日本女性美史 結語

結語 編集

これは男の書いた日本女性史である。しかも、筆者の私見を多く交つてゐる女性史である。私はこの女性史が決して多くの女性を滿足させるとは思つてゐない。
正直なところ、私は私の周圍にある少數の美くしい總明女性に對しては人並以上に愛と尊敬とをささげてゐるのであるが、女性全體に對しては尊敬どころか、輕蔑を通りこして嫌惡の念さへ抱いてゐる者である。それは完全なる女性について常に考へてゐるからである。どうして彼女たちは、あんなに早く自分で老い込むのだらう。どうして彼女たちはあゝまで時代の智識について鈍感なのだらう。どうして彼女たちはあんなに社交に噓が多いのだらう。どうして指導的な女性は女らしくないのだらう。
日本女性史上の女性は、それぞれの時代において完成品であつた。封建時代の女性は犧牲的であり、けなげであり、そして美くしかつた。戰國時代には雄々しくさへあり、昂然として良人への愛のために死んだ。萬葉歌人は憶するところな歌ひ、上代にあつてはよく神に仕へ、母として純眞であつた。ひそかに思ふに、神代女性――ことに、「神」と云ふ文字にこだわつてはならない、はるかに遠い昔の日本女性、として考へられるべきである――彼女たちこそは最も完璧に、そのやさしさと强さと美くしさを發揮した。
世界古代史を通じて三つの女性の型があつた。日本女性、インド女性、ギリシア女性。インドにおいてあまりに敎養と信仰の高すぎる男子から輕蔑された彼女たちは、支那において見るよりももつと――さきの世まで――あはれなものにされてゐる。これに反し、ギリシヤにあつては、女性の肉體があまりに美くしいため――それを發見したのは男であつた――愛と美と創造とを女性のものとした。さうして、天地創造の神々を七人の男と七人の女とに分擔させてゐる。
日本の女性は男性の美を發見した點において世界女性の先覺者である。最初に女神にたゝへられたまふた男神は、お姿やお顏のためにたゝへられたまふたのでなくて、精神的に男性の美くしさに輝いてゐらせられたのである。女神の、男神から受けされ〔ママ〕られた全體としての感じが、「うまし、男」であつたのだ。
そして、日本の女神もまたその美くしさをたゝへられたけれど、同時にまた、男神からつつましやかならんことを要求された。ここが日本女性の神話における特異な點である。女神は直に、素直にそれを容れられたのである。
ここに、男、女、相親しみつつ生々發展する倫理的基準が定められた。
この日本女性史は歷史の領域を超えて明日の女性を描かんとしたのであるが、史上の女性は必然的にこの明日の女性を生まざるを得ないのである。
然し、更に眞なる日本女性は女性みづからによつて語られねばならぬ。私は今、この稿をすすめる時、左に吉岡彌生女史の「女性の出發」を置いてゐる。これは科學を目立たぬほどにとり入れたる明日の女性の創造論である。總明なる日本女性はこの書に自己を發見するであらう。今や日本の醫學界は多くの女性の博士を持つてゐる。文藝、思想の世界にあつても恐らくかくれたる多くのすぐれた女性があつて、どこかで日本女性史を書いてゐるに違ひない。
この日本女性史は、その書物が世に出るまでかりにみづから第一の座につくであらう。

(完)

 

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