死霊解脱物語聞書上
- 累が㝡後之事
過にし寛文十二年の春。下総國岡田郡羽生村と云里に。与右衛門と聞ゆる濃民の一子。菊と申娘に。かさねといへる先母〔さきのはゝ〕の死灵とりつき。因果の理を顕し。天下の人口におちて。万民の耳おどろかす事侍りしか。その由來をくわしく尋るに彼の累と云女房。顔かたち類ひなき悪女にして剰へ心ばへまでも。かだましきゑせもの也。しかるに親のゆづりとして田畑少〻貯持故に。与右衛門と云貧き男。彼が家に入甥して住けり。哀れ成哉賤きものゝ渡世ほと。恥がましきことはなし。此女を守りて一生を送らん事。隣家の見る目朋友のおもわく。あまりほひなきわざに思ひけるか。本より因果を辨ふるほどの身にしあらねば。何とぞ此妻を害し。异女をむかゑんとおもひ究めて。有日の事なるに夫婦もろともはたけに出て。かりまめと云物をぬく。ぬきおわつて認めからげ。彼の女におほくおふせ。其身も少々背負ひ暮近くなるまゝに。家地をさして帰る時。かさねがいふやう。わらわが負たるははなはだ重し。ちと取わけて持給へとあれば。男のいわく今少し絹川邊まで。負ひ行。彼こより我かわり持べしとあるゆへに。是非なくくるしげながらやう〳〵。絹川邊にいたるとひとしく。なさけなくも女を川中へつきこみ。男もつゞゐてとび入り。女のむないたをふまへ。口へは水底の砂をおし込。眼をつつき咽をしめ。忽ちせめころしてけり。すなはち死骸を川にてあらひ。同村の浄土宗法蔵寺といふ菩提所に負ひゆき。頓死とことはり土葬し畢ぬ戒名は妙林信女。正保四年八月十一日と。慥に彼寺の過去帳に見へたり。さて其時同村の者共一兩輩。累か㝡後の有様。ひそかに是を見るといへども。すがたかたちの見にくきのみならず。心ばへまで人にうとまるゝほど成ければ。実にもことわりさこそあらめとのみ。いゝて。あながちに男をとがむるわざなかりけり
- 累が怨霊來て菊に入替る事
夫より彼の邪見成る与右衛門。心にあきはてたる妻を。思ひのまゝにしめ殺し。本より累が親類兄弟なきものなれば。跡訪ふわざもせず。彼れが所帯の田地等を一向に押領し。扨女房を持つ事。段〻六人也。前の五人は何れも子なくして死せり。第六人目の女房に。娘一人出來き。其名を菊と云。此娘十三の年八月中旬に其母も終に死去せり。さてしも有べきならねば。其歳の暮十二月に。金五郎と云甥を取。此きくにあわせて。与右衛門が老のたつ木にせんとす。しかる所に菊が十四の春。子の正月四日より。例ならず煩ひ付く。其さま常ならぬきしよくなるが。果してその正月廿三日にいたつて。たちまち床にたふれ口より泡をふき。兩眼に泪をながしあら苦しやたえがたや。是たすけよ誰はなきかと。泣きさけび苦痛逼迫して既に絶入ぬ。時に父も夫も肚を冷しおどろき騒ひで。菊よ〳〵と呼返すに。ややありて。息出で眼をいからかし。与右衛門をはたとにらみ。詞をいらでゝ云やう。おのれ我に近付け。かみころさんぞといへり。父がいわく汝菊は狂乱するやと。娘のいわく我は菊にあらず汝が妻の累なり。廿六年以前絹川にてよくも〳〵。我に重荷をかけむたひに責殺しけるぞや。其時やがてとりころさんと思ひしかども。我さへ昼夜地獄の呵責に逢て隙なきゆへに。直に來る事かなわず。然共我が怨念の報ふ所。果して汝がかわゆしと思ふ妻。六人をとりころす。その上我数〳〵の妄念虫と成て。年來汝が耕作の実をはむゆへに。他人の田畑よりも不作する事今思ひ知るや否や。我今地獄の中にして。少の隙をうるゆへに。直に來て菊がからだに入替り。㝡後の苦患をあらはし。まづかくのごとく。おのれを絹川にてせめころさん物をといゝ。すでにつかみつかんとする時。父も夫も大きにおどろき跡をもかへり見ず与右衛門は法蔵寺へ逃行ば。甥は親の本に走り帰り。ふるひわなゝひてかくれ居たり。其時しも隣家の若き男共。二十三夜待と称し。一所にあまた集り居けるが。此あらましを傳へ聞き。さもあれ不思議なる事かな。いざ行ひて直に見んとて。彼方此方もよほすほどこそあれ。村中の者共悉く与右衛門が所に集り。かの女子を守り見けるに。其の苦みのありさま。いか成衆合呼喚の罪人も是にはまさらじと。苦痛顛倒して絶入事度〻也。其時村人菊よ〳〵とよばわれは。しばらく有ていふやう。何事をのたまふぞや人〻。我はきくにてはなし与右衛門がいにしへの妻に累と申女なり。我姿の見にくき事をきらひて。情なくも此絹川へ押ひてくびりころせし。其怨念をはらさんために來たれり。今与衛門法蔵寺に隠れ居るぞ。急ひで彼をよびよせ。我に逢せて此事を决断し。各〻因果の理りを信じ。わが流轉のくるしみを。たすけてたべ。あらくるしやうらめしやといふ時。村人の中に心さかしきもの有ていふやう。今の詞の次第。中〳〵菊が心より出たる言葉にはあらず。いか様怨念灵鬼の所以と聞えたり。所詮彼が望にまかせて。与右衛門を引あわせ。事の実否をたゞさんとて。法蔵寺に行きひそかに与右衛門をよび出し。かくと告ればかの男ちんじて云やう。それは中〻跡かたもなき。虚言なり此娘狂乱せるか。将又狐狸の付そひて。あらぬ事を申すと聞へたり。よし其儘にて捨置給へと。色〳〵辞退するを。やう〳〵にこしらへ連帰り。菊にあわすれば。累が存生の詞つかひにて。上件のあらまし一〻滞らず云時。与右衛門そらうそふひて。かゝる狂人おのれが病にほうけ。ゆくゑもなきそらごとをつくり出て。父に恥辱をあたへんとす。ひらに人〻その儘捨置たまひ。皆〻帰らせられよといへば。かさねがいわく。やれ与右衛門其方は此人〻の中にはその時の有様を。具に知るものなしと思ふて。かくあらそふかやおろかなり。此村にも我が㝡後の様子をほゞしれる人一兩人も有ぞとよ。又隣村には。慥に見とめたる仁。一人今に存命せられしものをと云時。村人問ていわく。それはたれ人そやと。累がいわく法恩寺村の清右衛門こそ。正しく此事を見られたりといへば。さしも横道なる与右衛門も。既に證人を出されて。あらそふに所なく。泪をながし手を合せ。ひらにわび居たるばかり也其時村の人〻。扨いかゞせんと評議しけるが詮ずる所此かさねが怨みは。非道に彼を殺害し。わづかも其跡をとふ事なく。剩さへかさねが田畑の所徳にて恣に妻をもふけ。一人ならず二人ならずこりもやらで六人まて。つまをかさねし悪人なれば。其科人はとがめざれとも。業の熟する所ありて。みづから是を顕せり。不便なる事なれば。与右衛門に發心させ。かさねがぼだいをとわせんには如じとて。頓て剃髪の身となれ共。道心いまだ發らざれば。功徳のしるべもなきやらん菊が苦痛はやまざりき
- 羽生村名主年寄累が灵に對し問答之事
爰に當村の名主三郎左衛門。同年寄庄右衛門といふ二人の者年來内外の典に心を寄。いとさかしきものども成が。ある日の事なるに。打寄ものかたりするやうは。今度かさねが怨灵顕われ。与右衛門が恥辱は。その身の業。菊が苦痛のふびん成に。いさとも〳〵わびことし。怨灵すかしなだめんとて。名主年寄を始として。少〻村中の男共。与右衛門が家にあつまりけり。先名主泡吹出し苦痛てんどうせるきくに向て問ていわく。汝累がうらみはひとへに与右衛門にあるべし。何故ぞかくのごとく。横さまに菊をせむるや。其時菊がくるしみたちまち止んて。起なをり答へていわくおゝせのごとく我与右衛門にとり付。則時にせめころさんはいとやすけれ共。彼をばさて置。きくをなやますには色〻の子細有。其故はまづさし當て与右衛門に。切成かなしみをかけ。其上一生のちじよくをあたへ。是を以て我が怨念を少しはらし。又各〻に菊が苦痛を見せて。あわれみの心をおこさせ。わらわがぼだいを訪れんため。次に邪見成もの共の。長き見ごりにせんと思ひ。菊にとり付事かくのことしといへば。名主また問ていわく実に尤もなりしかるに汝が此間のもの語を聞ば。地獄におちて昼夜呵責にあいしといふ既に地獄の劫数久しき事は。娑婆の千万歳に尽べからす。何の暇ありてか纔かに廿六年目に。奈落を出て爰に來るや。怨灵答ていわく。さればとよ我いまだ地獄の業。悉く尽すといへども。少の隙をうかゝひ菊に取付は別なる子細あり。をの〳〵が了簡にあたはじといふ時。年寄庄右衛門問ていわく。さては汝に尋ぬる事有り。惣じて一切善悪の衆生皆死に帰す爾者善人は來て。善所を語り。六親朋友を勧誡し。悪人は來て。悪所を知らせて其身の苦患を脱れん事を願ふべし何故ぞ死者尤多きに。來る人甚だまれなるや。又いかなれば汝一人爰に來て。今のことはりを述るぞや怨灵答ていわく。能こそ問れたれ此事を。それ善人悪人怨讐執對有て。死する者多しといへ共。來て告る人少き事は。是皆過去善悪の業决定して。任運に未來報應の果を感じ極むる故爰に來る事能わざる歟。あるひは宿世におゐてこゝに帰り告げんと思ふ。深き願ひのなきゆへか。又は㝡後の一念に。つよく執心をとめざるにもやあらん他人の事はしばらくおく。我は㝡後の怨念に依て來りたりといへば。名主年寄をはじめ。村人何も尤と感じ。さては怨灵退散の祈祷を頼んとて。當村の祈念者を呼よせ。仁王法花心經なんど讀誦する時。怨灵がいわくやみなん〳〵よむべからず縦ひ幾反功を積共。我に縁なしうかぶべからず。只念佛をとなへて。与へたまへとあれば。其時名主問ていわく。誦經と念佛と。何のかわり有てかくはいふぞと。怨灵答ていわく。されば念佛六字の内には一切經巻の功徳を含める故に。万機得脱の利益有と。名主又問ていわく。爾者汝すでに無上大利。名号の功徳を能知れり。何ぞみづから是をとなへて抜苦受楽せざるやと。怨灵答ていわく。おろかなりとよ名主殿。罪人みづから念佛せば。地獄の劇苦を身にうけて。劫数をふるばかもの。一人もあらんや。爾るに墮獄の衆生もさかんにして受苦の劫も久しき事は。あるいひは念佛の利益を自能しるといへ共。悪業のくるをしに引れて。是を唱ふる事かなわず。あるひは生〻にかつて縁なきゆへに。是を聞かずしらざるたぐひのみ多し。我すでに念佛の利益をよくしるといへ共。ざいしやうのおゝふ所。みづから称ふる事かなわず。猶此ことばの疑がわしくは。各〻自分をかへりみて。能〻得心したまへかし。されば此比は念仏の勧化廣くして。浄土のめでたき事をうらやみ地獄のすさまじさをよくおそるゝといへ共。つとめやすき。極楽往生の念佛をば。けだいして。殺生偸盗邪婬等の地獄の業とさへいへば。身のつかるゝをも覚へず。ゆんでをおそれめ手をはゞかり。心をつくしてこれをはげむに。あるいひは親兄弟の异見をも用ひす。あるひは他人の見てあざけるをもかへり見ず。ないし罪業のかず〳〵増上して。終にそのあらため所に引出され。科の輕重明白に决断せられて。只今斬罪はつつけの場へ引居られても尚念佛する事かなわざる。地獄の衆生の因果のほど。能〻わきまへたまひて。あわれみてたべ人〻よと。其身もなみだをうかべながら。いとねんころにぞ答へける。其時名主をはじめ集り居たる者共。异口同音感じあひ。みな〳〵袖をぬらしけり。さて名主がいふやう。爾らば念佛を興行して汝が菩提を吊ふべし。怨をのこさず。菊が苦患をやめよといへば。怨灵がいわく。我だに成仏せば。何の遺恨かさらに殘らん只急ひで念佛を興行したまへとある故に。村人すなはち惣談し正月廿六日の晩ぼたい所法藏寺を請對し。らうそく一挺のたつを限りに。念佛を勤行すゑかうの時にいたつて。累が怨灵たちまちさり。本の菊と成ければ。法藏寺をはじめ。名主年寄も安堵して。其上に村中のこゝろざしをあつめ。一飯の斎を行ひ皆〻信心歓喜して各〻我が屋に帰れば菊が氣色やう〳〵本ぶくす
- 菊本服して冥土物語の事
今度ふしぎ成事ありて。与右衛門が娘のきく。かさねと云ものゝ亡魂にさそはれ。地獄極楽見しなど云に。いざ行ひて聞べしと。村中の男女あつまり。いろ〳〵の物語する中に。先ある人問ていわく。菊よ此比かさねにさそわれて。何国にか行きし。又其かさねといふものゝ姿は。いかやうにか有しといへば。菊答ていわく。されば累と云女は。まづいろ黒くかた目くされ。鼻はひしげ。口のはゞ大きに。すべて顔の内にはもがさのあと。所せきまでひきつり。手もかゞまり。あしもかたみぢかにして世にたぐひなくおそろしき老婆成しが。折〻夢現に來り。我をさそひ行んとせしか共。あまりおそろしくて。いろ〳〵わびことし居たる所に。有時又來て是非をいわせず。終に我身をひぢさげはしり行しが。刀の葉の木かやのしげりたる山のふもとに我を捨ておき。其身はいづ地ともなくきへうせぬといへば。又有人問ていわく。それは正しく剱山ぢごくとやらんにてあるべし。いかなる人やのぼりつらんといへば。菊こたへていわくさればとよ。おとこ女はいかほどゝいふ数かぎりなき其中に。たま〳〵法師なども。うちまじりて見ゆめるが。ある女のうつくしく。やさしげなるかほつきし。色よき小そでをうちはをり。少し谷尾をへだてたる向ひのかたの山ぞわにて。うちわさしかざし。ゑもしれぬ事をいふてまねく時。老たる若きおのこどもあるひは法師まじりに。心もうか〳〵しく。そらになりて。我さきにはしり行き。彼の女に近付んとあらそひ行に。林の切かぶさながらつるぎにて足をつんざき。あるひはゆん手め手の。木かやの葉にさわれば。はだへをやぶり。しゝむらをけづるまた空よりは風のそよふくに。剱の木の葉はたへずおちかゝつて。首をくだきなづきをとをすゆへ。五体より血を流す事いづみのわき出るごとく。道も木草も血しほにそみ。谷の流れもそのまゝ。あかねをひたせるに同じ。かくからくしてやふ〳〵行付くと見れば。あらぬ野山の刀の木の梢にうそぶき。さきのごとく。人をまねきたぶらかす。かやうに男は女にばかされ。おふなはおのこにたぶらかされてたがひに身を刄にかけ。かばねに血をそゝくを見れば。かはゆくもあり又おかしくも有しといへば。又問ていわく。さて其剱刄は。汝が身にはたゝざるや。其外には何事か有しといへば。菊こたへていわくさればにや彼つるぎ。我身にかつてあたらず。しげれる中をわけて行くに。道の木かやも外になびき空よりふる刄も。我が身にはかゝらず。すべていかなる故やらん。おそろしき事少もなかりき。さて其山を過て。びやう〴〵たる野原を行けば。向に當てけつかう成。門がまへの屋あり。番衆とおぼしき人よき衣装にて。あまた居られしに近付き。事のやうをたづねければ爰は極楽の東門と仰せられし。ゆかしさのまゝ。さしのぞきながめやれば。内より僧の有が出て我が手を取て引入れ。所〳〵をことわけていゝきかせ給ひしが中〻結構に奇麗なる事かたらんとするに言葉をしらず先地には白かねこがねなどの沙いさごを敷みて。所〳〵には。いろ〳〵にひかる玉などにて。垣をしわたし。さて其間〻に。さま〳〵のうへ木草花。うねなみよくうへそろへ。花も有実も有青葉も有紅葉もあり。つぎほにつぎ穂をかさね。ゑもいわぬ香ひかうばしき樹どもいくらと云数かぎりなし。さて其次には。たからの玉にて堤を築たる池の中に。蓮の花の色よく。赤く白く青く黄色に。まん〳〵と咲みだれたる花のうへに。はだへもすきとをりたる人のあそびたわむれ居られしなど。面白くうら山しく。我ももろ共にあそびたくこそ思ひけめさて其次には。大き成屋の門に入て見れば。弘經寺の佛殿などよりも中〳〵すぐれたるかまへにて。黄げさ黄衣をめされたる御僧達の。いくらともなく並居たまへるに。とり〳〵に名もしらぬかざり物共をならべたて。或は佛事作善などやうの所もあり。あるいひはだんぎ法會のていに見へたる所もあり。あるひは世にとうとげなる僧達のおゝく集り居て。何とも物をいわでもく〳〵として居られし座敷も有。あるひはかね太鼓笛尺八や。其外いろ〳〵の鳴物共。拍子をそろへて舞ひあそばるゝ座敷も有。此外いく間も有しかども爰にてたとふる物なきゆへに。つぶさには語られず。さてまた空よりいろ〳〵の花ふるゆへに。是はと思ひ見あげたれば塔とやらん殿とやらん。光りかゝやく屋作りの。雲のごとくに立並ぶ。其間〻のきれとには。いろどりなせるかけ橋を。かなたこなたへ引はへて。其上をわたる人〻の。かず〳〵袖をつらねて。行通ふ有様。あぶなげもなきていたらく月日よりもあきらかに。つらなるほしのごとくにて。かきりなき空の氣色。何とも〳〵詞にはのべられず。かやうにいつとなくこゝかしこを。見めぐれとも夜昼昏暁の差別もなく雨風雷電のさたもせず。惣して何に付てもせわ〳〵しき事なく世にたぐひなきゆたか成所にて。有しかとぞかたりける。又問ていわく其極楽にては。何をかてにはしけるぞやと。きくこたへていわく樹に成たるだんすのやう成ものを。あたへられしまゝ。たべたりと。又問ていわくその味はいか様にか有しと。きく答えへていわく。爰にてくらはぬ物なれば何ともことばには語られぬが。今に其気味は口のうちにのこりたり誠にたくさんに有しものを。いくらもひろひ來て。たれ〳〵にも一つあて成共。とらせんものをとわきまへもなくかたりけり。其中にさかしきものの有ていふやうは誠にごくらくの事は。阿弥陀如來因位のむかし。大慈大悲の真実知恵より。無量清浄不思議の境を巧み顕せる御事なれば。いかで汝が語りもつくさん。さて此方へは何として帰りけるぞと問ければ。菊答へていわく。去ば先の一人の御僧。我に仰せらるゝは。汝はいまだ爰へ來るものにはあらねども。异成故有てかりに此所へきたれり。今よりしやばに帰りなば。名を妙槃と付ひて魚鳥を喰はで。よく念佛申しかさねてこゝに來よ。此外あまたおもしろき所どもを見せなんぞ。かまへて本の在所に行き。こゝの事めたと人にかたるなとてじゆず一れんと錢百文とをくれられ。門の外へおくり出されし時。彼かさね此度は引かへ。うつくしき姿となり色よき小袖をきて。我に向ひ。かす〳〵に礼をのべて云やうわらわがかほどの位に成事。ひとへに汝がとくによれり今は汝を本の在所へ帰すなり。是よりさきは地獄海道にして。世におそろしき道すがらぞ。かまへてわきひらを見るな。物をいふ事なかれ。そこを過れば。白き道有。それまでは我おくるぞとて。あたりを見れば類ひなくけつかう成装束したる人。六人有が。御經かたひらをうりて居られしを一衣かいとり。是をかさねが我身に打はをり。そのわきに我をかいこみ。かならず目をふたぎ。いきをもあらくなせそといふて。足ばやに過る時わらわが思ふやう。いか成事やらん見てまし物をとそでの内よりかいまみてければ。さても〳〵すさましや。有所には人をたはらに入れ。よくくびり置き。つらばかりを出させ。はゞひろく。さきとがりもろはのついたる。柄のながき刀にて。づふ〳〵とつらぬけば。血けふりたつとひとしく。わつとなきさけぶ声。耳の底に通りて。今に其聲あるやうにおぼへたり。又有所には。人をあまたくろがねの臼に入れて。かみひげもそらさまにはへのぼり。牛のつらのごとく成ものどもが。大勢あつまりくろがねのきねにて。ゑい声出してつきはたけば。多くのからだ。手足五体もみぢんに成麦粉のごとくに成を。くろかねの箕にうつし。何か一口ものをいふて簸ければ。そくじに本の人となり。泪をながして居るも有。又有所を見れば。大き成池の中に。くろがねの湯の。くら〳〵とわきかへりたる兩方の山の岩のはなに。縄を引渡し。人のせなかにすりぬか俵ほど成石をせおわせ。其外つゞら椀櫃ふくろ荷桶の類ひまで。つむりにさゝへ肩にかけさせ彼の縄のうへを。いくらも〳〵追わたせば。よろめきながらやう〳〵中ば過るまで渡るかとみれば。ぼたり〳〵と。池の中におつるとひとしく。白くされたるかうべ。つがひばなれたる。しら骨ばかりわきかへり汀によるをまたおそろしきもの共が。鉄のぼうを以て彼ほね共をかきあつめ。何とかいふて一うち二うちうてばそのまゝもとの姿となり。なきさけんで居るも有。その外いろ〳〵の責ともを見侍りしが。思ひいづるも心うく。かたれば胸もふさがりて。さのみはことばに述られず。されども世にも希有とき責めの。かず〳〵多き其中にをかしくもあり。又いとおしくもありしは。ある僧の左右の足にかねのくさりをからげつけ。門ばしらのかさ木に引はたけてつなぎ置き。さかさまにぶらめかし。彼わきかへるねつ鉄を。柄のながき口のあるひしやくにて。後門よりつきこめば。腹の中に煮とをりて。へそのまわりむね喉目口鼻耳。てへんより。くろがねの湯の。ふり〳〵とわき出る時彼僧声をあげて。あらあつやたへがたやかゝる事の有べしと。かねて佛のときおかれしを知ながら。つくりし罪のくやしさよ〳〵と。さけぶ声とひとしく。くされごものおつるやうに。ほね〴〵ふし〴〵つぎめ〳〵皆はなれて。めそ〳〵と地におちつき。なをもへあがる有様。いとふしかりし事共なりと。泪ぐみてぞかたりける。聞居たるものともも倶に涙をながしけり。さて地獄海道を悉く行過ぎ。約束のごとく白き道に出たる時かさね我を脇よりかい出し。是より一人ゆけといゝてうせるが。いつしかわれは爰にふせり居たるに。人ゞ大勢あつまり。念佛回向したまひて。やれ怨灵はさりたるぞとて。たちさわがれし時成とぞ。思ひ出し〳〵。來る日も來る夜も寄合て。只此事のみにて有しか。いとめつらしき事共也さても此度菊が地獄極楽の物かたり。かれこれをといきわめらるれば。あるひは浄土の依正二報。五妙境界の快樂等。あるひは地獄の器界有情。三悪火坑の苦患等。其名をしらず。その事をわきまへずといへども。あるひはなれし村里の器によそへ。あるひは近き寺院の厳にたぐゑて。しどろもどろにかたりしをつたへ聞ば皆經論の実説に契ゑりとぞ。誠成かないんぐわ必然の理り恐るべし信すべし仏種は縁より生とあれば。此聞書あわれ廢悪修善のいんゑん共ならんかしと沙門受苦の所に至ては。恵心先徳往生要集の意を少〻書加へて。筆者〔某申殘壽〕罪障懺悔のため彼の菊が見し所の僧の呵責に因んて野僧が身に取て。破戒無慚。不浄説法。虚受信施放逸邪見の當果をのぶるゆへ恐〻名を記すものなり。仰願は此ものがたり一覧の人〻。彼墮獄の僧の業因いかにとならば。全く是他の事にあらず。筆者が罪科成と見取したまひて性具大悲の方便法施必ずあいまつものなり。
- 累が灵魂再來して菊に取付事
此比累が怨灵あらはれ。因果の理りを示し。与右衛門か恥辱ならびに村中のさわぎなりし所に。ほどなく他力本願の称名ゑかうによつて亡魂すみやかにさり人〻安堵の思ひをなすのみぎり又明る二月廿六日の早朝より。彼灵來て菊に取付。責る事前のごとし時に父も夫も大きにさわぎ。早〻名主年寄にかくと告れは。兩人おどろきすなはち彼か家に來て三郎左衛門問ていわく。汝かさねが怨灵なるが。すでに其方が望にまかせ菩提所の住持を請し。其外地下中打寄念佛をつとめ其上惣村のあわれみを以て五錢三錢の志をあわせ。一飯の斎を僧に施し。重苦抜済頓證菩提のゑかうすでに畢て聖灵得脱するゆへに菊まさに本復せり。今何の子細有てか妙林爰に來らんや。おそらくは累が灵魂にあらし狐狸の所以成るべしとあらゝかにいへば菊が苦痛たちまち止むで。起直りいふやう。いかに名主との。此間の念佛興行斎の善根。村中の志。慥に請取悦ひ入て候去ながら。仏果はいまだ成せず。その上一つの望有て來る事かくのごとしといへば。年寄問ていわく。汝実のかさねならば。心をしづめて能聞け。夫本願の称名は。一念十念の功徳によつて。いかなる三従五障の女人もすみやかに成仏し。其他八逆謗法無間墮獄の衆生も。必ず往生すと。智者学匠達の勧化にもたしかに聞傳へたり。しかるに先日一挺ぎりの念佛は。村中挙て异口同音に称名する事。幾千万といふその数を知らす。併是汝がためにゑかうす此上に何の不足有てかふたゝび來て菊をなやまさん。但し一つの願ひ有て來れりといふ。既に成佛得脱の所におゐて。娑婆の願ひ有べしとも覚ず能〻此理りをわきまへてすみやかに去れといへば。かさねこたへていわく庄右衛門殿今の教化。近比うけたまはり事甘心せられ候去ながら。先日きくにもことわるごとく。我地獄のくるしみを脱れ。位をすこしのぼる事。各〻念佛の徳によるゆへなり。しかれども成仏のいまだしき事は。よく案じても見たまへよ目連の神足那律の道眼。其他六通無碍の聖者達。直に來り直に見てすくひたまふすら。まぬかれがたきは墮獄の罪人なり。しかる所に念佛の功徳は能〻甚深微妙なればこそ各〻ごとき三毒具足の凡夫達の廻向心によつて。我既に地獄の責を脱れ。少し位をすゝむ事を得たりき。さて又望みといふは別義にあらず我がためにせきぶつ一躰建立して得させたまといへば名主がいわく。流轉をいとひ出離を願ふて。念仏を乞もとむるは其道理至極せり。今石佛の望みいさゝか以て心得られず。但し念佛の功徳より。石佛の利益すぐれたるゆへに。かくは願ふかとたつぬれば。かさねがいわくおろかにもとわせ給ふものかな。縦ひ百千の起立塔像も。もし功徳の淺深を論ぜば。何そ一念の称名に及ばんや。しかるに今石仏を乞もとむるにはいろ〳〵の子細有。先一つには村中の人〻昼夜を分たず。我を介抱し。其上大念佛を興行して我に与へたまふ報恩のため二には往來遠近の道俗。當村に來り彼の石佛を拝見して。因果の道理を信し。称名懺悔せば。是すなわち永き結縁利益と思ふ。三にはかゝる衆善の因縁により。廣く念佛の功徳を受て。すみやかに成仏得脱せん事をねかふゆへにふたゝび爰に來れりといへば。名主又問ていわく。後の二義はさもあらんか。初の一義につゐて。大きにふしんあり凡そ恩を報ずといふは。親の恩国主の恩。主の恩。衆生の恩是皆報すべき重恩なり。しかるに汝來てきくを責れば。親の与右衛門甚以めいわくす。さてこそきくは大不孝ものよ是はこれ汝が与ふる不孝なれば親の報恩にそむけり次に国主の恩にそむく事は。一夫耕ざれば其国飢を受け。一婦織ざれば其国寒を受る。されば民一人にても飢寒の憂を蒙る事。尤國主のいたむ所也しかるに汝菊をなやますゆへに。村中の男女紡績〔うみつむく〕のいとなみをわすれ。稼穡〔うへかる〕のはたらきをとゞめて。昼夜此事に隙をついやす。豈是飢寒のもとひにあらずや。さあらば国主の恩にそむかん事必せり。又衆生の恩にそむく事は。汝來て菊を責る故に。我〻既に苦労すかくのごとく。他人に苦をかくるを以て。衆生恩を報ずとせんや。上み件の三恩正にそむけり。汝若主人あらば不忠ならん事疑ひなし。さては何を以てか。報恩のしるべとせん。此道理を聞分あらぬ願ひをふりすて。只一筋に極楽へ参らんと思ひ。すみやかに爰をはなれよとぞ教へける。かさねにつこと打わらひて云様は。誠にそなたは。他在所の人なれども。おさなきより器用なる仁と聞及び。しうとめ御せんのこい婿になり。當村の名主をもたるゝ甲斐ありて。只今一〻の御教化実に以て聞事なり。去ながら其道理の趣く所。たゞ當前の少利をとつて幽遠廣博なる。深妙功徳の大報恩をかつて以てわきまへたまわず。我が報恩の所存を。よく〳〵聞せられて。早〻石佛を建て。其上に念佛供養をとげられ。我に手向たまへ。其故は若此石仏じやうじゆして我ねがひのかなふならば。菊は亡母に孝をたて。其縁にもよほされ。与右衛門が後世をもたすくならば。これ真実の報恩なるべし。扨當村の人〻此しるしを見るごとに。我事を思ひ出し。一返の念仏をも。となへたまふものならば。みづから大利を得たまふべしその上此石佛のあらんかぎりは。當村の子〻孫〻是ぞ因果をあらはす證拠よと見る時は。与右衛門ごときのあく人も。一念其心を改め。善心におもむかば。一念発起菩提心勝於造立百千塔豈是天下の重寶ならずや。しからば国主の大報恩。是に過たる事あらし。さはいへどかゝる廣大無邊なる。佛法の深意は。各〻こときの小智小見にては。聞ても中〻其理を信する事あたわじさあらばたち帰て當前の利を見よ。すでに此かさね親のゆづりを得て。持來る田畑七石目あり。此たはたは村中一番の上田なりし所に。与右衛門一念のあく心によつて。われを害せし故。先度も云ことく廿六年以來不作して。いま朝夕を送るにまづしく。餘寒甚しき春の空に。只一人なるむすめのわづらふにすら。くされかたびら一重のていたらく。是見たまへ一念の悪心にて。ながく飢寒のうれひをかふむるにあらずや。さて又菊に不孝の罪をあたふると云事。是猶与右衛門が自業自得のむくひなれば。あながち菊が不孝にあらず。そのうへ与右衛門が當來のおもき業を。今此現世に苦をうけて。少もつくなふものならは。轉重輕受のいわれゆへ。菊はかへつて親の苦をすくふ孝〻の子なるべし。又各〻も子孫のためをおぼしめさば。當分の苦労をかへり見ず。はや〳〵我が願ひにまかせ。石佛をたてゝたび候へといゝければ。庄右衛門がいふやうは。汝がいふ所の道理。詞は至極に聞ゆれ共。願ふ所はかなひがたき望也。凡起立塔像の事善を修するには。相應の財産なくては成就せず。与右衛門が家まづしくして少分のたくわへなき事は。汝が知て今いふ所也。此上は名主殿の下知を以て。㝡前のとをり村中のこらず。五錢十錢のさしつらぬきをなさるゝとも。人のこゝろざし不同にしてあるるひはおしみあるひは腹たち。あるひはめいわくに思ふものあらば。是清浄の善にあらず。しからば汝が遠き慮も。おそらくは相違せんか。只おなじくはまづはやく成仏して。一切滿足の位を得。思ひのままに報恩し心にまかせて人をも導びけ。自證もいまた埓あかて。いわれざる報恩化他の願望。せんなし〳〵。といひければ。怨灵こたへていわく。其事よ庄右衛門どの自證とくだつのためにこそ。かゝる化他の願ひもすれ。且又貧者のかなわぬ望とは。心得られぬ仰かな。与右衛門こそひんじやなれ。かさねは正しく七石目の田畑ありこれを代替。石佛領になしてたべといふ時。庄右衛門息をもつがせずさてこそよかさねどの。ほうおんしやとくは違ひたり。汝已に地獄をのがれ出て位を増進する事。ひとへに菊が恩ならずや。しからば菊をたすけおき。衣食を与へめぐむならば。報恩ともいゝつべし。その上田畑資財は本より天地の物にして。定れる主なし。時にしたがつてかりに名付ける我物なれば。汝が存生の時は汝が物。今は菊が物なり。しかるにこれを沽却して汝が用所につかはん事。是に過たる横道なし。かたはらいたき望み事やと。あざわらつてぞ教化しける。其時怨灵気色かわつて。あゝ六ヶ敷のりくつあらそひや。なにともいへ我願のかなわぬ内は。こらへはせぬぞと云聲の下よりも。あわふき出し目を見はり。手あしをもがき。五たいをせめ。聞絶顛倒の有さまは。すさまじかりける次第なり。時に名主見るに忍びず。しばらく〳〵苦痛をやめよ。汝が望にまかせ。石佛をたてゝ与たふべし。此間三海道に。石佛の如意輪像。二尺あまりと見えたるが其領をたづぬるに。金子弐分とかや答へたり。かほどなるにても堪忍するやととひければ。かさねこたへていふやう。大小に望みなし。只はやく立て得させたまへと云時。常使を呼寄せ。直に累が見る所にて。件の石塔をあつらへ畢て。さては汝が望み足ぬ。すみやかにされといへば。灵魂がいわく石佛は外の望み。我か本意は念佛の功徳をうけて成仏せんと思ふなり。急ぎ念佛を興行し。我を極楽へ送りたまへ。さなくはいづくへも行所なしといゝおわつて本のごとくせめければ。名主年寄惣談して此上は村中へふれ廻し。一夜念佛興行して。大勢の男女异口同音に。真実にゑかうして。かさねが菩提をとむらはんといふ時。一同に云けるは名主年寄へ申す。今夜村中打寄一夜の大念佛を興行し。かさねに手向たまはゞ。かれが成佛。疑ひなし。しかるに彼者廿六年流轉して。冥途の事をよく知つらんなれば。我〻が親兄弟の死果生所をも。たつね聞度侍るとあれば名主聞てよくこそいゝたれ此事。我等も聞度候へば。今日はもはや日も暮ぬ。明日早〻寄合んと各〻約諾相究。みな我が屋にそ帰りける
- 羽生村の者とも親兄弟の後生をたつぬる事
去ほどに二月廿七日。ひがんの入にあたりたる辰の上刻より村中の男女とも。与右衛門が家に充満し。四方のかこひを引はらひ。見物すもうの場のことく。前後左右に打こぞり亡魂の生所をたづねんと。一〻次第の問答は。前代未聞の珍事なり。其時名主三郎左衛門すゝみ出て。あわふき居たる菊にむかひ。かさね〳〵とよばわれば。菊が苦痛たちまちしづまり。起きなをりひざまついてぞ居たりける。さて名主のいふやうは。今日村中あつまる事別義にあらず昨晩やくそくの通り。今夕一夜別事の念佛を興行し。すみやかに汝をうかべん。しかるに廿六年このかた。當村の男女共。冥途におもむくあまたあり。だん〳〵にたつぬべしくわしくかたりて聞せよといへば。灵魂答ていわく。地獄道も数おゝく。其外四生の九界無邊なれば。趣く衆生もむりやうなり。何そ是をこと〴〵く存じ申さんや。しかれとも同国同所のよしみなるか。當村の人〻あらましは覚へたり。なを其中に知らぬもあらんかといえは。名主がいわく本より知らぬ人は其分。知りたるばかり答へよ。まづそれがしが。しうとふうふの人はいかにとたづぬれは。かさねこたへていわく。かまへて腹ばしたゝせたまふな御兩人ながらかやう〳〵の科にて。そこ〳〵の地獄におわすと云。次に年寄問へば此兩親もそのとがこのとがゆへかなたこなたの地獄と答ふ次にとへば是も地獄又とへばそれも地獄とかくのごとく大方地獄〻〻と答る中に。ある若き男腹を立て。おのれいつわりをたくみ出し。人〻の親を。みなぢごくの罪人といふて。子共のつらをよごす事きくわいなり。よしみな〳〵はともかくもあれ。我が親におゐては。かくれなき善人なり。かならず墮獄が定ならば。其科を出すへし。證拠もなきそらごとをいわば。おのれ聖灵口ひつさくぞといかりける。かさねがこたへていわく。まづ〳〵しづまりたまへさるほどに。今朝より腹ばし立なと理りおく。されば汝が親にかきらず。地獄へおつるほどの者。罪の證拠たゞしからぬはなきぞとよ。取分て㝡前より。我こたふる所の。罪人達のつみとが。みなこと〴〵く明白に。此座中にも知る人有て。互にそれぞとうちうなづく。本より汝が父にも。正しき罪の證拠あり。その人この人よく是をしれりとて。とがの品〻云あらはす時。さてはさにこそとて引退くもあり。惣じてこの日。累が答る墮獄の者罪障のしな〳〵。其座に有し人を。證人にとりて。地獄の住所。受苦の数〻。あきらかに是を語るといへども。終日のもんどうなれば。具に覚へたる人なし。此外少〻かたり傳ふる事ありしかども。たゞその中に極善極悪の二人を出して。余はこと〴〵く是を略す。さてある若き者出て問ひける時かさねひしといきつまり。汝が親は知らずといへば。かのものいと腹だちて云やう。口おしき事かな。これほど村中の人〻。みな〳〵親の生所をとへば。其責の有さままで。今見るやうに答ふる所に。我か父一人しらぬ事やはあるべき。いんきよ閑居の身となりて。久しく地下へもまじわらず。人かずならでおわりしを。あなどりかくいふと覚へたり。村中一同のせんさくに。贔屓偏頗はさせぬぞよ是非我が親のぢごくをば。聞ぬかぎりはゆるさぬぞとまなこにかどをたてひぢをはりてぞいかりける。かさね聞て。おかしきものゝいひやうかな。人はみなさだまつて地ごくへはかりゆくものにあらず。いろ〳〵のゆき所あり汝が父はよそへこそゆきつらめ。地ごくの中には居らぬと云に。かの男いまだ腹をすへかねてたとへいづくにてもあれかし。かほどおゝき人〻の。親の生所をしる中に。それがし一人聞ずしてあるべきか。是非〳〵かたれとつめかけたり。其時かさねしばし案して云やう。汝が父は大かた。ごくらくに在るべし。其ゆへは其方が親の死たる年月と。其日限をかんかふるに。今日極楽まいりあるといふて。地獄中にみち〳〵たる。當村の罪人ども。昼夜六度のかしやくを。一日一夜ゆるされたりといふに付き。後にそのものゝ事を尋ぬれば。念佛杢之介と聞へて。昼夜わらなわをよりながら。念仏をひやうしとして。年たけゐんきよの身となりては。朝ごとの送り膳を。中半さき分けちやわんに入れおき。たくはつの沙門にほどこすを。久しき行とし。念佛さうぞくにておはりたりとぞ聞へける。さてまた年寄庄右衛門問ていわく。汝今朝よりこのかた。答る所の罪人とも悪の輕重ぢこくの在所。そのせめの品〻までかくあきらかにしる事は。こと〴〵く其所へ行き。其人のありさまを直に見ていへるかと聞きければ。かさねこたへていわく。いなとよさにはあらず。我が住家は地ごくの入口。とうくわつといふ所に在し故墮獄の罪人をこと〴〵く見聞するなり。そのゆへはまづはじめてぢごくへおつるものをは。火の車に乗て。おつる獄の名をかきしるしたる旗をさゝせ。牛頭馬頭あたりを拂ひ。高声によばわり。つれ行おとを聞ばあるひは此罪人何なる国のなにがしといふもの。かやう〳〵の科により。只今黒縄地獄。あるひは衆合地ごく。あるひはせうねつぢごくなどゝ。いち〳〵ことわり行ゆへに。すべて八大ぢごくへおち來るもの。みな我がとう
くわつにて見聞すれども日〻夜〻引もきらずとをる
事なれば。百分が一つも覚る事あたはず。しかれども同し
里に住し。なじみにて有やらん。當村の罪人。大かたは覚へ
たり。又かしやくのしな〳〵は。互にうさをかたりあひ。或は
あぼうらせつども。人をさいなむことばのはしにて。おのづから
聞しりたりといふとき。又あるものとふていわく。我が父は
十六年以前何月何日に死せしと。いゝもきらせずそれは
無間とこたへたり。問者せきめんして。汝我がおやの人にす
ぐれてあたる罪のあれば。むけんとは告るそ。あまりに
口の聞きすぎてそさうなるいゝ事や。とがの次第を一〻に
かたれきかんとのゝしりけり。かさねこたへていふやう。されば
とよ此事は。汝が親のさんげめつざい。むけんの苦を
かろめんため。此とがつぶさにかたるべし聞傳ふる人〻は。一
反の念佛をもかならずゑかうしたまふべしと懇にことはり。
さる比此弘經寺に利山和尚と聞へし能化。御住職
の時代に殘雪と申所化。相馬村にてたくはつし。九月下
旬の比をひ。安居の領を背負て。弘經寺さして
帰らるゝを汝が親見すまして。さゝはらよりはしりいで。
かの僧物をはぎとれば。やう〳〵ころも一ゑにて。ふるひ〳〵
逃られしを。たれ〳〵が見たるぞや。此一つの罪にても。三宝
物のぬす人なれば無間の業はまぬかれず。それのみならず是成名主との。よき若衆にてありし比。しうとめ
御ぜんのいとおしみ。あわせをぬふてきせんとて。嶋木
綿を手折にし。さらしてほしおかれけるを汝が親ぬすみ
とる。是をばたれ〳〵見しかども。若告たらば汝が親。火を
つけそふなるふぜいゆへしらぬよしにて居けるとき
名主どの腹を立て。村中をやさがしせんと有ければ
そのおき所なきまゝに。名主のうらのみぞぼりへひ
そかにふみこみおきたるが。其後日でり打つゞゐて。水
の淺瀬にかの木綿。五寸ばかり見へたるを。引あげて
見られければ。みなぼろ〳〵とくさりたり。是はむら
中に。かくれなし。さてその外に人の知らぬつみとが。い
くらといふ数かぎりなしと。又もいわんとする所に名主大
声あげて。みな〳〵たわことせんなし。各〻も聞べからず
日も暮るに。念佛いざやはじめんとて。法蔵寺を請
じ。一夜別時を開闢する時。きくが苦痛少しやみけれ
ば。人〻悦ひきくよかさねは帰れりやと尋ぬるに。きくが
いわくいなとよそのまゝ我がむねに居たりと答ふ。かく
のごとく折〳〵問ふに。其夜中は終にさらず。夜も明
ゑかうの時にいたつて。きくがいふやうかさねはいづくへか行
きし。見へずといゝしが。しばらくありて又來りわきにそふ
て居るといへば。法蔵寺も名主年寄も。皆〻あきれ
て居られたる内に。麁菜の斎を出しけれども。三人目と目を見合せ。はし取あくべきやうもなく。世にもぶきやう
げなる時。きくふとかうべをもたげ。あれ〳〵かさねは出て
ゆくはといゝて。そのまゝ起なをり。気色快気してけれ
ば。法蔵寺も二人の俗も。こゝろよく斎を行ひ悦
びいさんでみな〳〵我が屋に帰らるれば。きくが氣色
も弥本復して。杖にすがり村中の子共を引つれ。菩
提所法蔵寺は申に及ばす。其外近里の寺道場へ。日〻
に参詣し。いつの間にならひ得たりけん。念佛鉦鼓の
ほどひやうし。あまりとうとく聞へければ人〻不審し
あへるは。誠に浄土の佛ぼさつ。尼になれとのおゝせに
て。其守護にもやあるらんと。皆〻きいのおもひをなし
男女老少あつまり。此きくを先達にて。ひがん中の念
佛。隣郷他郷にひゞきわたる。其外家〻にて修る事
は。昼夜昏暁の差別なく。思ひ〳〵の佛事作善心
心の法事供養。日を追てさかんなれば諸人得道
の能因縁とぞ聞へける
死霊解脱物語聞書下
- 累が灵亦來る事 附名主後悔之事
去る二月廿八日斎の座席にて。累が灵魂忽はなれ。
菊本復する故に。聖霊得脱疑ひなしと。人〻安堵
の思ひをなし。みな〳〵信心歓喜する所に。亦明る三月
十日の早朝より。累が灵來て。菊を責ること例のごとし。
時に父も夫もあわてふためき早〻名主年寄にかくと告れ
ば。兩人おどろき則來て。菊に向ひ累は何くに在る
ぞ。亦何として來るといへば。菊がいわく約束の石仏を
もいまだ立てず。其上我に成佛をも遂させず。大
勢打寄僞りを構へて亡者をたぶらかすといふて我をせめ申といへば名主聞もあへず。是は思ひもよらぬ事
哉。かさね能聞け。其石佛は明後十二日には。かならず
出來する故に。我〻昨日弘經寺方丈様へ罷出。石塔
開眼の事。兩役者を以て申上げる所に。方丈の仰せ
には。その石佛の因縁具に聞傳へたり。出來次第に持
來れ。かならず我開眼せんと。直に仰せを蒙りし上は。
縦ひ汝が心は變化して。石塔望は止むとても。方丈の
御意重ければ。是非明後日は立る也。かほど决定し
たる事共を。汝知らぬ事あらじ。よし〳〵是は菊がから
だの有故にゑ知れぬ者の寄添て。いろ〳〵の難題
を懸け。所の者に迷惑させんためなるへし。此上は
慈悲も善事も詮なし。只其儘に捨置き。かたく
此事取持べからずと。名主年寄大きに立腹して。各
〳〵家に帰れば。与右衛門も金五郎も。苦しむ菊をたゞ
ひとり。其儘家に捨置き。野山のかせぎに出たるは。
せんかたつきたるしわざなり。かゝりける所に弘經寺の
若黨に権兵衛といふ男。山廻の次てに。名主が館に行
けるが。三郎左衛門常よりも顔色青ざめて物あんじ姿
なり。権兵衛其故を問ければ。名主がいわく。さればこそ
権兵衛殿。かゝる難義成事また今朝より出きたれ
其故は昨日貴方も聞給ふごとく。累が石佛十二日に
は出來する故に。御開眼の訴訟。首尾能かなふ所に彼累今朝より來て。また菊を責る故。其子細を尋
ぬれば。石佛をも立てず。我が本意をも叶へすとて。ひ
たすら菊を責候也。此上は是非なき事とて。すて置
帰り候へとも。つく〳〵此事を案じ候に。まづさし當明後日。
石佛出來仕り。方丈様へ持参の上にて。何とか申上べき
すでに此間地下中打寄。一夜別時の念仏にて。聖灵
得脱仕ると。昨日申上げたる所に。また來り候とは。ことの
始終をも見さだめず。あまりそさうなる申事と。思召
もいかゞなり。そのうへ此灵付しよりこのかた。村中の者共
親兄弟の悪事をかたられ。隣郷他郷の聞所證拠
たゞしきはぢをさらす。しかれども今までは。死さりたる
ものゝ悪事なれば。子孫の面をよごす分にして。當時
させる難義なし。此うへにまたいかなる悪事をかいゝ出し
生たるものゝ身のうへ地頭代官へももれ聞え。一〻詮義
に及ぶならば。村中滅亡のもとひならんもいさしらずせん
なき事に懸り合村中へも苦労をかけ。我等も難
義を仕ると。くどきたてゝぞ後悔す。権兵衛つぶさに
此事を聞居けるが。名主が後悔遠慮の段。一〻道
理至極して。あいさつも出がたきほどなりしが。やう〳〵に
もてなし。名主が所を立出て。すぐに菊が家に行き。
そのありさまを見てあれば。たゞ一人あをさまにたをれ
居て。苦痛する事例のごとし。権兵衛も餘りふびんに思ひければ。庭に立ながら名主が今のものがたり。石佛
出來あらましまで。證拠たゝしく云聞すれども。いつわる
物おと時〻返答して苦痛はさらに止ざれば。権兵衛
もあきれつゝ。打捨て寺にそ帰りける
- 祐天和尚累を勧化し給ふ事
去程に権兵衛弘經寺に帰る道すがら思ふやう。誠
や祐天和尚かの累が怨灵のありさま。直に見て
ましと仰られし。よき折から人もなきに御供仕見
参らせんと思ひ。帰りける所に。寺の門外に意専
教傳殘應などゝ聞えし。所化衆五六人並居給
るに。かくといへばよくこそ知らせたれ。祐天和尚の御
出あらば我〳〵も行んとて。みな〳〵用意をぞせられ
ける。さて権兵衛は祐天和尚の寮に行き。かやう〳〵
の次第にて。さいわひ只今見る人も御座なく候に。
門前に居られし所化衆をも。御つれあそばし。羽生へ
御越なさるべうもやあらんといへば。和尚聞もあへた
まわず。よくこそ告たれいざ行へしとて。既に出んと
したまひしが。まてしばしと案じたまひて仰らるゝは
いかなる八獄の罪人も。時機相應の願力を仰ぎ
一心に頼まんに。うかまずといふ事あるべからず。然る所
に。再三念佛のくどくをうけて。得脱したる灵魂。たち
帰り〳〵取付事は。何様石仏ばかりの願ひならず。外に子細の有と見へたり。若又外道天魔の障碍か。
そのゆへは羽生村の者共。たま〳〵因果のことはりを
わきまへ。菩提の道におもむくを。さゑんとて來れ
るか。さなくは狐狸のしわざにて。おゝくの人をたぶ
らかさんために。取つくにもやあらんに。せんなき事に
かゝりあひ。我が一分はともかくも。師匠の名までくだし
なば。宗門の瑕瑾なり。只そのまゝにすておき。所化
共も行べからずと。貞訓を加へたまへば権兵衛も
尤至極して。爾者所化衆をも留申さんとて。門外
さして出て行く。あとにて和尚おぼしめすは。既に
此事は石塔開眼まで。方丈へ訴へ。其領定有上は
縦ひ我〻捨置とも。終には弘經寺が苦労に成べ
き事共也。そのうへ権兵衛がはなしのてい。村中の難
義此事に究るとあれば。いとふびんの次第なり。
我行て吊はん。累が灵魂ならばいふに及はず。其
外天魔波旬のわざ。又は魑魅魍魎の所以にも
せよ。大願業力の本誓諸佛護念の加被力。一代
經巻の金文虚しからじ。其上和漢兩朝の諸典
に載る所。いか成三障四魔をもたゞちにしりぞけ。
順次得脱の證拠数多あり。幸成哉時機相應の他力
本願。佛力法力。傳授力。争以てしるしなからん。但し今
まで兩度の念仏にて。いまた埓あかで來る事。恐は疑心名利の失有て。吊ふ人のあやまりならんか。我佛
説に眼をさらし。諸人にこれを教ふといへども。皆經論
の傳説にて。直に現證を顕す事なし。善哉やこの
次てに。經巻陀羅尼の徳をもためし。そのうへには
我宗秘賾の。本願念仏の功徳をもこゝろみんもし
それ持經密呪のしるべもなく。また證誠の実言
虚して。称名の大利も顕はれず。菊が苦痛もやま
ずんば。二度三衣は着せじものをと。ひかふる衆をふり
すて。守り本尊懐中し。行脚衣取て打かけ。門外
さして出給ふは。常の人とは見えずとぞ。さて門前に
居られたる。衆僧に向て宣ふは六人は帰り。権兵衛
一人は。我を案内して累が所につれ行けとあれば。六
僧のいわく。我〻も御供申行んといふに。和尚のたま
わく。いなとよ自分はふかき所存有故に覚悟して
行也。汝等は止まれとあれは。意専のいわく。貴僧は
何とも覚悟して行たまへ。我〻は只見物にまからん
といわれしを。和尚打ほゝゑみ給ひ。尤〻いざさらば
とて。以上八人の連衆にて。羽生村さして行たまふ
いそぐにほどなく行つき。彼家を見たまへば。茅茨
くづれては。日月霜露ももるべく垣壁破れては
狼狗嵐風も凌ぎがたきに。土間にはおとるふるむし
ろの。目ごとにしげき蚤蝨。尻ざしすべきやうもなく。各〻すそをつまどり。あとやまくらにたゝずみて。菊が苦
痛を見たまへば。のみしらみのおそれもなく。けがれ不
浄もわすられて。みな〳〵座にぞつき給ふ。扨導師
枕に近寄たまへば。何とかしたりけん。菊が苦痛忽
やみ。大息つゐてぞ居たりける。時に和尚問たまわく
汝は菊か。累なるかと。病人答へ云やう。わらわは菊
で御座有が。累は胸にのりかゝつて。我がつらをながめ
居申と。和尚又問たまわく。いか様にして汝を責るや
と。菊がいわく。水と沙とをくれて。息をつがせ申さぬと。
和尚又問ひたまわく。累はなんといふて。左のごとくせむ
るぞやと。菊がいわくはやくたすけよ〳〵といふて責
申と。いとあわれなる声根にてたえ〴〵しくぞ答へける
其時和尚聞もあへたまわず。今さらば各〻。年來所持
の經陀羅尼。かゝる時の所用ぞと。まづ阿弥陀經三
巻。中聲に讀誦し。廻向已て。扨累はと問給へは。菊
がいわく。そのまゝ胸に居申と。次に四誓の偈文三反
誦じ。ゑこうして又問たまへば。今度も同じやうにぞ
答へける。扨其次に心經三反誦じ已て。前のごとく尋ね
たまへば菊がいわく。さて〳〵くどき問ごとや。それさまたち
の目にはかゝり申さぬか。それほどそれよ。我胸にのりかゝり
左右の手をとらへて。つらを詠めて居るものをといふ
時。和尚又すきまあらせず。光明真言七反くり。隨求陀羅尼七反みてゝ。度ごとに右のことく問たまふに。いつ
も同邊にぞ答へける。其時和尚六人の衆僧に向て
のたまわく。是見たまへよかた〳〵。今誦する所の經陀
羅尼は。一代顕密の中におゐて。何れも甚深微妙な
れ共。時機不相應なる故か。少分も顕益なし。此上は
我宗の深秘。超世別願の称名ぞ。我に随て唱へよ
と。六字づめの念佛。七人一同の中音にて。半時ばかり
唱へ畢て。さて累はと問たまへば。また右のごとくに答へ
けり。其時和尚興をさまし前後をかへり見たまへば
。いつのほどより集りけん。てん手に行燈ともしつれ。村
中の者ども。稲麻竹葦と並居たるが。一人〳〵和尚
に向ひ。何たれそれがしはこれと。一〻名字をなのり。様〻
時宜を述る事。いとかまびすしく聞へければ。和尚いら
つてのたまはく。あなかしがまし人〻今此所にして汝等が
名字を聞てせんなし。只其許を分けよ。我れ用事
を弁するにとてたちたまへば。ひぢをたをめ座をそ
ばだて。おめ〳〵しくぞ通しける。和尚すなはち外に
出て。意地の領解を述られしは。物すさましくぞ聞
ける。其詞にいわく。十劫正覚の阿弥陀佛。天眼天耳
の通を以て。我がいふ事をよく聞れよ。五劫思惟の
善巧にて。超世別願の名を顕し。極重悪人。無他
方便。唯称名字。必生我界の本願は。たれがためにちかひけるそや。また常在灵山の釈迦瞿曇も。耳を
そばたてたしかに聞け。弥陀の願意を顕すとて。是為
甚難の説を演べ。我見是利のそらごとは。何の利
益を見けるぞや。それさへ有に。十方恒沙の諸佛まで
廣長舌相の実言は。何を信ぜよとの證誠そや。かゝ
る不実なる佛教共が世に在るゆへ。あらぬそらごとの
口まねし。誠の時に至ては現證少しもなきゆへに。か
ほどの大場て恥辱に及ぶ口をしや。但し此方にあや
まり有て。そのりやく顕れずんば。佛をめり法を譏る
急ひで守護神をつかはし。只今我身をけさくべし。それ
さなき物ならば我爰にてげんぞくし外道の法を学び
て佛法を破滅せんぞと。高聲に呼わりたけつて。本の
座敷になをり給ふ時は。いかなる怨灵執對人も足をた
むべきとは見へざりけり。されども累はと問給ふに。又もとのご
とく答る時。和尚きつと思ひ付たまふは実に〳〵われら
あやまりたり。その當人のなき時こそ我〻ばかりの称
名廻向も。薫發直出の理にかなわめ。既に罪人爰に
在り。彼にとなへさせて爾るべし。是ぞ観經に説所の
十悪五逆のざい人。臨終知識の教化に値ひ。一声十念
の功により决定往生と見へたるは。こゝの事ぞとおもひ
きわめ。菊に向てのたまふは。汝我ことばにしたがひ十
たび。念佛をとなふべしとあれば。菊がいわく。いなとよさやうの事いわんとすれば。累我口をおさへとなへさせず
といふ時。左右にひかへたる百姓共。ことはをそろへていふやう。
それは御無用に候。その者念佛する事かなわぬ子細
候。いつぞやも來りし時。是成三郎左衛門。今のごとくにすゝめ
られ候へば。累が申やう。おろか成云事や。獄中にて念仏が
申さるゝ物ならば。誰の罪人が地獄にして劫数をへんと
申候と。いゝもはてさせず和尚いらつてのたまわく。しづま
れ〳〵汝等。口のさかしきに。其事も我よく聞けり。そ
れはよな。累來て菊が身に。直に入替りしゆへにこそ
唱ふる事かなわざらめ。今はしからず。累はすでに別に
居て。我に向ひものをいふは菊なり。しかれば累が名
代に。菊にとなへさするぞとのたまへば。みな尤とうけに
けり。さて菊に向ひ。かくとのたまへば。菊がいわく。何と仰ら
れても。念仏となへんとすれば。息ぐるしくてといふとき。
和尚さては累が灵魂にあらず狐狸のしわざなり
そのゆへは実のかさねが霊ならば。菊が唱ふる念仏にて
己れが成佛せん事のうれしさに。すゝめてもとなへさすべき
が。おさゆるはくせものなり。所詮は菊かからだのある
ゆへに。ゑ知れぬものゝ寄そひて。村中にも難義をかけ。
我〻にも恥辱をあたゑんとするぞ。よし此者を我に
くれよ。たち所にせめころし。我も爰にていかにもなり。萬
人の苦労をやめんとのたまひて。かしらかみを引のばし。弓手にくる〳〵打まとひ。首を取て引あげたまふ時。菊はわなゝく
聲を出し。あゝとなゑん〳〵といふ時。和尚のいわくさては累が
しかととなへよといふかと聞給へば。菊答て中〳〵さ申といふ故
に。爾はとてかみふりほどき手をゆるし合掌叉手して十念
を授け給へば。一〳〵に受おわんぬ。扨累はと問たまへば。菊がいわく
只今我が胸よりおりて。右の手を取わきに侍ると。又十念を
授けて問給へは。今爰を去て窓かうしに手をうちかけ。
うしろ向ひてたてるといふ。また十念をさづけて問たまへ
ば。その時菊起きなおり。四方上下を見めぐらし。
よにもうれしげなるかほばせにて。累はもはや見え申
さぬといへば。其時座中の者共。皆一同に聲をあげ。近比御手
からと云時。又菊いとわびしき音根を出し。それよ〳〵それさま
のうしろへ。累がまた來る物をと云う時。和尚はやくも心へ
たまひ。守り本尊を取出し。扉を開き菊に指向けて
累がつらはかやう成しか。と問たまへば。菊がいわくいなと
よかほをば見ざりしかといふて。のびあがり。あなたこなた
を見廻し。わかれいづちへか行きけん。たちまち見へずと
いふ時。和尚又菊に十念を授けたまひ。近所より叩かね
を取よせ念佛しばらく修め。廻向して帰らんとしたまひ
しが。名主年寄兩人に向て宣ふは。此灵魂のさり
やう。いささか心得がたき所有。併実に累が灵魂なら
は、もはや二度來るまじ。若又狐狸のわざならば。また來る事も有べきか。そのやうだいを見たく思ふに。こよひ一
夜番をすへて。替る事も有ならば。早〻我に知らせ
てたべと有ければ。名主年寄畏て。我〻兩人直に罷
有らん。御心易く思召とかたく領定仕れば。悦びいさん
で和尚を始め。以上八人の人〻。皆〻寺へぞ帰られける。
是時いかなる日ぞや。寛文十二年三月十日の夜。亥の
刻ばかりに。累が廿六年の怨執。悉く散じ。生死
得脱の本懐を達せし事。併是本願横帋をさくの
利益。只恐は决定信心の導師の手にあらんのみ
- 菊人〻の憐を蒙る事
去程に祐天和尚。餘りの事のうれしさに。仮寝の夢も結
びたまはず。まだ夜ふかきに寮をたち。惣門さして出給ふ
門番あやしみ夜もいまだ明ざるに。いづ地へかおはしますと
いへば和尚のたまわく。我は羽生へ行なり。夜中に何
共左右やなかりしかと問たまへば。門守がいわくされば夜前
の仰により。随分心懸待候へ共。いまに何のたよりも御座
なく候。羽生への道すがら。山狗もいで申さん。それがしも御供
仕らんとぞ申ける。和尚のたまはく汝をつれゆけば跡の
用心おぼつかなし。とかふせば夜も明なんに。行さきは別義
あらじ。かたく門を守り居れとて。只一人すご〳〵と羽生
村に行着件の所を見たまへば。菊を始め二人のばん
衆前後もしらず臥して有。和尚立ながら高聲に十念したまへば。二人の者目をさまし。是は御出候かとて
おきなおる時。和尚のたまわく。各〳〵は何のための番
ぞや。いねたるなと仰せらるれば。二人の者申やう。いかでし
ばしもやすみ申さん。宵のまゝにて菊も正躰なくいね申
候。其外何のかわたりたる義も御座なく。夜もいまだ明
やらず候まゝ。しばしやすらひ御左右も申さまじなど。かれこれ
いふ内に。菊も目さましうづくまり。ぼうぜんたるていなり
和尚其有様を見たまへは。嵐も寒きあけがたの。内も
さながらそと成家に。かきかたびらのつゞれひとへ。目も
當てられぬていたらく。縦ひ死灵ものゝけははなれたり共
寒気はだへをとをすならば。何とて命のつゞくべき
と思しめし。名主年寄を恥しめ。各〻は餘り心づきなし。
いかで此菊に。古着ひとへはきせたまわぬ。かれが夫はいづく
に在ぞとよびたまへば。金五郎よろをい出て。古むしろ
を打はたき。菊がうへゝおゝはんとすれば。菊がいわくいや
とよおもしきすべからずといふ時。名主年寄申すやうは
そのぶんはたつて御苦労になさるまじ。所のものゝならひ
にて生れなから。みなかくのことしといへは。和尚のたま
わくそれは達者にはたらくものゝ事よ此女はまさしく
正月はしめより煩付。ものもくらはでやせおとろへたるもの
なれば。とにかくに各〳〵が。めぐみなくてはそだつまじ
万事頼むとのたまへば。二人の者畏て此上は。随分見づぎ申べしと。ことうけすれば。其時和尚もきげんよく
急ぎ寺に帰りつゝ。すぐに方丈へ行たまひ。納所經傳
に近付。夜前の灵魂はいよ〳〵去。菊は本復したれども
衣食倶に貧しければ。命をさそふるたよりなし。爾るに
かれを存命さするならば。多くの人の化益なるへし。なに
とぞ命を扶けたく思ふに。先各〻も古着のあらば
一つあてとらせよ。我も一つはおくるべし。さて方丈の御膳
米をかゆにたかせあたへたく思ふなどして寮に帰り給ふ時
方丈はらうかにたちやすらひ。此事を聞し召納所を近
付仰せられしは。実にもかのものゝいふごとく。此女のいのち
は大切なるぞや。それ〳〵の用意してつかはせ。さて是をは
だにきせよとてかたしけなくも上にめされしさやの御
小袖を。ぬがせたまひ下しつかはされける時。名主年寄
兩人を急度めし寄られ。直に仰らるゝは。汝らよく合
點して。菊が命を守るべし。其ゆへは我〻經釈をつ
たへて。千万人度すれども。皆是道理至極の分にし
て。いまだ現證を顕さず。爾るに此女は。直に地獄極
楽を見てよく因果を顕す者なれば。万人化益の
證拠なり。随分大切に介抱せよ。なをざりにもてなし
死なせたるなど聞ならば。此弘經寺が怨念汝らにかゝる
べし。とはげしく教訓したまへば。二人の者どもなみだ
をながし。畏て御前を立。急き羽生へ帰りつゝ。方丈の仰せども一〻にかたりつたへ。扨下しつかわされたる御小
袖をきせんとすれば。菊がいわく。あらもつたいなし何
とてか。弘經寺様の御小袖を。我等が手にもふれら
れんといへば。実尤なりとて。後日に是を打敷にぬい。法
蔵寺の佛殿にぞかけたりける。扨祐天和尚の御ふるぎ
其外人〻よりあたへられたる着物をも、いろ〳〵辞退せし
がとも。かれこれとぬいなをし。さま〳〵に方便してこそきせ
たりけれ。さてまた。弘經寺より。下されたる食物は申に
及ばず其外の食事をも一圓にくらわず。たま〳〵少も
食せんとすればすなはち胸にみちふさがり。あるひは
ひふをそんさす。惣じてこの灵病を受し正月始の比より
三月中旬にいたるまて大かた湯水のたぐひのみにてく
らせしかども。さのみつよくやせおとろへもせざりけれ
ば。人〻是をふしんして問けるに。何とはしらず口中
に味有て。外の食物に望なしといへば。扨は極楽の
飲食を。時〻食するにもやあらんとて。さながら浄土
より化來せる者かと。あやしみうやまひめぐむ事。かぎ
りなし。
- 石佛開眼之事
同三月十二日石佛すでに出來して飯沼弘經寺客
殿にかきすゆればすなはち當方丈明誉檀通上人
御出有。そのほか寺中のしよけ衆など。おもひ〳〵に入堂す。ときに方丈ふでとり給ひ。妙林をあらため。
理屋枩貞とかいみやうし少〳〵くやうをとげられ終
に。羽生村法蔵寺の庭にたてて。前代未聞しやう
跡を貽す。永き代のしるし是なり。奇哉此物かたり
あるひは現在のゐんくわをあらはし。あるひは當來
の苦樂をしらせ。あるいひは誦經念佛の利益を
あらそひ。あるひは四恩報謝の分斉をたゞす。かくの
ごとく段〻の事有て。終に智恵慈悲方便。三種
菩提の門に入り。能所相應して。機法一合の全躰
立地に生死の囚獄を出離し。直に涅槃の浄刹
に往詣する事。まつたく是。他力難思善巧。本願不
共の方便也。しかりといへとも願力不思議の現證を顕
す事。且恐は導師决定心の發得によるものなる
をや。しからば此决定信心の人。何れをか求めんと
ならば。単直仰信。称名念佛の行者是其人也
此人におゐていか成徳あるぞやとならば。随順佛願。随
順佛教。随順佛意。是其徳也。かくのごとく心得時
は道俗貴賎老若男女によらす。唯一向に信心称名
せば。現當の利益是より顕れんか
- 右此かさねが怨霊得脱の物語世間に流布して人の口に在といへとも前後次第意詞色〻に乱れ其事慥かならす爰に〔某申〕彼死灵の導師
顕誉上人拝顔之砌度〻懇望仕直の御咄を深く耳の底にとゞむといへとも本より愚癡忘昧の身なればかく有難き現證不思議の事ともを日を經んまゝあとなく癈忘せんほいなさに詞のつたなきをかへりみず書記し置者也猶此外にも累と村中との問答には聞落したる事あるべきか。
- 顕誉上人助か灵魂を吊給ふ事
比は寛文十二年。飯沼寿龜山弘經寺にて。四月中旬
の結解より。大衆一同の法問。十七日に始り。三則目に當
て。十九日の算題は。發迹入源の説破なれば。各〻真宗
の利剱を提け。施化利生の陣頭におゐて。法戦場に
火花をちらし。右往左往に勝負をあらそひ。単刀直入の
はたらき。互に隙なき折から。祐天和尚も今朝より数度
かけ合に。勢力もつかれたまひ。しばらく息をやすめて。向
ひをきつと詠めたまへば。羽生村の庄右衛門。只今一大事
の出來し。咽にせまる風情にて。祐天和尚の御顔をあから
めもせず。守り居たり。和尚此よし御覧して。いかさま此者のつらつきは。今日妻子の死にのぞむか。さてはきわめ
たる一大事。出來せりと見へたり。何事にてもあれかし。この
法席はたつまじものをと。見知らぬていにもてなし。確乎
としてぞおわしける。庄右衛門が心の内。此日の法問過る事。千
歳をまつに异ならじと。推量られて知られたり。扨やう〳〵
に法問はて。大衆もみな〳〵退散すれば祐天和尚も
所化寮さして帰り給ふに。庄右衛門やがて後につき。そゞ
ろあしふんで來る時。和尚寮の木戸口にて。うしろをきつ
とかへり見たまひ。いかにぞや庄右衛門殿。用有げに見ゆるは
何事にかあらん。おぼつかなしとのたまへば。庄右衛門畏り
さればとよ和尚様。かさねがまたきたり今朝よりせめ
候が。もはや命はつゞくまし。急き御出有べしと。所まだら
にいゝちらす。和尚聞もあへたまわず。さては其方はさきへ
行け。我も追付行べしと。しやうぞく召かへ出給ふが何とも
りやうけんしたまわず。門外の松原まで。只うか〳〵とゆき
給ふを。庄右衛門待受申やう。何となさるゝぞや和尚様
はや〳〵御越候ひて。十念さづけ給へといふに。和尚のたま
はく。何とかさねが來るとや。其用所何事にかあらん。また
せめのやうだいはいか様なるぞと問たまへば。庄右衛門申様
今朝の五つ時より。かさねがまた参りたりとて。与右衛門
も金五郎も。名主と我等に告しらせ候ゆへ。早〻兩人参り
て。そのありさまを見候に。まづくるしみのていたらく。日比には百倍して。中にもみ上げてんとうし。五体もあかくねつなふ
して。眼の玉もぬけ出しを。兩人いろ〳〵介抱仕り。累
よ菊よと呼れとも有無の返事もならばこそ。只ひら
ぜめの苦痛なれば大方命は御座あるまじ。せめて
の事に十念を。体になり共さづけ給ひ。後生御たす
け候へと。なみだくみてぞかたりける。和尚此よし聞し
めし。いよ〳〵心おくれつゝ。たゞぼうぜんとあきれはて夢路を
たどる心地にて。あゆみかねてぞ見へたまふ。時に庄右衛門。
言葉あらゝかにいふやう。こはきたなし祐天和尚たとひ
天魔のしわざにて。菊が命をせめころし貴僧のち
じよくに及びつゝ身をいかやうになしたまふとも。名主それ
がし兩人は。命かぎりに御供せんと。約諾かたく相極め
此惣談决定して名主をあとにとめ置き。それがし一人
御むかひにまいりたり。此上は貴僧いかやうに成給ふ共
我〻兩人御供仕らんに。何のあやうき所かおわせん。は
や〳〵いそぎ給へといへば。和尚あざわらつてのたまはく
おろか成庄右衛門。汝等二人我か供とは。それ何のためそや。
汝はいそぎさきへ行け。我はこゝにてしばらく。祈願する
ぞとのたまひて。心中に誓たまわく。釈迦弥陀十方の諸
佛達。たとひ定業かぎり有て。菊が命は失するとも
二度爰に押かへし。我教化にあわせてたべ。かれを捨置
給ひて。我を外道に成し給ふな。佛法の神力此度ぞと。决定のちかひたておわつて。いさみすゝんで行給へ
ば。庄右衛門も力を得。ちどりあしをかけてぞいそぎける。やう
〳〵近付与右衛門が家を見渡せば。四方のかこひ。柱斗
をのこしおき。こと〳〵く引拂ひ屋敷中は尺地もなく
老若男女みち〳〵たり。其外大路のうへ木の枝こゝかしこ
の大木まて。のぼりつれたる見物人。かくばかり此村に。人多く
はなけれ共。前〻よりのふしぎなど。遠近にかくれなく。聞
つたへし事なれば。又今朝よりせむるぞと。つげ渡るにやある
らん。道も田畑も平おしに。皆人とこそ見へたりけれ。かく
て祐天和尚と庄右衛門は。いそぐにほどなく与右衛門が家
近く着給へとも。いづくをわけて入給ふべきやうもなく。人の
うへをのりこへふみこへやう〳〵として。菊がまくらもとに近付
たまへば。されども畳一枚敷ほど。座を分て待居たるに
やかて着座し給ひ。あせおしのごひあふぎをつかひ。し
ばらくやすみ給ふ時。名主いと心せき顔にて。まづ〴〵
はやく菊に十念をさづけ給ひ。いとまをとらせ給ふべし
とくにとおち入る者にて候ひしが。貴僧の御出を相待
と見へ申と云時。和尚のたまわくまてしばし。十念も授
まじ。ちと思ふ子細有とて。ながるる御あせを押拭〳〵
菊が苦痛を見給へは。実にも道すがら庄右衛門がいふご
とく。床より上へ一尺あまり。うきあがり〳〵中にて五たいを
もむこと。人道の中にして。かゝる苦患の有べしとは。何れの經尺に見へけるぞや。是ぞ始めの事ならんと。見るに
心も忍びす。かたるに言葉もなかるべしと。あきれはてゝ
ぞおわしけるいかなるつみのむくひにて。さやうの苦痛を
うけしぞと。傳へ聞さへあるものを。ましてその座に居給ひ
て。まのあたり見られし人〻の心の内。さぞやと思ひはかられ
て。筆のたてどもわきまへず。其時名主こらへかね。和尚
に向ていふやう。ひらに十念を授け給ひ。はや〳〵いとま
をとらせ給へといふに。和尚の給わく何としてさは急ぐぞ
とのたまへば。名主がいわく和尚は御心つよし。我〻
はかゝる苦患を見候ひては。きもたましゐもうせはつる
心地して。中〳〵たへがたく候ふといへば。和尚の給わく。さのみ
機遣したまふな名主殿。何ほどに苦むとも。めたと
死するものにあらず。さて此責るものは。しかと累と申か
又何の望有て來れりと申かと問たまへば。名主答へ
ていわくされば今朝より。いろ〳〵たづね候へ共。一言も物
は申さず只ひらぜめにて候といふ時。和尚扨こそまづ
其相手を聞さだめ。子細をよく〳〵問きわめずは。十
念は授くまじとて。きくが耳のもとにより。汝は菊
か累なるか。また何のために來るそや。我は祐天なる
が見しりたるかと。高聲に二声三声すきまあらせで
問給ふに。苦痛は少しやみけれども。有無の返事はなか
りけり。しばらく有りてまた右のごとく問たまえへば。目の玉のぬけ出たるも。引入色のあかきもたちまちあをく成り
たゞまじ〳〵と和尚の御顔をながめ。なみたをうかべたる
はかりにて。いなせの返事はせざりけり。其時和尚いかりを
顕はし左の御手をさしのべ。かしら髪をかいつかみ。床の上
におしつけ。おのれ第六天の魔王め。人の物いふに何とて
返事はせぬぞ。只今ねぢころすが。是非いわざるやと。しば
ししづめて聞たまへば。其時息の下にてたへ〳〵しく。何か一
口物をいゝけるを。和尚の耳へはすとばかり入けるに。名
主はやくも聞つけ。すけと申わつはしで御座あると申と
いふ時。こは何者の事そと問たまへば。名主がいわくこゝ
もとにては。六つ七つばかり成男の子を。わつはしと申と
いゝけれは。和尚菊に向てのたまはく。其助といふものは
死たるものか生たる物かと聞給へば。また息の下に
て答るやう。かてつみにゆくとて。松原の土手から
絹川へさかさまにうちこふだといふを。和尚やう〳〵聞
うけたまひ。さては聞へたりとて打あをのき。名主に向
てのたまふは。いかに其方はいやなる所の名主哉。今の
詞を聞たまひたるか。さては此わつはしは。大方親のわ
ざにて。川中に打こふだりと聞へたり。いそひで此おやを
せんさくしたまへと有ければ。名主承り。尤仰せかしこ
まつて候へ共。かつて跡形もしれぬ事なれば。何とか
せんぎ仕らん。只そのまゝにて御吊あれといふ時。和尚のたまはくよく合點し給へ名主殿すでに此灵つく
事は。その怨念をはらさんために。來るにはあらずや
しからばかれが本望をもとげさせず。ぜひなく吊ふた
ればとて。何としてかうかぶべき。早〻せんぎしたまへと有
れば。名主またいわく。御意もつともにては候へ共今此大
群の中にて。何者をとらゑいかやうにかせんぎ仕らん
と。一向承引せざる時和尚いかつてのたまはく。さては
その方は我がいふ事をうけぬと見へたり。よし〳〵我今
寺に帰り。弘經寺をおしかけ。地頭代官へつげしらせ
急度せんぎをとぐべきが。それにてもなを所の者を
かばい。せんぎ成まじといわるゝかと。あらゝかにのたまへ
ば。名主十方にくれ。さては何とかせんぎ仕らん。庄右衛門
はいかゞ思はるゝぞといふ時。庄右衛門がいわく。とかくたゞ
今和尚のたつね給御詞と。菊が答る言葉を。少も
のこさず此大勢の中へ。だん〳〵にふれ廻し。一〻人の
返答を。きくより外の事あらじといゝければ。此義尤
しかるべしとて。名主一つの法言を出し。居長高に
のびあがり。高聲にふれまはすは。おこがましくはありながら
とふとかりけるせんぎなり。其ことばにいわく。只今
祐天和尚。菊を責る者は何ものぞとたつね給へば
灵魂の答へには。すけといふわつはし成が。かてつみに
ゆくとて。松原の土手より。きぬ川へさかさまに。打こふだとこたへたり。然るあひだその打こみたる人を御尋あるぞ。
縦ひ親にても兄弟にても其外親類けんぞくにても。
ありのまゝにさんげせよ。若又他人他門にてもあれ。此
事におゐて。かすかに成共見聞したる輩は。まつすぐ
に申出よ。當分にかくし置き。後日のせんぎにあらはれな
ば。急度六ヶ敷かるべしと。段〻にいゝつぎ。一〻次第に
ふれ廻す。庄右衛門がことわりには。少も此義しる人あら
ば。早〻申出られよ。まづはその身の罪障懺悔後生
菩提のためなるべし。かつは亡者の怨念はらし。速に
成佛させんとの御事にて。祐天和尚の御せんぎぞや。
たのむぞ〳〵人〻と。かなたこなた二三返告渡れ共。皆〻
しらずといふ中に。東の方四五間ばかり隔たる座中より。
老婆のあるがのびあがり。其事は八右衛門に。御尋あれとぞ
訴へける。名主此よし聞よりも。それ八右衛門は何くにある
ぞと呼はれば。今朝よりあれなる木の下に見えけるが
今は居らずといふにより常使にいゝ付こゝかしこと尋
出し。やう〳〵につれ來るを。名主ちかく召よせ。かくの次第と
問ければ。八右衛門よこ手をはたと打。さては其助がま
いりて候かや。是には長き物語の候ものおと。泪をながし
ながら一〻次第にかたりけり。まづ其すけと申わつぱ
しを。川に打こみ捨たる事は。六十一年以前の事。それがし
はことし丁六十にて。未生以前の事なれども。親どもの因果はなしを。よく〳〵聞覚へたり。此度御吊なされたる
かさねが実父さきの与右衛門。やもめにて在し時。他村より
妻をめとる。その女房男子一人つれきたれり。その子の形
はめつかいててつかいで。びつこにて候ひしを。与右衛門がいふ
やう。かくのごとくのかたわもの。養育して何かせん。急で
誰にもくれよといへば。母親のいふやうは親だにあきし
此子をば。たれの人かめくまんやといへば。与右衛門か云様
扨はその方共に出て行と。折〻せめて云けるゆへ。
母親が思ふやう。子を捨るふちはあれ共。身を捨る
藪なしとて。只今かれが申通りかてつみにつれ行松原
の土手より。川中へなげこみ。夫とにかくと語れは。与右衛門
もうちうなづき。それこそ女のはたらきよとて。中よく
月日を送りしが。終に其年懐姙し。翌年娘を
平産す。取あげそだて見てあれば。めつかいてつかい
ちんばにて。おとこ女は替れども。姿は同しかたわ
もの。むかしの因果は手洗の縁をめぐると聞しが
今の因果は針の先をめぐるぞやと。親どもの一つ
はなしにいたせしを。たしかによく聞覚へたり。さてその
かたわ娘は先与右衛門が実子なるゆへに。すてもやらて
養育し。先度の灵魂かさねとは。此かたわ娘の事
なるぞや。さて此かさね成長し。兩親とも死果て。孤と
なりしを。代〻百性の家をつぶさしとて。親名主のあわれみにて。今の与右衛門に入むこさせて置給ひしが。
終に与右衛門が手にかゝり。かのかさねも此絹川に沈み
果しは。是も因果のむくひならんと。思ひ合せて見る
時は。今の与右衛門もさのみはにくき事あらしと。す
すりなきをしながら。いと明白にかたれば。聞居たる
人〻も。みな尤と感しつゝ各〻なみだをながしけり。
さて此八右衛門がはなしにて。かさねが年の数と。すけが
川へながされし。年代を考れば。先助が川のみく
づと成しは。慶長十七年壬子に當れり。またかさねが
年の数は。三十五の秋の中半。絹川にて殺されし
とは見へたり。さて八右衛門が物語畢て。祐天和尚きく
に向てのたまはく。汝すけがさいごの由來。つぶさにもつ
て聞届たり。爾るに今菊に取付事。何ゆへ有てきたる
ぞやと。きく息の下にて答るやう。累が成仏したるを
見て。我も浦山しく思ひ來れりと。和尚此よし聞し召
名主に向てのたまふは。これは人〻の。ふしんをはらさん
ためなれば。我が問ふことばと。助が答る相拶を。一〻
にふれたまへとあれば。名主御尤と立あがり。大音聲にて。先
のごとく。云つたへければ近くも遠くも一同に。声をあげ
てぞ泣にける。さて其次に問たまふは。六十一年の間何
くいか成所に在て。何たるくげんをうけしとあれば。助が
いわく。川の中にて昼夜水をくろふて居申たりと。又此通りを名主ことはれば。若きもの共のさゝやくは。さては
このわつはしは。灵山寺淵に年來住なる河伯ぞや。雨
のそぼ降れば。川浪にさかふて。松原の土手にあがり
身をなぐる風情して。なきさけぶ有様を折〳〵見付し
ものをとて。みな口〻にぞつぶやきける。さて其次に祐
天和尚問たまはく。しからば今朝より人〻の尋る時。右の
通りを述ずして。何とてみな〳〵に。機遣をさせけるぞ
と。助答へていわく。さいふたればとてたすけてくるゝ人
あらじと思ひ。せんなきまゝにかたらずと云へは。又此趣
を先のごとく呼わる時。みなことわりとぞうけにけり。
さて和尚問たまわくしからばわれ本願の威力を頼み
汝をたすけにきたりて。いろ〳〵に問ふ時。何とてものを
いわさるやと。助答へていわくたすからふと思ふたれば。餘り
うれしさのまゝに。何とも物が申されぬを。むたひに引つめ給ひ
しとあれば。其時和尚もふかくになみだをながしたまへば。名
主年寄を始として。遠くも近くもみな一同に聲をあ
げ。なげき渡りしそのひゞき。天地もさらに感動し
草木までも哀嘆すとぞ見へにけり。これぞ誠に弥陀
本願の威力を以て。父子相迎して大會に入り。則六
道のくげんを問給へば宿命通の悟りにて。一〳〵
昔を語る中に。地獄は劇苦隙なくして久しく。
鬼畜は苦報おもくしていやしく。人間には八苦の煙たへず。天上には五衰の露乾かず。すべて三界皆苦
なれば。何くかやすき処あらんと。心憂げに申す時。弥陀
を始めたてまつり。恒沙塵數の大衆達まで。皆一
同になげき憐みたまふらんも。此會の儀式に替らじ
思ひ合て見る時は。其折のあはれさを。いか成ふで
にかつくされん。さて和尚やゝよく泣き給ひて。いざ
成佛とげさせんと。名主方より料紙を取寄。単刀
真入と戒名し。庄右衛門に仰せ付られ。西のはしらに
押付んとて。起つ時。前後左右に並居たる者共。一
同にいふやうは。それよ〳〵庄右衛門殿。かのわつはしが。袖に
すがりゆくはと云時。和尚を始め。名主年寄も。これ
はとおもひ見給へば。日もくれがたの事なるに。五六歳
成わらんべ。影のごとくにちらり〳〵とひらめいて。今書
たまへる戒名に。取付とぞ見へける。其時和尚不覚
に十念したまへば。むらかり居たる老若男女。みな
一同に南無阿弥陀佛と。唱ふる声の内に、四方の氣
色を見渡せば。何とは知らず光りかゝやき。木〻の
梢にうつろふは。宝樹宝林と詠められ。人〻の有様
は。皆金色のよそほひにて。佛面菩薩形と變じ
木にのぼり居たる。おのこどもは。諸天影向の姿かとぞ
見えけるとなん。是そ佛智の構ふなる。當所極楽
とは聞へたりさて此氣色をおかむもの。名主年寄を始め。其座にあつまる老若男女。百余人とこそ聞
へけれ。其時和尚戒名に向て。心中にきせいしたまはく
理屋性貞も単刀真入も。此菊が徳により。成仏し
たまふ事なれば。かならず。此ものゝ命を守り諸人のうた
がひを散じ給へと。ふかく頼。十念廻向畢て。いそぎ寮
に帰り給へば。同寮の人〻。心許なく待居られしが。いそ
ぎたち向ひ。何事候やおぼつかなく候ふと申せば
和尚いと心よげにてかゝる叓の有しそや。戒名は書
直しぞ。心あらば諷經せよと仰らるれば。皆人〻感じ
あひて。老たる若き所化衆。思ひ〳〵に諷經にこそは
行れにけり。さてまた祐天和尚は。いそぎ近所の醫
者をよびよせ。菊が療治をたのみ給へば。いしやかしこ
まつていそぎ羽生村に行き。菊が脉をうかゞひ。す
なはちかへつて和尚に申やう。かれが脉の正体なく候へば。
中〳〵療治はかなひ申さず。そのゆへくすりをもあたへず罷
帰り候といへば。祐天和尚聞給ひ。何をかいふらん。菊が
命をば我諸佛へたのみおき。そのうへ単刀真入などへ
能ゝやくそくし置し物おと。思召ししからば是非なし。其
薬箱を開き。益氣湯を七ふく調合し。我にあたへ
給へとあれば。畏て候とて。すなはち調合して参らせ
御いとま申て帰られたり。和尚其跡にていそぎかの薬を
せんじ給ひ。一番ばかりを持参にて。其夜中に羽生へ行き。きくにあたへたまひて。名主年寄にたのみ置き。
寮に帰らせたまひしが。跡にて段〳〵薬をあたへあくる
廿日に成しかば。益氣湯二ふくにて。菊が氣分本服
して。次第にひふも調ひけり
- 菊が剃髪停止之事
去程に今度の助が灵病も頓而本服し。菊たつしや
に成ければ。与右衛門金五郎もろ共に。名主年寄かたへ
行き。先此間の礼を述べさて菊が願ふやう。我をば
尼になして給われ。其故はいつぞやも申通り極楽に
て御僧様の仰せに。汝はしやばに帰りたらば。名を妙
槃とつゐて。魚鳥を喰はで。よく念佛を申せとに
て候ひしか。とてもの事にいづれも様の。御言葉をそへ
られ。祐天和尚様の御弟子になしてたまはれといへば。
名主も年寄も実に是は尤也。よくこそ望みた
れとて。すなはち此者共を引つれ弘經寺へ参りて
まづ祐天和尚の寮にさんじ。此間の御礼をのべ。さてき
くが願ひのしゆつけを乞求る時。和尚のたまはく。
菊が剃髪の事さら〳〵もつて無用也。其故は。菊
よく聞け。汝此度累と助が怨灵に取付れしゆへ
それ成与右衛門も金五郎も。世にたぐひなき苦労を
受しなり。その上に又その方出家せば。いよ〳〵二人の者に
苦をかけんか。自今以後は其身もそくさいにて。与右衛門にも孝をつくし。夫にも能したがひ。現世も安穏に
くらし。後生には極楽へ参らんと思い。ずいぶん念仏
をわするなと。いとねんごろにしめしたまへば。其時に
菊名主年寄に向て申やう。只何とぞ御訴訟なさ
れわらわを出家させてたべとぞ願ひける。時に兩人
詞をそろへ。和尚に向て又申やう。只今の仰せ御尤
に候。さりながら親と夫と二人の事は。我〻何とぞ
才覚仕りいか様成よめをもむかへ。金五郎にあわせ候
ひて。与右衛門をば介抱させ候はん。さて菊をば比丘尼に
仕。少庵をもむすびあたへ村中の斎坊主と定め
申度候。其故は羽生村の者ども。年來因果の
道理をも。わきまへず。邪見放逸にくらし候所に。此度
菊が徳により。みな〳〵善心を起し昼夜後世のいとなみ
を仕る事。これはひとへに此娘の大恩にて候へば。いかにも
かれが願ひのまゝに。剃髪なされ候はゝ。我々の報恩と
存じ奉らんなどゝ。詞をつくして申ける時和尚のたま
わく。あら事くどし何といふ共。我は剃髪せざるに
先〻方丈へも礼にあがり。十念もうけ候へと寮を
せりたて給へば。人〻是非なく畏て候とて。すなはち方
丈に罷出。兩役者を以て申上れば。みな〳〵召出さ
れ。十念さづけたまひて。さて方丈の仰せには。菊
よかまへて〳〵地獄極楽をわすれず。よく念佛して後世たすかれ。さて〳〵名誉の女哉と有し時。名主其
御詞に取付申上るは。尊意のごとく菊も何とぞ
念佛相續のため比丘尼を願ひ候故。拙者共も
かやう〳〵まで。祐天和尚へ申入候へ共。何と思召やらん
一圓御承引なく候。あわれ願は尊前の御意を以
て。菊が剃髪の儀仰渡され候はゝ。かたじけなくこそ
候はめと申上れば。方丈つく〳〵聞しめされ仰せらるゝ
は。いか様冥土より妙槃といふ名まて付來りし
ものを。出家無用といふは。何とぞ彼ものゝ所存ある
らんかとかく此事におゐては我がいろふ所にあらず
たゝ祐天次第にせよと仰せらるゝ時。みな〳〵畏て
御前を立さり。又顕誉上人の寮に來りて。名主和
尚に向て申やう。只今方丈様にて。きくが出家の事
申上候へば。あなたにも御不審げに仰られ候。何とて剃
髪をゆるしたまわず候や。御所存いかにと尋ぬれ
ば。和尚のたまはく。此者を俗にておき。子孫も
ながくつゞくならば。末の世までのよき見せしめ
永代の利益何事か是にしかんと有ければ。名主
が云やう近比憚り多き申事に候へ共。只今の
仰せは。ひとへに貴僧私の御料簡さし當ては。きく
をめぐみ給はず。別しては佛菩薩の仰せを背き
給ふ所有。そのゆへは。すでに菊浄土にまいりし時菩薩僧の仰にて。比丘尼の名まで下されしを
御もどきあそばさんや。是非〳〵出家させられ
候へといへば。和尚打ちわらひたまひ。其方はりく
つを以て我をいゝふせんとな。いでさらば具さに
返答すべきぞや。先さし當て菊をふびん
思ふゆへ。われ出家をゆるさぬなり。其子細は
在家は在家のわざあり。出家は出家のわざあ
り。跡前しらぬ若輩者修しもならはぬ比丘尼
のわざ。いとふびんの事也。又當來の成佛はもと
より在家出家によらず。願生西方の心にて。念
佛だに申せば他力本願のふしぎゆへ。十則十生疑
ひなし。さてまた浄土の菩薩の告により。尼になれ
との仰せをそむくとは。これもつともいたむ所也。去ながら
それは大かた時にしたかつて。菩薩方便の教化に
もやあるらん。我がおさゆる心は。三世常住の佛
勅によつて留るぞ其故は。すでに此女三毒具
足の凡夫。散乱疎動の女人なり。いかでか常住の
心あらん。縦ひ一度いか成ふしぎの利益に預るとも。
業事いまだ成辨せず。何ぞ不退の人ならん。し
からば比丘尼修行。はなはだ以ておぼつかなし。その上此菊剃髪して。袈裟衣を着しつゝ。此や彼こ
と徘徊せば。隣郷他郷の人までも。是ぞ地獄極楽を。直に見たる。お比丘尼様よ。ありがたの人や
とて。敬ひほめそやされば。本より愚癡の女人成
ゆへ。我身のほどをもかゑりみず。鼻の下ほゝめ
いて。あらぬ事をも。いゝちらし。少〻地獄極楽にて。見
ぬ事までのうそをつき。人の心をとらかし信施
はかず〳〵身につみて。富貴栄花にくらすならば
厭離の心は出まじぞや。たま〳〵後世を思ふ時
は。我が身一たび極楽へ参り。菩薩達に直に
約束し置ぬれは。往生に疑ひなしと。後の世お
そるゝ心もなく。三毒の引にまかせ。身のゆたか
なるまゝに。けだい破戒の者ともなり。慚愧懺悔
の心もなくは。决定堕獄の人と成べし。此事猶も疑はゝ。
現に世間の人を見よ。或は富士山湯殿山其外白山
立山などにて。地獄や極楽の有様を。此身ながらて
見し者も。家に帰りてほど經ればいつの間にか忘れはて
あらぬ心も起りつゝ。地獄の業をも造るぞや。是も三
毒具足ゆへ。定めなき凡夫の習ひ也。いわれぬ出家を
好みつゝ。破戒念佛の機となりて下中品に降らんより
在家十悪の念佛にて。下上品に昇りたまへ。かならず
〳〵お菊どの。比丘尼好みをしたまふなと。いとねんころに教
へ給へば。名主年寄を始として皆〻道理につめられ。菊が比
丘尼はやめてけり。爾ばせめての御事に血脈なり共授け給へとあれば。それは尤とて。すなはち方丈へ仰上られ。不生
妙槃と道号をそへ下され。本の身がらを改めず。念佛相
續せしが累が怨念はれし故にや。其年より次第に田
畑も実のり。家も段〻にさかへ。子供も二人まてもふけ。今に
安全とぞ聞へける
- 右此助が怨霊も同じ菊に取つきあまつさへ先の累が成佛まで云顕せる事なれば先聞にそへて終に一具となさんと思ひ顕誉上人直の御物語を再三聴聞仕り其外羽生村の者共の咄しをも粗聞合せ書記す者ならし
- 元禄三年午十一月廿三日
- 本石町三丁目山形屋吉兵衛開板