日本風景観
明治廿七年頃の事かと思ふ。先輩志賀矧川先生が「日本風景論」を著はして、日本の風景の特徴の一つは世間一般に知つてゐる桜花であるが、も一つある。それは松樹であつて、それが日本風景の特徴の一つと見るべきものであるといふことを唱へられた。その当時自分はまだ風景に関しては何等の観念も持たず、従つて纒まつた考へではなかつたが、それ以外も一つ日本の風景の特徴となるべきものがある、それは裾野の景色であるといふことを当時先生に話したことを記憶してゐる。兎も角も先生の考へも自分の考へも、日本の風景は日本の風景として或る特徴をもつてゐるものであるといふことについては同じ考へであつた。
今日でも日本の風景を論ずるのには、この点を第一に考へる必要がある。しかし今日では日本の地理的特徴の外に、更にも一つ重大なことを考への中に入れねばならぬことがあると思ふ。それは即ち風景観にも歴史的の変遷があつて、風景に関する観念が或る程度に発達す【NDLJP:213 】るには相当の歴史を要する、しかうしてその歴史によつてその国民が風景に関する趣味の程度を知ることが出来、かつそれによつてその国民の文化の程度をも知ることが出来るといふことである。
それ故その国の風景観といふものには地理的特徴と、歴史的の発達の程度と、その二つをあはせ考へるといふことが必要だといふことになるのであるが、自分はまづ後者即ち歴史的発達といふ方面からの風景観を少しくはしくいつて見たいと思ふ。元来自分は比較的支那に関する智識において多少の自信をもつてをり、風景観に於てもその方面から立論するのが自分として最も便利である。
支那人が風景即ち山水といふことに趣味を持ち初めたのは随分古いことであるが、それは大体詩若くは絵画によつて、その観念の発達を明らかにすることが出来る。凡そ人類が風景に関する考へが起る前に於て、自然物について持つところの考へは、頗る神秘的な傾向を持つてゐるものであつて、支那でも山岳等に関しては三代はしばらく措くとしても、漢代に至つても専ら山岳を神秘的のものとして扱ふ傾きが盛であつた。たとへば泰山といへば不老の仙人が居る、生命を司る神が居るといふ風な考へが盛であつて、そのために道教の発達を促した程である。道教の方からいへば、支那で最も風景の幽邃なところを三十六洞天、七十二福地などゝいふ風に選定して、数を以てかぞへること、恰かも百景とか八景とかいふやうなものと同じやうであるが、それらはいづれも宗教的神秘的な考へ方が伴つてゐる。その神秘的な考へが一変して趣味的になつたのは、西暦五世紀頃即ち六朝の中頃であつて、従来の風景に対する神秘的な考へが、仏教の感化によつて一部の人々にはこの種の迷信が少くなり、そのあとから新しく芽生えたのが風景に対する趣味的な見方であつた。
支那の風景画 梁の劉勰は文心雕龍の中に老荘告退、而山水方滋といつて居るが、晋宋二代に跨がつて、有名な詩人、謝霊運は山水を遊び歩き、しかも高履をつけて走つたので山賊といはれたといふ話がある。この時からして従前盛に流行した玄理的な詩風が一変して、風景的な詩になつたが、謝霊運は其の元祖といはれて居る。この前後から絵画に於てもすでに山水画といふものが現はれて来て、宗炳が現に山水に関する画論を著はしてゐるが、惜しいことにはその当時の山水の絵画が一つも残存してゐない。多分道教の感化を受けて、幽僻な山水を描いたも【NDLJP:214 】のと思はれる。兎も角、支那人が芸術を讃美して、それを風景と結びつけたことの古いことはこれを見ても知ることが出来る。尤もさういふ初期の風景画はたとへば顧凱之の女史箴の巻の一部、又は後世の摹本であつても同じ人の洛神賦の巻の一部、我邦の法隆寺金堂の天蓋の絵などに見えて居るやうなものであつたとすれば、頗る幼稚なものと思はれるが、その後風景画が一段と発達したのは盛唐の頃であつたらしく思はれる。呉道子は粗宕なる墨画をはじめ、大小李将軍は着色の密画を巧にし、王維は水墨の絵で「渲染」といふ特殊な法を始めたといひ伝へられてゐる。呉道子の絵は今日伝はつてゐないけれども、王維並に李将軍即ち李思訓の絵は今日に存してゐる。その遺つてゐる画によると、非常に特殊に奇闢な風景をゑがくといふやうな意図は必ずしもなくて、やはり自分が住はれるやうな親みのある風景を好んだらしく思はれ、王維には自分の山荘たる朝川の図があつたらしく、李思訓のものは九成宮の図といふものが残つてゐる。王維は専ら山水の景をゑがき、李思訓の方は楼閣の類に力を入れたものである。しかもこの頃は支那の画としては、筆法と墨法とが未だ兼ね備はるに至らなかつたので、筆法に長じた呉道子の如きものが一方にあると、墨法に長じた項容の如きが一方にあつたといはれてゐる。筆墨の法を兼ね備へて水墨の画を大成したのは、唐末から五代にかけて即ち十世紀頃にをつた荆浩であり、それにつゞいて関同が起り、それより以後宋の初までの間に李成が起つて北画の祖となり、董源が起つて南画の祖となつたが、この南北二宗は後の代まで支那の画家を支配した。しかしこの両派の祖たる人々には一種共通な山水の観方があつて、それは実に非常な雄抜な風景を画題とするといふことであつた。勿論そのゑがいた風景はやはり一種の写生から出て、必ずしも空想によつてゑがかれてゐるのではないが、関同でも董源でも李成でも、写生といつてもこれをやるについては自己の精神を象徴すべき方法をとるので、単なる写生ではない。この点が支那の風景画をして著しく発達を来たさしめたゆゑんであつて、同時に当時の芸術家の風景に対する考へ方を知る材料となるのである。
董源の門下に巨然が出た。この人は、その筆墨の法は全く董源より得来り、更に自己の精神を山水に象徴することもその師と同様であつたが、こゝに一つの変化と見るべきは、巨然のゑがく山水は多くは温潤にして人に親み、なんとなしにそこに住まはうかといふやうな念を起さしめる風景をあらはすことであつて、関同、董源、李成などの如く、雄抜で人を威圧するが如き風景をゑがくことは少かつたらしい。これが後世のいはゆる文人画の源をなした【NDLJP:215 】ものであつて、その後米芾父子、趙大年等に至つては益々温和な風景を好むやうになり、趙大年の如きは当時の帝都たる汴京附近の風景のみをゑがいて、深山幽谷などを跋渉しなかつたためといはれてゐるが、随分幽邃な山水に趣味を持つた米帯父子の如きでも、大体においては雄抜な特色は大に減じて来て、何となしに親みやすい風景を好んだものである。
こゝに至つて支那の文人画といふものが殆ど大成することゝなつたが、その後元代になつて趙子昂は唐画の精神を学ばうとしたので、即ち王維の如く矢張り住むべき山水を主としてゑがいた。元末の四大家皆その後を受けて、その中黄大痴等は自分の住つてをつた虞山の景色を主としてゑがいたといはれてゐるが、その画は筆意が如何にも緩やかでやわらかである所に味があるので、風景としては何等奇抜なところをゑがいたわけではない。倪雲林も平遠山水を好んだが、矢張り江南地方の三泖五湖などといふありふれた野色を主題としたのである。尤もこの四大家の中でも、王蒙などの如く屢々幽僻な風景をゑがいたものもあるが、それにしても人を圧するやうな雄抜さを求めるのではなくして、矢張り住まはるべき景色を主題としたのである。
その後の画家は雄抜に過ぎたものをゑがいたものは、これを拡気ありといつて嫌ひ、南画若くは之に類した者でも、明清時代には浙派、江西派などは、覇悍だといつて嫌はれるやうになつた。支那の風景画はかくの如くして大成されたのであるが、その後の人には細微な点においていろ〳〵の変化があつても、大体において風景画をるがく精神においては大した変化がない。
これで見ると支那人の風景に関する考へは、最初は道教の感化で幽僻な山水を好んだが、その後身辺に近き景色を好むやうになつた。絵画ではその頃までは絵巻物などの風で風景を説明的にゑがいたが、唐末五代頃において精神を象徴する雄抜な景色を好むやうになつた。その後またもこの身辺に近い景色にもどり、気分を本位とし、だん〳〵部分的に興味を画趣に求めるやうになつて来た。
「八景」の起源 こゝで一寸考へて見たいことは、今度の日本八景選定でも問題になつた「八景」といふことであるが、「八景」の起源は支那では瀟湘八景を最初とするであらう。瀟湘八景を画題としたのは、支那の絵画史では有名な蜀の花鳥の名人黄筌からであるといはれ、それから北宋の宋【NDLJP:216 】復古で、南宋に至てます〳〵多くなり、今日我邦に伝つてゐるものでは牧渓の画といはれてゐるものがある。それは牧渓の真蹟かどうかは分らぬが、その時代からいへば同時のものであることは疑ひない。黄筌、宋復古の瀟湘八景は今伝はらないが、南宋の画院の画家は李成以来の北画の筆法を伝へ、殊に北宋から南宋にかけて大家といはれる李唐等は最も雄抜な景色に長じてをり、それが画院の画風を支配したものであるが、しかし南宋末には夏珪等の如き北宗派でも、すでに文人趣味に傾いてゐる風があり、又馬遠の如きは馬一角といはれる位で「残山剰水」をかくことを得意としたといはれてゐるから、雄抜な景色をゑがかうといふ傾きが失せてゐる。瀟湘八景画といふものは丁度その頃に盛んになつて来たのであるから、その画題として取扱はるゝところに一として雄抜な山水といふ風の趣は見えない。唯洞庭湖附近において平常ありふれた景色のなかゝら、画趣をなすべきものを見出したに過ぎない。
そこで支那における風景に対する古来の画家の考へを総括すると、画家はかならずしも雄抜な景色をのみ求めるものではなく、むしろ平凡な景色の間に画趣をなすべきものを捉へて発見するといふことが、後世程盛んになつてきてゐるやうである。この風景に関する考への変化は、時代に関することであつて、山水画の長い歴史を通ずると、人間の風景に関する考へは、だん〳〵に雄抜なるものよりも寧ろ親みやすい、住まはるべきやうな風景を求める心が多くなることだけは断言せられる。
日本の八景画 以上は支那人の風景観であるが、日本に於ては先づ古い絵巻物、大和絵等において見出される風景は、大体唐の代の画風を受けたものらしいが、ただ縁起物などの中には神社仏閣等が、多く幽僻な地方にあるところからして、深山にある樹木などの如く自然に近いものを時々見受けるが、大体は幽僻のなかにも人間に親みをもつた住まはるべきやうな風景を好む傾をもつてゐる。しかし、鎌倉の末期頃からして、すでに支那の画院の風景画に接触をしたので、絵巻物それ自身、或は絵巻の中に出てくる襖絵などには、宋風の雄抜なるこれに引つゞき北宗画が盛んに入つて来たために、室町時代においては画風が一変し、馬遠、夏珪等の画を主として学んだが、中には李唐の流を汲んだやうな雄抜な風景をゑがいた【NDLJP:217 】ものも屢々ある。しかし、その北画も狩野派等に至つて自然にやはらかみを増して来て、北画の特色たる雄抜を失ひ、徳川の中期に至るに及んで、南画が新に入つて来てそのために画家の風がまた一変することになつた。
日本人の画の中にも八景に関したのがあつて、はじめは満湘八景をそのまゝゑがいてゐたが、後になつてこれを日本の景色に応用して近江八景といふやうなものを選み出した。これは近衛龍山公の選定だと伝へられて居るが、瀟湘八景と近江八景との間には、少しく注意すると余程考へ方の違つた点を見出すことが出来る。即ち瀟湘八景は江天暮雪、瀟湘夜雨、山市晴嵐、遠浦帰帆、煙寺晩鐘、平沙落雁、漁村夕照、洞庭秋月であつて、近江八景の方は比良暮雪、唐崎夜雨、粟津青嵐、矢橋帰帆、三井晩鐘、堅田落雁、瀬田夕照、石山秋月となつてゐる。これを比べて見るとその異つた点は、瀟湘八景は瀟湘の夜雨、洞庭の秋月の二つだけは、きまつた地名を頭に冠してゐるが、しかもこれさへも広い区域で一ヶ処を限つたわけでなく、その他の六景は何処へでも応用の出来る景色で、少しも場所を限つてゐない。しかるに近江八景は八景悉くその場所を限つてをり、殊に瀟湘八景の江天の暮雪といふのは夕方に江天に雪の降りかゝるやうな陰惨なる景色をいつたのであるが、比良の暮雪となると山の上に雪が積つてゐるといふやうな明るい景色になるのであつて、余程考へ方を異にしてゐる。本来の瀟湘八景は洞庭附近のありふれた景色の中に景趣を求めやうといふ考へであるが、近江八景は限られた場所に特別な景色を求めやうとする考へで、本来の極めて融通のきく流動した考へを拘束された考へにかへたやうになつてゐる。これは支那人の趣味が日本人の趣味に変化する時に、あらゆる点において見出されるところの変化であつて、芸術的自由の考へから見れば、かくの如き変化は少からず不満に思はれるのである。
しかし日本でも近江八景の如き拘束されてゐる考へは、画家の趣味が発達すると共に頗る俚俗なものと考へられるやうになり、徳川の末期には空想を自由に働かせることの出来る文人画趣味が盛んになつて来たのである。この文人画趣味でいへば、即ち支那におけると同様に或る特別なる地方に奇抜な景色を求めるよりは、寧ろありふれた景色の中に景趣を発見しやうと努めるのである。自分はその点から、風景に関する考へは或る時代において雄抜な奇らしき変つた景色を求める傾きが盛んであつたが、長い間には必ず平凡な風景の中に、かへつて極めて面白い景趣のあることを発見するに至るのが当然であると思ふ。
【NDLJP:218 】素人の自然観 以上は主として芸術家の風景観について述べたのであるが、その他に非芸術家――といふと少し語弊があるけれども-兎も角詩人若しくは画家等でない人々の風景観ともいふべきものがある。実は極く古い時代においては芸術家と非芸術家との風景観は区別し難いところがあつて、周代において「九能」といふものをあげて、その各の能あるものは大夫となすべしといつてあるが、その中に「山川能説」「登高能賦」といふ二項目があつて、山川の形勢を説き、高いところに登つては其の景勝を賦するやうなことは、士大夫の「能」としてゐたのである。即ち形勝風景に関することを陳べ立てるのであるが、これらの人々は必ずしも詩人ではない。戦国時代は遊説の士がよく各の国に行つてはその国の長所を述べたてたものであるが、漢代より晋代に至るまではこれが賦といふ一種の文体になり、両都賦とか三都賦とか両京篇とかいふものが作られるやうになつて来たが、多くは都会の状態をのべたもので、自然その周囲の景色にもおよび、これが著しき点は各地方の自慢をいふことであつた。これらは文章としてはいろ〳〵の形容をしてゐるけれども、詩人もしくは画家の如き芸術家の観方をしたものではなく、むしろ素人的に地方自慢をいふのが主なる目的であつた。この賦の盛んな時代は、まだ芸術的の風景の詩や画が起らない時代であつて、詩や画に風景をとり入れるやうになつてからは、昔から伝来した素人風の風景観は主として地誌の上にあらはれて来た。酈道元の水経注は、風景の叙述についてすぐれたるものといはれてゐるが、これは元来酈道元が全部自分で作つたものではなく、各地方における地誌を抄録し、編纂したもので、その作者等はやはり地方の地理もしくは歴史を記述すると同時に、地方自慢の意味を含んで居つたのである。
たゞしこの時代の風景の叙述は多くは類型的で、たとへば三峡の景勝でもその両岸の嶄絶な処を形容するのに、「亭午夜分」にあらざれば「曦月」を見ずといつてあるやうに、概念的な書き方で、見たまゝの景色を写生的にうつすといふやうな書き方ではない。その後、唐の柳宗元の遊記になると、見たまゝの景色を巧に写し、時間又は風や水の運動による変化をも写し出してゐることは、風景の叙述における一段の進歩で、こゝに至つて散文的な風景の叙述も、その精神は芸術的の区域にいりこんで来ることになつたのである。たゞこの遊記などは文章の天才が非常に優れた人でなければなし得ないので、かゝる人はむしろ画家などよりも【NDLJP:219 】遥にその数が少い。
特種勝景画と旅行家 けれども素人風な風景観から芸術的にまで発達した観方が、後世になつてはかへつて芸術家に反映して来た。明清時代になつては、一方において山水画が画院などの専門的な書きかたより素人趣味に変つて行くとともに、一方においては素人風の風景観を山水にとり入れた地方特種の勝景画が少なからず出て来た。その地方的山水画の真蹟を挙げると数多いが、清朝時代では例へば江西の山奥にある「黄山図」とか、長江地方の「太平三山図」とかいふやうな版画さへもこの傾が著しくあらはれて来た。又更に全く芸術的風景観から離れて、一種の山岳登攀の人も出て来た。明末の徐霞客の如きはその最も有名なる一人で、支那中の名山勝地を殆んど踏破し尽くして、その著した遊記は文章として非常な長所があるやうでもないが、兎も角目撃した風景を素人風にそのまゝ叙述してある。もつともこの種の旅行家も、最近に至つては必ずしも徐霞客の如く幽僻な名山などを好んで跋渉するではなく、ありふれた旅行先の風景を材料として作つた清の麟慶の「鴻雪因縁図記」の如きものが出来るやうになつた。要するに素人の風景観は初めは芸術的な見方から出発したのではないけれども、地方自慢などの考へからだん〳〵目撃した到るところの風景に趣味を感ずるやうに傾いていつて、かへつて風景に関して変化ある見方を発達せしめたことはその特徴であつて、これが後には専門芸術家の見方にも影響を与へて、雄抜な風景を主とした時代とは異つて平凡な風景の間に変化を見出さしめるやうになつて来た。こゝに至つて芸術家の風景観と非芸術家の風景観とが互ひに相助けて近代の風景観を大成するに至つた。
浮世画の風景観 もつとも支那では芸術家も非芸術家も、風景観をもつてゐるのは読書人階級に限られ、読書人階級以外の芸術的見方若くはその作品は存在してゐないが、日本はその点において支那に比して更に民衆的芸術といふべき、全く古典芸術より独立したものが近代において新らしき境涯を開くに至つた。即ち江戸時代において発達した浮世絵がそれであつて北斎、広重などの如き浮世絵派の風景画家は、全く読書人階級のもたない一種の風景観を持つてゐる。上に述べた地方的風景の特徴として支那画における一、二の例をいへば、画院の画家にお【NDLJP:220 】いても郭熙等が河南地方の平原をゑがき、李唐、馬遠などが江南地方における土地の断層をゑがき、近代においても黄鼎が「武夷九曲」の風景をゑがいたものなどはよく支那特有の地質をあらはしてゐるから、これらの画人が地質学の知識はなくとも、自然に支那特有の地質から生じた風景を見出したといふことがわかる。日本においても広重等がよく市街宿駅などの間に風景となるべき場所を発見従来の専門画家の支那画摸倣の風にとらはれずして日本の風景として特徴あるところをゑがき出したのは、その風景観の鋭敏さを見るべく、殊に自分が最も喜ぶのは火山国たる日本の特種の風景たる裾野を画中にとり入れたことであつて、その「富士三十六景」中に見ゆる甲州大月ヶ原の図の如き即ちそれである。
近代的の傾向、個性的の見方 以上の外に更に支那並に日本の風景観として近代的な傾向で最も注意すべきことは、風景の見方の個性的傾向である。風景の地方的の特徴といふことも、既に芸術的な一般的見方からは更に変化して部分的に入つて来たのであるが、しかしそれでも地方的特徴といふものはその土地があらはす自然を万人の共通に受入れたところの見方である。しかるに風景の個性的見方になると更に進んで、同じ景色についても見る人の相異によつて特別な景趣を見出すところに値打があるので、前にもいつた如く北斎、広重などはさういふ点において最もすぐれた天才を持つてゐたので、北斎などはその時代としては奇僻な見方で、芸術として画趣に入り難いものもあるが、その平凡な風景から特種な見方によつて新たな境地を拓いたことだけは偉とせざるを得ない。尤も支那の如く芸術が歴史的に相続してゐる国では、前人が個性的特種な見方をしても、後人が屢々それを踏襲すれば、遂にそれが一種の法格となつて、後にはその特種な見方といふことを忘れるやうになることがある。山水の法則として「六遠」といふことがあるが、その中で「高遠」「幽遠」といふ如き景色の見方は、これを創造した人は余程特種なものであつたに相違ない。即ち自分のゐる高いところから、中に渓谷を挟んで前方の高いところを見るといふことのために、山の脉絡、水の原委を峰巒樹石の間に見え隠れにゑがくといふことなどは、初めは最も新しい手法であらうが、それがしば〳〵摸倣的に踏襲されると、「高遠」「幽遠」といふが如き法則となつてしまふ。しかしながらその初めに溯れば極めて新しい見方であり、又これを西洋画などに比べて見ると、支那の芸術家が遠い前代から如何に山水につい【NDLJP:221 】て個性的な見方をしてゐたかといふことがわかるのである。広重などの特種な見方は、今日の画家がそれを踏襲するだけの技能もないところからして法則化されずに、今でも新らし味を感ずるのである。
輸入風景観の堕落 最近我邦では西洋文化を受入れることになつてからその画法をも伝へるやうになつたが、西洋画を習ひはじめる時に先づ最も感心するのは透視法の応用であつて、これは我邦のみならず、支那においても康熙、乾隆頃、西洋画からして同じやうな影響を受けた。我邦の司馬江漢等の心酔したのもこの点であつたが、その実、西洋の風景画はこれを支那画に比べると極めて幼稚なもので、十六七世紀頃に盛んになつたオランダ派等の風景画でも、支那でいへば十一世紀乃至十三世紀頃の董源、郭熙等のかいた平遠なる風景の画法を好んで用ひるに過ぎない。自己精神を象徴すべくゑがゝれた風景画の起つたのは、最近七八十年この方のことで、その以前の風景画は大部分説明的な、日本でいへば「名勝図会」の挿絵ぐらゐの程度のものが多い。もつとも部分的なスケツチにおいては特種な長所があり、或は又岩とか波とか霧とか光線とかいふやうなものを特別にうまくゑがいたものはある。しかし支那風な構成的な画法においてはその特別な長所が応用せられないところから、西洋風景画の輸入は我風景観に大した影響を与へなかつた。もつとも最近において登山といふことが一種の流行になつたところから、日本の風景に好んで西洋の出店のやうな名称を用ひ、「日本アルプス」「日本ライン」とかいふやうなことが盛んに唱へられるが、それらは多くは詩的若しくは絵画的な芸術眼を必ずしも備へないで、地理学、地質学のやうな科学的知識をなまかじりした登山家によつて風景が紹介されるので、素人趣味としても到底芸術的雅趣にはならぬ見方を以て風景を批評するやうな風が起つて来てゐる。一部画家等は又この新流行の悪趣味に捉はれて、如何に風景を画中にとり入れるべきかの考へもなく、たゞ登山家が見て感心するやうな見処をそのまゝ画にしやうとつとめて、つまらない失敗を重ねるものが多い。これは実に風景観に関する古来未曽有の堕落といつてもよいのである。これらの見方は西洋趣味といつても、西洋の芸術家の見方を理解してゐるでもなく、単に西洋風な名目にかぶれて、写真で見た山岳とか渓谷とかの風景で、我邦においてそれに類似したものを拾ひ出して、世界的の景色などと称するに過ぎない。そのいはゆる世界的といふ【NDLJP:222 】のは、西洋の非芸術家の悪趣味に近いものを日本で見出すだけのことで、日本における特有の景色で他の国にないやうなものを、芸術的にも或は非芸術的にも見出すでもなく、又前にもいつた広重などの如く、読書人階級の趣味以外に新らしき風景の見方を見出すでもなく、或は又蕪村などの如く支那風の手法を用ひながら、日本の或地方において自分の個性で見出した風景を写し出すやうなこともなく、単に新時代において流行的にありふれた景色に心酔してゐるに過ぎない。風景観として最も排斥しなければならぬのはこれらの悪趣味である。
各地方の特色 〈を見せた八景、廿五勝、百景選定〉ところで自分は今度の新八景の投票並にその審査、八景以外廿五勝並に百景の選定等について、以上の如く考へ来つた意味からしていろ〳〵な興味を覚える。第一は八景の名目の選定であるが、八景といふのは多分矢張り瀟湘八景とか近江八景とかから思ひついたものであらう、しかも瀟湘八景、近江八景に比べても、その選定の標準が頗る異つてゐるといふことがわかる。八景の選定に支那と日本の考へ方の相違は前に述べたが、近江八景にしてもその選定には時間を意識してゐて、夕照とか、晴嵐とか、暮雪とか、甚だしきは夜雨の如きほとんど目には見えないことまで考へ、三井の晩鐘の如く眼界を超越したものまでも取り入れてある。ところが新八景には時間の意識は全くない。いろ〳〵の標語はあつても、それがどういふ季節とか、どういふ時間とかいふ考へがない、これを現代人が芸術観において古人と異つてゐるのだといつてよろしからうか。
日本特有の風景、或は他の国にもあり得べきことでもあるけれども、特種な事情で日本に存してゐる風景、即ち前にいつた裾野の如きものは、単に火山の裾に横たはつた野原とばかりいふのではなくして、裾野は多く開墾され難くて、永く天然の野色を保ち得る便宜があるために、広重がゑがいたやうな秋草ののび〳〵として咲き乱れたところに美しい円錐形の火山を遠見に見るなどゝいふことは、最も特種な風景で、これを見出した広重の如き画家につくづく感心する次第である。
また天然林の美観といふやうなものは支那とかヨーロツパの如く早く森林を荒し尽くした国においては、余程僻遠の地方でなければこれを見ることが出来ないが、日本では古い社寺の関係から長く神聖な地域として保護せられたゝめに、必ずしも十和田湖附近とか、日向の椎葉あたりの山奥とかまでさがさなくとも、その昔高階隆兼が丹精になつた春日権現験記に【NDLJP:223 】よつて美はしく写された奈良春日の
投票の方面から考へると、地方自慢の精神が横溢して来たといふことは明らかなことで、その票数の多いことが著しく目立つ。のみならずこれによつて、地方において一般に知られなかつた勝景の地を世の中に紹介したといふことは、その観方の如何に拘はらず大変に有益なことであつて、百景なども極めて容易に、それによつて選定が出来得る。百景以外においても多くの新しい勝景について、世人の注意を喚起したのは大変に結構なことであつたと思ふ。
これら多数の勝景に対して、前から自分の述べた如く、地方的の特色を見出し、登山家の考へるやうな刺激的な風景でなく、平凡に近い風景の中から詩趣画趣あるものを見出す機会を与へ、その上にそれによつて芸術家の個性的の観方を誘起するやうにもなつたならば、始めて自分のいふところの如き、歴史的には近代的な観方、地理的には大きくは日本の特徴、小さくは各地々々の特徴を見出して、風景といふものを或種類の型にはめたやうな考へ方をせずに、多数の変化ある観方をするやうに発達させ得るかも知れない。
最初の名目が八景に限られて、非常な拘束されたものであるところを融通するために、廿五勝を設けたなどは不徹底ともいはれる嫌はあるが、元来の計画の短所をこれによつて補ひ得たことは余程上出来といふべきである。その上に百景を加へてその多種多様なる風景の中から、自分が考へた如き風景観を導き出すことは、芸術的な観方を発達さす上においても、頗も有益なことゝ思ふ。この点において、大阪毎日新聞、東京日日新聞並にその審査員諸君に感謝してもよいと思ふ。
(〈自昭和二年七月十三日至昭和二年七月十九日〉大阪毎日新聞)
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