水鏡 (國文大觀)
水鏡
水鏡卷上
第一神武天皇
二綏靖天皇
三安寧天皇
四懿德天皇
五孝昭天皇
六孝安天皇
七孝靈天皇
八孝元天皇
九開化天皇
十崇神天皇
十一垂仁天皇
十二景行天皇
十三成務天皇
十四仲哀天皇
十五神功皇后
十六應神天皇
十七仁德天皇
十八履中天皇
十九反正天皇
二十允恭天皇
廿一安康天皇
廿二雄畧天皇
廿三淸寧天皇
廿四飯豐天皇
廿五顯宗天皇
廿六仁賢天皇
廿七武烈天皇
廿八繼體天皇
廿九安閑天皇
三十宣化天皇
卅一欽明天皇
つゝしむべき年にて過ぎにし二月の初午の日、龍盖寺へまうで侍りて、やがてそれより泊瀨にたそがれの程に參りつきたりしに、年のつもりにはいたく苦しう覺えて師のもとにしばし休み侍りしほどにうちまどろまれにけり。初夜の鐘の聲におどろかれて御前に參りて通夜し侍りしに、世の中うちしづまるほどに修行者の三十四五などにやなるらむと見えしが經をいとたふとく讀むあり。傍近くゐたれば「「「いかなる人のいづこより參り給へるぞ。御經などの承らまほしからむにはたづね奉らむ」」」といふにこの修行者いふやう、「「「いづこと定めたる所も侍らず。すこしものゝ心つきてのちこの十餘年世のなりまかるさまの心とゞむべくも見え侍らねば、人まねにもし後世やたすかるとて、かやうにまどひありき侍るなり」」」といへば「「「誠にかしこくおぼしとりたる事にこそ。誰もさすがにこのことわりは思へどもまことしく思ひたゝぬこそおろかに侍るめれ。この尼今まで世に侍るは希有の事なり。けふあすともしらず今年七十三になむなり侍る。三十三を過ぎがたく、相人なども申しあひたりしかば岡寺は厄を轉じ給ふと承りてまうでそめしよりつゝしみの年ごとに二月の初午の日參りつるしるしにこそ今まで世にはべれば、今年つゝしむべき年にて參りつる身ながらもをかしく、今はなにの命かはをしかるべきと思ひながら、年比參り習ひて侍るにあはせてやがてこの御寺へも參らむと思ひたちてなむ。今この御寺には偏に後世たすかり侍らむ善知識にあはさせ給へと申し參れるに、かくいさぎよく後世おぼす人にあひ奉りぬるはしかるべきにこそ。世をそむく人もおのづから物いひふれ給ふ人なきはたよりなかるべき事なり。この尼も偏に子とも思ひ奉らむ。又必ず善知識となり給へ」」」といへば、修行者「「「いとうれしきことなり。今日よりはさこそ賴み申し侍らめ」」」とて又經など讀みてぞさしはてし程に「「「後夜うち過ぎてわれも人もねぶられしかば、修行しありき給ひけむ物がたりしたまへ。目をもさまし侍らむ。大峰葛城などには尊き事にも又おそろしき事にもあひ侍るなるは、いかなる事か侍りし」」」と問へば「「「年比はべちにさる事もなかりしに一昨年の秋葛城にてこそあさましき事に逢ひ侍りたりしか。常よりも心すみて哀におぼえて經を誦し奉りしに、谷の方より人のけしきのしてまうでこしかばいと物恐しくおぼえながら經を誦し奉りしに、九月上の十日ごろの事にて月の入方になり侍りしほどにほのかにそのかたちを見れば、翁のすがたしたるものゝあさましげに瘠せ神さびたるが藤の皮をあみて衣とし竹の杖をつきたるがきたれるなりけり。やうやう傍へ來寄りていふやう「「御經のいとたふとく聞えつればまうできたる」」といふ。物恐しくおぼえ侍りしかども鬼魅などの姿にもあらざりしかば、仙人といふものにやと思ひてかく申すほどに、八の卷のすゑつかたなりしかばまた一部を誦して聞かせ侍りしかば、この仙人よろこびて「「修行し給ふ人おほくおはせどまことしく佛道を心にかけ給ふやらむと見奉るが尊くおぼえ侍るなり。いかなる事にて心を起しそめ給へりしぞ」」と問ひしかば、さきに申しつるやうに申しゝを仙人聞きて「「いとかしこきことなり。大かたは今の世をはかなく見うとみたまひていにしへはかくしもあらざりけむとあさくおぼすまじ。すべて三界は厭ふべき事なりとぞおぼすべき。このめのまへの世のありさまはをりに從ひてともかくもなりまかるなり。いにしへをほめ今をそしるべきにあらず。神代よりこの葛城吉野山などをすみかとして時々はかたちを隱して都のありさまも諸國に至るまで見聞きて過ぎ侍りき。よしなき事どもに侍れども御經を承りぬるよろこびに偏に目の前のことばかりをのみそしる心おはして、いにしへはかくしもなかりけむなどおぼす。一すぢなる心のおはする方をも申し聞かせば、一分の執心をもうしなひ奉りなば佛道にすゝみ給ふ方ともなどかならざらむ。神の世より見侍りし事おろおろ申し侍らむ」」といへば、「「いみじくうれしく侍るべき事なり。生年二十などまでは男のまねかたにて世に立ちまじらひ侍りしかども、はかばかしく昔の事考へ見ることもなかりき。唯遊びたはぶれにて夜をあかし日をくらしてのみ過ぎ侍りしに、近頃の事などを人のかたり傳へ申すを聞くに、この世の中はいかにかくはなりまかるやらむと、事にふれて哀にのみおぼえてかゝる道に入りにたれば一かたになべての世をそしる心ある罪もさだめて侍らむ。いでのたまはせよ。うけたまはらむ」」といふに、仙人のいはく「「さてはこの世のありさまのみならず、內典の方などもうとくこそはおはすらめ。はしはしを申さむ。生死は車の輪の如くにしてはじまりてはをはり終りてははじまり、いつをはじめ、いつををはりといふ事あるべからず。まづ刧のありさまを申して世のなりゆくさまもかくぞかしと知らせ奉らむ。人の命の八萬歲ありしが、百年といふに一年の命のつゞまりつゞまりして十歲になるを、一の小刧とは申すなり。さて十歲よりまた百年に一年の命をそへて八萬歲になりぬ。これをも一の小刧と申す。この二の小刧をあはせて一の中刧とは申すなり。さて世のはじまる時をば成刧と申してこの中刧と申しつる程を二十すぐすなり。そのはじめの一刧の始の程はつやつやと世の中なくて空の如くにてありしに、山河などいできてかく世間の出でくるなり。今十九刧には極光淨といふ天よりひとりの天人生れて大梵王となる。その後次第にやうやうしもざまに生れて次にひと生れ、餓鬼畜生いできてはてに地獄は出でくるなり。かくて成刧廿刧はきはまりぬ。世間も有情も成り定まるによりて成刧とは申すなり。次に住刧と申して又二十の中刧のほどをすぐすなり。但しはじめの一刧は命次第に劣りのみして增ることなし。されば住刧のはじめの人、命は八萬歲にはあらで、無量歲にて、それより十歲までなるなり。されどもほどの經ることは一の中刧のほどなり。さて第二の刧より十九の刧までさきに申しつるやうに、八萬歲より十歲になり十歲より八萬歲になり、刧每にかく侍るなり。さて第二十の刧は十歲より八萬歲まで增ることのみありて劣ることなし。これも過ぐる程は一の中刧なり。これは天より地獄まで成刧にいできとゝのほりて有情のある程なり。さて住刧とは申すなり。次に壞刧と申して、この程また二十の中刧の程なり。始の十九刧には地獄より始めて有情みなうせぬ。この失すると申すはいづこともなく失せぬるにはあらず。しかるべくして天上へ生るゝなり。但し地獄の業なほつきぬ衆生をばこと三千界の地獄へしばしうつしやるなり。かくて第二十の刧に火いできてしも風輪とて風吹きはりたる所のうへより梵天まで山川も何もかもなくやけ失せぬ。かく破れぬれば壞刧とは申すなり。次に空刧と申して又二十の中刧の程を世の中になにもなくて大空の如くにて過ぐるなり。空しければ空刧とは申すなり。この成住壞空の四刧をふるほどは八十の中刧を過ぐしつるぞかし。これを一の大刧とは申すなり。かくて終りてはまた始まり終りてはまた始まりして、いつを限といふことなし。かくの如くして水火風災などあるべし。事長ければ申さず。この住刧と申しつるに佛は世にいで給ふなり。その中に人の命まさりざまなるをりは樂み奢れる心のみありて敎にかなふまじければいで給はず。命やうやうおちつかたに物のあはれをもしり敎事にもかなひぬべきほどを見計ひて出で給ふなり。この住刧にとりてはじめ八刧には佛いで給はず、第九の减刧に七佛のいで給ひしなり。釋迦のいで給ひしは人の命百歲の時なれば、第九刧のむげにすゑになりにたるにこそ。第十の减刧のはじめに彌勒はいで給はむずるなり、第十五の减刧に、九百九十四佛いで給ふべし。かくの如く世に從ひて人の命も果報もなりまかるなり。大方はさることにてこの日本國にとりても又なかなか世あがりては事定まらず、却りてこの頃にあひ似たる事も侍りき。佛法わたり因果辨へなどしてより、やうやうしづまりまかりしなごりのまた末になりて、佛法もうせ世のありさまもわろくなりまかるにこそあるべきことわりなればよしあしを定むべからず。偏にあらぬ世になるにやなどあざむき思ふべからず。萬壽のころほひ世繼と申しゝさかしき翁侍りき。文德天皇より後つかたの事は暗からず申しおきたるよし承る。その先はいと耳きゝどほければとて申さゞりけれども、世の中をきはめしらぬはかたおもむきに今の世をそしる心の出でくるもかつは罪にも侍らむ。目の前の事をむかしに似ずとは世をしらぬ人の申す事なるべし。かの嘉祥三年より先の事をおろおろ申すべし。まづ神の代七代その後伊勢大神宮の御世よりうのかやふきあはせずの尊まで五代、合せて十二代の事は詞に顯し申さむにつけて、憚多く侍るべし。神武天皇より申し侍るべきなり。その御門位に即き給ひし辛酉の年より嘉祥三年庚午の年まで、千五百二十二年にやなりぬらむ。その程御門五十四代ぞ坐しましけむ。まづ神武天皇より」」とていひ續け侍りし。
第一神武天皇〈七十六年三月甲辰日崩。年百廿七。九月丙寅日葬大和國畝火山東北陵。〉
「「神武天皇と申しゝ御門はうのかやふきあはせずの尊の第四の御子なり。御母海神の女玉依姬なり。又まことの御母は海にいり給ひて玉依姬は養ひ奉りたまへりけるとも申しき。その世に侍りしかどもこまかに知り侍らざりき。この御門父の御門の御世庚午の年生れ給ふ。甲申の歲東宮に立ちたまふ。御年十五。辛酉の年正月一日位に即き給ふ。御年五十二。さて世をたもち給ふ事七十六年。神代より傳はりて劔三つあり。一つは石上布留の社にます。一つは熱田の社にます。一つは內裏にます。又かゝみ三つあり一つは大神宮におはします。一つは日前におはします。一つは內裏におはします。內侍所にこそおはしますめれ。この日の本をあきつしまとつけられし事はこの御時なり。事遙にしてこまかに申しがたし。位に即かせおはしましゝ年ぞ釋迦佛涅槃にいり給ひて後二百九十年にあたり侍りし。されば世あがりたりと思へども佛の在世にだにもあたらざりければやうやう世の末にてこそは侍りけれ。
第二綏靖天皇〈三十三年五月崩。年八十四。十月葬大和桃花鳥田嶽陵。〉
次の御門綏靖天皇と申しき。神武天皇の第三の御子なり。御母事代主神の御女五十鈴姬なり。神武天皇の御世四十二年正月甲寅の日東宮に立ち給ふ、御年十九。庚辰の年正月八日己卯位に即き給ふ。御年五十二。世をたもち給ふ事三十三年。父御門うせ給ひて諒闇のほど世の事を御兄のみこに申しつけ給へりしを、この御兄のみこのおとゝたちを失ひ奉らむとはかり給へりしを、このおとゝのみこ心え給ひて、御はてなど過ぎて御門今一人の御兄のみこと御心をあはせてかの兄のみこを射させ奉らせ給ふに、この兄のみこ手をわなゝかしてえ射給はずなりぬ。御門その弓をとりて射殺し給ひつ。このえ射ずなりぬる兄のみこののたまふやう「われ兄なりといへども心よわくしてその身堪へず、汝はあしき心もちたる兄を既にうしなへり。速に位に即き給ふべし」と申し給ひしに、かたみに位をゆづりて誰も即き給はで四年過し給へりしかども、つひにこの御門、兄の御すゝめにて位に即き給へりしなり。
第三安寧天皇〈三十八年十二月崩。年五十七。明年八月葬大和御陰井上陵。〉
次の御門安寧天皇と申しき。綏靖天皇の御子。御母皇太后宮五十鈴依媛なり。綏靖天皇の御世廿五年正月戊子の日東宮に立ち給ふ。御年十一。父御門うせ給ひて明くる年十月廿一日ぞ位につき給ひし。御年二十。世をたもち給ふ事三十八年なり。
第四懿德天皇〈三十四年九月八日崩。年七十七。葬大和國纎砂溪上陵。〉
次の御門懿德天皇と申しき。安寧天皇の第三の皇子。御母皇后淳名底中媛なり。安寧天皇の御世十一年正月壬戌の日東宮に立ちたまふ。御年十六。辛卯の年二月四日壬子位に即かせ給ふ。世をしらせ給ふ事三十四年なり。三十二年と申しゝにぞ孔子はうせ給ひにけるとうけたまはりし。
第五孝昭天皇〈八十三年崩。年百十四。葬大和國掖上博多山上陵。〉
次の御門孝昭天皇と申しき。懿德天皇第一の御子。御母皇太后宮天豐津媛なり。懿德天皇の廿二年三月戊午の日東宮に立ち給ふ。御年十八。丙寅の年正月九日位に即き給ふ。御年三十二。世をたもたせ給ふ事八十三年なり。
第六孝安天皇〈百二年崩。年百三十七。葬大和國玉手嶽上陵。〉
次の御門孝安天皇と申しき。孝昭天皇の第二の皇子。御母世襲足姬なり。孝昭天皇の御世六十八年正月に東宮に立ちたまひき。御年二十。己丑の年正月十三日辛卯位に即き給ふ。御年三十六。世をたもたせ給ふ事百二年なり。
第七孝靈天皇〈七十六年崩。年百三十四。葬大和國片嶽馬坂陵。〉
次の御門孝靈天皇と申しき。孝安天皇第一の御子、御母皇太后姉押姬なり。孝安天皇の御世七十六年正月に東宮に立ちたまふ。御年二十六。父みかどうせ給ひて次の年辛未正月二日ぞ位に即き給ひし。御年五十三。位をたもち給ふ事七十六年なり。この御代とぞおぼえ侍る。天竺の祇園精舍の燒けて後旃育迦王の造り給ふとうけたまはり侍りしは。須達長者造りて佛に奉りて二百年と申しゝに燒けにけるを、祇陀太子またもとのやうに造り給へりける後五百年にて燒けたるを今旃育迦王は造り給ふとぞ聞えし。
第八孝元天皇〈五十七年崩。年百十七。葬大和國輕劔池島上陵。〉
次の御門孝元天皇と申しき。孝靈天皇のみ子。御母皇后宮細媛なり。孝靈天皇の御世三十六年丙午正月東宮に立ちたまふ。御年十九。丁亥の年正月十四日に位に即きたまふ。御年六十。世をしらせ給ふ事五十七年なり。三十九年乙丑六月にゆゝしき大雪の降りたりしこそあさましく侍りしか。
第九開化天皇〈六十年崩。年百十五。葬大和國春日率川坂本陵。〉
次の御門開化天皇と申しき。孝元天皇の第二の御子、御母皇太后鬱色譴命なり。孝元天皇の御世二十年正月に東宮に立ちたまふ。御年十六。癸未の年十一月十二日くらゐにつき給ふ。御年五十一。世をしり給ふ事六十年。この御代の程とぞおぼえ侍る、南天竺に龍猛菩薩と申す僧いますなりと承りし。眞言を始めてひろめ給ひし事はこの菩薩なり。又祇園精舍はふたたびまで燒けしを旃育迦王の造り給へりけるを百年と申しゝにぬす人やき侍りにけり。いづこもいづこも心うきは人の心なり。その後十三年ありて、六師迦王又造り給へると承りしはこの御時位に即かせ給ひて十年など申しゝほどとぞおぼえ侍る。
第十崇神天皇〈六十八年崩。年百十九。葬大和國山邊道上陵。〉
次の御門崇神天皇と申しき。開化天皇第二の御子、御母皇后伊香色譴命なり。甲申の年正月十三日位に即き給ふ。御年五十二。世をしり給ふ事六十八年なり。六年と申しゝに齋宮ははじめて立ち給へりしなり。又國々の貢物かちよりもてまゐる事民も苦び日數も經る、あしきことなりとて諸國に船を造らさ〈如元〉せたまひき。六十二年と申しゝころほひ天竺に惡王おはして祇園精舍を毀ちて人を殺す所を定め給ひしかば、四天王沙竭羅龍王いかりをなしてこぼちける人を大なる石をもちて押し殺し給ひけるとぞうけたまはり侍りき〈如元〉。六十五年と申しゝに熊野の本宮は出でおはしましゝなり。凡そこの御門御心めでたくことにおきてくらからずおはしましき。
第十一垂仁天皇〈九十九年崩。年五十一。葬大和國添上郡伏見東陵。〉
次の御門垂仁天皇と申しき。崇神天皇第三の御子。御母皇后御間城姬なり。崇神天皇の四十八年四月に御夢のつげありて東宮に立て奉り給ひき。御年二十。壬辰の年正月二日位に即き給ふ。御年四十三。世をしりたまふ事九十九年なり。四年と申しゝに后の兄よきひまをうかゞひて后に申し給ふやう、「このかみとをうととたれをか志ふかく思ひ給ふ」と申し給ふに后何ともおぼさで「兄をこそは思ひまし奉れ」とのたまふを聞きて、この御兄のたまはく「しからばをうとは我が色おとろへず盛なる程なり。世の中にかたちよくわれもわれもと思ふ人こそ多かることにて侍れ。われ位につきなばこの世におはせむほどは世の中を御心にまかせ奉るべし。御門をうしなひ奉りたまへ」とて劍をとりて后に奉り給ひつ。后あさましくおそろしくおぼせどかくいひかけられなむ事遁るべき方もなくて常に御ぞのうちに劍をかくしてひまをうかゞひ給ふに、明くる年の十月に御門后の御膝を枕にして晝御殿ごもりたりしに、この事唯今にこそとおぼしゝに、おのづからなみだ下りて御門の御顏にかゝりしかば御門おどろき給ひてのたまふやう「われ夢に錦の色の小ぐちなはわが首をまつふと見つ。又おほきなる雨后の方より降りきてわが顏にそゝぐと見つ。いかなる事にか」と仰せられしに、后えかくしはて給はでふるひおぢ恐れ給ひて淚にむせびてありの儘の事を申し給ふを、御門きこしめして「この事后の御咎にあらず」とおほせられながら、このかみの王又后をもうしなはせ給ひにき。ゆゝしくあさましかりし事に侍りき。七年と申しゝにぞ、すまひははじまり侍りし。十五年と申しゝに、丹波の國にすみ給ひしみこの御女五人おはしき。御門これを皆まゐらすべきよし仰せ事ありしかば、奉りたまへりしに、おのおの時めかせたまひしに、中のおとゝのおはせし、かたちいとみにくゝなむおはしければもとの國へかへし遣しゝほどに、桂川をわたりて心うしとやおぼしけむ、車より落ちてやがてはかなくなり給ひき。あはれに侍りし事なり。さてそれよりかしこをおちくにと申しゝを、この頃はおとくにとぞ人は申すなる。その年の八月星の、雨の如くに降りしをこそ見侍りしか。淺ましかりし事に侍り。廿五年と申しゝに大神宮ははじめて伊勢の國におはしましゝなり。これより先に天降りおはしましたりしかども、所々に坐しまして、伊勢に宮うつりおはしますことは、天てる御神の御をしへにてこの年ありしなり。廿八年と申しゝに御門の御弟の御子うせ給ひにき。その程の世のならひにて近くつかうまつる人々を生きながら、御墓にこめられにけり。この人々久しくしなずしてあさ夕に泣きかなしぶを、御門聞しめして仰せらるゝやう「生きたる人をもちて死ぬるにしたがへむことは、いにしへより傳れることなれども、われこの事を見聞くに悲しきことかぎりなし。今よりこの事永くとゞむべし」とのたまひて、その後はじの氏の人、土にて人がた、けものゝかたなどを作りてなむ、人のかはりにこめ侍りし。おほやけこれをよろこびて、はじといふ姓をたまはせしなり。この比大江と申す姓はその土師の氏のすゑなるべし。八十二年この程とぞうけたまはりし。祇園精舍は荒れはてゝ人もなくて九十年ばかり過ぎにけるを忉利天皇の第二の御子を下して人王となして又造りみがゝるとうけたまはりき。佛などのおはしましゝにもまさりてめでたくぞ造られにける。九十三年と申しゝにぞ後漢の明帝の御夢にこがねの人きたると御覽じて、明くる年天竺より始めて佛法もろこしへ傳りにし。
第十二景行天皇〈六十年崩。年百四十三。葬大和國山邊道上陵。〉
次の御門景行天皇と申しき。垂仁天皇の第三の御子、御母の皇后日葉酢媛命なり。垂仁天皇の御世三十年辛酉正月甲子の日東宮に立ちたまふ。父みかど二人の御子に申し給ふやう「おのおの心に何をかえむと思ふ」とのたまふに、兄のみこ「われは弓矢なむほしく侍る」と申し給ふ。おとゝのみこ「我は皇位をなむえむと思ふ」と申したまふ。この言に從ひてこのかみの御子には弓矢をたてまつり、弟の御子をば東宮に立て奉り給へりしなり。辛未の年七月十一日位に即きたまふ。御年八十四。世をたもち給ふ事六十年なり。五十一年と申しゝに內宴行ひ給ひしに、成務天皇のいまだみこと申しゝと、武內こそ其座に參り給はざりしかば、御門たづねさせ給ひしに、申したまはく「人々皆御あそびの間心をゆるぶべきをりなり。その時もしひまにうかゞふ心あるものも侍らむにと思ひて、門をかためてなむ侍る」と申し給ひしかば、御門いよいよならびなく寵し給ひき。武內は孝元天皇の御孫なり。この後代々の御門の御後見として世に久しくおはしき。今にやはたの御傍に近くいはゝれ給へるは、この人にいます。五十八年二月に近江の穴穗宮にうつりにき。熊野の新宮はこの御時にぞはじまり給へりし。
第十三成務天皇〈六十一年崩。年百九。葬大和國狹城楯列池後陵。〉
次の御門成務天皇と申しき。景行天皇の第四の御子。御母の皇后兩道入姬なり。景行天皇の御世五十一年辛酉八月壬子の日東宮に立ち給ふ。辛未の年正月五日戊子位に即き給ふ。御年四十九。世をたもちたまふ事六十一年。御かたちことにすぐれ、御たけ一丈ぞおはしましゝ。武內この御時三年と申しゝにぞ大臣になり給へりし。大臣と申す事はこれよりぞはじまれる。もとは棟梁の臣と申しき。これも唯大臣とおなじことなり。つかさの名をかへ給へりしばかりなり。この御門御子おはせざりしぞ口をしくは侍りし。さて御甥のみこぞ位には即き給へりし。
第十四仲哀天皇〈九年崩。年五十二。葬河內國惠我長野西陵。〉
次の御門仲哀天皇と申しき。景行天皇の御子に、日本武尊と申しゝ第二の御子におはします。御母垂仁天皇の御むすめなり。成務天皇三十八年三月に東宮にたち給ふ。壬申の年正月十一日に位に即き給ふ、御年四十四。世をたもち給ふ事九年。筑紫にてうせ給ひにしかば、武內御骨をばとりて京へ歸りたまへりしなり。
第十五神功皇后〈六十九年崩。年百。葬大和國狹城楯列池上陵。〉
次の御門神功皇后と申しき。開化天皇の御ひゝこなり。仲哀天皇の后にておはせしなり。御母葛木高額媛。辛巳の年十月二日位に即き給ひき。女帝はこの御時はじまりしなり。世をたもち給ふ事六十九年。御心ばへめでたく、御かたち世にすぐれ給へりき。仲哀天皇の御時八年と申しゝに、筑紫にて、神この皇后につき給ひてのたまはく「さまざまのたから多かる國あり、新羅といふ。行きむかひ給はゞおのづから隨ひなむ」とのたまひき。しかるにその事なくて止みにき。皇后今のたまはく「御門神のをしへに隨ひ給はで、世をもたち給ふこと久しからずなりぬ、いとかなしき事なり。いづれの神のたゝりをなし給へるぞ」と七日いのりたまひしに、神詫宣してのたまはく「伊勢の國鈴鹿の宮に侍る神なり」とあらはれ給ひしによりて、皇后うらにいでさせ給ひて、御ぐしを海にうち入れさせ給ひて、「この事かなふべきならばわが髮わかれて二つになれ」とのたまひしにふたつになりにき。すなはちみづらにゆひ給ひて臣下にのたまはく「軍をおこす事は國の大事なり。今この事をおもひたつ、偏になんだちにまかす。われ女の身にして男の姿をかりて軍をおこす。上には神のめぐみをかうぶり、下にはなんだちのたすけを賴む」とて、まつらといふ河におはして、祈りてのたまはく、「若し西の國を得べきならばつりに必ず魚をえむ」とて釣りたまひしに、年魚をつりあげ給ひにき。その後諸國に船をめし、つはものをあつめて、海をわたり給はむとてまづ人を出して國のありなしを見せさせ給ふに、見えぬよしを申す。又人をつかはして見せしめ給ふに、日數おほく積りてかへり參りて、「いぬゐの方に山あり。雲かゝりてかすかに見え侍る」と申しゝかば、皇后その國へむかひ給はむとて石をとりて御腰にさしはさみ給ひて「事終りてかへらむ日この國にしてうみ奉らむ」と祈り誓ひ給ひき。この程やはたを孕み奉らせおはしましたりしなり。仲哀天皇うせさせおはします事は二月なり。この事は十月なればたゞならずおはしますとも、御門は知らせ給はぬ程にもや侍りけむ。さて十月辛丑の日ぞ新羅へ渡り給へりしに、海の中の樣々の大きなる魚ども、船どもの左右にそひて、大きなる風ふきて速にいたる。船に隨ひて波あらく立ちて新羅國の內へたゞ入りに入りくる時に、かの國の王おぢおそりて臣下をあつめて「昔よりいまだかゝる事なし。海の水既に國の內にみちなむとす。運の盡きをはりて國の海になりなむとするか」と歎きかなしぶ程に軍の船海にみちて鼓のこゑ山を動かす。新羅の王これを見ておもはく、これより東に神國あり、日本といふなり、その國のつはものなるべし、われたちあふべからずと思ひて、かの王すゝみて皇后の御船の前にまゐりて「今よりながく隨ひ奉りて、年ごとに貢物を奉るべし」と申しき。皇后その國へ入りたまひて、さまざまの寳のくらを封じ、國の指圖文書をとりたまひき。王さまざまの寶を船八十に積みてたてまつる。高麗百濟といふ二つの國この事をきゝておぢ恐れて進みてしたがひ奉りぬ。かくて筑紫にかへり給ひて十二月に王子をうみ奉り給ひき。これぞやはたの宮にはおはします。あくる年皇后京へかへり給ひしを、御まゝ子の御子たち思ひ給ふやう、父みかどうせ給ひにけり、又皇后旣に皇子をうみ奉り給ひてけり、これを位に即けむとこそはかり給ふらめ、我らこのかみにていかでかおとゝに從ふべきとて、播磨の明石にて皇后を待ち奉りて傾け奉らむとはかり給ひしを、皇后きゝ給ひて、みづから王子を抱き奉りたまひて武內の大臣に仰せられて、南海へ御船をいだし給ひしかば、おのづから紀伊の國にいたり給ひにき。その後御子たちむほんを起し給ひて、皇后をかたぶけ奉らむとし給ひしほどに、赤きゐのしゝ出できたりて、このかみの御子を食ひ殺してき。その後次の御子武內の大臣と又戰ひ給ひしもうしなはれ給ひにき。さてもあさましかりし。このたゝかひの間晝も夜の如くに暗くて日數のすぎしを、皇后大にあやしみ給ひて、年老いたるものどもに問ひ給ひしかば「二人を一所に葬りたるゆゑなり」と申しゝかば、尋ねさせ給ふに、小竹祝と天野祝といふものいみじきともにてとしを經るに、この小竹祝うせにけるを、天野祝なきかなしびて、我れ生きて何にかはせむとて傍に臥しておなじくなくなりにけるを、ひとつ塚にこめてけりと申しゝかば、その塚を毀ちて見せたまふに、誠に申すが如くなりしかばほかほかにうづまさせ給ひて後、即ち日の光あらはれにしなり。十月に臣下たち皇后を皇太后にあげたてまつる。この程とぞおぼえ侍る、祇園精舍を天魔やき侍りにけりときゝはべりし。
第十六應神天皇〈四十一年崩。御年百十一。葬河内國惠我藻陵。〉
次の御門應神天皇と申しき。今のやはたの宮はこの御事なり。仲哀天皇第四の御子、御母神功皇后におはします。神功皇后の御世三年に東宮に立ちたまふ。御年四歲なり。庚寅の年正月丁亥の日位に即きおはしましき。御年七十一。世をしろしめすこと四十一年なり。八年と申す四月に武內の大臣を筑紫へつかはして事を定めまつりごたせ奉らせ給ひしに、この武內の御おとゝにておはせし人の御門に申し給はく「武內の大臣常に王位を心にかけたり。筑紫にて新羅高麗百濟この三つの國をかたらひておほやけを傾け奉らむとす」となき事を讒し申しゝかば、御門人を遣はしてこの武内を討たしめ給ふに、武內なげきて「われ君のため二心なし。今罪なくして身をうしなひてむとす。心うき事なり」とのたまふ。その時に壹岐直の祖眞根子といふものありき。かたち武内の大臣に違はず相似たりき。この人大臣に申していはく「かまへて遁れて都へ參りて罪なきよしを奏し給へ。われ大臣にかはり奉らむ」とて進みいでゝみづからしぬ。武內密に都にかへりて事のありさまを申し給ふに、おとゝたち二人を召して重ねて問はせ給ふに武內罪おはせぬよしおのづからあらはれにき。その後御門この武內の大臣を寵したまひしなり。
第十七仁德天皇〈八十七年崩。年百十。葬和泉國百舌鳥野陵。〉
次の御門仁德天皇と申しき。應神天皇第四の皇子。御母の皇后仲姫なり。癸酉の年正月己卯の日位に即き給ふ。御年二十四。世をしり給ふ事八十七年なり。この御門の御おとゝを東宮と申しゝかば、すべからく位を繼ぎ給ふべかりしに、兄にゆづり申し給ひしかども、互につぎ給はずして空しく三年をすぐさせ給ひしかば、東宮みづから命をうしなひ給ひにき。御門この事をきこしめして、かの東宮へ急ぎおはしまして泣きかなしび給ひしかども、かひなくて、その後位には即かせたまひしなり。四年と申しゝ二月に高き樓に登りて四方の民のすみかを見給ひて、烟絕え寂しかりしかば、今より後三年民を休め、九重の內の修理をとゞめさせ給ひき。さて七年と申しゝ四月に、又樓にのぼりて御覽ぜしに、民のすみかにぎはひて御覽ぜられければ、御門よませたまひし、
「たかき屋にのぼりて見れば煙たつ民のかまどはにぎはひにけり」。
四十二年と申しゝ九月にぞ、鷹の鳥をとるといふことは知りそめて、かりはじめ給ひし。五十五年と申しゝに、武內の大臣うせ給ひにき。年二百八十にぞなりたまひし。六代の御門の御後見をして、大臣の位にて二百四十四年ぞおはせし。六十二年と申しゝに、氷すうることは出できはじめて、今にいたるまで供御にそなふるなり。この御門御かたち世にすぐれて御心ばへめでたくおはしましき。
第十八履中天皇〈六年崩。年六十七。葬和泉國百舌鳥耳原陵。〉
次の御門履中天皇と申しき。仁德天皇第一の御子。御母の皇后磐之媛なり。仁德天皇三十一年に東宮にたちたまふ。御年五歲。庚子の年二月一日位に即き給ふ。御年六十二。世をたもち給ふ事六年。父みかどうせおはしまして後いまだ位に即き給はざりし程に、葦田宿禰のむすめ黑媛といひし人を后とせむとおぼして、御弟の住吉仲皇子をつかはしてその日おはすべきよし仰せられしに、この皇子、我が名をかくして東宮のおはするさまにもてなしてこの姬君に親しきさまになむなりにける。さてもちたりつる鈴を忘れて歸りにけり。その次の夜東宮姬君のもとへおはしたるに、居給へる傍に鈴のありければ、あやしくおぼして姬君に問ひ奉り給ひければ「これこそはよべもておはしたりし鈴よ」とのたまふに、東宮、われと名のりて皇子の近づき給ひにけるにこそとおぼして歸り給ひにけり。皇子この事を東宮聞き給ひぬらむ、我が身たひらかならむ事難かるべしとおもはして、東宮を傾け奉らむとはかりてつはものを起して宮を圍みしをり、大臣たち東宮にかゝる事侍ると吿げ奉りしにいふかひなくゑひ給ひておどろき給はざりしかば、大臣たち、この東宮を馬にかきのせ奉りて逃侍りにき。皇子この事をしらずして宮に火をつけて燒きてき。これは津の國の難波の宮なり。東宮大和の國におはしてゑひさめ給ひて「此はいづれの所ぞ」と問ひ給ひしかば大臣たち事のありつるさまを申し給ひき。さて石上の宮に坐しつきたりしに又の御おとゝに、みづはの皇子と申しゝ人急ぎまゐり給へりしを、疑ひ給ひてあひ給はざりしかば、この皇子「われにおきては更におなじ心に侍らず」と申し給ひしかば「しからばかの住吉仲皇子を殺して後にきたるべしとたのまはせしかば、このみづはの皇子即ち難波にかへりて住吉仲皇子の近くつかひ給ひし人をかたらひて「わがいはむ事に從ひたらばわれ位をたもたむ時なんぢを大臣になさむ」とのたまひしかば「いかにもおほせに從ふべし」と申しゝかば、多く物どもをたまひて「しからば汝がしうを殺してわれにえさすべし」とのたまふに、そのことにしたがひてしうの皇子の厠におはするをほこをもちて刺し殺してき。みづはの皇子、その人を相具してまゐりてこのよしを申したまふに、東宮ののたまはく、「この人はわがためにくらうあれども、おのれがしうを殺しつればうるはしき心にあらず。されども大臣の位にのぼさせ給ひて今日大臣とさかもりせむ」とのたまはせて、顏隱るゝほどの大なる盃にて東宮まづ飮みたまふ。次にみづはの皇子飮み給ふ。次に大臣のむをりに太刀を拔きて首をきり給ひてき。さて次の年位に即き給ひてのちその黑姬をば后にたて奉らせ給ひしなり。五年九月に、御門淡路の國におはして狩したまひしにそらにかぜのおとに似てこゑするものありしほどに、にはかにひとはしりまゐりてきさきうせたまひぬるよしまうしゝこそ、いとあへなくはべりしか。
第十九反正天皇〈六年崩。年六十。葬和泉國百舌鳥耳原北陵。〉
次の御門反正天皇と申しき。仁德天皇第四の御子。履中天皇の御おとゝなり。御母皇后磐之媛なり。履中天皇の御世二年正月に東宮に立ちたまふ。御年五十。履中天皇の御子おはせしかどもこの御門を東宮には立て奉らせ給ひしなり。丙午の年正月二日位に即き給ふ、御年五十五。世をしらせ給ふ事六年。御門御かたちめでたくおはしましき。御たけ九尺二寸五分、御齒のながさ一寸二分、上下とゝのほりて玉を貫きたるやうにおはしき。生れ給ひしとき、やがて御齒ひとつ骨のごとくにておひ給へりき。さてみづはの皇子とぞ申し侍りし。この御世には雨風も時にしたがひ世安らかに民ゆたかなりき。位に即き給ひて次の年十月に都河內國柴垣の宮にうつりにき。
第二十允恭天皇〈四十二年崩。年八十。葬河內國惠我長野北原陵。〉
次の御門允恭天皇と申しき。仁德天皇第五の御子。御母皇后磐之媛なり。壬子の年十二月に位に即き給ふ。御年三十九。世をしり給ふ事四十二年なり。兄の御門うせ給ひてのち大臣をはじめて「位にはこの君こそ即き給ふべけれ」とて、しるしの箱を奉りしかども、うけとり給はずして「我が身久しく病にしづめり。おほやけの位はおろかなる身にて保つべき事ならず」とのたまひしを、大臣以下猶進め奉りて「帝王の御位の空しくて久しかるべきにあらず」と、度々申しゝかども、猶聞しめさずして正月に兄御門うせおはしまして明くる年の十二月まで御門おはしまさでありしを、御乳母にておはしましゝ人の、水をとりて御うがひを奉り給ひしついでに「皇子はなど位に即きたまはで年月をばすぐさせ給ふにか侍る。大臣よりはじめて世の中のなげきに侍るめり。人々の申すに從ひて位に即かせ給へかし」と申したまふを、なほきこしめさでうち後むき給ひて、物ものたまはざりしかば、この御うがひをもちてさりともとかく仰せらるゝ事もやと待ち居侍りしほどに、十二月の事にていと寒かりしに、久しくなりにしかば御うがひもこほりて持ち給へる手もひえとほりて既にしにいり給へりしを、皇子見驚き給ひて、抱きたすけて「位を繼ぐ事はきはまりなき大事なれば、今までうけとらぬことにて侍れども、かくのたまひあひたる事なれば、あながちに遁れ侍るべきことにあらず」とおほせられしかば、一天下の人よろこびをなしき。かくて位には即き給ひしなり。三年と申しゝ正月に新羅へくすしをめしに遣したりしかば、八月に參りたりき。御門の御病をつくろはさせ給ひしに、そのしるしありて御病いえさせおはしましにしかば、さまざまの祿どもなど賜はせて、かへしつかはしてき。七年と申しゝ十二月に御あそびありしに、御門琴をひき給ふを后聞きめで奉りて、まひてうち居給ひしをり「あはれひめごをまゐらせばや」と申し給ひしを、御門「ひめごとは誰が事にか」と問ひ申させ給ひしを「御琴のめでたさにわれにもあらず申し給へりけることにや侍りけむ。さりながらも申しいだし給ひぬる事なれば隱し給ふべきならで、わがおとゝに侍るおと姬となむ申す。色かたちなむ世に又ならぶたぐひ侍らず。衣のうへひかりとほりかゞやき侍り。世の人はされば衣通姬とぞ申す」。御門これをきこしめして「それ奉り給へ」と、后を責め申させ給ひしかども、ともかくも御返事も申し給はざりしかば、御使をつかはして七度まで召しゝかども參り給はざりしかば、又御使を替へて遣したりしに、その御使庭にひれふして七日までつやつやと物を食はざりしを、御使のいふかひなく死なむことのあさましさに、おと姬うちへ參り給ひにき。御門悅び給ふことかぎりなくて、時めき給ふさまならぶべき人なかりき。この事を姉后やすからぬことにし給ひしかば、宮をべちに造りてぞすゑ奉り給へりし。四十二年おはしましゝに御門うせ給ひにしを新羅より年ごとの事なれば船八十にさまざまの物を積みて樂人八十人相副へて奉りたりしに、御門うせ給ひにけりと聞きて泣き悲ぶこと限なし。難波の津より京までこの貢物をもてつゞけ奉りおきてかへりにき。この後は僅に船二つなどをぞ奉りし。又をこたる年々も侍りき。
第廿一安康天皇〈三年崩。年五十六。葬大和國菅原伏見西陵。〉
次の御門安康天皇と申しき。允恭天皇の第二の御子。御母皇后忍坂大中姫なり。甲午の年十月に御兄の東宮を失ひ奉りて、十二月十四日に位には即きたまひしなり。御年五十六。世をしり給ふ事三年なり。明くる年の二月に御弟の雄略天皇の大泊瀨のみこと申しておはせし御めになし奉らむとて御をぢの大草香のみこと申しゝ人の御妹を奉り給へど、御門おほせ事ありて御使を遣したりしに、この皇子よろこびて「身に病をうけて久しくまかりなりぬ、世に侍ること今日明日といふ事をしらず。この人みなし子にて侍るを見おきがたくてよみぢも安くまかられざるべきに、そのかたちの見にくきをも嫌ひ給はず、かゝる仰せをかうぶるかたじけなき事なり。この志をあらはし奉らむ」とて、御使につけてめでたき寶をたてまつれるを、この御使これを見て耽ける心いできて、この寶物をかすめかくしつ。さてかへり參りて御門に申すやう「更に奉るべからず。おなじ皇子たちといふとも我れらが妹にていかでかあはせ奉るべき」と申すよしを僞り申しゝかば、大きにいかり給ひて軍をつかはして殺し給ひてき。そのめをとりてわが后とし給ひ、その妹を召して本意の如く大泊瀨のみこにあはせ給ひつ。三年と申す八月に御門樓にのぼり給ひてみきなど進めて遊び給ひて、后の宮に「何事か思す事はある」と申し給ひしかば、后の宮「御門の御いとほしみをかうぶれり。何事をかは思ひ侍るべき」と申したまふ。御門おほせられていはく「我が身には恐るゝ事あり。このまゝ子の眉輪の王おとなしくなりて、わがその父を殺したりとしりなば、定めてあしき心をおこしてむ」とのたまふを、この眉輪の王、樓の下に遊びありきて聞き給ひてけり。さて御門のゑひて后の御膝を枕にして晝御殿ごもりたるを、傍なる太刀をとりて眉輪の王あやまち奉りて逃げて大臣の家におはしにき。御門の御おとゝの大泊瀨のみこ、この事を聞きて、軍をおこしてかの大臣の家をかこみて戰ひたまひき。眉輪王「もとよりわれ位に即かむとの心なし。唯父のかたきを報ゆるばかりなり」といひて、みづから首を斬りて死ぬ。この眉輪王七歲になむなり給ひし。
第廿二雄略天皇〈二十三年崩。年九十三。葬河內國高原鷲陵。〉
次の御門雄略天皇と申しき。允恭天皇第五のみこ。御母皇后忍坂大中姬なり。丙申の年十一月十三日位に即き給ふ。御年七十。世をしり給ふ事廿三年なり。この御門生れ給ひし時宮の內なむ光りたりし。おとなになり給ひて後御心たけくして多くの人を殺したまひき。世の人大惡天皇と申しき。二年と申しゝ七月に御門愛せさせ給ひし女こと男にあひにけり。みかどいかり給ひて男女二人ながら召しよせて、四のえだを木の上にはりつけて、火をつけて燒きころし給ひてき。四年二月と申しゝに御門この葛城山にて狩をし給ひしに、御門の御かたちにいさゝかも違はぬ人いで來れりき。御門「これは誰の人ぞ」とのたまはせしに、その人「まづ王の名をなのり給へ。その後まをさむ」と申しゝかば、御門なのり給ひき。その後「われは一言主の神に侍る」と申して、相共に狩をして日暮れてかへり給ひしに、この一言主の神おくり奉りしかば、世の中の人「たゞ人にはおはせぬか」とぞ申しあひたりし。廿三年と申しゝ七月に浦島の子蓬萊へまかりにけりといふ事侍りしなり。皆人のしり給ひたる事なればこまかには申すべからず。
第廿三淸寧天皇〈五年崩。年四十一。葬河內國坂門原陵。〉
次の御門淸寧天皇と申しき。雄略天皇の第三の御子。御母皇太夫人葛城韓姬なり。雄略天皇の御世廿二年正月に東宮に立ちたまふ。御年三十五。世をしり給ふ事五年。御門生れ給ひて御ぐし白く長かりき。さて白髮皇子とは申しゝなり。民を愛し給ふ御心ありしを父御門御子たちの中に寵じ給ひて東宮に立て奉りしなり。庚申の年正月四日位に即きたまふ。御年三十七。世をしり給ふ事五年なり。この御門位を繼ぐべき人なき事を歎きてよろづの國々に使をつかはして王孫をもとめ給ひしに履中天皇のうまごといふ人二人を播磨國よりもとめ出して、兄をば東宮に立て、弟をば皇子とし給ひき。
第廿四飯豐天皇〈即位年崩。年四十五。葬大和國垣內丘陵。〉
次の御門飯豐天皇と申しき。これは女帝におはします。履中天皇のみこに押羽皇子と申して黑媛の御腹に王子おはしき。その御むすめなり。御母茅媛なり。甲子の年二月に位に即き給ふ。御年四十五。この御門の御弟二人かたみに位を讓りて繼ぎ給はざりしほどに、御妹を位に即け奉り給へりしなり。さて程なくその年のうち十一月にうせ給ひにしかば、この御門をば系圖などにも入れ奉らぬとかやぞうけたまはる。されども日本紀には入れ奉りて侍るなれば、次第に申し侍るなり。
第廿五顯宗天皇〈三年崩。年三十八。葬大和國磐杯丘陵。〉
次の御門顯宗天皇と申しき。飯豐天皇の同じ御腹のおとゝに坐します。乙丑の年正月一日位に即きたまふ。御年三十六。世をしり給ふ事三年。御父の押羽の皇子は安康天皇の御世三年と申しゝに安康の御弟の雄略天皇と申しゝ御門のいまだ皇子にておはしましゝに失はれ給ひしかば、その皇子二人丹波國へ逃げて坐したりしに、猶世の中をおそりたまひて、弟の君兄の君をすゝめ奉りて播磨國へおはして御名どもをかへて郡のつかさに仕へ給ひき。さて年月を過ぐし給ひし程に、おとゝの君兄の君に申し給はく「我等命を遁れて此所にて年を經にたり。今は名をあらはしてむ」とのたまひしに、兄の君、「しからば命をたもたむこといと難かるべし」とのたまひしかば、又弟の君「われ等は履中天皇の御孫なり。身をくるしめて人に仕へて、馬牛をかふ生けるかひなし。唯名を顯して命をうしなひてむ。いとよき事なり」とのたまひて、兄弟かたみに抱きつきて泣き給ふことかぎりなし。兄の君「さらば疾くわれ等が名をあらはし給ひてよ」とのたまひしかば、二人相具して郡のつかさの家におはしてあまだりのもとに居給へりしかば。呼びいれ奉りて竈の前にすゑて、酒のみ遊びなどしておのおの立ちて舞ふに、このおとゝの君我が御身の有樣をいひ續けて舞ひ給ふを、郡のつかさ聞きおどろきて、おりさわぎ拜し奉りて郡のうちの民どもを起して俄に宮づくりしてかりそめにすゑ奉りて、御門に「この二人の王をむかへ奉り給へ」と申しゝかば、淸寧天皇よろこびて即ちむかへとり給ひつ。「われ子なし位を繼ぎ給ふべし」とて兄の王を東宮に立て奉り給ひき。さて淸寧天皇うせ給ひにしかば、東宮位に即き給ふべかりしを、御弟にゆづり給ひしかどもあるべき事にあらずと申し給へりき。かくてかたみに位につき給はざりしかば、御妹の飯豐天皇をつけ奉り給ひしほどに、その年のうちにうせ給ひにしかば、猶弟の王東宮の御すゝめに從ひて位に即きたまひき。そのとし三月上巳の日始めて曲水宴を行はせ給ひし。二年八月と申しゝに御門御兄の東宮に申し給はく「わが父のみこ罪なくして雄畧天皇にうしなはれ給へりき。うらみの心今にやむことなし。われかの御門の陵をこぼちてその骨をくだきて捨てむ」とのたまひしを、東宮申し給はく「雄畧天皇は御門におはします。我が父は御門の御子なりといへども、位にのぼり給はざりき。また御門淸寧天皇の御惠をかうぶり給へり。雄畧天皇は淸寧天皇の御父におはせずや。今位にのぼりたまひいかでかその志を忘れたまはむ。陵を破りたまはむ事あるべからず」と申し給ひしかば、その言にしたがひ給ひき。この御時世治り民やすらかに侍りき。
第廿六仁賢天皇〈十一年崩。年五十。葬河內國埴生坂本陵。〉
次の御門仁賢天皇と申しき。顯宗天皇のひとつ御腹の兄なり。淸寧天皇の御世三年四月に春宮に立ちたまふ。戊辰の年正月五日位に即かせたまふ。御年四十。世をしりたまふ事十一年なり。この御門の御ありさま顯宗天皇の御事の中にこまかに申し侍りぬ。御心ざまめでたくおはしましき。
第廿七武烈天皇〈八年崩。年十八。葬大和國傍丘勞杯丘北陵。〉
次の御門武烈天皇と申しき。仁賢天皇の御子。御母皇后春日の大娘なり。仁賢天皇七年正月に東宮に立ちたまふ。御年六歲。戊寅の年十二月に位に即き給ふ。御年十歲。世をしり給ふ事八年。そのほど人を殺す事朝夕のしわざとしたまふ。孕める人の腹をさきわりてその子を見たまひ、人の爪をぬきていもをほらせ、人を木にのぼせて落してころし、或時は人を水にいれてほこにて刺し殺し、或時は女をはだかになして板の上にすゑて、馬のゆゝしきわざを見せさせ給ふに、そのかたに入りたる女は板をうるほすを、御門これをにくみてやがて殺し給ひき。さなきをば召して宮づかへすべきよしの仰せありき。かやうのあさましく心うき事多かりし御世なり。御年十八にてうせ給ひにき。御子もおはせず。
第廿八繼體天皇〈二十五年崩。年八十二。葬攝津國二島藍野陵。〉
次の御門繼體天皇と申しき。應神天皇第八の御子隼總別皇子と申しき。その御子を大迹王と申しき。その御子を私斐王と申しき。又その御子に彥主人の王と申しゝ王の子にて、この御門はおはしましゝなり。御母垂仁天皇の七世の御孫振姬なり。丁亥の年二月に位に即き給ふ。御年五十八。世をしり給ふ事二十五年。武烈天皇うせ給ひてのち位を繼ぎ給ふべき人なきことを、大臣をはじめて一天下の人なげきて、仲哀天皇の五代の御孫丹波國におはすときこゆ。かの王を迎へ奉りて位に即け奉らむとて、つかさつかさ御迎へにまゐりしを、遙に見やりておぢおそれ色をうしなひて山中にかくれ給ひてそのゆきがたを知らずなりにき。かくてあくる年の正月に越前國に應神天皇の五代の御孫の王おはすといふ事聞えて、又つかさつかさ御迎へに參りたりしに、この王驚く御氣色なくして、あぐらに尻をかけて御前に候ふ人々かしこまり敬ひ奉る事おほやけの如くなりき。この御迎へにまゐりたる人々いよいよかしこまりて事のよしを申しき。王この事をうたがひ給ひて空しく二日二夜をすぐさせ給ひき。御迎への人々重ねて大臣の迎へ奉るよし、事のありさまを申し侍りし時に京へ入り給ひしなり。さりながらも位をうけとり給はざりしかば、大臣をはじめてあながちに勸め奉りしかば、遂に位に即き給ひしなり。この御時、都うつり三度ありき。
第廿九安閑天皇〈二年崩。年七十。葬河內國古市高屋丘陵。〉
次の御門安閑天皇と申しき。繼體天皇の御子。御母妃尾張目子媛。癸丑の年二月に位に即き給ふ。御年六十八。世をしり給ふ事二年。御位に即きたまひて明くる年正月に都大和の高市郡にうつりにき。
第卅宣化天皇〈四年崩。年七十二。葬大和國身狹桃花鳥坂上陵。〉
次の御門宣化天皇と申しき。安閑天皇のひとつはらの御弟におはします。乙卯の年十二月に位に即き給ふ。御年六十九。世をしり給ふ事四年。位に即き給ひて三年と申しゝにぞ、天臺大師生れ給ひし時に侍りしと、後にうけたまはりし。
第卅一欽明天皇〈二十二年崩。年八十。葬大和國檜隈坂合陵。〉
次の御門欽明天皇と申しき。安閑天皇の御兄〈弟歟〉。御母皇后手白香なり。癸亥の年くらゐにつき給ふ。世をしりたまふこと十三年。十三年と申しゝに百濟國より佛經わたりたまへりき。みかどよろこび給ひてこれを崇め給ひしに、世の中の心ちおこりて人おほくわづらひき。尾興の大連といひし人「佛法を崇むるゆゑにこの病起るなるべし」と申して寺を燒きうしなひしかば、空に雲なくして雨ふり、內裏やけ、かの大連うせにき。この後さまざまの佛經猶渡りたまひき。繼體天皇の御世にもろこしより人わたりて佛を持したてまつりて崇め行ひしかども、その時の人唐土の神となづけて佛とも知り奉らず、又世の中にもひろまり給はずなりにき。この御世よりぞ、世の人佛法といふ事は知りそめ侍りし。三十三年と申しゝに聖德太子はうまれ給ひき。御父の用明天皇はこの御門の第四の御子と申しゝなり。太子の御母の御夢に金の色したる僧の「われ世をすくふ願あり。しばらく君が腹にやどらむ」との給ひしかば、御母「かくのたまふは誰にかおはする」と申し給ひき。その僧「われは救世菩薩なり。家はこれより西の方にあり」とのたまひき。御母申したまはく「我が身はけがらはし。いかでかやどりたまはむ」とのたまふに、この僧「けがらはしきを厭はず」とのたまひしに、しからばとゆるし奉り給ひしに從ひて母の御口におどり入り給ふとおぼして、驚き給ひたりしに御喉に物ある心ちし給ひて孕み給へりしなり。八月と申しゝに腹の內にてもののたまふ聞え侍りき。このころほひに宇佐の宮は顯れ始めおはしましき。よしなき事に侍れどもこの御時とぞおぼえ侍る、野干をきつねと申し侍りしは。事のおこりは、美濃國に侍りし人、顏よき妻をもとむとてものへまかりしに、野中に女にあひ侍りにき。この男かたらひよりて「我が妻になりなむや」といひき。この女「いかにものたまはむに從ふべし」といひしかば、相具して家にかへりてすむ程に、をのこ子一人うみてき。かくて年月をすぐすに家にある犬十二月十五日に子をうみてき。その犬の子すこしおとなびてこのめの女を見る度每にほえしかば、かのめの女いみじくおぢて、男に「これうち殺してよ」といひしかども、をうとの男聞かざりき。このめの女米しらぐる女どもに物くはせむとて、からうすのやに入りにき。その時この犬走りきてめの女を食はむとす。このめの女驚き恐れてえたへずして野干になりてまがきの上にのぼりてをり。男これを見てあさましと思ひながらいはく「汝と我とが中に子既にいできにたり。われ汝をわするべからず。常にきて寢よ」といひしかば、その後きたりて寢侍りき。さてきつねとは申しそめしなり。そのめは桃の花染の裳をなむ着て侍りし。その產みたりし子をばきつとぞ申しゝ。力つよくして走ること飛ぶ鳥の如く侍りき。
水鏡卷中
卅二敏達天皇
卅三用明天皇
卅四崇峻天皇
卅五推古天皇
卅六舒明天皇
卅七皇極天皇
卅八孝德天皇〈大化五白雉五〉
卅九齊明天皇
四十天智天皇
四十一天武天皇〈朱雀一朱鳥一白鳳十三〉
四十二持統天皇〈朱鳥八大寶二〉
四十三文武天皇〈大寶三慶雲四〉
四十四元明天皇〈和銅七〉
四十五元正天皇〈靈龜二養老七〉
四十六聖武天皇〈神龜五天平廿〉
四十七孝謙天皇〈天平勝寶八天平寶字二〉
第卅二敏達天皇〈十四年崩。年二十四。葬河內國長職中屋陵。〉
次の御門敏達天皇と申しき。欽明天皇の第二の御子。御母宣化天皇の御女石姬の皇后なり。欽明天皇の御世十五年甲戌正月に東宮に立ち給ふ。壬辰の年四月三日位に即き給ふ。世をしり給ふ事十四年なり。今年正月一日ぞ聖德太子は生れ給ひし。父の用明天皇は御門の御弟にて、いまだ皇子と申しゝなり。御母宮の內を遊びありかせ給ひしに厩のまへにて御心にいさゝかも覺えさせ給ふ事もなくて俄に生れさせ給ひしなり。この月までは十二ヶ月にぞあたらせ給ひし。人々急きいだきとり奉りてき。かくて赤く黃なるひかり西の方よりさして御殿の內をてらしき。御門このよしを聞し召して行幸なりて事のありさまを問ひ申し給ふに、又ありつるやうに宮の內光さしてかゞやけり。みかどあさましと思して「たゞ人には坐すまじき人なり」とぞ人々にはのたまはせし。四月になりにしかば、物などいとよくのたまひき。今年の五月とぞおぼえ侍る。高麗より鳥の羽にものを書きて奉りたりしを、いかにして讀むべしとも覺えぬ事にて侍りしを、なにがしの王とかや申しゝ人のこしきの內におきてうつしとりて讀みたりしこそいみじきことにて侍りしか。御門めでほめ給ひてその王は御前近く常に侍ふべきよしなど仰せられき。二年と申す二月十五日聖德太子東に向ひて掌をあはせて「南無佛」とのたまひき。御年二つにこそはなり給ひしか。三年三月三日父の皇子聖德太子を愛し奉りて抱き給へりしにいみじくかうばしくおはしき。その後多くの月日をすぐるまでそのうつり香失せ給はざりしかば宮のうちの女房たち、われもわれもと爭ひいだき奉り侍りき。六年十月と申しゝに、百濟國より經論又あまた渡り給へりしを、太子「これを見侍らむ」と御門に申し給ひしかば、御門その故を問ひ給ひ、太子申し給はく「昔もろこしの衡山に侍りしに佛敎は見給へりき。今その經論を奉りて侍るなれば見給へらむと思ひ給ふるなり」と申し給ひしかば、御門あさましとおぼしめして「汝は六歲になりたまふ。いつのほどにもろこしにありしとはのたまふぞ」と仰事ありしかば、太子「前の世の事のおぼえ侍るを申すなり」と申し給ひし時に、御門をはじめ奉りて聞く人手をうちあざみ申しき。法華經はことしわたり給へりけるとぞうけたまはりし。七年と申しゝ二月に、太子よろづの經論を披き見給ひて「六齋日は梵天帝釋おり下り給ひて國の政を見給ふ日なり。ものゝ命を殺す事をとゞめたまへ」と申し給ひしかば、宣旨をくだし給ひき。今年太子七歲にぞなり給ひし。八年と申しゝ十月に新羅より釋迦佛をわたし奉りしかば御門悅び給ひて供養したてまつりき。山階寺の東金堂におはしますはこの佛なり。十二年と申しゝ七月に、百濟國より日羅といふ人來れりき。太子あひ給ひて物がたりをし給ひしほどに、日羅身より光をはなちて太子を拜み奉るとて「敬禮救世觀世音傳燈東方粟散王」と申しき。太子又眉間より光をはなち給ひき。かくて人々にのたまひき「われ昔もろこしにありし時、日羅は弟子にてありしものなり。常に日を拜み奉りしによりてかく身より光をいだすなり。のちの世に必ず天にうまるべし」とのたまひき。十三年と申しゝ九月に、百濟國より石にて造りたる彌勒をわたし奉りたりしを、蘇我馬子の大臣、堂をつくりてすゑ奉りき。今元興寺におはします佛なり。十四年と申しゝ三月に、守屋の大臣御門に申さく「先帝の御時より今にいたるまで世の中の病いまだをこたらず。蘇我の大臣佛法を行ふゆゑなるべし」と申しゝかば、佛法を失ふべきよし宣旨下りにき。守屋みづから寺にゆきむかひて堂を切りたふし、佛像を破りうしなひ火をつけて燒き、尼の着る物をはぎ、しもとをもちて打ちし程に、空に雲なくして大きに雨ふり風ふきゝ。御門も守屋も忽に瘡をわづらひ天下に瘡おこりて命をうしなふもの數をしらず。その瘡をやむ人身をやき切るが如くになむおぼえける。佛像を燒きし罪によりてこのやまうおこれりしなり。六月に蘇我の大臣病久しくいえず。「猶三寳をあふぎ奉らむ」と申しき。御門「しからば汝ひとりおこなふべし」とのたまはせしかば喜びてまた堂塔をつくりき。佛法はこれよりやうやう弘まりはじまりしなり。かくて八月十五日に御門はうせさせ給ひにき。この御時とぞおぼえ侍る、尾張の國に田を作るものありき。夏になりて田に水まかせむとせし程に、俄に神なり雨降りしかば、木の下にたち入りてありし程に、その前にいかづち落ちにき。その形幼き子のごとし。この男すきをもちて打たむとせしかば、いかづち「われを殺すことなかれ。必ずこの恩を報いむ」といひき。をのこのいはく「何事にて恩を報ゆべきぞ」といひき。いかづち答へていはく「汝に子を設けさせて、かれにて恩をむくいむ。われにくすの木の船を造りて水を入れて竹の葉をうかべて速に與へよ」といひしかば、このをのこ、いかづちのいふが如くにして與へつ。いかづちこれをえて、即ち空へのぼりにき。その後をのこごを設けてき。生れし時にくちなはその首をまとひて、尾頭うなじの方にさがれりき。力世にすぐれたり。年十餘になりて方八尺の石をやすく投げき。このわらは元興寺の僧につかへしほどに、その寺のかねつき堂に鬼ありて夜ごとに鐘つく人を食ひ殺すを、この童「鬼の人を殺す事をとゞめてむ」といひしかば、寺の僧ども悅びて速に留むべきよしをすゝめき。その夜になりて、童鐘撞堂にのぼりて鐘をうつ程に、例の如く鬼きたれり。童鬼の髮にとりつきぬ。鬼は外へひき出さむとし、童は內へひき入れむとする程に夜たゞ明けに明けなむとす。鬼しわびてかうぎはを放ち落して逃げさりぬ。夜明けて血をたづねてもとめ侍りしかば、その寺の傍なる塚のもとにてなむ血とまり侍りにし。昔心あしかりし人を埋めりし所なり。その人鬼になりたりけるとぞ人々申しあひたりし。その後鬼人を殺す事侍らざりき。鬼の髮は寶藏にをさめていまだ侍るめり。この童をとこになりてなほこの寺に侍りき。寺の田をつくりて水をまかせむとせしに、人々さまたげて水を入れさせざりしかば、十餘人ばかりして擔ひつべき程のすきがらを作りてみな口にたてたりしを、人々ぬきて捨てたりしかば、この男又五百人してひく石をとりてこと人の田のみな口におきて水を寺田に入れしかば、人々おぢ恐れてそのみな口を塞がずなりにき。かくて寺田やくることなかりしかば、寺の僧、この男法師になる事をゆるしてき。世の人道塲法師とぞ申しゝ。
第卅三用明天皇〈二年崩。葬大和國磐餘池上陵。〉
次の御門用明天皇と申しき。欽明天皇の第四の御子。御母大臣蘇我宿禰稻目の女妃堅鹽姬。乙巳の年九月五日位に即き給ふ。世をしり給ふ事二年。位に即き給ひて明くる年聖德太子父みかどを相し奉りて「御命ことのほかに短く見えさせ給へり。政事をよくすなほにし給ふべし」と申し給ひき。かくて次の年の四月に、父御門御心ち例ならずおはせしに、太子夜晝附きそひ奉りて聲だえもせず祈り奉り給ひき。御門「大臣以下三寶を崇め奉らむ。いかゞあるべき」と仰せられあはせ給ひしに、守屋は「あるべき事にも侍らず。我が國の神を背きていかでかこと國の神をば崇むべき」と申しき。蘇我の大臣は「唯仰せ事にしたがひて崇め奉らむ」と申しき。御門蘇我の大臣のことに從ひ給ひて法師を內裏へ召しいれられしかば、太子大きによろこび給ひて、蘇我の大臣の手をとり淚をながし「三寳の妙理を人しることなくしてみだりがはしく用ゐ奉らざるに、大臣佛法を信じ奉るいといとかしこき事なり」とのたまひしを、守屋大きに怒りて腹たちにき。太子人々にのたまはく「守屋因果を知らずして今ほろびなむとす。悲しきことなり」とのたまひしを、人ありて守屋に吿げきかせしかば、守屋いとゞいかりをなしてつはものをあつめさまざまのましわざどもをしき。この事聞えて太子の舍人をつかはして守屋にかたよれる人々を殺させ給ひしほどに、四月九日御門うせさせ給ひにき。七月になりて、太子かの大臣もろともに軍を起して守屋と戰ひたまふ。守屋が方のいくさ數をしらざりしかば、太子の御方の軍おぢおそれて三度までも退きかへりき。その時に太子大誓願をおこし、ぬるでの木をとりて四天王をきざみ奉りて頂の上におき奉りて「今はなつ所の矢は四天王の放ち給ふところなり」とのたまはせて、舍人をして射させしめ給ひしかば、その矢守屋が胸にあたりて立所に命を失ひつ。秦河勝をして首を斬らしめたまふ。守屋が妹は蘇我の大臣のめにて侍りしかば、その妻の謀にて守屋はうちとられぬるなりとぞ、その時の人は申しあへりし。さてこの守屋を射殺して侍りしとねりをば、赤擣とぞ申し侍りし。水田一萬頃をなむたまはせし。かくて今年天王寺をば造りはじめられしなり。
第卅四崇峻天皇〈五年崩。年七十二。葬大和國倉橋山岡陵。〉
次の御門崇峻天皇と申しき。欽明天皇の第十二の御子。御母稻目大臣の女小姉君姬なり。丁未の年八月二日位に即き給ふ。御年六十七。世をしり給ふ事五年。位に即き給ひて明くる年の冬、御門、聖德太子を呼び奉りて「汝よく人を相す。われを相し給へ」とのたまひしかば、太子「めでたくおはします。たゞし橫ざまに御命の危みなむ見えさせおはします。心しらざらむ人を宮の中へ入れさせ給ふまじきなり」と申し給ひしかば、御門「いかなる所を見てのたまふぞ」とおほせられしに、太子「赤き筋御眼をつらぬけり。これは傷害の相なり」と申し給ひしかば、御門御鏡にて見給ひしに、申し給ふ如くにおはしましゝかば大に驚きおそりおはしましき。かくて太子人々に「御門の御相は前の世の御事なればかはるべき御事にあらず」とぞのたまひし。三年と申しゝ十一月に太子御年十九にて元服したまひき。五年と申しゝ二月に御門忍びやかに太子にのたまはく「蘇我の大臣、內にはわたくしをほしきまゝにし、外にはいつはりをかざり、佛法を崇むるやうなれども、心正しからず。いかゞすべき」とのたまひしかば、太子「唯この事をしのび給ふべし」と申し給ひしほどに、十月に人のゐのしゝを奉りたりしを御門御らんじて「いつか猪の首を斬るが如くに、わがきらふ所の人をたちうしなふべき」とのたまはせしかば、太子大におどろき給ひて「世の中の大事この御詞によりてぞ出でくべき」とて俄に內宴をおこなひて、人々に祿賜はせなどして「今日御門ののたまはせつる事ゆめゆめちらすな」とかたらひ給ひしを、誰かいひけむ、蘇我の大臣に「御門かゝる事をなむのたまひつる」と語りければわが身をのたまふにこそと思ひて、御門をうしなひ奉らむとはかりて東漢駒といふ人をかたらひて十一月三日御門をうしなひ奉りき。宮の中の人おどろきさわぎしを蘇我の大臣その人を捕へさせしめしかば、人々この大臣のしわざにこそと知りて、とかくものいふ人なかりき。大臣駒を賞してさまざまの物を賜はせて我が家の中に、女房などの中にも憚りなく出で入り心に任せてせさせし程に、大臣のむすめを忍びてをかしき。大臣この事をきゝて大きにいかりて、髮をとりて木にかけて自らこれを射き。「汝おろかなる心をもちて御門をうしなひ奉る」といひて矢を放ちしかば、駒叫びて「われその時に大臣のみをしれりき。御門といふことを知り奉らず」といひしかば、大臣この時いよいよ怒りて、劍をとりて腹をさき頭を斬りてき。大臣の心あしきこといよいよ世間にひろまりしなり。
第卅五推古天皇〈三十六年崩。年七十三。葬磯長山田陵。〉
次の御門推古天皇と申しき。欽明天皇の御女。御母稻目大臣の女蘇我小姉君姬なり。壬子の年十二月八日位に即き給ふ。御年三十八。世をしろしめす事三十六年。位に即き給ひて明くる年の四月に御門「我が身は女人なり。心にものをさとらず。世の政事は聖德太子にし給へ」と申し給ひしかば、世の人よろこびをなしてき。太子はこの時に、太子には立ち給ひて世の政事をし給ひしなり。そのさきはたゞ皇子と申しゝかども、今かたり申す事なればさきざきも太子とは申し侍りつるなり。〈以下十三行放ち給ひき迄流布本無〉御年廿二になむなり給ひし。今年四天王寺をば難波荒陵には移し給ひしなり。もとはたまつくりの岸にたて給へりき。三年と申しゝ春、沉はこの國に始めて浪につきて來れりしなり。土佐國の南の海に、夜ごとに大に光る物ありき。その聲いかづちの如くにして、卅日を經て、四月に淡路の島の南の岸によりきたれり。大さ人の抱くほどにて、長さ八尺餘ばかりなむ侍りし。その香しき事譬へむかたなくめでたし。これを御門に奉りき。島人何ともしらず、多く薪になむしける。これを太子見給ひて、沉水香と申すものなり。この木を栴檀香といふ。南天竺の南の海の岸におひたり。この木のひやゝかなるによりて、夏になりぬれば、もろもろの虵まとひつけり。その時に人かの所へ行きむかひて、その木に矢をいたてゝ、冬になりて虵の穴にこもりて後、射たてし矢をしるしにてこれをとるなり。その實は鷄舌香、その花は丁子、その油は薰陸、久しくなりたるを沉水香といふ。久しからぬを淺香といふ。御門佛法を崇め給ふがゆゑに、釋梵威德のうかべおくり給ふなるべし」と申し給ひき。御門この木にて觀音を作りて、ひそ寺になむ置き奉り給ひし、時々光を放ちたまひき。六年と申しゝ四月に、太子よき馬を求めしめ給ひしに、甲斐の國より黑き馬の四つの足白きを奉りき。太子多くの馬の中よりこれを選び出して、九月にこの馬に乘り給ひて雲の中に入りて東をさしておはしき。麻呂といふ人ひとりぞ御馬の右の方にとりつきて雲に入りにしかば見る人おどろきあざみ侍りしほどに、三日ありて歸り給ひて「われこの馬に乘りて富士のだけに至りて信濃の國へつたはりて歸りきたれり」とのたまひき。十一年と申しゝ十一月に太子のもち給へりし佛像を「この佛誰かあがめ奉るべき」とのたまひしに、秦の河勝進みいでゝ申しうけ侍りしかば、たまはせたりしを、はちをか寺を造りてすゑ奉りき。そのはちをか寺と申すは今のうづまさなり。佛は彌勒とぞ承り侍りし。十四年と申しゝ七月に、御門「わが前にて勝鬘經講じたまへ」と申したまひしかば、太子師子のゆかにのぼりて三日講じ給ひき。そのありさま僧の如くになむおはせし。めでたかりし事なり。翁その庭に聽聞して侍りき。はての夜とぞ覺え侍る。はちすの花の長さ二三尺ばかりなる空よりふりたりし、あさましかりし事ぞかし。御門、その所に寺を建て給ひき。今の橘寺これなり。十五年と申しゝ五月に、御門に申し給はく「昔もち奉りし經、もろこしの衡山と申す所におはします。とり寄せ奉りてこの渡れる經のひが事の侍るに見合せむ」と申し給ひて、小野の妹子を七月にもろこしへつかはしき。明くる年の四月に妹子一卷にしたる法華經をもて來れりき。九月に太子いかるがの宮の夢殿に入り給ひて七日七夜出で給はず。八日といふあしたに御枕上に一卷の經あり。太子のたまはく「この經なむ我が前の世に持し奉りし經にておはします。妹子がもて來れるは我が弟子の經なり。この經に三十四のもじあり。世の中にひろまる經はこの文字なし」となむのたまひし。廿九年二月廿二日太子うせ給ひにき。御年四十九なり。御門をはじめ奉りて一天下の人父母を失ひたるがごとくにかなしびをなしき。大かた太子の御事萬が一を申し侍り。事新しくも申し續くべくもなけれども、めでたき事は皆人しり給へれどもくりかへし申さるゝなり。太子世に出で給はざらましかば、暗きよりくらきに入りて永く佛法の名字を聞かぬ身にてぞあらまし。天竺よりもろこしに佛法傳りて三百年と申しゝに百濟國につたはりて百年ありてぞこの國へ渡り給へりし。その時太子の御力にあらざりせば守屋が邪見にぞこの國の人はしたがひ侍らまし。三十四年と申す六月に大雪ふりて侍りき。
第卅六舒明天皇〈十三年崩。葬押坂內陵。〉
次の御門舒明天皇と申しき。敏達天皇の御子に彥人大兄と申しゝ皇子の御子なり。御母敏達天皇の御女糠手姬なり。つちのとのうしの年正月四日位に即き給ふ。御年四十七。世をしりたまふ事十三年なり。三年と申しゝにぞ玄弉三藏もろこしより天竺へわたり給ふとうけたまはり侍りし。
第卅七皇極天皇〈治三年。〉
次の御門皇極天皇と申しき。敏達天皇のひこにおはします。舒明天皇の后にておはしき。御母欽明天皇の御孫に、吉備姬と申し侍りしなり。壬寅の年正月十五日位に即き給ふ。世をしり給ふ事三年。女帝におはします。七月に世の中ひでりしてさまざまの御祈侍りしかども、そのしるし更になし。大臣蝦夷と申しゝは蘇我馬子の大臣の子なり。この事を歎きてみづから香爐をとりて祈りこひしかどもなほしるしなかりき。八月になりて御門河上に行幸し給ひて、四方を拜み、天に仰ぎて祈りこひ給ひしかば、忽に神なり雨くだりて五日をへき。世の中皆直り百穀ゆたかなりき。いみじく侍りし事なり。十一月十一日蘇我の蝦夷の大臣の子入鹿その罪といふ事もなかりしに、聖德太子の御子孫廿三人をうしなひ奉りてき。軍を起していかるがの宮を圍みて攻め奉りしに、太子の御子に大兄王と申しゝ、けものゝ骨をとりて御殿籠りし所におきて、われは逃げて生駒山に入り給へりしに、入鹿が軍火をはなちていかるがの宮を燒きて灰の中を見しに物の骨ありき。これを大兄王のなりと思ひて歸りにき。この大兄王六日といひしにこの所に歸りきたり給ひて、香爐をさゝげて誓ひ給ひしかば、煙雲にのぼりて後仙人天人のかたちあらはれて西にむかひて飛び去りたまひにき。光をはなち空に樂の聲聞えしかば、これを見聞きし人は遙に禮拜をなしき。入鹿が父の大臣これを聞きて「罪なくして太子の御後をうしなひ奉れり。われら久しく世にあるべからず」と驚き歎き侍りき。三年と申しゝ三月に天智天皇の中大兄皇子と申しゝ、法興寺にて鞠をあそばし給ひし程に御沓の鞠につきて落ちて侍りしを、鎌足のとりて奉り給へりしを皇子うれしきことにおぼして、その時より相互におぼす事露へだてなく聞え合せ奉り給ひて、その御末の今日までも御門の御後見はし給ふぞかし。よき事もあしき事もはかなき程の事ゆゑに出でくることなり。十一月に大臣蝦夷その子の入鹿いかめしき家を造りて內裏の如くに宮門といひて、我が子どもをば皆王子となづけき。五十人のつはもの身にしたがへて出で入りに聊かも立ちはなれざりき。かくてひとへに世の政事をとれるが如くなりしかば、御門入鹿をうしなはむの御心ありき。また天智天皇のいまだ皇子と申しゝもおなじくこの事を御心のうちにおぼしたちしかども、思ひのまゝならざらむ事をおぼし恐れし程に、鎌足皇子をすゝめ奉りて蘇我宿禰山田石川麿が女をかりそめにあはせ奉りて、この事をはかり給ひき。鎌足願をおこして丈六の釋迦佛の像をあらはし奉りき。今の山階寺の金堂におはしますはこの御佛なり。六月に御門大極殿に出で給ひて入鹿を召しき。入鹿めしにしたがひて參りぬ。人の心をうたがひてよるひる太刀を佩きてなむ侍りしを、鎌足何ともなきさまにたはぶれにいひなし給ひて太刀をとかせて座にすゑ給ひつ。その後十二門をさしかためて、山田石川麿にて新羅高麗百濟この三韓の表を讀ませしめ給ひしに、石川麿この事を謀りたまふを心の中におぢ恐れ思ひけるにや、身ふるひ聲わなゝきて、えよまずなりにければ、入鹿、「いかなればかくおぢ恐れ侍るぞ」と問ひしかば「御門に近づき奉ること恐れ思ひ侍るなり」と答ふ。かくて入鹿が首を斬るべきにてあるに、その事を承りたる人二人ながらおぢ恐れ汗を流してよらざりしかば、皇子その一人を相具したまひて、入鹿が前にすゝみよりてその人をして肩を斬らせしめ給ひつ。入鹿おどろき立ちさわぎしに又足を斬りつ。入鹿御門に申していはく「われ何事の罪といふ事を知り侍らず。その事をうけたまはらむ」と申しき。御門大きにおどろき給ひて「いかなる事ぞ」と問ひ給ひしかば、王子、「入鹿は多くの王子をうしなひ、御門の御位を傾け奉らむとす」と申し給ひしかば、御門立ちて內へ入り給ひにき。このをり遂に入鹿が首をきりてき。その後入鹿がかばねを父の大臣にたまはせしかば、大臣大にいかりて、みづから命をほろぼして大鬼道に墮ちて、蘇我の一門時のほどに亡びうせにき。この御時とぞおぼえ侍る、但馬の國に人ありき。幼き女子をもちたりき。その子庭にはひありきし程に俄に鷲いできたりて子をとりて東をさして飛びさりぬ。父母泣きかなしめども行き方をしらず。その後八年といひしにその子の父事のゆくりありて丹後の國へゆきてやどれる家にめのわらはあり、井にゆきて水を汲む。このやどれる男井のもとにて足を洗ひて立てるほどに、その村のめのわらはども來り集まりて水を汲むとてありつるめの童の汲みたりつる水を奪ひとりてければとられじとをしむ程にこのめの童べども「おのれは鷲のくひのこしぞかし。いかでわれ等をばいるがせにはいふべきぞ」とてうちしかば、めのわらは泣きてこの宿りたりつる家にかへりぬ。男家ぬしに「このめの童を鷲のくひのこしと申しあひたりつるはいかなる事ぞ」と問へば家あるじ、「その年のその月日、我木にのぼりて侍りしに、鷲幼き子をとりて西の方より來りて、巢におとしいれて、鷲の子にかはむとせしほどに、この子なく事かぎりなし。鷲の子その聲におどろき恐れて食はざりき。我ちごのなく聲をきゝて巢のもとによりてとりおろし侍りし子なり。さてかく申しあひたるにこそ」といひしを聞くに、我が子の鷲にとられにし月日なり。この事を聞くにあさましく覺えて、泣きかなしびて親子といふ事知りにき。人の命のかぎりある事はあさましく侍る事なり。
第卅八孝德天皇〈白雉五年十月十日崩。年五十九。葬河內國大坂磯長陵。〉
次の御門孝德天皇と申しき。皇極天皇の御弟。御母欽明天皇の御孫吉備姬なり。乙巳の歲六月十四日位に即きたまふ。世をしり給ふ事十年なり。皇極天皇は「位をわが御子天智天皇のいまだ皇子と聞えしに、讓り奉らむ」とのたまひしを、皇子「あるべきことに侍らず」と申し給ひて、鎌足に「御門かゝる事をなむのたまはせつる」といひあはせ給ひしに、鎌足、「この御門の御子、御をぢの皇子を越え奉りて、いかでかその先に位をつぎ給ふべき。世の人のうけ申さむこともありがたく侍るべし」と申し給ひしかば、みこ我が御心にかなひておぼしければあながちに申し返し給ひしかば、この御門にゆづり奉り給ひしを、これもまた度々返し奉り給ひき。又天智天皇のこのかみの御子に讓り奉られしに、御子あるべき事に侍らずとて、出家して吉野山へ入り給ひにき。二人の御子あながちにかく返し奉り給ひしかば、遂にこの御門は位に即き給ひしなり。かくて鎌足、大臣の位になずらへて內臣となむ始めて申し侍りし。大化二年に道登といひしものゝ、宇治橋は渡しはじめたりしなり。この御時に元興寺に智光賴光といふ二人の僧ありき。幼くより同じ所にて學問をす。賴光身にするつとめもなく又人にあひて物などいふ事もなし。唯徒にして月日をすぐす。智光あやしみをなして「いかに徒にてはおはするぞ」と問へども、ふつといらふる事もなし。かくて多くの年を經て賴光うせにき。智光歎きて、年來の友なりき、いかなる所にか生れぬらむ、おこなひする事もなく物をだにはかばかしくいはざりつれば、後世のありさまいと覺束なしと思ひて、二三月のほど「賴光があり所知らせ給へ」と、佛に祈り申しゝほどに、智光ゆめに、賴光が居たる所へ行きて見れば、たとへむ方なくめでたし。智光「これはいかなる所ぞ」と問へば、賴光「これは極樂なり。汝あながちに祈りつればわれ生れたる所を見するなり。汝があるべき所にあらず。疾くかへりね」といふに智光「われ淨土をねがふ身なり。いかでかかへらむ」といふ。賴光「汝させるおこなひをせず。しばしもいかでかこの所に留らむ」といふ。智光「汝世にありし時させる行もし給はざりき。いかにしてこの所に生れ給へるぞ」といふ。賴光「いかでか知り給はむ。むかし經論を見給ひしに、極樂にうまれむこといとかたくおぼえしかば、偏に世の事をすて物いふ事をとゞめて、心の中に彌陀の相好淨土の莊嚴を觀じて、多くの年をつもりて、わづかに生れて侍るなり。汝心みだれ善根すくなくて淨土へ參るべき程にいまだいたらず」と云ふを智光聞きて泣きかなしびて「いかにしてか决定して往生すべき」と問ひしかば賴光「佛に問ひ奉れ」とて智光を相具して佛の御前に參りぬ。智光佛を禮拜し奉りて「いかなる事をしてかこの所に參るべき」と申しき。佛智光に吿げてのたまはく「佛の相好淨土の莊嚴を觀ずべし」と。智光「この土の莊嚴心も眼もおよばず。凡夫はいかでかこれを觀ずべき」と申しゝかば、佛右の御手をさゝげ給ひて、掌の中にちひさき淨土をあらはし給ひき。智光夢さめてこの淨土のありさまを寫し書かせて朝夕にこれを觀じて遂に極樂にまゐりにき。かゝれば佛道は唯心によるべき事なり。
第卅九齊明天皇〈治七年 年六十八。葬越智大間陵。〉
次の御門齊明天皇と申しき。此は皇極天皇と申しゝ女帝の又かへり即き給ひしなり。乙卯の年正月三日位に即き給ふ。世をしり給ふ事七年なり。二年と申しゝに鎌足病をうけて久しくなり給ひしかば御門大きに歎かせ給ひしに、百濟國より來れりし尼法明といひし「維摩經を讀みてこの病を祈らむ」と申しゝかば御門大きに悅び給ひき。法明この經を讀みしに即ち鎌足の御病をこたり給ひにき。さて明くる年山階寺をたてゝ維摩會を始め給ひしなり。七月に智通智達といふ二人の僧をもろこしにつかはして玄奘三藏に法相宗をば傳へ習はせ給ひしなり。この御時に義覺といふ僧ありき。百濟國より來れりし人なり。難波の百濟寺になむ住み侍りし。其の寺に惠義といふ僧ありき。夜中ばかりに出でゝ義覺がある所をよりて見れば室の內に光を放てり。惠義あやしく思ひて密に窓の紙をやぶりて見れば義覺經を讀みける口より光を放てるなり。惠義あさましく思ひて明くる日なむ人々にかたり侍りし。義覺弟子に語りしを聞き侍りしかば「一夜心經を讀み奉りて百返ばかりになりし程に目を見上げて室の內を見しかば、めぐりにへだても更になくて庭のあらはに見えしかば、いかなる事にかと思ひて室を出でゝ寺の內を見めぐりて歸りたりしかば、もとの如く壁もありとぼそも閉ぢたりしかば、室のほかのゆかにゐて又心經を讀み奉りしに、先にありつる樣に隔てもなくなりにきこれは般若のふしぎなり」となむ申しゝ。心に萬法皆空しと思ひて觀念のいたりけると覺えてあはれに侍りし事なり。
第四十天智天皇〈治十年崩。葬山城國山科北陵。〉
次の御門天智天皇と申しき。舒明天皇第二の御子。御母は齊明天皇なり。孝德天皇位に即き給ひし日東宮に立ち給ひき。壬戌の年正月三日位に即き給ふ。世をしり給ふ事十年なり。七年と申しゝ十月十三日鎌足內大臣になりたまふ。この御時に始めて內大臣といふつかさはいできしなり。御姓は中臣と申しゝを、藤原とたまはせき。大織冠となむまうしゝ。かゝりし程に御心ち例ならずおぼされしが、まことしく重り給ひし時に御門行幸し給ひて「おぼしおく事あらばのたまはせよ」と仰せ事ありしかば、大臣「今はかぎりに侍る。何事をかは申し侍をるべき」と申し給ひしを聞し召して御門御淚に咽びて歸らせ坐しまして、御おとゝの東宮を又大臣の家に遣して「の給はせよ」とて「さきざきの御門の御後見多かりしかども、大臣の志に比ぶべき人更になし。われ一人かく去り難く思ふのみにあらず、次々の御門大臣の末をめぐみて年比の恩を必ずむくゆべし」とのたまはせて、太政大臣にあげ奉り給ふよし仰せ給ふと、その時の人申しあひたりしかども、この事はたしかにも聞き侍らざりき。內大臣になり給ふを太政大臣とはひが事ぞとも申しあひたりしなり。十六日に遂にうせ給ひにき。御門歎きかなしび給ふ事かぎりなし。先に申し侍りつるやうに御門も王子と申し、大臣もいまだ位淺くおはせしに御沓とりて奉り給へりし。はかなかりし御心よせの後位に即き給ひて今日にいたるまでかたみにふた心なくおぼし通はし給へるに、御年の程の今はいかゞはなどおぼし慰むべきにもあらず。今年五十六にこそはなり給ひしか。事にふれておぼし續くるに、げにことわりと御門の御心の中推しはかられ侍りし事なり。大臣は大中臣美氣子卿の子におはす。十年と申しゝ正月五日、御門の御子に大友皇子と申しゝを太政大臣になし奉り給ひき。二十五にぞなり給ひし。東宮などにぞ立ち給ふべかりしを御門の御おとゝの東宮にては坐しましゝかばかくなり給へりしにこそ。九月に御門例ならずおぼされしかば、東宮を呼び奉りて「わが病重くなりたり。今は位ゆづり奉りてむ」との給はせしかば東宮」あるべき事にも侍らず。身に病多く侍り。后宮に位を讓り奉りたまひて大友の太政大臣を攝政とし給ふべきなり。われ御門の御爲に佛道を行はむ」と申し給ひて、やがてかうべをそりて吉野山に入り給ひにき。さて十月にぞ大友太政大臣は東宮に立ち給ひし。十二月三日御門御馬にたてまつりて山科へおはして林の中に入りてうせ給ひぬ。いづくにおはすといふことを知らず。唯御沓の落ちたりしを陵にはこめ奉りしなり。
第四十一天武天皇〈治十五年崩。年。葬大和國檜隈大內陵。〉
次の御門天武天皇と申しき。舒明天皇の第三の御子。御母齊明天皇なり。天智天皇の御世七年二月に東宮に立ち給ふ。癸酉の年二月廿七日に位に即き給ふ。世を知り給ふこと十五年なりこの御門うち任せては位を繼ぎ給ふべかりしかども又あり難くして即き給ひしなり。世を遁れ給ひしこと、天智天皇の御事の中に申し侍りぬ。天智天皇十二月三日うせさせ給ひにしかば、同五日大友皇子位をつぎ給ひて明くる年の五月になほこの御門を疑ひ奉りて、出家して吉野の宮に入り籠らせ給へりしを、左右の大臣諸共につはものをおこして吉野の宮を圍み奉らむと謀りし程に、この事漏り聞えにき。美濃尾張の國に天智天皇の陵をつくらむ料とて人夫をその數召すに、皆つはものゝ具をもちて參るべきよし仰せ下さる。「この事更に陵のことにあらず。必ず事の起り侍るべきにこそ。この宮を逃げ去り給はずばあしかりなむ」と吿げ申す人あり。又「あふみの京よりやまとの京まで所々に皆つはものをおきて守らしめ侍り」など申す人もありき。大友皇子の御めはこの御門の御女なりしかばみそかにこの事のありさまを御消息にて吿げ申し給へりけり。吉野の宮には位をゆづり世を遁るゝ事は病をつくろひ命をたもたむとこそ思ひつるに、思はざるに我が身を失ふべからむには、いかでかうちとけてもあるべきとおぼして、皇子たちをひき具し奉りて物にも乘り給はずして東國の方へ入り給ひし道に、縣犬養大伴といひしものあひ奉りて馬に乘せ奉りてき。又后宮をこしに乘せ奉りて御ともには皇子二人をのこども二十餘人女十餘人ぞつき奉りたりし。その日勉〈菟歟〉田といふ所におはしつきたりしに狩人二十餘人從ひ奉りにき。またよね負はせたる馬卅疋ばかりあひ奉りたりしを、そのよねをおろしすてゝかちにて御供にさぶらふ人を皆乘せたまひて夜中ばかりに伊賀の國におはしつきて國の軍あまた從ひ奉りしを相具して明くる日伊勢の國におはして天てる御神を拜し奉り給ひき。國の守五百人の軍をおこして鈴鹿の關をかため、大友皇子三千人の軍をひきゐて不破の關をかたむ。御門ふはの宮におはして國々の軍をおこし給ひしにつはものその數をしらず。かくて七月六日より所々にして大友皇子とたゝかひ給ふ。廿一日に勢田に攻めより給ひしに、大友皇子左右の大臣相共に橋の西に陣をはりてたゝかふ。こなたかなたの軍雲霞の如くにしてその數をしらず。矢の下る事雨のごとし。かゝりしほどに皇子の方の軍やぶれて皇子も大臣も僅に命を遁れて山に入りにき。廿三日に皇子みづから遂に命をうしなひてしかば、廿六日にぞその首をとりてふはの宮に奉りし。廿七日に右大臣殺され左大臣ながされにき。そのほかの人々罪をかうぶるおほく侍りき。やがてその日ぞ軍に力をいれたる人々官位どもをたまはせし。御門は皇子の御叔父にておはせしうへに、御しうとにてもおはしましゝぞかし。かたがたしたがひ奉り給ふべかりしをあながちに勝にのり給ひしことの佛神もうけ給はずなりにしにこそ侍るめれ。八月に御門野上の宮に移り給ひたりしに筑紫より足三つある雀の赤きを奉りしかば年號を朱雀元年とぞ申し侍りし。明くる年の三月に備後國より白き雉子を奉りしかば朱雀といふ年號を白鳳とぞかへられにし。三月に河原寺にて始めて一切經をかゝしめ給ひき。九年と申しゝ十一月に后宮御病によりて藥師寺を建てさせ給ひしなり。十三年と申しゝに御門例ならず坐しまして、東宮を始め奉りて百官大安寺にまうでゝ「御門この寺にして法會を行はむとおぼす御願あるを果し遂げ給はずしてやみなむとす。たとひ定業なりとも三年の御命を延べ奉りたまへ。この願を遂げさせ奉らむ」と祈り申しゝに御門御夢に御命延び給ふよし御覽ぜられて御病をこたらせ給ひにしかば、三年の間佛をあらはし經をうつして本意の如く供養し奉り給ひき。十四年と申しゝ十月廿三日天文悉くにみだれ、星のおつる事雨の如く侍りき。十五年と申しゝに大和の國より赤き雉子を奉れりき。さて朱鳥元年と年號をかへられにき。明くる年大友皇子の御子父ののたまはせおきしによりて、三井寺をつくりたまひしなり。
第四十二持統天皇〈大寶二年十二月十日崩。年 葬大內陵。天武同陵。此後火葬。〉
次の御門持統天皇と申しき。天智天皇の第二の御女。天武天皇の后なり。御母山田の大臣石川麿の女越智姬なり。丁亥の年を元年として第四年に位に即き給ひて世をしり給ふ事十年なり。七年と申しゝ正月にぞ踏歌ははじまり侍りし。十年と申しゝに位を去り給ひて太上天皇と申し侍りき。
第四十三文武天皇〈慶雲四年崩。年二十五。葬大和國檜前安呂岡上陵。〉
次の御門文武天皇と申しき。天武天皇の御子に草壁の皇子と申しゝ皇子の第二子。母元明天皇なり。丁酉の年八月一日位に即き給ふ。御年十五。世をしり給ふこと十一年。三年と申しゝ五月に役の行者を伊豆國へ流しつかはしてき。その行者は大和國の人なり。ひろく物をならひ、深く三寳をあふぎて、三十二といひし年よりこの葛城山に籠りゐて、三十餘年のほど藤の皮を着物とし、松の葉を食物として、孔雀の神呪をたもちてさまざまの驗をほどこしき。五色の雲に乘りて仙宮にいたり、鬼神をつかひて水をくませ薪木をとらす。又「御嶽とこの葛城の峰とに石橋をわたせ」とこの鬼神どもにいひしかば、よるよるいはほを運びて削りとゝのへて、既に渡しはじめし程に、行者心もとながりて「晝も唯かたちを顯して渡せ」とせめしを、ひとことぬしの神、わがかたちの見にくきことを耻ぢて、なほよるよるばかり渡し侍りしかば、行者いかりて、神呪をもちてこのひとことぬしの神をしばりて、谷の底に投げいれてき。その後ひとことぬしの神、御門に近く侍ひし人につきて、「われは御門の御ためにあしき心を起す人を鎭むるものなり。役の行者御門を傾け奉らむとはかる」と申しゝかば、宣旨を下して行者をめしに遣したりしに、行者空に飛びあがりて、捕ふべき力も及ばで使かへり參りてこのよしを申しゝかば、行者の母をめしとられたりしをり、すぢなくて母に代らむがために行者まゐりしを、伊豆の大島へは流し遣したりしに晝はおほやけに從ひ奉りてその島にゐ、夜は富士の山にゆきて行ひき。六月に御門丈六の佛像を造り奉らむとて、佛師のよからむをもとめ給ひしに、その人なかりしかば、御門大安寺に行幸ありて、佛の御前に掌を合せ願をおこし給ひて「よき佛師にあひてこの佛を造り奉らむ」と申し給ひしに、その夜の御夢に一人の僧ありて「この寺の佛を造り奉りしは化人なり。又きたるべきにあらず。たとひよき佛師にあひ給ふとも猶斧のつまづきあるべし。たとひよき繪師にあひ給ふともいかでか筆のあやまちなからむ。唯大きならむ鏡を佛の御前にかけてその寫り給へらむ影を禮し奉り給へ。書けるにもあらず造れるにもあらずして、三身具足し給はむ。その形を見るは應身の躰なり。その影をうかゞふは化身の相なり。その空しきことを觀ずるは法身の理なり。功德の勝れたる事これに過ぎたるはなかるべし」と申しき。御門御夢さめ給ひて如來の御願に應じ給ふことを悅びたまひて大なる鏡を佛前にかけて五百人の僧を請じて供養し奉り給ひき。眞實の功德とおぼえ侍りしことなり。この頃もこの思ひをなしてする人侍らばいかにめでたき事にか侍らむ。四年と申しゝ三月に道昭和尙と申しゝ人の室のうちに俄に光滿ちて香しき事かぎりなし。道昭弟子を呼びて「この光を見るや」と問ひしに、弟子見るよしを答へしかば、道昭「ものないひそ」といひし程に、室より光いでゝ寺の庭にめぐりてやゝ久しくしてその光西をさして行きさりて後、道昭繩床に端座して命終りにしかば、弟子ども火をもちてはふりてその骨をとらむとせしに、俄に風吹きて灰だにもなくふき失ひてき。日本に火葬はこれになむはじまり侍りし。五年と申しゝ正月に、不比等中納言になり給ひてやがてその日大納言になり給ひにき。その月とぞ覺え侍る、役の行者伊豆の國より召しかへされて京に入りて後空へ飛びのぼりて我が身は草座にゐ母の尼をば鉢にのせてもろこしへ渡り侍りにき。さりながらも本所を忘れずして三年に一度、この葛城山と富士の峰へとは來り給ふなり。時々はあひ申し侍り。もろこしにては第三の仙人にておはするよしぞ語り給ふ。二月丁未の日釋奠ははじまるとうけたまはり侍りき。三月二十一日に對馬より始めてしろかねをまゐらせたりしかば、大寶元年と年號を申しき。この後より年號は相續きて今日までたえず侍るにこそ。二年と申しゝ七月よりぞ御子だち馬に乘りて九重の內に出で入り給ふ事はとゞまりにし。四年と申しゝ五月五日大極殿の西の樓の上に慶雲見えしかば、年號を慶雲とかへられにき。二年と申しゝに世の中の心ちおこりて煩ふ人おほかりしかば追儺といふ事ははじまれりしなり。
第四十四元明天皇〈養老五年十二月四日崩。年六十一。葬大和國添上郡椎山陵。〉
次の御門元明天皇と申しき。天智天皇の第四の御女。御母蘇我の大臣山田石川麿の女嬪姪娘なり。この御門は文武天皇の御母におはします。文武天皇いまだ三十にだに及び給はでうせさせおはしましにし。いと心うかりしことなり。その時聖武天皇はいまだいとけなく坐しましき。八歲にやならせ給ひけむ。この頃こそ二つ三つにても位に即かせ坐しますめれ。その程まではさる事なかりしかば、御母にて位に即かせ給へりしなり。慶雲四年七月十七日位に即き給ふ。御年三十六。世をしり給ふ事七年なり。五年正月十一日に武藏より銅をはじめて奉りしかば、年號を和銅とかへられにき。三月不比等右大臣になり給ふ。同二年五月に、新羅の使さまざまの物を相具して參れりしに、不比等その使にあひ給ひにき。「昔より執政の大臣のあふ事はいまだなき事なり。しかれどもこの國のむつましき事を顯すなり」とのたまひしかば、使ども座を去りて拜し奉りて、うるはしく又座に即きて「使どもは本國の賤しきものどもなり。きみの仰せをかうぶりて今みやこに參れり。さいはひのはなはだしきなり。しかるに忝くあひまみえ奉りぬ、悅び恐るゝ事かぎりなし」と申しき。國王大臣も時に隨ひてふるまひ給ふべきにこそ。この頃ならばかたおもむきに異國の人に一の人のあひ給ふなき事なりなどぞ誹り申さまし。同三年三月に難波より大和の平城の京へみやこ遷りて、左右京の條坊を定め給ひき。これよりさきざきも代々常にみやこうつり侍りしかども、ことならぬをば申し侍らず。この月に不比等興福寺を山科より奈良の京にうつし建て給ひき。同六年國々の郡の名をしるしさまざまの出でくる物どもの數を目錄をさせしめ給ひき。同七年十月維摩會を山階寺にうつし行ひ給ひき。この會はこゝの所にて行はれしに、その事中絕えて今年四十二年にぞなり侍りし。同八年九月三日位を御女の元正天皇の、氷高內親王と聞え給ひしにゆづり奉り給ひき。
第四十五元正天皇〈天平廿年四月廿一日崩。年六十九。葬佐保山陵。〉
次の御門元正天皇と申しき。文武天皇の御姉。これも元明天皇の御腹におはします。元明天皇位を去り給ひし時聖武天皇を東宮と申しゝかば、位を繼ぎ給ふべかりしかども、その年ぞ御元服したまひて御年十四になり給ひしに、なほいまだいとけなくおはしますとて、この御門は御をばにて讓を得給ひしなり。和銅八年九月三日位に即き給ふ。御年三十六。世を知り給ふ事九年なり。年號かはりて靈龜と申しき。三年と申しゝ九月に御門美濃の國ふはの山のいでゆに行幸ありき。その湯をあみし人白髮かへりて黑くなりき。目暗かりしものたちまちにあきらかになり、痛き所を洗ひしかば即ちいえにき。かくて御門かへり給ひて十一月七日年號を養老とかへられにき。二年と申しゝに不比等律令を撰びて御門に奉り給ひき。同三年と申しゝ二月に百官を召して笏をもつ事ははじまり侍りしなり。同四年八月三日不比等うせ給ひにき。九月に大隅日向の國におほやけに隨ひ奉らぬものどもありしかば宇佐宮の禰宜宣旨をうけたまはりて、軍を起してこれらを討ち平げてき。その時に宇佐宮の詫宣したまひて「たゝかひの間多くの人をころせり。これによりて放生會をすべし」とのたまはせしかば、これより諸國の放生會ははじまりしなり。同五年八月三日御門太上天皇もろともに不比等の御はてに山階寺の內に北圓堂をたて給ひき。八年二月四日御門位を東宮に讓り奉り給ひて、太上天皇と申しき。
第四十六聖武天皇〈天平勝寳七年五月二日崩。年五十二。葬佐保山陵。〉
次の御門聖武天皇と申しき。文武天皇の御子。御母不比等の御女皇太后宮の御子なり。養老八年二月四日位に即き給ふ。御年二十五。世をしり給ふ事廿五年なり。年號を神龜とかへられにき。二年と申しゝにもろこしより柑子の種をもて來れりき。これより始めてこの國に出できそめしなり。三年と申しゝ七月に太上天皇れいならずおはしましゝ御祈に御門山階寺の內に東金堂をば建て給ひしなり。その年行基菩薩山崎の橋を造りてその上に法會をまうけて供養し給ひしに、俄に大水出でゝ流れ死ぬる人おほかりき。四年と申しゝ三月二十日泊瀨は供養せられしなり。行基菩薩ぞ導師にておはせし。天平五年七月に盂蘭盆ははじまりしなり。同六年正月十一日に、光明皇后御母の橘の氏の御ために山階寺の內に西金堂を建て給ひき。同七年吉備の大臣もろこしにとゞめられて日月をふんじたりければ、十日ばかり世の中くらくなりにけり。この事を占はしけるに「日本國の人をとゞめて歸さゞるによりて祕術をもちて日月をかくせるなり」と申しければこの國へは歸り來れりしなり。同十二年九月に太宰少貳廣繼と申しゝ人は宇合の子におはす。その人一萬人のつはものをおこして御門を傾け奉らむと謀り奉るといふ事きこえて、東人といふ人に國々のいくさ一萬七千餘人を相具して八幡の宮に祈り申してたゝかはしめにつかはす。十一月に御門伊勢太神宮に行幸し給ひて、この事を祈り申し給ひしに、この月十一日に肥前國松浦の郡にて少貳しづまり給ひしところなり。今かゞみの宮とておはします。同十三年六月戊寅の日の夜京中の條々にいひふりて侍りき。同十四年十一月に陸奧に赤き雪降り侍りき。十五年十月十五日あふみの信樂京にて東大寺の大佛を始め給ひき。同十七年八月廿三日に東大寺の大佛の座をつきはじめ給ふ。同十九年九月廿九日大佛を鑄奉りたまふ。同二十年正月に陸奧よりこがね九百兩を奉れりき。日本國にこがね出でくる事これよりはじまれりき。これによりて四月十八日に年號を天平勝寶元年とかへられにき。されどもこの年號はやがて又かはりにしかば年代記などには入り侍らざるなり。七月二日位を去りて御ぐしおろして太上天皇とぞ申し侍りし。御年五十にならせ給ひしなり。
第四十七孝謙天皇
次の御門孝謙天皇と申しき。聖武天皇の御女。御母不比等の御女光明皇后におはします。天平勝寶元年七月二日位に即き給ふ。御年三十一。世をしり給ふ事十年なり。御おとゝに東宮おはしましゝかども神龜五年に御年二歲にてうせ給ひにしかば、この御門位をつぎおはしましき。天平勝寶元年十月廿四日に東大寺の大佛を鑄奉りをはりにき。三年のほど八度といふに事はてにしなり。十一月に八幡の宮託宣したまひて十二月に筑紫より京へうつりおはしましき。梨原に宮づくりしていはひ奉りしなり。七日丁亥東大寺供養侍りき。行幸ありき。また聖武天皇は太上天皇とて同じくこの供養にあはせ給ひき。八幡の宮もおはしましき。めでたく侍りし事どもなり。皆人しり給へる事どもなり。天平勝寶四年三月廿四日に東大寺の大佛に始めてこがねを塗り奉りき。四月九日萬僧を請じて供養したてまつり給ひき。今年ぞかし、道鏡內へまゐりて如意輪法を行ひし程に、やうやう御門の御おぼえいできはじまりしかば、弓削の法皇と申しゝはこの人なり。寶字二年御門位を東宮に讓り奉り給ひて太上天皇と申しき。
水鏡卷下
四十八廢帝〈天平寶字六〉
四十九稱德天皇〈天平神護二神護慶雲三〉
五十光仁天皇〈寶龜十一天應一〉
五十一桓武天皇〈延曆廿四〉
五十二平城天皇〈大同四〉
五十三嵯峨天皇〈弘仁十四〉
五十四淳和天皇〈天長十〉
五十五仁明天皇〈承和十四嘉祥三〉
第四十八廢帝〈天平寳字九年十月崩。年卅三。葬淡路國三原郡陵。〉
次の御門廢帝と申しき。天武天皇の御子に一品舍人親王と申しゝ第七の御子なり。御母は上總守當麻老の女なり。天平寶字元年四月に東宮に立ち給ふ。御年二十五。おなじ二年八月一日位に即き給ふ。御年二十六。位にて六年ぞおはしましゝ。この御門東宮に立ち給ひしをりはゆゝしき事ども侍りき。孝謙天皇の御時東宮は新田部親王の子道祖王とておはせしに、聖武天皇うせさせ給ひて諒闇にてありしに、この東宮この程をも憚りたまはず、女の方にのみ亂れたまへりしかば、孝謙天皇をりふしもしり給はず「かくなおはせそ」と申させ給ひしかども、つゆそのことに從ひ給はざりしかば、天平勝寶九年三月廿九日大臣以下この東宮は聖武天皇の御すゝめにて立て奉りき。しかるにその事をも思ひしり給はず、かくみだりがはしき心のし給へるをば「いかゞしたてまつるべき」とのたまはせしに、人々みな「唯仰せ言にしたがふべし」と申しゝかば、東宮をとりたてまつり給ひて、四月に大臣以下を召して「東宮には誰をか立て奉るべき」と定め申すべきよしおほせ言ありしに、右大臣豐成式部卿永手は「さきの東宮の御兄鹽燒の王立ち給ふべし」と申しき。攝津大夫珍努左大辨古麿は「池田王立ち給ふべし」と申しき。大納言仲麿は「臣を知るは君にはしかず。子をしるは父にはしかず。唯御門の御心にまかせ奉る」とおのおの思ひ思ひに申しゝかば、御門ののたまはく「御子だちの中に舍人新田部、この二人はむねとおはせし人なれば、新田部親王の子を東宮に立てたりつれども、かくをしへに從ひ給はずなりぬれば、今は舍人親王の子を立て申すべきに、おのおのとがどもおはす。その中に大炊王は年若くおはせど、させる咎聞えず、この人を立てむと思ふはいかゞあるべき」とのたまはせき。大臣以下皆仰せごとにしたがふべきよし申しき。このさだめより先に仲麿の大納言、この大炊王をむかへとり奉りて、わが家にすゑ奉りたりしが、內よりの御使その殿にまゐりて迎へたてまつりて東宮には立ち給ひしなり。大炊王と申すは即ちこの御門におはします。かくて後この東宮に選びすてられ給ひつる王たち、また志ある人々あまたよりあひて、みかど東宮を傾けたてまつり、仲麿を失はむとすといふ事おのづからもれ聞えしかば、仲麿內にまゐりてこのよしを申しゝかば、さまざまの罪を行はれき。その程の事どもおしはかり給ふべし。この程は道鏡もいまだほひろかに參り仕うまつらざりしかば、この仲麿御門の御おぼえならびなかりき。天平寶字二年八月廿五日仲麿大保になりにき。これは右大臣をかく申しゝなり。やがてその日大將になりて本の藤原の姓にゑみといふ二文字を加へ給はせき。これらも皆太上天皇の御おぼえならびなくてせさせ給ひしなり。ゑみといふ姓も御覽ずるたびにゑましくおぼすとて賜はするとぞ申しあひたりし。又仲麿といふ名を加へておしかつとぞ申しゝ。同三年六月二日道のほとりに果物の木を植うべきよし仰せ下されき。この事は東大寺の普昭法師と申す人の申し行ひ侍りしなり。そのゆゑは國々の民往來絕ゆることなし。そのかげにやすみ、その實をとりてつかれをさゝへむとなり。いみじき功德とおぼえ侍りし事なり。八月三日鑒眞和尙と申しゝ人聖武天皇の御ために招提寺をたて給ひき。同六年六月太上天皇尼になり給ひてのたまはく「われ菩提心を起して尼となりぬれども、御門にふれてうやうやしきけ更におはせず。かやうにいはるべき身にはあらず。世の政事の常の小事をば行ひ給へ。世の大事賞罰をばわれ行はむ」とのたまはせて、この後世を行ひ給ひき。同七年九月に道鏡少僧都になりて常に太上天皇の御傍にさぶらひて御おぼえならびなかりしかば、惠美の大臣御門を恨み奉る心やうやう出できにき。同八年九月二日惠美の大臣私に太政官の印をさして事を行ふといふことを、大外記比良麿忍びやかに申したりしかば、十一日に太上天皇少納言をつかはして鈴印ををさめさせしめ給ひしを惠美の大臣聞きつけてその道に我が子の宰相といひしをやりて奪ひとゞめさせしかは、又太上天皇人を遣して射殺させしめ給ひしに、大臣の使又相互に射殺してき。かゝる世のみだれいできて大臣つかさ位とられ、關を固め軍を起して討たしめむとし給ひしかば、大臣その夜逃げて近江の國へ行きしに、御方の軍外の道よりさきに至りて勢田の橋を燒きてき。大臣これを見て高島郡の方へにげて小領といふものゝ家にとまれりしに星の大きさもたゐの程なりしが、その屋の上におちたりし、いかなる事にてか侍りけむ。さて越前の國に行きて相具したりし人々を「これは御門におはす、これは上達部なり」など僞りいひて、人の心をたぶらかしき。かくて御方の軍追ひいたりて攻めしかば、大臣また近江の國へかへりて船に乘りて逃げむとせしほどに、あしき風吹きておぼれなむとせしかば、船よりおりて相戰ひしほどに、十八日に大臣うちとられにき。その頭をとりて京へもて參れりしにこそ。おなじ大臣と申せども世のおぼえめでたくおはせし人の時の間にかくなり給ひぬるあはれに侍りしことなり。又心うき事侍りき。その大臣のむすめおはしき、色かたちめでたく世にならぶ人なかりき。鑒眞和尙の「この人千人の男にあひ給ふ相おはす」とのたまはせしを、たゞうちあるほどの人にもおはせず、一二人の程だにもいかでかと思ひしに、父の大臣うちとられし日、みかたの軍千人悉くにこの人ををかしてき。相はおそろしき事にぞはべる。二十日太上天皇のたまはく「仲麿さきの東宮のこのかみの鹽燒の王を位に即けむといふことをはかりて官のおしてをさして國々に遣して人の心をたぶろかし、關をかためつはものをおこし罪もなかりけるこのかみの豐成の大臣を讒し申して位を退けたりけり。この事仲麿が僞れる事とぞ知り給ひぬ〈如元〉。豐成を元の如く大臣の位にをさめ給ふ。またこの禪師朝夕に仕うまつれるありさまを見るに、いとたふとし。われ髮をそりて佛の御袈娑をきてあれども、世の政事をせざるべきにあらず。佛も經に國王位に即き給はむをりは菩薩戒をうけよとこそ說きおき給ひたれ。これをおもへば尼となりても世の政事をせむに何のさはりかあるべき。しかれば御門の出家していませむに又出家してあらむ大臣もあるべしと思ひて、この道鏡禪師を大臣禪師と位を授け奉る」とのたまはせて、十月九日太上天皇つはものをおこして內裏をかぐみ給ひしかば、宮の內に侍ひし人々皆遁げうせしかば御門御母又そのつかうまつる人二三人ばかりを相具して、かちにて圖書寮の方におはして立ち給へりしにこそは、少納言迎ひ奉りて位をおろし奉るよしの宣命をば讀みかけ奉りしか。その御ことばには位を保ち給ふべきうつはものにおはせぬに合せて、仲麿とおなじ心にてわれをそこなはむと謀り給ひけり。しかれば御門の位を退け奉りて親王の位をたまふとて淡路の國へ流し奉りたまひてき。心うく侍りしことなり。
第四十九稱德天皇〈神護景雲三年八月四日崩。年五十二。葬添下郡高野陵。〉
次の御門稱德天皇と申しき。これは孝謙天皇のまたかへり即き給へりしなり。天平寳字八年十月九日位に即き給ふ。御年四十七。世をしり給ふ事五年なり。同九年に淡路癈帝國土をのろひ給ふによりて、日でり大風ふきて世の中わろくて飢ゑ死ぬる人おほかりきと申しあひたりき。十月に癈帝恨の心に堪へずして垣をこえてにげ給ひし、國守つはもの起して留め申しゝかばかへりたまひて明くる日うせ給ひにき。閏十月二日大臣禪師道鏡太政大臣になりき。十一月に大嘗會ありしに、「われ佛の御弟子となれり」とて出家の人も相まじりてつかはるべきよし仰せられき。今年西大寺をつくり給ひて金銅の四天王を鑄奉り給ひしに、三體は成り給ひて今一體の七度まで鑄損はれ給ひしかば、御門誓ひたまひて「もし佛の德によりて永く女の身をすてゝ佛となるべくば、銅のわくに我が手をいれむ。この度鑄られたまへ。もしこのねがひかなふべからずば、我が手燒け損はるべし」とのたまひしに、御手にいさゝかなる疵なくして天王の像成り給ひにき。神護景雲二年十月廿日道鏡に法皇の位をさづけ給ひき。神護景雲三年七月に和氣淸麿が姊の尼僞りて八幡の宮の御詫宣といひて、道鏡を位に即け給ひたらば世の中大きによかるべきよしを申しき。道鏡この事を聞きて喜ぶ事かぎなかりしり程に、八幡の宮御門の御夢に見え給ひて「我が國は昔より唯人を君とする事はいまだなき事なり。かく橫ざまなる心あらむ人をば速にはらひのくべし」とのたまはせしを、道鏡大きにいかりをなして、御門をすゝめ奉りて淸麿を御使として、宇佐の宮へたてまつりてこの事を申しこはしめ奉りしに、詫宣し給ひし事、御門の御夢にいさゝかも違はざりしかば、淸麿「この事極りなき大事なり、詫宣はかりは信じがたるべし。なほそのしるしを顯し給へ」と祈り申しゝかば、即ちかたちを顯し給ひき。御たけ三丈ばかりにてもち月の如くにて光り耀き給へり。淸麿きもたましひも失せてえ見奉らざりき。この時に重ねて詫宣したまはく「道鏡諂へる幣帛をさまざまの神たちに奉りて世を亂らむとす。我れ天の日繼のよわくなりゆくことをなげき、惡しきともがらの起り出でむとすることをうれふ。彼は多くわれはすくなし。佛の御力をあふぎて御門のすゑを助け奉らむとす。速に一切經を書き佛像をつくり最勝王經一萬卷を讀み奉り、一つの伽藍を建てゝこのあしき心ある輩をうしなひ給へと申すべし。この事一言も落すべからず」とのたまはせき。淸麿かへりまゐりてこのよしを申しゝかば、道鏡大にいかりて、淸麿がつかさをとり大隅の國へ流しつかはしてよぼろの筋を斷ちてき。淸麿かなしびをなして輿に乘りて宇佐の宮へまゐりしに、猪三萬ばかりいできたりて道の左右に步みつらなりて十里ばかり行きて山の中へ走りいりにき。かくて淸麿宇佐に參りつきて拜し奉りしに、即ちもとの如く立ちにき。詫宜したまひて神封の綿八萬餘屯をたまはせき。同四年三月十五日に御門由義の宮に行幸ありき。道鏡日にそへて御おぼえさかりにて世の中既にうせなむとせしを、百川うれへ歎きしかども力も及ばざりしに、道鏡御門の御心をいよいよゆかし奉らむとて思ひかけぬものを奉れたりしに、あさましきこといできてならの京へかへらせおはしましてさまざまの御樂どもありしかども、そのしるし更に見えざりしに、ある尼一人いで來りていみじき事どもを申して「やすくをこたり給ひなむ」と申しゝを、百川怒りて追ひいだしてき。御門終に此事にて八月四日うせさせ給ひにき。こまかに申さばおそりも侍り。この事は百川の傳にぞこまかに書きたるとうけたまはる。この御門たゞ人にはおはしまさゞりしにこそ。かやうの事も世の末をいましめむがためにやおはしましけむとぞおぼえ侍りし。
第五十光仁天皇〈天應元年十二月廿三日崩。年七十三。〉
次の御門光仁天皇と申しき。天智天皇の御子に施基皇子と申しゝ第六子におはす。母は贈太政大臣紀諸人の女、贈皇后橡姬なり。神護景雲四年八月四日稱德天皇うせさせおはしましにしかば位を繼ぎ給ふべき人もなくて、大臣以下おのおのこの事を定め給ひしに「天武天皇の御子に長親王と申しゝ人の子に大納言文屋淨三と申す人を位に即け奉らむ」と申す人々ありき。又「白壁王とてこのみかどのおはしましゝを即け奉らむ」と申す人々もありしかども、猶淨三をと申す人のみ强くて、既に即き給ふべきにてありしに、この淨三「我が身そのうつはものにかなはず」と、あながちに申し給ひしかば「そのおとゝの宰相大市と申しゝを、さらば即け申さむ」と申すに、大市うけひき給ひしかば、既に宣命を讀むべきになりて、百川、永手、良繼、この人々心を一つにて目をくはせて密に白壁王を太子と定め申すよしの宣命を作りて宣命使をかたらひて大市の宣命をば卷きかくして、この宣命を讀むべきよしをいひしかば、宣命使庭にたちて讀むを聞くに、事俄にあるによりて諸臣たちはからく、白壁王は諸王の中に年たけたまへり、また先帝の功ある故に太子と定め奉るといふよしを讀むを聞きて、この大市を立てむといひつる人々あさましく思ひてとかくいふべき方もなくてありしほどに、百川やがて兵をもよほして白壁王を迎へ奉りて御門と定め奉りてき。この御門の位に即き給ふことはひとへに百川のはかり給へりしなり。廿一日に道鏡をば下野國へ流し遣す。大納言ゆげのきよ人を土佐へ流しつかはす。このきよ人は道鏡がおとゝなり。十一月一日位に即き給ふ、御年六十二。世をしり給ふ事十二年なり。粉河寺は今年建てられしなり。寳龜三年に御門井上の后と博奕し給ふとて、たはぶれ給ひて「われ負けなばさかりならむ男をたてまつらむ。后負け給ひなば色かたちならびなからむ女をえさせ給へ」とのたまひてうちたまひしに、御門負け給ひにき。后まめやかに御門をせめ申し給ふ。御門たはぶれとこそおぼしつるにことにがりて思ひわづらひ給ふほどに、百川この事を聞きて「山部親王を后にたてまつり給へ」と御門にすゝめ申しき。この山部親王と申すは桓武天皇なり。さて百川また親王の御もとへ參りて「御門この事を申し給はむずらむ。あなかしこいなび申し給ふな。思ふやうありて申し侍るなり」と申しゝほどに、御門親王を呼び奉りたまひて「かゝる事なむある。きさきの御もとへおはせ」と申し給ひしに、親王おそれかしこまりて「あるべきことに侍らず」と申してまかり出で給ひしを、たびたび强ひ申し給ひしかども、なほうけたまはり給はざりしかば、御門「孝といふは父のいふ事にしたがふなり。われとし老いてちから堪へず。すみやかに后のもとへまゐりたま」へとせめのたまひしかばえのがれ給はずして、遂に后の御もとへ參り給ひにき。さて后この親王をいみじきものにしたてまつり給ひし。いとけしからず侍りし事なり。この后御年五十六になり給ひき。この御腹の他戶の親王は御門の第四の御子にて御年などもいまだいとけなくおはしまして、ことし十二にぞなり給ひしかども、この后の御腹にておはせしかば兄たちをおきたてまつりて、こぞの正月に東宮に立ち給ひしぞかし。后御年もたけ、東宮の御母などにていみじくおもおもしくおはすべかりしに、この山部親王御まゝ子にて御年などもことの外にあひ給はず、ことし三十六になりたまひしを、またなきものとおもひ申したまへりしいとみぐるしくこそ侍りしか。常にこの親王をのみ呼びたてまつり給ひて御門をうとくのみもてなしたてまつり給へば、御門耻ぢうらみたまふ御心やうやういできけり。百川このほどの事どもをうかゞひ見るに、后ましわざをして御井に入れさせたまひき。御門をとくうしなひたてまつりて、我が御子の東宮を位に即けたてまつらむといふ事どもなり。その井に入りたるものをある人とりて宮の內にもてあつかひしかば、この事みな人しりにき。百川御門に「この事すでにあらはれにたり。又后の宮の人八人このごろ橫さまなる事をのみつかうまつりて、世の人たふべからず。人のめをうばひてやがてそのをとこの前にてゆゝしきわざをして見せ、またその男をころし、かやうの事申しつくすべからず。この八人をとらへさしめて人のうれへをしづめむ」と申しゝかば、御門申しゝまゝに許し給ひしかば、百川つはものを遣して召しとりし程に、その八人をうち殺してき。その使かへりてこのよしを申すに、后、御門のおはします所へいかりておはして、「おいくちは己れがおいほれたるをば知らずして、我が宮が人どもをばいかで殺さするぞ」とのり申し給ひしかば、百川この事を聞きて「あさましく侍る事なり、后を暫し縫殿寮にわたし奉りてこらしめ奉らむ。又東宮もあしき御心のみおはす、世のためいといと不便に侍る」と申しゝかば御門「よからむさまに行ふべし」とのたまひしかば、三月四日后の位をとり奉りていで給ふべきよし啓せしかども后の更に出で給はずしてしのびやかにかむなぎどもを召しよせて、さまざまの物どもをたまはせて御門を呪咀し奉り給へりしを、百川聞きつけて、かむなぎを尋ね召さしめしに、かむなぎ逃げ失せにしかばそのかむなぎの親しかりし者を召して「更におそりをなすべからず。ありのまゝにこの事を申さばわれ必ず位を申し授くべし」といひしかば、即ちこのよしをかのかむなぎに吿げいひしかば、かむなぎ謀られて申していはく「君をあやまち奉らむと謀れる罪は遁れがたかるべき事なり。后宮われ等を召してさまざまの物を賜はせたりしかども、いかにすべしとも覺え侍らで、たゞ御門の御ためにかへりて寺々に誦經にして惡き心つゆ起さずなり侍りき」といひき。このよしを百川つぶさに御門に申しゝかば、そのかむなぎどもを召しよせて重ねて問はしめ給ひしに、おのおの皆おぢ伏しにき。御門この事をきこしめして、淚を流したまひて「われ后のためにいさゝかもおろかなる心なかりつるに、今この事あり、いかにすべきことぞ」と仰せ事ありしかば、百川申していはく「この事世の中の人皆聞き侍りにたり。いかでかさではおはしますべき」と申しゝかば、御門「誠にいかでかたゞもあらむ」とのたまはせて、后のみふなど皆とめ給へりしかども后さらに憚り給ふけしきなくて、唯御門をさまざまのあさましきことばにて、みだりがはしくのり申し給ふ事より外になし。百川「東宮もしばし退け奉りて心をしづめ奉らむ」と申しゝかば、御門ゆるし給ひき。百川僞りて宣命をつくりて人々をもよほして太政官にして宣命を讀ましむ。皇后及び皇太子をはなち追ひ奉るべしとなり。この事をある人御門に申すに、御門大におどろき給ひて、百川を召して「后なほこり給はず、しばし東宮をしりぞけむことこそ申しこひつるに、いかにかゝる事はありけるぞ」とのたまふに、百川申していはく「退くとは永くしりぞくる名なり。母つみあり、子おごれり、誠にはなち追はむに足れることなり」と少しもわたくしあるけしきなく、偏に世のためと思ひたる心かたちに顯れて見えしかば、御門かへりて百川におぢ給ひて、ともかくものたまはせずしてうちうちになげき悲び給ふ事限なかりき。これも百川のはかりごとにて位に即き給へりし功勞のはかりもなかりしかば、唯申すまゝにておはしましゝなり。同四年正月十四日に山部親王の中務卿と申しておはせし、東宮に立ちたまふ。この事偏に百川のちからなり。その故は、まづ等定と申しゝ僧を百川梵釋寺にこめて、この親王を位に即け奉らむといふことを祈り申さしめき。その僧、親王の御たけの寸法をとり奉りて、梵天帝釋を造り奉りて行ひ奉りき。大臣以下御門に申していはく「儲の君しばしも坐せずしてあるべき事ならず。速に立て奉り給へ」と申しゝかば、御門「誰をか立つべき」とのたまはせしかば、百川すゝみて「第一の御子山部親王を立て申し給ふべし」と申しき。御門仰せらるゝやう「山部は無禮の親王なり。我いかにいふともいかで后をばをかすべきぞ」とのたませしを、百川申していはく「この仰せ事いはれなく侍り。父のいふ事を違へざるを孝子とはいふなりと仰事ありしかばこそ、親王はおほせに從ひ給ひしか。始めすゝめ給ふも御門におはします。後に嫌ひ給ふも御門なり。いかにかくは仰事あるぞ」と申すに、濱成申していはく「山部親王は御母いやしくおはす。いかでか位に即き給はむ」と申しゝかば、御門「まことにさる事なり。酒人內親王を立て申さむ」とのたまひき。濱成又申していはく「第二の御子薭田親王御母いやしからず。この親王こそ立ち給ふべけれ」と申しゝを、百川目をいからし、太刀をひきくつろげて、濱成をのりていはく「位に即き給ふ人更に母のいやしきたふときを擇ぶべからず。山部親王は御心めでたく世の人もみな從ひ奉るこゝろあり。濱成申す事道理にあらず。我命をも惜み侍らず、また二心なし。唯早く御門の御ことわりをかうぶり侍らむ」とせめ申しゝかば、御門ともかくものたまはで立ちて內へ入りたまひにき。百川このことを承りきらむとて、齒をくひしばりてすこしもねぶらずして四十餘日立てりき。御門、百川が心の强くゆるばざる事を御覽じて、「さらば疾く山部親王の立つべきにこそ」としぶしぶにおほせ出し給ひしを、御ことばいまだ終らざりしに、庭におりて手をうち喜ぶ聲おびたゞしく高くして人々みなおどろきさわぎ、百川やがてつかさづかさを召して山部親王の御もとへたてまつりて、太子に立て奉りにき。御門あわだゝしくおぼしてあきれ給へるさまにてぞおはしましゝ。濱成色をうしなひ朽ちたる木などの如くに見え侍りき。百川君の御ために力をつくし身を捨つる事、いにしへもかゝるためしなしと人々申しあへりき。同六年四月廿五日井上の后うせ給ひにき。現身に龍になり給ひにき。長部親王もうせ給ひにきといふ事世にきこえ侍りき。同七年九月に二十日ばかり夜ごとに瓦石つちくれふりき。つとめて見しかば屋の上にふりつもれりき。同八年冬雨もふらずして世の中の井の水みな絕えて宇治川の水既に絕えなむとする事侍りき。十二月に百川が夢に、鎧兜を着たるもの百餘人きたりてわれをもとむとたびたび見えき。又御門東宮の御夢にも、かやうに見えさせ給ひてなやましくおぼされき。これ皆井上の后長部の親王の靈と思して、御門深く憂へ給ひて諸國の國分寺にて金剛般若を讀ましめさせ給へりき。同九年二月に長部の親王いまだ世におはすといふことを、ある人御門に申しき。御門この親王を東宮にかへし立てむの御心もとより深かりしかば、人を遣して見せしめ給ひしに、百川御使を呼びよせて「汝あなかしこまことを申すことなかれ。もし申しては國は傾きなむずるぞ。やすく生けらむものと思ふな」といひしかば、この御使おぢわなゝきながら、行きて見るに、うせ給ひにきと聞え給ひし長部の親王はいさゝかのつゝがもなくておはするものか。あさましく思ひながらこの使かへり參りて百川におぢ恐りて「ひが事に侍り。あらぬ人なり」と申しゝを、親王の乳母仕うまつり人集り參りて御使とかたみに爭ひ申すに、御使ちかごとを立てゝ「若し僞れることを申さば二つの目ぬけおち侍るべし」と申しゝかば人みなひが事と思ひて親王をおひうて申して後、いくばくのほどもなくてその御使の目二つながら拔け落ち侍りにし、あらたにあさましく侍りし事なり。十月に東宮伊勢太神宮へ參り給ひき。過ぎぬる春の比御病重くてさまざまにせさせ給ひしかども、そのしるしなかりき。その時の御願にてをこたり給ひて後まゐらせ給ひしなり。今年とぞおぼえ侍る、傳敎大師大安寺に行表と申しゝ僧の弟子になりて法師になり給ひしは。年十二になり給ふとぞ承りし。もと近江の國の人に坐しき。同十年五月に阿部仲麿もろこしにてうせにけりと聞え侍りき。家乏しくして後の事などかなはずと、御門聞しめして絹百疋綿三百屯をなむ給はせし、この人なり。もろこしにて月のいづるを見て、この國の方を思ひ出して「三笠の山にいでし月かも」とよめりき。七月五日あるかむなぎ百川に、「この月の九日物忌かたくすべし。あなかしこ」といひしかば、百川常に夢見さわがしきことを思ひ合せて、かむなぎの事を賴みて、九日になりて戶をさしかためて籠り居たるほどに、泰隆といふ僧は年ごろ百川がいのりをして相賴めりしものなり。その僧の夢に、井上の后を殺すによりて百川が首を斬る人ありと見て、おどろきさめて、即ち百川がもとへはしり行きてこの事を吿げむとするに百川かむなぎのをしへに從ひてこの泰隆にあはず。泰隆爪はじきをしてかへりにき。この日百川俄にうせにき、年三十八になむなりし。私の心なく世のためとてこそは申し行へりしかども、遂にかくまたなりにし。凡夫の心はいかに侍るべきにか。御門「わが位をたもてることは偏に百川が力なり。永くそのかたちをも見るまじきこと」とのたまひ續けて泣き歎かせ給ふ事かぎりなかりき。さらなり、又東宮の御なげきおぼしやるべし。御かたちも變るほどにならせ給ひしかば、見奉る人「いかにかくならせ給へるぞ」と申しゝかば、「百川我がために身をも惜まず力をつくせりき。われさせるむくいなし。今計らざるに命をうしなひつ。この事を思ふにかくなれるなり」とのたまひし、誠にことわりと覺え侍りしことなり。天應元年四月三日、御門位を東宮にゆづり奉り給ひて太上天皇と申しき。
第五十一桓武天皇〈延曆廿五年三月十七日崩。年七十。葬柏原陵。〉
次の御門桓武天皇と申しき。光仁天皇の御子。御母贈正一位乙繼の女、皇太夫人高野新笠なり。寶龜四年正月十四日東宮に立ち給ふ。御年三十七。そのほどの事百川が力をいれ奉りしさま光仁天皇の御事の中に申し侍りぬ。天應元年四月廿五日位に即き給ふ、御年四十五。世をしり給ふ事廿四年なり。延曆元年五月四日宇佐の宮詫宣したまふやう「吾が無量刧の中に三界に他生して方便をめぐらし衆生をみちびく、名をば大自在王菩薩となむいふ」とのたまひき。たふとく侍る事なり。同三年五月七日、蛙三萬ばかりあつまりて三町ばかりにつらになりて難波より天王寺へ參りにき。「この事都うつりのあるべき相なり」と申しあへりしほどに廿六日に山城の長岡に京たつべしといふ事出できて、人々を遣してその所を定めさせ給ひき。六月に長岡の京に宮づくりを始めさせ給ふ。諸國の正稅六十八萬束を大臣以下參議已上にたまひて、長岡の京の家を造らしめ給ふ。十一月八日の戌の時より丑の時まで空の星はしりさわぎき。十一日戊申長岡の京にうつり給ふ。同四年七月中の十日頃に傳敎大師比叡の山に登りて住みはじめ給ひき。生年十九にぞなり給ひし。八月にならの京へ行幸侍りき。こぞ都長岡にうつりにしかども、齋宮は猶奈良におはしましゝかば伊勢へ下らせ給ふべき程近くなりて行幸ありしなり。長岡の京には中納言種繼留主にて侍ひしを、御門の御弟の早良親王東宮とておはせしが、人をつかはして射殺さしめ給ひてき。事のおこりは御門常にここかしこに行幸し給ひて、世の政事を東宮にのみあづけ奉り給ひしかば、天應二年に佐伯今毛人といひし人を宰相になさせ給ひたりしを、御門かへらせ給ひたりしに、この種繼「佐伯の氏のかゝる事はいまだ侍らず」と御門に申しゝかば、宰相をとり給ひて三位を經させたまひてしを、東宮世に口をしきことにおぼして「種繼をたまはらむ」と申しゝを、御門むづかり給ひて更に聞き給はずして、この後東宮に政事をあづけ奉り給ふことなくなりにしを、安からずおぼして、そのひまを年比うかゞひ給ひつるによき折ふしにてかくし給ひつるなり。御門ならより歸り給ひにき。丙戌の日行幸はありて、今日は壬辰の日なれば七日といひしに歸り給へりとぞ覺え侍る。この頃はいむなど申すとかや。かくて十月に東宮を乙訓寺にこめ奉り給へりしに、十八日までその命たえ給はざりしかば、淡路の國へ流し奉り給ひしに、山崎にてうせ給ひにき。延曆七年にこぞの冬より今年の四月まで五月のほど雨ふらで世の人この事をなげきしに、御門御ゆどのありて御身を淸めて庭におりて祈りこひ給ひしかば、しばしばかりありて空くらがり雲いできて忽に雨くだりて世の人よろこぶ事かぎりなかりき。今年傳敎大師比叡の山に根本中堂を建て給ひき。生年二十二にぞなり給ひし。やがて今年とぞ覺え侍る、弘法大師讃岐より京へ上り給ひき。生年十五にぞなり給ひし。同十年八月辛卯の日の夜ぬす人伊勢太神宮を燒き奉りき。今もむかしも人の心ばかりゆゝしきものは侍らず。十月に東宮伊勢へまゐらせ給ひき、御病のをりの御願とぞうけたまはりし。この東宮と申すは平城天皇におはします。同十二年に今の京の宮城を造り給ひき。同十三年十二月廿二日辛酉、長岡の京より今の京にうつり給ひて賀茂の社に行幸ありき。同十五年に御門東寺をつくり給ふ。今年又藤原いせ人といひし人貴船の明神の御をしへにて鞍馬をばつくり奉りしなり。同十七年に勅使を淡路の國へつかはして早良親王の骨をむかへ奉りて大和の國八島の陵にをさめたまひき。この親王流され給ひてのち世の中こゝち起りて人おほくしにうせしかば、御門おどろき給ひて御迎に二度まで人をたてまつり給ひし、皆海に入り波に漂ひて命を失ひてき。第三度に親王の御甥の宰相五百枝を遣しき。ことに祈り請ひて平にゆきつきて渡し奉りしなり。七月二日田村將軍淸水の觀音をつくり奉り、又我が家をこぼちわたして堂に建てき。同十九年七月己未の日、御門「思ふ所あり」とのたまひて前東宮早良親王を崇道天皇と申す。又井上內親王を皇太后とすべきよし仰せられき。おのおのおはしまさぬあとにもうらみの御心をしづめたてまつらむとおぼし召しけるにこそ侍るめれ。同廿一年正月十九日わけのひろよたかをの法華會を行ひはじめき。九月二日傳敎大師もろこしへわたり給ひて天臺の敎文をつたふべきよしの宣旨を下され侍りしなり。十月に維摩會をもとのやうに山階寺にて行ひてながく外にて行ふべからざるよし宣旨を下さる。これよりさきには長岡にして行はるゝ事もありき。又ならの法花寺にても行はれしなり。同廿二年閏十月廿三日傳敎大師筑紫におはしてもろこしへ平にわたり給はむの御いのりに、かまどの山寺にて藥師佛四體を造り給ひき。同廿三年五月十二日弘法大師生年三十一と申しゝにもろこしへわたり給ひき。七月に傳敎大師おなじくもろこしへわたり給ひき。同廿四年六月に傳敎大師もるこしよりかへり給ひて天臺の法文これよりひろまりしなり。
第五十二平城天皇〈天長元年七月七日崩。年五十一。葬楊梅陵。〉
次の御門平城天皇と申しき。桓武天皇の御子。御母內大臣藤原良繼の女、皇后乙牟漏なり。延曆元年十一月廿五日に東宮に立ち給ふ。御年十二。早良親王の御かはりなり。同六年五月に御元服ありき。大同元年五月廿八日に位に即き給ふ。御年三十二。世を知り給ふ事四年なり。御心さとく御ざえかしこくおはしましき。十一月に天臺の受戒はじまりき。今年崇道天皇の御ためにやましなに八島寺を建てたまひて諸國の正稅の上分を奉りて祈りしづめたてまつり給ひき。御門位に即き給ひし日、御弟のさがのみかどを東宮に立て申させ給ひたりしを、御門すて奉らむの御心ありしに、冬嗣の東宮の傅にておはせしがかゝる事なむ」と吿げ申し給ひしかば、東宮おぢ恐り給ひて「いかゞせむずる」とのたまはせしかば冬嗣「この事今日あす既に侍るべきことにこそ。人の力の及ぶべきにあらず。父みかどの陵に祈り申したまふべきなり」と申し給ひしかば、東宮日の御さうぞく奉りて庭におりて遙に柏原の方を拜し、雨しづくと泣きうれへ申させたまひしに、俄に烟世の中にみちて夜の如くになりにしかば、御門驚きおのゝき給ひて御占ありしに、柏原の御祟と占ひ申しゝかば、御門おほきに驚き給ひてこの事を陵に悔い申させ給ひしかば、二日ありて烟やうやううせにき。同二年十月廿二日に弘法大師もろこしよりかへり給へりき。東寺の佛法これよりつたはれりしなり。この大師あらはに權者とふるまひたりき。御手ならびなく書かせ給ひしかば、もろこしにても御殿の壁の二ま侍るなるに義之といひし手かきの物を書きたりけるが、年久しくなりてくづれにければ、又改められてのち大師に書き給へと唐土の御門申し給ひければ、五つの筆を御口左右の御足手にとりて壁に飛びつきて、一度に五くだりになむ書き給ひける。この國に歸り給ひて南門の額は書き給ひしぞかし。さて又應天門の額を書かせ給ひしに、かみのまろなる點を忘れ給ひて、門にうちてのち見つけ給ひて驚きて筆をぬらして投げあげ給ひしかばその所につきにき。見る人手をうちあざむ事かぎりなく侍りき。只空に仰ぎて文字を書き給ひしかばその文字あらはれき。これのみならず事にふれてかやうのこと多く侍れど、唯今思ひ出さるゝ事を片はし申すなり。十一月に中務卿伊與親王、御門を傾け奉らむとはかり奉るといふ事聞えて、母の夫人ともに河原寺の北なりし所に籠められ給へりしに、みづから毒を食ひてうせ給ひにき。その親王管絃の方勝れ給へりき。その後世の中心ちおこりて大嘗會もとまりにき。同三年慈覺大師生年十五にて比叡の山にのぼり給ひて、傳敎大師の御弟子になり給ひしなり。もとは下野國の人におはす。いまだ下野におはせしに傳敎大師を夢に見奉りてあけくれいかで大師の御許へ參らむと思ひ給ひしに、遂に人につきて上り給ひて、山に登りて見奉り給ひしに夢の御すがたにいさゝか違ひ給はざりき。同四年に御門春の頃より例ならず思されてをこたり給はざりしかば、位を御をとゝの東宮にゆづり奉りて太上天皇と申しき。御子の高嶽親王を東宮に立て申したまふ。
第五十三嵯峨天皇〈承和九年七月十五日崩。年五十七。葬嵯峨西山陵。〉
次の御門嵯峨天皇と申しき。桓武天皇の第二の御子。平城天皇のひとつ御腹なり。大同元年五月十八日に東宮に立ちたまふ。御年廿一。同四年四月十三日に位に即きたまふ。御年廿四。弘仁元年正月に太上天皇ならの都にうつり住み給ふ。中納言種繼のむすめに內侍のかみと申しゝ人をおぼしめしき。そのせうとの右兵衞督仲成心落居ずして妹の威をかりてさまざまの橫さまの事をのみせしかども、世の人はゞかりをなしてとかくいはざりき。內侍のかみも心さましづまり給はざりし人にて太上天皇に事にふれて位を去り給ひにし事の口をしきよしをのみ申し聞かせしかば、悔しくおぼす心やうやういで來給ひし程に、九月に內侍のかみ太上天皇を勸め奉りて位にかへり即きてわれ后に立たむといふ事いできて、世の中しづかならずさゝめきあへりし程に、御門內侍のかみのつかさ位をとり給ひ、仲成を土佐國へ流し遣すよし宣旨を下させ給ひしに、太上天皇大きに怒り給ひて十日丁未幾內のつはものを召し集め給ひしかば、御門關をかためしめ給ひて田村麿の中納言の大將と申しゝを俄に大納言になし給ひてき。事既におこりにしかばかねて將軍の心を勇まさせ給ひしにこそ。さて十一日に太上天皇軍を起して內侍のかみとひとつ御輿にたてまつりて東國の方へむかひ給ひしに、大外記上毛頴人ならより馳せ參りて「太上天皇既に諸國の軍を召し集めて東國へ入り給ひぬ」と御門に申しゝかば、大納言田村麿、宰相綿麿をつかはしてその道を遮りて仲成を射殺してき。太上天皇の御方の軍逃げうせにしかば、太上天皇すぢなくて歸り給ひて御ぐしおろして入道し給ひてき。御年三十七なり。內侍のかみみづから命をうしなひてき。おそろしかりし人の心なり。太上天皇の御子の東宮を捨て奉りて御門の御弟の大伴親王とて淳和天皇のおはしましゝを東宮に立て申させ給ひき。すべて太上天皇の御方の人罪をかうぶる多かりき。同二年正月七日初めて靑馬を御らんじき。廿三日に豐樂院に出給ひて弓あそばして親王以下射させ奉らせ給ひしに、御門の御弟の葛井親王はいまだ幼くおはして弓射給ふうちにもおぼしよらざりしを、御門たはぶれて「親王幼くとも弓矢をとり給ふべき人なり。射給へ」とのたまはせしに、親王たちはしりて射給ひしに二つの矢みな的に當りにき。生年十一にぞなり給ひし。母方のおほぢにて田村麿大納言その座に侍りて驚き騷ぎ喜びて、えしづめあへずして座を立ちてうまごの親王をかき抱き奉りて舞ひかなでゝ御門に申していはく「田村麿むかし多くの軍の將軍としてえびすを討ち平げ侍りしは唯御門の御威なり。つはものゝ道を習ふといへどもいまだ極めざる所おほし。今親王の年幼くしてかくおはする、田村麿更に及び奉るべからず」と申しき。今もむかしも子孫を思ふ心はあはれに侍る事なり。さてほどなく五月廿三日に田村麿うせにき。年五十四になむなりし。かたちありさまゆゝしかりし人なり。丈五尺八寸胸のあつさ一尺二寸、目は鷹のまなこの如く鬚はこがねの絲すぢをかけたるが如し。身を重くなすときは二百一斤、輕くなすをりは六十四斤、心にまかせて折にしたがひしなり。怒れるをりは眼を廻らせばけだもの皆仆れ、笑ふ時はかたちなづかしく幼き子もおぢ恐れずいだかれき。たゞ人とは見え侍らざりしなり。同四年正月に御齋會のうち論義は始まりしなり。今年冬嗣山階寺の內に南圓堂を建て給ひにき。その時藤氏の人僅に三四人おはせしを歎きて、氏のさかえを願してたて給へりしなり。誠にそのしるしと見え侍り。神武天皇より後御門の御後見代々におはすれども、子孫相繼ぎて今日あすまでかくおはするはこの藤氏こそはおはすめれ。六月一日官府を下し給ひて病人を道のほとりに出し捨つる事をとゞめさせ給ひき。「尊きもいやしきも命ををしむ心はかはる事なきを、世の人生けるをりは苦しめ使ひて病づきぬれば即ち大路にいだす。扱ひ養ふ人さらになければつひに飢ゑ死ぬ。永くこの事をとゞむべし」とおおせ下されしこそめでたき功德とおぼえ侍りしか。この頃もやすくありぬべき事なり。五年の春傳敎大師もろこしへ渡り給ひしをりの願を遂げむとて、筑紫へおはして佛をつくり經をうつしたまふ。又宇佐の宮の神宮寺にてみづから法華經を講じたまひしに、大菩薩詫宣し給ひて「われ久しくのりを聞かざりつ、今わがためにさまざまの功德を行ひ給ふ、いとうれしき事なり。わがもてる衣あり」とのたまひて詫宣の人御殿に入りて紫の七條の御袈裟一帖、紫の襖一領を大師に奉り給ひき。ねぎほふりなど「昔より斯る事をいまだ見聞かず」と申し侍りき。その御袈裟襖今に比叡の山にあり。五月八日皇子たち源といふ姓をたまはり給ひき。同七年弘法大師入定のところを高野の山に定め給ひき御年四十三。同十三年六月四日傳敎大師うせ給ひにき。生年五十六年になむなり給ひし。同十四年御門位を御おとゝの東宮に讓り奉りて、やがてその御子の治部卿親王恆世を東宮に立て申し給ひしを、親王あながちに遁れ申し給ひて籠り居て御使をだに通はし給はざりしかば、仁明天皇の御子にておはしましゝを東宮に立て給ひき、位をこそ東宮にておはしませばかぎりありて讓り奉り給はめ、我が御子のおはしまさぬにてもなきに、おとゝの御子を東宮にさへ立て奉らむとし給ひし御心はありがたかりしことなり。
第五十四淳和天皇〈承和七年八月日崩。年五十五。葬物集陵。〉
次の御門淳和天皇と申しき。桓武天皇の御三の御子。御母は參議百川の女旅子なり。弘仁元年九月に東宮に立ちたまふ。御年二十五。平城天皇の御子高嶽親王の御かはりなり。同十四年四月廿八日に位に即きたまふ。御年三十八。世をしりたまふ事十年なり。天長二年十一月四日丙申御門嵯峨の法皇の四〈三イ〉十の御賀したまひき。ことし浦島の子はかへれりしなり。もたりし玉の箱をあけたりしかば紫の雲西ざまへまかりて後、いとけなかりけるかたちたちまちに翁となりてはかばかしく步みをだにもせぬほどになりにき。雄畧天皇の御代にうせて今年三百四十七年といひしに歸りたりしなり。同四年に智證大師生年十四にて讃岐國よりのぼり給ひて比叡の山へのぼり給ひき。はゝは弘法大師の御めいなり。同九年十一月十二日に弘法大師高雄より高野へかへり居給ふべきよし申し給ひしかば、太上天皇弘福寺たまはせき。高野より都に通ひ給はむ道のやどり所にしたまへとぞの給はせし。弘福寺は天武天皇の御願なり。同十年二月廿八日に御門位を御甥の東宮にゆづり申し給ひて西院にうつりおはしましき。
第五十五仁明天皇〈嘉祥三年三月廿一日崩。年四十一。葬深草山陵。〉
次の御門仁明天皇と申しき。嵯峨天皇の第二の御子。御母太皇大后橘嘉智子なり。弘仁十四年四月東宮に立ちたまふ。御年十五。天長十年三月六日位に即き給ふ。御年二十四。世をしり給ふ事十七年。御ざえかしこく管絃の方もいみじくおはしましき。すべて御身の能いにしへの帝王にも勝れ給ひて、くすしの方などさへならび奉る人なかりしなり。今年慈覺大師如法經をかき給ひき。承和元年正月二日淳和院へ朝覲行幸侍りき。弘法大師の申し行ひ給ひしによりて今年より後七日の御修法はじまりしなり。三月廿一日に弘法大師定に入り給ひにき。生年六十二なり。同四年六月十七日慈覺大師もろこしへわたり給ひき。同五年十二月十九日に佛名ははじまりしなり。この月に小野篁を隱岐國へ流しつかはしき。その故は度々もろこしへ遣さむとせしめども、身に病侍るよしなど申してまからざりしにあはせて、もろこしへ遣しける文のことばのつゞきにひかされて世のためによからぬ事どもを書きたりけるを、嵯峨の法皇御覽じて大きにいかり給ひて流しつかはさせ給ひしなり。同六年正月にぞ篁おきへまかりし。
「わたのはらやそ島かけてこぎいでぬと人にはつげよあまのつり船」
とはこの時によみ侍りしなり。同七年四月八日始めて灌佛は行はれしなり。六月に小野篁召し還されて未だ位もなかりしかば黃なるうへのきぬを着てぞ京へは入れりし。同九年七月十五日に嵯峨法皇うせさせ給ひにき。當代の御父に坐します。十七日平城天皇の御子に阿保親王と申しゝ人嵯峨のおほ后の御許へ御消そくを奉りて申し給ふやう「東宮の帶刀こはみねと申すものまできて太上法皇既にうせさせ給ひぬ。世の中の亂出で來侍りなむず。東宮を東國へわたし奉らむ」と申すよしを吿げ申し給ひしかば、忠仁公の中納言と申しておはせしを后呼び申させ給ひて、阿保親王の文を御門に奉り給ひき。この事こはみねと但馬權守橘逸勢とはかれりける事にて、東宮は知り給はざりけり。廿四日に事あらはれて廿五日に但馬權守を伊豆國へつかはし、こはみねをおきへつかはす。又中納言よしの宰相あきつなど流されにき。この但馬權守と申すは世の人きせいとぞ申す神になりておはすめり。東宮おそりおぢ給ひて太子を遁れむと申し給しひかば、御門「この事はこはみねひとりが思ひたちつる事なり。東宮の御あやまりにあらず。とかくおぼす事なかれ」とてたゞもとのやうにておはしまさせき。東宮と申すは淳和天皇の御子なり。御門には御いとこにておはしましゝなり。今年十六にぞなり給ひし。八月三日御門冷泉院に行幸ありてすゞませ給ひしに、東宮もやがて參らせ給ひたりしに、いづ方よりともなくて文をなげいれたりき。こはみねが東宮を敎へ奉りたる事どもありしかば俄に東宮の宮づかさ帶刀おもと人など百餘人とらへられて、東宮をば淳和院へかへし奉りて、四日當代の第一の親王を東宮に立て申し給ひき。文德天皇これにおはします。嘉祥元年三月二十六日に慈覺大師もろこしよりかへりたまふ。もろこしにおはせし間惡王にあひたてまつりてかなしきめどもを見給へりしなり。佛經をやきうしなひ尼法師を還俗せさせしめ給ひしをりにあひて、この大師も男になりて頭をつゝみておはせしなり。同三年三月に御門御病重くならせ給ひて、御ぐしおろして中一日ありてうせおはしましきとぞ。さてこの申す事は、見聞きし事ばかりなれば、大切なる事もおほくおち侍りぬらむ。これは唯おほやうのありさまをおぼし合せさせむと思ひ給ふるばかりなり。この申し續けつる事ども曉のねぶりのほどの夢にいづこか違ひ侍りたる。いづらはめでたかりし世の中いづらはわろかりし事、たとひ神武天皇の御代より生ける人ありとも、我が身にて思ふにながき夢見たる人にてぞ侍らむ。ましてこの頃の人命長からむ定七八十なり。とてもかくてもありぬべし。大かた世の中の減刧のすゑ佛の滅後に小國のなかに生れて、見聞く事のわろからむこそまことのことわりなれ」」とて、もとの道さまへ歸りまかりにき。今かくかたり申すも、猶仙人の申しゝ事十が一をぞ申すらむ。そのなかに猶ひが事多く世の人の皆知りをこがましき事どもにてこそ侍らめ。いたづらにいをねむよりは御目をもさまし奉らむとてあさましかりし事のありさまを語り申すなり。御心の外に散し給ふな」」」とて、夜明けがたになりしかば又所作などして「「「京へ必ずおはせ」」」と契りてまかりいでにき。その後ゆきがたをしらず。尋ねてきたることもなし。本意なきことかぎりなし。心より外にはといひしかどもこの事をけちてやまむ、口をしくて書きつけ侍るなり。世あがりざえかしこかりし人の大かゞみなどいひて書きおきたるにはにずして、ことば卑しくひが事多うして見所なく、文字おち散りて見む人にそしりあざむかれむ事うたがひなかるべし。紫式部が源氏など書きて侍るさまは、たゞ人のしわざとやは見ゆる。されどもその時には日本紀の御つぼねなどつけて笑ひけりとこそは、やがて式部が日記には書きて侍るめれ。ましてこの世の人のくちかねて推し量られてかたはらいたく覺ゆれども、人のためとも、思ひ侍らず。唯若くよりかやうの事の心にしみならひて行のひまにも捨てがたければ、われ一人見むとて書きつけ侍りぬ。大鏡の卷も凡夫のしわざなれば佛の大圓鏡智の鏡にはよも及び侍らじ。此も若し大かゞみに思ひよそへばそのかたち正しく見えずとも、などか水かゞみのほどは侍らざらむとてなむ。
水鏡終
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