東關紀行 (國文大觀)

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東關紀行

齡は百年の半に近づきて、鬢の霜漸く冷しといへども、なすことなくして徒にあかしくらすのみにあらず。さしていづこに住はつべしとも思ひ定めぬ有樣なれば、彼の白樂天の「身は浮雲に似たり、首は霜に似たり」と書き給へる、哀に思ひ合せらる。元より金帳〈張歟、金張是金日磾張安世〉七葉のさかえを好まず、たゞ陶濳五柳〈陶濳著五柳先生傳〉のすみかをもとむ。しかはあれども、深山の奧の柴の庵までも、しばらく思ひやすらふ程なれば、憖に都のほとりに住まひつゝ、人なみに世にふる道になむ列れり〈如元〉。これ卽身は朝市にありて心は隱遁にあるいはれなり。かゝる程に、思はぬ外に仁冶三年の秋八月十日あまりの頃、都を出でゝ東へ赴く事あり。まだ知らぬ道の空、山重なり江重なりて、はるばる遠き旅なれども、雲をしのぎ霧を分けつゝ、屢前途の極なきに進む。終に十餘の日數をへて、鎌倉に下り着きし間、或は山館野亭の夜のとまり、或は海邊水流の幽なる砌にいたる每に、目にたつ所々、心とまる節々をかき置きて、忘れず忍ぶ人もあらば、後のかたみにもなれとてなり。』東山の邊なるすみかを出て、相坂の關うち過ぐる程に、駒ひきわたる望月の比も、漸近き空なれば、秋霧立ちわたりて、ふかき夜の月影かすかなり。木綿付鳥幽に音づれて、遊子〈孟嘗君之故事〉猶殘月に行きけむ、幽谷の有樣思ひ合せ〈いでイ〉らる。むかし蟬丸といひける世捨人、此の關の邊にわらやの床をむすびて、常は琵琶をひきて心をすまし、大和歌を詠じておもひを述べけり。嵐の風はげしきをわびつゝぞ過しける。ある人の云ふ「蟬丸は延喜第四の宮にておはしけるゆゑに、この關のあたりを四の宮河原と名づけたり」といへり。

 「いにしへのわらやのとこのあたりまで心をとむる相坂の關」。

東三條院〈詮子一條御母〉石山に詣でゝ、還御ありけるに、關の淸水を過ぎさせ給ふとて、よませ給ひける御歌、「あまたゝびゆきあふ坂の關水にけふをかぎりのかげぞかなしき」と聞ゆるこそいかなりける御心のうちにかと、哀に心ぼそけれ。關山を過ぎぬれば、打出の濱、粟津の原なんどきけども、いまだ夜のうちなれば、さだかにも見わからず。昔天智天皇の御代、大和國飛鳥の岡本の宮より、近江の志賀の郡に都うつりありて、大津の宮を造られけりときくにも、此の程はふるき皇居の跡ぞかしとおぼえて哀なり。

 「さゞ波や大津の宮のあれしより名のみ殘れるしがの故鄕」。

曙の空になりて、せたの長橋うち渡すほどに、湖はるかにあらはれて、かの滿誓沙彌が、比叡山にて此の海を望みつゝよめりけむ歌〈萬葉卷三拾遺哀傷〉おもひ出でられて、漕ぎゆくふねのあとの白波、まことにはかなく心ぼそし。

 「世の中をこぎゆく舟によそへつゝながめし跡を又ぞ眺むる」。

此の程をも行き過ぎて、野路といふ所に至りぬ。草の原露しげくして旅衣いつしか袖の雫所せし。

 「東路の野路の朝露けふやさは袂にかゝるはじめなるらむ」。

しの原といふ所をみれば、西東へ遙に長き堤なり。北には里人すみかをしめ、南には池のおもてとほく見えわたる。むかひの汀、綠ふかき松のむらだち、波の色もひとつになり、南山の影をひたさねども靑くして洸瀁たり〈白氏文集〉。洲崎所々に入りちがひて、蘆かつみなど生ひわたれる中に、をし鴨のうちむれて飛びちがふさま、あしでをかけるやうなり。都を立つ旅人、この宿にこそとまりけるか。今はうちすぐるたぐひのみ多くして、家居もまばらになりゆくなどきくこそかはりゆく世のならひ、飛鳥の川の淵瀨には限らざりけめとおぼゆ。

 「行く人もとまらぬ里となりしより荒れのみまさるのぢの篠原」。

鏡の宿に至りぬれば、昔なゝの翁のよりあひつゝ、老をいとひて詠みける歌の中に、「鏡山いざ立ちよりてみてゆかむ年へぬる身は老いやしぬると」〈古今〉といへるは、この山の事にやとおぼえて、宿もからまほしくおぼえけれども、猶おくざまにとふべき所ありてうちすぎぬ。

 「立ちよらでけふはすぎなむ鏡山しらぬ翁のかげは見ずとも」。

ゆき暮れぬれば、むさ寺といふ山寺のあたりにとまりぬ。まばらなるとこの秋風、夜ふくるまゝに身にしみて、都にはいつしかひきかへたる心ちす。枕にちかき鐘の聲、曉の空に音づれて、かの遺愛寺〈引白氏文集〉の邊の草の庵の寢覺も、かくやありけむと哀なり。行くすゑとほき旅の空、思ひつゞけられていといたう物悲し。

 「都いでゝいくかもあらぬ今夜だに片しきわびぬ床の秋風」。

この宿を出でゝ、笠原の野原うちとほる程に、おいその杜といふ杉むらあり。下草深き朝露の、霜にかはらむ行くすゑも、はかなく移る月日なれば、遠からずおぼゆ。

 「かはらじなわがもとゆひにおく霜も名にしおいその杜の下草」。

音にきゝし醒が井を見れば、蔭くらき木の下の岩根より流れいづる淸水、あまり涼しきまで澄みわたりて、實に身にしむばかりなり。餘熱いまだつきざる程なれば、往還の旅人多く立ちよりて凉みあへり。斑婕妤が團雪の扇、秋風にかくて暫し忘れぬれば、末遠き道なれども、立ち去らむ事はものうくて、更に急がれず。かの西行が「道のべに淸水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」〈新古夏〉と詠めるも、かやうの所にや。

 「道のべの木陰の淸水むすぶとてしばし凉まぬ旅人ぞなき」。

かしは原といふ所を立ちて、美濃國關山にもかゝりぬ。谷川霧の底に音づれ、山風松の梢にしぐれわたりて、日影もみえぬ木の下道、あはれに心ぼそし。越えはてぬれば、不破の關屋なり。萱屋の板庇、年へにけりとみゆるにも、後京極攝政殿〈良經〉の、「荒れにし後はたゞ秋の風」〈新古雜中〉とよませ給へる歌思ひいでられて、この上は風情もめぐらしがたければ、賎しき言の葉をのこさむも中々に覺えて、こゝをば空しくうち過ぎぬ。くひぜ川といふ所にとまりて、夜更くる程に、川端に立ちいでゝみれば、秋の最中の晴天、淸き河瀨にうつろひて、照る月なみも數見ゆばかりすみ渡れり。二千里の外の古人の心〈白氏文集〉遠く思ひやられて、旅の思ひいとゞおさへがたく覺ゆれば、月の影に筆を染めつゝ「花洛を出でゝ三日、株瀨川に宿して一宵、屢幽吟を中秋三五夜の月に傷ましめ、かつがつ遠情を先途一千里の雲に送る」など、ある家の障子にかきつくる序に、

 「知らざりき秋の半の今宵しもかゝる旅ねの月をみむとは」。

かやつの東宿の前を過ぐれば、そこらの人集まりて里も響くばかりに罵りあへり。「けふは市の日になむ當りたる」とぞいふなる。手每に空しからぬ家づとも、かの「見てのみや人に語らむ」〈古今春上素性〉とよめる花のかたみには、やうかはりておぼゆ。

 「花ならぬ色香もしらぬ市人のいたづらならでかへる家づと」。

尾張國熱田の宮に至りぬ。神垣のあたり近ければ、やがて參りてをがみ奉るに、木立年ふりたるもりの木の間より、夕日の影たえだえさし入りて、あけの玉垣色をかへたるに、木綿しで風に亂れたる、ことがら物にふれて神さびたる中にも、ねぐら爭そふ鷺むらの、數も知らずこずゑに來ゐるさま雪のつもれるやうに見えて遠く白きものから暮ゆくまゝに靜まりゆく聲々も心すごく聞ゆ。ある人のいはく、「此の宮は素盞嗚尊なり。初は出雲國に宮造ありけり。八雲たつといへる大和言葉も、是よりはじまりけり。其の後景行天皇の御代に、この砌に迹を垂れ給へり」といへり。又いはく「此の宮の本體は、草薙と號し奉る神劔なり。景行の御子日本武尊と申す、夷を平げて歸り給ふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ。劔は熱田にとまり給ふ」ともいへり。一條院の御時、大江匡衡といふ博士ありけり。長保の末に當りて、當國の守にて下りけるに、大般若を書きて、此の宮にて供養を遂げゝる願文に、「吾が願已にみちぬ。任限又滿ちたり。古鄕に歸らむとする期、いまだいくばくならず」とかきたるこそ哀に心ぼそく聞ゆれ。

 「思ひ出のなくてや人の歸らまし法の形見をたむけおかずば」。

この宮を立ちいで、濱路に趣く程、有明の月かげふけて、友なし千鳥時々おとづれわたれる、旅の空のうれへそゞろに催して、哀かたがた深し。

 「古鄕は日を經て遠くなるみがた急ぐ汐干の道ぞ苦しき」。

やがて夜の中に、二村山にかゝりて、山中などを越え過ぐる程に、東漸白みて、海の面遙にあらはれたり。波も空も一つにて、山路につゞきたるやうに見ゆ。

 「玉くしげ二村山のほのぼのと明けゆく末は波路なりけり」。

ゆきゆきて、三河國八橋のわたりを見れば、在原業平、杜若の歌よみたりけるに、皆人かれいひのうへに淚落しける所よと思ひ出でられて、そのあたりを見れども、かの草とおぼしき物はなくて、いねのみぞおほく見ゆる。

 「花ゆゑに落ちし淚のかたみとや稻葉の露をのこしおくらむ」。

源義種が、此の國の守にて下りける時、とまりける女のもとにつかはしける歌に、「もろともに行かぬ三河の八はしを〈は集〉戀しとのみや思ひわたらむ」〈拾遺〉とよめりけるこそ思ひ出でられてあはれなれ。やはぎといふ所を出でゝ、みやぢ山こえ過ぐる程に、赤坂と云ふ宿あり。こゝにありける女ゆゑに、大江定基が家をいでけるも、哀に思ひいでられて、過ぎがたし。人の發心する道、その緣一にあらねども、あかぬ別を惜みし迷の心をしもしるべとし、誠の道に趣きけむ、ありがたくおぼゆ。

 「別れぢに茂りもはてゝ葛のはのいかでかあらぬ方にかへりし」。

ほんの川原にうち出でたれば、よもの望かすかにして、山なく岡なし。秦甸の一千餘里を見わたしたらむ〈朗詠〉心ちして、草土ともに蒼茫たり。月の夜の望いかならむと、ゆかしくおぼゆ。茂れるさゝ原の中に、あまたふみわけたる道ありて、行く末もまよひぬべきに、故武藏の前司〈北條泰時〉、道のたよりの輩に仰せて、植ゑおかれたる柳も、いまだ蔭とたのむまではなけれども、かつがつまづ道のしるべとなれるも哀なり。もろこしの召公奭は、周の武王の弟なり。成王の三公として、燕といふ國をつかさどりき。陝の西の方を治めし時、ひとつの甘棠のもとをしめて政を行ふ時、つかさ人より初めて、諸の民に至るまで、そのもとを失はず。あまねく又人の患をことわり、重き罪をも宥めけり。國民擧りて其の德政を忍ぶ。故に召公去にし跡までも、彼の木を敬ひて敢へてきらず。うたをなむ作りけり〈如元〉。後三條天皇、東宮にておはしましけるに、學士實政任國に赴く時、「州の民はたとひ甘棠の詠をなすとも忘るゝ事勿れ。多くの年の風月の遊」といふ御製を給はせたりけるも、此のこゝろにやありけむ。いみじくかたじけなし。かの前の司も、此の召公のあとを追うて、人をはぐゝみ物を憐むあまり、道のほとりの往還の類までも、思ひよりて植ゑおかれたる柳なれば、これを見む輩、皆かの召公を忍びけむ國の民のごとくにをしみ育てゝ、行く末のかげとたのまむこと、その本意は定めて違はじとこそおぼゆれ。

 「植ゑおきし主なき跡の柳原猶そのかげを人やたのまむ」。

豐河といふ宿の前をうち過ぐるに、あるものゝいふをきけば、「此の道をば昔よりよくる方なかりし程に、近比より、俄にわたふ津の今道といふ方に、旅人多くかゝる間、今はその宿は人の家居をさへ外にのみうつす」などぞいふなる。ふるきをすてゝ新しきにつく習、定まれることゝいひながら、いかなる故ならむと覺束なし。昔より住みつきたる里人の、今更ゐうかれむこそかの伏見の里ならねども、あれまく惜しくおぼゆれ。

 「覺束ないざ豐河のかはるせをいかなる人の渡りそめけむ」。

參河遠江のさかひに、高師の山と聞ゆるあり。山中に越えかゝる程に、谷川の流れ落ちて、岩瀨の波ことごとしくきこゆ。境川とぞいふ。

 「岩づたひ駒うちわたす谷川の音もたかしの山に來にけり」。

橋本といふ所に行きつきぬれば、きゝわたりしかひありて、氣色いと心すごし。南には潮海あり。漁舟波に浮ぶ。北には湖水あり。人家岸に列なれり。其の間に洲崎遠くさし出でゝ、松きびしく生ひつゞき、嵐しきりにむせぶ。松の響、波の音いづれと聞きわきがたし。行く人心をいたましめ、とまるたぐひ夢をさまさずといふことなし。みづうみに渡せる橋を濱名と名づく。ふるき名所なり。朝立つ雲の名殘、いづくよりも心細し。

 「行きとまる旅ねはいつもかはらねどわきて濱名の橋ぞすぎうき」。

さても此の宿に、一夜とまりたりしやどあり。軒ふりたる萱〈藁イ〉家の所々まばらなるひまより、月のかげくまなくさし入りたるをりしも、君どもあまた見えし中に、すこしおとなびたるけはひにて「夜もすがら床の下に晴天をみる」〈朗詠〉と忍びやかにうち詠じたりしこそ心にくゝ覺えしか。

 「言のはの深き情は軒ばもる月の桂の色に見えにき」。

なごり多く覺えながら、此の宿をもうち出でゝ行き過ぐる程に、まひざはの原といふ所に來にけり。北南は渺々と遥にして、西は海の渚近し。錦花繡草のたぐひはいとも見えず。白き眞砂のみありて、雪の積れるに似たり。其の間に松たえだえ生ひ渡りて、鹽風梢に音づれ、又あやしの草の庵、所々みゆる、漁人釣客などの栖にやあるらむ。末遠き野原なれば、つくづくと詠め行く程に、うちつれたる旅人の語るをきけば、「いつの頃よりとはしらず、此の原に木像の觀音おはします。御堂など朽ちあれにけるにや、かりそめなる草の庵のうちに雨露もたまらず、年月を送る程に、一年望むことありて、鎌倉へ下る筑紫人ありけり。此の觀音の御前にまゐりたりけるが、もしこの本意をとげて、古鄕へむかはゞ、御堂をつくるべきよし、心の中に申し置きて侍りけり。鎌倉にて望む事かなひけるによりて、御堂を造りけるより、人多く參るなむ」とぞいふなる。聞きあへずその御堂へ參りたれば、不斷香の煙、風にさそはれうち馨り、あかの花も露鮮かなり。願書とおぼしきものばかり、帳の紐に結びつけたれば、「弘誓のふかき事海の如し」といへるも賴もしくおぼえて、

 「たのもしな入江に立てるみをつくし深きしるしのありと聞くにも」。

天龍と名づけたるわたりあり。川ふかく流激しくみゆ。秋の水みなぎり來て、舟の去る事速なれば、往還の旅人たやすくむかひの岸につき難し。此の河水まされる時、舟などもおのづから覆りて、底の水屑となるたぐひ多かりと聞くこそ彼の巫峽の水の流〈引白氏文集〉おもひよせられていと危き心ちすれ。しかはあれども、人の心に比ぶれば、靜なる流ぞかしと思ふにも、たとふべき方なきは、世にふる道のけはしき習なり。

 「この河の早き流も世の中の人の心のたぐひとは見ず」。

遠江の國府いまの浦につきぬ。爰に宿かりて、一日二日留まりたる程、あまの小舟に棹さしつゝ、浦の有樣見巡れば、しほ海、湖の間に、洲崎遠く隔たりて、南には極浦の波袖を濕し、北には長松の嵐心をいたましむ〈引朗詠〉。名殘多かりし橋本の宿にぞ相似たる。昨日のめうつりなからずば、これも心とまらずしもあらざらましなどはおぼえて、

 「浪の音も松の嵐もいまの浦に昨日の里の名殘をぞきく」。

ことのまゝときこゆる社おはします。その御前をすぐとて、聊おもひつゞけられし。

 「ゆふだすきかけてぞたのむ今思ふことのまゝなる神のしるしを」。

小夜の中山は、古今集の歌に「よこほりふせる」とよまれたれば、名高き名所なりと聞きおきたれどもみるにいよいよ心細し。北は深山にて、松杉嵐烈しく、南は野山にて、秋の花露しげし。谷より嶺に移る道、雲に分け入る心ちして、鹿のね淚を催し、蟲の恨あはれふかし。

 「踏みかよふ峯の梯とだえして雲に跡とふ佐夜の中山」。

此の山をも越えつゝ、猶過ぎ行く程に、菊川といふ所あり。去にし承久三年の秋の比、中御門中納言宗行と聞えし人の、罪ありて東へ下られけるに、此の宿にとまりけるが「昔は南陽縣の菊水、下流を汲んで齡をのぶ。今は東海道の菊川、西岸に宿して命を失ふ」とある家の柱にかゝれたりけりと聞きおきたれば、いと哀にて、其の家を尋ぬるに、火の爲にやけて、かの言のはものこらずと申すものあり。今は限とてのこし置きけむ形見さへ、跡なくなりにけるこそ果敢なき世のならひ、いとゞあはれにかなしけれ。

 「かきつくる形みも今はなかりけり跡は千年と誰かいひけむ」。

菊川をわたりて幾程もなく一村の里あり。二〈こイ〉はまとぞいふなる。此の里の東のはてに、すこしうち登るやうなる奧より、大井川を見渡しければ、遙々と廣き河原の中に、一すぢならず流れ分れたる川せども、とかく入りちがひたる樣にて、すながしといふものをしたるに似たり。中々渡りて見むよりも、よそめ面白くおぼゆれば、かの紅葉みだれて流れけむ、龍田川ならねども、しばしやすらはる。

 「日數ふる旅の哀れは大井川渡らぬ水も深き色かな」。

まへ島の宿を立ちて、岡部のいまずくをうち過ぐる程、かた山の松のかげに立ちよりて、かれいひなど取り出でたるに、嵐冷しく梢にひゞき渡りて、夏のまゝなる旅衣、うすき袂もさむくおぼゆ。

 「これぞこのたのむ木のもと岡べなる松の嵐よ心して吹け」。

宇都の山を越ゆれば蔦かへでは茂りて昔の跡たえず。かの業平が、す行者にことづてしけむ程も、いづくなるらむと見ゆく程に、道のほとりに札を立てたるをみれば、無緣の世すて人あるよしをかけり。道より近きあたりなれば、少しうち入りてみるに、僅なる草の庵のうちに一人の僧あり。畫像の阿彌陀佛をかけ奉りて淨土の法もんなどをかけり。其の外にさらに見ゆるものなし。發心のはじめを尋ねきけば、「身はもとこの國のものなり。さして思ひ入りたる道心も侍らぬ上、其の身堪へたる方なければ、理を觀ずるに心くらく、佛を念ずるに性ものうし。難行苦行の二道ともにかけたりといへども、山の中に眠れるは、里にありて勤めたるにまされるよし、ある人の敎につきて、此の山に庵を結びつゝ、數多の年月を送る」よしをこたふ。むかし叔齋が首陽の雲に入りて、猶三春の蕨をとり、許由が頴水の月にすみし、おのづから一瓢の器をかけたりといへり。此の庵のあたりには、殊更煙立てたるよすがもみえず。柴折りくぶる慰めまでも、思ひたえたるさまなり。身を孤山の嵐の底にやどして、心を淨域の雲の外にすませる、いはねどしるくみえて、中々にあはれに心にくし。

 「世を厭ふ心の奧やにごらましかゝる山邊のすまひならでは」。

此の庵のあたり幾程遠からず、峠といふ所に至りて、おほきなる卒都婆の年經にけると見ゆるに、歌どもあまた書きつけたる中に、「東路はこゝをせにせむ宇都の山哀もふかし蔦の下路」とよめる、心とまりておぼゆれば、その傍にかきつけし、

 「我もまたこゝをせにせむうつの山分けて色ある蔦の下露」。

猶うちすぐる程に、ある木蔭に、石を高く積み上げて、めにたつさまなる塚あり。人に尋ぬれば「梶原が墓」となむ答ふ。道の傍の土になりけりと見ゆるにも、顯基中納言の口ずさみ給へりけむ、「年々に春の草のみ生ひたり」といへる詩思ひいでられて、これも亦ふるき塚となりなば、名だにも殘らじとあはれなり。羊太傅〈羊祜〉が跡にはあらねども、心ある旅人は、こゝにも淚をやおとすらむ。かの梶原は、將軍二代の恩に憍り、武勇三略の名を得たり。傍に人なくぞ見えける。いかなる事にかありけむ、かたへの憤ふかくして、忽に身をほろぼすべきになりにければ、ひとまとものびんとや思ひけむ、都の方へ馳せのぼりける程に、駿河國きかはといふ所にて、うたれにけりと聞きしが、さは爰にてありけるよと哀に思ひあはせらる。讚岐の法皇〈崇德〉配所へ赴かせ給ひて、かの志戶と云ふ所にて、隱れさせ御座しける御跡を、西行修行のついでにみまゐらせて、「よしや君昔の玉の床とてもかゝらむ後は何にかはせむ」とよめりけるなど承はるに、まして下ざまのものゝ事は、申すに及ばねども、さしあたりてみるには、いと哀におぼゆ。

 「哀にも空にうかれし玉鉾の道のべにしも名をとゞめけり」。

淸見が關も過ぎうくて、しばしやすらへば、沖の石、村々潮干にあらはれて、波に咽び、磯の鹽屋、所々風に誘はれて、煙たなびけり。東路の思ひ出ともなりぬべきわたりなり。むかし朱雀天皇の御時、將門と云ふもの、東にて謀反起したりけり、これを平げむ爲に、民部卿忠文を遣しける、此の關に至りてとゞまりけるが、淸原滋藤といふ者、民部卿に伴ひて、軍監と云ふつかさにて行きけるが、「漁舟の火のかげは寒くして浪を燒き、驛路の鈴の聲はよる山を過ぐ」といふ唐の歌を詠じければ、民部卿泪を流しけると聞くにもあはれなり。

 「淸見潟關とはしらでゆく人も心ばかりはとゞめおくらむ」。

この關とほからぬ程に、興津といふ浦あり。海に向ひたる家に宿りて侍れば、いそべによする波の音も、身の上にかゝるやうにおぼえて、夜もすがらいねられず。

 「おきつ〈きよみイ〉潟いそべに近きいは〈たびイ〉枕かけぬ浪にも袖はぬれけり」。

こよひは更にまどろむ間だになかりつる、草の枕のまろぶしなれば、寢覺ともなき曉の空に出でぬ。くきが崎と云ふなるあら磯の、岩のはざまをゆき過ぐる程に、沖つ風烈しきに打ちよする波もひまなければ、いそぐ鹽干のつたひ道、かひなき心ちして、「ほすまもなき袖の雫までは、かけても思はざりし旅の空ぞかし」などうち詠められつゝ、いと心ぼそし。

 「沖つ風けさあら磯の岩づたひ浪わけ衣ぬれぬれぞゆく」。

神原といふ宿の前をうちとほる程に、おくれたる者まちつけむとて、ある家に立ち入りたるに、障子に物を書きたるをみれば、「旅衣すそのゝ庵のさむしろにつもるもしるきふじの白雪」といふ歌なり。心ありける旅人のしわざにやあるらむ。昔香爐峯の麓に庵をしむる隱士あり〈白樂天之故事〉。冬の朝簾をあげて、峯の雪を望みけり。今富士の山のあたりに、宿をかる行客あり。さゆる夜衣をかたしきて、山の雪を思へる、彼も是もともに心すみておぼゆ。

 「さゆる夜に誰こゝにしもふしわびて高ねの雪を思ひやりけむ」。

田子の浦にうち出でゝ、ふじの高ねを見れば、時わかぬ雪ならねども、なべていまだ白妙にはあらず。靑うして天によれる姿、繪の山よりもこよなうみゆ。「貞觀十七年冬の頃、白衣の美女二人ありて、山の頂にならび舞ふ」と都良香が富士の山の記〈本朝文粹〉にかきたり。いかなる故にかと覺束なし。

 「ふじのねの風に漂ふ白雲を天つ少女の袖かとぞみる」。

浮島が原はいづくよりもまさりてみゆ。北はふじの麓にて、西東へはるばると長き沼あり。布をひけるが如し。山の綠影をひたして空も水もひとつなり。芦かり小舟所々に棹さして、むれたる鳥多くさわぎたり〈るイ〉。南は海のおもて遠く見わたされて、雲の浪煙の浪いとふかきながめなり。すべて孤島の眼に遮るなし。わづかに遠帆の空に連なれるを望む。こなたかなたの眺望、いづれもとりどりに心細し。原には鹽屋の煙たえだえ立ちわたりて、浦風松の梢にむせぶ。此の原昔は海の上に浮びて、蓬萊の三つの島〈蓬萊方丈瀛洲〉の如くにありけるによりて、浮島となむ名づけたりと聞くにも、自ら神仙のすみかにもやあらむ、いとゞ奧ゆかしくみゆ。

 「影ひたす沼の入江にふじのねの煙も雲も浮島が原」。

やがて此の原につきて、千本の松原といふ所あり。海の渚遠からず。松はるかに生ひわたりて、みどりの影きはもなし。沖には舟どもゆきちがひて、木のはのうけるやうにみゆ。かの「千株の松下雙峰の寺、一葉の舟中萬里の身」〈朗詠〉とつくれるに、彼も是もはづれず。眺望いづくにもまさりたり。

 「見渡せば千本の松の末とほみみどりにつゞく波の上かな」。

車返しと云ふ里あり。或る家に宿りたれば、網つりなどいとなむ賎しきものゝすみかにや。夜のやどりありかことにして、床のさむしろもかけるばかりなり。かの縛戎人の夜はの旅ね〈引樂天詩〉も、かくやありけむとおぼゆ。

 「これぞこの釣するあまの苫庇いとふありかや袖に殘らむ」。

伊豆の國府に至りぬれば、三島の社の御しめうちをがみ奉るに、松の嵐木ぐらく音づれて、庭の景色も神さびわたれり。此の社は、伊豫の國三島大明神をうつし奉るときくにも、能因入道伊豫守實綱が命によりて、歌よみ奉りけるに、炎旱の天より、あめにはかにふりて枯れたる稻葉も忽に綠にかへりける、あら人神の御名ごりなれば、ゆふだすきかけまくも畏くおぼゆ。

 「せきかけし苗代水の流れきて又天下る神ぞこの神」。

かぎりある道なれば、この砌をも立ち出でゝ、猶ゆきすぐる程に、筥根の山にもつきにけり。岩がねに高く重なりて、駒もなづむばかりなり。山の中に至りて水うみ廣くたゞへり。箱根の湖となづく。又蘆の海といふもあり。權現垂跡のもとゐ、氣高く尊し。朱樓紫殿の雲に重れる粧、唐家驪山宮かと驚かれ、巖室石龕の波にのぞめる影、錢塘の水心寺ともいひつべし。うれしき便なれば、「うき身のゆくへしるべせさせ給へ」など祈りて、法施奉るついでに、

 「今よりは思ひ亂れし蘆の海の深き惠を神にまかせて」。

此の山もこえおりて湯本といふ所にとまりたれば、大山おろし烈しくうちしぐれて、谷川漲りまさり、岩せの波高くむせぶ。暢臥〈師歟〉房のよるのきゝにも過ぎたり。かの源氏物語〈若紫〉の歌に、「淚もよほす瀧の音かな」といへるも思ひよられて哀なり。

 「それならぬ賴みはなきを古鄕の夢路ゆるさぬ瀧の音かな」。

此の宿をも立ちて、鎌倉につく。日の夕つ方雨俄に降りて、みかさもとりあへぬほどなり。いそぐ心にのみすゝめられて、大磯、江の島、もろこしが原など、きこゆる所々をも見とゞむる暇もなくて、うち過ぎぬるこそいと心ならず覺ゆれ。暮るゝ程に下りつきぬれば、なにがしのいりとかやいふ所に、いやしの賤が庵をかりて留まりぬ。前は道にむかひて門なし。行人征馬すだれのもとに行き違ひ、うしろは山近くして窓に臨む。鹿の音、蟲の聲垣の上に忙はし。旅店の都にことなる、狀かはりて心すごし。かくしつゝあかしくらす程に、つれづれも慰むやとて和賀江のつき島、三浦のみさきなどいふ浦々を行きて見れば、海上の眺望哀を催してこし方に名高く面白き所々にも劣らずおぼゆ。

 「さびしさはすぎこし方の浦々もひとつ眺めの沖のつり舟。

  玉よする三浦が崎の波間より出でたる月の影のさやけさ」。

抑鎌倉のはじめを申せば、故右大將家〈賴家〉ときこえ給ふ、水の尾の御門〈淸和〉の九つの世のはつえを武き人にうけたり。さりにし治承のすゑ〈安德〉にあたりて、義兵をあげて朝敵をなびかすより、恩賞しきりに瀧山のあとをつぎて、將軍のめしをえたり。營館をこの所にしめ、佛神をその砌にあがめ奉るよりこの方、今繁昌の地となれり。中にも鶴岡の若宮は、松栢の綠愈しげく、蘋繁のそなへかくることなし。陪從をさだめて、四季の御かぐら怠らず。職掌に仰せて、八月の放生會を行はる。崇神のいつくしみ、本社にかはらずと聞ゆ。二階堂〈永福寺〉はことにすぐれたる寺なり。鳳の甍日にかゞやき、鳧の鐘霜にひゞき、樓臺の莊嚴よりはじめて、林池のあとに至るまで、殊に心とまりてみゆ。大御堂ときこゆるは、石巖のきびしきをきりて、道場のあらたなるを開きしより、禪僧庵をならぶ。月おのづから祇宗の觀をとぶらひ、行法座を重ね、風とこしなへに金磐の響をさそふ。しかのみならず、代々の將軍以下、つくりそへられたる松の社、蓬の寺町々にこれおほし。その外由比の浦と云ふ所に、阿彌陀佛の大佛をつくり奉るよし、語る人あり。やがて誘ひて參りたれば、尊く有難し。事の起りを尋ぬるに、本は遠江の國の人、定〈淨歟〉光上人といふものあり。過ぎにし延應の頃より、關東の高き卑しきを勸めて、佛像を造り、堂舍を建てたり。その功すでに三が二に及ぶ。烏瑟たかくあらはれて、半天の雲に入り、白毫あらたにみがきて、滿月の光を耀かす。佛はすなはち兩三年の功すみやかになり、堂は又十二樓のかまへ望むにたかし。彼の東大寺の本尊は、聖武天皇の製作金銅十丈餘の廬舍那佛なり。天竺震旦にもたぐひなき佛像とこそきこゆれ。此の阿彌陀は、八丈の御長なればかの大佛の半よりもすゝめり。金銅木像のかはりめこそあれども、末代にとりては是も不思議といひつべし。佛法東漸の砌にあたりて、權化力を加ふるかと有難くおぼゆ。かやうの事どもを見きくにも、心とまらずしもは無けれども、文にもくらく武にもかけて、つひにすみはつべきよすがもなき數ならぬ身なれば、日をふるまゝにはたゞ都のみぞこひしき。歸るべき程と思ひしも、空しく過ぎゆきて、秋より冬にもなりぬ。蘇武が漢を別れし十九年の旅の愁、李陵が胡に入りし三千里の道の思ひ、身にしらるゝ心ちす。聞きなれし蟲の音も、やゝよわりはてゝ、松吹く峰の嵐のみぞいとゞはげしくなりまされる。懷古のこゝろに催されてつくづくと都の方をながめやる折しも、一行の雁がね空に消え行くも哀なり。

 「歸るべき春をたのむの雁がねもなきてや旅の空にいでにし」。

かゝる程に、神無月の二十日あまりの頃、はからざるにとみの事ありて、都へかへるべきになりぬ。其の心の中、水莖のあとにもかきながしがたし。錦をきる境は、もとより望む處にあらねども、故鄕にかへる喜は朱買臣にあひにたる心ちす。

 「故鄕にかへる山ぢの木がらしに思はぬ外の錦をやきむ」。

十月二十三日の曉、すでに鎌倉を立ちて、都へ赴くに、宿の障子にかきつく。

 「なれぬれば都を急ぐ今朝なれどさすが名殘のをしき宿かな」。

東關紀行

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