(こ)かしてしまっている。靴もズボンも泥だらけになって、この辺の草原に特有の平べったいヌスト草の実が所々にヘバリついている。どこから生命からがら逃げて来た恰好で、口を利く力もないくらい疲れているらしい。大勢の視線ににらみつけられながら、片肘を椅子に掛けて、ウトウトと眠りかけている様子である。
……これはどうしたことだろうか……と思う間もなく僕は、曹長の命令で一階へ飛んで降りた。まだ残っているオスロフ家の冷蔵庫の中から白パンを半斤と、牛乳を二、三本持って来た。そいつを十梨の鼻の先に突きつけると、ヤット気がついたらしかったが、それからホコリだらけの瞼を開いて飲むこと飲むこと食うこと食うこと。牛乳をモウ二本と、パンをモウ半斤追加して、あとから熱い茶をガブガブと飲んているうちに、みるみる大粒の汗を、ホコリだらけの顔に浮かべた。
それから憲兵中尉にもらった煙草を一本吸っているうちに、またも安心したらしく、グッタリと椅子にもたれかかるのを、引きずり起し起し審問が開始されたのであった。
僕は十梨の一語一句に耳を澄ました。昨夜、僕が毛布の中で築き上げた理屈と想像の空中楼閣は、十梨の出現によってアトカタもなく粉砕されるかもしれない……そうして昨夜の事件と、十五万円事件とを同時に解決するホントウの鍵が、十梨の口供の中から発見されるかもしれないのだ。……ことによるとニーナの短剣の行くえまで推定されえないとどうしていえよう。……しかも、それを探り出すのは僕の正当防衛を意味する大きな権利に違いないのだ。世界じゅうに僕一人が持っている秘密の特権……といったような興味を極度に高潮させて、胸をドキドキさせながら、ボンヤリした十梨の表情を凝視していた。
十梨の口供は、いかにも弱々しいそれこそ夢うつつのような声で続けられた。
「御承知か知りませんが、私はこの間から、めんどうな通訳の仕事でスッカリ疲れておりましたので、土曜日の晩に外出を願いまして、日曜日の朝早くから、傅家甸(フーチャンテン)に靴を買いに行きました。御覧のとおり皮が固くなって穴が開いておりますので、ハルビンへ参りますとすぐから、買おう買おうと思っていたものでありました。
ところが、第八区の筋かい道を通っておりますと、背後から私を呼ぶ声がします。振り返ってみますと、中国馬車の中から星黒主計殿が顔を出されました。いつものとおりの服装で、膝の間に新しいリュクサクを挟んでおられました。
『どこに行くのか』と問われましたから『傅家甸へ』と答えて敬礼しますと『そうか、おれもそちらへ行くからこの車に乗れ』といわれましたので一緒に乗って行きました。
ところがまだ鉄道踏切を超えないうちに、主計殿がニコニコ笑いながら『お前は松花江の下流へ行ったことがあるか』と問われましたのでチョット困りました。私はロシアの地理ならば内地で研究しておりましたおかげで少々自信がありますが、満洲方面は後まわしにしておりましたので西も東も知りません。ことに当地に来る早々の八月の始めから翻訳ばかりしておりまして、一歩も市街へ出ずにおりましたのでどの道がどこへ行くのか、どの方向にドンナ町があるか、ましてどこいらから先が、馬賊や赤軍のいる危険区域になっているのか、全然白紙も同様なのです。ですから万一案内でも頼まれては大変と思いましたので『イイエ』と答えますと『そうかおれは今から行くところだ。ロシア人の友達と一緒に行く約束をしていたんだが、そいつが風邪(かぜ)を惹いて寝てしまったので、おれ一人で行ってくれといって、案内を知っている中国人を雇ってくれた上に、御馳走をコンナにリュクサックに詰めてくれた。ナアニ危険区域といったって心配するほどのものじゃない。……日本軍のいない所を全部、危険区域だとばかり思っているのは日本人だけだ……といってそいつが笑っていた。酒もちょうど二人前ある。そりゃあ景色のええ所があるぞうだぞ』といわれました。後から考えますとこれはまっ赤な噓で、郊外の塵に暗い私が外出することを、前の晩からチャントにらんで、計画を立てておられたものに違いありません。しかしその時は全く気づきませんでしたので、非常に喜んでお礼を申しました。ステキな日曜にぶつかったものだと思って、靴のことも何も忘れておりました。
中国馬車は傅家甸を抜けて東へ東へと走りました。腕時計を修繕に出しておりますので時間がわかりませんでしたが、同じような草原や耕地の間をずいぶん長いこと走りましたので、ツイ翻訳の疲れが出たのでしょう、ウトウトとしておりますと、正午近いと思う頃から、小さな川の流れに沿うて行くうちに、広い広い草原の向うに、松花江の曲り角が見える所まで来て馬車が停まりました。
主計殿はどこで馬車を降りられました。そうしていつの間に勉強されたのか流暢(りゅうちょう)な満洲語で、馭者(ぎょしゃ))と話しておられましたが、そのうちにニコニコしながらこちらへ来られますと『ここから向うの丘まで歩いて行くのだそうだ。そこが一番景色がいいそうだからね。すまないがそのリュクサックを荷(かつ)いでくれないか。馭者は泥棒が怖いからといって車を離れないからね』という頼みです。私は『何だ。そんな目的で自分を連れて来たのか』と少々ばかばかしくなりましたが、いまさら、しようがありませんでしたから、リュクサックを担ぎ上げて、道のない草原を、河の方向へ分け入って行きました。
私はすぐ鼻の先に見えている河岸が、案外遠いので弱りましたが、それでもニ十分ぐらい歩きますと、すこし小高い、見晴らしのいい所へ来ました。あたりに人影も何もありませんでしたが主計殿が『イヤ御苦労だった。ここらで休もうか』といって腰を卸されましたので、私も草の中に尻餅(しりもち)を突きました。それから主計殿はリュクサックを引き寄せて、白い新しい毛布を引っぱり出して、自分の手で草の上に広げられました。
『一杯飲め』といって差し出されたのを見ますと封印したウイスキーの小瓶(こびん)でした。主計殿も新しいのを持っておられましたので、私は遠慮なしに咽喉(のど)を鳴らしました。それから主計殿は、リュクサックの中からサンドウィッチだのサージンの罐だのを二つ三つ出して、毛布の上に並べられました。
私はトテモいい気持になってしまいました。まっ青な空から涼しい風がドンドン吹いてきます。コーヒー色の河に区切られた緑色の海みたような草原が、見渡す限り雲の下で大浪(おおなみ)を打っております。その向うを薄黒い船が音もなく辷(すべ)って行くのを見ておりますうちに、いつの間にかウイスキーの瓶が空になりました。そのまま横になって睡ってしまいました。
私はその時に火事の夢を見ておりました。旧ハルビンのホルワット将軍の邸(やしき)だったようです。私は将軍の白い髯が焼けてはならぬと思って、頭からバケツの水を引っ冠せているつもりでしたが、そのうちにアンマリむせっぽいので、眼を擦(こす)ってよく見ますと、ツイ鼻の先に鼠色の背広を着た男がウロウロしております。ハテ、何者かしらんと起き上って見ましたら、それが意外にも主計殿で、遙(はる)か離れた河岸から拾って来られたらしい流木を集めて燃やしておられるのでした。しかし、御承知のとおり流木は湿っております上に、火力が弱くてなかなか燃え難いので、煙にむせながらシキリに世話を焼いておられる様子でしたが、そのうちに何だかヤタラにキナ臭いのでよく気をつけてみますと、どうでしょう。その煙の中で燻(いぶ)っているのは、今まで主計殿が着ておられた、軍服ではありませんか。
私はその時に初めてドキンとしました。
『軍服を燃やすのですか』と思わず大きな声を出しましたが、主計殿は返事をされませんでした。ただ私を振り返ってジロリとにらまれただけでしたがその顔つきのスゴかったこと……臆病者の私はガタガタとふるえ出しました。道路の方面を見ますと私たちを乗せて来た中国馬車は、影も形もありません。見渡す限り草の波です。
『主計殿帰ろうではありませんか』
私は思い切って、そういいかけてみましたが、まだいいきってしまわぬうちに、スックと立ち上った主計殿は、煙の向うからギラギラ光拳銃を差し付けられました。そうして白い歯を出して笑いながら近づいて来られましたので、私は草の中に四ツンばいになってしまいました。
『オイ。十梨。おれはお前に頼みがあるのだ。黙ってそのリュクサックを担いで三姓まで従(つ)いて来てくれんか。ええ』
私はモウ一度そこいらを見回しましたが、河を通る船すら見えません。太陽がズット西に傾いたせいでしょう。ハルビンの町が黒い一線になって上流の方向に見えておりました。
『おれは司令部の金を持って逃げて来たんだ。明日の今頃は大騒ぎをやっていると思うんだがな。ハハ……。幾日かかるか知らんが三姓まで来てくれたら、持って来た金の三分の一だけ分けてやる。それでも五万円だ。悪くないだろう。嘘じゃない。このとおりだ』といううちに主計殿は、右手のピストルを私の方に向けたまま、左の手をリュクサックにかけて口を大きく開かれました。そうして底の方にある新聞紙包みを片手で破いて、チラリと見えた分厚い札束の中から、よい加減に抜き出した二十円札を口にくわえて数えられました。
『三百二十円ある。当座の小遣いに分けてやる。よく調べてみよ。一枚も贋札なんかないから……』
『ありがとうございます。行きましょう』
と私は答えました。容易に逃げ出せないと思いましたから、わざと金に眼が眩(くら)んだふりをしたのです。
『ウム。一緒に飲んだ馴染(なじみ)がいがあるからな。無茶なことはせぬつもりだが……おれもタッタ一人の仕事だからナ』と星黒主計殿は独言のようにいわれました。
私は黙ってリュクサックの革紐に両手を突っ込みました。そうして、たまらない恐ろしさと不愉快さとを我慢しいしい、主計殿の指図に従って、草原の中を歩き出しました。主計殿はいつの間にかこの辺の地理を詳しく調べておられたらしいのです。
そのうちに日が暮れて、五日ばかりの細い月が出ておりましたが、間もなく引っ込んでしまいましたので、私は星黒主計殿の懐中電灯で足元を見い見い草原を分けて行きました。すると、また、そのうちにリュクサックがたまらなく重くなってきましたが、それでも私の姿だけが懐中電灯に照らし出されているのですから、逃げる素振りなどミジンも見せられません。三姓に着いたら殺されるのかもしれない……とも思いましたが、いまさらどうにもしようがない私でした。
そのうちにどこだかわかりませんが、松花江の向う岸の大きい星空の下に、人家の灯火がチラチラ見え始めますと、荷物を担いでいながらもかなりの寒さを感じてきました。
『どこにも泊まらないのですか』といいながら振り返りましたら、俯向いて何か考え考え歩いていた主計殿が顔を挙げて見回されました。
『ウム。中国人の家があったら泊まろう』といわれましたが、そこいらは人家の影すら見当らない、河沿いの高原地帯らしく見えました。
それからまた一里も歩きますと、肥った私はもうヘトヘトに疲れてしまいましたから、立ち止まって暗闇の中を振り返りました。
『ここいらで休まして下さい』と悲鳴をあげますと、主計殿も疲れてらられるらしく案外柔和な声で、『どうだな。人家はかえって物騒かもしれん。今夜はここで野宿とするかな』そういわれるうちにリュクサックを下ろした私は、あんまり寒いのでガタガタ震え出しました。『主計殿。あそこに小屋が見えますよ』
二、三丁向うの河岸に歪んだ掘立小屋らしいものが見えているようでした。主計殿もうなずかれました。
『ウンちょうどええ。行ってみよう』
近づいて見ますとそれは渡船場の番人小屋でした。一間幅に二間ぐらいのごく粗末な板造りで、向う側の破れ穴から松花江の水の光が見えました。
『中にはいってみよ』と主計殿が命令しながら懐中電灯を私に渡されました。そうして自分は拳銃を持ったまま、家の背後にまわって小便をしておられるようです。
……今だ……と私は胸を躍らせました。そのまま家の中にはいってリュクサックをドシンと卸して、その上につけ放しの懐中電灯を乗せました。すぐに戸口からはい出して、丈高い草の中を下流へ十間ばかりはい込みましたろうか……。
『オイ。十梨。どこにいるのか』
という声が風上から聞えました。拳銃を片手に持った向う向きの背広姿が、上流の方を透かしている恰好が星あかりでよく見えました。私は立ち上って一散に走りました。
……ズターン……ズターン
という大きな音が私の肩を追い越して行きましたので、私は夢中になってしまいました。帽子はその時に落したのでしょう。草の中をこけつまろびつして行きましたが、そのおかげで弾丸が当らなかったのかもしれません。三発目の爆音がかなり遠くに聞えましたので、チョット振り返って見ますと、四、五十メートルばかり離れて追いかけてくる黒い姿が見えました。
私の左手は仄白い松花江の水で、右手は丘つづきの涯(はて)しもない高原らしいのです。その中をピストルの音がアトカラアトカラ縫うて行くのです。そのうちに右手から河縁(かわべり)へ降りて来る小径(こみち)らしいものを見つけましたから、かまわずその中へ走り込みまして、小高い所へ駆け上りました。拳銃の音はソレッキリ聞えなかったようです。
左右から生えかかってくる草を押分け押分け三十分ばかりも走りますと息が切れてたまらなくなりましたので、倒れるように草の中へ座りましたが、座ってみるとまた寒いのに驚いて立ち上りました。そうして、寒さと、空腹と、睡たさとに責められながら夢うつつのように当てどもなくさまよって行きました。
翌る日の正午頃、どこかわからない広い通りへ出ると間もなく中国人の部落に着きました。しかし露語が通じませんので手真似で高粱飯(コウリャンめし)を食わしてもらって物置の藁(わら)の中に寝ました。そうして昨日の正午頃になってヤット眼を醒ましましたが、それからお礼に銀貨を一枚やって『ハルビンハルビン』といいますと中国人の老爺がわかったらしく、撞木杖(しゅもくづえ)を突っ張りながら広い畑の中を案内しいしい通り抜けて、大きな道路のマン中に私を連れて来ました。そうして西の方をさして見せながら幾度も幾度も頭を下げて見せましたが、それが一昨日来た道だったかどうかは今では私にはわかりません。モウ一度行ってみたら往き路も帰り路もハッキリするだろうと思いますが……。あいにく、馬車が通りませんでしたので、徒歩で引っ返しましたが、おりよく夕方になって一台捕(つか)まえまして、夜通しがかりの全速力で走らせました。居睡りしいしい来ましたので、幾つ村を通ったか記憶しませんが案外、道程が遠いので驚きました。しかしその夜はほのぼの明けにハルビンの灯火を見た時には、安心のために気がとおくなりかけました。
……ハイ。もらったお金はこれだけです。……二十円札十六枚です……ズボンのポケットにはいっていたのです。……疲れておりますからモウ一度よく睡らして下さい」
そういううちに十梨はモウ、ぐったりと藤椅子の中にもたれ込んだ。僕が点(つ)けてやった煙草を、手を振って拒絶しながらウトウトとなりかけた。


僕はいまでもそう思っている。
この十梨の言葉を疑いうる者は、よほどの名探偵でもない限り絶無であろう……と……。
十梨は真実、正体もないくらい疲れていたのだから。……そうして恐ろしい憲兵の前に、絶望と無力とを一緒にした身体を曝露しに帰って来たのだから……。
その中でも僕はこの話を最も深く信じた一人だったらしい。……というよりも十梨の立場に衷心から同情を寄せていた一人……と説明したほうが適切だったかもしれない。実に意外極まる口供のために、昨夜、毛布の中で、あれだけ苦心して築き上げていた推理と、想像の空中楼閣をドン底から引っくり返されながらも、十梨から煙草を拒絶されるとすぐに一階へ飛んで降りて、熱い渋茶を一杯、酌んで来てやったくらいであった。
憲兵連中もむろんのことであった。彼らの顔は十梨の口供の途中からみるみる輝き出していた。捜索本部が開設されてから三日目に、早くも勝利の端緒をつかんだ喜びを、互いに目顔で知らせ合いながらうなずき合っていた。
十梨が熱い茶を飲み終るのを待ちかねた憲兵中尉は、僕をさし招いて自動車を呼ばせた。一刻も猶予ならんというふうに……そうして早くもスウスウ眠りはじめている十梨を揺り起して、
「オイオイ。十梨通訳。起きろ起きろ。処罰されるのではないぞ。いいか、貴様は殊勲者に違いないが一応現場を調べるまでは許すわけにはいかんからな気の毒だが、ええか」
十梨は揺すぶられながら小児のようにグニャグニャとうなずいた。
自動車が来ると皆立ち上った。何でも全員一斉にやるのが憲兵の習慣らしい。そうしてめいめいは自分の机の抽斗(ひきだし)を開けて、いくらもない書類や文房具を抱え込んだのは、捜索本部の仕事がモウこれきりになったことを予感していたのであろう。
「オイ。当番。モウここへは来んかもしれんが、しかし今二、三日の間、当番を解除することはならんぞ。捜索本部を解散する時にはこちらから通知すると上等兵にいうておけ」
と憲兵中尉が宣告した。
「ハ……モウ二、三日間当番を解除することはならんと上等兵殿にいうておきます」
と復誦すると今度は珍しく曹長が笑顔を作った。
「フフフ。うまいことをするなあ貴様は……フフン。慰労休暇のようなもんじゃ。……ウン。それから新聞紙を一枚持って来い。イヤ封筒がよかろう。一枚でええぞ……」
「ハッ封筒を一枚取って来ます」
といううちに僕は部屋を飛び出して司令部から白い横封筒を一枚もらって来た。皆はその間に玄関に出ていたので、僕は追っかけて、自動車の外に立っている曹長に、封筒を手渡した。
曹長は封筒を受け取ると自動車に乗った。グッタリと顔を伏せている十梨の横に座りながらポケットから札束を出して数え始めたが、三百二十円あることを確かめると「ヨシ」といいながら扉を閉めた。同時に二人の憲兵上等兵が左右のステップに飛び乗ると、旧式のビックがガックリ後退しながらスタートした。その拍子に、札束を横にして封筒に入れようとした曹長の手許が狂って、外側の一枚の裏面がチラリと見えた。
「……アッ……」
と僕はその時叫んだように思う。敬礼するのも忘れて自動車の跡を追っかけようとしたが、追いつけなかったので、まった立ち止まって額を押えた。不思議そうに僕の顔を見ていた歩哨の視線から逃げるように、地下室へ駆け降りて、自分の寝台に引っくり返った。猛烈な勢で活躍し始める僕の脳細胞を、押し鎮めよう押し鎮めようと努力しながら両手をシッカリと顔に当てた。
僕は自分の耳を疑わなかった。今、曹長が数えている三百二十円は、たしかに十梨が、机の上に投げ出したソレであった。星黒が、公金の包みの中から引き出してくれたものだと、十梨が説明していた二十円札の十六枚に相違なかった。……しかも同時に僕は自分の眼を疑わなかった。タッタ今、その一番上の一枚の裏面がチラリと見えた瞬間に、その裏面の片隅に二つ並んだ赤インキの斑点の恰好(かっこう)をハッキリと僕は認めたのだ。
僕はその赤インキの斑点に見覚えがあった。忘れもしない前月の初めに、星黒主計が僕の前で、自分の棒給を勘定しているうちに、誤って赤インキのついたペン先を跳ね返した時に、くっついた斑点だったのだ。
僕は、その時に大急ぎで吸取紙を持って行ってやったので、そのインキの恰好をハッキリと印象している。大きいほうが吸取紙に押えられて象のような歪んだ格好になっていた。そのお尻の上に小さいほうの一滴が太陽の光線を放射していた。ちょうどお伽噺(とぎばなし)の挿絵(さしえ)か、印度の壁画みたような赤い影絵の形になったことは、不思議にハッキリと印象していたのだ。その時に吸取紙を投げ返した星黒が珍しく「ありがとう」といったせいかもしれないけれども……。
もし世の中に、同じ形の赤インキの斑点をつけた二枚の二十円札が、絶対に存在しえないものとすれば、あの一枚の札は確かに前月の初めに、星黒主計が自分の棒給として受け取って、旧式な博多織の札入に挾んで、内ポケットに納めた札の中の一枚でなければならんう。それがまる一か月経った二、三日前の土曜日に銀行から引き出したままの公金の束に挾っている理由は全体にありえない。金扱いの厳格な星黒主計が自分の紙入の中の金を、公金の札束の中へ突っ込むというのは、どう考えても不自然である。
星黒は殺されたのだ。十梨が掘った陥穽(わな)に陥って死んだのだ。
オベッカ上手で色男の十梨は、星黒を誘い出して公金を費消さした……その窮況に乗じて星黒に官金を盗み出さ舌。そうしてその金を奪い取ったのだ。そのポケット・マネーと一緒に……。
十梨はそんな事実の一切をくらますために、二日二夜がかりで恐ろしく骨の折れる芝居を打っているのだ。星黒が生き返って来ない限り絶対にわかる気づかいのない芝居を……。
十梨の知恵には頭が下がる。実地検分に行った憲兵は河岸で星黒の軍服の焼残りを発見するであろう。それから河岸の一件屋を検分するであろう。そうして十梨の言葉の真実性を認めたが最後、猛然として三姓の方向に突進するであろう。そうしてその結果は十五万円と、星黒の行くえを、永久に諦めて帰って来ることになるであろう。そうしてその結果は十五万円と、星黒の行くえを、永久に諦めて帰って来ることになるだろう。十梨の放免もそれと同時であろう。
かくして十梨は官憲の保障の下に十五万円の持主となりうるであろう。
……僕はイキナリ起き上って駆け出したい衝動にかられた。すぐにも憲兵隊に駆け込んで十梨の奸策をあばいてやろうか……と思ったが、また、思い直して寝台の上に引っくり返った。……イヤイヤイヤ。まだ早い。まだ早い……と気づきながら……。この事件が放射している、すべての謎(なぞ)の焦点を解決してしまわなければ……そうして動きのとれない実物の証拠を押えた上でなければ……と考えながら……。
あの二十円札は星黒を殺した時に、十梨が奪った物に相違ないのだ。そうして他の持合わせの札と合わせた三百二十円を、正直そうに憲兵の前に提出した一種の餌にほかならないことが、わかりきっているのであるが、しかしこれは僕だけがタッタ一人認めているにすぎないきわめて偶然の事実である。死んだ星黒が生き返ってきて、それに相違ないことを白状しない限り、絶対に確実な証拠とはいえないのだ。こうした証拠の性質を考えないでウッカリしたことを言い出しでもしようものなら、相手が無鉄砲な憲兵のことだから、あべこべにドンナ嫌疑をかけられるか知れたものでない。
そう気がつくと同時に僕は思わずブルブルと身ぶるいをした。この事件を仕組んだ人間の頭のヨサに今一度舌を巻いて感心しないわけにいかなかった。
見たまえ……
つい今しがたまで十梨の陳述によって木端微塵(こっぱみじん)に打砕かれていた僕の想像の空中楼閣がまたも、巍々(ぎぎ)堂々たる以前の形にモリモリと復活してくるではないか。しかもいきいきとした現実となって眼の前にうき出してくるではないか。
この事件の背後から糸を操っている者は、やはり銀月の女将(おかみ)に相違ないのだ。銀月の女将は表面上オスロフや星黒に好意を表しながら、内実は、十梨と肝胆相照らし合っているに違いないのだ。あの年増盛りの女将の男妾、兼、番頭として十梨はなんという適任者であろう。彼のロシア通とロシア弁と、持って生れた愛嬌とは、銀月の女将にとってドレくらい重宝なものであろう。
彼は最初から彼女の手先となって仕事をしていたもので、しかも目下がその大活躍のクライマックスに違いないのだ。彼は、彼が司令部の内情に精通している知識を利用した、事実無根のロシア文を彼女の注文どおりにタタキ出して、一気にオスロフを葬り去る手段を彼女に与えると同時に、一命を賭して十五万円の金儲けを企んでいるのだ。捜索本部の視線を他の方面に転向させるべく、巧妙を極めた芝居を打っているのだ。十梨のような男にとっては、あの女将の魅力が、ソレほどの苦労に価するに違いないのだ。犯罪の裏面に女……なんという古めかしい解決であろう。そうしてまた……。
「オイ。上村、手紙だぞ」
こう呼ばれた僕は、ビックリして寝台の上に起き上った。見ると眼の前に上等兵が立っている。
「昼間から寐る奴があるか。どこか悪いんか」
「ハ。すこし風邪を引いたようです」
と答えながら僕は手紙の上書を見た。「ハルビン、第二公園裏、銀月事(こと)、富永トミ方、阪見芳太郎――電二七……」とゴム印が捺してある。
前文ごめん下さいませ。先日は失礼いたしました。早速ですがその節お忘れになった銀側の巻煙草入れを、只今発見いたしました。お届けいたしましょうかそれとも御都合のっよろしき時お出で願われましょうか。まことに恐れ入りますが、おついでの時お電話をお願いいたします。とりあえず右まで御意を得ます。  敬具
上村作次郎様                                         阪見芳太郎
という邦文タイプライターの文句がその中味であった。
「何だ。貴様は銀月なんぞへ行って遊んだことがあるのか」
と上等兵は眼を剝いて尋ねた。僕は震える手つきを見せまいと苦心しいしい辛うじて答えた。
「イーヤこのあいだ公用でタッタ一度行ったことがあるきりです」
「その時に忘れて来たんか」
「そんな記憶はないのですが……銀の巻煙草入れなぞ持っていたことはないのですが……」
「ハハハ……いいじゃないかもらってきたら……」
「外出してもいいでしょうか」
「捜索本部は引き上げたんじゃないだろう」
「ハイ。モウ二、三日当番を解除しないようにと注意殿がいって行かれました」
「フーン。そんなら外出はお前の勝手次第じゃろ。おれの権限ちゅうわけじゃあるまい」
「ハイ。それじゃこれから出かけて来ます。すこし買物がありますから」
「また書物買いか。まあチットおもしろいやつを買うて来いよ。読んでやるから。ハハハ……」
と冗談をいいながら上等兵は出て行った。
僕はすぐに外出の支度を始めた。しかしそれは上等兵の手前だけで、実は息苦しいほどの気迷いの中に鎖(とざ)されていたのであった。
……正直のところ……僕は青天の霹靂(へきれき)に打たれたのであった。噂(うわさ)をすれば影というが、タッタ今、考えていたばかりの当の本人から、コンナふうに巧妙を極めた呼出しをかけられた僕は、ちょうど自分の想像どおりの幽霊にぶつかったような脅迫観念に襲われたのであった。
見たまえ……僕の想像が、想像でなくなりかけているではないか。
……こうした人知れぬ手段で僕を引っぱり出して片づけようとしている……もしくはこの事件に一と役買わせようとしている……らしい彼女の計画が、この手紙の書きぶりを通じてアリアリとうかがわれるではないか。
……彼女は僕が、兵卒らしくないアタマの持主であることを、タッタ一眼で看破しているのだ。同時に彼女は僕が、この事件に関する幾多の重大な秘密を握りながら、野心満々の虎視眈々(こしたんたん)たる態度で、司令部の当番に頑張っている人間であるかのように、想像しているに違いないのだ。ことによると彼女は、僕の身体がタッタ今閑散(ひま)になった事実と一緒に、その理由までも、憲兵隊の大げさな行動によって察知しているかもしれない……だからコンナ詭計(トリック)を平気で使って僕に呼出しをかけているのじゃないか……僕が十梨や何かと同様に二つ返事で飛んで来るであろうことを確信して……。
そう気がついた僕は、猶予なくこの手紙を持って特務機関の参謀のところへ行こうかしらん。そうして一身の処置を仰ごうかしらん……と思い思い震える手で脚絆(きゃはん)で巻いていた。
……これはおれみたいな人間の手に合う事件じゃない。いくら文学青年でも、兵卒は兵卒の仕事しかできないものなんだ。そればかりじゃない。この間、銀月の応接間でウッカリ軍機の秘密をしゃべっている以上、おれはモウ国家の罪人じゃないか。自訴して出る資格は十分にあるのだ……。
といったような事実に後から後から気づきながら、帯剣の尾錠をギューギューと締め上げていた。
おそらくその時の僕の顔は血の気をなくしていたであろう。屠所の羊とでもいいたい気持で、うなだれうなだれ地下室の怪談を登って行ったことを記憶している。そうしてソンナ気ぶりを察しられないように帽子を冠り直して歩哨に外出証を見せると、そのままこそこそキタイスカヤの人ごみに紛れ込んだことを記憶している。実はキタイスカヤの人通りというと、十人が十人外国人ばかりといってよかったので、かえって人眼をひくために紛れ込んだようなものだったが、それでも、そんな人ごみの中に揉(も)まれて行ったらそのうちに何とか決心がつくかもしれない……といったような心細い空頼みの気持から、そうしたのであったかもしれない。……そうしてまだ決心がつかないまま、どこを当てともなく歩いて行くうちにトルコワヤ街かどこかであったろう。偶然に眼についたりっぱな理髪店にはいり込んで、フラフラと椅子に腰をかけたまま、正面の鏡に映っている病人じみた自分の顔を、いつまでもいつまでも凝視していたことを記憶している。
それから先のことが僕としては実に書きにくいのだ。何とも申訳ない、面目ないことばかりが連続して起って来るのだから、なろうことなら割愛したいのが山々だが、しかし、それを書くのがこの遺書の眼目なんだからしかたがない。
眼の玉の飛び出るような料金を取られながら、格別驚きもせずトルコワヤ?の理髪屋を出た僕は、ショーウインドをのぞいたり、のろい貨物車に遮られている踏切を眺めたり、公園の劇場の看板を見上げたりして長いこと考えたあげく、ついフラフラと銀月の玄関に立ってしまつたのであった。
その時の僕の気持は僕自身にも記憶していない。しかしいずれにしても持って生れた臆病者の僕が、自分でもハッキリした自信のない証拠物件をもって、特務機関の首脳部の足下へ飛び込んで行く勇気を出しえなかったのは当然であったろう。そういって自分の卑怯さをいい逃れるわけではないが、そんなにしてドンドコドンドコのドン詰まで考えまわして……イッタイおれはホントウにこの事件に関係があるのか……ないのか……あるように思うのはおれの気の迷いじゃないか……とまで迷い詰めて、気が遠くなるほど、思い悩んだ僕が、結局、最後に残る事件全体の「不可思議の焦点」に引っ掛かって動きがとれなくなってしまったのはやむをえない帰結であったろう。「ニーナの短剣」に関する疑問を唯一の心頼みにして……銀月の女将が僕の味方か敵かを確かめてみる気になってきたのは、自然の結果として見逃してもらえるであろう。
もちろんそれは実にタヨリナイ雲をつかむような想像……というよりも、むしろ空想に近いヤマカンであった。非常識というよりもむしろばかばかしいくらい情ない「空頼み」式の心理状態であった。けれどもその時の僕としては、そうしたヤマカン式の「空頼み」よりほかにたどって行く道がないのであった。この疑問を解決してから自首して出ても遅くはない……この疑問を解決するためには何もかも犠牲に供してもかまわない……といったような絶体絶命の気持になったまま色ガラスと、茶色の化粧煉瓶と、蛇紋石で張り詰めた、お寺のような感じのする銀月の玄関に茫然(ぼうぜん)と突っ立っていたのであった。
それはたぶん午後の二時か三時頃であったろう。間もなく誰か奥へ知らせたものらしい。奥の方から昨日のとおり水々しい丸髷姿の女将が、いかにも驚いた格好で走り出て来た。そうして大きな声で「いらっしゃいませ。よくまあ……」といった。
それから僕はその夜の十一時頃まで一歩も外へ出なかったのだ。銀月の大建築の中でも、これがハルビンの市中かと思われるくらいもの静かな、茶室好みの粋を尽した秘密室のみごとさと、調度の上品さと、それにふさわしい水ぎわだった女将の魅力に、隙間もなく封じこめられていたのだ。東洋のパリを渦巻くエロ、グロのドン底の、芳烈を極めた純日本式情緒を満喫していたのだ。
もちろんそれはこちらから注文したわけではなかった。しかし昨日から一生懸命になって突き詰めてきた気持が、生れて初めて口にした芳醇な酒のめぐりに解きほごされ始めると、自分でも不思議なくらい大きな気持になってきたように思った。ちっとも酔ったような感じがしないまんまに、恐ろしいものが一つもなくなったような……。何でも思うとおりにしていいような……。
そうしてその気持が更に女将の技巧によって解放されると、いよいよスッキリとした、冴え返った酔い心地に変化していった。二度ばかり湯に入って、冷たいシャワーを浴びているうちに、頭が切り立ての氷のようになって、何もかもを冷笑してみたいような……平生の僕とは全然正反対な性格に変化してしまっていることを、自分自身に透きとおるほど意識していることまでも自分自身に冷笑してるような……。
しかも女将はその間じゅう、一度も事件に触れた話をしなかった。だから僕も銀の煙草入れの話なんかオクビにも出さなかった。これが銀の煙草入れと思っていたから……。
二人はお互いの身の上話を、おもしろおかしく打ち明け合った。平生無口の僕が妙にオシャベリになって今までのなげやりな生活の話を、なげやり式にブチマケたのに対して女将は、長崎を振出しにして東京、上海と渡り歩いて来た間に経験したいろいろな男の話をして聞かせた。そうして年の若い割に女に冷淡な男は、年を老(と)ってから情が深くなるものである。そうして、そんな男こそは一番頼もしい男だと聞いていたが、きょうがきょうまでソンナ人間に一人も出会わなかったといって笑った。だから僕も笑いながら彼女に杯を差した。
「それじゃ十梨が可哀そうだよ」と口元から出かかったのを我慢しながら……。
ところがその時だった。僕がよりかかっていた背後の床柱の中で……ジジジ……ジイジイジイ……ジジジ……と妙な音がしたのは……
……―― ・・・ ―― ― ―― ・・・……SOS!……
僕はビックリして振返った。万一の時の用心に床柱の中へベルが仕掛けてあることをタッタ今、聞いたばかりだったから……。
しかし女将は驚かなかった。
「待っていなさいよ」
と眼顔で押えつけながら立ち上って手早く帯と襟元を直した。
「ここはわたしだけしか知らない地下室だからね。平気で丹次郎をきめていないさよ」
といいいい先刻はいって来た押入の中の回転壁から出て行った。
僕もすぐ落付いてしまった。……女将はおれを味方につけて何かの役に立てるつもりだな……おれを片づけるつもりならコンナ馬鹿念の入ったもてなしをするはずはない……ということを最初の女将の素振りから百パーセントに感づいていたのだから……そしてアトは十五万円の在所(ありか)と、ニーナの短剣の行くえを探り出せば、一切合切が放了(ホーラ)になるんだ……と度胸をきめながら立ち上って室の隅のガソリン暖炉の火を大きくした。すこし酔い醒めがしてきたように思ったので……。それから元の座へ帰って、膳の横に置いてあるカットグラスの水瓶へ手をかけているところへ、思いもかけない次の間の衣桁(いこう)の陰から、幽霊のような女将の姿が現われたので、ちょっと眼をみはらせられた。
「何だったかね」
と僕は水を飲み飲み問うた。
しかし女将は答えなかった。崩れた丸髷をうつむけて下唇をかんだまま、僕の前まで来てペタリと座り込むと、イキナリ僕の手にあった水瓶を取り上げてゴクゴクと口から口へ飲んだ。それから気を落付けるらしくフーウッと一つ溜息をすると、僕の顔を真正面から見い見い大きな眼をパチパチさせた。
「どうしたんだ。いったい……」
女将はちょっと舌なめずりをした。
「お前さんはここへ来ることを誰かにいって来たの」
「ウン別段いったわけではないが……あの手紙を上等兵が見ていたからね」
「……まあ……あの手紙って何の事……」
「君が会計係の名前で出したじゃないか。銀の煙草入れを渡すから来いといって……だから来たんじゃないか」
女将はまた、眼をパチパチさせた。シンから呆れたような表情で僕を見ていたが、やがてジッと眼を閉じてうなだれた。何か考えているらしく肩で息をしていたが、そのうちにその呼吸がだんだん荒くなった。
僕はその間に冷えた杯を干していた。また何か芝居を始めるのかな……と思いながら……。
その眼の前で女将は一切を否定するような恰好で、丸髷の頭を強く左右に振ったと思うと、やがてパッチリと眼を見開いた。冷え切った顔色とすわった眼つき、いま一度ジイッと僕の顔を見た。空虚な怯(おび)えた声を出した。
「あんたは欺されているのね」
僕は返事をしなかった。モウ一パイ冷たい酒を干しながら次の言葉を待った。
「あんたは憲兵をばかにしていたでしょう。何ができるかと思って……」
僕は黙ってうなずいた。
「……それが、いけなかったんだよ」
「どうして……」
と僕は冷笑した。女将は鬢(びん)のホツレ毛を掻き上げたが、嘘かホントかその指がわなないていた。やはり静かな怯えた声でいった。
「……笑いごとじゃないんですよ。憲兵は最初から、あの司令部の中に赤軍スパイがいると思って疑いをかけていたんだよ。そうしてそのスパイがイヨイヨあんたに違いないことがわかったから、わざと実地調査にかこつけて捜索本部を引き上げたんだよ。そうして、あんたを偽手紙で追い出しておいてあんたの私物筥(ばこ)から何からスッカリ捜索したに違いないんだよ」
「どうしてわかる」
「あんたはわからないの」
「わからないね」
「うちの会計の阪見はその筋のスパイに違いないんだよ。お金を取立てに行くふりをして、いろんな人たちと連絡を取っているに違いないんだよ。わたしはズッと前から感づいているんだけど……」
女将の言葉はどこまでも静かに怯えていた。
僕はジッと腕を組んで考えた。ここが生死の瀬戸ぎわだと思って……。その間に女将は話し続けた。一々念を押すようにくり返して……。
……十梨と阪見は、どちらも特務機関の参謀に直属する軍事探偵で、十五万円事件は単にオスロフを葬るための芝居にすぎなかったらしいこと……。
……星黒はキット無事でいて、どこかに隠れているに違いないこと……。
……オスロフ殺しの陰謀簾中は、無理にも全体の責任を僕……上村当番卒の仕事にして発表して白軍と、ハルビン市中にいるオスロフの乾児(こぶん)たちの不平を押えうtけようとしているに違いないこと……。
……ツイ今しがた会計の阪見が家の中をグルグルまわって誰かを探しているらしかったが、間もなく司令部から電話が掛かって、女将へ直接に、僕の行くえを問い合わせてきたこと……。
……だから女将はとりあえず「モウお帰りになりました」と返事しておいたが、しかし司令部が、そんなことで納得したかどうかわからない。……だからモウ銀月の周囲には、水も洩らさない網が張ってあるに違いないこと……。
……だからその網が解けるまでこの部屋に隠れていなければならないこと……。
そんな話を聴いているうちに僕はニヤニヤ笑い出した。……笑わずにはいられなくなったからだ。そうして無言のまま立ち上って、部屋を出て行くべり押入れの襖(ふすま)を明けた。
その時の僕の冷静だったこと……気を強かったこと……今思い出して不思議なぐらいであった。
さすがの女将も、そうした僕の態度を見るとハッとしたらしい。長襦袢(ながじゅばん)の裾を乱しながら中腰になった。
「どこへ行くの……あんたは……」
「ウン。司令部へ帰るんだ」
「そのままで……」
「ああ。何なら軍服を出してくれたまえ」
「……出して……あげてもいいけど何しに帰るの」
「わかりきっているじゃないか。自首して出るのさ」
女将は毒気を抜かれたらしくペタリと座り込んだ。今度こそホントウに驚いたらしい。ホッと太い息を吐いた。
「……まあ……殺されてもいいの」
僕は冷笑し続けた。ヤット芝居気の抜けた女将の態度を見下ろしながら……。
「むろん。覚悟の前さ。僕が銃殺される前に何もかもわかるだろう。ホントの事実が……」
「…………」
「僕は嘘を吐(つ)くのは嫌いだ」
「……まあッ……」
と女将は僕に飛びついて来た。色も飾りもないしんけんな泣き顔になった。
「……あんたは……わたしを棄てて行くの……」
「ああ。そのほうが早わかりと思うからさ。なるべく身体を大切にして、余計気苦労をしないようにしてね……か……ハハハ……」
女将の顔色がサッと一変した。僕の両腕をシッカリとつかまえたまま、眼をむき出して振り仰いだ。その顔を見ると僕は何かしら、あらん限りの残忍な言葉を浴びせてみたくなったから、不思議であった。
「ハハハ。何も驚くことはないさ。女の知恵ってものは底が知れているからね」
「…………」
「阪見は要するにお前さんのオモチャさ。骨抜人形さ。モットはっきりいえば男妾さ。まだ会ったことはないが、大概寸法はきまっている。ね。……そうだろう。僕に出したアノ手紙はこの家にある器械で打たせたんだろう。お前さんが大急ぎで阪見に口うつしにしてね……そうだろう……女の文章はじきにわかるんだよ……僕には……」
「…………」
「それでも何もかわかるじゃないか。十五万円事件の邪魔になるオスロフは十梨が打った密告文で片づいた。星黒主計も、十梨とお前さんとの知恵で始末してしまった。日本の憲兵はどこまでも日本の憲兵で内地の警察とは違うんだから。絶対に筋書がばれる気づかいはない。アトは十梨か僕かという寸法だろう。浮気なお前さんのことだからね。ハハン……」
「…………」
「僕はね。僕のアタマの良さに愛想が尽きたんだよ。何もかもわからなくなっちゃったんだよ……タッタ今」
まっ白になるまでかみしめていた女将の唇の両端がビクビクと震え出した。両方の白眼がギリギリと釣り上って血走った。
「……だから……僕が銃殺されたら何もかもわかるだろうと思ってね……ハハハ……」
僕の両腕をシッカリと握っている女将の手の戦(おのの)きが明瞭(めいりょう)に感じられた。そうして血走った白眼が、みるみる金属じみた光をキラキラさせ始めたと思う間もなく、女将は素早く僕の両腕を離して、黒繻子(くろじゅす)の帯の間に指を突っ込んだ。
予期していた僕は、その手を引っつかんで思い切り引寄せた。キラリと光るピストルを引ったくりざま力任せに突き飛ばした。
女将の身体にはニーナの半分ほどの力もなかった。ヒョロヒョロと背後へよろめいて行く拍子にガソリン暖炉を蹴返すと、細いパイプで繋がっていたタンクがケシ飛んで青い焔がパッと散った。女将の白い膝小僧のまわりから、水色のゆもじの裾にかけて飛びついた……と思ううちにあわてて起き上りかけた女将の顔の前を、ボロボロとオリーブ色の焔(ほのお)が流れ広がった。
「アレッ……助けてッ」
と叫びながら女将は火の海の中を僕の方へはい出して来た。焼けた片鬢の毛をブラ下げながら……
「……お金を……お金を……みんな上げるから……アレッ……」
その地獄じみた表情を見ると僕はいっそう残忍な気持になった。……何だ腐った金……といいたい気持でその顔を目がけて力一パイ短銃(ピストル)をタタキつけると、立ち上りかけた女将の胸に当った。それをあわてて拾い取りながら彼女は、僕に狙いをつけようとしたがモウ駄目だった。
その執念深い、青鬼のような表情が、みるみる放神したように仏顔になって行った……と思うと、白い唇をワナワナと震わしながら、黒焦げの斑紋を作っている畳の上にグッタリと突っ伏してしまった。
僕は悠々と押入れの中にはいって、襖をピッタリと閉め切った。はいりがけに見て来たとおりに正面の回転壁を抜けて、木の香のこもった湯殿へ抜けて、何の苦もなく地下室の階段に出た。
その階段の上の廊下へ出て、マットの下の落し戸をキチンと閉めてしまったところへ、知らない女中が一人通りかかったかわ、何食わぬ顔で、
「僕の軍服を出してくれないか」
と頼んでみると、
「ハイ。かしこまりました」
というなり大きな鏡のある西洋間に案内した。芳ばしいお茶と一緒に番号札の付いた乱籠(みだれかご)を出してくれた。
……ナアンダイ……と思わせられながらチャンと着換えて玄関を出た。
往来を司令部の方向へ一町ばかり歩いてみたが誰も咎める者がない。張番らしい人影すらも見えない。星の光が大空一バイに散らばっているばかりである。


人間の運命というものは大てい、一本調子の直線か弧線を描いているものだが、それでも時々人を驚かす。だから、それが抛物線なぞを描いてこようものなら、ドレくらい、人を不思議がらせるかわからない。
ところが僕の場合は、それが突然にポキンと折れ曲った鋭角を描きあらわしてきたのだ。
それから一時間ばかり後の僕は、快速らしい白塗りのモーターボートに乗って、松花江を下流へ下流へと滑走していた。運転をしているのは一昨夜、僕を刺そうとしたニーナで、時速七、八マイルも出していたろうか。
「このボートはイギリスの石炭屋さんが置いて行ったソアニー・クロストの十二シリンダーよ。素人に扱えないから買手がなかったんですって……七十五マイルまで出るっていうのにタッタ八百五十ドルだったのよ」
とニーナが説明したが、しかし万一を警戒するためにランタンを消して、なるべく岸沿いに走っていたので、微かな機械の音とダブリダブリと岸を打つ波の音しか聞えなかった。細い月はもうトックに上流の方へ堕ちていたが、それでも河明りがタマラなく恐ろしかったことを考えると僕は、いつの間には酔いから醒めていたらしい。
ニーナは片手で巨大な日本梨をかじっていた。ガソリンの罐を蔽(おお)うたアンペラの上に、新聞紙に包んで並べてあった一つを、ニーナがいうとおりに丸剝(む)きにしてやったものであった。
それを受け取ったニーナはしばらくジイッと考えていたようであった。何が悲しいのか梨を持った右手の黒い支那服の袖で、シキリに眼をコスリまわして、涙を拭いているようにも見えたが、やがてガブリと梨の横っ腹にかみついて、うまそうに頰を膨らますと、汁を飲み込み飲み込み話し出した。案外に平気ななげやりな口調で……。
「……どこまでもアンタと一緒に行くわ、アンタのような何も知らない正直な人間を、仕事の邪魔になるから殺す……あんて決議をした奴らはモウ決議した時からわたしの敵だわ。日本の官憲だって白軍だって何だってアンタに指一本でもさした奴はミンナ敵にしてやるわ。だってアンタを怨んだり罰したりする法なんてどこにもないんだもの。
……イイエ。アンタは何も知らないの。無頼漢街(ナハロカ)と、裸体踊りと、陰謀ゴッコがハルビンの名物だってことをアンタは知らないでいるのよ。殺される訳がないったって殺される時には殺されるのがハルビンの風景なんだもの。だから何が何だか見当がつかなくなるはずよ。間違いないのはお太陽(てんと)様と松花江が毎日反対に流れていることだけなの、そうしてその中でわたしがタッタ一人ホントのことを知っているだけなのよ……そうじゃないっていうならアンタの手から短剣を奪り上げて行った人間の名前をいってごらんなさい。当ったらえらいわ……ホーラ。ネ。知らないでしょう……ホホホ……。
……だからわたしのいうことをお聞きなさいっていうのよ。馬鹿正直に人のいうなりになって、何が何だかわからないままマゴマゴウロウロしているうちに、ヘッドライトもサイレンも番号札も何にもないトラックの下に敷かれっ放しになったらドウするの……誤解の解けるまでどこかに隠れて身の明りを立てなくちゃ噓だわよ……捕まりそうになったらかまわない。この河をハバロフスクまで行って、あそこで油と食料を買い直して、それからニコライエフスクまで下って行く。そこから汽船で樺太に渡って日本に逃げ込むだけのことよ。わたし日本が見たくて見たくてたまらなかったんだからちょうどいいわ。
……わたしは主義とか思想とかいうものは大嫌いだ。チットもわからないしおもしろくもない。『理屈をいう奴は犬猫に劣る』って本当だわ。
……わたしには好きと嫌いの二つしか道がないのだ。わたしはその中で好きなほうの道を一直線に行くだけだわよ。
……わたしが赤軍に加勢していたのはアブリコゾフを好いていたからだ。わたしはツイ二、三日前まで赤軍がドンナ事をしているものなのかチットも知らなかったのだ。ただアブリコゾフを生命がけの男らしい仕事をしている人間と信じきっていただけだ。それ以外に何の意味もなかったのだ。
……今だってオンナジことだ。わたしは何がなしにアンタを救い出さずにはいられなくなったのだ。赤とか白とかいって卑怯な陰謀の引っかけくらばかりしているサナカに、アンタみたいなお人好しの正直者を放ったらかしておくのが恐ろしくてたまらなくなったのだ。コンナ危なっかしいばかばかしい鬼ゴッコの中から、とりあえずアンタを引っぱり出してしまいたくなったのだ。そうして二人でコッソリと事件のドン底に隠れている十五万円を探り出して、日本の官憲と、白軍と、赤軍を一ペンにアッといわせてみたくなったのだ。
……わたしはブルジョアでもプロレタリアトでもない。だからブルジョアでもプロレタリアトでも乞食でも泥棒でもかまわない。正直な一本調子の人間が好きだ。だから賄賂を取らない、嘘を吐かない、ニューとしているう日本の官憲は、地下室にモグリ込んでゴジャゴジャした策略ばかり考えているロシア人だの、ジャンクの帆みたいに噓のツギハギをして行く中国人なんぞよりもドレくらい好きだか知れやしない。
……だけども惜しいことに日本の軍人はアンマリ正直すぎるようだ。人の良い、職務に忠実な日本の軍人は悪い知恵にかけてはトテモ普通の日本人にかなわないようだ。銀月の女将と十梨通訳が掻いた筋書に手もなく乗ぜられてオスロフをどうかしてしまったのを見てもわかる。それが大間違いだったことは、赤軍の連中が肩を組み合って喜んでいたのを見てもわかる。星黒だってそうだ。軍人だけに正直すぎたから殺されたのだ。日本の軍人は普通の日本人と人種が違うのじゃないかとわたしは思っている。
……その日本の軍人の中でもわたしはアンタが一番好きになっちゃった。わたしはアンタが銀月の中にはいったことを知っていたけど、チットも心配なんかしなかった。アンタはほかの軍人とおなじくらい正直な上に、赤の連中がビリビリするくらい頭がよくて、おまけにスゴイ勇気と力を持っているんだからね……銀月の女将の手管なんかに引っかかる気づかいは絶対にない。キット無事に切り抜けて、銀月を出て来るに違いないと思っていたんだからね。
……イイエ。オベッカなんかいったらわたし、憤(おこ)るわよ。わたしはモウそのズット前からアンタを見ぬいていたんだよ。……わたしがアンタを殺そうとしてタタキつけられたでしょ。あの屋上でさ。あの時からよ……あの時からわたしはアンタを殺すのをやめたんだよ。アンタが弱虫弱虫っていう評判を聞いていたから、真実かと思ってたら、トテモ強いんだもの……おまけにあの素早さったら……トテモこの人にはかなわないと思ったわ。だから助けてもらった時には、ずいぶんきまりが悪かったわ。
……アンタの手から短剣を奪い取ったのはヤッパリわたしよ。……ナアニ……何でもなかったの……わたしはあの時に追っかけて来た憲兵をモウ一度梯子の陰に隠れてやり過したの。どこの憲兵でも、あんなボコボコした長靴をはいているからだめよ。犯人を逃すためにはいているようなもんよ。だけどその憲兵が行ってしまった後で、わたしはフト短剣の鞘(さや)だけ握っているのに気がついたから、惜しくなって引っ返したにょ。キットそこいらに落ちているに違いないと思ってね。……ただそれだけのことだったのよ……だってアノ短剣は、モスコーできの上等なんだもの。惜しいじゃないの、今ここに持ってるわ…・・アンタだって抜身のまま持っていたらけがするじゃないの……ホホホ……。
……ところが引っ返してみるとアンタが大舞踏室の窓からのぞき込んでいるでしょう。今にも飛び込みそうな恰好で、わたしの短剣を逆手に握っているでしょう。だからわたしもソーッとアンタの背後から室の中をのぞいてみたらタッタ一眼で、何もかもがだめになったことが判明したの。それと一緒にアンタがこんな所へ飛び込んで、オスロフを助けようとするのは危ないと思ったから、思い切って短剣を引ったくるとそのままモウ一度、屋上から裏階段へ抜けて駆け降りたの。そうして通りがかったタクシーに飛び乗って埠頭へ来て、そこから向う岸のコサック部落に住んでいるドバンチコっていう花造りの爺やの所へ遁込(にげこ)んだの。
……おのドバンチコっていうのは、ズット前にわたしの所に居た掃除人でね、わたしの身の上をよく知っていて、陰になり日向になり可愛がってくれた、トテモ信心深い爺やなの。それだのに銀月の女将の意地悪が、司令部の内情を探らせたいばっかりにオスロフを欺して、アノ馬鹿聾(ばかつんぼ)に化けた朝鮮人夫婦をわたしんとこへ押し込んだおかげで、とうとう追い出されてしまったのよ。わたしはお母様から聞いてチャント知っていたけど、爺やがいっちゃいけないっていったから黙っていたのよ。それあ可哀そうな正直な爺やなの……わたしその爺やにアンタの話を聞かせてビックリさせてやったわ。わたしもずいぶん無鉄砲だけど、アンタの向う見ずに負けちゃったわ。あのサナカに飛び込んでオスロフを助けようなんて……。
……ドバンチコ爺さんはわたしの話をトテモ感心して聞いていたわ。マン丸く見開いた眼に涙を一パイにためてね。そうして、『その上村という兵隊さんこそホントウの勇者だ。キット正教会の信者に違いない』っていって眼をショボショボさしていたわよ。なぜっていうとね正教会のお説教の本にコンナ文句があるんですって……『一羽の雀だってけっして無駄に殺しちゃいけない。神様がその雀にお付けになった価値は、殺した後でなければわからないものだ。そうしてその時に殺した人間はキット後悔するものだ』っていうのよ。だからむやみに人を殺そうとしてはいけないっていって、わたしは昨日からさんざんお説教を聞かされちゃったのよ。
……わたしはそのお説教にスッカリ降参しちゃったわ。感心しちゃったわ。だってチャンとそのとおりになってきたじゃないの。ね。……アンタは一羽の雀よ。いいこと……ホホホ……。
……わたっしと夫婦約束していたアブリコゾフが捕まったことは、ドバンチコの所へ行ってから聞いたのよ。おかげで赤軍の秘密がバレてしまったといって、その話を知らせに来たレポーターが憤慨していたわよ。わたしはそれっきりアブリコゾフに愛想が尽きてしまった。あんた意気地のない襤褸男(ぼろおとこ)とは夢にも知らなかった。
……けれどもわたしは口惜しがる隙なんかなかった。今度はアンタを救い出さなければならなかったから……。十五万円事件の陰謀と、赤軍の計画しているハルビンの掻きまわし計画と。オスロフ一家の秘密死刑に対する白軍のヒドイ怨みの中から、どうしてアンタを救い出そうかと思って一生懸命になっていた。
……わたしはそのために思い切ってバリカンで頭を刈ってしまった。それから中学生に化けたり、メッセンジャーボーイの自転車を乗り逃げしたりして、町じゅうに散らばっている赤軍のスパイから情報を聞き集めているうちに種々な事がわかってきた。
……何よりも先にハルビン付近の赤軍には『日本軍が遠からず満洲から引き上げるに違いない。だからそれを機会にハルビンを中心にして満洲を赤化してしまえ』という指令が来ていたので、各地方から、あらゆる優秀なスパイを集注させていた。だから今度の事件でも赤軍のほうから探らなければトテモ真相がつかめなかったに違いない。その中でも朝鮮銀行から出て行く日本軍の軍資金は、ズット前から赤軍が涎(よだれ)を垂らしていたもので、それについて金費いの荒い星黒主計と十梨通訳の行動なんかが、スパイ連中の注意の焦点になっていたのだからたまらない。何もかも手に取るようにわかっていた。
……星黒と十梨が十五万円を拐帯して土曜日の晩に逃げ込んだのは、やっぱりあの料理屋の銀月だった。それまで二人はどこかに隠れて飲んでいたらしい。日が暮れてからテイルランプを消した自動車に乗って銀月に乗りつけた2人の姿が、張り込んでいたスパイの眼にチラリと止まったのだ。
……だけど星黒は可哀そうに、その晩から、そのあくる日の日曜日の晩にかけて、殺されるかドウかしてしまったらしいの。
……なぜっていうと星黒は、その土曜日の晩から月曜日の夕方まで一度も姿を見せなかったのに、十梨は土曜日の夜遅く、一旦、司令部に帰って、その翌る朝早くモウ一度銀月へ行くと、スッカリ姿を変えて裏口から出て来た。カーキ色の飛行服に身を固めて、大きな塵除けの眼鏡をかけて、大型のトランクを積んだサイドカーを押していたので、ちょっと誰だか見当がつかなかったが、それでも背丈の高さと猫背の恰好が、どうやらソレらしく見えたので、もしやと思った張込みの赤の一人が、自転車で一生懸命に追いかけてみた。すると、そんなこととは気ふかないらしいサイドカーが、意外千万にもグングン傅家甸を突き抜けて、格別用事のありそうにもない河沿いの堤防の上を、一直線に下流の方へ飛ばし始めたので、スツカリ面食らわせられてしまった。そしてとうとう途中で遅れて見失ってしまったが、それでもヤット四十露里ばかり下流の河岸で飛行服を脱いだ通訳姿の十梨が先刻のトランクとサイドカーを河に没(しず)めているところに間に合ったから、その位置を間違わないように見定めた。
……それから十梨は、そこいらに落ちている流木を拾い集めて、一露里半ばかり隔たった所にある小高い丘の上に登って行った。そこで手に持った包みの中から、軍服らしいものを取り出して、流木と一緒クタに石油を振りかけながら焼いている様子であったが、距離が遠かったから、その軍服の肩章や、襟章なんかはよくわからなかった。そのうちに十梨は立ち上って、地図らしいものをポケットから出して照らし合わせながら、四方八方を見まわし始めたので、見つかっては大変と思って、草の中に潜りながら引っ返して来たが、十梨の姿は、そのまま下流の方向へ、草を分け分け消え失せて行ったようであった……という報告が、その日の午後になって、ナハロフカの旧教会に隠れている、赤軍の首脳部のところに来た。
……赤軍の首脳部の連中は、こうした十梨の怪行動について、ずいぶん頭をひねっていた。星黒は自分で軍服を焼いたように見せかけているらしいことは、アラカタ推測がつくが、それから徒歩で、下流の方向に行った理由が、どうしてもわからないといって困っていた。前の日の土曜の晩に、コッソリ星黒を誘い出して、そこまで連れて来て殺したのじゃないか。そうしてモウ一度空っぽのトランクを持って後始末をしに行ったんじゃないか……といったような細かい説明をつける者もいたが、しかし、どっちにしてもそのトランクの中身が、お金じゃないかという疑いはみんな十分に持っていた。
……赤軍の連中は、だからその晩の七時半頃に、四、五人でサイドカーとオートバイ飛び乗って、現場に行ってみた。わたしもその中に混っていたが、案内に立った赤の一人が、『ここだ』と指さした川隈(かわくま)に小さな碇(いかり)の付いた綱を投げ込んで、サイドカーと結び合わせて沈めてあったトランクを草の中に引き上げて、細い月あかりの下で開いてみると、中からは、後頭部と下腹部を背後から射抜かれた星黒主計の、丸裸の変色死体と、十梨が脱いで行ったらしい飛行服と、重たい鉄片が出て来た。それは、ずいぶんスゴイ見物であったが、しかし、お金は一文もはいっていなかったから、そのまま元のとおりに暗い水の底へ沈めて来た。
……だから……そうした事実から考え合わせてみると、十五万円のお金は、十中八九まで銀月の中のドコかに隠してなければならぬ。つまり銀月の女将と、十梨通訳だけが知っている秘密の場所にしまってなければならないはずであったが、そうした場所は今のところ銀月の家の中よりほかに考えられない……というのが、みんなの一致した意見だった。
……銀月の女将がカタリナ皇后にも負けない大悪党で、十梨がそのお先棒になっている証拠は、あれだけの事実で百二十パーセントに裏書きされてしまった。……もっともモウ一人、阪見って男が、銀月の男妾になっているって話だけど、この男は、大変な飲み助で、いつもグウグウ寝てばかりいるので、赤軍ではテンデ問題にしていなかった。打っちゃっておいたら今にキット、十梨が銀月に入り込むに違いないっていっていた。
……銀月の女将はアンタを味方につけて、何かの役に立てようと思って御馳走をしたに違いないのだ。万一、十梨が裏切りそうな素振りを見せた場合に、アンタの手で片づけてもらおうと思ったのかもしれない。それともアンタを殺すか、お金をやって逃がすかして、司令部の中の事を銀月に内通していたのはアンタだと思わせようとしたのかもしれない。それともモット都合よくいけば、自分と十梨の罪をスッカリ、アンタに塗りつけて今までの陰謀の尻拭いをする計画だったのかもしれない。
……銀月から出た邦文タイプライターの呼出し手紙がアンタに届いたことは、赤の一人が化けていた郵便配達夫から、すぐにナハロフカの首脳部へ通知してきた。すると陰謀に馴れ切っている首脳部の連中はタッタそれだけで、今いったように底の知れない女将の計画を察して、その頭のスゴサに驚いていたが、また、そのうちに間もなくアンタが、ハルビン一流の床屋でお化粧をして、銀月に乗り込んだことを見張りの者が知らせて来たので、赤軍の連中は今更のように女将の魔力に驚いていた。そうしてすぐにもその計画の裏をかいて、十五万円をこちらの物にするために、アンタを赤軍に引き入れようか、どうしようかと相談を始めた。
……わたしは赤軍の首脳部がアンタのことをあんまり詳しく知っているので気味が悪くなってしまった。それはアンタが、司令部のお使いを一人で引き受けているばかりでなく、女や、酒や、賭博なんぞを見向きもしないのでみんな不思議がっていた……ばかりでなく閑暇(ひま)さえあればハルビンの市中を歩きまわって、何かしら視察したり研究したりしているらしいので、もしかすると日本政府の秘密監察官(ゲーペーウー)みたような人間じゃないかと思って怖がっていたせいらしい。しかし一方には、アンタがそんな人間じゃない。アンタは正直な日本の兵隊さんでおとなしいお坊ちゃんにすぎない。……アンタが本屋から買ってゆく楽譜や雑誌が、高尚なクラシカルなものに限られているのを見てもわかる……という者がかなり多かった。しかしアタマだけは通りがかりの兵隊さんと違っているから、この際にウッカリしたことをいい出して、アベコベにこちらの秘密を見抜かれるようなことになっては大変だ。このまま放っておいて見殺しにしたほうがいい。そうして万一無事に銀月から出て来るようなことになったら、司令部に帰り着かないうちに、手軽く片づけたほうがいい。十五万円の金を取り出す機会は、アトでいくらでも考え出せるだろう。アンナ頭のいい人間が司令部にいたら、将来の仕事の邪魔になる虞(おそ)れがある。現にニーナさんのサボテン通信の秘密を見破ったくらいだし、アブリコゾフを押えて根こそぎ白状させたのも、あの当番卒の働きかもしれないのだから、今のうちに片づけたほうがいいという説が出て、ヤッサモッサと大議論の末、とうとうアンタを抹殺することに話がきまって、その役目をわたしが仰せつかってしまった。その時にもわたしは思わずカーッとなったけど、よく考えてみるとトテモいい都合だと気がついたから知らん顔をして引き受けておいた。
……しかしその次に提出された十梨通訳の処分問題は、アンタと正反対に満場一致で、わけもなく可決された。
十梨通訳は元来上海にいる中国人の富豪と日本人の妾との間に生れた混血児で、第三インターナショナルに属する欧露人の手先になっていたものであったが、母親と一緒に東京に帰っているうちに、上手に履歴書を偽造して、日本軍に雇われたばかりじゃない。欲道心に〇国の軍事探偵みたようなお役目までも秘密に引き受けていることが、思いがけないところからわかってきた。……というのは、ほかじゃない。十梨は英語と中国語ができないことを自慢みたようにいいふらしていたが、ズット前、平康里で中国人の娼婦をからかっていた言葉が純粋の上海語だったので、もしやと思って四馬路の支部に問い合わせてみると、案の定、今いったような事実と一緒に、上海で十梨を買収していた〇国人の名前を通知してきたばかりでなく、チョクチョクと小怜悧(こりこう)に裏切りしてまわるのが、十梨の持って生れた性分らしい……といったような余計なことまで、付け加えてきたのであった。
……だから赤軍の建前からいうと、十梨はすぐに裏切者として、処分しなければならないはずであった。上海からも催促してきているくらいであったが、しかしそれは十五万円の行くえがわかってから後のほうがいい。星黒が盗み出した金はたぶん、銀月の中のどこかに隠してあると思われるが、しかしまだハッキリとした断定はできない。十梨だって油断はしていないに違いないから、ことによるとお金はまだ銀月の女将に引き渡さないで、どこかに隠していないとも限らぬ。だからそれを一分一厘間違いないところまで探り出すには、無罪放免となった後のあいつの行動に気をつけているのが一番早道だろう。
そうしてイヨイヨお金の在所(ありか)がわからなければ、引っ捕えて白状させることにしよう。それから処分しても遅いことはない……ということにきまった。だから十梨を片づける役目は、まだ誰にも指命されなかった。
……わたしはソンナ剃団がアラカタきまると、話の変らないうちに大急ぎで対岸のドバンチコ爺やの所へ帰った。けれども今度は爺やに何も話さなかった。あの爺やはモウずっと前からわたしの性分を見ぬいていたんだからね。……お嬢さんの身体にはコルシア人の血が流れている。しかもそれはウッカリすると神様に反逆しようとする恐ろしい血だ。憎らしい人間にめぐり合うと、その人間の息の根を止めなければドウしても承知できなくなる血だ。コルシカ人はそれを正義の血といっているけれども、それは人間世界の正義で、神様の世界の正義じゃない。……とか何とかトッテモむずかしいことをいって、間がなスキがなお説教をしていたんだからね。ソンナ爺やにわたしが今思っているようなことを珀分の一でも話そうもんなら、それこそ生命がけで邪魔するにきまっているからね……。
……だからわたしは家へ帰って、ドバンチコのお神さんやウジャウジャいる子供たちと一緒に正餐(せいさん)を食べてしまうと、みんなが球根を片づけに行った隙にコッソリと裏口へ抜けて、花畑の向うの廐(うまや)の天井裏にはい上って、そこに隠しておいた宝石だのお金だのを取り出した。それはみんなアブリコゾフやオスロフからもらったものばかりだったが、それから河を渡って傅家甸の中国人の資産を二、三軒まわっているうちに、わたしの顔を知っている中国人がいて、一番大きな贋造紅玉(にせルビー)を、一番高く値踏みしたから、そこでスッカリ片をつけてしまった。それから河岸のヨットクラブへ引っ返してズット前にオスロフが買いかけたことのあるこのモーターボートと、油と、そのほかいろんなものを買い込んだ。実をいうと郊外の踏切から線路(広軌)の上に自動車を乗り上げて走ると、汽車よりもズット早く逃げられると思ったけど、汽車の通らない時間を調べるのが面倒臭かったし、途中で警戒されているといけないからよした。
……それから色眼鏡をかけた中国人に変装して、銀月の横町に、自動車を用意して待っていた。幸せと銀月には何の警戒もついていなかったので、冒険する必要はなかったが、その代りずいぶん待ち遠しかった。第一警戒がないために、アンタが銀月にいるかいないのか、確かな見当がつかなかったので、何とかして探り出す方法はないかとソレばっかり苦心していた。
……すると、ちょうどいいことに十時頃だったか、赤軍の本部にいる可愛いメッセンジャーボーイの姿をしたレポーターが、自転車に乗って通りかかった。その小僧は路次の中に隠れているわたしの姿を見るとすぐに片手をうしろ向きに上げて『引き上げろ』という合図をしたから、わたしは大急ぎで追いついてハンドルをつかまえながら、路次へ引っぱり込んで様子を聞いてみると、その話がトテも大変なの……『ニーナさんはこの前に上村一等卒を殺しかけてシクジッタんだから、サッキの指令は取り消したほうがいいっていうことに、首脳部で話がきまった』ってその小僧がいうの。そうしてその代りに、日本軍の司令部へ宛てた密告書を出すことになった。『上村一等卒はオスロフに買収された赤軍のレポーターだ』っていう内容で。白軍から出したように見せかけた手紙を、タッタ今セントランの郵便受箱に入れて来たところだ。その中には、今までの上村一等卒の怪しい行動がみんな書いてあるから、大てい申開きができないで殺されるだろう。それよりも司令部の連中が今の間にその手紙を見て、こちらの方に手配りを始めた。『ケンノンだから早くどこかへ逃げなさい』といううちにその小僧は顔をまっ赤にしながら、わたしを振り切って逃げて行った。
……可哀そうにあの小僧は殺されているかもしれない。なぜっていうと赤軍では、ドンナに無茶な指令を出しても、その理由を絶対に説明しないことになっている。そうして万一それを犯したことがわかったら、事情のあるなしにかかわらず死刑にする……という厳重な規定があるのだから……もっともわたしはハルビンの赤軍の中でもタッタ一人の女だったし、今までの仕事もあったおかげで、首領株とおんなじに信用されているんだから、あの小僧もそのつもりでウッカリしゃべったかもしれない。
……ところでわたしはその指令を受け取っても動かなかった。あの小僧と一緒に死刑にされてもガンバリ通す決心をしてしまった。その指令のおかげでアンタが銀月の中にいることが確かになったのだから、イヨイヨ度胸をきめて、そのまんま辛抱を続けていると、ヤット十一時頃になってアンタがブラリブラリと出て来たから、イイキナリ短銃を突きつけて自動車に乗せた。それからアトをつけられているか、どうかを見るためにトルワコヤ街を下って、チャリナゴナリナヤ街を一直線に、鉄道工場の横まで来て自動車を帰して、線路を乗り越して河岸からこのボートに乗り込んだのだ。もはやヨットクラブの前を乗り越したし、鉄橋の下も傅家甸の横も通り抜けたから大丈夫だ。アトは今の間にわたしの裏切りを感づいて、河岸に出ているかもしれない赤軍の監視と、モット下流の方で星黒の行くえを捜索しているかもしれない日本の憲兵隊が怖いだけだ。
……しかし、それよりも何よりも、わたしが一番怖かったのは誰でもないアンタだった。アンタがわたしの変装を一眼で見破っているらしいのに、両手をポケットに突っ込んだままわたしのいうなりになってきたので、何をされるかわからないと思ってヒヤヒヤして来たが、タッタ今、梨をむいてくれたので、ホット安心した。……けれど、それと同時に、アンタが日本の官憲に逮捕されても、やっぱりあんなふうに黙りコクったまま銃殺されてしまうのかと思うと、悲しくなって涙が出た。
……でも、そんなに苦労をしたおかげで、アンタとわたしだけが、こうして助かることができたんだから嬉しい。ホントウのことを正直に話す勇気のある男はアンタとわたしだけだから……。
……わたしはオスロフを可哀そうとは思わない。あの男は、あれで、なかなかの好色漢だ。満洲里にもポタラニーチナヤにも妾(めかけ)を置いているのだ。おまけに奧さんが肺病だもんだから、死んだらわたしをオメカケにするつもりでいることが、奥さんに秘密で宝石を買ってくれたり、コッソリお酒を飲ませたりして眺めている眼つきでよくわかっていたの……イイエ。そうなの。ドバンチコもそういってたの。お父さんには用心なさいっていっていたくらいだから……。
……ただ可哀想そうなのはお祖母(ばあ)様と奧さんであった。わたしを親身の孫や娘のように可愛がって下さったので、十梨と銀月の女将がとんでもない冤罪(むじつ)の罪をいいかけて殺してしまった。それを思うとわたしは身体じゅうがふるえ出す。骨の髄まで黒い血が走り込んで行く。神様の正義ゐは神様が守りゃあいい。人間の正義は人間が守るばっかりだ。わたしは讐敵(かたき)を討たずにはいられない。あの婆さんと奧さんのために……そうしてアンタの冤罪を晴らすために……。
……十梨と銀月の女将はドバンチコのいう小雀じゃない。二匹の毒蛇だ。ハルビンの地の下に潜って一番恐ろしい毒を吹いている雌と雄の金蛇だ。わたしは近いうちにハルビンに引っ返してヤット讐敵(かたき)を取って見せる」
といううちに彼女はスッカリ興奮したらしい。二つ目の梨の食いさしを松花江の流れめがけて力一パイたたき込んだ。


僕は何もいわなかった。否……いえなかったのだ。
ニーナの話を聞いているうちにスッカリ酔いが醒めてしまった僕は、もはや、何一つ考える力もないくらい疲れ切っている自分のアタマを、頭蓋骨の内側にシミジミと自覚していたのだ。
それはこの二、三日の間に突発してきた恐ろしい出来事の重なり合いに対して、あらん限り絞り上げてきた僕の脳味噌が、急激な神経衰弱に陥ってしまったせいかもしれない。事件の真相が頭の中心でボーッとなってしまって、ニーナの僕に対する途方もない見損いを笑うことも弁解すうることもできなくなったばかりでない。自分一身の処置を、これからドウしていいかすら見当がつかなくなってしまったのだ。ただ両手を顔に当てて石のように固くなったまま、形容も想像も及ばない無鉄砲なジプシー女の、断固たる決心に引きずられて行く。意気地のない自分自身の兵隊姿を、眼の底に凝視しながら、痺(しび)れ上った頭の中心の遠く遠くにジイイーンと鳴る血管の音を聞き澄ましているばかりであった。
けれどもそのうちに彼女の話が終ると、僕はホッと溜息をしながら顔を上げた。そうして彼女が投げ込んだ梨の波紋を何気なく振り返ったが、そのままハッと息を詰めた。
背後はるかに隔った大鉄橋の左手が、大きな大きな夕日の色に染まっている。そうしてその大光焔の中心に、見まごう方ない銀月の雄大な鉄骨が、珊瑚(さんご)のように美しくイルミネートされながら輝きあらわれているのを、ボートの背後に起った長い長い波動が、巨大な真紅(しんく)の鳥のように、または夕焼雲のように掻きまわしながら引きはえているのであった。
僕は身動き一つしないままその光を一心に振り返っていた。何の音もなく雲の下腹をあぶり出しているその偉大な大光明の核心を、いつまでも、いつまでも凝視していたが、そのうちに何ともいえない奇妙な気持で胸が一パイになってきた。
それは狼狽でも驚きでもなかった。ただむやみにシインと静まり返った、物狂わしいような……底悲しいような気持であった。おそらく僕の酔いざめの沈み切った神経が、僕自身の絶望的な前途を予感した微妙な動揺であったろう。僕がこの時にしらずしらずに陥っていた大失敗……銀月の女将の執念といってもいい恐ろしい運命の谷底に向かって、ニーナと二人連れで突進していたことを、僕自身にもわからない心の底の心が直感していた、その戦慄(せんりつ)であったろう……。
その大光明を振り返っていた僕は、何かなしに、もう二度と再びハルビンに帰れないような気持になってきたのであった。同時にこうしてグングンと人間世界から引き離されて行く自分自身のたまらない一種の淋しさが、時々刻々に倍加してゆくのをヒシヒシと感じたのであった。
……なぜあのままに自首して出なかったろう。すべての罪を、自分一人に結びつけられてもかまわない。誤解された陸軍歩兵一等卒としての愚かな一生を終らなかったろう……といったようなきわめて、超自然的な後悔の気持が、静かな十二汽筒(シリンダー)の震動につれて、あとからあとから湧き出してきた。そうしてみるみる取返しのつかなくなってゆく自分自身の運命を、千万無量の思いに湧きかえる上流の火の粉と艇尾の波紋の美観と一緒にして、ウットリと見惚(みと)れていたのであった。
そのうちに僕はヤット気がついてニーナの方を振り向いた。無言のままブルブルと震える指をソッと彼女の肩に置いた。
「……マア……キレイ……」
とニーナは振り返りざま日本語で叫んだ。ピタリと器械を止めながら、危険を忘れて河の中流にコースを取った。それについれて火光を真正面に受けたニーナの顔がみるみるまっ赤に輝き出した。僕の顔をチラリと見ながら露語で尋ねた。
「……あれは銀月じゃない……」
僕は無言のままうなずいた。
「……アンタが火を放(つ)けたんでしょう……」
僕は泣きも笑いもできない気持になった。法廷に引き出された人間のように、顎を震わしながらいった。
「……そればかりじゃないよ。ニーナさん。あの光の中心に……銀月の女将の……白骨が寝ているんですよ」
「……まあッ……嬉しいッ……」
とニーナはまたも日本語で叫びながら座席を飛び出して来た。僕の首っ玉に飛びついて、雨の降るように接吻し散らした。
「……あぶないよ。ニーナ……ボートが引っっくり返るよ……見つかるよ官憲に……」
といいいい押し除けようとしたがニーナはなかなか離れなかった。
ボートはいつの間にか艇尾を下流に向けながら押し流されていた。
するとその時であった。どこからか伝わってきた……ピシッ……という烈しい空気の振動とほとんど同時に、
ツタ――ンンン……
という銃声が、両岸の闇をはるかに震撼していった。……と続いて二ツ三ツ……
ピシッ……ツタ――ン……
ピシッ……ツタ――ン……
ピシッ……ツタ――ンンン……
それは日本の官憲のものだか、赤軍の監視隊のものだかわからなかった。いずれにしても僕たちを十五万円の拐帯犯人とにらんでいるには違いないと思われた。
しかし僕はあわてて身を伏せたりなんかしなかった。アタマがどうかなっていたせいであったろう……
両手で舷側を押えながら、何ともいえない一種のなつかし味を感じつつ音のする方向を振り返っていた。射たれてもいい、捕えられてもかまわない。そのほうが早わかりだ……といったようなやるせない気持に囚われつつ……。
不思議なことにニーナも僕と同じような姿勢をとっていた。何と思っていたのかわからないが……あるいは彼女独得の無鉄砲な好奇心から相手の正体を見定めるつもりだったかもしれない。お椀帽子を冠り直しながら伸び上って、三、四百メートルばかり向うの河岸の草原の中から、パッパッとほとばしる小さな火光を透かしのぞいているようであったが、そのうちに、思いもかけない左手の水面がパッと跳ね上って、横シブキの冷たい霧がサッとボートの上をかすめると、ニーナはプーッと頰を膨らましながら平手で顔をなでまわした。
「プップッ……ニチェウォ――」
と一と声叫んだと思うと、ガソリンの罐を跳(の)り越えてハンドルに飛びついた。星あかりに私の方を透かしながらニッコリと笑った……と思ううちに両舷の排気管(エキゾオーストパイプ)からモノスゴイ火煙が流れ出した。艇尾(スターン)が河の中心に半円を描いた。蒼白(あおじろ)い、明煌々(めいこうこう)たるヘッドライドを射出すと同時に、ボートよりも大きい、高い、長い浪をまっ白に盛り上げて、背後の大光焔を轟々(ごうごう)と吹き散らし始めた。
僕は振り落されそうになった身体を辛うじて食い止めた。両手で顔を蔽うてグッタリとうなだれながら心の底でつぶやいた。
「……すみません。皆さん。すみません。……僕にはドウしていいか……どうなるのかわかりません……許して下さい……」
といった意味のことを、当てどもなく祈り続けた。
島の間をいくつもいくつも通り越して、ハルビンの光が全く見えなくなってもニーナは速力を落さなかった。あぶないからハバロフスクまで逃げるのだといった。そうして夜が明けると、道路に遠い支流を上って、深い犬蓼(いぬたで)の茂みにボートを入れて、白パンとコーンビーフと冷水の朝飯を摂(と)った。


その食事の最中に彼女は、ソバカスで隈取った、睫(まつげ)の長い眼を上向けて(僕が彼女の顔を注意して見たのは、この時が初めてであった)澄み渡った大空をアッチ、コッチと見まわしながら、何かしきりに考えているらしかったが、そのうちに食事がすんでしまうと、彼女はクルリと向うむきになって艇尾の甲板によりかかった。そうしてレターペーパと鉛筆を取り出す片手間に、僕の顔をジロリと見た。
「……ネエ……わたしもうじれったくなったから、ここから赤軍に復讐(ふくしゅう)してやるわよ。モウいつハルビンに帰れるかわからなくなっちゃったんだから、今のうちに赤軍のスパイ網を根こそぎ日本軍にブチまけてやろうと思うのよ。オスロフだって知らなかったことを、わたしはチャントこの眼で見まわしてきたんだから……ネエ。いいでしょ。……通りがかりの小船に頼んで、これを日本軍の司令部に持って行ったら、タンマリお金がもらえるんだっていってやったら、大てい無事に届くでしょう。日本軍の信用があるんだから……ついでにアンタとわたしの『さようなら』も書いとくわ。ねえ。いいでしょ」
そういううちに彼女は船底から、飲みさしのまっ黒なウォッカの角瓶を引っぱり出して、さも気持よさそうにコルクの栓をスッポンと引き抜いた。おおかた彼女一流の、悪魔のような記憶力を喚(よ)び起す目的であったろう。
しかし正直のところその時の僕にとっては、そんなことはドウでもよかったのであった。夜が明けるにつれてハッキリと蘇ってくるいろいろな残忍さ、面目なさ、あいすまなさに、石のように囚われてしまっていた僕は、物をいう力もないまま頭から毛布を引っ冠って、ゴロゴロした荷物の上に横になったのであった。そうしてしばらく経ってから、
「……ネエネエ。アンタ。とてもおもしろいことがあるのよ。ネエネエ。……この上流に金鉱か何かあるらしいのよ。いつもハルビンに金塊を持って来るっていう評判の船が、ツイ今しがたこちらの岸近くを下って行ったのよ……だからわたしはすぐに陸に上って、銀貨を四、五枚、手紙に結いつけたのを、その船の甲板に投げ込んでやったの。そうしたら主人らしいりっぱな中国人が出て来て、手紙を拾い上げて広げて見るなり、眼をマン丸くしてわたしの顔を見たのよ。おおかた日本軍司令部の宛名と、ニーナ・オリドイスキーっていうわたしのサインが読めたのでしょう。両手を胸に当てながら、丁寧にお辞儀しいしい下って行ったわよ。小さな大砲を載せたキレイな船だったわ。恰好は平べったい旧式だけど……まだ、うしろ姿が見えているわよ。……ホラ、今、本流に曲り込むところよ。四、五人突っ立ってこちらの方を指さしながら何かいってるわよ。……ネエネエ……」
と話かけるニーナの声を夢うつつのように聞きながら、酒臭い彼女の身体を毛布の下に抱き寄せたのであった。
日が照り出していたのでトテモ暑かった。
それから二晩ほど走るうちに、機会が悪くなったらしく、何度も何度も故障が起りはじめた。そうして予定よりもズット早くガソリンがなくなりかけたので、トウトウ諦めた彼女は、道路の見える所まで来てボートを乗り棄てた。あとから地図に引き合わせてみると、そこはハバロフスクから百五十露里ばかり手前のペトロスカヤ付近だったらしい。ボートは河岸の草の茂みの中に引き上げておいたから洪水が出ない限り見つからないだろう。
晩秋の光にみちみちた大河岸の、広い広い草原の中に立った時、僕は何かなしにタメ息をさせられた。青い青い空を仰ぎながら、もういよいよだめだ……と思った。
食事がすむと彼女は飲料水の全部をバケツの中にブチマケて、片手で固煉(かたねり)白粉(おしろい)を溶きながら、首から上を気味の悪いほどまっ白に塗り上げた。それから細長い情熱的な眉を引いて、唇を赤黄色いベニガラ色に染めつけると、今度は僕を丸裸にして、黒い支那服じみた奇妙な恰好の古いダブダブ服を着せた。それから軍服と兵隊靴を、ボートの下に突っ込むと、代りに古い赤革のゲートル靴をはかせて、鍔(つば)の広い、黒い、イタリア風のお釜(かま)帽子を冠せて、大きな色眼鏡をかけさせて、それから食料とお金と化粧道具と、ピストルを納めた上に、僕の雨外套(あまがいとう)と、毛布と、飯盒(はんごう)を結びつけたロシア式の古背嚢(ふるはいのう)を僕の肩に載せかけて、一番最後に巨大な新しい手風琴を渡した。
彼女はそこで、二、三歩退いて僕の姿を眺めると腹を抱えて笑い出した。
「ホホホハッハハ……ハラショ……オーチェンハラショ……とてもよく似合ったわ。すまあしてんのねアンタは……盲啞学校の生徒さんソックリよ。ホホホホ。ハハハハ。……いいこと、アンタはザバイカル生れのホジイ・ガルスキーっていう人よ。それからわたしはブリアト、モンゴル生れのナハヤ・ガルスキー……二人は夫婦なのよ。……いいこと……見てらっしゃい」
といううちに彼女は素早く支那服を脱いで、強健なオリーブ色の手足を朝の斜光に曝(さら)し出した。その上からジプシー一流の赤と黄色のダンダラ舞踏服に、何というか知らない茶色の革紐を膝の下まで編み上げたスリッパ様の革草履(かわぞうり)を素足にからみつけて、青ビロードのベレー帽を耳のつけ根まで引き下げた。その上から赤裏の青マントを威勢よく引きまわして、紫と紅の房を引きはえた黄金塗りの鈴太鼓(ジャンボン)を一個小脇に抱えると、籠から出た小鳥のように肩を一つゆすり上げた。
彼女はそこで、簡単な曲を口移しに教えるつもりらしかったが、案外にも僕が譜だけ知っているジプシー舞踏曲「ドンドン燃やせ……深山(みやま)の焚火(たきび)」を大きなダブルベース入りで弾き出したので、彼女は青ざめるくらい驚いて……どうして知っているか……と眼を丸くした。それから古めかしいコチロンやタンゴを二つ三つ弾いているうちに、草の中でステップをならしていた彼女は、
「モウいい……それだけあればたくさんよ」
というかと思うと、高い草を押し分けながら、ステップを踏み踏みサッサと歩き出した。舞踏好きの彼女はもうハルビンの出来事なんかトウに忘れてしまったように浮かれ出しているのであった。
坊主頭の彼女のあとから草を押しわけて行く自分の姿を振り返った時、僕は涙も出なかった。
二人は、それから一枚の露国地図を頼りにして、シベリアの曠野を漂浪し始めた。……といっても大したことはない。ペトロウスカヤからハバロフスクに出て、そこからウスリー江沿いに鉄道線路を避けながら興凱湖(こうがいこ)へ出て、ニコリスクからウラジオに南下したものであるが、それでも三、四百里(日本里)ぐらいの徒歩旅行であったろうか。
それは僕の生涯の中で、一番思い出の深かった……楽しいという意味ではない。自分の魂が空虚の中に消え込んで行くような気持での……生活であったが、その詳細はここに必要がないから大略しておく。別に『シベリア漂浪記』というのを書いているにはいるが、これも尻切れトンボになったから焼き棄てるつもりだ。
僕の顎鬚(あごひげ)とニーナの髪は、この漂浪中にかなり伸びてきた。僕の顎鬚っは赤く縮れていたので、頭を坊主刈にしておくと、さながらのギリアークに見えたらしい。またニーナはいい加減な断髪少女に見えてきたのを、まん中から二つに分けてなでつけていた。
二人が演ずる手風琴とジプシー踊りの一座は至る所の村々の人気を呼んだ。山奥の富裕な村の結婚式や祭礼にぶつかった時はヘトヘトになるほどもてはやされた。
しかし雪が降って来ると旅行のスピードが急に倍加してきた。駅伝の橇(トロイカ)を利用して、酒場酒場を拾って歩かなければならなくなったからであった。
僕はその旅行中にいろいろな事を見たり聞いたりした。
飢饉(ききん)のために洞穴(ほらあな)に逃げ込んで死んだ一家族のミイラを見た。赤軍の不換紙幣による強制徴集に応じなかったために、虐殺されて、焼き払われた大村の中を通過した。赤軍の村(といっても純然たる赤ではない、一番タチの悪い強盗半分の武装部落)にはいって尋問されかけたのを、ニーナが首領とウォッカの飲みくらをしてごまかしたこともあった。白軍だかチェッコかかわからない兵隊を五人ずつ針金で縛って銃殺した死骸を、道ばたにどこまでもどこまでも並べてある荒野原を通った時には、二人とも息を詰めて生汗を滴らした。そのほか地図にない高い山あ、大きな湖を発見したこと……シベリアの住民にとっては赤とか、白とかいう思想がオヨソ意味ないものであること……それよりも一九一七年に露都で組織された第一女軍の評判が至る所に行き渡っていること……二度ほど出会った大吹雪(おおふぶき)の恐ろしかったこと……生れて初めて見たオーロラの神秘的に荘厳であったこと……興凱湖の月の夜に、僕が何気なく弾いて聞かせた「カッポレ」の曲を、ニーナがトテモ悲しくて踊れないといって涙ぐんだこと……なぞ思い出せば数限りもない。
二人がウラジオに来たのは別に深い意味があってのことではなかった。二人の変装に自信がついてくるにつれて、都会が恋しくなったからでもあったろうし、一つにはそれとなくハルビンの様子を聞いてみたいという……僕の良心的な気持の動きも手伝っていたであろう。翌年(今年)の正月の初めにニコリスクで白軍に押えられて、危なくスパイの嫌疑を受けるところであったのを、ちょうどニーナから教わっていたジプシー語が役に立って、無事に放免されたのは滑稽であった。
それから橇(そり)でウラジオにはいって、スエツランスカヤの裏通りの公園に近い所にある穢(きたな)い乞食宿に泊った。旧式煉瓦を四角い煙突みたいに積み上げた五階の天井裏の一室で、ペーチカの薪(まき)を担ぎ上げるのが、一仕事であった。宿主の名前は忘れたがシワクチャナとかクチャクチャナ(洒落(しゃれ)ではない)とかいうウラジオ生え抜きの因業婆で、醜業婦や旅芸人、密輸入者、賭博打(ばくちうち)、インチキ両替屋なぞが各階にゴチャゴチャしていた。
ここに落付くとニーナは、クチャクチャ婆さんを通じてどこかの親分にワタリをつけたらしい。例のとおりの鉛白粉と紅棒で毒々しくお化粧をして、スエツランスカヤの大通りに並ぶレストランやコーヒー店を軒別に踊ってまわった。
しかし僕は一歩も外に出さなかった。
「ウラジオには日本軍が駐屯している。おまけにアメリカの軍艦が引き上げてからというもの、どうした訳か日本軍のスパイの詮議がめちゃくちゃにやかましくなったらしい。一週間に一人ぐらいずつ、停車場裏の広場で銃殺される音が聞えるというからジッとして待っていなさい。そのうちに氷が解けたら、ジャンクに乗って上海に行けるから……」
そういって僕に黒パンと、酒と、罐詰を当てがいながら口笛を吹き吹き出て行った。僕はその留守中にいつも手風琴を弾いたり、シベリア漂浪記を書いたりしていたが、長いこと旅行を続けたあげくにきた幽囚同様の生活だったから、たまらなくわびしかった。疲れ切って帰って来る彼女の酔っ払い姿はなおさら文句なしに悲しかった。そうして二月に入ると僕はスッカリ健康を害してしまったらしくニーナの留守中に薪を荷(かつ)ぎ上げるのが容易ならぬ苦痛になってきた。たぶん一度罹った肋膜(ろくまく)が再発したものであろう。軽い熱と咳さえ出たのであったが、しかし僕は苦心してこのことをニーナに知らせないようにした。
けれども、こうした僕の苦心は、そんなに長く続ける必要がなかった。二月に入ってから間もない一昨日(八日)の晩のことであった。ニーナが平生よりも早く九時半頃、帽子も冠らないまま大雪を浴びて帰って来たから寝ていた僕は眼を醒まして。
「……どうしたんだえ……」
と問うた。またお客と喧嘩してきやがったな……と思いながら……。
ニーナはしかし答えなかった。頸(くび)の雪雫(ゆきしずく)を払い落し払い落しペーチカに薪を二、三本投げ込んで椅子を引き寄せながら、燃え上る炎をジーッと見つめていたが、やがて温まったと見えて血色を回復すると、右のポケットから大好物の巨大な日本梨を出して、皮のままカブリついた。その片手に左のカクシからレターペーパに包んだ葉巻を三本引っぱり出して、僕の枕元に投げつけてくれたが、それは漂浪中にほしいほしいといっていた上等のエジプト製だったので、すぐに一本に火をつけて吸い始めた。
そのうちにニーナは突然に僕の顔を振り返ってニッコリ笑った。
「ねえアンタ。わたしたちモウだめなのよ」
トテモいい気持に陶酔しかけていた僕は、しかし平気で煙を吹き上げた。
「フーン、どうしてだめなんだい」
ニーナは平生のとおり、梨の汁を飲み込み飲み込み話し出した。平気な、茶目気を帯びた口調で……。
「こちらの方へもスッカリ手がまわってんのよ」
というのであった……。
……ニーナは今まで黙っていたけれども、ウラジオに来るとすぐからハルビンの様子に気をつけて、それとなく探りまわしていたものであったが、きょうがきょうまで、それこそ何の情報も聞かなかった。日本軍のシベリア撤兵がはたしてできるかどうかといったような議論は、どこに行っても、人種の区別なしに闘わされていたが、しかしカンジンの十五万円事件はもちろんのこと、オスロフの銃殺事件でさえも伝わっている模様がなかったので、トテモ気味が悪くてしようがなかった。絶対秘密にされていればいるほど探索の手が厳しいのじゃないかと思ってできる限りお化粧を濃くしていた。
ところが今夜になって思いがけない不意打を食らってしまった。
スエツランスカヤでも一流のレストラン・ルスキーの地下室で踊っている最中であった。ピアノの前のテーブルでウイスキーを飲んでいる色の黒い日本紳士が二人、ニーナの顔を見い見い何かしら話し合っている様子が妙に気になったから、いつものとおり背向きになって踊りながら近づいてみた。すると日本語だったから、よくはわからなかったが「イヤ違う」とか「イヤ、そうらしい」とかいつて争いながら笑い合っているのであった。それから少しばかり声を潜めながら「この事件はかなりトンチンカンだ」とか「オスロフと十五万円は別々の問題らしい」とか話し合っている声が、弾み切った音楽の切れ目切れ目に聞えたが、あんまり長いこと傍に居ると疑われるかもしれないと思って、またも踊りながら遠ざかって行くと、その中の一人がニーナの足下に十ルーブルの金貨をチリリンと投げた。
ニーナはコンナ気前のいいお客に一度もぶつかったことがなかったので、少々気味が悪かった。でも挨拶(あいさつ)をしないわけにはいかなかったから一と踊りすますと思い切って、勇敢に笑いかけながらそのテーブルに近づいて行くと、その中の一人がダシヌケに手を伸ばしてニーナのベレー帽子をスポリと、引き抜いた。
「アハハハ。見たまえ君。断髪だろう。ソバカスはわからないが、年頃もちょうど似通っている。……ネエ。そうじゃないかナハヤさん。君はいったいいくつなんだい」
とその紳士が上手なロシア語で尋ねた時にはさすがのニーナも身体じゅうの血が凍ったかと思った。お化粧をしていなかったらすぐにも顔色を看破(みやぶ)られたであろう。
ところが、よく気をつけてみるとその紳士たしは二人ともかなり酔っているらしかった。だから冗談半分のつもりでそんなことをしたものであろう。相手の年老ったほうの紳士はトロンとした瞳をニーナの真正面にすえながらゲラゲラと笑った。手の甲で鼻の下をコスリ上げコスリ上げおぼつかないロシア語で怒鳴った。
「……オイ。娘っ子、貴様の名前はニーナっていうんだろう。……隠すと承知せんぞ」
モウ度胸のきまっていたニーナは莞爾(かんじ)とうなずいてみせた。ハッキリした日本語で答えてやった。
「ええ。そうですよ。日本語でニーナ。ロシア語でオイシイ、ウイスキー……」
二人の日本紳士はテーブルをたたいて洪笑(こうしょう)した。それからニーナの両手を両方から引っぱってホールのまん中に出ると、店つきの音楽師に銭を投げてデタラメなダンスを始めた。その中でも年老ったほうの紳士がニーナのベレー帽を冠って躍り出したので満場の大喝采(だいかっさい)を博したが、その踊りにくかったこと……今にも手の震えを感づかれて、外へ引っぱり出されるかと思い思い、無理に笑ってふざけ合っていた。その間の情なかったこと……。
そのうちに二人はニーナを引っぱって元の席へ戻ると、強いジン酒を三杯注文した。そこでお盆が来るや否や、ボーイがまだ下へ置かないうちに、素早く手を伸ばしたニーナは、三杯とも一息にグイグイグイと飲み干すと、アッと驚いている人々を尻目にかけながら、風車のようにギリギリ舞いをして地下室を飛び出した。そうしてその足ですぐにルスキーの裏手へ回って、給仕頭のムカッツイという赤ッ鼻の禿頭に顔を貸してもらって、タッタ今もらった金貨をつかませてやった。
ところがこのムカッツイというのがまた妙な男で、まだ何も尋ねないうちに金貨をつかんだニーナの手を押しもどすと脂切った眼をギョロギョロさせながら、毛ムクジャラの指を一本ピッタリと唇に当てた。
「……あの二人の日本人のことが聞きてえっていうんだろう。……ナ……そうだろう……気をつけなよ。ありゃあこの間からヤット開通したハルビン直通の列車に乗って来たばかしの怖いオジサンたちだよ。若いほうが通訳で。年老ったほうが鉱山技師っていう触れ込みだがね。何でも前月の末に、ハルビンで赤い連中を根こそぎ退治て来たってんで、チョットばかしメートルをあげてござるんだそうだ。……ところでナハヤさん……そんなことあどうでもいいがこの頃、ウラジオの方へドエライお布告(ふれ)が回っているのを知っているかい……ウン。知らねえだろう。いつて聞かせようか。……何でも半年ばかり前のことだっていうがね。ハルビンで経理部の大将と、大きな料理屋の女将(おかみ)と、その情夫だっていう通訳を殺して、公金をかっさらって赤軍に逃げ込んだっていうモノスゴイ一等卒がいるんだ。しかもその通訳って男が、無罪放免になって、憲兵隊本部の入口を二、三歩あるき出すと、その瞬間に、どこからか飛んで来た小銃弾で殺(やら)れてしまった。するとまたそれから間もなく、経理部の大将の死骸を詰めたトランクが、松花江のズット下流の河中島から流れ着いているのを、中国人の船頭がめっけて報告したというので大騒ぎになったそうだがね。理屈はよくわからないけれどもたぶんその公金をチョロマカした兵隊が、自分の秘密を知っている二人を殺したのだろうっていう見込みなんだ……しかもその兵隊は、ニーナっていう女と一緒にモーターボートで松花江を下ったってことが、いろんな方面からわかっているんだ。ついでに赤軍に逃げ込んだらしい……っていう嫌疑もかかっているそうだがね。もしかするとこっちの方角にズラカッているかもしれねえってんで厳しいお布告(ふれ)が、ツイ二、三日前に日本軍のタムロへ舞い込んだってことが、このおれさまの地獄耳にチョッピリ引っかかっているんだ。そんなろくでもねえ野郎にクッついているニーナって娘っ子は可哀そうなもんだっていってコチトラ仲間でタッタ今評判していたところなんだ。……ナニ。おれケエ。おれあこの家の給仕頭よ。白でも赤でも何でもねえ。無色透明。ウラジオ見通しの千里眼様だ。そういったらわかるだろう……ハッハッ。さあさあわかったらこの水を飲んで今夜は早く家へ帰りな。助かりたきゃあおれんトコへ逃げて来ることだ。片づけるものを片づけてナ……いいかい。人間は何でも思い切りが大切だからな。氷の解けるまでジッとしていりゃあたいがい、捕まるにきまってるからな。つまらねえ義理を立ててそんな男に……ナニイ……そんな用事で来たんじゃねえ?……ふうん。そんなら何の用事でおれを呼んだんだ。ナニイ。あの帽子……あの青いベレー帽子をおれに取り返してくれっていうのか。アウン。大事な守護符(おまもり)でもはいってんのか。ナニイ。あの紳士たちがドウするか試してみたい……チップをつけておとなしく返してくれるかどうか、ちょいとヒカヤシてみたい……?ブルルル。トとんでもねえ……ずうずうしい阿魔だな手前は……ソンナことをして本物のニーナと間違えられたらドウする。停車場の裏が怖くねえのか。さもなくとも、おれがこの指を一本、こう曲げて店のピアノ弾きに見せたら、お前のお乳が蜂の巣になるのを知らねえか。馬鹿野郎……」
ニーナはそういうムカッツイに両手で赤ンベエをして見せながら、横っ飛びに逃げて来たが、生れてコンナ怖い思いをしたことはなかった。お酒の酔いも何も一ペンに醒めてしまった。
「だからモウだめよ。あの赤っ鼻の禿頭はボルセビーキの密偵のくせにわたしに惚れているんだよ。だからいうことを聞かないとドンナことをするか知れたもんじゃない。あの二人の日本紳士だって酔いが醒めて気がついたらキット血眼になるに決っているわよ」
といううちに彼女は梨の大きいのに降参したらしく、食い残しの半分をナイフで荒っぽく剝(む)き始めた。
「フーン。それじゃ十五万円はやっぱり銀月の中のどこかに隠してあったんだな」
「そうよ。それが焼けっちゃったことがわkったもんだから赤の連中が、ムシャクシヤ腹で十梨を殺したのよ」
「惜しいことをしたな。無罪の証拠になるんだったのに……」
「証拠なんかなくたってアンタは無罪じゃないの」
「お前に対してだけはね……」
「わたしは有罪だって何だってかまやしないわ」
「ハッハッハッ……しかし驚いたなあ。星黒の死骸までおれのせいになっちゃうなんて……」
「ばかにしてんのね。そんな嫌疑を一ペンに引っくり返す証拠が残っているとおもしろいわね」
「ウン。タッタ一つすてきなのが残っているんだ。今しがたお前の話を聞いているうちに思い出したんだがね」
「……まあ……ドンナ証拠……」
「……わからないか……」
「……わからないわ」
「今までの出来事をズーッと一遍とおり考え直してごらん……憶えているだろう。何度も話したんだから……」
「ええ。だけど……わからないわ。……イクラ考えてもわからないわ。アタマがどうかしてんのよ今夜は……」
「……十梨が、星黒から分けてもらった官金の一部だといって、憲兵の前に提出した十六枚の二十円札の話をしたろう」
「ええ。聞いたわ。その二十円札っていうのは、十梨が星黒を殺した時に奪い取った星黒の給料だったに違いないってアンタがそういったわ。その中の一枚の裏側に、星黒がつけた赤インキの飛沫(しぶき)の形をアンタがチャント見覚えてたっていう話でしょう。象のお尻に太陽が光っている形になっていたっていう……だけどそれがドウかしたの……」
「ウン。その二十円札の番号t、朝鮮銀行の支店に控えてある札番号と引き合わせりゃあ、十五万円の一部じゃないことが、すぐにわかるはずだろう。十梨がいったことがミンナ噓だったってことやなんかも一緒に……」
「……まあッ……どうして今まで気がつかなかったんでしょう。あたしばかね。ヨッポド……」
「ナアニ。みんなばかなんだよ。今から考えると、これは十梨のオッチョコチョイが、あんまり話を上手に作ろう作ろうと思って、焦り過ぎたためにできた大手抜かりだね。たぶん、十五万円を手つかずのままソックリ銀月の女将に預け込んで、自分一人で星黒の死骸を始末しに行っているうちに、十梨がかってにヒネリ出した浅知恵に違いないと思うんだ。銀月の女将が一枚はいってりゃあ、そんなへまなセリフをつける気遣いはないからね。……ところが、その時には当の本人の十梨も、相手の憲兵も、陪審員の僕も、そのほかの連中も一人として気がつかなかったんだから妙だね」
「……やっぱり運よ。物事ってソンナもんよ……だけどその話は、そん時にいい出すよりも、今になってアンタからそういってやったほうが利き目がありはしない……」
「そりゃあそうさ。しかし……その二十円札がズウッと憲兵隊に保管してあればっていう話だからね。十梨が放免されたところから見ると、その二十円はトックの昔に没収されちゃったろうよ」
「……そりゃあそうね……」
ニーナは何かしらほかのことを考えているらしく形式的にうなずいた。
その顔を見い見い僕は淋しく笑った。
「お前と一緒に逃げたおかげで、とうとう結末がついちゃったね」
ニーナはプイッとすねたような恰好でペーチカの方に向き直った。そうして思い出したようん、梨の食いさしとナイフを頭の上に高々とさし上げて、
「……あアあ。わたしの仕事もおしまいになっちゃったア。……アンタに惚れたのが運の尽きだったわよ」
といううちにまたもガリガリと梨をかじり始めるのであった。
僕はうまい葉巻の煙を天井に吹き上げていた。
気のせいかまたも二、三発、停車場の方向で銃声を聞いたように思いながら……。
病気のせいもあったろう。すべてを諦め切っていた僕の神経はこの時、水晶のように静かに澄み切っていた。そうしてこの時ぐらい煙草がうまいと思ったことはなかった。天井から吊した十燭の電灯が、ちょっと暗く……また明るくなった。
その時にニーナはまたも、新しい小さい梨を一つポケットから出して、今度は丁寧に皮を剝いた。そうしてその白い、マン丸い、水分の多い肌合いをしばらくの間ジッと眺めまわしていたが、やがてガブリとかみつくと、スウスウと汁をすすり上げながら無造作にいった。
「ねえアンタ」
「何だい」
「……わたしと一緒に死んでみない……」
僕はだまっていた。ちょうど考えていたことをいわれたので……
「ねえ。……ドウセだめなら銃殺されるよりいいわ。ステキな死に方があるんだから……」
「フーン。どんな死に方だい」
と僕はできるだけ平気でいった。少しばかり胸を躍らせながら……ところが、それから梨をかみかみ説明するニーナの言葉を聞いているうちに僕はスッカリ興奮してしまった。表面は知らん顔をして葉巻の煙を吹き上げ吹き上げしていたが、おそらくこの時ぐらい神経をドキドキさせられたことはなかったであろう……。
僕はニーナの話を聞いているうちに、今の今までドンナ音楽を聞いても感じえなかった興奮を感じた。僕の生命の底の底を流るる僕のホントウの生命の流れを発見したのであった。……そうして全然生れ変ったような僕自身の心臓の鼓動を、ガムボージ色に棚引(たなび)く煙の下にいきいきと感じたのであった。
ニーナはその晩から部屋を飛び出して準備を始めた。そうして昨日の午前中に三階に住んでいる中国人崔(さい)の手を経て、馬つきの橇(そり)を一台手に入れる約束をした。それから宿の払いと買物をした残りのお金で、昨夜から今日一日じゅう、御馳走を食べ続けて無煙炭をドシドシペーチカに投げ込んだ。
僕は病気も何も忘れてこの遺書を書き始めた。発表していいか悪いかを君の判断に任せるために……もっとも書きかけのシベリア漂浪記の中から抽(ひ)き出して書いたのだから、大して骨は折れなかった。
ニーナはまだ編物を続けている。寄せ糸で編んだハンドバッグみたようなものが出来上りかけている。
注文した馬と橇はモウ下の物置の中に、鋸屑(のこくず)を敷いて繋(つな)いである。張り切っている若馬だから一晩ぐらい走り続けても大丈夫だと、世話をしてくれた崔が保証した。
僕らは今夜十二時過ぎにこの橇に乗って出かけるのだ。まず上等の朝鮮人参を一本、馬にかませてから、ニーナが編んだハンドバッグに、やはり上等のウイスキーの角瓶を四、五本詰め込む。それから海岸通りの荷馬車揚場(あげば)の斜面に来て、そこから凍結した海の上にすべり出すのだ。ちょうど満月で雲の何もないのだからトテモすてきな眺めであろう。
ルスキー島をまわったら一直線に沖の方に向かって馬をむちうつのだ。そうしてウイスキーを飲み飲みどこまでも沖へ出るのだ。
そうすると、月のいい晩だったら氷がだんだん真珠のような色から、虹のような色に、変化して眼がチクチクと痛くなってくる。それでもかまわずにグングン沖へ出て行くと、今度は氷がだんだんまっ黒く見えて来るが、それから先は、ドウなっているか誰も知らないのだそうだ。
この話はニーナがハルビンにいるうちにドバンチコから聞いていたそうで、そのドバンチコはまた、ある老看守から伝え聞いていたものだそうだが、大ていの者は、途中で酔いが醒めて帰って来るそうである。また年寄りの馬はカンがいいから、橇の上の人間が眠ると、すぐに陸の方へ引っ返して来るそうで、そのためにせっかく苦心して極楽往生を願った脱獄囚が、モトの牢屋(ろうや)のタタキの上で眼を醒ましたことがあるという。
「……しかしアンタと二人なら大丈夫よ」
といって彼女が笑ったから、僕はこのペンを止めてにらみつけた。
「もし氷が日本まで続いていたらドウスル……」
といったら彼女は編棒をゴジャゴジャにして笑いこけた。
 

この著作物は、1936年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。