東京地方裁判所平成14年 (合わ) 第620号

主文

被告人を懲役3年に処する。
未決勾留日数中100日をその刑に算入する。
この裁判確定の日から4年間その刑の執行を猶予する。
押収してあるナイフ1本を没収する。

理由
(犯行に至る経緯)
 被告人は、ファンレターを送ったことをきっかけとしてプロレスラーのXと肉体関係を結ぶに至り、その後も途中中断はあったものの、半年余りにわたって、同人とホテルや被告人のアパートで肉体関係を持った。平成14年11月28日の午前1時前ころ、Xは新日本プロレスの合宿所からバイクで被告人のアパートにやって来たが、2人で話をしているうち、Xの口から「彼女ができた」旨の話が出た。被告人は、精神的に大きなショックを受けたものの、内心の動揺を隠して、Xとセックスをした。Xとしては被告人と今後とも関係を続けたい意向のようであったが、被告人としては、「ずるい。自分は弄ばれたんだ。」としか感じられなかった。そして、眠れないまま、先に寝入ったXの顔を隣に見ていると、「彼を他の女に渡したくない。彼を殺して自分も一緒に死のう。」との気持ちが湧いてきた。そこで、被告人は、Xに気づかれないようにして台所へナイフを取りに行った。そして、再びベッドに入り、横に寝ているXの背中を見ながら、何度も、「今刺そう。今刺そう。」と思うものの、なかなか刺すことができなかった。
 午前10時ころ、Xは目を覚まして着替えをすませ、被告人に対し、「そろそろ行くからね。今日は試合だから。」と声を掛けた。被告人が、「嫌だ。嫌だ。私は、何を生き甲斐に生きていけばいいの。あと1分間だけいて。」と言うと、Xは、「じゃ、あと1分だけね。」と言って、被告人に背を向ける形でベッドの隅に腰掛け、テレビの上の時計の秒針を見ながら1分間が過ぎるのを待っていた。被告人は、このままXが出て行ったら二度と自分のところには戻らなくなると思い、孤独感、絶望感等が極まり、Xを殺して自分も死のうと決意するに至った。そして、ベッドの上に膝を折って座り、布団の中に隠してあったナイフを右手に逆手に握って自分の頭の近くまで振りかぶった。
(罪となるべき事実)
被告人は、平成14年11月28日午前10時ころ、東京都目黒区(住所省略)被告人方において、X(当時26歳)に対し、殺意をもって、所携のナイフ(刃体の長さ約13.2センチメートル)でその背部を2回突き刺したが、同人に抵抗されるなどしたため、同人に全治約30日間を要する左外傷性血気胸、右外傷性血胸及び両側背部刺創等の傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった。
(証拠の標目)
省略
(補足説明)
1 弁護人は、被告人には殺意はなかった、仮にあったとしても未必的殺意にとどまると主張する。一方、被告人は、捜査段階においては確定的殺意を認める供述をしていたものの、当公判廷においては、被害者を痛めつけようと思っただけで殺す気はなかったと供述している。
2 そこで検討するに、関係証拠によれば、被告人は、台所へ本件ナイフを取りに行ったときの気持ちにつき、捜査段階においてのみならず、第1回公判期日に行われた罪状認否の際も、被害者を殺して自分も死のうと思っていた旨供述していること、本件ナイフは、刃体の長さ約13.2センチメートルの先端が鋭利なステンレス製のものであり、高度の殺傷能力を有しているところ、被告人は、自分に背を向けてベッドの隅に座っている無防備な被害者に対し、本件ナイフを利き手である右手で逆手に握った上で右肘を曲げて自分の頭の近くまで振り上げてから、特に手加減することもなく、被害者の背中をめがけて振り下ろして突き刺しており、その直後にも同様にしてもう1回突き刺していること、傷害の部位は、背中の右側と左側といういずれも身体の枢要部であり、このうち、背中の右側の傷は長さ約3センチメートル、深さ約3センチメートルで、先端は胸膜に達し、肋骨に当たって止まっており、また、背中の左側の傷は長さ約4センチメートル、深さ約5センチメートルで、傷の先端は、肋骨の間を通り抜けて胸膜を貫き、肺まで達していること、その結果、被害者の胸腔内からは人体の血液のおよそ3分の1の量にあたる約1700ミリリットルの血液が吸引され、被害者は、治療中、一時、意識を失ったこともあるほどで、出血が続けば死亡する危険性があったこと、被告人は、被害者の背中を2回突き刺した後、被害者からナイフを渡すよう求められたものの、「私も死ぬ。一緒に死ぬ。」と言ってこれを拒み、右手にナイフを持ったまま全裸で被害者の後を追い掛けて道路にまで飛び出していることなどの事実が認められ、これらの事実に照らすと、被告人が確定的殺意をもって本件の刺突行為に及んだことは極めて明らかである。
3 弁護人は、[1]台所には、本件ナイフのほかに、これよりも殺傷能力の高い刃体の長さ約18.2センチメートルの包丁があったが、被告人は、この包丁ではなく、本件ナイフを選択した、[2]プロレスラーであり筋骨隆々の被害者の背中をナイフで刺しても死ぬことはないと被告人は思っていた、[3]被告人はベッドの上でいわゆる女の子座り(すなわち、両足の間で臀部がベッドに接している座り方)をしていたのであるから、ナイフを持った手に力が入るような状況にはなく、結果として傷が深くなったのは、突き刺そうとした瞬間に被害者が突然立ち上がり、その身体の動きが合わさったからである、などと縷々理由をあげて、被告人には殺意がなかったと主張する。
4 しかしながら、被告人が包丁と本件ナイフをともに意識した上であえて本件ナイフを選んだという事実関係の存在自体に疑問があるほか、この点はひとまずおくとして、本件ナイフそのものにも十分な殺傷能力があり、かつ、被告人は被害者を殺して自分も死のうと考えた上で本件ナイフを取り出したものであることは前記認定のとおりである。また、プロレスラーのように筋骨隆々の者であっても、背中をナイフで刺されれば死亡する危険があることはいうまでもなく、被告人においてこの点の認識を欠いていたものとは到底認められない。さらに、被告人が、右手に持った本件ナイフを右肘を曲げて自分の頭の近くまで振り上げてから、特に手加減することもなく、被害者の背中をめがけて振り下ろして突き刺したものであることは前記認定のとおりであるところ、このこと自体でも相当な力が入るものと思われる上に、被害者の身体の動きは、刺突行為の方向とは直角方向のものであるから、傷の深さを増すようなものではなかった。以上の次第で、弁護人が被告人の殺意を否定する理由としてあげるところのものはいずれも理由がなく、前記確定的殺意の認定を左右するものではない。
(法令の適用)
省略
(量刑の事情)
 本件は、被告人が確定的殺意をもって被害者の背部をナイフで2回突き刺したが、殺害するに至らなかったという殺人未遂の事案である。
 被告人は、最愛の人である被害者の口から初恋の女性と付き合うことになった旨の話が出るや、自分は弄ばれたという思いや、被害者を他の女性に取られたくないとの気持ちを抱き、さらには、このまま被害者が出て行ったら二度と自分のところには戻らなくなると思い、孤独感、絶望感等が極まり、その末に本件犯行を敢行している。感情の赴くまま、被害者の生命を奪おうとしており、身勝手な犯行である。また、被告人は、何ら攻撃を予期していない無防備な被害者に対して、殺傷能力の高いナイフでいきなりその背中を2回突き刺した上、同人からナイフを離すように言われてもこれを拒否したばかりか、被告人宅から出た被害者を、手にナイフを持ったまま全裸で追い掛けているのであって、本件は強固な犯意の下に敢行された危険な犯行というべきである。
 その結果、被害者は、全治約30日間を要する外傷性血気胸、背部刺創等の重傷を負い、大量に出血した上、治療中、一時、意識を失っているところ、被害者の治療を担当した医師によれば、本件の刺創は、プロレスラーのように筋肉の発達した者にとっても死に至る危険の高い傷であり、被害者の胸腔内から吸引された血液の量(人体の血液の3分の1くらいにあたる約1700ミリリットル)からみても、これ以上出血が続けば死亡する可能性が高かったというのである。
 以上によれば、被告人の刑事責任は重いというべきである。
 他方、幸いにも犯行は未遂に終わっていること、犯行当日における被害者の言動には被告人の心情に対する配慮に欠けるところがあり、これが本件犯行の誘因になったことは否定できないこと、被告人は、当公判廷において殺意を否認し、自己の刑責を軽減するための弁解をしているところはあるものの、被害者の背中を2回ナイフで突き刺したことは認め、被告人なりに反省の態度を示していること、被害者との間で示談が成立し、相応の金員が支払われていること、被害者が被告人を宥恕していること、被害者は本件による怪我から回復して、プロレスラーとしての活動を再開していることがうかがわれること、被告人の母親が情状証人として出廷し、今後の指導監督を約束していること、被告人には前科前歴がなく、これまで真面目に勉学等に勤んできたことなど、被告人のために有利にしんしゃくすべき事情も認められる。
 そこで、以上の諸事情を総合考慮し、被告人に対しては、今回に限りその刑の執行を猶予して、社会内で更生する機会を与えるのを相当と認めた次第である。
 よって、主文のとおり判決する。
(求刑 懲役5年)
平成15年6月11日
東京地方裁判所刑事第16部
裁判長裁判官 川口政明
裁判官 早川幸男
裁判官 内田曉

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