改撰標準日本文法/第一編 總論


第一章 言語 編集

第一節 言語の本質及び諸相 編集

言語 言語は聲音又は文字を記號として思念を表示する方法物である。言語には長いのも短いのもある。數十百頁の大論文も幾時間に亙る長演説も言語であるが「なり」「たり」「を」「に」などの所謂る助辭も言語である。

言語が聲音に依る場合は之を聲音語と云ひ、文字に依る場合は之を文字語といふ。口語でも文語でも、口で言へば聲音語で字で書けば文字語である。又文字語といふのは文章のことの樣に見えるが、そうばかりは言へない。文章の一部分でも、又文章と云へない門札や看板や書籍の表紙の題字などの樣なものでも文字語である。

文字語は之を讀めば聲音語を生ずる。しかし聲を出さずに心で讀む場合が有る。その場合は文字語のまゝである。平たく言ふ場合には文字は聲音の記號であると云ふが、喧しく言へば文字は聲音の代りではあつても必ずしも聲音の記號ではない。聲音を出さなくても直接に意義が分る。

吾々は音を聞くと音の知覺を生ずる。その知覺が把持されたものを音の心象といふ。この心象は平素働かずに居つても、同樣の音を聞くことその他の刺戟に因つて再び喚起される。そうしてその音の心象に或る思念が結び附いてゐれば之を言語の心象といふ。吾々は心意内に思念だけ生ずる場合も有るが、鮮な思念は必ず言語の心象と共に生ずる。例へば花を觀て「花」といふ觀念が生じた時は「花」といふ言語の心象が喚起される。この喚起された言語の心象は言語の主觀的要素ではあるがまだ言語ではない。吾々は之を主觀的言語と名づける。吾々は思念を他人に傳へようとしてもそのまゝを傳へる方法は無い。以心傳心といふことは嚴密な意義に於ては絶對的に出來ないことである。思念を他人に傳へる最も便利な而も稍完全な方法は思念と結び附いた聲音の心象(主觀的言語)を傳へるに在る。聲音の心象を他人に傳へるには心象のまゝでは出來ない。之を口に發して聲音となし、之に由つて目的の人の心意に在る聲音の心象を喚起し、目的の人の頭の中に我が頭の中の主觀的言語と同樣な主觀的言語を發生せしめるのが第一の方法である。又口に聲音を發する代りに文字を書いても善い。文字は聲音の心象の記號であるから、目で見て頭の中の字形の心象が喚起されゝば、それと結び附いた聲音の心象が直ぐ喚起される。既に聲音の心象が喚起されゝば之を聲音に發して讀むことが出來る。文字は決して聲音の記號ではない。聲音の記號ならば發音して見なければ意味が取れない筈である。發音しなくても意味が取れるのは聲音の記號でなくて聲音の心象の記號であるからである。

是に於て吾々は聲音語と文字語とを同一概念に統一することが出來る。曰く、聲音語と文字語とに拘らず、凡そ言語は客觀的方法を以て聲音の心象を喚起せしめ之に由つて思念を再現するものである。客觀的方法の中直接なものは聲音で間接なものは文字である。間接なものは文字の外にも有り得るが國語として用ゐられてゐるものは文字だけである。身振や顔色でも思念を表し得るがこれは聲音の心象に依らずに思念を表すのであるから言語ではない。

文法 言語が多數の人に共通に思想を通し得る所以は、その説話の構成に體系的に統一された法則が存在するからである。此の説話構成の法則を文法或は語法と名づける。文法には内面的法則と外面的法則とが有る。それは言語に内面(思念)と外面(音の心象乃至聲音文字)との二面が有るからである。内面的法則とは思念に關する方面で外面的法則とは音の心象乃至聲音文字に關する方面である。例へば主格の名詞は主語になるとか客格の名詞は客語になるとかいふ樣な法則は内面的で、主格は「が」を附けるとか客格は「を」「に」を附けるとかいふ樣な法則は外面的である。

文法といふ語は始め漢學者が用ゐた語で、修辭の法の意であつて抑揚頓挫波瀾などいふ規範的法則を指すのであつた。和學者は今日いふ文法をば語格と云つた。洋學者は Grammar を譯して文典と云つた。文典とは文法、文法學、文法書の三義に用ゐられたので、法則を指す爲には文法と改められた。もと主として文語の法則を研究したから文法といふ語が用ゐられたのであるが、それを口語にも利用して口語の文法などいふ樣になり、又一方では口語に文法とはふさはしくないと思ふ人が語法といふ語を用ゐ出した。文語も語であるから一方では語法といふ語は文語にも適用せられ、一方では文法といふ語は口語の法則にまで既に押し廣められてゐるのであるから、今日では文法、語法の二語は同一意義となつた。

國語と國語文法 或る特殊の文法に因つて統一され特殊の民衆の間に共通に自由に使用される言語を國語と云ひ、その文法を國語文法といふ。即ち日本人の日本語、支那人の支那語、英米人の英語などは各その國語で其の文法はその國語文法である。

文語と口語 我が日本語には文語と口語との二體が有る。言語は聲音語として口から耳へ傳へる場合には自由な變遷をするが、文字語として用ゐる場合は聲音語の樣な自由な變遷をしない。その爲に二つに分れて今日では前者は口語といふ體を爲し後者は文語といふ體を成すに至つた。隣邦支那に於ても同樣である。しかし歐米諸國では文語、口語の差は甚しくない。

支那は一には文字が悉く表意文字であるために、文字語は聲音語程の變遷を許さなかつた。二には土地の廣大なために方言の差が甚しく從つて標準語としての文語を支持する必要が有つた。三には古の文化の美は後人をして古文を尚ばしめた。日本は文字語の歴史が支那より短いから文語、口語の差が少ない。しかし漢文を直譯して讀み漢文でなければ文ではない樣に考へたから文字語は漢文直譯風の支配を受けた。これが文語を生ずる最大原因であつた。次には平安朝の文化は鎌倉以後の人の羨望する所となつた結果漢文風でないとすれば平安朝風の口調を學ぶことになつた。この擬漢、擬古が江戸時代の和漢混和文となり、明治以後は多少擬歐をも加へ口語風をも加へて、所謂る現代文となつた。西洋は表音文字であるから文字語も聲音語と共に變遷し易い所へ持つて來て自國の上代に大した文化がない。希臘羅馬は早く亡びて英獨佛から見れば外國である。それらが日本や支那とは事情を異にする。

聲音語、文字語といふことと口語文語といふこととは違ふ。聲音語は書けば文字語になる。文字語は視れば文字語であるが讀めば聲音語である。唯音を耳へ傳へるか、圖形を目へ傳へるかだけの區別であつてその文法は同じである。然るに口語、文語の別は全く言語の態であつてその文法が違ふ。明治以前は文章は主として文語を用ゐ口語は專ら談話に用ゐられたが、其の後口語體の文が漸次多くなり、今日では一般の讀物は多くは口語體になつて來た。將來は西洋の樣になるであらう。故に口語は專ら談話に用ゐる語とは云へなくなる。過去現在未來に共通なるべき説明をすれば、文章にのみ用ゐられ談話には用ゐないものが文語で、文章に用ゐると用ゐないとに拘らず、談話に用ゐるものが口語である。

將來の文は口語體が益盛になるであらう。しかし過去の書籍は大體文語で書かれてゐる。文語文法の要らなくなる時代は絶對に來ない。且つ口語と雖も文字に書かれる場合には純粹の口語ではあり得ない。必ず文語風を帶びる。其れは西洋の書を見ても日本の口語體の文を見ても分ることである。文語文法の研究は何處までも必要である。

標準語と特殊語 標準語といふ語はもと西洋の Gemein Sprache, Standard language などの譯語である。殆ど文語のない國の語の譯語であるから專ら口語を指す樣に見えるが、日本語では文語にも口語にも適用すべきである。

口語の標準語は生きた文法書、生きた辞典として日本語の標準となるものであるから、現に行はれてゐる言語であつて他を壓倒するに足る勢力有り價値有るものでなければならない。即ち方言の覇者でなければならない。架空な語ではいけない。そこで當然東京の中流以上の語が日本の標準語になる。

しかし東京の中流にも男女の別が有り職業の別が有る。主僕、貧富、老幼の別が有る。然らば標準語の中にも種々有るものと見なければならない。世間にはよく其れは商人語であつて標準語でないとか、其れは小兒の語である、下女の語である、標準語ではないなど云ふ樣なことを言ふ人が有るが、そんなことを認めると標準語は無味無色な約らないものになつて仕舞つて實際の言語でなくなつて仕舞ふ。標準語では小説などは書けなくなる。標準語では交際が出來なくなる。標準語はそんな約らないものではない。

方言の矯正は國語教育の重大なる任務の一つである。教育家が之に任ずべきことは勿論であるが吾々は大に之を文筆家に望みたいと思ふ。明治時代の小説家には東京者が多かつた。地方で生れた人でも東京語の研究を怠らなかつた。近頃は地方育ちの文藝家が剝出の方言を使つてゐる。冀はくは自己の力の社會に及ぼす影響の大なることを考へて大に東京語の研究をして貰ひたい。

文語の標準語は口語の樣に簡單に言ふことは出來ない。現代文といふ語は有るが一定の標準はない。文語は口語の樣に自然に口から出るものではなくて、平素の讀物に支配される。平素の讀物は人に因つて違ふ。新聞雜誌、教科書、古書樣々なものから支配される。それ故その文體は等しく現代文と云つても幾分か古文に近いものを歐文飜譯風に近いものも漢文直譯風に近いものも有る。但しその文法に至つてはその文體の違ふ程の差はない。文體の差は主として用語及び言ひ廻しに在つて文法に在るのではない。そこで文語の文法はその標準文法を求めるのに難くはない。何でもない、古今に共通なる文法を求めれば善いのである。上代文法の中から後世用ゐらいれなくなつたものを除けば善いのである。上代にはなくて近代に至つて始めて出來た樣な文法は殆ど無い。多少有つても其れは標準文法ではない。例へば「教へり」「捨てり」「此の文を譯せ」「心配す勿れ」などの類即ち所謂る誤で、其れは特殊のものである。

第二節 説話構成の過程 編集

言語は説話の構成上に於て原辭、詞、斷句の三階段を踏む。此の三階段の一に在る者は何れも言語である。そうして原辭は最初の階段で詞が之に次ぎ斷句が最高の階段である。

言語の此の三階段はその内面なる思念の構成と緊密の關係が有る。思念の構成に觀念と斷定の二階段が有り、その言語の三階段とは次ぎの如き關係に在る。

言語の三階段を論ずるには思想の構成の過程を考察する必要が有る。

思念の考察 編集

思想といふ語は種々の意に用ゐられる。論理學でいふ所の思想は思惟作用の産果であつて純知力的のものであるが、文法學で思想といふのは思惟作用ばかりでなく直觀作用の産果をも含み、又純知力的なものばかりでなく感情や意志をも含む場合が多い。文藝の研究などに於て思想といふのは文法學でいふのと同じ物ではあるが、これは文法學に於けるが如く唯に言語の内面としての形式的價値をいふのでなく藝術的價値の上から言ふのである。又思想問題とか思想善導などいふ時の思想は人生問題の上よりして、或る體系に統一された思想群の傾向を指すのであるから、文法學でいふ樣な單純な意味ではない。

思想の構成には二つの階段が有る。第一の階段は觀念で第二の階段は斷定である。此の二階段一に在るものは何れも思念であつて、思想はこの二つの階段を踏んで始めて成立する。

觀念 刺戟に因つて知覺が生ずる。例へば光が目に觸れ音が耳に觸れて光の知覺、音の知覺が生ずる類だ。そうして知覺は刺戟が去れば直ぐに消滅する。しかし知覺としては消滅しても知覺の結果が殘る場合が有る。これを寫象と名づける。但し多くの場合に於てこの寫象は觀念と呼ばれる。寫象は知覺の殘つたそのまゝの物であるから具體的で特殊的である。例へば子猫が始めて犬を見ると先づ知覺が生じ次に形や聲の知覺が綜合された寫象が出來る。あれは何であらうかとかあれは犬であらうとかいふ樣な考は起らない。そうしてその寫象は唯その犬だけの寫象であつて他の犬に適用されるものではなく、又その犬から離れて考へられるものではない。唯その時のその犬だけに對するものである。他の犬に適用されないことを特殊的と云ひ、その犬から離れないことを具體的といふ。所が犬を知らない人間が始めて犬を見た場合は、最初は犬の寫象が生ずるが、次に種々の犬を見ると、各個の犬に共通な點だけが深く印象されて何れの犬でもない各個の犬を代表するもの即ち犬の寫象の雛型が出來る。この雛型は何れの犬にも適用されるし、又實際の犬から離れて獨立する。そうなれば之を概念といふ。概念は具體的でなくて抽象的であり、特殊的でなくて普遍的である。抽象的とは各個い共通なる象がけを抽出して考へる意で、各個の物(犬)から離れてゐることをいふ。普遍的とは他の個體(犬)にも普く適用される意である。

概念も寫象も皆觀念である。觀念の具體的特殊的なものを寫象と云ひ、抽象的普遍的なものを概念といふのである。しかし概念は特に概念と云ふから、たゞ觀念といふと概念をば含めずに寫象だけを指す場合が多い。

概念は論理學的に言へば純抽象的純普遍的であるが、實際人間の考へる概念は特殊的具體的な寫象を含むのである。例へば「犬」と云へば論理的には個々の犬から離れて而も何れの犬にも適用されるものであるが、人が「犬」といふ概念を考へる場合には自分の飼犬とか隣の犬とか嘗て吠えられた犬とかを想像しつゝ理論的にその特殊性を除去しようとするのである。そういふ概念を心理的概念と云つて論理的概念と區別する。

寫象でも概念でも觀念は多くの場合に於て感動や意志や種々の心的状態が關聯する。例へば「美しきかな」と云へば「美くし」に感嘆を含み、「見よ」といへば命令の意を含む。又「美くし」にしても單なる概念ではなくて物の然りや否やを判斷する判定性を含んでゐる。これらの觀念その物でないものを含んでゐなければ思想を成すことは出來ない。觀念がこれらの性質を含むことを觀念の運用と云ふ。

概念は、雪や綿や紙のやうなものゝ寫象から「白」の概念が生ずる樣に寫象の分解からも生じ、また「母」といふ概念から「女」「親」といふ二つの概念が生ずる樣に概念の分解からも生ずるが、文法學上最も重要な問題は概念と概念との統合である。

「母」の寫象又は「母」の概念から「女」「親」といふ二つの概念が生ずるのは觀念の分解であるが、「女」「親」の二概念が統合されて「女の親」といふ一概念となる場合が有る。「女の親」は全體から觀て一概念であるがその内部には「女」「親」といふ別々の二概念が有る。こういふ風に別々の二概念が相統合されて一概念となつたものを統合概念といふ。そうして最初の「女」や「親」の樣なものは之を單概念といふ。統合概念も一つの概念である。統合概念は概念と概念との統合體である。必ずしも單概念と單概念との統合ばかりではない。單概念と統合概念との統合もあれば、統合概念と統合概念との統合もある。

斷定 斷定は事柄に對する主觀の觀念的了解である。例へば火事を見て「火事だ」と了解すればその了解「火事だ」は一つの斷定である。又警鐘を聞いて「何だらう」と思ひ或は「火事かな」と思つたとすると、不完全な了解ではあるがやはり了解であるから一つの斷定である。

斷定は思想の單位である。思念は唯觀念であるだけでは之を一つの思想といふことは出來ない。思念が思想たるには斷定といふ階段を踏まなければならない。斷定といふ階段を踏んで始めて思想となるのである。

斷定はその了解のされ方に由つて思惟性斷定と直觀性斷定との二つに分たれる。

思惟性斷定とは判斷の作用に由る了解である。事柄に對する觀念が他の觀念と比較されてその間に共通點が發見され、前者の觀念が判斷の對象となり後者の觀念が判斷の材料となり二者が同一意識内に統覺されたものである。例へば人が花を見たとする。花の本體や形や色や美醜は合體したまま一つの觀念となる。それが分解されて「此の花」といふ概念と「美」といふ概念の二つとなり「此の花」といふ概念が判斷の對象となり「美」といふ概念が判斷の材料となると、この二概念が統覺されて「此の花は美しい」といふ斷定となる。こういふ斷定は判斷の作用に由つて生じたもので即ち思惟性斷定である。

右の樣な思惟性斷定は判斷の對象も概念であつて題目となつてゐるから之を有題の思惟性斷定とする。

所が判斷の材料だけが概念となつてゐて判斷の對象が概念とならずに寫象のまゝでゐる場合がある。例へば「天氣」を見て「雨が降りさうだなあ」と思つたとすると、これはその場合の「天氣」を對象として判斷を下したのであるが、その對象は概念となつてゐない。こういふのを無題の思惟性斷定とする。

直觀性斷定とは判斷の作用に依らず即ち事柄に對する觀念が判斷の對象と材料とに分解されずに直觀のまゝ了解された斷定である。例へば突然地震に遭つて驚いて「あら」と叫んだとする。この「あら」に依つて表された思念は何等の判斷を下したものでもなく、その直觀がそのまゝ了解されたものである。こういふのが直觀性斷定であるが概念になつてゐないから此れは主觀的(非概念的)の直觀性斷定である。又驚いて「地震!」と叫んだとする。こういふ場合の斷定は「地震」といふ概念を材料とする了解であるから之を概念的の直觀性斷定とする。そうして地震といふことは分つても「此れは地震だ」といふ風に判斷的に分るのではなく、地震に對する寫象が直に地震の概念を喚起したのである。

以上の考察に由つて言語の内面たる思念が思想を構成する過程は略わかつたと思ふ。これからこれに關聯して説話の構成上に於ける言語の斷句、詞、原辭の三階段を論じようと思ふ。

斷句 編集

斷句は斷定を表す一續きの言語である。例へば「虎は猛獣なり」「雨降り出でぬ」などはそうだ。斷定を表すとは第一二頁で言つた通り或る事柄に對する觀念的了解を表すことである。

斷定は説話の單位である。言語は斷定を表して始めて説話となる。まだ斷句を成さない言語は説話を成さない。説話は斷句、又は斷句の累積から成る。

斷句に就いて世間一般に誤解が有る。其れは斷句には必ず主語が有ると思ふことである。隨つて主語が無ければ斷句を成さないといふことになる。しかし其れは誤である。主語の無い斷句は澤山有る。例へば人の間に答へて「然り」「さなり」「さにあらず」などいふ類、火に觸れて「熱い」と叫び、苦痛を覺えて「あゝ苦しい」と叫ぶ類、その他

  • 大分お暖になりました。
  • とう本降りになつて仕舞つた。
  • 友人より寫眞を送り來れり。
  • 今囘東京市にて大博覽會を開く。

などいふ類皆主語は無い。事柄に主體が無いのではないが主體の觀念は事柄の概念の中に潜んでゐて概念として分化されないから主語を生じないのである。斷句は必ず主語と敍述語とを要するなど思ふのは誤である。且又斷句は必ず二詞以上より成るとは限らず、右の例の「然り」「熱い!」の如く一詞より成るものもあるのである。

多數の文法書は斷句を分けて單文、複文、合文の三種とするが此れは英文典の Simple sentence, Complex sentence, Compound sentence の三種を誤解したものである。私はそういふ區別を立てずに唯次の樣な區別を立てる。

思惟斷句と直觀斷句 斷句はその表す斷定の性質に由つて思惟斷句と直觀斷句の二つに分たれる。思惟斷句には有題、無題の別が有り、直觀斷句には概念的、主觀的の別が有る。例へば

この分類は斷定の分類と一致する。

單流斷句と複流斷句 斷句はその表す斷定に於ける意識の流の數に由つて之を單流、複流の二つに分ける。