殿樣蛙

• 底本:『校定 新美南吉全集 第8巻』大日本図書、1981年。
• 註: 制作日時は推定である。

殿樣蛙

　　――ルナールまがひ――

池畔󠄁（はん）の綠（りよく）草の中に

彼草莽︀の臣は

土下座（ざ）してゐる

僕（ぼく）はそのすぐ上で口笛（ぶえ）を

吹いたが

彼はびくともしない

こいつは聾（つんぼ）だな

靑痰（たん）を垂（た）らして

挨拶（あいさつ）に代へたが

依然として通󠄁じない

ぬるぬるした皮膚（ひふ）には

ぬるぬるした痰（たん）は

何の刺戟（しげき）も與（あた）へない

それならばやむをえぬ

草の葉を投（な）げつけて

親善（ぜん）の意󠄁（い）を示すばかりだ

だが突（とつ）如

彼は物凄（すご）い一跳びをとんだ

とぶ先の目當てなしに

力のありつたけを後肢（し）ではねて

花󠄁菖蒲（せうぶ）の茂みの中に

ばさつと落（お）ちこんだ

しかもたゞ一跳びきり

あとはかさとも音󠄁もたてぬ

彼は最後まで僕（ぼく）の挨拶（あいさつ）を拒󠄁（こば）んだ

僕（ぼく）如き懐疑（くわいぎ）的󠄁人物、人生の敗（はい）北者流（りう）に

ものいひかけらるゝを

潔しとしなかつた

草莽︀の臣　彼は花󠄁菖蒲（せうぶ）の根（ね）方で

泰（たい）然と

あちらを向いて土下座（ざ）してゐる