月刊ポピュラーサイエンス/第13巻/1878年5月号/有限と無限の関係


有限と無限の関係

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人間の知識はすべて限られている。感覚の力によって、感覚の範囲によって、感覚の不完全さによって、制限されているのだ。目は、その微細さゆえに原子を見ることができず、その広大さゆえに太陽や星を測ることができない。ある距離内の限られた種類の物体を、近似的かつ比較的に測定することだけが信頼できるのである。

この意識的な狭さは、すべての特殊な感覚と知性のすべての能力において実現されている。

私たちは、痛みを感じないほどわずかな痛みでも、その総体として致命的となることがある。また、感覚のすべての神経を一度に打ちのめす致命的な一撃は、ほとんど意識的な痛みを生じない。意識はそれ自身の始まりや終わりを示すことができず、中間の段階を実現することしかできない。私たちは、いつ、どのようにして、見たり、感じたり、考えたりするようになったのか、全く意識していないし、おそらく、その終了の仕方についても、ほとんど意識していないことだろう。肉体を意識する存在として(不死の問題を論じるのではない)、揺りかごと墓は一つの謎に包まれている。その間にあるすべてのものを私たちは「生命」と呼んでいる。

さて、感覚によって制限された心が、無限についての正しい概念を形成することができないことは明らかであるように思われる。無限の空間や無限の時間という考えを理解することは、私たちにはまったく不可能なことである。空間に終わりがあると仮定することは、その先に何かがあると仮定することであり、それは空間でなければならない。時間が始まった瞬間があったと仮定することは、時間が始まる前に瞬間があったと仮定することであり、これもまた時間であったに違いないのである。神とは、無限なるものの最高の理想であると考えよう。神には始まりがなく、その存在であるべての空間を満たしていると仮定しよう。しかし、すべての空間に行き渡ることなく、普遍的であるべてに行き渡る神を考えることはできない。したがって、もし神に始まりがなければ、空間もなく、もし空間に始まりがなければ、時間もないことになる。したがって、一連の流れとして、神は時間や空間を創造しなかった。なぜなら、それらは神自身の存在の前提条件であったからだ。それゆえ、私たちの最高の神に対する概念は、必然的に神を条件づけるのである。

さて、「この推論は、神が存在しないことを証明するのか」と問われるかもしれない。そんなことはない。それは単に、有限な心が神を理解するのに全く無力であることを証明しているに過ぎない。また、重力と呼ばれる力や運動様式としての熱の性質を、物理的な事実としてしか理解できないのであれば、これらの法則を生み出した心の無比の特質について、合理的に理解できるわけがありない。無骨な野蛮人が初めて複雑な機械の一部を調べた後、それを動かす力について、あるいはそれが果たす目的についてさえ、正当な概念を形成できないとしたら、それを発明し生産した心の特別な資質を理解することは、どれほど少ないことだろう。深遠な研究によって、脳の分子運動と思考を結びつける微妙な法則を分析できないとしたら、この法則が単なる思考に過ぎなかった無限の心の思考を分析できるだろうか。これを試みることは、不可能を試みることであることは明らかではないだろうか。

創造、つまり絶対的な創造という考えを理解するのに、有限の心がいかに全く無力であるかを示すために、簡単な例証をしてみよう。物質が永遠の存在であるか(それが何を意味するかは別として)、創造主によって呼び出され、創造されたことは認めざるを得ない。しかし、有限の理性的な心にとっては、後者の考えも前者と同様に理解不能であることに、誰もが思い当たらないかもしれない。なぜなら、私たちは無から有を生み出すことを想像することができないからである。"無から有は生まれない" 幾何学の科学は、自明ではない公理に基づいている。有限な心が推論できる限り、全体がその部分のどれよりも大きくないことを証明するのと同じように、神が無から何かを創造することは不可能であり、それは自己矛盾である。読者は、私たちが創造の事実を論じているのではなく、それがどのようなものであれ、事実を把握する人間の心の無能さを論じていることに留意していただきたい。人間の知性のプライドを傷つけるようなことかもしれないが、私たちは、広大な思考の場があるという結論に達さざるを得ない。人間の知性が排除されたこの広大な領域のどこかに、絶対的な時間と空間、そして我々が創造と呼ぶもの、あるいは原初的な因果関係が横たわっているのである。哲学者と神学者が同様に軽蔑されるに値するこの分野を探求する無益な試み、すなわち、自ら巻き上げる時計を作ることによって永久運動をするという古い愚行である。

今こそ科学は、人間の知識の限界を何らかの形で定義し、すべての研究を知りうる範囲に厳密に閉じ込めるべき時なのだ。有限の精神は、究極の先行原因を知覚したり、理解したりすることができないような状態にあると仮定しても安全ではないだろうか。神が最初の原因であると言うことは、一見簡単な解決策のように見えますが、それは我々が知らないということの別の言い方に過ぎない。 もしそうでなければ、無限の時間の間、神は一人であったか、あるいは物質が神と同存していたことになり、神が宇宙であるというヒンズーの考えに戻ることになるのである。私たちの神についての概念は、私たちの永遠についての概念の本質でなければならず、有限の心は必然的にその概念を形成することができない。時間の一秒と百万世紀の間には数学的な比率があるが、百万世紀と永遠との間には比率がありえず、したがって、無限で永遠の神という概念は不可能なのである。したがって、無限で永遠の神という概念は不可能なのである。この困難は、この考え自体の広大さよりも、この考えには不可能と思われることが含まれていることにある。それは、第六感の必要性を、我々が既に持っている五感で表現しようとするようなもので、そのような考えは到底伝わらない。

牡蠣のような下等な動物と、人間のような最高級の動物を比較して、一致する点と相違する点に注目してみよう。牡蠣は人間と同じように、胚芽から進化し、動物の活力の絶頂に達し、そして人間と同じように衰え、死んでいく。牡蠣の生命は、彼の住む場所の要素によって条件づけられ、それは人間も同じである。牡蠣は、人間のように、明確に定義された法則によって繁殖し、人間のように病気と早すぎる腐敗にさらされる。さて、これらすべての条件には、種類の違いだけでなく、私たちの知る限り、質の違いもない。これらの条件は、有機物の王国全体が従う普遍的な法則で表現されたものであり、人間の代理人がほとんど、あるいはまったくコントロールできないものである。私たちは今、これらの高い資質、人間で完全にカキに欠けている、または最も初歩的な性質であるに目を向けてみよう。

牡蠣の神経構造は非常に低いので、原子の物理的構造を検出することができるのと同様に、意識を検出することはできない。人間の神経組織は非常に複雑で、その活動で比類のない巨大な脳を中心とし、これに特殊感覚(おそらくカキには全くない)が加わり、これを通してのみすべての知識が心にもたらされるのである。さて、同じように有機的生命の両極を制限し、支配するすべての柔軟性のない法則は、無限の秩序であり、その始まりは感覚の範囲を超えるものである。しかし、特殊な感覚を通して、思考を取り入れる時が来た。これは、外部の作用によって脳に与えられる印象であり、この印象は、周囲の対象との接触が増えるにつれて増大し蓄積され、蓄積された思考が知識と呼ばれるまで、つまり、心は内部からではなく、外部から進化するのである。私たちの思考はすでになされた印象の結果であるため、これまで見たことも聞いたことも感じたこともないようなものを想像することはまったく不可能である。なぜなら、私たちの思考はすでになされた印象の結果だからである。私たちは、プリズムカラーとその組み合わせのどれにも似ていない色について、確かに観念することができない。

低次の生物の受容能力と知覚能力の範囲は、高次のものと比べて広大で、ほとんど理解できない。ちょうど、2つの連続した原子と、最も広く離れた2つの可視の星の間の距離の差のように、それは程度の差であり、有限である。しかし、それは程度の差であり、有限である。根底にある偉大な生命原理はそれぞれ同じであり、より良い名前を求めて、我々はそれを無限秩序の原理と呼ぶ。

さて、無限に続く単純な力と、ある力と別の力との関係が変化することによって生じる結果との間には、明確な境界線が引かれうるというのが我々の主張である-単純な力と結果の力との違い-一方は不変であり、他方は永遠に変化し続ける。金属製の車輪を作り、それを互いにある関係に置き、重りやばねを使って、分や秒単位で時間を刻む時計を作ることができる。部品の関係を変えることによって、週や月を測定し、細分化を省略して、これらの結果を自由に変化させることができる。すべての車輪の運動の結果が決定される倍数の数学的法則は、無限で破壊不可能な数と運動の法則の中にあらかじめ存在しており、直接的な動力は重力の力やバネの分子構造の弾性的性質の中にあらかじめ存在しているのである。歯車を組み立て、あらゆる調整を行う際に、力や質を生み出すことはありない。このことは、あらゆるメカニズム、さらにはあらゆる生物に当てはまる。化学的な原子は、明確で、柔軟性があり、破壊されない性質を持っており、異なる関係や相関がある場合にのみ、異なる効果を生み出す。

有機的な存在条件と無機的な存在条件の違いは、物質の力や特性の違いではなく、二次的な原因による関係の変化に起因している。このような理由から、2 つの生物は互いに完全に重複することはなく、個体が同じ物理的・ 知的条件に 2 度置かれることはないのである。

さて、私たちがわずかでも知っているすべての単純な力の調査において、理解できる始まりが見いだせるものは一つもないことは明らかではないだろうか。私たちは、関与の大きい条件から、より関与の小さい条件へと一つずつ辿っていき、最後 には、関連するすべての関係から切り離された単純な力が、無限の蒼穹の中に消えていきます。私たちが、知ることができるものと知ることができないものとの間に線を引きたいと思うのは、まさにこの点である。なぜなら、すでに見たように、無限の条件を理解する、つまり、無から有を生み出すというのは、心の努力の賜物だからである。創造的エネルギーにおいて神が第一原因であると言うことは、被造物のすべての条件が神のうちにあらかじめ存在していたと言うことであり、被造物のすべての条件と可能性が神のうちにあらかじめ存在していたとすれば、被造物自体も神のうちにあらかじめ存在していたことになり、結果として、始まりがなかったことになります。なぜなら、被造物だけを可能にし、その基礎となった条件は、確かに第一原因だったし、神がそれを創造したとするなら、彼自身を創造したことになり、ばかげた話である。

物質的な宇宙にはそれ自体に創造的なエネルギーはなく、一見盲目の原子が知的な協調によって有機的な条件、ひいては知的な活動へと上昇するすべての多様な法則は、それ自体を創造していないと認めるとき、第一原因の説明として考えられる物質主義への反論は出尽くしたことになる。そして今、私たちは、物質的条件よりも優れた無限の知性、精神的本質に訴え、宇宙を主権的意志の連続とすることによって、理性を満足させようとするのだろうか。しかし、私たちは第一原因の理解に向けて一歩でも前進しただろうか。なぜなら、私たちが宇宙と呼ぶ、過去から現在に至るまで続く広大な影響の連続性には、必ず先行する原因があったはずで、この第一原因は、それが創造した宇宙よりも確実に強力なはずで、原因なしに存在し先行していたものと仮定しているからである。つまり、自然界における最小の現象から、原因と結果を結びつけながらゆっくりと段階を経て、自然界における最高の現象に到達するが、この現象は原因なしに存在したと仮定する。言い換えれば、他のすべての力の源は、それ自体が由来する力であり、それ自体を創造したか、創造されなかったか、そのどちらかは考えられない。つまり、広大な土台の上に、巨大で堂々とした知的ピラミッドが乗っているという発想であり、このピラミッドには何の支えも必要ないと考えられているのだ。

敬虔な批評家は、物理学者に、そのような考えを受け入れる有限の心の能力を示すことができるまで、第一の因果関係を説明するように要求してはならないし、一方では、その意味が全く理解できない名前でそれを覆うことによって困難を取り除いたと考え、自分自身を欺いてはならない。

脚注

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