朝鮮陣古文
一今度朝鮮在陣之軍勢不残可引取之旨上意之旨石田浅野より申越候に付加藤主計頭浅野左京鍋島加賀守毛利壱岐守黒田甲斐守相談仕致放火陣払仕候を拙者共釜山海陣払仕候に其手筈相違仕むさと能成候旨小西言上之処何れも皆偽にて候其子細は此条数之内証拠相見可申候其上先年御無事相済候由にて遊撃并官人渡海之時上様えは大明より侘言申上候由申由申上候得共大明より申分は太閤様御所望に付大明より位を勅許之旨にて日本国王に任せらるゝとの綸旨進上申候彼綸旨を御取出御覧可有之候如此之上にも御不審候はゝ主計頭処に大明よりの証文共有之事にて候太閤様御存生之時小西数年偽申上候間右之段御存被成大明との御無事主計頭に取扱候への由被仰出候小西事は向後彼扱に罷成候においては曲事之旨被仰出候則御成敗可被成候得共退口之様子により可被仰出旨に候然る間御掟に任せ大明御無事之儀主計頭方より申遣候得共主計頭方よりは正直に申遣候故無同心候小西表裏計を申扱ふに付大明人も其趣を度々出抜申候今度退口之様子能々御分別被仰付専一之事
壱岐守申分
一釜山海之城番寺沢志摩守仕候加勢として壱岐守被仰付候然処十一月十六日丸山打明ケ西目に越さるゝ由承候に付同名左衛門使として丸山明らるゝ事如何に候哉左あらは拙者一人残るへき儀にあらす同前に打明ケ相働へきやと申遣候処に志摩守儀は小西同前に最前より無事之扱を仕候間罷越候由申候然るに早此表へも敵之物見相見え殊に順天籠城の上は御無事の儀候事成間敷候主計頭甲斐守明日は可罷越候間此上にも御無事相済に於ては日本の御外聞に候間其方次第と申遣候如此之時分何れの道にも相抱候へは御忠節と存彼丸山も請取両城御番仕候其節御預ケ被成候城を明渡すのみならす剰御無事も不相調結句小西善悪をも見届す番船には追散され南海の城を開退三十里余其日に逃退候事は前代未聞と存候其上釜山海ね各打入両日も逗留の内に御兵粮有之候上様の御船三百艘渡海候間積来るへき儀に候御為をも存候はゝ縦其身は御無事の扱に被趣候其外に有之兵粮をも丸山の城え取置へき儀に候処結句城中に有之御兵粮さへ取つみ御城米之儀一粒も拙者不存候次に釜山浦引取刻放火仕候儀は四人令談合各西目表えも相談之使を遣し候処いつれも舟に乗浮へられ此方の使者に無対面候間此上は陣払可然と相談仕放火いたし帰朝仕候事
連判衆申分
一小西摂津守御無事仕候由にて九月十九日に大明人に為対面罷出候処返り公事被申越敵追掛申候其身の居城え取入急軍兵をも数多被討捕剰対面所に付罷在雑兵以下をも捨ころし沙汰之限成仕合に而籠城仕候然る処同廿一日蔚山へ敵人数数万押寄候同日夜討申付先手一陣打崩に付て翌日廿二日城際之陣を其身用心に陣所之廻り土手柵を付明廿三日辰刻より惣勢を以惣構押寄候条柵際迄引付鉄炮にて打立其崩口を見合諸口より切出首数千討捕【 NDLJP:315】候其外手負死人不知其数候然間味方手負元之陣へ引入在陣仕色々致武略候へとも別之術もなく同廿五日諸陣を令放火五里程の間に引入毎日足軽武者物見を出候間同廿七日羽柴兵庫頭拘へ泗川之出城に敵押寄彼出城取入刻敵得勝利夫に付敵利に乗し泗川城に十月朔日被押寄候処羽兵被切出被追崩候如斯敵於所々打果候故順天を取巻候海陸之敵も十月十日に引取候事
連判衆申分
一右之如く敵引取候上は主計存知は兎角太閤様御他界之由有増相聞候間朝鮮表無越度引取候へは日本之御為に候間引取候ても可然かと甲斐守迄令談合候へは尤と存候間御使徳法印宮木長次郎逗留之内に志摩守可令談合と甲斐守申候てくちやんに於て出船志摩守談合候処尤に候間西目衆中へ可申渡候由にて御注進状以下志摩守差図を以西東同前に仕候へと甲斐守堅申候て其注進状文言も申合筋目に相遣候故裏表之段は御使衆御存知之前に候然る処御無事重て取扱申候由小西申越候旨寺沢触状十月廿五日之日附にて被申越候又々作りくじたるへく候へとも各分別次第と返事仕候左候て霜月十二日之日付にて又小西ぬかれ候て令入城候条其見つき可仕之由にて羽兵羽左居城引払注進状寺沢方より差越候如此之上は諸城引払釜山海え被差出可有相談之由被申越候主計甲斐守返事仕候は十五日夜半之儀に候へは翌日引払儀不可成候間十七日に引払釜山浦え罷出任書中可令談合と申遣候右之首尾に罷出之処主計甲斐守をも不相待釜山浦之丸山打明出船之由に候依然同十八日に西目に可及と存出船候於加徳鍋島令談合候内に十九日の暁彼西目衆舟手に於て敗軍の由其聞え候に付早舟を以相尋候処唐島瀬戸口迄引入候時は順天善悪如何候哉順天於相果は各早々加徳辺迄も可被打入候半哉若又小西善悪をも不被聞届は是迄為後詰差出候間善悪を可承届之旨羽兵羽左兵方へ十九日に申遣候処早々到唐島差越候へ令談合小西善悪を承届度由寺志摩方より申越候羽兵羽左より返事は委細寺志摩可被申と有之儀候如此之処小西廿日之暁南海之南裏を廻り唐島瀬戸口迄至相着候由志摩注進候如此に候へは此方衆中油断候様被申上候も御穿鑿を被遂候はゝ無油断通墨附共御座候然は小西善悪為可承にこそ可及行とは存寄候へ共此上は早々釜山浦へ被打入可然由申遣此方衆中は釜山浦一国一城之儀に候其上東目之敵悉差向之由相聞へ候左候へは一日も無心元候間さきさま相越候由申遣霜月廿二日に至り釜山浦差越候翌日廿三日ニ西目之衆中釜山浦之瀬戸迄被相着候同日晩に相談可有之由志摩守申越候就夫廿四日之朝相談可有儀は如何様之儀たるへく候哉内々承度由志摩守処迄申遣候処一ツにはしいの木島瀬戸口に番船の押へとしてあたけをかけ置候はんや二ツには唐人於西目人質出し候此取納様日本へ可被遣候や様子いかゝたるへき哉は寺沢内三井覚右衛門を以被申越候此趣は此方衆中不能分別候番船押へのあたけ番船待付候て不入事候間此談合に不及候哉人質かた付られ候事其方可被任分別儀候条此方不及相談旨返事申候兎角程遠候而は談合難成候間丸山に打寄可然存志摩守処え小西羽兵被打寄候はゝ夫ね可参と申遣候へは不及打寄候間使者を以可申承候と返事【 NDLJP:316】に候其上に而彼方より相談之儀此御朱印に而分別仕候へとて徳法宮長渡海之時被差越候御朱印最前は双方え令隠密彼時相越候其返事此方より申候様子此御朱印は御無事相済上を以て御仕置と相聞へ候左候へは不入事歟と申遣候只今之御仕置は博多より浅弾石治部少被差越候書中之趣き哉又は伏見より内府公大納言殿より被仰下候筋目か此両条之内に分別候へは相談者不入候由小摂被申事候重て申遣候釜山浦之城御請取度候由は御無事之筋目も候哉又西目衆被打入候船の乗後れも候哉自然於釜山浦各自分之隙入儀も候哉と申遣候へは小摂被申候はいはれぬ人の心中をさくり候哉と被申候然処此方使の者申は左様被仰候へは御相談にては無之哉と申候へは有無の返事も無之に付て別に被仰分も無之歟と再三使の者申候処志摩守申分には今一往御朱印を頂戴あつて可然之旨申候由右之使之者共罷帰申聞に付て重て御朱印取に遣し種々様々拝見仕候上を以令談合候へとも右之趣に替る様子も不致分別候間其通申遣御朱印返進候処早寺沢小摂羽左舟に乗浮へられ候由にて御朱印を請取手も無之様子に候へき左候間に寺志摩内梶原六兵衛と申仁に尋あひ右之御朱印相渡候由使之者申に付て此上は各可致出舟候条城中の儀は陣払可然と令談合其上を以放火仕候事
加賀守申分
一順天面番船差出候に付て談合可申候条早舟にて急度可罷出由寺志摩被申越間九月二十五日国城え罷出候処に翌日寺志摩南海より被参様子承候へは番船如何にも手弱ていに被申急可被及行之由被申某存候者大明朝鮮相催海陸取結たる事に候間日本衆後巻も可有之と敵其覚悟可致と令推量候殊に枝城堅固に被相拘候由被申越候間然る時は聊爾に被仕掛自然越度も候へは結句に摂(依カ)可及難義候公儀御為も不可然候間諸城各相談之之上以丈夫に仕度候而仕かけられ候は可然之由雖令申候無同心先以被取懸於難儀は可被引取之由被申候左候へは敗軍たるへき体に候間不届儀とは存なから不及是非拙者も可罷出由申候然は日限を承候て竹島へ置候船人数可召寄と申候へは三日可被相待候由左候ても順天竹島の間凡海路片路さへ五六日の処にて候間今少被差延候へと重々理申候へとも無承引候然る時は無見懸処に早舟二三艘の体にて罷出候ても御用に罷立儀無之候間自身之儀は不罷出親類之者三人鉄炮相副差出候へ共最前被急の旨に相替被差延候由二三日過候て承付候間手前においても両城相拘候条尚以於相延は我等は可被差戻候由申遣候無為差儀も候処色々物かましく被申上候儀不及是非存候申上度儀共御座候へ共先以差置候猶被聞召上は可申上候事
甲斐守申分
一小西朝鮮中粉骨仕候由書上候旨に候各御存候へは申上候先年平安道に相働川端に陣取候処小西先手え敵朝懸仕先手之者を追立候へ共其身すけをも不仕候然処甲斐守かけ合唐人悉討取候此等も彼仁手柄にて可有御座哉又晋州御責候刻も小西事は各より遅候て責落し申候(後脱カ)参候て片桐市正家来之者取候て鼻をかき捨て置候首をひろひ大将之首を討取【 NDLJP:317】候由申候て出し剰一番乗候て手柄いたしたる様に言上仕候段珍敷儀と存候事に候
一小西平安敗軍之砌大友城への伝ひに甲斐守家来小川伝右衛門と申者入置候しよほんの城迄正月九日晩に逃来候を彼城主甲斐守処迄令注進之依て甲斐守迎に被参小西召連罷越五六日も足を体させ候内に都に御座候備前宰相殿石田治部少輔増田右衛門尉大谷刑部少輔迄於此面可被拘哉と令注進候処かせんほと甲斐守間之伝ひの城をも無届引払かせんほをも可被引入相定第一かせんほと都との間に大河御座候氷解候てよりは人数引取候事不成候間兎角早々可打入旨返事に候其上大谷刑部少輔為迎かせんほ迄相越候間此上は不入儀と存小西并に大友召連都へ罷出候寒天之時分に御座候間小西事具足をも捨具足下一ツの体にて逃来り候を着る物以下其外遣之肌へ迄かくさせ都へ召連候を結句あしさまの様に名護屋において申上候由ケ様之儀幸ひに御座候間御穿鑿被成候て可被下哉いすれも墨付共有之候事に候
主計頭申分
一小西事平安面無事以下失手に付て重て於都御無事之取扱を仕敵方へ令懇望王子をも都に至て返之可遣由にて遊撃を呼こし其儘遊撃に釜山浦之城を可相渡とて偽候て召連此王子御返し候はゝ忝存高麗之儀は不申及唐迄も属いたすへき由申上に付て偽とは不被思召王子を返し被遺候如此に偽申上上様御外聞あしく仕或剰右王子返候儀主計も人数に仕候て唐人之方え申合証文唐人之方之書物有之事に候然は重て御無事之儀被仰出に王子を日本に差渡候事第一に被仰下候由小摂被書上候由左様に候へはさほと王子一人さへ日本え渡度被思召候に王子兄弟并王子兄弟介抱女房王の舅其外高官人共数多生捕候を色々偽申上返候事いかゝ可有御座哉其外又々御無事取扱時も日本人様々偽を申上唐人にも抜れ数度越度を取日本の御外聞あしき様に仕成候事前代未聞に候又此度御無事御取扱候由にて抜れ是を初度々の儀に候不及申今度之引足には羽兵羽左を餌にかひ其身は其間に南海之沖へ廻り逃来り手柄の様に申分不審に存候事
壱岐守申分
一なむもんの城八月十三日に押寄十四日取巻候仕寄之様子為談合蜂須賀阿波守処へ各打寄有之内其晩小西使太田飛騨守楢村監物を以城中に有之唐人共先年以来御無事の取扱仕候者共に候此度被打果候へは御無事の手切仕儀候間御助け候様にと被申越候上様より諸手え御朱印を以向後大明と御無事の取暖仕者曲事たるへきと候て御触候然は小西大明との御無事御内意を被得事候はゝ諸手一札をも被出任其旨助け置れ候へと返事被申候左候へは不及是非旨とて城中被助置候儀はやめられ候御朱印をも御触をも相背如此之段可為越度候事
一去々年甲斐守せんしゆより先へ相働刻唐人ちくさん郡に御同勢有之而てんなん郡へ罷出相拘候を追崩則御同勢居候ちくさん舘をも追払数多討取候其砌都より遊撃使を出都迄被押入候へは其身相果候小西と堅申合子細有之由候て使者を相越候然に返事不仕あとへ被【 NDLJP:318】相詰候はんかと致注進候て逗留中又遊撃使を差越小西かちさし物並摂津守遊撃方への書状相越候然者主計甲斐守迄にて都迄押事いかゝの旨御目付衆中被申候付て任其旨遊撃両度之使を召連加主一手に罷成夫より小西指物并書状の写仕両度に三人の唐人に使者を相添小西方へ遣候処使の唐人をは留置甲斐守方にの返事は無御座候右之如く御朱印を相背重々ほしいまゝに有之段いかゝ御座有へき哉の事
連判中申分
一羽兵父子羽左同一人之衆并対馬守志摩守今度於番舟は各に不似相見合にて日本の御外聞失候事はいかゝに候其上順天つなき南海へさへ不取籠剰三十里余南海引払相遁れ候事各御分別に御座有へく候といへ共申上候先手大友事は小西敗軍に付て歴々諸侍にけ来り小西相果候由再三申に付て陣処を明けのき候其儀不所存と被仰出国を被召上日本一之臆病者と御勘当の御朱印被下関東へ被召放候如此の御法度有之事候此旨よく〳〵可被聞召候事
右条々能々可被遂御吟味候鮮朝在陣中表裏計申扱越度を取日本御外聞失ひ候様仕成候事誠前代未聞候秀頼様可為御法度初候間速に被成御糺明可被仰付之旨宜願御披露候恐々謹言
慶長四己亥年三月二十二日
加藤主計頭花押
鍋島加賀守花押
毛利壱岐守花押
黒田甲斐守花押
阿部伊予守殿
岡田長右衛門殿
楢村監物殿
直江山城守殿
堅田兵部少輔殿
御年寄衆五人之御中
文政四年巳六月写并校之 土屋温直
天保十五年甲辰命筆工胆写弘化二年乙巳九月校之 樋口光徳
明治十六年六月校了 近藤瓶城
明治三十五年一月再校 近藤圭造
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