手紙


麓 花冷


1


「では何とかしてみますわ、一寸待ってね」

 そう云って二階へトンと昇って行く千耶子を横目で見送り乍ら柚崎は洋酒のグラスを取り上げて、やけに口の中へそそぎ込んだ。

 朗かな作り声と、低いバスとが無茶苦茶に交錯する中にレコードのオリエンタルダンスが正しいテンポで廻っていた。柚崎は、そのリズムに合して無意識に靴先でコツとタタキを打っていた。そして十五分も経った頃階段をトンと降りて来る足音を聞きつけて和やかな表情をキッと険しくして、空っぽになったグラスへ眼を落していた。

「お待ちどうさまッ」

 職業に馴らされた作り声がこんな時にも千耶子は大声で口に出るのだった。その声を聞いても柚崎はやっぱりグラスから眼を上げなかった。

「これね、出来たけど、又ほんの少しよ」

 千耶子は機嫌をなおそうとするように柚崎に自分の身体をすりつけ耳元へ口を寄せて囁き乍ら彼のオーバーのポケットへ持って来た小さな紙包を深くさし入れた。柚崎は返事をする代りにグラスから眼を離して、依然不機嫌に彼女の顔を一寸見てすぐに立ち上った。そして、はずれて居たオーバーのボタンを掛け乍ら出口の方へ歩き出した。

「アラ、もう帰るの?……」

 周章てそう云った千耶子の声はたよりない哀調をおびていた。その哀情を感じてか彼は、

「ウム」と咽喉の奥で微に答えた。

「又、明日いらっしゃってね――」

 出口へ来た時千耶子は出来るだけ朗かに、情熱をこめて云った。柚崎はそれには返事もせずに街路へ出て後ろで淋しく街の灯影の中へ消えて行く自分の姿を涙さえ浮べそうな眼でじっと見送っている千耶子を知り乍ら、ヤケに不機嫌な大股でぐん歩いた。

「フム、信じられない気がするだろう。そのくせ信じられなければ信じられない程、頼らずに居られないんだよ、フウ………可愛い娘さん」

 暫く歩いてから、柚崎の色白な顔が皮肉に微笑し呟いた。そして歩き乍ら先刻千耶子が差し込んだ紙包をポケットから摑み出して開いてみた。中には拾円紙幣が二枚四ツに折られて入っていた。

「フム、相変らずこまかい奴だ」

 彼は又、口を歪めて淋しく呟いた。そして紙幣を裸のままポケットへ突込み乍ら捨てようとした包紙に書かれた文字に眼をとめて両手で紙を伸し乍ら読んでみた。

「此の頃は貴君が毎晚お友達とお出になるので、その支払だけで私一ぱいですの、で今晚はおかみさんに借りてお上げします。少しばかりですが悪しからず、これからはもっともっと働きますからね、色々と書きたいことばかりですが急ぎますから、では又………」

 上手ではないがほっそりと丁寧な字だった。

「しっかりしている女給ではない、貞淑なマダム型だ」

 柚崎は淋しく呟いた。彼は今迄こうした自分の行為を善いとも思わなかったが、自責の念を起すようなこともなかった。併し、今宵の彼は自分の行為が責められて哀愁に捉らわれた。街の灯が千耶子の悲しい眸のようにうるんで見えた。彼の足は何時か歩行を止めていた。不良仲間でもドンファンと云われて、秀麗な容貌と、長けた才能とを持つ彼は今夜のような仕事にかけては相当自信があった。そして令嬢と云わず、女学生と云わず、マダムと云わず、触れ合い知り合う女と云う女を片ぱしからたぶらかして来た。だが彼が自分の行為を今夜のように淋しく感じたことは初めてだった。彼は舗道の真中に暫く佇って居た。市街は尚かなりな人通りだった。彼は何時になく弱った自分の心を蔑むように今迄片手に持っていた紙片を無雑作に掌中にまるめて後方へ投げ捨て、日本人ばなれのしたシークな足どりで大股に傍の書店へ入って行った。


2


 千耶子からとった紙幣の大方を支払って買求めた書物を小脇に挟んで、柚崎は間借している自分の住居へ帰って来た。彼はこんな類の青年には珍しく清楚な生活をしていた。不良青年にはなれた彼も放蕩児にはなり得なかったのだ。斯うして得た金は殆んど病的に好きな読書の為めに消費されていた。彼の部屋にはそうして買い集めた書物が所狭き迄に積まれてあった。彼はその大部分を一通は眼を通していた。

 柚崎は部屋に入ると小森が敷いてくれてあった寝床へ入って今買って来た本の一冊を取って初めの方から読み初ママめた。傍の小森は、軽い寝息をたてて眠っていた。小森は三ヶ月程前に、失業した肺病の不幸な青年だと云うので偶然知り合った柚崎が同情して寄寓させて居るのだった。小森は病気の為でもあろうが細心で女のようにやさしく内気ではあるが人好きのする男だった。柚崎は三ツばかり年下の小森を弟のように労っていた。小森は色の悪い頰骨の突き出た顔へ長く伸した髪の毛を乱しかけて横向きにいじけた恰好で眠っていた。

 柚崎は寝床の上に腹這って新しい本を読みふけった。彼は何にする目的で本を読むのでもなかった。何も希望のない彼の魂が堪らなく病的にあらゆる刺戟とアジテイションを求めるのだ。そして、彼は眠りつく迄の数分間でも自分について考える余裕を恐れるのだ。それを避けるために好きな心を打ち込める本に読みふけるのだ。柚崎を斯うした彼にしたのは、その忘れんとして忘れられない過去の暗影だった。彼は昼間は大きくはないがかなり有名な出版社の事務に勤めて居た。彼がこんな勤めをするのも自分の過去を忘れようとする気持からだった。その為めに彼は毎日の仕事に心を打ち込んで働いた。その働きがいつか社でも重要な人間となっていた。併し、そうした勤務も慣れると過去の暗影が容赦なく彼の心をさいなんだ。その悩みをまぎらすためと、彼が持っている女に対する呪いとで彼は次ぎと若い女社員を誘惑した。その為に発狂した娘もあった。それが原因で自殺した女もあった。そんなことが彼の社に於ける信任を失墜させるであろうと思われたが、却って反対に彼が自分に一寸の余裕も与えまいとする自棄的努力が仕事の能率を十二分に揚げさせて、その上に才能のある彼は不思議な程社の方で珍重されていた。併し、同僚の中には彼を全くの悪魔だと云うものもあった。又、彼の過去を莫然と推察して善導しようとする者もあった。けれども彼はそんなことには意をとめなかった。善く云われようと悪く云われようと少しもかまわなかった。彼は他人にかれこれ云われて意志を曲げるようなことは生れママて一度だってしなかった。そして彼の行動は依然悪化して行くばかりだった。

 腹這いになっていることに疲れて柚崎は仰向きに寝直って一寸眼を閉じてみたが、まだ眠れそうもなかった。一時閉じた本を又取り上げて読んだ。斯うして、読み疲れて何時ともなく眠って、朝日の高くなる頃眼を醒し、早起きの小森が用意した朝餉を一緒に食って社に出かけるのだ。時にはひどく朝寝をして正午近くなって社へ出かけることもあった。そんな時でも遅れた分の仕事をとり返すこと位は彼には何でもなかった。小森は初めの内こそそんな時には心配して揺り起したが、今では柚崎の性質を知ってかまうことはしなかった。


3


 媚びと擾乱との雑然たる中に力フェーの夜は更けて行った。千耶子はあらゆる悲しい淋しい感情を胸に秘めて、出入の客に朗かな微笑を振りまいて居た。

 軈て、出入の客も疎らになった頃には彼女等の微笑にも、無心な電燈の光りにさえ疲れの色が見え、その中でレコードだけが活々と唄っていた。

 千耶子は今迄じっと堪えていた太息をホッと吐き出すと、急に眼がしらが熱くなって涙が出そうになった。それをやっと嚙みしめて、今日、兄から来た手紙を挟んである帯の上を押えてみながら正面の大時計を仰いだ。今夜柚崎の顔が見えないことも彼女を憂鬱にする一つの原因だった。時計は十一時を過ぎていた。客は四五人の酔いつぶれた常連が二ヶ所へかたまっていぎたない恰好でグド喋っていた。年増の女給と、年若いのとが蓄音機を中にして一枚ずつレコードをいじっていた。千耶子は兄の手紙をも一度読み返えママそうと南窓の力ーテンの蔭に入った。派手な柄の着物の裾から足だけが力ーテンの下に現れていた。其処へ昨夜と同じ服装で柚崎がひょっこり入って来た。

「いらっしゃい」

 年増の女給はそう云って立つ代りに南窓の方へ眼を移した。年若いのも、柚崎もすぐにその視線を追ってカーテンの裾に現れている千耶子の腿のあたりから下を見やった。

 年増はすぐに視線を反らして、若いのと顔をみ合せて卑しく笑み交した。

「千耶ちゃん」

 それにはかまわず、柚崎はやさしく呼びかけた。千耶子は突然な柚崎の声にとまどった返事をし乍らそそくさと出て来た。彼女の瞼は紅く泣き腫れていた。

「泣いたんだね、どしたんだい?」

 柚崎はすぐに問いかけた。千耶子は強いて微笑を作ろうとして口を歪め乍ら、周章てて手紙を差し込んだ帯のあたりを気にして手で押さえていた。その手を外れて便箋紙の端がのぞいていた。

「何だい、そりゃあ…………」

 柚崎は目ざとく見つけて云った。千耶子は驚いて隠そうと手を辷らした、けれどもその時には手紙はもう柚崎の手に握られていた。柚崎は斯うしたことにかけても相当な腕利きだった。

「いけないわそれ……読んじゃだめよ、いけないわ、ねえ、返してよ、返して……」

 彼女は必死に取返そうと焦った。

「いいじゃないか、見せ給え」

 柚崎は落ちついた調子で片手に彼女をあしらい乍ら、片手に高く手紙を拡げからかうように拾い読みをしていた。

「何でもないのよ………そんなもの読んじゃだめよ、ねえ、ねえ、返して……」

「待て、待て………」

 夢中でからみかかる千耶子と争い乍ら、段々真顔になって、一枚だけあらまし読んだ頃柚崎は急に血相変えて「エエ!」とか何とか口の中で叫んで、鎚りつく千耶子を振り切って便箋を摑んだまま外へ飛び出した。ふり倒された千耶子は周章て後を追うとしたが、遠く走り去った彼の後姿を見て、声も立て得ずタタキの上へ泣き伏してしまった。外の女達がしきりに労ったが彼女は何時迄も立とうとはしなかった。


4


 まるで夢中に急いで来た柚崎は辻の明るい街燈の下で歩みを止めて、堅く握ったままポケットに突込んでいた手紙を出し、念入りに読んでいった。彼の両手は緊張し切って微かに震え、色白な顔は無気味に蒼ざめて堅くひき結んだ口のあたりを痙攣させていた。


――千耶ちゃん、永い間御世話になってすみませんでした。男が二十三才にもなって尚他人の扶助が無 くては生きられないと云うことは本当に悲しいことです。私はどうにかして自分のことは自分で出来る ようになりたいと思って随分考えました。けれども不治の病を持つ身です。どうにもなりませんでした。 それでもせめて文学で、と思って懸命に努力して来ました。けれどもそれももうだめです。私には何も かもわかりました。この前便りを戴いたのは六ケ月も前でした。この六ケ月の間私がどんなに苦しい生 活をしたか貴女には想像も及ばないことでしょう。月二円か三円、私は世の不況も知っています。けれども健康に恵まれた者にこれ位の支送りは決して大きなことではないと思います。併し、この二円か三円の支送りの有無は私にとっては死活問題です。そうは云っても療養所には扶助機関があって本当にこまる人には救済してくれます。けれども親、兄弟のない者や、社会にあって乞食までして来た人々は知りませんが、貧しい乍ら温い家庭でこれと云う不足もなく育って来た私には甘んじて救済を受けるなどはとても堪えられないのです。

千耶ちゃん、私はもうしっかりと決心しました。天刑病!! そうです。天刑です。生んだ両親にも血をわけた兄弟にまで見捨てられる、これが天刑でなくて何でしょう、併し天刑病者でも、レプラでも生のある限り生きなければならないんです。「人間が生きるために為す行為は総てが善だ」とか、私のような境遇へ投げ出された人間には確かに真理だと思います。私も療養所で真面目な患者として行くには、貴女方の世話になってこの不甲斐ない自分を悲しんで居なければならないのです。けれども私達にも多種の生き方があるのです。唯一人捨てられた自分だと思えば、善悪もなく、道徳もなく、唯享楽を求めて生きられるのです。生きんが為には堕落も罪もないのです。

千耶ちゃん、そうは云っても私は自分が可愛想でならないのです。今まで、苦しい思いを忍びに忍んで、人間らしく生きて来た自分であると思うと、何だかやたらに悲しくなって涙が出るのです。私は三月程前に療養所を出てしまいました。私は病気が伝染病である限り、こうすることは社会的に、実に恐るべき罪悪です。併し、これも運命です。運命の前には小さな人間の力など実に憐れなものですからね、斯うなることも私には決して不慮のことではないのです。私の様な病者の多くは、永い間には、こうして肉身からまで忌み嫌らママわれて自棄的になり、治るべき病気も治さずに悶え苦しんで死んで行くんですから、――唯その時が私には少し早すぎたと思うだけです。けれども決して恨みではありません。却ってよいことかもしれません。

千耶ちゃん、長々と書いてしまいました。私は今、自分の総てを虚って病弱故の失業者と云って、或る偉大な人格的青年に世話になって居ります。恩人を虚ることは苦しいが生きんが為めです、仕方がありません。私はもう何も云わずにと思ったのですが、発病以来五年余、最も親切にして下さった貴女に対して最後の便りをするのは礼儀だと思ったのです。併し、もう再び地上で語り合う事はないでしょう。では、さようなら、貴女の御健康を祈まママす。――


 柚崎は読み終えて激しく身震いした。そして「ウーム恐しい病気だ」と口の奥で嘆息した。

 夜は更けていた。無夜の境を呈していた大都会にも夜はあった。あたりにはもう人通りも絶えていた。柚崎は突立ったまま動こうともせず、烈しい戦慄に震える胸の中で、自分が道ならぬ道を踏み始めた数年前の事実を其時以来初めて一つ嚙みしめるように心の中で繰返し乍ら、悪魔のようになり切った自分の心に叫びかけるのだった。

「悪魔!! 柚崎雅美の悪魔!! 貴様がこんな人間になり下ったのは何のためだ!! 兄が千耶ちゃんの兄と同じ業病にとっつかれた為め、あの菊江に裏切られたからではないか。そして、学校も、家も、両親も何もかも捨て、女を呪いまわった卑怯者、今はどうだ、不幸な兄の為めに忠実に働いて居た女を誘惑して、その為めに病み乍らも正しく生きようとした者を迄悲惨な苦悶に引ずり込んだのだ。馬鹿。千耶ちゃんの悲しみを知ってやれ………」

 柚崎は気狂いのように両手で帽子の上から頭をかかえて煩悶した。併し、彼はこの堕落のどん底でも総てを捨ててはいなかった。殆んど病的に読書好きで、掌中に入れた金の大半を書物に替えていたのも、彼が学生時代からの理想として文学者になろうとした意志の潜在に違いなかった。

 暫くを苦悶し続けた時、彼はふと小森の身の上を思い出しても一度手紙をみつめた。

 ………自分の総てを偽って病弱故の失業者として……偉大なる人格的青年……

 「ウーム」彼は唸るように太息して決心した。

 「そうだ、千耶ちゃんに詫びるんだ、そして俺は今から本当の自分に立ちかえるんだ、そうだよし行こう」

 そう独語して彼は走るように歩き出した。


 千耶子のカフェーは戸を閉め切って軒燈の影に静にママ眠っていた。柚崎は半狂のように急いで来た歩をその前にとめて暫く茫然としていたが、気がついたように「もう遅い、明日にしよう」と口の中で云ってたち去ろうとした。其の時軒燈の下の潜り戸が静かに五寸ばかりスッと開いた。と同時だった。柚崎は背後に佩剣がガチャリと鳴ったのを聞きつけ、直感的にその音に怯え、本能的にすばやく身を返して走る様にそこをたち去った。

 外の響音に気兼ねてか開けかけた戸はそのまま動かなかったが、軈て、足音が遠く消え去ると狭い潜戸を一ぱい開けて静かに、忍ぶように物音をぬすんで、旅仕度をした千耶子が、バスケットを提げて出て来た。彼女は外へ出ると小走りに街路を横切って五六丁筋向うの円タクの集合所へ馳け込んだ。

 それから暫くの後、千耶子は神戸行急行車に揺られ乍ら、遠く離れゆく、住み慣れた都の灯の瞬きをありとあらゆる、執著と憎悪と呪咀と哀愁との入り乱れた感慨にあふれ出る涙の眼で、じっといつまでも見つめていた。やがて華やかな灯影が視野から消え去ると、未だ見ぬ異国の南京街の光景を涙の中に浮べて身ぶるいした。次の瞬間には、不幸な病気の兄の幻影を闇の中に描きつづけて身悶えた。

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