惣太の経験
惣太の経験
一
彼は仲間には
惣太は生れつきのあわて者で、驚くべき気早である。ある時彼は銀行へ忍び込んで、金庫の前の金網戸を開けた。中へ
生活のために盗みをすると云う事は大して楽な事ではなかった。もし惣太の父親が盗人でなく、母親が父親の刑務所入りの留守中、何か生活を支持すべき仕事があったか、又は彼が両親に死に別れてから、仲間に羽振りの利く親分に養われなかったら、彼は何か別の職業を撰んで愛嬌者と唄われて一生を送ったかも知れない。もっとも彼は一度正業につこうと思って、一日土方をやって見た事がある。けれども恐ろ〔ママ〕しく力の要る仕事で、それに朝から晚まで、コツコツ穴を掘っている様な単調な事は、彼はとてもやっていられなかった。彼は豆だらけの手で、一品料理屋の出前持になった。ところが彼は配り先を間違えてばかりいた。その上集めに行く段になると、配り先をケロリと忘れていた。それで、二日目にむこうから断られてしまった。彼は
或る時、惣太は洋館に忍び込んで見たいと云う慾望を起した。別にどうと云う理由もなかったが、洋館に這入って見たくなった。後には洋館にはどうかすると西洋人が住んでいて、西洋人と云うものは家中に無暗に錠を下して、ややともするとピストルを
上野の森の夜は早く来る。殊に時に二月の末で、寒さが未だ
飛び込んだ所は、もとより勝手などを知っていたのではないが、かなり広い部屋で客間らしかった。懐中電燈で照らして見ると、壁には大きな額が懸かっていて、床には厚い絨緞が敷きつめてあり、ドッシリとした調度が、惣太の眼にはかなり賛沢に思われた。彼はホクホク喜びながら、いきなり煖炉の前の棚に乗せてある
惣太の狼狽は気の毒なようであった。彼は洋館の電燈は戸口にあるスイッチで、外から点けられるものだと云う事を知らなかったのだ。続いて
彼が長椅子の下で腹這いになって、息を凝らしていると、
腰をかけたのは一人は洋服を着た男に違いなかった。揃えた足が二本彼の鼻先でじっとしている。他に二本、これも人間の足には違いないのだが、床の上二三寸の所を、まるで
「よく来て下すったわねえ」女の声。
「うん――」男の声。
「ほんとうに
「そうか」
「あなた。あれ持って来て下すって」
「うん、持って来たよ」
「まあ、嬉しい、あなたはほんとうに実があるわねえ」
女の足が急に運動を止めたかと思うと、チュッと云う異樣な音が聞え〔ママ〕た。
惣太は思わず
「あなた、なぜそんなに妾をじろじろ見るの」
「余り美しいからさ」
「あら、お世辞が好いのね」
「君位美しいとずいぶん惚れ手があるだろうね」
「ないわよ。誰も惚れてなんかくれないわ」
「そんな事があるもんか、誰だって惚れるよ」
「じゃ、あなたでも」
「無論さ、でも片思いだから仕方がない」
「あら、片思いはないでしょう。あたしの方がよっぽど片思いだわ」
「――」
「あら、また恐い顔をするのね、あなた今晩は何だか変だわ。どうかなすったの」
「どうもしやしない」
「じゃ、機嫌をよくして下さいな」
惣太は長椅子の下でへた張りながら又チェッと云った。女の足は相変らず、ブランブランと彼の鼻を掠める。気早の惣太もう我慢がならなかった。飛び出そうとするとたんに、不思議な事が起った。ブランブランしている足の
「おや」惣太は首を縮めた。「この女は仲間かな」
「あなた、今日は陽気に一つ飲みましょうね」上では会話が始まる。
「僕はだめだよ」
「あら、そんな野暮な事を云わないで飲みましょう、ね、ウイスキー? ブラン?」
「そんなきつい酒はとても飲めないよ」
「まあ、お飲みなさいよ」
女の細い足がヒラリと床について、暫く見えなくなると、やがて盆の上にグラスのふれ合う音がして、又女の足が見えた。
「あたしも飲みますから、あなたも飲んで頂戴。だって今日はあたしの望みが叶って、こんな嬉しい事はないんですもの」
「うん、のむよ」男の不精々々答える声が聞えた。
惣太はさっきから考えていたが、どうも仲間内にはこんな女は思い出せない。畜生! 太いあまだ。ここはきっと淫売宿に違いない――それにしても洋館なのが不思議だ――淫売なら淫売で好い。客を喰え込んで、持物を掠めるとは太い奴だ。よしこっちにも覚悟があるぞ。そう思って、惣太は機会を
やがて女は又長椅子に腰をかけて、思いきり足をブランブラン振り出した。惣太は不自由な身体を曲げて、やっと片手を出すと、矢頃を計って、鼻先へやって来た靴にちょっと指を触れた。はずみで、予期した通りに、靴はポロリと落ちた。彼は素早く手を入れて中のものを摑み出すと、用意して置いた洋服の腕からもぎ取ったボタンを入れた。断って置くが、惣太は安物の洋服を着ていた。彼は何となく洋館に忍び込むには洋服を着て行かねばならんと思ったので――。
女はあわてて靴に足をつっ込んだが、指輪がボ夕ンに化けた事は気がつかなかったらしい。
それから暫く女ははしゃいで喋りつづけた。男の方はうんとか、そうかとか言葉少なに受流していたがだんだん返事がなくなって、やがて
気早の惣太、椅子の下で腹を
立上って見ると、椅子にもたれて、一人の男がだらしなく寝そべっている。安心すると共に惣太はのうのうと大きな
二
窓から飛び下りると、例の低い石垣を乗り越えて、惣太はスタスタと鶯谷の方へ歩き出した。まだ十二時前だ。彼は鼻唄でも歌いたいような気分である。
ものの半町とも行かぬ中に、暗闇からモシモシと呼び留めるものがある。
惣太は飛上った。女の声ではあるが、よし刑事でないにせよ、この夜更、しかも上野の森の中で、だしぬけに呼び留められるのは好い気持じゃない。夜遅く淋しい路を歩いて行って、暗がりからいきなり白い猫に飛びつかれた経験のある人は、今の惣太がそれだと思えば好い。
「――」彼は立止って闇をすかし見た。
「あの――」暗闇から出て来たのは確に〔ママ〕女だった。みすぼらしい
惣太はヒヤリとした。が相手は
「ええ、そうです」平気で返事をした。
「あれは一体どう云う家でございましょうか」女の問は意外である。
惣太は弱った。
実は彼にもどう云う家だか分らないのだ。
「どう云う家って?」彼は言葉を濁した。
「実は私の夫が今あの家にいるのでございます」女はちょっと言葉を切った。泣いているらしい。
「いいえ、あの家へ連れ込まれたのでございます。あの女が連れ込んだのです。あ、悪魔です、あの女は」おかみさんは到頭泣き出した。
惣太の好奇心は極度に緊張した。
「あの人があんたの亭主かね、四十位の年配の髯を生やした――」
「お見かけになりましたか。お恥しい事でございます。いかにもあれが夫でございます。夫はあの女にすっかり
無論あたりに人は居なかったが、こう度々盗人と云われるのは、惣太にとっては有難くない事だった。
「おかみさん」惣太は云った。「もっともだけれども、いくらなんでも往来で盗人なんて大きな声を出すのは止したらどうだい。自分の亭主の事じゃないか」
「お言葉でございますが、盗人はどこまでも盗人に相違ございません」――こいつあ手がつけられねえなと惣太は心の内で思った。災難だと諦めて黙って聞く事にしよう。――おかみさんは涙声で訴え続ける。
「今日も今日とて、又女から無心でも云われたのでございましょう。銀行からお金を持出したのでございます。
惣太はさっきからズボンのポケットへ手を入れて、
「そいつは気の毒だ。だがね、おかみさん、御亭主はもうその金を持っていないぜ。きっと女にくれてやったに違いない。これからあの宅へ行って、すったもんだと騒ぎ廻っても、無事に戻るかどうか分らない、第一亭主の恥を
一気にこう云い切ると、惣太は驚くおかみさんの手に紙幣束を無理やりに握らして、
惣太は元の洋館に引返え〔ママ〕すと、忽ち窓を破って飛び込んだ。中でキャッと異様な叫声が聞えた。はっと驚く想太の前に、背の高い年寄の西洋人がピストルを突きつけて立っている。その後ろに婆さんが震えている。
「だれ! だれ!」西洋人は叫んだ。
「こいつはいけねえ、あぶねえあぶねえ」惣太は手を振った。
「早く、出て行く
惣太は毬の如く窓から飛び出した。何が何やら分らなかったが、つまり惣太は以前の洋館の隣へ這入ったのだった。
「驚いた、驚いた。ピストル打つぞと来やがった。ドンとやられて
惣太は隣の洋館に近寄った。窓から
窓から飛び込むと、ピストルの恨みもある、惣太はいきなり男の頰を
「痛いっ! 何をするのだ」彼は
「誰だ! き、君は!」
「誰も蜂の頭もあるもんけえ。鼻の下を長くしやがって、ちったあ女房の事でも考えろ」
「あら、乱暴じゃありませんか。誰なの?」
女の声が後ろでした。
振り向くと、
「おや、出たな。化物め! 指輪をくすねて靴の中へ入れやがって、――」
惣太が尚も云おうとすると、蒼くなった女はツカツカと惣太の傍へ来て
「誰だか知らないけれども、指輪の事は云わないで下さい、ね、きっとお礼するから」
この様子を眺めていた男は、始〔ママ〕めて腹を立てるのに気が付いたように怒号した。
「どこのどいつだ。断りなしに俺を撲った奴は!」
「へん、
男の顔は忽ち
「
次の瞬間彼の姿は消えた。
三
それから暫く惣太は稼ぎに出なかった。
でも十五円の金は一週間とは保たなかった。
一週間後に彼は又出かけた。洋館には懲りたから、今度は日本家を
下町で、ちよっと妾宅と云った構えの粋な見つきの家が無人らしかったので、その家へ忍び込んだ。十二時は
女二人らしい。どうも聞き覚えのある声なので、そっと
「結局あたいの負かね」
「そうともさ、お前さんが男を
おや、と惣太は耳を傾けた。
「あたいだって、成功していたんだがなあ。あの男はあの晚ちゃんとお金を持って来たんだものねえ。もっともあたいも
「あら、銀行から盗んで来たの」「そうらしいの、あの泥坊〔ママ〕が、銀行から盗んだ卑怯者めと云うと、あの男は蒼くなって黙っちゃったわ」
「そう、それじゃ、女房の事を云わなくて」
「云ったようだわよ。女房の事を考えろとかなんとか」
「じゃ、あたいが云った事なのよ。あの家に私の亭主が銀行の金を盗んで、女と一緒に居りますって」
「じゃ、それを本気にして飛び込んで来たのね」
「そうよ、きっと」
「そうすると、銀行泥坊って云うのは、お前さんの作り事で、まぐれ当りだったのね」
「そうよ、オホホホホ」
「オホホホホ」
畜生! 惣太は烈火の如くなった。畜生、飛び出して恥を搔かしてやろう。だが待てよ、口じゃとてもこの二人には勝てねえぞ、惣太はこう思うと、ちょっと二の足を踏んだ。
「でも、あの泥坊はさっぱりしていて好い男だわ。あたい惚れても好い」
惣太はちょっと首を縮めて舌を出した。
「あたいも満更でもないわ、第一気前がよし」
「そりゃ
「でも、ああ気前好く行くもんじゃないわ。あたい、お前さんの客がさ、お金を持っているに違いないから、誑してやろうと構えていたけれども、
もう我慢がならなかった。惣太は二人の前へ躍り出ようとしたが、まて、金を取り戻してやろう、もう少し様子を見た方が好い、と思い直した。
「とにかく、賭はあたいの負だから出すわよ」
この家の主人らしい方が立って、用箪笥をコトコトさしていたが、やがて百円紙幣を一枚出した。
「有難う。じゃ貰っとくわよ。三百円も未だ持ってるのよ」
女は手提袋から脹れた紙入れを出すと、その中へ百円紙幣を押し込んだ。その時である。
「御用だ、神妙にしろ」惣太は
二人の女はキャッと云って逃げ出した。
惣太はこの言葉がそう利目があるとは思わなかった。第一この頃の警官がこんな旧式な言葉を使うかどうかさえ、知らなかった。ただ講釈で聞き覚えた言葉を応用して見たのだった。
惣太は落ちていた手提袋を拾うと悠々と外へ出た。
「これで 一、二ケ月は楽に暮せるか。だが気早と云う事は考えものだなあ。少し改良しなくちゃいけねえかな」
(「苦楽」大正十五年七月号)
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