日輪 (横光利一)

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序章編集

乙女達の一団はみづがめを頭に載せて、こやまの中腹にある泉の傍から、うたひながらねむの林の中に隠れて行った。後の泉を包んだ岩の上には、まだしおれぬふとゐの花が水甕の破片とともに踏みにじられて残つてゐた。さうして西に傾きかかつた太陽は、この小丘の裾遠くひろがつたありあけの入江の上に、長く曲折しつつはるか水平線の両端に消え入る白い砂丘の上に今はちからなくその光りを投げてゐた。乙女達の合唱ははなやかなさかほがひの歌に変つて来た。さうして、林をぬけると再び、人家を包むまろやかな濃緑色のかたまりとなつた森の中に吸はれて行つた。眼界の風物、何一つとして動くものは見えなかつた。
そのとき、今迄、泉の上の小丘をおほつて静まつてゐたかやの穂波の一点が二つに割れてざわめいた。すると、割れ目は数羽のきじはやぶさとを飛び立たせつつ、次第に泉の方へ真直ぐに延びて来た。さうして、間もなく、泉の水面に映つてゐるちがやの一列が裂かれたとき、そこにはつるの切れた短弓を握つた一人の若者が立つてゐた。彼の大きくくぼんだがんくわや、その突起したあごや、その影のやうにあんうつな顔の色には、道に迷うた者の、極度の疲労ときがの苦痛が現れてゐた。彼はひながら岩の上に降りて来ると、ゆみづゑついて崩れたみづちをかき上げながら、うづまつるほりものを描いたくちびるを泉につけた。彼の首から垂れ下つた一連のしろめなうまがたまは、音も立てず水に浸つて、しづかを食ふ魚のやうに光つてゐた。

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太陽は入江の水平線へ朱の一点となつて没していつた。うみの宮のたかどのでは、たるぎこまひに吊り下げられたとりかごの中で、かけすが習ひ覚えたひみこの名を一声呼んで眠りに落ちた。いそからは、満潮のさざめき寄せる波の音が刻々と高まりながら、はまもの匂ひを籠めた微風に送られて響いて来た。卑弥呼は薄桃色のしめごろもに身を包んでやがて彼女の良人となるべきひこおほえと向ひ合ひながら、鹿の毛皮の上でくだだままがたまとをり分けてゐた。卑狗の大兄は、砂浜に輝き始めた漁夫のたいまつの明りを振り向いてながめてゐた。
「見よ、大兄、なんじの勾玉はゐのこの爪のやうにけがれてゐる。」
と卑弥呼は云つて、大兄の勾玉を彼の方へ差し示した。
「やめよ、爾が管玉は病める蚕のやうに曇つてゐる。」
卑弥呼のめでたきまでにれいろうとした顔は、しばらく大兄をにらんで黙つてゐた。
「大兄、以後我は玉の代りにまさごを爾に見せるであらう。」
なんぢの玉は爾の小指のやうに穢れてゐる。」と、大兄は云ふと、その皮肉な微笑を浮べた顔を、再び砂浜の松明の方へ振り向けた。「見よ、松明は輝き出した。」
「此処を去れ、此処は爾のごとき男の入る可き処ではない。」
「我は帰るであらう。我は爾のくだだまを奪へば爾を置いて帰るであらう。」
「我の玉は、爾に穢されたわがみのやうに穢れてゐる。行け。」
「待て、爾の玉の爾のたましひより光つてゐる。玉を与へよ。爾は玉を与へると我に云つた。」
「行け。」
卑狗の大兄は笑ひながら、自分の勾玉をさらさらと小壺に入れて立ち上つた。
こよひどこはう?」
「行け。」
まろやで待たう。」
「行け。」
大兄はやりどの外へ出て行つた。卑弥呼は残つた管玉を引きたれたもすその端でき散らしながら、彼の方へ走り寄つた。
「大兄、我は高倉の傍で爾を待たう。」
「我はひとり月を待たう。今宵の月は満月である。」
「待て、大兄、我は玉を与へよう。」
「爾の玉は、我に穢された爾のやうに穢れてゐる。」
おほえこおせうしのべだけを連ねたみづがきの横で起ると、夕闇の微風に揺れてゐるかしはほこだちの傍まで続いていつた。ひみこしめごろもそでみながら、遠く松の茂みの中へ消えて行く大兄の姿を見詰めてゐた。

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夜は暗かつた。卑弥呼は鹿の毛皮に身を包んで宮殿からぬけ出ると、高倉のわらどに添つて大兄を待つた。りすは頭の上で、栗のこずゑの枝をたわめて音を立てた。
「大兄。」
野兎はいちびの茂みの中で、昼にねらはれた青鷹の夢を見た。さうして、彼は飛び跳ねると、茼麻の幹に突きあたりながら、むかごはむらの中へ馳け込んだ。
「大兄。」
ふくろふむくろじゆの梢を降りて来た。そして、よめなを踏みながらむらがくさだまの下を潜つて青蛙に飛びついた。
「大兄。」
しかし、ひこの大兄はまだ来なかつた。卑弥呼は藁戸の下へうづくまると、ひとりすずなを引いては投げ引いては投げた。月は高倉のちぎを浮べて現れた。森のかしはの静まつた葉波は一斉にれた銀のうろこのやうに輝き出した。そのとき、軽い口笛が草玉の茂みの上から聞えて来た。卑弥呼は藁戸から身を起すと、草玉の穂波の上に半身を浮べて立つてゐる卑狗の大兄の方へ歩いていつた。
「大兄、大兄。」彼女は鹿の毛皮を後に跳ねて彼の方へちか寄つた。「夜は間もなく明けるであらう。」
併し、大兄は輝く月から眼を放さずに立つてゐた。
「大兄よ、我は菅玉を持つて来た。なんぢは受けよ。」と、卑弥呼は云つて玉を大兄の前へ差し出した。
「爾はなぜにここへ来た?我はひとり月を眺めにここへ来た。」
「我は爾に玉を与へにここへ来た。受けよ、我は玉を与へると爾に云つた。」
大兄は卑弥呼の菅玉をつかんでとつた。
「我は爾に逢はんがためにここへ来た。爾は我に玉を与へにここへ来た。爾は帰れ。」と大兄は云つて再び空の月へ眼を向けた。
卑弥呼は黙つて草玉の実をしごき取ると大兄の横顔へ投げつけた。大兄は笑ひながら急に卑弥呼の方へ振り向いた。さうして、彼女の肩へ両手をかけて、抱き寄せようとすると、彼女は大兄の胸を突いて身を放した。
「我は帰るであらう。我は爾に玉を与へた。我は帰るであらう。」
「よし、爾は帰れ、爾は帰れ。」と、大兄は云ひながら、彼女の振り放さうとする両手を持つた。さうして、彼女を引き寄せた。
「放せ、放せ。」
「帰れ、帰れ。」
大兄はもがく卑弥呼を横に軽々と抱き上げると、どつと草玉の中へ身を落した。さらさらとらめいた草玉は、そのつて二人の上で鳴つてゐた。
「卑弥呼、見よ、爾はかなたの月のやうにうるはしい。」
彼女は大兄の腕の中に抱かれたまま、今は静に眼をぢて彼の胸の上へ頰をつけた。
「卑弥呼、もし爾が我が子を産めば姫を産め。我は爾のごとき姫を欲する。もし爾がひこを産めば、我のごとき彦を産め。我は爾を愛してゐる。爾は我を愛するか。」
しかし、卑弥呼は大兄を見上げて黙つたまま片手で彼の頰をでてゐた。
「ああ、爾は月のやうに黙つてゐる。冷たき月は欠けるであらう。爾は帰れ。」
大兄は卑弥呼を揺つてにらまへた。が彼女は微笑しながら静に大兄の顔を見上げて黙つてゐた。
「帰れ、帰れ。」
と大兄は云ひつつ、彼女を抱いた両腕に力を籠めた。卑弥呼は大兄の首へ手を巻いた。さうして、二人は黙つてゐた。月は青い光りを二人の上に投げながら、彼方の森からだんだん高く昇つていつた。そのとき、一人の痩せた若者が、しやうがを嚙みつつむくろじゆの下へ現れた。彼は破れた軽いをぐつを、水にひたつた俵のやうに重々しく運びながら、次第に草玉の茂みの方へちか寄つて来た。ひこおおえは足音を聞くと立ち上つた。
「爾は誰か。」
若者は立ち停ると、しやうがを投げ捨てた手でつるぎかぶつちを握つて黙つてゐた。
「爾は誰か。」と再び大兄は云つた。
「我は路に迷へる者。」
「爾はいづこの者か。」
「我は旅の者、我にかてを与へよ。我は爾に剣と勾玉とを与へるであらう。」
大兄はひみこの方を振り向いて彼女に云つた。
「爾の早き夜は不吉である。」
「大兄、旅の者に食を与へよ。」
「爾は彼を伴なうて、食を与へよ。」
「良きか、旅の者は病者のやうに痩せてゐる。」
大兄は黙つて若者の顔を眺めた。
「大兄、爾はここにゐて、我を待て、我は彼をにへどのへ伴はう。」卑弥呼は毛皮をかぶつて若者の方を振り向いた。「我に従つて爾は来れ。我は爾に食を与へよう。」
「卑弥呼、我はもはや月を見た。我はひとり帰るであらう。」大兄は彼女をにらんで云つた。
「待て、大兄、我は直ちに帰るであらう。」
「行け。」
「大兄よ、爾は我に代つて彼をともなへ、我はここで爾を待たう。」
「行け、行け、我は爾を待つてゐる。」
「良きか。」
「良し。」
「来れ。」と卑弥呼は若者に再び云つた。
若者は、月の光りに咲き出た夜の花のやうな卑弥呼の姿を、ぼうぜんとして眺めてゐた。彼女は大兄に微笑を与へると、先に立つて宮殿のむやの方へ歩いていつた。若者はやうやをぐつを動かした。さうして、彼女の影を踏みながらその後から従つた。大兄の顔はゆがんで来た。彼は小石を拾ふと森の中へ投げ込んだ。森は数枚のかしはの葉から月光を払ひ落してつぶやいた。

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むやにへどのの二つの隅にはたいまつが燃えてゐた。一人のかしはでは松明のほのほの上で、鹿の骨をあぶりながら明日の運命を占つてゐた。彼の恐怖を浮べたあかい横顔は、立ち昇る煙を見詰めながらだんだんとよろこびの色に破れて来た。そのとき、入口の戸が押し開けられて、後に一人の若者を従へた王女卑弥呼が這入つて来た。かしはでは振り向くと、火のついた鹿の骨を握つたまままこもの上へひざまづいた。ひみこは後の若者を指差して膳夫に云つた。
彼は路に迷へる旅の者、彼になんぢは食を与へよ。彼のために爾はふしどを作れ。」
「酒は?」
「与へよ。」
あわは?」
「与へよ。」
卑弥呼は若者の方を振り向いて彼に云つた。
「我は爾を残して行くであらう。爾は爾の欲する物を彼に命じよ。」
卑弥呼はひぢに飾つたくしろへきぎょくたいまつに輝かせながら、再び戸の外へ出ていつた。若者はまこもの上に突き立つたまま、その落ちくぼんだ眼を光らせて彼女の去つた戸の外を見つめてゐた。
「旅の者よ。」と、かしはでの声が横でした。
若者は膳夫の顔へ眼を向けた。さうして、彼の指差してゐる下を見た。そこには、海水をたたへたもひの中につびやまがへるが浸してあつた。
をみなは何者か。」
「此の宮の姫、卑弥呼と云ふ。」
膳夫は彼の傍から隣室の方へ下つていつた。やがて、数種のほかゐが若者の前に運ばれた。その中には、ところすずしろあけみと粟とがはいつてゐた。たらの木のしんから製したもそろの酒は、その傍のみわの中で、かんばしい香気を立ててまだ波々と揺らいでゐた。若者は片手で粟を摘むと、「卑弥呼」と一言呟いた。
そのとき、ひとこのかみの面前から下つて来た一人のすくねが、やつひろでんを通つてにへどのの方へ来た。彼はこしつの中風症にふるへるろうくを数人のしぶまもられて、若者の傍まで来ると立ち停つた。
「爾は何処の者か。」
宿禰の垂れ下つた白い眉毛は、若者を見詰めてゐる眼の上でふるへてゐた。
「我は路に迷へる旅の者。」
「爾の額のほりものけつである。爾は奴国の貴族であらう。」
「否。」
「爾のくちびるほりものつるである。爾はなこくの王子であらう。」
「否、我は路に迷へる旅の者。」
「やめよ。爾の祖父はうみわうぼりやくだつした。爾の父は不弥のたまどこに火を放つた。彼を殺せ。」
すくねいばらの根で作つたつゑは若者の方へ差し向けられた。たちまち、しぶたちの剣は輝いた。若者は突つ立ち上ると、つかんだあはを真先に肉迫する使部の面部へ投げつけた。剣を抜いた。と見る間に、使部の片手は剣を握つたまま胴を放れて酒の中へ落ち込んだ。使部達は立ち停つた。若者は飛び退くと、杉戸を背にして突き立つた。彼を目がけてもひが飛んだ。ほかゐが飛んだ。くつがへつたみわから酒が流れた。さうして、つびあけみが立ち籠めた酒気の中を杉戸に当つて散乱すると、再び数本の剣は一斉に若者の胸をねらつて進んで来た。むやの外ではほらが鳴つた。若者は剣を舞はせて使部達の剣n中へ馳せ込んだ。さうして、その背後でこしつに震へてゐる宿禰の上へ飛びかかると、彼をまこもの上へ押しつけた。使部達の剣は再び彼に襲つて来た。彼は宿禰の胸へその剣のさきをさし向けると彼らに云つた。
「我を殺せ、我の剣も動くであらう。」
使部達は若者を包んだまま動くことが出来なかつた。宿禰は若者の膝の下で、なほそのろうくを震はせながら彼らに云つた。
「我を捨てよ。我を刺せ。うみのためになこくの王子を刺し殺せ。」
併し、使部達の剣は振り上つたまま下らなかつた。ほらはただ一つますます高く月の下を鳴り続けた。どらが鳴つた。つはものたちごうぼこを叩いて馳せ寄る響が、ぶきぐらの方へ押し寄せ、更ににへどのへ向つうてなだれて来た。
「奴国の者は宮に這入つた。」
「姫を奪ひに。」
「鏡をりに。」
騒ぎは人々の口から耳へ、耳から口へと静まつたむやを包んで波紋のやうに拡がつた。やがて、にえどのの内外は、兵士達のほこさきのために明るくなつた。
なこくの者は何処へ行つた。」
「奴国の者を外へ出せ。」
贄殿の入口は動乱する兵士達の肩口で押し破られた。そのとき、彼らの間を分けて、ひみこが進んで来た。兵士達は争つて彼女の前に道を開いた。彼女は贄殿の中へ這入ると、使部達の剣に包まれた若者の姿を眼にとめた。
「待て、彼は途に迷ひし旅の者。」
「彼は奴国の王子である。」
「彼は我のともなひし者。」
「彼の祖父はうみの王母を掠奪した。」
「剣を下げよ。」
「彼の父は不弥のほくらに火を放つた。」
卑弥呼は使部達の剣の下を通つて、若者の傍に出た。
「我はなんぢに食を与へた。爾は爾の国へ直ちに帰れ。」
若者は踏み敷いた宿禰を捨てて剣を投げた。さうして、卑弥呼の前にひざまづくと、彼は崩れたみづらの下から眼を光らせて彼女に云つた。
「姫よ、我を爾の傍におけ、我は爾の下僕にならう。」
「爾は帰れ。」
「姫よ、我は爾に、我の骨を捧げよう。」
「去れ。」
「姫よ。」
「彼を出せ。」
使部達は剣を下げて若者の腕を握つた。さうして、彼を戸外の月の光りの下へ引き出すと、若者は彼らを突き伏せて再びにへどのの中へけ込んだ。
「姫よ。」
「去れ。」
「姫よ。」
「去れ。」
「爾は我が命を奪ふであらう。」
忽ち、兵士達のほこさきは、まがたまの垂れた若者の胸へ向つて押し寄せた。若者は鉾尖の映つた銀色の眼で卑弥呼を見詰めながら、再び戸外へ退けられた。さうして彼は数人の兵士に守られつつ、月の光りに静まつた萩としをんの花壇を通りしちくの茂つた玉垣の間をしらすへぬけて、いそまで来ると、兵士達のてうせうとともにツとはまもの上へ投げ出された。一連の波が襲つて来た。さうして、彼の頭の上を乗り越えて消えて行くと、彼はやうやく半身を起して宮殿の方を見続けた。

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「王子は帰つた。」
じゆこんしの言はあたつた。」
たうげを越えて。」
ほこぎのやうに痩せて帰つた。」
なこくの宮は、山のふもとからしのや中から騒ぎ始めた。さうして、この騒ぎは宮を横切つて、宮殿の中へ這入つて行くと、夜になつて、ほくらの前の庭園で盛大なきやうえんとなつて変つて来た。
たいまつんだほぐしは円形にその草野を包んで立てられた。集つたみやびとたちには、鹿の肉片と、松葉で造つたそしゆもそろの酒が配られ、たいぶしべには、にぎしねから作つたもろはくざけが与へられた。さうして、宮の婦女達は彼らの前で、まだ花咲かぬすひかづらを頭に巻いたうずめとなつて、さかほがひうたうたひながら踊り始めた。数人の若者からなる楽人は、をけかはらけを叩きつつ二絃のことに調子を打つた。
肥え太つた奴国の宮のひとこのかみは、わらべをと三人のすくねとを従へてやぐらの上で、痩せ細つた王子のながらと並んでゐた。長羅は過ぎた狩猟の日、行方不明となつて奴国の宮を騒がせた。彼は十数日の間深い山々を廻つてゐた。さうして、彼はうみへ出た。かつてあの不弥の宮で、生命を断たれようとした若者は彼であつた。
「長羅よ、見よ奴国の女は美しい。」
と君長は云つて踊る婦女達を指差した。
「我は爾に妻を与へよう。爾は爾の好む女を捜せ。」
長羅の父の君長は、妃を失つて以来、饗宴を催すことが最大のゐしやであつた。ぜなら、それは彼の面前で踊る婦女達の間から、彼は彼の欲するいんたうな一夜の肉体をせんたくするに自由であつたから。さうして、彼は、回を重ねるに従つて常に一夜の肉体を捜し得た。今又彼は、櫓の上から二人の婦女に眼をつけた。
「見よ、長羅、かなたの女の踊りは見事であらう。」
長羅の細まつたいううつな眼は、踊りをはづれて森の方を眺めてゐた。君長はからの酒盃を持つたまま、忙しさうに踊りの中へ眼を走らせながら、再び一人の婦女を指差して云つた。
かなたの女は子を産むゐのししのやうに太つてゐる。見よ、長羅、彼方の女は子をはらんだ冬の狐のやうに太つてゐる。」
きやうえんみわから酒の減るにつれて乱れて来た。鹿は酔ひつぶれた若者達の間を漫歩しながらかたばみさうの葉を食べた。やがて、一団の若者達は裸体となつて、さかきの枝を振りながら婦女達の踊りの中へ流れ込んだ。このとき、人波から、絶えず櫓の上の長羅の顔を見詰めてゐる女が二人あつた。一人は踊の中で、ひとこのかみの視線の的となつてゐた濃艶な若い大夫の妻であつた。一人はたいまつの明りの下で、兄のかわろと並んで立つてゐるひやうぶすくねの娘、かとりであつた。彼女は奴国の宮の乙女達の中では、その美しい気品の高さに於てざんぜんとしてすぐれてゐた。
「ああ長羅、見よ、かなたに爾の妻がゐる。」と、君長は云つて長羅の肩を叩きながら、香取の方を指差した。
香取の気高き顔は松明の下で、うすくれなゐの朝顔のやうにあからんでうつむいた。
「王子よ、我のうくはを爾は受けよ。」と、兵部の宿禰は傍から云つて、ばづで作つた酒盞を長羅の方へ差し延べた。何ぜなら、彼の胸中に長く潜まつてゐた最大の希望は、やうやく君長の脣から、流れ出たのであつたから。
併し、長羅のかうべは重く黙つて横に振られた。彼の眼の向けられた彼方では、松明の一塊がほぐしふぢかづらを焼き切つて、赤々と草の上へ崩れ落ちた。一疋の鹿は飛び上つた。さうして、踊りの中へ角を傾けて馳せ込んだ。
「父よ、我はふしどを欲する。我をゆるせ。」
長羅はひとり立ち上つてやぐらを降りた。彼は人波の後をぬけ、ほくらの前を通つて暗いくぬぎの下まで来かかつた。そのとき、踊りの群から脱け出した一人の女が、彼の後から馳けて来た。彼女は大夫の若い妻であつた。
「待て、王子よ。」と彼女は云つた。
長羅は立ち停つて後を向いた。
「我は爾の帰るを、月と星に祈つてゐた。」
長羅は黙つて再びもやの方へ歩いていつた。
「待て、王子よ。我は夜の来る度に爾の夢を見た。」
併し、長羅の足はとまらなかつた。
「ああ、王子よ。爾は我に言葉をかけよ。爾は我を森へともなへ。我は我の祈りのために、再び爾の姿を櫓の上で見た。」
そのとき、二人の後から一人の足音がけて来た。それは女の良人の痩せ細つた若い大夫であつた。彼はあおざめた顔をしてふるへながら長羅に云つた。
「王子よ、女は我の妻である。願はくば妻を斬れ。」
長羅は黙つてもやの踏段に足をかけた。大夫の妻は長羅の腕を握つてひきとめた。
「王子よ。我を伴なへ、我は今宵とともに死ぬるであらう。」
大夫は妻の首をつかんで引き戻さうとした。
「爾は我をあざむいた。爾は狂つた。」
「放せ、我は爾の妻ではない。」
「ああ、妻よ、爾は、我を欺いた。」
大夫は妻の髪を摑んで引き伏せようとしたときに、再び新しい一人の足音が、よろめきながら三人の方へ馳けて来た。それはうくはを片手に持つた長羅の父のひとこのかみであつた。彼は踏み辷ると土を片頰に塗りつけて起き上つた。
「女よ、我は爾を捜してゐる。爾の踊りは何者よりも見事であつた。来れ。我はこよひ爾に、奴国の宮を与へよう。」
君長は女の腕を握つ踏段を昇つていつた。大夫は女の後から馳け登ると、再び妻の手を持つた。
「王よ、女は我の妻である。妻をゆるせ。」
「爾の妻か。良し。」
君長は女を放して剣を抜いた。大夫の首は、地に落ちた。続いて胴がたかえんに倒れると、すぎなの中に静まつてゐる自分の首を覗いて動かなかつた。
「来れ。」と君長は女に云つてその手を持つた。
「王子よ、王子を、我を救へ。」
「来れ。」
女は君長を突きねた。君長は大夫の胴の上へあふむけに倒れると、あらはな二本の足を空間にねながら起き上つた。彼は酒気を吐きつつその剣を振り上げた。
「王子よ、王子よ。」
女は呼びながら、長羅の胸へ身を投げかけた。が、長羅のからだは立木のやうに堅かつた。剣は降りた。女の肩は二つに裂けると、良人の胴を叩いて転がつた。
「長羅よ、さかほがひは彼方である。朝はまだ来ぬ。行け、女は彼方で待つてゐる。」
君長は剣を下げたまま松明の輝いた草野の方へ、再びよろめきながら第二の女を捜しに行つた。
長羅は突き立つたまま二つの死体を眺めてゐた。さうして、彼は西の方を眺めると、
ひみこ。」
つぶやいた。

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なこくの宮の鹿と馬とはだんだん肥えて来た。しかし、長羅の頰は日々に落ち込んだ。彼は夜が明けると、やぐらの上へ昇つてうみの国の山を見た。夜が昇るとかうべを垂れた。さうして、彼のくちびるからは、微笑と言葉が流れた星のやうに消えていつた。彼はこのいううつに最も愁傷した者は、彼を愛する叔父の祭司のすくねと、香取を愛するひやうぶの宿禰の二人であつた。ある日、祭祀の宿禰は、長羅の行方不明となつたとき彼の行方を占はせたじゆこんしを再び呼んで、長羅の病を占はせた。広間の中央にはすひかづらの模様を描いた大きなくんろが据ゑられた。その中の、ひしがらやきこの黄色い灰の上では、桜の枝と鹿の肩骨とが摘み上げられて燃え上つた。呪禁師はその立ち籠めた煙の中で、片手に玉串を上げ、片手に抜き放つた剣を持つて舞を舞つた。さうして、彼は薫炉の上で波紋を描く煙のあやを見詰めながら、今やかんなぎの言葉を伝へようとしたとき、突然長羅は彼の傍へ飛鳥のやうに馳けて来た。彼はじゆこんしの剣を奪ひとると、再び萩の咲き乱れた庭園の中へ馳け降りた。さうして、彼はがまに戯れかかつてゐた一疋の牝鹿を見とめると、一撃のもとにその首を斬り落して呪禁師の方を振り向いた。
きたれ。」
ぼうぜんとしてゐた呪禁師は、ふるへながら長羅の傍へ近寄つて来た。
「我の望は西にある。いかが。」
「ああ、王子よ。」と、呪禁師は云ふと、彼の慄へるくちびるむらさきの色に変つて来た。
長羅は血のしたたる剣を彼の胸さきへ差し向けた。
「云へ、我の望は西にある。良きが。」
「良し。」
「良きか。」
「良し。」
と云ふと、じゆこんしあふむきによめなの上へくつがへつた。
長羅は剣をひつ下げたまま、むしぶすまを押し開けて、やつひろでんひとこのかみの前へ馳けていつた。そこで、君長は、二人のわらべをに鹿の毛皮を着せて、交尾の真似をさせてゐた。
「父よ、我に兵を与へよ。」
「長羅、爾の顔はうりのやうに青ざめてゐる。爾はゐのししと鶴とをくらへ。」
「父よ、我に兵を与へよ。」
「聞け、長羅、猪は爾の頰をふくらせるであらう。鶴は爾の顔をあけに染めるであらう。爾の母は我に猪と鶴とを食はしめた。」
「父よ、我はうみを攻める。我に爾は兵を与へよ。」
「不弥は海の国、爾は塩を奪ふか。」
「奪ふ。」
「不弥は玉の国、爾は玉を奪ふか。」
「奪ふ。」
「不弥は美女の国、爾は美女を奪うて帰れ。」
「我は奪ふ、父よ、我は奪ふ。」
「行け。」
「ああ、父よ、我は爾に不弥の宝を持ち帰るであらう。」
長羅は君長の前を下ると、ひやうべの宿禰を呼んで、直ちにつはものを召集することを彼に命じた。しかし、兵部の宿禰は、此の突然の出兵が、娘、香取の上に何事か悲しむ可き結果をもたらすであらうことを洞察した。
「王子よ、爾は一戦にして勝たんことを欲するか。」
「我は欲す。」
「然らば、爾は我が言葉に従つて時を待て。」
「爾は老君、時に壮者にとりては無用である。」
「やめよ。我の言葉は、爾の希望のごとく重いであらう。」
長羅は脣をみ締めて宿禰を見詰めてゐた。宿禰は吐息を吐いて長羅の前から立ち去つた。

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奴国の宮からは、面部のけつけいほりものを塗り潰された五人のしべが、偵察兵となつてうみの国へ発せられた。さうして、森からは弓材になるまゆみつきあづさが切り出され、ししやの骨片の矢の根はそやかりまたになつたやじりととり変へられた。猪の脂とまつやにとを煮溜めたくすねゆづるを強めるために新しくぶきぐらの前で製せられた。兵士達は、この常とは変つて悠々閑々とした戦ひの準備をひそかわらつてゐた。しかし、彼らの一人として、娘をおもひやうべすくねの計画を洞察し得た者は、誰もなかつた。
偵察兵の帰りを待つ長羅の顔は、興奮と熱意のために、再び以前のやうに男々しくたくましく輝き出した。彼は終日武器庫の前の広場で、馬を走らせながら剣を振り、敵陣めがけて突入する有様を真似てゐた。しかし卑弥呼を奪ふ日が、なほ依然として判明せぬせうさうさに耐へ得ることが出来なくなると、彼は一人国境の方へ偵察兵を迎ひに馬を走らせた。
或る日、長羅は国境の方から帰つて来ると、泉の傍に立つてゐた兵部の宿禰の子のかわろが、彼の方へ進んで来た。彼は長羅の馬の拡がつたびこうを指差して、云つた。
「王子よ、なんぢは爾の馬に水を飲ましめよ。爾の馬のいきは切れてゐる。」
長羅は彼に従つて馬から降りた。そのとき、一人の乙女が垂れ下つた柳の糸の中から、慄へる両腕にみづがめを持つて現れた。それは兵部の宿禰の命を受けたかわろの妹の香取であつた。彼女は美しく装ひをこらしたうすたけいろもすそを曳きながら、泉の傍へ近寄つて水を汲んだ。彼女の肩から辷り落ちた一束の黒髪は、差し延べた白い片腕にからまりながら太陽の光りを受けた明るい泉の水面へひろがつた。長羅は馬のたづなを握つたまま彼女の姿を眺めていた。彼女は汲み上げたみづつぼの水を長羅の馬の間へ静に置くと、あからめた顔をうつむけて、垂れ下つた柳の糸を胸の上で結び始めた。
やがて、馬は水甕の中から頭を上げた。
「奴国の宮で、もつとも美しき者は、爾である。」と長羅は云ふと、馬の上へ飛び乗つた。
香取の一層あからんだ気高い顔は柳の糸で隠された。馬は再び王宮の方へ馳けて行つた。
併し、長羅は武器庫の前まで来たときに、三人の兵士が水壺の中へどくうつぎの汁をしぼつてゐるのを眼にとめた。
「爾の汁は?」と長羅は馬の上から彼らに訊いた。
やじりに塗つて、うみの者を我らは攻める。」と彼らの一人は答へた。
長羅の眼には、その矢を受けて倒れてゐる卑弥呼の姿が浮び上つた。彼はむちを振り上げて馬の上から飛び降りた。兵士達はひざまづいた。
「王子よ、ゆるせ、我らの毒は、直ちに一人を殺すであらう。」と一人は云つた。
長羅は毒壺を足で蹴つた。あわを立てた緑色の汁は、倒れた壺から草の中へ滲み流れた。
「王子よ、赦せ、我らに命じた者は宿禰である。」と、一人は云つた。
たちまひ毒汁の泡の上では、無数の山蟻の死骸が浮き上つた。

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うみの国から一人の偵察兵がなこくの宮へ帰つて来た。彼は、かんどからしらぎの船が、ほうたくと銅剣とを載せて不弥の宮へ来ることを報告した。長羅は直ちに出兵の準備を兵部の宿禰に促した。併し、宿禰の頭は重々しく横に振られた。
なんぢは奴国のゆづるの弱むを欲するか。」と、長羅は云つて詰め寄つた。
「待て、帰つた偵察兵は一人である。」
長羅は沈黙した。さうして、彼は嘆息する宿禰の頭の上で、不弥の方を仰いで嘆息した。
六日目に第二の偵察兵が帰つて来た。彼は、不禰のひとこのかみづまの国境へ狩猟に出ることを報告した。
長羅は再び兵部の宿禰に出兵を追つて云つた。
「宿禰よ、機会は我らの上に来た。爾はもはや口を閉ぢよ。」
「待て。」
「爾は武器庫の扉を開け。」
「待て、王子よ。」
「宿禰、爾の我に教ふる戦法は?」
「王子よ、狩猟に日は危険である。」
「やめよ。」
「狩猟の日の警戒は数倍する。」
「やめよ。」
「王子よ、爾の必勝の日は他日にある。」
「爾は必勝を敵に与ふることを欲するか。」
「敵に与ふるものは剣。」
「爾は我の敗北を願ふ者。」
「我は爾を愛す。」
長羅は鹿のみましの毛皮を宿禰に投げつけて立ち去つた。
宿禰はその日、やうやく投げやりたてとの準備を兵士達に命令した。
四日がたつた。さうして、第三の偵察兵が奴国の宮へ帰つて来た。彼は、不弥の宮では、王女卑弥呼の婚姻が数日の中に行はれることを報告した。長羅の顔は見る見る中にあをざめた。
「宿禰、どらを鳴らせ、ほらを吹け、爾は直ちに武器庫の扉を開け。」
「王子よ、我らの聞いた三つの報道は違つてゐる。」
長羅は無言のまま宿禰をにらんで突き立つた。
「王子よ、二つの報告は残つてゐる。」
長羅の脣と両手はふるへて来た。
「待て、王子よ、長き時日は、重き宝をもたらすであらう。」
長羅の剣は宿禰の上でひらめいた。宿禰の肩は耳と一緒に二つに裂けた。
間もなく、兵士を召集するほらどらなこくの宮に鳴り響いた。兵士達は八方から武器庫へ押し寄せて来た。彼らの中には、弓と剣と楯とを持つたかわろの姿も混つてゐた。彼は、この不意の召集の理由を父に訊き正さんがために、ひとり王宮の中へ這入つていつた。しかし、せきばくとした広間の中で彼の見たものは、みましの上に血に塗られて倒れてゐる父の一つの死骸であつた。
「ああ、父よ。」
彼は楯と弓とを投げ捨てて父の傍へけ寄つた。彼は父の死の理由のすべてをつた。彼は血潮の中に落ちている父の耳を見た。
「ああ父よ、我はふくしゅうするであらう。」
彼は父の死体を抱き上げようとした。と、父の片腕は衣の袖の中から転がり落ちた。
「待て、父よ、我は爾に代つて復讐するであらう。」
かわろは血のしたたる死体を背負ふと、せ違ふ兵士達の間をぬけて、ひとり家の方へ帰つて来た。
やがて、太陽は落ちかかつた。さうして、長羅を先駆に立てたなこくの軍隊は、ひやうぶすくねの家の前を通つてうみの方へ進軍した。かわろの血走つた眼と、香取の泣きれた眼とは、泉の傍から、森林の濃緑色のかたまりに切られながら、長くもやのやうに輝いて動いて行くつはもたちほこさきを見詰めてゐた。

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うみの宮には、ひみこの婚姻の夜が来た。ひみこは寝殿の居室で、三人の侍女を使ひながら式場に出るべき装ひを整へてゐた。彼女はいくひかかつた鏡の前で、兎のせぼねを焼いた粉末を顔に塗ると、その上からしんしやの粉を両頰に掃き流した。彼女の頭髪には、山鳥のほろばを雪のやうに降り積もらせた冠の上から、韓土のめなうひすゐを連ねたたまかづらが懸かつてゐた。侍女の一人は白色の絹布を卑弥呼の肩に着せかけて云つた。
「空の下で、最も美しき者は我の姫。」
侍女の一人は卑弥呼の胸へろうかんまがたまを垂れ下げて云つた。
「地の上の日輪は我の姫。」
たちばなさかきの植つた庭園のしらすを包んで、かがりびが赤々と萌え上ると、不弥の宮人達は各々手に数枚のかしはの葉を持つて白洲の中へ集つて来た。やがて、ことふえほらとが緩やかに王宮のほこだちの方から響いて来た。十人のだいぶたびをかかげて白洲の方へ進んで来た。続いて、はたほこを持つた三人の宿禰が進んで来た。これに続いて、剣を抜いたひとこのかみが、鏡を抱いた王妃が、さうして、卑弥呼は、くだだまをかけ連ねたぬぼこを持つたひこおほえと並んで、白いくじやくのやうに進んで来た。宮人は歓呼の声を上げながら、二人を目がけて柏の葉を投げた。白洲の中央では、王妃のかけたますみのかがみが、石の男根に吊り下つたぬきの下で、たいまつほのほを映して朱の満月のやうに輝いた。その後の四段に分れた白木の棚の上には、野の青物が一段に、山の果実と鳥類とが二段目に、はえかじかこひなまづの川の物が三段に、さうして、海の魚と草とは四段の段に並べられた。奏楽が起り、奏楽がやんだ。君長は鏡の前で、剣を空に指差して云つた。
「ああ無窮なる天上の神々よ、われらの祖先よ、二人を守れ。ああ広大なる海の神々よ、地の神々よ、二人を守れ。ああなんぢら忠良なる不弥の宮の臣民よ、二人を守れ、不弥の宮は、爾らの守護の下に、明日の日輪のごとく栄えるであらう。」
周囲の宮人達の手が白い波のやうに揺れると、再び一斉にかしはの葉が投げられた。ひみこひこの大兄は王宮の人々に包まれて、奏楽に送られながら、白洲を埋めた青い柏の葉の上を寝殿の方へ帰つていつた。群集はよろこびの声を上げつつ彼等の後にどよめいた。手火や松明が入り乱れた。さうして、王宮からは、もそろもろはくさけが鹿やいのししの肉片と一緒に運ばれると、白洲の中央では、くさだまの実を髪飾りとなしたうずめらがやまにらを振りながら、さかほがひうたうたひ上げて踊り始めた。やがて、酒宴と舞踏は深まつた。威勢良き群集は合掌から叫喚へ変つて来た。さうして、夜の深むにつれて、彼らの騒ぎは叫喚からしんぎんへと落ちて来ると、次第に光りを失ふかがりびと一緒に、不弥の宮の群集は、間もなく暁の星の下で呟く巨大な獣のやうに見えて来た。
そのとき、突然武器庫から火が上つた。と、同時に森の中からは、一斉に、ときの声が群集めがけて押し寄せて来た。それに応じて磯からは、長羅を先駆に建てた一団が、花壇を突き破つて宮殿の方へ突撃した。不弥の宮の群集は、再び宵のやうに騒ぎ立つた。松明は消えかかつたままうくはふくべと一緒に飛び廻つた。さうして、投げ槍の飛び交ふ下で、ほこや剣がかれた氷のやうに輝くと、人々の身体は手足を飛ばして間断なく地に倒れた。
長羅はひとり転がる人を蹴散らして宮殿の中へ近づくと、にへどのの戸を突き破つて寝殿の方へ馳け込んだ。広間のむしぶすまを押し開けた。やつひろでんを横切つた。さうして、奥深い一室のぬのぶすまを引きあけると、そこには、白い羽毛のふとんおほはれたひみこが、ひこおほえの腕の中で眠つてゐた。
「卑弥呼。」長羅は入口に突き立つた。
「卑弥呼。」
卑狗の大兄と卑弥呼とは、巣を乱された鳥のやうにね起きた。
「去れ。」と、叫ぶと、大兄はいくひに懸つた鹿の角を長羅に向つて投げつけた。
長羅は剣のさきの鹿の角をねのけると、卑弥呼を見詰めたまま、飛びかかる虎のやうに小腰をかがめて忍び寄つた。
「去れ、去れ。」
長羅に向つて鏡が飛んだ。玉が飛んだ。しかし、彼は無言のまま卑弥呼の方へちか寄つた。大兄は卑弥呼を後に守つて彼の前に立ち塞がつた。
なんぢは何故にここへ来た。」
と、おほえは云ふと、彼の胸には長羅の剣が刺さつてゐた。彼は叫びを上げると、その剣を握つて後へつた。
「ああ、大兄。」
ひみこは良人を抱きかかへた。大兄の胸からは、血が赤い花のやうに噴き出した。長羅は卑弥呼の肩に手をかけた。
「卑弥呼。」
「ああ、大兄。」
卑狗の身体は卑弥呼の腕の中へ崩れかかつて息が絶えた。
「我は爾を奪ひにうみへ来た。卑弥呼、我とともに爾はなこくへ来れ。」
長羅は卑弥呼を抱き寄せようとした。
「大兄、大兄。」と彼女は云ひながら、卑狗の大兄を抱いたまま床の上へ泣き崩れた。
そのとき、奴国のつはものたちは血に濡れた剣を下げて、長羅の方へ乱入して来ると口々に叫び合つた。
「我は王を殺した。」
「我は王妃を刺した。」
「不弥の鏡を我は奪つた。」
「我は宝剣と玉とをつた。」
長羅は卑弥呼を床の上から抱き上げた。
「我は爾を奪ふ。」
彼は卑狗の大兄を卑弥呼の腕から踏み放すと、再び宮殿を突きぬけて広場の方へ馳け出した。卑弥呼は長羅の腕の中から、小枝を払つたほこだちの枝に、うはあごをかけられた父と母との死体が魚のやうに下つてゐるのを眼にとめた。
「ああ、我を刺せ。」
ほのほの家となつた武器庫は、転がつてゐる死骸の上へぐわうぜんたる響を立てて崩れ落ちた。長羅は卑弥呼を抱きかかへたまま、ひらりと馬の上へ飛び乗つた。
「去れ。」
彼は馬の腹をひと蹴り蹴つた。馬は石のやうに転がつてゐる人々の頭を蹴散らして、森の方へ馳け出した。それに続いて、血に塗られた奴国の兵のほこさきが、最初の朝日の光りを受けてきらめきながら、森の方へ揺れて来た。
「卑弥呼。」と長羅は云つた。
「ああ、我を刺せ。」
彼女は馬の背の上で昏倒した。
「卑弥呼。」
馬は走つた。むぐらあざみの花を踏みにじつて奴国の方へ馳けていつた。
「卑弥呼。」
「卑弥呼。」

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遠く人馬のさうぜうが闇の中から聞えて来た。かわろかとりは戸外に立つて峠を見ると、たいまつの輝きが、河に流れた月のやうに長くちらちらとゆらめいて宮の方へ流れて来た。それはうみの国から引き上げて来た奴国の兵士達の明りであつた。訶和郎と香取はしのぶだけを連ねたすがきの中に身を潜めて、彼らの近づくのを待つてゐた。
やがて、兵士達のざわめきが次第に二人の方へ近寄つて来ると、そのせんだちたいまつの後から、馬の上で一人の動かぬ美女を抱きかかへた長羅の姿が眼についた。訶和郎は剣を抜いて飛び出ようとした。
「待て、兄よ。」と香取は云つて、訶和郎の腕を後へ引いた。
先達の松明はすがきの前へ来かかつた。美女の片頰は、松明の光りを受けて病める鶴のやうに長羅の胸の上に垂れてゐた。
訶和郎は剣を握つたまま長羅の顔から美女の顔へと眼を流した。すると、ふんぬに燃えてゐた彼の顔は、次第に父を見るえいじの顔のやうにゆるんで来て口を解いた。さうして、彼の厚い二つの脣は、兵士達の最期の者が、びつこを引いてあけみを食べながら、宮殿の方へ去つて行つても開いてゐた。しかし、間もなく兵士達の松明が、宮殿の草野の上でまるく火の小山を築きながら燃え上ると、訶和郎の脣は引きしまり、再び彼の両手は剣を持つた。
「待て、兄よ。」
物におびえたやうに、香取の體は軽く揺れた。しかし、訶和郎の姿は闇の中をやぐものやうに宮殿の方へ馳け出した。
「ああ、兄よ。」と香取は云ふと、彼女の悲歎の額は重く数本の忍竹へ傾きかかり、さうして、再び地の上へ崩れ伏した。

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かわろつはものたちの間を脱けると、宮殿のもやの中へ這入つていつた。さうして、広間の裏へ廻つて尾花で編んだたますだれの隙間から中をのぞいた。
広間の中では、ひとこのかみは二人のすくねと、数人のわらべをしぶとを傍に従へて、前方のむしぶすまの方を眺めてゐた。数箇の燈油の皿に燃えてゐる燈火は、一様に君長の方へ揺れてゐた。暫くして、そこへ、数人の兵士達を従へて現れたのは長羅であつた。
「父よ、我は勝つた。我はうみの宮の南北からめ寄せた。」と長羅は言つた。
「美女は何処か。」
「父よ。我は不弥の宮に立てる生き物を残さなかつた。我は王を殺した、王妃を刺した。」
「美女をとつたか。」
「美女をとつた。さうして宝剣と鏡をとつた。我の奪つた宝剣を爾は受けよ。」
「美女は何処か。不弥の美女は潮の匂ひがするであらう。」
長羅は兵士達の持つて来た剣と、からむしの袋の中からとり出した鏡とろうかんまがたまとを父の前に並べて云つた。
「父よ。爾は爾の好む宝を選べ。宝剣は韓土の鉄。奴国の武器庫を飾るであらう。」
「長羅よ。我は爾の殊勲に爾の好む宝剣を与へるであらう。我に美女を見せよ。不弥の美女は何処にゐるか。」
ひとこのかみみましの上から立ち上つた。長羅は一人のつはものに命じて言つた。
「連れよ。」
卑弥呼は後に剣を抜いた数人の兵士に守られて、広間の中へ連れられた。君長は卑弥呼を見ると、獣欲に声を失つた笑顔の中から今や手を延ばさんと思はれるばかりに、その肥えたたいくを揺り動かして彼女に云つた。
うみの女よ。なんぢなこくを好むか。我とともに、奴国の宮にとどまれ。我は爾に爾の好む何物をも与へるであらう。爾はゐのこを好むか。奴国の亥猪は不弥の鹿より脂を持つであらう。不弥の女よ。我を見よ。我は王妃を持たぬ。爾は我の王妃になれ。我は爾の好む蛙と鯉とを与へるであらう。我はからひすゐを持つてゐる。」
「奴国の王よ、我を殺せ。」
「不弥の女よ。我の傍に来れ。爾は奴国の誰よりも美しい。爾はたまきを好むか。我の妻は黄金の鐶を残して死んだ。爾は鐶を爾の指にめてみよ。来れ。」
「奴国の王よ、我を不弥に返せ。」
「不弥の女よ。爾は奴国の宮を好むであらう。我とともにゐよ。奴国の月はたづのやうにかぶりものを冠つてゐる。爾は奴国の月を眺めて、我とともにやまがにと雁とをくらへ。奴国の山蟹は赤い卵をはらんでゐる。爾は赤い卵を食へ。山蟹の卵は爾の腹から我の強きをのこを産ますであらう。来れ。我は爾のごとき美しき女を見たことがない。来れ。我とともに我の室へ来りて、うくはを干せ。」
君長はかりごもの上にしをれてゐる卑弥呼の手をとつた。長羅の顔はいれずみを浮べてあをじろく変つて来た。
「父よ、いづこへ行くか。」
「酒宴の用意は良きか。長羅よ。爾の持ち帰つた不弥の宝は見事である。」
「父よ。」
「長羅よ、我は爾のために新しき母を与へるであらう。爾はふしどへ這入つて、戦ひの疲れを憩ひ給へ。」
「父よ。」長羅は君長の腕から卑弥呼を奪つて突き立つた。
「不弥の女は我の妻。我は妻を捜しに不弥へ行つた。」
「長羅、爾は我を欺いた。不弥の女よ。我に来れ。我は爾をめとりに長羅をつた。」
「父よ。」
「不弥の女よ。我とともに来れ。我は爾を奴国の何物よりもでるであらう。」
君長は卑弥呼の手を引きながら長羅を突いた。長羅は剣を抜くと、君長の頭に斬りつけた。君長は燈油の皿をくつがへしてまがたまの上へ転がつた。殿中は君長の周囲から騒ぎ立つた。
さいしすくねは立ち上ると剣を抜いて、長羅の前に出た。
「爾は王を殺害した。」
長羅は宿禰を睨んで肉迫した。忽ち広間の中の人々は、宿禰と長羅の二派に分れて争つた。見る間に手と足と、みづらを解いた数個の首とが斬り落された。燈油の皿は投げられた。さうして、室の中は暗くなると、跳ね上げられた鹿の毛皮は、ひらめく剣の刃さきの上を踊りながら放埓に飛び廻つた。
卑弥呼はむしぶすまを手探りながら闇にまぎれて、尾花のたますだれを押し分けた。その時、玉簾の後に今まで身を潜めてゐたかわろは、やつひろでんの廻廊から洩れくる松明の光りに照されて、突然に浮き出た不弥の女の顔を目にとめた。
「姫よ、待て。」
と訶和郎は云ふと、広間の中へ飛び込まうとしてゐたその身を屈して彼女を横に抱き上げた。さうして、彼は宮殿の庭に飛び下り、うまやの前へ駆けてくると、卑弥呼の耳に口を寄せてささやいた。
「姫よ、我と共に奴国を逃げよ。王子の長羅は、我と爾の敵である。爾を奪はば彼は我を殺すであらう。」
一頭の栗毛にむちが上つた。馬は闇から闇へ二人を乗せて、奴国の宮を蹴り捨てた。
長羅のむしぶすまの前へ追ひつめた宿禰の肩を斬り下げた。さうして、剣を抜くと、「卑弥呼、卑弥呼」と叫びながら、部屋の中を馳け廻り、ぬのぶすまを引き開けた。玉簾を跳ね上げた。庭園へ飛び降りて、萩のくさむらぎ倒しつつ広場の方へ馳けて来た。
「不弥の女はどこへ行つた。捜せ。不弥の女を捕へた者は宿禰にするぞ。」
再び庭に積まれた松明の小山は、馳け集つた兵士達のほこさきに突き刺されて崩れた。さうして、奴国の宮を、吹かれた火の子のやうに八方へ飛び散ると、次第にまばらに拡がりながらどよめいた。

十一編集

訶和郎の馬はばまつた谷の中へ踏み這入つた。前には直立した岩壁から逆様にくすの森が下つてゐた。訶和郎は馬から卑弥呼をおろして彼女に云つた。
「馬は進まず。姫よ、爾は我とともにこよひをすごせ。」
「追ひ手はいかに。」
「良し、姫よ、我は奴国の宿禰の子。我の父は長羅のために殺された。爾を奪ふつはものを奴国の宮にとどめて殺された。長羅は我の敵である。もし爾が不弥の国になかりせば、我の父は我とともに今宵を送る。爾は我の敵である。」
「我のつまは長羅の剣に殺された。」
「我は知らず。」
「我の父は長羅の兵士に殺された。」
「我は知らず。」
「我の母は長羅のために殺された。」
「やめよ、我は爾の敵ではない。爾は我の敵である。不弥の女。我は爾を奪ふ。我は長羅にふくしうのため、我は爾に復讐のため、我は爾を奪ふ。」
「待て。我のふくしうは残つてゐる。」
うみの女。」
「待て。」
「不弥の女。我の願ひを容れよ。然らずば、我は爾を刺すであらう。」
「我の良人は我を残して死んだ。我の父と母とは、我のために殺された。ひとり残つてゐる者は我である。刺せ。」
「不弥の女。」
「刺せ。」
「我に爾があらざれば、我は死するであらう。我の妻になれ。我とともに生きよ。我に再び奴国の宮へ帰れと爾は云ふな。我を待つ物は剣であらう。」
「待て。我の復讐は残つてゐる。」
「我は復讐するであらう。我は爾に代つて、父に代つて復讐するであらう。」
「するか。」
「我は復讐する。我は長羅を殺す。」
「するか。」
「我は爾をうみを奴国の王妃にする。」
その夜二人は婚姻した。頭の上には、蘭を飾つたふぢかづらと、数条のつたとがけやきの枝から垂れ下つてゐた。二人のふしどしだにらかりかやとであつた。さうして、ひみこは、再び新しい良人の腕の中に身を横たへた。訶和郎は馬から鹿の毛皮で造られたばせんおろして、その妻の背にかけた。月は昇つた。かわろは奴国の追ひ手を警戒するために、剣を抜いたまま眠らなかつた。むささびは楠の穴から出てくると、ひとり枝々の間を飛び渡つた。月の映る度毎に、むささびの眼は青く光つて輝いた。さして訶和郎の二つの眼と剣の刃は、山韮と刈萱の中で輝いた。
その時、突然、卑弥呼は身をふるはせて訶和郎の腕の中で泣き出した。

十二編集

その夜から、なこくの野心ある多くの兵士達は、うみの女を捜すために宮をつた。彼らの中にあらかと云ふ一人の兵士があつた。彼の額から片頰にかけて、田虫が根強く巣を張つてゐたために、彼のけつけいほりものは、奴国の誰よりも淡かつた。彼は卑弥呼がとんそうした三日目の真昼に、森を脱け出た河原の岸で、馬のいななきを聞きつけた。彼はすすきを分けてその方へ近づくと、馬の傍で、足を洗つてゐる不弥の女の姿が見えた。荒甲は背を延ばして馳け寄らうとした時に、兎とはぜをとげた訶和郎が芒の中から現れた。
「ああ、爾は荒甲、不弥の女を爾は見たか。」
荒甲は黙つて不弥の女の姿を指した。訶和郎は荒甲の首に手をかけた。と、荒甲の身体は、飛び散るはぜと兎とともに、芒の中に転がされた。訶和郎は石塊を抱き上げると、起き上らうとする荒甲の顔をめがけて投げつけた。荒甲の田虫は眼球と一緒に飛び散つた。さうして、芒の茎にたかると、濡れたとさかのやうにひらひらとゆらめいた。かわろは死体になつた荒甲の胴を一蹴り蹴ると、追手のあしおとを聞くために、地にひれ伏してこけの上に耳をつけた。彼は妻の傍に馳けていつた。
「奴国の追手が近づいた。乗れ。」
馬はひみこと訶和郎を乗せて瀬を渡つた。数羽のやまがもと雀の群れが柳の中から飛び立つた。前には白雲をたなびかせた連山がまごもすすきの穂の上に連つてゐた。
「かの山々は。」
うみの山。」
「追手は不弥へ廻るであらう。」
「廻るであらう。」
卑弥呼は訶和郎とともに不弥に残つた兵士達を集めて奴国へめ入る計画を立ててゐた。しかし、二人を乗せた馬の頭は進むに従ひ、不弥を外れてやまとの方へ進んでいつた。秋の光りは訶和郎の背中に廻つた衣の結び目を中心として、羽毛の畑のやうなすすきの穂波の上に明るく降り注いだ。さうして、微風が吹くと、一様に背を曲げる芒の上から、首を振りつつ進む馬の姿が一段と空に高まつた。空ではつぶりとびとが円く空中の持ち場を守つて飛んでゐた。

十三編集

その夜の付帯は数里の森と、二つの峰とを越して小山の原に到着した。そこにはしゐみかんが茂つてゐた。猿は二人の頭の上を枝から枝へ飛び渡つてゐた。かわろは野犬とおほかみとを防ぐがために、ほだいた。彼等は、数日来の経験から、追手の眼より野獣の牙を恐れねばならなかつた。ひみこはひとり訶和郎に添つて身を横たへながら目覚めてゐた。なぜなら、その夜は彼女の夜警の番であつたから。夜は更けた。彼女は椎のこずえの上に、むらがつた笹葉の上に、さうして静な暗闇に垂れ下つたふぢづるの隙々に、亡きひこおほえの姿を見た。
卑狗の大兄の幻が彼女の眼から消えてゆくと、彼女は涙に濡れながら、再び燃え尽きるほだの上へ新しく枯枝を盛り上げた。猿の群れは梢を降りて焚火の周囲に集つて来た。さうして、彼女が枯枝を火に差しべる度毎に、彼らも彼女を真似て差し燻べた。
榾柮の次第に尽きかけた頃、さんろくの闇の中から、突然に地を踏み鳴らす軍勢の響が聞えて来た。卑弥呼は傍の訶和郎を呼び起した。
「奴国の追手が近づいた、逃げよ。」
訶和郎は飛び起きると足で焚火を踏み消した。再び兵士達のときの声が張り上つた。二人は馬に飛び乗ると、立木に突きあたりつつ小山の頂上へ馳け登つた。すると、すすきの原におほはれたその小山の背面からは、一斉に枯木の林がどよめきながら二人の方へ進んで来た。それは牡鹿の群れだつた。馬は散乱する鹿の中を突き破つて馳け下つた。と、腹の裾からちがやを踏んで一団の兵士が現れた。彼等は一列に並んだまま、すそから二人の方へ締め上げる袋のひものやうに進んで来た。かわろは再び鹿の後から頂上へ馳け戻つた。その時、椎と蜜柑の原の中から、再び新しい鹿の群れが頂へ向つて押しせて来た。さうして、訶和郎の馬を混へた牡鹿の群れの中へ突入して来ると、鹿のかたまりは更に大きく混乱しながら、吹き上げる黒い泡のやうに頂上でどよめいた。しかし、間もなく、うずまく彼らの団塊は、細長く山の側面に川波のやうに流れていつた。と、行手の裾に、兵士達のたいまつが点々と輝き出した。そして、それらの松明は、見る間に一列の弧線を画いてひろがると、たちまち全山の裾を円形に取り包んで縮まつて来た。鹿の流れは訶和郎の馬を浮べて逆上した。再び彼らの団塊は、小山の頂で踏み合ひ乗り合ひつつふつとうした。松明を映した鹿の眼は、明滅しながら弾動する無数の玉のやうに輝いた。その時、一つのほらが松明の中で鳴り渡つた。兵士達の収縮する松明の環は停止した。それと同時に、すすきの原の空中からは一斉に矢の根が鳴つた。鹿の群れは悲鳴を上げて散乱した。訶和郎の馬はね上つた。と、訶和郎は卑弥呼を抱いたまま草の上へ転落した。しかし、彼はくぼちの中に這ひ降りると、彼女のたてのやうにひれ伏して矢を防いだ。矢に射られた鹿の群れは、原の上を狂ひ廻つて地に倒れた。忽ち窪地の底で抱き合ふ二人の背の上へ、鹿の塊りがひき続いて落ち込むと、間もなく、雑然として盛り上つた彼らは、突き合ひ蹴り合ひつつ次第に静に死んでいつた。さうして、彼らの傷口からほとばしる血潮は、石垣のすきまを漏れる泉のやうにこんこんと流れ始めると、二人の体を染めながら、窪地の底のこけの中まで滲み込んでいつた。

十四編集

かわろひみことを包んだつはものたちは、ひとこのかみに率ゐられて、遠巻きに鹿の群れを巻き包んで来たやまとの国の兵士達であつた。彼らは小山の頂上で狂乱する鹿の群れの鎮まるのを見ると、松明の持ち手の後から頂へ馳け登つた。明るく輝き出した頂は、散乱した動かぬ鹿の野原であつた。やがて、兵士達は松明の周囲へことごとく集つて来ると、それぞれ一匹の鹿を引きつて再び山のふもとの方へ降りていつた。その時、頂上の窪地の傍で群つた一団の兵士達が、血に染つた訶和郎と卑弥呼を包んで喧騒した。二人を見られぬ人達は、違く人垣の外で口々に云ひ合つた。
「鹿の中から美女と美男がいて出た。」
「赤い美女が鹿の腹から湧いて出た。」
「鹿の美女は人間の美女よりも美しい。」
やがて、兵士達の集団は、訶和郎と卑弥呼を包んだまま、彼等のひとこのかみはんやの方へ進んでいつた。
「王よ。」と兵士達の一人はひざまづいて反耶に云つた。
「鹿の中から若い男女が現れた。彼らを撃つか。」
君長の反耶は、傍の兵士の持つた松明をとると、頭上に高くかざして二人の姿を眺めてゐた。
「我らは遠く山を越えて来れるうみの者。我らを放せ。」とかわろは云つた。はんやの視線は訶和郎からひみこの方へ流れた。
「爾は不弥の国の旅人か。」
「然り。我らは不弥へ帰る旅の者。我らをゆるせ。」と卑弥呼は云つた。
やまとの宮はかの山の下。爾らは我の宮を通つて旅に行け。」
ゆるせ。吾らの路は爾の宮よりはづれてゐる。吾らは明日の旅を急ぐ者。」
反耶は松明を投げ捨てて、兵士達の方へ向き返つた。
「行け。」
兵士達は王の言葉を口々に云ひ伝へてどよめき立つた。再び小山の頂では地をすべる鹿の死骸の音がした。その時、突然、卑弥呼の頭に浮んだものは、彼女自身のたぐひ稀なる美しき姿であつた。彼女は邪馬台の君長を味方にして、直ちに奴国へ攻め入る計画を胸に描いた。
「待て。王よ。」と卑弥呼は云ふと、並んだつぼみのやうな歯を見せて、やまとの君長に微笑を投げた。
「爾は吾らを爾の宮に伴なふか。吾らは爾の宮を通るであらう。」
「ああ、不弥の女。爾らは我の宮を通つて不弥へ帰れ。」
「卑弥呼。」と訶和郎は云つた。
「待て。爾は吾に従つて邪馬台を通れ。」卑弥呼は訶和郎の腕に手をかけた。
「卑弥呼、吾らの路は外れて来た。やまとを廻れば、吾らの望みも廻るであらう。」
「廻るであらう。」
「吾らの望は急いでゐる。」
「訶和郎よ。邪馬台の宮はうみの宮よりなこくへ近い。」
「不弥へ急げ。」
「邪馬台へ廻れ。」
「卑弥呼。」
訶和郎は、眼を怒らせて、卑弥呼の腕を突き払つた。その時、今迄反耶の横に立つて、卑弥呼の顔を見続けてゐた彼の弟の片眼のはんゑは、小脇に抱いたほらがひを訶和郎の眉間に投げつけた。訶和郎はよろめきながら剣のかぶつちに手をかけた。反絵の身体は訶和郎の胸に飛びかかつた。訶和郎は地に倒れると、いばらむしつて反絵の顔へ投げつけた。一人の兵士は鹿の死骸で訶和郎を打つた。続いて数人の兵士達のたいまつは、跳ね上らうとする訶和郎の胸の上へ投げつけられた。火は胸の上で蹴られた花のやうに飛び散つた。
「彼を縛れ。」と反絵は云つた。
数人の兵士達は、ふぢづるを持つて一時に訶和郎の上へ押しかむさつた。
「王よ、彼をゆるせ、彼は吾のつま、彼を赦せ。」卑弥呼は王の傍へ馳け寄つた。反絵は藤蔓で巻かれた訶和郎の身体を一本の蜜柑の枝へ吊り下げた。ひみこは王の傍からかわろの下へ馳け寄つた。
「彼を赦せ、彼は我のつま、彼を赦せ。」
反絵は卑弥呼を抱きとめると、兵士達の方を振り返つて彼らに云つた。
「不弥の女を連れよ。山を下れ。」
一団の兵士は卑弥呼の傍へ押し寄せて来た。と、見る間に、彼女の身体は数人の兵士達の上へ浮き上り、跳ねながら、蜜柑の枝の下から裾の方へ下つていつた。
訶和郎は垂れ下つたまま、蜜柑の枝に足を突つ張つて、遠くになはれてゆく卑弥呼の姿をにらんでゐた。兵士達のたいまつは、谷間から煙のやうに流れ出た夜霧の中を揺れていつた。
「妻を返せ。妻を返せ。」
蜜柑の枝は、訶和郎の脣からざくろつぶのやうな血がしたたる度毎に、遠ざかる松明の明りの方へ揺らめいた。その時、兵士達の群れから放れて、ひとり山腹へ引き返して来た武将があつた。それはかのひとこのかみの弟はんゑであつた。彼はすすきの中に立ち停ると、片眼で山上に揺られてゐる一本の蜜柑の枝をねらつて矢を引いた。蜜柑の枝は、一段と闇の中で激しく揺れた。訶和郎の首は、猟人の獲物のやうに矢の刺さつた胸の上へ垂れ下つた。間もなく、濃霧は松明の光りをその中にぼかしながら倒れた芒の原の下から静かにだんだんと訶和郎の周囲へ流れて来た。

十五編集

やまとの兵士達が彼らの宮へ帰つたとき、卑弥呼はひとり捕虜の宿舎にあてられるいしぐらの中に入れられた。それは幸運な他国の旅人に与へられる邪馬台の国の習慣の一つであつた。彼女の石窖は奥深い石灰洞から成つてゐた。数本のしようにゆうせきの柱は、ひだ打つ高い天井の岩壁から下つてゐた。さうして、僅かに開けられた正方形の石の入口には、太いけやきかうしが降され、その前には、背中と胸とに無数の細いとかげの絵でもつて、大きな一つの蜥蜴をほりものした一人の奴隷がつけられてゐた。彼の頭にはよめなの汁で染められた藍色のからむしきれを巻きつけ腰には継ぎ合したいたちの皮がまとはれてゐた。
卑弥呼は兵士達に押し込められた乾草の上へ顔を伏せて倒れてゐた。夜はけた。兵士達のさざめく声は、彼らの披露とねむけのために邪馬台の宮から鎮まつた。さううして、森からは霧をとほしてふくろふと狐の声がいしぐらの中へ聞えて来た。かつて卑弥呼が森の中でひこおほえの胸に抱かれて梟の声を真似たのは、過ぎた平和の日の一夜であつた。曾て、彼女が訶和郎の腕の中で狐の声を聞いたのは、過ぎた数日前の夜であつた。
「ああ、訶和郎よ、もし我が爾に従つてうみへ廻れば、我は今爾とともにゐるのであらう。ああ、訶和郎よ、我をゆるせ。我は卑狗を愛してゐる。爾は我のために傷ついた。」
卑弥呼は頭を上げてかうしの外を見た。外では、弓を首によせかけた奴隷が、消えかかつたかがりびの傍で乾草の上に両手をついて、いしぐらの中を覗いてゐた。彼女は格子の傍へ近寄つた。そして、臆病な犬のやうな奴隷の二つの細い眼にえんぜんと微笑を投げて、彼に云つた。
「来れ。」
奴隷はめやにかたまつたさかまつげをしぱたたくと、大きく口を開けたまま背を延ばした。弓は彼の肩からすべり落ちた。
「爾は鹿狩りの夜を見たか。」
「見た。」
「爾は我の横に立てる男を見たか。」
「見た。」
卑弥呼は首からまがたまはづすと、彼の膝の上に投げて云つた。
「爾は彼を見に山へ行け。爾は彼を伴なへ。爾は玉をかけて山へ行け。我は爾にその玉を与へよう。」
奴隷は彼女の勾玉を拾つて首へかけた。勾玉は彼の胸の上で、青いとかげいれずみを叩いて音を立てた。彼は加はつた胸の重みをあいぐわんするかのやうに、ひとり微笑を洩しながら玉を撫でた。
「夜は間もなく明けるであらう、行け。」と卑弥呼は云つた。
奴隷は立ち上つた。さうして、胸をおさへると彼の姿は夜霧の中に消えていつた。しかし、間もなく、彼の足音に代つて石を打つ木靴の音が聞えて来た。卑弥呼は再び格子の外を見ると、そこには霧の中にひとり王のはんやが立つてゐた。
うみの女、爾は何故に眠らぬか、我はやまとの国王の反耶である。」とひとこのかみは卑弥呼に云つた。
「王よ、邪馬台のいしぐらは我の宮ではない。」
「爾に石窖を与へた者は我ではない。石窖は旅人の宿、もし爾を傷つけるなら、我は我の部屋を爾のために与へよう。」
「王よ、爾は何故に、我が傍に我のつまを置くことをゆるさぬか。」
「爾と爾の夫とを裂いた者は我ではない。」
「爾は我の夫を呼べ。夜が明ければ、我は不弥に帰るであらう。」
「爾の行く日に我は爾に馬を与へよう。爾は爾の好む日まで邪馬台の宮にゐよ。」
「王よ、爾は何故に我のとどまることを欲するか。」
「一日滞る爾の姿は、一日邪馬台の宮を美しくするであらう。」
「王よ、我の夫を呼べ。我は彼とともに滞まらう。」
「夜が明ければ、我は爾に爾の夫と、部屋とを与へよう。」
反耶の木靴の音はしばらく格子の前で廻つてゐた。さうして、彼の姿は夜霧の中へ消えていつた。洞内の一隅ではひとすぢの水のしたたりが静に岩を叩いてゐた。

十六編集

はんゑは鹿狩りの疲労と酒のために、計画してゐたひみこの傍へ行く可き時を寝過した。さうして、彼がめざめたときは、やまとの宮は、朝日を含んだ金色の霧の底に沈んでゐた。
彼はたいまつの炭を踏みながら霧を浮べた園の中で、堤のやうに積み上げられた鹿の死骸の中を通つていつた。彼の眠り足らぬ足は、鹿の堤から流れ出てゐる血の上ですべつた。遠くの麻のはむらの上を、野牛の群れが黒い背だけを見せて森の方へ動いていつた。するとその最後の牛の背が、にはかに歩を早めて馳け出したとき、いれずみのために青まつた一人の奴隷の半身が、赤く血に染つた一人の身体を背負つて、だんだんと麻の葉叢の上に高まつて来た。さうして反絵が園を斜めに横切つて、卑弥呼のいしぐらを眺めて立つた時、奴隷のとかげは一層曲りながら、石窖へ通る岩の上を歩いていつた。奴隷をにらんだ反絵の片眼は強く反りを打つた鼻柱の横で輝いた。
「ああ、かわろよ。」と石窖から卑弥呼の声が聞えて来た。
奴隷は背負つた赤い死体の胸を石窖の格子に立てかけて、倒れぬ様に死体の背を押しつけた。格子の隙から卑弥呼の白い両手が延びると、垂れた訶和郎の首を立て直して云つた。
「ああなんぢは死んだ。爾はふくしうを残して死んだ。爾は我のために殺された。」
奴隷は死体の背から手を放した。彼は歓喜の微笑をもらしながら、首のまがたまを両手でんだ。訶和郎の死体は格子を撫でて地に倒れた。
反絵は毛の生えたたくましいそのすねで霧を揺るがしながら、いしぐらの前へ馳けて来た。
訶和郎を抱き上げようとして身をかがめた奴隷は、足音を聞いて背後を向くと、反絵の脣からむき出た白い歯並が怒気を含んで迫つて来た。奴隷は吹かれたやうに一飛び横へ飛びのいた。
「女はわれに玉を与へた。玉は我の玉である。」
彼は胸のまがたまおさへながら、くぬぎひのきの間に張り詰つたくもの網を突き破つて森の中へ馳け込んだ。
反絵はいしぐらの前まで来ると格子を握つて中を覗いた。
卑弥呼は格子に区切られたまま倒れた訶和郎の頭の前に坐つてゐた。
「旅の女よ。」と反絵は云つてその額を格子につけた。
卑弥呼は訶和郎を指差しながら、反絵をにらんで云つた。
「爾の獲物はこれである。」
「やめよ、我は爾と共に山を下つた。」
「爾の矢は我のつまの胸に刺さつてゐる。」
「我は爾の傍に従つてゐた。」
「爾のゆづるは爾の手に従つた。」
「爾の夫を狙つた者は奴隷である。」
「奴隷は吾に従つた。」
はんゑは奴隷の置き忘れた弓と矢を拾ふと、破れた蜘蛛の巣を潜つて森の中に駈け込んだ。しかし、彼の片眼に映つたものは、霧の中に包まれた老杉と踏みにじられたしだの一条の路とであつた。彼はその路をたどりながら森の奥深く進んでいつた。しかし、彼の片眼に映つたものは、茂みの隙間から射し込んだ朝日のしまを切つて飛び立つきじと、霧の底でうごめく野牛のおぼろに黒い背であつた。さうして、露はただ反絵の固いみづらを打つた。が、路は一本の太いかやの木の前で止つてゐた。彼は立ち停つて森の中を見廻した。頭の上から露の滴りが一層激しく落ちて来た。反絵はふと上を仰ぐと、かやこずえの股の間に、奴隷のとかげの刺青が青いこぶのやうに見えてゐた。反絵は蜥蜴を狙つて矢を引いた。すると、奴隷の身体は円くなつて枝にあたりながら、熟した果実のやうに落ちて来た。反絵は、舌を出してうつぶせに倒れてゐる奴隷の方へ近よつた。その時、奴隷の頭髪からはづれかかつた一連のまがたまが、へし折れたしだの青い葉の上で、露に濡れて光つてゐるのが眼についた。彼はそれをはづすと自分の首へかけ垂らした。

十七編集

霧はだんだんと薄らいで来た。さうして、森やくさむらの木立の姿が、朝日の底からあざやかに浮き出して来るに従つて、煙の立ち昇るしのやからは木を打つ音やさざめく人声が聞えて来た。しかし、いしぐらの中では、ひみこは格子を隔てて、倒れてゐるかわろの姿を見詰めてゐた。数日の間に第一の良人を刺され、第二の良人を撃たれた彼女の悲しみは、もはや彼女の涙を誘はなかつた。彼女は乾草の上へ倒れては起き上り、起きては眼の前の訶和郎の死体を眺めて見た。しかし、みづらを解いて血に染まつてゐる訶和郎の姿は依然、格子の外に倒れてゐた。さうして、再び彼女は倒れると、胸に剣を刺されたひこの姿が、乾草の匂ひの中から浮んで来た。彼女はただぼうぜんとして輝く空にだんだんと溶け込む霧の世界を見詰めてゐた。すると、今迄彼女の胸にあふれてゐた悲しみは、突然憤怒となつて爆発した。それは地上の特権であつた暴虐な男性の腕力に刃向ふ彼女の反逆であり、怨恨であつた。彼女の眼は次第に激しく波動する両肩の起伏につれて、ますます冷く空の一点に食ひ入つた。ふとその時、くさむらの葉波が描いた地平の上から立ち昇つてゐる一条の煙が彼女の眼の一角に映り始めた。それは薄れゆく霧を突き破つて真直ぐに立ち昇り、うづまきながら円を開いてひろげた翼のやうにだんだんと空を領してゐる煙であつた。彼女は立ち上つた。さうして、格子をつかむと高らかに煙に向つて呼びかけた。
「ああ、大神はわれの手に触れた。吾は大空に昇るであらう。地上の王よ、我を見よ。我は爾らの上に日輪の如く輝くであらう。」
いしぐらかうしの隙から現れたひみこの微笑の中には、最早、ひこかわろも消えてゐた。さうして、彼等に代つてその微笑の中に潜んだものは、ただ怨恨を含めた残忍な征服欲の光りであつた。

十八編集

やまとの宮の若者達は、眼を醒ますとうはさに聴いた鹿の美女を見ようとして宮殿の花園へ押しよせて来た。彼らの或者は彼女に食はすがために、鹿の好む大バコや、ゆりねを持つてゐた。しかし、彼らの誰もが鹿の美女を捜し出すことが出来なくなると、やがて庭園に積まれた鹿の死体が彼らの手によつて崩し出された。その時、ひとこのかみはんやの命を受けた一人のしべは厳かな容姿を真直ぐに前方へ向けながら、彼らの傍を通り抜けていしぐらの方へ下つていつた。若者達の幾らかは直ちに彼の後から従つた。使部は石窖の前まで来ると、そのかんぬきをとりはづし、けやきの格子を上に開いてひざまづいた。
「王はなんぢを待つてゐる。」
間もなく若者達は、暗い石窖の中から現れた卑弥呼の姿を見ると、ひとしく足を停めて首を延ばした。彼女は入口に倒れてゐるかわろを抱き上げるとそこから動かうともしなかつた。
「王は爾を待つてゐる。」と、再びしべは彼女に云つた。
卑弥呼は訶和郎の胸から顔を上げて使部を見た。
「爾は王の前へ彼をともなへ。」
「王は爾を伴なへと我に云つた。」
「王は彼を伴なふを我にゆるした、連れよ。」
使部は訶和郎の死体を背に負つて引き返した。卑弥呼は乱れた髪と衣に、乾草の屑をたからせて使部の後から石の坂道を登つていつた。若者達は左右に路を開いて彼女の顔を覗いてゐた。さうして、彼女の姿が彼らの前を通り抜けて、高い麻の葉波に消えようとしたとき、初めて彼らの曲つた腰は静に彼女の方へ動き出した。彼らの肩は狭い路の上で突きあたつた。が、百合根を持つた一人の若者は後の方で口を開いた。
「鹿の美女は森にゐる。森へ行け。」
若者達は再び彼の方を振り向くと、石窖の前から彼に従つて森の中へ馳け込んだ。

十九編集

ひみこの足音が高縁の板をきしめて響いて来た。君長のはんやは、竹のやりどわらべをに開かせた。薄紅に染つた萩の花壇の上には、霧の中で数羽の鶴が舞つてゐた。さうして、朝日を背負つた一つの峯は、花壇の上で絶えず紫色の煙を吐いてゐた。
やがて卑弥呼は使部の後から現れた。君長は立ち上つて彼女に云つた。
「旅の女よ。爾は爾の好む部屋に行け。我は爾のためにその部屋を飾るであらう。」
「王よ。」使部はひざまづいた膝の上へ訶和郎を乗せて云つた。「我は女の言葉に従つて若い死体を伴なうた。」
「旅の女よ。なんぢの衣は鹿の血のためにけがれてゐる。爾は新しきやまとの衣を手に通せ。」
「王よ。若い死体はいしぐらの前に倒れてゐた。」
「捨てよ、爾に命じたのは死体ではない。」
「王よ、若い死体は吾のつまの死体である。」と卑弥呼は云つた。
反耶の赤い脣は微動しながら喜びの皺をその両端に深めていつた。
「ああ、爾は吾のために爾の夫を死体となした。着よ、吾の爾に与へたる衣は吾の心のやうに整うてゐる。」
王は隅にひかへてゐた一人の童男を振り返つた。童男は両手に桃色の絹を捧げたまま卑弥呼の前へ進んで来た。
「王よ。」と使部は訶和郎を抱き上げて云つた。「若い死体をいづこへ置くか。」
「旅の女よ、爾は爾の夫を何処へ置くか。」
その時、急に高縁の踏板が、け寄る荒々しい響を立てて振動した。人々は入口の空間に眼を向けると、そこへ怒つた反絵が馳け込んで来た。
「兄よ、旅の女が逃げ失せた。石窖の口が開いてゐた。」
「王よ。我は夫の死体を欲する者に与へるであらう。」と卑弥呼は云つた。さうして、使部の膝から訶和郎の死体を抱きとると、入口に立ち塞がつた反絵の胸へ押しつけた。
反絵は崩れた訶和郎のみづらを除けると片眼を出して彼女に云つた。
「吾は爾に代つて奴隷を撃つた、爾の夫を射殺した奴隷を撃つた。」
「やめよ。夫の死体を欲した者は爾である。」と、卑弥呼は云つた。
「旅の女よ、森へ行け、奴隷の胸には我の矢が刺さつてゐる。」
卑弥呼は反絵の片眼の方へ背を向けた。さうして、腰を縛つた古い衣のひもを取り、その脇に廻つた結び目を解きほどくと、彼女の衣は、葉を取られた桃のやうな裸体を浮べて、彼女のなめらかな肩から毛皮の上へすべり落ちた。
反耶の大きく開かれた二つの眼の曲線が、霧をとほした朝日の光りを区切つたために、七色のにじとなつて浮き立ちながら花壇の上ではばたく鶴の胸毛をだんだんにその横から現してゆくのが映つてゐた。さうして、反絵の銅の剣に戯れる鳩の頭のやうに微動するのが映つてゐた。卑弥呼は裸体を巻き変へた新しい衣の一端で、童男の捧げた指先を払ひながら部屋の中を見廻した。
「王よ。此の部屋を吾に与へよ。吾はここに停まらう。」
彼女は静に反耶の傍へ近寄つた。さうして、背に廻らうとする衣の二つの端を王に示しながら、彼の胸へ身を寄せかけて微笑を投げた。
「王よ。吾はやまとの衣を好む。爾は吾のために爾の与へた衣を結べ。」
はんやひみこを見詰めながら、その衣の端を手にとつた。よろこびに声を潜めた彼の顔は、ひげの中で彼女の衣の射る絹の光りを受けて薄紅色に栄えてゐた。部屋の中でかわろの死体が反絵の胸をすべつて倒れる音がした。反絵の指は垂れ下つた両手の先で、頭をもたげる十匹のかひこのやうに動き出すと、彼の身体は胸毛に荒々しい呼吸を示しながら次第に卑弥呼の方へ傾いていつた。
反耶は衣を結んだ両手を後から卑弥呼の肩へ廻さうとした。と、彼女は急にえうえんな微笑を両頰に揺るがしながら、彼の腕の中から身をひるがへして踊り出した。さうして、今や卑弥呼を目がけて飛びかからうとしてゐる反絵の方へ馳け寄ると、彼のつよい首へ両手を巻いた。
「ああ、爾は我のために我の夫を撃ちとめた。我を我の好むやまとの宮にとどめした者は爾である。」
「旅の女よ。我は爾の夫を撃つた。我は爾のまがたまを奪つた奴隷を撃つた。我は爾を傷つける何者をも撃つであらう。」
反絵の太い眉毛は潰れたまぶたを吊り上げてにうわな形を描いて来た。しかし反耶の空虚に拡がつた両腕は次第に下へ垂れ落ちると、反耶は剣を握つて床を突きながらしべに云つた。
「若い死体を外へ出せ。すくねを連れよ。鹿の死体の皮を剝げと彼に云へ。」
使部は床の上から訶和郎の死体を抱き上げようとした。卑弥呼は反絵の胸から放れると、急に使部から訶和郎を抱きとつて毛皮の上へ泣き崩れた。
「ああ、訶和郎、爾はうみへ帰れと我に云つた。我は邪馬台の宮にとどまつた。さうしてああ爾は我のために殺された。」
反絵は首から奴隷のまがたまを取りはづして卑弥呼の傍へ近寄つて来た。
「旅の女よ、我は奴隷の奪つた勾玉を爾に返す。」
「旅の女よ。立て。吾は爾のつまあくなの山へ葬らう。」と使部は云つて訶和郎の死体を抱きとつた。
「王よ。我をうみへ帰せ。爾の馬を我に与へよ。我は不弥の山へ我の夫葬らう。」
「爾の夫は死体である。」
「朝が来た、爾が我を不弥へ帰すを約したのは夕べである。馬を与へよ。」
「何故に爾は帰る。」
「爾は何故に我をとめるか。」
「我は爾を欲す。」
卑弥呼の顔は再び生々とした微笑のために輝き出した。さうして、彼女ははんやの肩に両手をかけると彼に云つた。
「旅の女、吾は爾を欲す。」と反絵は云つて彼女の方へ追つて来た。
卑弥呼は反耶に与へた顔の微笑を再び反絵に向けると彼に云つた。
「我はうみに帰らず。吾は爾らと共に邪馬台の宮にとどまるであらう。爾は吾のために、我に眠を与へよと王に願へ。我は数夜の眠りを馬の上で眠つて来た。」
「兄よ。此の部屋を去れ。」と反絵は云つた。
「爾の獲物は死体である。爾はえものを持つて部屋を去れ。」と反耶は云つた。
卑弥呼は二人にはさまれながら反耶の肩を柔かく入口の方へ押して云つた。
「王よ、我に眠りを与へよ。眼が醒めなば我は爾を呼ぶであらう。」
「不弥の女、吾も呼べ。兄が爾を愛するよりも我は爾を愛す。」
反絵は肩を立てて王をにらむと部屋の外へ出て行つた。
「女よ眠れ、爾の眼が醒めなば、吾は爾のために此の部屋を飾らう。」
はんやの卑弥呼にささやいた声に交つて、部屋の外からは、反絵のどらのやうな声が響いて来た。
「兄よ。部屋を出よ。我は爾よりも先に出た。不弥の女よ、兄を出せ。」
反弥は眉間にしわを落して入口の方へ歩いて行つた。童男は彼の後から従つた。使部は最後に訶和郎の死体を抱いて出ようとすると、卑弥呼は彼の腕から訶和郎を奪つて荒々しく竹のやりどを後から閉めた。
「ああ、訶和郎、吾をゆるせ。吾は爾のふくしうをするであらう。」
彼女は床の上へ坐つて、歯をみしめた訶和郎の顔に自分の頰をすり寄せた。しかし、その冷たい死体の感触は、やがひこおほえの頰となつて彼女の頰に伝はつた。彼女の顔は流れる涙のために光つて来た。
「ああ、大兄よ。爾は爾の腕の中に我を雌雉子の如く抱きしめた。爾は吾を吾が爾を愛するごとく愛してゐた。ああ大兄、爾は何処へ行つた。帰れ。」
彼女は両手で頭をかかへると立ち上つた。
「大兄、大兄、我は爾の復讐をするであらう。」
彼女はよろめきながら部屋の中を歩き出した。脱ぎ捨てた彼女の古い衣は彼女の片足にまとわりついた。さうして、彼女の足が厚いみあしの継ぎ目に入ると、彼女は足をとらわれてどつと倒れた。

二十編集

反絵は閉ざされたひみこの部屋の前に、番犬のやうにかがんでゐた。前方の広場では、兵士達が歌ひながら鹿の毛皮を剝いでゐた。彼らの剣はわいせつなかけ声と一緒に鹿の腹部に突き刺さると、忽ち鹿は三人からなる一組の兵士によつて裸体にされた。間もなく今まで積まれてあつた鹿の小山の褐色の色が、麻のはむらの上からだんだんに減つてくると、それにひきかへて、さんごいろの鹿の小山が新しく晴れ渡つた空の中に高まつて来た。手の休まつた兵士達は、血の流れた草の上で角力をとつた。ほくらの裏の篠屋では、狩猟を終つたきやうえんの準備のために、速成の鹿の漬物が作られてゐた。兵士達は広場から運んだ裸体の鹿を、地中に埋まつたおほがめの中へ塩塊と一緒に投げ込むと彼らはその上で枯葉を焚いた。その横では、不足な酒を作るがために、兵士達は森から摘みとつてきた黒松葉をあつさくして汁を作つてゐた。ここでは、その仕事の効果が最も直接に彼ら自身の口を喜ばすがために、歌ふ彼らの声も、いづれの仲間達の歌より一段と威勢があつた。
反絵は時々戸の隙間から中をのぞいた。薄暗い部屋の中からは、一条の寝息が絶えずかすかに聞えてゐた。彼は顔をしかめて部屋の前を往き来した。しかし、兵士達の広場でさざめく声が一層賑はしくなつて来ると、彼は高い欄干から飛び下りてその方へ馳けて行つた。今や麻の草場の中では、角力の一団が最も人々を集めてゐた。反絵は彼らの中へ割り込むと今まで勝ち続けてゐた一人の兵士の前に突きたつた。
「来れ。」と彼は叫んでその兵士の股へ片手をかけた。兵士のたいくは、反絵の胸の上で足を跳ねながら浮き上つた。と、反絵は彼の身体の倒れた草の上へ投げて大手を上げた。
「我を倒した者に剣をやらう。来れ。」
その時反絵の眼には、しらさぎの羽根束をかかへた反耶の二人のしべが、積まれた裸体の鹿の間を通つてひみこの部屋の方へ歩いて行くのが見えた。反絵の拡げた両手はだんだんと下へ下つた。
「よし、我は爾に勝たう。」と一人が云つた。それは反絵に倒されたつはものまゆであつた。彼は立ち上ると、血のついたみづらで反絵の腹をめがけて突進した。
「放せ、放せ。」と、反絵は云つた。が、彼の身体は曲つた真油の背の上で舟のやうにつてゐた。と、次の瞬間、彼は踏みにじられた草の緑に眼がつくと、反耶に頰笑むうみの女の顔を浮べて逆様に墜落した。
「我に剣を与へよ。我は勝つた。我は爾に勝つた。」
ひとり空の中で喜ぶ真油の顔が高く笑つた。反絵は怒りのバネに跳ね起されると、波立つ真油の腹を蹴り上げた。真油は叫びを上げててんたうした。それと同時に反絵は卑弥呼の部屋の方を振り返ると、やりどの中へ消えようとしてゐる使部の黄色い背中が、どよめく兵士達の頭の上から見えてゐた。
「真油は死んだ。」
「真油は蹴られた。」
「真油の腹は破れてゐる。」
広場では兵士達の歌がやまつた。あちらこちらのくさむらの中から兵士達は動かぬ真油を中心に馳け寄つて来た。しかし、反絵は彼らとは反対に広場の外へ、鹿の死体を飛び越え、馳けよる兵士達を突き飛ばし、麻の葉叢の中を一文字にしべ達の方へ突進した。
やりどの中では、卑弥呼の眠りに気使ひながら、二人の使部は、しらさぎの尾羽根を周囲の壁となつたまろぎの隙に刺してゐた。
反絵は部屋の中へ飛込むと、一人の使部の首をつかんで床の上へ投げつけた。使部の腕からはかかへた白鷺の尾羽根が飛び散つた。
「我を赦せ。王は部屋を飾れと我に命じた。」転がりながら叫ぶ使部の上で、白鷺の羽毛が、叩かれた花園の花弁のやうにひらひらと舞つてゐた。反絵はこぶしを振りながら使部の腰を蹴つて叫んだ。
「部屋を出よ、部屋を出よ、部屋を出よ。」
二人の使部は直ちにやりどの外へ逃げ出した。そのとき、彼らに代つて、両手にりんだうと萩とをかかへた他の二人の使部が這入つて来た。反絵は二人の傍へ近寄つた。さうして、その一人の腕から萩の一束を奪ひとると、彼の額を打ち続けてまた叫んだ。
「部屋を出よ、部屋を出よ、部屋を出よ。」
おほえ、吾は王の言葉に従つた。」
「去れ。」
「大兄、我は王のためにむちうたれるであらう。」
「行け。」
二人の使部は出ていつた。が彼らに続いてまた直ぐに二人の使部が、鹿の角を肩に背負つて這入つて来た。反絵は散乱した羽毛と萩の中に突き立つてひみこの寝顔を眺めてゐた。彼は物音を聞きつけて振り返ると、床へ投げ出された鹿の角の一枝を、肩にひつかけたまま逃げる使部の姿が、やりどの方へ馳けて行くのが眼についた。反絵は捨てられた白鷺の尾羽根とりんだうの花束とを拾ふと、使部達に代つて円木の隙に刺していつた。彼は時々手を休めて卑弥呼の顔を眺めてみた。しかし、その度に、細く眼を見開いて彼の後姿を眺めてゐた卑弥呼のまぶたは、再び眠りのさまを装つた。
うみの女。」と反絵はその野蛮な顔にこびの微笑を浮べて彼女を呼んだ。
「不弥の女。見よ、我は爾の部屋を飾つてゐる。不弥の女。起きよ。我は爾の部屋を飾つてゐる。」
卑弥呼の眠りは続いてゐた。さうして、反絵のとり残されたこびの微笑は、ひとりだんだんと淋しい影の中へ消えていつた。彼は卑弥呼の頭の傍へ近寄つて片膝つくと、両手で彼女のあをじろい頰を撫でてみた。彼は胸に迫る呼吸のために次第に波動を高めて来ると、彼の手にたかつてゐた一片の萩の花弁も、手の甲と一緒に彼女の頰の上でふるへてゐた。
「不弥の女。不弥の女。」と彼は呼んだ。が、彼の胸の高まりは突然に性の衝動となつて変化した。彼の赤い脣は開いて来た。彼の片眼はあをみを帯びて光つて来た。さうして、彼女の頬を撫でてゐた両手が動きとまると、彼の体軀は漸次に卑弥呼の胸の方へ延びてきた。しかし、その時、怨恨を含んだ歯を現して、鹿の毛皮から彼の方を眺めてゐるかわろの死体の顔が眼についた。反絵の慾情に燃えた片眼は、忽ち恐怖の光りを発して拡がつた。が、次の瞬間、いどみかかる激情の光りを急変すると、彼は立ち上つて訶和郎の死体を毛皮のままに抱きかかへた。彼は荒々しくやりどの外へ出ていつた。さうして、広場を横切り、森を斜に切つて、急に開けただんがいの傍まで来ると、抱へた訶和郎の死体をその上から投げ込んだ。訶和郎の死体は、眼下に潜んだへうべうとした森林の波頭の上で、数回の大円を描きながら、太陽の光りにきらきらと輝きつつ沈黙した緑の中へ落下した。

二十一編集

夜が深まると、再び濃霧が森林や谷間から狩猟の後の饗宴に浮かれてゐるやまとの宮へ押し寄せて来た。ばにわの草園では、霧の中で焚火が火の子をはじいて燃えてゐた。その周囲では宮の婦女達は赤と青とのとらふに染まつた衣を巻いて、若い男に囲まれながら踊つてゐた。踊り疲れた若者達は、なほも歌ひながらくさむらの中に並んだみわの傍へ集つて来た。彼らのなかの或者達は、それぞれ自分の愛する女の手をとつて、焚火の光りのとどかぬ森の中へ消えていつた。王はんやは大夫達の歓心に強ひられた酒のために、だんだんと酔ひが廻つた。彼はひみこの部屋の装飾を命じた五人のしべに、王命の違反者として体刑を宣告した。五人の使部は、武装した兵士達の囲みの中で、王の口から体刑停止の命令の下るまで鞭打たれた。彼らの背中の上で、竹の根鞭の鳴るのとともに、さかほがひの歌は草園の焚火の傍でますます乱雑に高まつた。さうして、遠い国境の一つの峰から立ち昇つてゐた噴火の柱は、霧の深むにつれて次第にその色を鈍い銅色に変へて来ると、違反者の背中は破れ始めて血が流れた。彼らは地にひれ伏して草を引きむしりながら悲鳴を上げた。反耶はもんてんする彼らを見ると、卑弥呼にその体刑を見せんがために彼女の部屋の方へ歩いていつた。ぜなら、もし彼女がやまとの宮にゐなかつたら、反耶にとつてこの体刑は無用であつたから。しかし、反耶が卑弥呼の部屋の遣戸を押したとき、毛皮を纏つて横たはつてゐるうみの女の傍に、一人の男がしやがんでゐた。それは彼の弟のはんゑであつた。
「不弥の女、我と共と来れ。我は爾のために我の命にそむいた使部を罰してゐる。我は彼らに爾の部屋を飾れと命じた。」
「彼らをゆるせ。」と卑弥呼は云つて身を起した。
「反絵、爾は此の部屋を出でよ、酒宴の踊りはかなたである。」と反耶は云つて反絵の方を振り向いた。
「兄よ、爾のきさきは、爾と共に踊りを見んとして待つてゐた。」
「不弥の女、来れ。我は爾を呼びに来た。爾の部屋を飾り忘れた使部の背中は、鞭のために破れて来た。」
「彼らをゆるせ。」と卑弥呼は云つた。
「よし、我は兄に代つて彼らを赦すであらう。」と反絵は云つてやりどの方へ出ようとすると、反耶は彼の前に立ち塞つた。
「待て、彼らを罰したのは我である。」
反絵は兄の手を払つて遣戸の方へ行きかけた。反耶は卑弥呼の傍へ近寄つた。さうして彼女の腕に手をかけると彼女に云つた。
うみの女よ、酒宴の準備は整うた。爾は我と共に酒宴に出よ。」
「兄よ。不弥の女と行くべき者は我である。」と反絵は云つて遣戸の傍から反耶の方を振り返つた。
「行け、使部の積を赦すのは爾である。」
「不弥の女、我と共に酒宴に出よ。」反絵は再び卑弥呼の傍へ戻つて来た。
「王よ、我を酒宴に伴ふことをやめよ。爾は我と共に我の部屋にとどまれ。」
卑弥呼は反耶の手を取つてその傍に坐らせた。
「不弥の女、不弥の女。」反絵は卑弥呼をにらんで慄へてゐた。「爾は我と共に部屋を出よ。」
彼は彼女の腕をつかむと部屋の外へ出ようとした。
反耶は立ち上つて曳かれる彼女の手を持つて引きとめた。
「不弥の女、行くことをやめよ。我とともにゐよ。我は爾の傍に残るであらう。」
反絵は反耶の胸へ飛びかからうとした。そのとき、卑弥呼は傾く反絵の体軀をその柔かきてのひらで制しながらはんやに云つた。
「王よ、使部の傍へ我を伴へ。我は彼らを赦すであらう。」
彼女は一人先に立つて遣戸の外へ出ていつた。反絵と反耶は彼女の後から馳け出した。しかし、彼らが庭園の傍まで来かかつたとき、五人の使部は、最早死体となつて土にみついたまま横たはつてゐた。兵士達は王の姿を見ると、打ち疲れた腕に一段と力を籠めて、再び意気揚々としてその死体に鞭を振り上げた。
「鞭を止めよ。」と反耶は云つた。
「王よ、使部は死んでゐる。」と一人の兵士は彼に云つた。卑弥呼は振り向いて反絵の胸を指差した。
「彼らを殺した者は爾である。」
反絵は言葉を失つた啞者のやうに、ただその口を動かしながら卑弥呼の顔を見守つてゐた。
「来れ。」
と反耶は卑弥呼に云つた。さうして、卑弥呼の手をとると、彼は彼女を酒宴の広間の方へ導いていつた。
「待て、不弥の女、待て。」と反絵は叫びながら二人の後を追ひかけた。

二十二編集

卑弥呼は竹皮を編んで敷きつめた酒宴の広間へ通された。たいまつの光りに照された緑のかしはの葉の上には、さんせうの汁で洗はれたやまがへると、やまがにと、しやうがと鯉とほほづきと、まだ色ふかぬしらくちの実とが並んでゐた。さうして、ふたのとられたほかゐの中には、新鮮なすぎなに抱かれた鹿やゐのししの肉の香物が高々と盛られてあつた。その傍の素焼の大きなみわの中では、にぎしね製のもろはくざけが高い香を松明の光りの中にただよはせてゐた。最早酔の廻つた好色な一人のすくねは、再び座についた王の後で、侍女の乳房の重みを計りながら笑つてゐた。ひみこさかづきをとりあげた王に、ひしやくをもつて酒を注がうとすると、そこへ荒々しく馳けて来たのは反絵であつた。彼は王の盃を奪ひとると卑弥呼に云つた。
うみの女、しべを殺した者は兄である。爾は我に酒を与へよ。」
「待て、王は爾の兄である。盃を王に返せ。」と卑弥呼は云つて、彼女に差し出してゐる反絵の手から、柔にその盃を取り戻した。「王よ、我をやまとにとどめた者は爾である。今日より爾は爾の傍に我を置くか。」
「ああ、不弥の女。」と反耶は云つて、彼女の方へ手を延した。
「王よ、爾は不弥の国の王女を見たか。」
「盃を我に与へよ。」
「王よ、我は不弥の国の王女である。我の玉を爾は受けよ。」
卑弥呼は首からまがたまをとり脱すと、だうじやくとして彼女の顔を眺めてゐる反耶の首に垂れ下げた。
「王よ、我は我の夫となこくの国を廻つて来た。奴国の王子は不弥の国を亡ぼした。爾は我を愛するか。我は不弥の女卑弥呼と云ふ。」
「ああ、卑弥呼、我は爾を愛す。」
「爾は奴国を愛するか。」
「我は爾の国を愛す。」
「ああ、爾は不弥の国を愛するか。もし爾が不弥の国を愛すれば、我にやまとの兵を借せ。奴国は不弥の国の敵である。我の父と母とは奴国の王子に殺された。我の国は滅びてゐる。爾は我のために、奴国を攻めよ。」
「卑弥呼。」と横から反絵は云つた。さうして、彼は突き立つたまま彼女の前へその顔を近づけた。
「我は奴国を攻める。我は兄が爾を愛するよりも爾を愛す。」
「ああ、爾は我のために奴国を撃つか。坐れ、我は爾に酒を与へよう。」
卑弥呼は王に向けてゐたにこやかな微笑を急に反絵に向けると、その手をとつて坐らせた。反耶の顔は喜びに輝き出した反絵の顔にひきかへてゆがんできた。
「卑弥呼、邪馬台の兵は、我の兵である。反絵は我の一人の兵である。」と反耶は云つた。
反絵の顔はぼつぜんとして朱を浮べると、彼のこぶしは反耶のみづらを打つて鳴つてゐた。反耶は頭をかかへて倒れながらすくねを呼んだ。
「反絵を縛れ。宿禰、反絵を殺せ。」
併し一座の者は酔つてゐた。反絵はなほも反耶の上に飛びかからうとして片膝を立てたとき、卑弥呼は反耶と反絵の間へ割り込んで、倒れた反耶をひき起した。反耶は手に持つた酒盃を反絵の額へ投げつけた。
「去れ。去れ。」
反絵は再び反耶の方へ飛びかからうとした。卑弥呼は彼の怒つた肩に手をかけた。さうして、転がつてゐる酒盃を彼の手に握らせて彼女は云つた。
「やめよ、爾は我の酒盃をとれ。我に邪馬台の歌をきかしめよ。我は不弥の歌を爾のために歌ふであらう。」
「卑弥呼。我は邪馬台の兵を動かすであらう。邪馬台の兵は、兄の命より我の力を恐れてゐる。」
「爾の力は強きこと不弥のをうしのやうである。我は爾のごとき強き男を見たことがない。」と卑弥呼は云つて反絵の酒盃に酒を注いだ。
反絵の顔は、太陽の光りを受けた童顔のやうに柔ぐと、彼は酒盃から酒をしたたらしながら勢ひよく飲み干した。しかし、卑弥呼は、彼女の傍で反絵をにらみながら脣をみ締めてゐる反耶の顔を見た。彼女は再び柄杓の酒を傍の酒盃に満たして彼の方へ差し出した。さうして、彼女は左右の二人の酒盃の干されるたびに、にこやかな微笑を配りながらその柄杓を廻していつた。間もなく、反絵の片眼は赤銅のやうな顔の中で、一つもうろうと濁つて来た。さうして、王の顔は渋りながら眠りに落ちる犬のやうに傾き始めると、やがて彼は卑弥呼の膝の上に首を垂れた。卑弥呼は今はただ反絵のねいるのを待つてゐた。反絵はほかゐの中から鹿の肉塊をつかみ出すと、それを両手で振り廻してうたを歌つた。卑弥呼は彼の手をとつて膝の上へ引き寄せた。
外の草園では焚火の光りが薄れて来た。くさむらからは酔漢のうめきが漏れてゐた。さうして、次第に酒宴の騒ぎが宮殿の内外からしづまつて来ると、軈て、卑弥呼の膝を枕に転々としてゐた反絵も眠りに落ちた。卑弥呼は部屋の中を見廻した。しかし、一人として彼女のますますえ渡つたそのほがらかな眼を見詰めてゐる者は誰もなかつた。ただ酒気とかんせいとが乱れた食器の方々から流れてゐた。彼女は鹿の肉塊を冠つて眠つてゐる反絵の顔を見詰めてゐた。今や彼女には、かわろのためにふくしうする時が来た。剣は反絵の腰に敷かれてあつた。さうして彼女の第二の良人を殺害した者は彼女の膝の上に眠つてゐた。しかし、反絵のそのたくましい両肩の肉塊と、その狂暴な力にあふれたあごとに代つて、奴国に攻め入る者は、彼の他の何物がいづこの国にあるであらう。やがて、彼のために長羅の首は落ちるであらう。軈て、彼女はうみなこくやまとの国の三国に君臨するであらう。さうして、もしその時が来たならば、彼女は更に三つの力を以て、久しく攻伐し合つた暴虐な諸国の王をその足下にじうりんするときが来るであらう。彼女の澄み渡つたひとみの底から再び浮び始めた残虐な微笑は、静まつた夜の中をひとり毒汁のやうに流れてゐた。
「ああ、地上の王よ、我を見よ。我は爾らの上に日輪の如く輝くであらう。」
彼女は膝の上から反絵と反耶の頭を降ろして、静に彼女の部屋へ帰つて来た。しかし、彼女はひとりになると、またも毎夜のやうに、幻の中でひこの大兄の匂ひをいだ。彼は彼女を見詰めてほほえむと、立ちすくむ小鳥のやうな彼女の傍んへ大手を拡げて近寄つて来た。
「卑弥呼。卑弥呼。」
彼女は卑狗のささやきを聞きながら、卑狗の波打つ胸の力を感じると、崩れる花束のやうに彼の胸の中へ身を投げた。
「ああ、大兄、大兄、爾は何処へ行つた。」
彼女の身体は毛皮の上に倒れてゐた。しかし、その時、またも彼女の怨恨は、涙の底から急に浮び上つた仇敵の長羅に向つて猛然とぼつぱつした。最早や彼女は、その胸にふつとうする狂ほしいふくしうの一念を圧伏してゐることは出来なくなつた。
「大兄を返せ、大兄を返せ。」
彼女は立ち上つた。さうして、きりきりと歯をきしませながら、まろぎの隙に刺されたしらさぎの尾羽根を次ぎ次ぎに引き抜いては捨てていつた。しかし再び彼女を呼ぶ卑狗の大兄の声を聞きつけた。彼女の身体はぼうぜんと石像のやうに立ち停り、風に吹かれた衣のやうに円木の壁にしなだれかかると、再び抜き捨てられた白鷺の尾羽根の上へどつと倒れた。
「ああ、大兄、大兄、爾は我を残して何処へ行つた。何処へ行つた。」

二十三編集

はんやは夜中眼が醒めると、傍からうみの女が消えてゐた。さうして、彼の見たものは自分の片手に握られた乾いた一つの酒盃と、肉塊を冠つて寝てゐる反絵の口を開いた顎とであつた。
うみの女、不弥の女。」
彼は立ち上つて卑弥呼の部屋へ行かうとしたとき、反絵の足につまづいて前にのめつた。しかし、足は急いでゐた。彼はよろめきながら、彼女の部屋の方へ近づくと、そのやりどを押して中に這入つた。
「不弥の女。不弥の女。」
卑弥呼は白鷺の散乱した羽毛の上に倒れたまま動かなかつた。
反耶は卑弥呼の傍へ近寄つた。さうして、片膝をつきながら彼女の背中に手をあててささやいた。
「起きよ。不弥の女、我は爾の傍へ来た。」
卑弥呼は反耶の力に従つて静にあふむきに返ると、涙に濡れた頰に白い羽毛をたからせたまま彼を見た。
「爾は何故に我を残してひとり去つた。」と反耶は云つた。
卑弥呼は黙つて慾情にふるへる反耶の顔を眺め続けた。
「不弥の女。我は爾を愛す。」
反耶は脣を慄はせて卑弥呼の胸を抱きかかへた。卑弥呼は石のやうに冷然としてやまとの王に身をまかせた。
そのとき、部屋の外から重いあしおとが響いて来た。さうして、彼女の部屋の遣戸が急に開くと、そこに現れたのは反絵であつた。彼は二人の姿を見ると突き立つた。が、たちまち彼のしたあごは狂暴なしつとのためにせんりつした。彼は歯をむき出して無言のまま猛然と反耶の方へ迫つて来た。
「去れ。去れ。」
と反耶は云つて卑弥呼の傍から立ち上つた。
反絵は、恐怖の色を浮べて逃げようとする反耶の身体を抱きかかへると、彼を円木の壁へ投げつけた。反耶の頭は逆様に床を叩いて転落した。反絵は腰の剣をひき抜いた。さうして、あらはな剣を跳ねてゐる兄の脇腹へ突き刺した。反耶はうめきながら刺された剣を握つて立ち上らうとした。が、反絵は再び彼の胸を斬り下げた。反耶は卑弥呼の方へ腹這ふと、彼女の片足をつかんで絶息した。しかし、卑弥呼は横たはつたまま身動きもせず、彼女の足を握つてゐる王の指先を眺めてゐた。反絵はまだ陽に逢はう影のやうに青黒くなつて反耶の傍に突き立つてゐた。軈て、反絵の手から剣が落ちた。静かな部屋の中で、床に刺さつて横に倒れる剣の音が一度した。
「卑弥呼、我は兄を殺した。爾は我の妻になれ。」
反絵は卑弥呼の傍へかがむと、荒い呼吸を彼女の顔に吐きかけて、彼女の腰と肩とに手をかけた。しかし、卑弥呼は黙然として反耶の死体を眺めてゐた。
「卑弥呼、我は奴国を攻める。我は爾を愛す、我は爾を欲す。卑弥呼、我の妻になれ。」
彼女の頰に附いてゐた白い羽毛の一端が、反絵の呼吸のために揺れてゐた。反絵はなほも腕に力をめて彼女の上に身をかがめた。
「卑弥呼。卑弥呼。」
彼は彼女を呼びながら彼女の胸を抱かうとした。彼女は曲げたかたひぢで反絵の胸を押しのけると静に云つた。
「待て。」
「爾は兄に身を与へた。」
「待て。」
「我は兄を殺した。」
「待て。」
「我は爾を欲す。」
なこくの滅びたのは今ではない。」
反絵の顔は勃発する衝動に叩かれた苦悩のためにゆがんで来た。さうして、彼の片眼は、暫時のせうさうに揺られながらも次第に獣的な決意を閃かせて卑弥呼の顔をのぞき始めると、彼女は飛び立つ鳥のやうに身を跳ねて、足元に落ちてゐた反絵の剣を拾つて身構へた。
「卑弥呼。」
「部屋を去れ。」
「我は爾を愛す。」
なこくを攻めよ。」
「我は攻める。剣を放せ。」
「奴国の王子を長羅と云ふ。彼をて。」
「我は撃つ。爾は我の妻となれ。」
「長羅を撃てば、我は爾のつまになる。部屋を去れ。」
「卑弥呼。」
「去れ。奴国の滅びたのは今ではない。」
反絵は彼の片眼に怨恨を流して卑弥呼の顔を眺めてゐた。しかし、間もなく、戦ひに疲れた獣のやうに彼は足を鈍らせて部屋の外へ出て行つた。卑弥呼は再び床の上にうつぶせに身を崩した。彼女は彼女自身の身のけがれを思ひ浮べると、彼女を取巻くひこおほえの霊魂が、今は次第に彼女の身辺から遠のいて行くのを感じて来た。彼女の身体は恐怖と悔恨とのためにふるへて来た。
「ああ、おほえ、我をゆるせ、我を赦せ、我のために爾は帰れ。」
彼女は剣を握つたまま泣き伏してゐるとき、部屋の外からは、突然喜びにあふれた威勢よき反絵の声が聞えて来た。
ひみこ、我は奴国を攻める。我は奴国を砂のやうに崩すであらう。」

二十四編集

やまとの宮では、一人として王を殺害した反絵に向つてさからふものはなかつた。なぜなら、邪馬台の宮の人々には、彼の狂暴な熱情と力とは、前から、国境に立ち昇る夜の噴火の柱と等しい恐怖となつて映つてゐたのであつたから。しかし、ひとこのかみの葬礼はみやびと達の手によつて、小山の頂で行はれた。二人のすくねと九人の大夫に代つた十一のはにわが、王のひつぎと一緒に埋められた。さうして、王妃と、王の三頭の乗馬と、三人のわらべをとは、殉死者として首から上を空間にもたげたままその山に埋められた。貞淑な王妃を除いた他の殉死者の悲痛な叫喚は、終日終夜、秋風のままに宮の上を吹き流れた。さうして、次第に彼らの叫喚が弱まるのと一緒に、その下の邪馬台の宮では、着々として戦ひの準備が整うていつた。づ兵士達は周囲の森から野牛の群れを狩集めることを命ぜられると、次ぎには幾千のやりたてと矢とを造るかたはら、弓材となるあづさまゆみゆみために懸けねばならなかつた。反絵は日々兵士達の間を馳け廻つてゐた。しかし、彼の卑弥呼を得んとする欲望はますます彼を焦燥せしめ、それに従ひ彼の狂暴も日に日にその度を強めていつた。彼はせんせんきようきようとして馳け違ひながら立ち働く兵士達の間から、暇ある度に卑弥呼の部屋へ戻つて来た。彼は彼女に追つて訴へた。しかし、卑弥呼の手にた絶えず抜かれた一本の剣が握られてゐた。さうして、彼女の答へは定つてゐた。
「待て、奴国の滅びたのは今ではない。」
反絵はその度に無言のまま戸外へ馳け出すと、必ず彼の剣は一人の兵士を傷つけた。

二十五編集

なこくの宮では、長羅はひみこを失つて以来、一つの部屋に横たはつたまま起きなかつた。彼は彼女を探索に出かけた兵士達の帰りを待つた。しかし、帰つた彼らの誰もは弓と矢とを捨てると黙つて農夫の姿に変つてゐた。長羅はわらべをの運ぶ食糧にもほとんど手を触れようとしなくなつた。そればかりでなく、最早や彼を助ける一人残つた祭司のすくねにさへも、彼は言葉を交へようとしなかつた。さうして、彼のちゃうくは、うみを追はれて帰つたときの彼のごとく、再びほこぎのやうにだんだんと痩せていつた。彼の病原を洞察した宿禰は、みみずと、鶏腸草と、童女のけいすゐとを混ぜ合はせた液汁を長羅に飲ませるために苦心した。しかし長羅はそれさへも飲まうとはしなかつた。そこで、宿禰は奴国の宮の乙女達の中から、すぐれた美しい乙女を選抜して、長羅の部屋へ導き入れることを計画した。しかし、第一日に選ばれた乙女と次ぎの乙女の美しさは、長羅の引き締つた脣の一端さへも動かすことが出来なかつた。宿禰は憂慮に悩んだ顔をして、自ら美しい乙女を捜し出さんがため、奴国の宮の隅々を廻り始めた。そのうはさを聞き伝へた奴国の宮の娘を持つた母親達は、己の娘にはなやかな装ひをこらさせ、髪を飾らせて戸の外に立たせ始めた。さうして、彼女自身は己の娘をりようがする美しい娘達を見たときにはそれらの娘達の古い悪行を、通る宿禰の後から大声でしやべつていつた。かうして第三に選ばれた美しい乙女は、娘を持つた奴国の宮の母親達のまだ誰もが予想さへもしなかつたかわろの妹のかとりであつた。しかし、己の娘の栄誉を彼女のために奪はれた母親達の誰一人として、香取のびぼうと行跡について難ずる者は見あたらなかつた。何ぜなら、香取の父は長羅に殺された宿禰であつたから。彼女は父の惨死に次いて兄の逃亡の後は、ただ一人訶和郎の帰国するのを待つてゐた。彼女にとつて、父を殺した長羅は、彼女の心の敵とはならなかつた。彼女の敵は、彼女がひとり胸深く秘め隠してゐた愛する王子長羅を奪つたうみの女のひみこであつた。さうして、彼女の父を殺した者も、彼女にとつては、彼女の愛する王子長羅をして彼女の父を殺さしめた不弥の女の卑弥呼であつた。選ばれたその日のその翌朝、香取は宮殿から送られた牛車に乗つて登殿した。彼女は宿禰が彼女を選んだその理由と、彼女に与へられた重大な責任とを、他の選ばれた乙女達の誰よりも深く重く感じてゐた。彼女は藤色の衣をまとひ、首からひすゐまがたまをかけ垂らし、その頭にはめなうをつらねたたまかずらをかけて、りやうひぢには磨かれたたかくちばしで造られたいつつゐくしろを附けてゐた。さうして彼女の右手の指にはまつてゐる五つのたまきは、亡き母の片身として、彼女のあいぐわんし続けて来た黄金の鐶であつた。彼女は牛車から降りると、一人のわらべをに伴なはれて宿禰の部屋へはいつていつた。すくねは暫く彼女の姿を眺めてゐた。さうして、彼はひとり得意な微笑をもらしながら、長羅の部屋の方を指さして彼女に云つた。
「行け。」
香取は命ぜられるがままに長羅の部屋の杉戸の方へ歩いていつた。彼女の足は戸の前まで来ると立ちすくんだ。
「行け。」と再び後で宿禰の声がした。
彼女は杉戸に手をかけた。しかし、もし彼女が不弥の女に負けたなら、さうして、彼女が、もしなこくの女をけがしたときは?
「行け。」と宿禰の声がした。
彼女の胸は激しい呼吸のために波立つた。がそれと同時に彼女の脣は決意にひき締まつてふるへて来た。彼女は手に力を籠めながら静に杉戸を開いてみた。彼女の長く心に秘めてゐた愛人は、毛皮の上に横たはつて眠つてゐた。しかし、彼女の頭に映つてゐたかつての彼の男々しく美しかつたあの顔は、今は拡まつたくぼみの底に眼を沈ませ、ひげは突起したおとがひおほつて縮まり、さうして、彼の両頰はゑた鹿のやうに細まつて落ちてゐた。
「王子、王子。」
彼女はひざまづいて小声で長羅を呼んだ。彼女の声はその気高き容色の上であからんだ。しかし、長羅は依然として彼女の前で眠つてゐた。彼女は再び膝を長羅の方へ進めて行つた。
「王子よ、王子よ。」
すると、突然に長羅の半身は起き上つた。彼はらんらんと眼を輝かせて、暫く部屋の隅々を眺めてゐた。さうして、やうやひざまづいてゐる香取の上に眼を注ぐと、彼の熱情に輝いたその眼は、急に光りを失つて細まり、彼の身体は再び力なく毛皮の上に横たはつて眼を閉ぢた。香取の顔色はさうぜんとして変つて来た。彼女は身を床の上にうつぶせた。が、再びはじかれたように頭を上げると、そのあをざめた頰に涙を流しながら、声をふるはせて長羅に云つた。
「王子よ、王子よ、我はなんぢを愛してゐた。王子よ、王子よ、我は爾を愛してゐた。」
彼女は不意に言葉を切ると、身体を整へて端坐した。さうして、頭から静にたまかづらを取りはづし、首からまがたまをとりはづすと、長羅の眼を閉ぢた顔をしようようとして見詰めてゐた。すると、彼女の脣の両端から血がたらたらと流れて来た。彼女の蒼ざめた顔色は、一層その色を蒼ざめて落ちつき出した。彼女の身体は端坐したまま床の上に傾くと、もはや再びと起き上つては来なかつた。かうして、兵部の宿禰の娘は死んだ。彼女は舌をみ切つて自殺した。しかし、横たはつてゐる長羅の身体は身動きもしなかつた。
香取の死の原因を知らなかつた奴国の宮の人々は、一斉に彼女の行為を賞讃した。さうして長羅を戴く奴国の乙女達は、奴国の女の名誉のために、不弥の女から王子の心を奪ひ返せと叫び始めた。第四の乙女が香取の次ぎに選ばれて再び立つた。人々はひとしく乙女の美しさの効果の上に注目した。すると、がぜんとして彼女は香取のやうに自殺した。何ぜなら香取を賞讃した人々の言葉は、あまりに荘厳であつたから。しかし、また醍醐の乙女が宿禰のために選ばれた。人々の彼女に注目する仕方は変つて来た。けれども、彼女の運命も第四の乙女のそれと等しく不吉な慣例を造らなければならないのは当然のことであつた。かうして、奴国の宮からは日々に美しい乙女が減りさうになつて来た。娘を持つた奴国の宮の母親達は急に己の娘の美しい装ひをはぎとつて、農衣に着せ変へると、宿禰の眼から家の奥深くへ隠し始めた。しかし、宿禰はひとり、ますます憂慮にひそんだあんうつな顔をして、その眼を光らせながら宮の隅々をさ迷うてゐた。第六番目の乙女が選ばれて立つた。人々は恐怖を以て彼女の身の上を気遣つた。その夜、彼らは乙女の自殺の報らせを聞く前に、ほくらの前で宿禰が何者かに暗殺されたと云ふ報道を耳にした。しかし、長羅の横たはつた身体はほとんど空虚に等しくなつた王宮の中で、死人のやうに動かなかつた。
或る日、一人の若者が、王宮の門前のかやほこだちを見ると、疲れ切つた体をその中へ馳け込ませてひとり叫んだ。
うみの女を我は見た。不弥の女を我は見た。」
若者の声に応じて出て来る者は誰もなかつた。彼は高縁に差し込んだ太陽の光りを浴びて眠つてゐるわらべをの傍を通りながら、王宮の奥深くへだんだんとはいつていつた。
「不弥の女を我は見た。不弥の女はやまとにゐる。」
長羅は若者の声を聞くと、矢の音を聞いたゐのししのやうに身を起した。彼の顔はあからんだ。
「這入れ。這入れ。」しかし、彼の声はかすれてゐた。若者の呼び声は、長羅の部屋の前を通り越して、やつひろでんへ突きあたり、さうして、再び彼の方へ戻つて来た。長羅はよろめきながら杉戸の方へ近寄つた。
「這入れ。這入れ。」
若者は杉戸を開けると彼を見た。
「王子よ、不弥の女を我は見た。」
「よし、水を与へよ。」
若者は馳けて行き、馳けて帰つた。
「不弥の女は邪馬台にゐる。」
長羅はもひの水を飲み干した。
「爾は見たか。」
「我は見た。我は邪馬台の宮へ忍び入つた。」
「不弥の女は何処にゐた。」
「不弥の女を我は見た、不弥の女は邪馬台の宮の王妃になつた。」
長羅は激怒に圧伏されたかのやうに、ただ黙つて慄へながら床の上の剣を指差した。
「王子よ、邪馬台の王は戦ひの準備をなした。」
「剣を拾へ。」
若者は剣を長羅に与へると再び云つた。
「王子よ、やまとの王は、なこくの宮を攻めるであらう。」
「邪馬台を攻めよ。兵を集めよ。我は爾をすくねにする。」
若者は喜びに眉を吊り上げて黙つてゐた。
「不弥の女を奪へ。邪馬台を攻めよ。兵を集めよ。」
若者はもひを蹴つて部屋の外へ馳け出した。間もなく、ほらほくらの前で高く鳴つた。それに応じて、どらが宮の方方から鳴り出した。

二十六編集

邪馬台の宮では、反絵の狂暴はその度を越えて募つて来た。それにひきかへ、兵士達の間では、ひみこを尊崇する熱度が戦ひの準備の整つて行くに従つて高まつて来た。ぜなら、いまかつて何物も制御し得なかつた反絵の狂暴を、ただ一睨の視線の下に圧伏さし得た者は、うみの女であつたから。さうして、彼女のために、反絵の剣の下からその生命を救はれた数多くの者達は彼らであつた。彼らは彼らの出征については必勝を期してゐた。何ぜなら、未だ何者も制御し得なかつた邪馬台の国の大なる恐怖を、ただ一睨の下に圧伏さし得る不弥の女を持つものは彼らの軍であつたから。反絵の出した三人の偵察兵は帰つて来た。彼らは、奴国の王子が卑弥呼を奪ひに邪馬台の宮へ攻め寄せると云ふ報道をもたらした。反絵と等しく怒つた者は邪馬台の宮の兵士達であつた。その翌朝、進軍の命令が彼らの上に下された。一団の尖頭には騎馬に跨つた反絵が立つた。その後からは、たての上で輝いた数百本のほこさきを従へた卑弥呼が、六人の兵士に担がれた乗物に乗つて出陣した。彼女は、長羅を身辺に引き寄せる手段として、かぶとの上から、人目を奪ふ紅のしめごろもまとつてゐた。一団のしんがりには背に投げ槍と食糧とをになひつけられた数十疋の野牛の群れが連つた。彼らは弓と矢の林に包まれて、燃え立つたはぜの紅葉の森の中を、奴国の方へ進んでいつた。さうして、このえんえんした武装の行列は、三つの山を昇り、四つの谷を降り、野を越え、森をつききつて行つた。その日の中に、二人の奴国の偵察兵を捕へて首斬つた。二日目の夕暮れ、彼らはある水のれた広い河の岸へ到着した。

二十七編集

うみを一挙にじうりんして以来、まだ日のたたぬなこくの宮では、兵士達はもはや戦争の準備をする必要がなかつた。ほくらの中のほこも剣も新しく光つてゐた。さうして、彼らのゆづるは張られたままにまだ一矢の音も立ててはゐなかつた。しかし、王子長羅の肉体は弱つてゐた。彼はせうさうしながら鶴と鶏とやまがにの卵を食べ続けるかたはら、そのいらだつ感情の制御しきれぬ時になると、必要なき偵察兵をやつぎやにやまとへ向けた。さうして、彼は兵士達にふ毎に、その輝いた眼を狂人のやうに山のかなたへ向けて、彼らに云つた。
「不弥の女を奪へ。奪つた者をすくねにする。」
彼の言葉を聞いた兵士達は互にその顔を見合せて黙つてゐた。しかし、それと同時に彼らの野心は、その沈黙の中で互に彼らを敵となしてにらみ合はせた。
数日の後、長羅の顔はあをじろく痩せたままに輝き出した。さうして、たくましく前にかがんだ彼のちやうくは、しゆんめのやうに兵士達の間を駆け廻つてゐた。出陣の用意は整つた。長羅の正しくがつた鼻と、馬の鼻とは真直ぐにやまとにらんで進んで行つた。数千の兵士達は、互に敵にむかつて塊つた大集団を作りながら、声を潜めて彼の後から従つた。長羅の馬は邪馬台に近寄るに従つて、次第にひとり兵士達から放れて前へ急いだ。このため兵士達は休息することを忘れねばならなかつた。しかし、彼らはその熱情を異にする長羅の後に続くことは不可能なことであつた。さうして、二日がたつた。兵士達は、ある河岸へ到着したときには、最早や前進することも出来なかつた。彼らはその日、まだ太陽の輝いてゐる中から河岸のすすきの中で夜営の準備にとりかかつた。
遠い国境の山の峯が一つ黒々と煙を吐いてゐた。太陽は桃色に変つて落ち始めた。そのとき、にはかに対岸の芒の原がざわめき立つた。さうして、一斉にみづどりの群れが列を乱して空高く舞ひ上ると、間もなく、数千のほこさきが芒の穂の中で輝き出した。
「邪馬台の兵が押し寄せて来た。」
「邪馬台の兵が押し寄せて来た。」
奴国の兵士達は動乱した。しかし、彼らは休息を忘れて歩行し続けた疲労のために、かへつて直ちにその動乱を整へて、再び落ちつきを奪回することに容易であつた。彼らは応戦の第一の手段として、鋒や剣やその他すべての武器を芒の中に伏せて鎮まつた。ぜなら、彼らは奴国の兵の最も特長とする戦法は夜襲であることを知つてゐた。数名の斥候が川上と川下から派出された。長羅は一人高く馬上にまたがつて対岸を見詰めてゐた。川には浅瀬が中央にただ一線流れてゐた。さうして、その浅瀬の両側には広い砂地が続いてゐた。
夜は次第に降りて来た。対岸のすすきの波は、今はおぼろに背後の山の下で煙つて見えた。その時、突然対岸からどらがなつた。すると、尾に火をつけられた一団の野牛の群れが、雲のやうにたなびいた対岸の芒の波を蹴破つて、なこくの陣地へ突進して来た。奴国の兵は野牛の一団が真近まで迫つたときに、一斉に彼らの群れへ向つて矢を放つた。牛の群れは鳴声を上げて突き立つと、逆にやまとの陣地の方へ猛然と押し返した。奴国の兵は牛の後から対岸に向つて押し寄せようとした。しかし、長羅は彼らの前を一直線に走らせてその前進を食ひとめた。と、ひとしく野牛の群れは、対岸から放たれ出した矢のために、再び逆流して奴国の方へ向つて来た。それと同時にときの声が対岸からき上ると、野牛の群れの両翼となつて、投げ槍の密集団が、砂地を蹴つて両方から襲つて来た。奴国の兵は直ちに川岸に添つて長く延びた。さうして、その敵の密集団に向つて一斉に矢を放つと、再び密集団は彼らの陣営へ引き返した。野牛の群れは狂ひながらひとり奴国の兵の断ち切れた中央を突きうけて遠く後方の森の中へ馳け過ぎた。
夜は全く降りてゐた。国境の噴火の煙は火の柱となつて空中に立つてゐた。奴国の兵の夜襲の時は迫つて来た。しかし、彼らの披露は一段と増してゐた。彼らは敵の陣地の鎮まると一緒にすすきの中に腰を下ろして休息した。長羅は彼らの疲労に気がつくと、その計画してゐた夜襲を断念しなければならなかつた。けれども、奴国の軍は次ぎに来るべき肉迫戦のときまでに、敵の陣営から矢をなくしておかねばならなかつた。それには夜の闇が必要であつた。彼らは疲労の休まる間もなく、声を潜めて川原の中央まで進んで来ると、たてへいのやうに横につらねて身を隠した。さうして彼らは一斉に足を踏みたたき、ときの声を張り上げて肉迫する気勢を敵に知らしめた。対岸からは矢が雨のやうに飛んで来て楯にあたつた。彼らは引きかへすと又進み、しりぞいては再びかんせいを張り上げた。さうして時刻をいてこの数度の牽制を繰り返してゐる中に、最早や対岸から矢が飛ばなくなつて来た。しかし、彼らに代つて敵からの牽制が激しくなつた。初め奴国の兵は敵の喊声が肉迫する度に恐怖のために思はず彼らに向つて矢を放つた。けれどもそれが数度続くと、彼等は敵軍の来襲もしよせん自国の牽制と等しかつたことに気附いて矢を惜しんだ。夜はだんだんと更けていつた。眠つたやうに沈黙し合つた両軍からは、盛に斥候が派せられた。川上と川下の砂地やすすきの中では、小さな斥候戦が方々で行はれた。かうして、夜は両軍の上から明けていつた。朝日は奴国の陣地の後方から昇り始めた。やまとの国の国境から立ち昇る噴火の柱は再び煙の柱に変つて来た。さうして、両軍の間には、血のにじんだ砂の上に、矢の刺さつたしかばねや牛の死骸が朝日を受けて点々として横たはつてゐた。そのとき、邪馬台の軍はまばらに一列に横隊を造つて、静々と屍を踏みながら進んで来た。彼らの連なつた楯の上からは油をにじませたつばなほぐちほこさきにつきさされて燃えてゐた。彼らは奴国の陣営真近く迫つたときに、各々その鋒先の火口を芒の中に投げ込んだ。奴国の兵は直ちに足で落ち来る火口を踏みつけた。しかし、彼らの頭の上からは、続いて無数の投げ槍とつぶてが落ちて来た。それに和して、邪馬台の軍の喊声が、地を踏み鳴らすあしおとと一緒にき上つた。消え残つた火口のほのほは芒の原に燃え移つた。奴国の陣営は竹のはじける爆音を交へてもうもうと白い煙を空に巻き上げた。長羅は全軍を森の傍まで退却させた。さうして兵を三団に分けると、最も精鋭な一団を自分と共に森へ残し、他の二団をして、立ち昇る白煙に隠れて川上と川下へ別れさせた。分れた二団の軍兵はほこつるぎを持つて、砂地の上の邪馬台の軍を両方から一時にどつとけふげきした。白煙の中へ矢を放つてゐた邪馬台の軍は散乱しながら対岸の陣地の中へ引き返した。奴国の二団は川の中央の一つに合すると、大集団となつて逃げる敵軍の後から追撃した。さうして、今や彼らは敵の陣営へ殺到しようとしたときに、新たなる邪馬台の軍が、奴国の密集団を中央にはさんで芒の中から現れた。彼らは奴国の密集団と同じく鋒と剣とを持つて、かんせいを上げつつ堂々と二方から押し寄せて来た。長羅は自国の軍が敵軍に包まれたのを見てとると、残つた一団を引きつれて斜に火の消えた芒の原を突き破つて現れた。邪馬台の軍は新しき一軍を見ると、奴国の密集団を包んだまま急に進行を停止した。長羅は自分の後ろに一団を張つて敵の大団にたいぢしながら動かなかつた。その時対岸の芒の中から、逃げ込んだ邪馬台の兵の一団が、再び勢ひを盛り返して進んで来た。と、三方から包まれた奴国の密集団はうづまきながら、邪馬台の軍の右翼となつた大団の中へ殺到した。それと同時に、かの芒の中から押し返した敵の一団は、投げ槍をしものやうに輝かせて動乱する奴軍の中へ突入した。忽ちどよめく人波の点々が、倒れ、跳ね、踊り、渦巻くそれらの頭上で無数の白い閃光が明滅した。と、やがて、そのさつりくし合ふ人のかたまりは叫喚しながらくれなゐとなつて、延び、縮み、揺れ合ひつつ、次第に小さくり減つて行くと、にはかに長羅の動かぬ一団の方へ潮のやうに崩れて来た。それに和して、今迄彼とたいぢして止どまつてゐた邪馬台の左翼の軍勢も、一時にときの声を張り上げて彼の方へ押し寄せた。長羅の一団は彼を捨てて崩れて来た長羅は一人馬上に踏みとまつて、「返せ、返せ。」と叫び続けた。
その時、放してあつた一人の奴国の斥候が彼の傍へ寄つて来ると、手をらつぱのやうに口にあてて彼に叫んだ。
うみの女を我は見た。見よ、不弥の女は赤い衣を纏つてゐる。」
長羅は彼の指差す方を振り向いた。そこには、肉迫して来る刃の潮の後方に、紅の一点が静々と赤い帆のやうに彼の方へ進んでゐた。長羅はひらりと馬首を敵軍の方へ振り向けた。馬の腹をひと蹴り蹴つた。と彼は無言のままその紅の一点を目がけて、押し寄せる敵軍の中へただ一騎ばくしんした。ほこの雨が彼の頭上を飛び廻つた。彼はたてを差し出し、片手の剣を振り廻して飛び来る鋒を斬り払つた。無数の顔と剣が彼の周囲へ波打ち寄せた。彼の馬は飛び上り、ね上つて、その人波の上を起伏しながら前へ前へと突き進んだ。長羅の剣は馬の上で風車のやうに廻転した。腕が飛び、剣が飛んだ。ばたばたと人は倒れた。と、急に人波は彼の前で二つに割れた。
ひみこ。」
長羅の馬は突進した。そのとき、片眼の武将を押せた黒い一騎が、砂地を蹴つて彼の前へ馳けて来た。
「聞け、我はやまとの王の反絵である。」
長羅の馬は突き立つた。さうして、反絵の馬を横に流すと、円を描いて担がれたたかざの上の卑弥呼の方へ突進した。
卑弥呼の高座は、彼の馬首を脱しながら反絵の後へ廻つていつた。長羅は輝いた眼を卑弥呼に向けた。
ひみこ。」
彼は馬を蹴らうとすると、再び反絵の馬は疾風のやうにけて来た。と、長羅は突然馬首を返すと、反絵の馬に向つて突撃した。二頭の馬はいななきながら突き立つた。たてが空中にね上つた。再び馬は頭を合せて落ち込んだ。と、反絵の剣は長羅の腹へ突き刺さつた。同時に、長羅の剣は反絵の肩を斬り下げた。長羅のちやうかは反絵の上に踊り上つた。二人の身体は逆様に馬の上から墜落すると、抱き合つたまま砂地の上をころがつた。蹴り合ひ、踏み合ふ彼らのあしさきから、砂が跳ね上つた。草葉が飛んだ。さうして、反絵の血走つた片眼は、引つつかまれた頭髪に吊り上げられたまま、長羅の額を中心に上になり、下になつた。二つの口はみ合つた。乱れた彼らの頭髪はからまつた鳥のやうにばさばさと地を打つた。
ひみこたかざは二人の方へ近寄つて来ると降された。しかし、やまとの兵士の中で、彼らの反絵を助けようとする者は誰もなかつた。何ぜなら、邪馬台の恐怖を失つて、幸福を増し得る者は彼らであつたから。彼らは卑弥呼と一緒に剣を握つたまま、血砂にまみれてうめきながら転々とする二人の身体を見詰めてゐた。彼らの顔は、一様に、かれらの美しきうみの女を守り得る力を、彼女に示さんとする努力のためにしまつてゐた。しかし、間もなく彼らの前で、長羅と反絵の塊りは、卑弥呼の二人の良人の仇敵は、戦ひながら次第にその力を弱めていつた。さうして、反絵の片眼はむられたまま砂の中にめり込むと、二人は長く重なつたまま動かなかつた。卑弥呼はひとり彼らの方へ近づいた。そのとき、長羅は反絵の胸を踏みつけて、突然地からき出たやうに起き上つた。彼は血のしたたる頭髪を振り乱して、やわらかに微笑しながらそのあをざめた顔を彼女の方へ向けた。
「卑弥呼。」
彼女は立ち停ると剣を上げて身構へた。兵士達は長羅の方へ肉迫した。
「待て。」と彼女は彼らに云つた。
「卑弥呼、我はなんぢを迎へにここへ来た。」
長羅は腹に反絵の剣を突き通したまま、両腕をひろげて彼女の方へ歩まうとした。しかし、彼の身体は左右に二足三足よろめくと、したたる血の重みに倒れるかのやうにばつたりと地に倒れた。彼は再び起き上つた。
「卑弥呼、爾は我と共に奴国へ帰れ。我は爾を待つてゐた。」
「爾は我のつまおほえを刺した。」
「我は刺した。」
「爾は我の父と母とを刺した。」
「我は刺した。」
「爾は我の国を滅ぼした。」
「我は滅ぼした。」
長羅は再びよろめきながら彼女の方へ歩みよつた。と、またも彼の身体はどつと倒れた。振り上げた卑弥呼の剣は下がつて来た。長羅はなほも起き上らうとした。しかし、彼の胸は地に刺された人のやうに地を放れると地についた。さうして、彼はやうやく砂の上から額を上げると彼女の方へ手を延ばした。
「卑弥呼、我は爾を奪はんために、我の国を滅ぼした。我は爾を奪はんために我の父を刺した。すくねを刺した。爾は帰れ。」
長羅のあをざめた額は地に垂れた。
「卑弥呼、卑弥呼。」
彼はあたかつぶやくごとく彼女を呼ぶと、彼のまぶたは閉ぢられた。卑弥呼の身体はふるへて来た。彼女の剣は地に落ちた。
おほえよ、大兄よ、我をゆるせ。彼を刺せと爾は云ふな。」
卑弥呼は頭をかかへると剣の上へ泣き崩れた。
「大兄よ、大兄よ、我を赦せ。我は爾のおために長羅を撃つた。我は爾のためにふくしうした。ああ、長羅よ長羅よ、我を放せ。爾は我のために殺された。」
長羅と反絵と卑弥呼を残して、かなたの森の中では、奴国の兵を追ひながら、奴国の方へ押し寄せて行く邪馬台の軍のときの声が、一段と空に上つて消えなかつた。
 

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