雲海蒼茫 佐渡ノ州
郎ヲ思ウテ 一日三秋ノ愁
四十九里 風波悪シ
渡ラント欲スレド 妾ガ身自由ナラズ
ははあ、来いとゆたとて行かりよか佐渡へだな、と思つた。題を見ると、戯翻竹枝とある。
それは彼の伯父の詩文集であつた。伯父は一昨年(昭和五年)の夏死んだ。その遺稿がまとめられて、此の春、文求堂から上梓じゃうしされたのである。末の碩儒せきじゆで、今は満州国にゐる羅振玉氏がその序文を書いてゐる。その序に云ふ。
「予住歳滬江ココウ上海シヤンハイのこと)ニ寓居ス。先後十年間、東邦ノ賢豪長者、道ニ滬上ニ出ヅルモノ、縞紵カウチョノ歓ヲツラネザルハナシ。一日味爽マイサウ櫛沐シツモクアタリ、打門ノ声甚ダ急ナルヲ聞キ、楼蘭ニツテ之ヲ観ルニ、客アリ。清癯セイク鶴ノ如シ。戸ニ当リテ立ツ。スミヤカニ倒屣タウシシテ之ヲ迎フ。既ニシテ門ニ入リ名刺ヲ出ダス。日本男児の中島端ト書ス。懐中ノ楮墨チヨボクヲ探リテ予ト筆談ス。東亜ノ情勢ヲ指陳シテ、傾刻十余紙ヲ尽ス。予洒然ソンゼントシテ之ヲ敬ス。行クニノゾンデ、継イデ見ンコトヲ約シ、ソノ館舎ヲヘバ、豊陽館ナリトイフ。翌日往イテ之ヲ訪ヘバ、則チスグニ行ケリ矣。・・・・・・」
これは又恐ろしく時代離れのした世界である。が、「日本男子云々」の名刺といひ、「打門ノ声甚ダ急」といひ、「翌日訪ねると、もう何処かへ行つて了つてゐた。」といひ、生前の伯父を知つてゐる者には、如何いかにも其の風貌を彷彿させる描写なのだ。三造は之を読みながら、微笑せずにはゐられなかつた。彼は、此の書物を、大学高等学校図書館へ納めに行くやうに、家人から頼まれてゐた。けれども、自分の伯父の著書を―それも全然無名の一漢詩客に過ぎなかつた伯父の詩文集を、堂々と図書館へ持込むことについて、多分の恥づかしさを覚えないわけに行かなかつた。三造は躊躇を重ねて、容易に持つて行かなかつた。そして、毎日の上でひろげては繰返して眺めてゐた。読んで行く中に、狷介けんかいにして善くののしり人をゆるすことを知らなかつた伯父の姿が鮮やかに浮かんで来るのである。羅振玉氏の序文には又云ふ。
「聞ク、君潔癖アリ。終身婦人ヲ近ヅケズ。遺命ニ、吾レ死スルノ後、スミヤカに火化ヲ行ヒ骨灰太平洋に散ゼヨ。マサニ鬼雄トナツテ、異日兵ヲ以テ吾ガ国に臨ムモノアラバ、神風トナツテ之ヲフセグベシト。家人謹ンデ、ソノ言ニシタガフ。・・・・・・」
これはすべて事実であつた。伯父の骨は、親戚の一人が汽船の上から、遺命通り、熊野灘に投じたのである。伯父は、さうしてさかまたか何かになつてアメリカ軍艦を喰べて了ふつもりであつたのである。
他人に在つては気障きざや滑稽に見える此のやうな事が、(この様な遺言や、その他、数々の奇行奇言などが)あとで考へて見れば滑稽ではあつても、伯父と面接してゐる場合には、極めて似付かはしくさへ見えるやうな、そのやうな老人で伯父はあつた。それでも、高等学校の時分、三造には、此の伯父の斯うした時代離れのした厳格さが、甚だ気障な厭味なものに見えた。伯父が、時分の魂の底から、少しも己を欺くことなしに、それを正しいと信じて其の様な言行をしてゐるとは、到底彼には信じられなかつたのである。其処に、彼と伯父との間に、どうにもならない溝があつた。事実彼と伯父との間には丁度半世紀の年齢のへだたりがあつた。死んだ時伯父は七十二で、三造は其の時廿二であつた。
親戚の多くが、三造の気質を伯父に似てゐると云つた。殊に年上の従姉いとこの一人は、彼が年をとつて伯父の様にならなければいいが、と、口癖に云つてゐた。其の言葉が部分的に当つてゐることを、三造は認めないわけには行かあなかつた。そして、それだけ、彼には、伯父の落着きのない性行が―それが自分に最も多く伝はつてゐるらしい所の―苦々しく思はれるのであつた。其の伯父の直ぐ下の弟―つまり三造にとつてはひとしく伯父であるが―の、極端に何も求むる所のない、落着いた学究的態度の方が、彼には遥かに好もしくうつつた。その二番目の伯父は、そのやうにして古代文字などを研究しながら別にその研究の結果を世に問はうとするでもなく、東京の真中に居ながら、髪を牛若丸のやうに結ひ、ニ尺近くも白髯しらひげを貯へて隠者のやうに暮らしてゐた。その「お髯の伯父」(甥達をひたちはさう呼んでゐた。)の物静かさに対して、上の伯父の狂躁性を帯びた峻厳が、彼には、大人おとなげなく見えたのである。似てゐると云はれる度に彼は、いつも、いやな思ひをしてゐた。伯父は幼時から非常な秀才であつたといふ。六歳にして書を読み、十三歳にして漢詩漢文くしたといふから儒学的な俊才であつたには違ひない。にもかかはらず、一生、何らのまとまつた仕事もせず、志を得ないで、世を罵り人を罵りながら死んで行つたのである。前の遺文の序文にもあつたやうに、伯父は妻をめとらなかつた。それが何に原因するものであるかを三造は知らない。伯父は又常に、三造には無目的としか思へないやうな旅行を繰返してゐた。支那には長く渡つてゐた。それは伯父自身が云ふ如く、国事を憂へて、といふよりも、単に、そのロマンティシズムとエクゾティシズムにそそられたためと云つた方がいいのではないかと、高等学校時代の三造は考へてゐた。この放浪者魂は彼の一生に絶えずつきまとつてゐたやうに見える。三造の知つてゐるかぎり伯父は常に居をかへたり旅行してゐたやうであつた。この彷徨を好む気質が自分にも甚だ多く伝はつてゐることを、三造は時々強く感じなければならなかつた。ただ、伯父の生活の経済的方面は久しく彼の謎であつた。伯父はかつて「支那分割の運命」なる本を出したことがあつた。が、そんな売れない本から印税がはひる筈はなかつた。大分後になつて、(それは伯父の晩年になつてからのことであるが、)伯父は経済的にはほとんど全部他人の―友人や弟達や弟子達の―援助を受けてゐることが分つた時、三造は、先づ、この点に向つて、心の中で伯父を非難した。自分で一人前の生活もできないのに、いたづらに人を罵るなぞは、あまり感心できないと、彼は考へたのである。あとから考へると、これらの非難は多く、自己に類似した精神の型に対する彼自身の反射的反撥から生まれたもののやうでもあつた。とにかく、彼は、自分がそれに似てゐるといはれる此の伯父の精神的特徴の一つ一つに向つて、一々意地の悪い批判を眼を向けようとしてゐた。それは確かに一種の自己嫌悪であつた。高等学校時代の或る時期の彼の努力は、この伯父の精神と彼自身の精神とに共通するいくつかの厭ふべき特質を克服することに注がれてゐた。その彼の意図は不当ではなかつたにも拘はらず、なほ、当時の彼の、伯父に対する見方は、不十分でもあり、又、誤つてもゐたやうである。即ち、伯父の奇矯な言動は、それが青年の三造におつて滑稽であり、いやみであると同じ程度に、彼よりも半世紀前に生まれた伯父自身にとつては、極めて自然であり、純粋なものであるといふことが、彼には全身的に理解できなかつたのである。伯父は、いつてみれば、昔風の漢学者気質と、狂熱的な国士気質との混淆こんかうした精神―東洋からも次第にその影を消して行かうとする斯ういふ型の、彼の知る限りでは其の最も純粋な最後の人達の一人なのであつた。このことが、その頃の彼には、概念的にしか、つまり半分しか呑みこめなかつたのである。
その年の二月、高等学校の記念祭の頃、本郷の彼の下宿へ、伯父から葉書が来た。利根川べりの田舎ゐなかからであつた。当分ここにゐるから、土曜から日曜にかけてでも、将棋を差しに来ないか。位なら御馳走するから、といふのである。それは、三造の高等学校を卒業する年で、丁度その少し前に、彼は、学校で蹴球アソシエーションをしてゐて、顔を蹴られ、顔中繃帯ほうたいをして病院へ通つてゐたのであつた。実際間の抜けた話ではあるが、上から落ちてくるヘッディングしようとして、一寸ちょっと頭をさげた途端に、その同じ球を狙つた足に、下から眼のあたりをしたたか蹴られたのである。眼鏡硝子ガラスは微塵に砕けて、瞬間はつとつぶつた彼の眼の裏には赤黒い渦のやうな影像がはげしく廻転した。やられた!と思つて、動かすと目の中が切れるかもしれないと考へながら、でも、一寸試す気で細目にまぶたをあけようとすると、血がべつたりと塞いでゐて、少し動くとぽたりと地面に垂れた。それから二人の友人にかかへられて直ぐに大学病院へ行つた。硝子で眼のまはりが切れただけで、幸ひに眼の中には破片ははひつてゐなかつたので、傷痕きずあとを縫つて貰つたあと二週間も通へばよかつた。しかし、そんな際だつたので、丁度それを良い口実にして「怪我をしてゐて残念ながら行けない」旨を返事したのであつた。彼は伯父を前にすると、自分の老いた時の姿を目の前にみせつけられるやうな気がして、伯父の仕草の一つ一つに嫌悪を感ずるばかりでなく、時々破裂する伯父の疳癪(かんしゃく)(それ故に伯父はやかまの伯父と、をひめひ達から呼ばれてゐた。)にも、慣れてゐるとはいへ、多少恐れをなしてゐた。その上その将棋といふのが、彼よりも一枚半も強いくせに、弱いものを相手にしていぢめるのを楽しむといつた風で、何時までたつても止めようとは云ひ出さないのであるから、之にもいささか辟易せざるを得なかつたのである。彼のその返事に折り返して来た伯父の葉書には、災難は何時降ってくるか分らず、人は常にそれに対して、何時遭遇しても動ぜぬだけの心構へを養つて置くことが必要である、といつた意味のことが認められてゐた。そしてそれきりで彼は一月あまり伯父のことを忘れてゐた。所が三月の中頃近くなつて、又ひよつこり、乱暴に美しく書きなぐつた伯父の葉書が舞ひこんできた。近い中にお前の所へ行きたいが、都合は良いか、といふのである。大学の入学試験が四五日中にすうので、その後の方が都合がよいのですが、と彼は返事を書いた。所が、それから三日ほどして、入学試験のなかの日に、その日の試験をすまして、下宿で机に向つてゐると、ふすまをあける女中の声と共に、後から、古風な大きいバスケットをげた伯父がはひつて来た。これから山へ行くのだと伯父はいきなり云つた。彼には一向話が分らなかつた。恐らく、伯父はすでに事の次第を前以て彼に向けて手紙で知らせてあるといふ風に勘違ひしてゐたに違ひない。よく聞くと相州の大山に籠るのだといふ。大山の神主某の所へ行つて、暫く病を養ふのだといふ。伯父はそのニ三年前から時々腸出血などをしてゐた。それを七十を越した伯父は、気力一つで医者にもかからず持ちこたへてゐたのである。その出血が近頃ますます烈しいといふ。そんなに弱つてゐる身体が、何かにつけて不自由な山などへ籠つては、まずます不可いけないことは明らかなのであるが、それを言ふと、どんなに機嫌を悪くするか分らないやうなその頃の伯父であつたので、三造も黙つてゐるより外はなかつた。それに荷物はもう、先へ向けて送つてあるのだと伯父は云つてゐた。暫く、そのことを話してゐる中に、伯父は、三造の右の眼の縁に残つてゐる傷痕をみつけて、やっと彼の怪我のことを思ひ出したらしく、その工合をたづねた。と、それに対する彼の答をろくに聞きもしないで、「これから床屋へ行つて来る。今、道で見てきたから場所は分つてゐる。」と云ひ出した。見ると成程、ひげが―みんな白か黄に染まつてゐるのだが―ひどく伸びてゐる。頭髪はそれほど薄くはなく、殊に両耳の上あたりは可成長く伸びて乱れてゐる。長寿のしるしといはれる、長くぴんと突き出た眉の下に、大きい眼がくぼんでゐる。そのすぐ下の伯父―その牛若丸のやうな髪を結つた隠者のやうなお髯の伯父と、この二人の老人の眼はそれぞれに違つた趣をもつてはゐるが、共に童貞にだけしか見られないきよらかさを持って、いつも美しく澄んでゐるのである。一つはいつも実現されない夢を見てゐる人間の眼で、それからもう一つは、すつかりおちつき切って自然の一部になつて了つたやうな人間の眼である。この二人の伯父を並べて見る度に、三造はバルザックの「従兄ポンス」を思ひ出す。勿論、上の伯父はポンスよりも気性が烈しく、下の伯父はシュムケよりも更に東洋的な諦観をより多くもち合わせてゐるのではあるけれども。
伯父はそそくさところがるやうにして階段を下りて行つた。ついて行くと、伯父はもう下宿の下駄をつつかけて出て了つたあとで、帳場で主婦かみさんと女中が笑つてゐた。
一時間程して帰つて来た伯父はすつかり綺麗になつてゐた。着物の前は合つてゐなかうたけれども、はかまはキチンと結ばれ、とほつた鼻筋とはつきり見ひらかれた眼とは彼を上品な老人に見せてゐる。顔の肌も洗はれたばかりで、老人らしい汚点しみもなく黄色く光つて見える。二人はまた火鉢の側に坐りこんで、暫く話をした。彼等の親戚達の噂話。日本の漢詩人のこと。支那の政局のこと。そのうちに何かの拍子で共産主義のことが出た時、伯父は資本論の原文をその中に誰かに借りて来てくれ、と言ひ出した。又始まつたなと彼は思つた。このやうな実行力を伴はない東洋壮士的豪語がいつも彼を腹立たせるのである。なに、マルクスが正しい独乙語ドイツごさへ書いてゐれば俺にだつて分るさ、と、彼の顔色を見たのか、伯父はそんなことまで附け加へた。彼は伯父が早く此の話を切上げてくれるやうに、と念じながら、黙つて火箸ひばしで灰に字を書いてゐる外はなかつた。その中に突然伯父は、急に気が付いたやうな様子で「傘を買つて来てくれ。」と言ふ。降つてゐるんですか、と聞きながら障子をあけて外を見やうとすると、今は降つてはゐないけれども、とにかく要るものだからと伯父は言つた。さうして蟇口がまぐちから五十銭銀貨を一枚出して、何処とかで、五十銭の蛇の目を見たから、さういふのを一本買つて来て貰ひたいと云つて、変な顔をしてゐる三造にそれを渡すのであつた。三造は女中を呼び、自分の財布から、そつと五十銭銀貨二枚を出して、それを附加へ、買つて来るやうに頼んだ。女中はすぐに表に出て行つたが、やがて細目のこん蛇の目を持つて帰つて来た。伯父はそれを、いきなり狭い四畳半で拡げて見て、成程、東京は近頃物が安いと言つた。
間もなく伯父は、もう大山に行くのだと言ひ出した。何時の汽車ですと、あやふく聞かうとした彼は、伯父が決して汽車の時間を調べない人間だつたことを、ひよいと思ひ出した。伯父は、どんな大旅行をする時でも、時計など持つたことがないのである。
彼は東京駅迄送るつもりで、制服に着換へ始めた。伯父はそれが待ちきれないので、例の大きなバスケットを提げて部屋の外へ出ると、急いで階段を下りて行つた。と、先刻さつきの蛇の目を忘れたことに気がついたらしく、階下したから「三造さん。傘!傘!」と大きな声がした。彼は面喰つた。いまだつて伯父は彼の事を「さん」づけにして呼んだことはなかつた筈である。いつも三造、三造と呼棄よびすてであつた。彼は、その伯父の呼方の変化に、伯父の気力の衰へを見たといふよりは、何かしら伯父の精神状態が異常になつてゐるのではないかといふやうな不安が感じられて、ギョッとしながら、傘をもつて階段を下りて行つた。
表へ出る伯父は円タクを呼んだ。どうせ文求堂に置いてある荷物を持つて行くのだからと伯父は言ひわけのやうな調子で言つた。支那風の扉をつけた文求堂の裏口で車を停めると、中から店の人ががんじがらめにした行李かうりを一つ車の中へ運んでくれた。
―伯父は非常に聴き取りにくい早弁で、おまけに、それを聞き返されるのが大嫌ひであつた。―その時も三造は、伯父の言つたことがよくわからなかつたので聞えないといふ風をして伯父の顔を見返した。伯父はいらただしさうに、今度は、右手は人差指一本、左手は人差指と中指をそろへて、あげて見せた。此の禅問答のやうな仕草は、三造にはますます何のことやら分らなかつたけれど、とにかく無意味にうなづいて見せた。伯父はやつと気がすんだやうな顔をして硝子窓の外に眼を外らせた。駅について助手に荷物を運ばせてゐる時、ふと三造は、伯父が運転手に何も聞かずに一円二十銭―たしかに、それは一円二十銭―払つてゐるのを見た。三造は驚いた。(昭和五年当時、円タクは市内五十銭に決つてゐたものだ。)やつと、さつきの指の意味が分つた。右の一本は一円―円タクといふからには一円にきまつてゐると伯父は考へたのだ―で、左の二本は二十銭だつたのである。彼も今更とめるっわけにも行かず微笑わらひながら伯父の動作を眺めてゐた。三造などに聞かなくとも、此の大都会の交通機関の習慣位は、ちやんと心得てゐるぞと言つた風な、いかにも満足げに見える伯父の顔つきを、恐らく、伯父は、割増一人毎に二十銭と書いてあるのを何処かで見たのでもあらうか。


それから一月程たつて、大山から手紙が来た。身体の工合が益々よくないこと、一日に何回も腸出血があると言ふことなどが認められてゐた。が、「瀕死」とか「死期が近づいた」と言ふ字句が彼に何か実感の伴はないものを感じさせると同時に、かえつてさういふことを言ふ伯父の病態に楽観的な気持を抱かせたし、又、宿のものの待遇の悪さをしきりに罵つてゐるぞの手紙の口調からしても、伯父の元気の衰へてはゐないらしいことが察せられたので、彼はその報知を大して気にもかけなかつたのである。所が、更にそれから半月程して、今度は葉書で簡単に、山では病が養へないから大阪へ―大阪には彼の従姉いとこが(伯父からいへば姪だ)ゐた。―行きたいのだが、今では身体が殆んど利かないから、大阪まで送つて貰ひたい、老人の最後の頼みだと思つて、是非すぐに大山に迎へに来てほしい、と書かれたのを受け取つた時、彼は全く当惑した。一体、そのやうな病人を大阪まで運んでいいものかどうか。それに、どうしてまあ、伯父は大阪へなど行く気になつたものか。成程その大阪の従姉は子供の時から伯父には色々と世話になつたのであるし、又従姉自身、人の面倒を見るのがお好きな性質ではあるが、何といつてもそれは、従姉の夫の家ではないか。おまけに、その姪の夫を伯父は常々、馬鹿だ(といふことは、つまり此の場合漢字の教養がないと言ふことになるのであるが)云ひ云ひしてゐたのである。その男の所へ行かうなどと言ひ出す。これは少し変だぞと三造は考へた。前の手紙には驚かなかつた彼も、此の伯父の大阪行の決心の中に、伯父の病気の重態さの動かすことのできない証拠を見たやうに思つて、少からずあわてたのである。が、それにしても、とにかく大阪まで行かせることは何としてもいけないと思つた。病気を養ふのならば、何も大阪まで行かなくとも、自分の弟が―三造にとつてはやはりこれも伯父だが―洗足せんぞくにゐるのである。三造はすぐにその葉書をもつて洗足へ出かけた。洗足の伯父も彼と同意見であつた。自分の家へ来るやうに勧めるために、その伯父は翌朝大山へ行つた。が、午後になつて手をむなしうして帰つて来た。どうしても(理屈なしに)大阪へ行くと言つてきかないのださうである。もう、ああ言ひ出しては仕方がないから、と言つて、洗足の伯父は彼に大阪行の旅費を与へた。


翌日、三造は小田急で大山へ行つた。その神主の家はすぐ分つた。通されて二階に上ると、伯父は座敷の真中の蒲団の上に起きて、古ぼけた脇息けんそくもたれて坐つてゐた。伯父は三造を見ると非常に―滅多めつたに見せたことのないほどの―嬉しさうな顔をした。それが何だか三造を不安にした。荷物はすつかりととのへられてゐた。立つ際になつて、封筒に入れて置いた紙幣が一枚、その封筒ごとくなつたといひ出した。伯父のなくしものは何時ものことである。その時もすぐに、その封筒が部屋のすみの新聞紙の下から出て来た。が、それは半分敗れて取れてゐて、中には、これもやはり破れた十円紙幣が半分だけはひつてゐた。伯父が反故ほごとまちがへて自分で破つて捨てたものであることは明らかであつた。他の半分は、だが、探しても探しても出て来なかつた。伯父は捜索を断念しようとしたけれども、それを聞いて一緒に探しはじめた其の神主の家人達が承知しなかつた。探し出して、くつつければ、結構使へるのだからと、そのお内儀かみさんはさう言つて、家の裏のごみ捨場や、その側の竹藪たけやぶまで、子供達を探しにやつた。「見つかるもんか、馬鹿な。」と伯父は、露骨に不快な顔をして、まるで他人事ひとごとのやうに、彼等の騒ぎ方を罵るのであつた。自分自身の失策に対する腹立たしさと、更に、その失策を誇張するかのやうな仰々ぎやうぎやうしい彼等の騒ぎぶりと、又、自分の金銭に対する恬淡てんたんさを彼等が全然理解してゐないことに対する憤懣とで、すつかり機嫌を悪くしたまま、伯父はその家を出た。ふもとまでは、三造にも初めての山駕籠やまかごであつた。あまり強さうにも見えない三十前後の男が前後に一人づつ、杖をもつて時々肩を換へながら、石段路を歩きにくさうに下つて行つた。三造は、そのあとについて歩いた。下り切つて了ふと今度は人力車に乗つた。松田の駅に着いた時はもう夕方になつてゐた。


松田駅の待合室で次の下りを待合せてゐる間、伯父は色々とわからないことを言出して三造を弱らせた。その時伯父は珍しく旅行案内を持つてゐて、(宿の神主が気をかせて荷物の中に入れておいたものであらう)それで時間を操りながら、「今、たてば大阪には明日の十時になる」といつた。所が三造が見ると、どうしても七時になつてゐる。さういふと伯父はひどく腹を立てて、よく見ろといつた。いくら見ても同じであつた。伯父が線を間違へて見てゐたのである。三造も少し不愉快になつてきたので、赤鉛筆でハッキリ線をひいて伯父の見間違ひを説明した。すると伯父は返事をしないで、子供のやうにむつとしたまま横を向いて了つた。それからしばらくして、今度は、夏蜜柑を買つて来いと言ひ出した。三造の買つて来た夏蜜柑はうまくなかつた。「夏蜜柑のえらび方も知らん」と言つてまじめになつて小言こごとをいひながら、それでも伯父はムシャムシャと食べた。そして三造にもすすめた。砂糖がなくてはと酸いものの嫌ひな三造が言ふと「そんな贅沢なことでどうする。今の若いものは」と再び小言が始まつた。ふだんは、そんな事を言ひ出しては益々若い者にわらはれることを知つて、自らおさへるやうにしてゐるのだが、病気のためにそんな顧慮も忘れて了つたらしい。三造も腹が立ち、ハッキリと苦い顔を見せて、何時迄も夏蜜柑の黄色く白つぽいを喰べずに掌に載せたまま、強情に押黙つてゐた。
しかし、いよいよ切符を切り構内へ入つて露天のプラットフォオムベンチに、トランクにもたれ、毛布をしいて、ほつと腰を下した伯父を見た時、―沈んで間もない初夏は妙に白々とした明るさであつた、―三造は、はつきりと、伯父の死の近づいたことを感じさせられた。円い形の良い頭蓋骨が黄色い薄い皮膚の下にはつきり想像され、凹んだは静かに閉ぢ、顴骨けんこつから下がぐつと落ちこんで、先端の黄色くなつた白髯が大分伸びてゐる。そして右手はキチンとはかまの上に、左手は胸からふところへ差し込んだまま、眠つたやうに腰掛けてゐる伯父の姿のどこかに、静かな暗い気がまとひついてゐるやうな気がするのであつた。併し、その死の予感は、三造をうろたへさせもしなければ、又伯父に対する最後の愛着を感じさせもしなかつた。妙におちついた澄んだ気持で、彼は、その白い薄明の中に浮び上つた伯父の顔を、―その顔に漂つてゐる、追ひやることのできない不思議な静かな影を―見詰めるのであつた。その影に抵抗することは、とてもできない。それは、どうすることもできない定まつたことなのだ、と、さういふ風な圧迫されるやうな気持を何とはなしに感じながら。


汽車の中は、場所はゆつくり取れたけれども、あひにくそれが手洗所の近くであつた。伯父は、それをひどく気にして、他の乗客がその扉をあけつぱなしにすると言つては、遠慮なくののしつた。三造は毛布を敷き、空気枕をふくらして、伯父の寝易いやうにしつらへた。伯父は窓硝子の方に背をもたせ、枕をあげがつて、足を伸ばし、眼をつぶつた。茶つぽい光の列車の電燈の下では、伯父の顔にももう先刻の妙な「気」はすつかり払ひ落されて了つてゐた。ただ、そのやせた顔のしわのより工合や、又時々のひきつるやうな筋の動きで、その浅い睡りの中でも伯父が苦痛をこらへてゐることが分り、それが向ひあつてゐる三造に落ちつかない気持を与へた。伯父の苦しさうな寝顔を見ながら、しかし、彼は、かえつて、この伯父の嘗ての滑稽な非常識な失策などを思ひ出してゐた。伯父が銭湯に行つた所、女湯とあるのを読み、そこには男湯はないものと思つて、帰つて来た話。又、三造の妹に、駄菓子屋へ行つて、キャラメルを五円買つて与へた話。そんなことを彼はゴトゴト揺られながら思ひ出してゐた。その三造の妹は二年前に四歳で死んだ。それを大変悲しんだ伯父はその時こんな詩を作つた。
毎我出門挽吾衣  翁々此去復何時
今日睦児出門去  千年万年終不帰
睦子とはその妹の名である。三造には漢詩の巧拙は分らなかつた。従つて伯父の詩で記憶してゐるのも殆んどないのであるが、今、次のやうなのがあつたのを、ひよつと思ひ出した。その冗談めいた自嘲の調子が彼の注意を惹いたものであらうか。
悪詩悪筆  自欺欺人  億千万却  不免蛇身
口の中で、しばらく之を繰返しながら、三造は自然に不快な寒けを感じてきた。何故か知らぬが、詩の全体の意味からはまるで遊離した「不免蛇身」といふ言葉だけが、三造を妙におびやかしたのである。彼自身も、此の伯父のやうに、一生何ら為すなく、自嘲の中に終らねばならぬかも知れぬといふやうな予感からではなかつた。それはもつと会体えたいのしれない、気味の悪い不快さであつた。眼をつぶつたまま揺られつづけてゐる伯父を、暗い車燈の下に眺めながら、彼は「此の世界で冗談に云つたことを別の世界では決して冗談ではなくなるのだ」といふ気がした。(そのくせ、彼はふだん決して他の世界の存在など信じてはゐないのだが)すると、伯父の詩の蛇身といふ言葉が、蛇身といふ文字がそのまま生きてきて、グニャグニャと身をくねらせて車室の空気の中をいまはつてゐるやうな気持さへしてくるのであつた。


翌朝、大阪駅から乗つたタクシイの中で―従姉の家は八尾やをにあつた―三造はそつと自分の蟇口がまぐちをのぞいて見た。前日の夕方、松田駅で、切符を買ふとき「一寸ちょっと、今、一緒に出して置いてくれ」と伯父に言はれて、立替へて置いた金のことを、伯父はもうすつかり忘れてしまつたと見えて、未だに何とも云ひ出さないのである。車に揺られて、ゴミゴミした大阪の街中を通りながら、又この車賃も払はせられるのかと、彼は観念してゐた。さうなると洗足の伯父から貰つてきた金では、帰りの汽車賃があぶなくなるのである。どうせ従姉に借りれば済むことではあるが、とにかく近頃の伯父の忘れつぽさにはあきれない訳には行かなかつた。それに、冗談にも催促がましいことでも口にしようものなら大変なのだから、全く、ひどい目に逢ふものだと三造は思つた。車が次第に郊外らしいあたりにはひつて行つた時、しかし、伯父は、突然自分の財布を出して五円紙幣を一枚抜き出した。明らかに、今度は自分で払ふ積りに違ひない。三造は、一寸助つたやうな気がしたけれど、それにしても財布まで出しながら、まだ、昨夕の汽車賃のことを思ひ出さないのは変だと思つた。車はやがて八尾の町にはひつて、しばらくすると、伯父は、そこで車をめさせて、どうも此処らしいから下りて見るといつた。三造は初めてであるし、伯父もまだ二度目なのではつきり分からないのである。三蔵を車内に残して、ひとり下りた伯父は、紙幣を一枚、右の人差指と中指の間にはさんだまま、あまり確かでない足どりで、往来から十間ほどひつこんだ路地にはひつて行つた。そして、突当りの格子戸の上の標札を読むと、病人のわりにかなり大きな声で「ああ、ここだ。ここだ」と云つて、彼の方を向いて手招きをした。それからそのまま―紙幣さつを指の間にはさんだまま―格子をあけて、すうつとはひつて了つたのである。どうにも仕方がなかつた。三造は苦笑しながら、又しても四円なにがしのタクシイ代を払つた。


伯父を送りとどけると、三造はほつと荷を下した気になつて、すぐに、ひとりで京都へ遊びに出かけた。京都には、此の春、京都大学にはひつた高等学校の友人がゐた。二日ほど、その友人の下宿に泊つて遊んでから、八尾の従姉の家に帰ると、玄関へ出て来た従姉が小声で彼に告げた。三ちゃんが黙つて遊びに行つて了つたつて大変御機嫌が悪いから、早く行つて大人しくあやまつていらつしやいと言ふのである。昨日は大変元気でたひの刺身を一人で三人前も喰べたのはいいが、そのおかげで昨夕は何度も嘔吐や腸出血らしいのがあつたのだとも言つた。何しろ医者を寄付けようとしないので従姉も困つてゐるらしかつた。二階へ上つて行くと、果して、伯父は大きな枕の中から顔を此方へ向け、黙つてじろりと彼をにらんだ。それから突然、掃除をしろと言ひ出した。彼が、座敷の隅にかかつてゐた座敷箒ざしきぼうきをを取らうとすると、先づ、自分の寝てゐる床の上から掃かなけりやいけないと言ふ。小さな棕櫚しゆろの手箒で蒲団の上を、それから座敷箒で、その部屋と隣の部屋まで、たうとう三造はすつかり二階中掃除させられて了つた。それが終ると、大分伯父も気が済んだやうであつたが、それでも、まだ「お前は病人を送る為に来たのだか、自分の遊びの為に来たのだか分らない」などと言つた。その晩、三造は早々に東京へ帰つた。
二週間程して、伯父は八尾のめひの夫に送られて東京へ帰つて来た。何の為に大阪へ行つたのか、訳が分らない位であつた。恐らく伯父も既に死をさとつたのであらう。さうして同じ死ぬならば、やはり自分の生れた東京で死にたかつたのであらう。三造が電話でしらせを受取つて直ぐに高樹町赤十字病院に行つた時、伯父はひどく彼を待兼ねてゐた様子であつた。一生つひに家庭を持たなかつた伯父は、数ある姪やおひ達の中でも特に三造を愛してゐた様に見えた。殊に彼の学校の成績の比較的良い点に信頼してゐたやうであつた。三造がまだ中学の二年生だつた時分、同じく二年生だつた彼の従兄の圭吉と二人で、伯父の前で、将来自分たちの進む学校について話し合つたことがあつた。其の時、二人とも中学の四年から高等学校へ進む予定で、そのことを話してゐると、それを聞いてゐた伯父が横から、「三造は四年からはひれるだらうが、圭吉なんか、とても駄目さ」と言つた。三造は、子供心にも、思ひりのない伯父の軽率を、許し難いものに思ひ、まるで自分が圭吉をはづかしめでもしたかの様な「すまなさ」と「恥づかしさ」を感じ、暫しは、頭を上げられない位であつた。それから二年余りも経つて、駄目だと言はれた圭吉も、三造と共に四年から高等学校にはひつた時、三造は、まだ、かつての伯父の無礼を失念深く覚えてゐて、それに対する自分の復讐が出来たやな嬉しさを感じたのであつた。
赤十字病院の病室には、洗足の伯父と渋谷の伯父(之は、例のおひげの伯父と洗足の伯父の間の伯父であつた。その頃遠く大連にゐた三造の父は、十人兄弟の七番目であつた。)とが来てゐた。勿論、附添や看護婦もゐた。三造がはひつて行くと、伯父は寝顔を此方へ向けて、真先に丁度其の頃神宮外苑で行はれてゐた極東オリンピックのことを彼にたずねた。そして、陸上競技では支那が依然無得点であることを彼の口から確かめると、我が意を得たといふ様な調子で、「かういふやうな事でも、矢張支那人は徹底的に懲こらして置く必要がある」と呟つぶや{{{2}}}いた。それから、其の日の新聞の支那時局に関する所を三造に読ませて、じつと聞いてゐた。伯父は、人間の好悪が甚だしく、気に入らない者には新聞も読ませないのである。


次に三造が受取つた伯父に就いての報知は、いよいよ胃癌ゐがんで到底助かる見込の無いことを伯父自身に知らせたといふこと―それは、もうずつと以前から分つてゐたことだが、病人の請ふままにそれを告げてよいか、どうかを医者が親戚達にはかつた時、伯父の平生の気質から推して、本当のことをはつきり言つて了つた方が却って落着いた綺麗な往生が遂げられるだらうと、一同が答へたのであるといふ。―そして、どうせ助からないなら病院よりは、といふので、洗足の家へ引移つたといふことであつた。尚、その親戚の一人からの手紙には、「助かる見込のない事を宣告された時の伯父は、実に従容しようようとしてゐて、顔色一つ変へなかつた」と附加つけくはへてあつた。英雄の最後でも聞くやうなさういふ書きつぷりにはいささ辟易へきえきしたが、とにかく三造は直ぐに洗足の伯父の家へ行つた。さうして、ずっと其処に寝泊りして最後迄附添ふことにした。
病気が進むにつれ、人に対する好悪が益々ひどくなり側に附添ふことを許されるのは、三造の他四五人しかゐなかつた。その四五人にも、伯父は絶えず何か小言を言続けてゐた。田舎からわざわざ見舞に来た三造の伯母―伯父の妹―などは、何か気に入らないことがあるとて、病室へも通されなかつた。三造にとつて一番たまらないのは、伯父が、看護婦を罵ることであつた。看護婦には、伯父の低声の早口が聞きとれないのである。それを伯父は、少しも言ふことを聞かぬ女だ、といつて罵つた。或時は、三造に向つて看護婦の面前で、「看護婦を殴れ。殴っても構はん」などと、憤怒に堪へかねた眼付で、しはれた声をしぼりながら叫んだ。かない上体を、心持、枕から浮かすやうに務めながら目をけはしくして、衰へた体力を無理にふりしぼるやうに罵つてゐる伯父の姿は全く悲惨であつた。さういふ時、最初の看護婦は、―その女は二日程ゐたが堪へられずに帰つて了つた―後を向いて泣出し、二度目の看護婦は不貞腐ふてくされてを向いてゐた。三造は、どうにもやり切れぬ傷ましい気持になりながら、何とも手の下しやうが無かつた。
病人の苦痛は極めて激しいもののやうであつた。食物といふ食物は、まるで咽喉のどを通らないのである。「天ぷらが喰べたい」と伯父が言出した。何処のが良い?と聞くと「はしぜん」だといふ。親戚の一人が急いで新橋迄行つて買つて来た。が、ほんの小指の先ほど喰べると、もう直ぐに吐出して了つた。まる三週間近く、水の他何もれないので、まるで生きながら餓鬼道にちたやうなものであつた。例の気象で、伯父はそれを、目をつぶつてぢつとこらへようとするのである。時として、堪へに堪へた気力の隙から、かすかな呻きが洩れる。つぶつた眼の周囲に苦しさうな深い皺を寄せ、口を堅く閉ぢ、ぢつとしてゐられずに、大きな枕の中で頭をぢりぢり動かしてゐる。身体には、もうほんの少しの肉も残されてゐない。意識が明瞭なので、それだけ苦痛が激しいのである。筋だらけの両の手の指をかたくこはばらせ、その指先で、寝衣のえりから出たこつこつの咽喉骨や胸骨のあたりを小刻こきざみにふるへながら押へる。その胸の辺が呼吸と共に力なく上下するのを見てゐると、三造にも伯父の肉体の苦痛が蔽ひかぶさつて来るやうな気がした。しまひに、伯父は、薬で殺して呉れと言出した。医者は、それは出来ないと言つた。だが、苦痛を軽くする為に、死ぬ迄、薬で睡眠状態を持続させて置くことは許されるだらう、と附加へた。結局、その手段が採られることになつた。いよいよ其の薬をのむといふ前に、三造は伯父に呼ばれた。側には、ほかに伯父の従弟に当る男と、及び、伯父の五十年来の友人であり弟子でもある老人とがゐた。伯父はたすけられて、やつと蒲団の上に起きて坐り、夜具を三方に高く積ませて、それにつて辛うじて身を支へた。伯父は側にゐる三人の名を一人一人呼んで床の上に来させ、其の手を振りながら、別れの挨拶をした。伯父が握手をするのは一寸不思議であつたが、恐らく、それが其の時の伯父には最も自然な愛情の表現法だつたのであらう。三造は、他の二人の握手を見ながら、多少の困惑を交へた驚きを感じてゐた。最後に彼が呼ばれた。彼が近づくと、伯父は真白な細く堅い手を彼の掌に握らせながら、「お前にも色々厄介やつかいを掛けた」と、とぎれとぎれの声で言つた。三造は眼を上げて伯父の顔を見た。と、静かに彼を見詰めてゐる伯父の視線にぶつつかつた。其の眼の光の静かな美しさにひどく打たれ、彼は覚えず伯父の手を強く握りしめた。不思議な感動が身体を顫はせるのを彼は感じた。
それから伯父は其の薬を飲み、やがて寝入つて了つた。三造は其の晩ずつと、眠続けてゐる伯父の側について見守つた。一時の感動が過ぎると、彼は先刻の所作が―又、それに感動させられた自分が少々気羞きはづかしく思出されて来る。彼はそれを忌々いまいましく思ひ、其の反動として、今度は、伯父の死に就いてく迄冷静な観察をもち続けようとの心構を固めるのである。青い風呂敷で電燈をおほつたので、部屋は海の底のやうな光の中に沈んでゐる。其のうす暗さの真中にぼんやり浮かび上つた端正な伯父の寝顔には、最早、先刻迄の激しい苦痛の跡は見られないやうである。其の寝顔を横から眺めながら、彼は伯父の生涯だの、自分との間の交渉だの、又病気になる前後の事情だのを色々と思ひかへして見る。突然、ある妙な考へが彼の中に起つて来た。「かうして伯父が寝てゐる側で、伯父の性質一つ一つを意地悪く検討して行つて見てやらう。感情的になりやすい周囲の中にあつて、どれほど自分は客観的な物の見方が出来るか、を試すために」と、さういふ考へが起つて来たのである。(若い頃の或る時期には、全く後から考へると、汗顔のほかは無い・未熟な精神的擬態を採ることがあるものだ。此の場合も明らかに其の一つだつた。)その子供らしい試みのために彼は、携帯用の小型日記を取り出し、暗い電気の下でポツポツ次のやうな備忘録風のものを書き始めた。書留めて行く中に、伯父の性質の、といふよりも、伯父と彼自身との精神的類似に関するとりとめのない考察のやうなものになつて行つた。
(一) 彼の意志、(と三造は、先づ書いた。)
自分がつてその下に訓練され陶冶たうやされた紀律の命ずる方向に向つては、絶対盲目的に努力し得ること。それ以外のことに対しては全然意思的な努力を試みない。一見すこぶ鞏固きょうこであるかに見える彼の意志も、其の用ひられ方が甚だ保守的であつて、全然未知な精神的分野の開拓に向つて、それが用ひられることは決して無い。
(二) 彼の感情
論理的推論は学問的理解の過程に於て多少示されるに過ぎず、(実はそれさへ甚だ飛躍的なものであるが、)彼の日常生活には全然見られない。行動の動悸はことごとく感情から出発してゐる。甚だ理性的でない。その没理性的な感情の強烈さは、時に(本末転倒的な、)執拗醜悪な面貌を呈する。彼の強情がそれである。が、又、時として、それは子供のやうな純粋な「没利害」の美しさを示すこともある。
自己、及び自己の教養に対する強い確信にも拘らず、なほ、自己の教養以外にも多くの学問的世界のあることを知るが故に、彼は屡々しばしば(殊青年達の前にあつて、)其等の世界への理解を示さうとする。―多くの場合、それは無益な努力であり、時に滑稽でさへある。―しかも此の他の世界への理解の努力は、常に、悟性敵な概念的な学問的な範囲にのみ止つてゐて、決して、感情的に異つた世界、性格的に違つた人間の世界に迄は及ばないのである。かかる理解を示さうとする努力、―新しい時代に置き去りにされまいとする焦燥せうさう―が、彼の表面に現れる最も著しい弱さである。
(ここまで書いて来た三造は、絶えず自分につきまとつてゐる気持―自分自身の中にある所のものを憎み、自分の中に無いものを希求してゐる彼の気持―が、伯父に対する彼の見方に非常に影響してゐることに気が付き始めた。彼は自分自身の中に、何かしら「乏しさ」のあることを自ら感じてゐた。そして、それを甚だしく嫌つて、すべて、豊かさの感じられる《鋭さなどはその場合、ない方が良かつた》ものへ、強い希求を感じてゐた。此の豊かさを求める三造の気持が、伯父自身の中に、―その人間の中に、その言動の一つ一つの中に見出される禿鷹はげたかのような「鋭い乏しさ」に出会つて、烈しく反撥するのであらう。彼はこんなことを考へながら、書続けて行つた。)
彼の感情も意志も、その儒学倫理(とばかりは言へない。その儒教道徳と、それから稍々ややみ出した。彼の強烈な自己中心的な感情との混合体である。)への服従以外に於ては、質的には頗る強烈であるが、時間的には甚だしく永続的でない。移り気なものである。
これは、彼の幼時からの書斎的俊敏が大いにあづかつてゐる。彼が一生つひに何等のまとまつた労作をも残し得なかつたのは此の故である。決して彼が不遇なのでも何でもない。その自己の才能に対する無反省な過信は殆(ほとん)ど滑稽に近い。特に、それは失敗者の負惜みからの擬態とも取れた。若い者の前では、ととめて、新時代への理解を示さうとしながら、しかも、その物の見方の、どうにもならない頑冥さに於て、宛然一個のドン・キホーテだつたのは悲惨なことであつた。而も、彼が記憶力や解釈的思考力(つまり東洋的悟性)に於て異常に優れて居り、つ、その気質は最後まで、我儘わがままな、だが没利害的な純粋を保つて居り、又、その気魄の烈しさが遥かに常人を越えてゐたことが一層彼を悲惨に見せるのである。それは、東洋が未だ近代の侵害を受ける以前の、或る一つのすぐれた精神の型の博物館的標本である。・・・・・・
このやうな批判を心の中に繰返しながら、三造は、かう考へてゐる自分自身の物の見方が、あまりに生温なまぬるい古臭いものであることに思ひ及ばないわけには行かなかつた。伯父の一つの道への妄信を憐れむ(あるひは羨む)ことは、同時に自らの左顧右眄さこうべん的な生き方を表白することになるではないか。して見れば彼自らも、伯父と同様、新しい時代精神の予感だけはもちながら、結局、古い時代思潮から一歩も出られない滑稽な存在となるのでないか。(ただ、それは伯父と比べて、半世紀だけ時代をずらしたにすぎない)伯父のやうになるのであらうと言つた彼の従姉の予言があたることになるではないか。・・・・・・
彼は少々忌々しくなつて、文章を続ける気がしなくなり、今度は表のやうなものをこしらへる積りで、日記帖の真中に横に線を引き、上に、伯父からけたもの、と書き、下に、伯父と反対の点と書いた。さうして伯父と自分との類似や相違を其処に書き入れようとしたのである。
伯父から享けたものとしては、先づ、其の非論理的な傾向、気まぐれ、現実にうとい理想主義的な気質などが挙げられると、三造は考へた。穿うがつたやうな見方をするやうでゐて、実は大変甘いお人好しである点なども、其一つであらう。三造も時に他人ひとから記憶が良いと言はれることがあるが、之は伯父から享けたものかも知れない。肉体的にいへば、伯父のはつきりした男性的風貌に似なかつたことは残念だつたが、顱頂ろちやうの極めてまんまるな所(誰だつて大体は円いに違ひないが、案外でこぼこがあつたり、上が平だつたり、後が絶壁だつたりするものだ。)だけは、確かに似てゐる。しかし、伯父との間に最も共通した気質は何だらう。或ひは、二人ともに、小動物、殊に猫を愛好する所がそれかも知れぬ、と、三造は気が付いた。一つの情景が今三造の眼の前に浮んで来る。何でも夏の夕方で、彼はまだ小学校の三年生位である。次第に暮れて行く庭の隅で、彼が小さなシャベルで土を掘つてゐる側に、伯父が小刀で白木を削つてゐる。二人が共に非常に可愛がつてゐた三毛猫が何処かで猫イラズでも喰べたらしく、その朝、外から帰つて来ると、黄色い塊を吐いて、やがて死んで了つた。その墓を二人はこしらへてゐるのである。土が掘れると、猫の死骸を埋め、丁寧に土をかけて、伯父がその上に、白木の印を立てる。黄色く暮れ残つた空に蚊柱の廻る音を聞きながら、三造はその前にしゃがんで手を合はせる。伯父は彼の後に立つて、手の土を払ひながら、黙つてそれを見てゐる。
伯父はその晩ずっと睡り続けた。次の日の昼頃、ひよいと眼をあけたが、何も認めることが出来ないやうであつた。くうをみつめた眼玉をぐるりと一廻転させると、すぐに又、まぶたを閉ぢた。そしてそのまま、微かな寝息を立てて、眠り続けた。
その晩の八時頃、三造が風呂にはひつてゐると、すぐ外の廊下を食堂(洗足の伯父の家は半ば洋風になつてゐた)から、伯父の病室の方へバタバタ四五人の急ぎ足のスリッパの音が聞えた。彼は「はつ」と思つたが、どうせ睡眠状態のままなのだから、と、さう考へて、身体を洗つてから、廊下へ出た。病室へはひると、昼間の姿勢のままにねてゐる伯父を真中にして、その日、朝からこの家につめかけてゐた四人の親戚達や此の家の家族達が、大方黙つて下を向いてゐた。彼が障子をあけてはひつても誰も振向かない、彼等の環の中にはひつて座を占め、伯父の顔を眺めた。かすかな寝息ももう聞えなかつた。彼はしばらく見てゐた。が、何の感動も起らなかつた。突然、笑ひ声のやうな短く高い叫びが、彼の一人おいて隣から起つた。それは二三年前女学校を出た此の家の娘であつた。彼女はハンケチで顔をおほつて深く下を向いたまま、小刻みに肩のあたりを顫はせてゐる。此の従妹が三日程前、水の飲ませ方が悪いと言つて、ひどく伯父から叱られてな泣いてゐたのを三造は思ひ出した。
棺は翌朝来た。それ迄に伯父の身体はすつかり白装束に着換へさせられてゐた。元来小柄な伯父の、経帷子きやうかたびらを着て横たはつた姿は、丁度、子供のやうであつた。其の小さな身体の上部を洗足の伯父が持ち、下を看護婦が支へて、白木の棺に入れた時、三造は、こんな小さな痩せつぽちな伯父が之から一人ぼつちで棺の中に入らなければならないのかと思つて、ひどく傷々しい気がした。それは、哀れ、とよりほか言ひやうのない気持であつた。小さな枕共に埋まつて、ちよこんと小さく寝てゐる伯父を見てゐる中に、其の痩せた白い身体の中が次第に透きとほつて来て、筋や臓腑がみんな消えて了ひ、その代りに何ともいへない哀れさ寂しさが其の中に一杯になつてくるやうに思はれた。うやまはれはしたかも知れないがつひに誰にも愛されず、孤独な放浪の中に一生を送った伯父の、その生涯の寂しさと心細さとが、今、此の棺桶の中に一杯になつて、それが、ひしひしと三造の方迄流れ出して来るかの様に思はれるのであつた。昔、自分と一緒に猫を埋めた時の伯父の姿や、昨夜、薬をのむ前に「お前にも色々と世話になつた。」と言つた伯父の声が(低いしわがれた声が其の儘)三造の頭の奥をちらりとかすめて過ぎた。突然、熱いものがグッと押上て来、あわてて手をやるひまもなく、大粒の涙が一つポタリと垂れた。彼は自分で吃驚びつくりしながら、又、人に見られるのを恥ぢて、手の甲で頻りに拭つた。が、拭つても拭つても、涙は止まらなかつた。彼は自分の不覚が腹立たしく、下を向いたまま廊下を出ると、下駄をひつかけて庭へ下りて行つた。六月の中旬のことで、庭の隅には丈の高い紅と白とのスウヰートピイが美しくむらがり咲いてゐた。花の前に立つて、三造は、暫く涙のかわくのを待つた。
伯父の遺稿集の巻末につけた、お髯の伯父のばつによれば、死んだ伯父は「狷介ケンカイニシテ善クノノシリ、人ヲユルアタハズ。人マタツテ之ヲ仮スコトナシ。大抵視テ以テ狂トナス。遂ニ自ラ号シテ斗南狂夫トイフ。」とある。従つて、其の遺稿集は、「斗南存稾」と題されてゐる。此の「斗南存稾」を前にしながら、三造は、之を図書館へ持つて行つたものか、どうかと頻りに躊躇ちゅうちょしてゐる。(お髯の伯父から、之を帝大と一高の図書館へ納めるやうに、いひつけられてゐるのである。)図書館へ持つて行つて寄贈を申し出る時、著書の内容と自分との関係を聞かれることはないだらうか?その時「私の伯父の書いたものです」と、昂然と答へられるだらうか?書物の内容の価値とか、著者の有名無名とかいふことでなしに、ただ、「自分の伯父の書いたものを、得々として自分が持つて行く」といふ事の中に、何か、おしつけがましい、図々しさがあるやうな気がして、神経質の三造には、堪へられないのである。が、又、一方、伯父が文名嘖々さくさくたる大家ででもあつたなら、案外、自分は得意になつて持つて行くやうな軽薄児ではないか、とも考へられる。三造は色々に迷つた。とにかく、こんな心遣こころづかひが多少病的なものであることは、彼も自分で気がついてゐる。しかし、自己的な虚栄的な斯か{{{2}}}ういふ気持を、別に、死んだ伯父に対して済まないとは考へない。ただ、この書の寄贈を彼に託した親戚や家人達が、この気持を知つたら烈しく責めるだらうと思ふのである。
だが、結局彼は、それを図書館に納めることにした。生前、伯父に対して殆んど愛情を抱かなかつた罪ほろぼしといふ気持も、少しは手伝てつだつたのである。実際、近頃になつても彼が伯父に就いて思出すことといへば、大抵、伯父にとつて意地の悪い事柄ばかりであつた。死ぬ一月ばかり前に、伯父が遺言のやうなものをあらかじめ書いた。「勿墳、勿碑。」(葬式を出すな。墓に埋めるな。碑を立てるな。)之を死後、新聞の死亡通知に出した時、「勿墳」が誤植で「勿憤」になつてゐた。一生を焦燥と憤懣との中に送つた伯父の遺言が、皮肉にも、いきどおなかれ、となつてゐたのである。三造の思出すのは大抵この様な意地の悪いことばかりだつた。ただ、一二年前と少し違つて来たのは、やうやく近頃になつて彼は、当時の伯父に対する自分のひねくれた気持の中に「余りに子供つぽい性急な自己反省」と、「自分が最も嫌つてゐた筈の乏しさ」とを見るやうになつたことである。
彼は、軽い罪ほろぼしの気持で「斗南存稾」を大学と高等学校の図書館に納めることにした。但し、神経の浪費を防ぐ為に、郵便小包で送らうと考へたのである。図書館に納めることが功徳くどくになるか、どうかすこぶる疑問だな、などと思ひながら、彼は、渋紙を探して小包を作りにかかつた。

*  *        *  *        *  *

右の一文は、昭和七年の頃、別に創作のつもりではなく、一つの私記として書かれたものである。十年つと、併し、時勢も変り、個人も成長する。現在の三造には、伯父の遺作を図書館に寄贈する心理的理由が、最早余りにも滑稽な羞恥しうちとしか映らない。十年前の彼は、自分が伯父を少しも愛してゐないと、本気で、さう考へてゐた。人間は何と己の心の在り処を自ら知らぬものかと、今にして驚くの外はない。
伯父の死後七年して、支那事変が起つた時、三造は始めて伯父の著書「支那分割の運命」をひもといて見た。此の書は先づ袁世凱えんせいがい孫逸仙の人物月旦に始まり、支那民族性への洞察から、我が国民の彼に対する買被かいかぶり的同情(此の書は大正元年十月刊行。従つて其の執筆は民国革命進行中だつたことを想起せねばならぬ)をわらひ、一転して、当時の世界情勢、就中なかんずく欧米列強の東亜侵略の勢を指陳して、「今や支那分割の勢既に成りてまた動かすべからず。我が日本の之に対する、如何いかにせば可ならん。全く分割にあづからんか。進みて分割に与んか」と自ら設問し、さて前説が我が民族発展の閉塞へいそくを意味するとせば、勢ひ、欧米諸国に伍して進んで衡を中原に争はねばならぬものの如く見える。併しながら、この事たる、究極より之を見るに「黄人の相食あひはみ相闘ふもの」にほかならず、「たとひ我が日本甘んじて白人の牛後となり、二三省の地をき二三万方里の土地四五千万の人民を得るも、何ぞ黄人の衰滅に補あらん。又何ぞ白人の横行を妨げん。他年煢々けいけい孤立、五州の内を環顧するに一の同種の国なく一の唇歯輔車り相たすくる者なく、徒に目前区々の小利を貪りて千年不滅の醜名を流さば、あに大東男児無前の羞に非ずや。」といふ。則ち分割のこと、之に与るも不利、与らざるも不利、然らば之に対処するの策なきか。曰く、あり。しかも、唯一つ。即ち日本国力の充実之のみ。「もし我をして絶大の果断、絶大の力量、絶大の抱負あらしめば、我は進んで支那民族分割の運命を挽回せんのみ。四万々生霊を水火塗炭の中に救はんのみ。けだし大和民族の天職は殆ど之より始まらんか。」思ふに「二十世紀の最大問題はそれ殆ど黄白人種の衝突か。」而して、「我に後来白人を東亜より駆逐せんの絶大理想あり。而して、我が徳我が力能く之を実行するに足らば」すなはち始めて日本も救われ、黄人も救はれるであらうと。さうして伯父は当時の我が国内各方面に就いて、他日此の絶大実力を貯ふべきそなへありやを顧み、上に、聖天子おはしましながら有君無臣をなげき、政治に外交に教育に、それぞれ得意の辛辣しんらつな皮肉を飛ばして、東亜百年のために、国民全般の奮起をうながしてゐるのである。
支那事変に先立つこと二十一年、我が国の人口五千万、歳費七億の時代の著作であることを思ひ、其の論旨のおほむ正鵠せいこくを得てゐることに三造は驚いた。もう少し早く読めば良かつたと思つた。或ひは、生前の伯父に対して必要以上の反撥を感じてゐた其の反動で、死後の伯父に対しては実際以上の評価をして感心したのかも知れない。
大東亜戦争が始まり、ハワイ海戦馬来マレー沖海戦の報を聞いた時も、三造の先づ思つたのは、此の伯父のことであつた。十余年前、鬼雄となつて我にあだなすものを禦ぐべく熊野灘の底深く沈んだ此の伯父の遺骨のことであつた。さかまたか何かに成つて敵の軍艦を喰つてやるぞ、といつた意味の若が、確か、遺筆として与へられた筈だつたことを彼は思出し、家中探し廻つて、漸くそれを見付け出した。既に湿気のためにぐにやぐにやになつた薄樺色地の二枚の色紙には、瀕死の病者のものとは思はれない雄渾ゆうこんな筆つきで、次の様な和歌がしたためられてゐた。
あがかばね野になうづみそ黒潮の逆まく海の底へなげうて
さかまたはををしきものか熊野浦寄りくるいさな討ちしてやまむ


 

この著作物は、1942年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。