望郷歌


 夏の夕暮だつた。白つぽく乾いてゐた地面にもやうやくしつとりと湿気がのつて、木立の繁みでははやひぐらしが急しげであつた。

 子供たちは真赤に焼けた夕陽に頭の頂きを染めながら、学園の小さな庭いつぱいに散らばつて飛びまはつてゐる。昼の間は激しい暑さにあてられて萎え凋んだやうに生気を失つてゐるのだが、夕風が吹き始めると共に活気を取りもどして、なんとなく跳ねまはつて見たくなるのであらう、かなり重症だと思はれる児までが、意外な健やかさで混つてゐるのが見える。

 女の児たちは校舎の横の青芝の上に一団となつて、円陣をつくり手をつなぎ合つてぐるぐると廻つてゐた。円の中には一人の児が腰をかがめて両手で眼をおさへてゐる。望郷台と患者たちに呼ばれてゐる、この小山の上から見おろしてゐると、緑色の布の上に撒かれた花のやうだつた。鶏三は暫く少女たちの方を眺めてゐたが、あれはなんといふ遊びだつたかな、と自分の記憶の中に幼時のこれと似た遊びをさがしてみた。うしろにゐるのはだあれ、多分あれであらうかと思ひあたると、急に頰に微笑が浮んで来るのだつた。

 少女たちは合唱しながらぐるぐると廻つてゐたが、やがて歌が終ると、つないでゐた掌を放して蹲つた。すると今度は中に跼まつてゐた児が立上ると見えたが、忽ちどつと手をうつて笑ひ始めるのだつた。西陽が小さな頰を栗色に染めてゐるためか、癩児とは思はれぬ清潔な健やかさである。

 鶏三は芝生に囲まれた赤いペンキ塗りの小箱のやうな校舎と見比べながら、教室にゐる時の彼等の姿を思ひ浮べた。今かうして若葉のやうに跳び廻つてゐる彼等も、一歩教室へ入るが早いか、もう流れ木のやうにだらりと力を失つてしまふのである。眼は光りを失つて鈍く充血し、頰の病変は一層ひどく見え出して、何か動物の子供にものを教へてゐるやうな無気味な錯覚に捉はれたりするのであつた。彼が学園の教師になつたのは入院後まもなくのことであつたが、教室へ這入つた彼に一斉に向けられた子供たちの顔を初めて見た時、彼はいたましいとも悲惨とも言ひやうのないものに胸を打たれた。小さな頭がずらりと並んでゐるのであるが、ある児は絶間なく歪んだ口から涎をたらしてをり、ある児は顔いつぱいに絆創膏を貼りつけてゐる。ひどいのになると机に松葉杖を立てかけてをり、歩く時にはギッチンギッチンと義足を鳴らせるといふ有様であつた。一体この児たちに何を教へたらいいのであらう、また、彼等にどういふ希望を与へたらいいのであらう、そして二十五歳で発病した自分ですら一切の希望を奪はれてしまつてゐるのではないか、して七八歳の年少に発病した彼等が如何なる望みをこの人生に持ち得るといふのか――。彼は教壇に立ちながら、この少年少女たちに対してはもう教へるものは一切なかつたばかりでなく、教へることは不可能だと思つたのであつた。彼の受け持つてゐた学科は国語と算術であつたが、彼はそれ以来算術を他の教師に頼んで自分は作文を受け持ち、ただ思ひ切り時間を豊かに使用することに考へついた。彼は教科書を放擲してしまひ、国語の時間には童話を話してやつたり、読ませてみたりし、作文はなんでも勝手に綴らせ、時間の半分は学園の外に出て草や木の名を教へた。それは教へるといふよりも、むしろ、一緒になつて遊ぶといふ気持であつたのである。彼にはこの子供たちに対して教へるといふ風な気持になることがどうしても出来なかつた。この年にしてこの不幸に生きぬママばならぬ運命を背負つてゐるといふだけでも、地上に於ける誰よりも立派な役割を果してゐるのではないか、よしんばこれが立派な役割だと言へない無意味な不幸であるにしても、彼はその不幸に敬意を払ふのは人間の義務であると信じたのであつた。

 子供たちは教室から一歩外へ出ると、忽ち水を得た魚のやうに生きかへつた。血液は軀の隅々まで流れわたつて、歪んだ口の奥にも、腫れ上つた顔面の底にも、なほ伸び上らうとする若芽の力が覗かれるのだつた。

「癩病になりや人生一巻のお終ひさ、ちえッ。」

 といふ彼等の眼にさへも光りが増して、鶏三はさういふ言葉も笑ひながら聴いた。彼は一切を忘れて遊びに熱中してゐる子供たちを眺めるのが何よりの楽しみであつた。彼等は学科を全然理解せず、ただそれが自分たちには無意味であるといふことだけを本能的に感得してゐたが、遊んでゐる時の彼等にとつては無意味なものはこの地上に一つもなかつた。彼等は至るところに遊びを発見し、そこに凡ての目的を置き、力を出し尽して悔いなかつた。子供たちはみなそれぞれ恐しい発病当時の記憶と、虐げられ辱しめられた過去とをその小さな頭の中に持つてゐる。それは柔かな若葉に喰ひ入つた毒虫のやうに、子供たちの成長を歪め、心の発育を不良にしていぢけさせてしまふのである。子供たちをこれらの記憶から救ひ、正しい成長に導くものは学科でもなければ教科書でもなかつた。ただ一つ自由な遊びであつた。彼等は遊びによつて凡てを忘れ、恐しい記憶を心の中から追放する。それはちやうど、最初に出た斑紋が自らの体力によつて吸収してしまふやうに、彼等自身の精神の機能によつて心の傷を癒してしまふのであつた。

 鶏三はじつと、夕暮れてゆく中に駈け廻つてゐる子供たちを眺めながら、貞六、光三、文雄、元次、と彼等の名前を繰つてゐたが、ふと山下太市の顔が浮んで来ると、あらためて庭ぢゆうを眼でさがしてみた。そして予期したやうに太市の姿が見当らないと、彼は暗い気持になりながらその病気の重い、どこか性格に奇怪なところのある少年を思ひ浮べた。

 その時どつとあがつた女の児たちの喚声が聴えて来た。小山の上に立つてゐる彼の姿を見つけたと見えて、顔が一せいにこちらを向いて、

「せんせーい。」「せんせーい。」

 と口々に叫ぶのである。鶏三が歯を見せて笑つてゐることを知らせてやると、彼女等は蜘蛛の子を散らせたやうに駈けよつて来て、ばらばらと山の斜面に這ひつき、栗や小松の葉をぱちぱちと鳴らせて、見る間に鶏三の腰のまはりをぐるぐると取り巻いた。そしてさつきのやうに手をつないで彼を中心にぐるぐると廻り、

   中のなあかの小坊主さん

   まあだ背がのびん

 そんな歌を唄つてまたわあつと喚声をあげるのだつた。そして手を放すと、今度は、

「かくれんぼしようよ、よう先生。」

 と、わいわい彼を片方へ押しながら言ふのであつた。鶏三は笑ひながら、

「よし、よし。さあ、じやんけん。」

「あら、先生が鬼よ、先生が鬼よ。」

「なあんだ、ずるいね、じやんけんで決めなきあ…。」

「だつて、先生おとななんだもの、ねえ、よつちやん。」

「さうよ、さうよ。」

 そして子供たちははやばらばらとかくれ始めるのだつた。鶏三は苦笑しながら山の頂きにかがまつて眼をつぶつた。

「先生、百、かぞへるのよ。」

「遠くまで行つちやだめよ。」

 木々の間を潜りながら彼女等は叫ぶのだつた。


 鶏三はふと人の気配を感じた。彼をさがして歩く女の児のそれではないことは明かである。小さな森のやうに繁つた躑躅つつじの間に身をちぢめてゐた彼は、首を伸ばしてあたりを眺めてみたが、それらしい姿は見当らなかつた。陽はもう沈んでしまひ、南空いつぱいに拡がつた鱗雲だけがまだ黄色く染つて明るかつた。地上はもうそろそろと仄暗く、鶏三を撫でる草は、露を含んで冷たくなつてゐた。先生、先生と呼ぶ子供たちの声が山の上から聴えて来たが、鶏三は立上らうともしないで、じつと耳を傾けた。人の気配がするばかりでなく、彼は奇妙な歌とも呟きともつかない声を聴いたのである。好奇心を動かせて再び伸びあがり、山裾の方を眺めてみると、木の葉の陰に太市が一人でじつと坐つてゐるのだつた。そこからはかなりの距離があつて、歌声はよく聴き取れなかつた。それに木の葉が邪魔になつて、はつきりと姿を見定めることも出来ないので、彼は相手に気づかれぬやうに注意深くにじり寄つてみた。もし彼が近寄つて来ることを知つたなら太市は直ぐに逃げてしまふやうに思はれたのである。逃げ出さないまでも歌は決して唄はぬであらう。

 鶏三は今まで太市が遊んでゐる姿を殆ど見たことがなかつた。大勢が一団になつて遊んでゐるところには太市は一度もゐたためしがなく、何時でもどこか人の気づかぬところで独りで遊んでゐるのだつた。学園などへも殆ど出ず夜が明けるが早いか子供舎を抜け出して、腹がかなければ何時までも帰つて来なかつた。子供たちも別段彼を嫌つてゐるといふ訳ではなく、また太市も部屋の仲間に悪感情を持つてゐるといふ訳でもないらしかつたが、性格的に孤独なためか、それとも頭の足りないためか、みんなと歩調を合はすことが出来ないらしいのであつた。勿論知能の発育はその肉体と共に不良であるのは明かである。

 年は今年十三になるのだが、後姿などまだ十歳の子供のやうにしか見えなかつた。顔はさながらしなびた茄子のやうに皮膚が皺くたになつてゐ、頭髪はまんだら模様に毛が抜けてゐる。これでも血が通つてゐるかと怪しまれるほど顔も手足も土色であつた。鶏三が初めて太市の異常なところに気づいたのは、太市がちやうど熱を出して寝てゐる時であつた。太市はたいていの熱なら自覚しないで済ませてしまふらしかつたが、この時はぐつたりと重病室の一室で眠つてゐたのである。かなりの高熱であつたに違ひなかつた。見舞ひに行つた鶏三は一目見るなり老いた侏儒こびとの死体を感じてぞつとしたのであるが、そこには生きた人間の相は全くなかつた。と、突然太市の乾いた白い唇が動き始め、やがて小刻みにぶるぶると震へるのであつた。何か必死に叫ばうとしてゐるらしいのである。鶏三は我を忘れて、太市、太市、と呼んでみた。そのとたんに太市は、ヒイ、ヒーと奇妙な叫声を発してむつくり起き上ると、枯枝のやうな両腕を眼の高さまでさしあげて、来る何ものかを防がうとする姿勢になつた。

「かんにんして、かんにんして――。」

 と息もたえだえに恐怖の眼ざしで訴へるのであつた。恐らくは、あの小さな心につきまとつて離れぬ異常な記憶に脅かされてゐるのであらう。子供たちの話では、発熱しない時にも三日に一度は真夜中に奇怪な叫声を発したり、さうかと思ふとしくしくと蒲団の上で泣いたりするとのことであつた。

  つくつく法師なぜ泣くか

  親もないか子もないか

  たつた一人の娘の子

  館にとられて今日七日

  七日と思へば十五日

  十五のお山へ花折りに

  一本折つては腰にさし

  二本折つてはお手に持ち

  三本目には日が暮れて……


 太市は草の上に坐つて胴を丸め、両手で山の斜面に穴を掘つてゐた。歌声と調子を合せて上体を揺りながら腕を動かしてゐる様子は、土人の子供が無心に遊んでゐるやうなロマンチックな哀感があつた。鶏三は暫くじつと太市の様子を観察しながら、こんなところでこんな歌を呟いて遊んでゐるさまに意外な気がすると共に、また何か思ひあたつた思ひでもあつた。彼はその歌の調子や規則的に揺れる体によつて、今太市が全く無我の境にゐることを察した。穴を掘ることも、始まりは蟻の穴を掘るとか蚯蚓みみずを取るとかいふ目的があつたのであらうが、もうさうした最初の目的は忘れてしまつて、ただ歌の調子をとるために意味もなく掘り続けてゐるに相違なかつた。多分頭の中にはこの歌によつて連想される数多くの思出がいつぱいになつてゐるのであらう。

 鶏三は相手の胆を潰さぬやうに気を使ひながら、顔に微笑を泛べて、

「太市。」

 と友だちの気持になりながら低い声で呼んでみた。と、太市の肩がぴくッと動いて歌はぴたりととまり、手は穴に入れたまま石のやうになつた。振り返つてみようともしないのである。或は振り返つて教師と顔を見合せる勇気がないのか……と、太市はまた前のやうに一心に穴を掘り唄ひ始めた。鶏三の声に、太市はただ何かの気配を感じてギヨッとしたのであつた。

「何やつてるんだい?」

 と言ひながら鶏三は側へ寄つて行つた。すると、太市は殆ど異常ともいふべき驚きやうで、えびのやうに飛び上ると恐怖の眼ざしで鶏三を見上げ、今にも泣き出しさうであつた。

「太市はなかなか面白い歌知つてるんだね。」

 と鶏三は親しさうに笑つてやつたが、太市はやはりぷすんと突立つたまま、おどおどと見上げてゐるのであつた。頭の頂きに鱗のやうに垢がたまり、充血した眼からはやにが流れて、乾いたのが小鼻のあたりまで白く密着してゐた。しなびて皺だらけになつた顔は、老人なのか子供なのか見分けるに困難だつた。

「太市、もう晩になつたから先生と一緒に帰らうよ。」

 と、今度は鶏三はかう言つてみたのであるが、ふと家を出る時何時もの習慣で誰か子供にでもやらうと考へて袂に投げ込んで置いたチョコレートを思ひ出すと、彼はそれを取り出して太市に示し、

「さうら、チョコレートだよ。太市はチョコレート嫌ひかい?」

 瞬間、太市の眼がきらりと光ると、鶏三の顔と見較べておづおづと手を出しかけたが、何と思つたか急にさッと手を引込めた。そして敵意に満ちた表情になつてじろりと白い眼で見上げたが、また欲しさうにチョコレートに眼を落すのであつた。

「そらあげるよ、また欲しかつたら先生の家へおいで、ね。」

 しかし太市はもう鶏三の言葉を聴いてはゐなかつた。じつとその四角な品に眼を注いでゐたが、相手の言葉の終らぬうちにいきなり手を伸ばしてひつたくるやうに摑むと、まるで取つてはならぬものを盗つたかのやうに背中に手をまはして品物を隠した。数秒、様子を窺ふやうに太市は鶏三の顔に眸を注いでゐたが、突然身をひるがへすとさつと草を蹴つて駈け出した。とたんに太い松の幹にどんとぶつかつてよろけると、くるりと振り返つてみてからまた一散に逃げて行くのであつた。

 松や栗の間を巧みに潜り抜けて、前のめりに胴を丸くして駈けて行く猿のやうな姿を鶏三は見えなくなるまで見送つた。彼は他の明るい子供たちの方ばかりに眼を向けて、そこに子供の美しさや生命力を感じていい気になつてゐた自分が深く反省されたのだつた。勿論彼とても意識して明るい子供ばかりを見る訳では決してなかつたのであるが、何時とはなしに自然にさうなつてしまひ、なるべく病気の重い児からは顔を外向そむけ、太市のことなど殆ど忘れてゐることが多かつたのである。とにかく明るい児にならないまでも、大勢で遊ぶことの楽しさをあの少年に教へねばならない。鶏三は強くさう考へると、そろそろと山の傾斜を登り始めた。がその時ふと彼はまだ夏にならない頃面会に来た太市の祖父を思ひ出した。背を丸くして駈けて行く太市の後姿が、その老人にそつくりであつたのである。

 その時の面会もまた異常なものであつた。そしてそれ以来太市の病的な性格が一層ひどくなつたのは明かであつた。それまではたまには子供舎の近くで遊んだり、学園へも出て来て本を開いたりすることもあつたのであるが、それ以来は全くさうしたことがなくなつてしまつた。そして人目につくことを極度に恐れ、顔には怯えたやうな表情が何時でもつきまとふやうになつた。

 大人の患者たちがよく太市をからかつて、

「太市の頭は馬鈴薯じやがいも。馬の糞のついた馬鈴薯。」

 などと言ふことがあつた。すると太市はいきなりあかんべえをして逃げ出すといふ無邪気な癖を持つてゐたのであるが、それすらもなくなつてしまつた。

 その日はしよぼしよぼと梅雨の降つてゐたのを鶏三は覚えてゐる。面会の通知があると鶏三は急いで子供舎へ出かけた。受持の教師である関係上彼は太市を面会室まで連れて行き、その親たちにも一応挨拶をする習はしであつたのである。太市は運よく子供舎の前の葡萄棚の下で、白痴のやうに無表情な貌つきでぼんやりと立つてゐた。葡萄の葉を伝つて落ちる露が頭のてつぺんにぽたぽたと落ちかかるのだが、彼はまるでそれには気もつかないやうであつた。

「太市、面会だよ。」

 と鶏三はにこにこしながら言つた。かういふ世界に隔離されてゐる少年たちにとつては、親や兄弟の面会ほど楽しいものはない筈であつた。今までにも彼は何度も子供たちを面会に連れて行つたことがあるが、面会だよ、と一言言ふが早いか、彼等の顔はつつみ切れない喜びであふれ、どうかするときまり悪さうに顔をあからめたりするほどであつた。彼はさういふ子供の可憐な喜悦の表情を予期してゐたのであるが、太市は信じられぬとでもいふ風に合点のゆかぬ眼ざしである。しかし考へて見れば、他の子供には毎月に一度、すくない児でも年に一度はこの楽しみを持つてゐたのであつたが、太市は今までただの一度もこの経験を持つてゐないのである。この病院へ来る時も警察の手を渡つて来たといふ。

「太市、お父さんかもしれないよ。」

 と、鶏三は太市の気を引き立てようと思つて言つてみた。

「お父さんは死んだい。」

 鶏三はぐさりと胸を打たれた思ひであつた。が急に太市は独りで歩き出した。顔には他の児と同じやうに喜びの表情が見える。鶏三も嬉しくなつて、

「お母さんかな?」

 と、太市に傘を差し伸ばしてやりながら言ふと、少年は答へないで一つこつくりをするのであつた。

 しかし期待は裏切られ、面会室の入口まで来るやいなや、太市は釘づけにされたやうにぴたりと立停つてしまつた。

 室の中にはもう七十近いかと思はれる老人が、椅子に腰をおろしてゐたが、子供の姿を見ると腰を浮せ、しよぼついた眼を光らせて、

「おお。」

 と小さく叫んで、患者と健康者との仕切台の上に身を乗り出して来た。

「さあ上りなさい。」

 と鶏三は太市に言つて、自ら先に上つて老人に軽く頭を下げ、振り返つて見ると太市はやはり入口に立つてゐるのであつた。その顔には恐怖の色がまざまざと現はれてゐる。鶏三は怪しみながら、

「どうしたの、さあ早く。」

 と太市の手を摑まうとすると、少年はさつと手を引込めてしまふのである。

「太市。」と老人が呼んだ。「おぢいさんだよ、覚えてゐるかい。」

 老人はもうぼろぼろと涙を流してゐるのであつた。と突然太市はわつと泣き出すと、いきなり入口の柱にやもりのやうにしがみついて、いつかな離れようとしないのであつた。鶏三が近寄つて離さうとすると、少年は敵意のこもつた眼で鶏三を見、老人を見て、その果は鶏三の手首にしつかりと嚙みついて、

「イ、イ、イ」

 と奇怪な呻声と共に歯に力を入れるのだつた。さすがに鶏三も仰天して腕を引くと、太市はぱつと柱から飛び離れて後も見ないで駈けて行つてしまつた。

 老人はむつつりと口を噤んで、下を向いたまま帰つて行つた。鶏三が何を訊ねてみても老人は黙つてゐる。ただ、ああ、ああ、と溜息をもらすだけであつた。


 しかし間もなく鶏三は太市の身上に就いてほぼ知ることの出来る機会が摑めたのであつた。

 少女たちとかくれんぼをした日から四五日たつたある夕方、涼しくなるのを待つて彼は少年たちを連れて菜園まで出かけたのである。そこからは遠く秩父の峰が望まれ、広々とした農園には西瓜やトマトなどが豊かに熟して、その一角に鶏三の作つてゐる小さな畠もあつた。

 子供たちは𧒂螽いなごのやうにばらばらと畠の中に飛び込んで行くと、忽ちばけつや目笊などに自分の頭ほどもある大トマトがいつぱい収穫されるのであつた。

 鶏三は麦藁帽子を被つて畠に立ち、

「幹を痛めないやうに、鋏でていねいに切つて……青いのは熟れるのを待つこと……。」

 などと叫んだ。

「やい、カル公、そいつあ青いぢやないか。」

「ばかやろ、青かねえや、上の方が赤くなつてらあ。」

「すげえぞ、すげえぞ、こいつは俺が食ふんだ。」

「やッ蛇だ、先生、先生、蛇だ。」

 子供たちはわいわいと言ひながら畠の中を右往左往するのだつた。

「先生、西瓜とつちやいけないの?」

「西瓜はまだ熟れてゐないやうだね。」

「熟れてるよ、熟れてるよ。」

「どうかね。もう二三日我慢した方がいいやうだね。」

「ううん、先生熟れてるんだよ。カル公と、向うの紋公とが熟れてるんだよ。」

 鶏三は思はず吹き出して笑ふと、

「ぢや、その二つを収穫しよう。」

 子供たちはわつと喚声をあげると、収穫だ、収穫だと叫びながら、その二つを抱へて来た。西瓜には一つ一つカル公、紋公、桂公、信太郎などと名前が書きつけてあつた。

 一通り収穫が終つた頃、急に地上が暗くなり始めた。気がついて空を見上げると、西北の空からもくもくと湧きあがつた黒雲が、雷鳴を轟かせながら中天さしてかなりの速度で這ひ上つてゐるのであつた。と、はや大粒の雨滴が野菜の葉をぱちぱちと鳴らせ始めた。

 鶏三は子供たちに収穫物を持たせて一足先に帰すと、大急ぎで彼等の荒した跡を見て廻つた。そして採り残されてあるトマトのよく熟したのを二つ三つもぐと、目笊に入れて帰らうと遠くに眼をやつた時、雑木林の中から突然太市が現はれて来たのであつた。猟犬に追はれる兎のやうに林の中から飛び出して来ると、まつしぐらに畠の中を駆けて行くのである。体の小さな彼の下半身は茄子やトマトの葉の下に隠れて、ただ頭だけがボールのやうに広い菜園のただ中を一直線に飛んでゐるのだつた。好奇心にかられて鶏三は立停つて眺めた。とたんに暗雲を真二つに引裂いて鋭い電光が地上を蒼白に浮き上らせると、岩の崩れるやうな轟音が響きわたつて、草や木の葉がぶるぶると震へた。脱兎のやうに飛んでゐた太市が、その時ばつたり倒れて見えなくなつた。鶏三は思はずあつと口走つて足を踏み出した。

 紐のやうな太い雨がざざざと土砂を洗つて降り注いだ。稲妻は間断なく暗がつた地上を照らし、雷鳴は遠く尾を引いて響いて行つては、また突然頭上で炸裂する火花と共に耳朶を打つた。鶏三は片手に笊をしつかりと抱き、片手ではともすれば浮き上りさうになる麦藁帽子を押へて、太市の倒れた地点に視線を注いで駈け出した。と、太市は、倒れたまま地面を這ひ出したのか、不意に二十間も離れた馬鈴薯畑に首を出すと、また一散に走り出して、果樹園の番小屋に飛び込んで行つた。

 鶏三も駈足で番小屋まで走り着くと、先づ内部を窺つてみた。中は殆ど真暗であつた。西側に明り取りの小さな窓があつて、断続する蒼い光線が射し込む度に小屋の中は瞬間明るくなつた。荒い壁はところどころ剝げ落ちて内部の組み合はさつた竹が覗いてゐ、部屋の真中には湯吞やアルミニユムの急須、ブリキの茶筒などが散乱して、稲妻が光る度にそれらの片側が異様な光りを噴き出した。

 番人は誰もゐなかつた。鶏三は眸を凝して稲妻の光る度に太市の姿をさがした。どこにも少年の姿が見当らないのである。

 鶏三は思はず笑ひ出した。見当らないはずであつた、太市は部屋の隅つこで向うむきになつて蹲り、首と胴体とを押入れの中に懸命に押し込んでゐるのであつた。ぼろ布か何かが押入の中からはみ出してゐるのに似てゐる。鶏三は、

「太市、太市。」

 と呼びながら上つて行つたが、それくらゐの声では太市はなかなか気がつきさうにもなかつた。雷鳴が轟く度に太市は、輪なりにした尻をびくんと顫はせ、押入の中で、

「うおッ、うおッ。」

 と奇怪な呻声を発してゐるのであつた。

「どうした、太市。」

 驚かせてはならぬと思ひながら、しかし思ひ切つて大声で呼ぶと、小山の下で呼んだ時と同じやうに激しく太市は仰天して飛び上つたが、押入の上段にごつんと頭をぶちつけて、

「いた!」

 と悲鳴を発した。刹那ひときは鋭い稲光りが秋水のやうに窓から斬り込んで来て、太市は、

「うわッ。」

 と押入の中に首を押し込んだ。冷たいものでひやりと顔を撫でられたやうな無気味さに、鶏三も身を竦めて腰をおろすと、雷の鳴るうちは駄目だとあきらめて、入口の土砂降りを眺めた。

 雨は殆ど二時間近くも降り続けた。時々雨足が緩んだかと思ふと、また新しい黒雲が折り重なつて流れて来ては降り募つた。うち続いた菜園は仄明るくなるかと思ふとすぐまた暗がり、その間を電光が駈け巡つた。

 やがて雨足が少しづつ静まるとともに、雷鳴が次第に遠方へ消えて行くと、洗はれた地上にははや月光が澄みわたつてゐるのだつた。

「なんだ、月か。」

 鶏三は馬鹿にされたやうにさう呟いてみたが、その時彼の横をこつそり逃げ出して行かうとする太市に気づいて、彼はやんわりと少年の胴を抱きあげると、自分の前に坐らせた。雷に極度に脅かされたためか、太市は放心したやうな表情でぼんやりと鶏三を見上げてゐる。鶏三は立上つて蜘蛛の巣だらけになつた電燈のスヰッチをひねると、

「恐かつたらう、太市。」

 しかし太市はもうむずむずと逃げ出しさうにして返事などしようともしないのである。

「しかしもう大丈夫だよ、今夜は先生と一緒に散歩しながら帰らうよ、ねえ。」

 太市は黙つて下を向いたまま、畳の焼穴に指を突込んで中から藁を引き出し始めるのだつた。鶏三はちよつと当惑しながら、

「太市はトマト好きかい?」

 と食物の話に移つてみると、

うら、好かん。」

 と太市は笊を見ながら答へた。

「この前あげたチョコレートはうまかつたかい。」

「うん。」

「さう、ようし、それでは今度は先生がもの凄くでかいのを買つてやらう。ねえ。」

 太市は相変らず下を向いて、顔をあげようともしないのであるが、案外に素直なその答へ方に鶏三は胸の躍るやうなうれしさを味つた。

「太市は面白い唄を知つてゐたね。あれ、なんて言つたつけ、つくつく法師なぜ泣くか、それから?」

 太市はちらりと鶏三を見上げたが、すぐまた下を向いて頑固におし黙つたまま、じりじりと後退りを始めるのであつた。鶏三は暫くじつと太市の地図のやうになつた頭を眺めてゐたが、ふと奇妙なもの悲しさを覚えた。かうした少年を導かうとする自分の努力が、無意味な徒労と思はれたのである。それにこの少年を一体どこへ導くつもりなのか、結局この児にとつては、林の中や山の裏で、蚯蚓みみずやばつたを捕へながら独りで遊んでゐるのが一番幸福なのではないか。それに少年とはいひながら、この児の前途に何が来るか明かであつた。あと二三年のうちには多分盲目になるだらう、そして肺病か腎臓病か、そんな病気を背負ひ込んで長い間ベッドの上で呻き苦しむ、そして一条の光りも見ることなく小さな雑巾を丸めたやうに死んでしまふ――これがこの児の未来であり、来るべき生涯である。年は僅かに十三歳ではあるけれども、しかしこの少年にとつてはもはや晚年である。そしてこの少年と全く等しい運命が、他の凡ての子供にも迫つてゐるばかりではない、鶏三自身もこの運命に堪へて行かねばならぬのである。子供たちの生活の中に生命の力を見、美しさを発見して、それを生きる糧としてゐた自分の姿さへ、危く空しいものと思はれるのであつた。人生とは何だ。生きるとは何だ。この百万遍も繰りかへされた平凡な疑問が、また新しい力をもつて鶏三の心をかき乱した。

「太市、帰らうよ。先生と一緒に帰らうね。」

 それに、太市も鶏三もさつきの夕立でびつしより濡れてゐた。無論夏のこととてそれはかへつて涼しいくらゐであつたが、しかし体には悪いであらう。

「お父さんは太市が幾つの時に亡くなつたの?」

 しめつた土の上を歩きながら訊いてみた。

「九つだい。」

 と太市は怒つたやうな返事であつた。

「太市はお父さん好きだつたかい。」

 しかしそれにはなんとも答へないで、急に立停ると、足先でこつこつと土をほじりながら、

「ばばさん。」

 と呟いた。

「ふうん、ぢやあ太市はばばさんが一等好きだつたの。」

「うん。」

「ばばさんはいま家にゐるのかい?」

「死んだい。」

「ふうむ。幾つの時に。」

「七つだい。」

「太市はつくつく法師の唄、ばばさんに教はつたの、さうだろう、先生はちやんと知つてるよ。」

 鶏三は、月光の中に薄く立ち始めた夜霧を眺めながら、まだ五つか六つの太市が、祖母の膝の上でつくつく法師の唄を合唱してゐる光景を描いた。太市は、どうして知つてゐるのか、と問ひたげに鶏三を見上げたが、急に羞しげな、しかし嬉しさうな微笑をちらりと浮べた。

「太市はお母さんのところへお手紙を出してゐるかい?」

 と鶏三は今度は母親のことを訊いてみた。どうしたのかその母親はただの一度も面会に来ないのである。しかしまだ生きてゐることは明かであり、太市がその母を慕つてゐることも、この前の老人の面会の時駈け出したのをみても明かであつた。

 すると突然太市はしくしくと泣き始めるのであつた。そして手紙を書いてもどこへ出したらいいのか判らないと言ふのである。切れ切れに語る太市の言葉を綴り合せてみると、長い間患つてゐた父が死ぬと、母親はどこかへ男と一緒に、この前面会に来た祖父と太市を残したまま「どこへやら行つて」しまつたといふのである。その後のことは鶏三がどんなに訊いてみても、もう太市は語らなかつた。そして長い間地べたにかがみ込んでなかなか歩き出さうともしないで石のやうに黙り続けるのであつた。兄弟はあるのかないのか判らなかつた。しかし鶏三はもうそれ以上追求してみる気はなかつた。そして自分の舎へ帰つてからも、長い間太市のことを考へ続けた。「ばばさん」のことを言つた時ちらりと見せた微笑や、「うん」と答へる時の意外な素直さを思ひ出すと、暴風の中にたわみながらも張つてゐる一点の青草を見た思ひであつた。そしてかうした考へがよしんば鶏三の勝手な空想や自慰であるにしろ、彼は太市の不幸を自分の眼で見てしまつたのである。見てしまつた上はもう太市を愛するのは義務なのだ。さう思ふと彼はまた新しい力の湧いて来るのを覚えるのであつた。


 急いで草履をつつかけて家を出たものの、鶏三は迷はずにはゐられなかつた。またあの老人が面会に来たといふのであるが、一体会はせたものかどうか――勿論会はせてやり、太市の心にわだかまつてゐる老人への恐怖を取り除いてやるのがほんたうに違ひなかつたが、しかしこの面会によつて、やうやく明るみに向ひ、どうにか過去の記憶を忘れかかつてゐる太市の心を、再び暗黒の中に突き墜すやうな結果にならないとも限らないのである。もしさうなれば今までの鶏三の努力も水泡と帰してしまふのだ。

 夕立の日以来、鶏三はかなりの努力をしてみたのである。彼は先づ、何よりも自分を信頼させるのが大切であると考へた。しかしこの場合にも直ちに大勢の子供の中に引き込まうとしたり、或は何かを上から教へるといふ風な態度は一切禁物であつた。彼は太市の友人にならねばならないと考へると、その日から暇さへあれば太市をさがして歩いて、一緒に蟬を採つたりばつたを捕へたりした。初めのうち太市は、彼の姿を見るともう一散に逃げ出したり、何時間か彼と一緒にゐながら 一口も口をきかなかつたりしたものであつたが、幸ひ鶏三にはどことなく子供たちに好かれる性質がそなはつてゐて、何時とはなしに太市も馴れて来たのであつた。

 そして秋も深まつた近頃では、三日に一度は朝早くから林の中に小鳥を捕りに出かけたりするやうになつた。太市は小鳥を捕ることに特異な才能を示した。鶏三の仕掛けた囮が籠の中でただ空しくさへづつてゐる間に、太市の囮にはもう幾羽もの小鳥が自然と集まつて来て、彼は次々と収穫してゆくのであつた。囮の籠にあたる朝日の工合や、仕掛けるべき樹の高さや、黐竿もちざをの置き方などがこの少年には本能的に知覚されるのか、鶏三はかういふところにも少年のもつてゐるある自然な性質を感じるのであつた。そして捕へた小鳥を片手でしつかりと摑み鶏三の許へ駈けて来る時の輝いた顔つきや、用意の籠にその鳥を投げ込んだあと、得意げに鶏三を見上げる興奮した無邪気な表情などを見ると、彼は思はず微笑が浮び、ふと自分の弟を見るやうな肉親感をすら覚えるのだつた。

 かうして太市と精神的にやうやく融け合つて来始めたいま、再び老人に会はせることは鶏三にとつてはかなり苦痛であつた。それにこの間の太市の作文を思ひ出すと、やはり老人に対して一種の嫌悪を覚え、会はせることが不安であつた。勿論老人がああした恐るべき行為を執つたのも、よくよくせつぱつまつてのことであらう、父が死に、母が逃げてあとに残された癩病やみの太市を連れて、恐らくはその日の糧にもこまつたのに違ひない。それは鶏三にも察せられるが、しかし今一息といふところで再び太市の精神に暗い影を投げかけることは、許し難いことだと言はねばならない。

 太市の作文といふのは、『この病院へ来るまでの思出』といふ題を与へて綴らせたものであつた。時間内に作らせることは困難だと思つた鶏三は、これを宿題として何時でも出来た時に出すやうにと言つて置いたのであつた。

ぼくがにはであそんでゐるとおまはりさんが来て、ぼくによそへあそびに行つたらいかんといひました。お母さんはぼくをものき(物置部屋)にはいれといひました。ここから出るなといつてぼくにみかんをくれました。ぼくはみかんを食ひながらそこにをりました。ねずみが出てきてぼくの鼻をかみましたのでぼくはちよくちよくそとへ出てあそびました。それからお母さんはよそのしと(人)とどこへやら行つてしまひました。それからおぢいがえゝところへつれて行つてやるといひました。町かときいたら町ぢやといひました。橋のうへでおぢいがえゝ月ぢやみい太市といひました。ぼくがお月さんを見よるとおぢいがぼくのせなかを突きました。

 文はそこで切れてゐたが、これだけでもう何もかも明かであつた。みかんを食ひながら、と言ふから、多分冬であつたのだらう、物置小屋の片隅に蹲つてゐる太市の姿や、氷のやうに冴えかへつた月光を浴びてまりのやうに川に突き落された姿などが、鮮明な絵となつて鶏三をうつたのであつた。

 しかし自分の孫を川に突き落して殺さうとした老人の心事を考へると、鶏三はまた迷はざるを得なかつた。勿論老人が悪いのではない、凡ては癩にあつたのである。しかしその癩なるが故に物置小屋に入るべく運命づけられ、親の愛情をすら失つた太市を守る者が、この自分以外にどこにゐるか――。鶏三は意を決して一人で面会室に出かけた。

 面会室には例の老人が茶色つぽい木綿のあはせを着て、ぼんやりと坐つてゐたが、鶏三の姿を見ると急に立つて、小さな眼に微笑を見せるのであつた。さきに見た時よりも一層憔悴が目立つてゐて、微笑した顔はかへつて泣面に見えた。鶏三はふと太市を連れて来なかつたことに後悔に似たものを覚えながら頭を下げた。老人はきよろきよろと鶏三の顔を窺つてはあたりを見廻し、

「あの、太市のやつは……。」

 と、いぶかし気におづおづと訊くのであつた。

「はあ……。」

 と鶏三は受けたが、さて何と言つたらいいのか、適当な言葉もすぐには見つからなかつた。すると老人は仕切台の上に乗せてあつた手拭をぎゆつと摑みながら、

「どこぞ悪うて寝てをるんではないかいの。」

 と、はや心配さうに訊くのである。

「いや……。」

 と鶏三は答へながら、ふと相手の言葉通り重病で面会は出来ないと言つてしまはうかと考へついたが、かういふ偽りは彼の心が許さなかつた。

「いや、あの児はまあ元気でゐるんですが、弱つたことにはどうしてもここへ来るのは嫌だつて言ふのです。そしてどこかへ隠れてしまつて出ないんです。」

 これは鶏三の想像である。鶏三はここへ来る途中、やはり一応太市に老人の来たことを知らせようかと考へたのであつたが、知らせた結果は、いま言つたやうになることは明かに予想されるのである。

 すると老人は、

「さうかいのう。」

 と言つてうつむくと、握つてゐた手拭を腰に挟みながら、

「一目生きとるうちに会ひたうてのう。」

 と続けて鶏三を見上げた。が急にその眼にきらりと敵意の表情を見せると、すねた子供のやうに、

「しやうがないわい。しやうがないわい。」

 と口のうちで呟いて、腰をあげるのであつた。

「お帰りになるのですか。」

 と鶏三が訊いてみると、むつとしたやうに相手をにらんで、

「帰るもんかい、一目見んうちは帰るもんかい。」

 と怒り気味に言つて、また腰をおろすのであつた。勿論鶏三に腹を立ててゐるのではない、自分の内にある罪の意識と絶望とのやり場のないまま、ただ子供のやうにあたりちらしたいのであらう。老人の顔には許されざる者、の絶望が読まれる。

 鶏三は老人をじつと眺めながら、その黄色い歯ややにの溜つた小さな眼、しなびたやうな小柄な体つき、さういつたものがどことなく太市そつくりであるのに気がつくと、心のうちが侘しくしめつて来た。すると今まで太市や、この老人に対してとつて来た自分の態度までが、浅薄なひとりよがりのやうに思はれ出し、自分の立つてゐる足許の地の崩れるやうな不安を覚えた。

 と、急に老人の眼が赤く充血し始めたが、忽ち噴出するやうに涙が溢れると急いで腰の手拭を取つて眼を拭つたが、暫くは太市と同じやうにしくしくと泣くのである。

「お前さんは、わしがあの児を憎んでると思ふてかい、わしが太市を憎んでと思うてかい。」

 それは人生の暗い壁に顔を圧しつけて泣きじやくつてゐる子供のやうであつた。鶏三は重苦しい気持のまま黙つてゐるより致方もなかつた。老人は問はず語りにうつむいたままぶつぶつと口のうちで呟くのであつた。

「監獄の中でもわしはあれのことを思うて夜もおちおち寝れなんだわい。かうなるのも天道様にそむいた罰ぢやと思うてわしが何べん死ぬ気になつたか誰が知るもんか。その時のわしの心のうちが人に見せたいわ。それでも、もう一ぺんあいつの顔が見たいばつかりに生きとつたが……この前来た時は監獄から出て来た日に来たんぢやが、あいつはわしに会はうともせなんだ。なんちふこつたか。わしの立瀬はもうないわい。あの日も駅で汽車の下敷になつた方がよつぽどましぢやと勘考もして見たがのう、あれが生きとるうちは死にきれんわいな。養老院へ行つてもあいつの生きとるうちはわしは死にやせんぞ……お前さんはわしが面会に来るのに菓子の一つも持て来んと思ふて軽蔑してゐなつしやろ、え、軽蔑してゐなつしやろ。菓子は持て来んでも、わしはあれのことを心底から思うとる。この心がお前さんには通じんのかい。さ、一目会はせてくれんか、わしは一目、この眼で見んことには帰りやせんぞい。たとへあいつが嫌ぢや言うても、わしは一目見たいのぢや。遊んどるところでもええ、見せてくれんかの、頼みぢや。」

 この頼み通りにならんうちは決して動かないぞ、とでもいふ風な老人らしい一こくな表情で言葉を切ると、つめ寄るやうに鶏三をみつめた。

 相手の表情にけおされて鶏三は立上ると、

「それぢや運動場へでも行つてみませう、ひよつとしたらあの児もゐるかも知れない。」

 と言つて老人を外へ連れ出した。がそのとたん、面会室の窓下にぴつたり身をくつつけて内の様子を窺つてゐたらしい一人の少年が、蝙蝠かうもりのやうにぱつと飛び離れると、二人の眼をかすめるやうに近くの病舎の裏に隠れたのが見えた。

「あつ太市、こりや、太市。」

 と老人は仰天した声で叫ぶと、よろけるやうな恰好で駈け出した。と、校舎の角から不意に太市の小さな顔が出たかと思ふと、またすつと引込んでしまつた。鶏三も駈け出しながら、

「太市、太市。」

 と呼んだが、もう音も沙汰もなかつた。二人がその舎の裏に廻つた時には、はや太市の姿はどこへ行つたか全く見当もつかないのであつた。老人は暫く未練さうにあちこちを覗いてゐたが、

「ええわい。もうええわい。」

 と怒つたやうに呟いて、首を低く垂れて帰り始めた。

「またいらして下さい。この次にはきつと会つて話も出来るやうにして置きますから。」

 と鶏三は言つた。彼は今の太市の姿に強く心を打たれたのである。老人はもうなんとも言はなかつた。そして握りしめてゐた手拭に初めて気づいて、あわてたやうに腰に挟みかかつて、

「わしが悪いのぢや。」

 と、一言ぶつりと言ふのであつた。

 子供舎では、学園から帰つて来た連中が思ひ思ひの恰好で遊んでゐた。廊下にはラヂオが一台取りつけてあつて、その下に小さい黒板がぶら下り、

 十月二十八日(木曜)六時起床。

 朝、一時間勉強すること。

 今日の当番、石田、山口。

 などと書きつけてあるのが見えた。部屋の中には北側の窓にくつつけて机が並べてあり、二三人が頭を集めて雑誌の漫画を覗いてゐる。中央にはカル公と紋公とが向き合つて、肩を怒らせて睨み合つてゐた。

「槍!」

 とカル公が叫んだ。

栗鼠りす!」

 と紋公がすかさず答へた。

「するめ。」

 とカル公が喚いた。

「目白。」

 と紋公が突きかかつた。

「ろくでなし!」

「しばゐ!」

「犬。」

盗人ぬすつと。」

「盗賊。」

「熊。 |

「豆。」

「飯。」

「鹿。」

「カル公。」

「なにを!」

「バカ野郎、なにをつてのがあるけ。やいカル公負けた、カル公負けた。」

「なにを! 負けるかい、負けるもんか。もう一ぺん、こい。」

「やあい、カル負け、カル負け、カル公負けた。」

 紋公はさう怒鳴りながらばたばたと廊下へ駈け出した、カル公は口惜しさうに、

「やあい、もう一ぺんしたら負けるから逃げ出しやがつた、やあい弱虫紋公。」

 と喚きながら紋公の後を追ふと、もう二人は仔狗こいぬのやうに廊下で組打ちを始めるのであつた。

 門口まで老人を見送つて急いで子供舎までやつて来た鶏三は、部屋に太市がゐないのを確めると、そのまま自分の舎の方へ歩き出したが、ふと立停つた。そしてちよつと考へ込んだが、すぐ太市を捜しに林の方へ出かけることにした。心の中にはさつきの老人の姿がからみついて、彼は暗澹たるものにつつまれた気持であつた。あの老人はこれから後どうして行くのであらう、あの口ぶりでは世話をしてくれる者もゐないらしい。養老院へ這入るのもさう容易ではないとすると、それなら乞食をするかのたれ死ぬか、恐らくはこのいづれかであらう。

 林の中では、やうやく黄金色に色づき始めた木々の葉陰を、ひは四十雀しじふからが飛び交つてゐた。空は湖のやうに澄みわたつて、その中を綿のやうな雲が静かに流れてゐる。鶏三は落葉を踏みながらあちこちと太市の姿を求めて歩くのだつたが、少年の姿はなかなか見つからなかつた。時々葉と葉の間から大きな鳥が音を立てて飛び立つと彼はじつとその鳥を見送つたりした。彼は太市をさがして歩く自分の姿が次第にみじめに思はれ出して、草の上に坐り込むと、もう太市をさがすのも嫌悪されるのであつた。そして投げ出した自分の足をつくづく眺めながら、気づかぬうちに拡がつて行く麻痺部にさはつてみたりした。そして何時の間にか頭をもちあげて来てゐる小さな結節に気づいてはつとすると、鮮かな病勢の進行に絶望的な微笑をもらして、立上つたとたんに、やけくそな大声で怒鳴つてみたくなつた。

「うおーい! 太市。」

 声は木々の間を潜り抜けて、葉をふるはせながら遠方へ消えて行つた。

 自分の声にじつと耳を澄ませてゐた彼は、それが消えてしまふのを待つてまた叫んだ。

「うおーい。」

 すると不意にすぐ間近くで女の児たちの喚声があがつた。

「うおーい。」

 と彼女等は鶏三を真似て可愛い声で叫ぶのだつた、そして入り乱れた足音を立てて、葉の間を潜り抜けて来ると、小山の上でしたやうに彼を取り囲んだ。

「先生が今日はすてきな歌を教へてあげようね。」

 と鶏三は笑ひながら言ふと、

「さあ、みんなお坐りなさい。」

「すてき、すてき。」

 と子供たちは手をうつてはしやいだ。鶏三はちよつと眼を閉ぢて考へるやうな風をしてから、太い声で、うろ覚えの太市の歌を唄ひ始めた。

 子供たちは鶏三に合せて合唱した。多分太市もどこかでばばさんを想ひ出しながら唄つてゐることであらう。鶏三は次第に声を大きくしていつた。

脚注 編集

出典 編集

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 『ハンセン病に咲いた花 初期文芸名作選』戦前編、皓星社、2002年、327頁。ISBN 9784774402802
 

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