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序の章
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一
「岸本君――僕は僕の近来の生活と思想の断片を君に書いて送ろうと思う。然し実を言えば何も書く材料は無いのである。黙していて済むことである。君と僕との交誼が深ければ深いほど、黙していた方が順当なのであろう。旧い家を去って新しい家に移った僕は懶惰に費す日の多くなったのをよろこぶぐらいなものである。僕には働くということが出来ない。他人の意志の下に働くということは無論どうあっても出来ない。そんなら自分の意志の鞭を背にうけて、厳粛な人生の途に上るかというに、それも出来ない。今までに一つとして纏った仕事をして来なかったのが何よりの証拠である。空と雲と大地とは一日眺めくらしても飽くことを知らないが、半日の読書は僕を倦ましめることが多い。新しい家に移ってからは、空地に好める樹木を栽えたり、ほんの慰み半分に畑をいじったりするぐらいの仕事しかしないのである。そして僅かに発芽する蔬菜のたぐいを順次に生に忠実な虫に供養するまでである。勿論厨房の助に成ろう筈はない。こんな有様であるから田園生活なんどは毛頭思いも寄らぬことである。僕の生活は相変らず空な生活で始終している。そして当然僕の生涯の絃の上には倦怠と懶惰が灰色の手を置いているのである。考えて見れば、これが生の充実という現代の金口に何等の信仰をも持たぬ人間の必定堕ちて行く羽目であろう。それならそれを悔むかというに、僕にはそれすら出来ない。何故かというに僕の肉体には本能的な生の衝動が極めて微弱になって了ったからである。永遠に堕ちて行くのは無為の陥穽である。然しながら無為の陥穽にはまった人間にもなお一つ残されたる信仰がある。二千年も三千年も言い古した、哲理の発端で総合である無常――僕は僕の生気の失せた肉体を通して、この無常の鐘の音を今更ながらしみじみと聴き惚るることがある。これが僕のこのごろの生活の根調である……」
郊外の中野の方に住む友人の手紙が岸本の前に披げてあった。
これは数月前に岸本の貰った手紙だ。それを彼は取出して来て、読返して見た。若かった頃は彼も友人に宛てて随分長い手紙を書き、また友人の方からも貰いもしたものであったが、次第に書きかわす文通もほんの用事だけの短いものと成って行った。それも葉書で済ませる場合にはなるべく簡単に。それだけ書くべき手紙の数が一方には増えて来た。一日かかって何通となく書くことはめずらしくない。その意味から言えば、彼の前に披げてあったものは、めったに友人から貰うことの出来る手紙でもなかった。手紙の形式をかりて書いて寄してくれた手紙でない手紙だ。読んで行くうちに、彼は何よりも先ず人生の半ばに行き着いた人一人としての友人の生活のすがたに、その告白に、ひどく胸を打たれた。ある夕方が来て見ると、あだかも彼方の木に集り是方の木に集りして飛び騒いでいた小鳥の群が、一羽黙り、二羽黙り、がやがやとした楽しい鳴声が何時の間にか沈まって行ったように、丁度そうした夕方が岸本の周囲へも来た。中にも、この手紙をくれた友人が中野の方へ新しい家を造って引移ってからというものは、ずっと声を潜めてしまった。ほんとに黙ってしまった。
読みかけた手紙を前に置いて、岸本は十四五年このかた変ることのない敬愛の情を寄せたこの友人に自分の生涯を比べて見た。
二
岸本は更に読みつづけた。
「……郊外に居を移してから僕の宗教的情調は稍深くなって来た。僕の仏教は勿論僕の身体を薫染した仏教的気分に過ぎないのである。僕は涅槃に到達するよりも涅槃に迷いたい方である。幻の清浄を体得するよりも、寧ろ如幻の境に暫く倦怠と懶惰の「我」を寄せたいのである。睡っている中に不可思議な夢を感ずるように、倦怠と懶惰の生を神秘と歓喜の生に変えたいのである。無常の宗教から蠱惑の芸術に行きたいのである……斯様に懶惰な僕も郊外の冬が多少珍らしかったので、日記をつけて見た。去年の十一月四日初めて霜が降った。それから十一日には二度目の霜が降った。四度目の霜である十二月朔日は雪のようであった。そしてその七日八日九日は三朝続いたひどい霜で、八ツ手や、つわぶきの葉が萎えた。その八日の朝初氷が張った。二十二日以後は完全な冬季の状態に移って、丹沢山塊から秩父連山にかけて雪の色を見る日が多くなった。風がまたひどく吹いた。然し概して言えば初冬の野の景色はしみじみと面白いものである。霜の色の蒼白さは雪よりも滋くて切ない趣がある。それとは反対に霜どけの土の色の深さは初夏の雨上りよりも快濶である。またほろほろになった苔が霜どけに潤って朝の日に照らさるる時、大地の色彩の美は殆ど頂点に達するのである。この時の苔の緑は如何なる種類の緑よりも鮮かで生気がある。あだかも緑玉を砕いて棄てたようである。またあだかも印象派の画布を見るようでもある。僕はわびしい冬の幻相の中で、こんな美しい緑に出会おうとも思いがけなかったのである。僕の魂も肉もかかる幻相の美に囚われている刹那、如幻の生も楽しく、夢の浮世も宝玉のように愛惜せられるのである。然しながら自然の幻相は何等の努力の発現でないのと等しく、その幻相の完全な領略はまた何等の努力をも待たないものである。夢をして夢と過ぎしめよ……」
芸術的生活と宗教的生活との融合を試みようとしているような中野の友人には、相応な資産と倹約な習慣とを遺して置いて行った父親があって、この手紙にもよくあらわれている静寂な沈黙を味い得るほどの余裕というものが与えられていた。岸本にはそれが無かった。中野の友人には朝に晩にかしずく好い細君があった。岸本にはそれも無かった。彼の妻は七人目の女の児を産むと同時に産後の激しい出血で亡くなった。
山を下りて都会に暮すように成ってから岸本には七年の月日が経った。その間、不思議なくらい親しいものの死が続いた。彼の長女の死。次女の死。三女の死。妻の死。つづいて愛する甥の死。彼のたましいは揺られ通しに揺られた。ずっと以前に岸本もまだ若く友人も皆な若かった頃に、彼には青木という友人があったが、青木は中野の友人なぞを知らないで早く亡くなった。あの青木の亡くなった年から数えると、岸本は十七年も余計に生き延びた。そして彼の近い周囲にあったもので、滅びるものは滅びて行ってしまい、次第に独りぼっちの身と成って行った。
三
まだ新しい記憶として岸本の胸に上って来る一つの光景があった。続きに続いた親しいものの死から散々に脅された彼は復たしてもその光景によって否応なしに見せつけられたと思うものがあった。それは会葬者の一人として麹町の見附内にある教会堂に行われた弔いの儀式に列った時のことだ。黒い布をかけ、二つの花輪を飾った寝棺が説教台の下に置いてあった。その中には岸本の旧い学友で、耶蘇信徒で、二十一年ばかりも前に一緒に同じ学校を卒業した男の遺骸が納めてあった。肺病で亡くなった学友を弔うための儀式は生前その人が来てよく腰掛けた教会堂の内で至極質素に行われた。やがて寝棺は中央の腰掛椅子の間を通り、壁に添うて教会堂の出入口の方へ運ばれて来た。亡くなった人のためには極く若い学生時代に教を説いて聞かせるからその日の弔いの説教までして面倒を見た牧師をはじめ、親戚友人などがその寝棺の前後左右を持ち支えながら。
岸本は灰色な壁のところに立って、その光景を眺めていた。その日は岸本の外に、足立、菅の二人も弔いにやって来ていた。三人とも亡くなった人の同窓の友だ。
「吾儕の仲間はこれだけかい」
と菅は言って、同じ卒業生仲間を探すような眼付をした。
「誰かまだ見えそうなものだ」
と足立も言った。
会葬のために集まった人達は思い思いに散じつつあった。しばらく岸本は二人の学友と一緒に教会堂の内に残って、帰り行く信徒の群なぞを眺めて立っていた。そこへ来て親戚の代りとして挨拶した年老いた人があった。三人とも世話になった以前の学校の幹事さんだ。
「可哀そうなことをしました」
とその幹事さんが亡くなった学友のことを言った。
「子供は幾人あったんですか」
と岸本が尋ねた。
「四人」
と幹事さんは言って見せて、「後がすこし困るテ」という言葉を残しながら別れて行った。
二人の学友と連立って岸本が帰りかけた頃は、会葬者は大抵出て行ってしまった。人気の少い会堂の建物のみが残った。正面にある尖ったアーチ風の飾、高い壁、今が今まで花輪を飾った寝棺がその前に置かれてあった質素な説教台のみが残った。会葬者一同が立去った後の沢山並べてある長い腰掛椅子のみが残った。弔いの儀式のために特に用意したらしい説教台の横手にある大きな花瓶と花と葉とのみが残った。そろそろ熱くなりかける時分のことで、教会堂風な窓々から明く射しこんで来る五月の日の光のみが残った。
岸本は立去りがたい思をして、高い天井の下に映る日の光を眺めながら、つくづく生き残るものの悲哀を覚えた。その悲哀を多くの親しい身内のものに死別れた後の底疲れに疲れて来た自分の身体で覚えた。
足立や菅を見ると、若かった日の交遊が岸本の胸に浮んで来る。つづいてあの亡くなった青木のことなぞが聯想せられる。岸本と一緒にその教会堂の石階を降りた二人の学友は最早青木なぞの生きていた日のことを昔話にするような人達に成っていた。
四
それから岸本は二人の学友と一緒に見附を指して歩いた。久し振で足立の家の方へ誘われて行った。岸本を教会堂まで送って行った車夫は空車を引きながら、話し話し歩いて行く岸本の後へ随いて来た。
「何年振で会堂へ来て見たか」そんな話をして行くうちに、旧い見附跡に近い空地のところへ出た。風の多い塵埃の立つ日で、黄ばんだ砂煙が渦を巻いてやって来た。その度に足立も、菅も、岸本も、背中をそむけて塵埃の通過ぎるのを待っては復た歩いた。
蒸々と熱い日あたりは三人の行く先にあった。牧師が説教台の上で読んだ亡い学友の略伝――四十五年の人の一生――互にそのことを語り合いながら、城下らしい地勢の残ったところについて緩慢な坂の道を静かに上って行った。
「先刻、僕が吾家から出掛けて来ると、丁度御濠端のところで皆に遭遇した。僕は棺に随いて会堂までやって行った」
と言出したのは三人の中でも一番年長な足立であった。
「吾儕の組では、最早幾人亡くなってるだろう」
それを岸本が言うと、足立は例の精しいことの好きな調子で、
「二十人の卒業生の中が、四人欠けていたんだろう。これで五人目だ」
「まだ誰か死んでやしないか。もっと居ないような気がするぜ」それを言ったのは菅だ。
「この次は誰の番だろう」
あの足立の串談には、菅も岸本も黙ってしまった。しばらく三人は黙って歩いて行った。
「この三人の中じゃ、一番先へ僕が逝きそうだ」と復た足立が笑いながら言出した。
「僕の方が怪しい」岸本はそれを言わずにいられなかった。
「ナニ、君は大丈夫だよ。僕こそ一番先かも知れない」と菅は串談のようにそれを言って笑った。
「ところがネ、僕はマイるものなら、この一二年にマイってしまいそうな気がする……」
この岸本の言葉は二人の学友には串談とも聞えたか知れないが、彼自身は自分で自分の言ったことを笑えなかった。煙のような風塵が復た恐ろしくやって、彼は口の中がジャリジャリするほど砂を浴びた。
その日は葬式の帰りがけにも関らず菅と二人で足立の家へ押掛けた。
「こうして揃って来て貰うことは、めったに無い」それを足立が言っていろいろと持成してくれた。思わず岸本は話し込んで、車夫を門前に待たせて置きながら、日暮頃までも話した。
「皆一緒に学校を出た時分――あの頃は、何か面白そうなことが先の方に吾儕を待っているような気がした。こうしているのが、これが君、人生かねえ」
言出すつもりもなく岸本はそれを二人の学友の前に言出した。
「そうサ、これが人生だ」と菅は冷静な調子で言った。「僕はそう思うと変な気のすることがある」
「もうすこしどうかいうことは無いものかね」
と岸本が言うと、足立はそれを引取って、
「そんなに面白いことが有ると思うのが、間違いだよ」
足立の部屋に菅と集まって見て、岸本はそこにも不思議な沈黙が旧い馴染の三人を支配していることを感じたのであった。それほど隔ての無い仲間同志にあっても、それほど喋舌ったり笑ったりしても、互いに心が黙っていた。
「どうしてもこのままじゃ、僕には死に切れない」
岸本はまた、それを言わずにいられなかった。
これらの談話の記憶、これらの光景の記憶、これらの出来事の記憶、これらの心の経験の記憶――すべては岸本に取って生々しいほど新しかった。何かにつけて彼は自分の一生の危機が近づいたと思わせるような、ある忌しい予感に脅されるように成った。
五
学友の死を思いつづけながら、神田川に添うて足立の家の方から帰って来た車の上も、岸本には忘れがたい記憶の一つとして残っていた。古代の人が言った地水火風というようなことまで、しきりと彼の想像に上って来たのも、あの車の上であった。火か、水か、土か、何かこう迷信に近いほどの熱意をもって生々しく元始的な自然の刺激に触れて見たら、あるいは自分を救うことが出来ようかと考えたのも、あの車の上であった。
生存の測りがたさ。曾て岸本が妻子を引連れて山を下りようとした頃にこうした重い澱んだものが一生の旅の途中で自分を待受けようとは、どうして思いがけよう。中野の友人にやって来たというような倦怠は、彼にもやって来た。曾て彼の精神を高めたような幾多の美しい生活を送った人達のことも、皆空虚のように成ってしまった。彼はほとほと生活の興味をすら失いかけた。日がな一日侘しい単調な物音が自分の部屋の障子に響いて来たり、果しもないような寂寞に閉される思いをしたりして、しばらくもう人も訪ねず、冷い壁を見つめたまま坐ったきりの人のように成ってしまった。これはそもそも過度な労作の結果か、半生を通してめぐりにめぐった原因の無い憂鬱の結果か、それとも母親のない幼い子供等を控えて三年近くの苦艱と戦った結果か、いずれとも彼には言うことが出来なかった。
中野の友人から貰った手紙の終の方には、こんな事も書いてある。
「岸本君、僕はもう黙して可い頃であろう。倦怠と懶惰は僕が僕自身に還るのを待っている。眼も疲れ心も疲れた。ふと花壇のほとりを見やると、白い蝴蝶がすがれた花壇に咲いた最初の花を探しあてたところである。そしてその蝴蝶も今年になって初めて見た蝴蝶である。僕の好きな山椿の花も追々盛りになるであろう。十日ばかり前から山茱黄と樒の花が咲いている。いずれも寂しい花である。ことに樒の花は臘梅もどきで、韵致の高い花である。その花を見る僕の心は寂しく顫えている」こう結んである。
中野の友人には子が無かった。曾て岸本の二番目の男の児を引取って養おうと言ってくれたこともあった。しかし、頑是なく聞分けのない子供は一週間と友人の家に居つかなかった。結局岸本は二人の子供を手許に置き、一人を郷里の姉の家に托した。常陸の海岸の方にある乳母の家へ預けた末の女の児のためにも月々の仕送りを忘れる訳にはいかなかった。彼はもう黙って、黙って、絶間なしに労作を続けた。
岸本の四十二という歳も間近に迫って来ていた。前途の不安は、世に男の大厄というような言葉にさえ耳を傾けさせた。彼は中野の友人に自分を比べて、こんな風に言って見たこともある。友人のは生々とした寛いだ沈黙で、自分のは死んだ沈黙であると。その死んだ沈黙で、彼は自分の身に襲い迫って来るような強い嵐を待受けた。
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第一巻
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一
神田川の川口から二三町と離れていない家の二階を降りて、岸本は日頃歩くことを楽みにする河岸へ出た。そして非常に静かにその河岸を歩いた。あだかも自分の部屋のつい外にある長い廊下でも歩いて見るように。
その河岸へ来る度に、釣船屋米穀の問屋もしくは閑雅な市人の住宅が柳並木を隔てて水に臨んでいるのを見る度に、きまりで岸本は胸に浮べる一人の未知な青年があった。ふとしたことから岸本はその青年からの手紙を貰って、彼が歩くことを楽みにする柳並木のかげは矢張その青年が幾年となく好んで往来する場所であったことを知った。二人は互いに顔を合せたことも無いが、同じ好きな場所を見つけたということだけでは不思議に一致していた。それから青年は岸本に逢いたいと言って来た。その時、岸本は日頃逢い過ぎるほど人に逢っていることを書いて、吾儕二人は互いに未知の友として同じ柳並木のかげを楽もうではないか、という意味の返事をその青年に出した。この岸本の心持は届いたと見え、先方からも逢いたいという望みは強いて捨てたと言って来て、手紙の遣り取りがその時から続いた。例の柳並木、それで二人の心は通じていた。その青年に取っては河岸は岸本であった。岸本に取っては河岸はその青年であった。
同じ水を眺め同じ土を踏むというだけのこんな知らないもの同志の手紙の上の交りが可成長い間続いた。時にはその青年は旅から岸本の許へ葉書をくれ、どんなに海が青く光っていても別にこれぞという考えも湧かない、例の柳並木の方が寧ろ静かだと書いてよこしたり、時には東京の自宅の方から若い日に有りがちな、寂しい、頼りの無さそうな心持を細々と書いてよこしたりした。次第に岸本はそうした手紙を貰うことも少くなった。ぱったり消息も絶えてしまった。
「あの人もどうしたろう」
と岸本は河岸を歩きながら自分で自分に言って見た。
曾てその青年から貰った葉書の中に、「あの柳並木のかげには石がございましょう」と書いてあった文句が妙に岸本の頭に残っていた。岸本はそれらしい石の側に立って、浅草橋の下の方から寒そうに流れて来る掘割の水を眺めながら、十八九ばかりに成ろうかとも思われる年頃の未知の青年を胸に描いて見た。曾て頬へ触れるまでに低く垂れ下った枝葉の青い香を嗅いだ時は何故とも知らぬ懐かしさに胸を踴らせたというその青年を胸に描いて見た。曾てその石に腰を掛け、膝の上に頬杖という形で、岸本がそこを歩く時のことをさまざまに想像したというその青年を胸に描いて見た。
これほど若々しい心を寄せられた自分は、堪え難いような哀愁を訴えられた自分は、互いに手紙を書きかわすというだけでも何等かの力に思われた自分は――そこまで考えて行った時は、岸本はその石の側にも立っていられなかった。
例の柳並木――そこにはもう青年は来なくなったらしい。以前と同じように歩きに来る岸本だけが残った。
二
青年が去った後の河岸には、二人の心を結び着けた柳並木も枯々としていた。岸本の心は静かではなかった。三年近い岸本の独身は決して彼の心を静かにさせては置かなかった。「お前はどうするつもりだ。何時までお前はそうして独りで暮しているつもりだ。お前の沈黙、お前の労苦には一体何の意味があるのだ。お前の独身は人の噂にまで上っているではないか」こう他から言われることがあっても、彼は何と言って答えて可いかを知らなかった。ある時は彼は北海道の曠野に立つという寂しいトラピストの修道院に自分の部屋を譬えて見たこともある。先ず自己の墓を築いて置いて粗衣粗食で激しく労働しつつ無言の行をやるというあの修道院の内の僧侶達に自分の身を譬えて見たこともある。「自分はもう考えまいと思うけれども、どうしても考えずにはいられない」と言った人もあったとやら。岸本が矢張それだ。唯彼は考えつづけて来た。
河岸の船宿の前には石垣の近くに寄せて繋いである三四艘の小舟も見えた。岸本はつくづく澱み果てた自分の生活の恐ろしさから遁れようとして、二夏ばかり熱心に小舟を漕いで見たこともあった。その夏と、その前の年の夏と。もうどうにもこうにも遣切れなくなって、そんなことを思いついた。彼が自分の部屋にジッと孤坐ったぎり終には身動きすることさえも厭わしく思うように成った二階から無理に降りて来て、毎朝早く小舟を出したのもその河岸だ。どうかすると湖水のように静かな隅田川の水の上へ出て、都会の真中とも思われないほど清い夏の朝の空気を胸一ぱいに吸って、復た多くの荷船の通う中を漕ぎ帰って来たのもその石垣の側だ。
「岸本さん」
と呼びかけて彼の方へ歩いて来る一人の少年があった。河岸の船宿の総領子息だ。
「こう寒くちゃ、舟もお仕舞だね」
と岸本も忸々しく言った。彼は十五六ばかりになるその少年を小舟に乗る時の相手として、よく船宿から借りて連れて行った。少年ながらに櫓を押すことは巧みであった。
船宿の子息は岸本の顔を見ながら、
「貴方のとこの泉ちゃんには、よく逢いますよ」
「君は泉ちゃんを知ってるんですか」と岸本が言った。彼はその少年の口から自分の子供の名を聞くのをめずらしく思った。
「よくこの辺へ遊びに来ますよ」
「へえ、こんな方まで遊びに来ますかねえ」
と岸本は漸くその年から小学校へ通うように成った自分の子供のことを言って見た。
無心な少年に別れて、復た岸本は細い疎らな柳の枯枝の下った石垣に添いながら歩いて行った。柳橋を渡って直に左の方へ折れ曲ると、河岸の角に砂揚場がある。二三の人がその砂揚場の近くに、何か意味ありげに立って眺めている。わざわざ足を留めて、砂揚場の空地を眺めて、手持無沙汰らしく帰って行く人もある。
「何があったんだろう」
と岸本は独りでつぶやいた。両国の鉄橋の下の方へ渦巻き流れて行く隅田川の水は引き入れられるように彼の眼に映った。
三
六年ばかり岸本も隅田川に近く暮して見て、水辺に住むものの誰しもが耳にするような噂をよく耳にしたことはあるが、ついぞまだ女の死体が流れ着いたという実際の場合に自分で遭遇したことはなかった。偶然にも、彼はそうした出来事のあった場所に行き合わせた。
「今朝……」
砂揚場の側に立って眺めていた男の一人がそれを岸本に話した。
両国の附近に漂着したという若い女の死体は既に運び去られた後で、検視の跡は綺麗に取片付けられ、筵一枚そこに見られなかった。唯、入水した女の噂のみがそこに残っていた。
思いがけない悲劇を見たという心持で、岸本は家をさして引返して行った。彼の胸には最近に断った縁談のことが往ったり来たりした。彼は自分の倦怠や疲労が、澱み果てた生活が、漸く人としてのさかりな年頃に達したばかりでどうかすると早や老人のように震えて来る身体が、それらが皆独身の結果であろうかと考えて見る時ほど忌々しく口惜しく思うことはなかった。「結婚するならば今だ」――そう言って心配してくれる友人の忠告に耳を傾けないではないが、実際の縁談となると何時でも彼は考えてしまった。
岸本の恩人にあたる田辺の小父さんという人の家でも、小父さんが亡くなり、姉さんが亡くなって、岸本の書生時代からよく彼のことを「兄さん、兄さん」と呼び慣れた一人子息の弘の時代に成って来ていた。お婆さんはまだ達者だった。そのお婆さんがわざわざ年老いた体躯を車で運んで来て勧めてくれた縁談もあったが、それも岸本は断った。郷里の方にある岸本の実の姉も心配して姉から言えば亡くなった自分の子息の嫁、岸本から言えば甥の太一の細君にあたる人を手紙でしきりに勧めて寄したが、その縁談も岸本は断った。
「出来ることなら、そのままでいてくれ。何時までもそうした暮しを続けて行ってくれ」
こういう意味の手紙を一方では岸本も貰わないではなかった。尤も、そう言って寄してくれる人に限ってずっと年は若かった。
独りに成って見て、はじめて岸本は世にもさまざまな境遇にある女の多いことを知るように成った。その中には、尼にも成ろうとする途中にあるのであるが、もしそちらで貰ってくれるなら嫁に行っても可いというような、一度嫁いて出て来たというまだ若いさかりの年頃の女の人を数えることが出来た。女としての嗜みも深く、学問もあって、家庭の人として何一つ欠くることは無いが、あまりに格の高い寺院に生れた為、四十近くまで処女で暮して来たというような人を数えることも出来た。こうした人達は、よし居たにしても、今まで岸本には気がつかなかった。独りで居る女の数は、あるいは独りで居る男の数よりも多かろうか、とさえ岸本には思われた。
四
姪の節子は家の方で岸本を待っていた。河岸から岸本の住む町までの間には、横町一つ隔てて幾つかの狭い路地があった。岸本はどうにでも近道を通って家の方へ帰って行くことが出来た。
「子供は?」
一寸そこいらを歩き廻って戻って来た時でも、それを家のものに尋ねるのが岸本の癖のように成っていた。
彼は節子の口から、兄の方の子供が友達に誘われて町へ遊びに行ったとか、弟の方が向いの家で遊んでいるとか、それを聞くまでは安心しなかった。
節子が岸本の家へ手伝いに来たのは学校を卒業してしばらく経った時からで、丁度その頃は彼女の姉の輝子も岸本の許に来ていた。姉妹二人は一年ばかりも一緒に岸本の子供の世話をして暮した。その夏他へ嫁いて行く輝子を送ってからは、岸本は節子一人を頼りにして、使っている婆やと共にまだ幼い子供等の面倒を見て貰うことにしてあった。
岸本の家へ来たばかりの頃の節子はまだ若かった。同じ姉妹でも、姉は学校で刺繍裁縫造花なぞを修め、彼女はむずかしい書籍を読むことを習って来た。その節子が学窓を離れて岸本の家へ来て見た時は、筋向うには一中節の師匠の家があり、その一軒置いて隣には名高い浮世画師の子孫にあたるという人の住む家があり、裏にはまた常磐津の家元の住居なぞがあって、学芸に志す彼女の叔父の書斎をこうしたごちゃごちゃとした町中に見つけるということさえ、彼女はそれをめずらしそうに言っていた。「私が叔父さんの家へ来ていると言いましたら、学校の友達は羨ましがりましたよ」それを言って見せる彼女の眼には、まだ学校に通っている娘のような輝きがあった。あの河岸の柳並木のかげを往来した未知の青年の心――寂しい、頼りのなさそうな若い日の懊悩をよく手紙で岸本のところへ訴えてよこした未知の青年の心――丁度あの青年に似たような心をもって、叔父の許に身を寄せ、叔父を頼りにしている彼女の容子が岸本にも感じられた。彼女の母や祖母さんは郷里の山間に、父は用事の都合あって長いこと名古屋に、姉の輝子は夫に随いて遠い外国に、東京には根岸に伯母の家があってもそこは留守居する女達ばかりで、民助伯父――岸本から言えば一番年長の兄は台湾の方で、彼女の力になるようなものは叔父としての岸本一人より外に無かったから。その夏輝子が嫁いて行く時にも、岸本の家を半分親の家のようにして、そこから遠い新婚の旅に上って行ったくらいであるから。
「繁さん、お遊びなさいな」
と表口から呼ぶ近所の女の児の声がした。繁は岸本の二番目の子供だ。
「繁さんは遊びに行きましたよ」
と節子は勝手口に近い部屋に居て答えた。彼女はよく遊びに通って来る一人の女の児に髪を結ってやっていた。その女の児は近くに住む針医の娘であった。
「子供が居ないと、莫迦に家の内が静かだね」
こう節子に話しかけながら、岸本は家の内を歩いて見た。そこへ婆やが勝手口の方から入って来た。
「お節ちゃん、女の死骸が河岸へ上りましたそうですよ」
と婆やは訛りのある調子で、町で聞いて来た噂を節子に話し聞かせた。
「なんでも、お腹に子供がありましたって。可哀そうにねえ」
節子は針医の娘の髪を結いかけていたが、婆やからその話を聞いた時は厭な顔をした。
五
「お節ちゃん」
子供らしい声で呼んで、弟の繁が向いの家から戻って来た。針医の娘の髪を済まして子供の側へ寄った節子を見ると、繁はいきなり彼女の手に縋った。
岸本は家の内を歩きながらこの光景を見ていた。彼は亡くなった妻の園子が形見としてこの世に置いて行った二番目の男の児や、子供に纏いつかれながらそこに立っている背の高い節子のすがたを今更のように眺めた。園子がまだ達者でいる時分は、節子は根岸の方から学校へ通っていたが、短い単衣なぞを着て岸本の家へ遊びに来た頃の節子に比べると、眼前に見る彼女は別の人のように姉さんらしく成っていた。
「繁ちゃん、お出」と岸本は子供の方へ手を出して見せた。「どれ、どんなに重くなったか、父さんが一つ見てやろう」
「父さんがいらっしゃいッて」と節子は繁の方へ顔を寄せて言った。岸本は嬉しげに飛んで来る繁を後ろ向きにしっかりと抱きしめて、さも重そうに成人した子供の体躯を持上げて見た。
「オオ重くなった」
と岸本が言った。
「繁さん、今度は私の番よ」と針医の娘もそこへ来て、岸本の顔を見上げるようにした。「小父さん、私も――」
「これも重い」と言いながら、岸本は復た復たさも重そうに針医の娘を抱き上げた。
急に繁は節子の方へ行って何物かを求めるように愚図り始めた。
「お節ちゃん」
言葉尻に力を入れて強請るようにするその母親のない子供の声は、求めても求めても得られないものを求めようとしているかのように岸本の耳に徹えた。
「繁ちゃんはお睡になったんでしょう――それでそんな声が出るんでしょう――」と節子が子供に言った。「おねんねなさいね。好いものを進げますからね」
その時婆やは勝手口の方から来て、子供のために部屋の片隅へ蒲団を敷いた。そこは長火鉢なぞの置いてある下座敷で、二階にある岸本の書斎の丁度直ぐ階下に当っていた。節子は仏壇のところから蜜柑を二つ取出して来て、一つを繁の手に握らせ、もう一つの黄色いやつを針医の娘の前へ持って行った。
「へえ、あなたにも一つ」
そういう場合の節子には、言葉にも動作にも、彼女に特有な率直があった。
「さあ、繁ちゃん、お蜜柑もって、おねんねなさい」と節子は子供に添寝する母親のようにして、愚図々々言う繁の頭を撫でてやりながら宥めた。
「叔父さん、御免なさいね」
こう言って子供の側に横に成っている節子や、部屋の内を取片付けている婆やを相手に、岸本は長火鉢の側で一服やりながら話す気に成った。
「これでも繁ちゃんは、一頃から見るといくらか温順しく成ったろうか」と岸本が言出した。
「一日々々に違って来ましたよ」と節子は答えた。
「そりゃもう、旦那さん、こちらへ私が上った頃から見ると、繁ちゃんは大変な違いです。お節ちゃんの姉さんがいらしった頃と、今とは――」と婆やも言葉を添える。
この二人の答は岸本の聞きたいと思うものであった。彼はまだ何か言出そうとしたが、自分で自分を励ますように一つ二つ荒い息を吐いた。
六
「厭、繁ちゃんは。懐へ手を入れたりなんかして」と節子は母親の懐でも探すようにする子供の顔を見て言った。「そんなことすると、もう一緒にねんねして進げません」
「温順しくして、おねんねするんですよ」と婆やも子供の枕頭に坐って言った。
「ほんとに繁ちゃんは子供のようじゃないのね」と節子は自分の懐を掻合せるようにした。「だからあなたは大人と子供の合の子だなんて言われるんですよ――コドナだなんて」
「コドナには困ったねえ」と婆やは田舎訛を出して笑った。「あれ、復た愚図る。誰もあなたのことを笑ったんじゃ有りませんよ。今、今、皆なであなたのことを褒めてるじゃ有りませんか。ほんとにまあ、私が上った頃から見ると繁ちゃんは大変に温順しくお成りなすったッて――ネ」
「さあ、おねんねなさいね」と節子は寝かかっている子供の短い髪を撫でてやった。
「ああ、もう寝てしまったのか」と岸本は長火鉢の側に居て、子供の寝顔の方を覗くようにした。「ほんとに子供は早いものだね。罪の無いものだね……この児はなかなか手数が要る。どうして、繁ちゃんの暴れ方と来た日にゃ、戸は蹴る、障子は破る、一度愚図り出したら容易に納まらないんだから……全く、一頃はえらかった。輝でも、節ちゃんでも困ったろうと思うよ」
「繁ちゃんでは随分泣かせられました」と言いながら、節子は極く静かに身を起して、そっと子供の側を離れた。「なにしろ、捉えたら放さないんですもの――袖でも何でも切れちゃうんですもの」
「そうだったろうね。あの時分から見ると、繁ちゃんもいくらか物が分るように成って来たかナ」こう言う岸本の胸には、節子の姉がまだ新婚の旅に上らないで妹と一緒に子供等の世話をしていてくれたその年の夏のことが浮んで来た。二階に居て聞くと、階下で繁の泣声が聞える――輝子も、節子も、一人の小さなものを持余しているように聞える――その度に岸本は口唇を噛んで、二階から楼梯を駆下りて来て見ると、「どうして、あんたはそう聞分けがないの」と言って、輝子は子供と一緒に泣いてしまっている――節子は節子で、泣叫ぶ子供から隠れて、障子の影で自分も泣いている――何卒して子供を自然に育てたい、拳固の一つも食わせずに済むものならなるべくそんな手荒いことをせずに子供を育てたい、とそう岸本も思っても残酷な本能の力は怒なしに暴れ廻る子供を見ていられなくなる――「父さん、御免なさい、繁ちゃんはもう泣きませんから見てやって下さい」と子供の代りに詫びるように言う輝子の言葉を聞くまでは、岸本は心を休めることも出来ないのが常であった。子供が行って結婚前の島田に結った輝子に取縋る度に、「厭よ、厭よ、髪がこわれちまうじゃありませんか」と言ったあの輝子の言葉を岸本は胸に浮べた。「お嫁に行くんだ――やい、やい」と輝子の方に指さして言った悪戯盛りの繁の言葉を胸に浮べた。輝子が夫と一緒に遠い外国へ旅立つ前、別れを告げにその下座敷へ来た時、「それでも皆大きく成ったわねえ」と言って二人の子供をかわるがわる抱いたことを胸に浮べた。その時、節子が側に居て、「大きく成ったと言われるのがそんなに嬉しいの」と子供に言ったことを胸に浮べた。すべてこれらの過去った日の光景が前にあったことも後にあったことも一緒に混合って、稲妻のように岸本の胸を通過ぎた。
「一切は園子一人の死から起ったことだ」
岸本は腹の中でそれを言って見て、何となくがらんとした天井の下を眺め廻した。
七
母親なしにもどうにかこうにか成長して行く幼いものに就いての話は年少の子供のことから年長の子供のことに移って、岸本は節子や婆やを相手に兄の方の泉太の噂をしているところへ、丁度その泉太が屋外から入って来た。
「繁ちゃんは?」
いきなり泉太は庭口の障子の外からそれを訊いた。二人一緒に遊んでいれば終にはよく泣いたり泣かせられたりしながら、泉太が屋外からでも入って来ると、誰よりも先に弟を探した。
「泉ちゃん、皆で今あなたの噂をしていたところですよ」と婆やが言った。「そんなに屋外を飛んで歩いて寒かありませんか」
「あんな紅い頬ぺたをして」と節子も屋外の空気に刺激されて耳朶まで紅くして帰って来たような子供の方を見て言った。
泉太の癖として、この子供は誰にでも行って取付いた。婆やの方へ行って若い時は百姓の仕事をしたこともあるという巌畳な身体へも取付けば、そこに居るか居ないか分らないほど静かな針医の娘を側に坐らせた節子の方へも行って取付いた。
「泉ちゃんのようにそう人に取付くものじゃないよ」
そういう岸本の背後へも来て、泉太は父親の首筋に齧りついた。
「でも、泉ちゃんも大きく成ったねえ」と岸本が言った。「毎日見てる子供の大きくなるのは、それほど目立たないようなものだが」
「着物がもうあんなに短くなりました――」と節子も言葉を添える。
「泉ちゃんの顔を見てると、俺はそう思うよ。よくそれでもこれまでに大きくなったものだと思うよ」と復た岸本が言った。「幼少い時は弱い児だったからねえ。あの巾着頭が何よりの証拠サ。この児の姉さん達の方がずっと壮健そうだった。ところが姉さん達は死んでしまって、育つかしらんと思った泉ちゃんの方がこんなに成人って来た――分らないものだね」
「黙っといで。黙っといで」と泉太は父の言葉を遮るようにした。「節ちゃん、好いことがある。お巡査さんと兵隊さんと何方が強い?」
こういう子供の問は節子を弱らせるばかりでなく、夏まで一緒に居た輝子をもよく弱らせたものだ。
「何方も」と節子は姉が答えたと同じように子供に答えた。
「学校の先生と兵隊さんと何方が強い?」
「何方も」
と復た節子は答えて、そろそろ智識の明けかかって来たような子供の瞳に見入っていた。
岸本は思出したように、
「こうして経って見れば造作もないようなものだがね、三年の子守はなかなかえらかった。これまでにするのが容易じゃなかった。叔母さんの亡くなった時は、なにしろ一番年長の泉ちゃんが六歳にしか成らないんだからね。熱い夏の頃ではあり、汗疹のようなものが一人に出来ると、そいつが他の子供にまで伝染っちゃって――節ちゃんはあの時分のことをよく知らないだろうが、六歳を頭に四人の子供に泣出された時は、一寸手の着けようが無かったね。どうかすると、子供に熱が出る。夜中にお医者さまの家を叩き起しに行ったこともある。あの時分は、叔父さんもろくろく寝なかった……」
「そうでしたろうね」と節子はそれを眼で言わせた。
「あの時分から見ると、余程これでも楽に成った方だよ。もう少しの辛抱だろうと思うね」
「繁ちゃんが学校へ行くようにでも成ればねえ」と節子は婆やの方を見て言った。
「どうかまあ、宜しくお願い申します」
こう岸本は言って、節子と婆やの前に手をついてお辞儀した。
八
下座敷には箪笥も、茶戸棚も、長火鉢も、子供等の母親が生きていた日と殆んど同じように置いてあった。岸本が初めて園子と世帯を持った頃からある記念の八角形の古い柱時計も同じ位置に掛って、真鍮の振子が同じように動いていた。園子の時代と変っているのは壁の色ぐらいのものであった。一面に子供のいたずら書きした煤けた壁が、淡黄色の明るい壁と塗りかえられたぐらいのものであった。その夏岸本は節子に、節子の姉に、泉太に、繁まで例の河岸へ誘って行って、そこから家中のものを小舟に乗せ、船宿の子息をも連れて一緒に水の上へ出たことがあった。それからというものは、「父さん、お舟――父さん、お舟――」と強請るようにする子供の声をこの下座敷でよく聞いたばかりでなく、どうかすると机は覆えされて舟の代りになり、団扇掛に長い尺度の結び着けたのが櫓の代りになり、蒲団が舟の中の蓆莚になり、畳の上は小さな船頭の舟漕ぐ場所となって、塗り更えたばかりの床の間の壁の上まで子供の悪戯した波の図なぞですっかり汚されてしまったが。
暗い仏壇には二つの位牌が金色に光っていた。その一つは子供等の母親ので、もう一つは三人の姉達のだ。しかしその位牌の周囲には早や塵埃が溜るようになった。岸本が築いた四つの墓――殊に妻の園子の墓――三年近くも彼が見つめて来たのは、その妻の墓ではあったが、しかし彼の足は実際の墓参りからは次第に遠くなった。
「叔母さんのことも大分忘れて来た――」
岸本はよくそれを節子に言って嘆息した。
丁度この下座敷の直ぐ階上に、硝子戸を開ければ町につづいた家々の屋根の見える岸本の部屋があった。階下に居て二階の話声はそれほどよく聞えないまでも、二階に居て階下の話声は――殊に婆やの高い声なぞは手に取るように聞える。そこへ昇って行って自分の机の前に静坐して見ると、岸本の心は絶えず階下へ行き、子供の方へ行った。彼はまだ年の若い節子を助けて、二階に居ながらでも子供の監督を忘れることが出来なかった。家のものは皆屋外へ遊びに出し、門の戸は閉め、錠は掛けて置いて、たった独りで二階に横に成って見るような、そうした心持には最早成れなかった。
岸本は好きな煙草を取出した。それを燻し燻し園子との同棲の月日のことを考えて見た。
「父さん、私を信じて下さい……私を信じて下さい……」
そう言って、園子が彼の腕に顔を埋めて泣いた時の声は、まだ彼の耳の底にありありと残っていた。
岸本はその妻の一言を聞くまでに十二年も掛った。園子は豊かな家に生れた娘のようでもなく、艱難にもよく耐えられ、働くことも好きで、夫を幸福にするかずかずの好い性質を有っていたが、しかし激しい嫉妬を夫に味わせるような極く不用意なものを一緒にもって岸本の許へ嫁いて来た。自分はあまりに妻を見つめ過ぎた、とそう岸本が心づいた時は既に遅かった。彼は十二年もかかって、漸く自分の妻とほんとうに心の顔を合せることが出来たように思った。そしてその一言を聞いたと思った頃は、園子はもう亡くなってしまった。
「私は自分のことを考えると、何ですか三つ離れ離れにあるような気がしてなりません――子供の時分と、学校に居た頃と、お嫁に来てからと。ほんとに子供の時分には、私は泣いてばかりいるような児でしたからねえ」
心から出たようなこの妻の残して行った言葉も、まだ岸本の耳についていた。
岸本はもう準備なしに、二度目の縁談なぞを聞くことの出来ない人に成ってしまった。独身は彼に取って女人に対する一種の復讎を意味していた。彼は愛することをすら恐れるように成った。愛の経験はそれほど深く彼を傷けた。
九
書斎の壁に対いながら、岸本は思いつづけた。
「ああああ、重荷を卸した。重荷を卸した」
こんな偽りのない溜息が、女のさかりを思わせるような年頃で亡くなった園子を惜しみ哀しむ心と一緒になって、岸本には起きて来たのであった。妻を失った当時、岸本はもう二度と同じような結婚生活を繰返すまいと考えた。両性の相剋するような家庭は彼を懲りさせた。彼は妻が残して置いて行った家庭をそのまま別の意味のものに変えようとした。出来ることなら、全く新規な生涯を始めたいと思った。十二年、人に連添って、七人の子を育てれば、よしその中で欠けたものが出来たにしても、人間としての奉公は相当に勤めて来たとさえ思った。彼は重荷を卸したような心持でもって、青い翡翠の珠のかんざしなどに残る妻の髪の香をなつかしみたかった。妻の肌身につけた形見の着物を寝衣になりとして着て見るような心持でもって、沈黙の形でよくあらわれた夫婦の間の苦しい争いを思出したかった。
岸本の眼前には、石灰と粘土とで明るく深味のある淡黄色に塗り変えた、堅牢で簡素な感じのする壁があった。彼は早三年近くもその自分の部屋の壁を見つめてしまったことに気がついた。そしてその三年の終の方に出来た自分の労作の多くが、いずれも「退屈」の産物であることを想って見た。
「父さん」
と楼梯のところで呼ぶ声がして、泉太が階下から上って来た。
「繁ちゃんは?」と岸本が訊いた。
泉太は気のない返事をして、何か強請りたそうな容子をしている。
「父さん、蜜豆――」
「蜜豆なんか止せ」
「どうして――」
「何か、何かッて、お前達は食べてばかりいるんだね。温順しくして遊んでいると、父さんがまた節ちゃんに頼んで、御褒美を出して貰ってやるぜ」
泉太は弟のように無理にも自分の言出したことを通そうとする方ではなかった。それだけ気の弱い性質が、岸本にはいじらしく思われた。妻が形見として残して置いて行ったこの泉太はどういう時代に生れた子供であったか、それを辿って見るほど岸本に取って夫婦の間だけの小さな歴史を痛切に想い起させるものはなかった。
町中に続いた家々の見える硝子戸の方へ行って遊んでいた泉太はやがて復た階下へ降りて行った。岸本は六年の間の仕事場であった自分の書斎を眺め廻した。曾ては彼の胸の血潮を湧き立たせるようにした幾多の愛読書が、さながら欠びをする静物のように、一ぱいに塵埃の溜った書棚の中に並んでいた。その時岸本はある舞台の上で見た近代劇の年老いた主人公をふと胸に浮べた。その主人公の許へ洋琴を弾いて聞かせるだけの役目で雇われて通って来る若い娘を胸に浮べた。生気のあふれた娘の指先から流れて来るメロディを聞こうが為めには、劇の主人公は毎月金を払ったのだ。そして老年の悲哀と寂寞とを慰めようとしたのだ。岸本は劇の主人公に自分を比べて見た。時には静かな三味線の音でも聞くだけのことを心やりとして酒のある水辺の座敷へ呼んで見る若草のような人達や、それから若い時代の娘の心で自分の家に来ているというだけでも慰めになる節子をあの劇中の娘に比べて見た。三年の独身は、漸く四十の声を聞いたばかりで早老人の心を味わせた。それを考えた時は、岸本は忌々しく思った。
十
屋外の方で聞える子供の泣き声は岸本の沈思を破った。妻を失った後の岸本は、雛鳥のために餌を探す雄鶏であるばかりでなく、同時にまたあらゆる危害から幼いものを護ろうとして一寸した物音にも羽翅をひろげようとする母鶏の役目までも一身に引受けねばならなかった。子供の泣き声がすると、彼は殆ど本能的に自分の座を起った。部屋の外にある縁側に出て硝子戸を開けて見た。それから階下へも一寸見廻りに降りて行った。
「子供が喧嘩しやしないか」
と彼は節子や婆やに注意するように言った。
「あれは他の家の子供です」
節子は勝手口に近い小部屋の鼠不入の前に立っていて、それを答えた。何となく彼女は蒼ざめた顔付をしていた。
「どうかしたかね」と岸本は叔父らしい調子で尋ねた。
「なんですか気味の悪いことが有りました」
岸本は節子が学問した娘のようでも無いことを言出したので、噴飯そうとした。節子に言わせると、彼女が仏壇を片付けに行って、勝手の方へ物を持運ぶ途中で気がついて見ると、彼女の掌にはべっとり血が着いていた。それを流許で洗い落したところだ。こう叔父に話し聞かせた。
「そんな馬鹿な――」
「でも、婆やまでちゃんと見たんですもの」
「そんな事が有りようが無いじゃないか――仏壇を片付けていたら、手へ血が附着いたなんて」
「私も変に思いましたからね、鼠かなんかの故じゃないかと思って、婆やと二人で仏さまの下まですっかり調べて見たんですけれど……何物も出て来やしません……」
「そんなことを気にするものじゃないよ。原因が分って見ると、きっとツマラないことなんだよ」
「仏さまへは今、お燈明をあげました」
節子はこの家の内に起って来る何事かの前兆ででもあるかのように、それを言った。
「お前にも似合わないじゃないか」岸本は叱って見せた。「輝が居た時分にも、ホラ、一度妙な事があったぜ。姉さんの枕許へ国の方に居る祖母さんが出て来たなんて……あの時はお前まで蒼くなっちまった。ほんとに、お前達はときどき叔父さんをびっくりさせる」
日の短い時で、階下の部屋はそろそろ薄暗くなりかけていた。岸本は節子の側を離れて家の内をあちこちと歩いて見たが、しまいには気の弱いものに有りがちな一種の幻覚として年若な姪の言ったことを一概に笑ってしまえなかった。人が亡くなった後の屋根の下を気味悪く思って、よく引越をするもののあるのも笑ってしまえなかった。
岸本は仏壇の前へ行って立って見た。燈明のひかりにかがやき映った金色の位牌には、次のような文字が読まれた。
「宝珠院妙心大姉」
十一
「汝、わが悲哀よ、猶賢く静かにあれ」
この文句を口吟んで見て、岸本は青い紙の蓋のかかった洋燈で自分の書斎を明るくした。「君の家はまだランプかい。随分旧弊だねえ」と泉太の小学校の友達にまで笑われる程、岸本の家では洋燈を使っていた。彼はその好きな色の燈火のかげで自分で自分の心を励まそうとした。あの赤熱の色に燃えてしかも凍り果てる北極の太陽に自己の心胸を譬え歌った仏蘭西の詩人ですら、決して唯梟のように眼ばかり光らせて孤独と悲痛の底に震えてはいなかったことを想像し、その人の残した意味深い歌の文句を繰返して見て、自分を励まそうとした。
黄ばんだ洋燈の光は住慣れた部屋の壁の上に、独りで静坐することを楽みに思う岸本の影法師を大きく写して見せていた。岸本はその影法師を自分の友達とも呼んで見たいような心持でもって、長く生きた昔の独身生活を送った人達のことを思い、世を避けながらも猶かつ養生することを忘れずに芋を食って一切の病気を治したというあの「つれづれ草」の中にある坊さんのことを思い、出来ることならこのまま子供を連れて自分の行けるところまで行って見たいと願った。
「旦那さん、お粂ちゃんの父さんが参りましたよ」
と婆やが楼梯の下のところへ来て呼んだ。お粂ちゃんとは、よく岸本の家へ遊びに来る近所の針医の娘の名だ。
頼んで置いた針医が小さな手箱を提げて楼梯を上って来た。過ぐる年の寒さから岸本は腰の疼痛を引出されて、それが持病にでも成ることを恐れていた。自分の心を救おうとするには、彼は先ず自分の身から救ってかかる必要を感じていた。
「あんまり坐り過ぎている故かも知れませんが、私の腰は腐ってしまいそうです」
こんなことをその針医に言って、岸本は家のものの手も借りずに書斎の次の間から寝道具なぞを取出して来た。それを部屋の片隅によせて壁に近く敷いた。
「やっぱり疝の気味でごわしょう。こうした陽気では冷込みますからナ」と言いながら針医は手にした針術の道具を持って岸本の側へ寄った。
ぷんとしたアルコオルの香が岸本の鼻へ来た。背を向けて横に成った岸本は針医のすることを見ることは出来なかったが、アルコオルで拭われた後の快さを自分の背の皮膚で感じた。やがて針医の揉込む針は頸の真中あたりへ入り、肩へ入り、背骨の両側へも入った。
「痛」
思わず岸本は声をあげて叫ぶこともあった。しかし一番長そうに思われる細い金針が腰骨の両側あたりへ深く入って、ズキズキと病める部分に触れて行った時は、睡気を催すほどの快感がその針の微かな震動から伝わって来た。彼は針医に頼んで、思うさま腰の疼痛を打たせた。
「自分はもう駄目かしら」
針医の行った後で、岸本は独りで言って見た。手術後の楽しく激しい疲労から、長いこと彼は死んだように壁の側に横になっていた。部屋の雨戸の外へは寒い雨の来る音がした。
十二
年も暮れて行った。節子は姉と二人でなしに、彼女一人の手に叔父の家の世話を任せられたことを迷惑とはしていなかった。彼女は自分一人に任せられなければ、何事も愉快に行うことの出来ないような気むずかしいところを有っていた。その意味から言えば、彼女は意のままに、快適に振舞った。
しかしそれは婆やなぞと一緒に働く時の節子で、岸本の眼には何となく楽まない別の節子が見えて来た。姉がまだ一緒にいた夏の頃、節子は黄色く咲いた薔薇の花を流許の棚の上に罎に挿して置いて、勝手を手伝いながらでも独りで眺め楽むという風の娘であった。「泉ちゃん、好いものを嗅がして進げましょうか」と言いながらその花を子供の鼻の先へ持って行って見せ、「ああ好い香気だ」と泉太が眼を細くすると、「生意気ねえ」と快活な調子で言う姉の側に立っていて、「泉ちゃんだって、好いものは好いわねえ」と娘らしい歯を出して笑うのが節子であった。節子姉妹は岸本の知らない西洋草花の名なぞをよく知っていたが、殊に妹の方は精しくもあり、又た天性花を愛するような、物静かな、うち沈んだところを有っていた。「お前達はよくそれでもそんな名前を知ってる」と岸本が感心したように言った時、「花の名ぐらい知らなくって――ねえ、節ちゃん」と姉の方が言えば、「叔父さん、これ御覧なさい、甘い椿のような香気がするでしょう」と言ってチュウリップの咲いた鉢を持って来て見せたのも節子であった。これほど節子はまだ初々しかった。学窓を離れて来たばかりのような処女らしさがあった。その節子が年の暮あたりには何となく楽まないで、じっと考え込むような娘になった。
岸本の妻が残して置いて行った着物は、あらかたは生家の方へ返し、形見として郷里の姉へも分け、根岸の嫂にも姪にも分け、山の方にある知人へも分け、生前園子が懇意にしたような人達のところへは大抵分けて配ってしまって、岸本の手許には僅かしか残らないように成った。「子供がいろいろお世話に成りました」それを岸本が言って、下座敷に置いてある箪笥の抽筐の底から園子の残したものを節子姉妹に分けてくれたこともあった。「節ちゃん、いらっしゃいッて」とその時、輝子が妹を呼んだ声はまだ岸本の耳についていた。子供の世話に成る人達に亡くなった母親の形見を分けることは、岸本に取って決して惜しく思われなかった。
復た岸本は箪笥の前に立って見た。平素は節子任せにしてある抽筐から彼女の自由にも成らないものを取出して見た。
「叔母さんのお形見も、皆に遣るうちに段々少くなっちゃった」
と岸本は半分独語のように言って、思い沈んだ節子を慰めるために、取出したものを彼女の前に置いた。
「こんな長襦袢が出て来た」
と復た岸本は言って見て、娘の悦びそうな女らしい模様のついたやつを節子に分けた。それを見てさえ彼女は楽まなかった。
十三
ある夕方、節子は岸本に近く来た。突然彼女は思い屈したような調子で言出した。
「私の様子は、叔父さんには最早よくお解りでしょう」
新しい正月がめぐって来ていて、節子は二十一という歳を迎えたばかりの時であった。丁度二人の子供は揃って向いの家へ遊びに行き、婆やもその迎えがてら話し込みに行っていた。階下には外に誰も居なかった。節子は極く小さな声で、彼女が母になったことを岸本に告げた。
避けよう避けようとしたある瞬間が到頭やって来たように、思わず岸本はそれを聞いて震えた。思い余って途方に暮れてしまって言わずにいられなくなって出て来たようなその声は極く小さかったけれども、実に恐ろしい力で岸本の耳の底に徹えた。それを聞くと、岸本は悄れた姪の側にも居られなかった。彼は節子を言い宥めて置いて、彼女の側を離れたが、胸の震えは如何ともすることが出来なかった。すごすごと暗い楼梯を上って、自分の部屋へ行ってから両手で頭を押えて見た。
世のならわしにも従わず、親戚の勧めも容れず、友人の忠告にも耳を傾けず、自然に逆らってまでも自分勝手の道を歩いて行こうとした頑固な岸本は、こうした陥穽のようなところへ堕ちて行った。自分は犯すつもりもなくこんな罪を犯したと言って見たところで、それが彼には何の弁解にも成らなかった。自分は婦徳を重んじ正義を愛するの念に於て過ぐる年月の間あえて人には劣らなかったつもりだと言って見たところで、それがまた何の弁解にも成らなかった。自分は多少酒の趣味を解し、上方唄の合の手のような三味線を聞くことを好み、芸で身を立てるような人達を相手に退屈な時を送ったこともあるが、如何なる場合にも自分は傍観者であって、曾てそれらの刺戟に心を動かされたこともなかったと言って見たところで、それが何の弁解の足しにも成らないのみか、あべこべに洒脱をよそおい謹厳をとりつくろう虚偽と偽善との行いのように自分ながら疑われて来た。のみならず、小唄の一つも聞いて見るほどの洒落気があるならば、何故もっと賢く適当に、独身者として大目に見て貰うような身の処し方をしなかったか、とこう反問するような声を彼は自分の頭脳の内部ですら聞いた。
しばらく岸本は何事も考えられなかった。
部屋には青い蓋の洋燈がしょんぼり点っていた。がっしりとした四角な火鉢にかけてある鉄瓶の湯も沸いていた。岸本は茶道具を引寄せて、日頃好きな熱い茶を入れて飲んだ。好きな巻煙草をもそこへ取出して、火鉢の灰の中にある紅々とおこった炭の焔を無心に眺めながら、二三本つづけざまに燻して見た。
壊れ行く自己に対するような冷たく痛ましい心持が、そのうちに岸本の意識に上って来た。
十四
簾がある。団扇がある。馳走ぶりの冷麦なぞが取寄せて出してある。親戚のものは花火を見ながら集って来ている。甥の細君が居る。女学生時代の輝子が居る。郷里の方から東京へ出て来たばかりの節子も姉に連れられて来ている。白い扇子をパチパチ言わせながら、「世が世なら伝馬の一艘も借りて押出すのになあ」と嘆息する甥の太一が居る。まだ幼少な泉太は着物を着更えさせられて、それらの人達の間を嬉しそうに歩き廻っている。皆を款待そうとする母親に抱かれて、乳房を吸っている繁もそこに居る。両国の方ではそろそろ晩の花火のあがる音がする――
これは園子がまだ達者でいた頃の下座敷の光景だ。岸本はその頃のさかりの園子を、女らしく好く発達した彼女を、堅肥りに肥っても柔軟な姿を失わない彼女の体格を、記憶でまだありありと見ることが出来た。岸本はまたその頃の記憶を階下から自分の書斎へ持って来ることも出来た。独りで二階に閉籠って机に向っている彼自身がある。どうかするとその彼の背後へ来て、彼を羽翅で抱締めるようにして、親しげに顔を寄せるものがある。それが彼の妻だ。
園子はその頃から夫の書斎を恐れなかった。画家のアトリエというよりは寧ろ科学者の実験室のように冷く厳粛なものとして置いた書斎の中に、そうして忸々しくいられることを彼女は夢のようにすら楽しく思うらしかった。岸本が彼女に忸々しく仕向けたことは、必とその同じ仕向けでもって、彼女はそれを夫に酬いた。時には彼女は夫の身体を自分の背中に乗せて、そこにある書架の前あたりをヨロヨロしながら歩き廻ったのも岸本の現に眼前に見るその同じ部屋の内だ。長いこと妻を導こう導こうとのみ焦心した彼は、その頃に成って、初めて何が園子の心を悦ばせるかを知った。彼は自分の妻もまた、下手に礼義深く尊敬されるよりは、荒く抱愛されることを願う女の一人であることを知った。
それから岸本の身体は眼を覚ますように成って行った。髪も眼が覚めた。耳も眼が覚めた。皮膚も眼が覚めた。眼も眼が覚めた。その他身体のあらゆる部分が眼を覚ました。彼は今まで知らなかった自分の妻の傍に居ることを知るように成った。彼が妻の懐に啜泣しても足りないほどの遣瀬ないこころを持ち、ある時は蕩子戯女の痴情にも近い多くのあわれさを考えたのもそれは皆、何事も知らずによく眠っているような自分の妻の傍に見つけた悲しい孤独から起って来たことであった。岸本の心の毒は実にその孤独に胚胎した。
岸本はずっと昔の子供の時分から好い事でも悪い事でも何事もそれを自分の身に行って見た上でなければ、ほんとうにその意味を悟ることが出来なかった。彼は悄れた節子を見て、取返しのつかないような結果に成ったことを聞いて、初めて羞じることを知ったその自分の心根を羞じた。彼は節子の両親の忿怒の前に、自分を持って行って考えて見た。彼も早や四十二歳であった。頭を掻いてきまりの悪い思をすれば、何事も若いに免じて詫の叶うような年頃とは違っていた。とても彼は名古屋の方に行っている兄の義雄に、また郷里の方にある嫂に、合せ得られるような顔は無かった。
十五
嵐は到頭やって来た。彼自身の部屋をトラピストの修道院に譬え、彼自身を修道院の内の僧侶に譬えた岸本のところへ。しかも半年ばかり前まで節子の姉が妹と一緒に居て割合に賑かに暮した頃には夢にだも岸本の思わなかったような形で。
多くの場合に岸本は女性に冷淡であった。彼が一箇の傍観者として種々な誘惑に対って来たというのも、それは無理に自分を制えようとしたからでもなく、むしろ女性を軽蔑するような彼の性分から来ていた。一生を通して女性の崇拝家であったような亡くなった甥の太一に比べると、彼は余程違った性分に生れついていた。その岸本が別に多くの女の中から択んだでも何でもない自分の姪と一緒に苦しまねば成らないような位置に立たせられて行った。節子は重い石の下から僅に頭を持上げた若草のような娘であった。曾て愛したこともなく愛されたこともないような娘であった。特に岸本の心を誘惑すべき何物をも彼女は有たなかった。唯叔父を頼りにし、叔父を力にする娘らしさのみがあった。何という「生」の皮肉だろう。四人の幼い子供を残した自分の妻の死をそう軽々しくも考えたくないばかりに三年一つの墓を見つめて来た岸本は、あべこべにその死の力から踏みにじられるような心持を起して来た。しかも、極めて残酷に。
「父さん。これ、朝?」
と繁が岸本のところへ来て、大きな子供らしい眼で父の顔を見上げて言った。繁はよく「これ、朝?」とか、「これ、晩?」とか聞いた。
「ああ朝だよ。これが朝だよ。一つねんねして起きるだろう、そうするとこれが朝だ」
岸本は言いきかせて、まだ朝晩の区別もはっきり分らないような幼いものを一寸抱いて見た。
節子の様子をよく見るために岸本は勝手に近い小部屋の方へ行った。用事ありげにそこいらを歩いて見た。節子は婆やを相手に勝手で働いていた。時には彼女は小部屋にある鼠不入の前に立って、その中から鰹節の箱を取出し、それを勝手の方へ持って行って削った。すこしもまだ彼女の様子には人の目につくような変ったところは無かった。起居にも。動作にも。それを見て、岸本は一時的ながらもやや安心した。
節子を見た眼で岸本は婆やを見た。婆やは流許に腰を曲めて威勢よく働いていた。正直で、働き好きで、丈夫一式を自慢に奉公しているこの婆やは、肺病で亡くなった旧い学友の世話で、あの学友が悪い顔付はしながらもまだ床に就くほどではなく岸本のところへよく人生の不如意を嘆きに来た頃に、そこの細君に連れられて目見えに来たものであった。水道の栓から迸るように流れ落ちて来る勢いの好い水の音を聞きながら鍋の一つも洗う時を、この婆やは最も得意にしていた。
何となく節子は一番彼女に近い婆やを恐れるように成った。それにも関らず、彼女は冷静を保っていた。
十六
「旦那さんは今朝はどうかなすったんですか。御飯も召上らず」
二階へ雑巾がけに来た婆やがそれを岸本に訊いた。
「今朝は旦那さんのお好きな味噌汁がほんとにオイしく出来ましたよ」とまた婆やが言った。
「なに、一度ぐらい食べないようなことは、俺はよくある」と岸本は一刻も働かずにじっとしてはいられないような婆やの方を見て言った。「まあ俺の方はどうでも可い。お前達は子供をよく見てくれ」
「なにしろ旦那さんの身体は大事な身体だ。旦那さんが弱った日にゃ、吾家じゃほんとに仕様がない。よくそれでも一人で何もかもやっていらっしゃるッて、この近所の人達が皆そう言っていますよ。ほんとに吾家の旦那さんは、堅い方ですッて……」
雑巾を掛けながら婆やの話すことを岸本は黙って聞いていた。やがて婆やは階下へ降りて行った。岸本は独りで手を揉んで見た。
岸本は人知れず自分の顔を紅めずにはいられなかった。もしあの河岸の柳並木のかげを往来した未知の青年のような柔い心をもった人が、自分の行いを知ったなら。あの恩人の家の弘のように「兄さん、兄さん」と言って親身の兄弟のように思っていてくれる人や、それから自分のために日頃心配していてくれる友人や、山の方にある園子の女の友達なぞが、聞いたなら。岸本は身体全体を紅くしてもまだ羞じ足りなかった。彼は二十七歳で早くこの世を去った友人の青木のことなぞにも想い到って、「君はもっと早く死んでいた方が好かった」とあの亡くなった友達にまで笑われるような声を耳の底の方で聞いた。
もしこれが進んで行ったら終にはどうなるというようなことは岸本には考えられなかった。しかし、すくなくも彼は自分に向って投げられる石のあるということを予期しない訳に行かなかった。彼はある新聞社の主筆が法廷で陳述した言葉を思い出すことが出来る。その主筆に言わせると、世には法律に触れないまでも見遁しがたい幾多の人間の罪悪がある。社会はこれに向って制裁と打撃とを加えねば成らぬ。新聞記者は好んで人の私行を摘発するものではないが、社会に代ってそれらの人物を筆誅するに外ならないのであると。こうした眼に見えない石が自分の方へ飛んで来る時の痛さ以上に、岸本は見物の喝采を想像して見て悲しく思った。
昼と夜とは長い瞬間のように思われるように成って行った。そして岸本の神経は姪に負わせ又自分でも負った深傷に向って注ぎ集るように成って行った。
岸本は硝子戸に近く行った。往来の方へ向いた二階の欄のところから狭い町を眺めた。白い障子のはまった幾つかの窓が向い側の町家の階上にも階下にもあった。その窓々には、岸本の家で部屋の壁を塗りかえてさえ、「お嫁さんでもお迎えに成るんですか」と噂するような近所の人達が住んでいた。いかなる町内の秘密をも聞き泄すまいとしているようなある商家のかみさんは大きな風呂敷包を背負って、買出しの帰りらしく町を通った。
十七
「岸本様――只今ここに参り居り候。久しぶりにて御話承りたく候。御都合よろしく候わば、この俥にて御出を御待ち申上げ候」
岸本は迎えの俥と一緒に、この友人の手紙を受取った。
「節ちゃん、叔父さんの着物を出しとくれ。一寸友達の顔を見に行って来る」
こう岸本は節子に言って、そこそこに外出する支度した。箪笥から着物を取出して貰うというだけでも、岸本は心に責めらるるような親しみと、罪の深い哀さとを節子に感ずるように成った。何となく彼女に起りつつある変化、それを押えよう押えようとしているらしい彼女の様子は、重い力で岸本の心を圧した。節子は黙し勝ちに、叔父のために白足袋までも用意した。
まだ松の内であった。その正月にかぎって親戚への年始廻りにも出掛けずに引籠っていた岸本は久しぶりで自分の家を離れる思をした。彼は怪しく胸騒ぎのするような心持をもって、門並に立ててある青い竹の葉の枯れ萎れたのが風に鳴るのを俥の上で聞いて行った。橋を渡り、電車路を横ぎった。新しい年を迎え顔な人達は祭礼の季節にも勝って楽しげに町々を往ったり来たりしていた。川蒸汽の音の聞えるところへ出ると、新大橋の方角へ流れて行く隅田川の水が見える。その辺は岸本に取って少年時代からの記憶のあるところであった。
元園町の友人は古い江戸風の残った気持よく清潔な二階座敷で岸本を待受けていた。この友人が多忙しい身に僅の閑を見つけて隅田川の近くへ休みに来る時には、よく岸本のところへ使を寄した。
「御無沙汰しました」
と言って坐り直す元園町をも、岸本をも、「先生、先生」と呼ぶほど、その家には客扱いに慣れた女達が揃っていた。
「元園町の先生は先刻から御待兼でございます」
と髪の薄い女中が言うと、年嵩な方の女中がそれを引取って、至極慇懃な調子で、
「岸本先生もしばらく御見えに成りませんから、どうなすったろうッて皆で御噂を申しておりましたよ。御宅でも皆さん御変りもございませんか。坊ちゃん方も御丈夫で」
岸本が古い小曲の一ふしも聞いて見るために友人と集ったり、折々は独りでもやって来て心を慰めようとしたのは、その二階座敷であった。年と共に募る憂鬱な彼の心は何等かの形で音楽を求めずにいられなかった。曾て彼が一度、旧友の足立をその二階に案内した時、「岸本君がこういうところへ来るように成ったかと思うと面白いよ」と言って足立は笑ったこともあった。どうかすると彼は逢い過ぎるほど逢わねば成らないような客をその二階に避け、諸方から貰った手紙を一まとめにして持って来て、半日独りで読み暮すこともあった。彼は自分と全く生立ちを異にしたような人達と話すことを好む方で、そこに奉公する女達のさまざまな身上話に耳を傾け、そこに集る年老た客や年若な客の噂に耳を傾け、時には芸で身を立てようとする娘達ばかりを自分の周囲に集め、彼等の若い恋を語らせて、それを聞くのを楽みとしたこともあった。一生舞台の上で花を咲かせる時もなく老朽ちてしまったような俳優がその座敷の床の間の花を活けるために、もう何年となく通って来ているということまで岸本は知っていた。
「岸本さんに御酌しないか」と元園町は傍にいる女を顧みて言った。
「今お熱いのを持って参ります」
と言いながら女中はそこにある徳利を持添えて岸本に酒を勧めた。
「ああああ、久しぶりでこういうところへやって来た」
岸本は独語のようにそれを言って、酒の香を嗅いで見た。
十八
元園町は岸本の前に居た。しかも岸本がそんな深傷を負っていようとは知らずに酒を飲んでいた。何事も打明けて相談して見たら随分力に成ってくれそうな、思慮と激情とが同時に一人の人にあるこの友人の顔を見ながら、岸本は自分の身に起ったことを仄かそうともしなかった。それを仄かすことすら羞じた。
「先生、お熱いのが参りました」
女中の一人が勧めてくれるのを盃に受けて、岸本は皆の楽しい話声を聞きながら、すこしばかりの酒をやっていた。何時の間にか彼の心はずっと以前に就いて学んだことのある旧師の方へ行った。その先生が三度目に結婚した奥さんの方へ行った。その奥さんの若い妹の方へ行った。花なぞを植えて静かに老年の時を送ろうとした先生がしばらく奥さんと別れ住んでいたというその幽棲の方へ行った。先生と奥さんの妹との関係は、岸本と姪との関係に似ているかどうかそこまでは彼もよく知らなかったが、すくなくも結果に於いては似ていた。深夜に人知れずある医師の門を叩いたという先生の心の懊悩を岸本は自分の胸に描いて見た。道理ある医師の言葉に服して再びその門を出たという先生の悔恨をも胸に描いて見た。しばらく彼の心は眼前にあることを離れてしまった。
「岸本先生は何をそんなに考えていらっしゃるんですか」
と年嵩な方の女中が岸本の顔を見て言った。
「私ですか……」と岸本は自分の前にある盃を眺めながら、「考えたところで仕方のないことを考えていますよ」
「今日は何物も召上って下さらないじゃありませんか。折角のお露が冷めてしまいます」
「私は先刻からそう思って拝見しているところなんですけれど、今日は先生のお顔色も好くない」ともう一人の女中が言い添えた。
「ほんとに岸本先生はお目にかかる度に違ってお見えなさる……紅い顔をしていらっしゃるかと思うと、どうかなすったんじゃないかと思うほど蒼い顔をしていらっしゃることがある……」
こうそこへ来て酒の興を添えている年の若い痩せぎすな女も言った。岸本はこの女がまだ赤い襟を掛けているようなほんの小娘の時分から贔屓にして、宴会なぞのある時にはよく呼んで働いて貰うことにしていた。この人も最早若草のように延びた。
「そこへ行くと、元園町の先生の方は何時見てもお変りなさらない。何時見てもニコニコしていらしって……」と年嵩な女中は言いかけたが、急に気を変えて、「まあ、殿方のことばかり申上げて相済みません」
そう言いながら女中は自分の膝の上に手を置いて御辞儀した。
「歌の一つも聞かせて下さい」
と岸本は言出した。すこしの酒が直ぐに顔へ発しる方の彼も、その日は毎時のように酔わなかった。
十九
生きたいと思う心を岸本に起させるものは、不思議にも俗謡を聞く時であった。酒の興を添えにその二階座敷へ来ていた女の一人は、日頃岸本が上方唄なぞの好きなことを知っていて、古い、沈んだ、陰気なほど静かな三味線の調子に合せて歌った。
「心づくしのナ
この年月を、
いつか思ひの
はるゝやと、
心ひとつに
あきらめん――
よしや世の中」
いかなる人に聞かせるために、いかなる人の原作したものとも知れないような古い唄の文句が、熟した李のように色の褪め変った女の口唇から流れて来た。
「みじか夜の
ゆめはあやなし、
そのうつり香の
悪くて手折ろか
ぬしなきはなを、
何のさら/\/\、
更に恋は曲者」
元園町の友人の側に居て、この唄を聞いていると、情慾のために苦み悩んだような男や女のことがそれからそれと岸本の胸に引出されて行った。
「元園町の先生は好い顔色におなんなすった」と年嵩の方の女中が言った。
「君の酒は好い酒だ」と岸本も友人の方を見た。
「岸本先生は真実に御酔いなすったということが御有んなさらないでしょう」と髪の薄い女中は二人の客の顔を見比べて、「先生のは御酒もそう召上らず、御遊びもなさらず、まさか先生だって女嫌いだという訳でもございますまいが――」
「先生は若い姉さん達を並べて置いて、唯眺めてばかりいらっしゃる」と年嵩な方が引取って笑った。
「しかし、私は何時までも先生にそうしていて頂きたいと思います」と復た髪の薄い方の女中が言った。「先生だけはどうかして堕落させたくないと思います」
「私だって弱い人間ですよ」と岸本が言った。
「いえ、手前共のようなところへもこうして御贔屓にしていらしって下さるのが、何よりでございます。そりゃもう御察しいたしております。歌の一つも聞いて見ようという御心持は手前共にもよく分っております……」
「よくそれでも御辛抱が続くと思いますよ。そんなにしていらしって、先生はお寂しか有りませんか……奥さんもお迎えなさらず……」
元園町は盃を手にしてさも心地よさそうに皆の話を聞いていたが、急に岸本の方を強く見て言った。
「岸本君の独りで居るのは、今だに僕には疑問です」
岸本は人知れず溜息を吐いた。
二十
「僕は友人としての岸本君を尊敬してはいますが」とその時、元園町は酒の上で岸本を叱るように言った。「一体、この男は馬鹿です」
「ヨウヨウ」と髪の薄い女中は手を打って笑った。「元園町の先生の十八番が出ましたね」
「あの『馬鹿』が出るようでなくッちゃ、元園町の先生は好い御心持に御酔いなさらない」と年嵩な方の女中も一緒に成って笑った。
岸本は自分の家の方に仕残した用事があって、長くもこの場所に居なかった。心持好さそうに酔い寛いでいる友人を二階座敷に残して置いて、やがてその家を出た。色彩も、音曲も、楽しい女の笑い声も、すべて人を享楽させるためにあるような空気の中から離れて行った時は、余計に岸本の心は沈んでしまった。
岸本は家をさして歩いた。大川端まで出ると酒も醒めた。身に浸みるような冷い河風の刺激を感じながら、少年の時分に恩人の田辺の家の方からよく歩き廻りに来た河岸を通って両国の橋の畔にかかった。名高い往昔の船宿の名残りを看板だけに留めている家の側を過ぎて砂揚場のあるところへ出た。神田川の方からゆるく流れて来る黒ずんだ水が岸本の眼に映った。その水が隅田川に落合うあたりの岸近くには都鳥も群れ集って浮いていた。ふと岸本はその砂揚場の近くで遭遇した出来事を思い出した。妊娠した若い女の死体がその辺へ流れ着いたことを思出した。曾て検屍の後の湿った砂なぞを眺めた彼自身にも勝って、一層よく岸本はその水辺の悲劇の意味を読むことが出来た。その心持から、彼は言いあらわし難い恐怖を誘われた。
急いで岸本は橋を渡った。すたすた家の方へ帰って行った。門松のある中に遊ぼうとするような娘子供は狭い町中で追羽子の音をさせて、楽しい一週の終らしい午後の四時頃の時を送っていた。丁度家には根岸の嫂が訪ねて来て岸本の帰りを待っていた。
「オオ、捨さんか」
と嫂は岸本の名を呼んで言った。この嫂は岸本が一番年長の兄の連合にあたって、節子から言えば学校時代に世話に成った伯母さんであった。「女の御年始という日でもありませんけれど、宅でも台湾の方ですし、代理がてら今日は一寸伺いました」とも言った。
節子は正月らしい着物に着更えて根岸の伯母を款待していた。何となく荒れて見える節子の顔の肌も、岸本だけにはそれが早や感じられた。彼はこの女らしく細いものに気のつく嫂から、三人も子供をもったことのある人の観察から、なるべく節子を避けさせたかった。
「節ちゃん、そんなとこに坐っていなくても可いから、お茶でも入れ替えて進げて下さい」
岸本は節子を庇護うように言った。長火鉢を間に置いて岸本と対い合った嫂の視線はまた、娘のさかりらしく成人した節子の方へよく向いた。この嫂は亡くなった岸本の母親やまだ青年時代の岸本と一緒に、夫の留守居をして暮した骨の折れた月日のことを忘れかねるという風で、何かにつけて若いものを教え誨すような口調で節子に話しかけた。遠い外国の方で楽しい家庭をつくっているという輝子の噂も出た。
「ここの叔父さんなればこそ、あれまでに御世話が出来たんですよ。この御恩を忘れるようなことじゃ仕方がありません、いくら輝さんが今楽だからと言って――」と嫂は好い婿を取らせて子供まである自分の娘の愛子に、輝子の出世を思い比べるような調子で言って、やがて節子の方を見て、「節ちゃんも、好い叔父さんをお持ちなすって、ほんとにお仕合せですよ」
それを聞いている岸本は冷い汗の流れる思をした。
二十一
嫂は長い年月の間の留守居も辛抱甲斐があって漸く自分の得意な時代に廻って来たことや、台湾にある民助兄の噂や、自分の娘の愛子の自慢話や、それから常陸の方に行っている岸本が一番末の女の児の君子の話なぞを残して根岸の方へ帰って行った。岸本から云えば姪の愛子の夫にあたる人の郷里は常陸の海岸の方にあった。その縁故から岸本はある漁村の乳母の家に君子を托して養って貰うことにしてあった。
「捨さんも、そうして何時までも独りでいる訳にも行きますまい。どうして岸本さんではお嫁さんをお迎えに成らないんでしょうッて、それを聞かれる度に私まで返事に困ってしまう」
根岸の嫂はこんな言葉をも残して置いて行った。
こうした親類の女の客があった後では、岸本は節子と顔を見合せることを余計に苦しく思った。それは唯の男と女とが見合せる顔では無くて、叔父と姪との見合せる顔であった。岸本は節子の顔にあらわれる暗い影をありありと読むことが出来た。その暗い影は、「貴様は実に怪しからん男だ」という兄の義雄の怒った声を心の底の方で聞くにも勝って、もっともっと強い力で岸本の心に迫った。快活な姉の輝子とも違い、平素から節子は口数も少い方の娘であるが、その節子の黙し勝ちに憂い沈んだ様子は彼女の無言の恐怖と悲哀とを、どうかすると彼女の叔父に対する強い憎みをさえ語った。
「叔父さん、私はどうして下さいます――」
この声を岸本は姪の顔にあらわれる暗い影から読んだ。彼は何よりも先ず節子の鞭を受けた。一番多く彼女の苦んでいる様子から責められた。
急に二人の子供の喧嘩する声を聞きつけた時は、岸本は二階の方の自分の部屋にいた。彼は急いで楼梯を馳け降りた。
見ると二人の子供は、引留めようとする節子の言うことも聞入れないで争っていた。兄は弟を打った。弟も兄を打った。
「何をするんだ。何を喧嘩するんだ――馬鹿」
と岸本が言った。泉太も、繁も、一緒に声を揚げて泣出した。
「繁ちゃんが兄さんの凧を破いたッて、それから喧嘩に成ったんですよ」と節子は繁を制えながら言った。
「泉ちゃんが打った――」と繁は父に言付けるようにして泣いた。
兄の子供は物を言おうとしても言えないという風で、口惜しそうに口唇を噛んで、もう一度弟をめがけて拳を振上げようとした。
「さあ、止した。止した」と岸本が叱るように言った。
「もうお止しなさいね。兄さんも、もうお止しなさいね」と節子も言葉を添えた。
「まあ、坊ちゃん方は何を喧嘩なすったんです」
と言って、婆やがそこへ飛んで来た頃は、まだ二人の子供は泣きじゃくりを吐いていた。
岸本は胸を踊らせながら自分の部屋へ引返して行った。硝子戸に近く行って日暮時の町を眺めた。河岸の砂揚場のところを通って誘われて来た心持が岸本の胸を往来し始めた。彼はあの水辺の悲劇を節子に結びつけて考えることすら恐ろしく思った。冷い、かすかな戦慄は人知れず彼の身を伝うように流れた。
二十二
七日ばかりも岸本はろくろく眠らなかった。独りで心配した。昼の食事の時だけは彼は家のものと一緒でなしに、独りで膳に対うことが多かったが、そういう時には極りで節子が膳の側へ来て坐った。彼女はめったに叔父の給仕の役を婆やに任せなかった。それを自分でした。そして俯向き勝ちに帯の間へ手を差入れ、叔父と眼を見合せることを避けよう避けようとしているような場合でも、何時でも彼女の膝は叔父の方へ向いていた。晩かれ早かれ破裂を見ないでは止まないような前途の不安が二人を支配した。岸本は膳を前にして、黙って節子と対い合うことが多かった。
「叔父さん、めずらしいお客さまがいらっしゃいましたよ」
と楼梯の下から呼ぶ節子の声を聞きつけた時は、岸本は自分の書斎に居た。客のある度に彼は胸を騒がせた。その度に、節子を隠そうとする心が何よりも先に起って来た。
丁度町でも家の内でもそろそろ燈火の点く頃であった。岸本は階下へ降りて行って見た。十年も彼のところへは消息の絶えていた鈴木の兄が、彼から言えば郷里の方にある実の姉の夫にあたる人が、人目を憚るような落魄した姿をして、薄暗い庭先の八ツ手の側に立っていた。
岸本はこの珍客が火点し頃を選んでこっそりと訪ねて来た意味を直ぐに読んだ。傷ましい旅窶れのしたその様子で。手にした風呂敷包と古びた帽子とで。十年も前に見た鈴木の兄に比べると、旅で年とったその容貌で。この人が亡くなった甥の太一の父親であった。
妻子を捨てて家出をした鈴木の兄は岸本の思惑を憚るという風で、遠慮勝ちに下座敷へ通った。
「台湾の兄貴の方から御噂はよく聞いておりました」
こう言って迎える岸本をも鈴木の兄は気味悪そうにして、何を義理ある弟から言出されるかという様子をしていた。
「泉ちゃん、お出。鈴木の伯父さんに御辞儀するんだよ」と岸本がそこに居る子供を呼んだ。
「これが泉ちゃんですか」と言って子供の方を見る客の顔には漸く以前の旧い鈴木の家の主人公らしい微笑が浮んだ。
「伯父さん、いらっしゃいまし」と節子もそこへ来て挨拶した。
「節ちゃんか。どうも見違えるほど大きくなりましたね。幼顔が僅かに残っているぐらいのもので――」と鈴木の兄に言われて、節子はすこし顔を紅めた。
「私の家でもお園が亡くなりましてね」と岸本が言った。「あなたの御馴染の子供は三人とも亡くなってしまいました。一頃は輝も居て手伝ってくれましたが、あの人もお嫁に行きましてね、今では節ちゃんが子供の世話をしていてくれます」
「お園さんのお亡くなりに成ったことは、台湾の方で聞きました……民助君には彼方で大分御世話に成りました……捨さんのことも、民助君からよく聞きました……何しろ私も年は取りますし、身体も弱って来ましたし、捨さんに御相談して頂くつもりで実は台湾の方から帰って参りました……」
二十三
「節ちゃん、鈴木の兄さんは袷を着ていらっしゃるようだぜ。叔父さんの綿入を出してお上げ。序に、羽織も出して上げたら可かろう」
こう岸本は節子を呼んで言って、十年振りで旅から帰って来た人のために夕飯の仕度をさせた。よくよく困った揚句に義理ある弟の家をめがけて遠く辿り着いたような鈴木の兄の相談を聞くのは後廻しとして、ともかくも岸本は疲れた旅の人を休ませようとした。しばらく家に泊めて置いて、その人の様子を見ようとした。十年の月日は岸本の生活を変えたばかりでなく、太一の父親が家出をした後の旧い大きな鈴木の家をも変えた。そこには最早岸本の甥でもあり友人でもあり話相手ででもあった太一は居なかった。太一の細君も居なかった。そこには倒れかけた鈴木の家を興した養子が居た。養子の細君が居た。十年も消息の絶えた夫を待っている岸本の姉が居た。太一の妹が居た。岸本が三番目の男の児はその姉の家に托してあった。
節子のことを案じ煩いながら、岸本はポツポツ鈴木の兄の話すことを聞いた。台湾地方の熱い日に焼けて来た流浪者を前に置いて、岸本はまだこの人が大蔵省の官吏であった頃の立派な威厳のあった風采を思出すことが出来る。岸本が少年の頃に流行した猟虎の帽子なぞを冠ったこの人の紳士らしい風采を思出すことが出来る。彼が九つの歳に東京へ出て来た時、初めて身を寄せたのはこの人の家であって、よくこの人から漢籍の素読なぞを受けた幼い日のことを思出すことが出来る。岸本がこの人と姉との側に少年の時代を送ったのは一年ばかりに過ぎなかったが、しかしその間に受けた愛情は幼い彼の心に深く刻みつけられていた。それからずっと後になって、この人の身の上には種々な変化が起り、その行いには烈しい非難を受けるような事も多かった。そういう中でも、猶岸本が周囲の人のようにはこの人を考えていなかったというのは、全く彼が少年の時に受けた温い深切の為で――丁度、それが一点のかすかな燈火のように彼の心の奥に燃えていたからであった。
岸本は七日ばかりもこの旅の人を自分の許に逗留させて置いた。その七日の後には、この落魄した太一の父親を救おうと決心した。
「節ちゃん、叔父さんは鈴木の兄さんを連れて、国の方へ御辞儀に行って来るよ」
岸本はその話をした後で、別に彼の留守中に医師の診察を受けるようにと節子に勧めた。節子はその時の叔父の言葉に同意した。彼女自身も一度診て貰いたいと言った。幸に彼女の思違いであったなら。岸本はそんな覚束ないことにも万一の望みをかけ、そこそこに旅の仕度して、節子に二三日の留守を頼んで置いて行った。
二十四
実に急激に、岸本の心は暗くなって行った。郷里の方にある姉の家から帰って来る途中にも、彼は節子に言置いたことを頼みにして、どれ程医師の言葉に万一の希望を繋いだか知れなかった。引返して来て見ると、余計に彼は落胆した。
「節ちゃん、そんなに心配しないでも可いよ。何とか好いように叔父さんが考えて進げるからね」
こう岸本は言って、もしもの場合には自分の庶子として届けても可いというようなことを節子に話した。
「庶子ですか」
と節子はすこし顔を紅めた。
不幸な姪を慰めるために、岸本はそんな将来の戸籍のことなぞまで言出したもののその戸籍面の母親の名は――そこまで押詰めて考えて行くと到底そんなことは行われそうも無かった。これから幾月の間、いかに彼女を保護し、いかに彼女を安全な位置に置き得るであろうか。つくづく彼は節子の思い悩んでいることが、彼女に取っての致命傷にも等しいことを感じた。
岸本は町へ出て行った。節子のために女の血を温め調えるという煎じ薬を買求めて来た。
「もっとお前も自分の身体を大切にしなくちゃいけないよ」
と言って、その薬の袋を節子に渡してやった。
夜が来た。岸本は自分の書斎へ上って行って、独りで机に対って見た。あの河岸に流れ着いた若い女の死体のことなぞが妙に意地悪く彼の胸に浮んで来た。
「節ちゃんはああいう人だから、ひょっとすると死ぬかも知れない」
この考えほど岸本の心を暗くするものは無かった。妻の園子を失った後二度と同じような結婚生活を繰返すまいと思っていた彼は、出来ることなら全く新規な生涯を始めたいと願っていた彼は、独身そのものを異性に対する一種の復讎とまで考えていた彼は、日頃煩わしく思う女のために――しかも一人の小さな姪のために、こうした暗いところへ落ちて行く自分の運命を実に心外にも腹立しくも思った。
思いもよらない悲しい思想があだかも閃光のように岸本の頭脳の内部を通過ぎた。彼は我と我身を殺すことによって、犯した罪を謝し、後事を節子の両親にでも托そうかと考えるように成った。近い血族の結婚が法律の禁ずるところであるばかりで無く、もしもこうした自分の行いが猶かつそれに触れるようなものであるならば、彼は進んで処罰を受けたいとさえ考えた。何故というに、彼は世の多くの罪人が、無慈悲な社会の嘲笑の石に打たるるよりも、むしろ冷やかに厳粛な法律の鞭を甘受しようとする、その傷ましい心持に同感することが出来たからである。部屋には青い蓋の洋燈がしょんぼり点っていた。その油の尽きかけて来た燈火は夜の深いことを告げた。岸本は自分の寝床を壁に近く敷いて、その上に独りで坐って見た。一晩寝て起きて見たら、またどうかいう日が来るか、と不図思い直した。考え疲れて床の上に腕組みしていた岸本は倒れるように深い眠の底へ落ちて行った。
二十五
「父さん」
繁は岸本の枕頭へ来て、子供らしい声で父を呼起そうとした。岸本は何時間眠ったかをもよく知らなかった。子供が婆やと一緒に二階へ上って来た頃は、眼は覚めていたが、いくら寝ても寝ても寝足りないように疲れていた。彼は子供の呼声を聞いて、寝床を離れる気になった。
「繁ちゃん、父さんは独りじゃ起きられない。お前も一つ手伝っておくれ。父さんの頭を持上げて見ておくれ」
と岸本に言われて、繁は喜びながら両手を父の頭の下に差入れた。
「坊ちゃん、父さんを起してお進げなさい――ほんとに坊ちゃんは力があるから」
と婆やにまで言われて、繁は倒れた木の幹でも起すように父の体躯を背後の方から支えた。
「どっこいしょ」
と繁が力を入れて言った。岸本はこの幼少な子供の力を借りて漸くのことで身を起した。
「旦那さん、もう十一時でございますよ」と婆やはすこし呆れたように岸本の方を見て言った。
「や、どうも難有う。繁ちゃんの御蔭で漸く起きられた」
こう言いながら、岸本は悪い夢にでも襲われたように自分の周囲を見廻した。
太陽は昨日と同じように照っていた。町の響は昨日と同じように部屋の障子に伝わって来ていた。眼が覚めて見ると昨日と同じ心持が岸本には続いていた。昨日より吉いという日は別に来なかった。熱い茶を啜った後のいくらかハッキリとした心持で彼は自分の机に対って見た。
最近に筆を執り始めた草稿が岸本の机の上に置いてあった。それは自伝の一部とも言うべきものであった。彼の少年時代から青年時代に入ろうとする頃のことが書きかけてあった。恐らく自分に取ってはこれが筆の執り納めであるかも知れない、そんな心持が乱れた彼の胸の中を支配するように成った。彼は机の前に静坐して、残すつもりもなくこの世に残して置いて行こうとする自分の書きかけの文章を読んで見た。それを読んで、耐えられるだけジッと耐えようとした。又終りの方の足りない部分を書き加えようともした。草稿の中に出て来るのは十八九歳の頃の彼自身である。
「暑中休暇が来て見ると、彼方へ飛び是方へ飛びしていた小鳥が木の枝へ戻って来た様に、学窓で暮した月日のことが捨吉の胸に集って来た。その一夏をいかに送ろうかと思う心持に混って。彼はこれから帰って行こうとする家の方で、自分のために心配し、自分を引受けていてくれる恩人の家族――田辺の主人、細君、それからお婆さんのことなぞを考えた。田辺の家の近くに下宿住居する兄の民助のことをも考えた。それらの目上の人達からまだ子供のように思われている間に、彼の内部に萌した若い生命の芽は早や筍のように頭を持上げて来た。自分を責めて、責めて、責め抜いた残酷たらしさ――沈黙を守ろうと思い立つように成った心の悶え――狂じみた真似――同窓の学友にすら話しもせずにあるその日までの心の戦を自分の目上の人達がどうして知ろう、繁子や玉子というような基督教主義の学校を出た婦人があって青年男女の交際を結んだ時があったなどとはどうして知ろう、況してそういう婦人に附随する一切の空気が悉く幻のように消え果てたとはどうして知ろう、と彼は想って見た。まだ世間見ずの捨吉には凡てが心に驚かれることばかりであった。今々この世の中へ生れて来たかのような心持でもって、現に自分の仕ていることを考えると、何時の間にか彼は目上の人達の知らない道を自分勝手に歩き出しているということに気が着いた。彼はその心持から言いあらわし難い恐怖を感じた……」
岸本は読みつづけた。
「……明治もまだ若い二十年代であった。東京の市内には電車というものも無い頃であった。学校から田辺の家までは凡そ二里ばかりあるが、それくらいの道を歩いて通うことは一書生の身に取って何でも無かった。よく捨吉は岡つづきの地勢に沿うて古い寺や墓地の沢山にある三光町寄の谷間を迂回することもあり、あるいは高輪の通りを真直に聖坂へと取って、それから遠く下町の方にある田辺の家を指して降りて行く。その日は伊皿子坂の下で乗合馬車を待つ積りで、昼飯を済ますと直ぐ寄宿舎を出掛けた。夕立揚句の道は午後の日に乾いて一層熱かった。けれども最早暑中休暇だと思うと、何となく楽しい道を帰って行くような心持になった。何かこう遠い先の方で、自分等を待受けていてくれるものがある。こういう翹望は、あだかもそれが現在の歓喜であるかの如くにも感ぜられた。彼は自分自身の遽かな成長を、急に高くなった背を、急に発達した手足を、自分の身に強く感ずるばかりでなく、恩人の家の方で、もしくはその周囲で、自分と同じように揃って大きくなって行く若い人達のあることを感じた。就中、まだ小娘のように思われていた人達が遽かに姉さんらしく成って来たには驚かされる。そういう人達の中には、大伝馬町の大勝の娘、それからへ竃河岸の樽屋の娘なぞを数えることが出来る。大勝とは捨吉が恩人の田辺や兄の民助に取っての主人筋に当り、樽屋の人達はよく田辺の家と往来している。あの樽屋のおかみさんが自慢の娘のまだ初々しい鬘下地なぞに結って踊の師匠の許へ通っていた頃の髪が何時の間にか島田に結い変えられたその姉さんらしい額つきを捨吉は想像で見ることが出来た。彼はまた、あの大伝馬町辺の奥深い商家で生長した大勝の主人の秘蔵娘の白いきゃしゃな娘らしい手を想像で見ることが出来た……」
読んで行くうちに、年若な自分がそこへあらわれた。何かしら胸を騒がせることがあると、直ぐ頬が熱くなって来るような、まだ無垢で初心な自分がそこへあらわれた。何か遠い先の方に自分等を待受けていてくれるものがあるような心持でもって歩き出したばかりの頃の自分がそこへあらわれた。岸本は自分の少年の姿を自分で見る思いをした。
二十六
「どうも仕方が無い。最早これまでだ」
岸本は独りでそれを言って見た。人から責められるまでもなく、彼は自分から責めようとした。世の中から葬られるまでもなく、自分から葬ろうとした。二十年前、岸本は一度国府津附近の海岸へ行って立ったことがある。暗い相模灘の波は彼の足に触れるほど近く押寄せて来たことがある。彼もまだ極若いさかりの年頃であった。止み難い精神の動揺から、一年ばかりも流浪を続けた揚句、彼の旅する道はその海岸の波打際へ行って尽きてしまった。その時の彼は一日食わず飲まずであった。一銭の路用も有たなかった。身には法衣に似て法衣でないようなものを着ていた。それに、尻端折、脚絆、草鞋穿という異様な姿をしていた。頭は坊主に剃っていた。その時の心の経験の記憶が復た実際に岸本の身に還って来た。曾て彼の眼に映った暗い波のかわりに、今は四つ並んだ墓が彼の眼にある。曾て彼の眼に映ったものは実際に彼の方へ押寄せて来た日暮方の海の波であって、今彼の眼にあるものは幻の墓ではあるけれども、その冷たさに於いては幻はむしろ真実に勝っていた。三年も彼が見つめて来た四つの墓は、さながら暗夜の実在のようにして彼の眼にあった。岸本園子の墓。同じく富子の墓。同じく菊子の墓。同じく幹子の墓。彼はその四つの墓銘をありありと読み得るばかりでなく、どうかすると妻の園子の啜泣くような声をさえ聞いた。それは彼が自分の乱れた頭脳の内部で聞く声なのか、節子の居る下座敷の方から聞えて来る声なのか、それとも何か他の声なのか、いずれとも彼には言うことが出来なかった。その幻の墓が見えるところまで堕ちて行く前には、彼は恥ずべき自己を一切の知人や親戚の眼から隠すために種々な遁路を考えて見ないでもなかった。知らない人ばかりの遠い島もその一つであった。訪れる人もすくない寂しい寺院もその一つであった。しかし、そうした遁路を見つけるには彼は余りに重荷を背負っていた。余りに疲れていた。余りに自己を羞じていた。彼は四つ並んだ幻の墓の方へ否でも応でも一歩ずつ近づいて行くの外はなかった。
一日は空しく暮れて行った。夕日は二階の部屋に満ちて来た。壁も、障子も、硝子戸も、何もかも深い色に輝いて来た。岸本の心は実に暗かった。日頃彼の気質として、心を決することは行うことに等しかった。泉太、繁の兄弟の子供の声も最早彼の耳には入らなかった。唯、心を決することのみが彼を待っていた。
二十七
節子が何事も知らずに二階へ上って来た頃は、日は既に暮れていた。彼女は使の持って来た手紙を叔父に渡した。それを受取って見て、岸本は元園町の友人が復た手紙と一緒にわざわざ迎えの俥までも寄してくれたことを知った。
友人を見たいと思う心が岸本には動かないではなかった。しかしその心からと言うよりも、むしろ彼は半分器械のように動いた。元園町の手紙を読むと直ぐ楼梯を降りて、そこそこに外出する支度した。
暗い門の外には母衣の掛った一台の俥が岸本を待っていた。節子に留守を頼んで置いて、ぶらりと岸本は家を出た。別れを友人に告げに行くつもりでは無いまでも、実際どう成ってしまうか解らないような暗い不安な心持で、彼はその俥に乗った。そして地を踏んで行く車夫の足音や、時々車夫の鳴らす鈴の音や、橋の上へさしかかる度に特に響ける車輪の音を母衣の内で聞いて行った。大きな都会の夜らしい町々の灯が母衣の硝子に映ったり消えたりした。幾つとなく橋を渡る音もした。彼はめったに行かない町の方へ揺られて行くことを感じた。
元園町の友人は一人の客と一緒に、岸本の知らない家で彼を待受けていた。そこには電燈のかがやきがあった。酒の香気も座敷に満ちていた。岸本のために膳部までが既に用意して置いてあった。元園町は客を相手に、さかんに談したり飲んだりしているところであった。
「岸本君、今夜は大いに飲もうじゃ有りませんか」
と元園町が眉をあげて言った。岸本は元園町から差された盃を受ける間もなく、日頃懇意にする客の方からも盃を受けた。
「今夜は岸本さんを一つ酔わせなければいけない」
とその客も言って、復た岸本の方へ別の盃を差した。
「ねえ、君」と元園町は客の方を見ながら、「僕なぞが、どれほど岸本君を思っているか、それを岸本君は知らないでいる」
「まあ、一つ頂きましょう」と客は岸本からの返盃を催促するように言った。
耳に聞く友人等の笑声、眼に見る華やかな電燈の灯影は、それらのものは岸本が心中の悲痛と混合った。彼は楽しい酒の香気を嗅ぎながら、車の上でそこまで震えてやって来た彼自身のすがたを思って見た。節子と彼と、二人の中の何方か一人が死ぬより外に仕方が無いとまで考えて来たその時までの身の行詰りを思って見た。
元園町は心地よさそうに酔っていたが、やがて何か思い出したように客の方を見ながら、
「ねえ、君、岸本君なぞも一度欧羅巴を廻って来ると可いね……是非僕はそれをお勧めする……」
客はこうした酒の上の話も肴の一つという様子で、盃を重ねていた。
「岸本君」と元園町は酔に乗じて岸本を励ますように言った。「君も一度欧羅巴を見ていらっしゃい……是非見ていらっしゃい……もし君が奮発して出掛けられるようなら、僕はどんなにでも骨を折ります……一度は欧羅巴というものを見て置く必要がありますよ……」
岸本は黙し勝ちに、友人の話を聞いていた。どうかして生きたいと思う彼の心は、情愛の籠った友人の言葉から引出されて行った。
二十八
夜は更けた。四辺はひっそりとして来た。酒の相手をするものは皆帰ってしまった。まだそれでも元園町は客を相手に飲んでいた。それほど二人は酒の興が尽きないという風であった。その晩は岸本もめずらしく酔った。夜が更ければ更けるほど、妙に彼の頭脳は冴えて来た。
「友人は好いことを言ってくれた。これ以上の死滅には自分は耐えられない――」
彼は自分で自分に言って見た。
呼んで貰った俥が来た。岸本は自分の家を指して深夜の都会の空気の中を帰って行った。東京の目貫とも言うべき町々も眠ってしまって、遅くまで通う電車の響も絶えていた。広い大通りには往来の人の足音も聞えなかった。海の外へ。岸本がその声をハッキリと聞きつけたのも帰りの車の上であった。あだかも深い「夜」が来てその一条の活路を彼の耳にささやいてくれたかのように。すくなくも元園町の友人が酒の上で言った言葉から、その端緒を見つけて来たというだけでも、彼に取って、難有い賜物のように思われた。どうかして自分を救わねば成らない。同時に節子をも。又た泉太や繁をも。この考えが彼の胸に湧いて来て、しかも出来ない事でも無いらしく思われた時は、彼は心からある大きな驚きに打たれた。
可成な時を車で揺られて岸本は住み慣れた町へ帰って来た。割合に遅くまで人通の多いその界隈でも、最早真夜中で、塒で鳴く鶏の声が近所から僅かに聞えて来ていた。家でも皆寝てしまったらしい。そう思いながら、岸本は門の戸を叩いた。
「叔父さんですか」
という節子の声がして、やがて戸の掛金を内からはずしてくれる音のする頃は、まだ岸本は酒の酔が醒めなかった。
「まあ、叔父さんにはめずらしい」
と節子は驚いたように叔父を見て言った。
岸本は自分の部屋へ行ってからも、胸の中に湧き上って来る感動を制えることが出来なかった。丁度節子は酔っている叔父のために冷水を用意して来た。岸本は何事も知らずにいる姪にまで自分の心持を分けずにいられなかった。
「可哀そうな娘だなあ」
思わずそれを言って、彼ゆえに傷ついた小鳥のような節子を堅く抱きしめた。
「好い事がある。まあ明日話して聞かせる」
その岸本の言葉を聞くと、節子は何がなしに胸が込上げて来たという風で、しばらく壁の側に顔を押えながら立っていた。とめども無く流れて来るような彼女の暗い涙は酔っている岸本の耳にも聞えた。
二十九
朝が来て見ると、平素はそれほど気もつかずにいた書斎の内の汚れが酷く岸本の眼についた。彼は長く労作の場所とした二階の部屋を歩いて見た。何一つとしてそこには澱み果てていないものは無かった。多年彼が志した学芸そのものすら荒れ廃れた。書棚の戸を開けて見た。そこには半年の余も溜った塵埃が書籍という書籍を埋めていた。壁の側に立って見た。そこには血が滲んでいるかと思われるほど見まもり疲れた冷たさ、恐ろしさのみが残っていた。
遠い外国の旅――どうやらこの沈滞の底から自分を救い出せそうな一筋の細道が一層ハッキリと岸本に見えて来た。何よりも先ず彼は力を掴もうとした。あの情人の夫を殺すつもりで過って情人を殺してまでも猶かつ生きることの出来たという文覚上人のような昔の坊さんの生涯の不思議を考えた。そこからもっと自己を強くすることを学ぼうとした。一歩も自分の国から外へ踏出したことの無い岸本のようなものに取っては、遠い旅の思立ちはなかなか容易でなかった。七年ばかり暮しつづけているうちにまるで根が生えてしまったような現在の生活を底から覆すということも容易ではなかった。節子や子供等をもっと安全な位置に移し、留守中のことまでも考えて置いて、独りで家庭を離れて行くということも容易ではなかった。それを思うと、岸本の額からは冷い脂のような汗が涌いて来た。
しかし、不思議にも岸本の腰が起った。腐ってしまいそうだとよく岸本の嘆いていた身体が、ひょっとすると持病に成るかとまで疼痛を恐ろしく感じていた身体が、小舟を漕いで見たり針医に打たせたりしてまだそれでも言うことを利かなかった身体が、半日ぐらい壁の側に倒れていることはよく有って激しい疲労と倦怠とをどうすることも出来なかったような身体が、その時に成って初めて言うことを利いた。彼は精神から汗を出した。そしてズキズキと病める腰のことなぞは忘れてしまった。一切を捨てて海の外へ出て行こう。全く知らない国へ、全く知らない人の中へ行こう。そこへ行って恥かしい自分を隠そう。こうした心持は、自ら進んで苦難を受くることによって節子をも救いたいという心持と一緒に成って起って来た。
その心持から岸本は元園町の友人へ宛てた手紙を書いた。彼は自分の身についた一切のものを捨ててかかろうとしたばかりでなく、多年の労作から得た一切の権利をも挙げて旅の費用に宛てようと思って来た。この遽かな旅の思い立ちは誰よりも先ず節子を驚かした。
三十
「酒の上で言ったようなことを、そう岸本君のように真面目に取られても困る」
これは元園町の友人の意見として、過ぐる晩一緒に酒を酌みかわした客から岸本の又聞きにした言葉であった。岸本はこの友人に対してすら、何故そう「真面目」に取らずにはいられなかったというその自分の位置をどうしても打明けることが出来なかった。
とは言え、元園町からは助力を惜まないという意味の手紙を寄してくれた。この手紙が岸本を励した上に、幸いにも旅の思立ちを賛成してくれた人達のあったことは一層彼の心を奮い起たせた。それからの岸本は殆ど旅の支度に日を送った。そろそろ梅の咲き出すという頃には大体の旅の方針を定めることが出来るまでに成った。長いこと人も訪ねずに引籠みきりでいた彼は、神田へも行き、牛込へも行った。京橋へも行った。本郷へも行った。どうかして節子の身体がそれほど人の目につかないうちに支度を急ぎたいと願っていた。
「一度は欧羅巴を見ていらっしゃるというのも可かろうと思いますね。何もそんなにお急ぎに成る必要は無いでしょう――ゆっくりお出掛になっても可いでしょう」
番町の方の友人が岸本の家へ訪ねて来てくれた時に、その話が出た。この友人は岸本から見ると年少ではあったが、外国の旅の経験を有っていた。
「思い立った時に出掛けて行きませんとね、愚図々々してるうちには私も年を取ってしまいますから」
こう岸本は言い紛らわしたものの、親切にいろいろなことを教えてくれる友人にまで、隠さなければ成らない暗いところのある自分の身を羞ずかしく思った。
まだ岸本は兄の義雄に何事も言出してなかった。留守中の子供の世話ばかりでなく、節子の身の始末に就いては親としての兄の情にすがるの外は無いと彼も考えた。しかしながら、日頃兄の性質を熟知する岸本に何を言出すことが出来よう。義雄は岸本の家から出て、母方の家を継いだ人であった。民助と義雄とは同じ先祖を持ち同じ岸本の姓を名のる古い大きな二つの家族の家長たる人達であった。地方の一平民を以て任ずる義雄は、家名を重んじ体面を重んずる心を人一倍多く有っていた。婦女の節操は義雄が娘達のところへ書いてよこす何よりも大切な教訓であった。こうした気質の兄から不日上京するつもりだという手紙を受取ったばかりでも、岸本は胸を騒がせた。
「お前のお父さんが出ていらっしゃるそうだ」
それを岸本が節子に言って聞かせると、彼女は唯首を垂れて、悄れた様子を見せていた。でも彼女が割合に冷静であることは岸本の心をやや安んじさせた。
旅の支度に心忙しく日を送りながら今日見えるか明日見えるかと岸本が心配しつつ待っていた兄は名古屋の方から着いた。
三十一
「や。どうも久しぶりで出て来た。今停車場から来たばかりで、まだ宿屋へも寄らないところだ。今度は大分用事もあるし、そうゆっくりしてもいられないが――まあ、すこし話して行こう。子供も皆丈夫でいるかね」
義雄は外套を脱ぎながらもこんな話をして、久しぶりで弟を見るばかりでなく、娘をも見るという風に、そこへ来て帽子や外套を受取ろうとする節子へも言葉を掛けた。
「節ちゃんも相変らず働いてるね」
それを聞くと、岸本は何事も知らずにいる兄の顔を見ることさえも出来なかった。久しぶりで上京した人を迎え顔に、下座敷の内をあちこちと歩き廻った。
「どれ、お茶の一ぱいも御馳走に成って行こう」
と言いながら、勝手を知った兄は自分から先に立って二階の座敷へ上った。この兄と対い合って見ると、岸本は思うことも言出しかねて、外国の旅の思立ちだけしか話すことが出来なかった。留守中の子供のことだけを兄に頼んだ。「そいつは面白いぞ」と義雄は相変らずの元気で、「俺の家でもこれから大いに発展しようというところだ。近いうちに国の方のものを東京へ呼ぶつもりでいたところだ。貴様が家を見つけて置いてくれさえすれば、子供の世話は俺の方で引受けた」
義雄の話は何時でも簡単で、そしてテキパキとしていた。
十年振りで帰国した鈴木の兄の噂、台湾の方の長兄の噂などにしばらく時を送った後、義雄は用事ありげに弟の許を辞し去る支度した。仮令この兄の得意の時代はまだ廻って来ないまでも勃々とした雄心は制えきれないという風で、快く留守中のことを引受けたばかりでなく、外国の旅にはひどく賛成の意を表してくれた。
兄は出て行った。岸本は節子を呼んで、兄の話を彼女に伝え、不安な彼女の心にいくらかの安心を与えようとした。
「でも、お前のことを頼むとは、いかに厚顔しくも言出せなかった――どうしても俺には言出せなかった」
と岸本は嘆息して言った。
「もしお前のお母さんが国から出ていらしったら、さぞびっくりなさるだろう」
と復た彼は附添した。
弟の外遊を悦んでくれた義雄の顔は岸本の眼についていた。自己の不徳を白状することを後廻しにして、留守中の子供の世話を引受けて貰ったでは、欺くつもりもなく兄を欺いたにも等しかった。岸本はこの旅の思立ちが、いかに兄を欺き、友を欺き、世をも欺く悲しき虚偽の行いであるかを思わずにいられなかった。そして一書生の旅に過ぎない自分の洋行というようなことが大袈裟に成れば成るだけ、余計にその虚偽を増すようにも思い苦しんだ。出来ることなら人にも知らせずに行こう。日頃親しい人達にのみ別れを告げて行こう。すくなくも苦を負い、難を負うことによって、一切の自己の不徳を償おう、とこう考えた。それにしても、いずれ一度は節子のことを兄の義雄だけには頼んで置いて行かねば成らなかった。それを考えると、岸本は地べたへ顔を埋めてもまだ足りないような思いをした。
三十二
春の近づいたことを知らせるような溶け易い雪が来て早や町を埋めた。実に無造作に岸本は旅を思い立ったのであるが、実際にその支度に取掛って見ると、遠い国に向おうとする途中で必要なものを調えるだけにも可成な日数を要した。
眼に見えない小さな生命の芽は、その間にそろそろ頭を持上げ始めた。節子の苦しみと悩みとは、それを包もう包もうとしているらしい彼女の羞を帯びた容子は、一つとして彼女の内部から押出して来る恐ろしい力を語っていないものはなかった。あだかも堅い地を割って日のめを見ないでは止まない春先の筍のような勢で。それを見せつけられる度に、岸本は注文して置いた旅の衣服や旅の鞄の出来て来るのを待遠しく思った。
ある日、岸本は警察署に呼出されて身元調を受けて帰って来た。これは外国行の旅行免状を下げて貰うに必要な手続きの一つであった。節子は勝手口に近い小座敷に立っていて、何となく彼女に起りつつある変化が食物の嗜好にまであらわれて来たことを心配顔に叔父に話した。
「婆やにそう言われましたよ。『まあ妙な物をお節ちゃんは食べて見たいんですねえ』ッて――梅干のようなものが頂きたくて仕方が無いんですもの」
こう節子は顔を紅めながら言った。彼女はまた、婆やに近くいて見られることを一番恐ろしく思うとも言った。
岸本はまだ二人の子供に何事も話し聞かせて無かった。幾度となく彼は自分の言出そうとすることが幼いものの胸を騒がせるであろうと考えた。その度に躊躇した。
「泉ちゃん、お出」
と岸本は夕飯の膳の側へ泉太を呼んだ。
「繁ちゃん、父さんがお出ッて」
と泉太はまた弟を呼んだ。
二人の子供は父の側に集った。旅を思い立つように成ってからは客も多く、岸本は家のものと一緒に夕飯の膳に就くことも出来ない時の方が多かった。
「父さんはお前達にお願いがあるがどうだね。近いうちに父さんは外国の方へ出掛けて行くが、お前達はおとなしくお留守居してくれるかね」
節子は膳の側に、婆やは勝手口に聞いているところで、岸本はそれを子供に言出した。
「お留守居する」
と弟は兄よりも先に膝を乗出した。
「繁ちゃん」
と兄は弟を叱るように言った。その泉太の意味は、自分は弟よりも先に父の言葉に応じるつもりであったとでも言うらしい。
「二人ともおとなしくして聞いていなくちゃ不可。お前達は父さんの行くところをよく覚えて置いておくれ。父さんは仏蘭西という国の方へ行って来る――」
「父さん、仏蘭西は遠い?」と弟の方が訊いた。
「そりゃ、遠いサ」と兄の方は小学校の生徒らしく弟に言って聞かせようとした。
岸本は二人の幼いものの顔を見比べた。「そりゃ、遠いサ」と言った兄の子供ですら、何程の遠さにあるということは知らなかった。
三十三
思いの外、泉太や繁は平気でいた。それほど何事も知らずにいた。父が遠いところへ行くことを、鈴木の伯父の居る田舎の方か、妹の君子が預けられている常陸の海岸の方へでも行くぐらいにしか思っていないらしかった。その無心な様子を見ると、岸本はさ程子供等の心を傷めさせることもなしに手放して行くことが出来るかと考えた。
岸本は膳の側へ婆やをも呼んで、
「いろいろお前にはお世話に成った。俺も今度思立って外国の方へ行って来るよ。近いうちに節ちゃんのお母さん達が郷里から出て来て下さるだろうから、それまでお前も勤めていておくれ」
「あれ、旦那さんは外国の方へ」と婆やが言った。「それはまあ結構でございますが――」
岸本はこの婆やに聞かせるばかりでなく、子供等にも聞かせる積りで、
「俺は九つの歳に東京へ修業に出て来た。それからはもうずっと親の側にもいなかった。他人の中でばかり勉強した。それでもまあ、どうにかこうにか今日までやって来た。それを考えるとね、泉ちゃんや繁ちゃんだって父さんのお留守居が出来ないことは有るまいと思うよ……どうだね、泉ちゃん、お留守居が出来るかね」
「出来るサ」と泉太は事もなげに言った。
「父さんが居なくたって、お節ちゃんはお前達と一緒に居るし、今に伯母さんや祖母さんも来て下さる」
「お節ちゃんは居るの」と繁が節子の方を見て訊いた。
「ええ、居ますよ」
節子は言葉に力を入れて子供の手を握りしめた。
何時伝わるともなく岸本の外遊は人の噂に上るように成った。彼は中野の友人からも手紙を貰った。その中には、かねてそういう話のあったようにも覚えているが、こんなに急に決行しようとは思わなかったという意味のことを書いて寄してくれた。若い人達からも手紙を貰った。その中には、「母親のない幼少い子供を控えながら遠い国へ行くというお前の旅の噂は信じられなかった。お前は気でも狂ったのかと思った。それではいよいよ真実か」という意味のことを書いて寄してくれた人もあった。こうした人の噂は節子の小さな胸を刺激せずには置かなかった。諸方から叔父の許へ来る手紙、遽かに増えた客の数だけでも、急激に変って行こうとする彼女の運命を感知させるには充分であった。彼女は叔父に近く来て、心細そうな調子で言出した。
「叔父さんはさぞ嬉しいでしょうねえ――」
叔父の外遊をよろこんでくれるらしいこの節子の短い言葉が、あべこべに名状しがたい力で岸本の心を責めた。何か彼一人が好い事でもするかのように。頼りのない不幸なものを置去りにして、彼一人外国の方へ逃げて行きでもするかのように。
「叔父さんが嬉しいか、どうか――まあ見ていてくれ」
と岸本は答えようとしたが、それを口にすることすら出来なかった。彼は黙って姪の側を離れた。
三十四
叔父を恐れないように成ってからの節子の瞳は、叔父に対する彼女の強い憎みを語っているばかりでも無かった。どうかするとその瞳は微笑んでいることもあった。そして彼女の顔にあらわれる暗い影と一緒に成って動いていた。
「妙なものですねえ」
節子はこうした短い言葉で、彼女の内部に起って来る激しい動揺を叔父に言って見せようとすることもあった。しかし岸本は不幸な姪の憎みからも、微笑からも、責められた。その憎みも微笑も彼を責めることに於いては殆んど変りがなかったのである。
温暖い雨が通過ぎた。その雨が来て一切のものを濡らす音は、七年住慣れた屋根の下を離れ行く日の次第に近づくことを岸本に思わせた。早くこの家を畳まねば成らぬ。新しい家の方に節子を隠さねば成らぬ。それらの用事が実に数限りも無く集って来ている中で、一方には岸本は日頃親しい人達にそれとなく別離を告げて行きたいと思った。出来るだけ手紙も書きたいと思った。岸本はある劇場へと車を急がせた。彼はいそがしい自分の身の中から僅の時を見つけて、せめてその時を芝居小屋の桟敷の中に送って行こうとした。ある近代劇の試演から岸本の知るように成った二三の俳優がその舞台に上る時であった。前後に関係の無い旧い芝居の一幕が開けた。人形のように白く塗った男の子役の顔が岸本の眼に映った。女の子にもして見たいようなその長い袖や、あまえるように傾げたその首や、哀れげに子役らしいその科白廻しは、悪戯ざかりの泉太や繁とは似てもつかないようなものばかりであった。でも、岸本は妙に心を誘われた。彼の胸の中は国に残して置いて行こうとする自分の子供等のことで満たされるように成った。熱い涙がその時絶間なしに岸本の頬を伝って流れて来た。彼は舞台の方を見ていることも出来なかった。座にも耐えられなかった。人を避けて長い廊下へ出て見ると、そこには幾つかの並んだ薄暗い窓があった。彼はその窓の一つの方へ行って、激しく泣いた。
三十五
岸本は出来るだけ旅の支度を急ごうとした。漸く家の周囲の狭い廂間なぞに草の芽を見る頃に成って、引越の準備をするまでに漕ぎ付けることが出来た。節子は暇さえあれば炬燵に齧りついて、丁度巣に隠れる鳥のように、勝手に近い小座敷に籠ってばかりいるような人に成った。一月は一月より眼に見えないものの成長から苦しめられて行く彼女の様子が岸本にもよく感じられた。彼の心が焦れば焦るほど、延びることを待っていられないような眼に見えないものは意地の悪いほど無遠慮な勢いを示して来た。一日も、一刻も、与えられた時を猶予することは出来ないかのように。仮令母の生命を奪ってまでも生きようとするようなその小さなものを実際人の力でどうすることも出来なかった。
死を思わせるほど悩ましい節子の様子から散々に脅かされた岸本は、今復た彼女から生れて来るものの力に踏みにじられるような心持でもって、時々節子をいたわりに行った。節子は娘らしく豊かな胸の上あたりを羽織で包んで見せ、張り満ちて来る力の制えがたさを叔父に告げた。彼女の恐怖、彼女の苦痛を分つものは叔父一人の外に無かった。
「御免下さいまし」
という親戚の女の声を表口の方に聞きつけたばかりでも、岸本は心配が先に立った。
根岸の姪――民助兄の総領娘にあたる愛子が引越間際の取込んだところへ訪ねて来た。輝子や節子が「根岸の姉さん」と呼んでいるのは、この愛子のことであった。愛子は岸本の許へ何よりの餞別の話を持って来てくれた。それは台湾の父とも相談の上、叔父の末の児(君子)を自分の妹として養って見たいというのであった。
「いろいろ父も御世話さまに成りましたし……それに叔父さんも外国の方へいらっしゃるようになれば、君ちゃんの仕送りをなさるのも大変でしょうと思いましてね……」
この愛子のこころざしを岸本は有難く受けた。
「そう言えば叔父さんの髪の毛は――」と愛子は驚いたように岸本の方を見て言った。「まあ、白くおなんなすったこと。この一二年の間に、急に白くおなんなすったようですね」
「そうかねえ、そんなに白くなったかねえ」
岸本は笑い紛わした。
この「根岸の姉さん」の前で見る時ほど、節子の改まって見えることは無かった。それは節子にのみ限らなかった。姉の輝子とても矢張その通りであった。同じ岸本を名のる近い親類でも、愛子と節子姉妹の間には女同志でなければ見られないような神経質があった。のみならず、節子は見る人に見られることを恐れるかして、障子のかげの炬燵の方にとかく愛子を避け勝ちであった。
「君ちゃんの許へ一つ送ってやって貰いましょうか」
と言いながら、岸本は亡くなった長女の形見として箪笥の底に遺ったものを愛子の前に取出した。罪の深い叔父は、自分の女の児を引取って養おうと言ってくれる一人の姪の手前をさえ憚った。
三十六
住慣れた町を去る時が来た。泉太や繁の母親が生きている頃と殆ど同じようにして置いてあった家の内の諸道具も、柱の上から古い時計を一つ下し、壁の隅から茶戸棚一つ動かしする度に、下座敷の内の見慣れた光景が壊れて行った。
岸本は遠い旅の鞄に入れて持って行かれるだけの書籍を除いて、日頃愛蔵した書架の中の殆ど全部の書籍を売払った。それから、外国の客舎の方で部屋着として着て見ようと思う寒暑の衣類だけを別にして、園子と結婚した時からある古い羽織袴の類から日頃身に着けていたものまで、自分の着物という着物はあらかた売払った。
「節ちゃん、これはお前に置いて行く」
岸本は節子を呼んで、箪笥の抽筐を引出して見せた。園子の形見としてその日まで大切に蔵って置いた一重ねの晴着と厚い帯とが、そこに残っていた。その帯は園子が結婚の日の記念であるばかりでなく、愛子の結婚の時にも役に立ち、輝子の時にも役に立った。岸本はそれらの妻の最後の形見を惜気もなく節子に分けた。
「泉ちゃんや繁ちゃんのことは、お前に頼んだよ」
という言葉を添えた。
裏口の垣根の側には二株ばかりの萩の根があった。毎年花をもつ頃になると岸本の家ではそれを大きな鉢に移して二階の硝子戸の側に置いた。丸葉と、いくらか尖った葉とあって、二株の花の形状も色合もやや異っていたが、それが咲き盛る頃には驚くばかり美しかった。狭い町の中で岸本の書斎を飾ったのもその萩であった。植物の好きな節子は岸本の知らない間に自分で萩の根の始末をして、一年半の余を叔父と一緒に暮した家の記念として、新規な住居の方へ運んで行くばかりにして置いてあった。やがて待侘びた朝が来た。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、いらっしゃい。おべべを着更えましょうね」と節子は二人の子供を呼んだ。
「彼方のお家へ行くんですよ」
と婆やも子供の側へ寄った。
針医の娘は兄弟の子供の着物を着更えるところを見に来た。泉太も、繁も、知らない町の方へ動くことを悦んで、買いたての新しい下駄で畳の上をさも嬉しそうに歩き廻った。
岸本は二階へ上って行って見た。もっと長く住むつもりで塗り更えさせた黄色い部屋の壁がそこにあった。がらんとした書斎がそこにあった。硝子戸のところへ行って立って見た。幾度か既に温暖い雨が通過ぎた後の町々の続いた屋根が彼の眼に映った。噂好きな人達の口に上ることもなしに、ともかくも別れて行くことの出来るその朝が来たのを不思議にさえ思った。
最近に訪ねて来てくれた恩人の家の弘の言葉が不図岸本の胸へ来た。
「菅さんの言草が好いじゃ有りませんか。『岸本君は時々人をびっくりさせる。――昔からあの男の癖です』とさ」
これは弘が岸本の外出中に、この家で旧友の菅と落合った時の言葉であった。町に別れを告げるようにして岸本はその二階の戸を閉めた。遠く高輪の方に見つけた家の方へ、彼は先ず女子供を送出した。
三十七
新しい隠れ家は岸本を待っていた。節子と婆やに連れられて父よりも先に着いていた二人の子供は、急に郊外らしく樹木の多い新開の土地に移って来たことをめずらしそうにして、竹垣と板塀とで囲われた平屋造りの家の周囲を走り廻っていた。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、気をつけるんだよ。お庭の植木の葉なぞを採るんじゃないよ」
岸本は先ずそれを子供に言って聞かせたが、兄弟の幼いものが互いに呼びかわす声を新しい住居の方で聞いたばかりでも、彼には別の心地を起させた。
節子は婆やを相手に引越の日らしく働いているところであった。まだ荷車は着かなかった。
「漸く。漸く」
と岸本はさも重荷でも卸したように言って、ざっと掃除の出来た家の内をあちこちと見て廻った。以前の住居に比べると、そこには可成間数もあった。岸本は節子に伴われながら、静かな日のあたって来ている北向の部屋を歩いて見た。
「祖母さんでも出ていらしったら、この部屋に居て頂くんだね。針仕事でもするには静かで好さそうな部屋だね」
と岸本は節子に言った。丁度その部屋の前には僅かばかりの空地があって、裏木戸から勝手口の方へ通われるように成っていた。
「叔父さん、持って来た萩を植るには好さそうなところが有りますよ」と言って、節子はその空地の隅のあたりを叔父に指して見せた。
岸本は南向の部屋の方へ行って見た。そこへも節子が随いて来た。彼女はめずらしく晴々とした顔付で、まだ姿にも動作にも包みきれないほどの重苦しさがあるでもなく、僅に軽い息づかいを泄しながら庭先の椿の芽などを叔父に指して見せた。その庭には勢いよく新しい枝の延びた満天星や、また枯々とはしていたが銀杏の樹なぞのあることが、彼女を悦ばせた。
「親類中で、こんな家に住んでるものは一人もありやしません」
と節子は半分独語のように言って、若々しい眼付をしながらそこいらを眺め廻した。
やがて節子は婆やの方へ行った。彼女の言ったことは不思議な寂しさを岸本の心に与えた。こんな家に住むことが、それが何の誇りだろう。親類なぞに対して外見をよそおうような場合だろうか。こう彼は節子の居ないところで独り自分に言って見た。
荷が着いてからの混雑はそれから夕方まで続いた。夕飯の済む頃になると、岸本は以前のせせこましい町中から離れて来たことより外に何も考えなかった。七年馴染を重ねた噂好きな人達は最早一人も彼の家の前を通らなかった。夜遅くまで聞えた人の足音や、通過ぎる俥のひびきすらしなかった。
「父さん、汽車の音がする」
と下町育ちの子供等は聞耳を立てた。品川の空の方から響けて伝わって来るその汽車の音は一層四辺をひっそりとさせた。岸本は越したての屋根の下で身を横にして、家中のものを笑わせるほど続けざまに溜息を吐いた。
三十八
岸本は既に半ば旅人であった。彼はなるべく人目につくことを避けようとした。送別会の催しなども断れるだけ断った。旅支度が調うまでは諸方への通知も出さずに置いた。彼が横浜から出る船には乗らないで、わざわざ神戸まで行くことにしたのも、独りでこっそりと母国に別れを告げて行くつもりであったからで。
突然な岸本の思立ちは反って見ず知らずの人々の好奇心を引いた。彼の方でなるべく静かに動こうとすればするほど、余計に彼の外遊は人の噂に上るように成った。そうした外観の華かさは一層彼を不安にした。断らなくても好いような人にまで、何故彼は両国の附近から場末も場末も荏原郡に近い芝区の果のようなそんな遠く離れた町へわざわざ家を移したかということを断らずにはいられなかった。先方から別に尋ねられもしないのに、高輪は彼が青年時代の記憶のある場所であること、足立や菅などの学友と一緒に四年の月日を送ったのもそこの岡の上にある旧い学窓であったことを話した。その学窓の附近に極く平民的な大地主の家族が住むことを話した。その家族の主人公にはまだあの界隈に武蔵野の面影が残っている頃からの庄屋の徳を偲ばせるに足るものがあることを話した。そのめずらしく大きな家族によって、私立の女学校と、幼稚園と、特色のある小学校が経営されていることを話した。彼はその小学校がいかにも家族的で、自分の子供を托して行くには最も好ましく考えたかを話した。そして、その学園の附近を択んで自分の留守宅を移したことを話した。
毎日のように岸本は旧馴染の高台を下りて、用達に出歩いた。下町の方にある知人の家々へもそれとなく別れを告げに寄った。時には両国の方まで行って、もう一度隅田川の水の流れて行くのが見える河岸に添いながら、ある雑誌記者と一緒に歩いたこともあった。
「あなたが奮発してお出掛になるということは、大分皆を動したようです」
この記者の言葉を聞くと、岸本には返事のしようが無かった。地べたを見つめたままで、しばらく黙って歩いた。
「あなたのお子さん達はどうするんです」とまた記者が訊いた。
「子供ですか。留守は兄貴の家の人達に頼んで行くつもりです。姉が郷里から出て来てくれることに成っていますからね」
「姉さんは最早出ていらしったんですか」
「いえ、まだ……来月でなきゃ」
「あなたは今月のうちに神戸へお立ちに成るというじゃ有りませんか。姉さんもまだ出ていらっしゃらないのに――」
記者が心配して言ってくれたことは岸本の身に徹えた。とても彼は嫂に、節子の母親に合せて行く顔が無かった。
三十九
長旅に耐えられるような鞄をひろげて書籍や衣服なぞを取纏め、いささかの薬の用意をも忘れまいとする頃は、遠い国に向おうとする心持が実際に岸本に起って来た。
「泉ちゃんや繁ちゃんも、これからは味方になるものが無くて可哀そうですね」
根岸の姪も高輪へ訪ねて来て、そんなことを岸本に言った。
「お前達はそんな風に思うかね。叔父さんはまだ小学校へ通う時分から、鈴木の兄さんの家に一年、それから田辺さんの家にずっと長いこと書生をしていたが、別にそんな風に考えないでも済んだ。お世話に成る人は皆な親だと思えば可いよ」
「二人ともまだ幼少うございますから、お出掛になるなら今の中の方が可いかも知れません」
こう言う愛子はあまりに岸本が義雄兄の家族を頼み過ぎていることを匂わせた。何故、彼が根岸へ相談もなしに二人の子供を義雄兄に托して行くのか。それは愛子にも言えないことであった。
「君ちゃんのことは何分よろしく願います」
と岸本は末の女の児のことを根岸の姪に頼んだ。
高輪には岸本は十日ばかり暮した。節子や子供等と一緒に居ることも早や一日ぎりに成った。出発前の混雑した心持の中で、夕飯前の時を見つけて、岸本は独り屋外へ歩きに出た。彼の足は近くにある岡の方へ向いた。ずっと以前に卒業した学校の建築物のある方へ向いた。二十二年の月日はそこを出た一人の卒業生を変えたばかりでなく、以前の学校をも変えた。緩慢な地勢に沿うて岡の上の方から学校の表門の方へ弧線を描いている一筋の径だけは往時に変らなかったが、門の側に住む小使の家の窓は無かった。岸本はその門を入って一筋の径を上って行って見た。チャペルの方で鳴る鐘を聞きながらよく足立や菅と一緒に通った親しみのある古い講堂はもう無かった。そのかわりに新しい別の建築物があった。その建築物の裏側へ行って見た。そこに旧い記憶のある百日紅の樹を見つけた。岸本が外国の書籍に親しみ初めたのも、外国の文学や宗教を知り初めたのも、海の外というものを若い心に想像し初めたのも皆その岡の上であった。しばらく彼は新しい講堂の周囲を歩き廻った。彼はこの旧い馴染の土を踏んで、別れを告げて行こうとしたばかりではなかった。彼には遠い異郷の客舎の方で書きかけの自伝の一部の稿を継ごうと思う心があった。その辺をよく見て置いて、青年時代の記憶を喚起して行こうとしたからでもあった。日暮時の谷間の方から起って来る寺の鐘も、往時を思出すものの一つであった。その鐘の音は岸本の足を家の方へ急がせた。節子は夕飯の用意して叔父を待っていた。
四十
夕飯には家のもの一同別離の膳に就いた。食事する部屋の片隅には以前の住居の方から仏も移して持って来てあって、節子はそこへも叔父の出発の前夜らしく燈明を進げた。そのかがやきを見ても、二人の子供は何事も知らずにいた。食後に岸本は明るい仏壇の前へ子供を連れて行った。
「母さん、左様なら」
と岸本は子供等に言って見せた。あだかも亡くなった人にまで別れを告げるかのように。
「これが母さん?」
泉太の方が戯れるように言って、側に居る繁と顔を見合せた。
「そうサ。これがお前達の母さんだよ」
と岸本が言うと、二人の子供はわざと知らない振をして噴飯してしまった。
岸本は南向の部屋へ行っていそがしく出発前の準備に取掛った。書くべき手紙の数だけでも多かった。部屋には旅の鞄に詰めるものが一ぱいにひろげてあった。諸方から餞別として贈られた物も、異郷への土産として、出来るだけ岸本は鞄や行李の中に納れて行こうとした。
「明日は天気かナ」
と言いながら、岸本は庭に向いた硝子戸の方へ行って見た。雨戸を開けると、暗い樹木の間を通して、夜の空が彼の眼に映った。遠く光る星もあった。寒さと温暖さとの混合ったような空気は部屋の内までも流れ込んで来た。
「節ちゃん、春が来るね」
と岸本は旅支度の手伝いに余念もない節子の方を顧みて言った。節子は電燈のかげで白い襯衣の類なぞを揃えていたが、叔父と入替りに雨戸の方へ立って行った。
「今日は鶯が来て、しきりにこの庭で啼いていましたッけ」
と彼女は言って見せた。
遅くまで人通りの多い下町の方から移って来て見ると、浅草代地あたりでまだ宵の口かと思われた頃がその高台の上では深夜のように静かであった。屋外では音一つしなかった。以前の住居から持って来た古い柱時計の時を刻む音が際立って岸本の耳に聞えた。
「ほんとにこの辺は静かだね。山の中にでも居るようだね」
こう岸本は節子に話しかけながら、郊外らしい夜の静かさの中で、遠い旅立の支度を急いだ。岸本に取っては、めったに着たことの無い洋服をこれから先、身につけるというだけでも煩わしかった。彼は熱帯地方の航海のことなぞを想像して見て、その準備に思い煩った。
次第に夜は更けて行った。二人の子供の中でも、兄は早く眠った。弟の方は遅くまで眼を覚まして婆やを相手に子供らしい話をしていたが、やがてこれも寝沈った。
十二時打ち、一時打っても、まだ部屋の内はすっかり片付かなかった。「お前達はもう休んでおくれ」と岸本は節子や婆やに言った。「婆や、お前は明日の朝早い人だ。俺の方は構わなくても可い。遠慮しないでお休み」
「左様でございますか」と婆やは受けて、「ほんとに遠方へいらっしゃるというものは、御支度ばかりでも容易じゃござりません――旦那さん、それでは御先に御免蒙ります」
「節ちゃん、お前もお休み」
と岸本が言うと、節子の眼は涙でかがやいて来た。羅馬文字で岸本の名を記しつけた鞄を見るにつけても、悲しい叔父の決心を思いやるような女らしい表情が彼女の涙ぐんだ眼に読まれた。「叔父さん、お休み」それを言いながら、彼女は激しい啜泣と共に叔父の別離のくちびるを受けた。
四十一
翌日岸本は旅の荷物と一緒に旧の新橋停車場に近いある宿屋に移った。そこで日頃親しい人達を待った。入替り立替り訪ねて来る客が終日絶えなかった。中野の友人も来て、岸本の方から頼んで置いた茶と椿の実を持って来てくれた。岸本はその東洋植物の種子を異郷への土産として旅の鞄に納れて行こうとした。「こいつが生えて、大きくなるまでには容易じゃ有りませんね」と中野の友人が言って持前の高い響けるような声で笑ったが、この人の笑声も復た何時聞けるかと岸本には思われた。その日は彼は皆に酒を出した。
慨然として岸本は旅に上る仕度した。眠りがたい僅かの時間をすこしとろとろしたかと思ううちに、早や東京を出発する日が来ていた。その朝、彼が身につけたものは、旅らしい軽い帽子でも、新調の洋服でも、一つとして彼の胸の底に湛えた悲哀に似合っているものは無かった。曾て彼は身内のものが過って鍛冶橋の未決監に繋がれたことを思い出すことが出来る。その身内のものが手錠、腰繩の姿で、裁判所の庭を通り過ぎようとした時、冠っていた編笠のかげから黙って彼に挨拶した時のことを思出すことが出来る。丁度あの囚人の姿こそ自分で自分の鞭を受けようとする岸本の心には適わしいものであった。眼に見えない編笠。眼に見えない手錠。そして眼に見えない腰繩。実際彼は生きて還れるか還れないか分らない遠い島にでも流されて行くような心持で、新橋の停車場の方へ向って行った。
寒い細い雨はしとしと降っていた。旧い停車場の石階を上ると、見送りに来てくれた人達が早やそこにもここにも集っていた。
「お目出度うございます」
とある書店の主人が彼の側へ来て挨拶した。
「今日はお目出度うございます」
と大川端の方でよく上方唄なぞを聞かせてくれた老妓が彼の側へ来た。この人は自分より年若な夫の落語家と連立って来て、一緒に挨拶した。
「こりゃ、困ったなあ」
この考えが見送りに来てくれた人達に逢うと同時に、岸本の胸へ来た。思いがけない人達までが彼の出発を聞き伝えて、順に彼の方へ近づいて来た。
岸本は高輪の方から婆やに連れられて来た子供等に逢った。婆やは改まった顔付で、よそいきの羽織なぞを着て、泉太と繁とを引連れていた。
「お節ちゃんは今日はお留守居でございますッて」と婆やは岸本を見て言った。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、よく来たね」
岸本はかわるがわる二人の子供を抱きかかえた。泉太は眼を円くして父の周囲に集る人々を見廻していたが、やがて首を垂れて涙ぐんだ。その時になってこの兄の方の子供だけは、父が遠いところへ行くことを朦朧げながらに知ったらしかった。
四十二
田辺の弘は中洲の方から、愛子夫婦は根岸の方から、いずれも停車場まで岸本を見送りに来た。弘のよく肥った立派な体格は、別れを告げて行く岸本に取って、亡くなった恩人を眼のあたりに見るの思いをさせた。「叔父さん、今日はお目出度うございます」と愛子の夫も帽子を手にして挨拶した。この人といい、弘といい、岸本から見るとずっと年の違った人達が皆もう働き盛りの年頃に成っていた。次第に停車場へ集って来る人の中で岸本は白い立派な髯を生した老人を見つけた。その人が妻の父親であった。老人は岸本の外遊を聞いて、見送りかたがた函館の方から出て来てくれた。園子の姉とか妹とかいう人達までこの老人に托してそれぞれ餞別なぞを贈って寄してくれたことを考えても、思わず岸本の頭は下った。代々木、加賀町、元園町、その他の友人や日頃仕事の上で懇意にする人達も多くやって来てくれた。岸本はそれから人達の集っている方へも別れを告げに行った。
「この次は君の洋行する番だね」
と代々木の友人の前に立って話しかける人があった。
「そう皆出掛けなくても可いサ」
と代々木は笑って、快活な興奮した眼付で周囲に集って来る人達を眺めていた。
発車の時が近づいた。つと函館の老人は岸本の側へ寄った。
「私はここで失礼します。そんならまあ御機嫌よう」
改札口の柵の横手で、老人は岸本の方をよく見て言った。他の人と同じように入場券を手にしないところにこの老人の気質を示していた。
五六人の友人は岸本と一緒に列車の中へ入った。岸本が車窓から顔を出した時は、日頃親しい人達ばかりでなく、彼の著述の一冊も読んで見てくれるような知らない年若な人達までがそこに集まって来ていた。多くの人の中を分けて窓際へ岸本を捜しに来た美術学校のある教授もあった。
「仏蘭西の方へ御出掛だそうですね――私は御立の日もよく知りませんでした。今朝新聞を見て急いでやって来ました」
「ええ、君の御馴染の国へ行ってまいりますよ」
岸本はその窓際で、少年時代から知合っている画家とあわただしい別れの言葉を交した。
「岸本さん、もうすこし顔をお出しなすって下さい。今写真を撮りますから」
という声が新聞記者の一団の方から起った。岸本は出したくない顔を余儀なく窓の外へ出した。
「どうぞ、もうすこしお出しなすって下さい。それでは写真がよく写りません」
パッと光る写真器の光の中に、岸本は恥の多い顔を曝した。
「泉ちゃん、繁ちゃん――左様なら」
と岸本が婆やに連れられている二人の子供の顔を見ているうちに、汽車は動き出した。岸本は黙って歩廊に立つ人々の前に頭をさげた。
「大変な見送りだね。こんなに人の来てくれるようなことはわれわれの一生にそうたんと無い。まあ西洋へでも行く時か、お葬式の時ぐらいのものだね」
一緒に乗込んだ加賀町は高級な官吏らしい調子で言って、窓際に立ちながら岸本の方を見た。全く、岸本に取っては生きた屍の葬式が来たにも等しかった。
四十三
到頭岸本は幼い子供等を残して置いて東京を離れた。元園町、加賀町、森川町、その他の友人は品川まで彼を見送った。代々木の友人は別れを惜んで、ともかくも鎌倉まで一緒に汽車で行こうと言出した。鎌倉には岸本を待つという一人の友人もあったからで。
汽車は鶴見を過ぎた。しとしと降る雨は硝子窓の外を伝って流れていた。その駅にも、岸本は窓から別れを告げて行こうとした知合の人があったが、果さなかった。硝子に映ったり消えたりする駅夫も、乗降する客も、しょんぼりと小さな停車場の歩廊に立つ人も、一人として細い雨に濡れて見えないものは無かった。
鎌倉で岸本を待っていたのは、信濃の山の上に彼が七年も暮した頃からの志賀の友人で、この人の細君や、細君の叔母さんに当る人は園子の友達でもあった。この特別な親しみのある人は神戸行の途中で岸本を引留めて、小半日代々木とも一緒に話し暮したばかりでなく、別離の意を尽すために鎌倉から更に箱根の塔の沢までも先立って案内して行った。旅の途中の小さな旅の楽しさ、塔の沢へ行って見る山の裾の雪、青木や菅や足立などと曾て遊んだことのある若かった日までも想い起させるような早川の音、それらの忘れ難い印象が誰にも言うことの出来ない岸本の心の内部の無言な光景と混合った。
代々木、志賀の親しい友達を前に置いて、ある温泉宿の二階座敷で互に別れの酒を酌みかわした時にも、岸本は何事も訴えることが出来なかった。箱根の山の裾へ来て聞く深い雨とも、谷間を流れ下る早川の水勢とも、いずれとも差別のつかないような音に耳を傾けながら、岸本は僅に言出した。
「僕もね……まあ深い溜息の一つも吐くつもりで出掛けて行って来ますよ……」
「そうだねえ、一切のものから離れて、溜息でも吐きたいと思う心持は僕にも有るよ」
そういう代々木の眼は輝いていた。志賀はまた思いやりの深い調子で、岸本の方を見ながら、
「奥さんのお亡くなりに成ったということから、仏蘭西あたりへお出掛けに成るようなお考えも生れて来たんでしょう」
「とにかく、一年でも二年でも、旅でゆっくり本の読めるだけでも羨ましい。加賀町なぞも君の仏蘭西行には大分刺激されたようだ」
と復た代々木が言って、「しばらくお別れだ」という風に岸本のために酒を注いだ。
その日、岸本はさかんな見送りを受けて東京を発って来た朝から、冷い汗の流れる思をしつづけた。余儀ない旅の思立から、身をもって僅に逃れて行こうとするような彼は、丁度捨て得るかぎりのものを捨て去って「火焔の家」を出るという憐れむべき発心者にも彼自身を譬えたいのであった。こうした出奔が同年配の友人等を多少なりとも刺激するということは、彼に取って実に心苦しかった。彼は何とも自身の位置を説明しようが無くて、以前に仙台や小諸へ行ったと同じ心持で巴里の方へ出掛けて行くというに留めて置いた。
酒に趣味を有ち、旅に趣味を有つ代々木は、岸本の所望で、古い小唄を低声に試みた。復た何時逢われるかと思われるような友人の口から、岸本は好きな唄の文句を聞いて、遠い旅に行く心を深くした。
四十四
二人の友人と連立って岸本が塔の沢を発ったのは翌日の午後であった。国府津まで来て、そこで岸本は代々木と志賀とに別れを告げた。やがてこの友人等の顔も汽車の窓から消えた。その日の東京の新聞に出ていた新橋を出発する時の自分に関する賑かな記事を自分の胸に浮べながら、岸本は独り悄然と西の方へ下って行った。
マルセエユ行の船を神戸で待受ける日取から言うと、岸本はそれほど急いで東京を離れて来る必要も無いのであった。唯、彼は節子の母親にどうしても合せる顔が無くて、嫂の上京よりも先に神戸へ急ごうとした。仮令彼は神戸へ行ってからの用事にかこつけて、郷里の方の嫂宛に詫手紙を送って置いたにしても。また仮令嫂が上京の費用等は彼の方で用意することを怠らなかったとしても。
神戸へ着いてから四五日経つと、岸本は節子からの手紙を受取った。それは岸本から出した手紙の返事として寄したものであったが、子供等の無事なことや留守宅の用事のようなことばかりでなく、もっと彼女の心に立入ったことがその中に書いてあった。
神戸の港町から諏訪山の方へ通う坂の途中に見つけた心持の好い旅館の二階座敷で、彼はその手紙を読んで見た。すくなくも節子に起って来た不思議な心の変化がその中に書きあらわしてあった。過ぐる四五箇月の間、ある時は恐怖をもって、ある時は強い憎みをもって、ある時はまた親しみをもって叔父に対して来たような動揺した心の節子に比べると、その中には何となく別の節子が居た。岸本は自分の遠い旅に上って来たことから、何か急激な変化が不幸な姪の心に展けて来たことを感じない訳にいかなかった。
猶よくその手紙を繰返して見た。節子は岸本の方から詫びてやった一切の心持を――彼女に対して気の毒がる一切の心持を打消してよこした。今日までを考えると、どうして自分はこんなことに成って来たか、それを思うと自分ながら驚かれると書いてよこした。矢張自分は誘惑に勝てなかったのだと思うと書いてよこした。しかしこの世の中には、人情の外の人情というようなものがある、それを自分は思い知るように成って来たと書いてよこした。何故叔父さんの手紙には、「お前さん」というような、よそよそしい言葉で自分のことを呼んでくれるか、「お前」で沢山ではないかと書いてよこした。叔父さんの新橋を発つ朝、自分は高輪の家の庭先から品川の方に起る汽車の音を聞いて、あの音が遠く聞えなくなるまで何時までも同じところにボンヤリ佇立んでいたと書いてよこした。叔父さんの残して行った本箱、叔父さんの残して行った机、何一つとして叔父さんのことを想い起させないものは無い、自分は今机や本箱の置いてある部屋を歩いて見ていると書いてよこした。叔父さんが外遊の決心を聞いてから、自分はかずかずの話したいと思うことを有っていたが、どうしてもそれが自分には出来なかったとも書いてよこした。
四十五
節子の手紙を手にして見ると、彼女と共に恐怖を分ち、彼女と共に苦悩を分った時の心持はまだ岸本から離れなかった。
「ああ、酷かった。酷かった」
岸本はそれを言って見て周囲を見廻した。親戚も、友人も、二人の子供も最早彼の側には居なかった。唯一人の自分を神戸の宿屋に見つけた。彼は漸くのことでその港まで落ちのびることの出来た嵐の烈しさを想って見て、思わずホッと息を吐いた。
いかに節子の方から打消してよこそうとも、彼女の一生を過らせ、同時に拭いがたい汚点を自身の生涯に留めてしまったような、深い悔恨の念は岸本の胸を去るべくもなかった。その日まで彼が節子のために心配し、出来るだけ彼女をいたわり、留守中のことまで彼女のために考えて置いて来たというのは、どうかして彼女を破滅から救いたいと思うからであった。頑な心の彼は節子から言ってよこしたことに就いては、何事も答えまいと考えた。
四月に入って節子は母の上京を知らせてよこした。岸本は胸を震わせながらその手紙を読んで見て、彼女の母と祖母とまだ幼い弟とが無事に高輪へ着いたことを知った。節子の一人ある弟は丁度岸本の二番目の子供と同年ぐらいであった。郷里から家を畳んで出て来たそれらの家族を節子は品川の停車場まで迎えに行ったことを書いてよこした。母も年をとった、と彼女は書いてよこした。年老いた祖母や母を眼のあたりに見るにつけても自分は余程しっかりしなければ成らないと思うと書いてよこした。過ぐる月日の間、自分に附纏う暗い影は一日も自分から離れることが無かったが、今はその暗い影も離れたと書いてよこした。そして自分は年寄や子供のために、もっと働かねば成らないと思って来たと書いてよこした。
この節子の手紙には岸本の身に浸みるような、かずかずの細いことが書いてあった。その中には、女らしい彼女の性質までもよく表れていた。岸本は、普通の身でない彼女が上京した母親と一緒に成った時のことを胸に描いて見た。その時の彼女の小さな胸の震えを、何時でも割合に冷静を失うことのない彼女の態度を――何もかも、岸本はありありと想像で見ることが出来た。あの嫂が高輪の留守宅を見た時は、あの嫂が節子と子供を残して置いて海の外へ行こうとする自分の意味を読んだ時は、それを考えると岸本は自分の顔から火の出るような思いをした。
神戸へ来て、是非とも岸本の為なければ成らないことは、名古屋に滞在する義雄兄へ宛てた書きにくい手紙を書くことであった。彼はその一通を残して置いて独りで船に乗ろうとした。幾度か彼は節子のことを兄に依頼して行くつもりで、紙をひろげて見た。その度に筆を捨てて嘆息してしまった。
東京の方にあるクック会社の支店からは、岸本が約束して置いて来た仏蘭西船の切符に添えて、船床の番号までも通知して来た。宿屋の二階座敷から廊下のところへ出て見ると、神戸の港の一部が坂になった町の高い位置から望まれた。これから出て行こうとする青い光った海も彼の眼にあった。
四十六
「名古屋から岸本さんという方が御見えでございます」
宿屋の女中が岸本のところへ告げに来た。丁度彼はインフルエンザの気味で、神戸を去る前に多少なりとも書いて置いて行きたいと思う自伝の一節も稿を続げないでいるところであった。義雄兄の来訪と聞いて、急いで彼は寝衣の上に羽織を重ねた。敷いてある床も部屋の隅へ押しやった。もしもインフルエンザの気味ででもなかったら、隠しようの無いほど彼の顔色は急に蒼ざめた。義雄兄は岸本の出発前に名古屋から彼を見に来たのであった。
「弟が外国へ行くというのに、手紙で御別れも酷いと思ってね。それに神戸には用事の都合もあったし、一寸やって来た」
こうした兄の言葉を聞くまでは岸本は安心しなかった。
「や――時に、引越も無事に済んだ。一軒の家を動かすとなるとなかなか荷物もあるもんだよ。貴様の方からの注意もあったし、まあ大抵の物は郷里の方へ預けることにして、要る物だけを荷造りして送った。俺も名古屋から出掛けて行ってね。すっかり郷里の方の家を片付けて来た。『捨様も外国の方へ行かっせるッて――子供を置いて、よくそれでも思切って出掛る気に成らッせいたものだ』なんて、田舎の者が言うから、人間はそれくらいの勇気がなけりゃ駄目だッて俺がそう言ってやった」
義雄は相変らずの元気な調子で話した。次第に岸本の頭は下って行った。彼は兄の言うことを聞きながら自分の掌を眺めていた。
「俺の家でも皆東京へ出ると言うんで、村のものが送別会なぞをしてくれたよ。嘉代(節子の母)もね、なんだか気の弱いことを言ってるから、そんなことじゃダチカン。兄弟が互いに助け合うというのはわれわれ岸本の家の祖先からの美風ではないか。それに捨吉の方ばかりじゃない、俺の家でもこれから発展しようというところだ。そう言って俺が嘉代を励ましてやった。まあ見ていてくれ、貴様が仏蘭西の方へ行って帰って来るまでには、俺も大いに雄飛するつもりだ――」
気象の烈しい義雄がこんな風に話すところを聞いていると、とても岸本は弟の身として節子のことなぞを言出す機会は無いのであった。義雄は神戸まで来て弟の顔を見て行けば、それで気が済んだという風で、用事の都合からそうゆっくりもしていなかった。この時機を失っては成らない。こう命ずるような声を岸本は自分の頭脳の内で聞いた。彼は立ちかける兄の袖を心では捉えながらも、何事も言出すことが出来なかった。
到頭岸本は言わずじまいに、兄に別れた。彼は嫂に一言の詫も言えず、今また兄にも詫ることの出来ないような自分の罪過の深さを考えて、嘆息した。
四十七
神戸の宿屋で岸本は二週間も船を待った。その二週間が彼に取っては可成待遠しかった。隠して置いて来た節子と彼との隔りは既に東京と神戸との隔りで、それだけでも彼女から離れ遠ざかることが出来たようなものの、眼に見えない恐ろしさは絶えず彼を追って来た。今日は東京の方から何か言って来はしまいか、明日は何か言って来はしまいか、毎日々々その心配が彼の胸を往来した。しかし彼は二週間の余裕を有った御蔭で、東京の方では書けなかった手紙も書き、急いだ旅の支度を纏めることも出来た。その間に、大阪へ用事があって序に訪ねて来たという元園町の友人を、もう一度神戸で見ることも出来た。彼は東京の留守宅から来た自分の子供の手紙をも読んだ。
「父さん。こないだは玉子のおもちゃをありがとうございました。わたしも毎日学校へかよって、べんきょうしています。フランスからおてがみを下さい。さよなら――泉太」
これは岸本が志賀の友人に托して、箱根細工の翫具を留守宅へ送り届けたその礼であった。手伝いする人があって漸く出来たような子供らしいこの手紙は、泉太が父に宛てて書いた初めての手紙で、学校の作文でも書くように半紙一ぱいに書いてあった。子供に勧めてこういうものを書かして寄したらしい節子の心持も思われて岸本は唯々気の毒でならなかった。
海は早や岸本を呼んでいた。出発前に節子から来た便りには、遠く叔父の船に乗るのを見送るという短い別れの言葉が認めてあった。岸本の胸はこれから彼が出て行こうとする知らない異国の想像で満たされるように成った。彼は神戸へ来た翌日、海岸の方へ歩き廻りに行って、図らず南米行の移民の群を見送ったことを思出した。幾百人かのそれらの移住者の中には「どてら」に脚絆麻裏穿きという風俗のものがあり、手鍋を提げたものがあり、若い労働者の細君らしい人達まで幾人となくその中に混っていたことを思出した。彼はまた、今まで全く気がつかずにいた自分の皮膚の色や髪の毛色のことなどを妙に強く意識するように成った。
出発の日が迫った。いつの間にか新聞記者の一団が岸本の宿屋を見つけて押掛けて来た。
「どうもこういうところに隠れているとは思わなかった」
と記者の一人が岸本を前に置いて、他の記者と顔を見合せて笑った。
この避けがたい混雑の中で、岸本は思いもよらない台湾の兄の来訪を受けた。
「や、どうも丁度好いところへやって来た。船の会社の人がお前の宿屋を教えてくれた」
と民助が言った。
この長兄は台湾の方から上京する途中にあるとのことであった。それを岸本の方でも知らなかった。兄弟は偶然にも幾年振りかで顔を合せることが出来た。
鈴木の兄に比べると、民助はもっと熱い地方の日に焼けて来た。健康そのものとも言いたいこの長兄は身体までもよく動いて、六十歳に近い人とは受取れないほどの若々しさと好い根気とをも有っていた。多年の骨折から漸く得意の時代に入ろうとしている民助の前に、岸本は弟らしく対い合った。つくづく彼は自分の精神の零落を感じた。
四十八
岸本の船に乗るのを見送ろうとして、番町は東京から、赤城は堺の滞在先から、いずれも宿屋へ訪ねて来た。いよいよ神戸出発の日が来て見ると、二十年振りで御影の方から岸本を見に来た二人の婦人もあった。その一人は夫という人に伴われて来た。岸本がまだ若かった頃に、曾て東京の麹町の方の学校で勝子という生徒を教えたことがある。彼が書きかけている自伝の一節は長い寂しい道を辿って行ってその勝子に逢うまでの青年時代の心の戦いの形見である。訪ねて来た二人の婦人は丁度勝子と同時代に岸本が教えた昔の生徒であった。勝子は若かった日の岸本と殆んど同じ年配で、学校を出て許嫁の人と結婚してから一年ばかりで亡くなったのであった。
「先生はもっと変っていらっしゃるかと思った」
そういう昔の生徒は早や四十を越した婦人であった。
思いがけない人達を見たという心持で、岸本は兄と一緒にそれらの客を款待したり出発の用意をしたりした。時には彼は独りで座敷の外へ出て二階の縁側から見える港の空を望んだ。別れを告げて行こうとする神戸の町々には、もう彼岸桜の春が来ていた。
約束して置いた仏国の汽船は午後に港に入った。外国の旅に慣れた番町は町へ出て、岸本のために旅費の一部を仏蘭西の紙幣や銀貨に両替して来るほどの面倒を見てくれた。仏蘭西の知人に紹介の手紙をくれたり、巴里へ行ってからの下宿なぞを教えてくれたりしたのもこの友人であった。番町はそこそこに支度する岸本の方を眺めて、旅慣れない彼を励ますような語気で、
「岸本さんと来たら、随分手廻しの好い方だからねえ」
「これでも手廻しの好い方でしょうか――」と岸本は番町にそう言われたことを嬉しく思った。
「好い方ですとも。僕なぞが外国へ行く時は、鞄でも何でも皆人に詰めて貰ったものですよ」
「なにしろ私は一人ですし、どうにかこうにか要るものだけの物を揃えました」
こう言う岸本の側へは民助兄が立って来て、遠く行く弟のために不慣な洋服を着ける手伝いなぞをしてくれた。
「兄さん、私はあなたに置いて行くものが有ります」と言いながら岸本は一つの包を兄の前に差出した。「この中に、お母さんの織った袷が入っています。外国へ行って部屋着にでもする積りで、東京からわざわざ持って来たんです。いかに言っても鞄が狭いものですから、これはあなたに置いて行きましょう」
「そいつは好いものをくれるナ」と民助も悦んだ。「お母さんのものは何物も最早俺のところには残っていない」
「私のところにも、その袷がたった一枚残っていました。でも随分長いこと有りました。十何年も大切にして置いて、毎年袷時には出して着ましたが、まだそっくりしています。木綿に糸がすこし入っていて私の一番好きな着物です。惜しいけれども仕方が無い。まあ、これは兄さんの方へ進げる」
「じゃ、俺がまた貰っといて着てやるわい」
兄弟はこんな言葉をかわした。岸本はその母の手織にしたものを形見として兄に残して置いて、すっかり旅人の姿になった。
四十九
隠れた罪を犯したものの苦難を負うべき時が来た。ひょっとするとこれを神戸の見納めとしなければ成らないような遠い旅に上るべき時が来た。そろそろ夕飯時に近い頃であった。船まで見送ろうという友人や民助兄と連立って岸本は宿屋を出た。御影から来た二人の婦人も岸本に随いて歩いて来た。
長い坂になった町が皆の眼にあった。一同はその坂を下りたところで物食う場処を探した。ある料理屋の前まで行くと、二人の婦人はそこで岸本に別れを告げた。友人等の案内で、岸本はその料理屋の一間に互いに別れの酒を酌みかわした。弟の外遊を何か誉あることのようにして盃をくれる民助兄に対しても、わざわざ堺から逢いに来てくれた赤城に対しても、初めて顔を合せた御影に対しても、それから番町のような友人に対しても、岸本はそれぞれ別の意味で羞恥の籠った感謝の盃を酬いた。
やがてその料理屋を出た頃は日もすっかり暮れていた。全く言葉の通じない仏蘭西船に上るということは、それだけでも酷く岸本の心を不安にした。町々を包む夜の闇はひしひしと彼の身に迫って来た。
「言葉が通じないというのも、旅の面白味の一つじゃ有りませんか」
この番町の言葉に励まされて、岸本は皆と一緒に波止場の方へ歩いて行った。神戸を去る前に、彼は是非とも名古屋の義雄兄に宛てた手紙を残して行くつもりで、幾度かあの宿屋の二階でそれを試みたか知れなかった。どうしても、その手紙は彼には書けなかった。彼はどういう言葉でもって自分の心を言いあらわして可いかを知らなかった。そこには言葉も無かった。仕方なしに船に乗ってから書くことにして、到頭彼はその手紙を残さずにランチに乗移った。
暗い海上に浮ぶ本船へは、友人や兄などの外に岸本を見送ろうとする二三の年若な人達もあった。岸本が二週間あまり世話になった宿屋のかみさんも女中を連れて、外国船の模様を見ながら彼を送りに来た。このかみさんは旅の着物のほころびでも縫えと言って、紅白の糸をわざわざ亭主と二人して糸巻に巻いて、それに縫針を添えて岸本に餞別としたほど細く届いた上方風の婦人であった。かねて岸本は独りでこの仏蘭西船に身を隠し、こっそりと故国に別れを告げて行くつもりであった。その心持から言えば、こうした人達に見送らるることは聊か彼の予期にそむいた。まばゆく電燈の点いた二等室の食堂に集って、皆から離別を惜まれて見ると、遠い前途の思いが旅慣れない岸本の胸に塞った。
ランチの方へ引揚げて行く人達を見送るために、岸本は複雑な船の構造の間を通りぬけて甲板の上へ出た。友人等は船の梯子に添うて順に元来たランチの方へ降りて行った。やがて暗い波間から岸本を呼ぶ一同の声が起った。ランチは既に船から離れて居た。岸本はその声を聞こうとして、高い甲板の上のギラギラと光った電燈の影を狂気のように走り廻った。
岸本を乗せた船は夜の十一時頃に港を離れた。もう一度彼が甲板の上に出て見た時は空も海も深い闇に包まれていた。甲板の欄に近く佇立みながら黙って頭を下げた彼は次第に港の燈火からも遠ざかって行った。
五十
三日目に岸本は上海に着いた。船に乗ってから書こうと思った義雄兄への手紙は上海への航海中にも書けなかった。
嘆息して、岸本は後尾の方にある甲板の上へ出た。更に船梯子を昇って二重になった高い甲板の上へ出て見た。船客もまだ極く少い時で、その高い甲板の上には独りで寂しそうに海を眺めている長い髯を生した一人の仏蘭西人の客を見つけるぐらいに過ぎなかった。岸本は艫の方の欄に近く行った。そこから故国の方の空を望んだ。仏国メサジュリイ・マリチイム会社に属するその汽船は四月十三日の晩に神戸を出て十五日の夜のうちには早や上海の港に入った程の快よい速力で、上海から更に香港へ向け波の上を駛りつつある時であった。遠く砕ける白波は岸本の眼にあった。その眺めは、国の方で別れて来た人達と彼自身との隔たりを思わせた。一日は一日よりそれらの人達から遠ざかり行くことをも思わせた。あの東京浅草の七年住慣れた住居の二階から、あの身動きすることさえも厭わしく思うように成った壁の側から、ともかくもその波の上まで動くことが出来た不思議をも胸に浮べさせた。彼は深林の奥を指して急ぐ傷いた獣に自分の身を譬えて見た。
海風の烈しさに、岸本は高い甲板を離れた。船梯子に沿うて長い廊下を見るような下の甲板に降りた。そこにも一人二人の仏蘭西人の客しか見えなかった。明るい黄緑な色の海は後方にして出て来た故国の春の方へ岸本の心を誘った。彼は上海の方で見て来た李鴻章の故廟に咲いた桃の花がそこにも春の深さを語っていたことを胸に浮べた。その支那風な濃い花の姿は日頃花好きな姪にでも見せたいものであったことを胸に浮べた。彼はまた、上海へ来るまでの途中で、どれ程彼女の父親に宛てようとした一通の手紙のために苦しんだかを胸に浮べた。神戸の宿屋で義雄兄から彼が受取った手紙の中には、兄その人も彼の外遊から動かされたと書いてあったことを胸に浮べた。その手紙の中には、恐らく露領の方にある輝子の夫もこれを聞いたなら刺激を受くるであろうと思うと書いてあったことを胸に浮べた。そうした手紙をくれるほどの兄の心を考えると、節子の苦しんでいることに就いて岸本の方から書き得る言葉も無かったのである。
香港を指して進んで行く船の煙突からは、さかんな石炭の煙が海風に送られて来て、どうかすると波の上の方へ低く靡いた。岸本は香港から国の方へ向う便船の日数を考えた。嫂が節子と一緒になってから既に十八九日の日数が経つことをも考えた。否でも応でも彼は香港への航海中に書きにくい手紙を書く必要に迫られた。その機会を失えば、次の港は仏領のセエゴンまでも行かなければ成らなかった。
五十一
船室に行って岸本は旅の鞄の中から手紙書く紙を取出した。セエゴンから東の港は乗客も少いという仏蘭西船の中で、六つ船床のある部屋を岸本一人に宛行われたほどのひっそりとした時を幸いにして、彼は国の方に残して行く義雄兄宛の手紙を書こうとした。円い船窓に映る波の反射は余計にその部屋を静かにして見せた。彼は波に揺られていることも忘れて書いた。この手紙は上海を去って香港への航海中にある仏蘭西船で認めると書いた。神戸を去る時に書こうとしても書けず、余儀なく上海から送るつもりでそれも出来なかった手紙であると書いた。自分が新橋を出発する時も、神戸を去る時も、思いがけない見送りなどを受けたのであるが、それにも関らず自分は悄然として別れを告げて来たものであると書いた。何故に自分が母親のない子供等を残してこうした旅に上って来たか、その自分の心事は誰にも言わずにあるが、大兄だけにはそれを告げて行かねば成らないと書いた。多くの友人も既にこの世を去り、甥も妻も去った中で、自分のようなものが生き残って今また大兄にまで嘆きをかける自分の愚かしい性質を悲しむと書いた。自分は弟の身として、大兄の前にこんなことの言えた訳ではないが、忍び難いのを忍ぶ必要に迫られたと書いた。自分が責任をもって大兄から預かった節子は今はただならぬ身であると書いた。それが自分の不徳の致すところであると書いた。自分の旧い住居の周囲は大兄の知らるるごとくであって、種々な交遊の関係から自然と自分も酒席に出入したことはあるが、そのために身を過つようなことは無かったと書いた。その自分がこうした恥の多い手紙を書かなければ成らないと書いた。今から思えば、自分が大兄の娘を預かって、すこしでも世話をしたいと思ったのが過りであると書いた。実に自分は親戚にも友人にも相談の出来ないような罪の深いことを仕出来し、無垢な処女の一生を過り、そのために自分も曾て経験したことの無いような深刻な思を経験したと書いた。節子は罪の無いものであると書いた。彼女を許して欲しいと書いた。彼女を救って欲しいと書いた。家を移し、姉上の上京を乞い、比較的に安全な位置に彼女を置いて来たというのも、それは皆彼女のために計ったことであると書いた。この手紙を受取られた時の大兄の驚きと悲しみとは想像するにも余りあることであると書いた。とても自分は大兄に合せ得る顔を有つものでは無いと書いた。書くべき言葉を有つものでも無いと書いた。唯、節子のためにこの無礼な手紙を残して行くと書いた。自分は遠い異郷に去って、激しい自分の運命を哭したいと思うと書いた。義雄大兄、捨吉拝と書いた。
五十二
三十七日の船旅の後で、岸本は仏蘭西マルセエユの港に着いた。
「あのプラタアヌの並木の美しいマルセエユの港で、この葉書を受取って下さるかと思うと愉快です」
こうした意味の葉書を岸本はその港に着いて読むことが出来た。船の事務長が岸本の名を呼んでその葉書を渡してくれた。多くの仏蘭西人の船客の中でも、便りの待遠しいその港で葉書なり手紙なりを受取るものは稀であった。岸本が神戸を去る時船まで見送って来た番町の友人がその葉書を西伯利亜経由にして、東京の方から出して置いてくれたからで。
初めて欧羅巴の土を踏んだ岸本は、上陸した翌日、マルセエユの港にあるノオトル・ダムの寺院を指して崖の間の路を上って行った。その時は一人の旅の道連があった。コロンボの港(印度、錫蘭)からポオト・セエドまで同船した日本の絹商で、一度船の中で手を分った人に岸本は復たその港で一緒に成ったのであった。絹商は倫敦まで行く人で外国の旅に慣れていた。御蔭と岸本は好い案内者を得た。高い崖に添うて日のあたった路を上りきると、古い石造の寺院の前へ出た。欧羅巴風な港町の眺望は崖の下の方に展けた。
海は遠く青く光った。その海が地中海だ。ポオト・セエドからマルセエユの港まで乗って来る間で、一日岸本が高い波に遭遇った地中海だ。眼の下にある黄ばみを帯びた白い崖の土と、新しい草とは、一層その海の色を青く見せた。岸本は自分の乗って来た二本煙筒の汽船が波止場近くに碇泊しているのをその高い位置から下瞰して、実にはるばると旅して来たことを思った。
寺院の入口に立つまだ年若な一人の尼僧が岸本に近づいた。遠く東洋の空の方から来た旅人としての彼を見て何か寄附でも求めるらしく鉄鉢のかたちに似た器を差出して見せた。その尼僧は仏蘭西人だ。一人の乞食が石段のところに腰を掛けていた。その乞食も仏蘭西人だ。岸本は絹商と連立って寺院の入口にある石段を昇って見た。入口の片隅には、故国の方の娘達にしても悦びそうな白と薄紫との木製の珠数を売る老婆があった。その老婆も仏蘭西人だ。岸本は本堂の天井の下に立って見た。薄暗い石の壁の上には、航海者の祈願を籠めて寄附したものでもあるらしい船の図の額が掛っていた。寺院の番人に案内されて、更に奥深く行って見た。彩硝子の窓から射し入る静かな日の光は羅馬旧教風な聖母マリアの金色の像と、その辺に置いてある古めかしく物錆びた風琴などを照して見せた。その番人も仏蘭西人だ。そこはもう岸本に取って全く知らない人達の中であった。
あわただしい旅の心持の中でも、香港から故国の方へ残して置いて来た手紙のことは一日も岸本の心に掛らない日は無かった。その晩の夜行汽車で、彼は絹商と一緒に巴里へ向けて発った。
五十三
遠く目ざして行った巴里に岸本が入ったのは、船から上って四日目の朝であった。彼は巴里までの途中で同行の絹商と一緒に一日をリヨンに送って行った。ガール・ド・リヨンとは初て彼が巴里に着いた時の高い時計台のある停車場であった。そこで彼は倫敦行の絹商に別れ、辻馬車を雇って旅の荷物と一緒に乗った。晴雨兼帯とも言いたい馬丁の冠った高帽子まで彼にはめずらしい物であった。彼は右を見、左を見して、初めてセエヌ河を渡った。まだ町々の響も喧しくない五月下旬の朝のうちのことで、マルセエユやリヨンで見て行ったと同じプラタアヌの並木が両側にやわらかい若葉を着けた街路の中を乗って行った時は、馬丁の鳴らす鞭の音や石道を踏んで行く馬の蹄の音まで彼の耳に快よく聞えた。
巴里の天文台に近い並木街の一角にある下宿が岸本を待っていた。その辺の往来には朝通いらしい人達、労働者、牛乳の壜を提げた娘、野菜の買出しに出掛ける女連なぞが岸本の眼についた。下宿の女中と家番のかみさんとが来て彼の荷物を運んでくれたが、言葉は一切通じなかった。彼は七層ばかりある建築物の内の第一階の戸口のところで、年とった壮健そうな婦の赤黒い朝の寝衣のままで出て迎えるのに逢った。その人が下宿の主婦であった。この主婦の言うことも岸本には通じなかった。
客扱いに慣れたらしい主婦は一人の日本人を岸本のところへ連れて来た。その下宿に泊っている留学生で、かねて岸本は番町の友人から名前を聞いて来た人だ。長く外国生活をして来た人らしいことは一目見たばかりで岸本にも直にそれと分った。岸本は巴里へ来て最初に逢ったこの留学生から下宿の主婦の言おうとすることを聞取った。部屋へも案内された。
留学生は食事の時間なぞを岸本に説明して聞かせた後で言った。
「この主婦が君にそう言って下さいッて――『寝衣のままで大変失礼しました、いずれ着物を着更えてから改めて御挨拶します』ッて。君の着くのが今朝早かったからね」
それを聞いていた主婦は留学生と岸本の顔を見比べて、
「お解りでございましたか」
という風に、両手を岸本の方へひろげて見せた。
独りで部屋に残って見ると、まだ岸本には船にでも揺られているような長道中の気持が失せなかった。旅慣れない彼に取っては、外国人ばかりの中に混って航海を続けて来たというだけでも一仕事であった。熱帯の光と熱とは彼の想像以上であった。その色彩も夢のようであった。時には彼は自分独りぎめに「海の砂漠」という名をつけて形容して見たほど、遠い陸は言うに及ばず、船一艘、鳥一羽、何一つ彼の眼には映じない広い際涯の無い海の上で、その照光と、その寂寞と、その不滅とを味って来たこともあった。印度洋にさしかかる頃から船客はいずれも甲板の上に出て眠ったが、彼も欄近く籐椅子を持出して暗い波を流れる青ざめた燐の光を眺めながら幾晩か眠り難い夜を過したこともあった。船は紅海の入口にあたる仏領ジュプティの港へも寄って石炭を積んで来た。スエズで望んで来た小亜細亜と亜弗利加の荒原、ポオト・セエドを離れてから初めて眺めた地中海の波、伊太利の南端――こう数えて見ると、遠く旅して来た地方の印象が実に数限りもなく彼の胸に浮んで来た。
五十四
新しい言葉を学ぶことによって、岸本は心の悲哀を忘れようと志した。同宿の留学生が天文台の近くに住む語学の教師を彼に紹介した。その人は巴里に集る外国人を相手に仏蘭西語を教えて、それを糊口としているような年とった婦人であったが、英語で講釈をしてくれるので岸本には好都合であった。取りあえず、彼は語学の教師の許に通うことを日課の一つとした。
こうして故国の消息を待つうちに、西伯利亜経由とした義雄兄からの返事が届いた。思わず岸本の胸は震えた。兄は東京の留守宅の方から書いてよこした。お前が香港から出した手紙を読んで茫然自失するの他はなかったと書いてよこした。十日あまりも考え苦しんだ末、適当な処置をするために名古屋から一寸上京したと書いてよこした。お前に言って置くが、出来たことは仕方がない、お前はもうこの事を忘れてしまえと書いてよこした。
兄はまた、これは誰にも言うべき事でないから、母上はもとより自分の妻にすらも話すまいと決心したと書いてよこした。嘉代(嫂)には、吉田某というものがあったことにして置くと書いてよこした。その某は例の人を捨てて行方不明であるということにして置くと書いてよこした。実は嘉代も今妊娠中であると書いてよこした。のみならず輝子も近いうちに帰国して、国の方でお産をしたいと言って来たと書いてよこした。この輝子の帰国がかちあえば事は少し面倒であると書いてよこした。しかし世の中のことは、曲りなりにもどうにか納りの着くものであると書いてよこした。当方一同無事、泉太も繁も元気で居ると書いてよこした。お前は国の方のことに懸念しないで、専心にそちらで自分の思うことを励めと書いてよこした。
岸本は人の知らない溜息を吐いた。仏蘭西語の読本を小脇に擁えて下宿を出、果実なぞの並べてある店頭を通過ぎて並木街の電車路を横ぎり、産科病院の古い石の塀について天文台の前を語学の教師の家の方へと折れ曲って行った。そして語学の稽古を受けた後で、天文台の前の並木のかげあたりに遊んでいる少年を見るにつけても国の方の自分の子供のことを思いやりながら、復た同じ道を下宿の方へ帰って行った。その年齢になって、四十の手習を始めたことを感じながら。
幾度か岸本は兄から来た手紙を取出して、繰返し読んで見た。「お前はもうこの事を忘れてしまえ」と言った兄の心持に対しては、彼は心から感謝しなければ成らなかった。東京から神戸までも、上海までも、香港までも――どうかすると遠く巴里までも追って来た名状しがたい恐怖はその時になっていくらか彼の胸から離れた。そのかわり、兄に手伝って貰って人知れず自分の罪を埋めるという空恐しさは、自分一人ぎりで心配した時にも勝って、何とも言って見ようの無い暗い心持を起させた。兄の手紙には「例の人」とあるだけで、節子の名を書きあらわすことすら避けてある。彼は母や姉と同時に普通ならぬ身であるという彼女を想像した。
五十五
間もなく岸本は節子からの便りを受取った。彼女は郡部にある片田舎の方へ行ったことを知らせてよこした。
「到頭節ちゃんも出掛けて行ったか――」
それを言って見て、岸本は以前の食堂の隣から移って来た新規な部屋の内を見廻した。窓が二つあって、プラタアヌの並木の青葉が一方の窓に近く茂っていた。その並木の青葉も岸本が巴里に着いたばかりの頃から見ると早や緑も濃く、花とも実ともつかない小さな栗のイガのようなものが青い毬を見るように葉蔭から垂下った。一方の窓は丁度建築物の角にあたって、交叉した町が眼の下に見えた。あの東京浅草の住慣れた二階の外に板囲の家だの白い障子の窓だのを眺め暮した岸本の眼には、古い寺院にしても見たいような産科病院の門前にひるがえる仏蘭西の三色旗、その病院に対い合った六層ばかりの建築物、街路の角の珈琲店の暖簾なぞが、両側に並木の続いた町の向うに望まれた。あの大きな風呂敷包を背負って毎朝門前を通った噂好きな商家のかみさんのかわりに、そこには薪ざっぽうのような食麺麭を擁えた仏蘭西の婦女が窓の下を通った。あの書斎へよく聞えて来た常磐津や長唄の三味線のかわりに、そこにはピアノを復習う音が高い建築物の上の方から聞えて来た。それが彼の頭の上でした。
その窓へ行って、岸本は節子から来た手紙を読返した。彼女はお母さんの上京後、婆やにも暇を出したと書いてよこした。お父さんが名古屋から上京して初めてあの話があったと書いてよこした。その時はお母さんも大分やかましかったが、結局自分はしばらく家を出ることに成ったと書いてよこした。お父さんがある病院で知った看護婦長の世話で、自分はこの田舎へ来るように成ったと書いてよこした。その看護婦長は今は女医であると書いてよこした。至極親切な人で、この田舎に住んでいて、毎日のように自分を見に来て慰めてくれると書いてよこした。自分はある産婆の家の二階で、人知れずこの手紙を認めていると書いてよこした。叔父さんのことは親切な女医にすら知らせずにあると書いてよこした。高輪の家にある叔父さんの著書をここへも持って来てこの侘しい時のなぐさめとしたいのであるが、人に見られることを気遣って見合せたと書いてよこした。この家に住む人達は親子とも産婆であると書いてよこした。ここは東京から汽車で極僅の時間に来られる場処であると書いてよこした。片田舎らしい蛙の声が自分の耳に聞えて来ていると書いてよこした。自分が産褥に就くまでには、まだしばらく間があるから、せめてもう一度ぐらいは便りをしたいと思うが、それも覚束ないと書いてよこした。姉(輝子)も夫の任地から近く産のために帰国するであろうと附添てよこした。
五十六
森のように茂って行くマロニエとプラタアヌの並木は岸本の行く先にあった。彼はその楽しい葉蔭を近くにある天文台の時計の前にも見つけることが出来、十八世紀あたりの王妃の石像の並んだルュキサンブウルの公園の内に見つけることも出来た。彼よりも先に故国を出て北欧諸国を歴遊して来た東京のある友人が九日ばかりも彼の下宿に逗留した時は、一緒に巴里の劇場の廊下も歩いて見、パンテオンの内にある聖ジュネヴィエーヴの壁画の前にも立って見た。普仏戦争時代の国防記念のためにあるという巨大な獅子の石像の立つダンフェル・ロシュリュウの広場の方へ歩き廻りに行っても、彼は旅人らしい散歩の場所に事を欠かなかった。
しかし仏蘭西の旅は岸本に取って、ある生活の試みを企てたにも等しかった。彼は全く新規な、全く異ったものの中へ飛込んで来た。それには長い年月の間、身に浸みついている国の方の習慣からして矯て掛らねば成らなかった。彼のように静坐する癖のついたものには、朝から晩まで椅子に腰掛けて暮すということすら一難儀であった。日がな一日彼は真実の休息を知らなかった。立ちつづけに立っているような気がした。日本の畳の上で思うさまこの身体を横にして見たら。この考えは、どうかすると子供のように泣きたく成るような心をさえ彼に起させた。彼は長い船旅で、日に焼け、熱に蒸され、汐風に吹かれて来たばかりでなく、漸くのことであの東京浅草の小楼から起して来た身をこうした外国の生活の試みの下に置いた。実際、眼に見えない不可抗な力にでも押出されるようにして故国から離れて来たことを考えると、彼はこれから先どうなってしまうかという風に自分で自分の旅の身を怪んだ。
節子から来た手紙は旅にある岸本の心を責めずには置かなかった。偶然にも岸本の下宿の前に産科病院があって、四十いくつかあるその建築物の窓の一つ一つには子供が生れたり生れかけたりしているということは、何かのしるしのように彼の眼に映った。その石の門は彼の部屋の窓からも見え、その石の塀は毎日彼が語学の稽古に通う道の側にあたっていた。その多くの窓は町中で一番遅くまで夜も燈火が射していて、毎晩のように物を言った。
「知らない人の中へ行こう」
と岸本はつぶやいた。その中へ行って恥かしい自分を隠すことは、この旅を思い立つ時からの彼の心であった。
五十七
セエヌの河蒸汽に乗るために岸本はシャトレエの石橋の畔に出た。何処へ行くにも彼はベデカの案内記を手放すことの出来ない程ではあったが、しかし全く自分独りで、巴里へ来て初めて知合になった仏蘭西人の家を訪ねようとした。
岸本は最早旅人であるばかりでなく同時に異人であった。あの島国の方に引込んで海の魚が鹹水の中でも泳いでいれば可いような無意識な気楽さをもって東京の町を歩いていた時に比べると、稀に外国の方から来た毛色の違った旅人を見て「異人が通る」と思った彼自身の位置は丁度顛倒してしまった。否でも応でも彼は自分の髪の毛色の違い、皮膚の色の違い、顔の輪廓の違い、眸の色の違いを意識しない訳に行かなかった。逢う人毎にジロジロ彼の顔を見た。こうした不断の被観察者の位置に立たせらるることは、外出する時の彼の心を一刻も休ませなかった。そしてまたこんな骨折が実際何の役に立つのだろうとさえ思わせた。下宿からシャトレエの橋の畔へ出るまでに彼の頭脳は好い加減にボンヤリしてしまった。
石で築きあげた高い堤について、河蒸汽を待つところへ降りた。中洲になったシテイの島に添うて別れて来る河の水は彼の眼にあった。岸本が訪ねて行こうとする仏蘭西人は巴里の国立図書館の書記で、彼はその人のお母さんから英語で書いた招きの手紙を貰った。その中にはルウブルで河蒸汽に乗ってビヨンクウルまで来るように、自分等の家は河蒸汽の着くところから直である、五分とは掛らない、河蒸汽にも種々あるからビヨンクウル行を気を着けよなぞと、細いことまで年とった女らしく親切に書いてあった。岸本はシャトレエから河蒸汽に乗って、復たルウブルで乗換えるほどの無駄をした。それほどまだ土地不案内であった。その時の彼は仏蘭西人の家庭を見ようとする最初の時であった。どうにでも入って行かれるような知らない人達の生活が彼の前にあった。彼は右することも、左することも出来た。そしてこれから先逢う人達によって右とも左とも旅の細道が別れて行ってしまうような不思議な心持が彼の胸の中を往来した。
五十八
「異人さん、ここがビヨンクウルですよ」
とでも言うらしく、河蒸汽に乗っていた仏蘭西人が岸本に船着場を指して教えた。船着場から岸本の尋ねる家までは僅しかなかった。高いポプリエの並木の立った河岸の道路を隔ててセエヌ河に面した住宅風の建築物があった。そこが図書館の書記の住居であった。岸本は門の扉を押して草花の咲いた植込の間を廻って行った。何時の間にか一匹の飼犬が飛んで来て、鋭い眼付で彼の側へ寄って、吠えかかりそうな気勢を示した。
「あなたが岸本さんですか」
とその時入口の石階のところへ出て来て英語で訊いた年とった婦人があった。岸本はその人を一目見たばかりで手紙をくれたお母さんだと知った。
「帽子と杖はそこにお置き下さい。それから私と一緒に部屋の方へお出下さい」
こんな風に言って老婦人は岸本を案内した。
「忰はまだ図書館の方ですが追つけ帰って参りましょう。忰の家内も今お目に掛ります」
仏蘭西人の家庭に来て、こうした英語で話してくれる老婦人を見つけることは、まだ土地の馴染も薄い岸本の旅の身に嬉しかった。
この家の方へ岸本を導いたのは老婦人の姪にあたる人であった。そのマドマゼエルは純粋な仏蘭西の婦人ながらに遠く日本を慕って行って、現に東京の方に住んでいた。岸本は番町の友人の紹介で東京を発つ前にその人に逢って来た。その時のマドマゼエルは可成もう日本の言葉が話せて、紫式部の日記ぐらいは読めるような人であった。日本狂とも言いたいほど日本贔負の婦人であった。その人が岸本を紹介してくれたのであった。老婦人は居間の方へ岸本を連れて行った。その室内を飾る種々な道具から絵画彫刻の類まで、老婦人の嗜みに好く調和したような物ばかりであった。窓に近く机の置いてあるところで、老婦人は東京の方にある姪からの手紙を岸本に取出して見せ、
「姪も無事で暮しておりましょうか。すこしは日本の婦人らしく見えるように成りましたでしょうか」と言って、東洋の果を志して行ったマドマゼエルの身を非常に心配顔に岸本に尋ねた。老婦人はマドマゼエルが自分の兄弟の一人娘であることや、彼女が幼い時分から学問好きであったことや、巴里に居る頃から日本留学生に就いて古典の一通りを学んだことなぞをも話した。
岸本は風呂敷包の中から旅のしるしに持って来た国の方の土産を取出した。老婦人はその風呂敷の模様を見るさえめずらしそうに、
「へえ、お国の方ではそういうものを用いますか。面白い模様ですね。でもまあ日本の方にお目に掛って、姪の噂をするだけでも嬉しい。ああして姪が日本へ行ってしまったのは私が悪いのだ、私の落度だ、とそう皆が私のことを申すのです……可哀そうな娘……」
と言って、仏蘭西を捨てて出て行った姪を思いやるような眼付をした。やがて老婦人はその居間の壁に掛けてある日本の古画なぞを眺めながら岸本に言って見せた。
「日本というものは、私に取っては空想の郷でしたからね」
五十九
しばらく老婦人と話しているうちに岸本はその部屋の長い窓掛まで日本から渡来した古い金糸の繍のある布で造ってあるのに気がついた。瘠せぎすな身体に古雅な黒い仏蘭西風の衣裳を着けた老婦人は岸本に見せるものを探すために時々部屋の内を歩いたり、時には奥の方へ立って行ったりしたが、その部屋にあるものは何一つとして遠い異国に対する憧憬の心を語っていないものは無かった。こういう老婦人の姪に、異国趣味そのものとも言いたいマドマゼエルのような人が生れたのも決して不思議は無いと岸本は想って見た。
「これが忰の家内です」
と老婦人はそこへ着物を着更えて挨拶に来た細君を岸本に引合せた。
主人の帰りを待つ間、三人の話は東京の方にあるマドマゼエルの噂で持切った。細君はマドマゼエルが絵画にも趣味を有つことを話して、まだ仏蘭西に居る頃に彼女が描いたという油絵の額の前へも岸本を連れて行って見せ、彼女が残して置いて行ったという写真なぞをも取出して来た。
「マドマゼエルは仏蘭西に居る頃から人に頼みまして、日本の髪に結ったこともありましたよ。それほど日本好でしたよ」
仏蘭西語まじりに細君が言おうとすることを老婦人は英語で補った。老婦人は岸本に向って、自分は曾て倫敦に住んだことが有るという話や、そのために自分は家中で一番よく英語が話せる、娵はあまり話せないが忰の方はすこしは話せて好都合であるということなぞや、自分等の家族は以前は巴里の市中に住んだがこのビヨンクウルに住居を卜して引移って来たということや、この家屋もなかなか安くは求められなかったというようなことまで、いかにも心安い調子で話した。
「もう忰も見えそうなものです」と言う老婦人や細君に誘われながら、岸本は一緒に入口の廊下から石の階段を下りて庭を歩いた。門の外へも出て見た。清いセエヌ河の水は並木の続いた低い岸の下を流れていた。郊外らしい空気につつまれた対岸の傾斜には、ところどころに別荘風な赤瓦の屋根も望まれた。
細君の案内で、岸本は裏庭の方へも廻って、果樹、野菜なぞを見て歩いた。「今年はこんなに葱を造りました」なぞと岸本に言って聞かせる細君はいろいろ話そうとしてはそれが英語で浮んで来ないという風であった。日の映った梨の樹の下で、岸本は二人の子供を遊ばせている乳母にも逢った。
「日本の方だよ」
と細君に言われて、二人の子供は気味悪そうに岸本の方へ近づいた。そしてかわるがわる小さな手を差出した。岸本はそれらの幼い人達の手を握りしめたが、子供に話しかけたいにも仏蘭西の言葉ではまだ物が言えなかった。
「私も国の方へ子供を残して来ました」
この岸本の英語はまた細君にはよく通じなかった。
人の好さそうな細君はその家を囲繞く庭や畠ばかりでなく、家の入口から奥の方へ続いた廊下の両側に掛けてある種々な肖像の額の前へ、二階にある主人の書斎へ、子供の部屋へ、終には寝室へまで岸本を連れて行って見せた。丁度そこへ主人が帰って来た。
六十
その家の主人とは岸本は既に図書館の方で親づきに成っていた。主人が帰った頃は夕飯の仕度が出来ていて、岸本は樹木の多い庭に臨んだ食堂の方へ案内された。
「夏の間、私共はよくこの窓の外で食事することもあります」
という老婦人の話なぞを聞きながら岸本は主人と細君と四人して食卓を囲んだ。
「何にもお構い申しません。私共でも何時でもこの通りです」
と細君は款待顔に言った。
「岸本さんのようにわざわざ日本から仏蘭西へお出掛下さる方もあり――」と言って老婦人は自分の子息と岸本の顔を見比べて、「そうかと思うと姪のように、仏蘭西から日本の方へ行ってしまうのもあります」
その時岸本は国の方から茶や椿の種を持って来たことを言出した。誰か専門家に頼んで旅の記念に植えて見て貰いたいと話した。
「岸本さんは何をお持ちに成ったと言うのかい」と老婦人は主人に言って、やがて岸本の方を見て、「私は耳が遠くなって時々お話の聞取れないことが有ります」
「種」と主人は大きな声で言って見せて笑った。
食後に岸本は持って来た風呂敷包を取出した。その中からは銀杏、椿、山茶花、藤、肉桂、沈丁花なぞの実も出て来た。
老婦人は岸本に向って、東京にある姪から仏蘭西大学の教授の許へも彼を紹介してよこしたことを話して、これから忰夫婦が案内する、丁度教授の家には茶の会がある、一緒に行ってあの好い家族とも親づきに成れと言った。
「念のために御話して置きますが、教授は当地でも有名な学者です」
と老婦人は廊下のところに立って岸本に注意するように言った。
晩に出る最終の河蒸汽に乗後れまいとして、岸本は夫婦と一緒に河岸を急いだ。細君は教授の夫人への手土産にと庭の薔薇の花を提げ、自分がまだ娘であった頃から教授の家へはよく出入したという話を岸本にして聞かせた。漸くのことで三人は船に間に合った。知らない仏蘭西人ばかりの乗客の間に陣取って種々親しげに言葉を掛ける夫婦と一緒に腰掛けた時は、岸本に取って肩身が広かった。
「セエヌの水は何時でもこんなに静かでしょうか」
「大抵こんなです。毎朝私はこの船で図書館通いをしています。夏の朝はなかなか好うござんすが、晩も悪くはありませんね」
岸本と書記とが暗い静かな河景色を眺めながら話している傍で、細君は女持の手提鞄を膝に乗せて二人の話に耳を傾けた。
このビヨンクウルの書記には著述もあった。その家に半ばを分けて来た植物の種子は岸本が国を出る時にあの中野の友人等から贈られたのだ。岸本は残りの半ばを植物園の近くに住むという教授の許へも分けるつもりで、これから書記夫婦と共に見に行こうとする教授の人となりを想像した。その晩の茶の会に集まろうとする未知の人々をも想像した。
六十一
ギイ・ド・ラ・ブロッスという町にある教授の家の茶の会から岸本が下宿の方へ歩いて帰って行った頃は大分遅かった。彼の胸は初めて仏蘭西人の家庭を見、未知の人々に逢ったその日のことで満たされていた。恐ろしく巌畳なアーチ形に出来た家々の門の前には遅く帰った人達が立って、呼鈴の引金を鳴らしていた。家番もぐっすり寝込んだ時分であった。
暗い階段を上って下宿の戸を開けると、皆もう寝沈まっていた。廊下の突当りにある自分の部屋へ行ってからも、岸本は直ぐには寝台に上らなかった。部屋を明るくした古めかしい洋燈に対って見ると、「巴里へは何時御着きに成ったのです、何故もっと早く訪ねて来てくれないのです」と快く爽かな調子で言ったブロッスの教授の声はまだ彼の耳についていた。印度研究に関した蔵書の類が沢山置並べてある書斎の中で、まだ大学へでも通っているらしい青年の方へ彼を連れて行って、「忰にも一つ逢ってやって下さい」と言ったあの教授の声も。それから彼が旅のしるしとして贈った銀杏の実なぞを教授は別の部屋の方へ持って行くと、茶に招かれて来ていた若い教授の細君らしい人達が集って、皆なで一緒にその粒の揃った東洋植物の種を眺めながら、「まあ、植えてしまうのは惜しい、こうして見ていたい」と言ったあの女らしい人達の声も。彼はこの異郷に来て智識階級に属するそれらの人達とこれ程熱い握手を交し得るとは思いもかけなかった。あのビヨンクウルの夫婦が河蒸汽や電車の切符まで彼には払わせなかった程の心づくしも、全く彼の予期しないことであった。敏感で優雅なビヨンクウルのお母さんも彼が初めて逢って見た旧い仏蘭西の婦女をいかにも好く表したような人であった。髪は最早白いほどの年頃ながら眼には青年のような輝きを見せた教授、素朴でそして男らしく好ましい感じのする書記、彼は眠りに就こうとして壁の側の寝台に上ってからも、それらの人達から受けた最初の好い印象を考えて、この温かい親切は長く忘れられまいと思った。
しかし朝になって見ると、初めて逢った人達の感じが好かっただけ、それだけ旅人としての物足らなさが岸本の胸に忍び込んで来た。彼は皆の言った事を考えて見て、ボンヤリしてしまった。外国人は何処までも外国人で、物の皮相にしか触れることの出来ないような物足らなさがその最初の好い印象と一緒になって起って来た。
仏蘭西に居る頃から人に頼んで日本の髪に結ったというマドマゼエルのことが、しきりと岸本の胸に浮んだ。それほど強烈な異国に対する憧憬の心を以てしても、仏蘭西を捨てて去ったマドマゼエルがどれ程まで日本人の心の奥を汲み知ることが出来るであろうか、とそう彼は想像して見た。彼はあの日本の着物を着て畳の上に坐っているマドマゼエルに、洋服を着て椅子に腰掛けている自分の旅の身を思い比べた。
「結局、自分等は芸術に行くの外はないかも知れない。芸術によって、この国の人の心に触れるの外はないかも知れない」
この考えは岸本の心を駆って一層言葉の稽古の方へ向わせた。
六十二
旅に来て五月目に、岸本は新たに父になったことを国の方からの便りによって知った。亡くなった三人の女の児を入れて数えると、最早彼は七人だけの子の親ではなかった。園子との間に設けたおもてむきの子供の外に、知らない子供が一人何処かに生きていた。彼は極印でも打たれたような額を客舎の硝子窓のところへ持って行って、人知れずそのことを自分に言って見た。
義雄兄からの便りには、「例の人」は産後の乳腫で手術を受けさせるから、その費用を送れとしてあった。それから一月半ばかりも待つうちに節子は精しいことを知らせてよこした。産は重くて骨が折れたが男の子が生れたと彼女の手紙の中に書いてあった。彼女はこまごまと書いてよこした。こんなにお産が重かったのは身体を粗末にしていた為であろう、自分はその事を人から言われたと書いてよこした。自分は僅かに一目しか生れたものの顔を見ることを許されなかったと書いてよこした。その田舎に住む子供の無い家の人から懇望されて、嬰児は直ぐに引取られて行ったと書いてよこした。例の親切な女医が来ての話に、「あなたのややさんは、それはよくあなたのお父さんに似ていますよ」と言って笑って話してくれたと書いてよこした。その田舎に住む坊さんが名づけ親になって親夫という名を命けてくれた――実はその名は坊さんが自分の子に命けるつもりで考えて置いたとかいうのを譲ってくれたのだと書いてよこした。生れたものの貰われて行った先で、どうかしてこの子のお母さんの苗字だけでも明して欲しい、それを明すことが出来なければ東京のどの辺か――せめて方角だけでも明して欲しいとのことであったが、それだけはお断りすると言って、女医の方で明さなかったと書いてよこした。定めしお父さんの方からの知らせが行ったことと思うが、自分の乳が腫れ痛んで、捨てて置く訳にはいかないと言われて、切開の手術を受ける為にしばらく女医の方へ行っていたと書いてよこした。どうもまだ自分の身体の具合は本当でないから、今しばらくこの産婆の家の二階にとどまるつもりであるが、出来るだけ早くここを去りたいと思うと書いてよこした。つくづく自分はこの二階に居るのが恐ろしくなった、何事につけてもここはお金お金で、地獄にあるような思いをすると書いてよこした。このお産のために自分の髪は心細いほど抜けた、この次叔父さんにお目にかかるのも恥かしいほど赤く短く切れてしまったと書いてよこした。
この節子の手紙を読んで、岸本は心から深い溜息を吐いた。彼はいくらか重荷をおろしたような気がした。しかしそのために、一度つけてしまった生涯の汚点は打消すべくもなかった。埋めようとすればするほど、余計に罪過は彼の心の底に生きて来た。彼は多くもない旅費の中を割いて節子が身二つに成るまでの一切の入費に宛てて来たし、外国から留守宅への仕送りも欠かすことは出来なかったし、義雄兄から請求して来た節子の手術に要する費用も負担せねば成らなかった。旅も容易でなかった。それにも関らず、彼は行けるところまで行こうとした。
六十三
東京高輪の留守宅の方に節子を隠して置て嫂の上京も待たずに旅に上って来た心持から言っても、義雄兄に宛てた一通の手紙を残して置いて香港を離れて来た心持から言っても、岸本は再び兄夫婦を見るつもりで国を出たものではなかった。節子は旅にある叔父に便りすることを忘れないで、彼女が郡部にある片田舎から高輪の方へ戻った時にも精しい手紙を送ってよこしたが、その便りが岸本の手許へ着いた頃は、最早ノエル(降誕祭)の季節の近づく年の暮であった。異郷で初めて逢う正月、羅馬旧教国らしいカアナバルの祭、その肉食の火曜も、ミ・カレエムの日も、彼の旅の心を深くした。彼の下宿には独逸のミュウニッヒの方から来た慶応の留学生を迎えたり、瑞西の方へ行く人を送ったりしたが、それらの人達と連立ってルュキサンブウルの美術館を訪ねた時でも、ガボオの音楽堂に上った時でも、何時でも彼は心の飄泊者としてであった。
「人はいかなる境涯にも慣れるもので、それがまた吾儕に与えられたる自然の恵みである」と言った人もあったとやら。ある人はまた、「慣れるということほど恐ろしいものは無い」とも言ったとやら。岸本はその二つの言葉の意味に籠る両様の気質と真実とを味い知った。所詮彼とても慣れずにはいられなかった。そして高い建築物もさ程気に成らず、往来も平気で歩かれ、全く日本風の畳というものも無い部屋に一日腰掛けて暮せる頃は、自分の髪の毛色の違い、自分の皮膚の色の違いを忘れる時すらあるように成った。不思議にも、外界の事物に対してこれ程彼が無頓着に成ったと同時に、外界の事物もまた彼に対して無頓着に成った。彼は自分の部屋の窓の下を往来する人達と全く無関係に生きて行く異邦の旅人としての自分の身をその客舎に見つけた。あだかも獄裡に繋がるる囚人が全く娑婆というものと縁故の無いと同じように。
恐ろしい町の響が岸本の耳につくように成った。一切の刺激から起る激しい感覚が沈まって行くにつれ、そうした響がハッキリと彼の耳に聞えて来た。剣のように尖った厳めしく頑固な馬具を着け、真鍮の金具を光らせた幾頭かの馬が大きな荷馬車を引いて行く音、モン・トオロン行の乗合自動車の通う音、並木街を往復する電車の音、その他石造の街路から起る町の響が、高い建築物の間に響けて、岸本の部屋の硝子窓に揺れるように伝わって来た。それを聞くと遽かに故国も遠くなった。彼はそろそろ外国生活の無聊がやって来たことを感じた。
苦難はもとより彼の心に期するところであった。どんなにでもして彼は耐えがたい無聊と戦わねば成らなかった。そして心の飄泊を続けねば成らなかった。
六十四
復活祭も近づいて来ていた。東京の留守宅へ戻って行ってからの節子は折ある毎に泉太や繁のことを書いて、それに彼女の境遇を訴えてよこした。岸本はあの片田舎の家の方から品川の停車場まで帰って来て、そこで迎えの嫂と一緒に成ったという時の彼女を想いやることも出来た。彼女の母にも姉の輝子にも男の子の生れている高輪の家へもう一度帰って行った時の彼女を想いやることも出来た。多くの知人や親戚から祝わるる姉の子供に比べて、誰一人顧るものもない彼女に生れた子供こそその実この世に幸福なものであると言ってよこした彼女の女らしい負惜みを思いやることも出来た。あの事があってからの父は別の人かと思われるほど彼女に優しく、叔父さんから父宛に来た手紙もこっそり彼女の机の上に置いてくれるほどの人になったと言うような、とかく母に対して気まずい思いをしているらしい彼女を遠く想いやることも出来た。「実に可哀そうなことをした」この憐みの心は自ら責むる心と一緒になって何時でも岸本に起って来た。
異郷の旅の心を慰めるために、岸本は自分の部屋にある箪笥の前に行った。箪笥とは言っても、鏡を張った開き戸のある置戸棚に近い。その抽筐の中から国の方の親戚や友人の写真を取出した。義雄兄の家族一同で撮った写真も出て来た。それは最近に東京から送って来たのであった。高輪の家の庭の一部がそっくりその写真の中にある。南向の縁側の上には蒲団を敷いて坐った祖母さんが居る。庭には嬰児を抱いて立つ輝子が一番前の方に居る。二人の少年が庭石の上に立っている。その一人は義雄兄の子供で、一人は繁だ。兄さんらしく撮れた泉太の姿をその弟の傍に見ることも出来る。義雄兄が居る。嫂が居る。嫂はその家で生れた男の児を抱いている。岸本は兄夫婦の写真顔をすら平気では眺められなかった。一番後方に立つのが変り果てた節子の面影であった。娘らしく豊かな以前の胸のあたりは最早彼女に見られなかった。特色のある長い生えさがりは一層彼女の頬を痩せ細ったように見せていた。
「自分は、人一人をこんなにしてしまったのか」
それを思うと岸本は恐ろしくなってその写真を抽筐の底に隠した。
六十五
山羊の乳売の笛で岸本は自分の部屋に眼を覚ました。巴里のような大きな都会の空気の中にもそうした牧歌的なメロディの流れているかと思われるような笛の音がまだ朝の中の硝子窓に伝わって来た。旅らしい心持で、その細い清んだ音に耳を澄ましながら、岸本は窓に向いた机のところで小さな朝飯の盆に対った。それを済ました時分に、女中が来てコンコンと軽く部屋の戸を叩く音をさせた。何時でも西伯利亜経由とした郵便物の来るのは朝の配達と極っていた。その時彼は新聞や雑誌や手紙の集まったのをドカリと一時に受取った。待たれた故国からの便りの中には、節子の手紙も混っていた。
「ホウ、泉ちゃんが御清書を送ってよこした」
と岸本は言って見て、外国に居て見ればめずらしいほど大きく書いた子供の文字を展げて見た。それから節子の手紙を読んだ。何と言ってよこしても直接には答えないで黙っている叔父に宛てて、彼女は根気好くも書いてよこした。叔父さんの旅の便りが新聞に出る度に、自分はそれを読むのをこの上もない心の慰めとしていると書いてよこした。叔父さんに別れた頃の季節が復た回って来たと書いてよこした。遠く行く叔父さんを見送った時の心持が復た自分に帰って来たと書いてよこした。この高輪の家の庭先に佇立んで品川の方に起る汽車の音を聞いた時のことまでしきりに思出されると書いてよこした。
岸本は自分の旅の心を昔の人の旅の歌に寄せて、故国の新聞への便りのはじに書きつけて送ったこともあった。節子はその古歌を引いて、同じ昔の人の詠んだ歌の文句をさながら彼女の遣瀬ない述懐のように手紙の中に書いてよこした。
「つきやあらぬ、
はるや昔の
はるならぬ、
わがみひとつは
もとのみにして」
先頃送った家中で撮った写真を叔父さんはどう見たろうとも彼女は書いてよこした。あの中に居る自分はまるで幽霊のように撮れて、ああした写真で叔父さんにお目に掛るのも恥かしいと書いてよこした。その事を母に話して叱られたと書いてよこした。彼女は浅草の家の方で使っていた婆やのことも書いてよこした。婆やは今でも時々訪ねて来てくれるが、自分は家にある雑誌なぞを貸与えて婆やの機嫌を取って置いたと書いてよこした。「婆やは可恐うございますからね」と書いてよこした。
旅に上ってから以来、引続き岸本はこうした調子の手紙を節子から受取った。彼は東京を去って神戸まで動いた時に、既に彼女の心に起って来た思いがけない変化を感じたのであった。彼は一切から離れようとして国を出たものだ。けれども彼の方で節子から遠ざかろうとすればするほど、不幸な姪の心は余計に彼を追って来た。飽くまでも彼はこうした節子の手紙に対して沈黙を守ろうとした。彼は節子の手紙を読む度に、自分の傷口が破れてはそこから血の流れる思いをした。嘆息して、岸本は机に対った。書架の上から淡黄色な紙表紙の書籍を取出して来て、自分の心をその方へ向けた。そして側目もふらずに新しい言葉の世界へ行こうとした。英訳を通して日頃親しんでいた書籍の原本を手にすることすら彼には楽しかった。彼は既に読みたいと思うかずかずの書籍を有っていたが、覚束ない彼の語学の知識では多くはまだ書架の飾り物であるに過ぎなかった。この国の言葉に籠る陰影の多い感情までも読み得るの日は何時のことかと、もどかしく思われた。
六十六
旅の空で岸本は既に種々な年齢を異にし志すところを異にした同胞に邂逅った。わざわざ仏蘭西船を択んで海を渡って来て、神戸を離れるから直に外国人の中に入って見ようとした程の彼は、巴里に来た最初の間なるべく同胞の在留者から離れていようとした。外国へ来て日本人同志そう一つところへ集ってしまっても仕方が無い、こうした岸本の考え方はある言葉の行違いから一部の在留者の間に反感をさえ引起させた。「岸本は日本人には附合わないつもりだそうだ」と言って彼の誠意を疑うような在留者の声が彼自身の耳にすら聞えて来た。しかしこの疑いは次第に解けて行った。モン・パルナッスの附近に住む美術家で彼の下宿に顔を見せる連中も多くなり、通りすがりの同胞で彼の下宿に足を留めて行く人達も少くはなかった。
岸本は部屋の窓へ行った。京都の大学の教授がしばらく泊っていた旅館の窓が岸本の部屋から見えた。その教授に、東北大学の助教授に、いずれも旅で逢った好ましい人達が食事の度に彼の下宿の食堂へ通って来たばかりでなく、彼の方からも自分の部屋から見える旅館へ行って夜遅くまで思うさま国の方の言葉を出して話し込んだ時のことが、まだ昨日のことのように彼の胸にあった。もし互の事情が許すなら、もう一度白耳義のブラッセルか、倫敦あたりで落合いたいものだと約束して行った教授、一年ぶりで伯林の地を踏んだと言って帰国の途上から葉書をくれた助教授、それらの人達が去った後の並木街を岸本は独りで窓のところから眺めた。とても国の方では話し合わないような話が異郷の客舎に集まった教授等と自分の間に引出されて行ったことを想って見た。旅の不自由と、国の言葉の恋しさと、信じ難いほどの無聊とは、異郷で邂逅う同胞の心を十年の友のように結び着けるのだとも想って見た。彼は一緒にルュキサンブウルの公園を歩いたりリラの珈琲店に腰掛けたりした教授連に比べて見て、どれ程自分のたましいが暗いところにあるかということをも思わずにはいられなかった。
毎日のように並木街をうろうろしている不思議な婦人が窓の硝子を通して彼の眼に映った。恐らく白痴であろうと下宿の食堂に集る人達は噂し合って、誰が命けるともなく「カロリイン夫人」という名を命けていた。「カロリイン夫人」は紅い薔薇の花のついた帽子を冠り、白の手套をはめ、朝から晩までその界隈を往ったり来たりしていた。何を待つかと他目には思われるようなその婦人の姿を窓の下に見つけたことは、一層岸本の心を異郷の旅らしくさせた。
「姪ゆえにこんな苦悩と悲哀とを得た」
ある仏蘭西の詩人が歌った詩の一節になぞらえて、彼は自分で自分の旅の身を言って見た。丁度そこへ岡という画家が訪ねて来た。
六十七
岡は今更のように岸本の部屋を眺め廻した。壁紙で貼りつめた壁の上には古めかしく大きな銅版画の額が掛っていた。「ソクラテスの死」と題してあって、あの哲学者の最後をあらわした図であったが、セエヌの河岸通りの古道具屋あたりに見つけるものと大して相違の無いような、仏蘭西風の銅版画としては極く有りふれたものであった。岸本が一年近い旅寝の寝台はその額の掛った壁によせて置いてあった。
「この部屋に掛っている額と、岸本さんとは、何の関係があるんです――」
岡は画家らしいことを言って、ロココという建築の様式が流行った時代のことでも聯想させるような古い版画を眺めた。
「ここの下宿のおかみさんが、あれでも自慢に掛けてくれたんでさ」と岸本が言った。
「ああいうものが掛っていても、岸本さんは気に成りませんかね」
「この節は君、別に気にも成らなくなりましたよ。有っても無くても僕に取っては同じことでさ。旅では君、仕方が無いからね」
国に居た頃から見ると岸本はずっと簡単な生活に慣れて来た。巴里に着いたばかりの頃は外国風の旅館や下宿の殺風景に呆れて、誰も自分の机の上を片付けてくれる人もないのか、とよくそんな嘆息をしたものであったが、次第に万事人手を借りずに済ませるように成った。着物も自分で畳めば、鬚も自分で剃った。一週に一度の按摩は欠かすことの出来ないものであったが、それも無しに済んだ。彼はずっと昔の書生にもう一度帰って行った。自分と同年配の人を見ると同じ心持で、国から到来した茶でも入れて年下な岡を款待そうとしていた。
「僕なぞは君、極楽へ島流しになったようなものです」
と言いながら岸本は椅子を離れた。岸本が極楽と言ったは、学芸を重んずる国という意味を通わせたので。
「極楽へ島流しですか」
と岡も笑出した。
岸本は洗面台の横手にある窓の下へアルコオル・ランプと湯沸を取りに行った。それは何処かの画室の隅に転がっていたのを岡が探出して以前に持って来てくれたものであった。留学していた美術家の残して置いて行った形見であった。
「岡君、国から雑誌や新聞が来ましたよ。僕の子供のところからはお清書なぞを送ってよこしました」
「岸本さんは子供は幾人あるんですか」
「四人」
と岸本は言淀んだ。岡はそんなことに頓着なく、
「皆東京の方なんですか」
「いえ、二人だけ東京にいます。三番目のやつは郷里の姉の方に行ってますし、一番末の女の児は常陸の海岸の方へ預けてあります。今生きてるのが、それだけで、僕の子供はもう三人も死んでますよ」
「好い阿父さんの訳だなあ」
ランプに燃えるアルコオルの火を眺めながら、岸本は岡と一緒に国の方の言葉で話をするだけでも、それを楽みに思った。彼の下宿にはヴェルサイユ生れの軍人の子息でソルボンヌの大学へ通っている哲学科の学生と、独逸人の青年とが泊っていた。同胞を相手に話す時のような気楽さは到底下宿の食堂では味われなかった。岡はまた岸本が勧めた雑誌や新聞を展げて饑え渇くようにそれを読もうとした。
六十八
岡は岸本よりも半年ばかり先に巴里へ来た人であった。岸本が旅でこの画家を知るように成ったのは数々の機会からで。ペルランの蔵画を見ようとして一緒に巴里の郊外へ辻馬車を駆った時。マデラインの寺院の附近に新画を陳列する美術商店を訪ねた時。テアトルという町での忘年会に二人して過って火傷をした時。しかし岸本が遽に親しみを感じ始めたのは、岡の好きな日本飯屋へ誘われて行って一緒に旅らしく酒を酌みかわした時からであった。その晩から岸本は岡の胸の底に住む秘密を知るように成った。この男の熱意も、誠実も、意中の人の母や兄の心を動かすには足りなかったことを知るように成った。堅く相許した心のまことを置いて、この世の何物が人を幸福ならしめるであろう、そうした遣瀬ない心の述懐には岡は殆ど時の経つのを忘れて話した。意中の人の母に宛てた激しい手紙を残し、その人の兄とも多年の親しい交りを絶って、そして国を出て来たというこの男の憤りと恨みとはいかなる寛恕の言葉をも聞入れまいとするようなところがあった。湯沸の湯が煮立った。岸本は町から求めて来た仏蘭西出来の茶碗なぞを盆の上に載せ、香ばしいにおいのする国の方の緑茶を注いで岡に勧めた。
この画家の顔を見ていると、きまりで岸本の胸に浮んで来る年若な留学生があった。ギャラントという言葉をそのまま宛嵌め得るような、巴里に滞在中も黄色い皮の手套を集めていたことがまだ岸本には忘れられずにある青年の紳士らしい風采をしたその留学生は、ある身上話を残して置いて瑞西の方へ出掛けて行った。留学生は国の方で深くねんごろにした一人の若い婦人があったと言った。深窓に人となったようなその婦人は現に人の妻であるとも言った。私費で洋行を思立った留学生が日本を出る動機の中には、すくなくもその若い夫人との関係が潜んでいるらしい口振であった。その夫人の妊娠ということにも留学生は酷く頭をなやましていた。留学生がしばらく巴里に居る間にはよくその話が出て、岡もそれを聞かせられたものの一人であった。
「女のことで西洋へ来ていないようなものは有りゃしません――」
そこまで話を持って行かなければ承知しないようなのが岡だ。それほど岡には山国の農夫のような率直があった。
岡は飲み干した茶碗を暖炉の上のところに置いて、
「昨夜は乞食モデルが二三人僕の画室へ押掛けて来ました。勝手にそこいらにある物を探して、酒を奢らないかなんて言出しやがって……きたないモデルめ……でも酒を飲ましてやりましたら、皆で唄なぞを歌って聞かせましたっけ。それを聞いていたら終には可哀そうになっちまいました……」
こんな話をして聞かせる岡の旅は在留する美術家仲間でも骨が折れそうであった。おまけに仏蘭西へ来てから以来、ろくろく画を描く気にすらならないというほど心の戦いを続けて来た岡の顔を見ていると、岸本は余計に外国生活の無聊な心持を引出された。
六十九
「国の方で炬燵にでもあたっている人は羨ましいなんて、よくそんな話を君にしましたっけが、もうそれでもパアク(復活祭)が来るように成りましたね」
こう岸本は岡に言って、やがて連立って下宿を出た。旅で逢う羅馬旧教の祭が来ていた。帽子から衣裳まで一切黒ずくめの風俗の女達が寺詣の日らしく町を歩いていた。天文台前の広場に近い町の角あたりまで行くと、並木はそこで変って、黄緑な新芽の萌え出したプラタアヌの代りに、早や青々とした若葉を着けたマロニエが見られる。
「もうマロニエの花が咲いていますよ」
と岡は七葉の若葉の生い茂って来た黒ずんだ枝の上の方を岸本に指して見せた。白い蝋燭を挿したような花がその若葉の間から顔を出していた。
「これがマロニエの花ですか」と岸本が言った。
「どうです、好い花でしょう」
「京都大学の先生がストラスブウルから葉書をくれてね、『マロニエが咲いたらなんて話がよく出たからどんな花かと思ったら、つまらない花ですねえ』なんて書いてよこした。これをけなすのは少し酷い」
一つ一つ取出して言う程の風情があるではないが、旅人としての岸本はどこか寂しいその花のすがたに心を引かれた。
「去年の今頃は、丁度僕は船でしたっけ」
と岸本はそれを岡に言って見せた。二人の足はビリエーの舞踏場の前から、ある小さな珈琲店の方へ向いた。小ルュキサンブウルの並木を前にして二人ともよく行って腰掛ける気の置けない店があった。そこが岡の言う「シモンヌの家」だ。
店先には葡萄酒の立飲をしている労働者風の仏蘭西人も見えた。帳場のところに居た主婦は親しげな挨拶と握手とで岡を迎えた。
奥にはテエブルを並べた一室があった。岡と岸本とがそこへ行って腰掛けようとすると、二階の方から壁づたいに階段を降りて来る十六七ばかりの娘があった。パアクの祭の日らしく着更えた仏蘭西風の黒い衣裳は、瘠ぎすで、きゃしゃなその娘の姿によく似合って見えた。娘は岡の側へ来て、微笑を見せながら白い処女らしい手を差出した。それから岸本のところへも握手を求めに来た。この娘がシモンヌであった。
岸本が知っているかぎりの美術家仲間はよくこの娘の家へ集まった。その中でも岡はしばしば画室の方から足を運んで来て、この家の亭主を見、主婦を見、両親の愛を一身にあつめているようなシモンヌを見ることを楽しみにして、部屋のテエブルの上に注文したコニャックの盃などを置きながら、そこで故郷への絵葉書を書いたり手紙を書いたりした。悲哀の持って行きどころのないようなこの画家は、あいびきする男女の客や人を待合せる客のためにある奥の一室を旅の隠れ家ともして、別れた意中の人の面影を僅に異郷の少女に忍ぼうとしているかのように見えた。
七十
その小さな珈琲店はヴァル・ド・グラアスの陸軍病院の方からサン・ミッシェルの並木街へ出ようとする角のところに当っていて、狭い横町の歩道を往来する人の足音が岸本等の腰掛けた部屋から直ぐ窓の外に聞えていた。
よく働く仏蘭西の婦女の気質を見せたような主婦は決して娘を遊ばせては置かなかった。何時来て見ても娘は店を手伝っていた。しかし主婦は四方八方に気を配っているという風で、客の注文するものもめったに娘には運ばせなかった。店がいそがしくて給仕の手の明いていないような時には、主婦の妹が奥の部屋へ用を聞きに来た。さもなければ主婦自身に珈琲なぞを運んで来た。どうかすると奥の部屋の片隅では親子揃っての食事が始まる。シモンヌも来て腰掛ける。客商売には似合わないほど堅気な温かい家庭の図が見られることがある。こうした部屋に旅人らしく腰掛けて、岸本は岡から娘の噂を聞いた。
「あれで主婦はどれ程娘を大切にしてるか知れないんですね。僕がシモンヌを芝居に誘ったことが有りました。それをシモンヌがお母さんのところへ行って訊いたというもんでしょう。その時主婦は、『そんなことが出来るものかね』と言ったような顔付をしましたっけ」
「今が可愛いさかりだね」と岸本も言った。
「あれで大きくなったら、反っていけなくなるかも知れません。ほんとに、まだ子供だ。あそこがまた可愛いところだ」
血気さかんな岡の言うことに岸本は賛成してしまった。
二人の間にはモデルと同棲する美術家達の噂が引出されて行った。旅に来ては仏蘭西の女と一緒に住む同胞も少くはなかった。モデルを職業とする婦人でなしに、あるモジストを相手として楽しく画室住居するという美術家の噂も出た。
「好い陽気に成ったね」
と声を掛けて、屋外の方から入って来た画家があった。
「シモンヌの家へ来たら必と岡が居るだろうと思って、寄って見た――果して居た」とその画家が言って笑った。
「僕等はまた、今々君の噂をしていたところだ」と言って岡も元気づいた。
続いて二三の画家も入って来た。いずれも岸本には見知越しの連中で、襟飾の結び方からして美術家らしく若々しかった。こうして集って見ると、岸本よりはずっと年少な岡が在留する美術家仲間では寧ろ年嵩なくらいであった。
「岡――どうだい」
最初に入って来た画家が岡を励まし慰めるように言った。にわかに部屋の内は賑かな笑声で満たされるように成った。その画家は岸本の方をも見て、
「岸本君は巴里へ来ていながら、ほんとにまだ異人の肌も知らないんですか――話せないねえ」
何を言っても憎めないようなその快活な調子は一同を笑わせた。
「年は取りたくないものだ」
こう岡が言出したので、復た皆そりかえって笑った。
七十一
「岸本君は何をそんなに溜息を吐いてるんです」
と画家の中に言出したものが有った。その調子がいかにも可笑しかったので、復た皆くすくすやり出した。
「僕は岸本君のためにシャンパンを抜こうと思って待ち構えているんだけれど、何時に成ったら飲めることやら見当がつかない」
と岸本の前に腰掛けていた画家が親しげな調子で言って笑った。この画家なぞは割合に老けて見えたが、年を聞くと驚くほど若かった。青年の美術家同志がこうして珈琲店に集っていても、美術に関する話はめったに出なかった。気質を異にし流派を異にする人達は互いに専門的な話頭に触れることを避けようとしていた。話好きな岡が岸本と二人で絵画や彫刻に就いて語り合うほどのことも、皆の前では持出されなかった。やがて画家の一人が給仕を呼んだ。給仕は白い布巾を小脇にはさみながら、皆のところへ手摺れた骨牌と骨牌の敷布の汚れたのを持って来た。その骨牌を扇面の形に置いて見せた。各自の得点を記すための石盤と白墨とをも持って来た。薄暗い部屋の内へ射し入る日の光は日本人だけ一緒に集った小さな世界を照らして見せた。気の置けない笑声と、静かにけぶる仏蘭西の紙巻煙草の煙と、無心に打ちおろす骨牌の音のみが、そこに有った。石造の歩道を踏む音をさせて窓の外を往来する人達も、その珈琲店の店先へ来て珈琲の立飲をして行く近所の家婢も、帳場のところへ来て話し込む労働者もしくはお店者風の仏蘭西人も、奥の部屋に形造った小さな世界とは全く無関係であった。日本人同志が何を話そうと、誰も咎めるものも無ければ、解るものも無かった。岸本も骨牌の仲間入をして、一しきり女王や兵隊の絵のついた札なぞを眺めていたが、そのうちに旅の無聊は彼ばかりの激しく感じている苦みでも無いことを思って来た。長い外国の滞在で、骨牌にも飽きた顔付の人が多かった。
やがて岸本はこの珈琲店を出た。彼は巴里へ来てから送っている自分の旅人としての生活を胸に浮べながら下宿の方へ帰って行った。「巴里には何でも有る」とある巴里人が彼に話して笑ったこの大きな都会の享楽の世界へ、連のある度に彼も出入りして見た。時には異郷のつれづれを慰めようとして、近くにあるビリエーの舞踏場なぞへ足を運ぶこともあり、遠くモン・マルトルの方面へ通りすがりの同胞の客を案内して行くこともあった。東京隅田川の水辺に近い座敷で静な三味線を聞くのを楽しみにしたと同じ心持で、巴里の劇場の閉ねる頃から芝居帰りの人達が集まる楼上に西班牙風の踊なぞを見るのを楽みにすることもあった。しかし何が彼をして一切を捨てさせ、友達からも親戚からも自分の子供からも離れさせたか、その事は一日も彼の念頭を去らなかった。
七十二
巴里の最も楽しい時が来た。同じ街路樹でも、真先にこの古めかしい都へ青々とした新しい生気を注ぎ入れるものはマロニエであったが、後れて萌え出したプラタアヌも芽から葉へと急いで、一日は一日よりその葉が開き形も大きく色も濃く成って行くうちに、早や町々は若葉の世界であった。人の家の石垣越しなどに紫や白に密集って咲く丁香花もさかりの時に成って来た。この好い季節は岸本の心を活きかえるようにした。
こうした蘇生の思いを抱きながら、しかも岸本には妙に落着きの無い心持の日が続いた。旅に来て彼は何一つ贅沢を願おうではなかった。唯、たましいを落着けることのみを願った。彼にはその何よりも肝要なものが得られなかった。何故東京浅草の方にあった書斎を移して持って来たような心で、二年でも三年でも巴里の客舎に暮せないのか、それは彼には言うことが出来なかった。歯癢い心持で、自分の下宿を出て見た。産科病院前の並木街にはプラタアヌの幹や枝の影が歩道の上に落ちていた。その輝いた日あたりの中を教師に連れられて通る小学校の生徒の群があった。遠足にでも出掛けるらしい仏蘭西の少年等はいずれもめずらしそうに岸本の顔を見て通った。その無邪気な子供等を見送っていると、岸本の心は遠く国の方にいる泉太や繁の方へ行った。その年から繁も兄と連立って学校へ通うようになったかと思いやった。
天文台の前へ歩いて行って見た。そこにも男や女の児が静かな樹の下で遊んでいた。高いマロニエの枝の上に白く咲く花も盛りの時で、あだかも隠れた「春」の舞踏に向って燭台をさし延べたかのように見えていた。
前の年にマルセエユの港に着いて初めて欧羅巴の土を踏んだ頃の記憶が復た新しく岸本の胸に帰って来た。その一年ばかりというものは、まるで歩きづめに歩いていた旅人のような自分の身をも胸に描いて見た。巴里のアパルトマンの屋根の下に籠っていることも、靴を穿いて石造りの歩道を歩いていることも、ほんとうに休息というものを知らない彼に取っては殆ど同じことであった。どうかすると居ても起ってもいられないような日が来て、目的もなしに公園の方へ出掛けたり、あそこの町の店先に立って見たり、ここの飾窓を覗いて見たりして、寄りたくもない珈琲店に腰掛けるより外に、時の送りようの無いこともあった。それが幾日となく続きに続くこともあった。一年の異郷の月日は彼に取って実際に長い彷徨の連続であった。彼は彷徨うことを仕事にして来た自分に呆れた。
町々の若葉の間を歩き廻って、もう一度岸本が下宿の方へ帰って行った時は、無駄な骨折に疲れた。彼は自分の部屋へ行って独りで悄然と窓側に立って見た。曾て信濃の山の上で望んだと同じ白い綿のような雲を遠い空に見つけた。その春先の雲が微風に吹かれて絶えず形を変えるのを望んだ。親しい友達の一人も今は彼の側に居なかった。国から持って来た仕事もとかく手に着かなかった。その中でも彼は東京の留守宅への仕送りをして遠く子供を養うことを忘れることは出来なかった。そろそろ自分も懐郷病に罹ったのか、それを考えた時は実に忌々しかった。どうかすると彼は部屋の板敷の床の上へ自分の額を押宛てて泣いても足りないほどの旅の苦痛を感じた。
七十三
モン・パルナッスの墓地の側を通過ぎて、岸本は岡の画室の前へ行って立った。
青黒い色に塗った扉を内から開ける鍵の音をさせて、岡が顔を見せた。鶯の鳴声でも聞くことの出来そうな巴里の場末の方へ寄った町の中に岡の画室を見つけることは、来て見る度に旅の不自由と暢気さとを岸本に思わせた。「老大」と言って、若い連中から調戯われるのを意にも留めずにいた岡等より年長の美術家もあったが、その人の一頃住んだ画室も同じ家つづきにある。
「岸本さん、火でも焚きましょう」と岡は款待顔に言って、画室の片隅に置いてある製作用の縁を探しに行った。
「もう君、火も要らないじゃないか」と岸本が言った。
「でも、何だか火が無いと寂しい――」
岡は画布を張るための白木の縁を岸本の見ている前で惜気もなくへし折って、それを焚付がわりに鉄製の暖炉の中へ投入れた。画架やら机やら寝台やらが置いてある天井の高い部屋の内には火の燃える音がして来た。岸本はその側へ椅子を寄せて、
「今日は君を見たくなって一寸やって来ました」
「好く来て下さいました。僕はまたあなたを訪ねようかと思っていたところでした」と岡が言った。
激情に富んだ岡は思わしい製作も出来ずに心の戦いのみを続けている苦い懶惰を切なく思うという風で、新しく張った大きな画布のそのままにして部屋の隅に置いてあるのを暖炉の側から眺めながら、
「岸本さん、僕はこの節お念仏を唱えていますよ――そういう心持に成って来ていますよ」
どうにでも釈れば釈れるようなことを岡は言出した。岡は更に言葉を続いで、
「巴里へ来てから、僕の有ってる旧いものはすっかり壊れてしまいました。見事にそれは壊れてしまいました。そんならどういう新しい道を取って進んだら可いかというに、それがまだ僕には見つかりません。僕はそれを待つより外に仕方がありません。それが僕の心に象を取るまで、あせらずに待つより外に仕方がないと思います。旅は僕を他力宗の信者にしました。僕はお念仏を唱えて、日々進んで行って見ようと思います。僕は国の方に居るお父さんのところへ手紙を書いてやりました――僕のお父さんというのは、それは僕のことを心配していてくれますからね――『お父さん、この節はお念仏を唱えるような心になりましたから、そんなに心配しないで待っていて下さい』ッて、ね」
七十四
運命に忍従しようとする岡の話は芸術の生涯に関したことではあったけれども、何となく岸本の耳にはこの画家の熱い、烈しい、しかも失われた恋に対する心の消息を語るようにも聞き做された。意中の人との別れ際に「安心していても好いでしょうね」と念を押して「ええ」という堅い返事を聞いたという岡、それぎり彼女を見ることも叶わなかったという岡、これほど相許した心のまことを踏みにじろうとする彼女の母親は悪魔であるとまで憤慨した手紙を送ったという岡、巴里へ来てからも時々彼女の兄を殺そうとするような夢を見て眼が覚めては冷たい汗を流すという岡、その岡の口唇から「旅は僕を他力宗の信者にしました」という声を岸本は聞きつけた。
その時、画室の外からコンコンと扉を軽く叩く音をさせて、半身ばかりを顕した貧しい感じのする仏蘭西人の娘があった。帽子も冠らずにいるその娘は画室の内の様子を見て直にも立去ろうとしたが、それを岡が呼留めた。岡は部屋の片隅から空罎を探して来て、ビイルを買うことをその娘に頼んだ。
「モデルかね」と岸本が訊いた。
「ええ、時々使ってくれないかって、ああしてやって来ます」
画室の壁には岡がブルタアニュの海岸の方で描いたという一枚の風景画が額縁なしに掛けてあった。何時来て見てもその油絵だけは取除さずにあった。岸本はその前に立って岡と話し話し眺め入っているうちに、やがて町から罎を提げた娘が戻って来た。
「この娘は姉妹ともモデルに雇われて来ます。この娘は妹の方です。頼めばこうして酒の使ぐらいはしてくれますが、平素遊びにやって来て騒いで仕方がありません」と岡は岸本に言って見せた。
娘は通じない日本の言葉で自分の噂をされるのを聞いて、笑って出て行った。岡は暖炉の側へテエブルを持出し、そこにビイルを置いて、国の方にある親達の噂をした。
「親というものにかけては、僕はどのくらい幸福を感じているか知れません。両親ともよく気が揃っています。それは僕を力にしていてくれます。こないだもお母さんのところから手紙を貰いました。『お父さんも大分年を取ったし、お前一人を力にしているんだから、お前もそのつもりでなるべく早く帰って来るように心掛けていておくれ』ッてお母さんの方から書いてよこしました。親さえなかったら、僕は国へ帰りたくは有りません。国の方の消息を聞くことは苦痛です。寧ろ僕は長く巴里に留りたいと思います。例の一件の時も、親達がどのくらい僕のために心配していてくれたか知れません。僕は愛人の最終の手紙を親達の家の方で受取りました。しかもその手紙はあの人のお母さんか姉さんが吩咐けて書かしてよこしたらしい手紙です。別れの手紙です。『こういうものが来てる』ッて、お父さんが心配顔に渡してくれましたから、僕は二階へ持って行ってそれを読みました……何時まで経っても僕が二階から降りて行かないでしょう、お父さんもお母さんも心配してしまって、お燗を一本つけて置いて僕を階下へ呼んでくれました。酒の香気を嗅いで見ると、僕も堪らなくなって、独りでしくしくやり出しました。お父さんは散々僕を泣かして置いて黙って視ていましたが、終に何を言出すかと思うと、その言草が好いじゃ有りませんか。『貴様も、女運の無い奴だなあ』ッて……」
岡は父親の言ったという言葉を繰返して見て、自ら嘲るように笑った。
七十五
親さえなくば国の方へは帰りたくないという岡を自分の身に思い比べながら、やがて岸本はその画室を出て天文台前の方へ戻って行った。
「皆旅に来て苦労するのかなあ」
思わずそれを言って見て、パスツウルの通りからモン・パルナッスの停車場へと取り、高架線の鉄橋の下をエドガア・キネの並木街へと出、肉類や野菜の市の立つ町を墓地の方へ行かずにモン・パルナッスの通りへと突切った。並木のかげに立つネエ将軍の銅像のあるあたりは朝に晩に岸本の歩き廻るところだ。六方から町の集まって来ている広場の一方にはルュキサンブウルの公園の入口を望み、一方には円い行燈のような天文台の石塔を望んだ。そこまで行くと、下宿も近かった。
「東京の友達もどうしているだろう――」
こう思いやって、乾き萎れたようなプラタアヌの若葉の下を歩いて行った。
岸本に取っては旅の心を引く一つの事蹟があった。他でもない、それはアベラアルとエロイズの事蹟だ。英学出の彼はあの名高い学問のある坊さんに就いて精しいことは知らなかった。でも彼がアベラアルの名に親しみ始めたのはずっと以前のことである。アベラアルとエロイズの愛。どれ程青年時代の岸本はその奔放な情熱を若い心に想像して見たか知れない。あの学問のある尼さんのためには男も捨て僧職も擲ったというアベラアルの名はどれ程若かった日の彼の話頭に上ったか知れない。
岸本は同宿するソルボンヌの大学生の口から、その仏蘭西の青年の通っている古い大学こそ往昔アベラアルが教鞭を執った歴史のある場所であると聞いた時は、全く旧知に邂逅うような思いをしたのであった。その事を胸に浮べて、彼は自分の部屋に帰った。旅の鞄に入れて国から持って来た書籍の中には昔を思い出させる英吉利の詩人の詩集もあった。その中にあるアベラアルとエロイズの事蹟を歌った訳詩の一節をもう一度開けて見た。
"WherésHéloise, the learned nun,
For whose sake Abeillard, I ween,
Lost manhood and put priesthood on ?
(From Love he won such dule and teen ! )
And where, I pray you, is the Queen
Who willed that Buridan should steer
Sewed in a sack's mouth down the Seine ?
But where are the snows of yester-year ?"
(The Ballad〈[#「Ballad」は底本では「Ballard」]〉 of Dead Ladies.――Translation from François Villon by Rossetti.)
東京下谷の池の端の下宿で、岸本が友達と一緒にこの詩を愛誦したのは二十年の昔だ。市川、菅、福富、足立、友達は皆若かった。あの敏感な市川が我と我身の青春に堪えないかのように、「されど去歳の雪やいづこに」と吟誦して聞かせた時の声はまだ岸本の耳の底にあった。
夜に入って、柔い雨が客舎の窓の外にあるプラタアヌの若葉へ来た。その雨の音のする静かさの中で、岸本はもう一度この事蹟を想像して見て、独り居る無聊を慰めようとした。
七十六
そんなに叔父さんは国の方の言葉を聞きたくているのか、叔父さんの旅の便りを新聞で読んでこの手紙を送る気に成ったと節子は岸本のところへ書いてよこした。煩く便りをするようであるが、国の方の言葉を聞くと思って読んでくれと書いてよこした。節子の手紙には泉太や繁の成人して行く様子を精しく知らせてよこしたが、何時でも単純な報告では満足しないようなところがあった。叔父さんに心配を掛けた自分の身も、今では漸く回復して、何事も知らない人が一寸見たぐらいでは分らないまでに成ったから安心してくれと書いてよこした。勿論見る人が見れば直ぐ分ることであるとも書いてよこした。彼女はまた、水虫のようなものを両手に煩ってとかく台所の手伝いも出来かねていると書いてよこした。相変らず髪の毛が抜けて心細いというようなことまで書いてよこした。こうした節子の手紙を読む度に岸本は嘆息してしまって、所詮国へは帰れないという心を深くした。
旅の空にあって岸本が送ったり迎えたりする同胞も少くはなかった。好い季節につれて、旅から旅へ動こうとする人達の消息を聞くことも多くなった。以太利の旅行を終えて岸本の宿へ土産話を置いて行った人には京都大学の考古学専攻の学士がある。これから以太利へ向おうとして心仕度をしているという便りを独逸からくれた人には美術史専攻の慶応の留学生がある。セエヌの河岸にある部屋を去って近く帰朝の途に上ろうとする美術学校の助教授もあり、西伯利亜廻りで新たに巴里に着いた二人の画家もあった。
「岸本君が巴里に来られたことを僕はモスコウの方で知りました」
こう言って旧い馴染の顔を岸本の下宿へ見せた一人の客もあった。この客は一二カ月を巴里に送ろうとして来た人であった。
岡が画室の方から来て部屋に落合ってからは、気の置けないもの同志の旅の話が始まった。何時逢って見ても若々しいこの客のような人を異郷の客舎で迎えるということすら、岸本にはめずらしかった。よく身についた紺色の背広の軽々とした旅らしい服装も一層この人を若くして見せた。
「岸本君は巴里へ来て遊びもしないという評判じゃ有りませんか。そんなにしていて君は寂しか有りませんか」
と客が言って笑った。
「これで岸本さんも万更遊ぶことが嫌いな方じゃないんだね」と岡は客の話を引取って、「人の行くところへは何処へでも行くし、皆で集って話そうじゃないかなんて場合に、徹夜の発起人は何時でも岸本さんだ。『色地蔵』だなんて岸本さんには綽名までついてるから可笑しい。恋の取持なぞは、これで悦んでする方なんだね。そのくせ自分では眺めてさえいれば可い人だ」
「だけれど、君、旅に来たからと言って、何もそんなに特別な心持に成らなくても可いじゃないか。国に居る時と同じ心持では暮せないものかねえ」と岸本が言出した。
七十七
一切のものの競い合う青春が過ぎ去るように、さすがに若々しく見える客も時の力を拒みかねるという風で、さまざまな旅の話に耽ったが、岡と一緒にその人が出て行った後まで種々な心持を岸本の胸に残した。
「今だから白状しますが、岸本君の詩集では随分僕も罪をつくりましたねえ。考えて見ると僕も不真面目でしたよ。君の詩をダシに使って、どれ程若い女を迷わしたか知れませんよ」
客の残して置いて行ったこの声はその人が居ない後になっても、まだ部屋の内に残っていた。岸本が若い時分に作った詩を幾つとなく暗誦したという客の顔はまだ岸本の眼前にあった。その人はそよそよとした心地の好い風が顔を撫でて通るような草原に寝そべって岸本の旧詩を吟じている若者を想像して見よとも言った。花でも摘もうとするような年若な女学生がよくその草原へ歩きに来ると想像して見よとも言った。風の持って行く吟声は容易に処女の心を捉えたとも言った。そしてその処女が何事も世間を知らないような良い身分の生れの人であればあるだけ、岸本の詩集が役に立ったとも言った。客が清しい、ほれぼれとするような声を有っていることは岸本もよく知っていた。この無邪気とも言えない、しかし子供のように噴飯したくなるような告白は岸本を驚かした。彼は全く自分と気質を異にした人の前に立って見たような気がしたのであった。
「しかし昔のような空想はだんだん無くなって行きますね。それだけ自分でも年をとったかと思いますね。僕は時々そう思いますよ、恋が出来ないと成ったら人間もこれで心細いものです。自分にはまだ出来る、そう思って僕は自分で慰めることが有りますよ」
これも客の残して行った声だ。
「僕にも出来る」
と客の前に立って、力を入れてそれを言ったのは岡だ。岸本はその時の二人の眼のかがやきをまだ眼前に見ることが出来た。
客が女性に近づくための方便としたという岸本の詩集は、作者たる彼に取ってはあべこべに女性の煩いから離れた時に出来た若い心の形見であった。漸く彼も二十五歳の頃で、仙台の客舎へ行ってそれを書いた。あの仙台の一年は彼が忘れることの出来ない楽しい時代である。ずっと後になってもよく思い出す時代である。そしてその楽しかった理由は、全く女性から離れて心の静かさを保つことが出来たからで。実際岸本は女性というものから煩わされまいとして青年時代からその日まで歩き続けて来たような男であった。
七十八
発つ発つという噂があって発てなかった美術学校の助教授がいよいよ北の停車場から帰国の途に上るという日は、ほんとうに人を送るような思いをして岸本も停車場まで出掛けて行った。その日は巴里に在留する美術家仲間は大抵集まった。送られる助教授は帰って行く人で、送る連中は残っているものだ。旅の心持は送るものの方にも深かった。丁度遠い島にでも集まっているもののところへ迎えの船が来て、ある一人だけがその船に乗ることを許されたように。助教授は若い連中からも気受の好い人であった。日本飯屋のおかみさんの家に外国人を混ぜずの無礼講の会でもあって、無邪気な美術家らしい遊びに皆旅の憂さを忘れようとする場合には、助教授は何時でも若いものと一緒になって歌った。このさばけた先達を見送ろうとして、よく鎗錆を持出した画家と勧進帳を得意にした画家とはダンフェール・ロシュルュウの方面から、口三味線の越後獅子に毎々人を驚かした画家はモン・パルナッスから、追分、端唄、浪花節、あほだら経、その他の隠し芸を有った彫刻家や画家は各自に別れ住む町々から別離を惜みに来た。岡はまた帰国後の助教授の口添に望みをかけて、あきらめ難い心を送るという風であった。こんな場合ででもなければめったに顔を合せることも無いような美術家とも岸本は一緒になった。仏蘭西の婦人と結婚して六七年も巴里に住むという彫刻家にも逢った。亜米利加の方から渡って来て画室住居するという小柄な同胞の婦人の画家にも逢った。
助教授を見送って置いて、岸本は地下電車でヴァヴァンの停留場へ出た。彼は所詮国へは帰れないという心を切に感じて来た。その心は国の方へ帰って行く人を見ることによって余計に深められた。ヴァヴァンから下宿をさして歩いて行くと、丁度羅馬旧教のコンミュニオンの儀式のある頃で、ノオトル・ダムの分院の前あたりで寺参りの帰りらしい幾人かの娘にも行き逢った。清楚な白衣を着た改まった顔付の処女等は母親達に連れられて幾組となく町を歩いていた。彼はこの知らない人ばかりの国へ来てこれから先の自分の生涯をいかにしようかと思い煩った。
「今日まで自分を導いて来た力は、明日も自分を導いてくれるだろうと思う――そんなに心配してくれ給うな」
東京の方のある友人に宛てて書いたこの言葉を、岸本は下宿に戻ってからも思い出して見た。出来ることなら彼は旅先で適当な職業を見つけたいと願っていた。出来ることなら国の方に残して置いて来た子供等までも引取って異郷に長く暮したいと願っていた。それにはもっと時をかけ好い語学の教師を得て、言葉を学ぶ必要があった。この言葉を学ぶということと、旅先で執れるだけ筆を執って国を出る時に約束して来た仕事を果すということとは、とかく両立しなかった。おまけに手紙の往復にすら多くの月日を要する遠い空にあっては、国の方の事情も通じかねることが多く、ややもすると彼は眼前の旅をすら困難に感じた。
「運命は何処まで自分を連れて行くつもりだろう」
こうした疑問は岸本の胸を騒がせた。どうかすると彼は部屋の床の上に跪き、堅い板敷に額を押宛てるようにして熱い涙を流した。
七十九
知らない人達の中へ行こうとした岸本は一年ばかり経つうちに、ビヨンクウルの書記やブロッスの教授の家族をはじめ、ラペエの河岸に住む詩人、マダムという町に住む婦人の彫刻家、ベチウスの河岸に住む日本美術の蒐集家なぞの家族を知るように成った。しかし何かこう食足りないような外来の旅客としての歯痒さは土地の人に交れば交るほど岸本の心に附纏った。
六月に入って、岸本はビヨンクウルの書記のお母さんから手紙を貰った。その中にあの老婦人が長いこと病床にあったことから書出して、定めしあなたのことも忘れていたかのようにあなたには思われようが、決してそうで無い、この御無沙汰も自分の病気ゆえであると書いてよこした。次の土曜日の晩には食事に来てくれないか、自分等一同あなたを見たいと書いてよこした。最早あなたも少しは仏蘭西語を話されることと思う、自分の家の嫁は英語を話さず忰もとかく留守勝ちのために、しばしばあなたを御招きすることもしなかったと書いてよこした。東京の姪からも手紙で、あなたにお目に掛るかとよく尋ねよこすと書いてよこした。老婦人はこの手紙を英語で書いてよこした。あの書記のお母さんは一時は危篤を伝えられたほどで、病中に岸本はビヨンクウルを訪ねても老婦人には逢わずに帰って来たことも有った。
「仏蘭西へ来て一番最初に逢った老婦人が、一番多く自分のことを考えていてくれる」
岸本は何かにつけてそれを感じたのであった。
パントコオトの日も過ぎた頃、岸本は復たビヨンクウルから手紙を貰った。
その時はお母さんの手でなくて、書記の手で、二三の親しい友達や親戚のものが茶に集るから、岸本にも出掛けて来るようにと、してあった。
ベデカの案内記なしにはセエヌ河も下れなかった頃に比べると、ともかくも岸本は水からでも陸からでもビヨンクウルに行かれるまでに旅慣れて来た。彼は好きな仏蘭西人の家族を見る楽みをもって、電車でセエヌ河の岸を乗って行った。書記の家の門前に立って鉄の扉を押すと、例の飼犬が岸本を見つけて飛んで来たが、最早吠えかかりそうな姿勢は全く見せなかった。
老婦人は草花の咲いた庭に出ていて、家の入口の正面にある広い石階の近くに幾つかの椅子を置き、そこで客を待っていた。その辺には長い腰掛椅子も置いてあった。ところどころに樹の葉の影の落ちている午後の日の映った庭の内で、岸本は老婦人や細君や茶に招かれて来ている婦人の客などと一緒に成った。仏蘭西の婦人を細君にする露西亜の音楽家という夫婦にも引合わされた。
「私も、もう岸本さんにお目に掛れまいかと思いましたよ。こんなに丈夫に成ろうとは自分ながら夢のようです」
それを老婦人は岸本に言って聞かせた。
半死の病床から再び身を起した老婦人が相変らず古風な黒い仏蘭西風の衣裳を着け、まだいくらか自分で自分の年老いた体躯をいたわり気味に庭の内を静かに歩いているのを見ることは、岸本に取っても不思議のように思われた。彼はこの老婦人が財産を皆に分けてくれ、遺言までもした後で、もう一度丈夫に成ったその手持無沙汰な様子を動作にも言葉にも看て取った。そればかりではない、しばらく話しているうちに、彼はこの家の人達に取ってある真面目な問題が起っていることを知った。
八十
仏蘭西を捨てて日本の方へ行ってしまった老婦人の姪の噂が出た。茶の会とは言ってもその日は極く内輪のものだけの集りらしく、紅茶の茶碗を手にした人達があちこちの椅子に腰掛けて思い思いに話していた。その中で岸本は老婦人の口から、東京の方にあるマドマゼエルの結婚の話を聞いた。
老婦人は心配顔に、
「あの手紙を持って来て御覧」
と細君に言った。細君は家の正面にある石階を上って行って、日本から来た手紙をそこへ持って来た。
「お母さん、滝という方ですよ」と細君はマドマゼエルの手紙を見て言った。
「岸本さんは滝さんという美術家を御存じですか」と老婦人が訊いた。
「滝という苗字の美術家なら二人あることは知ってますが、しかし私は直接にはよく知りません」
この岸本の答は一層老婦人を不安にしたらしかった。
「岸本さんですらよくは御存じないと仰る」
と老婦人は細君と眼を見合せて、姪が結婚するという美術家はどういう日本人であろうという意を通わせた。仏蘭西の方に居てマドマゼエルの為にほんとうに心配している人は、何と言ってもこの叔母さんらしかった。その時岸本は、「姪がああして日本の方へ行ってしまったのは、私が悪いのだ、私の落度だ、と言って皆が私を責めます」と曾て老婦人が彼に言ったことを思い出した。事情に疎い外国の婦人の身をもって、果して適当な配偶者を異郷に見出すことが出来たであろうか、こうした掛念がありありと老婦人の顔に読まれた。
「この滝さんは巴里に遊学していらしったことも有るそうです。手紙の中にそう書いてあります」
と細君が言って、マドマゼエルの手紙をひろい読みして聞かせる中に、岸本に取っては親しい東京の番町の友人の名が出て来た。番町の友人の紹介で、マドマゼエルがその美術家を知ったらしいことも分って来た。
「日本で結婚するなんて、儀式はどうするんでしょう、宗教はどうするんでしょう――マドマゼエルも唯一人でさぞ困ることでしょうね」
と細君が言えば、老婦人もその尾に附いて、
「可哀そうな娘」
とつぶやいた。
「とにかく、日本の若い美術家も多勢巴里に来ていることですし、私がその滝さんのことを訊いて進げましょう。マドマゼエルだってしっかりした人ですから、下手な事をする気遣いはありませんよ」
こう岸本は老婦人や細君を言い慰めた。
間もなく主人と前後して、日本の弁護士がそこへ入って来た。老婦人はその弁護士にも滝という人の事を尋ねた。あだかも法律を談ずる日本の弁護士ともあるべき人が日本の芸術界の消息に通じていない筈はないという調子で。その弁護士は滝の名も聞いたことがないと答えたので、老婦人は主人や岸本を前に置いて平素にない苛酷しい調子を出して言った。
「お二人とも御存じが無い」
主人はまた東洋の果にあるマドマゼエルの身を案じ顔に、黙ってお母さんの前に立っていた。
八十一
岸本は自分をこの仏蘭西人の家族に紹介してくれたマドマゼエルの為に、日本の空を慕って行ったという可憐な人の為に、出来るだけその滝という美術家のことを調べて見て、遠く離れて心配している叔母さん達を安心させたいと思った。ビヨンクウルの家を辞して、ポプリエの並木の続いた岸づたいに河蒸汽の乗場へ下りて行く道すがらも、彼は自分で自分に尋ねて見た。何故ビヨンクウルの人達はあれほどマドマゼエルの結婚を心配するのであろうかと。
「相手方が日本人だからではないか――」
答はどうしてもそこへ落ちて行った。船に乗ってからも岸本はあのマドマゼエルの異国趣味が日本人と結婚するところまで突きつめて行ったかと思いやった。
それから数日の後、岸本はマドマゼエルの配偶者に就いて好い話を聞き込んだ。在留する美術家仲間でも、最近にスエズ廻りで国の方から来た画家の牧野が滝のことをよく知っていた。牧野は岡と懇意で、東京の番町の友人とも知合の間柄であった。「老大」を送り、美術学校の助教授を送り、その他岸本が知っているだけでも三人の若手の美術家を送った「巴里の村」では、この牧野、西伯利亜廻りで来た小竹、その他二三の新顔を加えた訳であった。
「滝のような男の細君に成ったものは、そりゃ仕合ですよ」
この牧野の言葉に力を得て、早速岸本はビヨンクウル宛に好い報知を送った。好い生立ちを有った滝の頼もしい人柄に就いて牧野から聞取ったことを書いて、マドマゼエルは選択を過らなかった、決して心配することは要らないと思うと書添えて送った。
書記のお母さんの返事は避暑地なるセエブル・ドロンヌの海岸の方から岸本の許へ来た。老婦人は岸本の方から言って遣ったことの礼から書出して、忰は今巴里に居るが、しかし御手紙は自分にも読めと言って当地へ送って来たから、自分から御返事する、いろいろ難有かったと書いてよこした。もしも自分の兄が――姪の実父が今日までも生きながらえていたなら、いかに彼がこの結婚を考えたであろう、それを思うと自分はただただ心に驚くばかりであると書いてよこした。しかし御申越の様子では万事好さそうにも思われるし、何等の助言をも姪から自分の許へは求めても来ないから、自分等は蔭ながらこの事の都合好く運ばれるのを望んでいると書いてよこした。老婦人はまたセエブル地方の大きく美しいことを言い添えて、ここへ暑を避けに来ている幾多の家族は皆友達のようであり、砂上に遊び戯るる子供等を見るのも楽いと書いてよこした。とかく季候は雨勝ちであったが、幸いに日も輝いて来たと書いてよこした。あなたの老友よりともしてよこした。
八十二
思いがけない人の心を読んだという心持で、岸本はビヨンクウルの書記宛にもう一度手紙を書いてやった。そんなにマドマゼエルの結婚談が心配になるなら、東京の番町の友人はマドマゼエルの力に成る人と思うから、万事あの友人に相談するようマドマゼエルの許へ言ってやったら可かろうとした手紙を送った。
この手紙は老婦人の方へ廻って行ったと見え、折返しセエブルの海岸から返事が来た。姪のことで御心配をかけて済まなかったと老婦人は書いてよこした。申すも心苦しいが、姪は我儘者で、彼女の好きなことしかした例がない、もともと彼女は極くきゃしゃに生れついたもので、彼女の母親も父親もあれまでに彼女が育つとは考えなかったほどである、そして彼女の空想のままに彼女の好めるままにさせて置いて両親が黙って視ていたというのも、恐らくその原因は彼女が長いこと弱々しかったところにあると思うと書いてよこした。彼女は非常に富有な家に生れて、世間というものを知らずにいる、随って他の忠告を容れようとはしない、何事も彼女が独りで出来ると思うならば、それが出来れば実に結構であると書いてよこした。なんでも滝という方は巴里遊学中には姪を御存じもなかったようである、姪からの手紙には非常に遠慮深い方だとしてあるが、彼女はその滝さんがいかなる種類の美術家であるやすらも報告することを忘れていると書いてよこした。もしまたあなたが忰宛に何か御知らせ下さるようなことが有れば、忰は相変らず図書館の方に通っているし、自分もあなたの御意見によって番町の御友人とやらに御相談するよう姪の許へ只今別に書面を送るつもりである、しかしその御友人の反対を恐れたら、あるいは姪は御相談にも参らないかも知れないと書いてよこした。彼女は半死の床にある母親を捨ててただただ彼女の娯楽のために日本の方へ去ったものである、自分等は電報で彼女の帰国を促したが、彼女が病める母を見舞うために巴里へ着いた時は既に万事が終った後であったと書いてよこした。彼女の我儘は考えて見るだに恐ろしい、自分等には彼女の心は分らないと書いてよこした。
この老婦人の手紙を前に置いて見ると、岸本は自分まで一緒に叱られているような気を起した。何事も思った通りにしか出来ないのは、あのマドマゼエルばかりでなくて、彼自身が矢張それであるから。しかし彼は心の中でマドマゼエルを弁護した。「日本というものは自分に取っては空想の郷でしたからね」とは老婦人の述懐ではないか。言わばマドマゼエルは叔母さんの夢見たことを実際に身に行おうとした人ではないか。その人が日本に行き、日本人と結婚するという場合に、何故もっと同情のある心は持てないのであろうか。半死の床にある母親を捨てて仏蘭西を出たということは、あるいはマドマゼエルの落度かも知れないが、それほど思いつめたところが無くてどうして単身東洋の空に向うことが出来ようかと。
八十三
老婦人の手紙の中には可成苛酷しいことが書いてあった。しかし知らない土地の人でそれだけ真実のことを岸本のところへ書いてよこしてくれる人すら、めったに無かった。彼は異邦人としての自分の旅がそれほど土地の人達の生活から縁遠いものであることを知って来た。諸国から巴里に集って来る多くの旅人を相手に生計を営んでいるような人達の間に醸される空気が、非常に慇懃なもので険しく冷いものを包んでいるような空気が、慣れては知らずにいるほど職業的に成ってしまったような空気が、実に濃く彼の身を囲繞いていることを知って来た。仏蘭西人の家庭を見て来た眼で自分の下宿を見る度に、何時でも彼は嘆息してしまった。
岸本の下宿には高瀬という京都大学の助教授が独逸の方から来て泊っていた。この人の部屋は岸本の部屋と壁一重隔てた直ぐ隣りにあった。窓一つあるその部屋へ行って見ると、高いプラタアヌの並木の枝が岸本の部屋で見るよりも近く窓際に延びて来ていて、濃い葉の緑は早や七月の来たことを語っていた。
「千村君の居た宿屋が見えますね」
と岸本は思出したように言って、青々とした葉裏から透けて見える向うの旅館の建築物を眺めた。高瀬を岸本のところへ紹介してよこしたのも同じ大学の教授であった、岸本に取ってはこの下宿の食堂でしばらく食事だけを共にした千村であった。
「千村君も、よくそれでもあんな宿屋に辛抱したと思いますよ」と岸本が言った。「千村君が私にそう言いましたっけ。『あなたの部屋の方は、まだそれでも羨ましい。是方の窓から見てますと、あなたの部屋の窓には一日日が映っています』ッて。高い建築物ばかりで出来た町ですから、ああいう日の映らない部屋もあるんですね。ホテルだなんて言うと好さそうですが、実際千村君には御気の毒なようでした」
こう話しているうちに、向うの旅館へ岸本の方から押掛けて行って夜遅くまで互いに旅の思いを比べ合ったり、千村の方からも食事の度にこの下宿へ通って来て話し込んで行ったりした時のことが、岸本の胸に浮いて来た。
「千村君の居る頃には、懐郷病の話なぞもよく出ましたっけ。『お前が西洋へ行ったら、必と懐郷病に罹る』と言われて来たなんて、そんな話も有りました」
と復た岸本が独逸の方に行っている千村の噂をすると、高瀬も何か思い出したように、
「西洋へ来ているもので、多少なりとも懐郷病に罹っていないようなものは有りませんよ」
この高瀬の嘆息は、無暗と強がっているような旅行者の言葉にも勝って、なつかしい同胞の声らしく岸本の耳に聞えた。
八十四
高瀬は千村教授と同じように経済の方面で身を立てた少壮な学者であった。岸本が巴里で逢った頃の千村に比べると、高瀬は独逸の方で散々いろいろな思いをした揚句に巴里へ来た人で、それだけあの教授よりは旅慣れていた。高瀬は独逸の方で見たり聞いたりしたさまざまな旅行者の話を巴里へ持って来た。驚くべく激しい懐郷病に罹った同胞の話なぞも高瀬の口から出て来た。ある留学生は高い窓から飛んで死んだ。ある人は極度のヒステリックな状態に堕ちた。その人は親切と物数寄とを同時に兼ねたような同胞の連に引立てられて、旅人に身をまかせることを糊口とするような独逸の女を見に誘われて行った。突然その人は賤しい女を見て泣出したという。こんな話を高瀬から聞いた時にも、岸本は笑えなかった。
「酷いものですな」と岸本が言った。「巴里にあるわれわれの位置は、丁度東京の神田あたりにある支那の留学生の位置ですね。よく私はそんなことを思いますよ。これでは懐郷病にも罹る筈だと思いますよ。今になって考えると、あんなに支那の留学生なぞを冷遇するのは間違っていましたね」
「神田辺を歩いてる時分にはそうも思いませんでしたがなあ。欧羅巴へ来て見てそれが解りました」と高瀬も言った。
「あの連中だって支那の方では皆相当なところから来てる青年なんでしょう。その人達が旅人扱いにされて、相応な金をつかって、しかもみじめな思いをするかと思うと、実際気の毒になりますね。金をつかって、みじめな思いをするほど厭なものはありませんね。私が国を出て来る時に、『欧羅巴へ行って見ると、自分等は出世したのか落魄しているのか分らない』と言った人も有りましたっけ」
思わず岸本は支那留学生に事寄せて、国を出る時には想像もつかなかったような苦い経験を、日頃の忍耐と憤慨とを泄らそうとした。彼はパスツウルの近くに画室住居する岡や牧野や小竹のことなぞを考える度に、淫売婦や裏店のかみさんのような人達と同じ屋根の下に画作することを胸に浮べて、あの連中の実際の境遇を憐まずにはいられなかった。自由、博愛、平等を標語とするこの国には極く富んだものと極く貧しいものとが有るだけで、自分の郷国にあるような中位で快適な生活はないのかとさえ疑った。
朝に晩に旅の思いを比べ合う高瀬のような話相手を得て見ると、岸本は名状しがたい心持が自分ばかりの感じているものでもないことを知った。屋外へ歩き廻りに行く折などには、彼は町の附近に見つけて置いた自分の好きな場所へよく高瀬を誘って行った。天文台の裏手にあたる静かな並木の続いた道へ。ルュキサンブウルの美術館の裏手にある薔薇園へ。時にはまたゴブランの市場に近い貧しい町々の方へ。そして、詩と科学と同時にあるような巴里を客舎の窓から眺めて長い研究生涯の旅の途中にしばらく息を吐いて行こうとするような高瀬に、自分の身を思い比べた。
八十五
「お前の旅は他の人とは違うだろう。お前は隣室の高瀬にまで隠そうとしていることが有るだろう。お前はそれで枕を高くしてお前の寝台に眠ることが出来るのか」
こういう声が来て岸本を試みた。丁度町の角にあたる岸本の部屋は、産科病院の見える並木街に向いた方で高瀬の部屋に続き、モン・トオロン行の乗合自動車の通る狭い横町に向いた方で今一つの部屋に続いていた。その部屋の方は控訴院附の弁護士だという少壮な仏蘭西人が寝泊するだけに借りていて、朝早く出ては晩に遅くなって帰って来た。日中は居ないも同様であった。下宿人としては高瀬、岸本の外に年若な独逸人が居るだけで屋の内は割合にひっそりとしていた。自分の部屋に居て聞くと、どうかすると隣室を歩き廻る高瀬の靴音が岸本の耳に入る。科学的な研究を一生の仕事としているような高瀬も油絵具で室内のさまでも描いて見ることを慰みにして、巴里へ来た序にそうした余技を試みているらしい。壁越しに聞えて来る靴音は、その人に面と対っている時にも勝って、隣の旅客の学者らしい倦怠を伝えて来た。
岸本は置戸棚の開き戸に張ってある姿見の前に行った。旅に来て一層白さの眼立つように成った彼自身の髪の毛がその硝子に映った。しばらく彼は自分で自分のすがたに見入っていた。何となく自ら欺こうとするような人がその姿見の中に居た。
「Dead secret.」
ふとそんな忌々しい言葉が英語で彼の口に浮んだ。誰にも知れないように自己の行跡を葬ろうとしている岸本は、なるべく他の事に紛れて、暗い秘密に触ることを避けようとした。遠く国を離れて一年あまり待つうちに、「何事も知らない人が一寸見たぐらいでは分らないまでに成ったから安心してくれ」という便りを姪から受取るほどに成った。兄が黙っていてくれ、節子が黙っていてくれ、自分もまた黙ってさえいれば、どうやらこの事は葬り得られそうに見えて来た。兄が黙っていてくれないようなことは無かった。兄は一度引受けたことを飽くまでも守り通す性質で、人一倍体面を重んずる人で、おまけにこの事は娘の生涯にも関ることであるから。節子が黙っていてくれないようなことは無かった。以前に使っていた婆やをすら恐ろしいと言って機嫌を取っていると書いてよこすほどの彼女であるから。して見ると自分さえ黙っていれば――黙って、黙って――そう岸本は考えて、更に「時」というものの力を待とうとした。もとより彼は自己の鞭を受けるつもりでこの旅に上って来た。苦難は最初より期するところで、それによって償い得るものなら自分の罪過を償いたいとは国を出る時からの願いであった。
「こんな思をしても、まだそれでも足りないのか」
と彼は自分で自分に繰返して見た。
八十六
節子はめずらしく岸本の夢に入った。寝苦しさのあまり、岸本が重い毛布を跳ねのけ、壁の側の寝台の上に半ば身を起して周囲を見廻した時は、まだ夢の覚め際の恐ろしかった心地が残っていた。
夏らしい夜ではあったが、妙に寒かった。岸本は寝衣の上に国の方から持って来た綿入を重ねて、寝台を下りて見た。窓に近く行って高い窓掛を開けて見ると、夜の明けがたの蒼白い静かな夢のような光線が彼の眼に映った。街路もまだ響の起らない時で、僅かに辻馬車を引いて通る馬の鈴の音と、町々を警めて歩く巡査の靴音とが、暗いプラタアヌの並木の間に聞えていた。明けそうで明けない短か夜の空は国の方で見るよりもずっと長い黄昏時と相待って、異国の客舎にある思をさせる。隣室の高瀬も、仏蘭西人の弁護士もまだよく寝入っている頃らしかった。岸本は喫み慣れた強い仏蘭西の巻煙草を一服やって、めったに見たことのない節子の来た夢を辿った。乳腫で截開の手術をしたという彼女が胸のあたりを気にしている容子が岸本の眼にちらついた。あだかも一種の恐怖に満ちた幻覚によって、平素はそれほどにも思わない物の意味を切に感ずるように。
「叔父さんは知らん顔をして仏蘭西から帰っていらっしゃいね」
と東京浅草の家の方で節子の言った言葉、岸本が旅仕度でいそがしがっていた頃に彼女の近く来て言ったあの言葉が、ふと胸に浮んだ。岸本は独りでそれを思出して見て、ひやりとした。
窓掛を開けたままにして置いて、復岸本は寝台に上った。もう一度眠に落ちた彼が眼を覚ました頃は大分遅かった。その朝、恐ろしかった夢の心地は、起出して机に対った時でもまだ彼から離れなかった。
「節ちゃんはどうしてああだろう。どうしてあんな手紙を度々寄すんだろう」
こう岸本はそこに姪でも居るかのように独りで言って見て、溜息を吐いた。なるべく「あの事」には触れないように、それを思出させるようなことさえ避けたくている岸本に取っては、節子から度々手紙を貰うさえ苦しかった。彼は以前にこの下宿に泊っていた慶応の留学生からある独逸語を聞いたことがある。その言葉が英語の incest を意味していて、偏った頭脳のものの間に見出される一つの病的な特徴であると説明された時は、そんな言葉を聞いただけでもぎょっとした。彼はまたある若い夫人に関係があったという他の留学生の身上話を聞かされた時にも、その若い夫人が夫の旅行中に妊娠したという話を聞かされた時にも、そんな話を聞いただけで彼は酷く心に責められたことがある。況してその年若な留学生が自己の美貌と才能とを飾るかのようにその話を始めた時には、彼は独りで激しい心の苦痛を感ぜずにはいられなかった。何故、不徳はある人に取って寧ろ私かなる誇りであって、自分に取ってこんな苦悩の種であるのだろう、と嘆いたことさえあった。この一年あまりというもの、彼は旅に紛れることによって、僅に心の眼を塞ごうとして来た。
八十七
なつかしい故国の便りは絵葉書一枚でも実に大切に思われて時々旧い手紙まで取出しては読んで見たいほどの異郷の客舎にあっても、姪から貰った手紙ばかりは焼捨てるとか引裂いてしまうとかして、岸本はそれを自分の眼の触れるところに残して置かなかった。蔭ながら彼は節子に願っていた。旅にある自分のことなぞは忘れて欲しい、生先の長い彼女自身のことを考えて欲しいと。その心から彼はなるべく節子宛に文通することを避け、彼女に書くべき返事は義雄兄宛に書くようにして来た。しかし、もう好い加減に忘れてくれたかと思う時分には、復た彼女から手紙が来て、その度に岸本は懊悩を増して行った。神戸以来幾通となく寄してくれた彼女の手紙は疑問として岸本の心に残っていた。あの暗い影から――一日も離れることの無かったほど附纏われたというあの暗い影から、漸く離れることが出来たと言って書いて寄した時からの彼女は、何となく別の人である。あれほどの深傷を負わせられながら、彼女は全く悔恨を知らない人である。岸本に言わせると、若い時代の娘の心をもって生れて来た節子のような女が、非常に年齢の違った、しかも鬢髪の既に半ば白い自分のようなものに対って、彼女の小さな胸を展げて見せるということが有り得るであろうかと。そう思う度に、岸本は節子が一人の男の児の母であることを想って見た。離れ易く忘れ易い男と女の間にあって、どれ程その関係が根深いものであるかをも想って見た。そこまで想像を持って行って見なければ、彼女の書いて寄す手紙はどうしても岸本の腑に落ちないふしぶしが有った。
「子供を持つとああいうものかしら――」
何時の間にか岸本は思い出したくないことを思い出して、独りで部屋の内に茫然と腰掛けていた。彼は、節子が不義の観念を打消すことによって彼女の母性を護ろうとしているのではないかと疑った。遠く離れて節子のことを考える度に、彼は罪の深いあわれさを感ずるばかりでなかった。同時に言いあらわし難い恐怖をすら感ずるように成った。
部屋の扉を外から叩く音がした。岸本は椅子を離れて扉を開けに行った。
八十八
扉を叩いたのは岡であった。新しい展覧会の催しがあると言っては誘いに来てくれ、マデラインの寺院に近い美術商店に新画が掛替ったと言っては誘いに来てくれるこの画家の顔を見ると、岸本も気を取直した。岡は国へ帰りたくないというような思い屈したものばかりでなく、何時でも血気壮な若々しいものを一緒に岸本の許へ持って来た。
「岡君、君はアベラアルのことを聞いたことは有りませんか」
と岸本が言出した。
古い歴史の多い巴里に居て見るとこの大きな蔵のような都からは何が出て来るか知れないということから始めて、岸本はアベラアルとエロイズの事蹟が青年時代の自分の心を強く引きつけたこと、巴里に来て見るとあのアベラアルが往昔ソルボンヌの先生であったこと、あの名高い中世紀の坊さんあたりの時代から今のソルボンヌの学問の開けて来たこと、それから巴里のペエル・ラセエズの墓地にあの二人の情人の墓を見つけた時の驚きと喜びとを岡に語った。
「この下宿には今、柳という博士も飯だけ食いに通って来ています。千村君の居たホテルに泊っています。矢張京都の大学の先生でサ。その柳博士に、隣に居る高瀬君に、僕と、三人でペエル・ラセエズを訪ねて見ましたよ。なかなか好い墓地でした。突当りには『死の記念碑』とした大理石の彫刻もあったし、丘に倚ったような眺望の好い地勢で、礼拝堂のある丘の上からは巴里もよく見えました。散々僕等は探し廻った揚句に、古い御堂の前へ行って立ちました。それが君、アベラアルとエロイズの墓サ。二人の寝像が御堂の内に置いてあって、その横手のところには文字が掲げてありました。この人達は終生変ることのない精神的な愛情をかわしたなんて書いてありましたっけ。まあ比翼塚のようなものですね。でも君、青苔の生えた墓石に二人の名前が彫りつけてでもあって、それを訪ねて行くんなら比翼塚の感じもするが、どうしてそんなものじゃない。男と女の寝像が堂々と枕を並べているから驚く。『さすがにアムウルの国だ』なんて、高瀬君が言って笑いましたっけ」
この岸本の旅らしい話は岡を微笑ませた。岸本は言葉を継いで、
「しかし、カトリックの国でなければ見られないような、古めかしい、物静かな御堂でしたよ。御参りに行くような人も君、沢山あると見えて、その御堂を囲繞いた鉄柵のところには男や女の名が一ぱいに書きつけて有りましたっけ。ああいうところは西洋も日本も同じですね。皆あの二人の運命にあやかりたいんですね――」
そこまで話して行くと、岡は岸本の言葉を遮った。
「岸本さん、あなたはどう思うんです。あなたの年齢になっても、まだ恋を想像するようなものでしょうか」
「そりゃ君、年をとれば取ったで、ずっと若い時分とは違った、複雑な恋愛の境地があるとは僕も考えるね。しかし、恋なんてことは最早二度と僕には来そうも無い」
若かった日の岸本はこんな話を口にするさえ直ぐ顔が紅くなった。まだ昔のように熱い涙の流れて来るようなことは有っても、彼の頬は最早めったに染まらなかった。
八十九
「岸本さん、僕は御願いがあって来ました」とその時になって岡が言った。「実は僕はまだ今朝から食いません」
岸本は眼を円くして岡の方を見た。旅に来ては互に助けたり助けられたりする間柄で、こんなことはめずらしくは無かったが、あまりに率直な岡の調子が岸本を驚かした。彼はこの話好きな画家が「飢」を側に置いて、「恋」に就いて語っていたことを知った。
「岡君も有る時には有るが、無い時にはまた莫迦に無い人だねえ」と岸本は心易い調子で言って笑った。「まあ、どうにかしようじゃないか。そんなら君はシモンヌの家で昼食でもやりながら待っていてくれ給え。僕は直ぐに後から出掛けて行きますから」
岸本の旅も足りたり、足りなかったりであった。それは高瀬のような旅とも違って、多くの月日の間には故郷の方の事情の変って行くところからも来、巴里に来て出来るつもりの仕事がとかく果せないところからも来ていた。
「外国に来て困るのは、ほんとに困るんだからなあ」こんなことを独りで言って見て、一歩先に出て行った岡の後を追った。
シモンヌの家へ行って見ると、例の奥まった部屋の片隅には亭主から給仕まで一緒に集って、客商売の家らしく可成遅い食卓に就ていた。シモンヌはますます可愛らしい娘になって行った。彼女は母親の傍に腰掛けて仏蘭西の麺麭なぞを頬張りながら喰っていた。この家族の食事するさまを楽しげに眺めながら、同じ部屋に居て岡も簡単な昼食を始めていた。そこへ岸本はいくらかの用意したものを持って行った。
牧野、小竹の二人がこの珈琲店に落合ってから、岡は余計に元気づいた。三人の画家の中でも、小竹が一番年長で、その次が岡、牧野の年順らしかった。牧野も、小竹も、岸本に取っては国の方で名前を聞いていた人達であった。牧野には、岸本はもっと激烈な人を想像していた。逢って見た牧野は存外やさしい、綿密な、しかも気鋭な美術家であった。光沢のある頬の色は紅味勝ちな髪の毛と好く調和して、一層この人を若々しく見せた。小竹には、岸本はもっと親しみ難いような人を想像していた。旅で一緒に成った小竹は直ぐにも親しめそうな、人を毛嫌いするところの少い美術家で、誰にでも好かれそうな沈着な性質を見せていた。二人は巴里へ来てまだ月日も浅し、旅らしい洋服までが黒い煤にも汚れずにあった。
「牧野は矢張牧野だ。もっと弱ってでも来るかと思ったら、君の元気なのには感心した」と岡が言った。
「そりゃ岡なんかとは違うよ」と牧野は戯れるように。
「こうして集って見ると、矢張僕が一番年長かなあ」と岸本が言った。
「岸本さんなぞは、もう老人の部ですよ」と復た牧野が戯れるように言って笑った。
「でも、国の方に居るとこんなに皆集るようなことも無いし、何と言っても旅は面白いね」と小竹が言った。「岡の贔顧なマドマゼエルもよく拝見したしサ――」
「とにかく旅に来ると、自分というものを省るようには成るね」と岡はやや真面目になって答えた。しばらく岸本はこの人達と一緒に楽しい時を送っていた。彼は、何を見聞しても面白そうな心にわだかまりの無い牧野や小竹を羨ましく思った。
九十
国の方に残して置いて来た子供のことも心に掛って、遠く離れている泉太や繁を養うためにも、岸本は果したいと思う仕事を客舎で急ごうとした。七月も下旬に入った頃であった。窓の外へは時々雷雨が来て、どうかすると日中に燈火を欲しいほど急に部屋の内を暗くすることも有った。岸本が稿を継ごうとしたのは東京浅草の以前の書斎で書きかけた自伝の一部ともいうべきものであった。部屋に居て机に対って見ると、その稿を起した頃の心持が、まだこの旅を思立たない前に恐ろしい嵐の身に迫って来た頃の心持が、あの浅草の二階でこれが自分の筆の執り納めであるかも知れないと思った頃の心持が、岸本の胸の中を往来した。巴里の客舎にあって、もう一度その稿を継ぐことが出来ると考えるさえ彼には不思議のようであった。
岸本がアウストリア対セルビア宣戦の布告を読んだのは、丁度その自分の仕事に取掛っている時であった。一日は一日より何となく町々の様子がおだやかでなくなって来た。不思議な、圧しつけるような、底気味の悪い沈黙は町々を支配し始めた。岸本が毎日食堂で見る顔触は、産科病院側の旅館から通って来る柳博士に隣室の高瀬の二人で、若い独逸人の客は最早見えなかった。食堂へ集る度に、高瀬等と岸本とは互いに不思議な顔を見合せるように成って行った。
来るべき大きな出来事の破裂を暗示するような不安な空気の中で、岸本は仕事を急いだ。あのノルマンディ生れの仏蘭西の作家が「聖アントワンヌの誘惑」を起稿したのは普仏戦争の最中で、巴里の籠城中に筆を執ったとやら。丁度あの作家は五十歳でその創作を思い立ったとやら。岸本はそんなことを旅の身に想像し、国の方に居る頃から友達とよく話し合ったあの作家が四十何年か前には巴里で物を書いていたことを想像し、それによって自分を慰め励まそうとした。時々彼は執りかけた筆を置いて、部屋の窓へ行って見た。驟雨のまさに来ようとする前のようなシーンとした静かさが感じられた。食堂の方へも行って見た。そこには、おそろしく倹約に暮している下宿の主婦が、燈火を点け惜んで、薄暗い食堂の隅に前途の不安を思いながらションボリ立っていた。
「岸本さん、御覧なさい、あれは何かの前兆です」
と主婦は食堂の窓の側に立って、黄昏時の空気のために紅味勝ちな紫色に染まった産科病院の建築物を岸本に指して見せた。主婦の姪でリモオジュの田舎の方から来ている髪の赤く縮れた娘も一緒にその窓から血の色のような夕映を眺めた。
「戦争は避けられないかも知れませんよ」
と言って主婦は仏蘭西人らしく肩を動って見せた。
アウストリア対セルビア宣戦の日から数えて六日目頃に、漸く岸本は国の方へ郵便で送るだけの仕事の一部を終った。日頃往来の人の多い並木街も何となく寂しく、出歩くものすら少かった。
九十一
平和な巴里の舞台は実に急激な勢いをもって変って行った。今日動員令が下るか明日下るかと噂されていた頃に、岸本は高瀬と連立って白耳義行の人を北の停車場まで送りに行った。序に東の停車場へも立寄って見た。その停車場内の掲示の前で、仏独国境の交通は既に断絶し、鉄道も電線も不通に成ってしまったことを知った。巴里を立退こうとしてその停車場に群がり集る独逸人もしくは墺地利人はいずれも旅装束で、構内の敷石の上へ直接に足を投出し汽車の出るのを待っていた。岸本は自分の直ぐ眼前で突然卒倒しかけた労働者風の男にも遭遇した。荷物をかかえた旅客、別離を惜む人々、泣き腫らした婦人の顔などまでが時局の急を告ぐるかのように見えた。岸本は高瀬と一緒に急いで下宿の方へ引返して来て、実に容易ならぬ場合に際会したことを思った。取あえず岸本は自分の部屋に籠って、国の方の義雄兄宛に形勢の迫って来たことを書いた。今後のことは測り難いと書いた。子供のことは何分頼むと書いた。彼は東京にある二三の友人へもいそがしく手紙を認めたが、西伯利亜経由とした故国からの郵便物は既にもう途絶していることをも知った。
夕方に、町へ出て見た。彼は早や大きな戦争を予想して悲壮な感じに打たれているような市民の渦の中に立った。そこここに貼付された三色旗の印刷してある動員令、大統領の諭告、貨物輸出の禁止令などを読もうとする人達が、今まで鳴を潜めて沈まり返っていたような町々に満ち溢れた。何となく殺気を帯びて来た人々の歩調も忙しげに岸本の胸を打った。夫や、兄弟や、あるいは情人の身を案じ顔な婦女までが息をはずませてその間を往ったり来たりした。
僅か一週間ばかりの間に岸本はこんな空気の中に居た。急激な周囲の変化はあだかも舞台面の廻転によって劇の光景の一変するにも等しいものがあった。名高い社会党の首領で平和論者であった仏蘭西人が戦争の序幕の中に倒れて行ったことは一層この劇的な光景を物凄くした。岸本は自分の部屋へ行って独りでいろいろなことを思った。遠く故国を離れて来て図らず動乱の中に立った自分の旅の身に思い当った。夜の十一時頃には雨が降出して、窓から外に見える並木も暗かった。
九十二
壮丁という壮丁は続々国境に向いつつあった。出征する兵士の並木街を通るような光景が既に二日ばかりも続いた。早独逸軍の斥候が東仏蘭西の境を侵したという報知すら伝わっていた。下宿では主婦も、主婦の姪も食堂の窓のところへ行って、街路を通る歩兵の一隊を見送ろうとした。岸本が同じ窓に近く行った時は、主婦は彼の方を振向いて、
「岸本さん、争われないものじゃ有りませんか。吾家に居た若い独逸人の客が、ちゃんと戦争を知っていましたぜ。親の許から手紙が来ると大急ぎで巴里を発って行きましたぜ。確かにあの男は独探ですよ」
と言いながら自分の鼻の側へ人差指を宛行って見せた。さもさもあんな客を泊めたことを口惜しく思うかのように。
「ホラ、この町を毎日のようにうろうろした変な婦人が有りましたろう。皆さんで『カロリイン夫人』だなんて綽名をつけた婦人が有りましたろう。どうもあの婦人の様子がおかしいおかしいと思いました。あれは偽の白痴ですよ。偽の婦人ですよ。白粉なんかをいやに塗けてると思いましたが、今になって考えると、あれは男の顔ですよ」
と復た主婦が言って見せた。疑心に駆られたこの仏蘭西の女は自分の下宿の客ばかりでなく、町を徘徊した白痴の婦人までも独探にしてしまった。
窓の外を通る兵士の群を見送った眼で主婦の姪を見ると、岸本はリモオジュの田舎から出て来たこの娘が紅く顔を泣腫しているのに気がついた。彼女の兄も許婚にあたる人も共に出征の途に上るであろうと主婦が岸本に言って聞かせた。岸本は自分の部屋へ行った。列をつくって通る召集された市民の群はその窓の外に続いた。いずれも鳥打帽子を冠り、小荷物を提げ、仏蘭西の国歌を歌って、並木のかげに立つ婦子供に別離の叫声を掛けては通過ぎた。一切の乗合自動車も軍用のために徴発され、モン・トオロン行の車の響も絶えた。十八歳から四十七歳までの男児は皆この戦争に参加するとのことで、それらの人達を根こそぎ持って行こうとするような大きな潮が流れ去ろうとしていた。
巴里在留の外国人で立退きたいと思うものは早く去れ、独逸もしくは墺地利以外の国籍を有するものは在留を許すとのことであった。この出来事につけても、従軍の志望がしきりに岸本の胸中を往来した。所詮国へは帰れないと思う心の彼は、進んで戦地の方へ出掛けたいと願ったが、身を苦めることばかり多くて思わしい通信を書くことも出来なかろう、と思い直しては自己を制えた。戒厳令は既に布かれ、巴里の城門は堅く閉され、旅行も全く不可能になった。事実に於いて彼は早や籠城する身に等しかった。
九十三
到頭岸本は一年余の巴里を離れたいと思立つように成った。動員令が下ってから三週間あまりというものは何事も手に着かなかった。昨日は白耳義ナミュウルの要塞が危いとか今日は独逸軍の先鋒が国境のリイルに迫ったとか、そういう戦報を朝に晩に待受ける空気の中にあっては、唯々市民と一緒に成って心配を分け、在留する同胞の無事な顔を見て互いに前途のことを語るの外は無かった。隣室の高瀬が柳博士と連立って英国倫敦へ向け戦乱を避けようとする際に、岸本も同行を勧められたが、彼はむしろ仏蘭西の田舎へ行くことにして、北の停車場で高瀬と手を分った。敵の飛行船が巴里に襲って来た最初の晩は眠られなかったという画家の小竹も、その一行に加わって八月の半には既に英吉利海峡を越えて行った。
岸本が知っている僅かの仏蘭西人の中でも、ビヨンクウルの書記はヴェルサイユの兵営の方にあり、ラペエの詩人は巴里の自動車隊に加わり、ブロッスの教授は戦地の方へ行った二人の子息の身の上を案じつつあった。ビヨンクウルの書記からは特に兵営から岸本の許へ手紙をくれ、われらは互いに同じ聯合軍の側に立つと考えるのも嬉しいと書いてよこした。東京にある滝新夫人(老婦人の姪)からも夫と一緒に仏蘭西へ来遊の意を伝えて来たが、この戦争ではどうすることが出来ようと書いてよこした。岸本の隣室を借りて寝泊りしていた控訴院付の弁護士も何時の間にか見えなくなった。例の「シモンヌの家」の珈琲店の主人、下宿の家番の亭主、これらの人達までがいずれも戦地を指して出発した。
露西亜軍が東独逸に入ったという戦報の伝わった日は、岸本は自分の部屋に居て荷造りに日を暮した。彼の下宿では半ば引越しの騒ぎをした。主婦も、主婦の姪も、彼よりは一日前にリモオジュへ向けて発って行った。一部の旅行が許されるように成ったので、彼も下宿の人達に誘われて主婦の郷里の方へ出掛けることにした。これを機会に仏蘭西の田舎をも見ようとした。戦争以来旅行も不自由になった。旅客一人につき三十キロ以上の手荷物は許されなかった。早くやって来るリモオジュの方の寒さを予想して彼は自分の両手に提げられるだけの衣類を鞄に入れて持って行こうとした。書籍なぞは皆置捨てる思いをした。蝉の声一つ聞かない巴里の町中でも最早何となく秋の空気が通って来ていた。部屋の壁に残った蠅は来て旅の鞄に取付いた。
寂しい夕方が来た。岸本は独りぎりで部屋に残って、ともかくも一年余を遠い旅に暮したことを思い、消息の絶え果てた故国のことを思い、せめて巴里を去る前に短い便りなりとも国の方の新聞宛に書送ろうとして鞄の側に腰掛けて見ると、無暗と神経は亢奮するばかりで僅に東京の留守宅へ宛てた手紙を書くに止めてしまった。宵の明星の姿が窓の外の空にあった。時々その一点の星の光を見ようとして窓側に立つと、凄じい群集の仏蘭西国歌を歌って通る声が街路の方に起った。夜の九時といえば町々は早寂しく、燈火の数も減り、饑えた犬の鳴声が何となく彼の耳についた。この都会に残っている人達はどうなるだろう、婦女はどんな目に逢うだろう、それを思うと普仏戦争の当時巴里の籠城をした人達は暗い穴蔵のような地下室に隠れて鼠まで殺して食ったと言われているが、それと同じような日が復た来るだろうかとは、考えたばかりでも恐ろしいことであった。翌朝の早い出発を思って、彼はろくろく眠らなかった。
九十四
ドルセエの河岸の停車場から岸本は汽車で出掛けた。この田舎行には彼は牧野の外に巴里在留の三人の画家をも伴った。戦争は偶然にも巴里のような大きな都会の響からしばらく逃れ去る機会を彼に与えた。あの石造の街路を軋る電車と自動車と荷馬車との恐ろしげな響から。あの層々相重なる窮屈な石造の建築物から。あの人を弱くするような密集した群集の空気から。
同行五人の旅は汽車の中をも楽しくした。前の年の五月に岸本がマルセエユからリオンへ、リオンから巴里へと向った時は殆んど夜中の汽車旅であったから、今度の車窓に映るものは初めて見るもののみのようであった。彼は仏蘭西中部の平坦な耕地、牧場、それから森なぞをめずらしく見て行った。オート・ヴィエンヌ州に近づくにつれて故国の方の甲州や信州地方で見るような高峻な山岳を望むことは出来ないまでも、一年余を巴里に送った身には久しぶりで地方らしい空気を吸うことが出来た。途中の停車場で負傷兵を満載した列車にも逢った。戦地の方から送られて来たそれらの負傷兵は白耳義方面の戦いの激しさを事実に於いて語って見せていた。
七時間ばかりもかかって岸本は連と一緒にリモオジュの停車場に着いた。丁度出征する軍人を見送るために町の人達が停車場の附近に集っている時で、生れて初めて日本人というものを見るかのような土地の男や女が右からも左からも岸本等の顔を覗きに来た。
一日先にこの田舎町へ着いていた巴里の下宿の主婦は停車場まで姪をよこしてくれた。主婦は姉にあたる人の家で牧野や岸本を待受けていてくれたが、まだ部屋の用意が出来なかった。岸本等は停車場前の宿屋でその日を送ることにした。食事にだけ来いと言って、夕方には主婦の甥子が使に来たので、五人の一行は町はずれの家の方へ歩いて行った。日本人のめずらしい土地の子供等は後になり前になりしてぞろぞろ随いて来た。岸本が巴里から一緒にやって来た美術家の中には極旅慣れた人も居た。あまりに土地の子供等が煩く随いて来て、どうかすると後方から駆け抜けるようにしては五人の顔を見ようとするので、その画家はわざと子供等の方へ大きな眼球を突き付けながら、
「御覧」
と戯れて見せたこともあった。岸本等が着いたことはこれ程土地の人にはめずらしかった。入口の庭には葡萄棚があり裏には野菜畠のあるような田舎風の家で、岸本は巴里の方から来た主婦や主婦の姪と一緒に成った。
「この一番年長の方が岸本さんです。こちらは牧野さんと仰って矢張巴里に来ていらっしゃる美術家です」
こんなことを言って、主婦は姉という人に岸本等を引合わせた。黒い仏蘭西風の衣裳を着けた背の低いお婆さんは物静かな調子で一々遠来の客を迎えた。
土地の子供の煩さかったことは、葡萄棚に近く窓のある食堂で岸本等が楽しい夕飯に有付いた時にも石垣の外から覗きに来るものがあるくらいであった。こうした場所にも関わらず、停車場前に戻り、そこに一夜を送って、サン・テチエンヌ寺の塔を宿屋の窓の外に望みながら朝霧の中に鶏の声を聞いた時は、実に彼は胸一ぱいに好い空気を呼吸することの出来る静かな田舎に身を置き得た心地がした。
九十五
国を出て早や十五カ月ほどに成った。十五カ月とは言っても岸本に取っては随分長い月日であった。過ぐる十五カ月は三年にも四年にも当るように思われた。彼はもう可成長い月日の間、故国を見ずに暮したように思った。その間、日頃親しかった人々の誰の顔を見ることも出来ず、誰の声を聞くことも出来ずに暮したように思った。彼は歩きづめに歩いてまで宿屋に辿り着くことの出来ない旅人のように自分の身を考えた。この仏蘭西の田舎へは彼は心から多くの希望をかけて来た。何よりも彼の願いは、たましいを落着けたいと思うことであった。どうやらその願いが叶いそうにも見えて来た。「君はこんな田舎が好いのか。ここにはブルタアニュの海岸に見つけるほどの野趣も無いではないか。そうかと言って田舎の都会らしい潤いにすらも乏しいではないか。ここは思いの外、平凡な土地ではないか」こう巴里から一緒に来た美術家の一人が彼に向って訊いたくらいである。それにも拘らずサン・テチエンヌ寺の立つ高い岡の上に登ってあの古い寺院を背後にした眺望の好い遊園の石垣の上から耕作と牧畜との地たるリモオジュの町はずれを眺めた日から、しみじみ欧羅巴へ来てから以来の旅のことが思われた。ヴィエンヌ河はその町はずれを流れていた。仏蘭西の国道に添うて架けてある石橋、騾馬に引かせて河岸の並木の間を通る小さな荷馬車なぞが眼の下に見える。彼はその石垣の上からしばらく自分の宿とする田舎家までも見ることは出来なかったまでも、耕地の多い対岸の傾斜に並ぶ仏蘭西の田舎らしい赤瓦の屋根を望むことは出来た。
仏国オート・ヴィエンヌ州、リモオジュ町、バビロン新道、そこが岸本の牧野と一緒に宿をとったところだ。彼は喇叭を吹いて新聞を売りに来る女のあるような在郷臭い町はずれへ来ていた。その家の二階に沈着いて三日目に、彼は巴里にある岡から手紙を受取って、非常に形勢の迫ったことを知った。急いで書いたらしい岡の手紙の中には、「巴里に帰ることを止めらるべし、必ず」としてあった。巴里に在留する三人の美術家は英国へ逃れようとして不可能となったともしてあった。
九十六
岡からは牧野岸本両名宛で同時に別の手紙が来た。
「到頭巴里立退きの幕と成った。既に仏蘭西政府は他へ移ったらしい。大使館でも昨夜書類の焼却などをやっていた。昨日午後独逸軍の飛行機が巴里市に六つの爆弾を落した。一つはガアル・ド・リオンに、一つは東の停車場に、一つはサン・マルタンの商店をこわした。最早巴里包囲は免れぬらしい。敵の騎兵は八十キロメエトルの処まで来ている。昨夜一同集合して最終の相談をして、今日の具合で英国へ渡れなければリオンに一同出発する。今日の中にはとにかく巴里を出る。かかる訳で君等の荷物も、無論吾儕のもそのまま置捨てることにした。ああ巴里も、わが巴里も、遂に独逸の奴原に蹂躙せらるるのか。小シモンヌが涙ぐんだのを見て巴里を離れるのは慚愧を感ずる。僕には此処は旅の土だ。彼等には墳墓の地だ。感慨無量だ」
巴里から同行した美術家仲間はこの手紙を見てリオンへ向けて発って行った。リモオジュには牧野と岸本だけが残った。三日ばかり経つと、巴里から最終の報告が来た。それを読んで岸本は巴里の天文台及びモン・パルナッスの附近にあった二十一人の同胞を一組とした絵画彫刻科学等の方面の人達が思い思いにあの都を立退いたことを知った。十一人は英国へ。一人は米国へ。二人はニスへ。一人はリオンへ。ディエップ行の列車も明日の朝の三時が最後だとか一歩遅れれば籠城の外はないと言われる中にあって、倫敦へと志した人々があるいはアーヴル経由か、あるいはブルタアニュのサン・モアかと、戦乱を避け惑うた光景がその報告で想像された。市街の夜の燈火が悉く消され、ブウロンニュの森には牛、豚、羊の群が籠城の食糧の用意に集められたという巴里を美術家仲間で最終に去ったのは岡と今一人の彫刻家であったらしいことをも知った。在留した同胞の殆んどすべては既に巴里を去ったことをも知った。
リオン行の美術家仲間からも汽車旅の混雑と不安とを岸本の許へ知らせて来た。それで見ると、車掌さえ行先を知らない列車に幾度か乗換え六箇所の停車場で三時間あるいは六時間を待ち都合四十時間もかかって漸くリモオジュからリオンに辿り着くことが出来たとしてあった。岸本等の宿へは、主婦の姉の娘夫婦にあたる人達が巴里から避難して来た。この人達は岸本等が七時間で来たリモオジュまでの汽車旅に三十時間を費したと話した。巴里ばかりでなく北の国境の方からの多数な避難者の群は荷物列車にまで溢れているとの話もあった。
「僕等はまだ好いとしても、独逸の方に居た連中はさぞ困ったろうね――」
と岸本は隣室の牧野を見る度に言い合った。仏独国境の交通断絶以来全く消息を知ることの出来なかった伯林の千村教授や、ミュウニッヒの慶応の留学生が倫敦に落ち延びたことも分って来た。欧羅巴へ来てから岸本が知るように成った同胞の多くは皆戦争の為にちりぢりばらばらに成ってしまった。
前途のことは言うことが出来なかった。しかし岸本と牧野とは宿の人達の厚意で比較的安全な位置に身を置くことが出来た。主婦は岸本のために何処からか机を借りて来て、それを二階の部屋の窓の側に置いてくれた。蔓の延びて来ている葡萄棚を越して窓の外にはバビロン新道が見えた。岡の地勢を成した牧場はその新道まで迫って来ていて、どうかすると赤い崖の上へ来る牛の顔が窓の硝子に映った。
九十七
大風の吹き去った後のような寂しさはこの田舎にもあった。働き盛りの男子は皆畠や牧場を去り、馬は徴発され、小屋も空しくなり、陶器の工場も閉され、商家も多く休み、中学や商業学校の校舎まで戦地の方から送られて来る負傷兵のための収容所となっていた。岸本の眼に触れるものは何一つとして戦時らしい田舎の光景でないものは無かった。野菜畠には戦地にある子を思い顔な老人が耕していた。麦畠には婦女の手だけで収穫の始末をしようとする人達が働いていた。
ヴィエンヌ河の岸に沿うて高く立つサン・テチエンヌ寺への坂道の角には、十字を彫り刻んだ石の辻堂がある。香華を具えた聖母マリアの像がその辻堂の中に祠ってある。体縮み脊髄の跼った老婆が堂の前で細長い蝋燭を売っている。その蝋燭の日中に並び点る火影には、黒い着物のまま石段の上にひざまずいて、戦地にある人のために無事を祈ろうとするような年若な女も居た。
従軍の志望を果さなかった岸本はこのリモオジュの町はずれへ来てから、巴里の方で見聞した開戦当時の光景や、在留する同胞の消息や、牧野等と一緒にあの都を立退くまでの籠城の日記とも言うべきものを書いて故国に居て心配する人達のために報告を送ろうとした。時々彼は筆を措いて家の周囲を歩き廻った。梨、桃は既に熟し林檎の実もまさに熟しかけている野菜畠の間を歩いても、紅い薔薇や白い夾竹桃の花のさかんに香気を放つ石垣の側を歩いても、あるいはこのあたりに多い羊の群の飼われる牧場の方へ歩き廻りに行っても、彼は旅らしい心地を味うに事を欠かなかった。そういう折には彼はよく主婦の甥子に当るエドワアルをも伴った。
「ムッシュウなんて彼のことを御呼びに成らないで、エドワアルと呼捨になすって下さい。あれはまだほんの子供ですから」
と主婦は十六ばかりになる少年を前に置いて言ったが、牧野も岸本も相変らず「ムッシュウ、ムッシュウ」と呼んで土地の事情に精しいその少年を朝晩に相手とした。牧野は近くにある牧場を選んで画作に取りかかった。そこへ岸本が歩いて行って見る度に、必と牧野の後に足を投出して眼前の風景と画布とを見比べているエドワアルを見つけた。岡の地勢を成した牧場の内の樹木から遠景に見えるリモオジュの町々、古い寺院の塔などが牧野の画の中に取入れられてあった。牛の踏みちらした牧場の草地へはところどころに白い鶏の来るのも見えた。岸本がそこへ行って草を藉き足を投出して見た時は、あの四時間も五時間も高瀬と一緒に警察署の側に立ちつづけたような巴里の混乱から逃れて来たというばかりでなく、仏蘭西の旅に来てからの初めての休息らしい休息をそのヴィエンヌの河畔に見つけたように思った。
九十八
二月近く静かな田舎に暮して見ると、欧羅巴へ来てから以来のことばかりでなく、国を出た当時のことまでが何となく岸本の胸に纏まって来た。彼はそう思った。仮りに人生の審判があって、自分もまた一被告として立たせらるるという場合に当り、いかなる心理を盾として自己の内部に起って来たことを言い尽すことが出来ようかと。何物を犠牲にしても生きなければ成らなかったような一生の危機に際会したものが、どうして明白な、条理の立った、矛盾の無い、道理に叶ったことが言えよう。長い限りの無い悪夢にでも襲われたようにして起って来た恐怖――親戚や友人に対してさえ制えることの出来なかった猜疑心――眼に見えない迫害の力の前に恐れ戦いた彼のたましい――夢のように急いで来た遠い波の上――知らない人の中へ行こうとのみした名のつけようの無い悲哀――何という恐ろしい眼に遭遇ったろう。何という心の狼狽を重ねたろう。何という一生の失敗だったろう。この深い感銘は時と共にますますはっきりとして来ることは有っても、薄らいで行くようなものでは無かった。しかし一時のような激しい精神の動揺は次第に彼から離れて行った。不幸な姪に対する心地のみが残るように成って行った。その時になって彼は心静かに自分の行為を振返って見た。どうかして生きたいと思うばかりに犯した罪を葬り隠そう葬り隠そうとした彼は、仮令いかなる苦難を負おうとも、一度姪に負わせた深傷や自分の生涯に留めた汚点をどうすることも出来ないかのように思って来た。彼は自分を責めれば責めるほど、涙ぐましいような気にさえ成った。
その心で、岸本は田舎家の裏にある野菜畠へ行った。一すじの小径を中央にして両側に果樹の多く植てある畠の中を歩いて見た。そこは牧野とも一緒によく休みに来て、生っている桃を枝から直ぐにもぎ取っては味ったり、土の香気を嗅ぎながら歩き廻ったりするところであった。最早十月下旬の季節が来ていた。枝にある仏蘭西の青梨は薄紅く色づいたのが沢山生り下っていたばかりでは無く、どうかすると熟した果実は秋風に揺れて、まるで石でも落ちるように彼の足許へ落ちるのもあった。
その畠は一方は町はずれの細い抜道に接し、他の一方は田舎風の赤い瓦屋根の見える隣家の裏庭に続いていた。岸本は木の靴なぞを穿いて通る人の足音を一方の抜道の方に聞き、野菜畠の中から伝わって来る耕作の鍬の音を一方の裏庭の方に聞きながら、桃や梨の樹の間を歩いて新しい果実の香気を嗅ぎ廻った。あだかも成熟した樹木の生命を胸一ぱいに自分の身に受納れようとするかのように。
オート・ヴィエンヌの秋は何となく柔かな新しい心を岸本に起させた。彼は長い年月の間ほとほと失いかけていた生活の興味をすら回復した。仮令罪過は依然として彼の内部に生きているようなものであっても、彼はいくらか柔かな心でもって、それに対うことが出来るように成った。
九十九
四十日も要って来る郵便物がボツボツ届くように成ってから、岸本は戦時以来全く絶え果てた故国の消息をリモオジュの田舎に居て知る事が出来た。欧洲の戦乱はどんなに東京の方の留守宅の人達を驚かしたであろう。節子からもそれを心配した手紙をくれた。岸本は彼女や子供に宛てて記念の絵葉書を送る気に成った。仮令僅かの言葉でもこうして姪の許へ書くというのは、旅に来てからの岸本には珍らしいことであった。彼は姪へ送るためにサン・テチエンヌ寺の遠景に見える絵葉書を選び、泉太へ送るために羊の群の見える牧場のついた絵葉書を選んだ。前のはヴィエンヌ河の手前から取った風景で、樹木から道路から橋までが彼には既に親しみのあるものであり、遠く古い石塔の聳え立つ寺院は弥撒などのある度によく彼の行って腰掛ける場処であった。後のは森を背景にした牧場のさまで、遠く森の間に一軒の田舎家も見えた。浅い谷間の草を食いに来る羊の群、その柔和な長い耳、細い足――そうしためずらしい仏蘭西の田舎の光景は国の方に留守居する子供等の眼を悦ばすであろうと思われた。すこし行けばツウルウズ街道(仏蘭西国道)に出られる彼の宿の周囲には、その絵葉書に見るような牧場が行先に展けていた。
書いた葉書を投函するために岸本は宿を出た。日本人をめずらしがって煩く彼に附纏うた界隈の子供等も、二月ばかり経つうちに彼を友達扱いにするものも多かった。ある町はずれまで行くと、そこには繩飛びの仲間入を勧める小娘が集っていた。ポン・ナフという石橋の畔まで歩いて行って見ると、そこには彼の側へ来て握手を求める男の児が居た。
「ムッシュウ」
と呼んでよくその児は走り寄って来た。その児は彼が外出する度に立寄っては腰掛ける橋畔の小さな珈琲店の一人子息であった。
ヴィエンヌ河はその石橋の下を流れていた。休息の時を送ろうとして岸本は水辺まで下りて行った。岸に並んで洗濯する婦女の風俗などを見ても、田舎にある都会の町はずれとは思われないほど鄙びたところであった。石の上で打つ砧の音も静かな水に響けて来た。しばらく岸本は戦争を外に砧の音を聞いていた。その時、つと見知らぬ少年が彼の側へ来て声を掛けた。
「異人さん、すこし日本の方のことを聞かせて下さい」
見ると小学校の上の組の生徒か、あるいはこの町にある簡易な商業学校の下の組の生徒かと思われるほどの年頃の少年だ。
「仏蘭西と日本と何方が奇麗でしょう。日本の方が仏蘭西よりはもっと奇麗でしょうか」
この少年の問は岸本を困らせた。
「そんなことが君、比べられるもんですか」と岸本が言った。「君の国だって奇麗なところも有り、そうで無いところも有るでしょう――僕等の国もその通りでさ」
「日本の海はどんな色でしょう」と復た少年が訊いた。「黄色でしょうか」
「どうして君、青い色でさ――透明な青い色でさ――それは美しい海ですよ」
怜悧そうな少年の瞳に見入りながら岸本がそう答えると、少年はまだ見たことのない東洋の果を想像するかのように、
「透明な青い色か」と繰返した。
百
ある日、復た岸本は同じ橋の畔へ出た。黄ばんだプラタアヌの並木の葉は最早毎日のように落ちた。そこは仏蘭西国道の続いて来ているところで、橋に近い石垣の上からはヴィエンヌ河の両岸を望むことも出来、国道の並木の間にサン・テチエンヌ寺の石塔を望むことも出来るような位置にあった。何となく疲れが出て仕事も休もうと思うような日には、岸本の足はよくその橋の畔にある小さな珈琲店へ向いた。彼はそこで温めてくれる一杯の濃い珈琲を味いながら、往来の角に立つ石造りの水道栓の柱を眺め、水瓶を提げて集る婦女を眺め、その辺に腰掛けて編物する老婆の鄙びた風俗を眺めては、独りで時を送るのを楽みにした。白く斑に剥げたプラタアヌの太い幹の下あたりには、しきりと落葉を集め廻って遊んでいる子供の群も見えた。その中には拾い集めた落葉を岸本の腰掛ているところへ持って来て見せるほど慣れた二三の小娘もあった。近くの菓子屋で子供の悦びそうな菓子を一袋奢ったのが始まりで、その小娘達は岸本を見掛ける度に側へ来るように成った。
「皆好い児だね。リモオジュのお土産にその葉を小父さんが貰って行きましょうか」
と岸本が言うと、小娘等は嬉しげに並木の下の方へ飛んで行って、幾枚となく落葉を拾っては復た彼の側へ来た。小娘等が持って来たプラタアヌの葉の中には八つ手ほどの大きさのもあった。
「こんなに大きいのは貰っても困る。一番小さなやつを拾って来て下さい」
と復た岸本が言うと、子供等は馳出して行って、「もう沢山、もう沢山」と彼の方で言っても聞入れないほど沢山なリモオジュ土産を彼の前にあるテエブルの上に置いて見せた。その小娘等に誘われて、こわごわ彼の方へ近づいて来たまだ馴れない一人の女の児もあった。
「もっと日本人の傍へお出なさいよ」
と他の小娘達に手を引かれて、神経質らしいその女の児も彼の前までやって来たが、急に朋輩の手を振りほどいて一歩引退った。
「オオ、可恐い」
とその女の児は気味悪そうに岸本の方を見て言った。
「お出。丁度あなた方と同い年ぐらいな子供を小父さんも国の方に残して置いて来ました。この小父さんはそんなに可恐いものでは有りませんよ」
こう岸本は言って、それから三人の小娘に歌を所望した。パトアと称える方言で出来た小唄のあることを彼は宿の主婦からも聞き、少年のエドワアルからも聞いていた。この岸本の所望は歌好きな小娘達を悦ばせた。遠く泉太や繁から離れて来ている旅の空で、無邪気な子供の口唇から仏蘭西の田舎の俗謡を聞いた時は、思わず岸本は涙が迫った。
百一
うちしめった秋らしい空気の中を岸本はバビロン新道の方へ引返して行った。丁度宿の前あたりで野外の画作を終って帰って来る牧野と一緒に成った。少年のエドワアルも牧野の代りに油絵具の箱なぞを肩に掛け、町はずれの国道の方から連立って帰って来た。
「復た好い画が一枚出来ましたよ」
エドワアルはそれを岸本に言って見せ、入口の庭にある葡萄棚の下あたりを歩いている主婦にも言って見せた。
「リモオジュのお土産が沢山お出来に成りますね。ほんとに牧野さんのはずんずん描いておしまいなさる」
と主婦が庭に居て言うと、主婦の姉さんも台所の窓から顔を出して年老いた婦人らしく皆の話すところを聞いていた。その背後から顔を見せる主婦の姪もあった。
岸本は牧野と一緒に入口の石階を上って田舎家らしい楼梯の欄に添いながら二階の方へ行った。リモオジュの秋は牧野に取っても収穫の多かった時で、引継ぎ引継ぎ出来た風景や静物の画のまだよく乾かないのが二階の部屋の壁を一面に占領したくらいであった。岸本は牧野の部屋に行って見る度に、先ずその油絵具の乾く強い香気に打たれた。牧野の旅の骨の折れるらしいことは岡に変らなかったが、気鋭で綿密なこの画家は岡が考え苦んで思わしい製作も出来ずにいる間に、どしどし画筆を着けながら疑問を解いて行くという風であった。旅に来て岸本が懇意に成った画家の中でも、岡と牧野とはそれほど気質を異にしていた。東京の方にある中野の友人の噂をしたり、倫敦へ戦乱を避けて行った高瀬や岡や小竹の噂をしたり、時には夜遅くまで芸術上の談話に耽ったりして、田舎へ来てから岸本が唯一人の親しい話相手であり、慰藉と刺激とを与えてくれたのもこの牧野であった。
野外の製作に疲れたらしい牧野が靴を脱ぐところを見て、岸本は自分の借りている部屋の方へ行った。橋の畔から帰りがけに聞いて来たヴィエンヌ河の水声はまだ彼の耳の底にあった。彼は巴里の狭苦しい下宿に身を置いたよりも、その田舎家の二階の部屋の方に反って欧羅巴の旅らしい心持をしみじみと味うことが出来た。彼は親しみのある宿屋の燈火の前に漸くのことで自分を見つけた旅人のような気もしていた。飾りとても無い部屋で、唯一つある窓のところへ行けば朝晩の露に濡れる葡萄の葉が見られ、寝台の置いてある部屋の隅へ行けば枕頭に掛る黒い木製の十字架が見られ、暖炉の前に行けば幼い基督を抱いた聖母の画像が羅馬旧教の国らしく壁の上を飾っているぐらいに過ぎなかった。しかし彼はその部屋に居る心を移して、あの澱み果てた生活から身を起して来た東京浅草の以前の書斎の方へ直ぐに自分を持って行って考えることも出来た。あの冷い壁を見つめたぎり、身動きすることも、家のものと口を利くことも、二階から降りることすらも厭わしく思うように成った七年の生活の終りの方へ。あの光と、熱と、夢のない眠より外に願わしいことも無くなってしまったような懐疑の底の方へ。あの深夜に独り床上に坐して苦痛を苦痛と感ずる時こそ麻痺して自ら知らざる状態にあるよりはより多く生くる時であると考えたような自分の身のどんづまりの方へ。あの「生の氷」に譬えて見た際涯の無い寂寞の世界の方へ。あの極度の疲労の方へ。あの眼の眩むような生きながらの地獄の方へ。あの不幸な姪と一緒に堕ちて行った畜生の道の方へ――
不思議な幻覚が来た。その幻覚は仏蘭西の田舎家に見る部屋の壁を通して、夢のような世界の存在を岸本の心に暗示した。曾ては彼が記憶に上るばかりでなく、彼の全身にまで上った多くの悲痛、厭悪、畏怖、艱難なる労苦、及び戦慄――それらのものが皆燃えて、あだかも一面の焔のように眼前の壁の面を流れて来たかと疑わせた。
百二
寺院の鐘の音が響き渡った。ツッサン(死者の祭)の日の来たことを知らせるその鐘の音は樹木の多い町はずれの空を通して、静な煙の立登る赤瓦の屋根の間へも伝わり、黄葉の萎れ落ちた畠へも伝わって来た。バビロン新道の宿でもその日は鉢植の菊などを用意し、主婦や少年のエドワアルが墓参りのために近くにある村の方へ出掛けようとしていた。
岸本がビヨンクウルの老婦人の亡くなったことを聞いたのは、この死者の祭に先だつ数日前であった。今はヴェルサイユの兵営に自転車隊附として働いているあの書記の留守宅から出た通知状は巴里の下宿の方を廻って岸本の手許に届いた。それにはあの老婦人の遺骸が巴里のペエル・ラセエズの墓地に葬られるということが認めてあり、子息さんの書記を始め親戚一同の名前がその下の方に精しい親戚関係と共に列べ記してあった。例えば、亡き人の姪のだれそれ、亡き人の義理ある兄弟のなにがしという風に。あの老婦人が大きな戦争の空気の中で病み倒れて行ったということは一層その死を痛ましくした。リモオジュの客舎で聞く寺院の鐘が特別の響を岸本の耳に伝えたのもそのためであった。
岸本は仏蘭西へ来て最初に自分を迎えてくれたのがあの老婦人であったことを思出した。異郷にある旅人として、自分のことを一番多く考えていてくれたのもあの老婦人であったことを思出した。王朝時代の昔を忘れかねていたようなあの仏蘭西の婦人が心の中心を失った結果として東洋諸国に対する夢のような憧憬を抱いたのか、どうか、その辺までは彼にも言うことが出来なかったが、とにかく趣味性の発達した、生れついて女らしい徳のある、惜しい人であったことを思出した。全く仏蘭西の言葉も知らずに旅に上って来た彼が異邦人としての沈黙から紛れる方法もなかったような折にも、「あなたは急いで仏蘭西語を学ぶが可い、もしあなたが僅かの書籍でも読み得るように成ればそれほどの無聊を感じないで済むであろう、自分が書き送るこの数行の言葉でもあなたを慰めることが出来れば仕合せである」などという手紙を寄せて励ましてくれたのもあの書記のお母さんであったことを思い出した。「この悲しい戦争が一日も早く終りを告げることを心から願っている」という意味の言葉で結んだセエブル出の手紙があの老婦人から貰った最後の消息であったことを思い出した。
知らない国の人が亡くなったとも思われないような力落しを感じながら、岸本は独りでサン・テチエンヌの古い寺院の方へ歩いて行った。
百三
丁度死者のための大きな弥撒が行われているところであった。ヴィエンヌ河の岸に添うて高く岡の上に立つその寺院は、ゴシック風の古い石の建築からして岸本の好ましく思うところで、まるで樹と樹の枝を交叉した林の中へでも入って行くような内部の構造まで彼には親しみのあるものと成っていた。よく彼はそこへ腰掛けに来た。その日もあの亡くなった老婦人の生涯を偲ぼうためばかりでなく、しばらくその静かな建築物の中で自分のたましいを預けて行くことを楽みにした。あだかも樹蔭に身を休めて行こうとする長途の旅人のごとくに。
大理石の水盤で手を濡らし十字架のしるしを胸の上に描きながらその日の儀式に参列しようとする婦人の連は幾組となく岸本の側を通った。戦時以来初めての死者の祭のことで、負傷した仏蘭西の兵士等まで戦友を弔い顔に集って来ていた。羅馬旧教の寺院には何等かの形で必ず表し掲げてある「十字架の道」――その宗教的な絵物語の尽きたところまで右側の廻廊について奥深く進んで行くと、そこに空いた椅子があった。岸本は高い石の柱の側を選んで、知らない土地の人達と一緒に腰掛けた。古めかしく物錆びた堂の内へ響き渡る少年と大人の合唱の肉声は巨大な風琴の楽音と一緒に成って厳粛に聞えて来ていた。丁度暗い森の樹間を通して泄れる光のように、聖者の像を描いた高い彩硝子の窓が紺青、紫、紅、緑の色にその石の柱のところから明るく透けて見えていた。
祭壇の方から香って来る没薬と乳香の薫は何時の間にか岸本の心を誘った。彼はこうした羅馬旧教の寺院の空気の中に実際に身を置いて見て、あの人間の醜悪を観つくした末に修道院の方へ歩いて行ったばかりでなく終には僧侶に等しい十字架を負う人と成ったという極端な近代人の生涯を想像して見た。彼はまた、あの男色の関係すらあったと言い伝えらるる友人との争闘より牢獄にまで下った末にデカダンスの底から清浄な智慧の眼を見開いた名高い仏蘭西の詩人の生涯を想像して見た。
百四
合唱の声が止むと、大きな風琴の響のみが天井の高い石の建築物の内部に溢れた。やがて白い法服を着けた年とった僧侶が多勢の信徒を見下すような位置にある高い説教台の上に立った。戦時のツッサンの祭に際会して死者を弔うような説教がそれから可成長く続いた。岸本の心は慷慨な口調を帯びた僧侶の説教の方へ行き、王冠の形した古めかしい説教台の方へ行き、その説教台と相対した位置にある耶蘇の架像の方へ行った。しかし彼は何時の間にかそんなことを忘れてしまった。彼は、赤い法服を着け金色の十字架を胸のあたりに掛けた二三の老僧や黒い法服を着けた十幾人かの中年の僧侶が祭壇の前に並んでいることも忘れ、白い冠りものを冠った尼僧が教え子らしい女生徒を引連れて聴衆の中に混っていることも忘れ、つい側に腰掛けた黒ずくめの風俗の婦人達が説教に耳を傾けていることも忘れ、三本ずつ並んでとぼる長い蝋燭の火が祭壇のあたりをかがやかしていることも忘れてしまった。唯彼は石の柱の側に黙然と腰掛けて、仮令僅の間なりとも「永遠」というものに対い合っているような旅人らしい心持に帰って行った。
傾きかけた秋の日は高い岡の上に立つ寺院の窓を通して堂内の石の柱に映った。窓という窓の彩硝子は輝いた。あるいは十字架を花の環の形に、あるいは菱形に、あるいは円形に意匠したその窓々の尖端、あるいは緑と紅との色の中心に描かれてある聖者の立像、それらが皆夕日に輝いた。こうしたゴシック風の古い建築物の内部にあっては、その中に置かれた羅馬旧教風な金色に錆た装飾もさ程目立っては見えなかった。あらゆる石の重みと、線と、組立とが高い天井の下に集められて、一つの大きな諧調を成していた。日は長い儀式の中で次第に暮れて行った。窓々に映る夕日も消えて行った。あだかも深い林の中に消えて行く光のように。そこには眼ばたきするように輝いて来た堂内の燈火と、時々響き渡る重い入口の扉の音と、厳粛に沈んで行く黄昏時の暗さとが残った。
岸本がこの寺院を出て、ポン・ナフの石橋の畔へかかった頃は、まだ空はいくらか明るかった。ヴィエンヌ河の両岸にあるものは皆水に映っていた。彼は牧野と二人でのリモオジュの滞在も最早僅に成って来たことを思った。二度とこうした仏蘭西の田舎に来て好きな寺院に腰掛ける時があろうとも思われなかった。バビロン新道の宿を指して歩いて行く途すがらも、彼はこの田舎の都会にある他の寺院にサン・テチエンヌを思い比べて見た。澱み沈んだ羅馬旧教の空気の中にあって、どれ程の「人」の努力があの古いサン・テチエンヌの寺院を活かしているかを想像して見た。
百五
リモオジュには岸本は葡萄の熟するからやがて酒に醸されるまで居た。マルヌの戦いも敵軍の総退却で終り、巴里包囲の危険も去り、この町へ避難して来た人達も最早大抵帰って行った。戦時の不自由は田舎に居るも巴里に行くも牧野や岸本に取って殆ど変りが無かった。宿の主婦は姪を連れて復た巴里の方へ帰ろうとしていた。牧野も同時にこの町を引揚げようとしていた。
「僕は一歩先に出ます。ここまで来た序にボルドオの方を廻って見て来ます。君等は巴里の方で待っていてくれたまえ」
この話を岸本は牧野にした。
早や毎朝のように霜が来た。暖炉には薪を焚くように成った。彼はこの田舎で刺激された心をもって、もう一度巴里の空気の中へ行こうとしていた。旅の序に、日頃想像する南方の仏蘭西をも見るという楽みを胸に描いていた。そこでボルドオを指して出掛けた。開戦当時のような混雑には遭遇しないまでも、改札口のところに立つ警戒の兵士に警察で裏書して貰って来た戦時の通行券を示すような手数は要った。
リモオジュの停車場まで送って来た牧野や少年のエドワアルと手を分ってからは、彼は独りの旅となった。やがて彼の乗った汽車はリモオジュの町はずれを通過ぎた。二月半の滞在は短かったとは言え、彼は可成楽しい気の置けない時をそこで送ったことを思い、欧羅巴へ来てから以来ほんとうに溜息らしい溜息の吐けたのもそこであることを思い、よく行って草を藉いた牧場にも、赤々とした屋根や建築物の重なり合った対岸の町々にも、リモオジュ全体を支配するようなサン・テチエンヌの高い寺院の塔にも、別離を告げて行こうとした。汽車の窓からヴィエンヌ河も見えなくなる頃は、秋雨も歇んだ。
岸本は全く見知らぬ仏蘭西人と三等室に膝を突合せて気味悪くも思わないまでに旅慣れて来たことを感じながら、汽車の窓に近く身を寄せて秋のまさに過ぎ去ろうとしている仏国中部の田舎を見て行った。彼は雨あがりの後の黄ばんだ雑木林を眺めたり、丘つづきの傾斜に白樺、樫、栗などの立木を数えたりして乗って行った。時としては線路に添うた石垣の上に野生の萩かとも見まがう黄な灌木の葉の落ちこぼれているのを見つけて、国の方の東北の汽車旅、殊に白河あたりを思出した。その葉の色づいたのはアカシヤの若木であった。枯草を満載した軍用の貨物列車、戦地の方の兵士等が飲料に宛てるらしい葡萄酒の樽を積んだ貨物列車も、幾台となく擦違って窓の外を通った。
オート・ヴィエンヌから隣州のドルドオニュへ越え、コキイユという小さな田舎らしい停車場を過ぎて、南へ行く旅客はペリギュウで乗換えた。ポオプイエの附近を乗って行く頃から、車窓の外に見える地味も変り、人家も多くなり、青々とした野菜畠すら望まれるように成ったばかりでなく、車中の客の風俗からして変った。それらの人達の話し合う言葉の訛や調子を聞いたばかりでも岸本は次第に西南の仏蘭西に入って行く思いをした。ジロンド州の地方を通過ぎて、暗くなってガロンヌ河を渡った。平時ならば六七時間で来られそうな路程に十一時間も要った。彼は汽車の窓を通して暗い空に映る無数の燈火を望んだ。そこが仏蘭西政府と共に日本の大使館までも移って来ているボルドオであった。
これ程楽みにしてやって来れば、それだけでも沢山だ、とは岸本が自分で自分に言って見たことであった。彼には南方の仏蘭西を想像して来た楽みがあり、そこまで動いたという楽みがあった――仮令ボルドオで彼を待受けていてくれたものは二日とも降り続いた雨ではあったが。ボルドオのサン・ジャン停車場前の旅館では、何がなしに彼は国の方へ宛てて旅の便りを書送りたいと思う心が動いた。やや単調ではあったが汽車の窓から望んで来たボルドオ附近の平野、見渡すかぎり連り続いた葡萄畑、それらの眺望はまだ彼の眼にあった。幾度となく彼は旅館の一室で暖炉の前に紙を展げて見たり、部屋の内をあちこちと歩いて見たりして、とかく思うように物書くことも出来ないのを残念に思った。部屋の壁には小さな海の画の模写らしい額が掛っていた。それを見てさえ彼の胸には久しぶりで海に近く来た旅の心持を浮べた。
深い秋雨に濡れながら岸本は町を出歩いた。そこにある大使館を訪ねて巴里の方の様子を聞くために。あるいはサン・タンドレの寺院を見、あるいはボルドオの美術館なぞを訪ねるために。時とすると新たに戦地の方へ向おうとする歩兵の群が彼の行く道を塞いだ。灰色がかった青地の新服を着けた兵士等の胸には黄や白の菊の花が挿され、銃の筒先にまでそれが翳されてあった。夫を、兄弟を、あるいは情人を送ろうとして、熱狂した婦人がその列に加わり、中には兵士の腕を擁えて掻口説きながら行くのも有った。
ガロンヌ河はこの都会の中を流れていた。岸本に取っては縁故の深いあの隅田川を一番よく思い出させるものは、リオンで見て来たソオンの谿流でもなく、清いセエヌの水でなく、リモオジュを流れるヴィエンヌでなくて、雨に濁ったこのガロンヌの河口であった。そこには岸本の足をとどめさせる河岸の眺めがあったばかりでなく、どうかすると雨が揚がって、対岸に見える工場の赤屋根には薄く日が映った。ちぎれた雲の間を通して丁度日本の方で見るような青い空の色を望むことも出来た。つくづく岸本は郷国を離れて遠く来たことを思った。
百六
再び巴里を見るのは何時のことかと思って出て来たあの都の方へもう一度帰って行く楽しみを思い、新しい言葉の世界が漸く自分の前に展けて来た楽しみを思い、ボルドオから岸本は夜汽車で発った。今度帰って見たらどういう冷い風があの都を吹き廻しているだろう、幾人の同胞に逢えることだろう、と彼は思いやった。窓の外は暗し、車中で眠ろうとしても碌々眠られなかった。同室の乗客が皆ひどく疲れた頃に汽車の中で夜が明けかかった。
朝に成って反って気の緩んだ岸本はいくらかでも寝て行こうとした。一眠りして眼を覚すと、その度に彼は巴里が近くなって来たことを感じた。心持の好い朝で、何を眺めても眼が覚めるようであった。次第に巴里の近郊から城塞の方へ近づいて行った。車窓に映る建築物の趣なぞも何となく変って来た。リモオジュあたりで見て来た地方的なものが堅牢な都会風の意匠となり、二層三層の高さが五層にも六層にもなり、城廓のように聳えた建築物と建築物の間には積重ねた煉瓦の断面のあらわれたのが高く望まれるように成った。
朝の八時頃に岸本はドルセエ河岸の停車場に着いた。荷物と一緒に乗った辻馬車の中から彼は右を眺め左を眺めして行った。ボルドオの公園の方で古池の畔に深い秋を語っていた黄ばんだ柳の葉を眺め、南国的なマグノリアの生々とした濃い緑を眺めて来た眼には、町々は早や全くの冬景色であった。並木も枯々としていた。冷い街路を踏んで行く馬の蹄の音までが耳についた。彼は思ったよりも寂寞とした巴里に帰って来たことを感じた。
産科病院の前へ着いて取りあえず岸本は家番のかみさんを見舞った。入口の階段に近く住む家番のかみさんは彼を見ると、いきなり部屋から飛んで出て来た。
「岸本さん」
と言って彼の前に立った家番のかみさんの顔には、籠城同様の思いをしてずっと巴里に居た人達の心がありありと読まれた。
変らずにある下宿を見るのも岸本には嬉しかった。主婦も、主婦の姪もリモオジュから先に着いていて岸本を迎えてくれた。彼は廊下の突当りにある自分の部屋を見に行った。二月半ほど留守にした間に、置捨てて行った荷物でも書籍でも下手に触られないほどの塵埃が溜っていた。
主婦の姪は部屋を覗きに来て、
「まあ、何という塵埃でしょう。これでも叔母さんと二人で昨日は一日掃除に掛っていたんですよ」
と言って笑って、岸本の留守中に届いた国からの小包や新聞や雑誌を食堂の方から運んで来てくれた。その中には長い日数をかけて、よくそれでも失われずに届いたと思うものもあった。岸本は部屋の窓へ行って見た。暗い巴里の冬が最早その並木街へやって来ていた。往来の人も稀であった。向うの産科病院の門、珈琲店、それから柳博士や千村教授がしばらく泊っていた旅館の窓、何もかも眼に浸みた。
百七
隣室もひっそりとしていた。控訴院附の弁護士でその部屋を借りていた少壮な仏蘭西人は召集されて行ったぎり宿の主婦のところへ音も沙汰も無いということであった。「可哀そうに、あの弁護士もひょっとすると戦死したかも知れません」と主婦は岸本に話し聞かせた。隣室にはあのノルマンディあたりの生れの人にでも見るような仏蘭西人が残して置いて行った蔵書や雑誌の類がそっくりそのままにしてあった。岸本はその空虚な部屋を覗いて見て、悽惨な戦争の記事を読むにも勝る恐るべき冷たさを感じた。その冷たさが壁一重隔てた自分の部屋の極く近くにあることを感じた。岸本は屋外へ出て日頃よく行く店へ煙草を買いに寄って見た。そこの亭主はまた片脚失うほどの負傷をして今は戦地の病院の方に居るとのことで有った。
午後に牧野が訪ねて来た。リモオジュからリオンの方へ分れて行った美術家の連中が既に巴里へ帰っていることを岸本は牧野の話で知った。ずっと巴里に残っていた一二の画家もあったことを知った。
「牧野君、町を見に行こうじゃ有りませんか。こんなに巴里が寂しくなってるとは思いませんでしたね」
「リオンの連中が帰って来た時はもっと寂しかったそうです」
岸本は牧野と二人で話し話し宿を出た。サン・ミッセルの通りまで行って、例の「シモンヌの家」の人達を見に一寸立寄った。そこの亭主は白耳義方面の戦場へ向ったぎり行方不明に成ってしまった。
非常な恐怖が過ぎて行った後のような寂しさは町々を支配していた。岸本は牧野と並んで長いサン・ミッセルの通りをセエヌ河の方へと歩いて行って見た。外国人は去り、多くの市民も避難し、僅の老人と婦人と子供とだけが日頃人通りの多いあの並木街を歩いていた。牧野はずっと巴里に残っていたという画家の話を歩き歩き岸本にして聞かせた。一時はこの都も独逸軍の包囲を覚悟し、避難者のためにあらゆる汽車を開放したという話をした。麺麭なぞを乞うものには誰にでもただでくれたという話をした。多くの市民は乗るものもなく、皆徒歩で立退いたという話をした。それらの人達が夜の街路に続いて、明方まで絶えなかったという話をした。
シャトレエの広小路まで歩いた。そこまで行くと、いくらか巴里らしい人の往来が見られた。二人はセエヌの河岸についてサン・ルイの中の島へと橋を渡り、そこから古いノオトル・ダムの寺院の裏手が望まれるところへ出た。石垣の下の方には並んで釣をしている黒い人の影も見えた。セエヌの水も寂しそうに流れていた。
「冷たい石の建築物に、黒い冬の木――いかにも巴里の冬らしい感じですね」
と牧野は画家らしい観察を語った。岸本はこの人と連立って枯々とした並木の間を影のように動いた。石造の歩道を踏んで行く自分等の靴音の耳につくのを聞きながら、今は巴里にある極く僅の日本人の中の二人であることをも感じた。
百八
「早く英吉利を切揚げたまえ。この沈痛な巴里を味いたまえ」
こう岸本は高瀬へ宛てて手紙の端に書いて送った。倫敦にある高瀬からその後の様子を尋ねてよこした時の返事として。
この周囲の寂しさにも関らず、岸本はもう一度自分の部屋の机に対って見た。灰燼の巷と化し去ることを免れた旅窓の外に見える町々も、変らずにある部屋の内の道具も、もう一度彼を迎えてくれるかのように見えた。ピアノを復習う音が復た聞えて来た。例の無心な指先から流れて来るようなその幽かなメロディばかりでなく、床を歩き廻る小娘らしい靴音までが階上から聞えて来ていた。
心の悲哀を忘れるために学び始めた新しい言葉の芽も一息に延びて来た。読もう読もうとしても読めずに蔵って置いた書籍を取出して見ると、何時の間にか意味が釈れるように成っていた時は、彼は青年時代の昔と同じような嬉しさを感じた。大きな蔵の中にでも納ってある物のような気がしていたラテン民族の学芸の世界は遽かに彼の前に展けて来た。あそこに詩の精神がある、ここに歴史の精神がある、と言うことが出来るように成った。何等の先入主に成ったものをも有たなかった彼に取っては、殆ど応接するに暇の無いようなこの新天地の眺望ほど旅の不自由を忘れさせるものはなかった。
異郷の生活を続けようとする心を移して、岸本は遠く国の方にある自分の身内のもののことを思いやった。足掛二年の月日は遠く離れている親戚の境遇をも変えた。姪の愛子は夫に随って樺太の方に動いていた。根岸の嫂は台湾の方へ出掛けて行って民助兄と一緒に暮していた。恩人の家の弘が結婚したことも、鈴木の兄が郷里の方で病死したことをも、岸本は旅にいる間に知った。
何となく遠く成って来た国の方の消息の中で、東京の留守宅の様子を岸本のところへ精しく知せてよこすのは節子であった。彼女からの便りで、岸本は義雄兄の家族に托して置いて来た二人の子供の成長して行くさまを思いやることが出来た。「あなたの方の身体は鉄ですか」と丈夫な子供等に向って言暮しているという嫂の言葉、黐竿を手にして蜻蛉釣りに余念がないという泉太や繁の遊び廻っている様子――耳に聞き眼に見るようにそれらの光景を思いやることの出来るのも、彼女からよこしてくれる手紙であった。
「あの事さえ書いてないと、節ちゃんの手紙はほんとに好いんだがなあ――」
と岸本は独りでよくそれを言って見た。節子はまた以前の浅草の住居の方から移し植えた萩の花のさかりであるということなどに事寄せて、岸本が見たことの無い子供の誕生日の記念のために書いてよこすことを忘れなかった。
百九
あれほど便りをするのに碌々返事もくれない叔父さんの心は今になって自分に解った、と節子は力の籠った調子で書いた手紙を送ってよこした。長い冬籠りの近づいたことを思わせるような日が来ていた。ルュキサンブウルの公園にある噴水池も凍りつめるほどの寒さが来ていた。部屋の煖炉には火が焚いてあった。岸本はその側へ行って、節子から来た手紙を繰返し読んで見た。叔父さんはこの自分を忘れようとしているのであろうと彼女は書いてよこした。そんなら、それでいい、叔父さんがそのつもりなら自分は最早叔父さんに宛てて手紙を書くまいと思うと書いてよこした。あれほど自分が送った手紙も叔父さんの心を動かすには足りなかったのかと書いてよこした。叔父さんのことを思い、自分の子供のことを思う度に、枕の濡れない晩は無いと書いてよこした。そんなに叔父さんは沈黙を守っていて、この自分を可哀そうだと思ってはくれないのかと書いてよこした。
名状しがたい心持が岸本の胸中を往来した。日頃一種の侮蔑をもって女性に対して来たほど多くの失望に失望を重ねた自分の心持がそこへ引出された。姪を憐み、姪を恐れることはあっても、決して彼女の想像するようなものでは無かった自分の心持がそこへ引出された。節子のことを考える度に、きまりで思出すのは義雄兄の言葉であって、「お前はもうこの事を忘れてしまえ」と言ってくれたあの兄に対して来た自分の心持もそこへ引出された。この岸本の堅く閉した心の扉の外に来て自分を呼びつづけていたような姪の最後の声を聞く気がした。根気も力も尽き果てたかと思われるようにその扉を叩いた最後の精一ぱいの音を聞きつけたような気がした。
煖炉には赤々とした火がさかんに燃えていた。倹約な巴里の家庭では何処でも冬季に使用する亀の子形の小さな炭団が石炭と一緒に混ぜて焚いてあった。岸本は嘆息して、姪から来た手紙も、覚束ない羅馬文字で彼女自身に書いてよこした封筒も、共に煖炉の中へ投入れた。見る間に紙は燃え上って、節子の文字は影も形もなくなった。岸本は喪心した人のように煖炉の前に立って、投入れた紙片が灰に成るのを眺めていた。
百十
それぎり節子の消息は絶えた、薄暗く、陰気くさく、ろくろく日光も見られず、極く日の短い時分には午後の三時半頃には最早暮れかけて、一昼夜の大部分はあだかも夜であるかのような巴里の冬が復た旅の窓へやって来た。到頭岸本は戦時の淋しい降誕祭を迎え、子供等に別れてから二度目の年を異郷の客舎で越した。
黄なミモザの花や小さな水仙のようなナアシスに僅に春待つ心を慰める翌年の二月半のことであった。一旦消息の絶えた節子からの便りが思いがけなく岸本の許へ届いた。最早手紙は書くまいと思ったが、叔父さんから送ってくれた旅の記念の絵葉書を見るにつけても、つい禁を破ってこの便りをする気に成った、と彼女は書いてよこした。その手紙にはとかく彼女が煩い勝である事や、浅草時代の自分は何処かへ行ってしまったかと思われるほど弱くなったことや、両手にひろがった水虫のようなものは未だ癒らなくて難儀をしているということばかりでなく、母親に対して気まずい思いをしていることが今までに無い調子で書いてあった。読みかけて、岸本は眉をひそめずにはいられなかった。何故というに、節子の手紙を通して聞くあの嫂の言葉は、兄一人だけしか知らない筈の自分の秘密を感づいているとしか思われなかったから。その時岸本はそう思った。何故、あの義雄兄は嫂にまで隠そうとするような方針を取ってくれたろう。何故、節子はまた母親だけに身の恥を打明けて詫びるという心を起さなかったろうと。
節子の手紙で見ると、どうかすると彼女は彼女の幼い弟達の前で、母から「姉さん」という言葉で呼ばれずに「お婆さん」と呼ばれることがあるとしてある。煩い勝ちで台所の手伝いも思うように出来ないという彼女は、この皮肉を浴びる時の辛さを書いてよこした。そればかりでは無い、彼女の母の言葉としてこんなことまで書いてよこした。「お婆さんでは、なんぼなんでも可哀そうだ――そうだ叔母さんが可い――この人は姉さんじゃなくて、岸本の叔母さんだよ――」母の言うことはこうした調子だと書いてよこした。
「岸本の叔母さん」
当てこすりで無くてこれが何であろう、と岸本はその言葉を繰返して見た。彼は節子から来た手紙をよく読んで見るにも堪えない程、今までにない彼女の調子にひどく胸を打たれた。彼女は病的と思われるまで傷ましい調子で書いてよこした。気でも狂いそうな調子で書いてよこした。その時ほど、岸本は自分故に苦しんで行く姪のすがたをまざまざと見せつけられたことは無かった。
百十一
言いあらわし難い恐怖と哀憐とは、節子の手紙を引裂いて焼捨ててしまった後まで岸本の胸に残った。ずっと以前に岸本が信濃の山の上に田舎教師をしながら籠り暮した頃、城址の方にある学校へ行こうとして浅い谷間を通過ぎたことがある。ある神社の裏手にあたるその浅い谷間の水の流のところで、一羽の小鳥を見つけたことがある。飛去りもせずにいる小鳥を捉えるつもりもなく捉えようとして、谷川の石の間を追廻すうちに、何時の間にか彼の手にした洋傘は小鳥の翼を打ったことがある。何かに追われたか、病んでいるか、いずれ訳があって飛去りもしない小鳥を傷つけたと気がついた時はもう遅かった。血にまみれながら是方を見た時の眼は小鳥ながらに恐ろしく、その小さな犠牲を打殺すまでは安心しなかったことがある。そして半町ばかりも歩いて城址に近い鉄道の踏切のところへ出た頃に、手にした洋傘の柄の折れていたのに気がついたことがある。丁度あの小鳥の眼が、想像で描いて見る節子の眼だ。可傷しい眼だ。鋭いナイフで是方の胸を貫徹さずには置かないほどの力を有った眼だ。
一度犯した罪は何故こう意地悪く自分の身に附纏って来るのだろう、と岸本は嘆息してしまった。仏蘭西の詩人が詩集の中に見つけて置いた文句が彼の胸に浮んだ。
"Que m'importe que tu sois sage,
Sois belle et sois triste……"
分別ざかりの叔父の身で自分の姪を無垢な処女の知らない世界へ連れて行ったような心の醜さは、この悲痛な詩の一節の中にも似よりを見出すことが出来る。あの北極の太陽に自己が心胸を譬え歌った歌、岸本が東京浅草の住居の方でよく愛誦した歌を遺して置いて行ったのも同じ仏蘭西の詩人である。岸本はそうした頽廃した心を有った人が極度の寂寞を感じながら曾てこの世を歩いて行ったことを想って見た。その人の歌った紅くしてしかも凍り果るという太陽は北極の果を想像しないまでも、暗い巴里の冬の空に現に彼が望み見るものであることを想って見た。
町に出て、岸本は節子のために彼女の煩い苦しんでいるという手の薬を探し求めた。子供等へ送るつもりで買って置いた仏蘭西風の黒い表紙のついた手帳と一緒にして、帰朝する人でもある折にそれを托そうと考えた。こうした心づかいも、よくよく不幸な節子のような姪がこの世に生きながらえていると思うことをどうすることも出来なかった。その悩ましさは、折角リモオジュの田舎の方で回復した新しい旅の心に掩い冠さって来た。
百十二
濃い霧で町の空も暗い日が続いた。時としては町々の屋根に近い空の一部に淡黄な光のほのめきを望み、時としてはめずらしく明るく開けた空に桃色の雲の群を望むような日があっても、復た復た暗く閉じ籠められた心持で暮しがちであった。戦時の寂しい冬らしく万物は皆な凍り果てた。寒い雨の来る晩なぞは、岸本は遠く離れている友人等の名前を呼んで見たいと思うことすら有った。彼は東京の加賀町の友人から絵葉書のはしに書いてよこしてくれた「寂寞懐レ君」という言葉なぞを胸に浮べながら、窓に行って眺めた。
六頭の馬に挽かれた砲車の列が丁度その町を通った。一砲車毎に弾薬の函を載せた車が八頭の馬に挽かれてその後から続いた。街路に立って見る市民の中には一語熱狂した叫び声を発するものもなかった。いずれも皆静粛な沈黙を守って馬上の壮丁を見送るもののみであった。戦時の空気はそれほど濃い沈鬱なものと成って来ていた。岸本は水を打ったようにシーンとしたこの町の光景を自分の部屋から眺めて、数月前よりは反って一層胸を打たれた。彼はリモオジュから帰って来てから以来、一日は一日よりこの空気の中へ浸って行った。激しい興奮と動揺との時は過ぎて、忍耐と抑制との時がそれに代っていた。
岸本は自分の部屋を見廻した。戦争以前よりはもっと濃い無聊がそこへやって来ていた。
「ああ、復た始まった」
とそれを思うにつけても、よく目的もなしに町々を歩き廻り、寄りたくもない珈琲店へ行って腰掛けたりするより外に時の送りようの無いような、その同じ心持が復た繰返し起って来ることを忌々しく思った。窓から射して来ている灰色な光線は、どうかすると暗い部屋の内部を牢獄のように見せた。周囲が冷い石で繞われていることもその一つである。寝る道具から顔を洗う道具から便器まで室内に具えつけてあることもその一つである。親戚や友人や子供等から全く離れていることもその一つである。訪れるものも少なく、よし有っても故国の食物の話や女の話なぞに僅かに徒然を慰め合うのもその一つである。全く外界に縁故の無いのもその一つである。信じ難いほどの無刺戟もその一つである。到底行い得べくも無いような空想に駆らるるのもその一つである。のみならず岸本は自分で自分の鞭を背に受けねば成らなかった。心に編笠を冠る思いをして故国を出て来たものがこの眼に見えない幽囚は寧ろ当然のことのようにも思われた――孤独も、禁慾も。
百十三
この侘しい冬籠りの中で、岸本の心はよく自分の父親の方へ帰って行った。しきりに彼は少年の頃に別れた父のことが恋しくなった。異郷の客舎に居て前途の思いが胸に塞がるような折には、彼は部屋の隅にある寝台に身を投げ掛けて白いレエスの上敷に顔を埋めることも有った。例のソクラテスの死をあらわした古い額の掛った壁の側で、この世に居ない父の前へ自分を持って行き、父を呼び、そのたましいに祈ろうとさえして見た。あだかも父に別れたままの少年の時のような心をもって。
岸本の父は故国の山間にあって三百年以上も続いた古い歴史を有つ家に生れた人であった。峠一つ越して深い谿谷に接した隣村には、矢張同姓の岸本を名乗る家があった。その家が代々、あるいは代官、あるいは庄屋、あるいは本陣、あるいは問屋の職をつとめたことは、岸本の父の家によく似ていた。その家から岸本の母は嫁いて来た。義雄兄はまた幼少の時から貰われて行ってその母方の家を継いだ。義雄兄の養父――節子から言えば彼女の祖父さんは、岸本が母の実の兄にあたっていた。岸本が父母の膝下を離れ、郷里の家を辞して、東京に遊学する身となったのは漸く九歳の時であった。十三歳の時には東京の方に居て父の死を聞いた。彼は父の側に居て暮した月日の短かったばかりでなく、母のいつくしみを受ける間もまた短かった。彼がしみじみ母と一緒に東京で暮して見たのは艱難な青年時代が来た頃であって、しかも僅かに二年ほどしか続かなかった。彼は仙台の方へ行っている間に母の死を聞いた。
これほど岸本は父のことに就いて幼い時分の記憶しか有たなかった。四十四歳の今になって、もう一度その人の方へ旅の心が帰って行くということすら不思議のように思われた。半生を通して繞りに繞った憂鬱――言うことも為すことも考えることも皆そこから起って来ているかのような、あの名のつけようの無い、原因の無い憂鬱が早くも青年時代の始まる頃から自分の身にやって来たことを話して、それを聞いて貰えると思う人も、父であった。何故というに、岸本の半生の悩ましかったように、父もまた悩ましい生涯を送った人であったから。仮りに父がこの世に生きながらえていて、自分の子の遠い旅に上って来た動機を知ったなら何と言うだろう……けれども、岸本が最後に行って地べたに額を埋めてなりとも心の苦痛を訴えたいと思う人は父であった。
百十四
「ちゝはゝの
しきりにこひし
雉子の声」
岸本の胸に浮ぶはこの句であった。この短い言葉の蔭に隠されてある昔の人の飄泊の思いもひどく彼の身に浸みた。何時来るかも知れないような春を待侘び、身の行末を案じ煩うような異郷の旅ででもなければ、これほど父の愛を喚起す事もあるまいかと思われた。幼い時の記憶は遠く郷里の山村の方へ彼を連れて行って見せた。広い玄関がある。田舎風の炉辺がある。民助兄の居る寛ぎの間がある。村の旦那衆はよくそこへ話し込みに来ている。次の間があり、中の間がある。母や嫂がその明るい光線の射し込む部屋で針仕事をひろげている。遠い山々、展けた谷、見霞むように広々とした平野までも高い山腹にある位置からその部屋の障子の外に望まれる。坪庭の塀を隔てて石垣の下の方には叔母の家の板屋根なども見える。奥の間がある。上段の間がある。一方には古い枝ぶりの好い松の木や牡丹なぞを植えた静かな庭に面して、廂の深い父の書院がある。それが岸本の生れた家だ。
岸本は赤い毛氈を掛けた父の机の上に父の好きな書籍や、時には和算の道具などの載せてあったことを記憶でまだありありと見ることが出来た。よく肩が凝るという父の背後へ廻って、面白くも可笑くもない歴代の年号などを暗誦させられながら、「享保、元禄……」とまるで御経でもあげるように父の肩につかまって唱えたり叩いたりしたあの書院の内を記憶でまだ見ることも出来た。夜遅くまで物書く父の側に坐らせられ、部屋一ぱいにひろげた白紙の前で、眠い眼をこすりこすり持たせられたあの蝋燭の火を記憶でまだ見ることも出来た。
父は厳格で、子供の時の岸本が父の膝に乗せられたという覚えも無いくらいの人であった。父は家族のものに対して絶対の主権者であり、岸本等に対しては又、熱心な教育者であった。岸本は学校の書籍を習うよりも前に、父が自身で書いた三字文を習い、村の学校へ通うように成ってからは大学や論語の素読を父から受けた。彼はあの後藤点の栗色の表紙の本を抱いて、おずおずと父の前へ出たものであった。何かというと父が話し聞かせることは人倫五常の道で、彼は子供心にも父を敬い、畏れた。殊に父が持病の癇でも起る時には非常に恐ろしい人であった。岸本は末子のことでもあり年齢もまだちいさかったから、それほどの目にも逢わなかったが、どうかすると民助兄なぞは弓の折で打たれた。有体に言えば、少年の岸本に取っては、父というものはただただ恐いもの、頑固なもの、窮屈で堪らないものとしか思われなかった。
百十五
少年の時の記憶はまた東京銀座の裏通りの方へ岸本を連れて行って見せた。土蔵造りの家がある。玄関がある。往来に面して鉄の格子の嵌った窓がある。日の光は小障子を通して窓の下の机や本箱の置いてあるところへ射し入っている。そこが岸本の上京後、小父夫婦やお婆さんの監督の下に少年の身を寄せていた田辺の家だ。
父から餞別に貰った五六枚ほどの短冊、上京後の座右の銘にするようにと言って父があの几帳面な書体で書いてくれた文字、それを岸本はまだありありと眼に浮べることが出来た。少年の彼は窓の下の本箱の抽斗の中にその座右の銘を入れて置いて、時には幾枚かある短冊を取出して見た。「行いは必ず篤敬……」などとしてある父の手蹟を見る度に、郷里の方に居る厳しい父の教訓を聞く気がしたものであった。覚束ないながらも岸本が郷里へ文通するように成ってから、父はよく彼の許へ手紙をくれた。彼の上京後も父は断えざる助言者であった。彼はまた学校の作文でも書くように父へ宛てて書いたが、田辺の小父にそれを見せろと言われた時はよく顔が紅くなった。この田辺の家へ父が一度郷里の方から出て来た時のことは、岸本に取って忘れ難い記憶の一つであった。父は旅の毛布やら荷物やらを田辺の家の奥二階で解いて、そこで暫時逗留した。郷里に居る頃の父はまだ昔風に髪を束ねて、それを紫の紐で結んで後の方へ垂れているような人であったが、その旅で初めて散髪に成った話などした。「あれはああと、これはこうと――」そんなことを独語のように言っては、自分の考えを纏めようとするのが父の癖であった、父は旅の包の中から桐の箱に入った鏡なぞを取出した時に、「お父さん、男が鏡を見るんですか」と彼の方で尋ねると、父は微笑んで、鏡というものは男にも大切だ、殊に旅にでも来た時は自分の容姿を正しくしなければ成らないと話したこともあった。
父は随分奇行に富んだ人で、到るところに逸話を残したが、しかし子としての彼の眼には面白いというよりも気の毒で、異常なというよりも突飛に映った。その上京で殊に彼はそれを感じた。父は彼の学校友達の家へも訪ねて行こうと言出したことがあった。三十間堀の友達の家には、友達の母親が後家で子供達を育てていた。そこへ彼は父を案内して行った。父の為ることは唯少年の彼には心配でならないようなものであった。学校友達の家へ訪ねて行くと、先方でも大変喜んでくれたが、別れ際に父は友達の母親から盆を借りて土産ばかりに持って行った大きな蜜柑をその上に載せた。それを友達の母親の方へ差出すことかと彼が見ていると、父はそうしないで、いきなりその蜜柑を仏壇へ持って行って供えた。こうした父の行いが少年の彼の眼には唯奇異に思われた。彼は父の精神の美しいとか正直なとかを考える余裕はなかった。何がなしにその学校友達の家を早く辞して田辺の方へ父を連れ帰りたいとのみ思った。その時の彼の心では、久し振で父と一緒に成ったことを悦ばないではなかったが、矢張郷里の山村の方に父を置いて考えたいと思った。一日も早く父が東京を引揚げ、あの年中榾火の燃えている炉辺の方へ帰って行って、老祖母さんや、母や、兄夫婦や、それから年とった正直な家僕なぞと一緒に居て貰いたいと思った。後になって考えると、それが彼の上京後唯一度の父子の邂逅であったのである。それぎり彼は父を見なかった。
百十六
岸本が父を知るように成ったのは、寧ろ父が亡くなってからの後のことであった。漸く彼が青年期に入って彼自身の遽かな成長を感じ始めた頃、郷里の方にある老祖母さんの死去を聞いて一度帰省したことがある。民助兄もその頃は既に東京で、彼は兄の代理として老祖母さんを弔いかたがた郷里に留守居する母や嫂の方へ帰って行った。その時、彼は久しぶりで自分の生れた家を見たばかりでなく、父の遺した蔵書を見せようと云う母の後に随いて裏庭の方へ出た。母屋の横手から土蔵の方へ通う野菜畑と桑畑の間の径、老祖母さんの隠居所となっていた離れの二階座敷、土蔵の前に植てある幾株かの柿の木、それらは皆な極幼い頃に見たと変らずにあった。母は暗い金網戸の閉った土蔵の石段の上に立って、手にした大きな鍵で錠前をガチャガチャ言わせ、やがて彼を二階の方へ案内した。そこに老祖母さんの嫁に来た時の長持が残っている。ここに母の長持が置いてある。それらの古い道具を除いては、土蔵の二階にあるものは父の遺した沢山な書籍であった。壁によせて積重ねてある古い本箱からは主として国学に関する書籍が出て来た。それを見て、彼は自分の父がどれ程あの古典派の学説に心を傾けたかを感知した。彼が英学を修め始めた時はまだ父は生きていて、非常に心配した手紙をくれたが、あの父の心持も思い当った。
その頃から彼は一層よく父を知ろうとするように成った。父に関したことは、いかなる小さな話でも心に留めて置こうとした。折ある毎に彼は身内のものや父を知っている人達に父のことを尋ねた。民助兄にも。義雄兄にも。田辺の小父にも。田辺のお婆さんにも。そして、それらの人達の記憶に残るきれぎれな話から父の生涯を想像しようとした。意外にも彼は人から聞いた話よりも、彼自身の内部に一層よく父を見つけて行った。彼は自分の内部から押出すようにして延びて来る生命の芽が、一切の物の色彩を変えて見せるような憂鬱な世界の方へ自分を連れて行く度に、特にそれを感じた。彼は年とれば年とる程、自分の性質が父に似て行くことを驚き恐れた。仙台の旅から帰ったのは彼が二十六歳の頃であった。彼は一夏を郷里の鈴木の姉の家に送って、あの姉の口から父の声を聞きつけたことも有った。「捨吉は俺の子だで、あれは学問の好な奴だで、どうかして俺の後を継がせたいものだなんて、お父さんがよくそう仰ったぞや」と姉は郷里の訛のある調子でそれを彼に話し聞かせた。その頃は鈴木の兄も郷里の家に暮して、最も得意な月日を送っていた。姉に取っても楽しい時であった。姉は久しぶりで一緒になった弟を前に置いて、夫に向って、「まあ、捨吉の坐っているところを見てやって下さい、あれの手なぞはお父さんに彷彿です」と話して笑った。その時彼は自分の身体の中に父の手までも見つけた。尤も、父は足袋なぞも図無しを穿いたと言われる方で、彼の幼い記憶に残るのは彼よりもずっと背の高い人であったが。
百十七
父の憂鬱は矢張岸本と同じように青年時代に発したということである。岸本が同年配の他の青年の知らないような心の戦いを重ねたのもその憂鬱の結果であったが、しかし彼は狂じみたという程度に踏みこたえた。父のは、それが本物であった。
こうした父の持病は一生を通して父を苦しめたとは言え、しかし岸本は父にも健かな月日の多かったことを想像することが出来る。その証拠には、父は平田篤胤の門人であったというし、維新の際には家を忘れて国事に奔走したというし、飛騨の国にある水無神社の宮司にもなったというし、それから郷里に退いて晩年を子弟の教育に送ったともいうことである。今は台湾の方で民助兄と一緒に暮している嫂が父の日常のことをよく知っていて、曾て東京の根岸の家でその話を岸本にして聞かせたことも有った。「お父さんの癇の起らない時には、それは優しい人でしたよ。子供に灸一つすえられないような人でしたよ」と嫂は話してくれた。
この嫂を通して、岸本は父が最後に座敷牢で送った日のことを聞いた。幻を真と見る父の感覚は眼に見えない敵のために悩まされるように成って行った。「敵が攻めて来る。敵が攻めて来る」と父はよく言ったとか。その恐ろしい幻覚から、終には父は岸本家の先祖が建立したという村の寺院の障子へ火を放とうとした。それが父の牢獄にも等しい部屋の方へ趨く最初の時であった。日頃柔順な子として聞えた民助兄も余儀なく父の前に立って、御辞儀一つして、それから村の人達と一緒に父を後手に縛りあげた。父のために造った座敷牢は裏の木小屋にあった。そこは老祖母さんの隠居部屋と土蔵の間を掘井戸について石段を下りて行ったところにあった。前には古い池があり、一方は米倉に続き、後には岸本の家に附いた竹藪が茂っていた。そこで父は最後の暗い日を送った。母は別室に居て父の看護を怠らなかったばかりでなく、日頃父のことを「お師匠様」と呼ぶ村の人達まで昼夜交代で詰めていたということである。
嫂の話は父が座敷牢で暮した頃の細目を伝えたが、鈴木の姉はまた父の感情を伝えた。姉は最早家出をした夫と別れ住む頃であった。郷里から一寸出て来て、東京浅草の方にあった岸本の家の二階でその話を弟にした。どうかすると父は座敷牢でも物を書きたいと言って、硯や筆を取寄せ、「熊」という字を大きく一ぱいに紙に書いて人に見せたことも有った。そして自ら嘲るように笑って、終にはもう腹を抱えて転げるほど笑ったかと思うと、悲しげな涙がその後からさめざめと流れた。「きり/″\す啼くや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかも寝む」――父はこの古歌を幾度となく口吟んで見て、自分で自分の声に聞入るようにして、暗い座敷牢の格子につかまりながら慟哭したという。「慨世憂国の士をもって発狂の人となす、豈に悲しからずや」とは父がその木小屋に遺した絶筆であったという。父は最後に脚気衝心でこの世を去った。
百十八
それから鈴木の姉の上京後、まだ園子の達者でいた時分、岸本は父の墓を建てるために一度帰省したこともある。その時は郷里の鈴木の家に姉を見に立寄り、あれから木曾川に添うて十里ばかり歩いた。郷里とは言っても、岸本があの谿谷の間の道を歩いて見たことは数えるほどしか無かった。通る度毎に旧い駅路の跡は変っていた。母の生れた村まで行くと、古い大きな屋敷は最早見られなかったが、そこには義雄兄の留守宅があって、節子の母親が祖母さんと二人で子供を相手に暮していた。深い谿谷の地勢はそのあたりで尽きて、山林の間の坂の多い道を辿って行ったところに岸本の村がある。遠い先祖の建立したという寺には岸本の家についた古い苔蒸した墓石が昔を語り顔に並んでいた。岸本は岡の傾斜のところに造られた墓地を通りぬけて、杉の木立の間から村の一部の望まれるような位置へ出た。二つの墳が彼の眼に映った。そこに両親が眠っていた。
村には父の教を受けたという人達がまだ多く住んでいた。日頃岸本の家と懇意な隣家の酒屋の主人もその一人だ。その人に誘われて、眺望の好い二階座敷に上って見ると、一段高い石垣の上の位置から以前の屋敷跡が眼の下に見えた。村の大火は岸本の父の家を桑畠に変えた。母屋も、土蔵も最早見られなかった。何となく時雨れて来た空の下には、桑畠の間に色づいた柿の葉の枝に残ったのが故郷の秋を語っていた。岸本は隣家の主人と一緒にその桑畠を指して、そこに父の書院があった、そこに父の愛した古い松の樹があった、と語り合った。家を挙げて東京に移り住むように成った頃から、以前の屋敷跡は矢張隣家の所有であったから、岸本は酒屋の主人の許しを得て独りで裏づたいに桑畠の間に出て見た。甘い香気のする柿の花の咲くから、青い蔕の附いた空な実が落ちるまで、少年の時の遊び場所であった土蔵の前あたりの過去った日の光景はまだ彼の眼にあった。父の遺した蔵書を見るために母と一緒に暗い金網戸の前の石段に立った日のことなぞもまだ彼の眼に残っていた。亡くなった老祖母さんの隠居所であった二階座敷から、裏の方へかけて、あの辺だけが僅に焼残っていて、岸本は変らずにある木小屋を見ることが出来た。台湾の方へ行った嫂が話してくれたのも、その小屋のことだ。前にある高い石垣、古い池、後に茂る深い竹藪は父の侘しい暗い最後の月日を想像させた。
百十九
すべてこれらの父に関する記憶が旅にある岸本の胸に纏まって来た。早く父に別れた彼は多くの他の少年が享け得るような慈愛もろくろく享けず仕舞であった。そのかわりまた大きくなって、酷い父と子の衝突というものをも知らずに済んだ。彼はよくそう思った。自分の学ぶこと、為ること、考えることは父と何の交渉があるだろう、もしあの父が生きながらえていたらどんなことに成ったろうと。彼は自分の意のままに父の嫌いな外国語を修め始めようとした少年の日から、既にもう父の心に背き去ったものである。
不思議にもこの異郷の客舎で、岸本の心は未だ曾て行ったことの無いほど近く父の方へ行くように成った。父の声は復た彼の耳の底に聞えて来た。紅い太陽が輝くということなしに、さながら銅盤を懸けたかのごとく暗い寒空を通過ぎるような日に、凍った石の建築物の中で旅の前途を考えていると、
「捨吉。捨吉」
と子供の時に聞いた父の声がもう一度彼の耳に聞えて来るように思われた。
そればかりでは無い。父が生前極力排斥し、敵視した異端邪宗の教の国に来て、反って岸本は父を視る眼をさえ養われた。自分の国の方にいた頃の彼は、平田派の学説に心を傾けた父等の人達があの契冲や真淵のような先駆者の歩いた道に満足しないで、神道にまで突きつめて行ったことを寧ろ父等のために惜んだ。今になって彼は古典の精神をもって終始した父等が当時の愛国運動に参加したことや、学問から実行に移ったことを可成重く考えて見るように成った。彼はこの旅に上る前の年に、記念することがあって父の遺した歌集を編み、僅の部数ではあったがそれを印刷に附し、父を知る人達の間に分けたことも有った。その遺稿の中には父が飛騨の国で詠んだかずかずの旅の歌があった。それを彼は思い出して、あの水無神社の宮司として飛騨の山中に籠っていた頃が父の生涯の中でも寂しい時であり、懐しみの多い時ででもあることを想って見た。彼は又、父が苦しんだ精神病の原因を考えた。それを若い時に想像したようなロマンチックな方へ持って行かないで、もっと簡単な衛生上の不注意に持って行って考えて見た。仮りに父の発狂がそうした外来の病毒から来ているとしても、そのために父に対する心はすこしも変らなかった。恐い、頑固な、窮屈な父は、矢張自分等と同じような弱い人間の一人として、以前にまさる親しみをもって彼の眼に映るように成った。
この父の前に、岸本は自分の旅の身を持って行った。羞じても、羞じても、羞じ足りないほどの心で国を出て来た時、暗夜に港を離れ行く仏蘭西船の甲板の上に立って最後に別れを告げた時の彼は、実はあの神戸も見納めのつもりであった。彼の旅も、これから先の方針を定めねば成らないところまで行った。
百二十
「お客さん、お支度が出来ましてございます」
仏蘭西風の縞の前垂を掛けた下女が部屋の扉を開けて、岸本のところへ昼食の時を知らせに来た。下宿でも主婦の姪はリモオジュへ帰って、田舎出の下女が傭われて来ていた。
暗い廊下を通って、岸本は食堂の方へ行って見た。二年近い月日を旅で暮すうちに彼は古顔な客としての自分をその食堂に見た。
「さあ、どうぞ皆さんお席にお着き下さいまし」と肥った主婦は仏蘭西麺麭を切りながら言った。「私共は田舎料理で、ノルマンディからいらしったお客さまのお口には合いますかどうですか」
町の近くにあるヴャアル・ド・グラアスの陸軍病院に負傷した夫を見舞うためノルマンディの地方から出て来たという女の客、ある家庭の子供を教えに通っている中年の女教師、それらの人達が岸本の食堂で落合う顔揃であった。最早羅馬旧教のカレエムが始まっていた。毎年の例のように主婦が豚の腸詰なぞを祝う「肉食の火曜」も過ぎていた。四十日間の宗教季節が復たやって来たことは、仏蘭西で暮した月日の長さを岸本に思わせた。
「岸本さん、お国からお便りがございますか。お子さん方も御変りもございませんか。さぞ父さんをお待ちでございましょう」
と主婦も一緒に食卓に就きながら言って、大きな皿に盛った精進日らしい手料理を順に客の前へ廻した。この主婦はノルマンディから来た女の客の巴里で買ったという帽子を褒め、家庭教師の新調した着物の好みを褒め、「まあ結構な」とか、「実にまあ御見事な」とか、褒められるだけ褒めた。リモオジュの田舎から出た人だけに、お料理から世辞まで山盛にしなければ承知しなかった。岸本はこの人達の世間話にも聞飽きて、費用のみ要る外国の旅のことを思いながら食った。食堂から自分の部屋へ戻って行って見ると、つくづく岸本には異人という心が浮んだ。そうそう長く留るべき場所では無し、又長く続けて行くべき境涯でも無いという気がして来た。自分のことをよく心配していてくれたビヨンクウルの老婦人のような温情のある人は亡くなった上に、時局は一層彼の旅を不自由にした。折角懇意になった仏蘭西人で国難のために夢中になっていないものは無かった。学問も、芸術も、殆ど一切休止の姿だ。彼の周囲には、戦争あるのみだ。
岸本は異郷の土となるつもりで国を出て来た自分の決心が到底行われ難いことを感じて来た。国には彼を待つ頼りの無い子供等があった。彼は、あだかも冷く厳かな運命の前に首を垂れる人のようにして、こうした一生の岐路に立たせられるよりは寧ろ与えられた生命を返したいとまで嘆いた。彼は亡き父の前に自分を持って行って、「この生命を取って下さい」とも祈った。
百二十一
「旅人よ、足をとどめよ。お前は何をそんなに急ぐのだ。何処へ行くのだ。何故お前の眼はそんなに光るのだ。何故お前はそんなに物を捜してばかりいるのだ。何故お前はそんなに齷齪として歩いているのだ。
――旅人よ。お前はこの国を見ようとしてあの星の光る東の方から遙々とやって来たのか。この国にあるものもお前の心を満すには足りないのか。
――旅人よ。夕方が来た。何をお前は涙ぐむのだ。お前の穿き慣れない靴が重いのか。この夕方が重いのか。それとも明日の夕方が苦しいのか。
――旅人よ。何故お前は小鳥のように震えているのだ。仮令お前の生命が長い長い恐怖の連続であろうとも、何故もっと無邪気な心を有たないのだ。
――旅人よ。足をとどめよ。この国の羅馬旧教の季節が来ている。お前も来て、主の受難を記念する夕方に憩え。お前に食わせる麺麭、お前に飲ませる水ぐらいはここにも有ろうではないか……」
書斎でもあり寝室でもある部屋の机に対って、岸本は自分の書いたものを取出した。窓側の壁に掛けてある仏蘭西の暦は三月の来たことを語っていた。その窓側で彼は書きつけた自分の旅情を読み返して見た。
部屋を見廻すと、まだまだ彼は長い冬籠りの有様から抜け切ることが出来なかった。町の空も暗かった。しかし、正月、二月あたりはもっと暗い日の続くことが多かった。彼は恐ろしい低気圧が、十五日も続いた低気圧が、自分の心の内部を通過ぎて行ったことを感じた。冷い感じのする硝子を通して望まるる町の空は暗いとは言っても早や何となく春めいた紅味を含み、遠い建築物の屋根や煙突も霞んで見え、戦時の冬らしく凍り果てた彼の旅の窓へも、漸く底温かい春が近づいたかと思わせた。
久し振りで聞く軍隊の相図の笛が岸本の耳についた。喇叭卒を先に立てた仏蘭西歩兵の一隊がゴブランの市場の方角から進んで来た。そして町の片端で足を休めて行こうとするところであった。窓から望むと、冬枯のプラタアヌの並木の下あたりは寄せ集めた銃や肩から卸した背嚢で埋められた。騎馬から下りて休息する将校等も見えた。眼の下に動く兵卒等の軍帽を包んだ紺の布や、防寒用の新服はいずれも酷く汚れて、風雪の労苦が思いやられた。
「生きたいと思わないものは無い――」
と彼は自分に言って見た。
町々の婦女は出て兵卒等をねぎらおうとした。葡萄酒を奮発する珈琲店のかみさんがあれば、パン菓子を皿に盛って行って勧める菓子屋のかみさんもあった。岸本も部屋にじっとしていられなかった。彼は急いで帽子を冠り、階段を降りて、この人達の中に混ろうと思った。夫や兄弟や従兄弟のことを心配顔な留守居の婦女、子供、それから老人なぞが休息する兵卒等の間を分けて、右にも左にも歩いていた。岸本は自分の隠袖の中から巻煙草の袋を取出し、それを側に居る五六人の兵卒にすすめて見た。
百二十二
一日は一日より岸本の旅の心は濃くなって来た。暇さえあれば岸本は自分の下宿を出て、戦時の催しらしい管絃楽の合奏を聴くためにソルボンヌの大講堂に上り、巴里の最も好い宗教楽があると言われるソルボンヌの古い礼拝堂へも行って腰掛けた。彼はまた人と連立って、サン・ゼルマンの長い並木街をセエヌの河岸まで歩きに行って見た。ルウヴル宮殿の古い建物やチュレリイ公園の石垣が対岸に見える河の畔まで行くと、水の流れも何となく霞んで見え、岸に立つマロニエの並木も芽ぐんで来ていた。そういう日には殊に春待つ心が彼の胸に浮んだ。
二年近くかかって育てた新しい言葉も延びて行く時であった。彼は旅人らしく自分の周囲を見廻すと、来るべき時代のためにせっせと準備しているようなもののあるのに気がついた。彼の眼には、どう見てもそれは芽だ。間断なく怠りなく支度しているような芽だ。それは可成もう長いこと萌しに萌して来たものであるとも言える。けれども何人の骨髄にまでも浸み渡るような欧羅巴の寒い戦争が来て、一層その発芽力を刺激されたようにも見える。そうしたものが彼の周囲にあった。そしてその芽の一つとして、曾て一度は頽廃したものの再生でないものは無かった。
この観望は岸本が旅の心を一層深くさせた。彼の周囲には死んだジャン・ダアクすら、もう一度仏蘭西人の胸に活きかえりつつあった。彼は淫祠にも等しいような古いカソリックの寺院を多く見た眼でリモオジュのサン・テチエンヌ寺を見、あのサン・テチエンヌ寺を見た眼を移して巴里のフランソア・ザビエー寺などを見、更に眼を転じて「十字架の道」へと志す幾多の新人のあることに想い到ると、そうした再生の芽を古い古い羅馬旧教の空気の中にすら見つけることが出来るように思った。
その芽が岸本にささやいた。
「お前も支度したら可いではないか。澱み果てた生活の底から身を起して来たというお前自身をそのまま新しいものに更えたら可いではないか。お前の倦怠をも、お前の疲労をも――出来ることならお前の胸の底に隠し有つ苦悩そのものまでも」
百二十三
町に出て往来の人々に混りたいと思うような午後が来た。岸本は下宿を出ようとして、丁度パスツウルに近い画室の方から訪ねて来る牧野に逢った。
岡も、小竹も相前後して既に英吉利の方から巴里へ戻って来ている頃であった。牧野は岡の意中の人が国の方で他へ嫁いたという消息を持って来た。戦争前、美術学校の助教授が巴里を発つという際にも、その他の時にも、まだ岡は一縷の望みをそれらの人達の帰国に繋いでいた。最早岡の意中の人も行ってしまった。それを思いやって、岸本は牧野と顔を見合せた。
「今僕の画室へ岡や小竹が集まっています」と牧野が言った。「どう慰めようもなくて僕等は困ってるところなんです。あなたにでも来て頂かなくちゃ――」
「僕なぞが君、出掛けて行ったところでどうすることも出来ないじゃないか」
こう岸本は言ったものの、岡のことも心に掛って、呼びに来た牧野と一緒に下宿を出た。
二人はポオル・ロワイアルの並木街を歩いて行った。暮の降誕祭前に、仏蘭西政府がボルドオから移って来た頃あたりから、町々はいくらかずつの賑かさを増して来たが、しかしまだまだ淋しかった。戦争が各自の生活に浸潤して行く光景は、特に黒い喪服を着け黒い紗を長く垂下げて歩く婦人の多くなったことを取りたてて言うまでもなく、二人はそれを町で行き逢ういかなる人の姿にも読むことが出来た。汚れた顔の子供にも、荷馬車に石炭を積んで巨大な馬を駆って行く男にも、子供の手を引き腰掛椅子を小脇に擁えながら公園の方へ通う乳母にも、鳥打帽子を冠った年若な労働者にも、小犬を連れたお婆さんにも、赤い花や桜の実の飾りのついた帽子を冠り莫迦に踵の隆い靴を穿き人の眼につく風俗をしてその日の糧を探し顔な婦人にも。
天文台前の広場まで行くと、二人は十七八歳ばかりの青年の一群にも遭遇った。それらの青年は皆学生であった。普通の服に革帯を締め、腕章を着け、脚絆を巻きつけ、銃を肩にし、列をつくって、兵式の訓練を受けるためにルュキサンブウルの公園の方へ行くところであった。中にはまだ若々しい聡明な面ざしのものも混っていた。
「あんな人達まで今に戦争に行くんでしょうか。僕等のことにしたら、短い袴を穿いて学校へ通ってる時分の年齢ですがなあ」
二人はこんな言葉をかわしながら、いずれ国難に赴こうとしているような仏蘭西の若者達を見送った。
過ぐる年に比べると並木の芽出もずっと後れた。プラタアヌの木なぞは未だ冬枯そのままであった。モン・パルナッスの並木街をノオトル・ダムの分院の前あたりまで歩いて行くと、その辺には漸くマロニエの青い芽が見られた。
「もうそれでもマロニエの芽が見られるように成りましたね」
牧野は岸本と並んで歩きながら言った。
「牧野君もよくあの画室に辛抱しましたね。なんだか今年の冬は特別に長いような気がしました」
と岸本も足早に歩きながら答えた。彼の胸には逢いに行く岡のことや、自分の旅のことが往来した。
百二十四
「君等は感心だ。よくそれでもお互に助け合うね」
と岸本はパスツウルの通りまで歩いて行った頃に牧野の方を見て言った。
「僕のところへ来るモデルもそれを言いましたよ。『日本人は皆貧乏だ、そのかわり感心に助け合う、他の国から来てるものには決してそういうことは無い』ッて」
と牧野が答えて、自分の家の方へでも帰って行くように画室のある横町の方へ岸本を誘って行った。モン・パルナッスの停車場の裏側からその辺の並木のある通りへかけては、岸本に取っても通い慣れた道だ。巴里を囲繞く城塞の方に近いだけ、いくらか場末の感じもするが、それだけまた気が置けない。よく岸本が牧野の許へ自炊の日本飯を呼ばれに行って、葱なぞを買いに出た野菜の店もその通りに見える。そこまで行くと画室も近かった。
岡や小竹はビイルを置いた机を囲みながら牧野の帰りを待っていた。
「や。どうもお使御苦労さま」と小竹は牧野の方を見た。
「牧野、岸本さんも来たから、一緒に一ぱい遣らんか」と岡も飲みさしたコップを前に置いて言った。
「ああ」
牧野は主人役と女房役とを兼ねたという風で、何か款待顔に画室の隅でゴトゴト音をさせていた。この光景を見たばかりでも岸本には「巴里村」の気分が浮んで来た。彼は岡と差向いに腰掛けた。岡は言葉も少かった。癖のように力を入れた肩と熱意の溢れた額とに物を言わせ、小竹や岸本のためにビイルを注いだ。あだかも行く人を送るために互に盃を挙げようとするかのように。
「物の解った人が側に附いていながらこういう結果に成ったかと思うと、そればかりが僕には残念なんです」
岡はそれを言った。
「岡君と僕の場合とを比べることも出来ないが――第一、岡君から見ると僕はずっと年も若かったし、境遇も違っていました。でも、互いに心を許したという点だけでは似てるかと思う。僕は死をもって争った。それでも行く人をどうすることも出来なかった。僕は自分の方から別離を告げましたよ――尤も僕の場合には、先方に許婚の人がありましたがね」
岸本は平素めったに口にしたためしも無いようなことを皆の前に言出した。
百二十五
岸本はこの仏蘭西の旅に上って来た時、神戸の旅館で思いがけなく訪ねて来てくれた二人の婦人に邂逅ったことを忘れずにいる。二十年の月日を置いて逢って見たあの人達はもう四十を越した婦人でも、二十年前に亡くなった人は何時までも同じ若さの女として岸本の胸に残っている。彼が岡や小竹を前に置いて思わず言出したのは、あの神戸で邂逅った婦人等の旧い学友にあたる勝子のことであった。青木、市川、菅、足立――それらの友人と互いに青春を競い合うような年頃に、岸本はあの勝子に逢った。すべてまだ若いさかりの彼に取って心に驚かれることばかりであった。不思議にも、世に盲目と言われているものが、あべこべに彼の眼を開けてくれた。彼の眼は勝子に向って開けたばかりでなく、それまで見ることの出来なかった隠れた物の奥を読むように成った。彼は自分の身の周囲にある年長の友達や先輩の心にまで入って行くことが出来たばかりでなく、ずっと遠い昔に情熱の香気の高い詩歌なぞを遺した古人の生涯を想像し、誰しも一度は通過さねば成らないような女性に対する情熱をそれらの人達の生涯に結び着けて想像するように成った。若い生命がそこから展けて行った。
しかし彼の前に展けた若い生命とは、そう明るく楽しいばかりのものではなくて、寧ろ惨憺たる光景に満たされた。彼は自分の手から捥ぎ放されて結局父親の命ずるままに他へ嫁いて行く勝子を見た。簡単に言えば、彼が貧しかったからである。彼は同じ年の若さであっても、今少し豊かな家に生れたならば彼女を引留め得べき多くの暗示を受けたことを忘れることが出来なかった。彼のささげ得るものとては、一片の心のまことに過ぎなかった。「わたしはお前を愛する、わたしの身体はもう死んだも同じものだ、残るものは唯お前を慕う心があるばかりだ」こう言いながら勝子は父親の手に引かれて行ってしまった。彼はそれを自分の身に経験したばかりでなく、彼の周囲にあった友人の場合にも経験した。市川のような賢い青年であっても、情人の姉なり親戚なりに経済上の安心を与え得なかったものは失敗した。そして日本橋伝馬町の鰹節問屋に生れた岡見は成功した。この事実は彼の若い心に深い感銘を刻みつけた。愛の為すなきを悟ったのは実にその時であった。
小竹や牧野の楽しい笑声が岸本の前で起った。国の方に細君を残して置いて来たというこの二人の画家はわだかまりの無い笑声に紛らして、岡の心を慰めようとしていた。一切を葬る時が来たと言わぬばかりに腕組して考えている岡を見ると、岸本は若い時の自分を眼前に見るという程ではないまでも、すくなくもそれに似よりの心持を起した――勝子がまだ生きている頃の彼と、岡とは、弟と兄ぐらいの年齢の相違であったから。
百二十六
若かった日のことを思い出すと同時にきまりで岸本の胸に浮んで来る青木の名は、よく彼の話に出るので、岡や牧野にも親しみのあるものと成っていた。彼はあの二十七歳ばかりで惜しい一生を終った友人の言葉を岡の前で思い出した。
「青木君がそう言いましたっけ。『この世にあるもので、一つとして過ぎ去らないものは無い、せめてその中で、誠を残したい』ッて。僕は岡君にあの言葉をすすめたいと思うね」
こう岸本は岡の方を見て言った。日の暮れる頃まで彼はその画室で話した。その年の正月に巴里にある心易い連中だけが集まって、葡萄酒を置き、モデルに歌わせ、皆子供のように楽しい一夕を送った時の名残は、天井の下の壁から壁へ渡した色紙も古びたままで、まだ牧野の画室に掛っていた。やがて岸本は辞し去ろうとした。牧野は町まで買物があると言って、岡のことを心配しながら岸本に随いて来た。
牧野は町に出てから言った。
「今度という今度はさすがの岡も力を落したようですよ」
「まあ、さんざん哭き給えとでも言うより外に仕方が無いね」と岸本も一緒に日暮方の歩道を踏みながら、「あの人のことだから、いずれ何かその中から掴んで来るでしょう」
「僕の妹を仮りにくれろと言われたところで、僕だって考えますよ。美術家同志というものはあんまり内幕を知り過ぎていて反っていけない。妹にまで同じ苦労をさせようとは思いませんからね」
こんな言葉をかわしながら歩いて、往きかう人の可成にあるパスツウルの通りで岸本は牧野に別れた。
マロニエの並木の芽も一息に延びそうな、何となく三月らしい日暮方であった。七時の夕飯まではまだ間があった。岸本は牧野の画室で引出された心持や、若い時分の友達のことや、それに連れて一緒に胸に浮んで来るあの勝子のことなぞを思いながら、底暖かい町の空気の中を自分の下宿の方へ帰って行った。
「今だに盛岡のことなぞをよく思い出すところを見ると、矢張あの人には女らしい好いところが有ったんだナ」
道すがら岸本はそれを言って見た。盛岡とは勝子の生れた郷里だ。伝馬町とか、西京とか、昔はよく市川や菅などと一緒になる度にはそんな符牒が出たものだ。
岸本が岡の落胆を思いやる心は、やがて勝子の結婚を聞いた時の昔の自分の心だ。確かにそれは若い時の彼に取って打撃であった。見知らぬ新婚の夫婦なぞを町で見かけたばかりでも彼の若い心は傷んだ。しかし勝子の死を聞いたことは、それよりも更に大きな打撃であった。彼女は結婚して一年ばかり経った後、妊娠中のつわりとやらで、まだ女の若いさかりの年頃で亡くなった。その話を聞いた時の彼には、何となくそこいらが黄色く見えて、往来の土まで眼前で持上るかのようにすら感じられた。暗い月日がそれから続いた。多くの艱難も身に襲って来た。彼は自分の沮喪した意気を回復するまでにどれ程の長い月日を要したかを今だによく想い起すことが出来る。
仙台の旅はこうした彼の心を救った。一生の清しい朝はあの古い静かな東北の都会へ行って始めて明けたような気がした。しかし彼はもう以前の岸本では無かった。それから後になって彼が男女の煩いから離れよう離れようとしたのも、自分の方へ近づいて来る女性を避けようとしたのも、そして自分独りに生きようとしたのも――すべては皆一生の中の最も感じ易く最も心の柔かな年頃に受けた苦い愛の経験に根ざしたのであった。
百二十七
「青木君が亡くなってから、もう何年に成るだろう」
四十いくつかの窓に燈火の望まれる産科病院の前に帰ってからも、岸本は自分の部屋の暖炉の上に置いてある洋燈の前に行って、昔の友人に別れてから以来のことを辿って見た。あの青木や、足立や、菅や、市川や、それから岡見兄弟なぞと一緒に踏出した時分の心持を辿って見た。
夕飯後に、下宿の女中が来て、大急ぎで部屋の窓を閉めて行った。
「窓から燈火が見えると、警察でやかましゅうございますから」
と女中はそんな戦時らしい言葉を残して出て行った。
岸本は黄色な布の蓋のはまった古めかしい感じのする洋燈を自分の机の上に移した。その燈火に対っていると、彼の心は容易に妻を迎える気に成らなかった結婚前の時へも行き、先輩の勧めで婚約した園子は曾て娘の時分に同じ学校を早く卒業したあの勝子から物を習った人であったことなどへも行き、初めて園子と一緒に小鳥の巣のような家を持った楽しい新婚の当時へも行った。
「父さん、私を信じて下さい……私を信じて下さい……」
あの園子の言葉、結婚して十二年の後に夫の腕に顔を埋めて泣いたあの園子の言葉は、岸本が妻から聞いた一番懐しみの籠った忘れ難い言葉であった。愛することを粗末にも考えまいとして、彼は苦い人生を経験した。彼は失ったものを取返そうとして、反って持っている者までも失った。園子が産後の出血で、殆ど子供等に別れの言葉を告げる暇もなくこの世を去った頃は、彼は唯茫然として女性というものを見つめるような人になってしまった。もし彼がもっと世にいう愛を信ずることが出来たなら、子供を控ての独身というような不自由な思いもしなかったであろう。親戚や友人の助言にも素直に耳を傾けて、後妻を迎える気にも成ったであろう。信の無い心――それが彼の堕ちて行った深い深い淵であった。失望に失望を重ねた結果であった。そこから孤独も生れた。退屈も生れた。女というものの考え方なぞも実にそこから壊れて来た。
旅に来て、彼は姪からかずかずの手紙を受取った。いかに節子が彼女の小さな胸を展げて見せるような言葉を書いてよこそうとも、彼にはそれを信ずる心は持てなかった。
百二十八
ソクラテスの死をあらわした例の古い銅版画の掛った壁を後方にして、寝台に近く岸本は腰掛けた。そして自分の半生を思い続けた。
「情熱あるものといえども、真にその情熱を寄すべき人に遇うことは難い」
これは岸本が春待つ旅の宿で故国の新聞紙への便りの端に書きつけて見た述懐の言葉であった。夜の九時と言えば窓の外もひっそりとして、往来の人の靴音も稀にしか聞えないような戦時らしい空気の中で、岸本は自分で書いた言葉を繰返して見た。漸く八歳の頃に既に激しい初恋を知ったほどの性分に生れつきながら、異性というものを信ずることも出来なくなってしまったような半生の矛盾を考えて見た。
京都大学の高瀬が隣室に居た頃、柳博士等と連立って訪ねて行ったあのペエル・ラセエズの墓地にあるアベラアルとエロイズの墓は、まだありありと岸本の眼に残っていた。あの名高い中世紀の僧侶は弟子であり情人である尼さんと終生変ることのない愛情をかわしたというばかりでなく、死んだ後まで二人で枕を並べて、古い黒ずんだ御堂の内に眠っていた。そこにあるものは深い恍惚の世界の象徴だ。想像も及ばぬ男女の信頼の姿だ。「さすがにアムウルの国だ」などと言って高瀬は笑ったが、岸本にはあの墓が笑えなくなって来た。仮令アベラアルとエロイズの事蹟が一種の伝説であるというにしても。岸本はあの四本の柱で支えられた、四つのアーチのどの方面からも見られるカソリック風な御堂の中に、愛の涅槃のようにして置いてあった極く静かな二人の寝像を思出した。あの古い御堂を囲繞く鉄柵の中には、秋海棠に似た草花が何かのしるしのようにいじらしく咲き乱れていたことを思出した。彼はその周囲を廻りに廻って二つ横に並んだ男女のすがたを頭の方からも足の方からも眺めて、立ち去るに忍びない気のしたことを思出した。まるでお伽話だ、と彼は眼に浮ぶ二人の情人のことを言って見た。しかし、お伽話の無い生活ほど、寂しい生活は無い。彼は最早自分の情熱を寄すべき人にも逢わず仕舞に、この世を歩いて行く旅人であろうかと自分の身を思って見た。そう考えた時は寂しかった。
その晩、岸本は遅く部屋の寝台に上った。枕に就く前にも、床の上に半ば身を起していて、若い時分の友達のことや、自分の青年時代のことを思い出した。あの早くこの世を去った青木に別れた時から数えると、やがて二十年近くも余計に生き延びた自分の生涯を胸に浮べて見た。彼は唯持って生れたままの幼い心でその日まで動いて来たと考えていた。気がついて見ると、どうやらその心も失われかけていた。
「そうだ。何よりも先ず自分は幼い心に立ち帰らねば成らない」
と言って見た。旅に来てその晩ほど、彼は自分の若かった日の心持に帰って行ったことは無かった。
百二十九
頑な岸本の心にも漸くある転機が萌した。もし国の方へ帰らないことに方針を定め、全然知らない人の中へ踏込んで行こうとするには、この戦時に際してどういう道が彼の前にあったろう。今は十八歳から四十八九歳までの仏蘭西人が国難に赴いている。学芸に携わるものでも、ビヨンクウルの書記のように自転車隊附として働いているものがあり、ラペエの詩人のように輸送用の自動車に乗って働いているものもある。もし義勇兵に加わっても知らない人の中へ行こうとするほどの心を有つならば、無理にも行く道が無いではなかった。けれども岸本はこれ以上深入して、国の方に残して置いて来た子供等を苦めるには忍びなかった。そこまで行って、漸く彼には帰国の決心がついた。
義雄兄からはなるべく早く帰って来てくれとした手紙が来るように成った。岸本は兄に宛ててこの決心を書送った。ともかくも来る十月の頃まで待ってくれ、それまでには帰国の準備をしたいと思うし、二度と出掛けて来るような機会が有ろうとは一寸思われないから、出来るだけこの旅を役に立てたいと思うと書送った。
「岸本さん、スエズを経由して日本の方へ帰ります」
短い言葉に無量の思いを籠めた絵葉書が千村教授の許から届いた。それを手にして見ると、岸本は旅の空で懇意になったあの千村の声を親しく聞く気がした。千村は郵船会社の船で倫敦から帰東の旅に上る時にその便りをくれたのであった。亜米利加廻りで帰りたいという便りのあった高瀬の出発も最早遠くはあるまいと思われた。
岸本は部屋の窓へ行って、千村が泊っていた旅館を望んだ。窓の外にあるプラタアヌの並木はまだまだ冬枯そのままであった。その疎な枝と枝の間を通して、千村の旧い部屋の窓や、その下の方の珈琲店の暖簾や、食事の度に千村が通って来た町の道路などをよく見ることが出来た。あの人達が去った後でもまだ続いている欧羅巴の戦争、独り見る巴里の三月の日あたり、それらの耳目に触れるものから起って来る感覚は一層岸本の心を居残る旅らしくした。彼はその窓際に立って遠く帰って行く旅の人を見送ろうとするかのように、千村の航海を想像した。彼の心は神戸から自分を乗せて駛って来た仏蘭西船へ行き、あの甲板の上から望んで来た地中海へ行き、紅海へ行き、亜剌比亜海へ行った。恐ろしい永遠の真夏を見るような印度洋の上へも行った。コロンボ、新嘉坡、その他東洋の港々の方へも行った。彼は往きと還りの船旅を思い比べ、欧羅巴を見た眼でもう一度殖民地を見て行く時の千村を想像し、漠然とした不安や驚奇やは減ずるまでも、より豊かな旅の感覚の働きは反って還りの航海の方に多かろうと想像した。彼はまた千村が再び母国を見得るの日を思いやって、二年前一切を捨てる思いをして遠く波の上を急いで来た自分の身にも、それと同じような日がいずれは来るように成ったことを不思議にさえ思った。
百三十
温暖い雨がポツポツやって来るように成った。来るか来るかと思ってこの雨を待侘びていた心地はなかった。五箇月も前から――旅の冬籠りの間――岸本は唯そればかりを待っていたようなものであった。リモオジュの旅以来、彼の周囲には何が有ったろう。仏蘭西国境の山地寄りの方では塹壕が深く積雪のために埋められたとか、戦線に立つものの霜焼を救うために毛布を募集するとか、そうした労苦を思いやる市民の心がその日まで続いて来た。彼の耳にする話は一つとして戦争の惨苦を語らないものは無かった。開戦以来、五六十万の仏蘭西人は既に死んでいるとの話もあった。この戦争が終る頃には満足な身体で巴里へ帰って来るものは少かろうとの話もあった。彼が町で行き遇う留守居の子供でも婦女でも老人でも、やがて来る春を待侘びていないものは無かった。寒苦、寒苦――この避け難い戦争の悩みの中で、世界の苦の中で、草木の再生がやがて自分等の再生であることを願っていないものは殆ど無いかのように見えた。
毎日のように岸本は部屋の壁に掛る仏蘭西の暦の前へ行った。日も余程長くなって来た。空も明るくなって来た。最早煖炉なしに暮すことも出来た。一雨毎に彼は春の来るのを感じた。漸くマロニエの芽もふくらんで来るように成った。彼はあらゆる草木が復活る中で、やがて来る若葉の世界を待つのを楽みにした。白い蝋燭を立てたようなマロニエの花が若葉の間に咲いて、冷い硝子窓からも、石の壁からも、春の焔が流れて来るのは最早遠くは無かろうと思われた。
そよそよと吹いて来る夕方の南風に乗って独逸の飛行船までがやって来るように成った。ある仏蘭西の記者の言草ではないが、あの「空中の海賊」が巴里の市中と市外とに爆弾を落して行った最初の夜は、岸本はその騒ぎも知らずに熟睡していたくらいであった。翌晩、けたたましい物音に彼は床の上で眼を覚した。喇叭を鳴して飛ぶ警戒の自動車が深夜の町々を駆け巡った。復た彼は敵の飛行船の近づいたことを知った。急いで部屋を出て見ると、台所には震えながら祈祷をあげている下宿の主婦がある。屋外には暗い空を仰いで稲妻のような探海燈の光を望む町の人達がある。こうした巴里に身を置いても、彼はそれほど恐ろしくも思わないまでに戦時の空気に慣れて来た。「燕のかわりに飛行船が飛んで来ました」そんなことを云って下宿の人達を苦笑いさせた位であった。それよりも彼はこうした巴里の状況が電報で伝えられて、遠く国の方に居る親戚や知人を心配させることを気遣った。
岸本は旅の窓で、自分を待暮している泉太や繁のことを思い、義雄兄宛に知らせてやった帰国の時が子供等の耳に入る日のことを想って見た。それから、もう一度あの不幸な節子を見る日の来ることをも想って見た。それを考えると思わず深い溜息が出た。
眼前の戦争から、岸本はその中に動いているいろいろな人の心を読むように成った。丁度あの「アンナ・カレニナ」の終に書いてあるヴロンスキイの出発のようにして、進んで戦地に赴き、自ら救おうとする若い仏蘭西人のあることを彼は想像するに難くなかった。戦争を遊戯視し、まるで串談でも為に行く人のようにして親しい家族や友人に停車場まで見送られたというブロッスの教授の子息さんのことも彼は聞いて知っていた。その心を思うと、実に可傷しかった。死の中から持来す回生の力――それは彼の周囲にある人達の願いであるばかりでなく、また彼自身の熱い望みであった。春が待たれた。
〈[#改ページ]〉
『寝覚』附記
「寝覚」は、『新生』の改題。
こんな悲哀と苦悩との書ともいうべきものを、今更読者諸君におくるということすら気がひける。しかし、これなしにはあの『嵐』にまで辿り着いた自分の道筋を明かにすることも出来ない。
この作、もと二部より成るが、本来なら更に一部を書き足し全体を三部作ともして、結局この作の主人公が遠い旅から抱いて来た心に帰って行くまでを書いて見なければ、全局の見通しもつきかねるような作で、人生記録としてもまことに不充分なものではある。それに、これを書いた当時と二十年後の今日とでは、周囲の事情も異り、人も変り、そういう自分の心の持ち方も改まって来ている。そんなわけで、この文庫第七篇のためにはむしろ第一部を選び、作中の主人公が遠い旅に出るから帰国を思うまでのくだりにとどめ、題も『寝覚』と改めた。
今日になって見ると、これを書いた当時わたしは新生という言葉に拘泥し過ぎたことに気づく。新生が新生であるというのは、それの達成せられないところにある。そう無造作に出来るものが新生でもない。その意味から言っても、今回改題の『寝覚』こそ、むしろこの作にふさわしい。
この作の第一部は大正七年四月に着手し、東京大阪両朝日紙上に発表した。時に四十七歳。第二部を脱稿したのはその翌年九月のことであった。昭和二年(民国十六年)に、この作は北京大学の徐祖正氏の訳により支那語に移され、北新書局というところから出版せられた