普請中
渡辺参事官は歌舞伎座の前で電車を降りた。
雨あがりの道の、ところどころに残っている水たまりを避けて、
人通りはあまりない。役所帰りらしい洋服の男五六人のがやがや話しながら行くのにあった。それから
果して精養軒ホテルと横に書いた、わりに小さい看板が見つかった。
河岸通りに向いた方は板囲いになっていて、横町に向いた寂しい側面に、左右から横に登るようにできている階段がある。階段はさきを切った三角形になっていて、そのさきを切ったところに戸口が二つある。渡辺はどれからはいるのかと迷いながら、階段を登ってみると、左の方の戸口に入口と書いてある。
あたりはひっそりとして
「きのう電話で頼んでおいたのだがね」
「は。お二人さんですか。どうぞお二階へ」
右の方へ登る
梯子を登るあとから給仕がついて来た。どの室かと迷って、うしろをふりかえりながら、渡辺はこういった。
「だいぶにぎやかな音がするね」
「いえ。五時には職人が帰ってしまいますから、お食事中騒々しいようなことはございません。しばらくこちらで」
さきへ駈け抜けて、東向きの室の戸をあけた。はいってみると、二人の客を通すには、ちと大きすぎるサロンである。三所に小さい卓がおいてあって、どれをも四つ五つずつ
渡辺があちこち見廻していると、戸口に立ちどまっていた給仕が、「お食事はこちらで」といって、左側の戸をあけた。これはちょうどよい室である。もうちゃんと食卓がこしらえて、アザレエやロドダンドロンを美しく組み合せた
渡辺はやや満足してサロンへ帰った。給仕が食事の室からすぐに勝手の方へ行ったので、渡辺ははじめてひとりになったのである。
不思議なことには、渡辺は人を待っているという心持が少しもしない。その待っている人が誰であろうと、ほとんどかまわないくらいである。あの花籠の向うにどんな顔が現れて来ようとも、ほとんどかまわないくらいである。渡辺はなぜこんな
渡辺は葉巻の煙をゆるく吹きながら、ソファの角のところの窓をあけて、外を眺めた。窓のすぐ下には材木がたくさん立てならべてある。ここが表口になるらしい。動くとも見えない水をたたえたカナルをへだてて、向う側の人家が見える。多分待合かなにかであろう。往来はほとんど絶えていて、その家の門に子を負うた女が一人ぼんやりたたずんでいる。右のはずれの方には幅広く視野をさえぎって、海軍参考館の
渡辺はソファに腰をかけて、サロンの中を見廻した。壁のところどころには、偶然ここで落ち合ったというような掛け物が幾つもかけてある。梅に
渡辺はしばらくなにを思うともなく、なにを見聞くともなく、ただ
廊下に足音と話し声とがする。戸が開く。渡辺の待っていた人が来たのである。
「長く待たせて」
ドイツ語である。ぞんざいなことばと
「食事のいいときはそういってくれ」
給仕は引っ込んだ。
女は傘を無造作にソファの上に投げて、さも疲れたようにソファへ腰を落して、卓に
「たいそう寂しいうちね」
「普請中なのだ。さっきまで恐ろしい音をさせていたのだ」
「そう。なんだか気が落ち着かないようなところね。どうせいつだって気の落ち着くような身の上ではないのだけど」
「いったいいつどうして来たのだ」
「おとつい来て、きのうあなたにお目にかかったのだわ」
「どうして来たのだ」
「去年の暮からウラヂオストックにいたの」
「それじゃあ、あのホテルの中にある舞台でやっていたのか」
「そうなの」
「まさか一人じゃああるまい。組合か」
「組合じゃないが、一人でもないの。あなたもご承知の人が一しょなの」少しためらって。「コジンスキイが一しょなの」
「あのポラックかい。それじゃあお前はコジンスカアなのだな」
「いやだわ。わたしが歌って、コジンスキイが伴奏をするだけだわ」
「それだけではあるまい」
「そりゃあ、二人きりで旅をするのですもの。まるっきりなしというわけにはいきませんわ」
「知れたことさ。そこで東京へも連れて来ているのかい」
「ええ。一しょに
「よく放して出すなあ」
「伴奏させるのは歌だけなの」
「まっぴらだ」
「大丈夫よ。まだお金はたくさんあるのだから」
「たくさんあったって、使えばなくなるだろう。これからどうするのだ」
「アメリカへ行くの。日本は
「それがいい。ロシアの次はアメリカがよかろう。日本はまだそんなに進んでいないからなあ。日本はまだ普請中だ」
「あら。そんなことをおっしゃると、日本の紳士がこういったと、アメリカで話してよ。日本の官吏がといいましょうか。あなた官吏でしょう」
「うむ。官吏だ」
「お行儀がよくって」
「おそろしくいい。本当のフィリステルになりすましている。きょうの晩飯だけが破格なのだ」
「ありがたいわ」さっきから幾つかのボタンをはずしていた手袋をぬいで、卓越しに右の平手を出すのである。渡辺は
「キスをして上げてもよくって」
渡辺はわざとらしく顔をしかめた。「ここは日本だ」
たたかずに戸をあけて、給仕が出て来た。
「お食事がよろしゅうございます」
「ここは日本だ」と繰り返しながら渡辺はたって、女を食卓のある室へ案内した。ちょうど電燈がぱっとついた。
女はあたりを見廻して、食卓の向う側にすわりながら、「シャンブル・セパレエ」と
「偶然似ているのだ」渡辺は平気で答えた。
シェリイを注ぐ。メロンが出る。二人の客に三人の給仕が附ききりである。渡辺は「給仕のにぎやかなのをご覧」と附け加えた。
「あまり気がきかないようね。愛宕山もやっぱりそうだわ」
「愛宕山では邪魔だろう」
「まるで見当違いだわ。それはそうと、メロンはおいしいことね」
「いまにアメリカへ行くと、毎朝きまって食べさせられるのだ」
二人はなんの意味もない話をして食事をしている。とうとうサラドの附いたものが出て、杯にはシャンパニエが注がれた。
女が突然「あなた少しも
渡辺はすわったままに、シャンパニエの杯を盛花より高くあげて、はっきりした声でいった。
“
凝り固まったような微笑を顔に見せて、黙ってシャンパニエの杯をあげた女の手は、人には知れぬほど
× × ×
まだ八時半ごろであった。燈火の海のような銀座通りを横切って、ウェエルに深く