攀ぢ登る男一幕
本文
編集- 人。 梶山。 畫家。二十四歳。
- 池田芳枝。畫家と同棲せるモデル女。二十一歳。
- 黑田。 畫家の友人。 二十六歳。
- 繪具商の手代。
- 時。 現代。秋。
- 場所。 都會の外れ。
- 人。 梶山。 畫家。二十四歳。
- 梶山。 (ひどく痩せてゐる。ひげはそらずにある。時々咳をする。
- 一見して肺が惡いと思はれる。眼が大きくぎら〳〵光つてゐる。パレット・ナイフでパレットの繪具をとつては反古で拭いてゐる。)芳枝、芳枝(この言葉のあとで又咳はいる。)
- 芳枝。 はい。(隣室よりきこえる。)
- 梶山。 洗つた筆を持つといで。
- 芳枝。 (隣室より筆をたくさん持つて出てくる。汚いエプロンをしてゐる。全體質素な風。美しい容貌。)
- また描きにゐ(い)らつしやるの。(筆を渡す。)今日はいゝお天氣だけど寒くつてよ。厚いシヤツを重ねてゐらつしやいな。
- 梶山。 いやマントを着てゆかう。シヤツは肩が凝つていけない。
- 芳枝。 今日畫箋屋が來るのよ。
- 梶山。 そ〔ママ〕うか。ぢや來たら これだけ持つて來さして呉れ。
- (繪具箱から書き付けを取出す、一度それを熟讀し、又鉛筆でそれへ書き込む。妻の言葉はその動作の完結しない中にはじまる。)
- 芳枝。 そうぢやないのよ。今日は掛取りに來るのよ。
- 梶山。 今日は――もう晦日かい。
- 芳枝。 何の晦日なものですか。今日は二十日よ。
- (考へて)あのね、まだお話し〔ママ〕をしてなかつたのだけど、畫箋堂が此の間から二度も三度も來て お借(貸)しゝた金をどうかして下さいと……
- 梶山。 おい止せ。描きに出かけや〔ママ〕うとするとそれだ。
- 芳枝。 いゝえ、まあおしまひまできいて下さいよ。借(貸)してあるお金を下さいと云つて三度ばかり……
- 梶山。 そんなこと俺の知つたことか。お金のことならお前が黑田と相談してやつてゆく、と云つたんぢやないか。
- 芳枝。 だから今日迄云はずにゐたのぢやないの。あのね、畫箋堂はね、お金を頂戴しますか畫を頂戴しますかと云つて來たの。
- 梶山。 幾度云つても畫はいけない。愚圖愚圖云はなくつても 二十日なら黑田が金を持つて來るぢやないか。
- 芳枝。 黑田さんが下さる御金で足りるのだつたら何も相談しやしないわ、黑田さんが下さる御金は一時ふさぎにも足りない位よ。
- 梶山。 幾度いつても同じ事だ、斷然畫は駄目だ。(妻 しほれる)――畫が金の代りになるか。(この頃より畫を眺めては色を塗る。)
- 芳枝。 ぢやどうするの。畫箋堂はそいぢゃ承知しないことよ。畫を賣らないと云つても差し押へられたらどうするの。
- 梶山。 (言なし。)
- 芳枝。 それにあなたが病院にゐた時、私が畫箋堂にお金を先き借りしてモデルに通つてたでせう。
- あなたが畫を手離さないなら 私またモデルに通はなくちやならないわ。
- 梶山。 筆をお借(貸)し。
- 芳枝。 あなた聞いてゐらつしやるの。あなたが繪を賣らない、展覽會にも出さないと云つてる間に、
- 私は私の身體を人の前にさらけ出してあなたの病院代を稼いでたのよ。ね、あなたは畫家ぢやなくて、畫家は描いた繪を人に見せるのが當然ぢやないこと。妻の身體を他人に見せるよりも自分の繪を見られる方が……(泣く。)
- 梶山。 馬鹿。止せ。仕事の邪魔をする樣な奴は出て行け。
- 芳枝。 いゝえ、私は出てゆきません。私は歸る家もなにもありません。私はあなた一人が賴りなのです。
- それにあなたは邪險(慳)になさる。二年この方の生活費(クラシムキ)は唯(誰)がやつて來たのです。あなたの丸一年の病院代は誰が稼いだのです。
- 梶山。 また金か、卑しいことを云ふな。
- 芳枝。 いゝえお金ばかりぢやありません。永い間身も心も捧げて、あなたの畫が一日も早く世に出る樣に世を出る樣に祈つてゐたのは誰ですか。
- 子供が授からないからあなたの繪を私達の子供だと思つて暮して來たものを、今頃やうやくその繪がみなさんに認められて來たのに。
- 梶山。 馬鹿、俺は俺の繪を盲目ばかりの世に出し度くは思はない。
- それだのに俺の病院へ行つてゐる間に、橋本の樣な俗物をひつぱり込んで俺の畫を見せたのは誰だ。橋本輩に俺の繪がわかるか。淺間しい奴だ。
- 芳枝。 あなたこそわからずやだ。
- 人が骨を折つて展覽會をして上げやうと云はれると怒り出すし、賣つて呉れと云はれても賣らないし、あなたは本當にわからずやだ、傲慢だ。いくら私があなたを大切にしてもあなたは私よりも畫の方が大切なのだ。私はどは繪筆や繪具の樣なものだ。すり切れるか、しぼりつくされるとおつぽり出される。黑田さんが仰言る樣に私が繪具になつてあなたの畫を作るのだとは、そして、それが名譽だなどゝ思はれないわ。それよりはあなたが私の裸體を描いてゐ〔ママ〕らしつた時の方が餘程生き甲斐があつた様な氣がする。ね、あなた。あなたは本當の孤兒の樣に畫を描いてゐたのね、人の使ひ殘しのパンを嚙つて陰氣な顏をして、研究會の畫室でわたしを描〔い〕てゐたのね。
- 梶山。 おい止して呉れ、俺が始めて汚れた日のことを云つて呉れるな。
- あの會が出來上る間際わ(まぎは)にお前はあれをめちや〳〵にしてしまつたんだ。俺は女を知つたばかりにあれが書き上げられなくなつたんだ。俺はもうあの日から貴樣に用事はなくなつたのだ。
- 芳枝。 それはあんまりだ、あんまりだ。死ねと云あれるよりひどい。そんなことは本氣ぢやないと云つて下さい。
- 今でも私を愛してると云つて下さい。そう云つて下されば畫を賣れなどゝは云はないから。ね、云つて 云つて下さい。私は喜んでモデルに通つて借金をかへしますから。
- 梶山。 馬鹿者、そんなことを云ふのを恥じ(ぢ)ないか。
- (はげしく咳き入る。段々はげしくなるにつれて芳枝は段々心配になつてゆく。咳は止まらない。芳枝は背をさすり介抱する。梶山橫臥する。そしてあへ(喘)ひでゐる。芳枝、立つて水を汲みにゆく。裏で井戸を汲む音がきこえる。水を汲んで來る。飮ませる。〔梶山〕飮んで畫をみつめてゐる。その間を沈默が領してゐる。)
- 梶山。 (つと立つて、急に支度をして庭へ下りる。出かけ樣とする。)
- 芳枝。 (あわてゝマントをとり出して庭へ下りる、そして戸口のところで梶山にわたす。)疲れない樣に早く歸つてゐらつしやいな。
- 梶山。 (出ぎわ〔ママ〕に)身體の爲なら寐〔ママ〕床を別にする方がいゝよ。
- 芳枝。 (悲しき面持ちで座敷へ歸つて來てそこへ泣きくづれる。)
- 間。(繪具商の手代。)
- 手代。 御免下さい。御免下さい。
- 芳枝。 はい。こちらへ𢌞つて下さい。
- 手代。 いゝお天氣で御座います。梶山さんはまた御出かけですか。あの此の間の事を御話し下さいましたでせうか。
- 芳枝。 主人はどうしてもお賣りしないそうで御座います。
- 手代。 それは困りますな。それでは御金の方は御拂ひ下さるのでせうね。
- 芳枝。 え、今日出來る筈になつてゐるのですが、それでも――
- 手代。 池田さん。それは困りますよ。家へ歸つても主人に話も何も出來たものぢやありません。
- 芳枝。 でも繪は駄目ですわ。
- 手代。 そいぢやお金は。
- 芳枝。 お金は今日中に出來る筈なのですが、それもみなといふ譯にはゆかないのです。
- 手代。 は、それで幾らばかり。
- 芳枝。 二十圓ほど。
- 手代。 そそ、そんな。丸でお話しにも何にもなりませんよ。
- 芳枝。 いえ、そして私が明日からモデルに參りますから。
- 手代。 さ、そのモデルの方ですが、梶山さんは御承知なんですか。
- 芳枝。 いゝえ、かまわ〔ママ〕ないのです。此の頃だつたらどこえ(へ)モデルにゆくんですか。
- 手代。 さうですね、橋本關雪さんが、もしあなたがモデルになるんだつたら是非來て貰つて呉れと云つてられるんですが、
- 橋本さんだつたらアトリエも直ぐ御近所ですから。
- 芳枝。 橋本さんのところは御免蒙ります。
- 手代。 どうしてで御座います。橋本さんは梶山さんの元の先生ぢや御座いませんか。
- そして梶山さんの畫を保證して下さつた方も。――そうなんですよ、橋本さんの御口きゝがなかつたら私の家でもお貸ししてなかつたんですからね。そして今度橋本さんが梶山さんの畫を世の中に紹介なすつたのも、きけばあなたが此處へ先生を案内して御見せになつたからぢやないのですか。
- 芳枝。 梶山はそのことでいくら妾を責めるかわかりません。
- 手代。 へえ、橋本さんとおうちとにどんな感情の問題があるか存じませんが、橋本さんはあんなに心の廣い御方でして……(缺)
- 手代。 あなたにお借(貸)しした分はそれでまあモデルをしていたゞいたらいゝのですが、梶山さんの分はどうなるんで御座います。
- 芳枝。 え、今日御渡しする二十圓と妾がモデルに參るのとで御主人の方は何とかならないのでせうか。
- 手代。 畫を頂けないのなら仕方がありませんが、二十圓ではあんまり非道いです。
- 主人も梶山さんがあまり圖々しいのに業を煮やしてますから、どうしますか、ひよつとすると差押へるかも知れませんよ。
- 芳枝。 梶山が圖々しいとはどうなんです。
- 手代。 橋本さんがあんなに骨を折つて紹介されて 自分の畫に價値が出たといつてつけ上つて、展覽會をしてやると云はれても首を振るし……
- 芳枝。 そんなことを誰が云つてるんです、御主人ですか橋本さんですか、それともあなたですか。
- 手代。 さあ、誰がいつてもいゝぢやありませんか。そんな工合で主人はひよっとすると差押へるかも知れませんよ。
- そうすると一も二もなう畫が競賣になるんですがね。梶山さんも何も意地を張つてゐらつしやるんでせう。だつて随分常識のない話ですね。靑年畫家はみな自分の繪が少しでも認められるのをどんなに待つてるか知れないのに、梶山さんは變屈ですね。
- 芳枝。 あまり馬鹿にするもんぢやありません。女だと思つて。あなたは随分輕薄ね、そんなことをぺらぺら喋つて淋しくはないこと。
- 次に、黑田登場ずる。案内も乞わずに入つて來る。背廣服を着たるエレガントな紳士。この會話の末節をきく。
- 黑田。 芳枝さん、今日は。
- 芳枝。 あら黑田さん、いらっしやいませ、どうぞ御上り下さいな。
- 黑田靴をぬぐ。上る。一寸、芳枝をまねく。二人蔭にてひそひそ話してゐる。やゝ長き間。手代、空を眺める。
- 黑田。 畫箋堂のお方、失禮ですが僕はかういふ者です。
- 手代。 は。
- 黑田。 今聞きますと、差し押へるとかあなたの方で云つてゐられるそうですが、
- いくら程あればあなたの御主人の方はまあ御得心になるんですか、最小限度でゞすね。
- 手代。 は、それなんですが。三分の一程もいたゞいて歸らないと、どうも主人に顏向けがなりませんので。
- 黑田。 ぢや三分の一持つて歸つて頂いたら申譯けにはなるのですね。
- それぢや(懷の中から狀袋を出して百圓紙幣を一枚だす。)これを持つて歸つて下さい。(芳枝、遮ぎる樣な身振をする。黑田それをとゞめる。)
- 手代。 は、それぢや請取を。
- 黑田。 それで歸つて、差押へにならない樣に云つといて下さい。
- それからこちらの堪(勘)定の相談はその名刺にかいてある私の家に來て載(戴)くことにいたしませう。
- 手代。 ぢや、これを。どうも有難う御座いました。そいぢや、いづれ。梶山さんによろしく、御免。
- 黑田。 はい、左樣なら。
- 手代。 あ、それで、池田さん、モデルの方は翌日(明日)からでもいらしつて下さいますか。
- 黑田。 芳枝さん、あなた、モデルに又行くと云つたのですか。
- 君、一寸待つて下さい。モデルの方も二三日延ばしといて下さい。
- 手代。 ぢや、そう申しときませう、左樣なら。
- 芳枝。 黑田さん、本當に濟みません。あなた、かまわ〔ママ〕ないのですか。
- 黑田。 仕方がありません。梶山の畫やあなたが賣り物になるといふことは僕として堪え難いことです。あなたは何故また僕に云あなかつたのですか。
- 芳枝。 でもあんまり……
- 黑田。 遠慮して云はない方が却つて困るのですよ。何故又モデルなんぞの約束をしたのですか。
- 芳枝。 でもね、梶山が病院へ入つてた時の、あのモデルになるからと云つて畫箋堂で借りたお金がまだみんな返せてないのですもの。
- あとまだ三ケ月通はなくちやならないのです。
- 黑田。 そんなことをもつと明瞭(はつきり)僕に云つて呉れゝばあんな不愉快なことを堪える心配はなかつたのに。
- 芳枝。 本當にいつも御心配をかけまして。
- あら、お茶を出すことも忘れて、随分頓馬ですこと。
- (茶。)
- 黑田。 梶山は此〔の〕頃どうですか。成(相)變らず不機嫌ですか。
- 芳枝。 随分怒りつぽいの。此の頃は又随分畫がよく描けるらしいのよ。
- いつでも怒りぽく陰氣な人が畫がよく描け出すとほんとに怒りぽくなつてね、それに陰氣になつてしまつてね、今日だつて畫を賣れと云つたと云つて、わたしに筆を投げつけて怒り出したのよ。そしぷいと又畫を描きに出かけましたわ。
- 黑田。 いつ。
- 芳枝。 え、ついさつき、だけど直ぐ歸つて來ますわ。いくら氣が勝つてゝも身體が直ぐ疲れるから、ぢき歸つて來ますわ。
- 黑田。 本當にそんな時は柔いものにさわる樣にいたわ{{sic}]らなけやいけませんね。それにあなたも畫を賣れなんて、あまり……
- 芳枝。 でもね、本當に思案に餘つたのですもの。
- でも、何を云つても取りつき葉〔ママ〕のない樣にじつと繪を見ながら少しづゝ筆を入れてるんでせう、私ついじれつたくなつて云ひすぎちやつたの。
- 黑田。 畫を賣れとか、展覽會に出せなんか云ふのは梶山の一等嫌なことに觸れるのですからね。
- 私に一枚呉れろと云つても駄目だと云つてるんですからね。梶山は世間などに認められなくつても決して淋しがりはしなかつた男でせう。梶山にはこの世の中などは丸で馬鹿が寄つてゐるとしか見えないのですものね。
- 芳枝。 でも人のほめる言葉位はよろこんでよさそうに思へるわ。
- 黑田。 梶山はなにも人のほめて呉れるのを待つてもゐなければ望んでもゐないのです。
- なにか神とか、完全な人とかを怖れてゐるのです。そんな完全な人の前に出してやましくない樣な畫をかきたいと云つて唯そればかり望んでゐるのです。本當に梶山にはそれが全部ですね。
- 芳枝。 本當にね、ほんとうに私なんかはどうなつても畫さへ出來ればいゝんでせうね。
- あなたどうお思ひになつて、梶山は私を少しでも愛してるんでせうか。
- 黑田。 さあ、でも愛してゐるには違ひないと思ひますね。
- 芳枝。 私をモデルに出して平氣でゐるらしいんですの。
- 黑田。 まさか。
- 芳枝。 でも、あなたが繪を賣らなければあたしがモデルに出なけりやならない、と云つたら……
- 黑田。 それア、酷だ。そんなことを云つて苦しめるなんて。
- 芳枝。 でも苦しんでもゐなかつた様ですわ。少しでも苦しんで呉れたら私よろこんでどんなことでもしますのに。
- 黑田。 でも愛してゐるにはちがひありません。梶山の愛は そんなモデルに出す出さないなんかよりもつと大きいのぢやないかと思ひますね。
- 芳枝。 でも私なんかは、あの〇〇號の裸體がね、私がモデルになつたのね、あれが失敗した日から用事はないんだと云つてましたよ。
- 黑田。 でも、それは違ふでせう。
- あの畫に出さうとした所を梶山があなたを見失な〔ママ〕つたとしても、それはそれだけの話でなにもあなたの全存在を憎んでゐる譯でも何でもないんでせう、それは違ひますね。
- 僕は愛してるに違ひないと思ひますよ。今にそれが證明せられる樣なことが起つたらあなたにもおわかりでせう。平常わからなかつたことがお互ひに突然なことで明瞭になることは往々ありますからね。
- 芳枝。 どんな事。
- 黑田。 さあ例へば、梶山自身が今あなたを愛してゐないと思つてるとしますね、
- その時でも、あなたが若し突然ゐなくなつたとしたなら梶山はきつとあなたを愛してゐたといふことをしみじみ味はされるだらうと思ひます。
- 芳枝。 却つて厄介拂ひをした積りになるかも知れませんわ。此の頃は本當にそれは外處(よそ)よそしくするんですの。
- だから私は此の頃本當に淋しいんですの。本當に泣きたくなつて來ますわ。少しでも愛してゐることがわかればね。一つ芝居を打つて見やうかしら。
- 黑田。 お止しなさいよ。外處(よそ)よそしくするのは梶山に制作慾がはげしくなつてゐるからでせう。此の頃の畫は。
- 芳枝。 これなの。(三枚程ならべる)右が最近ので段々順になつてゐます。
- 黑田。 私などにはわからないけど目に見えてしつかりしたものをつかんでゐる樣な氣がしますね。
- 始めのと終りのとは段がちがふ樣な氣がしますね。
- 芳枝。 あたしもそう思ひます。
- 黑田。 どうです、あなたは最後まで忍んで梶山の畫を完成する元氣はありませんか。
- 私は恥しいながら生き甲斐といふ樣なものが本當にわかりません。そんな人間はみな一つの天才が昇つてゆく階段となつて死んでゆくことに生き甲斐を見つけるより仕方がないのです。私はこの畫を見るとその元氣が湧いて來ます。
- 芳枝。 あたしでも梶山がゐなければ生き甲斐もない氣がします。然し、あたしは梶山が愛して呉れなければ生き甲斐もなんにもない樣な氣がします。
- 黑田さん、女といふ者はこんなものよ。
- 黑田。 そうですかね。
- 芳枝。 それも唯一言でいゝの。此の頃の私はほんとうに黑やみ(闇)の中を步いてる樣な氣がしますわ。
- 黑田。 僕が云つたその不意な出來事を待つてゐらつしやい。
- あ、それから、今日みんなで食はうと思つて牛肉を買つて來たのですがね、あなた支度をして呉れませんか。
- 芳枝。 あら、どうもすみません。それぢや今日はお家で召上るんぢやないんですの。
- そして黑田さん、お宅の首尾はどうなんですの。
- 黑田。 何の。
- 芳枝。 あのお金をあんなにして戴いて、お宅へ持つてお歸りになるのは。
- 黑田。 家つて、まさか。世帶を持つてゐるのでもなし、どうせ本屋か何かに持つてゆかれる金ですからかまひません。
- 芳枝。 でも畫箋堂がお宅へ上つたら……
- 黑田。 兩親に話をしたら納得するでせう、よくわけのわかつた親ですから。
- 芳枝。 本當にすみません。でも黑田さんはいゝ御兩親がおありで よろしう御座いますね。
- 私や梶山は孤兒といへば孤兒で ほんと〔ママ〕うに賴りにする肉親もないのです。
- 黑田。 本當にね。
- 芳枝。 愚ち(痴)なんか又云ひ始めて。では御仕度をいたしませう。(風呂敷を持つて。)
- あの、これをまあ見て下さいませ。(殘虐に二つに破つた雜誌を持つて來る。)この間お借りしたのを一寸見せたら少し讀んで二つに破いちやいましたの。この千家つて方、あの一度見えた方ね、あの人のお書きになつた……
- 黑田。 あの詩ですか、言葉をおしまず梶山をほめちぎつた詩でせう。
- 芳枝。 これを見てね、これはお世辭だ、あんな詩人なんかに畫がわかるものか、詩人は歌を作れ、
- おれは畫をかくんだと云つて怒つて、この御本を破いちやいましたの。……(缺)
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