神宮備林
編集 皇大神宮は、二十年ごとにあらたに御殿舎を御造營になり、そのたびに
この御儀は、天武天皇の御時に定められ、第一回の大典は、
あらたに御殿舎を御造營になる用材は、もと
神宮の御殿舎は、すべて
明治三十七年、明治天皇は、特にこのことに大御心をかけさせられ、そのおぼしめしによつて、木曾の御料林中に、神宮備林が定められることになつた。以來、神宮御造營の用材は、永久につきる心配がなくなつたのである。
この神宮備林は、木曾川の上流が、白い御影石の川床をかんで流れる木曾谷の左右の山々にある。
今、中央線の
このやうにして、山を分けながら谷間をのぼつて行くと、やがて標高千百五十メートルの
みそまはじめ祭
編集 靑々と大空をおほふ檜の大木が、美しい柱のやうに立つてゐる中立神宮備林の朝である。やまがら・こまどり・うぐひすなどの鳴き聲が、谷川の音にまじつて聞えて來る中を、今日のみそまはじめ祭の盛儀を拜觀する人々の列が、林の間の細道傳ひに次から次へ續いて行く。
しめなは・まん幕を張りめぐらした祭場は、檜のあら木造りで、内宮・外宮の御神木の前に南面して作られてゐる。
木の間からもれる初夏の光に、まばゆくかがやく祭場の東から南へかけた林の傾斜面は、拜觀者や、靑年學校・國民學校の生徒などで、うづめつくされてゐる。
午前十時、最初の
やがて第二の太鼓が山全體に響き渡つて、儀式に使はれるいろいろな祭具が運ばれる。最後の太鼓が打ち鳴らされると、奉仕の人々は、はらひ所に並んでおはらひを受け、祭具やお供へものをささげて、靜かに祭場へ進んで行く。
祭場には、中央と四すみに、五色の
奉仕員は、をのを取つて御神木の前方南寄りに進み、大麻でおはらひをする時のやうに、左右左と三たび、御神木の根もとへ向かつてをのを打ち込む。をの入れを終つて、奉仕の人々は、一拜して靜かに祭場を退出した。
内宮・外宮の御神體を奉安する御神木伐り始めの御儀は、かくて終つたのである。
しめなはでかざられた、
午後になつて、この御神木は、さらに白衣を着た十四名のえり拔きのそま夫たちによつて、伐られて行つた。
伐り方は古式にしたがつて、御神木の根もとへとぎすましたをのを、はつしと打ち込むのである。しはぶきの聲一つしない、神代さながらの山中は、しばらくの間、打ち入れるをのの響きのこだまで滿たされる。一打ちごとに、三つの切口から清らかな木のはだが現れる。
切り倒された御神木は、用材の長さに切られ、六十名の運材夫によつて木馬に乘せられ、木馬道を靜かに運ばれて行く。運材夫が聲高く歌ふ木やり歌は、中立神宮備林の森嚴な空氣を明かるくふるはせて、いつまでも響き渡つた。