朝鮮攻守の形勢

 
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朝鮮攻守の形勢
 
 私の今日御話を致しますのは『朝鮮攻守の形勢』といふ題であります。御承知の如く朝鮮と云ふ国は支那の東北隅に出ました半島国でありまして、其の東南には海を隔てゝ日本があります。それで随分古くからして此の両国から攻撃もされ、又両国の争地にもなつて、殆ど朝鮮の国外の関係と云ふものは、此の両国にだけ関係して居るやうな次第であります。所がそれが余程面白いと思ひますのは、昔から朝鮮が日本並に支那に対して出来ました所の歴史上の事実が、最近の事実と之を比較して見ましても、矢張り殆ど同様の筋道を通つて居る事であります。歴史と云ふものは繰返すと云ふことを申しますが、地勢上是は自然の約束であつてもそれで斯う云ふ風になるのだらうと思ひます、其の事を一応申して見たいと思ふ。

 勿論此の朝鮮の歴史と申しますと、朝鮮で出来た歴史もあります、随分古くからありまオープンアクセスNDLJP:226 す。併し矢張り日本などよりかは歴史の出来ました年月が新らしいのでありまして、日本では随分古く、今から千二百年前に日本書紀と云ふやうな本が出来て居りますが、朝鮮では其の国の歴史として纒つた最も古いものが出来ましたのは、僅に八百年前後にしかなりませぬ。それで其の極く古い所になりますと、どうしても本国の記録では能く分らぬのであります、自然支那の記録に依つて見ると云ふ必要があります。支那が朝鮮に対して手を着けましたのは、まだ朝鮮国の歴史と云ふものゝ全くなかつた時代から既に着手して居ります。朝鮮では能く申します、殷の亡びた時に、殷の一族の箕子と云ふ人が朝鮮の国へ逃げて来て、其の逃げて来たに就いて、周の武王に封ぜられて朝鮮国が出来た、それは今の平壌だと申します。併しそれは段々考へる人がありまして、どうも今の平壌ではあるまい、現在朝鮮の平壌には箕子の墓と云ふものがありますが、それは多分偽物であらうと云ふ説が多い。所が其の箕子と云ふものが平壌に来たといふことに致した所が、箕子の来た所は平壌よりもモツと支那の方に近い所であるか、或は平壌よりかモツト支那の方に遠い所であるかと云ふことになりますと、今まで多くの人が即ち学者が信じて居ります所は、モツト支那の方に近い所で、今の遼西地方だらうと云ふことに考へられて居ります。実際箕子が国を立てました朝鮮と云ふ所はハツキリ分りませぬ、併し箕子末孫と云ふものが居りまして、さうしてそれが支那の漢の時代、丁度今から二千年程前に、漢人種と関係しました頃に居りました処は、既に平壌よりか手前の方に居つた、それもいろ説がありますので、其の時矢張り平壌に居つたと云ふ説もあります、平壌より南方に居つたといふ説は、どちらかと云へば、歴史上最も新らしい説に属しまして、まだ十分に其の方の説が発表されて居りませぬが、私共が研究する所に依りますと、其の時既に居りました所は、矢張り今の京城辺であらうと考へるのであります。それは京城と定めるまでには、なか学問上余程むづかしい研究の道行があります、兎に角今日は其の結論だけを申上げます。

 其の京城に居つた箕子の末孫が、遼東の方へ漢の国から逃げて来て居つたものに衛満と云ふものがありまして、それの為に逐出されて、さうして逃込んだのが、益山と云ふ処であります、さうして箕子朝鮮の故地には衛満が国を立てゝ、それは矢張り朝鮮国と申しました、それが又漢の国が盛んになつた時に、漢の武帝が朝鮮征伐を思ひ立つたのが、抑々支那の大陸と朝鮮との間に戦争の上の関係の出来ました初めです。それは漢の武帝の元封二年、西洋紀元前百九年になります、丁度今から二千二十年程前になります、其の時に始めて支那で大オープンアクセスNDLJP:227 仕掛の朝鮮征伐を企てた次第であります、それが余程面白うございます。其の時にどう云ふ戦略で朝鮮征伐をしたかと申しますと、漢の一軍は無論遼東の方の陸路から参りました、遼東の方から来た軍は、矢張り鴨緑江即ち昔の馬訾水を渡り、更に浪水を渡つて朝鮮へ到着する順で来たのであります。又一軍は海上を通つた、記録には斉より海を渡るとあります、斉と云ふのは山東地方を申しました、後世の歴史から考へて何処かと云ふ想像が着かぬことはありませぬが、兎に角山東から海を渡つて、是は真直に列水の入口で、列口と申した処へ到着したらしく思はれます。かやうに海陸両軍が朝鮮征伐に来る次第でありますが、どうしても海路の方が早く到着しますから、海路を取つた将軍、楼船将軍楊僕と云ふ人が先づ此処へ到着したのであります、それで朝鮮の首府を攻めた、所が是が十分の兵力を備へずに、陸路から来る兵隊を待たずに戦争をしたので、それが敗北して山の中へ逃げ込んだり何かした、さうして残つたものを集めて見たが、攻める力が無くて居る所へ陸路の軍が来たので、水陸両方の軍が合併して首府を囲んだのであります。此の陸路の将軍は左将軍荀彘と云ふ人であります、此の水路の将軍と陸路の将軍との間にいろ不和のことがあつたり何かして、随分攻める間が長く掛つて居ります、兎に角水陸の軍が合併した力で朝鮮を攻め落して朝鮮国が亡んだ、さうして漢の武帝の時に今の鴨緑江辺からして朝鮮全体へ掛けて之を四郡とした。漢の時分の郡は日本の郡などゝは違つて大変大きなものである、秦の始皇の時などは支那の本部を三十六郡に分けた位でありますから、余程大きな郡である、それで朝鮮を四郡に分けて漢の領土とした、それが第一回に朝鮮が支那の征伐を受けた事蹟である。

 それから第二回に朝鮮が支那から征伐を受けたのは、それより大分後でありまして、隋の時代になります、隋の煬帝の大業八年、丁度聖徳太子が支那へ交通を開いた時代であります、大業八年は西洋紀元で六百十二年に当ります、千三百年前に当る。其の時は勿論此の朝鮮といふ国は、いろの変遷を経まして、日本書紀などにあります通り、新羅と百済と高句麗との三つに分れて居る。高句麗は其の時に遼東地方、遼河から東の方を持つて居つて大国であつた、其の時に隋からして攻撃を受けました。此の時も攻撃軍が矢張り漢代と同様の戦略を取つて居る、其の時に隋は非常な大軍を起したと云ふことになつて居りまして、陸路の軍が百十三万三千八百人と云ふ大きな数で、さうして二百万と称したと云ふことになつて居ります。勿論それだけの人数が朝鮮へ入つて来られる訳のものではない、詰り此の数と云ふものは各地から徴発した兵隊の数だらうと思ひます、其の中此の遼河を渡つて東の方へ入オープンアクセスNDLJP:228 つた兵隊の数は三十万五千となつて居りますから、即ち百余万の兵でも途中まで来て高句麗の国まで到着せずに済んだものが沢山ある。兎に角三十万の兵は遼河を渡つて、高句麗の領土内へ入つて来た、其の陸路は宇文述と云ふものが大将になつて来た。其外に又前と同様に海路から軍を送りました。其時高句麗の都は平壌にありましたからして、海路の軍は、今の江蘇地方から水軍を徴発して、山東の海岸を繞つて、登州、萊州の間を根拠地として、是から出発して大同江に向つて居る、さうして水路の軍は来護児と云ふものが大将になつて居ります。それで矢張り水路の軍の方が早く入りますから、陸路の大軍が鴨緑江を渡らぬ前に、海路の方は既に大同江に到着して、是が進んで平壌を攻めて居ります。矢張り海路から入つた軍は其の数は少ないのでありますから、平壌を囲むと同時に敗北して居る。さうして大同江の岸まで逃げ帰つて、再び平壌を攻めると云ふ勢もなく閉口して居つた。其の中宇文述の軍が入つて来て鴨緑江を渡つたが、此の時高句麗に乙支文徳と云ふ大将が居つて、是が余程戦略家で、第一に降参を申込んだ。所が降参を許すと云ふことであつたから、それで軍を率ゐて乙支文徳が帰りかけると、隋の大軍が跡を追かけて来た。さうすると乙支文徳は逃げて行く、追かけられて幾らか接戦をする程の距離になると、少しばかり戦つては又負けたやうな体裁にして逃げて来た。鴨縁江と大同江の間に清川江と云ふ河があります、昔は薩水と申しました、其の清川江を渡つて逃げると益々隋の軍が追かけて来る。到頭平壌を距ること一日程位の所まで逃げて来た、隋の軍は其の時に非常の大軍を発して居りますから、兵糧の運送に困つて居つた。それで遼東地方から此方へ進む時に各々の兵卒に百日だけの兵糧を持たせて進ませることにした、百日の間に平壌の都を討ち平らげて帰る積りであつた。所が百日の兵糧を持たせると云ふことは難渋のことでありますから、兵卒は途々に自ら兵糧を減らして行く、陣営を造ると其処へ穴を掘つて窃かに兵糧を打込んで数を減らして行つた。それだから鴨縁江を渡る時は非常に兵糧の不足を感じて居つた。或る人はモウ高句麗の軍を追かけぬ方がよいと言ひましたが、段々高句麗の軍が逃げるものだから、面白半分追かけて行つて、到頭平壌の附近まで行つた。所が平壌は高句麗の根拠地でありますから、是は一箇月や半月で落ちるやうな城ではない、是は迚も落ちぬと云ふことを考へたから、宇文述はこゝで覚つて軍を引返したが已に遅かつた。さうして帰りかける時にも随分用心をした積りでありまして、方陣を造つて退いたと云ふことが書いてあります。所が其の時になつて高句麗の軍が急に盛返して来て、八方から隋の軍隊の退くのを攻撃した。恰かもナポレオンが露西亜のオープンアクセスNDLJP:229 莫斯科から引き揚る時、露西亜人に攻撃されたと同様であります。たゞさへ非常に兵糧に不足を感じて居る処へ、四方から攻撃され清川江を渡る時に、半分くらゐ渡つた時分に高句麗の軍に追詰められて、さんになつて敗北した、清川江から鴨緑江まで息も吐がずに逃げたと云ふことで、鴨緑江を渡つて帰つたものは、バラになつて、少しおまけもあるやうに思ひますが、僅か二千七百人ばかりしか帰らなかつたと云ふことが書いてある、兎に角非常な大敗軍をやつた。隋の高句麗征伐と云ふものは是でもつて全く不成功に終りましたけれども、兎に角隋が高句麗を攻める戦略としては、海路と陸路と両方から攻めると云ふことで、矢張り漢の時と同様の経路を取つて居る。

 それから間もなしに唐の太宗と云ふ有名の君主が高句麗征伐をやつた、是も殆ど一轍に出て居ります。それは唐の太宗の貞観十九年でありまして、西洋紀元の六百四十五年に当ります。即ち隋で高句麗征伐をやつてから僅に三十三年ほど後になります。それで其時には隋の時の征伐に加はつた将軍なども生存して居つて、唐の太宗がそれを呼んで戦略を定める参考に供したと云ふことも記録に見えて居ります。其時矢張り高句麗を討ちますのに、海陸両方から入つて居ります。それで陸路へ入つた軍は太宗自ら出馬して、矢張り遼河を渡つて入つて居るが、此時高句麗は遼東の固めに余程骨を折つて、非常な大軍を出してある。唐の太宗は支那の天子で古今の英雄でありますけれども、なか高句麗の軍を打破るのには手間が取れた訳であります。有名の李世動などゝ云ふ名将が居りました、又高句麗の方には、悪人といはれて居りますが、泉蓋蘇文と云ふものが居りました、日本紀には伊梨葢須弥としてあります。それは自分の主人を殺した悪い悪人と伝へられて居りますが、なか戦略に長じたもので、唐軍に屈しない、遼東で長い間手間を取つて防禦して居つた。結局随分有力な城は取られましたが、併し唐の太宗の征伐は矢張り不成功に終りました。其時も矢張り海路から軍を出して居ります、海路から出した軍は張亮と云ふ、それは平壌道の総大将と云ふことになつて居りまして、さうしてそれはハツキリと菜州からして船を出したと云ふことが書いてある、萊州から船を出して大同江に向つたのであります、即ち遼東の沿岸を伝つて進んで大同江に向つて入りました。さう云ふ所を考へて見ると、唐の時ですらも此の水路を取つた軍は、真直ぐに渡るのでなしに、遼東の沿岸を廻つて居りますから、多分其の前の朝鮮を征伐した海路の軍も、大抵遼東の沿岸を廻つたのであらうと想像されます。唐の太宗の軍が遼東の平定を終らない中に、大同江に入つて囲みましたが、矢張り本軍が到着しないので、非オープンアクセスNDLJP:230 常な敗北はしませぬが、兎に角成功の見込がないので退いて居る。唐の太宗は有名な戦略に長じた天子でありますからして、隋の煬帝の時のやうにまづい敗北の仕方はしませぬでした。遼東に於ける戦は大体に於て唐の太宗の成功に終つて居ります。高句麗平定の目的は達しないが、戦は大体勝つて居る。其の時に出した軍隊は隋の煬帝などのやうな算用のないやり方でなく、適当の兵を出して居る。唐の太宗の出しました陸路の全軍は、十万人戦争に使つた馬が一万匹と称して居る。それが帰るまでに兵の損害と云ふものは、病死したり戦死したものが、十万人の中千余人に過ぎない、但し馬だけは非常に損害を蒙つて、一万匹の中十分の八までは斃れたと書いてある。それから水路から入つたものは、七万人と書いてある、是は多きに過ぎるやうでありますが、それは平壌に入つたけれども成功せずに帰つて居る。つまり此時も高句麗征伐と云ふものは成功はしなかつたのですが、其の通りました道筋は矢張り同様で、一軍は水路から、一軍は陸路からして平壌を攻めて居る。

 それから唐の太宗の子に高宗と云ふ天子がありまして、其の顕慶五年に朝鮮に兵を出して居る。是は三国の間に種々関係もありますが、其時三国は朝鮮で分立して居つて、百済は重もに日本の力を借りて国を立てゝ居る。京城から以南の土地を持つて、群山を真中にして随分広い国であつた。新羅は一番遅く開けて山の中にあつた国でありますが、それが段々発達をして来た、百済と高句麗とが仲違ひをして、互ひに戦争をして居る間に、新羅は段々自分の勢力を拡張して行つた、そうして此の時には新羅と百済の間の地方をも新羅の手に取つた位に発達して居つた。けれども兎角高句麗と百済の為に新羅は苦しめられる、日本と新羅とは仲の悪い関係がある、殊に今の慶尚道の西南部分、即ち洛東江の流域になる地方、其処に日本の領分であつた任那と云ふ国があつたが、其の西の半分の地方は新羅が侵略して取つて仕舞ひましたが、是は後に恢復して百済の領分になつて居ります。それで新羅は百済と始終戦をして居る。所で考へ直して唐の方に援兵を求めた、それが詰り戦の土台になりまして、唐の高宗の顕慶五年、西暦六百六十年、唐の太宗が征伐して後僅に十五年であります。其時に唐の方では高句麗を措いて百済征伐を始めました、此時は陸路から行くべき訳がありませぬから、直ちに海軍でもつて百済を襲撃した訳であります。是はどう云ふやうな道筋を行つたかと云ふことは、是は余程面白い研究問題であります。考へて見ますと矢張り山東の成山角から真直ぐに来ても来られる訳でありますが、或は遼東から朝鮮の海岸を附いて廻つたのではないかと思はれることもあります。それは其後になりまして、唐の中頃に有名な宰相でオープンアクセスNDLJP:231 賈耽と云ふ人がありました、是は地理の学問に詳しい人で、此の賈耽の道里記と云ふ書が、今は絶えましたが其の一部分が唐書の中に遺つて居る、それは唐の方から云へば夷狄の国と言ひますが、国外の各国へ行くべき道筋を詳しく書いてある。其の中に朝鮮の方へ行く道筋を書いたものがあります、其の道筋を見ると、登州から東北の方、大謝島、亀歌島、游島、烏湖島を渡るのが三百里とあるが、今の廟島列島であつて、それから北烏湖島を渡る二百里とあるのが、即ち旅順水道であつて、都里鎮といふのへ到着する。それから沿岸を伝つて、鳥骨江とかいてあるのが、鴨緑江の口で、此処までは海路八百里と書いてあります、それから南の方に廻ることが書いてある。鴨緑江の口からして南の方へ廻つて、烏牧島と云ふ名が書いてある、是は今の朝鮮の鴨緑江の東南に当る身弥島と云ふ島だらうと思ひます。それから貝江口としてある大同江の口の所を通つて、椒島(是は今も同名である)を通つて新羅の国の西北の長口鎮と云ふ所に到着する、長口鎮と云ふのは漢江、臨津江の合流して長い水路を造つて居る所を言つたのであらうと想像する。それから今度はいろの島を通過して居るが、結局得物島と云ふ所へ来ると云ふことが書いてある。得物島と云ふのは、明治二十七年に日清海軍の最初に衝突した豊島の西北に徳積島と云ふ島があります、豊島から島続きになつて居つて、其の端の大きな島が徳積島であります、此処へ到着する。烏骨江から此の間は千里あると書いてある、朝鮮の沿岸を屈曲して歩くので、支那の里数で千里位はあるかも知れぬ。茲に記録の間違ひがあります、こゝで鴨緑江の口の唐恩浦と云ふ所へ到着すると書いてあるが、鴨緑江と云ふのは間違である、此の唐恩浦と云ふのは今の唐津地方であらうと思ひます、それから新羅の都慶州まで七百里あると書いてある、是は大体に於ての計算でありますが、とにかく今の地理と合して居ります。

 高宗の百済征伐には、成山から海を渡つたと書いてありますが、前の例に依つて此の沿岸を伝はつたかも知れぬと思ひますのは、其の海を渡つた唐軍がやはり得物島に到着して居るからであります。兎に角得物島へ到着したので、新羅の方ではそれに対して援兵を出して、今の京城の南に広州と云ふ所がありますが、其処まで兵を出して、漢江の口から船に乗つて唐の軍に合併して、熊津江の口へ入ると書いてあるが、今の群山の錦江の口へ廻つたことゝ思ひます。錦江から入つて百済を攻める順になつて居ります、此事に就ては、日本の記録と朝鮮の記録といろ相違がありますが、能く考へて見ると大体さう云ふ事になります、是が面白い関係がありますから、其の辺の処だけを又仮りに別に図に現はしました。(図を示オープンアクセスNDLJP:232 す)

 其の時百済の都は今の扶余県と云ふ所にあつた。唐軍は新羅の軍と合して第一に之を攻めた所が、百済の方では守りきれなくなつて今の公州と云ふ所へ逃げた、さうして百済は到頭唐の為めに亡ぼされた。是は勿論新羅と両方から挟撃された結果であつて、唐の軍は水路から入つて、それから扶余県の方へ新羅の陸路の軍が入る、そうして百済を亡ぼした。所で唐では此の百済の国を五つの都督府に分割した、さうして其処に官吏を置いて、百済の旧の領分を管轄することになりました。其の一番重もな所は旧の都でありますから、此処へ留守の官を置いて劉仁願と云ふ人が留守番を命ぜられて残つて居つた。それで唐の大軍が引上げると、百済の残党が又唐に背いて義兵を挙げた。此の義兵を挙げるに就ては、勿論日本の力を借りなければならぬので、其時に百済の王は唐の方へ捕虜になりましたから、日本へ人質になつて居つた王子を日本から呼び迎へて、さうして日本から多数の兵を借りて戦ひを起した。朝鮮では百済人は強い人種であつて、其の時に軍を起した鬼室福信とか、余自信とか云ふ大将は名将であつて、それが皆勢が盛んになつて、到頭唐の留守の劉仁願と云ふものを扶余で囲むほど勢力が強くなつた。其時に根拠地にした所は公州或は洪州附近であると申します、いろ説がありますが、元の百済の西北が其時に義兵に附いた所と云ふことがありますから、洪州を中心にした地方がそれであると思ひます。又唐の方でそれを征伐する為に、わざ軍隊を送ることになりまして、又新羅に援軍を申付けました所が、新羅の援軍は先づ今の古阜へ出て行つたが敗北した。是は直ぐ逃げ帰つたので、益々百済の残党が強くなつた。唐の方でもそれではならぬと云ふので援軍を出しました。此時に百済の方に内訌があつて、日本から呼び迎へた王子と鬼室福信と不和が出来て、鬼室福信が殺され、それが為に負ける原因となりましたが、唐の留守軍は援軍の為に此処を守り果せた。それで今度も亦唐の援軍は錦江の口から兵を入れて、それから百済の西北部地方に拠つて居つた百済の残党を征伐することになりました。それで日本の援軍もそれを救はなければならぬと云ふことになつた、所が日本の援兵と百済の大将との間に戦略上の議論の相違がありました。其の時一番の根拠地になつて居りますのは、洪州の南、朝鮮の里数で三十幾里、日本で云へば僅に三四里の所であります、周留城とも、州柔城とも、疏留城とも申す処であります、是は山地であつて、城を守るには都合の好い所であるが、食物などの沢山出来る所でありませぬから、之に拠ることに就て議論があつた。百済の方の大将の意見では避城、即ち今の金堤郡附近に根拠オープンアクセスNDLJP:233 を据える方が宜いと云ふ議論であつて、此の地方は西北の方に湖水を控えて居つて、東南の方には河を控えて居つて非常に穀物の産地であつて、守り宜い地方であると云ふので、此処を根拠地としやうと云ふ考であつた。日本の大将は秦田来津と云ふ将軍であつて、それが異論を唱へて山の方へ楯籠るが宜いと言つたが、到頭百済の意見が行はれた。それで此の地方を根拠地にして居りましたが、新羅の兵、唐の兵の為に侵略されて到頭此処を守りきれなくなつて、元の山へ楯籠ることになつた。さうすると唐の方では大に勢力を得ましたから、今度は百済の何処を攻めやうかと云ふ評議でありました、さうして今の林川といふ所を攻め落さうと云ふ議論がありましたが、之を攻め落すには余程兵力が要る、之を攻めるよりも寧ろ根拠地を攻める方が宜いと云ふ議論になつた。それで唐の兵は錦江を溯つて、攻めるが宜いと云ふので、水路を上りました、其処へ日本の援軍が丁度到着した。詰り此の根拠地が危くなつたのでありますから、日本の水軍も錦江の口から入つて、白村江とあるが、今の白馬渡附近かと思はれる、錦江の江中で唐の軍と日本の軍との衝突が起つた。此時には日本の軍が敗北をした、四遍も戦つて居りますが、遂に敗北をした。これは日本の軍が遅ればせに到着した、即ち唐の軍が地の利を得て居る所へ到着して戦つた、初め戦つて失敗をしたら、其時に準備をして後の支度に掛れば宜かつたが、一度に猛烈に攻撃したらば唐軍が逃げるだらうといふので、又急に戦つたが、矢張り負けた。それで到頭日本から送つた援軍は役に立たなくなつた、到頭根拠地たる周留城と云ふ所は攻め落されるやうになつて、百済は全く亡滅し、日本の援軍は百済の将軍等の残つて居るものを引連れて、日本へ逃げ帰らなければならぬ次第となりました。尤も其時日本から呼び迎へた王子は、こゝで敗北すると直ぐ高句麗の方へ逃げて行つた。日本へ来たのは余自信と云ふ将軍の部下のもので、それ等は日本軍と一緒に逃げて来た。それで日本の援兵は此処で敗北し、錦江の口には唐の軍が拠つて居るから、今の群山辺の海路へ出る訳にいかぬ。それで其西北の沿海地方から逃げて、日本へ帰つて居ります、此時は朝鮮に於ける日本と支那との第一回の衝突でありますが、日本が敗北した訳になる。

 それで是が面白いと思ひますのは、此の衝突をした地方は、矢張り近年日清戦争の時に衝突した豊島の附近であります、是はどうも偶然のことでないと思ふ。何時でも先方から来る道筋は大抵定つて居り、又到着する所も定つて居る。日清戦争の時でも先づ豊島で衝突が起る、それから牙山で起つた、それが日清戦争の序幕であるが、一千二百年前に矢張り同様のオープンアクセスNDLJP:234 地方で衝突して居る。それで昔敗北したのは仕方がないとして、今日では成功して居る、つまり衝突すべき地方は昔からチヤンと約束があるやうに定つて居る。百済はさう云ふやうなことで、唐の為に亡ぼされて仕舞ひました。それから唐の方では高句麗の征伐に掛つた、今度は百済は唐の領分になり、新羅は唐の味方になつて居りますから、新羅の軍が南の背面から高句麗を攻め、唐の軍が西の方から高句麗を攻めるので、高句麗は全く唐の為に亡ぼされる次第になりました。是は古代に於ける日本と支那の衝突の大きな事蹟でもあり、又支那が朝鮮を経略するに就て、最も上手に成功した歴史でもあります。其の後はモウ朝鮮は支那の方へ対して朝貢するやうになつて居りまして、余り支那と戦争したことはありませぬ、尤も遼が起つた時に、高麗が侵略されたことがある、又金元の時も侵略を受けて居る、又清朝が満洲に居りました時も侵略を受けて居るが、陸路からだけの関係である。勿論支那の本国に依つて侵略されるのでなくして、重に遼東地方から侵略されるのでありますから、陸路から侵略されて居る。其の陸路から侵略されるのを総括りをして考へて見ると、侵略は一時成功して居るが、朝鮮を打亡ばすに至つたのは無いのであります。朝鮮を打亡ぼすのは海陸両方から攻めるのが、歴史上一つの約束になつて居るやうであります、是は余程面白いことであります。日本の近代になると、豊太閤の朝鮮征伐をした時は、是は矢張り朝鮮に於ける日本と支那との衝突であるが、それは矢張り陸路であります。日本軍は平壌で敗北をして引上げて来て、京城も捨てゝ南方へ楯籠る処であつたが、和睦が出来た。所が又和睦が破れて二度目に朝鮮征伐をしたのが、全羅道、慶尚道、忠清道の三道に楯籠て居つて、二度目には到頭京城まで進まなかつたのでありますが、此時は日本の軍は最も不成功であつて、海軍は情ない程のものであつた。唐と戦つた時は結局敗北に終つて居るが、兎に角朝鮮の沿岸を廻つて、朝鮮で最も中心地方の肝要な処までは到着して居る。戦は敗北して居るが、戦略に於ては決して誤つて居らなかつたと思ふ。所が豊太閤の朝鮮征伐の時は、何時でも釜山附近の根拠地から少しでも先きへ出ることは出来ない、慶尚道の端まで出掛けて行つたことはあるが、李舜臣と云ふ朝鮮の名将の為に逐ひ帰されて居る。二度目の朝鮮征伐は、明の軍が北の方から攻め来るを防禦して居りましたが、最後に一番西の方に居つた小西行長が順天から出発して帰つて来る、東の方釜山附近に居つた清正などが帰つて来ると云ふので、兎に角日本の海軍の根拠地と云ふものは、順天湾以西に全く及ばなかつた、是が詰り文禄の役の失敗の大なる理由になると思ひます。

オープンアクセスNDLJP:235  極めて大略でありますが、兎に角日本と支那との朝鮮に於ける衝突の歴史と云ふものは、さう云ふ風になつて居ります。是は将来でも同様であらうと考へられる。併し昔よりか形勢の変つて居ることがあると思ひます、支那の方から朝鮮へ軍隊を送るのでも、海岸を伝つて来ずに、本国の海岸から、真直に何処でも目的の地へ渡つて来るやうになりました。唐の末あたりから成山を根拠地として居る所を見ると、是から真直ぐに行くと近いと云ふこと位は発見されて居つたに違ひない、けれども兎に角遼東から沿岸を伝はつて来るやうになつて居つた。日本では朝鮮の南方の沿岸を伝はつて、西南の角を廻つて真直ぐに北の方に上つて行くと、朝鮮の中心地点になる所の得物島で衝突すると云ふ約束が定つて居つたらしい、是は船の小さい時で、沿岸を航海しなければならぬと云ふことで、斯う云ふやうになつて居つたと思ふ。今日は余程形勢が変つて居る、日清戦争の頃は、支那の海岸根拠地は旅順口と威海衛に置いたのであります、さう云ふ形勢で今日の軍艦は何も沿岸航海をする必要はない、朝鮮のやうな多島海を航海するは危いと云ふので、大きな海を渡つて航海するのであります。今は旅順は日本が持つて居り、威海衛は英国で持つて居りますが、若し旅順に或は威海衛に根拠地があれば、支那の海軍は真直ぐに朝鮮の西海岸の何処へでも到着することが出来る、遼東へ廻つて行かずに行けるのであります。昔は大同江へ入るにも、牙山附近の唐津地方へ入るにも群山の方へ入るにも、一本道を来たのでありますが、今日ではさう云ふ必要はない、真直ぐに向つて進撃が出来る地位になつてゐる。日本の方はどうかと云ふと、日本の方はさうはいかぬと思ひます、日本の方では今日は釜山へ渡つて、釜山から沿岸航海をして向ふへ行くと云ふことは必要がない訳であります、けれども日本の地勢は、佐世保あたりから進んで行くには、さう支那のやうに八方に航路が拡がつて何処へでも行けると云ふ訳でなしに、矢張り朝鮮の西南角から一本道に朝鮮の沿岸を進んで行くより外に仕方がない。それで私は素人でありますけれども、今日の形勢から考へますと、若し朝鮮の沿岸で戦争が起ることがあるとしたら、支那の方が利益であるか、或は日本の方が利益であるかと云ふと、支那の方が利益であると考へられる、日本はどうしても一本道を進むより外に仕方がない、支那の方の形勢と両方比較して見ると、確かに日本の方が不利益であらうと考へる、斯う云ふ事は昔からの歴史を考へて見ると明かに分ります。昔は兎に角両方とも一本道を行つて、何方か強い方が勝つ、それで其の時分には日本の海軍は支那より下手であつたと見えて敗北したが、近年は朝鮮の沿岸は日本の勢力範囲に帰して、其の間の領海権を得て、支那に向つて、オープンアクセスNDLJP:236 旅順口なり威海衛に向つて進撃することが出来る。それで若し支那の海軍が日本と対抗するに足る丈の者であつて、何時でも朝鮮に向つて攻撃すると云ふことであつたならば、日本で之を防禦するのは余程骨の折れることゝ思ひます。勿論日本の海軍の地位としては、朝鮮の沿岸を防禦するやうなノロくさいことはしますまい、佐世保なら佐世保から真直ぐに支那を攻撃した方が宜いのでありませう、朝鮮の沿岸などは捨てゝ置いて、直ちに旅順口を攻撃すると云ふことを取つたやうであります。兎に角此の歴史を考へて見ると、日本或は支那、或は其の他の国であつても、兎に角支那大陸に根拠地を有つたものと比較して見ると、朝鮮に対する形勢上の利益は、大陸に根拠地を有つたものにあつて、日本に根拠地を有つたものは利益が少ないと思ひます、是等は日本の将来の国防の方から考へると、大に研究すべき問題であつて、其の研究すべき問題は、矢張り朝鮮に於ける攻守の昔からの歴史を考へて見ると、余程参考になるだらうと思ひます。千二百年前に朝鮮で支那と衝突した時も群山附近、それから千二百年後に日本と支那と衝突したのも豊島附近、斯う云ふやうに歴史は古今同一の径路を取るものであると云ふことを証拠立てゝ居る、是が歴史の決して忽せにすべからざる所であつて、単に朝鮮の形勢に就て考へましても、この歴史と云ふものは大に国防上考へなければならぬものだと云ふことは分ります。勿論今日の戦術などを研究される方は、さう云ふ事を眼中に置いて研究されて居るには相違ないが、私共の如く全く門外漢が単に戦術の事も戦略の事も知らずに、歴史上から考へて見ても、恐らく是は同一の結果を得て居ると信じて居ります。

(明治四十四年八月八日呉市講演)

 
 

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