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 医者はさぐりを入れたあとで、手術台の上からつだおろした。

「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。このまえさぐった時は、途中にはんこんりゅうきがあったので、ついそこがきどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、きょう疎通を好くするために、そいつをがりがりき落して見ると、まだ奥があるんです」

「そうしてそれが腸まで続いているんですか」

「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」

 津田の顔には苦笑のうちに淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対してうそく訳に行かないんですから」という意味に受取れた。

 津田は無言のまま帯をめ直して、いすの背に投げ掛けられたはかまを取り上げながらまた医者の方を向いた。

「腸まで続いているとすると、なおりっこないんですか」

「そんな事はありません」

 医者はかっぱつにまたむぞうさに津田の言葉を否定した。あわせて彼の気分をも否定するごとくに。

「ただいままでのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまでっても肉のあがりこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術をひとおもいにやるよりほかに仕方がありませんね」

「根本的の治療と云うと」

せっかいです。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。するとてんねんしぜんかれためんの両側がゆちゃくして来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」

 津田は黙ってうなずいた。彼のそばには南側の窓下にえられたテーブルの上に一台のけんびきょうが載っていた。医者と懇意な彼はさっき診察所へはいった時、物珍らしさに、それをのぞかせてもらったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図にったようにあざやかに見える着色のぶどうじょうの細菌であった。

 津田は袴をいてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入をふところに収めた彼はすでに出ようとしてまたちゅうちょした。

「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細いみぞを全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」

「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」

 津田は思わずまゆを寄せた。

わたしのは結核性じゃないんですか」

「いえ、結核性じゃありません」

 津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上にえた。医者は動かなかった。

「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」

「ええ。た様子で分ります」

 その時看護婦が津田のあとに廻った患者の名前をへやの出口に立って呼んだ。待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。

「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」

「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」

 津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。



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 電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼はつりかわにぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年のとうつうがありありと記憶のぶたいのぼった。白いベッドの上によこたえられたみじめな自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分のうなり声がはっきり聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気をしぼすような恐ろしい力の圧迫と、された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われないはげしい苦痛とが彼の記憶をおそった。

 彼は不愉快になった。急に気をえて自分の周囲を眺めた。周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。彼はまた考えつづけた。

「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」

 あらかわづつみへ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時のとうつうについて、彼は全くのめくらであった。その原因はあらゆる想像のほかにあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。

「この肉体はいつなんどきどんなへんに会わないとも限らない。それどころか、今げんにどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」

 ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっとうしろから突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心のうちで叫んだ。

「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」

 彼は思わずくちびるを固く結んで、あたかも自尊心をきずつけられた人のような眼を彼の周囲に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼のめづかいに対して少しの注意も払わなかった。

 彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身のレールの上を走って前へ進むだけであった。彼はにさんち前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。

「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」

 彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上にめて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼をうしろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動についてひとからけんせいを受けたおぼえがなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。

「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれがもらおうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」

 彼は電車を降りて考えながらうちの方へ歩いて行った。



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 かどを曲って細いこうじはいった時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白いほそい手を額の所へかざすようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐそばへ寄って来るまでその態度を改めなかった。

「おい何を見ているんだ」

 細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。

「ああびっくりした。――御帰り遊ばせ」

 同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上にそそぎかけた。それから心持腰をかがめて軽いえしゃくをした。

 なかば細君のきょうたいに応じようとした津田はなかしゅんじゅんして立ち留まった。

「そんな所に立って何をしているんだ」

「待ってたのよ。御帰りを」

「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」

「ええ。あれすずめよ。雀が御向うのうちの二階のひさしに巣を食ってるんでしょう」

 津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。

「何だい」

ステッキ

 津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関のこうしどを開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫のあといてくつぬぎからあがった。

 夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田がひばちの前にすわるか坐らないうちに、また勝手の方からしゃぼんいれてぬぐいに包んで持って出た。

「ちょっと今のうちひとふろ浴びていらっしゃい。またそこへ坐り込むとおっくうになるから」

 津田は仕方なしに手を出しててぬぐいを受取った。しかしすぐ立とうとはしなかった。

「湯は今日はやめにしようかしら」

「なぜ。――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」

 津田は仕方なしにまた立ち上った。へやを出る時、彼はちょっと細君の方をふり返った。

「今日帰りに小林さんへ寄ってて貰って来たよ」

「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもうなおってるんでしょう」

「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」

 津田はこう云ったなり、あとを聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。

 同じ話題が再び夫婦のあいだに戻って来たのはゆうめしが済んで津田がまだ自分の室へ引き取らないよいくちであった。

いやね、切るなんて、こわくって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」

「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」

「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」

 細君は濃いかっこうの好いまゆを心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたようにいた。

「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」

 細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。

「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」

「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものをことわっちゃ」

「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」

「でもあたし行きたいんですもの」

「御前は行きたければおいでな」

「だからあなたもいらっしゃいな、ね。おいや?」

 津田は細君の顔を見て苦笑をらした。



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 細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女のまゆひときわ引立って見えた。彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。おまけにあいきょうのないひとえまぶちであった。けれどもその一重瞼の中に輝やくひとみしっこくであった。だから非常によく働らいた。或時はせんおうと云ってもいいくらいに表情をほしいままにした。津田は我知らずこのちいさい眼から出る光にきつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光からね返される事もないではなかった。

 彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼はせつな的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっとしゃだんされた。すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。同時に眼の表情があとかたもなく消えた。

うそよ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のはただ甘ったれたのよ」

 黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。

「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へはにさんちじゅうはがきを出すか、でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」

「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」

「いえ私もしにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」

 津田は自分の受けべき手術についてなおくわしい話を細君にしなければならなかった。

「手術ってたって、そうできものうみを出すように簡単にゃ行かないんだよ。最初げざいをかけてまず腸をきれいに掃除しておいて、それからいよいよ切開すると、出血の危険があるかも知れないというので、きずぐちへガーゼをめたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。だからたといこの次の日曜に行くとしたところで、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違にゃならないし、また日曜をり上げてあしたにしたところで、あさってにしたところで、やっぱり同じ事なんだ。そこへ行くとまあ楽な病気だね」

「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」

 細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。津田はそれに全くむとんじゃくであると云った風に、何か考えながら、二人の間に置かれたながひばちふちに右のひじたせて、その中に掛けてあるてつびんふたを眺めた。しゅどうの葢の下では湯のたぎる音が高くした。

「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」

「だからよしかわさんに会って訳を話して見た上で、日取をきめようかと思っているところだ。黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」

「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。ふだんからあんなに御世話になっているんですもの」

「吉川さんに話したらあしたからすぐ入院しろって云うかも知れない」

 入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。

「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」

「まあ入院さ」

「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」

「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階がいてるもんだから、そこへいる事もできるようになってるんだ」

きれい?」

 津田は苦笑した。

うちよりは少しあ綺麗かも知れない」

 今度は細君が苦笑した。



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 寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢でひばちりかかったまま夫を見上げた。

「また御勉強?」

 細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれにびようとした。ある時の彼はかえって反感的にそれからのがれたくなった。どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手をみくびった自覚がぼんやり働らいていた。

 彼が黙ってあいふすまを開けて次のへやへ出て行こうとした時、細君はまた彼のうしろから声を掛けた。

「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」

 津田はちょっとふり向いた。

「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」

 細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎりこうばいの急なはしごだんをぎしぎし踏んで二階へあがった。

 彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊せてあった。彼は坐るなりそれを開いてしおりはさんであるページめあてにそこから読みにかかった。けれどもさんよっかなおざりにしておいたとがたたって、前後の続き具合がよく解らなかった。それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気のした彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらとひるがえして書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。すると前途りょうえんという気がおのずから起った。

 彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれからこんにちまでにもう二カ月以上もっているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らないぐぶつのように細君の前でののしっていた。それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心をくすぐった。

 しかし今彼が自分の前にひろげている書物から吸収しようとつとめている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。学校の講義から得た知識ですらめったに実際の役に立ったためしのない今の勤め向きとはほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。彼はただそれを一種の自信力としてたくわえておきたかった。他の注意をしょうしょくとしても身に着けておきたかった。その困難が今の彼におぼろげながら見えて来た時、彼は彼のおのぼれいて見た。

「そううまくは行かないものかな」

 彼は黙ってたばこを吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。そうしてあしばやに階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。



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「おいおのぶ

 彼はふすまごしに細君の名を呼びながら、すぐからかみを開けて茶の間の入口に立った。するとながひばちわきに坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電灯のいたへやのぞいた彼の眼にそれが常よりもきわだってはなやかに見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔とはでやかなもようとを等分にみくらべた。

「今時分そんなものを出してどうするんだい」

 お延はひおうぎ模様の丸帯のはじを膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。

「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍もめた事がないんですもの」

「それでこんだそのなりしばやに出かけようと云うのかね」

 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延はなんにも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒いまゆをぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこのしょさは時として変に津田の心をそそのかすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙ってえんがわへ出てかわやの戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。

「あなた、あなた」

 同時に彼女は立って来た。そうして彼の前をふさぐようにしていた。

「何か御用なの」

 彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりもながじゅばんよりもむしろ大事なものであった。

「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」

「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」

 津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。

ゆうびんばこの中を探させましょうか」

「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」

「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」

 御延は玄関のしょうじを開けてくつぬぎへ下りようとした。

「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」

「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」

 津田はようやく茶の間へ引き返して、さっき飯を食う時に坐ったざぶとんが、まだひばちの前に元の通りえてある上にあぐらをかいた。そうしてそこにさんらんと取り乱された濃いゆうぜんもようの色を見守った。

 すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。

「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」

 こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。

「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」

「何だ書留じゃないのか」

 津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君のよそゆきぎの荒いおめししまがらを眺めながらひとりごとのように云った。

「困るな」

「どうなすったの」

「なに大した事じゃない」

 みえの強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。



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「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金のまぎわになって、こんな事を云って来て……」

「いったいどういう訳なんでしょう」

 津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出してひざの上で繰り拡げた。

「貸家が二軒先月末にいちまったんだそうだ。それからふさがってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。そこへ持って来て、庭の手入だの垣根のつくろいだので、だいぶ臨時費がかさんだから今月は送れないって云うんだ」

 彼は開いた手紙を、そのままひばちの向う側にいるお延の手に渡した。御延はまた何も云わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。

「なにそんな家賃なんぞあてにしないだって、送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。垣根を繕うたっていくらかかるものかね。れんがへいを一丁もこしらえやしまいし」

 津田の言葉にいつわりはなかった。彼の父はよし富裕でないまでも、まいげつむすこ夫婦のためにその生計の不足を補ってやるくらいの出費に窮する身分ではなかった。ただ彼は地味な人であった。津田から云えば地味過ぎるぐらい質素であった。津田よりもずっとはで好きな細君から見ればほとんど無意味に近い節倹家であった。

「御父さまはきっとわたしたちが要らないぜいたくをして、むやみに御金をぱっぱっとつかうようにでも思っていらっしゃるのよ。きっとそうよ」

「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時のくらしを覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。そりゃ御父さんの三十もおれの三十もとしに変りはないかも知れないが、ぐるりはまるで違っているんだからそうは行かないさ。いつかも会へ行く時会費はいくらだとくから五円だって云ったら、驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ」

 津田はふだんからお延が自分の父をけいべつする事を恐れていた。それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉をらさなければならなかった。それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。

「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」

 夫の手前老人に対する批評をはばかった細君のわとうは、すぐ実際問題の方へ入って来た。津田の答は用意されていなかった。しばらくして彼は小声でひとりごとのように云った。

「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」

 お延は夫の顔を見つめた。

「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」

「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなからちかないよ」

「でもほかにあてがなければ仕方なかないの」

「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」

「そうね」

 その時津田はともにお延の方を見た。そうして思い切ったような口調で云った。

「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」



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いやよ、あたし」

 お延はすぐ断った。彼女の言葉には何のよどみもなかった。遠慮としんしゃくを通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相当の速力で走っている自動車を、突然められた時のようなショックを受けた。彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。

「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」

 お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。

「そうかい。それじゃいて頼まないでもいい。しかし……」

 津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、すくってけるようにさえぎった。

「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、くらしに困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」

 お延が一概に津田の依頼をしりぞけたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対するみえに制せられたのだという事がようやく津田のに落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。

「そんなに楽な身分のようにふいちょうしちゃ困るよ。買いかぶられるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」

「あたし吹聴したおぼえなんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」

 津田はついきゅうもしなかった。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。二人はちょっと会話をとぎらした後でまた実際問題に立ち戻った。しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようというふんべつも出なかった。「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。

 お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。

「これどうかしましょうか」

 彼女はきんの入った厚い帯のはじを手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光にかざした。津田にはその意味がちょっとみ込めなかった。

「どうかするって、どうするんだい」

「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」

 津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくりさんだんを、嫁に来たての若い細君が、くの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。

「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」

「ないわ、そんな事」

 お延は笑いながら、さげすむような口調で津田の問を打ち消した。

「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」

「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」

 津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうしたげびまねをさせたくなかった。お延は弁解した。

ときが知ってるのよ。あのおんなうちにいる時分よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。それから近頃じゃはがきさえ出せば、向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」

 細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとってうれしい事実であった。しかしそれをあえてさせるのはまた彼にとっての苦痛にほかならなかった。細君に対して気の毒というよりもむしろ夫のほこりをきずつけるという意味において彼はちゅうちょした。

「まあよく考えて見よう」

 彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へあがって行った。



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 翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくりはしごだんの途中で吉川に出会った。しかし彼はくだりがけ、むこうのぼりがけだったので、ちがいていねいおじぎをしたぎり、彼は何にも云わなかった。もうひるめしに間もないという頃、彼はそっと吉川のへやの戸をたたいて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川はたばこを吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。

「何か用かい」

 吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。

「ちょっと……」

「君自身の用事かい」

 津田はもとより表向の用事で、この室へしじゅうしゅつにゅうすべき人ではなかった。ばつの悪そうな顔つきをした彼は答えた。

「そうです。ちょっと……」

「そんならあとにしてくれたまえ。今少しさしつかえるから」

「はあ。気がつかない事をして失礼しました」

 音のしないように戸をめた津田はまた自分の机の前に帰った。

 午後になってから彼はにへんばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。

「どこかへ行かれたのかい」

 津田は下へ降りたついでに玄関にいるきゅうじいた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。

「ええさっき御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」

 毎日人のでいりの番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれがれて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務をった。

 時間になった時、彼はほかの人よりも一足おくれて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、またポッケットから時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。帰りに吉川のうちへ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。

 彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、うちまで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。しかし彼としては時々吉川家の門をくぐる必要があった。それは礼儀のためでもあった。義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。

「津田は吉川と特別の知り合である」

 彼は時々こういう事実を背中にしょって見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかもみずから重んずるといった風の彼の平生の態度をごうくずさずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえってひとに見せたがるのと同じような心理作用のもとに、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身はくまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。



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 いかめしい表玄関の戸はいつもの通りまっていた。津田はそのじょうはんぶすかぼりのようにまれた厚いこうしの中を何気なくのぞいた。中には大きなみかげいしくつぬぎが静かに横たわっていた。それからてんじょうの真中からあおぐろい色をしたいものでんとうがさが下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだためしのない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐそばにあるないげんかんから案内を頼んだ。

「まだ御帰りになりません」

 こくらはかまを着けて彼の前にひざをついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものとみ込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返していた。

「奥さんはおいでですか」

「奥さんはいらっしゃいます」

 事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。

「ではどうぞ奥さんに」

 彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生はいやな顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。

 彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶もたばこぼんも運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。

「今御帰りがけ?」

 彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。

「奥さんはどうなすって」

 津田のあいさつに軽いえしゃくをしたなり席に着いた細君はすぐこういた。津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。

「奥さんができたせいか近頃はあんまりうちへいらっしゃらなくなったようね」

 細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前にとししたの男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねてめしたの男であった。

「まだうれしいんでしょう」

 津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。

「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」

「ええもうはんとしと少しになります」

「早いものね、ついこのあいだだと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」

「何がです」

「御夫婦仲がよ」

「別にどうという事もありません」

「じゃもううれしいところは通り越しちまったの。うそをおっしゃい」

「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」

「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」

「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」

「時にあなた御いくつ?」

「もうたくさんです」

「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直にさっぱりとおっしゃいよ」

「じゃ申し上げます。実は三十です」

「すると来年はもう一ね」

「順に行けばまあそうなるかんじょうです」

「お延さんは?」

「あいつは三です」

「来年?」

「いえ今年」



十一編集

 吉川の細君はこんな調子でよく津田にからかった。きげんの好い時はなおさらであった。津田も折々は向うを調戯い返した。けれども彼の見た細君の態度には、じょうだんともまじめとも片のつかない或物がひらめく事がたびたびあった。そんな場合に出会うと、根強いたちに出来上っている彼は、談話の途中でよくこだわった。そうしてもし事情が許すならば、どこまでも話の根をじって、相手の本意を突き留めようとした。遠慮のためにそこまで行けない時は、黙って相手の顔色だけを注視した。その時の彼の眼には必然の結果としていつでも軽い疑いの雲がかかった。それが臆病にも見えた。注意深くも見えた。または自衛的にたかぶる神経の光を放つかのごとくにも見えた。最後に、「思慮にちた不安」とでも形容してしかるべき一種の匂も帯びていた。吉川の細君は津田に会うたんびに、一度か二度きっと彼をそこまで追い込んだ。津田はまたそれと自覚しながらいつのにかそこへり込まれた。

「奥さんはずいぶん意地が悪いですね」

「どうして? あなたがたおとしを伺ったのが意地が悪いの」

「そう云う訳でもないですが、何だか意味のあるような、またないようなき方をしておいて、わざとそのあとをおっしゃらないんだから」

「後なんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究はきんもつよ。あなたがその癖をやめると、もっとひとずきのする好い男になれるんだけれども」

 津田は少し痛かった。けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭にこたえる痛さではなかった。彼の頭はこの露骨な打撃の前に冷然として相手をみくだしていた。細君は微笑した。

うそだと思うなら、帰ってあなたの奥さんにいて御覧遊ばせ。お延さんもきっと私と同意見だから。お延さんばかりじゃないわ、まだほかにもう一人あるはずよ、きっと」

 津田の顔が急に堅くなった。くちびるの肉が少し動いた。彼は眼を自分のひざの上に落したぎり何も答えなかった。

「解ったでしょう、誰だか」

 細君は彼の顔をのぞき込むようにしていた。彼はもとよりその誰であるかをよく承知していた。けれども細君の云う事を肯定する気はごうもなかった。再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。その眼が無言のうちに何を語っているか、細君には解らなかった。

「御気にさわったらかんにんしてちょうだい。そう云うつもりで云ったんじゃないんだから」

「いえ何とも思っちゃいません」

「本当に?」

「本当に何とも思っちゃいません」

「それでやっと安心した」

 細君はすぐ元の軽い調子をかいふくした。

「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱりとくなのね。あなたはそら今おっしゃった通りちょうどでしょう、それからお延さんが今年三になるんだから、年歯でいうと、よっぽど違うんだけれども、様子からいうと、かえって奥さんの方がけてるくらいよ。更けてると云っちゃ失礼に当るかも知れないけれども、何と云ったらいいでしょうね、まあ……」

 細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。

「まあろうせいよ。本当にりこうかたね、あんな怜悧な方はめったに見た事がない。大事にして御上げなさいよ」

 細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と云っても大した変りはなかった。



十二編集

 その時二人の頭の上にさがっている電灯がぱっといた。さっき取次に出た書生がそっとへやの中へ入って来て、音のしないようにブラインドをろして、また無言のまま出て行った。ガスだんろの色のだんだん濃くなって来るのを、さいぜんから注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿をもくそうした。もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いているレモンひときれけるようにしてその余りを残りなくすすった。そうしてそれをあいずに、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事はもとよりたんかんであった。けれども細君のだくひだけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。

「いつだって構やしないんでしょう。くりあわせさえつけば」

 彼女はさもむぞうさな口ぶりで津田に好意を表してくれた。

「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」

「じゃ好いじゃありませんか。あしたから休んだって」

「でもちょっと伺った上でないと」

「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」

 細君は快よく引き受けた。あたかも自分がひとのために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。津田はこのきげんのいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのがうれしかった。自分の態度なりしょさなりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。

 彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのをいていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中をやされたせつなに受ける快感に近い或物であった。

 同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己をゆたかにもっていた。彼はその自己をわざとかくして細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君からなぶられる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁にりかかっていた。

 彼が用事を済ましていすを離れようとした時、細君は突然口をひらいた。

「また子供のように泣いたりうなったりしちゃいけませんよ。大きななりをして」

 津田は思わず去年の苦痛を思い出した。

「あの時は実際弱りました。からかみあけたてが局部にこたえて、そのたんびにぴくんぴくんとからだ全体がねどこの上で飛び上ったくらいなんですから。しかしこんだは大丈夫です」

「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまりくちはばったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」

「あなたにみまいに来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」

「いっこう構わないわ」

 細君の様子は本気なのかからかうのかちょっと要領を得なかった。医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと云おうとした津田は、少しくちごもってちゅうちょした。細君は虚に乗じて肉薄した。

「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」

「じゃそのうちまた私の方から伺います」

 細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。



十三編集

 往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ないよいやみの町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。

 冷たそうにぎらつくはだあいしっぽう製のかびん、その花瓶のなめらかな表面に流れるはなやかな模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、あおぐろの中に茶のからくさ模様を浮かした重そうな窓掛、みすみきんぱくを置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強いしげきが、すでに明るい電灯のもとを去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。

 彼は無論このうずまく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事ができなかった。彼は歩きながらさっき彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。そうしてその或部分に来ると、あたかもいりまめを口に入れた人のように、そしゃくしつつ味わった。

「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」

 彼はこの矛盾した両面を自分の胸のうちで自分に公言した時、たちまちわが弱点をばくろした人のように、暗い路の上で赤面した。彼はその赤面を通り抜けるために、わざとすぐ先へ出た。

「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」

 今の津田はけっしてこの問題に解決を与える事ができなかった。

「おれにからかうため?」

 それは何とも云えなかった。彼女は元来ひとに調戯う事のすきな女であった。そうして二人のあいだがらはその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。彼をらす事から受け得られる単なる快感のために、遠慮のらちを平気でまたぐかも知れなかった。

「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれをひいきにし過ぎるため?」

 それも何とも云えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。

 彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。ほりばたを沿うて走るその電車のまどガラスの外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上にわだかまる黒い松の木が見えるだけであった。

 車内のかたすみに席を取った彼は、窓をすかしてこのさむざむしい秋のけしきにちょっと眼を注いだあと、すぐまたほかの事を考えなければならなかった。彼は面倒になってゆうべはそのままにしておいた金のくめんをどうかしなければならないいちにあった。彼はすぐまた吉川の細君の事を思い出した。

さっき事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに」

 そう思うと、自分が気をかしたつもりで、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。と云って、今さらその用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。

 電車を下りて橋を渡る時、彼は暗いらんかんの下にうずくまるこじきを見た。その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。彼は身に薄いがいとうを着けていた。季節からいうとむしろ早過ぎるガスだんろの温かいほのおをもう見て来た。けれども乞食と彼とのけんかくは今の彼の眼中にはほとんどはいる余地がなかった。彼は窮した人のように感じた。父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。



十四編集

 津田は同じ気分で自分のうちの門前まで歩いた。彼が玄関のこうしへ手を掛けようとすると、格子のまだかない先に、しょうじの方がすうといた。そうしてお延の姿がいつの間にか彼の前に現われていた。彼はびっくりしたように、うすげしょうを施こした彼女の横顔を眺めた。

 彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。彼女の行為は時として夫のせんを越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気のいたしょうこをもげた。日常さまつの事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女のしょさを、津田は時々自分の眼先にちらつくナイフの光のように眺める事があった。小さいながらえているという感じと共に、どこか気味の悪いという心持も起った。

 とっさの場合津田はお延が何かの力で自分の帰りを予感したように思った。けれどもその訳をく気にはならなかった。訳を訊いて笑いながらはぐらかされるのは、夫の敗北のように見えた。

 彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。茶の間のひばちの前には黒塗の足のついたぜんの上にふきんを掛けたのが、彼の帰りを待ち受けるごとくにえてあった。

「今日もどこかへ御廻り?」

 津田が一定の時刻にうちへ帰らないと、お延はきっとこういう質問を掛けた。いきおい津田は何とか返事をしなければならなかった。しかしそう用事ばかりで遅くなるとも限らないので、時によると彼の答は変にあいまいなものになった。そんな場合の彼は、自分のために薄化粧をしたお延の顔をわざと見ないようにした。

「あてて見ましょうか」

「うん」

 今日の津田はいかにも平気であった。

「吉川さんでしょう」

「よくあたるね」

「たいていようすで解りますわ」

「そうかね。もっともゆうべ吉川さんに話をしてから手術の日取をきめる事にしようって云ったんだから、あたる訳は訳だね」

「そんな事がなくったって、あたしあてるわ」

「そうか。偉いね」

 津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。

「じゃいつから、その治療に取りかかるの」

「そういう訳だから、まあいつからでも構わないようなもんだけれども……」

 津田の腹には、その治療にとりかかる前に、是非金のくめんをしなければならないというくったくがあった。その額は無論大したものではなかった。しかし大した額でないだけに、これという簡便なちょうだつかたの胸に浮ばない彼を、なおいらつかせた。

 彼は神田にいるいもとの事をちょっと思い浮べて見たが、そこへ足を向ける気にはどうしてもなれなかった。彼が結婚後家計ぼうちょうという名義のもとに、まいげつの不足を、京都にいる父からてんぽしてもらう事になった一面には、ぼんくれの賞与で、そのなんぶんかを返済するという条件があった。彼はいろいろの事情から、この夏その条件をりこうしなかったために、彼の父はすでに感情を害していた。それを知っている妹はまた大体の上においてむしろ父の同情者であった。妹の夫の手前、金の問題などを彼女の前に持ち出すのを最初からいさぎよしとしなかった彼は、この事情のために、なおさら堅くなった。彼はやむをえなければ、お延の忠告通り、もう一返父に手紙を出して事情を訴えるよりほかに仕方がないと思った。それには今の病気を、少しておもに書くのが得策だろうとも考えた。ふぼに心配をかけない程度で、実際の事実に多少のつやを着けるくらいの事は、良心の苦痛を忍ばないで誰にでもできる手加減であった。

「お延ゆうべお前の云った通りもう一遍御父さんに手紙を出そうよ」

「そう。でも……」

 お延は「でも」と云ったなり津田を見た。津田は構わず二階へあがって机の前に坐った。



十五編集

 西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机のひきだしからラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して、その紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時、ふと気がついた。彼の父はペンや万年筆でだらしなくつづられた言文一致の手紙などを、自分のせがれから受け取る事はひごろからあまり喜こんでいなかった。彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮べながら、苦笑して筆をいた。手紙を書いてやったところでとうていききめはあるまいという気が続いて起った。彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の余りへ、やぎひげを生やしたほそおもての父の顔をいたずらにスケッチして、どうしようかと考えた。

 やがて彼は決心して立ち上った。ふすまを開けて、二階のあがぐちの所に出て、そこから下にいる細君を呼んだ。

「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」

「日本の?」

 細君の耳にはこの形容詞が変にこっけいに聞こえた。

「女のならあるわ」

 津田はまた自分の前にいきな模様入のはんきれひろげて見た。

「これなら気に入るかしら」

「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」

「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」

 津田はまじめな顔をしてなお半切を見つめていた。お延の口元には薄笑いの影がした。

ときをちょいと買わせにやりましょうか」

「うん」

 津田はなまへんじをした。白い巻紙と無地の封筒さえあれば、必ず自分の希望が成功するという訳にも行かなかった。

「待っていらっしゃい。じきだから」

 お延はすぐ下へ降りた。やがてくぐいて下女の外へ出る足音が聞こえた。津田は必要の品物が自分の手に入るまで、何もせずに、ただ机の前に坐ってたばこを吹かした。

 彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐかみがたわるくちを云いたがる癖に、いつか永住の目的をもって京都に落ちついてしまった。彼がその土地を余り好まない母に同情して多少不賛成の意をらした時、父は自分で買った土地と自分が建てた家とを彼に示して、「これをどうする気か」と云った。今よりもまだ年の若かった彼は、父の言葉の意味さえよく解らなかった。所置はどうでもできるのにと思った。父は時々彼に向って、「誰のためでもない、みんな御前のためだ」と云った。「今はそのありがたが解らないかも知れないが、おれが死んで見ろ、きっと解る時が来るから」とも云った。彼は頭の中で父の言葉と、その言葉を口にする時の父の態度とを描き出した。子供の未来の幸福をいってに引き受けたような自信にちたその様子が、近づくべからざる予言者のように、彼には見えた。彼は想像の眼で見る父に向って云いたくなった。

「御父さんが死んだあとで、一度に御父さんのありがた味が解るよりも、お父さんが生きているうちから、まいげつ正確にお父さんのありがた味が少しずつ解る方が、どのくらい楽だか知れやしません」

 彼が父のきげんそこねないような巻紙の上へ、なるべく金を送ってくれそうな文句を、堅苦しい候文でしたため出したのは、それから約十分であった。彼はぎごちない思いをして、ようやくそれを書き上げたあとで、もう一遍読み返した時に、自分の字のまずい事につくづくあいそを尽かした。文句はとにかく、こんな字ではとうてい成功する資格がないようにも思った。最後に、よし成功しても、こっちでる期日までに金はとても来ないような気がした。下女にそれをとうかんさせたあと、彼は黙って床の中へもぐり込みながら、腹の中で云った。

「その時はその時の事だ」



十六編集

 翌日の午後津田は呼び付けられて吉川の前に立った。

きのううちへ来たってね」

「ええちょっと御留守へ伺って、奥さんに御目にかかって参りました」

「また病気だそうじゃないか」

「ええ少し……」

「困るね。そうよく病気をしちゃ」

「何実はこの前の続きです」

 吉川は少し意外そうな顔をして、今まで使っていた食後のこようじを口から吐き出した。それからうちがくしさぐってたばこいれを取り出そうとした。津田はすぐ灰皿の上にあったマッチった。あまり気をかそうとしていたものだから、一本目は役に立たないで直ぐ消えた。彼はあわてて二本目を擦って、それを大事そうに吉川の鼻の先へ持って行った。

「何しろ病気なら仕方がない、休んでよく養生したらいいだろう」

 津田は礼を云ってへやを出ようとした。吉川はけむりの間からいた。

「佐々木には断ったろうね」

「ええ佐々木さんにもほかの人にも話して、あわせをして貰う事にしてあります」

 佐々木は彼のうわやくであった。

「どうせ休むなら早い方がいいね。早く養生して早く好くなって、そうしてせっせと働らかなくっちゃだめだ」

 吉川の言葉はよく彼のきしょうを現わしていた。

「都合がよければあしたからにしたまえ」

「へえ」

 こう云われた津田はいやおうなしに明日から入院しなければならないような心持がした。

 彼のからだが半分戸の外へ出かかった時、彼はまたうしろから呼びとめられた。

「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」

 ふり返った津田の鼻を葉巻の好いにおいが急におかした。

「へえ、ありがとう、おかげさまで達者でございます」

「大方詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。ゆうべも岡本と或所で落ち合って、君のお父さんのうわさをしたがね。岡本もうらやましがってたよ。あの男も近頃少しひまになったようなもののやっぱり、君のお父さんのようにゃ行かないからね」

 津田は自分の父がけっしてこれらの人からうらやましがられているとは思わなかった。もし父の境遇に彼らをおいてやろうというものがあったなら、彼らは苦笑して、少なくとももう十年はこのままにしておいてくれと頼むだろうと考えた。それはもとより自分の性格から割り出した津田の観察に過ぎなかった。同時に彼らの性格から割り出した津田の観察でもあった。

「父はもうじせいおくれですから、ああでもして暮らしているよりほかに仕方がございません」

 津田はいつの間にかまた室の中に戻って、元通りの位置に立っていた。

「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」

 津田はあいさつに窮した。向うの口のちょうほうなのに比べて、自分の口のぶちょうほうさが荷になった。彼はてもちぶさたの気味で、ゆるく消えて行く葉巻の煙りを見つめた。

「お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。君の事は何でもこっちに分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ、好いかね」

 津田はこの子供に対するような、じょうだんとも訓戒ともみわけのつかない言葉を、苦笑しながら聞いた後で、ようやく室外にのがた。



十七編集

 その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所からにぎやかな通りを少し行った所で横へ曲った。質屋ののれんだのごかいしょの看板だのとびかしらのいそうなこうしどづくりだのを左右に見ながら、彼はわんきょくしたこうじの中ほどにあるすりガラスばりの扉を外から押して内へ入った。扉の上部に取り付けられたベルが鋭どい音を立てた時、彼は玄関の突き当りの狭い部屋から出る四五人の眼の光を一度に浴びた。窓のないそのへやは狭いばかりでなく実際暗かった。そとから急に入って来た彼にはまるで穴蔵のような感じを与えた。彼は寒そうに長椅子のかたすみへ腰をおろして、たった今暗い中から眼を光らして自分の方を見た人達を見返した。彼らの多くは室の真中に出してある大きな瀬戸物ひばちまわりを取り巻くようにして坐っていた。そのうちの二人は腕組のまま、二人は火鉢のふちに片手をかざしたまま、ずっと離れた一人はそこに取り散らした新聞紙の上へめるように顔を押し付けたまま、また最後の一人は彼の今腰をおろした長椅子の反対の隅に、心持からだを横にしてズボンひざがしらを重ねたまま。

 ベルの鳴った時申し合せたように戸口をふり向いた彼らは、いちべつのちまた申し合せたように静かになってしまった。みんな黙って何事をか考え込んでいるらしい態度で坐っていた。その様子が津田の存在に注意を払わないというよりも、かえって津田から注意されるのを回避するのだとも取れた。単に津田ばかりでなく、お互に注意され合う苦痛をはばかって、わざとそっぽへ眼を落しているらしくも見えた。

 この陰気ないちぐんの人々は、ほとんど例外なしに似たり寄ったりの過去をもっているものばかりであった。彼らはこうして暗い控室の中で、静かに自分の順番の来るのを待っている間に、むしろはなやかにいろどられたその過去の断片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。そうして明るい所へ眼を向ける勇気がないので、じっとその黒い影の中に立ちすくむようにしてこもっているのである。

 津田は長椅子のひじかけに腕をせて手を額にあてた。彼はもくとうを神に捧げるようなこの姿勢のもとに、彼が去年の暮以来この医者の家で思いがけなく会った二人の男の事を考えた。

 その一人は事実彼のいもとむこにほかならなかった。この暗い室の中で突然彼の姿を認めた時、津田はびっくりした。そんな事に対して比較的むとんじゃくな相手も、津田の驚ろき方が反響したために、ちょっとあいさつに窮したらしかった。

 他の一人は友達であった。これは津田が自分と同性質の病気にかかっているものと思い込んで、向うから平気に声をかけた。彼らはその時二人いっしょに医者の門を出て、晩飯を食いながら、セックスラヴという問題についてむずかしい議論をした。

 妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それぎりであとのなさそうに思えた友達と彼との間には、その異常な結果が生れた。

 その時の友達の言葉と今の友達の境遇とを連結して考えなければならなかった津田は、突然ショックを受けた人のように、眼を開いて額から手を放した。

 すると診察所からこんセルの洋服を着た三十がっこうの男が出て来て、すぐ薬局の窓の所へ行った。彼がかくしから紙入を出して金を払おうとするとたんに、看護婦が敷居の上に立った。彼女と見知りごしの津田は、次の患者の名を呼んで再び診察所の方へ引き返そうとする彼女を呼び留めた。

「順番を待っているのが面倒だからちょっと先生にいて下さい。あしたあさって手術を受けに来て好いかって」

 奥へ入った看護婦はすぐまた白い姿を暗いへやの戸口に現わした。

「今ちょうど二階がいておりますから、いつでも御都合のよろしい時にどうぞ」

 津田はのがれるように暗い室を出た。彼が急いで靴をいて、すりガラスばりの大きな扉を内側へ引いた時、今まで真暗に見えた控室にぱっと電灯がいた。



十八編集

 津田のうちへ帰ったのは、きのうよりはやや早目であったけれども、近頃急に短かくなった秋のひあしくに傾いて、さっきまで往来にだけ残っていたはださむの余光が、一度に地上から払い去られるように消えて行く頃であった。

 彼の二階には無論火が点いていなかった。玄関も真暗であった。今かどの車屋のけんとうを明らかに眺めて来たばかりの彼の眼は少し失望を感じた。彼はがらりとこうしを開けた。それでもお延は出て来なかった。昨日の今頃待ち伏せでもするようにして彼女から毒気を抜かれた時は、余り好い心持もしなかったが、こうして迎える人もない真暗な玄関に立たされて見ると、やっぱり昨日の方が愉快だったという気が彼の胸のどこかでした。彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。すると思いがけない二階の方で「はい」という返事がした。それからはしごだんを踏んで降りて来る彼女の足音が聞こえた。同時に下女が勝手の方からけ出して来た。

「何をしているんだ」

 津田の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも云わなかった。しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言のうちに自分をきつけようとする彼女の微笑を認めない訳に行かなかった。白い歯が何より先に彼の視線を奪った。

「二階は真暗じゃないか」

「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」

「寝ていたな」

「まさか」

 下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。

 湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と云いながら、石鹸とてぬぐいを例の通り彼女の手から受け取ってひばちそばを離れようとする夫を引きとめた。彼女はうしむきになって、かさだんすの一番下のひきだしから、ネルを重ねためいせんどてらを出して夫の前へ置いた。

「ちょっと着てみてちょうだい。まだおしが好くいていないかも知れないけども」

 津田はけむに巻かれたような顔をして、くろはちじょうえりのかかった荒いたてじまどてらみまもった。それは自分の買った品でもなければ、こしらえてくれとあつらえた物でもなかった。

「どうしたんだい。これは」

「拵えたのよ。あなたが病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変ななりをしているのは見っともないから」

「いつの間に拵えたのかね」

 彼が手術のため一週間ばかりうちけなければならないと云って、その訳をお延に話したのは、ついにさんちまえの事であった。その上彼はその日からきょうに至るまで、ついぞ針を持ってたちものいたの前にすわった細君の姿を見た事がなかった。彼は不思議の感に打たれざるを得なかった。お延はまた夫のこの驚きをあたかも自分の労力に対する報酬のごとくに眺めた。そうしてわざと説明も何も加えなかった。

きれは買ったのかい」

「いいえ、これあたしのおふるよ。この冬着ようと思って、あらいはりをしたまま仕立てずにしまっといたの」

 なるほど若い女の着るがらだけに、しまがただ荒いばかりでなく、いろあいもどっちかというとむしろはで過ぎた。津田はそでを通したわが姿を、やっこだこのような風をして、少しきまり悪そうに眺めた後でお延に云った。

「とうとうあしたあさってやって貰う事にきめて来たよ」

「そう。それであたしはどうなるの」

「御前はどうもしやしないさ」

「いっしょにいて行っちゃいけないの。病院へ」

 お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。



十九編集

 津田のあくあさ眼をましたのはいつもよりずっと遅かった。家のなかはもうひとかたづきかたづいた後のようにひっそりかんとしていた。座敷から玄関を通って茶の間のしょうじを開けた彼は、そこの火鉢のそばにきちんと坐って新聞を手にしている細君を見た。穏やかな家庭を代表するような音を立てててつびんが鳴っていた。

「気を許して寝ると、ねぼうをするつもりはなくっても、つい寝過ごすもんだな」

 彼は云い訳らしい事をいって、こよみの上にかけてある時計を眺めた。時計の針はもう十時近くの所をしていた。

 顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗のぜんに向った。その膳は彼の着席を待ち受けたというよりも、むしろ待ちくたびれたといった方が適当であった。彼は膳の上に掛けてあるふきんろうとしてふと気がついた。

「こりゃいけない」

 彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。

「ちょっといてくる」

「今すぐ?」

 お延はびっくりして夫の顔を見た。

「なに電話でだよ。訳ゃない」

 彼は静かな茶の間の空気を自分でけちらす人のように立ち上ると、すぐ玄関から表へ出た。そうして電車通りをはんちょうほど右へ行った所にある自動電話へけつけた。そこからまた急ぎ足に取って返した彼は玄関に立ったまま細君を呼んだ。

「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前のがまぐちでも好い」

なんになさるの」

 お延には夫の意味がまるで解らなかった。

「何でもいいから早く出してくれ」

 彼はお延から受取った蟇口をふところほうんだまま、すぐ大通りの方へ引き返した。そうして電車に乗った。

 彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分で、もうひるに間もない頃であった。

「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」

 津田はそう云いながらわきに抱えた包みを茶の間の畳の上へ放り出した。

「足りなくって?」

 お延は細かい事にまで気をつかわないではいられないという眼つきを夫の上に向けた。

「いや足りないというほどでもないがね」

「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかするとかみいどこかと思ったけれども」

 津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。永く髪を刈らないと、心持ばんの小さい彼の帽子が、かぶるたんびに少しずつきしんで来るようだという、ついきのうの朝受けた新らしい感じまで思い出した。

「それにあんまり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」

「実はおれの紙入の中にも、そうたくさん入ってる訳じゃないんだから、まあどっちにしたって大した変りはないんだがね」

 彼は蟇口のわるくちばかり云えた義理でもなかった。

 お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶のかんと、パンバタを取り出した。

「おやおやこれしゃがるの。そんならときを取りにおやりになればいいのに」

「なにあいつじゃ分らない。何を買って来るか知れやしない」

 やがて好いにおいのするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。

 あさめしともひるめしとも片のつかない、きわめて単純な西洋流の食事を済ました後で、津田はひとりごとのように云った。

「今日は病気の報知かたがたぶさたみまいに、ちょっと朝の内藤井のおじの所まで行ってようと思ってたのに、とうとう遅くなっちまった」

 彼の意味は仕方がないから午後にこの訪問の義務を果そうというのであった。



二十編集

 藤井というのは津田の父の弟であった。広島に三年長崎に二年という風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を余儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地任地を巡礼のようにめぐる不便と不利益とにいたく頭を悩ましたあげく、早くから彼をその弟に託して、いっさいの面倒を見て貰う事にした。だから津田は手もなくこの叔父に育て上げられたようなものであった。したがって二人の関係は普通の叔父おいいきを通り越していた。性質や職業の差違を問題のほかに置いて評すると、彼らは叔父甥というよりもむしろ親子であった。もし第二の親子という言葉が使えるなら、それは最も適切にこの二人のあいだがらを説明するものであった。

 津田の父と違ってこの叔父はついぞ東京を離れた事がなかった。半生の間しじゅう動き勝であった父に比べると、単にこの点だけでもそこに非常な相違があった。少なくとも非常な相違があるように津田の眼には映じた。

かんまんなる人世の旅行者」

 叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちにこういう文句があった。それを何気なく小耳にはさんだ津田は、すぐ自分の父をそういう人だと思い込んでしまった。そうしてこんにちまでその言葉を忘れなかった。しかし叔父の使った文句の意味は、頭の発達しない当時よく解らなかったと同じように、今になってもはっきりしなかった。ただ彼は父の顔を見るたんびにそれを思い出した。肉の少ないほそおもてあごの下に、うらないしゃ見たようなそぜんを垂らしたその姿と、叔父のこの言葉とは、彼にとってほとんど同じものを意味していた。

 彼の父は今から十年ばかり前に、突然へんろみ果てた人のように官界を退いた。そうして実業に従事し出した。彼は最後の八年を神戸でついやしたあと、その間に買っておいた京都の地面へ、新らしいふしんをして、二年前にとうとうそこへ引き移った。津田の知らないに、このかんせいな古い都が、彼の父にとっていんせいの場所と定められると共に、しゅうえんの土地とも変化したのである。その時叔父は鼻の頭へしわを寄せるようにして津田に云った。

「兄貴はそれでも少し金がたまったと見えるな。あの風船玉が、じっと落ちつけるようになったのは、全く金の重みのために違ない」

 しかし金の重みのいつまでってもかからない彼自身は、最初から動かなかった。彼はしじゅう東京にいて始終貧乏していた。彼はいまだかつて月給というものを貰ったおぼえのない男であった。月給が嫌いというよりも、むしろくれ手がなかったほどわがままだったという方が適当かも知れなかった。規則ずくめな事に何でも反対したがった彼は、年を取ってその考が少し変って来たあとでも、やはり以前の強情を押し通していた。これは今さら自分の主義を改めたところで、ただ人にけいべつされるだけで、いっこうとくにはならないという事をよく承知しているからでもあった。

 実際の世の中に立って、たんてきな事実と組み打ちをして働らいた経験のないこの叔父は、一面において当然うかつな人生批評家でなければならないと同時に、一面においてははなはだ鋭利な観察者であった。そうしてその鋭利な点はことごとく彼の迂濶な所から生み出されていた。言葉をえていうと、彼は迂濶のおかげきけいな事を云ったりたりした。

 彼の知識は豊富な代りにざっぱくであった。したがって彼は多くの問題に口を出したがった。けれどもいつまで行っても傍観者の態度を離れる事ができなかった。それは彼のいちが彼を余儀なくするばかりでなく、彼の性質が彼をそこにおさえつけておくせいでもあった。彼は或頭をもっていた。けれども彼には手がなかった。もしくは手があっても、それを使おうとしなかった。彼は始終ふところでをしていたがった。一種の勉強家であると共に一種のぶしょうものに生れついた彼は、ついに活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった。



二十一編集

 こういう人にありがちなばすえせいかつを、藤井は市のにしきたにあたる高台のかたすみで、この六七年続けて来たのである。ついこの間まで郊外に等しかったその高台のここかしこにねんねん建て増される大小の家が、年々彼の眼からあおい色を奪って行くように感ぜられる時、彼はペンを走らす手をめて、よく自分の兄の身の上を考えた。折々は兄から金でも借りて、自分も一つ住宅をこしらえて見ようかしらという気を起した。その金を兄はとても貸してくれそうもなかった。自分もいざとなると貸して貰う性分ではなかった。「かんまんなる人生の旅行者」と兄を評した彼は、実を云うと、物質的に不安なる人生の旅行者であった。そうして多数の人の場合において常に見出されるごとく、物質上の不安は、彼にとってある程度の精神的不安に過ぎなかった。

 津田のうちからこの叔父の所へ行くには、はんぶんみちほどかわぞいの電車を利用する便利があった。けれどもみんな歩いたところで、一時間とかからない近距離なので、たまさかの散歩がてらには、かえってやかましい交通機関のたすけに依らない方が、彼の勝手であった。

 一時少し前にうちを出た津田は、ぶらぶらかわべりつたって終点の方に近づいた。空は高かった。日の光が至る所にちていた。向うの高みをおおっている深いこだちの色が、浮き出したように、くっきり見えた。

 彼は道々けさ買い忘れたリチネの事を思い出した。それを今日の午後四時頃に呑めと医者から命令された彼には、ちょっと薬種屋へ寄ってこの下剤を手に入れておく必要があった。彼はいつもの通り終点を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反対なにぎやかな町の方へ歩いて行こうとした。すると新らしく線路を延長する計劃でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式ですじかいに切断されていた。彼は残酷に在来の家屋をむしって、無理にそれを取り払ったようなでこぼこだらけの新道路のかどに立って、そのかたすみかたまっているいちぐんの人々を見た。群集はまばらではあるが三列もしくは五列くらいの厚さで、真中にいる彼とほぼ同年輩ぐらいな男の周囲に半円形をかたちづくっていた。

 こぶとりにふとったその男はふたこもめんの羽織着物にかくおびめてまないたげたいていたが、頭にはかさも帽子もかぶっていなかった。彼のうしろに取り残された一本の柳をたてに、彼はめんフラネルの裏の付いた大きな袋を両手で持ちながら、見物人を見廻した。

「諸君僕がこの袋の中から玉子を出す。このからっぽうの袋の中からきっと出して見せる。驚ろいちゃいけない、種は懐中にあるんだから」

 彼はこの種の人間としてはむしろ不相応なくらいおうふうな言葉でこんな事を云った。それから片手を胸の所で握って見せて、その握ったこぶしをまたぱっと袋の方へぶつけるように開いた。「そら玉子を袋の中へ投げ込んだぞ」とだまさないばかりに。しかし彼は騙したのではなかった。彼が手を袋の中へ入れた時は、もう玉子がちゃんとその中に入っていた。彼はそれを親指と人さし指の間にはさんで、一応半円形をかたちづくっている見物にとっくり眺めさした後で地面の上に置いた。

 津田はけいべつに嘆賞を交えたような顔をして、ちょっと首を傾けた。すると突然うしろから彼の腰のあたりを突っつくもののあるのに気がついた。軽いショックを受けた彼はほとんど反射作用のようにうしろをふり向いた。そうしてそこにさもいたずらこぞうらしく笑いながら立っている叔父の子を見出した。きしょうの着いた制帽と、はんズボンと、背中にしょったはいのうとが、その子の来た方角を彼に語るには充分であった。

「今学校の帰りか」

「うん」

 子供は「はい」とも「ええ」とも云わなかった。



二十二編集

「お父さんはどうした」

「知らない」

「相変らずかね」

「どうだか知らない」

 自分がとおぐらいであった時の心理状態をまるで忘れてしまった津田には、この返事が少し意外に思えた。苦笑した彼は、そこへ気がつくと共に黙った。子供はまた一生懸命にてずまつかいの方ばかり注意しだした。服装から云うといちや作りとも見られるその男はこの時精一杯大きな声を張りあげた。

「諸君もう一つ出すから見ていたまえ」

 彼は例の袋を片手でぐっとしごいて、再び何か投げ込むまねを小器用にしたあとれいれいと第二の玉子を袋の底から取り出した。それでもき足らないと見えて、今度は袋を裏返しにして、薄汚ないめんフラネルのしまがらを遠慮なく群衆の前に示した。しかし第三の玉子は同じ手真似と共に安々と取り出された。最後に彼はあたかも貴重品でも取扱うような様子で、それをていねいに地面の上へ並べた。

「どうだ諸君こうやって出そうとすれば、いくつでも出せる。しかしそう玉子ばかり出してもつまらないから、こんだは一つ生きたとりを出そう」

 津田は叔父の子供をふり返った。

「おいまこともう行こう。おじさんはこれからお前のうちへ行くんだよ」

 真事には津田よりも生きた鶏の方が大事であった。

「小父さん先へ行ってさ。僕もっと見ているから」

「ありゃうそだよ。いつまで経ったって生きた鶏なんか出て来やしないよ」

「どうして? だって玉子はあんなに出たじゃないの」

「玉子は出たが、鶏は出ないんだよ。ああ云って嘘をいていつまでも人を散らさないようにするんだよ」

「そうしてどうするの」

 そうしてどうするのかその後の事は津田にもちっとも解らなかった。面倒になった彼は、真事を置き去りにして先へ行こうとした。すると真事が彼のたもとつらまえた。

「小父さん何か買ってさ」

 宅でねだられるたんびに、この次この次といって逃げておきながら、その次行く時には、つい買ってやるのを忘れるのが常のようになっていた彼は、例の調子で「うん買ってやるさ」と云った。

「じゃ自動車、ね」

「自動車は少し大き過ぎるな」

「なに小さいのさ。七円五十銭のさ」

 七円五十銭でも津田にはたしかに大き過ぎた。彼は何にも云わずに歩き出した。

「だってこの前もその前も買ってやるっていったじゃないの。おじさんの方があの玉子を出す人よりよっぽどうそつきじゃないか」

「あいつは玉子は出すがとりなんか出せやしないんだよ」

「どうして」

「どうしてって、出せないよ」

「だから小父さんも自動車なんか買えないの」

「うん。――まあそうだ。だから何かほかのものを買ってやろう」

「じゃキッドの靴さ」

 毒気を抜かれた津田は、返事をする前にまた黙って一二間歩いた。彼は眼を落してまことの足を見た。さほど見苦しくもないその靴は、茶とも黒ともつかない一種変な色をしていた。

「赤かったのをうちでお父さんが染めたんだよ」

 津田は笑いだした。藤井が子供の赤靴を黒く染めたということがらが、何だか彼にはおかしかった。学校の規則を知らないでこしらえた赤靴を規則通りに黒くしたのだという説明を聞いた時、彼はまた叔父のきゅうさくこっけい的に批判したくなった。そうしてその窮策から出た現在のおてぎわくすぐったいような顔をしてじろじろ眺めた。



二十三編集

「真事、そりゃ好い靴だよ、お前」

「だってこんな色の靴誰もいていないんだもの」

「色はどうでもね、お父さんが自分で染めてくれた靴なんかめったけやしないよ。ありがたいと思って大事にして穿かなくっちゃいけない」

「だってみんながむくいぬの皮だ尨犬の皮だってからかうんだもの」

 藤井の叔父と尨犬の皮、この二つの言葉をつなげると、結果はまた新らしいおかしみになった。しかしそのおかしみはかすかな哀傷を誘って、津田の胸を通り過ぎた。

「尨犬じゃないよ、小父さんが受け合ってやる。大丈夫尨犬じゃない立派な……」

 津田は立派な何といっていいかちょっと行きつまった。そこを好い加減にしておく真事ではなかった。

「立派な何さ」

「立派な――靴さ」

 津田はもし懐中が許すならば、まことのために、望み通りキッドのあみあげを買ってやりたい気がした。それが叔父に対する恩返しの一端になるようにも思われた。彼はむなざんで自分のふところにある紙入の中をかんじょうして見た。しかし今の彼にそれだけの都合をつける余裕はほとんどなかった。もし京都からかわせが届くならばとも考えたが、まだ届くか届かないか分らない前に、苦しい思いをして、それだけの実意を見せるにも及ぶまいというせけんしんも起った。

「真事、そんなにキッドが買いたければね、こんだうちへ来た時、おばさんに買ってお貰い。おじさんは貧乏だからもっと安いもので今日は負けといてくれ」

 彼はすかすようにまたなだめるように真事の手を引いて広い往来をぶらぶら歩いた。終点に近いその通りは、電車へ乗り降りの必要上、無数の人のはきもので絶えず踏み堅められる結果として、四五年このかたまちなみが生れ変ったように立派に整のって来た。ところどころのショーウィンドーには、一概にばすえものとして馬鹿にできないような品がきれいに飾り立てられていた。真事はその間を向う側へけ抜けて、朝鮮人のあめやの前へ立つかと思うと、またこちら側へ戻って来て、金魚屋の軒の下にたたずんだ。彼の馳け出す時には、ポッケットの中でビー玉の音が、きっとじゃらじゃらした。

「今日学校でこんなに勝っちゃった」

 彼は隠袋の中へ手をぐっとし込んでてのひらいっぱいにそのビー玉をせて見せた。水色だの紫色だのの丸いガラス玉がほとばしるように往来の真中へ転がり出した時、彼はあわててそれを追いかけた。そうしてうしろを振り向きながら津田に云った。

「小父さんも拾ってさ」

 最後にこの目まぐるしい叔父の子のために一軒のおもちゃやり込まれた津田は、とうとうそこで一円五十銭の空気銃を買ってやらなければならない事になった。

すずめならいいが、むやみに人をねらっちゃいけないよ」

「こんな安い鉄砲じゃ雀なんか取れないだろう」

「そりゃお前が下手だからさ。下手ならいくら鉄砲が好くったって取れないさ」

「じゃ小父さんこれで雀打ってくれる? これからうちへ行って」

 好い加減をいうとすぐあとから実行をせまられそうな様子なので、津田はなまへんじをしたなり話をほかへそらした。真事は戸田だの渋谷だの坂口だのと、相手の知りもしない友達の名前を勝手に並べ立てて、その友達をかたっぱしから批評し始めた。

「あの岡本ってやつ、そりゃずるいんだよ。靴を三足も買ってもらってるんだもの」

 話はまた靴へ戻って来た。津田はお延と関係の深いその岡本の子と、今自分の前でその子を評している真事とを心のうちで比較した。



二十四編集

おまい近頃岡本の所へ遊びに行くかい」

「ううん、行かない」

「またけんかしたな」

「ううん、喧嘩なんかしない」

「じゃなぜ行かないんだ」

「どうしてでも――」

 まことの言葉にはあとがありそうだった。津田はそれが知りたかった。

「あすこへ行くといろんなものをくれるだろう」

「ううん、そんなにくれない」

「じゃごちそうするだろう」

「僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたら、そりゃからかったよ」

 ライスカレーの辛いぐらいは、岡本へ行かない理由になりそうもなかった。

「それで行くのがいやになった訳でもあるまい」

「ううん。だってお父さんが止せって云うんだもの。僕岡本の所へ行ってブランコがしたいんだけども」

 津田は小首を傾けた。おじが子供を岡本へやりたがらないわけは何だろうと考えた。はだあいの相違、家風の相違、生活の相違、それらのものがすぐ彼の心に浮かんだ。しじゅう机に向って沈黙の間に活字的のきえんを天下に散布している叔父は、実際の世間においてけっして筆ほどの有力者ではなかった。彼はあんにその距離を自覚していた。その自覚はまた彼を多少かたくなにした。幾分か排外的にもした。金力権力本位の社会に出て、ひとから馬鹿にされるのを恐れる彼の一面には、その金力権力のために、自己の本領をいちぶでも冒されては大変だという警戒の念が絶えずどこかに働いているらしく見えた。

「真事なぜお父さんにいて見なかったのだい。岡本へ行っちゃなぜいけないんですって」

「僕いたよ」

「訊いたらお父さんは何と云った。――何とも云わなかったろう」

「ううん、云った」

「何と云った」

 真事は少しはにかんでいた。しばらくしてから、彼はぽつりぽつりくぎりを置くような重いくちょうで答えた。

「あのね、岡本へ行くとね、何でもはじめさんの持ってるものをね、うちへ帰って来てからね、買ってくれ、買ってくれっていうから、それでいけないって」

 津田はようやく気がついた。富の程度に多少等差のある二人のくらしむきは、彼らの子供が持つおもちゃの末に至るまでに、多少等差をつけさせなければならなかったのである。

「それでこいつ自動車だのキッドの靴だのって、むやみに高いものばかりねだるんだな。みんなはじめさんの持ってるのを見て来たんだろう」

 津田はからかい半分手をげて真事の背中を打とうとした。真事はばつの悪い真相をばくろされたおとなに近い表情をした。けれども大人のように言訳がましい事はまるで云わなかった。

うそだよ。嘘だよ」

 彼はさっき津田に買ってもらった一円五十銭の空気銃をかついだままどんどん自分のうちの方へ逃げ出した。彼のかくしの中にあるビー玉がじゅずはげしくむように鳴った。はいのうの中では弁当箱だか教科書だかが互にぶつかり合う音がごとりごとりと聞こえた。

 彼は曲り角のくろいたべいの所でちょっと立ちどまっていたちのように津田をふり返ったまま、すぐ小さい姿をこうじのうちに隠した。津田がその小路を行き尽してきあたりにある藤井の門をくぐった時、突然ドンという銃声が彼の一間ばかり前で起った。彼は右手のいけがきの間から大事そうに彼をそげきしている真事の黒い姿を苦笑をもって認めた。



二十五編集

 座敷で誰かと話をしている叔父の声を聞いた津田は、こうしの間から一足の客靴をのぞいて見たなり、わざと玄関を開けずに、茶の間のえんがわの方へ廻った。もと植木屋ででもあったらしいその庭先には木戸の用心も竹垣のしきりもないので、同じ地面の中に近頃建て増された新らしい貸家の勝手口を廻ると、すぐえんばなまで歩いて行けた。目隠しにしては少し低過ぎる高い茶の樹を二三本通り越して、彼の記憶にいつまでも残っている柿のの下をくぐった津田は、型のごとくそこに叔母の姿をみいだした。しょうじはめガラスに映るその横顔が彼の眼に入った時、津田はそとから声を掛けた。

「叔母さん」

 叔母はすぐ障子を開けた。

「今日はどうしたの」

 彼女は子供が買って貰った空気銃の礼も云わずに、不思議そうな眼を津田の上に向けた。四十の上をもう三つか四つ越したこの叔母の態度には、ほとんどあいそというものがなかった。その代り時と場合によるとせけんなみの遠慮を超越した自然が出た。そのうちにはほとんどセックスの感じを離れた自然さえあった。津田はいつでもこの叔母と吉川の細君とを腹の中で比較した。そうしていつでもその相違に驚ろいた。同じ女、しかもとしのそう違わない二人の女が、どうしてこんなに違った感じをひとに与える事ができるかというのが、第一の疑問であった。

「叔母さんは相変らず色気がないな」

「この年齢になって色気があっちゃきちがいだわ」

 津田はえんがわへ腰をかけた。叔母はあがれとも云わないで、ひざの上にせたもみきれへ軽いひのしを当てていた。すると次の間からほどき物を持って出て来たおきんさんという女が津田におじぎをしたので、彼はすぐ言葉をかけた。

「お金さん、まだお嫁の口はきまりませんか。まだなら一つ好いところを周旋しましょうか」

 お金さんはえへへと人の好さそうに笑いながら少し顔を赤らめて、彼のためにざぶとんえんがわへ持ってようとした。津田はそれを手で制して、自分から座敷の中に上り込んだ。

「ねえ叔母さん」

「ええ」

 気のなさそうななまへんじをした叔母は、お金さんがなまぬるい番茶を形式的に津田の前へいで出した時、ちょっと首をあげた。

「お金さんよしおさんによく頼んでおおきなさいよ。この男は親切でうそかない人だから」

 お金さんはまだ逃げ出さずにもじもじしていた。津田は何とか云わなければすまなくなった。

「おせじじゃありません、本当の事です」

 叔母は別に取り合う様子もなかった。その時裏で真事の打つ空気銃の音がぽんぽんしたので叔母はすぐききみみを立てた。

「お金さん、ちょっと見て来て下さい。バラだまを入れて打つとあぶないから」

 叔母は余計なものを買ってくれたと云わんばかりの顔をした。

「大丈夫ですよ。よく云い聞かしてあるんだから」

「いえいけません。きっとあれで面白半分にお隣りのとりを打つに違ないから。構わないからたまだけ取り上げて来て下さい」

 お金さんはそれを好いしおに茶の間から姿をかくした。叔母は黙ってひばちし込んだこてをまた取り上げた。しわだらけな薄い絹が、彼女の膝の上で、きれいに平たく延びて行くのを何気なくながめていた津田の耳に、客間の話し声がとぎれ途切れに聞こえて来た。

「時に誰です、お客は」

 叔母は驚ろいたようにまた顔を上げた。

「今まで気がつかなかったの。妙ねあなたの耳もずいぶん。ここで聞いてたってよく解るじゃありませんか」



二十六編集

 津田は客間にいる声の主を、すわったまま突き留めようとつとめて見た。やがて彼は軽く膝をった。

「ああ解った。小林でしょう」

「ええ」

 叔母はにこりともせずに、簡単な答を落ちついて与えた。

「何だ小林か。新らしい赤靴なんかき込んでいやにお客さんぶってるもんだから誰かと思ったら。そんなら僕も遠慮しずにあっちへ行けばよかった」

 想像の眼で見るにはあまりにちんぷ過ぎる彼の姿が津田の頭の中に出て来た。この夏会った時の彼のなりもおのずと思い出された。しろちりめんえりのかかったじゅばんの上へさつまがすりを着て、茶のせんすじはかますきやの羽織をはおったそのこしらえは、まるでかさやあるじが町内の葬式の供に立った帰りがけで、こわめしの折でもふところに入れているとしか受け取れなかった。その時彼は泥棒に洋服を盗まれたという言訳を津田にした。それから金を七円ほど貸してくれと頼んだ。これはある友達が彼の盗難に同情して、もし自分の質に入れてある夏服を受け出す余裕が彼にあるならば、それを彼にやってもいいと云ったからであった。

 津田は微笑しながら叔母にいた。

「あいつまた何だって今日に限って座敷なんかへ通って、堂々とお客ぶりを発揮しているんだろう」

「少し叔父さんに話があるのよ。それがここじゃちょっと云いにくい事なんでね」

「へえ、小林にもそんなまじめな話があるのかな。金の事か、それでなければ……」

 こう云いかけた津田は、ふと真面目な叔母の顔を見ると共に、あとを引っ込ましてしまった。叔母は少し声を低くした。その声はむしろ彼女の落ちついた調子に釣り合っていた。

「おきんさんの縁談の事もあるんだからね。ここであんまり何かいうと、あの子がきまりを悪くするからね」

 いつもの高調子と違って、茶の間で聞いているとちょっと誰だか分らないくらいな紳士風の声を、小林が出しているのは全くそれがためであった。

「もうきまったんですか」

「まあうまく行きそうなのさ」

 叔母の眼には多少の期待が輝やいた。少しはしゃぎ気味になった津田はすぐ付け加えた。

「じゃ僕が骨を折って周旋しなくっても、もういいんだな」

 叔母は黙って津田を眺めた。たとい軽薄とまで行かないでも、こういうふざけからっぽうな彼の態度は、今の叔母の生活気分とまるでかけ離れたものらしく見えた。

「由雄さん、お前さん自分で奥さんを貰う時、やっぱりそんなりょうけんで貰ったの」

 叔母の質問は突然であると共に、どういう意味でかけられたのかさえ津田にはけんとうがつかなかった。

「そんなりょうけんって、叔母さんだけ承知しているぎりで、当人の僕にゃ分らないんだから、ちょっと返事のしようがないがな」

「何も返事を聞かなくったって、叔母さんは困りゃしないけれどもね。――女一人を片づけるほうの身になって御覧なさい。たいていの事じゃないから」

 藤井は四年ぜん長女を片づける時、したくをしてやる余裕がないのですでに相当の借金をした。その借金がようやく片づいたと思うと、今度はもう次女を嫁にやらなければならなくなった。だからここでもしお金さんの縁談がまとまるとすれば、それは正に三人目のものいりに違なかった。娘とは格が違うからという意味で、できるだけ倹約したところで、現在のくらしむきに多少苦しい負担の暗影を投げる事はたしかであった。



二十七編集

 こういう時に、せめて費用の半分でも、津田が進んで受け持つ事ができたなら、年頃彼の世話をしてきた藤井夫婦にとっては定めし満足な報酬であったろう。けれども今のところ財力の上で叔父叔母に捧げ得る彼の同情は、高々まこときたがっているキッドの靴を買ってやるくらいなものであった。それさえ彼はふところつごうで見合せなければならなかったのである。まして京都から多少の融通をあおいで、彼らの経済に幾分のうるおいをつけてやろうなどという親切気はてんで起らなかった。これは自分が事情を報告したところで動く父でもなし、父が動いたところで借りる叔父でもないと頭からきめてかかっているせいでもあった。それで彼はただ自分の所へさえ早くかわせが届いてくれればいいという期待にしばられて、叔母の言葉にはあまり感激した様子も見せなかった。すると叔母が「よしおさん」と云い出した。

「由雄さん、じゃどんな料簡で奥さんをもらったの、お前さんは」

「まさかじょうだんに貰やしません。いくら僕だってそうふわついたところばかりから出来上ってるように解釈されちゃかわいそうだ」

「そりゃ無論本気でしょうよ。無論本気には違なかろうけれどもね、その本気にもまたいろいろだんとうがあるもんだからね」

 相手次第では侮辱とも受け取られるこの叔母の言葉を、津田はかえって好奇心で聞いた。

「じゃ叔母さんの眼に僕はどう見えるんです。遠慮なく云って下さいな」

 叔母は下を向いて、ほどき物をいじくりながら薄笑いをした。それが津田の顔を見ないせいだか何だか、急に気味の悪い心持を彼に与えた。しかし彼は叔母に対して少しもたじろぐ気はなかった。

「これでもいざとなると、なかなかまじめなところもありますからね」

「そりゃ男だもの、どこかちゃんとしたところがなくっちゃ、毎日会社へ出たって、勤まりっこありゃしないからね。だけども――」

 こう云いかけた叔母は、そこで急に気を換えたようにつけ足した。

「まあしましょう。今さら云ったって始まらない事だから」

 叔母はさっきひのしをかけたもみきれていねいに重ねて、濃い渋を引いたたとうの中へしまい出した。それから何となくひょうしぬけのした、しかもどこかに物足らなそうな不安の影を宿している津田の顔を見て、ふと気がついたような調子で云った。

「由雄さんはいったいぜいたく過ぎるよ」

 学校を卒業してから以来の津田は叔母にしじゅうこう云われつけていた。自分でもまたそう信じて疑わなかった。そうしてそれを大した悪い事のようにも考えていなかった。

「ええ少し贅沢です」

なりや食物ばかりじゃないのよ。心がはでで贅沢に出来上ってるんだから困るっていうのよ。始終ごちそうはないかないかって、きょろきょろそこいらを見廻してる人みたようで」

「じゃ贅沢どころかまるでこじきじゃありませんか」

「乞食じゃないけれども、自然まじめさが足りない人のように見えるのよ。人間は好い加減なところで落ちつくと、大変見っとも好いもんだがね」

 この時津田の胸をかすめて、自分のいとこに当る叔母の娘の影が突然通り過ぎた。その娘は二人とも既婚の人であった。四年前に片づいた長女は、そののち夫に従って台湾に渡ったぎり、今でもそこに暮していた。彼の結婚と前後して、ついこの間嫁に行った次女は、式が済むとすぐ連れられて福岡へ立ってしまった。その福岡は長男のまゆみが今年から籍を置いた大学の所在地でもあった。

 この二人のいとこのどっちも、貰おうとすればたやすく貰える地位にあった津田の眼から見ると、けっして自分の細君として適当の候補者ではなかった。だから彼は知らん顔をして過ぎた。当時彼の取った態度を、叔母の今の言葉と結びつけて考えた津田は、別にこれぞと云ってましい点も見出し得なかったので、何気ない風をして叔母の動作を見守っていた。その叔母はついと立って戸棚の中にあるしなかばんふたを開けて、手に持った畳紙をその中にしまった。



二十八編集

 奥の四畳半でさっきからおきんさんに学課の復習をしてもらっていたまことが、突然お金さんにはまるで解らないフランスごの読本をさらい始めた。ジュ・シュイ・ポリ、とか、チュ・エ・マラード、とか、一字一字の間にわざと長いくぎりを置いて読み上げる小学二年生のとんきょうな声を、いつもながらおかしく聞いている津田の頭の上で、今度は柱時計がボンボンと鳴った。彼はすぐたもとに入れてあるリチネを取り出して、飲みにくそうに、どろどろした油の色を眺めた。すると、客間でも時計の音にうながされたような叔父の声がした。

「じゃあっちへ行こう」

 叔父と小林は縁伝いに茶の間へ入って来た。津田はちょっといずまいを直して叔父にあいさつをしたあとで、すぐ小林の方を向いた。

「小林君だいぶ景気が好いようだね。立派な服をこしらえたじゃないか」

 小林はホームスパンみたようなざらざらしたじあいせびろを着ていた。いつもと違ってそのズボンの折目がまだ少しもくずれていないので、誰の眼にもしたておろしとしか見えなかった。彼は変り色の靴下をうしろへ隠すようにして、津田の前にすわり込んだ。

「へへ、じょうだん云っちゃいけない。景気の好いのは君の事だ」

 彼の新調はどこかのデパートメント・ストアのまどガラスの中に飾ってあるぞろいくくりつけてあった正札を見つけて、そのねだん通りのものを彼が注文して拵えたのであった。

「これで君二十六円だから、ずいぶん安いものだろう。君見たいなぜいたくやから見たらどうか知らないが、僕なんぞにゃこれでたくさんだからね」

 津田は叔母の手前重ねてわるくちを云う勇気もなかった。黙ってちゃわんを借り受けて、八の字を寄せながらリチネを飲んだ。そこにいるものがみんな不思議そうに彼のしょさを眺めた。

「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」


 こんにちまで病気という病気をしたためしのない叔父の医薬に対する無知はまた特別のものであった。彼はリチネという名前を聞いてすら、それが何のために服用されるのか知らなかった。あらゆるしっぺいとほとんど没交渉なこの叔父の前に、津田が手術だの入院だのという言葉を使って、自分の現在を説明した時に、叔父は少しも感動しなかった。

「それでその報知にわざわざやって来た訳かね」

 叔父は御苦労さまと云わぬばかりの顔をして、ごましおだらけのひげでた。生やしていると云うよりもむしろ生えていると云った方が適当なその髯は、植木屋を入れない庭のように、彼の顔をところどころじじむさく見せた。

「いったい今の若いものは、から駄目だね。下らん病気ばかりして」

 叔母は津田の顔を見てにやりと笑った。近頃急に「今の若いものは」という言葉を、癖のように使い出した叔父の歴史を心得ている津田も笑い返した。よほど以前この叔父からわくびょうどうげんだの疾患は罪悪だのと、さも偉そうに云い聞かされた事をおもい出すと、それが病気にかからない自分の自慢とも受け取れるので、なおのことこっけいに感ぜられた。彼は薄笑いと共にまた小林の方を見た。小林はすぐ口を出した。けれども津田の予期とは全くの反対を云った。

「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現にわたくしなんか近頃ちっとも寝た事がありません。私考えるに、人間は金が無いと病気にゃかからないもんだろうと思います」

 津田は馬鹿馬鹿しくなった。

「つまらない事をいうなよ」

「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」

 このふろんりな断案は、云い手がまじめなだけに、津田をなお失笑させた。すると今度は叔父が賛成した。

「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね」

 薄暗くなったへやの中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。津田は立って電灯のスウィッチをねじった。



二十九編集

 いつの間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手にさらこばちの音を立てていた叔母がまた茶の間へ顔を出した。

「由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで」

 津田はあしたの治療を控えているので断って帰ろうとした。

「今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだから、ことによるとごちそうが足りないかも知れないが、まあつき合って行くさ」

 叔父にこんな事を云われつけない津田は、妙な心持がして、またしりえた。

「今日は何事かあるんですか」

「何ね、小林が今度――」

 叔父はそれだけ云って、ちょっと小林の方を見た。小林は少し得意そうににやにやしていた。

「小林君どうかしたのか」

「何、君、なんでもないんだ。いずれきまったら君のうちへ行ってくわしい話をするがね」

「しかし僕はあしたから入院するんだぜ」

「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」

 小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしくいた。医者の名が自分と同じ小林なので「はあそれじゃあの堀さんの」と云ったが急に黙ってしまった。堀というのは津田の妹婿の姓であった。彼がある特殊な病気のために、つい近所にいるその医者のもとへかよったのを小林はよく知っていたのである。

 彼のくわしい話というのを津田はちょっと聞いて見たい気がした。それはさっき叔母の云ったお金さんの結婚問題らしくもあった。またそうでないらしくも見えた。この思わせぶりな小林の態度から、多少の好奇心をそそられた津田は、それでも彼に病院へ遊びに来いとは明言しなかった。

 津田が手術の準備だと云って、せっかく叔母のこしらえてくれた肉にもさかなにも、日頃大好なたけめしにも手をつけないので、さすがの叔母も気の毒がって、お金さんに頼んで、彼の口にする事のできるパンと牛乳を買って来させようとした。ねとねとしてむやみに歯の間にはさまるここいらの麺麭に内心へきえきしながら、またぜいたくだと云われるのが少しこわいので、津田はただおとなしく茶の間を立つお金さんのうしろすがたを見送った。

 お金さんの出て行った後で、叔母はみんなの前で叔父に云った。

「どうかまああのこんだの縁がまとまるようになると仕合せですがね」

「纏まるだろうよ」

 叔父はのなさそうな返事をした。

しごくよさそうに思います」

 小林のあいさつも気軽かった。黙っているのは津田とまことだけであった。

 相手の名を聞いた時、津田はその男に一二度叔父のうちで会ったような心持もしたが、ほとんど何らの記憶も残っていなかった。

「お金さんはその人を知ってるんですか」

「顔は知ってるよ。口はいた事がないけれども」

「じゃ向うも口を利いた事なんかないんでしょう」

「当り前さ」

「それでよく結婚が成立するもんだな」

 津田はこういってしかるべきりくつが充分自分の方にあると考えた。それをみんなに見せるために、彼は馬鹿馬鹿しいというよりもむしろ不思議であるという顔つきをした。

「じゃどうすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃいけないというのかね」

 叔父は少しきげんを損じたらしい語気で津田の方を向いた。津田はむしろ叔母に対するつもりでいたので、少し気の毒になった。

「そういう訳じゃないんです。そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちゃ不都合だなんていう気は全くなかったのです。たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば、無論結構なんですから」



三十編集

 それでも座はしらけてしまった。今まで心持よく流れていた談話が、急にき止められたように、誰も津田の言葉をいで、順々にあとへ送ってくれるものがなくなった。

 小林は自分の前にあるビールコップして、ないしょのような小さい声で、隣りにいる真事にいた。

まことさん、お酒を上げましょうか。少し飲んで御覧なさい」

にがいから僕いやだよ」

 真事はすぐねつけた。始めから飲ませる気のなかった小林は、それをしおにははと笑った。好い相手ができたと思ったのか真事は突然小林に云った。

「僕一円五十銭の空気銃をもってるよ。持って来て見せようか」

 すぐ立って奥の四畳半へけ込んだ彼が、そこから新らしいおもちゃを茶の間へ持ち出した時、小林は行きがかり上、ぴかぴかする空気銃の嘆賞者とならなければすまなかった。叔父も叔母もうれしがっているわが子のために、いちごんあいきょうを義務的に添える必要があった。

「どうも時計を買えの、万年筆を買えのって、貧乏なおやじを責めて困る。それでも近頃馬だけはどうかこうかあきらめたようだから、まだ始末が好い」

「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六円で立派なのが手にります」

「見て来たような事を云うな」

 空気銃のおかげで、みんながまたまんべんなく口をくようになった。結婚が再び彼らの話頭にのぼった。それはとぎれた前の続きに相違なかった。けれどもそれを口にする人々は、少しずつ前とちがった気分によって、彼らの表現を支配されていた。

「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっとふえんになるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、すえしじゅう和合するとは限らないんだから」

 叔母の見て来た世の中を正直にまとめるとこうなるよりほかに仕方なかった。この大きな事実のいちぐうにお金さんの結婚を安全におこうとする彼女の態度は、弁護的というよりもむしろ説明的であった。そうしてその説明は津田から見ると最も不完全でまた最も不安全であった。結婚について津田の誠実を疑うような口ぶりを見せた叔母こそ、この点にかけて根本的なまじめさを欠いているとしか彼には思えなかった。

「そりゃ楽な身分の人の云い草ですよ」と叔母は開き直って津田に云った。「やれ交際だの、やれ婚約だのって、そんなぜいたくな事を、我々ふぜいが云ってられますか。貰ってくれ手、来てくれ手があれば、それでありがたいと思わなくっちゃならないくらいのものです」

 津田はみんなの手前今のお金さんの場合についてかれこれ云いたくなかった。それをいうほどの深い関係もなくまた興味もない彼は、ただ叔母が自分に対してもつ、ふまじめという疑念を塗りつぶすために、向うの不真面目さを啓発しておかなくてはいけないという心持に制せられるので、黙ってしまう訳に行かなかった。彼は首をひねって考え込む様子をしながら云った。

「何もお金さんの場合をとやかく批評する気はないんだが、いったい結婚を、そうたやすく考えて構わないものか知ら。僕には何だか不真面目なような気がしていけないがな」

「だって行く方で真面目に行く気になり、貰う方でも真面目に貰う気になれば、どこと云って不真面目なところが出てようはずがないじゃないか。由雄さん」

「そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう」

「なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」

「そりゃ叔母さんはそうでしょうが、今の若いものは……」

「今だって昔だって人間に変りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」

「そう云った日にゃまるで議論にならない」

「議論にならなくっても、事実の上で、あたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。いろいろごのみをしたあげく、お嫁さんを貰った後でも、まだ選り好みをして落ちつかずにいる人よりも、こっちの方がどのくらい真面目だか解りゃしない」

 さっきから肉を突ッついていた叔父は、自分の口を出さなければならない時機に到着した人のように、皿から眼を放した。



三十一編集

「だいぶやかましくなって来たね。黙って聞いていると、おばおいの対話とは思えないよ」

 二人の間にこう云って割り込んで来た叔父はそのじつ行司でも審判官でもなかった。

「何だか双方てきがいしんをもって云い合ってるようだが、けんかでもしたのかい」

 彼の質問は、単に質問の形式を具えた注意に過ぎなかった。まことを相手にビーだまを転がしていた小林がぬすむようにしてこっちを見た。叔母も津田も一度に黙ってしまった。叔父はついに調停者の態度で口を開かなければならなくなった。

「由雄、御前見たような今の若いものには、ちょっと理解出来にくいかも知れないがね、叔母さんはうそいてるんじゃないよ。知りもしないおれの所へ来るとき、もうちゃんと覚悟をきめていたんだからね。叔母さんは本当に来ない前から来たあとと同じように真面目だったのさ」

「そりゃ僕だって伺わないでも承知しています」

「ところがさ、その叔母さんがだね。どういう訳でそんな大決心をしたかというとだね」

 そろそろ酔の廻った叔父は、ほてった顔へ水分を供給する義務を感じた人のように、またコップを取り上げてビールをぐいと飲んだ。

「実を云うとその訳をきょうまでまだ誰にも話した事がないんだが、どうだ一つ話して聞かせようか」

「ええ」

 津田も半分は真面目であった。

「実はだね。この叔母さんはこれでこのおれにがあったんだ。つまり初めからおれの所へ来たかったんだね。だからまだ来ないうちから、もう猛烈に自分の覚悟をきめてしまったんだ。――」

「馬鹿な事をおっしゃい。誰があなたのようなぶおとこなんぞあるもんですか」

 津田も小林も吹き出した。ひとりきょとんとした真事は叔母の方を向いた。

「お母さん意があるって何」

「お母さんは知らないからお父さんに伺って御覧」

「じゃお父さん、何さ、意があるってのは」

 叔父はにやにやしながら、げた頭の真中を大事そうにで廻した。気のせいかその禿が普通の時よりは少し赤いように、津田の眼に映った。

「真事、意があるってえのはね。――つまりそのね。――まあ、好きなのさ」

「ふん。じゃ好いじゃないか」

「だから誰も悪いと云ってやしない」

「だってみんな笑うじゃないか」

 この問答の途中へおきんさんがちょうど帰って来たので、叔母はすぐ真事の床を敷かして、彼をねまの方へ追いやった。興に乗った叔父の話はますます発展するばかりであった。

「そりゃむかしだって恋愛事件はあったよ。いくらおあさこわい顔をしたってあったに違ないが、だね。そこにまた今の若いものにはとうてい解らない方面もあるんだから、妙だろう。昔は女の方で男にれたけれども、男の方ではけっして女に惚れなかったもんだ。――ねえお朝そうだったろう」

「どうだか存じませんよ」

 叔母は真事の立ったあとへ坐って、さっさとまつだけめしてもりにして食べ始めた。

「そう怒ったって仕方がない。そこに事実があると同時に、一種の哲学があるんだから。今おれがその哲学を講釈してやる」

「もうそんなむずかしいものは、伺わなくってもたくさんです」

「じゃ若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のためによく聴いとくがいい。いったいお前達はひとの娘を何だと思う」

「女だと思ってます」

 津田はかえし半分わざと返事をした。

「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それがおれ達とは大違いだて。おれ達はふぼから独立したただの女として他人の娘を眺めた事がいまだかつてない。だからどこのお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母という所有者がちゃんと食っついてるんだと始めから観念している。だからいくられたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。なぜと云って御覧、惚れるとか愛し合うとかいうのは、つまり相手をこっちが所有してしまうという意味だろう。すでに所有権のついてるものに手を出すのは泥棒じゃないか。そういう訳で義理堅い昔の男はけっして惚れなかったね。もっとも女はたしかに惚れたよ。現にそこで松茸飯を食ってるお朝なぞも実はおれに惚れたのさ。しかしおれの方じゃかつてあれを愛したおぼえがない」

「どうでもいいから、もう好い加減にして御飯になさい」

 真事を寝かしつけに行ったお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいいつけて、みんなの茶碗に飯をよそわせた。津田は仕方なしに、ひとりまずしょくパンをにちゃにちゃんだ。



三十二編集

 食後の話はもうはずまなかった。と云って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼らはてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを会話の中心にまとめようと努力するもののないのに気が付いた。

 ちゃぶだいの上にりょうひじを突いた叔父がすいごあくびを続けざまに二つした。叔母が下女を呼んでざんぶつを勝手へ運ばした。さっきから重苦しい空気の影響を少しずつ感じていた津田の胸に、今夜聞いた叔父の言葉が、月のおもてを過ぎる浮雲のように、時々薄い陰を投げた。そのたびに他人から見ると、ビールの泡と共に消えてしまうべきはずの言葉を、津田はかえって意味ありげに自分で追いかけて見たり、また自分で追い戻して見たりした。そこに気のついた時、彼は我ながら不愉快になった。

 同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。その投げ合の間、彼はしじゅう自分を抑えつけて、なるべく心の色を外へ出さないようにしていた。そこに彼の誇りがあると共に、そこに一種の不快もひそんでいたことは、彼の気分が彼に教える事実であった。

 半日以上の暇をつぶしたこの久しぶりの訪問を、単にこういう快不快の立場から眺めた津田は、すぐその対照としてかっぱつな吉川夫人とそのきれいな応接間とを記憶の舞台におどらした。つづいて近頃ようやくまるまげに結い出したおのぶの顔が眼の前に動いた。

 彼は座を立とうとして小林をかえりみた。

「君はまだいるかね」

「いや。僕ももうおいとましよう」

 小林はすぐ吸い残したしきしまの袋をズボンかくしへねじ込んだ。すると彼らのぎわに、叔父が偶然らしくまた口を開いた。

「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、ごぶさたをしている。よろしく云ってくれ。お前の留守にゃひまで困るだろうね、おんなも。いったい何をして暮してるかね」

「何って別にする事もないでしょうよ」

 こう散漫に答えた津田は、何と思ったか急にあとからつけ足した。

「病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりもよっぽどやかましい事を云いますよ」

「感心じゃないか。お前のようなおしゃれにそんな注意をしてくれるものはほかにありゃしないよ」

「ありがたい仕合せだな」

しばやはどうだい。近頃行くかい」

「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、あいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね」

 津田はそこでちょっと叔母の方を見た。

「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」

「ええありがとう。だけど由雄さんの御案内じゃ――」

「お厭ですか」

「厭より、いつの事だか分らないからね」

 しばいばなどを余り好まない叔母のこの返事を、わざと正面に受けた津田は頭をいて見せた。

「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」

 叔母はふふんと笑った。

「芝居はどうでもいいが、由雄さん京都の方はどうして、それから」

「京都から何とか云って来ましたかこっちへ」

 津田は少し真剣な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。けれども二人は何とも答えなかった。

「実は僕の所へ今月は金を送れないから、そっちでどうでもしろって、お父さんが云って来たんだが、ずいぶん乱暴じゃありませんか」

 叔父は笑うだけであった。

あにきは怒ってるんだろう」

「いったいおひでがまた余計な事を云ってやるからいけない」

 津田は少しいまいましそうに妹の名前を口にした。

「お秀にとがはありません。始めから由雄さんの方が悪いにきまってるんだもの」

「そりゃそうかも知れないけれども、どこの国にあなたおやじから送って貰った金を、きちんきちん返すやつがあるもんですか」

「じゃ最初からきちんきちん返すって約束なんかしなければいいのに。それに……」

「もう解りましたよ、叔母さん」

 津田はとてもかなわないという心持をその様子に見せて立ち上がった。しかし敗北の結果急いで退却する自分に景気を添えるため、うながすように小林を引張って、いっしょに表へ出る事を忘れなかった。



三十三編集

 そとには風もなかった。静かな空気が足早に歩く二人のほおに冷たく触れた。星の高く輝やく空から、眼に見えない透明なつゆがしとしと降りているらしくも思われた。津田は自分でがいとうの肩をでた。その外套の裏側にみ込んでくるひんやりした感じを、はっきり指先で味わって見た彼は小林をかえりみた。

にっちゅうあったかだが、夜になるとやっぱり寒いね」

「うん。何と云ってももう秋だからな。実際外套が欲しいくらいだ」

 小林は新調のぞろいの上に何にも着ていなかった。ことさらにつまさきを厚く四角にこしらえたいかついアメリカがたの靴をごとごと鳴らして、太いステッキをわざとらしくふり廻す彼の態度は、まるで冷たい空気に抵抗する示威運動者にことならなかった。

「君学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした」

 彼は突然意外な質問を津田にかけた。津田は彼にその外套を見せびらかした当時を思い出さない訳に行かなかった。

「うん、まだあるよ」

「まだ着ているのか」

「いくら僕が貧乏だって、書生時代の外套を、そう大事そうにいつまで着ているものかね」

「そうか、それじゃちょうど好い。あれを僕にくれ」

「欲しければやっても好い」

 津田はむしろ冷やかに答えた。くつたびまで新らしくしている男が、ひとの着古した外套を貰いたがるのは少し矛盾であった。少くとも、その人の生活によこたわる、不規則な物質的のたかびくしょうこ立てていた。しばらくしてから、津田は小林にいた。

「なぜそのせびろといっしょに外套も拵えなかったんだ」

「君とおんなじように僕を考えちゃ困るよ」

「じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ」

「訊き方が少してきびし過ぎるね。なんぼ僕だってまだ泥棒はしないから安心してくれ」

 津田はすぐ口を閉じた。

 二人は大きな坂の上に出た。広い谷をへだててむこうに見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横わっていた。秋の夜の灯火がところどころに点々と少量の暖かみをしたたらした。

「おい、帰りにどこかで一杯やろうじゃないか」

 津田は返事をする前に、まず小林の様子をうかがった。彼らの右手には高い土手があって、その土手の上にはこんもりしたたけやぶが一面にかぶさっていた。風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるそのささの葉のこずえは、季節相応なしょうさくの感じを津田に与えるに充分であった。

「ここはいやに陰気な所だね。どこかの大名華族の裏に当るんで、いつまでもこうしてほうってあるんだろう。早く切り開いちまえばいいのに」

 津田はこういって当面のあいさつをごまかそうとした。しかし小林の眼に竹藪なぞはまるで入らなかった。

「おい行こうじゃないか、久しぶりで」

「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」

「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」

「でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか」

「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ云ったんだね。まるっきり飲まないんならともかくも、あのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。後から適当の程度まで酔っておいてめないとからださわるからね」

 自分に都合の好いりくつを勝手にこしらえて、何でも津田を引張ろうとする小林は、彼にとって少し迷惑なつれであった。彼は冷かし半分にいた。

「君がおごるのか」

「うん奢っても好い」

「そうしてどこへ行くつもりなんだ」

「どこでも構わない。おでん屋でもいいじゃないか」

 二人は黙って坂の下まで降りた。



三十四編集

 順路からいうと、津田はそこを右へ折れ、小林はまっすぐに行かなければならなかった。しかしていよく分れようとして帽子へ手をかけた津田の顔を、小林はのぞき込むように見て云った。

「僕もそっちへ行くよ」

 彼らの行く方角には飲み食いに都合のいい町が二三町続いていた。その中程にあるバーめいた店のガラスどが、暖かそうに内側から照らされているのを見つけた時、小林はすぐ立ちどまった。

「ここが好い。ここへ入ろう」

「僕は厭だよ」

「君の気に入りそうな上等のうちはここいらにないんだから、ここで我慢しようじゃないか」

「僕は病気だよ」

「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」

じょうだん云うな。いやだよ」

「細君には僕が弁解してやるからいいだろう」

 面倒になった津田は、小林をそこへ置き去りにしたまま、さっさと行こうとした。すると彼とすれすれに歩を移して来た小林が、少し改まったくちょうついきゅうした。

「そんなに厭か、僕といっしょに酒を飲むのは」

 実際そんなに厭であった津田は、この言葉を聞くとすぐとまった。そうして自分の傾向とはまるで反対な決断をそとへ現わした。

「じゃ飲もう」

 二人はすぐ明るいガラスどを引いて中へ入った。客は彼らのほかに五六人いたぎりであったが、店があまり広くないので、比較的込み合っているように見えた。割合楽に席の取れそうなかたすみえらんで、差し向いに腰をおろした二人は、通した注文の来る間、多少物珍らしそうな眼をあたりへ向けた。

 服装から見た彼らのあいきゃくちゅうに、社会的地位のありそうなものは一人もなかった。湯帰りと見えて、しまはんてんの肩へてぬぐいを掛けたのだの、もめんものかくおびめて、わざとらしくひらうちの羽織のひもの真中へまがいものひすいを通したのだのはむしろ上等の部であった。ずっとひどいのは、まるで紙屑買としか見えなかった。はらがけももひきも一人まじっていた。

「どうだ平民的でいいじゃないか」

 小林は津田のちょくへ酒をぎながらこう云った。その言葉を打ち消すような新調したてのはでな彼のせびろが、すぐことさららしく津田の眼に映ったが、彼自身はまるでそこに気がついていないらしかった。

「僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな」

 小林はあたかもそこに自分の兄弟分でもそろっているような顔をして、一同を見廻した。

「見たまえ。彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから」

 あいさつをする勇気のなかった津田は、一同を見廻す代りに、かえって小林を熟視した。小林はすぐ譲歩した。

「少くともとうぜんとしているだろう」

「上流社会だって陶然とするからな」

「だが陶然としかたが違うよ」

 津田はこうぜんとして両者の差違をかなかった。それでも小林は少しもしょげずに、ぐいぐいさかずきを重ねた。

「君はこういう人間をけいべつしているね。同情にあたいしないものとして、始めから見くびっているんだ」

 こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、向うにいる牛乳配達見たような若ものに声をかけた。

「ねえ君。そうだろう」

 出し抜けに呼びかけられた若者はくっきょうくびすじを曲げてちょっとこっちを見た。すると小林はすぐさかずきをそっちの方へ出した。

「まあ君一杯飲みたまえ」

 若者はにやにやと笑った。不幸にして彼と小林との間には一間ほどの距離があった。立って杯を受けるほどの必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。しかしそれでも小林には満足らしかった。出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼はまた津田に云った。

「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない」



三十五編集

 インヴァネスを着た小作りな男が、はんてんかくがりと入れ違にはいって来て、二人から少しへだたった所に席を取った。ひさしを深くおろしたとりうちかぶったまま、彼は一応ぐるりとあたりを見廻したあとで、ふところへ手を入れた。そうしてそこから取り出した薄い小型の帳面を開けて、読むのだか考えるのだか、じっと見つめていた。彼はいつまでっても、古ぼけたトンビを脱ごうとしなかった。帽子も頭へ載せたままであった。しかし帳面はそんなに長くひろげていなかった。大事そうにそれを懐へしまうと、今度は飲みながら、じろりじろりとほかの客を、見ないようにして見始めた。そのあいま相間には、ちんちくりんながいとうの羽根の下から手を出して、薄い鼻の下のひげでた。

 さっきから気をつけるともなしにこの様子に気をつけていた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合った時、ぴたりとまむきになって互に顔を見合せた。小林は心持前へ乗り出した。

「何だか知ってるか」

 津田は元の通りの姿勢をくずさなかった。ほとんど返事にあたいしないという口調で答えた。

「何だか知るもんか」

 小林はなお声を低くした。

「あいつはたんていだぜ」

 津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。黙って自分の前にあるちょくを干した。小林はすぐそれへなみなみといだ。

「あの眼つきを見ろ」

 薄笑いをした津田はようやく口をひらいた。

「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」

「社会主義者?」

 小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。

「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品ぶって取りつくろってる君達の方がよっぽどの悪者だ。どっちが警察へ引っ張られてしかるべきだかよく考えて見ろ」

 鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。

「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」

 小林はまたこう云いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。

「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高なきじをうぶのままもってるか解らないぜ。ただその人間らしい美しさが、貧苦というほこりよごれているだけなんだ。つまり湯に入れないからきたないんだ。馬鹿にするな」

 小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろじかの弁護らしく聞こえた。しかしむやみに取り合ってこっちの体面をきずつけられては困るという用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けていた。すると小林がなおおっかけて来た。

「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。たしかに信じない顔つきをしている。そんなら僕が説明してやろう。君はロシアの小説を読んだろう」

 露西亜の小説を一冊も読んだ事のない津田はやはり何とも云わなかった。

「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。いかに人間がげせんであろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取りつくろわない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。君はあれを虚偽と思うか」

「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」

「先生にくと、先生はありゃうそだと云うんだ。あんな高尚な情操をわざと下劣なうつわに盛って、感傷的に読者をしげきする策略に過ぎない、つまりドストエヴスキがあたったために、多くの模倣者が続出して、むやみに安っぽくしてしまった一種の芸術的技巧に過ぎないというんだ。しかし僕はそうは思わない。先生からそんな事を聞くと腹が立つ。先生にドストエヴスキは解らない。いくらとしを取ったって、先生は書物の上で年齢を取っただけだ。いくら若かろうが僕は……」

 小林の言葉はだんだんせまって来た。しまいに彼は感慨にえんという顔をして、涙をぽたぽたテーブルクロースの上に落した。



三十六編集

 不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれるほどの酔が廻っていなかった。同化のらちがいからこの興奮状態を眺める彼の眼はついに批判的であった。彼は小林を泣かせるものが酒であるか、叔父であるかを疑った。ドストエヴスキであるか、日本の下層社会であるかを疑った。そのどっちにしたところで、自分とあまり交渉のない事もよく心得ていた。彼はつまらなかった。また不安であった。感激家によって彼の前にふり落された涙のあとを、ただ迷惑そうに眺めた。

 たんていとしてぶっしょくされた男は、ふところからまた薄い手帳を出して、その中へ鉛筆で何かしきりに書きつけ始めた。猫のように物静かでありながら、猫のようにすべてを注意しているらしい彼の挙動が、津田を変な気持にした。けれども小林の酔は、もうそんなところを通り越していた。探偵などはまるで眼中になかった。彼は新調のせびろの腕をいきなり津田の鼻の先へ持って来た。

「君は僕が汚ないなりをすると、汚ないと云ってけいべつするだろう。またたまにきれいな着物を着ると、今度は綺麗だと云って軽蔑するだろう。じゃ僕はどうすればいいんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。ごしょうだから教えてくれ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」

 津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にもその腕には抵抗力がなかった。最初の勢が急にどこかへ抜けたように、おとなしく元の方角へ戻って行った。けれども彼の口は彼の腕ほど素直ではなかった。手を引込ました彼はすぐ口を開いた。

「僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。君は僕がこれほど下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんかこしらえたので、それを矛盾だと云って笑う気だろう」

「いくら貧乏だって、洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃはだかで往来を歩かなければなるまい。拵えたって結構じゃないか。誰も何とも思ってやしないよ」

「ところがそうでない。君は僕をただめかすんだと思ってる。おしゃれだと解釈している。それが悪い」

「そうか。そりゃ悪かった」

 もうやりきれないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。すると小林の調子も自然と変って来た。

「いや僕も悪い。悪かった。僕にもしゃれけはあるよ。そりゃ僕も充分認める。認めるには認めるが、僕がなぜ今度この洋服を作ったか、その訳を君は知るまい」

 そんな特別の理由を津田はもとより知ろうはずがなかった。また知りたくもなかった。けれども行きがかり上いてやらない訳にも行かなかった。両手を左右へひろげた小林は、自分で自分のなりを見廻しながら、むしろ心細そうに答えた。

「実はこの着物できんきんみやこおちをやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」

 津田は始めて意外な顔をして相手を見た。ついでにさっきから苦になっていたえりかざりの横っちょに曲っているのを注意して直させた後で、また彼の話を聴きつづけた。

 長い間叔父の雑誌のへんしゅうをしたり、校正をしたり、その間には自分の原稿を書いて、金をくれそうな所へ方々持って廻ったりして、しじゅう忙がしそうに見えた彼は、とうとう東京にいたたまれなくなった結果、朝鮮へ渡って、そこの或新聞社へ雇われる事に、はぼ相談がきまったのであった。

「こう苦しくっちゃ、いくら東京にしんぼうしていたって、仕方がないからね。未来のない所に住んでるのは実際いやだよ」

 その未来が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を待っていそうな事をいう彼は、すぐまた前言を取り消すような口もいた。

「要するに僕なんぞは、しょうがいひょうろうして歩く運命をもって生れて来た人間かも知れないよ。どうしても落ちつけないんだもの。たとい自分が落ちつく気でも、世間が落ちつかせてくれないから残酷だよ。かけおちものになるよりほかに仕方がないじゃないか」

「落ちつけないのは君ばかりじゃない。僕だってちっとも落ちついていられやしない」

「もったいない事をいうな。君の落ちつけないのはぜいたくだからさ。僕のは死ぬまでパンおっかけて歩かなければならないんだから苦しいんだ」

「しかし落ちつけないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりじゃないよ」

 小林は津田の言葉から何らのいしゃを受けるけしきもなかった。



三十七編集

 さっきから二人の様子を眺めていた下女が、いきなり来て、わざとらしくテーブルの上を片づけ始めた。それを相図のように、インヴァネスを着た男がすうと立ち上った。うに酒をやめて、ただ話ばかりしていた二人も澄ましている訳に行かなかった。津田は機会をとらえてすぐ腰を上げた。小林は椅子を離れる前に、まず彼らの間に置かれたM・C・C・の箱を取った。そうしてその中からまた新らしいきんぐちを一本出してそれに火をけた。行きがけのだちんらしいこのしょさが、たばこの箱を受け取ってたもとへ入れる津田の眼を、皮肉にくすぐったくした。

 時刻はそれほどでなかったけれども、秋のの往来は意外にけやすかった。昼は耳につかない一種の音を立てて電車が遠くの方を走っていた。別々の気分に働らきかけられている二人の黒い影が、まだ離れずに河のふちをつたって動いて行った。

「朝鮮へはいつ頃行くんだね」

「ことによると君の病院へいっているうちかも知れない」

「そんなに急に立つのか」

「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、はっきりした事は分らないんだ」

「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」

「うん、まあ――」

 彼の返事は少しあいまいであった。津田がそれをついきゅうもしないで、さっさと行き出した時、彼はまた云い直した。

「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」

「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」

「なにそうでもないんだ」

「じゃしたらいいじゃないか」

 津田の言葉は誰にでも解り切ったりくつなだけに、同情にえていそうな相手の気分を残酷にいぬいたと一般であった。数歩ののち、小林は突然津田の方を向いた。

「津田君、僕はさむしいよ」

 津田は返事をしなかった。二人はまた黙って歩いた。浅いかわどこの真中を、少しばかり流れている水が、ぼんやり見えるはしぐいの下で黒く消えて行く時、かすかに音を立てて、電車の通るあいま相間に、ちょろちょろと鳴った。

「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」

「じゃ行くさ」

「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」

 彼の語気はかんばしっていた。津田は急に穏やかな調子を使う必要を感じた。

「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。としさえ若くってからださえ丈夫なら、どこへ行ったって立派にせいこうできるじゃないか。――君が立つ前一つ送別会を開こう、君を愉快にするために」

 今度は小林の方がいい返事をしなかった。津田は重ねてばつを合せる態度に出た。

「君が行ったらおきんさんの結婚する時困るだろう」

 小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。

「うん、あいつもかわいそうだけれども仕方がない。つまりこんなやくざなあにきをもったのが不仕合せだと思って、あきらめて貰うんだ」

「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」

「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生のうちで使って貰うんだが、――そいつはまあどっちにしたって同じようなもんだろう。それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」

「向うじゃくれないのか」

「くれそうもないな」

「どうにかして出させたら好いだろう」

「さあ」

 一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまたひとごとのように云った。

「旅費は先生から借りる、がいとうは君から貰う、たった一人の妹はいてきぼりにする、世話はないや」

 これがその晩小林の口から出た最後のせりふであった。二人はついに分れた。津田はあとをも見ずにさっさと宅の方へ急いだ。



三十八編集

 彼の門はいつもの通りまっていた。彼はくぐへ手をかけた。ところが今夜はその潜り戸もまたかなかった。立てつけの悪いせいかと思って、二三度やり直したあげく、力任せに戸を引いた時、ごとりという重苦しいかきがねの抵抗力を裏側に聞いた彼はようやく断念した。

 彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前にたたずんだ。新らしい世帯を持ってからこんにちに至るまで、一度も外泊したおぼえのない彼は、たまに夜遅く帰る事があっても、まだこうした経験には出会わなかったのである。

 きょうの彼はひともし頃から早く宅へ帰りたがっていた。叔父の家で名ばかりの晩飯を食ったのも仕方なしに食ったのであった。進みもしない酒を少し飲んだのも小林に対する義理に過ぎなかった。夕方以後の彼は、むしろおのぶおもかげを心におきながら外で暮していた。その薄ら寒い外から帰って来た彼は、ちょうど暖かい家庭のともしびを慕って、それをめあてに足を運んだのと一般であった。彼のからだどべいに行き当った馬のようにとまると共に、彼の期待も急に門前で喰いとめられなければならなかった。そうしてそれを喰いとめたものがお延であるか、偶然であるかは、今の彼にとってけっして小さな問題でなかった。

 彼は手をげてかないくぐをとんとんと二つたたいた。「ここを開けろ」というよりも「ここをなぜめた」といって詰問するような音が、わたりつつある往来の暗がりに響いた。すると内側ですぐ「はい」という返事がした。ほとんど反響に等しいくらい早く彼の鼓膜を打ったその声のぬしは、下女でなくてお延であった。急に静まり返った彼は戸のこちらがわで耳を澄ました。用のある時だけ使う事にしてある玄関先の電灯のスウィッチをひねる音が明らかに聞こえた。こうしがすぐがらりと開いた。入口の開き戸がまだててない事はたしかであった。

「どなた?」

 潜りのすぐ向う側まで来た足音がまると、お延はまずこう云ってすいかした。彼はなおの事き込んだ。

「早く開けろ、おれだ」

 お延は「あらッ」と叫んだ。

「あなただったの。ごめんあそばせ」

 ごとごと云わしてかきがねはずした後で夫を内へ入れた彼女はいつもより少しあおい顔をしていた。彼はすぐ玄関から茶の間へ通り抜けた。

 茶の間はいつもの通りきちんと片づいていた。てつびんが約束通り鳴っていた。ながひばちの前には、例によって厚いメリンスのざぶとんが、彼の帰りを待ち受けるごとくに敷かれてあった。お延の坐りつけたそのむこうには、彼女の座蒲団のほかに、女持のすずりばこが出してあった。青貝で梅の花を散らしたらでんふたわきけられて、なしじの中にんだ小さな硯がつやつやとれていた。持主が急いで座を立ったしょうこに、細い筆の穂先が、巻紙の上へ墨をにじませて、七八寸書きかけた手紙の末をけがしていた。

 とじまりをして夫のあとから入ってきたお延はねまきの上へふだんぎの羽織を引っかけたままそこへぺたりと坐った。

「どうもすみません」

 津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打ったばかりのところであった。結婚後彼がこのくらいな刻限に帰ったのは、例外にしたところで、けっして始めてではなかった。

「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」

「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。しまいにあんまりさむしくってたまらなくなったから、とうとううちへ手紙を書き出したの」

 お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。けれどもまだなっとくができなかった。

「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。ぶっそうだからかね」

「いいえ。――あたし門なんか締めやしないわ」

「だってげんに締まっていたじゃないか」

ときゆうべ締めっ放しにしたまんまなのよ、きっと。いやな人」

 こう云ったお延はいつもする癖の通り、ぴくぴく彼女のまゆを動かして見せた。日中用のないくぐかきがねを、朝はずし忘れたという弁解は、けっして不合理なものではなかった。

「時はどうしたい」

「もうさっき寝かしてやったわ」

 下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、くぐの事をそのままにして寝た。



三十九編集

 あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、ゆうべ寝るまで全く予想していなかった不意のみものによって驚ろかされた。

 彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。するとあでやかせいそうしたお延が澄ましてそこに坐っていた。津田ははっと思った。ねおきの顔へ水をかけられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑をらした。

「今おめざめ?」

 津田は眼をぱちつかせて、赤いてがらをかけたおおまるまげと、はでぬいをしたはんえりの模様と、それからその真中にあるけしょうごの白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼つきで眺めた。

「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」

 お延は平気なものであった。

「どうもしないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」

 昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼のはかまも羽織も、畳んだなり、ちゃんと取りそろえて、しぶかみの上へせてあった。

「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」

「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」

「迷惑って訳はないがね。――」

 津田はまた改めて細君のなりぎんみするように見た。

「あんまりおつくりがおおげさだからね」

 彼はすぐ心のうちでこの間見た薄暗い控室の光景を思い出した。そこに坐っている患者のひとむれとこの着飾った若い奥様とは、とても調和すべき性質のものでなかった。

「だってあなた今日は日曜よ」

「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」

「だってあたし……」

 津田に云わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。

「どうもそういうでこでこななりをして、あのお医者様へ夫婦おそろいで乗り込むのは、少し――」

へきえき?」

 お延の漢語が突然津田をくすぐった。彼は笑い出した。ちょっとまゆを動かしたお延はすぐあまったれるような口調を使った。

「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。せっかく着ちまったんだから、今日はこれでかんにんしてちょうだいよ、ね」

 津田はとうとう敗北した。顔を洗っているとき、彼は下女にくるまを二台云いつけるお延の声を、あたかも自分がてられでもするようにせわしなく聞いた。


 普通の食事を取らない彼のあさめしはほとんど五分とかからなかった。ようじも使わないで立ち上った彼はすぐ二階へ行こうとした。

「病院へ持って行くものをまとめなくっちゃ」

 津田の言葉と共に、お延はすぐ自分のうしろにあるとだなを開けた。

「ここにこしらえてあるからちょっと見てちょうだい」

 よそゆきぎを着た細君をいたわらなければならなかった津田は、やや重いてさげかばんと小さなふろしきづつみを、自分の手でとだなからり出した。包の中には試しにそでを通したばかりの例のどてらひらぐけねまきひもはいっているだけであったが、かばんの中からは、楊枝だのはみがきだの、使いつけたラヴェンダー色のしょかんようしだの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さいはさみだの、毛抜だのが雑然と現われた。そのうちで一番重くてかさばった大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。

「これは置いて行くよ」

「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、しおりはさんであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」

 津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学のドイツしょを重そうに畳の上に置いた。

「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」

 こう云った津田は、それがこのたいぶの書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。

「そう、本はどれがるんだか妾分らないから、あなた自分でお好きなのをってちょうだい」

 津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へめ込んだ。



四十編集

 天気が好いのでほろたたました二人は、かばんと風呂敷包を、めいめいくるまの上に一つずつ乗せて家を出た。こうじの角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声をかけた。俥は前後ともすぐとまった。

「大変。忘れものがあるの」

 車上でふり返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。ねんいりみじまいをした若い女の口から出るしげきせいに富んだ言葉のために引きつけられたものは夫ばかりではなかった。車夫もかじぼうを握ったまま、等しくおのぶの方へ好奇の視線を向けた。そばを通る往来の人さえいちべつの注意を夫婦の上へ与えないではいられなかった。

「何だい。何を忘れたんだい」

 お延は思案するらしい様子をした。

「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」

 彼女は自分の俥だけを元へ返した。ちゅうぶらりんの心的状態でそこに取り残された津田は、黙ってその後姿を見送った。いったん小路の中に隠れた俥がやがてまた現われると、はげしい速力でまた彼の待っている所までけて来た。それが彼の眼の前でとまった時、車上のお延は帯の間から一尺ばかりの鉄製のくさりを出して長くぶら下げて見せた。その鎖のはじにはがあって、環の中には大小五六個のかぎが通してあるので、鎖を高く示そうとしたお延のしょさと共に、じゃらじゃらという音が津田の耳に響いた。

「これ忘れたの。たんすの上に置きっ放しにしたまま」

 夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人そろって外出する時の用心に、大事なものにじょうおろしておいて、どっちかが鍵だけ持って出る必要があった。

「お前預かっておいで」

 じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、ひらてでぽんとその上をたたきながら、津田を見て微笑した。

「大丈夫」

 俥は再びけ出した。

 彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少しおくれていた。しかしひるまでの診察時間に間に合わないほどでもなかった。夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄関を上ると、すぐ薬局の口へ行った。

「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」

 薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。まだ十六七にしかならないその看護婦は、何のぞうさもなく笑いながら津田におじぎをしたが、傍に立っているお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた気味で、いったいこのくじゃくはどこから入って来たのだろうという顔つきをした。お延がせんを越して、「ごやっかいになります」とこっちからあいさつをしたので、始めて気がついたように、看護婦も頭を下げた。

「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」

 津田は車夫から受取ったかばんを看護婦に渡して、二階のあがくちの方へ廻った。

「お延こっちだ」

 控室の入口に立って、患者のいる部屋の中をのぞき込んでいたお延は、すぐ津田のあといてはしごだんあがった。

「大変陰気なへやね、あすこは」

 みなみひがしいた二階はさいわいに明るかった。しょうじを開けてえんがわへ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋のものほしを見ながら、津田をかえりみた。

「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳はよごれているけれども」

 もとうけおいしか何かのしょうたくに手を入れて出来上ったその医院の二階には、どことなくいきな昔のおもかげが残っていた。

「古いけれどもうちの二階よりましかも知れないね」

 日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう云って、時代のために多少くすぶったてんじょうだのとこばしらだのを見廻した。



四十一編集

 そこへさっきの看護婦がきゅうすへ茶をれて持って来た。

「今したくをしておりますから、少しの間どうぞ」

 二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。

「何だか気がそわそわして落ちつかないのね」

「まるでお客さまに行ったようだろう」

「ええ」

 お延は帯の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。

「いったい何分ぐらいで済むのかなあ。眼で見ないでもあのはものの音だけ聞いていると、好い加減変な心持になるからな」

「あたしこわいわ、そんなものを見るのは」

 お延は実際怖そうにまゆを動かした。

「だからお前はここに待っといでよ。わざわざ手術台のそばまで来て、きたないところを見る必要はないんだから」

「でもこんな場合には誰かみよりのものが立ち合わなくっちゃ悪いんでしょう」

 津田はまじめなお延の顔を見て笑い出した。

「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。誰がこれしきの療治にたちあいにんなんか呼んで来るやつがあるものかね」

 津田は女にきたないものを見せるのがきらいな男であった。ことに自分の穢ないところを見せるはいやであった。もっと押しつめていうと、自分で自分の穢ないところを見るのでさえ、普通の人以上に苦痛を感ずる男であった。

「じゃしましょう」と云ったお延はまた時計を出した。

「おひるまでに済むでしょうか」

「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃいつだっておんなじこっちゃないか」

「そりゃそうだけど……」

 お延は後を云わなかった。津田もかなかった。

 看護婦がまたはしごだんの上へ顔を出した。

したくができましたからどうぞ」

 津田はすぐ立ち上った。お延も同時に立ち上ろうとした。

「お前はそこに待っといでと云うのに」

「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」

「どこかへ用があるのかね」

「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」

 同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。今度の病気についていもとの事をあまり頭の中に入れていなかった津田は、立とうとするお延を留めた。

「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまりぎょうさん過ぎるよ。それにあいつが来るとやかましくっていけないからね」

 年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味のにがてであった。

 お延はちゅうごしのまま答えた。

「でもあとでまた何か云われると、あたしが困るわ」

 いてとめる理由もみいだし得なかった津田は仕方なしに云った。

「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」

 お延はかすかな声でしたはばかるような笑い方をした。しかし彼女のあらわした白い歯は、気の毒だという同情よりも、こっけいだという単純な感じを明らかに夫に物語っていた。

「じゃお秀さんへかけるのはすから」

 こう云ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。

「まだほかにかける所があるのかい」

「ええ岡本へかけるのよ。ひるまでにかけるって約束があるんだから、いいでしょう、かけても」

 前後してはしごだんを下りた二人は、そこで別々になった。一人が電話口の前に立った時、一人は診察室の椅子へ腰をおろした。



四十二編集

「リチネはお飲みでしたろうね」

 医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田にいた。

「飲みましたが思ったほどききめがないようでした」

 きのうの津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこのげざいから受けた影響は、ほとんど精神的にゼロであったのみならず、生理的にも案外微弱であった。

「じゃもう一度かんちょうしましょう」

 浣腸の結果も充分でなかった。

 津田はそれなり手術台にのぼってあおむけに寝た。冷たい防水布がじかに皮膚に触れた時、彼は思わずひやりとした。堅いくくまくらに着けた彼の頭とは反対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向って寝る人のように、少しも落ちつけなかった。彼は何度もまばたきをして、何度もてんじょうを見直した。すると看護婦が手術の器械を入れたニッケル製の四角な浅い盆みたようなものを持って彼の横を通ったので、白い金属性の光がちらちらと動いた。仰向けに寝ている彼には、それが自分の眼をかすめて通り過ぎるとしか思われなかった。見てならない気味の悪いものを、ことさらにぬすみ見たのだという心持がなおのことつのった。その時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。彼は今まで忘れていたお延の事を急に思い出した。彼女の岡本へかけた用事がやっと済んだ時に、彼の療治はようやく始まったのである。

「コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから」

 局部を消毒しながらこんな事を云う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。

 きょくぶますいは都合よく行った。まじまじと天井を眺めている彼は、ほとんど自分の腰から下に、どんな大事件が起っているか知らなかった。ただ時々自分の肉体の一部に、遠い所で誰かが圧迫を加えているような気がするだけであった。にぶい抵抗がそこに感ぜられた。

「どんなです。痛かないでしょう」

 医者の質問には充分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。

「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」

 その重い感じというのを、どう云い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。

「どうも妙な感じです。説明のできないような」

「そうですか。我慢できますか」

 途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。こういう場合予防のためにぶどうしゅなどを飲まされるものかどうか彼は全く知らなかったが、何しろ特別の手当を受ける事はいやであった。

「大丈夫です」

「そうですか。もうじきです」

 こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来るてぎわひらめいていそうに思われた。けれども手術は彼の言葉通りそう早くは片づかなかった。

 きれものの皿に当って鳴る音が時々した。はさみで肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜をいかくした。津田はそのたびにガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼でなまぐさそうに眺めた。じっと寝かされている彼の神経はじっとしているのが苦になるほど緊張して来た。むずかゆい虫のようなものが、彼のからだを不安にするために、気味悪く血管の中をい廻った。

 彼は大きな眼をいててんじょうを見た。その天井の上にはきれいに着飾ったお延がいた。そのお延が今何を考えているか、何をしているか、彼にはまるで分らなかった。彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んで見たくなった。すると足の方で医者の声がした。

「やっと済みました」

 むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのしたあとで、医者はまた云った。

はんこんが案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分じっとしていて下さい」

 最後の注意と共に、津田はようやく手術台からろされた。



四十三編集

 診察室を出るとき、うしろからいて来た看護婦が彼にいた。

「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」

「いいえ。――あおい顔でもしているかね」

 自分自身に多少けねんのあった津田はこう云ってき返さなければならなかった。

 きずぐちにできるだけ多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、ひとが想像する倍以上に重苦しいものであった。彼は仕方なしにのそのそ歩いた。それでもはしごだんあがる時には、かれた肉とガーゼとがこすってざらざらするような心持がした。

 お延は階段の上に立っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。

「済んだの? どうして?」

 津田ははっきりした返事も与えずにへやの中にはいった。そこには彼の予期通り、白いシーツにつつまれたふとんが、彼のあんがを待つべく長々と延べてあった。羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐその上へ横になった。ねずみじのネルを重ねためいせんどてらうしろから着せるつもりで、両手でえりの所を持ち上げたお延は、ひょうしぬけのした苦笑と共に、またそれをそでだたみにしてとこすその方に置いた。

「お薬はいただかなくっていいの」

 彼女はそばにいる看護婦の方を向いていた。

「別に内用のお薬は召し上らないでもさしつかえないのでございます。お食事の方はただいまこしらえてこちらから持って参ります」

 看護婦は立ちかけた。黙って寝ていた津田は急に口を開いた。

「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」

「そうね」

 お延はちゅうちょした。

「あたしどうしようかしら」

「だって、もう昼過だろう」

「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」

 時計のふたを開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を云った。津田が手術台の上でまないたへ乗せられた魚のように、おとなしく我慢している間、お延はまた彼の見つめなければならなかったてんじょうの上で、時計とにらめっくらでもするように、手術の時間を計っていたのである。

 津田は再びいた。

「今からうちへ帰ったって仕方がないだろう」

「ええ」

「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」

「ええ」

 お延の返事はいつまでってもはかばかしくなかった。看護婦はとうとう下へ降りて行った。津田は疲れた人が光線のしげきを避けるような気分で眼をねむった。するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」というので、また眼をかなければならなかった。

「心持が悪いの?」

「いいや」

 念を押したお延はすぐあとを云った。

「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞にあがりますからって」

「そうか」

 津田は軽い返事をしたなり、また眼をつぶろうとした。するとお延がそうさせなかった。

「あの岡本でね、今日是非芝居へいっしょに来いって云うんですが、行っちゃいけなくって」

 気のよく廻る津田の頭に、今朝からのお延のしょさが一度にひらめいた。病院へいて来るにしてははですぎる彼女のいしょうといい、出る前に日曜だと断った彼女の注意といい、ここへ来てから、そわそわして岡本へ電話をかけた彼女の態度といい、ことごとく芝居の二字に向ってそそまれているようにも取れた。そういう眼で見ると、手術の時間を精密に計った彼女の動機さえ疑惑の種にならないではすまなかった。津田は黙って横を向いた。とこの上に取りそろえて積み重ねてある、封筒だのしょかんようしだのはさみだの書物だのが彼の眼についた。それはさっきかばんへ入れて彼がここへ持って来たものであった。

「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来てくれないから、しばらくの間、ああしておいたのよ。本でも御覧になって」

 お延はすぐ立って床の間から書物をおろした。



四十四編集

 津田は書物に手を触れなかった。

「岡本へは断ったんじゃないのか」

 不審よりも不平な顔をした彼が、むきを変えて寝返りを打った時に、堅固にできていない二階のゆかが、彼の意を迎えるように、ずしんと鳴った。

「断ったのよ」

「断ったのに是非来いっていうのかね」

 この時津田は始めてお延の顔を見た。けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女はかえって微笑した。


「断ったのに是非来いっていうのよ」

「しかし……」

 彼はちょっと行きつまった。彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通りじんそくに働らいてくれなかった。

「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」

「それを云うのよ。岡本もよっぽどのわからずやね」

 津田は黙ってしまった。何といって彼女をついきゅうしていいかけんとうがつかなかった。

「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」

 彼女のまゆがさもさも厭そうに動いた。

「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」

「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」

 不幸にして津田にはその変なところがめいりょうに云えなかった。

「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」

 津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格にかかわるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。二つのが我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。

「ああ」

 お延はかすかなためいきらしてそっと立ち上った。いったんったしょうじをまた開けて、南向のえんがわへ出た彼女は、てすりの上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋のものほしすきまなくつるされたワイシャツだのシーツだのが、さっき見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。

「好いお天気だ事」

 お延が小さな声でひとりごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然かごの中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。弱い女を自分のそばしばりつけておくのが少しかわいそうになった。彼はお延に言葉をかけようとして、つぎほのないのに困った。お延もらんかんに身をせたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。

 そこへ看護婦が二人の食事を持って下からあがって来た。

「どうもお待遠さま」

 津田のぜんには二個のけいらんと一合のソップとパンがついているだけであった。その麺麭も半片の二分ノ一と分量はいつのまにか定められていた。

 津田は床の上にはらばいになったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。

「行くのか、行かないのかい」

 お延はすぐフォークの手を休めた。

「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、せとおっしゃれば止すわ」

「大変柔順だな」

「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、いて見ろって云うんですもの」

「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」

「ええそりゃそうよ、約束ですもの。いっぺん断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一返その日のひるまでに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」

「岡本からそういう返事が来たのかい」

「ええ」

 しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。

「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」

 津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。

「そりゃ行きたいわ」

「とうとう白状したな。じゃおいでよ」

 二人はこういう会話と共にひるめしを済ました。



四十五編集

 手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶおくらせていた。彼女は自分の行先を車夫に教えるために、ただひとくち劇場の名を云ったなり、すぐくるまに乗った。門前に待たせておいたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであった。

 こうじを出たゴムわは電車通りばかり走った。何の意味なしに、ただにぎやかな方角へ向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫のかけかたが、お延に感染した。ふっくらした厚い席の上で、彼女のからだうわつきながら早くうごくと共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。それは自分の左右前後にふんとして活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。

 車上の彼女はうちの事を考える暇がなかった。きげんよく病院の二階へ寝かして来た津田のイメジが、今日一日ぐらい安心して彼を忘れてもさしつかえないという保証を彼女に与えるので、夫の事もまるで苦にならなかった。ただ目前の未来が彼女の俥とともに動いた。芝居その物に大したしこうを始めからもっていない彼女は、時間がおくれたのを気にするよりも、ただ早くそこに行き着くのを気にした。こうして新らしい俥で走っている道中が現にしげきであると同様の意味で、そこへ行き着くのはさらに一層の刺戟であった。

 俥は茶屋の前でとまった。あいさつをする下女にすぐ「岡本」と答えたお延の頭には、ちょうちんだののれんだの、紅白の造り花などがちらちらした。彼女は俥を降りる時一度に眼に入ったこれらの色と形の影を、まだ片づける暇もないうちに、すぐ廊下伝いに案内されて、それよりも何層倍かさくそうした、また何層倍か濃厚な模様を、縦横に織り拡げている、海のような場内へ、ひょっこり顔を出した。それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「こちらへ」と云った時、そのすきまから遠くに前の方を眺めたお延の感じであった。好んでこういう場所へしゅつにゅうしたがる彼女にとって、別に珍らしくもないこの感じは、彼女にとって、永久に新らしい感じであった。だからまた永久に珍らしい感じであるとも云えた。彼女はくらやみを通り抜けて、急にあかるみへ出た人のように眼をました。そうしてこのふんいきかたすみに身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模様の一部分となって、きょしどうさ共ことごとくこれからその中に織り込まれて行くのだという自覚が、緊張した彼女の胸にはっきり浮んだ。

 席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。それでも姉娘のつぎこは、お延の座があいにく自分の影になるのをきづかうように、うしろを向いてすじかいからだを延ばしながらお延にいた。

「見えて? 少しこことかわってあげましょうか」

「ありがとう。ここでたくさん」

 お延は首を振って見せた。

 お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘のゆりこひだりききなので、左の手に軽い小さなぞうげせいの双眼鏡を持ったまま、そのひじを、赤いきれつつんだてすりの上にせながら、うしろをふり返った。

「遅かったのね。あたしうちの方へいらっしゃるのかと思ってたのよ」

 年の若い彼女は、まだ津田の病気についてあいさつかたがたお延に何か云うほどのちえをもたなかった。

「御用があったの?」

「ええ」

 お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。それはさっきからきょうだいの母親がわきめもふらず熱心に見つめている方角であった。彼女とお延は最初顔を見合せた時に、ちょっと黙礼を取り替わせただけで、ひょうしぎの鳴るまでついにひとことも口をかなかった。



四十六編集

「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、さっきつぎと話してたの」

 幕が引かれてから、始めてうちくつろいだ様子を示した細君は、ようやくお延に口を利き出した。

「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」

 誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってそのあとを云い足した。

「あたしお母さまとかけをしたのよ。今日あなたが来るか来ないかって。お母さまはことによると来ないだろうっておっしゃるから、あたしきっといらっしゃるに違ないって受け合ったの」

「そう。またおみくじを引いて」

 継子は長さ二寸五分幅六分ぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。黒塗の上へてんしょの金文字で神籤と書いたその箱の中には、ぞうげを平たくけずった精巧の番号札がかずどおり百本納められていた。彼女はよく「ちょっと見て上げましょうか」と云いながら、こようじいれを取り扱うような手つきで、たんざくがたの薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合うようにできたもんくいりおりでほんりひろげて見た。そうしてそこに書いてあるはえの頭ほどな細かい字を読むために、これも附属品として始めから添えてある小さな虫眼鏡を、はぶたえの裏をつけたさらさの袋から取り出して、もったいらしくその上へかざしたりした。お延が津田と浅草へ遊びに行った時、おもちゃとしては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子にとって、処女の空想に神秘の色をゆうぎてきに着けてくれる無邪気な装飾品であった。彼女は時としてちつ入のままそれを机の上から取って帯の間にはさんで外出する事さえあった。

「今日も持って来たの?」

 お延はからかいはんぶん彼女にいて見たくなった。彼女は苦笑しながら首を振った。母がそばから彼女に代って返事をするごとくに云った。

「今日の予言はおみくじじゃないのよ。お神籤よりもっとえらい予言なの」

「そう」

 お延は後が聞きたそうにして、おやこを見比べた。

つぎはね……」と母が云いかけたのを、娘はすぐおっかぶせるようにとめた。

してちょうだいよ、お母さま。そんな事ここで云っちゃ悪いわよ」

 今まで黙って三人の会話をいていた妹娘のゆりこが、くすくす笑い出した。

「あたし云ってあげてもいいわ」

「お止しなさいよ、百合子さん。そんな意地の悪い事するのは。いいわ、そんなら、もうピヤノをさらって上げないから」

 母は隣りにいる人の注意をかないように、小さな声を出して笑った。お延もおかしかった。同時になお訳がきたかった。

「話してちょうだいよ、お姉さまに怒られたって構わないじゃないの。あたしがついてるから大丈夫よ」

 百合子はわざとあごを前へ突き出すようにして姉を見た。心持小鼻をふくらませたその態度は、話す話さないの自由を我に握った人の勝利を、ものものしく相手に示していた。

「いいわ、百合子さん。どうでも勝手になさい」

 こう云いながら立つと、継子はうしろの戸を開けてすぐ廊下へ出た。

「お姉さま怒ったのね」

「怒ったんじゃないよ。きまりが悪いんだよ」

「だってきまりの悪い事なんかなかないの。あんな事云ったって」

「だから話してちょうだいよ」

 としの六つほど下な百合子の小供らしい心理状態を観察したお延は、それをうまく利用しようと試みた。けれども不意に座を立った姉の挙動が、もうすでにその状態をくずしていたので、お延のしょうようは何のききめもなかった。母はとうとうすべてに対する責任を一人でしょわなければならなかった。

「なに何でもないんだよ。継がね、由雄さんはああいう優しい好い人で、何でも延子さんのいう通りになるんだから、今日はきっと来るに違ないって云っただけなんだよ」

「そう。由雄が継子さんにはそんなにたのもしく見えるの。ありがたいわね。お礼を云わなくっちゃならないわ」

「そうしたら百合子が、そんならお姉様も由雄さん見たような人の所へお嫁に行くといいって云ったんでね、それをお前の前で云われるのが恥ずかしいもんだから、ああやって出て行ったんだよ」

「まあ」

 お延は弱いかんとうしをむしろさみしそうに投げた。



四十七編集

 手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。自分のあさゆう尽している親切は、ずいぶん精一杯なつもりでいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないのかしらんという、不断からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。彼女はその疑念を晴らしてくれるゆいいつの責任者が今自分の前にいるのだという自覚と共に、岡本の細君を見た。その細君は、遠くに離れている両親をもった彼女から云えば、東京中で頼りにするたった一人の叔母であった。

おっとというものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存するかいめんに過ぎないのだろうか」

 これがお延のとうからおばにぶつかって、ただして見たい問であった。不幸にして彼女には持って生れた一種のきぐらいがあった。見方次第ではやせがまんとも虚栄心とも解釈のできるこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強くけんせいした。ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔を合せてすもうを取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻はいつでも夫の相手であり、またたまには夫の敵であるにしたところで、いったん世間に向ったが最後、どこまでも夫の肩を持たなければ、ていよく夫婦として結びつけられた二人の弱味を表へさらすような気がして、恥ずかしくていられないというのがお延の意地であった。だから打ち明け話をして、何か訴えたくてたまらない時でも、夫婦から見れば、やっぱり「世間」という他人の部類へ入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も云う気にならなかった。

 その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返してくれないのを、足りない自分のふゆきとどきからでも出たように、はたから解釈されてはならないと日頃からけねんしていた。すべてのうわさのうちで、愚鈍という非難を、彼女は火のように恐れていた。

「世間には津田よりも何層倍かむずかしい男を、すぐ手の内に丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うようにおっとあやなして行けないのは、ひっきょうちえがないからだ」

 知恵と徳とをほとんど同じように考えていたお延には、叔母からこう云われるのが、何よりの苦痛であった。女として男に対する腕をもっていないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白するくらいの屈辱として、お延の自尊心をきずつけたのである。時と場合が、こういう立ち入った談話を許さない劇場でないにしたところで、お延は黙っているよりほかに仕方がなかった。意味ありげに叔母の顔を見た彼女は、すぐ眼をそらせた。

 舞台一面に垂れている幕がふわふわ動いて、つぎめの少し切れた間から誰かが見物の方をのぞいた。気のせいかそれがお延の方を見ているようなので、彼女は今向け換えたばかりの眼をまたよそに移した。下は席を出る人、座へ戻る人、途中を歩く人で、一度にざわつき始めていた。すわったぎりの大多数も、前後左右に思い思いの姿勢を取ったりくずしたりして、片時も休まなかった。無数の黒い頭がうずのように見えた。彼らの或者のはでつくりが、色彩の運動から来る落ちつかない快感を、乱雑にちらちらさせた。

 どまから眼を放したお延は、ついに谷をへだてた向う側をぎんみし始めた。するとちょうどその時うしろをふり向いた百合子が不意に云った。

「あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」

 お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りのけんとうへつけて、そこにたやすく吉川夫人らしい人の姿を発見した。

「百合子さん、眼が早いのね、いつ見つけたの」

「見つけやしないのよ。さっきから知ってるのよ」

「叔母さんや継子さんも知ってるの」

「ええみんな知ってるのよ」

 知らないのは自分だけだったのにようやく気のついたお延が、なおその方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。

「あたしいやだわ。あんなにして見られちゃ」

 お延は隠れるように身をちぢめた。それでもむこうがわの双眼鏡は、なかなかお延の見当から離れなかった。

「そんならいいわ。逃げ出しちまうだけだから」

 お延はすぐ継子のあとおっかけて廊下へ出た。



四十八編集

 そこから見渡したそとの光景もばしょがらだけににぎわっていた。裏へぬきを打ってはずしのできるようにこしらえたすかしの板敷を、絶間なく知らない人が往ったり来たりした。廊下のはじに立って、なかば柱に身をたせたお延が、継子の姿をみいだすまでには多少の時間がかかった。それを向う側に並んでいる売店の前に認めた時、彼女はすぐ下へ降りた。そうして軽く足早に板敷を踏んで、めざす人のいる方へ渡った。

「何を買ってるの」

 うしろからのぞき込むようにしていたお延の顔と、驚ろいてふり返った継子の顔とが、ほとんどれ擦れになって、ほほえみ合った。

「今困ってるところなのよ。はじめさんが何かおみやげを買ってくれって云うから、見ているんだけれども、あいにくなんにもないのよ、あの人の喜びそうなものは」

 かんちがいをして、男の子のおもちゃを買おうとした継子は、それからそれへといろいろなものを並べられて、買うには買われず、すには止されず、弱っているところであった。役者に縁故のあるもんなどを着けたはなかんざしだの、紙入だの、てぬぐいだのの前に立って、もじもじしていた彼女は、どうしたらよかろうという訴えの眼をお延に向けた。お延はすぐ口をいてやった。

「駄目よ、あの子は、ピストルとかぼっけんとか、人殺しのできそうなものでなくっちゃ気に入らないんだから。そんな物こんないきな所にあろうはずがないわ」

 売店の男は笑い出した。お延はそれをしおに年下の女の手を取った。

「とにかく叔母さんに訊いてからになさいよ。――どうもお気の毒さま、じゃいずれまたのちほど」

 こう云ったなりさっさと歩き出した彼女は、気の毒そうにしている継子を、廊下のはじまで引張るようにして連れて来た。そこでとまった二人は、また一本ののきばしらたてに立話をした。

「叔父さんはどうなすったの。今日はなぜいらっしゃらないの」

「来るのよ、今に」

 お延は意外に思った。四人でさえ窮屈なところへ、あの大きな男が割り込んで来るのはたしかにひとじけんであった。

「あの上叔父さんに来られちゃ、あたし見たいに薄っぺらなものは、されてへしゃげちまうわ」

「百合子さんと入れ代るのよ」

「どうして」

「どうしてでもその方が都合が好いんでしょう。百合子さんはいてもいなくっても構わないんだから」

「そう。じゃもし、由雄が病気でなくって、あたしといっしょに来たらどうするの」

「その時はその時で、またどうかするつもりなんでしょう。もういっけん取るとか、それでなければ、吉川さんの方といっしょになるとか」

「吉川さんとも前から約束があったの?」

「ええ」

 継子はその後を云わなかった。岡本と吉川の家庭がそれほど接近しているとも考えていなかったお延は、そこに何か意味があるのではないかと、ちょっと不審を打って見たが、時間に余裕のある人の間に起りがちな、単に娯楽のための約束として、それを眺める余地も充分あるので、彼女はついに何にもかなかった。二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。お延はわざとてまねまでして見せた。

「こうやってともに向けるんだから、かなわないわね」

「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、うちのお父さまがそうおっしゃってよ」

「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」

「見て御覧なさい、きっとうれしがってよ。延子さんはハイカラだって」

 二人が声を出して笑い合っているそばに、どこからか来た一人の若い男がちょっと立ちどまった。無地の羽織にともぬいもんを付けて、セルのあんどんばかまいたその青年紳士は、彼らと顔を見合せるや否や、「失礼」とあいさつでもして通り過ぎるように、ていちょうな態度を無言のうちに示して、板敷へ下りて向うへ行った。継子はあかくなった。

「もうはいりましょうよ」

 彼女はすぐお延をうながして内へ入った。



四十九編集

 じょうちゅうの様子はさっき見た時と何の変りもなかった。土間を歩くなんにょの姿が、まるで人の頭の上を渡っているようにわずらわしくながめられた。できるだけ多くの注意をこうとするふこの活動さえ至る所に出現した。そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでもふんしょくであった。

 比較的静かなぶたいの裏側では、道具方の使うかなづちの音が、一般の予期をそそるべく、折々場内へ響き渡った。合間合間には幕のうしろひょうしぎを打つ音が、まわされた注意を一点にまとめようとするけいたくように聞こえた。

 不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長いまくあいを、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫なしげきを盛って、たわいなく時間のために流されていた。彼らはおだやかであった。彼らは楽しそうに見えた。お互のいきに酔っ払った彼らは、少しめかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。

 席に戻った二人は愉快らしくあたりを見廻した。それから申し合せたように問題の吉川夫人の方を見た。婦人の双眼鏡はもう彼らをねらっていなかった。その代り双眼鏡の主人もどこかへ行ってしまった。

「あらいらっしゃらないわ」

「本当ね」

「あたしさがしてあげましょうか」

 百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へてがった。

「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんならににんまえぐらいふとってるんだから、すぐ分るはずだけれども、やっぱりいないわよ」

 そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。きれいゆうぜんもようの背中が隠れるほど、帯を高くしょった令嬢としては、言葉が少しもよそゆきでないので、姉はおかしさをこらえるような口元に、年上らしい威厳を示して、妹をたしなめた。

「百合子さん」

 妹は少しもこたえなかった。例の通りちょっと小鼻をふくらませて、それがどうしたんだといった風の表情をしながら、わざと継子を見た。

「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」

「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」

「でもいるわ」

 百合子はやはり動かなかった。子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度のかたわらに、お延が年相応のふんべつを出して叔母に向った。

「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんにごあいさつをして来ましょうか。ましていちゃ悪いわね」

 実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでもこっちをきらっているように思えた。しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起ったのだというおぼろげな理由さえあった。自分が嫌われるべき何らのきっかけも与えないのに、向うで嫌い始めたのだという自信もともなっていた。さっき双眼鏡を向けられた時、すでにあいさつに行かなければならないと気のついた彼女は、即座にそれを断行する勇気を起し得なかったので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、その義務をたやすく果させるために、叔母が自分と連れ立って、夫人の所へ行ってくれはしまいかとあんに願っていた。

 叔母はすぐ返事をした。

「ああ行った方がいいよ。行っといでよ」

「でも今いらっしゃらないから」

「なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」

「でも、――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな」

「叔母さんは――」

「いらっしゃらない?」

「行ってもいいがね。どうせ今に御飯を食べる時に、いっしょになるはずになってるんだから、ごめんこうむってその時にしようかと思ってるのよ」

「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰がいっしょに御飯をめしやがるの」

「みんなよ」

「あたしも?」

「ああ」

 意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。

「そんならあたしもその時にするわ」



五十編集

 岡本の来たのはそれから間もなくであった。茶屋の男に開けてもらった戸のすきまから中をのぞいた彼は、おいでおいでをして百合子を廊下へ呼び出した。そこで二人がみんなの邪魔にならないような小声のたちばなしを、二言三言取り換わした後で、百合子は約束通り男に送られてすぐ場外へ出た。そうして入れ代りに入って来た彼がそのあとへ窮屈そうに坐った。こんな場所ではちょっとからだの位置をかえるのさえおっくうそうに見える肥満な彼は、坐ってしまってからふと気のついたように、半分ばかりうしろを向いた。

「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前をふさいで邪魔だろう」

 いちやづくりの山が急に出来上ったような心持のしたお延は、舞台へ気を取られているあたりへ遠慮して動かなかった。毛織ものを肌へ着けたためしのない岡本は、毛だらけな腕を組んで、これもおつきあいだと云った風に、みんなの見ている方角へ視線を向けた。そこでは色のなまちろい変な男が柳の下をうろうろしていた。荒いしまの着物をぞろりと着流して、はかたの帯をわざと下の方へめたその色男は、素足にせったいているので、歩くたびにちゃらちゃらいう不愉快な音を岡本の耳に響かせた。彼は柳のそばにある橋と、橋の向うに並んでいる土蔵の白壁を見廻して、それからそのついでに観客の方へ眼を移した。しかるに観客の顔はことごとく緊張していた。雪駄をちゃらちゃら鳴らして舞台の上を往ったり来たりするこの若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるように、満場は静まり返って、せき一つするものがなかった。急に表から入って来た彼にとって、すぐこの特殊な空気に感染する事が困難であったのか、また馬鹿らしかったのか、しばらくすると彼はまた窮屈そうに半分うしろを向いて、小声でお延に話しかけた。

「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」

 簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらにいた。

「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。おおかたぐずぐず云ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人しばやへ行くなんてふらちせんばんだとか何とか。え? きっとそうだろう」

「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」

「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」

 小声でさえ話をするものがあたりに一人もない所で、自分だけ長い受け答をするのはきまりが悪かったので、お延はただ微笑していた。

「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」

「あたし心配なんかしちゃいないわ」

「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様のごきげんを損じちゃ」

「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」

 お延はうるさそうにまゆを動かした。面白半分からかって見た岡本は少しまじめになった。

「実は今日お前を呼んだのはね、ただしばやを見せるためばかりじゃない、少し呼ぶ必要があったんだよ。それで由雄さんが病気のところを無理に来て貰ったような訳だが、その訳さえ由雄さんに後から話しておけば何でもない事さ。叔父さんがよく話しておくよ」

 お延の眼は急に舞台を離れた。

わけっていったい何」

「今ここじゃ話しにくいがね。いずれ後で話すよ」

 お延は黙るよりほかに仕方なかった。岡本はつけ足すように云った。

「今日は吉川さんといっしょに食堂でばんめしを食べる事になってるんだよ。知ってるかね。そら吉川もあすこへ来ているだろう」

 さっきまで眼につかなかった吉川の姿がすぐお延の眼に入った。

「叔父さんといっしょに来たんだよ。クラブから」

 二人の会話はそこでとぎれた。お延はまた真面目に舞台の方を見出した。しかし十分つか経たないうちに、彼女の注意がまたそっとうしろの戸を開ける茶屋の男によって乱された。男は叔母に何かささやいた。叔母はすぐ叔父の方へ顔を寄せた。

「あのね吉川さんから、食事の用意を致させておきましたから、この次のまくあいにどうぞ食堂へおいで下さいますようにって」

 叔父はすぐ返事を伝えさせた。

「承知しました」

 男はまた戸をそっとてて出て行った。これから何が始まるのだろうかと思ったお延は、黙って会食の時間を待った。



五十一編集

 彼女が叔父叔母のあといて、継子といっしょに、二階のかたすみにある奥行の深い食堂に入るべく席を立ったのは、それから小一時間のちであった。彼女は自分と肩を並べて、すれすれに廊下を歩いて行くいとこに小声でいて見た。

「いったいこれから何が始まるの」

「知らないわ」

 継子は下を向いて答えた。

「ただ御飯を食べるぎりなの」

「そうなんでしょう」

 こうとすれば訊こうとするほど、継子の返事があいまいになってくるように思われたので、お延はそれぎり口を閉じた。継子は前に行くちちははに遠慮があるのかも知れなかった。また自分はなんにも承知していないのかも分らなかった。あるいは承知していても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。

 鋭いいちべつの注意を彼らの上に払って行きがちな、廊下でであう多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。こつぜんお延の頭に彼女と自分との比較がひらめいた。すがたかっこうは継子にまさっていても、なりかおかたちで是非ひけを取らなければならなかった彼女は、いつまでも子供らしくはにかんでいるような、またどこまでも気苦労のなさそうにういういしく出来上った、処女としては水のしたたるばかりの、このいとこを軽いしっとの眼でた。そこにはたとい気の毒だというぶべつこころが全く打ち消されていないにしたところで、ちょっとひがの地位をえて立って見たいぐらいなせんぼうの念が、いちじるしく働らいていた。お延は考えた。

「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」

 幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。平生継子をめやすにおかないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、にぎやかな電灯で明るく照らされた廊下の上に立って、またかつて感じた事のない一種のあいしゅうに打たれた。それは軽いものであった。しかし涙に変化しやすいたちのものであった。そうして今しっとの眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握りめたくなるような種類のものであった。彼女は心の中で継子に云った。

「あなたは私より純潔です。私がうらやましがるほど純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落なく仕向けてすら夫は、けっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。あなたは今に夫の愛をつなぐために、そのたっとい純潔なきじを失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたにつらくあたるかも知れません。私はあなたがうらやましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているからです。幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままのうつわが完全に具わっておりませんでしたから、それほどの損失もないのだと云えば、云われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。あなたはふぼしっかを離れると共に、すぐ天真の姿をきずつけられます。あなたは私よりもかわいそうです」

 二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人にさえぎられて見えなくなった時、叔母はわざわざ取って返した。

「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」

 叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向ってかけられた。けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。彼女は自分の夫が、平生からひとかたならぬおんこを受けている勢力家の妻君として、今その人の前に、あたかぎりのあいきょうと礼儀とを示さなければならなかった。平静のうちに一種の緊張を包んで彼女は、知らん顔をして、みんなのあといて食堂に入った。



五十二編集

 叔母の云った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延のまとにするその夫人は、入口の方を向いて叔父とたちばなしをしていた。大きな叔父の後姿よりも、向う側にみ出しているだいだいした夫人のかっぷくが、まずお延の眼に入った。それと同時に、肉づきの豊かな頬に笑いをみなぎらしていた夫人の方でも、すぐひとみをお延の上に移した。しかしとっさの電火作用は起ると共に消えたので、二人は正式にあいさつかわすまで、ついに互を認め合わなかった。

 夫人に投げかけたいちべつについで、お延はまたそのそばに立っている若い紳士を見ない訳に行かなかった。それが間違もなく、さっき廊下で継子といっしょになって、じょうだん半分夫人の双眼鏡をはしたなく批評し合った時に、自分達を驚ろかした無言の男なので、彼女は思わずひやりとした。

 簡単な挨拶が各自の間に行われる間、控目にみんなのうしろに立っていた彼女は、やがて自分の番が廻って来た時、ただみよしさんとしてこの未知の人に紹介された。紹介者は吉川夫人であったが、夫人の用いる言葉が、叔父に対しても、叔母に対しても、また継子に対しても、みんな自分に対するのと同じ事で、その間に少しも変りがないので、お延はついにその三好のなんびとであるかを知らずにしまった。

 席に着くとき、夫人は叔父の隣りにすわった。一方の隣には三好が坐らせられた。叔母の席は食卓の角であった。継子のは三好の前であった。余った一脚のいすへ腰をろすべく余儀なくされたお延は、少しちゅうちょした。隣りには吉川がいた。そうして前は吉川夫人であった。

「どうですかけたら」

 吉川は催促するようにお延を横から見上げた。

「さあどうぞ」と気軽に云った夫人は正面から彼女を見た。

「遠慮しずにおかけなさいよ。もうみんな坐ってるんだから」

 お延は仕方なしに夫人の前に着席した。せんすつもりでいたのに、かえって先を越されたというまずい感じが胸のどこかにあった。自分の態度を礼儀から出た本当の遠慮と解釈して貰うように、これから仕向けて行かなければならないという意志もすぐ働らいた。その意志は自分と正反対な継子のうぶらしい様子を、テーブルごしに眺めた時、ますます強固にされた。

 継子はまたいつもよりおとなし過ぎた。ろくろく口もかないで、下ばかり向いている彼女の態度のうちには、ほとんど苦痛に近い或物がみすかされた。気の毒そうに彼女を一目見やったお延は、すぐ前にいる夫人の方へ、彼女に特有なあいきょうのある眼を移した。社交に慣れ切った夫人も黙っている人ではなかった。

 調子の好い会話の断片が、二三度二人の間を往ったり来たりした。しかしそれ以上に発展する余地のなかった題目は、そこでぴたりととまってしまった。二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかとちぎしているうちに、夫人はもう自分を置き去りにして、遠くにいる三好に向った。

「三好さん、黙っていないで、ちっとあっちの面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい」

 ちょうど叔母と話をとぎらしていた三好は夫人の方を向いて静かに云った。

「ええ何でも致しましょう」

「ええ何でもなさい。黙ってちゃいけません」

 命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。

「またドイツを逃げ出した話でもするがいい」

 吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。

「独逸を逃げ出した話も、何度となくかえすんでね、近頃はもうひとよりも自分の方がちんぷになってしまいました」

「あなたのような落ちついたかたでも、少しはあわてたでしょうね」

「少しどころなら好いですが、ほとんど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」

「でも殺されるとは思わなかったでしょう」

「さよう」

 三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣りから口を出した。

「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」

「なぜです。人間がずうずうしいからですか」

「という訳でもないが、とにかく非常に命を惜しがる男だから」

 継子が下を向いたままくすくす笑った。戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。



五十三編集

 三好を中心にした洋行談がひとしきりはずんだ。あいま相間に巧みなきっかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のおてぎわを、黙って観察していたお延は、夫人がどんな努力で、彼ら四人の前に、この未知の青年紳士を押し出そうと試みつつあるかを見抜いた。おだやかというよりもむしろ無口な彼は、自分でそうと気がつかないうちに、彼に好意をもった夫人のくちぐるまに乗せられて、最も有利な方面から自分をみんなの前に説明していた。

 彼女はこの談話の進行中、ほとんどひとことも口をさしはさむ余地を与えられなかった。自然の勢い沈黙の謹聴者たるべき地位に立った彼女には批判の力ばかり多く働らいた。卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、ごうも技巧のくさみなしに、着々成功して行くだんどりを、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。しかしそれは上下の距離でなくって、平面の距離だという気がした。では恐るるに足りないかというとけっしてそうでなかった。一部分は得意な現在の地位からも出て来るらしい命令的の態度のほかに、夫人の技巧には時として恐るべき破壊力が伴なって来はしまいかという危険の感じが、お延の胸のどこかでした。

「こっちの気のせいかしらん」

 お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。

「延子さんがあきれていらっしゃる。あたしがあんまりしゃべるもんだから」

 お延は不意を打たれてたじろいだ。津田の前でかつてあいさつに困った事のない彼女の智恵が、どう働いて好いか分らなくなった。ただ空疎な薄笑が瞬間のきょたした。しかしそれは御役目にもならない偽りのあいきょうに過ぎなかった。

「いいえ、大変面白くうかがっております」とあとから付け足した時は、お延自分でももう時機のおくれている事に気がついていた。またやりそくなったというにがい感じが彼女の口の先までいて出た。今日こそ夫人のきげんを取り返してやろうというきごみが一度にえた。夫人は残酷に見えるほど早く調子をえて、すぐ岡本に向った。

「岡本さんあなたが外国から帰っていらしってから、もうよっぽどになりますね」

「ええ。何しろひとむかしまえの事ですからな」

「一昔前って何年頃なの、いったい」

「さようせいれき……」

 自然だか偶然だか叔父はもったいぶった考え方をした。

ふふつせんそう時分?」

「馬鹿にしちゃいけません。これでもあなたのだんなさまを案内してロンドンを連れて歩いて上げたおぼえがあるんだから」

「じゃパリろうじょうした組じゃないのね」

「冗談じゃない」

 三好の洋行談をひとしきりで切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。自然吉川は岡本の相手にならなければすまなくなった。

「何しろ自動車のできたてで、あれが通ると、みんなふり返って見た時分だったからね」

「うん、あののろくさいバスがまだ幅をかしていた時代だよ」

 その鈍臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のないほかの者にとって、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、やっぱり淡い一種の感慨をき起すらしく見えた。継子と三好をみくらべた岡本は、苦笑しながら吉川に云った。

「お互に年を取ったもんだね。不断はちっとも気がつかずに、まだ若いつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」

「じゃしじゅうその子のそばに坐っていらっしったら好いでしょう」

 叔母はすぐ叔父に向った。叔父もすぐ答えた。

「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と云いかけてちょっと考えた彼は、「幾つだっけかな」といた。叔母がそんなのんきな人に返事をする義務はないといわぬばかりの顔をして黙っているので、吉川が傍から口を出した。

「今度はおじいさまお爺さまって云われる時機が、もうがんぜんせまって来たんだ。油断はできません」

 継子が顔をあかくして下を向いた。夫人はすぐ夫の方を見た。

「でも岡本さんにゃ自分のとしを計る生きた時計が付いてるから、まだよいんです。あなたと来たらなんにもはんせいきかいを持っていらっしゃらないんだから、全く手に余るだけですよ」

「その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか」

 みんなが声を出して笑った。



五十四編集

 彼らほどたにんずでない、したがって比較的静かなほかの客が、まるで舞台をよそにして、気楽そうな話ばかりしているお延のいちぐんを折々見た。時間を倹約するため、わざと軽い食事を取ったものたちが、コヒーも飲まずに、そろそろ立ちかける時が来ても、お延の前にはそれからそれへと新らしい皿が運ばれた。彼らは中途でナプキンほうす訳に行かなかった。またそんな世話しないまねをする気もないらしかった。芝居をに来たというよりも、芝居場へ遊びに来たという態度で、どこまでもゆっくり構えていた。

「もう始まったのかい」

 急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう云って白服のボイにいた。ボイは彼の前に温かい皿を置きながら、ていねいに答えた。

「ただ今きました」

「いいや開いたって。この際眼よりも口の方が大事だ」

 叔父はすぐ皮付のとりももを攻撃し始めた。向うにいる吉川も、舞台で何が起っていようとまるでとんじゃくしないらしかった。彼はすぐ叔父のあとへついて、劇とは全く無関係なくいものあいさつをした。

「君は相変らずうまそうに食うね。――奥さんこの岡本君が今よりもっと食って、もっと肥ってた時分、西洋人のかたぐるまへ乗った話をお聞きですか」

 叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子にかけた。継子も知らなかった。

「そうでしょうね、あんまりがいぶんの好い話じゃないから、きっと隠しているんですよ」

「何が?」

 叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人がそばから口を出した。

「おおかた重過ぎてその外国人をつぶしたんでしょう」

「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、ロンドンの群衆の中で、大男の肩の上へかじりついていたんだ。行列を見るためにね」

 おじはまだ笑いもしなかった。

「何をねつぞうする事やら。いったいそりゃいつの話だね」

「エドワード七世のたいかんしきの時さ。行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってたところが、日本と違って向うのものがあんまり君よりせいが高過ぎるもんだから、苦しまぎれにいっしょに行った下宿の亭主に頼んで、肩車に乗せて貰ったって云うじゃないか」

「馬鹿を云っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」

 叔父の弁解はむしろまじめであった。その真面目な口から猿という言葉が突然出た時、みんなは一度に笑った。

「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくらイギリスじんが大きいたって、どうも君じゃつじつまが合わな過ぎると思ったよ。――あの猿と来たらまたずいぶんわいしょうだからな」

 知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっとに落ちたらしいことばづかいをして、なおその当人の猿というあざなを、一座をにぎわせるこっけいよいんのごとくかえした。夫人はなかば好奇的で、半ばかいちょくてきな態度を取った。

「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」

「なにお前の知らない人だ」

「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々はひょうりなく彼を猿々と呼び得る人間なんだから。その代り向うじゃ私の事を豚々って云ってるから、おんなじ事です」

 こんなたわいもない会話が取り換わされている間、お延はついに社交上の一員として相当のわけまえを取る事ができなかった。自分を吉川夫人に売りつける機会はいつまでっても来なかった。夫人は彼女を眼中に置いていなかった。あるいはむしろ彼女を回避していた。そうして特に自分のいっけん置いて隣りに坐っている継子にばかり話しかけた。たとい一分間でもこのいとこを、注意の中心として、みんなの前に引き出そうとする努力のあとさえありありと見えた。それを利用する事のできない継子が、感謝とは反対に、かえって迷惑そうな表情を、遠慮なくそとに示すたびに、すぐ彼女と自分とを比較したくなるお延の心にはせんぼうさざなみが立った。

「自分がもしあの従妹の地位に立ったなら」

 会食中の彼女はしばしばこう思った。そうしてそのあとからあんひとなれない継子をあわれんだ。最後には何という気の毒な女だろうというけいぶの念がいつもの通り起った。



五十五編集

 彼らの席を立ったのは、男達のくゆらし始めた食後の葉巻に、白い灰が一寸近くもたまった頃であった。その時誰かの口から出た「もうなんじだろう」というきっかけが、偶然お延の位地に変化を与えた。立ち上る前の一瞬間をとらえた夫人は突然お延に話しかけた。

「延子さん。津田さんはどうなすって」

 いきなりこう云っておいて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐそのあとを自分で云い足した。

さっきから伺おう伺おうと思ってた癖に、つい自分の勝手な話ばかりして――」

 このいいわけをお延は腹の中でうそらしいと考えた。それは相手の使う当座の言葉つきや態度から出た疑でなくって、彼女に云わせると、もう少し深いこんきょのある推定であった。彼女は食堂へはいって夫人にあいさつをした時、自分の使った言葉をよく覚えていた。それは自分のためというよりも、むしろ自分の夫のために使った言葉であった。彼女はこの夫人を見るや否や、うやうやしく頭を下げて、「毎度津田がごやっかいになりまして」と云った。けれども夫人はその時その津田についてはひとことも口を利かなかった。自分が挨拶を交換した最後の同席者である以上、そこにはそれだけの口を利く余裕が充分あったにも関わらず、夫人は、すぐよそを向いてしまった。そうしてにさんちまえ津田から受けた訪問などは、まるで忘れているような風をした。

 お延は夫人のこの挙動を、自分がきらわれているからだとばかり解釈しなかった。嫌われている上に、まだ何か理由があるに違ないと思った。でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するようなそぶりを、彼の妻たるものに示すはずがないと思った。彼女は自分の夫がこの夫人の気に入っているという事実をよく承知していた。しかし単に夫をひいきにしてくれるという事が、何でその人を妻の前に談話の題目としてはばかられるのだろう。お延は解らなかった。彼女が会食中、当然ひとに好かれべき女性としての自己の天分を、夫人の前に発揮するために、二人の間に存在するゆいいつの共通点とも見られる津田から出立しようと試みて、ついに出立し得なかったのも、一つはこれが胸につかえていたからであった。それをいよいよ席を立とうとするまぎわになって、向うから切り出された時のお延は、ただ夫人の云訳に対してのみ、うそらしいという疑をいだくだけではすまなかった。今頃になって夫の病気の見舞をいってくれる夫人の心の中には、やむをえない社交上の辞令以外に、まだ何か存在しているのではなかろうかと考えた。

「ありがとうございます。おかげさまで」

「もう手術をなすったの」

「ええこんち

きょう? それであなたよくこんな所へ来られましたね」

「大した病気でもございませんものですから」

「でも寝ていらっしゃるんでしょう」

「寝てはおります」

 夫人はそれで構わないのかという様子をした。少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。ひとに対して男らしく無遠慮にふるまっている夫人が、自分にだけは、まるで別な人間として出てくるのではないかと思われた。

「病院へおはいりになって」

「病院と申すほどの所ではございませんが、ちょうどお医者様の二階がいておるので、ごろくんちそこへおいていただく事にしております」

 夫人は医者の名前とところとをいた。見舞に行くつもりだとも何とも云わなかったけれども、実はそのために、わざわざ津田の話を持ち出したのじゃなかろうかという気のしたお延は、始めて夫人の意味が多少自分に呑み込めたような心持もした。

 夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭においていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。

「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。休むのは五六日に限った事もないんだから、なおるまでよく養生するように、そう云って下さい」

 お延は礼を云った。

 食堂を出た七人は、廊下でまた二組に分れた。



五十六編集

 残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何のはらんも来なかった。ただどてらを着ておうがしたねまきすがたの津田のおもかげが、熱心に舞台を見つめている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。その面影は今まで読みかけていた本を伏せて、ここに坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。しかしそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとするせつなに、「いやかんちがいをしちゃいけない、何をしているかちょっとのぞいて見ただけだ。お前なんかに用のあるおれじゃない」という意味を、眼つきで知らせるものであった。だまされたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。二度目にはお延の方から「もうあなたのような方の事は考えて上げません」と云い渡した。三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女はしたうちをしたくなった。

 食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべてゆうめしごに起った新らしい経験にほかならなかった。彼女は黙って前後にようの自分を比較して見た。そうしてこの急劇な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前をかえさない訳に行かなかった。今夜もし夫人と同じテーブルばんさんを共にしなかったならば、こんな変な現象はけっして自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭のどこかでした。しかし夫人のいかなる点が、このにがい酒をかもはっこうぶんしとなって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかとかれると、彼女はとてもはっきりした返事を与えることができなかった。彼女はただふめいりょうな材料をもっていた。そうして比較的明暸な断案に到着していた。材料に不足なけねんいだかない彼女が、その断案を不備として疑うはずはなかった。彼女はすべての源因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。

 芝居がねていったん茶屋へ引き上げる時、お延はそこでまた夫人に会う事を恐れた。しかし会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。帰りを急ぐごたごたしたまぎわに、そんな機会の来るはずもないと、始めからあきらめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念のかげから、ちょいちょい首を出した。

 茶屋は幸にしてちがっていた。吉川夫婦の姿はどこにも見えなかった。えりに毛皮の付いた重そうなにじゅうまわしをひっかけながら岡本がコートにそでを通しているお延をかえりみた。

「今日はうちへ来て泊って行かないかね」

「え、ありがとう」

 泊るとも泊らないとも片づかないあいさつをしたお延は、微笑しながら叔母を見た。叔母はまた「あなたの気楽さ加減にもあきれますね」という表情で叔父を見た。そこに気がつかないのか、あるいは気がついてもむとんじゃくなのか、彼は同じ事を、前よりはもっとまじめな調子で繰り返した。

「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮はらないから」

「泊っていけったって、あなた、うちにゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」

「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」

 そんならすが好かろうと云った風の様子をした叔父は、無論最初からどっちでも構わないものをちょっと問題にして見ただけであった。

「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩もごやっかいになった事はなくってよ」

「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正のいたりだね」

「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」

「いや結構ですよ。御夫婦おそろいで、お堅くっていらっしゃるのは――」

「何よりもってきょうえつしごく

 さっき聞いた役者の言葉を、小さな声であとへ付け足した継子は、そう云った後で、自分ながらその大胆さにあきれたように、薄赤くなった。叔父はわざと大きな声を出した。

「何ですって」

 継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどんかどぐちの方へ歩いて行った。みんなもそのあといて表へ出た。

 車へ乗る時、叔父はお延に云った。


「お前うちへ泊れなければ、泊らないでいいから、その代りいつかおいでよ、にさんちじゅうにね。少しきたい事があるんだから」

「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。もしか都合ができたらあしたにでも伺ってよ、好くって」

「オー、ライ」

 四人の車はこの英語をあいずした。



五十七編集

 津田のうちとほぼ同じ方角に当る岡本のすまいは、少しみちのりが遠いので、三人のあといたお延のゴムわは、こうじへ曲る例のかどまでいっしょに来る事ができた。そこで別れる時、彼女はほろの中から、前に行く人達に声をかけた。けれどもそれが向うへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女のくるまはもう電車通りを横に切れていた。しんとした小路の中で、急に一種のさみしさが彼女の胸を打った。今まで団体的に旋回していたものが、われしらず調子をはずして、一人けんがいにふり落された時のように、淡いながら頼りを失った心持で、彼女は自分のうちの玄関を上った。

 下女はこうしの音を聞いても出て来なかった。茶の間には電灯が明るく輝やいているだけで、てつびんさえいつものように快い音を立てなかった。けさ見たと何の変りもないへやの中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。薄ら寒い感じが心細い気分をほうようし始めた。その瞬間が過ぎて、ただの淋しさが不安の念に変りかけた時、歓楽に疲れたからだを、ながひばちの前に投げかけようとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。同時に勝手の横に付いている下女部屋の戸を開けた。

 二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上にたわいなく突ッ伏していたお時は、急に顔を上げた。そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事をはっきりして立ち上った。それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電灯の笠へ、くずれかかった束髪の頭をぶつけたので、あらぬかたへ波をうった電球が、なおのこと彼女をろうばいさせた。

 お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならというひがの比較さえ胸に浮かばなかった。今の彼女には寝ぼけたお時でさえ、そこにいてくれるのがたのもしかった。

「早く玄関をめてお寝。くぐりのかきがねはあたしがかけて来たから」

 下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまたひばちの前へ坐った。彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭をした。そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯をかした。しかしよふけに鳴るてつびんの音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、どこからともなくせまってくる孤独の感が、さっき帰った時よりもなおはげしくつのって来た。それが平生遅い夫の戻りを待ちあぐんで起すさびしみに比べると、はるかに程度が違うので、お延は思わず病院に寝ている夫の姿を、なつかしそうに心の眼で眺めた。

「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」

 彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうしてあしたは何をおいても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。しかし次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸にくっついていなかった。二人の間に何だかはさまってしまった。こっちで寄り添おうとすればするほど、ちゅうかんにあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。しかも夫は平気で澄ましていた。なかば意地になった彼女の方でも、そんならよろしゅうございますといって、夫に背中を向けたくなった。

 こういう立場まで来ると、彼女の空想はえしゃくなく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫人に会わなかったなら、最愛の夫に対して、これほど不愉快な感じをいだかずにすんだろうにという気ばかり強くした。

 しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。ゆうべ書きかけた里へやる手紙のつづきを書こうと思って、筆をりかけた彼女は、いつまでっても、夫婦仲よく暮しているから安心してくれという意味よりほかに、自分の思いを巻紙の上に運ぶ事ができなかった。それは彼女が常に両親に対して是非云いたい言葉であった。しかし今夜は、どうしてもそれだけでは物足らない言葉であった。自分の頭をまとめる事に疲れ果た彼女は、とうとう筆を投げ出した。着物もそこへ脱ぎ捨てたまま、彼女はついに床へ入った。長い間眼に映った劇場の光景が、断片的に幾通りもの強い色になって、興奮した彼女の頭をちらちらしげきするので、彼女はらされる人のように、いつまでも眠に落ちる事ができなかった。



五十八編集

 彼女は枕の上で一時を聴いた。二時も聴いた。それからなんじだか分らない朝の光で眼をました。雨戸のすきまから差し込んで来るその光は、明らかにいつもより寝過ごした事を彼女に物語っていた。

 彼女はその光で枕元に取り散らされたゆうべの衣裳を見た。上着と下着とながじゅばんと重なり合って、すぽりと脱ぎ捨てられたまま、畳の上にくずれているので、そこにはうえしたうらおもての、しだらなく一度に入り乱れた色のかたまりがあるだけであった。その色の塊りの下から、細長く折目の付いたはじを出した金糸入りのひおうぎもようの帯は、彼女の手の届く距離まで延びていた。

 彼女はこの乱雑な有様を、いささかあきれた眼で眺めた。これがかねてから、きちょうめんじょとくの一つと心がけて来た自分のしょさかと思うと、少しあさましいような心持にもなった。津田にとついで以後、かつてこんなふしだらを夫に見せたおぼえのない彼女は、その夫が今自分と同じへやの中に寝ていないのを見て、ほっと一息した。

 だらしのないのは着物の事ばかりではなかった。もし夫が入院しないで、いつもの通りうちにいたならば、たといどんなによふかしをしようとも、こう遅くまで、気を許して寝ているはずがないと思った彼女は、眼がめると共にね起きなかった自分を、どうしても怠けものとしてけいべつしない訳に行かなかった。

 それでも彼女は容易に起き上らなかった。ゆうべの不首尾をつぐなうためか、自分の知らないに起きてくれたお時の足音が、さっきから台所で聞こえるのを好い事にして、彼女はいつまでも肌触りの暖かい夜具の中に包まれていた。

 そのうち眼を開けた瞬間に感じた、すまないという彼女の心持がだんだんゆるんで来た。彼女はいくら女だって、年に一度や二度このくらいの事をしてもさしつかえなかろうと考え直すようになった。彼女のふしぶしが楽々しだした。彼女はいつにないのんびりした気分で、結婚後始めて経験する事のできたこの自由をありがたく味わった。これもひっきょう夫が留守のおかげだと気のついた時、彼女は当分一人になった今の自分を、むしろ祝福したいくらいに思った。そうして毎日夫とねおきを共にしていながら、つい心にもとめず、今日まで見過ごしてきた窮屈というものが、彼女にとって存外重い負担であったのに驚ろかされた。しかし偶発的に起ったこの瞬間のかくせいは無論長く続かなかった。いったん解放された自由の眼で、やきもきしたゆうべの自分をあざけるように眺めた彼女が床を離れた時は、もうすでに違った気分に支配されていた。

 彼女は主婦としていつもやる通りの義務を遅いながらきれいに片づけた。津田がいないので、だいぶはぶけるてすうを利用して、下女もわずらわさずに、自分で自分の着物を畳んだ。それから軽いみじまいをして、すぐ表へ出た彼女は、寄道もせずに、通りから半丁ほど行った所にある、新らしい自動電話の箱の中に入った。

 彼女はそこで別々の電話を三人へかけた。その三人のうちで一番先にえらばれたものは、やはり津田であった。しかし自分で電話口へ立つ事のできないおうが状態にある彼の消息は、間接に取次の口から聞くよりほかに仕方がなかった。ただ別に異状のあるはずはないと思っていた彼女の予期ははずれなかった。彼女は「順当でございます、お変りはございません」という保証の言葉を、看護婦らしい人の声から聞いた後で、どのくらい津田が自分を待ち受けているかを知るために、今日は見舞に行かなくってもいいかと尋ねて貰った。すると津田がなぜかと云って看護婦にき返させた。夫の声も顔も分らないお延は、判断に苦しんで電話口で首を傾けた。こんな場合に、彼は是非来てくれと頼むような男ではなかった。しかし行かないと、きげんを悪くする男であった。それでは行けば喜こぶかというとそうでもなかった。彼はお延に親切のしぞんをさせておいて、それが女の義務じゃないかといった風に、取り澄ました顔をしないとも限らなかった。ふとこんな事を考えた彼女は、ゆうべ吉川夫人から受け取ったらしく自分では思っている、夫に対する一種の感情を、つい電話口でらしてしまった。

「今日は岡本へ行かなければならないから、そちらへは参りませんって云って下さい」

 それで病院の方を切った彼女は、すぐ岡本へかけえて、今に行ってもいいかと聞き合せた。そうして最後に呼び出した津田の妹へは、彼の現状をひとくち報告的に通じただけで、またうちへ帰った。



五十九編集

 お時の御給仕であさめしけんたいひるぜんに着くのも、お延にとっては、結婚以来始めての経験であった。津田の不在から起るこの変化が、クイーンらしい気持を新らしく彼女に与えると共に、毎日の習慣に反してむさぼり得たこの自由が、いつもよりはかえって彼女をとらえた。からだのゆっくりした割合に、心の落ちつけなかった彼女は、お時に向って云った。

だんなさまがいらっしゃらないと何だか変ね」

「へえ、おさむしゅうございます」

 お延はまだ云い足りなかった。

「こんな寝坊をしたのは始めてね」

「ええ、その代りいつでもお早いんだから、たまには朝とお午といっしょでも、よろしゅうございましょう」

「旦那様がいらっしゃらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくって」

「誰がでございます」

「お前がさ」

「飛んでもない」

 お時のわざとらしい大きな声は、下手な話し相手よりもひどくお延の趣味にこたえた。彼女はすぐ黙ってしまった。

 三十分ほどって、お時のくつぬぎそろえたよそゆきのげたいてまた表へ出る時、お延は玄関まで送って来た彼女をかえりみた。

「よく気をつけておくれよ。昨夕見たいに寝てしまうと、不用心だからね」

「今夜も遅く御帰りになるんでございますか」

 お延はいつ帰るかまるで考えていなかった。

「あんなに遅くはならないつもりだがね」

 たまさかの夫の留守に、ゆっくり岡本で遊んで来たいような気が、お延の胸のどこかでした。

「なるたけ早く帰って来て上げるよ」

 こう云い捨てて通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向った。

 岡本のすまいは藤井の家とほぼ同じけんとうにあるので、途中までは例のかわぞいの電車を利用する事ができた。終点から一つか二つ手前の停留所で下りたお延は、そこに掛け渡した小さい木の橋を横切って、向う側の通りを少し歩いた。その通りはにさんち前の晩、バーを出た津田と小林とが、二人の境遇や性格の差違から来るもつった感情を互に抱きながら、朝鮮行きだの、お金さんだのを問題にして歩いた往来であった。それを津田の口から聞かされていなかった彼女は、二人の様子を想像するまでもなく、彼らとは反対の方角に無心で足を運ばせた後で、おじうちへ行くには是非共のぼらなければならない細長い坂へかかった。すると偶然向うから来た継子に言葉をかけられた。

さくじつは」

「どこへ行くの」

「おけいこ

 去年女学校を卒業したこのいとこは、ひまに任せていろいろなものを習っていた。ピアノだの、茶だの、花だの、水彩画だの、料理だの、何へでも手を出したがるその人の癖を知っているので、お稽古という言葉を聞いた時、お延は、つい笑いたくなった。

「何のお稽古? トーダンス?」

 彼らはこんながくやおちじょうだんをいうほど親しいあいだがらであった。しかしお延から見れば、自分より余裕のある相手の境遇に対して、多少の皮肉を意味しないとも限らないこの笑談が、かんじんの当人には、いっこうふうしとしての音響を伝えずにすむらしかった。

「まさか」

 彼女はただこう云ってきげんよく笑った。そうして彼女の笑は、いかに鋭敏なお延でも、無邪気その物だと許さない訳に行かなかった。けれども彼女はついにどこへ何の稽古に行くかをお延に告げなかった。

「冷かすからいやよ」

「また何か始めたの」

「どうせ慾張だから何を始めるか分らないわ」

 稽古事の上で、継子が慾張という異名を取っている事も、彼女の宅では隠れない事実であった。最初妹からつけられて、たちまち家族のうちにでんぱんしたこのわるくちは、近頃彼女自身によって平気に使用されていた。

「待っていらっしゃい。じき帰って来るから」

 軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度ふり返って見たお延の胸に、また尊敬と軽侮とをぜたその人に対するいつもの感じが起った。



六十編集

 岡本のやしきへ着いた時、お延はまた偶然叔父の姿を玄関前にみいだした。羽織も着ずに、へこおびをだらりと下げて、その結び目の所に、うしろへ廻した両手を重ねた彼は、そばくわを動かしている植木屋としきりに何か話をしていたが、お延を見るや否や、すぐ向うから声を掛けた。

「来たね。今庭いじりをやってるところだ」

 植木屋の横には、大きなあけびつるが巻いたまま、地面の上に投げ出されてあった。

「そいつを今その庭の入口の門の上へわせようというんだ。ちょっと好いだろう」

 お延はあじろぐみの竹垣の中程にあるそのかやもんを支えているちょうななぐりの柱と丸太のけたを見較べた。

「へえ。あのそでがきの所にあったのを抜いて来たの」

「うんその代りあすこへはたまぶちをつけためせきがきこしらえたよ」

 近頃からだに暇ができて、自分のいしょう通りすまいを新築したこの叔父の建築に関する単語は、いつの間にか急にえていた。言葉を聴いただけではとても解らないその目関垣というものを、お延はただ「へえ」と云ってあしらっているよりほかに仕方がなかった。

「食後の運動には好いわね。おなかいて」

じょうだんじゃない、叔父さんはまだひるめしまえなんだ」

 お延を引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「すみ、住」と大きな声で叔母を呼んだ。

「腹が減って仕方がない、早く飯にしてくれ」

「だからさっきみんなといっしょにめしやがれば好いのに」

「ところが、そう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです、世の中というものはね。第一ものくぎりのあるという事をあなたは御承知ですか」

 自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父のあいさつも相変らずであった。久しぶりで故郷の空気を吸ったような感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にいるこのいっついの老夫婦と、結婚してからまだ一年とたない、云わば新生活のかどでにある彼ら二人とを比較して見なければならなかった。自分達もながの月日さえ踏んで行けば、こうなるのが順当なのだろうか、またはいくら永くいっしょに暮らしたところで、性格が違えば、互いの立場もすえしじゅうまで変って行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智恵と想像で解けない一種の疑問であった。お延は今の津田に満足してはいなかった。しかし未来の自分も、この叔母のようにあぶらけが抜けて行くだろうとは考えられなかった。もしそれが自分の未来によこたわる必然の運命だとすれば、いつまでも現在のつやを持ち続けて行こうとする彼女は、いつか一度悲しいこの打撃を受けなければならなかった。女らしいところがなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、しんに恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかった。

 そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸にいているとは夢にも気のつきようはずのない叔父は、自分の前にえられたぜんに向ってあぐらきながら、彼女を見た。

「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」

 お延はすぐ答えた。

「久しぶりにお給仕でもしましょう」

 おはちがあいにくそこにないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼びとめた。

「御給仕をしたくったって、パンだからできないよ」

 下女が皿の上に狐色にげたトーストを持って来た。

「お延、叔父さんはなさけない事になっちまったよ。日本に生れて米の飯が食えないんだからかわいそうだろう」

 とうにょうびょうの叔父は既定の分量以外にでんぷんしつせっしゅする事を主治医から厳禁されてしまったのである。

「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」

 叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐がなまのままで供えられた。

 むくむくと肥え太った叔父の、わざとするなさけなさそうな顔を見たお延は、大して気の毒にならないばかりか、かえって笑いたくなった。

「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」

 叔父は叔母をかえりみた。

「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」



六十一編集

 小さいうちから彼の世話になって成長したお延は、いろいろの角度でしゅつぼつするこの叔父の特色を他人よりよく承知していた。

 肥ったからだに釣り合わない神経質の彼には、時々自分のへやに入ったぎり、半日ぐらい黙って口をかずにいる癖がある代りに、ひとの顔さえ見ると、また何かしらしゃべらないではかたときもいられないといったきさくな風があった。それが元気のやり場所に困るからというよりも、なるべく相手を不愉快にしたくないという対人的なおもいやりや、または客を前に置いて、ただのつそつとしている自分のてもちぶさたを避けるためから起る場合が多いので、用件以外の彼の談話には、彼の平生の心がけから来る一種の興味的中心があった。彼のせいこうに少なからぬ貢献をもたらしたらしく思われる、社交上きわめて有利な彼のこの話術は、その所有者の天からけたかいぎゃくしゅみのために、一層はでな光彩を放つ事がしばしばあった。そうしてそれが子供の時分から彼のそばにいたお延の口に、いつの間にか乗り移ってしまった。きげんのいい時に、彼を向うへ廻してかるくちくらをやるくらいは、今の彼女にとって何の努力もらない第二の天性のようなものであった。しかし津田にとついでからの彼女は、嫁ぐとすぐにこの態度を改めた。ところが最初つつしみのために控えたわるくちは、二カ月経っても、三カ月経ってもなかなか出て来なかった。彼女はついにこの点において、岡本にいた時の自分とは別個の人間になって、彼女の夫に対しなければならなくなった。彼女は物足らなかった。同時に夫をあざむいているような気がしてならなかった。たまに来て、もとに変らない叔父の様子を見ると、そこにむかしの自由をおもい出させる或物があった。彼女はなまどうふを前に、あぐらいているひょうきんな彼の顔を、過去の記念のようになつかし気に眺めた。

「だってあたしの悪口は叔父さんのおしこみじゃないの。津田に教わったおぼえなんか、ありゃしないわ」

「ふん、そうでもあるめえ」

 わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、いっさい家庭に入れてはならないもののごとくにきらう叔母の方を見た。はたから注意するとなお面白がって使いたがる癖をよく知っているので、叔母はそしらぬ顔をして取り合わなかった。するとあてはずれた人のように叔父はまたお延に向った。

「いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね」

 お延は返事をしずに、ただにやにやしていた。

「ははあ、笑ってるところを見ると、やっぱり嬉しいんだな」

「何がよ」

「何がよって、そんなにしらばっくれなくっても、分っていらあな。――だが本当に由雄さんはそんなに厳格な人かい」

「どうだかあたしよく解らないわ。なぜまたそんな事をまじめくさっておきになるの」

「少しこっちにもりょうけんがあるんだ、返答次第では」

「おおこわい事。じゃ云っちまうわ。由雄は御察しの通り厳格な人よ。それがどうしたの」

「本当にかい」

「ええ。ずいぶん叔父さんもくどいのね」

「じゃこっちでも簡潔に結論を云っちまう。はたして由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。とうてい悪口の達者なお前には向かないね」

 こう云いながら叔父は、そこに黙って坐っている叔母の方を、あごでしゃくって見せた。

「この叔母さんなら、ちょうどおあつらえむきかも知れないがね」

 淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸をでた。彼女は急に悲しい気分にとらえられた自分を見て驚ろいた。

「叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね」

 津田と自分とを、好過ぎるほど仲の好い夫婦と仮定してかかった、からかいはんぶんの叔父のじょうだんを、ただ座興から来たでたらめとして笑ってしまうには、お延の心にあまりすきがあり過ぎた。と云って、その隙をくまでつくろって、他人の前に、何一つ不足のない夫を持った妻としての自分を示さなければならないとのみ考えている彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由をもっていなかった。もう少しで涙が眼の中にまろうとしたところを、彼女はまたたきでごまかした。

「いくらおあつらえむきでも、こう年を取っちゃ仕方がない。ねえお延」

 年の割にどこへ行っても若く見られる叔母が、こう云って水々したつやのある眼をお延の方に向けた時、お延は何にも云わなかった。けれども自分の感情を隠すために、第一の機会を利用する事は忘れなかった。彼女はただ面白そうに声を出して笑った。



六十二編集

 しんみの叔母よりもかえって義理の叔父の方を、心の中で好いていたお延は、その報酬として、自分もこの叔父から特別にかわいがられているという信念を常にもっていた。しゃらくでありながら神経質に生れついた彼のきあいをよく呑み込んで、その両面に行き渡った自分の行動を、寸分たがわず叔父の思い通りに楽々と運んで行く彼女には、いつでもとしの若さから来る柔軟性が伴っていたので、ほとんど苦痛というものなしに、叔父を喜こばし、また自分に満足を与える事ができた。叔父が鑑賞の眼を向けて、常に彼女のしょさを眺めていてくれるように考えた彼女は、時とすると、変化に乏しい叔母の骨はどうしてあんなに堅いのだろうと怪しむ事さえあった。

 いかにして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、どこへ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すればせいこうするに違ないと信じていた。津田といっしょになった時、始めて少し勝手の違うような感じのした彼女は、この生れて始めての経験を、なるほどという眼つきで眺めた。彼女の努力は、新らしい夫を叔父のような人間にこなしつけるか、またはすでに出来上った自分の方を、新らしい夫に合うように改造するか、どっちかにしなければならない場合によく出合った。彼女の愛は津田の上にあった。しかし彼女の同情はむしろ叔父型の人間にそそがれた。こんな時に、叔父ならうれしがってくれるものをと思う事がしばしば出て来た。すると自然の勢いが彼女にそれをちくいち叔父に話してしまえと命令した。その命令にそむくほど意地の強い彼女は、今までどうかこうか我慢して通して来たものを、今更告白する気にはとてもなれなかった。

 こうして叔父夫婦をあざむいてきたお延には、叔父夫婦がまた何のけねんもなく彼女のためにだまされているという自信があった。同時に敏感な彼女は、叔父の方でもまた彼女に打ち明けたくって、しかも打ち明けられない、津田に対する、自分のと同程度ぐらいなある秘密をもっているという事をよく承知していた。ありていみすかした叔父の腹の中を、お延に云わせると、彼はけっして彼女に大切な夫としての津田を好いていなかったのである。それが二人の間によこたわる気質の相違から来る事は、たとい二人を比較して見た上でなくても、あまり想像に困難のかからない仮定であった。少くとも結婚後のお延はじきそこに気がついた。しかし彼女はまだその上に材料をもっていた。粗放のようで一面にちみつな、むとんじゃくのようで同時に鋭敏な、口先は冷淡でも腹の中には親切気のあるこの叔父は、最初会見の当時から、すでに直観的に津田をきらっていたらしかった。「お前はああいう人が好きなのかね」とかれた裏側に、「じゃおれのようなものはきらいだったんだね」という言葉が、ともに響いたらしく感じた時、お延は思わずはっとした。しかし「叔父さんの御意見は」とこっちから問い返した時の彼は、もうそのきまずせきを通り越していた。

「おいでよ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮はらないから」と親切に云ってくれた。

 お延の材料はまだ一つ残っていた。自分に対して何にも云わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事ができたのである。

「あの男は日本中の女がみんな自分にれなくっちゃならないような顔つきをしているじゃないか」

 不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。彼女には自分が津田をせいいっぱい愛し得るという信念があった。同時に、津田から精一杯愛され得るという期待も安心もあった。また叔父の例のわるくちが始まったという気が何より先に起ったので、彼女は声を出して笑った。そうして、この悪口はつまりしっとから来たのだと一人腹の中で解釈して得意になった。叔母も「自分の若い時のおのぼれは、もう忘れているんだからね」と云って、彼女にあいづちを打ってくれた。……

 叔父の前に坐ったお延は自分のうしろにあるこんな過去をおもい出さない訳に行かなかった。すると「厳格」な津田の妻として、自分が向くとか向かないとかいう下らない彼のじょうだんのうちに、何かまじめな意味があるのではなかろうかという気さえ起った。

「おれの云った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。しかし万一何かあるなら、また今ないにしたところで、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ」

 お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。



六十三編集

 感傷的の気分を笑にまぎらした彼女は、その苦痛からのがれるために、すぐ自分の持って来た話題を叔父叔母の前に切り出した。

きのうの事は全体どういう意味なの」

 彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかった。すると返答を与えるはずの叔父がかえって彼女に反問した。

「お前はどう思う」

 特に「お前」という言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも読むようなめづかいをして彼女をじっと見た。

「解らないわ。やぶから棒にそんな事いたって。ねえ叔母さん」

 叔母はにやりと笑った。

「叔父さんはね、あたしのようなうっかりものには解らないが、お延にならきっと解る。あいつは貴様より気がいてるからっておっしゃるんだよ」

 お延は苦笑するよりほかに仕方なかった。彼女の頭には無論おぼろげながらあるおくそくがあった。けれどもいられないのに、りこうぶってそれを口外するほど、彼女の教育ははすはでなかった。

「あたしにだって解りっこないわ」

「まああてて御覧。たいていけんとうはつくだろう」

 どうしてもお延の方から先に何か云わせようとする叔父のけしきを見て取った彼女は、二三度押問答の末、とうとう推察の通りを云った。

「見合じゃなくって」

「どうして。――お前にはそう見えるかね」

 お延の推測をうけがう前に、彼女の叔父から受けた反問がそれからそれへと続いた。しまいに彼は大きな声を出して笑った。

「あたった、あたった。やっぱりお前の方がすみより悧巧だね」

 こんな事で、二人のに優劣をつける気楽な叔父を、お住とお延が馬鹿にしてひやかした。

「ねえ、叔母さんだってそのくらいの事ならたいてい見当がつくわね」

「お前もおほめにあずかったって、あんまりうれしくないだろう」

「ええちっともありがたかないわ」

 お延の頭に、一座を切り舞わした吉川夫人のあっせんぶりがまたえがいだされた。

「どうもあたしそうだろうと思ったの。あの奥さんがしじゅう継子さんと、それからあの三好さんてかたを、引き立てよう、引き立てようとして、骨を折っていらっしゃるんですもの」

「ところがあのお継と来たら、また引き立たない事おびただしいんだからな。引き立てようとすれば、かえって引き下がるだけで、まるでかんぶくろかぶった猫見たいだね。そこへ行くと、お延のようなのはどうしてもとくだよ。少くともとうせいむきだ」

いやにしゃあしゃあしているからでしょう。何だかめられてるんだか、悪く云われてるんだか分らないわね。あたし継子さんのようなおとなしい人を見ると、どうかしてあんなになりたいと思うわ」

 こう答えたお延は、叔父のいわゆる当世向を発揮する余地の自分に与えられなかった、したがって自分から見ればむしろふせいこうに終った、ゆうべの会合を、不愉快と不満足の眼で眺めた。

「何でまたあたしがあの席に必要だったの」

「お前は継子のいとこじゃないか」

 ただ親類だからというのがゆいいつの理由だとすれば、お延のほかにも出席しなければならない人がまだたくさんあった。その上相手の方では当人がたった一人出て来ただけで、紹介者の吉川夫婦を除くと、向うを代表するものは誰もいなかった。

「何だか変じゃないの。そうするともし津田が病気でなかったら、やっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね」

「それゃまた別口だ。ほかに意味があるんだ」

 叔父の目的中には、ゆうべの機会を利用して、津田とお延を、一度でも余計吉川夫婦に接近させてやろうという好意が含まれていたのである。それを叔父の口からはっきり聴かされた時、お延は日頃自分が考えている通りの叔父のきしょうがそこに現われているように思って、あんに彼の親切を感謝すると共に、そんならなぜあの吉川夫人ともっと親しくなれるように仕向けてくれなかったのかとうらんだ。二人を近づけるために同じ食卓に坐らせたには坐らせたが、結果はかえって近づけない前より悪くなるかも知れないという特殊な心理を、叔父はまるで承知していないらしかった。お延はいくら行き届いても男はやっぱり男だと批評したくなった。しかしそのあとから、吉川夫人と自分との間によこたわる一種微妙な関係を知らない以上は、誰が出て来てもひっきょうどうする事もできないのだから仕方がないという、嘆息を交えたかんじょの念も起って来た。



六十四編集

 お延はその問題をそこへほうしたまま、まだ自分のに落ちずに残っている要点を片づけようとした。

「なるほどそういう意味あいだったの。あたし叔父さんに感謝しなくっちゃならないわね。だけどまだほかに何かあるんでしょう」

「あるかも知れないが、たといないにしたところで、単にそれだけでも、ああしてお前を呼ぶねうちは充分あるだろう」

「ええ、有るには有るわ」

 お延はこう答えなければならなかった。しかしそれにしては勧誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思った。叔父は果して最後のいちもつを胸にしまんでいた。

「実はお前にお婿さんのめききをしてもらおうと思ったのさ。お前はよく人を見抜く力をもってるから相談するんだが、どうだろうあの男は。お継の未来の夫としていいだろうか悪いだろうか」

 叔父の平生から推して、お延はどこまでがまじめな相談なのか、ちょっと判断に迷った。

「まあ大変な御役目をうけたまわったのね。光栄の至りだ事」

 こう云いながら、笑って自分の横にいる叔母を見たが、叔母の様子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子をおさえた。

「あたしのようなものがめききをするなんて、少し生意気よ。それにただ一時間ぐらいああしていっしょに坐っていただけじゃ、誰だって解りっこないわ。千里眼ででもなくっちゃ」

「いやお前にはちょっと千里眼らしいところがあるよ。だからみんながきたがるんだよ」

ひやかしちゃいやよ」

 お延はわざと叔父を相手にしないふりをした。しかし腹の中では自分にびる一種の快感を味わった。それは自分が実際ひとにそう思われているらしいというはそくから来る得意にほかならなかった。けれどもそれは同時に彼女を失意にするてきめんの事実で破壊されべき性質のものであった。彼女は反対に近い例証としてその裏面にすぐ自分の夫を思い浮べなければならなかった。結婚前千里眼以上に彼の性質を見抜き得たとばかり考えていた彼女の自信は、結婚後こんにちに至るまでの間に、明らかな太陽に黒い斑点のできるように、思い違いかんちがいこんせきで、すでにそこここよごれていた。ひっきょう夫に対する自分の直覚は、長い月日の経験によって、訂正されべく、補修されべきものかも知れないという心細い真理に、ようやく頭を下げかけていた彼女は、叔父にあおられてすぐ図に乗るほど若くもなかった。

「人間はよくつきあって見なければ実際解らないものよ、叔父さん」

「そのくらいな事は御前に教わらないだって、誰だって知ってらあ」

「だからよ。一度会ったぐらいで何にも云える訳がないっていうのよ」

「そりゃ男のぐさだろう。女は一眼見ても、すぐ何かいうじゃないか。またよくうまい事を云うじゃないか。それを云って御覧というのさ、ただ叔父さんの参考までに。なにもお前に責任なんか持たせやしないから大丈夫だよ」

「だって無理ですもの。そんな予言者みたいな事。ねえ叔母さん」

 叔母はいつものようにお延にかせいしなかった。さればと云って、叔父の味方にもならなかった。彼女の予言をいるけしきを見せない代りに、叔父のわるじいもとめなかった。始めて嫁にやるかわいい長女の未来の夫に関する批判の材料なら、それがどんなに軽かろうと、耳を傾むけるねうちは充分あるといった風も見えた。お延はあたさわりのない事を一口二口云っておくよりほかに仕方がなかった。

「立派な方じゃありませんか。そうして若い割に大変落ちついていらっしゃるのね。……」

 そのあとを待っていた叔父は、お延が何にも云わないので、また催促するようにいた。

「それっきりかね」

「だって、あたしあのかたいっけん置いてお隣へ坐らせられて、ろくろくお顔も拝見しなかったんですもの」

「予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただひとことで、ずばりと向うの急所へあたるような……」

「むずかしいのね。――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ」

「しかし一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か云えるだろう」

「云えないわ」

「云えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」

「ええ、お嫁に行ってから、だんだん直覚がらされてしまったの。近頃は直覚じゃなくってどんかくだけよ」



六十五編集

 口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、また別の考えが絶えず並行して流れていた。

 彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。けれども初対面の時から津田を好いてくれなかった叔父が、その後彼のこうおを改めるはずがないという事もよく承知していた。だからむつましそうな津田と自分とを、彼はしじゅう不思議な眼で、眺めているに違ないと思っていた。それを他の言葉で云い換えると、どうしてお延のような女が、津田を愛し得るのだろうという疑問の裏に、叔父はいつでも、彼自身の先見に対する自信を持ち続けていた。人間をみそくなったのは、自分でなくて、かえってお延なのだという断定が、時機を待って外部にようえいするために、彼の心に下層にいつもちんでんしているらしかった。

「それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評を、こんなにしつこく聴こうとするのだろう」

 お延はしかねた。すでに自分の夫を見損なったものとして、あんに叔父からめざされているらしい彼女に、その自覚を差しおいて、おいそれと彼の要求に応ずる勇気はなかった。仕方がないので、彼女はしまいに黙ってしまった。しかし年来遠慮のなさ過ぎる彼女を見慣れて来た叔父から見ると、この際彼女の沈黙は、不思議に近い現象にほかならなかった。彼はお延をいて叔母の方を向いた。

「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。だいぶ臆病になった。それもやっぱりだんなさまの感化かな。不思議なもんだな」

「あなたがあんまりいじめるからですよ。さあ云え、さあ云えって、責めるように催促されちゃ、誰だって困りますよ」

 叔母の態度は、叔父をたしなめるよりもむしろお延をかばう方に傾いていた。しかしそれをうれしがるには、彼女の胸が、あまり自分の感想で、いっぱいになり過ぎていた。

「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」

 お延は自分で自分の夫をえらんだ当時の事をおもい起さない訳に行かなかった。津田をみいだした彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼のもととつぎたい希望を保護者に打ち明けた。そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女はいつでも彼女の主人公であった。また責任者であった。自分のりょうけんをよそにして、他人の考えなどを頼りたがったおぼえはいまだかつてなかった。

「いったい継子さんは何とおっしゃるの」

「何とも云わないよ。あいつはお前よりなお臆病だからね」

かんじんの当人がそれじゃ、仕方がないじゃありませんか」

「うん、ああ臆病じゃ実際仕方がない」

「臆病じゃないのよ、おとなしいのよ」

「どっちにしたって仕方がない、何にも云わないんだから。あるいは何にも云えないのかも知れないね、種がなくって」

 そういう二人が漫然として結びついた時に、夫婦らしい関係が、はたして両者の間に成立し得るものかというのが、お延の胸によこたわる深い疑問であった。「自分の結婚ですらこうだのに」というロジックがすぐ彼女の頭にひらめいた。「自分の結婚だってひっきょうは似たり寄ったりなんだから」という風に、この場合を眺める事のできなかった彼女は、一直線に自分の眼をつけた方ばかり見た。馬鹿らしいよりも恐ろしい気になった。なんという気楽な人だろうとも思った。

「叔父さん」と呼びかけた彼女は、あきれたように細い眼を強く張って彼を見た。

「駄目だよ。あいつは初めっから何にも云う気がないんだから。元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ、実を云うとね」

「だってあたしが立ち合えばどうするの」

「とにかくつぎが是非そうしてくれっておれ達に頼んだんだ。つまりあいつは自分よりお前の方をよっぽどりこうだと思ってるんだ。そうしてたとい自分は解らなくっても、お前なら後からいろいろ云ってくれる事があるに違ないと思い込んでいるんだ」

「じゃ最初からそうおっしゃれば、あたしだってその気で行くのに」

「ところがまたそれはいやだというんだ。是非黙っててくれというんだ」

「なぜでしょう」

 お延はちょっと叔母の方を向いた。「きまりが悪いからだよ」と答える叔母を、叔父はさえぎった。

「なにきまりが悪いばかりじゃない。せいしんがあっちゃ、好い批評ができないというのが、あいつの主意なんだ。つまりお延の公平に得た第一印象を聞かして貰いたいというんだろう」

 お延は初めて叔父にいられる意味を理解した。



六十六編集

 お延から見た継子は特殊の地位を占めていた。こちらの利害を心にかけてくれるという点において、彼女は叔母に及ばなかった。自分と気が合うという意味では叔父よりもずっと縁が遠かった。その代り血統上の親和力や、異性にもとづけんいんせい以外に、年齢の相似から来る有利な接触面をもっていた。

 若い女の心を共通に動かすいろいろな問題の前に立って、興味にちた眼を見張る時、自然の勢として、彼女は叔父よりも叔母よりも、継子に近づかなければならなかった。そうしてその場合における彼女は、天分から云って、いつでも継子の優者であった。経験から推せば、もちろん継子の先輩に違なかった。少なくともそういう人として、継子から一段上に見られているという事を、彼女はよく承知していた。

 この小さい嘆美者には、お延のいうすべてを何でもに受ける癖があった。お延の自覚から云えば、一つ家にねおきを共にしている長い間に、自分の優越を示すふこの心から、じゅうなんせいに富んだこのいとこを、いつの間にかそう育て上げてしまったのである。

「女は一目見て男を見抜かなければいけない」

 彼女はかつてこんな事を云って、無邪気な継子を驚ろかせた。彼女はまた充分それをやりおおせるだけの活きたがんりきを自分に具えているものとして継子に対した。そうして相手の驚きが、うらやみから嘆賞に変って、しまいに崇拝のまぎわまで近づいた時、偶然彼女の自信を実現すべき、津田と彼女との間に起った相思の恋愛事件が、あたかも神秘のほのおのごとく、継子の前に燃え上った。彼女の言葉は継子にとってついに永久の真理その物になった。一般の世間に向って得意であった彼女は、とくに継子に向って得意でなければならなかった。

 お延の見た通りの津田が、すぐ継子に伝えられた。日常接触の機会を自分自身にもっていない継子は、わが眼わが耳の範囲外にしている未知の部分を、すべて彼女から与えられた間接の知識で補なって、容易に津田という理想的な全体を造り上げた。

 結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。けれども継子の彼に対する考えはごうも変らなかった。彼女はくまでもお延を信じていた。お延も今更前言を取り消すような女ではなかった。どこまでも先見の明によって、天の幸福をける事のできた少数の果報者として、継子の前に自分をひょうぼうしていた。

 過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台におどらせて、この事件の前に坐らなければならなくなったお延は、つらいよりもむしろ快よくなかった。それはんなが寄ってたかって、今までことして来た自分の弱点を、早く自白しろと間接に責めるように思えたからである。こっちの「」以上に相手が意地の悪い事をするように見えたからである。

「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ」

 彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や継子に向ってたたきつける事のできないものであった。もし叩きつけるとすれば、彼ら三人を無心にしそうして、自分にあてこすりをやらせる天に向ってするよりほかに仕方がなかった。

 ぜんを引かせて、叔母の新らしくれて来た茶をがぶがぶ飲み始めた叔父は、お延の心にこんなったわだかまりがうねくっていようと思うはずがなかった。造りたてのひらにわを見渡しながら、せいせいした顔つきで、叔母と二言三言、自分の考案になったや石の配置について批評しあった。

「来年はあの松の横の所へかえでを一本植えようと思うんだ。何だかここから見ると、あすこだけ穴がいてるようでおかしいからね」

 お延は何の気なしに叔父のしているけんとうを見た。となりじつづきになっているへいぎわの土をわざと高く盛り上げて、そこへ小さなもうそうやぶをこんもりしげらした根のあたりが、叔父のいう通りまばらにいていた。さっきから問題を変えよう変えようと思って、あんに機会を待っていた彼女は、すぐ気転をかした。

「本当ね。あすこをふさがないと、さもさもやぶこしらえましたって云うようで変ね」

 談話は彼女の予期した通りよその溝へ流れ込んだ。しかしそれが再びもとの道へ戻って来た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかった。



六十七編集

 それは叔父が先刻玄関先でくわを動かしていたでいりの植木屋に呼ばれて、ちょっと席をはずしたあと、また庭口から座敷へ上って来た時の事であった。

 まだ学校から帰らないゆりこはじめうわさに始まった叔母とお延の談話は、その時また偶然にも継子の方にすべり込みつつあった。

よくばりやさん、もう好い加減に帰りそうなもんだのにね、何をしているんだろう」

 叔母はわざわざ百合子のけたあざなで継子を呼んだ。お延はすぐその慾張屋の様子を思い出した。自分に許された小天地のうちではくまでほうしなくせに、そこから一歩踏み出すと、急に謹慎の模型見たようにすくんでしまう彼女は、まるで父母の監督によって仕切られた家庭というかごの中で、さも愉快らしくさえずる小鳥のようなもので、いったん戸を開けて外へ出されると、かえってどう飛んでいいか、どう鳴いていいか解らなくなるだけであった。

「今日は何のおけいこに行ったの」

 叔母は「あてて御覧」と云った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させてくれた。しかしその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学だと聞いた時に、彼女はまた改めていとこの多慾に驚ろかされた。そんなにいろいろなものに手を出していったい何にするつもりだろうという気さえした。

「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」

 叔母はこう云って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。それが間接ながらやはり今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前しゅしょうらしい顔をしてなるほどとうなずかなければならなかった。

 夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来のりょうじんに対する親切に違なかった。あるいは単に男の気に入るためとしても有利な手段に違なかった。けれども継子にはまだそれ以上に、人間としてまた細君としての大事なけいこがいくらでも残っていた。お延の頭に描き出されたその稽古は、不幸にして女をくするものではなかった。しかし女を鋭敏にするものであった。悪くまさつするには相違なかった。しかしれいりすますものであった。彼女はその初歩を叔母から習った。叔父のおかげでそれをこんにちに発達させて来た。二人はそういう意味で育て上げられた彼女を、満足の眼で眺めているらしかった。

「それと同じ眼がどうしてあの継子に満足できるだろう」

 いとこのどこにも不平らしいそぶりさえ見せた事のない叔父叔母は、この点においてお延に不可解であった。いて解釈しようとすれば、彼らはめいと娘を見る眼に区別をつけているとでも云うよりほかに仕方がなかった。こういう考えに襲われると、お延は突然くやしくなった。そういう考えがまた時々ほっさのようにお延の胸をつかんだ。しかし城府を設けない行き届いた叔父の態度や、取扱いに公平を欠いた事のない叔母の親切で、それはいつでも燃え上る前に吹き消された。彼女は人に見えないそでを顔へあてて内部の赤面を隠しながら、やっぱり不思議な眼をして、二人の心持を解けないなぞのように不断から見つめていた。

「でも継子さんは仕合せね。あたし見たいにしんぱいしょうでないから」

「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただうちにいると、いくら心配したくっても心配する種がないもんだから、ああして平気でいられるだけなのさ」

「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」

「そりゃお前とつぎとは……」

 中途でめた叔母は何をいう気か解らなかった。性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。それは今まで気のつかなかった或物に、突然ぶつかったようなどうきがしたからである。

きのうの見合に引き出されたのは、ようぼうの劣者としてあんに従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」

 お延の頭にせっかのようなこの暗示がひらめいた時、彼女の意志もへいぜいより倍以上の力をもって彼女にせまった。彼女はついに自分をおさえつけた。どんな色をも顔に現さなかった。

「継子さんはとくかたね。誰にでも好かれるんだから」

「そうも行かないよ。けれどもこれは人のすきずきだからね。あんな馬鹿でも……」

 叔父がえんがわへ上ったのと、叔母がこう云いかけたのとは、ほとんど同時であった。彼は大きな声で「継がどうしたって」と云いながらまた座敷へ入って来た。



六十八編集

 すると今までおさえつけていた一種の感情がお延の胸に盛り返して来た。くまできげんの好い、飽くまで元気にちた、そうして飽くまで楽天的に肥え太ったその顔が、瞬間のお延をとっさにしげきした。

「叔父さんもずいぶん人が悪いのね」

 彼女はやぶから棒にこう云わなければならなかった。こんにちまで二人の間になんびゃっぺんとなく取り換わされたこのじょうとうな言葉を使ったお延の声は、いつもと違っていた。表情にも特殊なところがあった。けれどもさっきからお延の腹の中にどんなうしおみちひがあったか、そこにまるで気のつかずにいた叔父は、平生の細心にも似ず、全く無邪気であった。

「そんなに人が悪うがすかな」

 例の調子でわざと空っとぼけた彼は、澄ましてきざみがんくびへ詰めた。

「おれのるすにまた叔母さんから何かいたな」

 お延はまだ黙っていた。叔母はすぐ答えた。

「あなたの人の悪いぐらい今さら私から聴かないでもよく承知してるそうですよ」

「なるほどね。お延は直覚派だからな。そうかも知れないよ。何しろ一目見てこの男の懐中には金がいくらあって、彼はそれをふんどしのミツへはさんでいるか、またはどうまきへ入れてへその上に乗っけているか、ちゃんと見分ける女なんだから、なかなか油断はできないよ」

 叔父のじょうだんはけっして彼の予期したような結果を生じなかった。お延は下を向いてまゆまつげをいっしょに動かした。その睫毛の先には知らないに涙がいっぱいたまった。勝手を違えた叔父のわるくちもぱたりととまった。変な圧迫が一度に三人を抑えつけた。

「お延どうかしたのかい」

 こう云った叔父は無言の空虚を充たすために、きせるはいふきを叩いた。叔母も何とかその場を取りつくろわなければならなくなった。

「何だね小供らしい。このくらいな事で泣くものがありますか。いつもの笑談じゃないか」

 叔母のこごとは、義理のある叔父の手前を兼たあいさつとばかりは聞えなかった。二人の関係を知り抜いた彼女の立場を認める以上、どこから見ても公平なものであった。お延はそれをよく承知していた。けれども叔母の小言をもっともと思えば思うほど、彼女はなお泣きたくなった。彼女のくちびるふるえた。抑えきれない涙が後から後からと出た。それにつれて、今まできとめていた口の関も破れた。彼女はついに泣きながら声を出した。

「何もそんなにまでして、あたしをいじめなくったって……」

 叔父は当惑そうな顔をした。

「苛めやしないよ。めてるんだ。そらお前が由雄さんの所へ行く前に、あの人を評した言葉があるだろう。あれをみんかげで感心しているんだ。だから……」

「そんな事うかがわなくっても、もうたくさんです。つまりあたしが芝居へ行ったのが悪いんだから。……」

 沈黙がすこし続いた。

「何だかとんだ事になっちまったんだね。叔父さんのからかかたが悪かったのかい」

「いいえ。んなあたしが悪いんでしょう」

「そう皮肉を云っちゃいけない。どこが悪いか解らないからくんだ」

「だからみんなあたしが悪いんだって云ってるじゃありませんか」

「だが訳を云わないからさ」

「訳なんかないんです」

「訳がなくって、ただ悲しいのかい」

 お延はなお泣き出した。叔母はにがにがしい顔をした。

「何だねこの人は。駄々ッ子じゃあるまいし。うちにいた時分、いくら叔父さんに調戯われたって、そんなに泣いた事なんか、ありゃしないくせに。お嫁に行きたてで、少しだんなから大事にされると、すぐそうなるから困るんだよ、若い人は」

 お延はくちびるんで黙った。すべての原因が自分にあるものとのみ思い込んだ叔父はかえって気の毒そうな様子を見せた。

「そんなに叱ったってしようがないよ。おれが少しひやかし過ぎたのが悪かったんだ。――ねえお延そうだろう。きっとそうに違ない。よしよし叔父さんが泣かした代りに、今に好い物をやる」

 ようやくほっさの去ったお延は、叔父からこんな風に小供扱いにされる自分をどう取り扱って、ばつの悪いこの場面に、平静な一転化を与えたものだろうと考えた。



六十九編集

 ところへ何にも知らないつぎこが、語学のけいこから帰って来て、ひょっくり顔を出した。

「ただいま」

 和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それをみいだした人のように喜こんだ。そうしてほとんど同時にあいさつを返した。

「お帰んなさい」

「遅かったのね。さっきから待ってたのよ」

「いや大変なおまちかねだよ。継子さんはどうしたろう、どうしたろうって」

 神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層かいかつであった。

「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」

 こんな余計な事まで云って、自分の目的とは反対な影を、お延の上にさかさまに投げておきながら、彼はかえって得意になっているらしかった。

 しかし下女がふすまごしに手を突いて、風呂のいた事を知らせに来た時、彼は急に思いついたように立ち上った。

「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」

 彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。

 けれどもいったん背中を座敷の方へ向けた後でまたふり返った。

「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」

 こう云って二三間歩いたかと思うと彼はまた引き返して来た。お延は頭のよく働くそのせわしない様子を、いかにも彼の特色らしく感心して眺めた。

「お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか」

 職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前よりよほど叔父に縁の近い人であった。これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別にうれしいと思う気にもなれなかった。藤井一家と津田、二つのものが離れているよりも、はるか余計に、彼女は彼らより離れていた。

「しかし来るかな」といった叔父の顔は、まさにお延の腹の中を物語っていた。

「近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、とうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」

「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」

 叔母はえんきょくに自己を表現した。

「おおかたいらっしゃらないでしょう」

「うん、なかなかおいそれとやって来そうもないね。じゃすか。――だがまあ試しにちょっと掛けてみるがいい」

 お延は笑い出した。

「掛けてみるったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」

「じゃ仕方がない。使でもやるんだ」

 手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう云ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。叔母も「じゃあたしはごめんこうむってお先へお湯に入ろう」と云いながら立ち上った。

 叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行してかえりみない叔母の態度は、お延にとってうらやましいものであった。またいまわしいものであった。女らしくないいやなものであると同時に、男らしい好いものであった。ああできたらさぞ好かろうという感じと、いくら年をとってもああはやりたくないという感じが、彼女の心にいつもの通りこうさくした。

 立って行く叔母のうしろすがたを彼女がぼんやりもくそうしていると、一人残った継子が突然誘った。

「あたしのお部屋へ来なくって」

 二人はひばちや茶器で取り散らされた座敷をそのままにして外へ出た。



七十編集

 継子の居間はとりも直さず津田に行く前のお延の居間であった。そこに机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にもてんじょうにも残っていた。ガラスどめた小さいたなの上に行儀よく置かれた木彫の人形もそのままであった。ばらの花をぬいにしたかごいりのピンクッションもそのままであった。二人しておついに三越から買って来たからくさ模様のそめつけいちりんざしもそのままであった。

 四方を見廻したお延は、いとこと共に暮した処女時代のにおいを至る所にいだ。甘い空想にちたその匂が津田という対象を得てついに実現された時、こつぜんあざやかなほのおに変化した自己の感情の前にべんぶしたのは彼女であった。眼に見えないでも、ガスがあったから、ぱっと火がいたのだと考えたのは彼女であった。空想と現実の間には何らの差違を置く必要がないと論断したのは彼女であった。かえりみるとその時からもうはんとし以上経過していた。いつか空想はついに空想にとどまるらしく見え出して来た。どこまで行っても現実化されないものらしく思われた。あるいはきわめて現実化されにくいものらしくなって来た。お延の胸のうちにはかすかなためいきさえ宿った。

「昔は淡い夢のように、しだいしだいに確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか」

 彼女はこういう観念の眼で、自分の前にすわっている従妹を見た。多分は自分と同じ径路を踏んで行かなければならない、またひょっとしたら自分よりもっと予期にはずれた未来に突き当らなければならないこの処女の運命は、叔父の手にある諾否のさいが、畳の上に転がり次第、今明日中にでも、永久に片づけられてしまうのであった。

 お延は微笑した。

「継子さん、今日はあたしがおみくじを引いて上げましょうか」

「なんで?」

「何でもないのよ。ただよ」

「だってただじゃつまらないわ。何かきめなくっちゃ」

「そう。じゃきめましょう。何がいいでしょうね」

「何がいいか、そりゃあたしにゃ解らないわ。あなたがきめて下さらなくっちゃ」

 継子は容易に結婚問題を口へ出さなかった。お延の方からむやみに云い出されるのも苦痛らしかった。けれども間接にどこかでそこに触れてもらいたい様子がありありと見えた。お延はいとこよろこばせてやりたかった。と云って、後で自分の迷惑になるような責任を持つのはいやであった。

「じゃあたしが引くから、あなた自分でおきめなさい、ね。何でも今あなたのお腹の中で、一番知りたいと思ってる事があるでしょう。それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。よくって」

 お延は例の通り継子の机の上に乗っている彼ら夫婦の贈物を取ろうとした。すると継子が急にその手を抑えた。

「厭よ」

 お延は手を引込めなかった。

「何が厭なの。いいからちょいとお貸しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」

 みくじに何の執着もなかったお延は、突然こうして継子とたわむれたくなった。それは結婚以前の処女らしい自分を、彼女におもい起させるなかだちであった。弱いもののきょくために用いられる腕の力が、彼女を男らしくかっぱつにした。抑えられた手をね返した彼女は、もう最初の目的を忘れていた。ただみくじばこを継子の机の上から奪い取りたかった。もしくはそれを言い前に、ただ継子と争いたかった。二人は争った。同時に女性の本能から来るわざとらしい声をはばかりなく出して、ゆうぎてきな戦いに興を添えた。二人はついにすずりばこの前に飾ってある大事ないちりんざしかえした。したんの台からころころと転がり出したそのかびんは、中にある水をところきらわずけながら畳の上に落ちた。二人はようやく手を引いた。そうして自然の位置から不意にほうされた可愛らしい花瓶を、同じように黙って眺めた。それから改めて顔を見合せるや否や、急に抵抗する事のできない衝動を受けた人のように、一度に笑い出した。



七十一編集

 偶然の出来事がお延をなお小供らしくした。津田の前でかつて感じた事のない自由が瞬間に復活した。彼女は全く現在の自分を忘れた。

「継子さん早くぞうきんを取っていらっしゃい」

「厭よ。あなたがこぼしたんだから、あなた取っていらっしゃい」

 二人はわざと譲り合った。わざと押問答をした。

「じゃジャンけんよ」と云い出したお延は、ほそい手を握って勢よく継子の前に出した。継子はすぐ応じた。宝石の光る指が二人の間にちらちらした。二人はそのたんびに笑った。

ずるいわ」

「あなたこそ狡猾いわ」

 しまいにお延が負けた時にはこぼれた水がもう机掛と畳の目の中へきれいに吸い込まれていた。彼女は落ちつき払ってたもとから出したハンケチで、れた所を上からおさえつけた。

「雑巾なんかりゃしない。こうしておけば、それでたくさんよ。水はもう引いちまったんだから」

 彼女は転がったはないけを元の位置に直して、くだけかかった花をていねいにその中へし込んだ。そうして今までのとんきょうをまるで忘れた人のように澄まし返った。それがまたたまらなくおかしいと見えて、継子はいつまでも一人で笑っていた。

 ほっさが静まった時、継子は帯の間に隠したちついりみくじを取り出して、そばにある本箱のひきだしへしまいえた。しかもその上からぴちんとじょうおろして、わざとお延の方を見た。

 けれども継子にとっていつまでも続く事のできるらしいこの無意味な遊技的感興は、そう長くお延を支配する訳に行かなかった。ひとしきり我を忘れた彼女は、いとこより早くめてしまった。

「継子さんはいつでも気楽で好いわね」

 彼女はこう云って継子を見返した。あたさわりのない彼女の言葉はとても継子に通じなかった。

「じゃ延子さんは気楽でないの」

 自分だって気楽な癖にと云わんばかりの語気のうちには、誰からでも、世間見ずの御嬢さん扱いにされるかねての不平も交っていた。

「あなたとあたしといったいどこが違うんでしょう」

 二人はとしが違った。性質も違った。しかし気兼苦労という点にかけて二人のどこにどんな違があるか、それは継子のまだ考えた事のない問題であった。

「じゃ延子さんどんな心配があるの。少し話してちょうだいな」

「心配なんかないわ」

「そら御覧なさい。あなただってやっぱり気楽じゃないの」

「そりゃ気楽は気楽よ。だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ」

「どうしてでしょう」

 お延は説明する訳に行かなかった。また説明する気になれなかった。

「今に解るわ」

「だけど延子さんとあたしとは三つ違よ、たった」

 継子は結婚前と結婚後の差違をまるでかんじょうに入れていなかった。

「ただ年齢ばかりじゃないのよ。境遇の変化よ。娘が人の奥さんになるとか、奥さんがまただんなさまくなして、びぼうじんになるとか」

 継子は少しけげんな顔をしてお延を見た。

「延子さんはうちにいた時と、由雄さんの所へ行ってからと、どっちが気楽なの」

「そりゃ……」

 お延はくちごもった。継子は彼女に返答をこしらえる余地を与えなかった。

「今の方が気楽なんでしょう。それ御覧なさい」

 お延は仕方なしに答えた。

「そうばかりにも行かないわ。これで」

「だってあなたが御自分で望んでいらしった方じゃないの、津田さんは」

「ええ、だからあたし幸福よ」

「幸福でも気楽じゃないの」

「気楽な事も気楽よ」

「じゃ気楽は気楽だけれども、心配があるの」

「そう継子さんのように押しつめて来ちゃかなわないわね」

「押しつめる気じゃないけれども、解らないから、ついそうなるのよ」



七十二編集

 だんだんこうばいの急になって来た会話は、いつのにか継子の結婚問題にすべり込んで行った。なるべくそれを避けたかったお延には、今までの行きがかり上、またそれを避ける事のできない義理があった。経験に乏しい処女の期待するような予言はともかくも、なんにょ関係にいちじつの長ある年上の女として、相当の注意を与えてやりたい親切もないではなかった。彼女は差しさわりのないきわどい筋の上をえんきょくに渡って歩いた。

「そりゃだめよ。津田の時は自分の事だから、自分によく解ったんだけれども、ひとの事になるとまるで勝手が違って、ちっとも解らなくなるのよ」

「そんなに遠慮しないだってよかないの」

「遠慮じゃないのよ」

「じゃ冷淡なの」

 お延は答える前にしばらくをおいた。

「継子さん、あなた知ってて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時、始めてよく働らく事ができるのだという事を。眼が一秒で十年以上のてがらをするのは、その時に限るのよ。しかもそんな場合は誰だってしょうがいにそうたんとありゃしないわ。ことによると生涯にいっぺんも来ないですんでしまうかも分らないわ。だからあたしなんかの眼はまあめくら同然よ。少なくとも平生は」

「だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。そんならなぜそれをあたしの場合に使って下さらなかったの」

「使わないんじゃない、使えないのよ」

「だっておかめはちもくって云うじゃありませんか。はたにいるあなたには、あたしより余計公平に分るはずだわ」

「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの」

「そうじゃないけれども、参考にゃなるでしょう。ことに延子さんを信用しているあたしには」

 お延はまたしばらく黙っていた。それから少し前よりはあらたまった態度で口をき出した。

「継子さん、あたし今あなたにお話ししたでしょう、あたしは幸福だって」

「ええ」

「なぜあたしが幸福だかあなた知ってて」

 お延はそこでくぎりをおいた。そうして継子の何かいう前に、すぐ後をした。

「あたしが幸福なのは、ほかに何にも意味はないのよ。ただ自分の眼で自分の夫をえらぶ事ができたからよ。岡目八目でお嫁に行かなかったからよ。解って」

 継子は心細そうな顔をした。

「じゃあたしのようなものは、とても幸福になる望はないのね」

 お延は何とか云わなければならなかった。しかしすぐは何とも云えなかった。しまいに突然興奮したらしい急な調子が思わず彼女の口からほとばしり出した。

「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ」

 こう云ったお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。彼女は継子に話しかけながら、ほとんどみよしの影さえ思い浮べなかった。幸いそれを自分のためとのみ解釈した継子は、ともにお延の調子を受けるほど感激しなかった。

「誰を」と云った彼女は少しあきれたようにお延の顔を見た。「ゆうべお目にかかったあのかたの事?」

「誰でも構わないのよ。ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。そうして是非その人に自分を愛させるのよ」

 平生つつかくしているお延の利かないきしょうが、しだいにほうぼうあらわして来た。おとなしい継子はそのたびに少しずつあとさがった。しまいに近寄りにくい二人の間の距離を悟った時、彼女はかすかなためいきさえいた。するとお延がこつぜんまた調子を張り上げた。

「あなたあたしの云う事をうたぐっていらっしゃるの。本当よ。あたしうそなんかいちゃいないわ。本当よ。本当にあたし幸福なのよ。解ったでしょう」

 こう云って絶対に継子をうけがわせた彼女は、後からまたひとごとのように付け足した。

「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人のりょうけん一つで、未来は幸福になれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるのよ。ねえ継子さん、そうでしょう」

 お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただばくぜんと自分の身の上に応用して考えなければならなかった。しかしいくら考えてもその意味はほとんど解らなかった。



七十三編集

 その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音のぬしががらりとへやの入口を開けた。そうして学校から帰った百合子が、遠慮なくつかつか入って来た。彼女は重そうに肩から釣るした袋を取って、自分の机の上に置きながら、ただ一口「ただいま」と云って姉にあいさつした。

 彼女の机をえた場所は、ちょうどもとお延の坐っていた右手のすみであった。お延が津田へ片づくや否や、すぐそのあとへ入る事のできた彼女は、いとこのいなくなったのを、自分にとって大変なこうつごうのように喜こんだ。お延はそれを知ってるので、わざと言葉をかけた。

「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。よくって」

 百合子は「よくいらっしゃいました」とも云わなかった。机の角へ右の足を載せて、少し穴のきそうになった黒いくつたびの親指の先を、手ででていたが、足を畳の上へおろすと共に答えた。

「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」

「まあひどい事」と云って笑ったお延は、少しをおいてから、また彼女を相手にした。

「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しはかわいそうだと思って下さるでしょう」

「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」

「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって」

「そうね」

 百合子は少し考える様子をした。

「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」

「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」

「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出されないようにしたらいいでしょう、こっちの都合もある事だから」

 こう云った百合子は年上の二人と共に声をそろえて笑った。そうしてはかまも脱がずに、ひばちそばへ来てその間にすわりながら、下女の持ってきた木皿を受取って、すぐその中にあるもちがしを食べ出した。

「今頃おツ? このお皿を見ると思い出すのね」

 お延は自分が百合子ぐらいであった当時を回想した。学校から帰ると、待ちかねてめいめいの前に置かれる木皿へ手を出したその頃の様子がありありと目に浮かんだ。うまそうに食べる妹の顔を微笑して見ていた継子も同じ昔を思い出すらしかった。

「延子さんあなた今でもお八ツ召しゃがって」

「食べたり食べなかったりよ。わざわざ買うのはおっくうだし、そうかってうちに何かあっても、むかしのようにおいしくないのね、もう」

「運動が足りないからでしょう」

 二人が話しているうちに、百合子はきれいに木皿をからにした。そうして木に竹をいだような調子で、二人の間に割り込んで来た。

「本当よ、お姉さまはもうじきお嫁に行くのよ」

「そう、どこへいらっしゃるの」

「どこだか知らないけれども行く事は行くのよ」

「じゃ何という方の所へいらっしゃるの」

「何という名だか知らないけれども、行くのよ」

 お延は根気よく三度目の問を掛けた。

「それはどんな方なの」

 百合子は平気で答えた。

「おおかた由雄さんみたいな方なんでしょう。お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。何でも延子さんの云う通りになって、大変好い人だって、そう云っててよ」

 薄赤くなった継子は急にいもとの方へかかって行った。百合子はとんきょうな声を出してすぐそこをいた。

「おお大変大変」

 入口の所でちょっと立ちどまってこう云った彼女は、お延と継子をそこへ残したまま、一人でへやを逃げ出して行った。



七十四編集

 お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それからもなくであった。

 一家のものは明るい室にはればれした顔をそろえた。さっき何かにねて縁の下へはいったなり容易に出て来なかったというはじめさえ、きげんよく叔父と話をしていた。

「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さいいとこから、彼がぱくりと口をいて上から鼻の先へ出されたもちがしに食いついたという話を聞いたのであった。

 お延は微笑しながらいわゆる犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。

「お父さまほうきぼしが出ると何か悪い事があるんでしょう」

「うん昔の人はそう思っていた。しかし今は学問がひらけたから、そんな事を考えるものは、もう一人もなくなっちまった」

「西洋では」

 西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。

「西洋? 西洋にゃ昔からない」

「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」

「うんシーザーの殺される前か」と云った彼は、ごまかすよりほかに仕方がないらしかった。

「ありゃローマの時代だからな。ただの西洋とは訳が違うよ」

 はじめはそれでなっとくして黙った。しかしすぐ第二の質問をかけた。前よりは一層奇抜なその質問は立派に三段論法の形式を具えていた。井戸を掘って水が出る以上、地面の下は水でなければならない、地面の下が水である以上、地面はおっこちなければならない。しかるに地面はなぜ落こちないか。これが彼のようしであった。それに対する叔父の答弁がまたすこぶるしどろもどろなので、はたのものはみんなおかしがった。

「そりゃお前落ちないさ」

「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」

「そううまくは行かないよ」

 おんなれんが一度に笑い出すと、一はたちまち第三の問題に飛び移った。

「お父さま、僕このうちが軍艦だと好いな。お父さまは?」

「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」

「だって地震の時宅ならつぶれるじゃないの」

「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。なるほどこいつは気がつかなかった。ふうん、なるほど」

 本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。さっき藤井をばんさんに招待するといった彼は、もうその事を念頭においていないらしかった。叔母も忘れたように澄ましていた。お延はつい一にいて見たくなった。

「一さん藤井のまことさんと同級なんでしょう」

「ああ」と云った一は、すぐ真事についてお延の好奇心を満足させた。彼の話は、とうてい子供でなくては云えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。食卓は一時彼の力でにぎわった。

 みんなを笑わせた真事の逸話のうちに、しものようなのがあった。

 ある時学校の帰りに、彼は一といっしょに大きな深い穴をのぞき込んだ。土木工事のために深く掘り返されて、往来の真中に出来上ったその穴の上には、一本の杉丸太が掛け渡してあった。一は真事に、その丸太の上を渡ったら百円やると云った。すると無鉄砲な真事は、はいのうしょって、むくいぬの皮でこしらえたといわれる例の靴をいたまま、「きっとくれる?」と云いながら、ほとんど平たい幅をもっていない、つるつるすべりそうな材木を渡り始めた。最初は今に落ちるだろうと思って見ていた一は、相手が一歩一歩と、危ないながらゆっくりゆっくり自分に近づいて来るのを見て、急にこわくなった。彼は深い穴の真上にある友達をそこへりにして、どんどん逃げだした。真事はまたしじゅう足元に気を取られなければならないので、丸太を渡り切ってしまうまでは、一がどこへ行ったか全く知らずにいた。ようやく冒険をしとげて、約束通り百円貰おうと思って始めて眼を上げると、相手はいつの間にか逃げてしまって、一の影も形もまるで見えなかったというのである。

「一の方が少しこりこうのようだな」と叔父が評した。

「藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が云った。



七十五編集

 小供が一つ学校の同級にいる事のほかに、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。いやでも顔を合せなければならないしゅうぎぶしゅうぎの席を未来に控えている彼らは、事情の許す限り、双方から接近しておく便宜を、平生から認めない訳に行かなかった。ことに女の利害を代表する岡本の方は、藤井よりも余計この必要を認めなければならない地位に立っていた。その上岡本の叔父には普通の成功者に附随する一種のじょさいなさがあった。持って生れた楽天的な広いおうだんめんもあった。神経質な彼はまた誤解を恐れた。ことにくらしむきに不自由のないものが、比較的貧しい階級から受けがちな尊大ふそんの誤解を恐れた。多年の多忙と勉強のために損なわれた健康を回復するために、当分閑地についた昨今の彼には、時間の余裕も充分あった。その時間の空虚なところを、自分の趣味にかなモザイックで毎日めて行く彼は、今まで自分と全く縁故のないものとして、平気で通り過ぎた人や物にだんだん接近して見ようという意志ももっていた。

 これらの原因がこんがらがって、叔父は時々藤井のうちへ自分の方から出かけて行く事があった。排外的に見える藤井は、りちぎに叔父の訪問を返そうともしなかったが、そうかと云って彼をいやがる様子も見せなかった。彼らはむしろ快よく談じた。そこまで打ち解けた話はできないにしたところで、ただ相互の世界を交換するだけでも、多少の興味にはなった。その世界はまた妙に食い違っていた。一方から見るといかにもうかつなものが、他方から眺めるといかにも高尚であったり、片側で卑俗と解釈しなければならないものを、向うでは是非とも実際的に考えたがったりするところに、思わざる発見がひょいひょい出て来た。

「つまり批評家って云うんだろうね、ああ云う人の事を。しかしあれじゃ仕事はできない」

 お延は批評家という意味をよく理解しなかった。実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を云ってひとをごまかすんだろうと思った。「仕事ができなくって、ただりくつもてあそんでいる人、そういう人に世間はどんな用があるだろう。そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか」。これ以上進む事のできなかった彼女は微笑しながらいた。

「近頃藤井さんへいらしって」

「うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。くたびれた時、休むにはちょうど都合の好い所にある宅だからね、あすこは」

「また何か面白いお話しでもあって」

「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。こないだは、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た」

「あらいやだ」

「馬鹿らしい、好い年をして」

 お延と叔母はこもごもあきれたような言葉を出す間に、継子だけはよそを向いた。

「いや妙な事があるんだよ。大将なかなか調べているから感心だ。大将のいうところによると、こうなんだ。どこのうちでも、男の子は女親を慕い、女の子はまた反対に男親を慕うのが当り前だというんだが、なるほどそう云えば、そうだね」

 しんみの叔母よりも義理の叔父を好いていたお延は少しまじめになった。

「それでどうしたの」

「それでこうなんだ。男と女はしじゅう引張り合わないと、完全な人間になれないんだ。つまり自分に不足なところがどこかにあって、一人じゃそれをどうしてもたす訳に行かないんだ」

 お延の興味は急にきかけた。叔父の云う事は、自分のうに知っている事実に過ぎなかった。

「昔からいんようわごうっていうじゃありませんか」

「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」

「どうして」

「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今云った通り」

「ええ」

「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」

「ええ」

「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」

 叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。お延は負けなかった。

「だけどそりゃりくつよ」

「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」

「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうなへりくつよ」

 お延は叔父をやり込める事ができなかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。またどうあっても信ずるのはいやであった。



七十六編集

 叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。

 男が女を得てじょうぶつする通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。ひとたび夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏しにくくなる。今までのけんいんりょくがたちまちはんぱつせいに変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志ということわざを永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実をげるのは、やがてきたるべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……

 叔父の言葉のどこまでが藤井のうけうりで、どこからが自分の考えなのか、またその考えのどこまでがまじめで、どこからがじょうだんなのか、お延にはよく分らなかった。筆を持つすべを知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。ちょっとしたしんぼうがあると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事のできる人であった。俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。お延が反対すればするほど、あぶらが乗ってとめどなく出て来た。お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。

「ずいぶんのべつね、叔父さんも」

「口じゃとてもかないっこないからおしよ。こっちで何かいうと、なお意地になるんだから」

「ええ、わざわざ陰陽不和をかもすように仕向けるのね」

 お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話のとぎれるのを待って、おもむろに宣告を下した。

「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したでよろしい。けたものをついきゅうはしないから。――そこへ行くと男にはまた弱いものをあわれむという美点があるんだからな、こう見えても」

 彼はさも勝利者らしい顔をよそおって立ち上がった。しょうじを開けてへやの外へ出ると、もったいぶった足音が書斎の方に向いてだんだん遠ざかって行った。しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。

「おいお延好いものを持って来た。お前あしたにでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッておやり」

「何よ」

 お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女はひろよみにぽつぽつ読み下した。ブック・オフ・ジョークス。イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。……

「へええ」

「みんなこっけいなもんだ。しゃれだとか、なぞだとかね。寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ、肩がらなくってね」

「なるほど叔父さんむきのものね」

「叔父さん向でもこのくらいな程度ならさしつかえあるまい。いくら由雄さんが厳格だって、まさか怒りゃしまい」

「怒るなんて、……」

「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」

 お延が礼を云って書物をひざの上に置くと、叔父はまたかたかたの手に持った小さいかみぎれを彼女の前に出した。

「これはさっきお前を泣かしたばいしょうきんだ。約束だからついでに持っておいで」

 お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれをふり廻した。

「お延、これは陰陽不和になった時、一番よくく薬だよ。たいていの場合には一服呑むとすぐへいゆする妙薬だ」

 お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。

「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」

「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうしてからだはいよいよ強壮になる。どっちへ転んでも間違のない妙薬だよ」

 叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱいたまった。



七十七編集

 お延は叔父の送らせるというくるまを断った。しかし停留所まで自身で送ってやるという彼の好意を断りかねた。二人はついに連れ立って長い坂をかわべりの方へ下りて行った。

「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」

 肥っていていきが短いので、坂をのぼるときおかしいほど苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を云った。

 二人は途々夜のけたゆうべの話をした。うたたねをして突ッ伏していたお時の様子などがお延の口に上った。もと叔父のうちにいたという縁故で、新夫婦ふたりぎりの家庭に住み込んだこの下女に対して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかった。

「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。るすなんぞさせるには持って来いだって受合ったくらいだからね。だがひとりで寝ちまっちゃ困るね、不用心で。もっともまだとしが年歯だからな。眠い事も眠いだろうよ」

 いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこのおもいやりをただ笑いながら聴いていた。彼女に云わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなったきのうの結果を、今度はかえさせたくないという主意からであった。

 彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。二人がかろうじて別れのあいさつを交換するや否や、一種の音と動揺がすぐ彼女を支配し始めた。

 車内のお延は別にまとまった事を考えなかった。入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、きのうからの関係者の顔や姿は、自分の乗っている電車のように早く廻転するだけであった。しかし彼女はそうしてめまぐるしいイメジを一貫している或物を心のうちに認めた。もしくはその或物がこんちょうで、そうした断片的な影像が眼の前に飛び廻るのだとも云えた。彼女はその或物をねんていしなければならなかった。しかし彼女の努力は容易にせいこうをもって酬いられなかった。団子を認めた彼女は、ついに個々を貫いているくしを見定める事のできないうちに電車を下りてしまった。

 玄関のこうしを開ける音と共に、台所の方からけ出して来たお時は、彼女の予期通り「お帰り」と云って、ていねいな頭を畳の上に押し付けた。お延は昨日に違った下女のはっきりした態度を、さも自分のてがらででもあるように感じた。

「今日は早かったでしょう」

 下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。

「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」

 自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女にいた。

「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」

 お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。

「誰もやしなかったろうね」

 するとお時が急に忘れたものを思い出したようにちょうしだかな返事をした。

「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」

 夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。彼女には二三度その人と口をいた記憶があった。しかし彼女はあまり彼を好いていなかった。彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。

「何しに来たんだろう」

 こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。

「何か御用でもおありだったの」

「ええあのがいとうを取りにいらっしゃいました」

 夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。

「外套? 誰の外套?」

 周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延がけば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶によみがえった。「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。ほっさのようにげてくるこっけいかんに遠慮なく自己を託した彼女は、電車のうちから持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。



七十八編集

 お延はその晩京都にいる自分の両親へてて手紙を書いた。おとといきのうも書きかけてめにしたそのたよりを、今日はぜひとも片づけてしまわなければならないと思い立った彼女の頭の中には、けっして両親の事ばかり働いているのではなかった。

 彼女は落ちつけなかった。不安からのがれようとする彼女には注意を一つ所に集める必要があった。さっきからの疑問を解決したいという切な希望もあった。要するに京都へ手紙を書けば、ざわざわしがちな自分の心持をまとめて見る事ができそうに思えたのである。

 筆を取り上げた彼女は、例の通り時候のあいさつから始めて、ぶさたの申し訳までを器械的に書きおわった後で、しばらく考えた。京都へ何か書いてやる以上は、是非とも自分と津田との消息をまとにおかなければならなかった。それはどの親も新婚の娘から聞きたがる事項であった。どの娘もまたせいかふぼに知らせなくってはすまない事項であった。それを差しいて里へ手紙をやる必要はほとんどあるまいとまで平生から信じていたお延は、筆を持ったまま、目下自分と津田とのあいだがらは、はたしてどんなところにどういう風に関係しているかを考えなければならなかった。彼女はありのままその物をふぼに報知する必要にせまられてはいなかった。けれどもある男にとついだ一個の妻として、それをみきわめておく要求を痛切に感じ