オープンアクセス IA:20朝倉宗滴話記

  宗滴様御雑談共はし萩原覚

山城にても、平城にても、むたひに責べき事、大将のふかく也、其故は可然兵共目之前にて見殺物にて候、是又分別之専イ一也、

先年京陣之時、東寺に公方様をはじめ、其外御近辺に、皆々御陣取候、当方之衆はにしの庄に、御大将陣西七条御所之内、せんしやう寺迄御陣取候、□□敵は□□丹後□□摂津の国山崎よりにしのおかかいで迄もちつづけられ候つる、然ば宗滴様御異見に、南表をば打捨られ、北表京之方を本に要害堅固にさせられ候て然べきのよし被仰候、其分にやうがい拵させられ候処に、道ひ様六角殿をはじめ申、敵ある方をばうちすて、てきなき方を、要害堅固にさせられ候事いかゞの旨、おの御不審候ところに、程なくあんのごとく北の方まわりとりより候間、北むきになり候へて御とりあわせ候、然ば前に入ざる北おもてのやうがい御用に立候間、さりとては奇特なるよし、天下の諸さぶらひ御取沙汰のこと、

武辺の義に付て、一切成まじきといわぬ事也、心中の程見かぎられ候者也、

敵のふまへたる所を取懸候者、敵こたへ間敷などといわぬ事也、取懸候へて、自然敵こたへ候へば、諸勢心かわるものなり、

馬には時々カタキ大豆を水にふかして可飼也、野陣などにて鍋釜無時之用也、

仁不肖に不寄、武者を心懸る者は、第一うそをつかぬ物也、聊もうろんなる事なく、不断理致義を立、物耻を仕るが本にて候、其故は一度大事之用に立つ事は不断うそをつきうろんなるものは、如何様の実義を申候へども、例のうそつきにて候と、オープンアクセス IA:22かげにて指をさし、敵御方共に信用なき物にて候間、能々たしなみ可有事、

惣別武者之時は、一切如何様なる大事之儀をも、口上にて申付候間、少もうろんたる事にては無勿体事、

先年加州湊川を被越御合戦候時、被討捕頸数五白余に候、其内に一向幼少なる首をば撰び出され、彼取手を被召寄、直に被返遣候事、但前々足軽合戦之時は御撰なき事、

大事の合戦之時、又は大儀なるのき口などの時、大将之心持見んために、士卒として種々にためすものにて候、聊も弱々敷体を見せず、詞にも出すべからず、気遣油断有間敷候事、

武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝事が本にて候事、

大将たる仁は不申、似合の人数持候人覚悟の事、第一内の者能々なりたち候やうにと、不断心懸看経すべき也、殊に久敷侍もとより新参当参の者にても、忠節奉公仕たる跡、幼少の子供あらば、いかにも大切に取立、人に成やうに懇にすべし、自然実子無之侍をば、親存生之時に似合の養子を仕候へと意見を申加へ、跡の不絶やうに申付候へば、無子ものも安堵の思をなし、添存候て身命を軽んずるものにて候、如此懇に候へば、内の者冥加にて聞及び見及び頼もしく存じ、内輪の者は不申、他家より忠節奉公可仕とて、可然者共出来候事、

主人は内の者の罰当り、又内の者は主之罰当る也、君臣共に油断有べからず候事、

内輪の者所持の馬鷹、其外太刀長刀絵讃唐物以下、無理に所望有間布事、惣別内輪に所持の重宝は、何も主の物同前也、但一旦所望あらば、相当一倍を以て所望有べし、無其儀候へば見たり聞たりして、内輪に物をたしなむものなくして、結句前々より所持之名物をも、他国へ出す事候、能々分別有べき事、

人をつかふに、二人こらへ候者あれば、譜第の者を召仕れ候也、其故は先内之者不届事を主人こらへ候、又主人に対し述懐を内之者こらへ候、如此互にこらへぬき候へば、子飼之もの余多出来大事之時用に立候、大犯三ケ条之科は、更に主人之成敗にあらず、此段右衛門大夫殿、宗滴へ直に被仰候事、

召出す風情、又は聊の物をたべさせられ候とも、一人二人執分たるやうにはすべからず候事、

内之者にはおぢられたるがわろく候、いかにも涙を流しいとをしまれたるが本にて候由、昔より申伝候、左様に候はでは、大事之時身命を捨用に難立候事、

内之者にあなどらるゝと、主人心持出来候はヾ、はや我心狂乱したるよとさとるべし、其故は敵にさへあなどられまじき身上を、何とて内之者にあなどられ候はんずるや、一段比興なる心中且は家之乱の基也、

国郡を持つ大名、武者を心懸、器用の名執する人は、天下共に同物也、第一近く本ノマヽ軽也、まづ我身の不弁を閣き、内之者時宜調へ候やうに普く不便がり、公界クカイへはゞをさせ、末々迄も威勢有やうに崇敬候へば、諸事に付て徳多き也、執分いかなる長陣、又は俄の晴役の時も、主人の雑作不入候事、

たうせい、人仕之手本は、六角少弼殿三好方家中眼前事、

大名比興の名執をするかた是又一天下共に同前、いかにも重々敷あたりの人さけおし無礼にて第一狐疑之心有て万事人疑をなし、内之者より隔心せしめ、或は家中之者有力にて人に参会し、物すきなどする事も小眼に懸け、或は世上へはゞをし、芸能など嗜事をきらひ、折々は女房衆小姓衆を近付、我身の無器用をかげにて咡候歟と立聞をさせ、やゝもすれは、毛を吹て疵を求め、理不尽に鼻をつかせ、其跡知行分多少によらず、屋内迄押執、米銭黄金を蔵に積重ね、聊も絶事なく財宝持たるを満足し、充満無極、雖然一度不慮の凶事出来候はば、必積置たる財宝悉く無体に消失、其家共に滅亡候、此類古今共に聞及び候、執分畠山ト三以来数多有之、当国には右衛門大夫殿眼前の事、

惣別代物黄金充満候へば、大名によらず末々の者迄も、一度凶事出来候て滅亡するものと相見へ候、近来は田屋善定幷上木覚勝など眼前之事、

大名比興成きやうき気□□□□□□□其内輪には無沙汰候へ共、悪事千里とやらん、悉他国までオープンアクセス IA:24聞ゆる物に候間、無油断嗜あるべき事肝要也、

英林様御身上奇特に神変難計事多く候といへども、第一慇懃を以て国を治めさせらるゝ由、年寄共申候つる、諸侍への儀は不申、百姓町人風情迄も、御懇切之御文言、宛所なども過分忝様に被遊候に付て、悉身命を捨御みかた仕たるよしの事、

英林様御諚に、小太郎者随意にそたち候間、我々以後は諸侍に対し可無礼候、より慇懃の事を御意見候へのよし被仰出候旨、桂室様常に御物語候事、

当世は上意に付て国持幷近侍之差別無之、雖然我々は不混、自余書札之礼儀等少も本々に替まじきの由、堅萩原に被仰合、御状等認させられ候事、

音信の秘蔵の馬鷹、其外重宝人に遣事候に、書札慮外に候へば、彼遣たる珍物尽く無になり、出さゞるには、おとりたる事に候、下手と上手との気遣これほと違申物也、能々可分別事、

国を執人之扶持する事、濃州古持世イ院は何万貫何千貫二百貫廿貫とつませ置、諸侍に相当扶持候、又英林様御扶持候やうは、そんちやう誰々が跡々に御扶持候と御知行被下候、然ばらん本ノマヽふかうこイんにて御知行一通にて五百石千石被下候も有り、又五通三通被下候得而も五十石百石なきも候へ候、如此博被下候へば普く添存忠節奉公仕候に付て、至于今御国長久弥御繁昌候、貫数定り御扶持候へば、侍の高下相見へ候て無曲候、然間濃州は漸二十箇年ばかり続候歟、其以後五十年に及び錯乱候事、

人間としてタクハヘなくては不叶物にて候、雖然余に徳人のごとく蓄を本として、代物黄金過分に集置仁体は、本々より武者はせざる由申伝候、但伊豆之相雲ははりをも蔵に積べきほどの蓄仕候つる、雖然武者辺につかふ事は玉をも砕つべう見へたる仁に候由、宗長常に物語候事、

主人内之者の覚悟よく見知らずして、執分召仕候事不覚フカク也、其故は後難をも不弁、当座の得手方ばかり馳走仕候を、正直の奉公人と心得、別而目をかけ召仕候事、併家を滅亡候基也、

番匠のすべき事を河原の者にさせ、又河原の者のする事を番匠に申付るごとくなる人、つかひ目きかず下手の最上也、いかなる利根の中にも、得手不得手は有ものにて候、それに随ひ、似合ひ に召仕候へば、諸事打任せ主人の辛労ゆかざるものに候事、

朝夕の食は善悪面にて喰候はんずるが本にて候と、幼少の時より年寄衆申候つる、然間我等は一世の間内儀にて志たゝめたる事無之候、自然桂室様御如本ノマヽ本御出の時は御相伴したる事候、左候間、万曲て皆共に申付ナヲさせ候事、

我々子かたわに候とも、妻を執迎さいあい候はゞ、子共出来可相続候か、然者実子を止養子を仕候事、不知者は不審すべく候、天沢様御代小次郎殿幼少之時、朔日節供出仕候体兄及候に、諸侍のあひしらひ一向無曲体に候、彼方不肖には候へども、英林御孫と申、子春のさしつぎ次郎左衛門殿子に候、雖然末々に成候へは若期に候か、不是非候、扨は我々子共、弥末々に可成候、もとより家来の者共可下座事、不便之至口惜次第と存きはめ、所詮実子を止め摠領へ近くなすべきためを申請家督に相定候、是も内の者共の為、始終可然之様にとの一儀迄に候、惣別家内の者共、何れも英林様不断召遣はれたる歴々の人数に候、我等は新座之主と存置、皆々行末能様に候へかしと、旦夕念願ばかりに候事、

英林男子八人候、合戦之時自身持道具に血を付候は、我等一人にて候、十八歳より七十九歳迄、自国他国の陣十二度、其内馬の前にてさせたる野合の陣イ戦七度に候か、其内三度持道具に血を付候、三十の年大一揆伐崩刻、中江河原におゐて馬上より長刀にて討候、其首中村清右衛門にとらせ候、三十一の年玄忍出候時、帝釈堂にて馬上より射付、其首古岩井宗左衛門にとらせ候、五十一歳京都におゐて泉乗寺合戦の時、敵三人射付首ども皆々にとらせ候、如此内之者同前に働候間、士卒よこふり有間敷之由、常々御雑談候事、

十八明応三年歳豊原寺江日帰窄人出張之時、十月廿一日合戦有之、十九明応四年歳柳ケ瀬合戦陣なし、廿七文亀三年歳敦賀城責、卯月三日合戦有之、廿八永正元年歳五郎殿出張に付て弥合戦有之、九月十九日金井殿父子討執之三十永正三年の年に大一揆之時、七月十七日豊原より退口合戦有オープンアクセス IA:26之、同八月六日中江河を越し合戦有之、敵数多討執之三十一永正四年歳玄忍出候時八月廿九日合戦有之、四十一永正十四年の年、丹後陣足軽合戦幷城責有之、四十九大永五年歳江州北の郡大谷七月十六日城責有之、五十一歳京都泉乗寺十一月十九日合戦有之、五十五享禄四年歳加州陣十月廿六日湊川を越し石河郡之内におゐて合戦有、其外度々足軽合戦有之、六十八天文十三年歳濃州陣九月廿二日井之口悉放火、七十九弘治元年歳加州陣七月廿三日山城三ケ所落居、但二ケ所にて合戦有之、八月十三日浜之手敷地口一日之中両三度之合戦、何も馬之前にてさせ候、已上十二度之事、

覚有之大将といふは、一度合戦之時持道具を自身執候はでは難成由、昔より申伝候事、

我々一世之間、敦賀へ上下何時も一日懸に仕候、此儀は我等彼郡を預り申に付て、自然之時之用所迄に如此候事、

我々七十に余候迄、毎年川より北の道筋見候はんために、鷹野と号し細々下候、是又別義にあらず候、彼国より一度形入カタイレ仕候はでは不叶と存、其時の用所迄に候、惣別我々存命中は武者奉行可仕候間、何時も教景可懸向候、無案内にて絵図などを以て、即時の手遣は浅猿と存不断の心懸無他事候事、

惣別国中の道筋、かんしよ道、又順道、ふけ馬の沓打候所、又不打所、能々可知事肝要に候、

武者を心に懸候仁は、隣国之儀は不申、諸国之道のり、其外海山川難所等可尋知事専一に候事、

合戦之勝は、大略あぶなき行仕候はでは難成之由、古今申伝候、但英林様被仰候は、定之勝は敵の勢を知候はでは難義候由、被仰候由の事、

侍は仁不肖によらず、まづ若年の時器用の名執をする事、弓矢の冥加果報の第一也、其故は若時無器用なる名執仕たる仁は、成人候て器用者に成候は稀に候、又若年之時、器用成仁は、成人候てたとひ無器用之様子に候へども、暫は其沙汰不聞物に候間、嗜肝要候事、

一度卒度の事に合候とて、久武者をも不見候はで功者ぶり仕候者ども、一段おかしき事に候、其故は古泉四郎右衛門常々語候つる、武者遠なり候へば、足軽に罷出候時、矢風おそろしく細々打出、敵に合候へば、少々の矢をばかりおとし候はんずるやうに存ずる物にて候と申候つる、さりとては無余儀候、人数持候人も可同前候、我等は十八歳より七十九歳迄、諸陣之間十年と隔たりたる事は稀に候事、

功者の大将と申は、一度大事の後に合たるを可申候、我々は一世之間勝合戦ばかりにて終におくれに不合候間、年寄候へども、功者にては有間敷候事、

或は陣執、或は陣替、又は執出などの事、時により事により候物にて候へども、凡雨の降日用意候て、諸事を申付候へば必照日に合ふものにて候、是は鷹野風情一切之出行事普請以下に付て可誉悟事也、惣別海上もあれ、のわきと申事候、物の下手は照日を見かけ用意候間、必出行普請等の時あれにあふものに候事、

舟に酔事、向に敵候て心懸る事候へば、一円に不酔ものにて候由、皆々被仰含候、先年丹波イ舟手を以御勢遣候処、如案一人も酔たる者無候、打もどりさまには、皆酔たる由申候事、

当代日本に国持の無器用、人つかひ下手の手本と可申人は、土岐殿・大内殿・細川晴元三人也、

又日本に国持人つかひの上手よき手本と可申人は、今川殿義元・甲斐武田殿晴信・三好修理大夫殿・長尾殿・安芸毛利殿・織田上総介殿、関東には正木大膳亮殿、此等之事、

譲持に持たる国持は、是非の沙汰に不及候事、

義景様の器用は、英林様已来有間敷候か、其故は我々八拾歳に及候を加州武者奉行に被立候事、大丈夫成御心中難測候、但自今以後を守て肝要に候間、如何可有旨常々被仰候事、

歩立は初心に候とも、弓の執扱、矢をはぐる所手に入候はゞ、武者に弓を持べく候、手元不弁に候はゞ、歩立は如形候とも、弓を置鑓を為持可然候事、

小兵なる射手は鑓の代に弓を持候間、ぢやうね木ぼうは持まじく候事、根五つばかり細すやき五つ持候て可然候事、

我々若時より天沢御恩は重々不申候、殊更敦賀之郡之儀被仰付候、宗淳御恩は一向無蒙事候、但天沢御恩にも劣間敷候事に候、其故は丹オープンアクセス IA:28後・近江・京都・加州・美濃如此諸国武者奉行として被相立候、御厚恩無申計之由常々被仰候事、

上下此等式の事には、鼻をつき成敗に及まじきと心得、随意緩怠比興を仕候事、一段未練至極なる心中成事、

生付どん性たる者は、真実無如在事候間、不便之至に候、如形心得たる者、我知慧ほど人は有間敷と身をゆるし、比興無理非道を仕候はゞ、一段おどけ者にくき心中可重罪事也、但上下によるべからざる事、

人之恩は不断不忘候、又人に恩をしかけたるがよく候、それを忘れず候へば、結句述懐出来候し、前々しかけ候恩も無になり、必義絶になる物にて候事、

人に媒申噯事アツカフなど我意見にて不相果候へば、失面目申候て不足に存、以後越酌之事、近来我身を持上ゆるしたる事、比興の至に候、人を大切に存候はゞ、幾度も噯之馳走すべき事人之本にて候、随分双方のため可然候様に申候て、意見を不聞ものこそ耻にて候へ、更に噯人の耻不足には成まじく候事、

賢き者の子におどけは次第に多出来る物也、おどけ者の子に賢きものは稀に候事、

我々八十歳に及迄、惣領殿に対し申、不似合体の奉公馳走仕候事、へつらいたる様にかげにて申噯由候、無分別申事おかしき儀に候、其故は我々百歳に成候とも、行歩叶候はんずる間は、武者を捨まじく候、惣領殿趣向よく候へば、国中の諸侍いか様にも申付たきまゝに召仕事に候、殊更に英林様白髪頭に甲をめし、御辛労を被成、被召たる国に候間、第一御国の為に候、外聞はいか様にも候へ、如御主何事も御意次第とはひつくばうべき心中に候由、常々被仰候事、

尋常の落髪は主にをくれ、或は勘気の身に候か、又は随意の覚悟に候か、此等の外にはなきものにて候、一向発心出家の儀は不沙汰候、先年性安寺殿御落髪之時、御相伴に落髪仕候へかしと、内々意見之族候つれども、存の旨候て相抱候、然者御西殿不慮の御進退に付て、彼御命のため頭を用に立候間、満足之由被仰候事、

我々十九歳の時、芳永色々武者雑談御沙汰候て、御聞かせ候つる事多き中に、合戦之時武者奉行たる人諸勢の跡に居たるは悪候、先に立たるが本にて候、其故は或は分捕仕たる者、或は手負たる者、大将に見せ候はんずるとて旗本へ集り候、然間序口之人数厚成候へて弥強候、跡にひかへ候へば、退事は得手方に候間、右のごとく旗本へ悉集り候とて、一口之人数すき候て、敵二三掛り候へば必後をとり候、其時大将けなげに候て、こらへ候へば、諸勢に踏ころさるゝ為体、相搆て能々可覚悟事肝要候由御物語候間、我々一世之間合戦之時、一度にても跡に控たる事無之候、其隠れあるまじき由、常々被仰候事、

諸勢を召連、何方へつかはれ候とも、我々などは武者奉行たるべく候間、重々敷候ては、一向不叶候事、

大将と申は、御屋形様にて候間、かろ敷候ては、一向不然候、扇の要のごとくたるべき由、芳永にも御雑談候事、

大将すべき仁は、先とらざる弓矢に名を可執心懸肝要に候、無器用之名執仕候へば、縦合戦候時、働よく候共、まぐれ当と申候而、士卒一向下知をも不聞物に候、不断嗜第一之由に候事

芳永我々弓をすき候かと御尋候、其時御雑談之事多き中に、主人弓にすき自身歩立仕候へば徳多候、其故は内輪之者共、主人の御伽に弓可仕とて末々迄稽古仕候間、射手多出来候、主人歩立不仕候とも、士卒に弓稽古仕候へと申付候へば、てんやく又は過怠之やうに存候て、一向射手不出来ものに候、殊更大将弓にすき候へば、不慮之合戦有之物に候、其故は或は野伏させ、或は射こみなどして見る物にて候、惣別敵味方相互にねらひあひ候物に候間、卒爾には合戦なきものにて候、自然野伏など仕候へば、不慮に合戦ある事に候、其上唐土日本共に、弓執とこそ申伝候へ、鑓取とは不申候、いかにも不叶候とも、弓に数寄自身可稽古事肝要候由被仰候事、

犬追物御射手組之衆、武者之時馬上に弓不持仁は一段不覚也、其故は造作を仕、稽古候は何之時の用所に候や、但一円歩立不弁に付ては不是非オープンアクセス IA:30候歟、雖然馬上にて鍵長刀持候はんずるよりは、弓持たるはますべく候歟の事、

天下に権柄を執たる仁体、細川常恒幷三好家、其外諸国之侍合戦に伐負候時、昔かゝりにて候哉、自害候事無念之至不覚也、其故は敵は仁不肖には不依候間、いか様なるものにても候へ、相手一人取可討死事に候、近年之権柄執しは、木沢左京亮大刀下において討死候、古今稀なる働無比類候事、

尋常の年寄、夜は目いねられず、徒然なる由に候、我々は今徒然なる事一向なく候、其故はまづ国中におゐて北辺之儀は不申、或は東を請南を請西を請可合戦行、或は不慮に御屋形様と只二人になり、惣国を敵に請合戦切勝べき調儀又加州之儀は不申、其上に隣国執懸伐取べき調儀、又天下を執御屋形様上京させ可申謀略、重々様々思案候間に夜を明し候間、一段之慰心乙嗜無申計候間、聊も徒然に無之候事、

隣国之儀は不申、諸国執合之趣、同合戦之勝負の行等、当世之諸国侍、一向不案内と聞候、近来無存寄なる事也、存知たる者不僧俗尋求懇に聞候へて、よく可覚悟事肝要に候、其故は諸事に付て、後学行掛になる事徳多候也、

武者辺に付て、大方さげすみつもりは有物に候、旧真之果所は、八幡も被知間敷由、常々被仰候事、

我々無欲心なる由、世上に申族有之由候、一向相違おかしき事に候、其故は何時にても、加州之儀又は濃州辺可給之由候て、御人数被仰付候ば、聊辞退申まじく候、但ちりとしたる道なき事の欲心、又は被官家来之者に不謂義申掛、つり貪可押領欲の所存、若時より努々無之候、然間扶持せざる陣衆被官人等我々代にて余多出来候、大慾者いかなる仁体にも負まじき由、常々御ざれ言候事、

惣別先祖之判形無体に破候仁体、其身一代は能様に候へども、子孫に報ひ罰当り、跡も絶ものにて候と相見へ候、誠は天道おそろしき事也、我々兄弟の儀を申事は如何に候へども、孫五郎殿・孫七郎殿・英林様之御判を被破子孫退転之事眼前之事猿楽道に蓮花を治ると申事、一段秘事にて候よし、善珍弥次郎申候、是は侍之上に専可入事は口伝有之候事、一仁不肖に不依、又上下に不限、武者数寄たる侍は、天道之冥加候て、衆人愛敬福分之相也、又無数寄に候て、武者嫌の侍は、仏神の綱もきれ、第一人ににくまれ、ひんぼうの相也、其故は武者嫌は諸人に対し懇なる事なく、内の者には目を掛ず候へど、をのづからすいびすると常々御雑談候事、

侍は信心肝要也、但余に過たるはおどけ者の名執すると相見へ候、其故は少々の事をも、神仏のとがめぞと思なし、心のあやかりに成ものに候、惣別之看経には現世安隠後生善所第一弓矢冥加、此外は有まじく事に候、色々難題を神仏へ祈誓仕懸候へば、神は非礼をうけざる故に、諸事不叶事共に候、当世は布施をもしかと不出、剰神社仏寺領無体に落しとり、天役に祈祷をさせ候間、いかなる貴僧高僧も手柄不見、神仏納受なき事に候、英林様毎日之御看経は、御書付を以て光明院に御布施にてさせ被申候、朝御手水参候て則彼御巻数御頂戴候、もとより毎月之御祈祷も過分之御布施を以て、貴僧高僧に被仰付候、御自身の御看経には、御公事を被聞召候て、御成敗厳重に被仰付、其外に武芸を専に御沙汰候より、御子孫繁昌御国静誕天下無双の事、

敵より夜討之時は、我々の陣所に拵居候て、敵のつきたる所能々聞すまし、弱き所へ助合戦候はんずる事肝要に候、惣別何時も敵執掛候はんずる時は、柵より外へ不罷出、そのゝち柵をゆひ候間、其覚悟専一に候、敵執掛柵を切候はんずる時は、まつ射させつかせ強く相支、敵退かんずる時は、見合次第にて可然事、

我々不断之形儀随分可嗜とは存候へども、毎々比興なる気遣は出来安きものにて候、紫野の真珠庵飯尾宗善とて、入道僧之一段耻敷大老に候、彼仁障子越に置申、不断しやさう仕度念願之由、常々被仰候事、

武者に聞逃は不苦候、見逃は大に悪敷候、悉被討候はでは不叶ものに候、聞逃は行にて候間、更に逃たるにては有まじく候、惣別大事之退口には込掛り候はでは、のかれざるものに候由、古今申伝候、然間耳は臆病にて、目之気なげなるが本にて候由、申ならはし候事、

オープンアクセス IA:32 惣別越前之諸侍上下不依、加州之儀心掛ざる者は、第一先祖に対し不孝、又は敵同前たるべき事、

武者雑談は、いかにも功者之語を信仰せしめ、能く聞べき事肝要に候、但若時は自然手前におゐて功者ぶり仕候へば、悪敷名執をする事に候事、

武者辺之儀に付て人を讃に、あれほど成るものは有まじきとはいはぬ事也、ならぶ者はありとも増ものは有まじきと誉たるがよく候由、芳永御物語候事、

敵の行、知やう大事之秘事也、何時も敵之者に代物黄金をあたふれば、有のまゝにしらするもの也、隠密を以の故に、公界の人は不知候、其行をする間名大将とはいはるゝ者也、

大川に舟橋を掛る方便習有之、まづ射手に川面を射させて、其つもりを以て我方の川際にくひを打、舟を橋に大綱を以てつなぎ、扨川上之舟にかい楯をかき、射手を置川上より向へながしかくれば懸ると也、

義景様御幼少にて大岫様に御離被成候刻より、愚老を被召寄、万事御異見をも申上候へ、何たる義をも可聞召之由度々御意に候つる、誠に御器用奇特成御事と存、御奉公毎々無他事心中に候、御成人已来加州之義は不及、諸国隣国京都迄御加勢、又は御人数等被仰付候得共、武者辺之様に当国へは一切其沙汰無之御長久弥増候、此上は唯今相果候ても毛頭存残義なく、但今三年存命什度候、如斯之儀不至者、老につれ命をおしみ候事、おどけ者に候由沙汰すべく、全命を惜候事にはなく候、織田上総介方行末を聞届度念望計の事

 朝倉太郎左衛門入道宗滴話記 萩原奉書記之、

 
朝倉宗滴話記


 

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。