日本女性美史 第十一話

第十一話

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紫式部

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これより、平安朝女流文學者のお話に入る。
紫式部を先づ語るのは、世に出た順でも、年の順でもない。平安朝の代表的な女流文學者として第一にあげるべき人だからである。
紫式部は凡そ皇紀千六百年代の中ごろ、一條天皇の御代に、堤中納言兼輔の曾孫、式部亟爲時の娘として生れた。兄に惟規(のぶのり)があつた。兄は妹ほどに總明ではなかつたが、なかなかの文學の才のある人であつた。兄が史記を讀むのをそばで聞いていて兄より先に覺えた。史記のどんなところを覺えたのか判然としないが、兄の音讀を聞くのだから心にゆとりがある。史實そのものと、文章のよいことを心に沁みて學んだことは察せられる。父が「この子が男だつたらなあ」といつた、と自分で日記に書いてゐるくらゐだから、よほど學才があつたらしい。尤も、男だつたら源氏物語は生れなかつた。そのかはり、紫式部は偉大なる歷史家になつたであらう――と、これは「紫女七論」に安藤爲章の想定したことである。
紫式部は學才をはやされるのを自分では恥ぢて、なるべく平凡な女のやうに見せようとつとめた。それが餘計に父を感心させてゐた。
年ごろになつて右衞門權佐藤原宣孝に嫁した。戀愛結婚であつた。時に式部二十二歲、宣孝四十八歲。宣孝の得意や想ふべし。やがて大貳三位を生んだが、良人の宣孝は長保三年四月二十五日に死んだので、同棲わづか二年にして若く美しい寡婦となつた。良人に死別して數年ののち、一條天皇の中宮彰子(上東門院)に奉仕した。出仕の時は寬引三年十二月二十九日である。彼女は三十九歲で死んだ。
紫式部がどのやうな女で、そのやうな環境にあつたかは、彼女自身をして語らせよう。
一卷の「紫式部日記」は、それが何の目的で、誰に見せようために書かれたかを問ふを要しない。ただ、人に讀まれることを豫想して書いたであらうことは、その時代の日記文學が男女を通じて多く出てゐることや、その書きぶりによつて推察される。
まづ、彼女は中宮に愛せられ重んじられた。奉仕の翌年には中宮のために白氏文集の樂府二卷を進講してゐる。白氏文集は唐の白樂天の作品集で、七十卷に餘る大部のおのである。朝鮮でも愛讀せられ、日本では平安朝の貴族の間に彼の詩が愛誦された。樂府はその中の詩集である。當時たいていの貴族の知つてゐたものだが進講となると普通の學識では及ばない。恐らく中宮のお望でなく、紫式部が選んで進講したものであらう。中宮は、紫式部がよく知らないかもわからぬやような書を講せよとは、よもや仰せにならないだらうから。
紫式部の漢學の素養のあることは早くも宮中で噂󠄀にのぼつてゐた。紫式部日記の中にある。
「漢學の書物など置き重ねた良人もこの世になくなつたので、書物もありし日のままになつてゐる。追慕の心切なるときに、一二冊とり出して見てみると、女房が集まつて、あなたは漢學の本をお讀みになるから幸なことはないでせう、女のくせに漢文などお讀みになるのはいけないと思ひます。昔はお經でも女が讀むときらつたと云ふではありませんか、などとそしるのを聞くにつけても、そんな御弊(へい)を擔ぐ人は命が長くないさうですよ、と云ひたいのであつたが、口にまでは出さずにゐた、みんなもそれとはよう察しなかつたやうである」(大意)
のちに源氏物語は作られた。最初の愛讀者は一條天皇であらせられた。天皇は作者紫式部になみなみならぬ學才をお認めになり、
「恐らく作者は日本書紀に通じてゐるであらう、そして才能のある人と思はれる」
と仰せられた。このお言葉によつて式部に「日本紀」と云ふ別名がつけられた。
このくらゐだから、日ごろから彼女をねたむ者も少なくなかつた。自分がどのやうに見られ、噂󠄀されてゐるかは、だれよりも彼女自身が一ばんよく知つてゐた。だから日記にある。
「たいへん艷麗でしかもつつしみぶかく、人と會ふことをきらつてゐるやうで、なんとなく人づきのわるいところがある、いつも物語を愛讀しており、とかく歌の話をしたがる、そして人を何となく馬鹿にしてかかるところがある――などと噂󠄀してゐるらしい。みんなあまりよくは思つてゐないらしいが、また、案外噂󠄀ほどにはないところもあると見えて、實際會つてみると思ひのほかおとなしく、まるで別の人かと思はれる――などと云ふ人が多い。はづかしいことではある。年が年なのでのけものにされてゐるのかとも思はれるが、これが自分の望でもあると思つて別に噂󠄀を苦にもしなくなつた。中宮も、初めは近づきにくいと思ふたがいつのまにか親しめるやうになつた。と、仰せられることがある。つまりは、一くせある女のやうに人には思はせておいて、自分ではつつしみぶかくして、人に嫌はれないやうに心がけ、わるく目立たないやうにしてゐるのが無難なのであらう」(大意)
これは彼女の宮中における處世法であつた。その心構は時に行き過ぎのところもないではなかつた。例へば、御座所の御屛風に白樂天の詩が書いてあるのを、さもわからないやうな風をしてゐたが、その學才はおのづから感づかれて、道長の口添えもあつたらしく樂府の進講となつたのである。
道長はこの時、藤原一門の長としいて、この世を望月の缺けたることのないのにもたとへるほど滿ち足りた生活をしてゐたが、たゞ、及ばぬことは思慕のかなはぬことであつた。
ある夜、紫式部が寢てゐる時に輕く戶を叩く音がした。恐ろしさに音も立てずにゐた。やがて道長から歌が贈られた。
夜もすがらくひなよりけに鳴く鳴くぞ眞木の戶口に叩きわびつる
彼女の返歌、
ただならじとばかり叩く水鷄ゆゑ明けてはいかにくやしからまし
歌の品は道長の方がよろしく、返歌の下の句にいたつてはまるで村の乙女のやうな歌ひぶりであるが、こはれ紫式部が眞劍に身を守らうとする切な心のあらはれだからでもあらう。何さま、當代第一の重臣にこれほどの思慕を寄せられるのを、無下にことわるのは多少の冒險でさへあつた。
もつとも、彼女はすでに道長と云ふ人の氣さくな、淡々たるところもあることを知つてゐた。それは道長がある日酒のあといゝ氣持で女たちを笑はせたことがあつた。そのことを彼女自身も面白がつて――輕蔑してゐる風もなく――記してゐるのだ。これは右の歌の贈答の少し前のところである。
「宮樣お聞きになりましたか、私は歌をよみました――と、御自分でおほめになつて、尙も一人でお話になる。宮のお父うさまになつたのでまろも幸福だ。まろの女(むすめ)でゐらせられるから、宮も幸福だ、宮のお母あさまも幸福だと思ふて笑ふておられるぢやろ。よい良人を持つたことよと思ふておられることであらう――などと、おたはむれになるのも、お酒で御機嫌がよいからなのであらう、それをお聞きする自分は別に辛(つら)いとも思はなかつたけれど、何となく心をおちつかず、面白いことだと聞いてゐた」(大意)
ひそかに思ふにこれもまた道長が式部への思慕のあらはれであつたのだ。凡そ男は好きな女の前では饒舌になるもので、女にまともに物の言へない氣持を、らちもない話題にまぎらすことは御同樣たびたび――でもあるまいが――經驗することである。さればこそ式部も「さることなければ、騷がしき心地はしながら」と書いてゐるのではあるまいか。兎も角、紫式部から見た道長は案外親しめる男ではあつたのだが、さるにても、夜中に戶を叩くなどは穩かでない。このほかにも、道長が式部に云ひ寄つたり、そぶりを見せたりする場面があるが、いつも式部はそれを强い心でさりげなく拒否してゐる。
紫式部の純潔は、その周圍の女たちのむしろ放縱であつた生活の中にして、一段と、後代の女性の心を高うするものがある。時代相としては、けだし紫式部のごときは異例に屬してゐるのであつて、ことに、のちに說く和泉式部の場合とくらべると、氣品において各段の差がある。ある學者は、彼女が日記において、ほかの一群の才女たちを痛烈に批判してゐる點をあげて、心ばえの劣れることを力說してゐるのであるが、それは恐らくありのままを記しただけであつて、一つに不當の誹謗とのみ斥けることはできないであらう。えらばつたり、おとしめたり、公衆の前で侮辱したりしたのではない。日記の素材として、周圍の女性のあさましさに觸れただけのことである。
以上は日記を通じて見た紫式部の生活環境である。このやうな環境の中にあつて長編小說源氏物語を書いたのであるが、源氏物語の作者としての紫式部はまた別の方面から見ねばならぬ。もちろん、源氏物語それ自體がまた、作者とその時代精神、時代感覺を語るのであるから、私はしばらく日記の作者と切りはなして、この小說を眺めようと思ふ。
 

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