旅順白玉山表忠塔碑銘
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編集明治三十七年、露國之難作、二月、我海軍襲旅順艦隊、轟破其數艦、尋用汽船十數隻、乘夜冒砲火進港口、自爆沈以杜塞航路者、前後三次、又沈設水雷於港外、遊弋偵羅、屢挫敵艦、遂封鎖海道、絕其接濟、八月、露艦十餘隻圖脫出、我激擊之、黃海敵艦潰敗四散、其大半遁歸旅順、潜伏不復出、先是第三軍從金州半島上陸攘劍山、敵次陷凹字形山、大白山及鳳凰山、于大山、又耴大小孤山、高崎山、四面進逼、包圍全成、於是遣使宜詔、旨令婦兒避難並勸降、不應、全軍乃轟砲齊攻、艦隊自海上援之、强襲數晝夜、取盤龍山東西二壘、而要塞守禦堅固、不可輒拔、更用正攻法、堀塹穿壕、雁行曲折以漸逼壘下、九月、破龍眼水師營海鼠山諸壘、十月、再大舉肉薄奮鉢卷山、瘤山、一戶等壘、彼我對峙益近接、當是時、北進軍旣拔遼陽、克沙河、敵增派大兵、且令波羅的艦隊繼援、旅順攻略不得不急、十一月三、大舉進擊、劇戰十數日、遂拔爾靈山、瞰制港內、敵艦隊竟歸勦滅、而海軍常出入風濤氷霧之間、蒙砲火、犯水雷、以績行封鎖、旣而坑道作業成、東鷄冠山、二龍山、松樹山首壘相繼爆壞、至明年一月、望臺又陷、露軍不能復支、撤守出降、嗚呼、此險要拔矣、雖謂一賴皇上之威靈、亦豈非將卒忠勇義烈盡誠奉上之效乎、未幾、奉天日本海海陸軍連捷、和議卒成願、旅順之役、自春涉冬、陣歿者無慮二萬三千人、而某等侶從事其間、每追想當時、未甞不慨然於懷也、茲與有志謀、建塔於白玉山頂、以表忠烈於千載云爾
明治四十二年十一月
海軍大將正三位大勳位功一級伯爵 東鄕平八郎
陸軍大將從二位勳一等功一級伯爵 乃木希典
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