日本及日本人の道


私の講演の題は『日本及日本人の道』と申します。

私はこの題目の下に、個人と國家とを支配する所の規範を求めて、如何にして我々が一個人として正しく生き、並に我國家をして正しき生活を營ましめやうかと云ふ問題に一個の解釋を與へやうと思ふのであります。然るに我々は、紛れもなき日本人であり、我々の國家は紛れもなき日本國であるが故に、個人として並に國家としての最も正しき道と云ふことは、具體的に申せば日本及日本人の道と云ふことになります。これに就て年來私の考へてゐる所を概略搔摘んで、茲三日間の内に御話し申上げやうと思ふのでおります。

ソクラテスが牢獄に投ぜられ、死刑の日が迫つて毒盃を突附けられた時、訣別を惜む多くの弟子が、ソクラテスを獄舍に訪ふたのであります。ソクラテスは、この多勢の弟子を前に控へて、毒盃を手にしながら斯ふ言ふてをります――『我々の求むべき所のものは單なる生命ではなく、良き生命でなければならぬ』と。ソクラテスの此の言葉は、彼のその名と共に萬代不朽であるべき眞理と私は考へます。我々の生活が他の一切の生物の生活と異る所以のものは、良き生活を營むことに依つて現はれて來る。人間は疑ふべくもなく一個の生物でありますが故に、動物としての人間は、必然一切の生物を支配する自然的、器械的法則に縛られてゐる。さうして一切の生物に共通である所の本能の衝動のまにまに自己保存を目的として動いて居ます。併ながら斯くの如き生活――本能に動かされて自己の保存の为めに動きつゝある所の生活は、ソクラテスの所謂單なる生活であつて、これだけが我々の生活の全部でもなければ、又我々の生活の重要なる部分でもありません。人間の本質は、器械的、自然的鐵則に縛られてゐる自然的生活を超出して、精神的生活――價値の生活を營む時に始めて現はれるのであります。この間の消息を東西の偉大なる人格者が、深い體驗、思索の後に色々に傳へて居ります。例へば獨逸の哲學者、フイヒテは之を『自然に對する理性の支配』と言ひ、同じく獨逸の哲學者シュライエルマッヘルは一層深刻に『理性と自然との歸一』と言つて居ります。かくて吾々は、外からの器械的なる法則に縛られず、自分自身の理想に依つて自分の生活を律して行く時、斯くの如き時に始めて人間としての本當の面目が現はれるんであります。而してこの人間の本當の面目を實現して行く爲めに、正しい規範を求めやうと云ふのが、先づ私の講演の出發點であります。

正しき規範に遵つて生きる生活を道德的生活と云ひます、道德に關しては古来幾多の說明がありますが、先づ第一に我々が稽へなければならぬことは、道德に關する學說が如何に立派であらうとも、道德に關する教義が如何に壯嚴であらうとも、若し道德とは外から我々を律するものであるとするならば、言換へれば道德生活の基礎が我々人間の裡に具はつてゐないものとするならば、道德と云ふものは结局附燒刄と云ふことになります。附燒刄ならば何時でも拂ひ除ける事が出来ます。外から來たものは、我々の内面的生活に向つては、何等の權威もないのであるから、我々は之に對して何時でも謀叛の旗を飜へすことが出来ます。道德が我々に取つて本當に權威あり、本當に尊きものである爲めには、必らず人間の裡に、發して道德として花開くべき種が、自然に具はつてをらなければなりませぬ。この道理はカントが道德の自律性と云ふことで最も周到徹底した論理を與へてをります。併ながら敢てカントを俟つまでもなく本當の、精神的生活を送つた人は、悉くこの道理を古へから能く認めて居ります。例へぱ孟子を読んで見ましても『仁義禮智は外より錄ずるに非ず、 吾固よりこれを有するなり』 と云ふてをります。殊に彼の王陽明の学問に至つては、我々の内に具はって居る道心が外に働きかけて、それが總ての道徳となると云ふことを説くのに全力を用ゐて居ます。 この我々の内に具はつてゐる所の徳となるべきもの――道徳の基礎は、非常なる力を具へてなり、従つて非常なる威厳を以て我々に臨む故に、古来種々なる名を以て之を呼んで来ました。カントはこの我々に宿る所の道義的精神を 『我々の衷なる神』 或は 『我々の衷なる超感覚者』と呼んで居ます。儒教では之を良知良能と謂ひ、程朱の学に於ては天理と謂つて居ます。

然らば道徳的生活の基礎となるべき所のものは何んであるか。我々が我々自身の内に有持つてゐる色々な素質の内で、我々が真個の道徳的基礎を築き上ぐべき土台となるものは何んであるか。私は先づそれから考へ初めます。この人聞に具はる所の道徳的基礎の内で、何人も第一に気が付かなければならぬ所のものは羞恥の感情であります。 孟子が『羞悪の心なきものは人に非ず』と言つて居りますが、この言葉は非常に深い真理を道破した言葉であると思ひます。 人間と動物若くは他の一切の存在との弁別を付ける為めに色々な点を舉げることが出来ましやうが、タツタ一つで人問と他かのものとを分かつ可き特徴があるかと問はれるならば、私は『恥を知る心の有無である』と答ヘたい。この恥を知る心は、発する所は素より多端でありますが、 その最も原始的なるは、我々が肉体的生活並に肉体的生活に付く所の欲望感情を、ありの侭に曝け出すことを恥ぢる感情であります。前申上げたやうに、人聞と雖も一個の生物でありまするが故に、必らず動物と共通な生活を営まなければならぬ。子孫繁殖の為めに男女相交らなければならぬ。自己の生命を保存する為には飲食しなければならぬ。然るに拒むべくもなき事実として、人問はその自然的生活即ち肉体的生活を赤裸々に出すことを恥しく思ひます。男女の欲は種族保存の為めに缺くべからざるもの、飲食の欲は自己保存の為めに缺くべからざるもの、隨つてこれは適当に満足せしめなければならぬ所の欲求であります。さうして他の動物においてはこの欲望感情に従ふことを、啻に恥とせざるのみならず、如何なる方法を以てしてもこれを満足させる為めに汲々としてゐる。然るに独り人間のみはこれを恥ぢてゐるのであります。旧約全書の初めにアダムとイブが初めは真裸でをつたのを、無花果の葉を取つて腰の囲りに纏ふたと云ふ記事があるが、これは甚だ意味深長なことであります。アダムとイブがその赤裸々の身体を恥かしく思ふた時に、彼は姶めて動物の境界から脱出して人間となり、隨つて人間の先祖となつたのであります。若し赤裸々の身体を恥づることもなく、男女の欲を充たして恥づる所なかつたならばアダムとイブは他の別個の動物の祖先となり得たか知らぬが、人聞の祖先とは永遠になり得ないのである。これは 一 体どうしたことであるか。 一面に於て人間は動物でありながら、動物のやるやうな欲求、感情を恥ぢるとは何うしたことかと云ふことを我々は稽へて見なければなりません。

明白なる論理に依つて、 我々が肉体的生活若くは動物的生活を恥ぢると云ふことは、我々の内に動物以上の或るもの、肉休以上の或るものが存在してゐることを証拠立てます。何故ならば、人聞が徹頭徹尾一個の動物であるならば、動物的生活を恥ぢる道理はないのです。然るにこれを恥ぢると云ふことは、動物以上の或るもの、肉体以上の或るものが我々の内に存在し、而してそのものが肉休的生活、自然的生活に対して価値の判断を下だすが故に、即ち斯かる生活は本当の人間らしき生活でないと云ふ判断を下すが故に、茲に我々が恥ぢる感情を生じて来るのです。言換へれば自然的生活に我々が従ふこと、肉体的生活並にこれより生づる所の欲求感情に我々が支配されることを、何んとなく人間らしくないと感じ、人間の本当の面目が害はれるやうに感ぢるからこそ、我々が恥しいと云ふ一種の感情を起して来るのであります。それ故に、この羞恥の感情の本質に立入つて稽へて見れば、人間が人間よりも下なるものに依つて支配されることに対して抱く感情であります。価値の判斷と云ふと三つしかない。価値の劣れるもの、価値の同じきもの、価値の勝れるもの、これであります。我々が価値の生活を営む揚合において、『我』に対する「非我』の世界は、これを明白に今云つた三つに分つことが出来ます。而して恥を知る感情は、我々より価値において劣れるものが、我を支配し、我を左右することに対して我々が懷く所の感情であります。孟子は『羞悪の心は義の端なり』と云ふてゐるが、狭い意味における、若しくは純粋なる意味における『義』即ち道徳は、人生における自然的基礎を羞恥の情に有して居ります。この感情ある為めに、我々は自然的生活を脱出超越して、人間生活に携はることが出来る。若しこの感情がなかつたならば、我々は永遠に自然的生活を営むに止まり、動物と同じ生活を営むだけである。道徳的生活と云ふことは前申したやうな法則の世界から規範の世界に入ること、即ち自然的生活を出て精紳的生活に入ることである。その自然から精神へと拾上げる力は、羞恥の感情であります。羞恥の感情は、我々の精神的生活が進むに従つて次第に複雑を加へ、且段々純化若くは深刻化されて行くのであります。

支那においては道徳的理想を『仰いで天に慚ぢず、俯して地に愧ちず』と言ふて居ります。始めは単なる自然的生活を恥ぢて居つたのが、後には『仰いで天に慚ぢず、俯して地に愧ぢず』と云ふ純乎として純なる精神的意味をこの感情が持つに至つて、我々の道徳的人格が確立して来るのであります。

この ぢると云ふ感情は感情そのものゝ性質から、我々が我より価値の劣れるものに対して如何なる態度を執るべきかと云ふことを既に教へて居ります。即ち我々より劣れる価値のものに支配されずに、これを支配しなければならないと云ふ道徳的原則が之から生ずるのであります。

併ながらこの羞恥の心と云ふものは、それ自身においては尚ほ一個の感情でありまするが故に、その侭では決して道徳ではないのであります。先程から繰返して申上げるやうに、それは道徳の自然的基礎、即ち道徳の『端』であります。唯だものを恥かしがつた所で、それが決して善いものでも悪いものでもない。それは唯さう云ふ感情だけに止まる。これを道徳的たらしめる為には、非常なる鍛錬を要し陶冶を要します。何故ならば単にこの感情を自然に発露する侭に委して置くならば、我々は恥ぢてならぬことを恥ぢて見たり、恥ぢなければならぬことを恥ぢなかつたりします。論語に『敝れたる温袍を着て狐貉の衣物を着た者と列び立つて恥ぢざるはそれ子路か』と言つて居ます。粗い衣物を着て美衣を着た人と並んで恥ぢない位ゐのことは、誰れにでも出来さうなことであるのに、孔門十哲の一人に算へられる子路の如き人格にして、始めて許される所のものであつて見れば、其れ以上の事は尚更鍛錬を必要とするのであります。それ故に、我々が此の自然的基礎の上に道徳を築かふと思ふならば、先づ徹底明瞭に我々は何を恥づべか、何を恥ぢてならぬかと云ふことを知らなければなりません。然るに恥ぢると云ふことは、先程から申上げるやうに結局自分の本当の自我を確立するため、自己の本当の面目を確立するためのものでありますが故に、何を恥づべく、何を恥づべからざるかを知るためには、徹底明瞭に自己の真面目を知らなければなりません。自らの面目は何ぞと言ふことを本当に明かにしなければ、何を恥ぢ、何を恥づべからざるかと云ふことを知り得る道理がない。例ヘば女の人ならば腕カなきことを恥ぢる必要がない。軍人であるならば必ずしも料理の下手なことを恥ぢる必要はない。具体的には、恥づべき事は其人々々によつて違ひます。何故ならば総べての人は一つあつて二つない所の個性を持つて居り、其人のみが持つてゐる處の面目があるのみならず、総ての人間はこの実際社会に於て夫れく其人のみが充たし得る處の分担を有して居ります。でありますから、抽象的に考へると人問の面目と言へば万人が皆な同じであるように思ふけれども、実際は万人の面目皆截然として異つてをります。それ故に深刻なる反省に依つて先づ自我の面目を知り、 かくして何を恥ぢ、何を恥づべからざるかを辨へ、兹に始めて道義的人格を確立することが出来るのであります。これ東洋に於て昔より廉耻と云ふことを非常に重じて来た所以であります。孟子は『恥の人に於けるや大なり』と言ふて居ります。この恥ぢる感情と相並んで、人間の性質に本来具はつた所の第二の道徳的基礎は孟子の言葉を籍りて言へば『側隠の情』即ち愛憐の情であります。恥を知ると云ふ感情は、人間のみが有する感情であつて、人間を他の動物から別つ所の感情であり、更に進んでは個々の人間を個々の人間から分つ所の感情、大川と加藤と、加藤と佐藤と分つ感情であります。もう一遍言換へれぱ、大川と加藤とを別けて、大川として又加藤としての面目をハツキリ確立させる為めの感情であります。然るにこの側隠の情は単に人間のみならず、他の動物もこれを有して居ります。如之これは自他を分つ所の感情にあらずして、却つて自他を結付ける所の感情であります。即ち一は区別原理、片方は融合原理であります。この側隠の情に就て孟子は下のやうに説いて居ます。


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