徒然草 (校註日本文學大系)

他の版の作品については、徒然草をご覧ください。


1

つれなるまゝに〔退屈なので〕、日ぐらし〔終日〕硯に向ひて、心に移り行くよしなしごと〔つまらぬ事、らちもない事〕を、そこはかとなく〔とりとめもなく〕書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ〔妙に變な気持がする〕

いでや〔偖、之は前の節と續く心持と見たい〕、この世に生れては、願はしかるべきことこそ多かめれ。帝のおん位はいともかしこし。竹の園生〔皇族〕の末葉まで、人間の種ならぬぞやんごとなき〔特に貴い〕。一の人〔攝政關白〕の御ありさまはさらなり、唯人たゞうども、舎人〔朝廷より許された護衞隨身〕などたまはる際は、ゆゝし〔すてきである〕と見ゆ。その子、うまごまでは、はふれにたれど〔零落したけれども〕、なほなまめかし。それより下つ方は、ほどにつけつゝ、時に逢ひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いと口惜し。法師ばかり羨しからぬものはあらじ、「人には木の端のやうに思はるゝよ。」と、清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢猛にのゝしりたるにつけて、いみじとは見えず。増賀聖のいひけむやうに、名聞ぐるしく、佛の御教みをしへに違ふらむとぞ覺ゆる。ひたぶるの世すて人は、なかあらまほしき方もありなむ。人はかたち有樣の勝れたらむこそ、あらまほしかるべけれ。物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、詞多からぬこそ、飽かずむかはまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣りせらるゝ本性ほんじゃう見えむこそ、口をしかるべけれ。人しな容貌こそ生れつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにも、うつさば移らざらむ。かたち心ざまよき人も、才なくなりぬれば、人品くだり、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝ〔わけもなく壓倒される〕こそ、本意なきわざなれ。ありたきことは、まことしき文の道〔質實な學問、修身齊家の道〕、作文、和歌、管絃の道、また有職〔朝廷武家などの典禮に通ずる事〕に公事のかた〔朝廷の政事儀式の方面〕、人の鑑ならむこそいみじかるべけれ。手など拙からずはしりがき、聲をかしくて拍子はうしとり、いたましうするものから〔酒をすゝめられて恐縮したやうにはして居るものの〕、下戸ならぬこそをのこはよけれ。


2

いにしへの聖の御代の政をも忘れ、民の憂へ、國のそこなはるゝをも知らず、萬にきよら〔華麗〕を盡して、いみじと思ひ、所狹きさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。「衣冠より馬車うまくるまに至るまで、あるに隨ひてもちひよ。美麗を求むることなかれ。」とぞ九條殿〔右大臣藤原師輔、忠平の子〕遺誡ゆゐかいにもはべる。順徳院の、禁中の事ども書かせ給へる〔順徳院の御著禁秘抄〕にも、「おほやけの奉物たてまつりものはおろそかなるをもてよしとす。」とこそ侍れ。


3

よろづにいみじくとも、色好まざらむをのこは、いとさうしく〔寂しく慊らず〕、玉のさかづきの底なき心地ぞすべき。露霜にしほたれて、所さだめず惑ひありき、親のいさめ、世のそしりをつゝむに、心のいとまなく、合ふさるさ〔一方よければ一方うまくゆかぬこと〕に思ひ亂れ、さるは獨り寢がちに、まどろむ夜なきこそ、をかしけれ。さりとて一向ひたすらたはれたる方にはあらで、女にたやすからず〔與し易くなく〕おもはれむこそ、あらまほしかるべき業なれ。


4

後の世のこと心に忘れず、佛の道うとからぬ、心にくし。


5

不幸に憂へに沈める人の、頭おろしなど、ふつゝかに〔拙乏に淺薄に〕思ひとりたるにはあらで、有るか無きかに門さしこめて、待つこともなく明し暮らしたる、さるかたにあらまほし。顯基あきもと中納言〔源顯基、大納言俊賢の子〕のいひけむ、「配所〔流罪の地〕の月、罪なくて見む。」こと、さもおぼえぬべし。


6

我が身のやんごとなからむにも、まして數ならざらむにも、子といふもの無くてありなむ。前中書王〔中書は中務卿の唐の官名、兼明親王、醍醐帝の皇子〕、九條太政大臣〔藤原伊通、宗通の子〕、花園左大臣〔源有仁、輔仁親王の子〕、皆ぞう絶えむ事を願ひ給へり。染殿大臣〔藤原良房、冬嗣の子〕も子孫おはせぬぞよく侍る。末の後れ給へる〔子孫の劣れる〕は、わろき事なりとぞ、世繼の翁の物語〈*大鏡〉にはいへる。聖徳太子の墓を、かねてかせ給ひける時も、「こゝをきれ、かしこを斷て。子孫あらせじと思ふなり。」と侍りけるとかや。


7

あだし野〔山城愛宕山の麓にある野〕の露消ゆる時なく、鳥部山〔山城愛宕郡清水寺附近の墓地〕の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに物の哀れもなからむ。世は定めなきこそいみじけれ。命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕を待ち〔淮南子に「蜉蝣朝生而夕死、而盡其樂。」〕、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つく一年ひととせを暮らす程だにも、こよなうのどけしや。飽かず惜しとおもはば、千年ちとせを過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて、何かはせむ。命長ければ恥おほし〔莊子に「壽則多辱」〕。長くとも四十よそぢに足らぬほどにて死なむこそ、目安かるべけれ。そのほど過ぎぬれば、かたちを愧づる心もなく、人にいでまじらはむ事を思ひ、ゆふべの日に子孫を愛し、榮行さかゆく末を見むまでの命をあらまし〔豫想する、豫期する〕、ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らずなり行くなむあさましき。


8

世の人の心を惑はすこと色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。匂ひなどは假のものなるに、しばらく衣裳に薫物たきものすと知りながら、えならぬ〔何ともいはれぬ〕匂ひには、必ず心ときめきする〔心のをどる〕ものなり。久米の仙人やまびと〔和泉國葛上郡の人〕の、物洗ふ女のはぎの白きを見て、通を失ひけむは、まことに手足はだへなどのきよらに、肥え膏づきたらむは、外の色ならねばさもあらむかし。


9

女は髪のめでたからむこそ、人のめだつべかめれ。人の程〔人柄〕、心ばへなどは、物うち言ひたるけはひにこそ、物ごしにも知らるれ。事に觸れてうちあるさま〔ただ一寸した樣子〕にも、人の心を惑はし、すべて女のうちとけたる、いもねず〔女は氣を許して熟睡もせず。たしなみが深い故である。〕、身を惜しとも思ひたらず、堪ふべくもあらぬ業にもよく堪へ忍ぶは、たゞ色を思ふがゆゑなり。まことに愛著あいぢゃくの道、その根深く源遠し。六ぢん〔六つの心をけがす刺激、色聲香味觸法〈意〉の事〕樂欲げうよく〔心を樂しましむる欲〕多しといへども、皆厭離おんりしつべし。その中に、たゞかの惑ひ〔色欲〕のひとつ止めがたきのみぞ、老いたるも若きも、智あるも愚かなるも、變る所なしとぞ見ゆる。されば女の髪筋を縒れる綱には、大象だいざうもよくつながれ〔大威徳陀羅尼經に「以女人髪綱維香象能繋況丈夫輩。」〕、女のはける足駄にて造れる笛には、秋の鹿必ず寄るとぞいひ傳へ侍る。自ら戒めて、恐るべく愼むべきはこの惑ひなり。


10

家居のつきしく〔似あはしく〕あらまほしきこそ、假の宿りとは思へど、興あるものなれ。よき人の長閑に住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、一際しみと見ゆるぞかし。今めかしくきらゝかならねど、木立ものふりて、わざとならぬ庭の草も心ある樣に、簀子〔縁側〕透垣〔竹をすかして編んだ垣〕のたよりをかしく〔作り工合に趣あつて〕、うちある調度も、むかし覺えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。多くの工匠たくみの、心を盡して磨きたて、唐の日本やまとの、珍しくえならぬ調度ども竝べおき、前栽〔庭〕の草木まで、心のまゝならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやはながらへ住むべき、また時の間の煙ともなりなむとぞ、うち見るよりも思はるゝ。大かたは、家居にこそ事ざまは推しはからるれ。後徳大寺の大臣〔藤原實定。公能の子〕の、寢殿〔貴族の邸宅の中心にして主人の住む建物〕に鳶ゐさせじとて繩を張られたりけるを、西行が見て、「鳶の居たらむ何かは苦しかるべき。この殿の御心さばかりにこそ。」とて、その後は參らざりけると聞き侍るに、綾小路の宮〔龜山帝の皇子、性惠法親王〕のおはします小坂殿の棟に、いつぞや繩を引かれたりしかば、彼のためし思ひ出でられ侍りしに、「まことや、烏のむれゐて池の蛙をとりければ、御覽じ悲しませ給ひてなむ。」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそとおぼえしか。後徳大寺にも、いかなるゆゑか侍りけむ。


11

神無月かみなづき〔十月〕の頃、栗栖野〔山城國宇治郡醍醐附近〕といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遙かなる苔の細道をふみわけて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉にうづもるゝ筧の雫ならでは、つゆおとなふものなし〔筧の雫の露と少しもの意をかけた〕。閼伽棚〔閼伽は梵語、水の義、佛に手向ける水を供へる器を置く棚〕に、菊紅葉など折りちらしたる、さすがに住む人のあればなるべし。かくても在られけるよと、あはれに見る程に、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりを嚴しく圍ひたりしこそ、少しことさめ〔興醒め〕て、この木なからましかばと覺えしか。


12

同じ心ならむ人と、しめやかに物語して、をかしき事も世のはかなき事〔世間のつまらぬ些事〕も、うらなく〔腹藏なく〕いひ慰まむこそ嬉しかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらむと〔少しでも調子の合はぬ事がないやうにと〕向ひ居たらむは、ひとりある心地やせむ。互にいはむほどのことをば、げにと聞くかひあるものから、いさゝか違ふ所もあらむ人こそ、「我はやは思ふ。」など爭ひにくみ、「さるからさぞ〔さうだからさうだ〕。」ともうち語らはば、つれ慰まめと思へど、げには少しかこつかたも、我とひとしからざらむ人は、大かたのよしなしごといはむ程こそあらめ、まめやかの心の友には遙かにへだたる所のありぬべきぞわびしきや。


13

ひとり燈火のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなれ。文は文選〔支那梁武帝の子昭明太子の編した詩文集、三十卷〕のあはれなる卷々、白氏文集〔唐白樂天の詩文集〕老子らうじのことば、南華の篇〔莊周の著はしたる書名、所謂莊子〕。この國の博士どもの書けるものも、いにしへのは、あはれなる事多かり。


14

和歌こそなほをかしきものなれ。あやしのしづ山がつの所作しわざも、いひ出づれば面白く、恐ろしき猪も、臥猪の床〔猪は枯草を集めて寢床とする事が傳へられる〕といへばやさしくなりぬ。この頃の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、言葉の外に哀れにけしき覺ゆるはなし。貫之が、「絲による物ならなくに。」〔絲によるものならなくに別路の心細くもおもほゆるかな〈古今集〉といへるは、古今集のうちの歌屑とかやいひ傳へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。その世の歌には、すがたことば、このたぐひのみ多し。この歌に限りて、かくいひ立てられたるも知りがたし。源氏物語には、「ものとはなしに。」〔總角の卷に前の歌をかく改めて出してある。〕とぞ書ける。新古今には、「のこる松さへ峯にさびしき。」〔冬の來て山もあらはに木の葉ふり殘る松さへ峯にさびしき。祝部成仲の歌〕といへる歌をぞいふなるは、誠に少しくだけたるすがたにもや見ゆらむ。されどこの歌も、衆議判すぎはんの時、よろしきよし沙汰ありて、後にもことさらに感じおほせ下されけるよし、家長〔源家長、時長の子〕が日記には書けり。歌の道のみいにしへに變らぬなどいふ事もあれど、いさや〔さあどうだかと打消す意〕、今もよみあへる、同じことば歌枕も、むかしの人のよめるは、更におなじものにあらず。やすくすなほにして、すがたも清げに、あはれも深く見ゆ、梁塵秘抄〔後白河帝の御編著、主として今樣を集めたもの〕郢曲えいきょく〔當時のうたひ物の總稱〕のことばこそ、またあはれなる事はおほかめれ。むかしの人は、いかにいひ捨てたる言種ことぐさも、皆いみじく聞ゆるにや。


15

いづくにもあれ、暫し旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ。そのわたり、こゝかしこ見ありき、田舍びたる所、山里などは、いと目馴れぬことのみぞ多かる。都へたよりもとめて文やる。「その事かの事、便宜びんぎにわするな。」などいひやるこそをかしけれ。さやうの所にてこそ、萬に心づかひせらるれ。持てる調度まで、よきはよく、能ある人も、かたちよき人も、常よりはをかしとこそ見ゆれ。寺社てらやしろなどに忍びてこもりたるもをかし。


16

神樂こそなまめかしく面白けれ。大かた〈*原文「大かに」〉物の音には笛篳篥〔笛に似て竪に吹く雅樂の樂器〕、常に聞きたきは琵琶和琴〔やまと琴とも云ふ。六絃の琴〕


17

山寺にかきこもりて、佛に仕うまつるこそ、つれもなく、心の濁り〔心の欲情、煩惱〕もきよまる心地すれ。


18

人はおのれをつゞまやかにし、驕りを退けてたからたず、世を貪らざらむぞいみじかるべき。昔より賢き人の富めるは稀なり。唐土に許由きょいう〔帝堯時代の人、天下を讓らうと云はれ、穢らはしい事を聞いたと云ふので潁川で耳を洗つた。〕といひつる人は、更に身に隨へる貯へもなくて、水をも手してさゝげて飮みけるを見て、なりひさご〔瓢〕といふ物を、人の得させたりければ、ある時木の枝にかけたりければ、風に吹かれて鳴りけるを、かしがましとて捨てつ。また手にむすびてぞ水も飮みける。いかばかり心のうちすゞしかりけむ。孫晨〔字は元公、家貧しくむしろを織つて暮らす、後栄達し京兆の功曹となる〕は冬の月に衾なくて、藁一つかねありけるを、夕にはこれに臥し、朝にはをさめけり。もろこしの人は、これをいみじと思へばこそ、しるしとゞめて世にも傳へけめ。これらの人〔日本の人を意味する〕は語りも傳ふべからず。


19

折節のうつり變るこそ、物毎に哀れなれ。物の哀れは秋こそまされと、人毎にいふめれど、それも然るものにて〔一應尤もな事で〕、今一きは心もうきたつものは、春の景色にこそあめれ。鳥の聲などもことの外に春めきて、のどやかなる日かげに、垣根の草萌え出づる頃より、やゝ春ふかく霞みわたりて、花もやう氣色だつほどこそあれ、をりしも雨風うちつゞきて、心あわたゞしく散りすぎぬ。青葉になりゆくまで、萬に唯心をのみぞなやます。花橘は名にこそおへれ〔花橘は昔を追懷せしむると云ふ聯想があつた。「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」〈在原業平〉、なほ梅のにほひにぞ、いにしへの事も立ちかへり戀しう思ひ出でらるゝ。山吹のきよげに、藤のおぼつかなき〔藤の花のなよしたのを心もとないと形容したのである〕樣したる、すべて思ひすて難きことおほし。

灌佛〔四月八日に行はるゝ佛生會、釋迦の誕生日でその像に香水を灌ぐ式がある。〕のころ、祭のころ〔陰暦四月中の酉の日にある賀茂の祭禮〕、若葉の梢すゞしげに繁りゆくほどこそ、世のあはれも人の戀しさもまされと、人のおほせられしこそ、實にさるものなれ。五月さつき、あやめ葺くころ〔五月の端午の節句に屋根軒に菖蒲をふく。〕、早苗とる〔稻の苗を田に移し植ゑる〕ころ、水鷄くひなのたゝく〔水鷄の啼聲は人が戸を叩く音に似て居るのでかく云ふ。〕など、心ぼそからぬかは。六月みなづきの頃あやしき家に、夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり。六月祓またをかし。七夕祭る〔七月七日牽牛織女二星を祭り技藝の上達を祈る。〕こそなまめかしけれ。やう夜寒になるほど、鴈なきて來る頃、萩の下葉色づくほど、早稻田わさだ刈りほすなど、とり集めたることは秋のみぞおほかる。また野分の朝こそをかしけれ。いひつゞくれば、みな源氏物語、枕草紙などに事ふりにたれど、おなじ事また今更にいはじとにもあらず。おぼしき事云はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝ、あぢきなきすさびにて、かいやり捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。さて冬枯の景色こそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。汀の草に紅葉のちりとゞまりて、霜いと白う置ける朝、遣水より煙のたつこそをかしけれ。年の暮れはてて、人ごとに急ぎあへる頃ぞ、またなくあはれなる。すさまじき物にして見る人もなき月の、寒けく澄める二十日あまりの空こそ、心ぼそきものなれ。御佛名おぶつみゃう〔十二月十九日から三日間清凉殿で行はれる佛事〕荷前のさきの使〔朝廷で諸國から奉つた貢の初穂を帝陵、外戚の墓へ獻上ある〈*する〉使、十二月十三日以後。〕たつなどぞ、あはれにやんごとなき。公事どもしげく、春のいそぎにとり重ねて、催し行はるゝ樣ぞいみじきや。追儺〔鬼やらひ、十二月晦日。〕より四方拜〔元旦、天皇〈*が〉宮中で天地四方を拜せられる儀式。〕につゞくこそおもしろけれ。晦日つごもりの夜いたう暗きに、松どもともして、夜半よなかすぐるまで、人の門叩き走りありきて、何事にかあらむ、ことしくのゝしりて、足を空にまどふが、曉がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年のなごりも心細けれ。亡き人のくる夜とて魂まつる〔昔は十二月晦日にも魂祭をしたのである。〕わざは、このごろ都には無きを、東の方には猶することにてありしこそ、あはれなりしか。かくて明けゆく空のけしき、昨日に變りたりとは見えねど、ひきかへ珍しき心地ぞする。大路のさま、松立てわたして、花やかにうれしげなるこそ、また哀れなれ。


20

なにがしとかやいひし世すて人の、この世のほだし〔自分をしばる絆、妻子とか財産とかをさす。〕もたらぬ身に、たゞ空のなごりのみぞ惜しき。」といひしこそ、まことにさも覺えぬべけれ。


21

萬の事は、月見るにこそ慰むものなれ。ある人の、「月ばかり面白きものは有らじ。」といひしに、またひとり、「露こそあはれなれ。」と爭ひしこそをかしけれ。折にふれば何かはあはれならざらむ。月花はさらなり、風のみこそ人に心はつくめれ。岩に碎けて清く流るゝ水のけしきこそ、時をもわかずめでたけれ。「沅湘げんしゃう日夜ひンがしに流れ去る、愁人の爲にとゞまること少時しばらくもせず。」〔戴叔倫の詩「沅湘日夜東流去、不下爲愁人住中少時上」〕といへる詩を見侍りしこそあはれなりしか。嵆康けいかう〔竹林七賢の一人、彼の文に「遊山澤魚鳥心甚樂之。」〕も、「山澤にあそびて魚鳥を見れば心樂しぶ。」といへり。人遠く水草みぐさきよき所にさまよひ歩きたるばかり、心慰むことはあらじ。


22

何事も古き世のみぞ慕はしき。今樣は無下に卑しくこそなり行くめれ。かの木の道の匠のつくれる美しきうつはものも、古代の姿こそをかしと見ゆれ。文の詞などぞ、昔の反古ほうごどもはいみじき。たゞいふ詞も、口惜しうこそなりもて行くなれ。古は、「車もたげよ。」「火掲げよ。」とこそいひしを、今やうの人は、「もてあげよ。」「かきあげよ。」といふ。主殿寮〔宮内省内、供御輿輦の事及殿庭洒掃、燈燭庭燎〈*ていれう-篝火〉などを掌る。〕の「人數にんずだて〔松明〈*を〉持つ役に用意せよと命令する事〕。」といふべきを、「立明し〔松明〈*原文は「立明」に注する。〉白くせよ。」といひ、最勝講〔五月吉日清凉殿で最勝王經を講ぜしめられる儀式〕御聽聞所みちゃうもんどころなるをば、「御講みかう〔場所の義〕。」とこそいふべきを、「講廬。」といふ、口をしとぞ、古き人の仰せられし。


23

衰へたる末の世とはいへど、猶九重の神さびたる有樣こそ、世づかずめでたきものなれ。露臺〔宮中屋なき臺、舞などに用ゐる。〕、朝餉〔清凉殿内、帝の御朝食を召す所〕、何殿でん、何門などは、いみじとも聞ゆべし。怪しの所にもありぬべき小蔀、小板敷、高遣戸なども、めでたくこそ聞ゆれ。「陣に夜の設けせよ。」といふこそいみじけれ。よン御殿おとゞのをば、「掻燈かいともし疾うよ。」などいふ、まためでたし。上卿しゃうけいの、陣にて事行へる樣は更なり、諸司の下人どもの、したり顔になれたるもをかし。さばかり寒き終夜よもすがら、此處彼處にねぶり居たるこそをかしけれ。「内侍所の鈴の音は、めでたく優なるものなり。」とぞ、徳大寺の太政大臣は仰せられける。


24

齋宮〔天子即位毎に處女の皇族を伊勢大神宮奉仕に遣はさるゝその居所、或はその人。〕の野の宮〔齋宮の伊勢へ出發前齋戒のため居られる所、賀茂神社へもあつた。〕におはします有樣こそ、やさしく面白き事の限りとは覺えしか。經佛きゃうほとけなど忌みて、中子〔佛の忌詞〕染紙そめがみ〔經文の忌詞〕などいふなるもをかし。すべて神の社こそ、捨て難くなまめかしきものなれや。ものふりたる森の景色もたゞならぬに、玉垣しわたして、榊に木綿ゆふかけたるなど、いみじからぬかは。殊にをかしきは、伊勢、賀茂、春日、平野〔山城葛野郡平野神社〕、住吉、三輪〔大和三諸山三輪神社〕、貴船、吉田、大原野〈*以下〉皆山城愛宕郡〕松尾まつのを梅宮うめのみや


25

飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時うつり事去り、樂しび悲しび行きかひて、花やかなりしあたりも、人すまぬ野らとなり、變らぬ住家すみかは人あらたまりぬ。桃李物いはねば〔「桃李不言春幾暮」〈菅原時文〈*文時、和漢朗詠集〉、誰と共にか昔を語らむ。まして見ぬ古のやんごとなかりけむ跡のみぞいとはかなき。京極殿、法成寺ほふじゃうじ〔共に藤原道長の住みし所、後者はその晩年。〕など見るこそ、志留まり、事變じにける樣は哀れなれ。御堂殿〔藤原道長〕の作り磨かせ給ひて、莊園しゃうゑん多く寄せられ、我が御族みぞうのみ、御門の御後見、世のかためにて、行末までとおぼしおきし時、いかならむ世にも、かばかりあせ果てむとはおぼしてむ〈*けむ〉や。大門だいもん金堂など近くまでありしかど、正和のころ南門は燒けぬ。金堂はその後たふれ伏したるままにて、取りたつるわざもなし。無量壽院ばかりぞ、そのかたとて殘りたる。丈六の佛九體、いと尊くて竝びおはします。行成ぎゃうぜい大納言の額、兼行〔大和守藤原兼行、書の名手。〕が書ける扉、あざやかに見ゆるぞあはれなる。法花堂などもいまだ侍るめり。これも亦いつまでかあらむ。かばかりの名殘だになき所々は、おのづから礎ばかり殘るもあれど、さだかに知れる人もなし。されば萬に見ざらむ世までを思ひ掟てむこそ、はかなかるべけれ。


26

風も吹きあへず移ろふ人の心の花に、馴れにし年月をおもへば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になり行くならひこそ、亡き人の別れよりも勝りて悲しきものなれ。されば白き絲の染まむ事を悲しび〔淮南子に「墨子見練絲而泣〈*之。」〕、道の衢のわかれむ事を歎く人〔同書に「楊子見逵路而哭〈*之。」〕もありけむかし。堀河院ほりかはのゐんの百首の歌の中に、

むかし見し妹が垣根は荒れにけり茅花つばなまじりの菫のみして〔藤原公實の詠歌〕

さびしきけしき、さること侍りけむ。


27

御國ゆづりの節會〔天子御位を皇太子に讓らるゝ儀式〕行はれて、けん、璽、内侍所〔三種の神器、璽は玉、内侍所は鏡〕わたし奉らるゝほどこそ、かぎりなう心ぼそけれ。新院〔花園院〕のおりゐさせ給ひて〔文保二年二月讓位。〕の春、よませ給ひけるとかや。

殿守の伴のみやつこ〔伴の御奴、主殿寮の下司で伴氏の者、「主殿の伴の御奴心あらば此の春ばかり朝清めすな」の歌がある。〕よそにしてはらはぬ庭に花ぞ散りしく

今の世のことしげきにまぎれて、院にはまゐる人もなきぞ寂しげなる。かゝるをりにぞ人の心もあらはれぬべき。


28

諒闇〔まことにくらしの義、天子の喪。〕の年ばかり哀れなる事はあらじ。倚廬いろ〔諒闇の時の假御所、宮中に建つ。〕の御所のさまなど、板敷をさげ、葦の御簾〔平常の簾は竹なのである。〕をかけて、布の帽額もかう〔帽額は簾につく飾りの布、それが鈍色を用ゐてあるのを特に布の帽額と稱す。〕あらしく、御調度ども疎かに、みな人の裝束さうぞく、太刀、平緒〔太刀の下緒〕まで、異樣なるぞゆゝしき。


29

靜かに思へば、よろづ過ぎにしかたの戀しさのみぞせむ方なき。人しづまりて後、永き夜のすさびに、何となき具足〔道具〕とりしたゝめ、殘し置かじと思ふ反古など破りすつるうちに、なき人の、手習ひ、繪かきすさびたる見出でたるこそ、たゞその折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなるをり、いつの年なりけむと思ふは、あはれなるぞかし。手なれし具足なども、心もなくてかはらず久しき、いとかなし。


30

人の亡き跡ばかり悲しきはなし。中陰〔死後の七々四十九日〕の程、山里などに移ろひて、便りあしく狹き所にあまたあひ居て、後のわざども〔死者の冥福を祈る法事など〕營みあへる、心あわたゞし。日數の早く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。はての日はいと情なう、互にいふ事もなく、我かしこげに物ひきしたため、ちりに行きあかれ〈*原文・頭注「あがれ」〉〔離れた〕。もとの住家にかへりてぞ、さらに悲しきことは多かるべき。しかの事はあなかしこ、跡のため忌むなる事ぞ〔後に生きて居る人のため忌む意。〕などいへるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覺ゆれ。年月經てもつゆ忘るゝにはあらねど、「去るものは日々に疎し。」〔文選に「去者日已疎、來者日已新。」〕といへる事なれば、さはいへど、そのきはばかりは覺えぬにや、よしなし事いひてうちも笑ひぬ。からはけうとき〔人けのないさびしい〕山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、程なく卒都婆〔梵語、佛に供する五層の高き物、畧せるは木材で製してある。〕も苔むし、木の葉ふり埋みて、夕の嵐、夜の月のみぞ、言問ふよすがなりける。思ひ出でて忍ぶ人あらむほどこそあらめ。そも又ほどなくうせて、聞き傳ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらむ人は哀れと見るべきを、はては嵐にむせびし松も、千年を待たで薪にくだかれ、ふるきつかはすかれて田となりぬ〔文選に「出郭門直視、但見丘與墳、古墓犂爲田、松柏摧爲薪。」〕。そのかただになくなりぬるぞ悲しき。


31

雪の面白う降りたりし朝、人のがりいふべき事ありて、文をやるとて、雪のことは何ともいはざりし返り事に、「この雪いかゞ見ると、一筆のたまはせぬ程の、ひがしから〔ひがんで居る、趣を解せぬ〕む人の仰せらるゝ事、聞き入るべきかは、かへす口惜しき御心なり。」といひたりしこそ、をかしかりしか。今は亡き人なれば、かばかりの事も忘れがたし。


32

九月ながつき二十日の頃、ある人に誘はれ奉りて、明くるまで月見歩く事侍りしに、思し出づる所ありて、案内あないせさせて入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ〔たきものの匂ひ〕しめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いと物あはれなり。よきほどにて出で給ひぬれど、猶ことざまの優に覺えて、物のかくれよりしばし見居たるに、妻戸〔兩方へあける戸〕を今少し〔客の開きし戸をもう少し〕おしあけて、月見るけしきなり。やがてかけ籠らましかば、口惜しからまし。あとまで見る人ありとは如何でか知らむ。かやうの事は、たゞ朝夕の心づかひによるべし。その人程なく亡せにけりと聞き侍りし。


33

今の内裏〔冷泉萬里小路の内裏、建武三年燒失後新造された内裏〕つくりいだされて、有職の人々に見せられけるに、いづくも難なしとて、すでに遷幸の日近くなりけるに、玄輝門院〔伏見帝の母后、左大臣藤原實雄の女。〕御覽じて、「閑院殿〔御殿の名、藤原冬嗣の邸、後皇居となつた。〕の櫛形の穴〔壁に櫛形の穴をつけて通路としたもの〕は、まろく縁もなくてぞありし。」と仰せられける、いみじかりけり。これはえふ〔穴の縁を二重にする事〕の入りて、木にて縁をしたりければ、誤りにて直されにけり。


34

甲香かひがう〔香をたくに用ゐる器具の名〕は、ほら貝のやうなるが、小さくて、口の程の細長にして出でたる貝の蓋なり。武藏の國金澤といふ浦にありしを、所の者は「へなたり。」と申し侍るとぞいひし。


35

手のわろき人の、憚らず文かきちらすはよし。見苦しとて人に書かするはうるさし。


36

久しく訪れぬ頃、いかばかり恨むらむと、我が怠り思ひ知られて、言葉なき心地するに、女のかたより、「仕丁じちゃう〔下僕〕やある、一人。」なんどいひおこせたるこそ、ありがたくうれしけれ。「さる心ざましたる人ぞよき。」と、人の申し侍りし、さもあるべきことなり。


37

朝夕へだてなく馴れたる人の、ともある時に、我に心をおき〔隔てる樣をする、遠慮を見せる〕、ひきつくろへる樣に見ゆるこそ、今更かくやはなどいふ人もありぬべけれど、猶げにしく〔尤もらしく〈同感の心持〉よき人かなとぞ覺ゆる。疎き人〔親しくない人〕のうちとけたる事などいひたる、またよしと思ひつきぬべし。


38

名利に使はれて靜かなる暇なく、一生を苦しむるこそ愚かなれ。たから多ければ身を守るにまどし。害を買ひ煩ひを招くなかだちなり。身の後にはこがねをして北斗を支ふとも〔北斗は北斗星、白氏文集に「身後推金柱北斗、不如生前一樽酒。」〕、人の爲にぞ煩はるべき。愚かなる人の目を喜ばしむる樂しび、又あぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらむ人はうたて愚かなりとぞ見るべき。金は山にすて、玉は淵になぐべし〔文選に「捐金於山、沈珠於淵。」又莊子に「藏金於山、藏珠於淵。」〕。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。埋もれぬ名をながき世に殘さむこそあらまほしかるべけれ。位高くやんごとなきをしも、勝れたる人とやはいふべき。愚かに拙き人も、家に生れ時にあへば、高き位にのぼり、驕りを極むるもあり。いみじかりし賢人聖人、みづから卑しき位にをり、時に遇はずして止みぬる、また多し。偏に高き官位つかさくらゐを望むも、次におろかなり。智惠と心とこそ、世に勝れたる譽も殘さまほしきを、つら思へば、ほまれを愛するは人の聞きを喜ぶなり。譽むる人、毀る人、共に世に留まらず、傳へ聞かむ人また速かに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られむことを願はむ。譽はまたそしりのもとなり。身の後の名殘りて更に益なし。これを願ふも次に愚かなり。たゞし強ひて智をもとめ、賢をねがふ人の爲にいはば、智惠出でてはいつはりあり〔老子の「智惠出有大僞。」〕、才能は煩惱の増長せるなり。傳へて聞き、學びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可不可は一條なり〔善惡は唯一つの義、莊子齊物論〕。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく徳もなく、功もなく名もなし。誰か知り誰か傳へむ。これ徳をかくし愚を守るにあらず、もとより賢愚得失のさかひに居らざればなり。まよひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。萬事はみな非なり。いふに足らず、願ふに足らず。


39

ある人法然上人〔源空、美作の人、淨土專念宗を唱道した、建暦二年寂。〕に、「念佛の時睡りに犯されて行を怠り侍る事、如何いかゞして此の障りをやめ侍らむ。」と申しければ、「目の覺めたらむ程念佛し給へ。」と答へられたりける、いと尊かりけり。又、「往生は、一定〔きまつて居る事、確定〈*原文「碓定」〉と思へば一定、不定〔不信仰の人には不確定〈*原文「不碓定」〉の義〕と思へば不定なり。」といはれけり。これも尊し。また、「疑ひながらも念佛すれば往生す。」ともいはれけり。是も亦尊し。


40

因幡の國に、何の入道〔三位以上の人の佛道に入る事〕とかやいふものの女、かたちよしと聞きて、人數多いひわたりけれども、この女たゞ栗をのみ食ひて、更によねのたぐひを食はざりければ、「かゝる異樣のもの、人にまみ〔こゝでは結婚する義〕べきにあらず。」とて親ゆるさざりけり。


41

五月さつき五日賀茂の競馬〔賀茂神社の境内で行はるる競馬〕を見侍りしに、車の前に雜人ざふにん〔下賤の輩〕たち隔てて見えざりしかば、各おりて埒〔馬場の柵〕の際によりたれど、殊に人多く立ちこみて、分け入りぬべき様もなし。かゝる折に、向ひなるあふちの木に、法師の登りて、木の股についゐて〔跪きゐて〕物見るあり。取りつきながら、いたうねぶりて、堕ちぬべき時に目を覺す事度々なり。これを見る人嘲りあさみて〔輕蔑し〕、「世のしれものかな。かくあやふき枝の上にて安き心ありて眠るらむよ。」といふに、わが心にふと思ひし儘に、「我等が生死しゃうじの到來唯今にもやあらむ。これを忘れて物見て日を暮す、愚かなる事は猶まさりたるものを。」といひたれば、前なる人ども、「誠に然こそ候ひけれ。尤も愚かに候。」といひて、皆後を見返りて、「こゝへいらせ給へ。」とて、所をさりて呼び入れはべりにき。かほどの理、誰かは思ひよらざらむなれども、折からの思ひかけぬ心地して、胸にあたりけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて物に感ずる事なきにあらず〔文選に「人非木石豈無感。」〕


42

唐橋の中將〔源雅清。參議中將〕といふ人の子に、行雅僧都〔僧官の名稱、僧正、僧都、律師。〕とて、教相〔真言宗で理論的學の〈*問か〉を教相と云ふ。〕の人の師する僧ありけり。のあがる〔のぼせる〕病ありて、年のやうたくる〔年がだんふける〕ほどに、鼻の中ふたがりて、息も出でがたかりければ、さまにつくろひけれど、煩はしくなりて、目眉額なども腫れまどひて、うち覆ひければ、物も見えず、二の舞の面〔安摩舞の次の舞に赤く恐ろしき面をかぶる、その面を云ふ。〕の樣に見えけるが、たゞ恐ろしく鬼の顔になりて、目は頂の方につき、額の程鼻になりなどして、後は、坊の内の人にも見えず籠り居て、年久しくありて、猶煩はしくなりて死ににけり。かゝる病もある事にこそありけれ。


43

春の暮つかた、のどやかに艷なる空に、賤しからぬ家の、奧深く木立ものふりて、庭に散りしをれたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子を皆下して、さびしげなるに、東にむきて妻戸のよきほどにきたる、御簾のやぶれより見れば、かたち清げなるをのこの、年二十ばかりにて、うちとけたれど、心にくくのどやかなる樣して、机の上に書をくりひろげて見居たり。いかなる人なりけむ、たづね聞かまほし。


44

怪しの竹の編戸の内より、いと若き男の、月影に色合定かならねど、つやゝかなる狩衣〔通常服、もとは狩に用ゐた。〕に濃き指貫〔裾の所を紐で括るやうになつて居る袴の一種。〕、いとゆゑづきたるさま〔由緒ありげな樣子〕にて、さゝやかなる童一人を具して、遙かなる田の中の細道を、稻葉の露にそぼち〈*原文・頭注「そほぢ」〉つゝ〔ぬれながら〕分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かむかた知らまほしくて、見送りつゝ行けば、笛を吹きやみて、山の際に總門〔第一の門、正門〕のあるうちに入りぬ。榻〔車の轅を置く臺〕にたてたる車の見ゆるも、都よりは目とまる心地して、下人に問へば、「しかの宮のおはします頃にて、御佛事などさぶらふにや。」といふ。御堂の方に法師ども參りたり。夜寒の風にさそはれくる空薫物〔何處ともなく匂ふやうに焚いた香〕の匂ひも、身にしむ心地す。寢殿より御堂の廊にかよふ女房の、追風用意〔自分の通つたあとの風が匂ふ樣にした用意〕など、人目なき山里ともいはず心づかひしたり。心のまゝにしげれる秋の野らは、おきあまる露にうづもれて、蟲の音かごとがましく〔怨み言を云つて居るやうだ〕、遣水の音のどやかなり。都の空よりは、雲のゆききも早き心地して、月の晴れ曇ること定めがたし。


45

公世の二位の兄〔從二位侍從藤原公世の兄〕に、良覺僧正と聞えしは極めて腹惡しき〔怒りつぽい〕人なりけり。坊の傍に大きなる榎ありければ、人、「榎の僧正」とぞいひける。この名然るべからずとて、かの木を切られにけり。その根のありければ、「切杭きりくひの僧正」といひけり。愈腹立ちて、切杭を掘りすてたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池ほりいけの僧正」とぞいひける。


46

柳原〔今京都上京區柳原〕ほとりに、強盜がうだう〈*原文「がうたう」〉法印〔僧位の一、法印、法眼、法橋。〕と號する僧ありけり。度々強盜にあひたる故に、この名をつけにけるとぞ。


47

ある人清水へまゐりけるに、老いたる尼の行きつれたりけるが、道すがら、「くさめ嚔」といひもて行きたれば、「尼御前ごぜ何事をかくは宣ふぞ。」と問ひけれども、答へもせず、猶いひ止まざりけるを、度々とはれて、うち腹だちて、「やゝ、はなひたる〔くさめする〕時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養ひ君の、比叡の山に兒にておはしますが、たゞ今もや嚔ひ給はむと思へば、かく申すぞかし。」といひけり。あり難き志なりけむかし。


48

光親卿〔權中納言藤原光親、光雅の子〕、院〔後鳥羽上皇〕の最勝講奉行〔最勝講は前出、最勝講の事務をとり行ふ人〕してさぶらひけるを、御前へ召されて、供御〔天皇などの御膳部〕をいだされて食はせられけり。もの食ひ散らしたる衝重ついがさね〔白木づくりの三方〕を、御簾の中へさし入れてまかり出でにけり。女房、「あな汚な。誰に取れとてか。」など申しあはれければ、「有職のふるまひ〔かゝる時には公事が多忙なので、有職の心得ある者が臨機の處置をとつたのである。〕、やんごとなき事なり。」とかへす感ぜさせ給ひけるとぞ。


49

老來りて始めて道を行ぜむと待つ事勿れ。古きつか多くはこれ少年の人なり〔「莫下待老來方學上道、古墳盡是少年人」と云へる古句〕。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らむとする時にこそ、はじめて過ぎぬる方のあやまれる事は知らるれ。あやまりといふは他の事にあらず、速かにすべき事をゆるくし、ゆるくすべきことを急ぎて過ぎにしことのくやしきなり。その時悔ゆとも甲斐あらむや。人はたゞ無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、つかの間も忘るまじきなり。さらばなどか此の世の濁りもうすく、佛道を勤むる心もまめやかならざらむ。昔ありける聖は、人のきたりて自他の要事をいふとき、答へていはく、「今火急の事ありて、既に朝夕にせまれり。」とて、耳をふたぎて念佛して、終に往生を遂げたりと、禪林の十因〔東山永觀堂を禪林寺と云ふ、その永觀律師の作つた往生十因をいふ。〕にはべり。心戒といひける聖は、餘りにこの世のかりそめなることを思ひて、靜かについゐける事だになく、常はうづくまりてのみぞありける。


50

應長〔花園帝の御代、一年だけ。〕のころ、伊勢の國より、女の鬼になりたるを率て上りたりといふ事ありて、その頃二十日ばかり、日ごとに京白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺〔當時の藤原實兼の邸〕に參りたりし、今日は院〔上皇の御所、後宇多院〕へまゐるべし。たゞ今はそこ〔どこそこに〕。」など云ひあへり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言そらごとといふ人もなし。上下かみしもたゞ鬼の事のみいひやまず。その頃東山より、安居院あぐゐ〔山城愛宕郡の寺名、比叡山東塔竹林院の里坊であつた。〕の邊へまかり侍りしに、四條より上ざまの人、みな北をさして走る。「一條室町に鬼あり。」とのゝしりあへり、今出川〔一條東洞院邊を北から南へ流れた川〕の邊より見やれば、院の御棧敷〔一條大路に加茂祭御見物のためありし棧敷。〕のあたり、更に通り得べうもあらず立ちこみたり。はやく跡なき〔もとより無根〕事にはあらざんめりとて、人をやりて見するに、大方あへるものなし。暮るゝまでかく立ちさわぎて、はては鬭諍おこりて、あさましきことどもありけり。そのころおしなべて、二日三日人のわづらふこと侍りしをぞ、「かの鬼の虚言は、このしるしを示すなりけり。」といふ人も侍りし。


51

龜山殿〔龜山帝讓位の後山莊を嵯峨龜山に建てられた、その御殿。〕の御池に、大井川の水をまかせられむとて、大井の土民に仰せて、水車みづぐるまを作らせられけり。多くのあしを賜ひて、數日すじつに營み出してかけたりけるに、大方廻らざりければ、とかく直しけれども、終に廻らで、徒らに立てりけり。さて宇治の里人を召してこしらへさせられければ、やすらかに結ひて〔樂々と作り上げて〕參らせたりけるが、思ふやうにめぐりて、水を汲み入るゝ事めでたかりけり。萬にその道を知れるものは、やんごとなきものなり。


52

仁和寺〔山城葛野郡花園村にある寺、眞言宗、俗に御室。〕に、ある法師、年よるまで石清水〔男山八幡宮〕を拜まざりければ、心憂く覺えて、ある時思ひたちて、たゞ一人かちより〔徒歩で〕詣でけり。極樂寺、高良かうら〔共に男山の麓にある末寺末社〕などを拜みて、かばかりと心得て歸りにけり。さてかたへの人に逢ひて、「年ごろ思ひつる事果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎてたふとくこそおはしけれ。そも參りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけむ、ゆかしかり〔見たい知りたいと思ふ〕しかど、神へまゐるこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。」とぞいひける。すこしの事にも先達せんだち〔先輩、案内者〕はあらまほしきことなり。


53

これも仁和寺の法師、童の法師にならむとする名殘とて、各遊ぶことありけるに、醉ひて興に入るあまり、傍なる足鼎〔足の三本ある鼎〕をとりて頭にかづき〔かぶる〕たれば、つまるやうにするを、鼻をおしひらめて、顔をさし入れて舞ひ出でたるに、滿座興に入ること限りなし。しばし奏でて後、拔かむとするに、大かた拔かれず。酒宴ことさめて、いかゞはせむと惑ひけり。とかくすれば、首のまはり缺けて血垂り、たゞ腫れに腫れみちて、息もつまりければ、うち割らむとすれど、たやすく割れず、響きて堪へがたかりければ、叶はで、すべき樣なくて、三足さんぞくなる角の上に帷子をうちかけて、手をひき杖をつかせて、京なる醫師くすしがり率て行きけるに、道すがら人の怪しみ見る事限りなし。醫師のもとにさし入りて、むかひ居たりけむ有樣、さこそ異樣なりけめ。物をいふも、くゞもり聲〔含まれて不明瞭な言葉〕に響きて聞えず。かゝる事は書にも見えず、傳へたる教へもなしといへば、また仁和寺へかへりて、親しきもの、老いたる母など、枕上により居て泣き悲しめども、聞くらむとも覺えず。かゝる程に、或者のいふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらむ、たゞ力をたてて引き給へ。」とて、藁のしべ〔穂の心〈*ママ〉をまはりにさし入れて、金を隔てて、首もちぎるばかり引きたるに、耳鼻かけうげ〔缺け穿たれ〕ながら、拔けにけり。からき命まうけて、久しく病み居たりけり。


54

御室〔仁和寺の事〕にいみじき兒のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばむとたくむ法師どもありて、能あるあそび法師〔藝才があり人に興を添へ得る法師〕どもなど語らひ〔仲間にひき入れ〕て、風流の破籠わりごやうのもの〔中に隔てがあつて割つてある辨當の類〕、ねんごろに營み出でて、箱風情のものに認め入れて、ならびの岡〔御室にある丘陵〕の便りよき所〔都合のよい所〕にうづみおきて、紅葉ちらしかけなど、思ひよらぬさまにして、御所へまゐりて、兒をそゝのかし出でにけり。うれしく思ひて、こゝかしこ遊びめぐりて、ありつる〔例の、前に埋めた所を意味する。〕苔の筵に竝みゐて、「いたうこそ困じにたれ。あはれ紅葉をかむ人〔白氏文集の「林間暖酒燒紅葉」の句意を採り、酒を暖めん人〕もがな。しるしあらむ僧たち、いのり試みられよ。」などいひしろひて、埋みつる木のもとに向きて、數珠ずゝおしすり、印〔眞言宗の秘密法、指にて種々の形をして呪法とする。〕ことしく結びいでなどして、いらなく〔勿體らしく、大仰に〕ふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つや〔とんと〕物も見えず。所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども無かりけり。うづみけるを人の見おきて、御所へ參りたる間に盜めるなりけり。法師ども言の葉なくて、聞きにくくいさかひ腹だちて歸りにけり。あまりに興あらむとすることは、必ずあいなき〔面白味がない〕ものなり。


55

家のつくりやうは夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き頃わろき住居すまひは堪へがたきことなり。深き水は涼しげなし、淺くて流れたる、遙かに涼し。細かなるものを見るに、遣戸〔横に引いてあける戸〕は蔀の間〔格子のはまつた部屋〕よりもあかし。天井の高きは、冬寒く、燈くらし。造作〔家の建具類〕は用なき所をつくりたる、見るもおもしろく、よろづの用にも立ちてよし。」とぞ、人のさだめあひ侍りし。


56

久しく隔たりて逢ひたる人の、わが方にありつる事、數々に殘りなく語り續くるこそあいなけれ。へだてなく馴れぬる人も、ほどへて見るは恥しからぬかは。次ざまの人〔身分のよくない人〕は、あからさまに〔一寸、かりそめ〈*に〉立ち出でても、興ありつることとて、息もつぎあへず語り興ずるぞかし。よき人〔品格のよき人〕の物がたりするは、人あまたあれど、一人に向きていふを、自ら人も聽くにこそあれ。よからぬ人は、誰ともなく數多の中にうち出でて、見る事のやうに語りなせば、皆同じく笑ひのゝしる〔大聲あげて騒ぐ〕、いとらうがはし〔亂りがはし〕。をかしき事をいひてもいたく興ぜぬと、興なき事をいひてもよく笑ふにぞ、品のほどはかられぬべき。人の見ざま〔樣子〕のよしあし、才ある人はその事など定めあへるに、おのが身にひきかけていひ出でたる、いとわびし〔厭だ〕


57

人のかたり出でたる歌物語の、歌のわろきこそ本意なけれ。すこしその道知らむ人は、いみじと思ひては語らじ。すべていとも知らぬ道の物がたりしたる、かたはらいたく〔傍で見て居ても氣の毒で〕聞きにくし。


58

「道心あらば住む所にしもよらじ、家にあり人に交はるとも、後世を願はむに難かるべきかは。」といふは、更に後世知らぬ人なり。げにはこの世をはかなみ、必ず生死を出でむと思はむに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を顧る營みの勇ましからむ〔氣が乘らうや〕。心は縁にひかれて移るものなれば、靜かならでは、道は行じがたし。そのうつはもの昔の人に及ばず、山林に入りても、飢をたすけ、嵐を防ぐよすがなくては、あられぬわざなれば、おのづから世を貪る〔人世の欲を思ふまゝに欲求する。〕〈*頭注脱字あり。補う。〉に似たる事も、便りに觸れば、などか無からむ、さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし。」なんどいはむは無下の事〔此上ない惡いこと〕なり。さすがに一たび道に入りて、世をいとなむ人、たとひ望みありとも、勢ひある人の貪欲多きに似るべからず。紙のふすま麻の衣、一鉢のまうけ〔僧は鐵鉢に食料を入れるから云ふ、一杯の食物の用意〕、藜のあつもの〔藜の吸物、粗食の意。韓愈の詩に「藜羮尚如此肉食安可營。」〕、いくばくか人のつひえをなさむ。もとむる所はやすく、その心早く足りぬべし。形に恥づる所もあれば、さはいへど、惡にはうとく、善には近づくことのみぞ多き。人と生れたらむしるしには、いかにもして世を遁れむ事こそあらまほしけれ。偏に貪ることをつとめて、菩提〔正しい佛教の悟り、飜譯名義集に「道之極者稱曰菩提。」〕に赴かざらむは、よろづの畜類にかはる所あるまじくや。


59

大事〔こゝでは佛道の修行〕を思ひたたむ人は、さり難き心にかゝらむ事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。しばしこの事果てて、おなじくば彼の事沙汰しおきて、しかの事人の嘲りやあらむ、行末難なく認め設けて〔よくとり調べ始末して〕、年ごろもあれば〈*ママ〉こそあれ〔年來かうして居るのならば兎に角、僅な時間ですむのであるからの意。〕、その事待たむ程あらじ、物さわがしからぬやうになど思はむには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の盡くる限りもなく、思ひたつ日もあるべからず。おほやう人を見るに、少し心ある際は、皆このあらましにてぞ一期〔一生涯〕は過ぐめる。近き火などに逃ぐる人は、「しばし。」とやいふ。身を助けむとすれば、恥をも顧みず、たからをも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の來ることは、水火の攻むるよりも速かに、遁れがたきものを、その時老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらむや。


60

眞乘院〔仁和寺内の一坊、門主の隱居所〕に、盛親僧都とてやんごとなき智者ありけり。芋頭〔里芋の親〕といふものを好みて多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝もとにおきつゝ、食ひながら書をも讀みけり。煩ふ事あるには、七日なぬか二七日ふたなぬかなど療治とて籠り居て、思ふやうによき芋頭をえらびて、ことに多く食ひて、萬の病をいやしけり。人に食はすることなし、たゞ一人のみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠死にざまに錢二百貫〔一貫は一千文〕と坊ひとつを讓りたりけるを、坊を百貫に賣りて、かれこれ三萬疋〔一疋は十文、一貫は百疋と云ふ、三百萬疋〈*ママ〉は三百貫。〕を芋頭のあしと定めて、京なる人に預けおきて、十貫づゝ取りよせて、芋頭を乏しからずめしけるほどに、また他用ことように用ふる事なくて、そのあし皆になりにけり。「三百貫のものを貧しき身にまうけて、かく計らひける、誠にあり難き道心者だうしんじゃなり。」とぞ人申しける。この僧都、ある法師を見て、しろうるり〔語調が何となく滑稽に聞え坊主らしく聞える出鱈目の綽號、語意を考證する必要はない。〕といふ名をつけたりけり。「とは何ものぞ。」と人の問ひければ、「さるものを我も知らず。もしあらましかば、この僧の顔に似てむ。」とぞいひける。この僧都、みめよく、力つよく、大食たいしょくにて、能書、學匠、辯説人にすぐれて、宗の法燈〔一宗の光明たる中心人物〕なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を輕く思ひたる曲者〔こゝでは變物、ひねくれ者〕にて、よろづ自由にして、大かた人に隨ふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前すゑわたすを待たず、我が前にすゑぬれば、やがて獨りうち食ひて、歸りたければ、ひとりついたちて行きけり。斎・非時〔僧は一日一食正午に食する、夫以外に晩食などするをかく云ふ。〕も人にひとしく定めて食はず、我が食ひたき時、夜中にも曉にも食ひて、ねぶたければ晝もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人のいふこと聽き入れず。目覺めぬれば、幾夜もいねず。心をすまして嘯き〔こゝでは飄然として居る形容である、空うそぶく有樣。〕歩きなど、世の常ならぬさまなれども、人にいとはれず、よろづ許されけり。徳のいたれりけるにや。


61

御産の時、甑〔蒸籠、飯をむす器具〕落す事は、定まれることにはあらず。御胞衣えな〔胎兒を包める膜、子が敷くため子敷と甑と同音で禁厭に用ゐたのだ。次の大原も大腹と通じ安産を望む心持だ〕滯る時の呪なり。滯らせ給はねばこの事なし。下ざまより事おこりて、させる本説〔正しき確かな據り所〕なし。大原の里の甑をめすなり。ふるき寳藏の繪に、賤しき人の子産みたる所に、甑おとしたるを書きたり。


62

延政門院〔悦子内親王、後嵯峨帝の女〕いときなくおはしましける時、院へ參る人に、御ことづてとて申させ給ひける御歌、

ふたつ文字〔こ字〕牛の角文字〔い字〕直な文字〔し字〕ゆがみもじ〔く字〕とぞ君はおぼゆる

こひしく思ひまゐらせ給ふとなり。


63

後七日〔朝廷で行はるゝ正月八日から七日間の佛會〕の阿闍梨、武者を集むる事、いつとかや盜人に逢ひにけるより、宿直人とてかくことしくなりにけり。一とせの相は、この修中に有樣にこそ見ゆなれば、兵を用ひむこと穩かならぬ事なり。


64

「車の五緒いつゝを〔車の簾の縁と編目の絲を被ふ革との間に同じ革で風帶二筋を垂れたもの〕は必ず人によらず、ほどにつけて極むる官位に至りぬれば乘るものなり。」とぞ、ある人おほせられし。


65

「このごろのかぶりは、昔よりは遙かに高くなりたるなり。」とぞ、ある人おほせられし。古代の冠桶〔冠の入物〕を持ちたる人は、はたをつぎて今は用ふるなり。


66

岡本關白殿〔藤原家平、家基の子〕、盛りなる紅梅の枝に、鳥一雙〔雉一番〕をそへて、この枝につけて參らすべき由、御鷹飼下毛野武勝たけかつに仰せられたりけるに、「花に鳥つくる術知り候はず、一枝に二つつくることも存じ候はず。」と申しければ、膳部にたづねられ、人々に問はせ給ひて、また武勝に、「さらば汝が思はむやうにつけて參らせよ。」と仰せられたりければ、花もなき梅の枝に、一つをつけてまゐらせけり。武勝が申し侍りしは、「柴の枝、梅の枝、つぼみたると散りたるにつく。五葉〔五葉の松〕などにも著く。枝の長さ七尺、あるひは六尺、かへし刀五分に切る〔枝を斜に切りその先を又反對から五分だけ切る〕、枝のなかばに鳥をつく。著くる枝踏まする枝あり。しゞら藤〔つゞら藤〕の割らぬにて二所つくべし。藤のさきは、火うちのたけに比べて切りて、牛の角のやうに撓むべし。初雪のあした、枝を肩にかけて、中門より振舞ひてまゐる。大砌おほみぎりの石〔軒下の石〕を傳ひて、雪に跡をつけず、雨覆ひの毛〔雉の尾の附根の所にある毛〕を少しかなぐり〔むしる〕散らして、二棟の御所の高欄によせかく。祿をいださるれば、肩にかけて拜して退く。初雪といへども、沓のはなの隱れぬほどの雪にはまゐらず。雨覆ひの毛を散らすことは、鷹は弱腰を取ることなれば、御鷹の取りたるよしなるべし。」と申しき。花に鳥つけずとは、いかなる故にかありけむ。長月ばかりに、梅のつくり枝に雉をつけて、「君がためにと折る花は時しもわかぬ〔伊勢物語に「我が頼む君がためにと折る花は時しも分かぬものにぞありける」〕。」といへること、伊勢物語に見えたり。作り花は苦しからぬにや。


67

賀茂の岩本、橋本〔共に上賀茂神の側にある社〕は、業平、實方〔藤原實方、家時の子、左近中將〕なり。人の常にいひ紛へ〔混同して云ふこと〕侍れば、一とせ參りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを、呼びとゞめて尋ね侍りしに、「實方は御手洗〔神社前の川或は泉、参詣人の手を洗ふ所〕に影のうつりける所と侍れば、橋本やなほ水の近ければと覺えはべる。吉水の和尚くゎしゃう〔慈鎭和尚の事、東山吉水に居たからかく云ふ。關白忠通の子〕

月をめで花をながめし古のやさしき人はこゝにあり原

と詠みたまひけるは、岩本の社とこそ承りおき侍れど、おのれらよりは、なか御存じなどもこそさぶらはめ。」と、いとうやしくいひたりしこそ、いみじく覺えしか。

今出川の院の近衞〔今出川院は龜山帝の中宮嬉子、夫に仕へた近衞と云ふ女房〕とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前に、水にて書きて手向けられけり。誠にやんごとなき譽ありて、人の口にある歌おほし。作文詩序などいみじく書く人なり。


68

筑紫に、なにがしの押領使〔數郡の領守で該地方の惡人鎭定の役人〕などいふやうなる者のありけるが、土大根つちおほね〔大根〕を萬にいみじき藥とて、朝ごとに二つづゝ燒きて食ひける事、年久しくなりぬ。ある時、たちのうちに人もなかりけるひまをはかりて、敵襲ひ來りて圍み攻めけるに、館の内につはもの二人出できて、命を惜しまず戰ひて、皆追ひかへしてけり。いと不思議におぼえて、「日頃こゝにものし給ふとも、見ぬ人々のかく戰ひしたまふは、いかなる人ぞ。」と問ひければ、「年來としごろたのみて、あさなめしつる土大根らに候。」といひて失せにけり。深く信を致しぬれば、かゝる徳もありけるにこそ。


69

書寫の上人〔播磨書寫山に居た性空、橘善根の子〕は、法華讀誦の功積りて、六根淨〔六根、眼、耳、鼻、舌、身、意の清淨なること〕にかなへる人なりけり。旅の假屋に立ち入られけるに、豆の殻〔此の豆殻の話は支那七歩の詩から出て居る。魏文帝弟曹植を召し七歩の中に詩を作らせ、出來ねば殺すと云つた。その時曹植の詩「煮豆持作羹、漉豉以爲汁、黄在釜下燃、豆在釜中泣、本自同根生、相煎何太急。」〕を焚きて豆を煑ける音の、つぶと鳴るを聞きたまひければ、「疎からぬ己等しも、うらめしく我をば煑て、からき目を見するものかな。」といひけり。焚かるゝ豆がらのはらと鳴る音は、「わが心よりする事かは。燒かるゝはいかばかり堪へがたけれども、力なきことなり。かくな恨み給ひそ。」とぞ聞えける。


70

玄應の清暑堂〔宮中豐樂院の後の殿〕の御遊に、玄上は失せにしころ、菊亭の大臣〔藤原兼季、西園寺公相の孫〕、牧馬〔(*玄上と)共に琵琶の名器〕を彈じ給ひけるに、座につきてまづぢゅうをさぐられたりければ、ひとつ落ちにけり。御ふところに續飯そくひをもち給ひたるにて付けられにければ、神供じんぐの參るほどに、よく干て事故ことゆゑなかりけり。いかなる意趣〔遺恨〕かありけむ、物見ける衣被きぬかづき〈*原文ルビ「きぬかつぎ」〉の、よりて放ちて、もとのやうに置きたりけるとぞ〔顔かくせる婦人の所爲たる事を説明してある〕


71

名を聞くより、やがて面影はおしはからるゝ心地するを、見る時は、又かねて思ひつるまゝの顔したる人こそなけれ。昔物語を聞きても、この頃の人の家のそこ程にてぞありけむと覺え、人も今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかく覺ゆるにや。またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひいでねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。


72

賎しげなるもの。居たるあたりに調度の多き、硯に筆の多き、持佛堂〔佛像位牌など納めて置く所〕に佛の多き、前栽に石草木のおほき、家のうちに子孫こうまごのおほき、人にあひて詞のおほき、願文に作善〔自分のした善行、例へば佛像供養、經典書寫の事など書き列ねること〕おほく書き載せたる。おほくて見苦しからぬは、文車〔下に車をつけた持ち運びの容易くできる書棚〕の文、塵塚〔ごみため〕のちり。


73

世にかたり傳ふる事、誠は愛なきにや、多くは皆虚言そらごとなり。あるにも過ぎて、人はものをいひなすに、まして年月すぎ、境も隔たりぬれば、いひたき侭に語りなして、筆にも書き留めぬれば、やがて定りぬ。道々のものの上手のいみじき事など、かたくななる人〔頭の惡い理解のない人〕の、その道知らぬは、そゞろに神の如くにいへども、道知れる人は更に信も起さず。音にきくと見る時とは、何事も變るものなり。かつ顯はるゝ〔一方から顯はれる〕も顧みず、口に任せていひちらすは、やがて浮きたることと聞ゆ。又我も實しからずは思ひながら、人のいひし侭に、鼻の程をごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにしく、所々うちおぼめき〔わざと所々をあいまいにして〕、能く知らぬよしして、さりながら、つま合せて語る虚言は、恐ろしき事なり。わが爲面目めんぼくあるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず、皆人の興ずる虚言は、一人さもなかりし物といはむも詮なくて、聞き居たる程に、證人にさへなされて、いとゞ定りぬべし。とにもかくにも虚言多き世なり。唯常にある、珍しからぬ事の侭に心えたらむ、よろづ違ふべからず。下ざまの人のものがたりは、耳驚くことのみあり。よき人はあやしき事を語らず。かくはいへど、佛神の奇特きどく權者ごんじゃ〔神佛が衆生濟度のため此世にかりに出現せる者の意〕の傳記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは世俗の虚言を懇に信じたるも、をこがましく、「よもあらじ。」などいふも詮なければ、大方は眞しくあひしらひて、偏に信ぜず、また疑ひあざけるべからず。


74

蟻の如くに集りて、東西にいそぎ南北に走る。たかきあり、賎しきあり、老いたるあり、若きあり、行く所あり、歸る家あり、夕にいねて朝に起く。營む所何事ぞや。生を貪り利を求めてやむ時なし。身を養ひて何事をか待つ、するところ〔必ず來るもの〕たゞおいと死とにあり。その來る事速かにして、念々の間〔一刹那一刹那とすぎゆく間〕に留まらず。これを待つ間、何の樂しみかあらむ。惑へるものはこれを恐れず。名利に溺れて、先途〔到著點、死して行く先〕の近きことを顧みねばなり。愚かなる人はまたこれをかなしぶ。常住〔永久不變〕ならむことを思ひて、變化へんげの理を知らねばなり。


75

つれわぶる〔徒然をこまる〕人は、いかなる心ならむ。紛るゝ方なく、唯一人あるのみこそよけれ。世に從へば、心ほかの塵にうばはれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よそのききに隨ひて、さながら心にあらず。人に戲れ、物に爭ひ、一度はうらみ、一度はよろこぶ。そのこと定れることなし。分別みだりに起りて、得失やむ時なし。まどひの上に醉へり、ゑひなかに夢をなす。走りていそがはしく、ほれて〔ぼける事〕忘れたること、人皆かくのごとし。いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身をしづかにし、事に與らずして心を安くせむこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活しゃうくゎつ人事にんじ、技能、學問等の諸縁をやめよ。」とこそ、摩訶止觀〔天台大師の著書、十卷、妙法蓮華經觀心の義を述べたもの、三台三大部の一〕にもはべれ。


76

世のおぼえ花やかなるあたりに、嘆きも喜びもありて、人多く往きとぶらふうちに、聖法師の交りて、いひ入れ佇みたるこそ、さらずともと見ゆれ。さるべきゆゑありとも、法師は人にうとくてありなむ。


77

世の中に、そのころ人のもてあつかひぐさ〔もて囃す材料〕に言ひあへること、いろふ〔取扱ふ、干渉する〕べきにはあらぬ人の、能く案内あない知りて、人にもかたり聞かせ、問ひ聞きたるこそうけられね〔呑み込めない〕。殊にかたほとりなる聖法師などぞ、世の人の上はわが如く尋ね聞き、如何でかばかりは知りけむと覺ゆるまでぞ言ひ散らすめる。


78

今樣の事どもの珍しきを、いひ廣めもてなすこそ、又うけられね。世に事ふりたるまで知らぬ人は心にくし。今更の人〔今あらたに交際する人〕などのある時、こゝもとに〔こちらで〕言ひつけたる〔云ひ馴れた〕言種ことぐさ、物の名など心得たるどち、片端言ひかはし、目見合はせ笑ひなどして、心しらぬ人に心得ず思はすること、世なれず〔社交馴れない〈かく樂屋落を云つて喜ぶからだ〉よからぬ人の必ずあることなり。


79

何事も入りたたぬさましたるぞよき。よき人は知りたる事とて、さのみ知りがほにやはいふ。片田舎よりさしいでたる人こそ、萬の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば世に恥しき方もあれど、自らもいみじと思へる氣色、かたくななり。よくわきまへたる道には、必ず口おもく、問はぬかぎりは、言はぬこそいみじけれ。


80

人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。法師は兵の道をたて、えびす〔東國の田舍武士をさす〕は弓ひく術知らず、佛法知りたる氣色きそく〔顔色をする事〕、連歌し〔和歌三十一字を上句下句と二人して詠み一首とする文學、鎖連歌とて長く續くるのもある〕、管絃を嗜みあへり。されどおろかなる己が道より、なほ人に思ひあなづられぬべし。法師のみにもあらず、上達部かんだちめ〔三位以上の貴族〕、殿上人〔昇殿を許されて居る貴族、通常五位以上、或は六位の藏人〕、上ざままで、おしなべて武を好む人多かり。百たび戰ひて百たび勝つとも、いまだ武勇の名を定めがたし。その故は運に乘じてあたをくだく時、勇者にあらずといふ人なし。兵盡き矢きはまりて、遂に敵に降らず、死を安くして後、はじめて名を顯はすべき道なり。生けらむほどは武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獸に近きふるまひ、その家〔武術專門の家〕にあらずば、好みて益なきことなり。


81

屏風障子〔今の唐紙〕などの繪も文字も、かたくななる筆樣ふでやう〔下品な書き樣〕して書きたるが、見にくきよりも、宿の主人あるじの拙く覺ゆるなり。大かた持てる調度にても、心おとりせらるゝ事はありぬべし。さのみよき物を持つべしとにもあらず、損ぜざらむためとて、品なく見にくきさまに爲なし、珍しからむとて、用なき事どもしそへ、煩はしく好みなせるをいふなり。古めかしきやうにて、いたくことしからず、費もなくて、物がら〔物の質〕のよきがよきなり。


82

うすものの表紙は、疾く損ずるが侘しき。」と人のいひしに、頓阿〔歌人、兼好と同時代、四天王の一〕が、「羅は上下はづれ〔本、卷物などの上下の端〈*ママ〉、螺鈿〔漆器に貝を飾りに入れたもの〕の軸は、貝落ちて後こそいみじけれ。」と申し侍りしこそ、心勝りて覺えしか。一部とある草紙などの、同じ樣にもあらぬを、醜しといへど、弘融僧都〔兼好と同時代の歌人〕が、「物を必ず一具に整へむとするは拙き者のする事なり。不具なるこそよけれ。」といひしも、いみじく覺えしなり。總て何も皆事整ほりたるはあしき事なり。爲殘したるを、さてうちおきたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。「内裏造らるゝにも、必ず造りはてぬ所を殘す事なり。」と、ある人申し侍りしなり。先賢の作れる内外ないげの文にも、章段の闕けたる事のみこそ侍れ。


83

竹林院入道左大臣殿〔西園寺公衡、實兼の子〕、太政大臣にあがり給はむに、何の滯りかおはせむなれども、「珍しげなし。一のかみ〔左大臣〕にてやみなむ。」とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣殿〔藤原實泰〕、この事を甘心し給ひて、相國しゃうごく〔太政大臣〕の望みおはせざりけり。亢龍かうりょうの悔い〔易の乾卦に「亢龍有悔」、亢龍は昇天した龍〕ありとかやいふ事侍るなり。滿ちては缺け、物盛りにしては衰ふ。萬の事さきの詰りたるは、破れに近き道なり。


84

法顯ほふげん三藏〔支那晉代の高僧、三藏は經律論の三つに精通した僧の尊稱〕の天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢〔單に支那の意〕の食を願ひ給ひける事を聞きて、「さばかりの人の、無下にこそ、心弱き氣色を、人の國〔外國〕にて見え給ひけれ。」と人のいひしに、弘融僧都、「優に情ありける三藏かな。」といひたりしこそ、法師の樣にもあらず、心にくく覺えしか。


85

人の心すなほならねば、僞りなきにしもあらず、されど自ら正直の人などかなからむ。己すなほならねど、人の賢を見て羨むは世の常なり。いたりて愚かなる人は、たま賢なる人を見てこれを憎む。「大きなる利を得むが爲に少しきの利を受けず、僞り飾りて名を立てむとす。」と謗る。おのれが心に違へるによりて、この嘲りをなすにて知りぬ。この人は下愚の性うつるべからず〔論語に「上智與下愚移。」教育しても善に移す見込のない事〕、僞りて小利をも辭すべからず。假にも愚をまなぶべからず。狂人のまねとて大路を走らば、則ち狂人なり。惡人のまねとて人を殺さば、惡人なり。〔千里を走る名馬、楊子法言に「晞驥之馬亦驥之乘也。」〕を學ぶは驥のたぐひ、舜を學ぶは舜の徒なり。僞りても賢をまなばむを賢といふべし。


86

惟繼これつぐ中納言〔葛原親王の裔、高兼の子〕は、風月の才〔自然を詠ずる才、詠歌の才〕に富める人なり。一生精進〔美食せずひたすら佛道に邁進すること〕にて、讀經うちして、寺法師〔園城寺の僧の事〕の圓伊僧正〔藤伊平〈*ママ〉の孫尊道の子、歌人〕と同宿して侍りけるに、文保〔花園帝の御代、文保元年四月二十五日燒失〕に三井寺やかれし時、坊主にあひて、「御坊をば寺法師とこそ申しつれど、寺はなければ今よりは法師とこそ申さめ。」といはれけり。いみじき秀句しうく〔言語上の洒落の意〕なりけり。


87

下部に酒のまする事は心すべき事なり。宇治に住みけるをのこ、京に具覺坊とてなまめきたる遁世の僧を、小舅なりければ、常に申し睦びけり。ある時迎へに馬を遣したりければ、「遥かなる程なり、口つきのをのこに、まづ一度せさせよ。」と酒を出したれば、さしうけさしうけよゝと飮みぬ。太刀うち佩きてかひしげなれば、頼もしく覺えて、召し具して行くほどに、木幡〔山城宇治郡〕の程にて、奈良法師の、兵士ひゃうしあまた具して逢ひたるに、この男立ちむかひて、「日暮れにたる山中に、怪しきぞ。とまり候へ。」といひて、太刀をひき拔きければ、人も皆太刀ぬき矢矧げなどしけるを、具覺坊手をすりて、「現心うつしごゝろ〔正氣〕なく醉ひたるものに候ふ。枉げて許し給はらむ。」といひければ、おの嘲りて過ぎぬ。この男具覺坊にあひて、「御坊は口惜しき事し給ひつるものかな。おのれ醉ひたること侍らず。高名つかまつらむとするを、拔ける太刀空しくなし給ひつること。」と怒りて、ひたぎりに斬り落しつ。さて、「山賊やまだちあり。」とのゝしりければ、里人おこりて出であへば、「われこそ山賊よ。」といひて走りかゝりつゝ斬り廻りけるを、あまたして手負はせ、うち伏せてしばりけり。馬は血つきて宇治大路の家に走り入りたり。あさましくて、男ども數多走らかしたれば、具覺坊は梔原くちなしばら〔普通名詞ではなささうであるが現今では不明〕にによび伏し〔うめき伏し〕たるを、求め出でて、きもて來つ。からき命生きたれど、腰きり損ぜられて、かたはになりにけり。


88

あるもの小野道風〔能書家、醍醐、朱雀、村上三帝に歴仕した〕の書ける和漢朗詠集〔藤原公任の編著、和漢詩人の妙句及び名歌を輯め、朗詠の材料としたもの〕とて持ちたりけるを、ある人、「御相傳浮けることには侍らじなれども、四條大納言〔公任の事〕撰ばれたるものを、道風書かむこと、時代や違ひはべらむ、覺束なくこそ。」といひければ、「さ候へばこそ、世に有り難きものには侍りけれ。」とていよ秘藏しけり。


89

「奧山に、猫また〔老猫の尾がふたまたに分れたもの、怪異をなし獰猛になると一般に信ぜられた〕と云ふものありて、人を食ふなる。」と人のいひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の經あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを。」といふものありけるを、なに阿彌陀佛とかや連歌しける法師の、行願寺〔革堂〈開山行圓〉だと云ふ説〕の邊にありけるが聞きて、「一人ありかむ身は心すべきことにこそ。」と思ひける頃しも、ある所にて、夜ふくるまで連歌して、たゞ一人かへりけるに、小川をがはの端にて、音に聞きし猫またあやまたず〔案の通り〕足もとへふと寄り來て、やがて掻きつくまゝに、頚のほどを食はむとす。肝心もうせて、防がむとするに力もなく、足も立たず、小川へころび入りて、「助けよや、猫また、よやよや。」と叫べば、家々より松〔松明〕どもともして、走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。こはいかにとて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物〔連歌の懸賞でとつた賞品〕とりて、扇小箱など懷に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして〔めづらしく、やつと〕助かりたるさまにて、這ふ家に入りにけり。飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛びつきたりけるとぞ。


90

大納言法印〔氏名不祥〕のめしつかひし乙鶴丸、やすら殿といふ者を知りて〔男色の關係で親しくなる意〕、常にゆき通ひしに、ある時いでて歸りきたるを、法印、「いづこへ行きつるぞ。」と問ひしかば、「やすら殿のがりまかりて候。」といふ。「そのやすら殿は、をのこか法師か。」とまた問はれて、袖かき合せて、「いかゞ候らむ。頭をば見候はず。」と答へ申しき。などか頭ばかりの見えざりけむ。


91

赤舌日しゃくぜつにち〔赤舌は羅刹神の司る日とて、忌み憚つた、例へば正月七月は、三、九、十五、二十一、二十七日を忌む如き類〕といふ事、陰陽道おんみゃうだう〔天文暦數卜筮等を研究する道、もとは陰陽五行の理を研究することから出來た名稱〕には沙汰〔噂、評判〕なき事なり。昔の人これを忌まず。この頃何者のいひ出でて忌み始めけるにか、この日ある事末通らず〔成就しない〕といひて、その日いひたりしこと、爲たりし事叶はず、得たりし物は失ひ、企てたりし事成らずといふ、愚かなり。吉日きちにちを選びてなしたるわざの、末通らぬを數へて見むも、亦等しかるべし。その故は、無常變易へんやくの境、ありと見るものも存せず、始めあることも終りなし。志は遂げず、望みは絶えず。人の心不定ふぢゃうなり、ものみな幻化げんげなり。何事かしばらくも住する。このを知らざるなり。吉日に惡をなすに必ず凶なり、惡日あくにちに善を行ふにかならずきつなりといへり。吉凶は人によりて日によらず。


92

ある人弓射る事を習ふに、もろ矢〔二つの矢を一手に持つこと〕をたばさみて的に向ふ。師の曰く、「初心の人二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり、毎度たゞ得失なく、この一に定むべしと思へ。」といふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろそかにせむと思はむや。懈怠けだい〔心が怠り、氣のゆるむ事〕の心、みづから知らずといへども、師これを知る。このいましめ萬事にわたるべし。道を學する人、夕には朝あらむことを思ひ、朝には夕あらむことを思ひて、重ねて懇に修せむことをせり。況んや一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らむや。何ぞたゞ今の一念に〔現在の一刹那に〕おいて、直ちにすることの甚だ難き。


93

「牛を賣る者あり、買ふ人、明日その價をやりて牛を取らむといふ。夜のに牛死ぬ。買はむとする人に利あり、賣らむとする人に損あり。」と語る人あり。これを聞きてかたへなるものの曰く、「牛の主まことに損ありといへども、又大なる利あり。その故は、しゃうあるもの死の近き事を知らざること、牛既にしかなり。人またおなじ。はからざるに牛は死し、計らざるに主は存せり。一日の命萬金まんきんよりもおもし。牛の價鵝毛がまうよりも輕し。萬金を得て一錢を失はむ人、損ありといふべからず。」といふに、皆人嘲りて、「その理は牛の主に限るべからず。」といふ。また曰く、「されば、人死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び日々に樂しまざらむや。愚かなる人この樂しみを忘れて、いたづがはしく〈*原文「いたつがはしく」〉〔面倒な思ひをして〕外の樂しみをもとめ、このたから〔人の生命を云ふ〕を忘れて、あやふく他の財〔金錢財寶など〕を貪るには、志滿つる事なし。いける間生を樂しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人みな生を樂しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた生死しゃうじの相〔生死の姿、現象〕にあづからずといはば、實の理〔眞の悟脱〕を得たりといふべし。」といふに、人いよ嘲る。


94

常磐井相國〔藤原實氏、公經の子、從一位太政大臣〕出仕したまひけるに、敕書を持ちたる北面〔北面の武士、上皇の院を護衞する役〕あひ奉りて、馬よりおりたりけるを、相國後に、「北面なにがしは、敕書を持ちながら下馬し侍りしものなり、かほどのもの、いかでか君に仕うまつり候ふべき。」と申されければ、北面を放たれ〔職を免ぜられる〕にけり。敕書を馬の上ながら捧げて見せ奉るべし、おるべからずとぞ。


95

「箱のくりかた〔刳つた形、蓋にある〕に緒を著くる事、いづ方につけ侍るべきぞ。」と、ある有職の人に尋ね申し侍りしかば、「軸〔箱の左方〕につけ表紙〔箱の右方〕につくること、兩説なれば、何れも難なし。文の箱は多くは右につく。手箱には軸につくるも常のことなり。」と仰せられき。


96

めなもみ〔稀薟草の俗稱、ナモミの一種、葉は三稜、秋小黄花を開く〕といふ草あり。くちばみにさされたる人、かの草を揉みてつけぬれば、すなはち癒ゆとなむ。見知りておくべし。


97

其の物につきて、その物を費し損ふもの、數を知らずあり。身に虱あり。家に鼠あり。國に賊あり。小人にざいあり。君子に仁義あり〔君子も仁義に拘泥し形式に墮する弊があるからだ〕。僧に法あり。


98

たふとき聖のいひおきけることを書きつけて、一言芳談とかや名づけたる草紙を見侍りしに、心にひて覺えし事ども。

一爲やせまし、爲ずやあらましと思ふことは、おほやう爲ぬはよきなり。

一後世を思はむものは、糂汰じんだ〔糠味噌〕瓶一つも持つまじきことなり。持經ぢきゃう〔肌身はなさず所有する經卷〕本尊ほぞんにいたるまで、よき物を持つ、よしなきことなり。

一遁世者は、なきに事かけぬやうをはからひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。

一上臈〔臈は僧の修行の多少を區別する語、出家者剃髪授戒し一夏九旬を勤行せしものを臈と云ふ〕は下臈になり、智者は愚者になり、徳人は貧になり、能ある人は無能になるべきなり。

一佛道を願ふといふは、別のこと無し、暇ある身になりて、世のこと心にかけぬを、第一の道とす。

この外も、ありし事ども、覺えず。


99

堀河の相國〔太政大臣久我基具、岩倉具實の子〕は、美男のたのしき人〔愉快な快活な人〕にて、その事となく〔それと一定せず、何事によらず〕過差〔豪奢〕を好み給ひけり。御子基俊卿を大理だいり〔檢非違使別當の唐名〕になして、廳務を行はれけるに、廳屋の唐櫃〔脚のある櫃〕見苦しとて、めでたく作り改めらるべきよし仰せられけるに、この唐櫃は、上古より傳はりて、そのはじめを知らず、數百年を經たり。累代の公物、古弊をもちて規模とす。たやすく改められ難きよし、故實の諸官等申しければ、その事やみにけり。


100

久我の相國〔太政大臣久我雅實、源顯房の子〕は、殿上にて水を召しけるに、主殿司土器どきをたてまつりければ、「まがり〔まげもの、木を薄くはいで曲げてつくりし器〕を參らせよ。」とて、まがりしてぞめしける。


101

ある人、任大臣の節會の内辨〔節會の時、承明門内の諸事を掌る役〕を勤められけるに、内記〔中務省の官吏、詔敕を作り禁中の記事などを録す〈*る〉役〕のもちたる宣命〔任大臣の辭令をかいたみことのり〕を取らずして堂上せられにけり。きはまりなき失禮しちらいなれども、たちかへり取るべきにもあらず、思ひ煩はれけるに、六位の外記〔太政官の官大小公事の詔書奏文を案じ局中に記録する役〕康綱〔中原康綱〕、衣被の女房をかたらひて、かの宣命をもたせて、しのびやかに奉らせけり。いみじかりけり。


102

いんの大納言光忠入道〔源光忠、尹は彈正臺長官〕、追儺の上卿しゃうけいを務められけるに、洞院右大臣殿〔藤原實泰、公守の子〕に次第を申し請けられければ、「又五郎をのこを師とするより外の才覺候はじ。」とぞ宣ひける。かの又五郎は老いたる衞士の、よく公事に馴れたる者にてぞありける。近衞殿〈*未詳〉著陣したまひける時、膝突〔敷物、小半疊のうすべり〕をわすれて、外記をめされければ、火たきて候ひけるが、「まづ膝突をめさるべくや候らむ。」と、忍びやかにつぶやきける、いとをかしかりけり。


103

大覺寺だいかくじ殿にて、近習の人ども、謎々をつくりて解かれけるところへ、醫師くすし忠守〈*丹波忠守〉參りたりけるに、侍從大納言公明きんあき卿、「我が朝のものとも見えぬ忠守かな。」となぞにせられたりけるを、唐瓶子と解きて笑ひあはれければ、腹立ちてまかでにけり。


104

荒れたる宿の人目なきに、女の憚る事あるころにて、つれと籠り居たるを、ある人とぶらひ給はむとて、夕月夜のおぼつかなき程に、忍びて尋ねおはしたるに、犬のことしく〔仰山らしく〕咎むれば、げす女のいでて、「いづくよりぞ。」といふに、やがて案内せさせて入りたまひぬ。心ぼそげなるありさま、いかで過すらむと、いと心ぐるし。あやしき板敷に、しばし立ち給へるを、もてしづめたるけはひ〔物馴れしとやかなる樣子〕の若やかなるして、「こなたへ。」といふ人あれば、たてあけ所せげなる遣戸よりぞ入りたまひぬる。内のさまはいたくすさまじからず、心にくく、灯はかなたにほのかなれど、ものの綺羅など見えて、俄にしもあらぬにほひ〔今急に空薫などしたのでない香〕、いとなつかしう住みなしたり。「門よくさしてよ。雨もぞふる、御車は門の下に、御供おんともの人は其處々々に。」といへば、「今宵ぞやすきいは寢べかめる〔ゆつくり熟睡が出來るであらう。ぬべくあるめる〕。」とうちさゝめくも、忍びたれど、ほどなければほの聞ゆ。さてこの程の事ども、こまやかに聞え給ふに、夜ぶかきとりも鳴きぬ。しかた行くすゑかけて、まめやかなる御物語に、この度は鷄も花やかなる聲にうちしきれば〔頻りに啼けば〕、明け離るゝにやと聞きたまへど、夜深く急ぐべきところのさまにもあらねば、すこしたゆみ給へる〔ぐづぐづして居られる〕に、ひま白く〔戸の隙に夜の明けた色が白く〕なれば、忘れ難きことなどいひて、立ち出でたまふに、梢も庭もめづらしく青みわたりたる卯月ばかりのあけぼの、艷にをかしかりしをおぼし出でて、桂の木の大きなるがかくるゝまで、今も見おくり給ふとぞ。


105

北のかげに消え殘りたる雪の、いたう凍りたるに、さし寄せたる車の轅も、霜いたくきらめきて、有明の月〔十六夜以後、遲く出る月が空にあつたまゝで夜の明ける時、月をかく云ふ〕さやかなれども、隈なくはあらぬに、人ばなれなる御堂の廊に、なみにはあらずと見ゆるをとこ、女と長押〔敷居にある横木、下長押の事〕に尻かけて、物語するさまこそ、何事にかあらむ、盡きすまじけれ〔話がつきまい〕。かぶし〔頭を傾けうなだれた樣子〕、かたちなどいとよしと見えて、えもいはぬ匂ひの、さとかをりたるこそをかしけれ。けはひなど、はつれ〔折々〕聞えたるもゆかし。


106

高野の證空上人〔數人あるので不明〕京へ上りけるに、細道にて馬に乘りたる女の行きあひたりけるが、口引きける男あしく引きて、聖の馬を堀へ落してけり。聖、いと腹あしく咎めて、「こは希有の狼藉かな。四部の弟子〔四衆とも云ふ、釋迦の弟子の四種〕はよな、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞〔俗のまゝなる男の佛弟子〕は劣り、優婆塞より優婆夷〔俗のまゝの女の佛弟子〕は劣れり。かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀に蹴入れさする、未曾有の惡行なり。」といはれければ、口引きの男、「いかに仰せらるゝやらむ、えこそ聞き知らね。」といふに、上人なほいきまきて、「何といふぞ。非修ひしゅ非學のをのこ。」とあらゝかに言ひて、きはまりなき放言しつと思ひける氣色にて、馬引きかへして遁げられにけり。たふとかりける諍論いさかひなるべし。


107

女の物いひかけたる返り事、とりあへずよき程にする男は、有りがたきものぞとて、龜山院の御時、しれたる女房ども、若き男達をのこだちの參らるゝ毎に、「時鳥や聞き給へる。」と問ひて試みられけるに、某の大納言とかやは、「數ならぬ身〔人數に入らぬ賎しい身〕はえ聞き候はず。」と答へられけり。堀河内大臣殿〔源具守、岩倉具實の子〕は、「岩倉〔山城愛宕郡岩倉〕にて聞きて候ひしやらむ。」とおほせられけるを、「これは難なし。數ならぬ身むつかし〔こゝでは、やかましい〈大仰の意〉と解く所だらう〕。」など定めあはれけり。總てをのこをば、女に笑はれぬ樣におほしたつべしとぞ、淨土寺の前關白殿〔藤原師教、忠教の子〕は、幼くて安喜門院〔後白河帝の女御、藤原有子、公房の女〕のよく教へまゐらせさせ給ひける故に、御詞おほんことばなどのよきぞと人の仰せられけるとかや。山階左大臣殿〔藤原實雄〕は、「怪しの下女げぢょの見奉るも、いと恥しく心づかひせらるゝ。」とこそ仰せられけれ。女のなき世なりせば、衣紋も冠もいかにもあれ、ひきつくろふ人も侍らじ。かく人に恥ぢらるゝ女、いかばかりいみじきものぞと思ふに、女の性は皆ひがめり。人我にんがの相〔利己的な、人と我とを區別する姿〕ふかく、貪欲甚だしく、物の理を知らず、たゞ迷ひの方に心も早くうつり、詞も巧みに、苦しからぬ事をも問ふ時はいはず、用意あるかと見れば、又あさましき事まで問はずがたりにいひ出す。深くたばかり飾れる事は、をのこの智慧にも優りたるかと思へば、その事あとより顯はるゝを知らず。質朴すなほならずして拙きものは女なり。その心に隨ひてよく思はれむことは、心うかるべし。されば何かは女の恥かしからむ。もし賢女あらば、それも物うとく〔近づき難く〕、すさまじかりなむ。たゞ迷ひをあるじとしてかれに隨ふ時、やさしくもおもしろくも覺ゆべきことなり。


108

寸陰惜しむ人なし。これよく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人の爲にいはば、一錢輕しと雖も、これを累ぬれば貧しき人を富める人となす。されば商人あきびとの一錢を惜しむ心切なり。刹那覺えずといへども、これを運びてやまざれば、命を終ふる忽ちに到る。されば道人〔智度論に「得道者名爲道人、餘出家者未得道者亦名道人」、佛道に志す人〕は、遠く日月を惜しむべからず、只今の一念空しく過ぐることを惜しむべし。もし人來りて、わが命明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらむに、今日の暮るゝ間、何事をか頼み、何事をか營まむ。我等が生ける今日の日、何ぞその時節に異ならむ。一日の中に、飮食おんじき、便利〔大小便〕、睡眠、言語ごんご行歩ぎゃうぶ、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その餘りの暇、いくばくならぬうちに、無益むやくの事をなし、無益の事をいひ、無益の事を思惟しゆゐして、時を移すのみならず、日をせうし月をわたりて、一生をおくる、最も愚かなり。謝靈運〔支那晉代の文學者〕は法華の筆受〔法華經の飜譯者〈事實では涅槃經の譯者であつたと云ふ。〉なりしかども、心常に風雲の思ひ〔自然を愛すること〕を觀ぜしかば、惠遠ゑをん〔支那廬山東林寺の僧、東晉の人、釋道安の弟子〕白蓮の交はり〔惠遠を中心として出來た佛教徒の團體、白蓮社〕をゆるさざりき。しばらくもこれなき時は死人におなじ。光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まむ人は止み、しうせむ人は修せよとなり。


109

高名の木のぼり〔有名な木登り、木登りの名人〕といひしをのこ、人を掟てて〔命令して〕、高き木にのぼせて梢をきらせしに、いと危く見えしほどはいふこともなくて、おるゝ時に、軒だけばかりになりて、「あやまちすな。心しておりよ。」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るゝ〈*ママ〉ともおりなむ。如何にかくいふぞ。」と申し侍りしかば、「その事に候。目くるめき枝危きほどは、おのれがおそれ侍れば申さず。あやまちは安き所になりて、必ず仕ることに候。」といふ。あやしき下臈〔賎しき、身分低い者〕なれども、聖人のいましめにかなへり。鞠もかたき所〔蹴にくい所〕を蹴出して後、やすくおもへば、必ずおつと侍るやらむ。


110

雙六すぐろく〔黑白十二の駒、盤の目は十二づつ左右にある、賽をふつて早く先方へ駒全體が行き著いた方が勝ち〕の上手といひし人に、そのてだてを問ひ侍りしかば、「勝たむとうつべからず、負けじとうつべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手をつかはずして、一目なりとも遲く負くべき手につくべし。」といふ。道を知れるをしへ、身を修め國を保たむ道もまたしかなり。


111

圍棊ゐご雙六このみてあかし暮す人は、四重〔殺生、偸盜、邪淫、妄語〕五逆〔殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出佛身血にもまされる惡事とぞ思ふ。」とある聖の申ししこと、耳にとゞまりて、いみじくおぼえ侍る。


112

明日は遠國ゑんごくへ赴くべしと聞かむ人に、心しづかになすべからむわざをば、人いひかけてむや。俄の大事をも營み、せちに歎くこともある人は、他の事を聞き入れず、人のうれへよろこびをも問はず。問はずとてなどやと恨むる人もなし。されば年もやうたけ、病にもまつはれ、況んや世をも遁れたらむ人、亦これに同じかるべし。人間にんげんの儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の默し難きに從ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は雜事の小節にさへられて、空しく暮れなむ。日暮れ道遠し〔唐書白居易傳に「日暮而途遠、吾生已に蹉跎」〕、吾がしゃう既に蹉跎さだ-ママたり、諸縁を放下ほうげすべき〔世間の俗關係をひきはなし捨つべき〕時なり。信をも守らじ、禮儀をも思はじ。この心を持たざらむ人は、もの狂ひともいへ、現なし、情なしとも思へ、譏るとも苦しまじ、譽むとも聞きいれじ。


113

四十よそぢにも餘りぬる人の、色めきたる方〔好色らしく見える人〕、自ら忍びてあらむは如何はせむ〔それは如何しよう、詮方がない〕、言にうち出でて、男女をとこをんなのこと、人の上をもいひたはるゝこそ、似げなく見ぐるしけれ。大かた聞きにくく見ぐるしき事、老人おいびとの若き人にまじはりて興あらむと物いひ居たる、數ならぬ身にて、世のおぼえある人を隔てなきさまにいひたる、貧しきところに酒宴このみ、客人まらうどに饗應せむときらめきたる。


114

今出川のおほい殿〔菊亭兼季、即ち菊亭の大臣〕、嵯峨へおはしけるに、有栖川のわたりに、水の流れたる所にて、齋王丸おん牛を追ひたりければ、足掻〔前足で地をかく事〕の水前板〔車の前に横たへてある板〕までさゝとかゝりけるを、爲則〔お供をした人の名、姓不詳〕車のしりさぶらひけるが、「希有のわらはかな。斯る所にて御牛をば追ふものか。」といひたりければ、おほい殿、おん氣色あしくなりて、「おのれ車やらむこと、齋王丸に勝りてえ知らじ。希有の男なり。」とて御車に頭をうちあてられにけり。この高名の齋王丸は、太秦殿〔藤原信清、信隆の子〕の男、料の御牛飼〔天皇の御召料たる牛を飼ふ者〕ぞかし。この太秦殿に侍りける女房の名ども、一人は膝幸ひざさち、一人は㹀槌ことつち、一人は胞腹はうはら、一人は乙牛おとうし〔皆牛に縁ある用語らしいが不明〕とつけられけり。


115

宿河原〔攝津と云ふ説と武藏と云ふ説がある〕といふ所にて、ぼろ〔梵論、虚無僧〕おほく集りて、九品の念佛〔九度調子を變へる念佛〕を申しけるに、外より入りくるぼろの、「もしこのうちに、いろをし坊と申すぼろやおはします。」と尋ねければ、その中より、「いろをしこゝに候。かく宣ふはぞ。」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。おのれが師なにがしと申す人、東國にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、うらみ申さばやとおもひて、尋ね申すなり。」といふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事はべりき。こゝにて對面たいめんしたてまつらば、道場をけがし侍るべし。前の河原へまゐりあはむ。あなかしこ。わきざしたち、いづ方をも見つぎ給ふな。數多のわづらひにならば、佛事のさまたげに侍るべし。」といひ定めて、二人河原に出であひて、心ゆくばかり〔思ふ存分〕に貫きあひて、共に死にけり。ぼろといふものは、昔はなかりけるにや。近き世に、梵論字ぼろんじ、梵字、漢字などいひける者、そのはじめなりけるとかや。世を捨てたるに似て、我執ふかく、佛道を願ふに似て、鬭諍とうじゃうを事とす。放逸無慚のありさまなれども、死を輕くして少しもなづまざる〔拘泥執著しない〕方のいさぎよく覺えて、人の語りしまゝに書きつけ侍るなり。


116

寺院の號、さらぬ萬の物にも名をつくること、昔の人は少しも求めず、唯ありの侭に安くつけけるなり。この頃は、深く案じ、才覺さいがく〔才智、自分のはたらき〕を顯はさむとしたる樣に聞ゆる、いとむつかし〔こゝでは面倒でうるさい〕。人の名も、目馴れぬ文字をつかむとする、やくなき事なり。何事もめづらしき事をもとめ、異説を好むは、淺才の人の必ずあることなりとぞ。


117

友とするにわろきもの七つあり。一には高くやんごとなき人、二には若き人、三には病なく身つよき人〔健康者は病弱者に同情がないからだ〕、四には酒をこのむ人、五にはたけく勇める人、六にはそらごとする人、七には慾ふかき人。善き友三つあり。一にはものくるゝ友、二には醫師、三には智惠ある友。〔論語季氏篇にも之に似た益者三友、損者三友がある。〕


118

鯉のあつもの食ひたる日は、鬢そゝけずとなむ〔脂のため髪も亂れないとの義〕にかはにもつくるものなれば、粘りたる物にこそ。鯉ばかりこそ、御前〔天子の御前〕にても切らるゝものなれば、やんごとなき魚なれ。鳥には雉さうなき〔雙び無き、第一〈*の〉ものなり。雉松茸などは、御湯殿おゆどの〔料理の間〕の上にかゝりたるも苦しからず。その外は心憂きことなり。中宮〔後深草院の中宮、東二條院〕の御方の御湯殿の上のくろみ棚〔煤で黑くなつた棚〕に、鴈の見えつるを、北山入道殿〔中宮の御父、西園寺實氏〕の御覽じて、歸らせたまひて、やがて御文にて、「かやうのもの、さながらその姿にて、御棚にゐて候ひしこと、見ならはず〔見馴れず〕。さま惡しきことなり。はかしき人〔はつきりした人、敏腕家、物のわかる人。後に同じ語がある。之は身分ある人〕のさぶらはぬ故にこそ。」など申されたりけり。


119

鎌倉の海にかつをといふ魚は、かの境には雙なきものにて、この頃もてなすものなり。それも鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚おのれ等若かりし世までは、はかしき人の前へ出づること侍らざりき。かしらは下部も食はず、切り捨て侍りしものなり。」と申しき。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつ〔入込む〕わざにこそ侍れ。


120

唐の物は、藥の外はなくとも事かくまじ。書どもは、この國に多くひろまりぬれば、書きも寫してむ。もろこし船の、たやすからぬ道に、無用のものどものみ取り積みて、所狹く渡しもて來る、いと愚かなり。遠きものを寶とせず〔尚書族契篇に「不遠物、則遠人格。」〕とも、また得がたき寶をたふとまず〔老子に「不得之貨、使民不盜。」〕とも、書にも侍るとかや。


121

養ひ飼ふものには馬、牛。繋ぎ苦しむるこそ痛ましけれど、なくて叶はぬ物なれば、如何はせむ。犬は守り防ぐつとめ、人にも優りたれば、必ずあるべし。されど家毎にあるものなれば、ことさらに求め飼はずともありなむ。その外の鳥獸とりけだもの、すべて用なきものなり。走る獸は檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は翼を切り、に入れられて、雲を戀ひ野山を思ふ愁へやむ時なし。その思ひ我が身にあたりて忍び難くば、心あらむ人これを樂しまむや。しゃうを苦しめて目を喜ばしむるは、桀紂が心〔夏の桀王、殷の紂王、共に暴虐無道で有名な王〕なり。王子猷〔支那晉代の人、名は徽子、王義之の子〕が鳥を愛せし、林に樂しぶを見て逍遥の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。凡そ珍しき鳥、怪しき獸、國に養はず〔尚書族契篇に「珍禽奇獸不于國。」〕とこそ文にも侍るなれ。


122

人の才能は、文明らかにして、聖の教へを知れるを第一とす。次には手かく事、旨とする事〔專門にする事〕はなくとも、これを習ふべし。學問に便りあらむ爲なり。次に醫術を習ふべし。身を養ひ人を助け、忠孝のつとめも、醫にあらずばあるべからず。次に弓、馬に乘る事、六藝〔支那の教養ある者の修めた六科、禮、樂、射、御、書、數〕に出せり。必ずこれを窺ふべし。文武醫の道、まことに缺けてはあるべからず。これを學ばむをば、いたづらなる人〔無駄な事をする人〕といふべからず。次に、食は人の天なり〔書經に「夫食爲人天。」天が人を養ふからだ〕。よく味ひをとゝのへ知れる人、大きなる徳とすべし。次に細工、よろづの要多し。この外の事ども、多能は君子のはづるところなり〔論語に「吾少也賎、故多能鄙事。君子多乎不多也。」〕。詩歌にたくみに、絲竹に妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすとはいへども、今の世には、これをもちて世を治むること、漸く愚かなるに似たり。こがねはすぐれたれども、くろがねの益多きに如かざるがごとし。


123

無益の事をなして時を移すを、愚かなる人とも、僻事する人ともいふべし。國の爲君の爲に、止む事を得ずしてなすべき事多し。その餘りの暇、いくばくならず思ふべし。人の身に止む事を得ずして營む所、第一に食ひ物、第二に著る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。飢ゑず、寒からず、風雨に冒されずして、しづかにすぐすを樂しみとす。但し人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁へ忍び難し。醫療を忘るべからず。藥を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ缺けざるを富めりとす。この四つの外を求め營むを驕とす。四つの事儉約ならば、誰の人か足らずとせむ。


124

是法法師〔兼好と同時代の僧にして歌人〕は、淨土宗に恥ぢず〔同宗中誰にも遜色なきを云ふ〕と雖も、學匠をたてず〔學者として居ない、學者ぶらない〕、たゞ明暮念佛して、やすらかに世を過すありさま、いとあらまほし。


125

人に後れて、四十九日なゝなぬかの佛事に、ある聖を請じ侍りしに、説法いみじくして皆人涙を流しけり。導師かへりて後、聽聞の人ども、「いつよりも殊に今日は尊くおぼえ侍りつる。」と感じあへりし返り事に、ある者の曰く、「何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなむ上は〔唐の狗は狆で、涙を絶えず湛へて居るが、此の僧も自ら説經に感激して涙を流して居る點が狆に似て居たのである〕。」といひたりしに、あはれもさめてをかしかりけり。さる導師のほめやうやはあるべき。また人に酒勸むるとて、「おのれまづたべて人に強ひ奉らむとするは、けんにて人を斬らむとするに似たる事なり。二方は刃つきたるものなれば、もたぐる時、まづ我が頚を斬るゆゑに〔兩方に刃のある刀で振り上げると自分の頭を斬るといふのである〕、人をばえ斬らぬなり。おのれまづ醉ひて臥しなば、人はよも召さじ。」と申しき。劒にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりき。


126

博奕ばくちの負け極まりて、殘りなくうち入れむとせむに〔殘つて居る持物全體を賭けんとするに出遭つたなら〕、逢ひては打つべからず。立ち歸り〔逆に今まで負けた方が〕つゞけて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よき博奕といふなり。」と、あるもの申しき。


127

改めて益なきことは、改めぬをよしとするなり。


128

雅房大納言〔源雅房、定實の子〕は、ざえ賢く善き人にて、大將にもなさばやと思しける〔院のお考へ〕頃、院〔後宇多院〕の近習なる人、「只今淺ましき事を見侍りつ。」と申されければ、「何事ぞ。」と問はせ給ひけるに、「雅房卿鷹に飼はむとて、生きたる犬の足を切り侍りつるを、中垣〔家と家とのしきりの垣〕の穴より見侍りつ。」と申されけるに、うとましく〔いとはしく〕、にくくおぼしめして、日ごろの御氣色もたがひ、昇進もしたまはざりけり。さばかりの人、鷹を持たれたりけるは思はずなれど〔意外だが〕、犬の足はあとなき事なり。虚言は不便ふびん〔不都合〕なれども、かゝる事を聞かせ給ひて、にくませ給ひける君の御心は、いと尊きことなり。大かた生けるものを殺し、痛め、鬭はしめて遊び樂しまむ人は、畜生殘害〔鳥獸が互にそこなひ食ひ合ふこと〕たぐひなり。萬の鳥獸、小さき蟲までも、心をとめてありさまを見るに、子をおもひ親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、妬み、怒り、慾おほく、身を愛し、命を惜しめる事、偏に愚癡なるゆゑに、人よりも勝りて甚だし。かれに苦しみを與へ、命を奪はむ事、いかでか痛ましからざらむ。すべて一切の有情〔生物〕を見て慈悲の心なからむは、人倫にあらず。


129

顔囘〔顔淵。孔子の門弟〕は、志人に勞を施さじ〔論語公冶長篇に「顔淵曰願無善、無勞。」〕となり。すべて人を苦しめ、物をしへたぐる事、賎しき民の志をも奪ふべからず。又幼き子をすかおどし、言ひ辱しめて興ずることあり。大人しき人〔大人〕は、まことならねば事にもあらず思へど、幼き心には、身にしみて恐ろしく、恥しく、あさましき思ひ、誠に切なるべし。これを惱して興ずる事、慈悲の心にあらず。大人しき人の、喜び怒り哀れび樂しぶも、皆虚妄こまうなれども、誰か實有じつうの相〔實在せる如く見ゆる現象〕ぢゃくせざる。身を破るよりも、心を痛ましむるは、人をそこなふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より來る病は少なし。藥を飮みて汗を求むるには、驗なき事あれども、一旦恥ぢ恐るゝことあれば、かならず汗を流す〔文選稽康〈*ママ〉の養生論に「夫服藥求汗、或有獲、而愧情一集、渙然流離。」〕は、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲の額を書きて、白頭の人となりし例〔三國志に「魏明帝立凌雲觀、誤先釘榜、乃以籠盛辛誕、轆轤引上書之、去地二十五丈、既下、鬚髪皓然。〕なきにあらず。


130

物に爭はず〔論語に「君子無爭。」〕、己を枉げて人に從ひ、我が身を後にして、人を先にするには如かず。萬のあそびにも、勝負を好む人は、勝ちて興あらむ爲なり。己が藝の勝りたる事をよろこぶ。されば負けて興なく覺ゆべきこと、また知られたり。我負けて人を歡ばしめむと思はば、さらに遊びの興なかるべし。人に本意なく思はせて、わが心を慰めむこと、徳に背けり。むつましき中にたはぶるゝも、人をはかり欺きて、おのれが智の勝りたることを興とす。これまた禮にあらず。さればはじめ興宴より起りて、長き恨みを結ぶ類おほし。これ皆あらそひを好む失なり。人に勝らむことを思はば、たゞ學問して、その智を人に勝らむと思ふべし。道を學ぶとならば、善に誇らず、ともがら〔同輩〕に爭ふべからずといふ事を知るべきゆゑなり。大きなる職をも辭し、利をも捨つるは、たゞ學問の力なり。


131

貧しきものは財をもて禮とし、老いたるものは力をもて禮とす〔曲禮に「貧者不下以貨財爲上禮、老者不下以筋力爲上禮。」とあるのを表現をかへたのである〕。おのが分を知りて、及ばざる時は速かにやむを智といふべし。許さざらむは人のあやまりなり。分を知らずして強ひて勵むは、おのれがあやまりなり。貧しくして分を知らざれば盜み、力衰へて分を知らざれば病をうく。


132

鳥羽の作り道は、鳥羽殿〔白河上皇の應徳三年建立、所謂鳥羽の里内裏〕建てられて後のにはあらず、昔よりの名なり。元良親王〔陽成帝第一皇子、三品兵部卿〕、元日の奏賀〔元日辰刻〈午前八時〉天子大極殿に臨御、羣臣慶賀を奏すること〕の聲はなはだ殊勝にして、大極殿だいごくでんより鳥羽の作り道まできこえけるよし、李部王りほうわうの記〔醍醐帝の皇子式部卿重明親王の著書、李部は式部卿の唐名〕に侍るとかや。


133

御殿おとゞは東枕なり。大かた東を枕として陽氣を受くべき故に、孔子も東首とうしゅ〔東枕、論語に「疾君視之、東首加朝服紳。〕し給へり。寢殿のしつらひ、或は南枕、常のことなり。白河院は北首に御寢なりけり。「北は忌むことなり。又伊勢は南なり。太神宮だいじんぐうの御方をおん跡にせさせ給ふ事いかゞ。」と人申しけり。たゞし太神宮の遥拜は辰巳に向はせたまふ、南にはあらず。


134

高倉院〔山城愛宕郡清閑寺〕の法華堂の三昧僧何某なにがしの律師とかやいふ者、ある時鏡を取りて顔をつくづくと見て、我がかたちの醜くあさましき事を、餘りに心憂く覺えて、鏡さへうとましき心地しければ、その後長く鏡を恐れて、手にだに取らず、更に人に交はる事なし。御堂の勤め許りにあひて、籠り居たりと聞き傳へしこそ、あり難く覺えしか。かしこげなる人も人の上をのみ計りて、己をば知らざるなり。我を知らずして外を知るといふことわりあるべからず。されば、己を知るを、物知れる人といふべし。貌醜けれども知らず、心の愚かなるをも知らず、藝の拙きをも知らず、身の數ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒すをも知らず、死の近き事をも知らず、行ふ道の至らざるをも知らず、身の上の非をも知らねば、まして外の譏りを知らず。たゞし貌は鏡に見ゆ、年は數へて知る。我が身の事知らぬにはあらねど、すべき方のなければ、知らぬに似たりとぞいはまし。貌を改め齡を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、何ぞやがて退かざる。老いぬと知らば、何ぞ閑に身をやすくせざる。行ひ愚かなりと知らば、何ぞこれを思ふ事これにあらざる。すべて人に愛樂あいげう〔愛し好かれる〕せられずして衆に交はるは恥なり。貌みにくく心おくれにして出で仕へ、無智にして大才たいさいに交はり、不堪ふかんの藝〔堪能ならぬ藝〕をもちて堪能の座〔上手な者ばかりの一座〕に連なり、雪のかうべを戴きてさかりなる人〔曲禮に「三十曰壯。」〕にならび、況んや及ばざることを望み、叶はぬことを憂へ、來らざる事を待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の與ふる恥にあらず、貪る心に引かれて、自ら身をはづかしむるなり。貪ることのやまざるは、命を終ふる大事今こゝに來れりと、たしかに知らざればなり。


135

資季大納言入道〔藤原資季、資家の子〕とかや聞えける人、具氏ともうぢ宰相中將〔源具氏、通氏の子、宰相は參議の異稱〕に逢ひて〈*向かって〉、「わぬしの問はれむ程の事、何事なりとも答へ申さざらむや。」といはれければ、具氏、「いかゞ侍らむ。」と申されけるを、「さらば、あらがひ給へ〔爭ひ給へ〕。」といはれて、「はかしき事〔むづかしい事〕は、片端もまねび知り侍らねば、尋ね申すまでもなし。何となきそゞろごと〔たはい〈*ママ〉もなき事〕の中に、覺束なき事をこそ問ひ奉らめ。」と申されけり。「まして、こゝもとの淺きことは、何事なりともあきらめ申さむ〔説明しよう〕。」といはれければ、近習の人々、女房なども、「興あるあらがひなり。おなじくは御前にて爭はるべし。負けたらむ人は供御ぐごをまうけらるべし。」と定めて、御前にて召し合せられたりけるに、具氏、「幼くより聞きならひ侍れど、その心知らぬこと侍り。馬のきつりやうきつにのをか、なかくぼれいりぐれんどう〔沼波瓊音氏の説に從つて置かう。其の説は「馬退きつ」で此の五字を除き、「りやうきつにのをか」の九字が「中凹れ入り」で最初のりと最後のかを除いて皆陷落しその「りか」が「ぐれんどう」で顛倒する、即ち雁と云ふ答を得る謎である〕と申すことは、いかなる心にかはべらむ。承らむ。」と申されけるに、大納言入道はたとつまりて、「これは、そゞろごとなれば、云ふにも足らず。」といはれけるを、「もとより、深き道は知り侍らず。そゞろ言を尋ね奉らむと、定め申しつ。」と申されければ、大納言入道負けになりて、所課〔課せられたもの、罰金として御馳走〕いかめしくせられたりけるとぞ。


136

醫師あつしげ、故法皇〔花山院〕の御前に候ひて、供御の參りけるに、「今參り侍る供御のいろを、文字も功能くのうも尋ね下されて、そらに申しはべらば、本草〔支那の古い植物學の書〕に御覽じあはせられ侍れかし。一つも申し誤り侍らじ。」と申しける時しも、六條故内府だいふ〔内大臣源有房〕まゐり給ひて、「有房ついでに物習ひ侍らむ。」とて、「まづ、しほといふ文字は、いづれの偏にか侍らむ。」と問はれたりけるに、「土偏どへんに候〔鹽の俗字塩〈*原文頭注「鹽」〉で答へたのだ〕。」と申したりければ、「才のほど既に現はれにたり。今はさばかりにて候へ、ゆかしきところなし。」と申されけるに、とよみになりて、罷り出でにけり。


137

花は盛りに、月は隈なき〔曇なき〕をのみ見るものかは。雨にむかひて月を戀ひ〔和漢朗詠集の「對月戀雨序」の心を採つた〕、たれこめて春のゆくへ知らぬ〔「たれこめて春のゆくへも知らぬ間に待ちし櫻もうつろひにけり」〈古今集〉の意〕も、なほあはれに情ふかし。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ。歌の詞書〔歌の題としてやゝ長き文章となり居るもの、はし書〕にも、「花見に罷りけるにはやく散り過ぎにければ。」とも、「さはることありて罷らで。」なども書けるは、「花を見て。」といへるに劣れる事かは。花の散り月のかたぶくを慕ふ習ひはさる事なれど、殊に頑なる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見所なし。」などはいふめる。萬の事も始め終りこそをかしけれ。男女をとこをみななさけも、偏に逢ひ見るをばいふものかは。逢はでやみにし憂さをおもひ、あだなる契り〔はかない契り〕をかこち、長き夜をひとり明し、遠き雲居〔遠い所、遠く離れた戀人〕を思ひやり、淺茅が宿〔荒れはてたる宿〕に昔を忍ぶこそ、色好むとはいはめ。望月の隈なきを、千里ちさとの外まで眺めたるよりも、曉近くなりて待ちいでたるが、いと心ふかう、青みたる樣にて〔明け方のほの青いやうな月〕、深き山の杉の梢に見えたる木の間の影、うちしぐれたるむら雲がくれのほど、またなくあはれなり。椎柴〔椎の木の茂り〕白樫などの濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらむ友もがなと、都こひしう覺ゆれ。すべて月花をばさのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いと頼もしうをかしけれ。よき人は、偏にすける樣にも見えず、興ずる樣もなほざりなり。片田舎の人こそ、色濃く〔しつこく、あくどく〕よろづはもて興ずれ。花のもとには、ねぢより〔ねぢり寄り、強ひて近寄る〕立ちより、あからめもせず〔わき目もせず〕まもり〔注目する〕て、酒飮み、連歌して、はては大きなる枝心なく折り取りぬ。泉には手足さしひたして、雪にはおりたちて跡つけなど、萬の物、よそながら見る事なし。さやうの人の祭見しさま、いとめづらかなりき。「見ごと〔見る物、見る目的物〕いとおそし。そのほどは棧敷不用なり。」とて、奧なる屋にて、酒飮みもの食ひ、圍棊雙六すぐろくなど遊びて、棧敷には人をおきたれば、「わたり候。」といふときに、おの肝つぶる〈*る〉やうに爭ひ走りあがりて、落ちぬべきまで、簾張りいでて、押しあひつゝ、一ことも見洩らさじとまもりて、とありかゝりと〔何のかのと〕物事にいひて、渡り過ぎぬれば、「又渡らむまで。」といひて降りぬ。唯物をのみ見むとするなるべし。都の人のゆゝしげなるは、眠りていとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人のうしろにさぶらふは、さまあしくも及びかゝらず〔及び腰になり、後から前の人にのりかゝらず〕、わりなく〔無理に〕見むとする人もなし。何となくあふひかけ渡して〔賀茂の祭には葵の葉を簾、柱、或は衣服にまでかけた〕なまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、其か彼かなどおもひよすれば、牛飼下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらしく〔華美で輝くさま〕も、さまに行きかふ、見るもつれならず。暮るゝ程には、立て竝べつる車ども、所なく竝みゐつる人も、いづかたへか行きつらむ、程なく稀になりて、車どものらうがはしさ〔亂りがはしさ、亂雜〕も濟みぬれば、簾疊も取り拂ひ、目の前に寂しげになり行くこそ、世のためしも思ひ知られて哀れなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ、かの棧敷の前をこゝら〔澤山〕行きかふ人の、見知れるが數多あるにて知りぬ、世の人數ひとかずもさのみは多からぬにこそ。この人皆失せなむ後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、程なく待ちつけぬべし〔待つて居て出遭ふ事が出來る、死を意味する〕。大きなるうつはものに水を入れて、細き孔をあけたらむに、滴る事少しと云ふとも、怠る間なく漏りゆかば、やがて盡きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一に一人二人のみならむや。鳥部野、舟岡〔上京蓮臺寺の東の岡、鳥部野と共に墓地〕、さらぬ野山にも、送る數おほかる日はあれど、送らぬ日はなし。されば柩を鬻ぐもの、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期しごなり。今日まで遁れ來にけるは、ありがたき不思議なり。暫しも世をのどかに思ひなむや。まゝ子立〔黒白の石を長方形に竝べ、印ししたる石から十に當る石をとり除くと最後に唯一つ殘る遊戲〕といふものを、雙六の石にてつくりて、立て竝べたる程は、取られむ事いづれの石とも知らねども、數へ當ててひとつを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、またかぞふれば、かれこれ拔き行くほどに、いづれも、遁れざるに似たり。兵のいくさにいづるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ身をも忘る。世をそむける草の庵には、しづかに水石すゐせき〔泉水庭石、庭いぢり、盆栽いぢりの意味〕をもてあそびて、これを他所よそに聞くと思へるは、いとはかなし。しづかなる山の奧、無常の敵きほひ來らざらむや。その死に臨めること、軍の陣に進めるにおなじ。


138

祭過ぎぬれば、後の葵不用なりとて、ある人の、御簾なるを皆取らせられ侍りしが、色もなく〔趣味もなく〕おぼえ侍りしを、よき人のし給ふことなれば、さるべきにやと思ひしかど、周防の内侍〔平棟仲の女、仲子、白川〈*ママ〉院の内侍、父が周防守からかく名乘つた〕が、

かくれどもかひなき物はもろともにみすの葵の枯葉なりけり〔葵をかけて置くがと心をかけて慕ふがの意。みすは御簾と見ずとをかけた。葵と逢ふ日と、枯葉と離れとをかけたのである。〕

と詠めるも、母屋もや〔家の中央の間〕の御簾に葵のかゝりたる枯葉を詠めるよし、家の集に書けり。古き歌の詞書に、「枯れたる葵にさしてつかはしける。」ともはべり。枕草紙にも、「來しかた戀しきもの。かれたる葵。」と書けるこそ、いみじくなつかしう思ひよりたれ。鴨長明〔鴨社の禰宜長繼の子、和歌所寄人、方丈記の著者〕が四季物語にも、「玉だれに後の葵はとまりけり〔「玉だれに後の葵はとまりけり枯れても通へ人の面影」和泉式部の歌〕。」 とぞ書ける。己と枯るゝだにこそあるを、名殘なくいかゞ取り捨つべき。御帳にかゝれる藥玉も、九月九日菊にとりかへらるゝといへば、菖蒲さうぶは菊の折までもあるべきにこそ。枇杷の皇太后宮くゎうたいこうぐう〔藤原道長の女研子〈*ママ〉。三條帝の中宮〕かくれ給ひて後、ふるき御帳の内に、菖蒲藥玉などの枯れたるが侍りけるを見て、「をりならぬ根をなほぞかけつる〔「あやめ草涙のたまにぬきかへて」が上句、千載集哀傷部に出た〕。」と、辨の乳母のいへる返り事に、「あやめの草はありながら〔「玉ぬきしあやめの草はありながら夜殿は荒れむ物とやは見し」同じく千載集〕。」とも、え-ママの侍從が詠みしぞかし。


139

家にありたき木は、松、櫻。松は五葉もよし。花は一重なるよし。八重櫻は奈良の都にのみありけるを、この頃ぞ世に多くなり侍るなる。吉野の花、左近の櫻、皆一重にてこそあれ。八重櫻は異樣のものなり。いとこちたく〔くどく〕ねぢけたり。植ゑずともありなむ。遲櫻またすさまじ。蟲のつきたるもむつかし。梅は白き、うす紅梅、一重なるが疾く咲きたるも、重なりたる紅梅の、匂ひめでたきも、みなをかし。「おそき梅は、櫻に咲きあひて、おぼえ劣り、けおされて、枝に萎みつきたる、心憂し。一重なるがまづ咲きて散りたるは、心疾くをかし。」とて、京極入道中納言〔藤原定家、俊成の子〕は、なほ一重梅をなむ軒近く植ゑられたりける。京極の屋の南むきに、今も二もとはべるめり。柳またをかし。卯月ばかりの若楓〔楓の若葉〕、すべて萬の花紅葉にも優りてめでたきものなり。橘、桂、何れも木は物古り、大きなる、よし。草は山吹、藤、杜若、撫子。池にははちす。秋の草は荻、薄、桔梗きちかう、萩、女郎花、藤袴、紫菀しをに吾木香われもかう、刈萱、龍膽りんだう、菊、黄菊も、蔦、葛、朝顔、いづれもいと高からず、さゝやかなる垣に、しげからぬよし。この外世にまれなるおの、唐めきたる名の聞きにくく、花も見なれぬなど、いとなつかしからず。大かた何も珍しくありがたきものは、よからぬ人のもて興ずるものなり。さやうの物なくてありなむ。


140

身死して財殘ることは、智者のせざるところなり。よからぬもの蓄へおきたるも拙く、よきものは、心をとめけむとはかなし〔氣の毒〕。こちたく多かる、まして口惜し。我こそ得めなどいふものどもありて、あとに爭ひたる、樣〔醜い〕。後には誰にと志すものあらば、生けらむ中にぞ讓るべき。朝夕なくてかなはざらむ物こそあらめ、その外は何も持たでぞあらまほしき。


141

悲田院〔京都鴨川の西に在り、京中の病者孤兒を收容して施養する所〕の尭蓮上人〔茲に記してある外、傳不詳〕は、俗姓は三浦のなにがしとかや、雙なき〔ならびない〕武者なり。故郷の人の來りて物がたりすとて、「吾妻人こそいひつることは頼まるれ。都の人は言受け〔言承、承諾〕のみよくて、實なし。」といひしを、聖、「それはさこそ思すらめども、おのれは都に久しく住みて、馴れて見侍るに、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて心やはらかに情あるゆゑに、人のいふほどの事、けやけく〔きつぱり、きはだち〕いなびがたく、よろづえ言ひはなたず、心弱くことうけしつ。いつはりせむとは思はねど、乏しくかなはぬ〔貧乏で深切心はあつても實行の出來ぬ〕人のみあれば、おのづから本意通らぬこと多かるべし。吾妻人は我がかたなれど、げには心の色なく、情おくれ、偏にすくよかなるものなれば、初めより否といひて止みぬ。賑ひ豐か〔富み足る〕なれば、人には頼まるゝぞかし。」とことわられ侍りしこそ、この聖、聲うちゆがみ〔言語が訛つて〕あらしくて、聖教しゃうげうのこまやかなる理、いと辨へずもやと思ひしに、この一言の後、心憎くなりて、多かる中に、寺をも住持せらるゝは、かく和ぎたるところありて、その益もあるにこそと覺え侍りし。


142

心なしと見ゆる者も、よき一言はいふ者なり。ある荒夷〔東國邊の荒い田舍武士〕の恐ろしげなるが、かたへ〔傍の者〕にあひて、「御子はおはすや。」と問ひしに、「一人も持ち侍らず。」と答へしかば、「さては物のあはれ〔人情の機微〕は知り給はじ。情なき御心にぞものし〔こゝでは唯ありませうの意〕給ふらむと、いと恐ろし。子故にこそ、萬の哀れは思ひ知らるれ。」といひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛おんあいの道ならでは、かゝるものの心に慈悲ありなむや。孝養けうやうの心なき者も、子持ちてこそ親の志は思ひ知るなれ。世をすてたる人のよろづにするすみ〔匹如身、人の一物をも手に持たぬを云ふ〕なるが、なべてほだし多かる人の、よろづに諂ひ、望み深きを見て、無下に思ひくたすは、僻事なり。その人の心になりて思へば、まことにかなしからむ〔いとほしい、最愛の〕親のため妻子つまこのためには、恥をも忘れ、盜みをもしつべき事なり。されば盜人をいましめ、僻事をのみ罪せむよりは、世の人の飢ゑず寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人恆の産なき時は恆の心なし〔孟子に「無恆産而有恆心者惟士爲能、若民則無恆産因無恆心」とある。恆産は日常の生業、生活す可き職業〕。人窮りて盜みす。世治らずして凍餒とうだい〔こゞえる事と饑うる事と〕の苦しみあらば、とがのもの絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはむこと、不便のわざなり。さていかゞして人を惠むべきとならば、上の奢り費すところを止め、民を撫で、農を勸めば、下に利あらむこと疑ひあるべからず。衣食世の常なる上に、ひがごとせむ人をぞ、まことの盜人とはいふべき。


143

人の終焉〔臨終、死際〕の有樣のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、たゞ、「靜かにして亂れず。」といはば心にくかるべきを、愚かなる人は、怪しく異なる相〔かたち、現象〕を語りつけ、いひしことば擧止ふるまひも、おのれが好む方に譽めなすこそ、その人の日ごろの本意にもあらずやと覺ゆれ。この大事は、權化〔權現と同じく、かりに神佛が此の世に人と化して衆生濟度をする、その化した者〕の人も定むべからず、博學の士もはかるべからず、おのれ違ふ所なくば〔自分の心術が正しくて道にはづれた所なくば〕、人の見聞くにはよるべからず。


144

栂尾の上人〔釋高辨、明惠〈或は明慧〉上人といふ、北山の栂尾に居て華嚴宗中興の祖と仰がれた〕道を過ぎたまひけるに、河にて馬洗ふ男、「あし〔足を洗ふため足と云つたのを阿字と聞いた〕。」といひければ、上人たちとまりて、「あなたふとや。宿執しゅくしふ開發かいほつの人〔前世で修めた功徳が現世で現れた人〕かな。阿字々々と唱ふるぞや。いかなる人の御馬ぞ。あまりにたふとく覺ゆるは。」と尋ね給ひければ、「府生殿〔六衞府等に屬する官、不生と上人が聞き間違へたのだ〕御馬おんまに候。」と答へけり。「こはめでたきことかな。阿字本不生あじほんふしゃう〔眞言宗で阿字に不生不滅の原理があると觀ずる、夫が阿字本不生〕にこそあなれ。うれしき結縁けちえんをもしつるかな。」とて、感涙を拭はれけるとぞ。


145

御隨身秦重躬しげみ、北面の下野入道信願を、「落馬の相ある人なり。よく愼み給へ。」といひけるを、いとまことしからず思ひけるに、信願馬より落ちて死ににけり。長じぬる一言、神の如しと人おもへり。さて、「いかなる相ぞ。」と人の問ひければ、「極めて桃尻〔鞍上で尻の落ちつかぬ事〕にて、沛艾はいがい〔馬逞しく躍り上る形容〕の馬を好みしかば、この相をおほせ侍りき。いつかは申し誤りたる。」とぞいひける。


146

明雲めいうん座主〔比叡山の座主明雲。源顯通の子。座主は延暦寺の長老の稱〕相者さうじゃ〔人相見〕に逢ひ給ひて、「おのれ若し兵仗の難〔所謂劒難、武器で死ぬ相〕やある。」と尋ねたまひければ、相人〔相者と同意〕、「まことにその相おはします。」と申す。「いかなる相ぞ。」と尋ね給ひければ、「傷害の恐れおはしますまじき御身にて、假にもかく思しよりて〔思ひついて〕尋ね給ふ。これ既にそのあやぶみの兆なり。」と申しけり。はたして矢にあたりてうせ給ひにけり。


147

灸治あまた所になりぬれば神事に穢れあり〔灸が多いと神のお祭などに穢れとなる事〕といふこと、近く人のいひ出せるなり、格式〔法令規則を書いた書〕などにも見えずとぞ。


148

四十よそぢ以後の人、身に灸を加へて三里〔膝下外方の凹める所〕を燒かざれば上氣のことあり、必ず灸すべし。


149

鹿茸ろくじょう〔鹿の袋角〕を鼻にあてて嗅ぐべからず、ちひさき蟲ありて、鼻より入りて腦をはむといへり。


150

能をつかむとする人、「よくせざらむ程は、なまじひに人に知られじ、内々よく習ひ得てさし出でたらむこそ、いと心にくからめ。」と常にいふめれど、かくいふ人、一藝もならひ得ることなし。いまだ堅固かたほなるより、上手の中にまじりて、譏り笑はるゝにも恥ぢず、つれなくて過ぎてたしなむ人、天性その骨なけれども、道になづまず妄りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位にいたり、徳たけ人に許されて、ならびなき名をうることなり。天下の物の上手といへども、はじめは不堪のきこえもあり、無下の瑕瑾〔美玉の疵、轉じて一般の缺點〕もありき。されどもその人、道の掟正しく、これを重くして放埒〔馬を埒外に放つ如く、任意に遊び廻る意〕せざれば、世の博士にて、萬人の師となること、諸道かはるべからず。


151

ある人の曰く、年五十いそぢになるまで上手に至らざらむ藝をば捨つべきなり。勵み習ふべき行末もなし。老人おいびとのことをば人もえ笑はず、衆に交はりたるも、あひなく見苦し。大方萬のしわざは止めて、暇あるこそ目安くあらまほしけれ。世俗の事にたづさはりて、生涯を暮すは下愚の人なり。ゆかしく覺えむことは學び聞くとも、その趣を知りなば、覺束なからずして〔少し位分つた程度に到達して〕止むべし。もとより望む事なくしてやまむは、第一のことなり。


152

西大寺にしのおほでら〔大和添上郡にある、奈良七大寺の一〕靜然じゃうねん上人〔傳不詳〕、腰かゞまり眉白く、誠に徳たけたる有樣にて、内裏へ參られたりけるを、西園寺内大臣殿〔實衡、公衡の子〕、「あな尊との氣色や。」とて信仰の氣色きそくありければ、資朝卿〔藤原資朝。俊光の子、日野中納言と云ふ〕これを見て、「年のよりたるに候。」と申されけり。後日に、尨犬むくいぬ〔むく毛犬〕の淺ましく老いさらぼひて〔老衰し痩せ骨立ちて〕毛はげたるをひかせて、「この氣色尊く見えて候。」とて内府だいふへ參らせられたりけるとぞ。


153

爲兼大納言入道〔藤原爲兼、定家三代の孫〕めしとられて、武士ものゝふども打ち圍みて、六波羅〔京都洛東鳥戸郷一帶の總稱〕へ率て行きければ、資朝卿、一條わたりにてこれを見て、「あな羨し。世にあらむおもひで、かくこそ有らまほしけれ。」とぞいはれける。


154

この人、東寺〔今京都下京九條、教王護國寺、朱雀門の東なれば此の名稱がある〕の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者ども集り居たるが、手も足もねぢゆがみうちかへ〔身體のそり反り〕て、いづくも不具に異樣なるを見て、「とりに類なきくせ者なり、最も愛するに足れり。」と思ひて、まもり給ひけるほどに、やがてその興つきて、見にくくいぶせく覺えければ、「たゞすなほに珍しからぬものには如かず。」と思ひて、歸りて後、「この間植木を好みて、異樣に曲折あるを求めて目を喜ばしめつるは、かのかたは者を愛するなりけり。」と、興なく覺えければ、鉢にゑられける木ども、みなほり棄てられにけり。さもありぬべきことなり。


155

世に從はむ人は、まづ機嫌〔時機、都合〕を知るべし。序〔場合〕惡しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず、さやうの折節を心得べきなり。但し病をうけ、子うみ、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、ついであしとて止む事なし。生住しゃうぢう-ママ〈*しゃうぢゅう〉異滅〔生は産、住は居所〈*ママ〉、異は病にかゝつて異形になること、滅は死亡〕の移り變るまことの大事は、たけき河の漲り流るゝが如し。しばしも滯らず、直ちに行ひゆくものなり。されば眞俗〔眞諦と俗諦と、眞理と俗世間、修道も俗事にても〕につけて、かならず果し遂げむとおもはむことは、機嫌をいふべからず。とかくの用意なく、足を踏みとゞむまじきなり。春暮れて後夏になり、夏果てて秋の來るにはあらず。春はやがて夏の氣を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は則ち寒くなり、十月かんなづきは小春〔陰暦十月頃一時春の如く暖くなる折を云ふ〕の天氣、草も青くなり、梅も莟みぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちてめぐむにはあらず、下よりきざしつはる〔衝張る、芽ぐみきざす〕に堪へずして落つるなり。迎ふる氣下に設けたる〔下で支度してゐる〕故に、待ち取る序〔それを待ち受ける順序〕、甚だ早し。生老しゃうらう病死の移り來る事、又これに過ぎたり。四季はなほ定まれる序あり。死期しごは序を待たず。死は前よりしも來らず、かねてうしろに迫れり。人みな死ある事を知りて、待つ事しかも急ならざるに、覺えずして來る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の滿つるが如し。


156

大臣だいじん大饗だいきゃう〔任大臣の披露式〕は、さるべき所をまをし受けて行ふ、常のことなり。宇治左大臣殿〔藤原頼長、所謂惡左府、忠實の子、忠通の弟〕は、東三條殿〔二條の南町の西に在る御殿〕にて行はる。内裏にてありけるを申されけるによりて、他所へ行幸ありけり。させる事のよせ〔大した縁續き〕なけれども、女院にょゐん〔國母の佛門に入られし尊稱〕の御所など借り申す故實なりとぞ。


157

筆をとれば物書かれ、樂器がくきをとればをたてむと思ふ。杯をとれば酒を思ひ、賽をとれば〔支那で博奕の事を云ふ、攤錢〕うたむ事を思ふ。心は必ず事に觸れてきたる。假にも不善のたはぶれをなすべからず。あからさまに聖教の一句を見れば、何となく前後のふみも見ゆ。卒爾〈*ママ〉にして多年の非を改むる事もあり。假に今この文をひろげざらましかば、この事を知らむや。これすなはち觸るゝ所の益なり。心更に起らずとも、佛前にありて數珠ずゞを取り經を取らば、怠るうちにも善業ぜんごふ〔美果を得べき美しき業因、業は因果の關係の働き〕おのづから修せられ、散亂の心ながらも繩床じょうしゃう〔繩を張つた椅子、座禪工夫の座〕に坐せば、おぼえずして禪定〔無我の境に入る事、禪三昧に入る事〕なるべし。事理〔事は外にあらはれた所作、理は心の内の所作、現象と實在〕もとより二つならず、外相げさう〔外に現はれたすがた、現象〕若し背かざれば、内證〔心内の妙悟〕かならず熟す。強ひて不信といふべからず。あふぎてこれをたふとむべし。


158

「杯の底を捨つることはいかゞ心得たる。」とある人の尋ねさせ給ひしに、「凝當ぎょうたう〔凝當と魚道と似た發音なので、兼好が間違へて居たのである〕と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候らむ。」と申し侍りしかば、「さにはあらず、魚道ぎょだうなり。流れを殘して口のつきたる所をすゝぐなり。」とぞ仰せられし。


159

「みなむすび〔紐の結び方、表袴〈*うへのはかま〉袈裟などに用ゐる飾り〕といふは、絲をむすびかさねたるが、みなといふ貝に似たればいふ。」と或やんごとなき人、仰せられき。「にな」といふは誤りなり。


160

「門に額かくるを、「うつ」といふはよからぬにや。勘解由小路かでのこうぢ二品禪門〔世尊寺行忠、行尹の子〕は、「額かくる」とのたまひき。見物の「棧敷うつ」もよからぬにや。「平張〔日蔽ひのため上に平に張る幕〕うつ」などは常の事なり。棧敷構ふるなどいふべし。「護摩たく」といふもわろし。「しうする」「護摩する」などいふなり。「行法ぎゃうぼふ」も、「法」の字を清みていふ、わろし、濁りていふ。」と清閑寺せいがんじ僧正〔東山にあり、清閑寺の道我僧正〕仰せられき。常にいふ事にかゝることのみ多し。


161

花の盛りは、冬至〔日の最も短い時、通常十二月二十二日頃〕より百五十日とも、時正じしゃう〔春の彼岸の中日、晝夜平分の時〕の後七日ともいへど、立春〔冬から春になる日、陰暦正月の始め通常二月三四日〕より七十五日、おほやう違はず。


162

遍昭寺〔嵯峨廣澤にあつた寺〕承仕じょうじ法師〔寺の事觸れ法事の雜役をする役〕、池の鳥を日ごろ飼ひつけて、堂の内まで餌をまきて、戸ひとつをあけたれば、數も知らず入りこもりける後、おのれも入りて、立て篭めて捕へつつ殺しけるよそほひ、おどろしく聞えけるを、草刈る童聞きて人に告げければ、村の男ども、おこりて入りて見るに、大鴈おほがんどもふためきあへる中に、法師まじりて、うち伏せねぢ殺しければ、この法師を捕へて、所より使廳しちゃう〔檢非違使廳〕へ出したりけり。殺すところの鳥を頚にかけさせて、禁獄せられけり。基俊大納言別當〔同上〈*検非違使庁〉の長官〕の時になむ侍りける。


163

太衝たいしょう〔九月の異名〕の太の字、點打つ打たずといふこと、陰陽のともがら相論のことありけり。もりちか入道〔傳不詳〕申し侍りしは、「吉平〔安倍晴明の子、主計頭陰陽博士〕が自筆の占文うらぶみの裏に書かれたる御記、近衞關白殿にあり。點うちたるを書きたり。」と申しき。


164

世の人相逢ふ時、しばらくも默止することなし、必ず言葉あり。そのことを聞くに、おほくは無益の談なり。世間の浮説、人の是非、自他のために失多く得少し。これをかたる時、互の心に、無益のことなりといふことを知らず。


165

東の人〔東國の人、當時田舍者の代表の如く考へた〕の、都の人に交はり、都の人の、東に行きて身をたて、また本寺本山〔同じ意、諸末寺の長たる寺〕をはなれぬる顯密〔顯教と密教と。顯教は天台華嚴其の他の宗、密教は眞言宗〕の僧、すべてわが俗〔自分本來の風俗習慣〕にあらずして、人にまじはれる、見ぐるし。


166

人間にんげんの營みあへる業を見るに、春の日に雪佛を造りて、その爲に金銀珠玉の飾りを營み、堂塔を建てむとするに似たり。その構へ〔建設、建立〕を待ちてよく安置してむや。人の命ありと見る程も、したより消ゆる事、雪の如くなるうちに、いとなみ待つ〔計畫して竣成を待つ〕こと甚だ多し。


167

一道に携はる人、あらぬ道〔自分の專門ならぬ道〕むしろに臨みて、「あはれ我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを。」といひ、心にも思へる事、常のことなれど、世にわろく覺ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覺えば、「あな羨まし、などか習はざりけむ。」と言ひてありなむ。我が智を取り出でて人に爭ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙を噛み出す類なり。人としては善にほこらず、物と爭はざるを徳とす。他に勝る事のあるは大きなる失なり。品の高さにても、才藝のすぐれたるにても、先祖の譽にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干そこばくとがあり。謹みてこれを忘るべし。をこ〔馬鹿〕にも見え、人にもいひけたれ〔言ひ消される。けなされる〕、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。一道にもまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知るゆゑに、志常に滿たずして、つひに物に誇ることなし。


168

年老いたる人の、一事すぐれたる才能ありて、「この人の後には、誰にか問はむ。」などいはるゝは、おいの方人〔老人の味方、老人一般のため氣を吐くもの〕にて、生けるも徒らならず。さはあれど、それもすたれたる所のなきは〔一點も缺點のないのは、五分の隙もない程精煉されて居るのは〕、「一生この事にて暮れにけり。」と拙く見ゆ。「今はわすれにけり。」といひてありなむ。大方は知りたりとも、すゞろにいひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、おのづから誤りもありぬべし。「さだかにも辨へ知らず。」などいひたるは、なほまことに道のあるじとも覺えぬべし。まして知らぬこと、したり顔に、おとなしくもどきぬべくもあらぬ人のいひ聞かするを、「さもあらず。」と思ひながら聞き居たる、いとわびし。


169

「何事の式といふ事は、後嵯峨の御代迄はいはざりけるを、近き程よりいふ詞なり。」と、人の申し侍りしに、建禮門院〔高倉帝の中宮。平清盛の女。〕の右京大夫〔同上に仕へた女官の名、藤原伊行の女〕後鳥羽院ごとばのゐん御位みくらゐの後、また内裏住したることをいふに、「世の式も變りたる事はなきにも〔同女房の書いた右京大夫集を引用したのである〕。」と書きたり。


170

さしたる事なくて人のがり行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば疾く歸るべし。久しく居たる、いとむつかし。人とむかひたれば、詞多く、身もくたびれ、心も靜かならず、萬の事さはりて時を移す、互のため益なし。厭はしげにいはむもわろし、心づきなき事〔氣にくはぬ事、氣乘りのしない事〕あらむをりは、なか〔却つて〕その由をもいひてむ。おなじ心に向はまほしく思はむ人の、つれにて、「今しばし、今日は心しづかに。」などいはむは、この限りにはあらざるべし。阮籍〔晉の竹林七賢の一人〕が青きまなこ〔凉しい眼で親しむ意、晉書に「阮籍字嗣宗、不禮教、能爲青白眼對之、及稽喜來弔、籍作白眼喜不擇而退、喜弟康聞之、乃齎酒挾琴造焉、籍大悦乃見青眼。」〕、誰もあるべきことなり。その事となきに、人の來りて、のどかに物語して歸りぬる、いとよし。また文も、「久しく聞えさせねば。」などばかり言ひおこせたる、いと嬉し。


171

貝をおほふ人〔貝合せをする人〕の、わが前なるをばおきて、よそを見渡して、人の袖の陰、膝の下まで目をくばるに、前なるをば人に掩はれぬ。よく掩ふ人は、よそまでわりなく取るとは見えずして、近きばかりを掩ふやうなれど、多く掩ふなり。棊盤のすみに石を立てて彈くに、むかひなる石をまもりて彈くはあたらず。わが手もとをよく見て、こゝなるひじり目〔聖目、棊盤にある九の星〕をすぐに彈けば、立てたる石必ずあたる。萬のこと外に向きて求むべからず、たゞここもとを正しくすべし。清獻公〔宋の趙禹〕がことばに、「好事を行じて前程を問ふことなかれ。〔彼の座右銘に「行好事前程。」好事は善事〕」といへり。世を保たむ道もかくや侍らむ。内を愼まず、輕くほしきまゝにしてみだりなれば、遠國必ずそむく時、始めてはかりごとをもとむ。「風に當り濕に臥して、病を神靈に訴ふるは愚かなる人なり〔本草序に出て居る〕。」と醫書にいへるが如し。目の前なる人の愁へをやめ、惠みを施し、道を正しくせば、その化遠く流れむことを知らざるなり。禹〔夏の禹王〕の行きて三べう〔江淮荊州の蠻國、禹之を征服せしむる事が出來ず國内に歸つて徳政を布いたら三苗も自然と歸服した、尚書にある〕を征せしも、いくさをかへして徳を布くには如かざりき。


172

若き時は血氣内にあまり、心物に動きて、情欲〔喜怒哀樂愛惡欲の七情、眼耳鼻舌心意の六欲〕おほし。身をあやぶめて碎け易きこと、珠を走らしむるに似たり。美麗を好みて寶を費し、これを捨てて苔の袂〔僧衣、僧正遍照〈*ママ〉の歌に、「皆人は花の衣になりぬなり苔の袂よ乾きだにせよ」苔の衣とも云ふ〕にやつれ、勇める心盛りにして物と爭ひ、心に恥ぢ羨み、好む所日々に定まらず、色に耽り情にめで、行ひを潔くして百年もゝとせの身を誤り、命を失へたるためし願はしくして、身の全く久しからむことをば思はず。すけるかたに心ひきて、ながき世語りともなる。身をあやまつことは、若き時のしわざなり。老いぬる人は精神衰へ、淡くおろそかにして、感じ動くところなし。心おのづから靜かなれば、無益のわざをなさず、身を助けて愁へなく、人の煩ひなからむことを思ふ。老いて智の若き時にまされること、若くしてかたちの老いたるにまされるが如し。


173

小野小町がこと、極めてさだかならず。衰へたるさまは、玉造〔玉造小町壯衰書、小町の晩年を敍した漢文〕といふ文に見えたり。この文清行きよゆき〔三善清行〕が書けりといふ説あれど、高野大師〔弘法大師、高野山金剛峯寺の開祖、永和〈*承和〉三年〈*二年=835〉寂〕御作おんさくの目録に入れり。大師は承和のはじめにかくれ給へり。小町が盛り〔妙齡時代〕なる事、その後のことにや、なほおぼつかなし。


174

小鷹〔鴫鶉等の小禽を捉る小さな鷹〕によき犬、大鷹〔雉をとる大きな鷹〕に使ひぬれば、小鷹にわるくなるといふ。大に就き小を捨つる理まことにしかなり。人事じんじ多かる中に、道を樂しむより氣味深きはなし。これ實の大事なり。一たび道を聞きて、これに志さむ人、孰れの業かすたれざらむ、何事をか營まむ。愚かなる人といふとも、賢き犬の心に劣らむや。


175

世には心得ぬ事の多きなり。友あるごとには、まづ酒をすゝめ、強ひ飮ませたるを興とする事、いかなる故とも心得ず。飮む人の顔、いと堪へ難げに眉をひそめ、人目をはかりて〔人目をぬすんで〕捨てむとし、遁げむとするを捕へて、引き留めて、すゞろに〔無暗に〕飮ませつれば、うるはしき人〔謹嚴な人、端然たる人〕も忽ちに狂人となりてをこがましく、息災なる人も目の前に大事の病者びゃうじゃとなりて、前後も知らずたふれふす。祝ふべき日などはあさましかりぬべし。あくる日まであたまいたく、物食はずによび臥し〔うめき臥し〕しゃうを隔てたるやうにして〔隔生即忘の意、前世と生れ代つた現世と全く異にした如く〕、昨日のこと覺えず、公私おほやけわたくしの大事を缺きて煩ひとなる。人をしてかゝる目を見すること、慈悲もなく、禮儀にもそむけり。かく辛き目にあひたらむ人、ねたく〔恨めしく〕口惜しと思はざらむや。ひとの國にかゝる習ひあなりと、これらになき〔我が日本の國にない〕人事ひとごとにて傳へ聞きたらむは、あやしく不思議に覺えぬべし。人の上にて見たるだに、心うし。思ひ入りたるさまに〔思慮深げな樣で〕心にくしと〔奧ゆかしく〕見し人も、思ふ所なく〔分別もなく〕笑ひのゝしり、詞おほく、烏帽子ゑばうしゆがみ、紐はづし、脛高くかゝげて、用意なきけしき、日頃の人とも覺えず。女は額髪はれらかに〔あらはに、むきだしに〕掻きやり、まばゆからず〔恥しい樣もなく〕、顔うちさゝげてうち笑ひ、杯持てる手に取りつき、よからぬ人〔品のない下劣な人〕は、肴とりて口にさしあて〔人の口に押しつけ〕、みづからも食ひたる、さまあし。聲の限り出して、おの謠ひ舞ひ、年老いたる法師召し出されて、黑く穢き身を肩ぬぎて、目もあてられずすぢりたる〔身をひねらせ踊る意〕を、興じ見る人さへうとましく憎し。あるはまた我が身いみじき事ども、傍痛くいひ聞かせ、あるは醉ひ泣きし、下ざまの人はのりあひ〔罵り合ひ〕諍ひて、淺ましく、恐ろしく、はぢがましく、心憂き事のみありて、はては許さぬ物〔手にとつてはならぬと云ふ品物〕どもおし取りて、縁より落ち、馬車むまくるまより落ちてあやまちしつ。物にも乘らぬ際は、大路をよろぼひ行きて、築地、門の下などに向きて、えもいはぬ事〔嘔吐放尿などをさす〕ども爲ちらし、年老い袈裟かけたる法師の、小童の肩をおさへて、聞えぬ事〔わけのわからぬ事、こゝでは明かに男色に關するみだらな事〕どもいひつゝよろめきたる、いとかはゆし。かゝる事をしても、この世も後の世も、益あるべき業ならば如何はせむ。この世にては過ち多く、財を失ひ、病をまうく。百藥の長〔漢書に「夫鹽食肴之將、酒百藥之長。」〕とはいへど、萬の病は酒よりこそ起れ。憂へを忘る〔漢書東方朔傳に「鎖憂莫酒。」〕といへど、醉ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひ出でて泣くめる。後の世は、人の智惠を失ひ、善根を燒く事火の如くして、惡を増し、萬の戒を破りて、地獄に墮つべし。「酒をとりて人に飮ませたる人、五百生が間手なき者に生る〔梵網經に「自身手遇酒器人飮酒者五百世無手、何況自飮。」〕。」とこそ、佛は説き給ふなれ。かく疎ましと思ふものなれど、おのづから捨て難き折もあるべし。月の夜、雪の朝、花のもとにても、心のどかに物語して、杯いだしたる、萬の興を添ふるわざなり。つれなる日、思ひの外に友の入り來て、取り行ひたるも心慰む。なれしからぬあたり〔高貴の人〕の御簾のうちより、御菓子おんくだもの御酒みきなど、よきやうなるけはひしてさし出されたる、いとよし。冬せばき所にて、火にて物いりなどして、隔てなきどちさし向ひて多く飮みたる、いとをかし。旅の假屋、野山などにて、「御肴みさかな何。」などいひて、芝の上にて飮みたるもをかし。いたういたむ人〔非常に酒で惱む人、即ち下戸〕の、強ひられて少し飮みたるもいとよし。よき人のとりわきて、「今一つ、上すくなし。」などのたまはせたるも嬉し。近づかまほしき人の上戸にて、ひしと馴れぬる、また嬉し。さはいへど、上戸はをかしく罪許さるゝものなり。醉ひくたびれて朝寐あさいしたる所を、主人あるじの引きあけたるに、まどひて、ほれたる顔〔ねぼけた顔〕ながら、細きもとゞりさしいだし、物も著あへず抱きもち、引きしろひて〔ひつ張りひきずつて〕逃ぐるかいどり姿のうしろ手、毛おひたる細脛のほど、をかしくつきし。


176

黑戸〔黑戸御所、清凉殿の北、瀧口の戸の西〕は、小松の御門〔光孝帝、小松の山陵に葬つたからかく云ふ〕位に即かせ給ひて、昔唯人たゞびとおはしましし時、まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで常に營ませ給ひける間なり。御薪みかまぎに煤けたれば黑戸といふとぞ。


177

鎌倉の中書王〔一品中務卿宗尊親王、後嵯峨帝の第一皇子、中書王は中務卿の唐名、鎌倉幕府に將軍として居られた〕にておん鞠ありけるに、雨ふりて後未だ庭の乾かざりければ、いかゞせむと沙汰ありけるに、佐々木隱岐入道〔政義、義清の子〕、鋸の屑を車に積みておほく奉りたりければ、一庭に敷かれて、泥土のわづらひ無かりけり。「とりためけむ用意ありがたし。」と人感じあへりけり。この事をある者の語り出でたりしに、吉田中納言〔藤原藤房〕の、「乾き砂子の用意やはなかりける。」とのたまひたりしかば、恥しかりき〔作者自身も故實を知らなかつた故〕。いみじと思ひける鋸の屑、賤しく異樣のことなり。庭の儀を奉行する人、乾き砂子をまうくるは、故實なりとぞ。


178

ある所のさぶらひども、内侍所〔宮中内侍所、鏡を奉安せる所〕神樂を見て人に語るとて、「寶劒〔三種の神器の一なる天叢雲劒〕をばその人ぞ持ち給へる。」などいふを聞きて、内裏なる女房の中に、「別殿の行幸ぎゃうかうには、晝御座ひのござ御劒ぎょけんにてこそあれ。」と忍びやかにいひたりし、心憎かりき。その人、ふるき典侍なりけるとかや。


179

入宋にっそうの沙門道眼上人〔傳不詳〕、一切經を持來ぢらいして、六波羅のあたり、燒野といふ所に安置して、殊に首楞嚴經しゅれうごんきゃう〔一名中印度那蘭陀大道場經〕を講じて、那蘭陀寺と號す。その聖の申されしは、「那蘭陀寺は大門北むきなりと、江帥かうそち-ママ〔太宰權帥大江匡房〕の説とていひ傳へたれど、西域さいゐき〔玄奘が天竺へ行きし紀行文、大唐西域記〕法顯ほふけん-ママ〔法顯の天竺へ行きし紀行文〈*仏国記〉などにも見えず、更に所見なし。江帥はいかなる才覺にてか申されけむ、おぼつかなし。唐土の西明寺は北向き勿論なり。」と申しき。


180

さぎちやう〔三毬打、正月十五日清凉殿の東庭で青竹を燒く惡魔拂ひの儀式〕は、正月むつきに打ちたる毬杖ぎぢゃう〔毬打、正月毬を打つ兒童の遊戲具、槌に似たもの〕を、真言院〔大内裏、八書院〈*八省院〉の北、修法を行ふ道場〕より神泉苑しんぜんゑん〔二條の大宮なる池ある庭〕へ出して燒きあぐるなり。法成就〔三毬打の時に唄ふ歌詞〕の池にこそと囃すは、神泉苑の池をいふなり。


181

「降れ粉雪こゆき、たんばの粉雪といふ事、米搗きふるひたるに似たれば粉雪といふ。たまれ粉雪といふべきを、誤りて『たんばの』とは言ふなり。垣や木の股にとうたふべし。」と或ものしり申しき。昔よりいひけることにや。鳥羽院とばのゐんをさなくおはしまして、雪の降るにかく仰せられけるよし、讚岐典侍が日記〔堀河帝の女房の日記〕に書きたり。


182

四條大納言隆親卿〔隆衡の子〕、乾鮭〔干鮭〕といふものを供御ぐごに參らせられたりけるを、「かく怪しきもの參るやうあらじ。」と人の申しけるを聞きて、大納言、「鮭といふ魚まゐらぬことにてあらむにこそあれ。鮭の素干しらぼしなでふことかあらむ。鮎の素干はまゐらぬかは。」と申されけり。


183

人突く牛をば角を切り、人くふ馬をば耳を切りてそのしるしとす。しるしをつけずして人をやぶらせぬるは、ぬしの科なり。人くふ犬をば養ひ飼ふべからず。これみな科あり、律のいましめなり。


184

相模守時頼の母は、松下禪尼まつしたのぜんにとぞ申しける。守を入れ申さるゝことありけるに、煤けたるあかり障子の破ればかりを、禪尼手づから小刀して切りまはしつゝ張られければ、せうとの城介義景、その日の經營けいめい〔けいめい。世話役〕してさぶらひけるが、「たまはりて、なにがし男に張らせ候はむ。さやうの事に心得たるものに候。」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ。」とてなほ一間づゝ張られけるを、義景、「皆を張りかへ候はむは、遙かにたやすく候べし。斑に候も見苦しくや。」と、重ねて申されければ、「尼も後はさわと張りかへむと思へども、今日ばかりはわざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理しゅりして用ゐることぞと、若き人に見ならはせて、心づけむ爲なり。」と申されける、いと有り難かりけり。世を治むる道、儉約を本とす。女性にょしゃうなれども聖人の心に通へり。天下をたもつほどの人を子にて持たれける、誠にたゞ人にはあらざりけるとぞ。


185

じゃうの陸奧守泰盛〔城は出羽秋田城、城介で陸奧守を兼ねた、義景の子、北條時宗の舅〕は雙なき馬乘なりけり。馬を引き出でさせけるに、足をそろへてしきみをゆらりと超ゆるを見ては、「これは勇める馬なり。」とて鞍を置きかへ〔他の馬へ置きかへる〕させけり。また足を伸べて閾に蹴あてぬれば、「これは鈍くして過ちあるべし。」とて乘らざりけり。道を知らざらむ人、かばかり恐れなむや。


186

吉田と申す馬乘むまのりの申し侍りしは、「馬毎にこはきものなり。人の力爭ふべからずと知るべし。乘るべき馬をばまづよく見て、強き所弱き所を知るべし。次にくつわ鞍の具に危きことやあると見て、心にかゝる事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乘とは申すなり、これ秘藏ひざう〔秘傳、秘訣〕のことなり。」と申しき。


187

萬の道の人、たとひ不堪〔堪能ならぬこと、下手〕なりといへども、堪能〔上手〕非家ひかの人〔その道の專門外の人〕にならぶ時〔立ちならびて競技などする時〕、必ずまさることは、たゆみなく愼みて輕々かろしくせぬと、偏に自由なると〔專門外の人の勝手がましいのと〕の等しからぬなり。藝能所作のみにあらず、大方の振舞、心づかひも、愚かにして謹めるは得の本なり、巧みにしてほしきまゝなるは失の本なり。


188

ある者、子を法師になして、「學問して因果の理〔佛教の一教義、善因に善果、惡因に惡果ある理〕をも知り、説經などして世渡るたづき〔方法手段〕ともせよ。」といひければ、教のまゝに説經師にならむ爲に、まづ馬に乘りならひけり。「輿、車もたぬ身の、導師〔佛事の時主裁〈*ママ〉する人、説經師もその一〕に請ぜられむ時、馬など迎へにおこせたらむに、桃尻にて落ちなむは心憂かるべし。」と思ひけり。次に、「佛事の後、酒など勸むることあらむに、法師のむげに能なきは、檀那〔梵語ダンナパテの畧轉、施主、寺の保護者〕すさまじく思ふべし。」とて、早歌さうか〔當時流行した小唄の類であらう。〕といふ事をならひけり。二つのわざやうさかひに入りければ、いよよくしたく覺えて嗜みける程に、説經習ふべきひまなくて年よりにけり。この法師のみにもあらず、世間の人なべてこの事あり。若きほどは諸事につけて、身をたて、大きなる道をも成し、能をもつき、學問をもせむと、行末久しくあらます事〔豫期する事〕ども、心にはかけながら、世をのどかに思ひてうち怠りつゝ、まづさしあたりたる目の前の事にのみまぎれて月日をおくれば、事毎になすことなくして身は老いぬ。つひにものの上手にもならず、思ひしやうに身をも持たず、悔ゆれどもとり返さるゝ齡ならねば、走りて坂をくだる輪の如くに衰へゆく。されば一生のうち、むねとあらまほしからむこと〔主として最も希望する事〕の中に、いづれか勝ると、よく思ひくらべて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひすてて、一事を勵むべし。一日のうち一時のうちにも、數多のことの來らむなかに、すこしも益のまさらむことを營みて、その外をばうち捨てて、大事をいそぐべきなり。いづかたをも捨てじと心にとりもちては〔絶えず心に思つては、執著しては〕、一事も成るべからず。たとへばをうつ人、一手もいたづらにせず、人にさきだちて、小をすて大につくが如し。それにとりて、三つの石をすてて、とをの石につくことは易し。十をすてて十一につくことは、かたし。一つなりとも勝らむかたへこそつくべきを、十までなりぬれば惜しく覺えて、多くまさらぬ石には換へにくし。これをも捨てず、かれをも取らむと思ふこゝろに、かれをも得ず、これをも失ふべき道なり。京に住む人、急ぎて東山〔京都の東方に連る諸山の總稱〕に用ありて既に行きつきたりとも、西山〔京都の西なる諸山の總稱〕に行きてその益まさるべきを思ひえたらば、かどよりかへりて西山へゆくべきなり。「こゝまで來著きつきぬれば、この事をばまづいひてむ、日をささぬ〔日を指定せぬ、いつと日限をきめぬ〕ことなれば、西山の事はかへりてまたこそ思ひたためと思ふ故に、一時の懈怠けだいすなはち一生の懈怠となる。これをおそるべし。一事を必ず成さむと思はば、他の事の破るゝをも痛むべからず。人のあざけりをも恥づべからず。萬事にかへずしてはいつの大事成るべからず。人のあまたありける中にて、あるもの、「ますほの薄まそほの薄〔まは接頭語、そほは赭色、色の赤い穗のすゝき、ますほはまそほの轉訛で意味は同じだが、當時之を秘傳めかして區別したのである。〕などいふことあり。渡邊わたのべのひじり〔攝津渡邊に住んだ聖僧、傳不詳〕、この事を傳へ知りたり。」と語りけるを、登蓮法師〔傳不詳、作歌許りは詞花集以下の勅撰集にある、此の話は鴨長明の無名抄に出た。〕その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑笠やある、貸したまへ。かの薄のことならひに、渡邊の聖のがり尋ねまからむ。」といひけるを、「あまりに物さわがし。雨やみてこそ。」と人のいひければ、「無下の事をも仰せらるゝものかな。人の命は雨の晴間を待つものかは、我も死に、聖もうせなば、尋ね聞きてむや。」とて、はしり出でて行きつゝ、習ひ侍りにけりと申し傳へたるこそ、ゆゝしくありがたう覺ゆれ。「きときは則ち功あり〔論語に「敏則有功。」〕。」とぞ、論語といふ文にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁〔佛法の後世往生の因縁〕をぞ思ふべかりける。


189

今日はその事をなさむと思へど、あらぬ急ぎまづ出で來て紛れ暮し、待つ人は障りありて、頼めぬ〔頼みに思はなかつた〕人はきたり、頼みたる方のことはたがひて、思ひよらぬ道ばかりはかなひぬ。煩はしかりつる事はことなくて、安かるべき事はいと心苦し。日々に過ぎゆくさま、かねて思ひつるに似ず。一とせのこともかくの如し。一生の間もまたしかなり。かねてのあらまし、皆違ひゆくかと思ふに、おのづから違はぬ事もあれば、いよものは定めがたし。不定と心得ぬるのみ、誠にて違はず。


190

といふものこそ、をのこの持つまじきものなれ。「いつも獨り住みにて。」など聞くこそ心憎けれ。「たれがしが婿になりぬ。」とも、又、「いかなる女をとりすゑて〔娶つて家に置いて〕相住む。」など聞きつれば、無下に心劣りせらるゝわざなり。「異なることなき〔特長もない、平凡な〕女を、よしと思ひ定めてこそ、添ひ居たらめ。」と、賤しくもおし測られ、よき女ならば、「この男こそらうたくして〔可愛がつて〕、あが佛〔自分の本尊〕と守りゐたらめ。たとへば、さばかりにこそ。」と覺えぬべし。まして家の内を行ひをさめたる女、いと口惜し。子など出できて、かしづき〔大事にし〕愛したる、心憂し。男なくなりて後、尼になりて年よりたる有樣、亡きあとまで淺まし。いかなる女なりとも、明暮そひ見むには、いと心づきなく憎かりなむ。女のためも、半空なかぞら〔中途半端、どつちつかず〕にこそならめ。よそながら時々通ひ住まむこそ、年月へても絶えぬなからひともならめ。あからさまに來て、泊りなどせむは、めづらしかりぬべし。


191

夜に入りて物のはえ〔物の光彩〕無しといふ人、いと口惜し。萬の物のきら、飾り、色ふし〔色あひ〕も、夜のみこそめでたけれ。晝は事そぎ〔省畧する〕、およすげたる〈*ママ〉〔ませた、じみな人目につかぬ〕姿にてもありなむ。夜はきらゝかに花やかなる裝束さうぞくいとよし。人のけしきも、夜の火影ほかげぞよきはよく〔よきものはいよよく〕、物いひたる聲も、暗くて聞きたる、用意ある、心憎し。匂ひも物の音も、たゞ夜ぞひときはめでたき。さして異なる事なき夜、うち更けて參れる人の、清げなる樣したる、いとよし。若きどち心とどめて見る人は、時をも分かぬものなれば、殊にうちとけぬべき折節ぞ、褻晴れなく〔褻と晴となく、ふだん著と晴著との區別なく〕引きつくろはまほしき。よきをのこの、日くれてゆするし〔泔し、米汁にて髪を洗ふ事、こゝでは髪を洗ひ梳り〕、女も夜更くる程に、すべり〔退出し〕つゝ、鏡とりて顔などつくろひ出づるこそをかしけれ。


192

神佛かみほとけにも、人の詣でぬ日、夜まゐりたる、よし。


193

くらき人〔闇愚者〕の、人をはかりて〔忖度して、推量して〕、その智を知れりと思はむ、更に當るべからず。拙き人の、棊うつことばかりにさとくたくみなるは、賢き人のこの藝におろかなるを見て、おのれが智に及ばずと定めて、萬の道のたくみ、わが道を人の知らざるを見て、おのれ勝れたりと思はむこと、大きなるあやまりなるべし。文字もんじの法師、暗證あんじょうの禪師〔學問を主とする法師、即ち教相を習うて實際的の坐禪を知らぬ僧と、坐禪工夫を主として、教理の研究の足らぬ僧と〕たがひにはかりて、おのれに如かずと思へる、共にあたらず。己が境界にあらざるものをば、爭ふべからず、是非すべからず。


194

達人〔道理に通達する人、賢達の人〕の人を見るまなこは、少しも誤る處あるべからず。たとへば、ある人の、世に虚言を構へ出して、人をはかることあらむに、素直に眞と思ひて、いふ儘にはからるゝ人あり。あまりに深く信をおこして、なほ煩はしく虚言を心得添ふる人あり。また何としも思はで、心をつけぬ人あり。又いさゝかおぼつかなく覺えて、たのむにもあらずたのまずもあらで、案じ居たる人あり。又まことしくは覺えねども、人のいふことなれば、さもあらむとて止みぬる人もあり。又さまに推し心得たるよしして、かしこげに打ちうなづき、ほゝゑみて居たれど、つや知らぬ人あり。また推し出して、あはれさるめりと思ひながら、なほ誤りもこそあれと怪しむ人あり。又異なるやうも無かりけりと、手を打ちて笑ふ人あり。また心得たれども、知れりともいはず、おぼつかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。またこの虚言の本意ほんいを、初めより心得て、すこしも欺かず、構へいだしたる人とおなじ心になりて、力をあはする人あり。愚者の中のたはぶれだに、知りたる人の前にては、このさまの得たる所〔特質〕、詞にても顔にても、かくれなく知られぬべし。ましてあきらかならむ人の、惑へるわれらを見むこと、たなごゝろの上のものを見むがごとし。たゞしかやうのおしはかりにて、佛法までをなずらへ言ふべきにはあらず。


195

ある人、久我畷こがなはて〔京都の南、鳥羽の西、桂川の西岸から山崎へ至る眞直ぐな道〕を通りけるに、小袖〔下著〕に大口〔大口袴、束帶の時表袴の下に著る裾の口の大きくあいてる〈*ママ〉袴〕きたる人、木造きづくりの地藏を田の中の水におしひたして、ねんごろに洗ひけり。心得がたく見るほどに、狩衣の男二人三人出で來て、「こゝにおはしましけり。」とて、この人を具して往にけり。久我内大臣殿〔通基、通忠の子〕にてぞおはしける。尋常よのつねにおはしましける時は〔平常あたりまへの時は。即ち今精神に發作的異常のある事をほのめかしてある〕神妙しんべうにやんごとなき人にておはしけり。


196

東大寺の神輿しんよ〔奈良東大寺の鎭守である手向山八幡宮の神輿〕、東寺の若宮〔東寺の鎭守たる男山八幡宮に本宮と若宮とがある、若宮は仁徳帝をまつる〕より歸座〔男山から手向山へ歸る事〕のとき、源氏の公卿參られけるに、この殿〔前出の久我通基〕大將たいしゃうにて、先を追はれけるを、土御門相國〔定實〕、「社頭にて警蹕けいひつ〔先を追ふ事〕いかゞはべるべからむ。」と申されければ、「隨身のふるまひは、兵仗の家が知る事に候。」とばかり答へ給ひけり。さて後に仰せられけるは、「この相國、北山抄〔藤原公任の著書。一條帝以後の典禮を書いてある〕を見て、西宮せいきう〔源高明著の西宮記〕の説をこそ知られざりけれ。眷属の惡鬼あくき惡神を恐るゝゆゑに、神社にて殊に先を追ふべき理あり。」とぞ仰せられける。


197

諸寺の僧のみにもあらず、定額ぢゃうがくの女嬬〔一定の人數の下級の女官〕といふこと、延喜式〔延喜年間に出來し年中行事典禮の書、藤原時平、忠平の編著〕に見えたり。すべて數さだまりたる公人くにんの通號にこそ。


198

揚名介やうめいのすけ〔名目ありて職掌俸給なき介〕に限らず、揚名さくゎん〔國司中第四級目の役〕といふものあり。政事要畧〔古來の法制を編纂したる書、一條帝の時惟宗允亮〈*まさすけ〉編〕にあり。


199

横川よがは〔叡山横川谷〕の行宣法印が申しはべりしは、「唐土は呂の國なり、律のこゑなし。和國は單律の國にて呂の音なし。」と申しき。


200

呉竹は葉ほそく、河竹は葉ひろし。御溝みかはにちかきは河竹、仁壽殿じじうでん〔清凉殿東〕の方に寄りて植ゑられたるは呉竹なり。


201

退凡下乘〔凡人の出入を禁じ、貴人も車馬から下る、標札の代りに三つの卒塔婆〕の卒塔婆、外なるは下乘、内なるは退凡なり。


202

十月をかみなづき〔雷無月とか神嘗月とか諸説がある。〕といひて、神事に憚るべき由は、記したるものなし。本文ほんもんも見えず。たゞし、當月諸社の祭なきゆゑに、この名あるか。この月萬の神たち、太神宮へ集り給ふなどいふ説あれども、その本説なし。さる事ならば、伊勢には殊に祭月とすべきに、その例もなし。十月、諸社の行幸ぎゃうかう、その例も多し。但し多くは不吉の例なり。


203

敕勘ちょくかんの所にゆぎ〔矢を入れる器〕かくる作法、今は絶えて知れる人なし。主上の御惱ごなう、大かた世の中のさわがしき時は、五條の天神〔京都五條南、西洞院の西、少彦名神〕に靫をかけらる。鞍馬に靫の明神といふも、靫かけられたりける神なり。看督長かどのをさ〔檢非違使廳附屬の官〕の負ひたる靫を、その家にかけられぬれば、人出で入らず。この事絶えて後、今の世には、封をつくることになりにけり。


204

犯人をしもとにて打つ時は、拷器がうきによせて結ひつくるなり。拷器のやうも、よする作法も今はわきまへ知れる人なしとぞ。


205

比叡山に、大師勸請くゎんじゃうの起請文〔慈惠大師の書かれた神佛の靈を迎へ請じての誓文〕といふ事は、慈惠じゑ僧正〔良源、近江淺井の人、後天台座主となる。〕書きはじめ給ひけるなり。起請文といふ事、法曹にはその沙汰なし。古の聖代、すべて起請文につきて行はるゝ政はなきを、近代このこと流布したるなり。また法令には、水火に穢れをたてず、入物いれものにはけがれあるべし。


206

徳大寺右大臣殿〔公孝、後太政大臣〕檢非違使の別當のとき、中門にて使廳の評定行はれけるほどに、官人くゎんにん章兼が牛はなれて、廳のうちへ入りて、大理〔同檢非違使別當の唐名〕の座の濱床〔三尺四方、高さ一尺の臺四つを合し上に疊を敷き帳を埀れし貴人席〕の上にのぼりて、にれ〔獸の反芻〕うち噛みて臥したりけり。重き怪異けいなりとて、牛を陰陽師のもとへ遣すべきよし、おの申しけるを、父の相國聞きたまひて、「牛に分別なし、足あらばいづくへかのぼらざらむ。尫弱わうじゃくの官人、たま出仕の微牛をとらるべきやうなし。」とて、牛をば主にかへして、臥したりける疊をばかへられにけり。あへて凶事なかりけるとなむ。怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりてやぶる〔千金方に「見怪不怪、其怪自壞。」〕といへり。


207

龜山殿〔嵯峨龜山の仙洞御所〕建てられむとて、地を引かれけるに、大きなるくちなは數もしらず凝り集りたる塚ありけり。この所の神なりといひて、事の由申しければ、「いかゞあるべき。」と敕問ありけるに、「ふるくよりこの地を占めたるものならば、さうなく掘り捨てられがたし。」とみな人申されけるに、この大臣一人、「王土に居らむ蟲、皇居を建てられむに、何の祟りをかなすべき。鬼神は邪なし。咎むべからず。唯皆掘りすつべし。」と申されたりければ、塚をくづして、蛇をば大井川に流してけり。更にたゝりなかりけり。


208

經文などの紐〔卷物の經文で紐がある。〕を結ふに、上下うへしたより襷にちがへて〔襷のやうに交叉し〕、二すぢのなかより、わな〔紐の曲つた先を云ふ。〕かしらを横ざまにひき出すことは、常のことなり。さやうにしたるをば、華嚴院の弘舜僧正〔傳不詳〕解きて直させけり。「これはこの頃やう〔近代風、當世風〕のことなり。いと見にくし。うるはしくは〔完全なのは〕、たゞくるくると捲きて上より下へ、わなの先をさしはさむべし。」と申されけり。ふるき人にて、かやうのこと知れる人になむ侍りける。


209

人の田を論ずるもの、うたへにまけてねたさに、その田を刈りて取れとて、人をつかはしけるに、まづ道すがらの田をさへ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは。」といひければ、刈るものども、「その所とても刈るべき理なけれども、僻事せむとてまかるものなれば、いづくをか刈らざらむ。」とぞいひける。ことわりいとをかしかりけり。


210

喚子鳥〔古今三鳥の一としてやかましく云ふ鳥、郭公鳥であらうと云ふ。〕は春のものなりと許りいひて、いかなる鳥ともさだかに記せる物なし。ある眞言書のうちに、喚子鳥なくとき招魂の法〔死者の魂を呼び招く秘法〕をば行ふ次第あり。これはぬえ〔梟の類〕なり。萬葉集の長歌ながうたに、「霞たつ永き春日はるび〔同卷一、「ぬえこどりうらなけ居れば」云々〕。」など續けたり。鵺鳥も喚子鳥の事樣に通ひて聞ゆ。


211

萬の事は頼むべからず。愚かなる人は、深くものを頼むゆゑに、うらみ怒ることあり。勢ひありとて頼むべからず、こはき者まづ滅ぶ。財多しとて頼むべからず、時の間に失ひやすし。才ありとて頼むべからず、孔子も時に遇はず〔史記に「孔子于七十餘君遇。」〕。徳ありとてたのむべからず、顔囘も不幸なりき〔論語に「有顔囘者不幸短命死。」〕。君の寵をも頼むべからず、誅をうくる事速かなり。奴したがへりとて頼むべからず、そむき走ることあり。人の志をも頼むべからず、かならず變ず。約をも頼むべからず、まことあることすくなし。身をも人をも頼まざれば、是なる時はよろこび、非なる時はうらみず、左右さう廣ければさはらず、前後遠ければふさがらず、せばき時はひしげくだく〔壓し碎く〕。心を用ゐること少しきにしてきびしき時は、物にさかひ爭ひてやぶる。ゆるくして柔かなるときは、一毛も損ぜず。人は天地の靈なり。天地はかぎるところなし。人のしゃう何ぞ異ならむ。寛大にして窮らざるときは、喜怒これにさはらずして、物のためにわづらはず。


212

秋の月は限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分かざらむ人は、無下に心うかるべきことなり。


213

御前の火爐くゎろ〔火鉢〕に火おくときは、火箸して挾む事なし。土器かはらけより直ちにうつすべし。されば轉び落ちぬやうに心得て、炭を積むべきなり。八幡やはた御幸ごかう〔男山八幡宮に上皇のゆかれる事〕に、供奉の人淨衣を著て、手にて炭をさされければ、ある有職の人、「白き物を著たる日は、火箸を用ゐる、苦しからず。」と申されけり。


214

想夫戀さうふれん〔白氏文集には相夫憐とある、相府蓮といふ説もある、本文に出て居る。〕といふ樂は、女、男を戀ふる故の名にはあらず。もとは相府蓮、文字のかよへるなり。晉の王儉、大臣おとゞとして、家にはちすを植ゑて愛せしときの樂なり。これより大臣を蓮府れんぷ〔大臣の邸〕といふ。廻忽くゎいこつ〔樂の名〕廻鶻くゎいこつなり。廻鶻國〔囘乾とも云ふ、外蒙古の一種族〕とて夷のこはき國あり、その夷、漢に伏して後にきたりて、おのれが國の樂を奏せしなり。


215

平宣時朝臣〔大佛陸奧守宣時、朝直の子〕、老いの後昔語に、「最明寺入道、ある宵の間によばるゝ事ありしに、『やがて〔すぐ〕。』と申しながら、直垂のなくて、とかくせし程に、また使きたりて、『直垂などのさふらはぬにや。夜なれば異樣〔粗末のもの〕なりとも疾く。』とありしかば、なえたる〔布の糊がぬけて萎えたる〕直垂、うちの儘にて〔平常のまゝで〕罷りたりしに、銚子にかはらけ取りそへてもて出でて、『この酒をひとりたうべむ〔たべん〕がさうしければ申しつるなり。肴こそなけれ、人はしづまりぬらむ。さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ。』とありしかば、紙燭しそく〔脂燭とも書く、紙に脂油をぬりしもの〕さしてくま〔すみずみ〕を求めしほどに、臺所の棚に、小土器こがはらけに味噌の少しつきたるを見出でて、『これぞ求め得て候。』と申ししかば、『事足りなむ。』とて、心よく數獻すこんに及びて興に入られはべりき。その世にはかくこそ侍りしか。」と申されき。


216

最明寺入道、鶴岡の社參のついでに、足利左馬入道〔足利義氏、義兼の子〕の許へ、まづ使を遣して、立ちいられたりけるに、あるじまうけられたりけるやう〔饗應設備の樣〕、一獻に打鮑〔鮑肉を打ちのべたもの〕、二獻にえび、三獻にかいもちひ〔今の萩の餅〕にて止みぬ。その座には、亭主ていす夫婦、隆辨僧正〔鶴ヶ岡八幡の別當〕、あるじ方〔主人側〕の人にて坐せられけり。さて、「年ごとに賜はる足利の染物心もとなく〔不安心、貰へるか心配〕候。」と申されければ、「用意し候。」とて、いろいろの染物三十、前にて、女房どもに小袖に調ぜさせ〔仕立てさせ〕て、後につかはされけり。その時見たる人のちかくまで侍りしが、かたり侍りしなり。


217

ある大福長者の曰く、「人は萬をさしおきて、一向ひたぶるに徳をつく〔富を身につける〕べきなり。貧しくては生けるかひなし。富めるのみを人とす。徳をつかむとおもはば、すべからくまづその心づかひを修行すべし。その心といふは他の事にあらず。人間常住の思ひに住して、假にも無常を觀ずる事なかれ。これ第一の用心なり。次に萬事の用をかなふべからず。人の世にある、自他につけて所願無量なり。欲に從ひて志を遂げむと思はば、百萬の錢ありといふとも、しばらくも住すべからず。所願は止むときなし。財は盡くるあり。かぎりある財をもちてかぎりなき願ひに從ふこと、得べからず。所願心に兆すことあらば、われを亡すべき惡念きたれりと、かたく愼みおそれて、小用〔一寸した用〕をもなすべからず。次に、錢を奴〔下僕〕の如くしてつかひ用ゐるものと知らば、長く貧苦を免るべからず。君の如く神のごとくおそれ尊みて、從へ用ゐることなかれ。次に恥にのぞむといふとも、怒り怨むる事なかれ。次に正直にして、約をかたくすべし。この義を守りて利をもとめむ人は、富の來ること、火の乾けるに就き、水の下れるに從ふ〔非常に容易に出來る比喩、易に「水流濕、火就燥。」〕が如くなるべし。錢つもりて盡きざるときは、宴飮聲色〔酒宴と音樂と性欲〕を事とせず、居所をかざらず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く樂し。」と申しき。そも人は所願を成ぜむがために財をもとむ。錢を財とする事は、願ひをかなふるが故なり。所願あれどもかなへず、錢あれども用ゐざらむは、全く貧者とおなじ。何をか樂しびとせむ。このおきてはたゞ人間の望みを絶ちて、貧を憂ふべからずと聞えたり。欲をなして樂しびとせむよりは、しかじ財なからむには。癰疽ようそ〔共に腫物の名稱、發熱烈しく危險な腫物〕を病む者、水に洗ひて樂しびとせむよりは、病まざらむには如かじ。こゝに至りては、貧富分くところなし。究竟くきゃう〔天台に六階級あつて凡夫が成佛するまでを分つてある、究竟はその最高。〕は理即〔同上の最低階級、單に佛性のみ具備して開覺されないもの〕にひとし。大欲は無欲に似たり。


218

狐は人に食ひつく者なり。堀河殿〔太政大臣久我基具の邸〕にて、舍人〔御厩の牛飼〕が寢たる足を、狐にくはる。仁和寺にて、夜、本寺の前を通る下法師〔身分の低い法師〕に、狐三つ飛びかゝりて食ひつきければ、刀を拔きてこれをふせぐ間、狐二疋を突く。一つはつき殺しぬ。二は遁げぬ。法師はあまた所くはれながら、ことゆゑなかりけり。


219

四條黄門〔中納言四條隆資、黄門は中納言の唐名〕命ぜられて曰く、「龍秋〔樂人豐原龍秋、笙の名手〕は道にとりてはやんごとなき者なり。先日來りて曰く、『短慮の至り〔淺はかな考への至り、謙遜した語〕、極めて荒涼くゎうりゃう〔すさまじい無作法〕の事なれども、横笛わうてきの五の穴〔横笛には吹口の外七つ穴がある、その笛の端から三つ目の穴、下無調〕は、聊かいぶかしき所の侍るかと、ひそかにこれを存ず。そのゆゑは、かんの穴〔同じく二つ目の穴、平調〕平調ひゃうでう、五の穴は下無調しもむでうなり。その間に勝絶調しょうぜつでう〈*以下〉皆七つの笛穴より出づ〈*る〉音律の中間の音である。〕をへだてたり。じゃうの穴〔雙調とも云ふ。〕雙調さうでう、次に鳧鐘調ふしょうでうをおきて、さくの穴黄鐘調わうじきでうなり。その次に鸞鏡調らんけいでうをおきて、中の穴盤渉調ばんじきでう、中と六とのあはひに神仙調あり。かやうに間々にみな一律をぬすめるに、五の穴のみ上の間に調子をもたずして、しかも間をくばる事ひとしきゆゑに、その聲不快なり。さればこの穴を吹くときは、かならずのく。のけあへぬときは物にあはず。吹き得る人難し。』と申しき。料簡れうけんのいたり、まことに興あり。先達後生を恐るといふ事、この事なり。」と侍りき。他日に景茂かげもち〔大神景茂〕が申し侍りしは、「笙は調べおほせてもちたれば、たゞ吹くばかりなり。笛はふきながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴ごとに口傳の上に、性骨せいこつ〔天性得た骨〕を加へて心を入るゝ事、五の穴のみにかぎらず。偏にのくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も快からず。上手はいづれをも吹きあはす。呂律〔調子〕のものにかなはざるは、人の咎なり、うつはものの失にあらず。」と申しき。


220

「何事も、邊土は卑しくかたくななれども、天王寺てんわうじ〔大阪に存する四天王寺〕の舞樂のみ、都に恥ぢず。」といへば、天王寺の伶人〔樂人〕の申し侍りしは、「當寺の樂は、よく圖をしらべ合せて、物の音のめでたく整ほり侍ること、外よりも勝れたり。ゆゑは太子〔聖徳太子、即ち四天王寺の創建者〕の御時の圖、今にはべる博士はかせ〔節博士、音譜を云ふ〕とす。いはゆる六時堂〔晨朝、日中、日沒、初夜、中夜、後夜の六時に勤をする堂〕の前の鐘なり。そのこゑ黄鐘調の最中もなか〔黄鐘調は音調の名、そのまんなか〕なり。寒暑に從ひてあがさがりあるべきゆゑに、二月きさらぎ涅槃會ねはんゑより聖靈會しゃうりゃうゑ〔二月二十二日聖徳太子の忌日〕までの中間を指南とす。秘藏ひざうのことなり。この一調子をもちて、いづれの聲をもとゝのへ侍るなり。」と申しき。およそ鐘のこゑは黄鐘調なるべし。これ無常の調子、祇園精舍の無常院〔印度舍衞國の寺院、その西北隅にある無常院と云ふ寺〕の聲なり。西園寺〔山城衣笠岡の西北、西園寺公經の建立した寺〕の鐘、黄鐘調に鑄らるべしとて、あまたたび鑄替へられけれども、かなはざりけるを、遠國をんごくよりたづね出されけり。法金剛院〔山城葛野郡太秦にある寺〕の鐘の聲、また黄鐘調なり。


221

建治弘安のころは、祭の日の放免ほうべん〔檢非違使廳の下部の名稱〕のつけものに、異樣なる紺の布四五たんにて、馬をつくりて、尾髪をがみには燈心をして、蜘蛛のかきたる水干〔水ばりせし絹の狩衣〕に附けて、歌の心などいひて渡りしこと、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか。」と、老いたる道志〔明法道の者、檢非違使廳四番目の役になつた名稱〕どもの、今日けふもかたりはべるなり。この頃は、つけもの年をおくりて、過差くゎさことの外になりて、萬の重きものを多くつけて、左右さうの袖を人にもたせて、みづからはほこをだに持たず、息づき苦しむ有樣いと見ぐるし。


222

竹谷〔山城醍醐の地名〕の乘願房〔そこに居りし淨土宗の法師〕東二條院とうにでうのゐん〔後深草帝の皇后公子〕へ參られたりけるに、「亡者の追善には何事か勝利多き。」と尋ねさせ給ひければ、「光明眞言、寶篋印陀羅尼〔共に眞言宗の呪語〕。」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念佛に勝ること候まじとは、など申し給はぬぞ。」と申しければ、「わが宗なれば、さこそ申さまほしかりつれども、まさしく稱名しゃうみゃうを追福にしゅして巨益こやくあるべしと説ける經文を見及ばねば、何に見えたるぞと、重ねて問はせ給はば、いかゞ申さむとおもひて、本經ほんぎゃうのたしかなるにつきて、この眞言、陀羅尼をば申しつるなり。」とぞ申されける。


223

田鶴たづ大殿おほいどの〔九條基家、良經の子〕は、童名たづ君なり。「鶴を飼ひ給ひける故に。」と申すは僻事なり。


224

陰陽師有宗入道〔陰陽頭安位、有宗、有重の子〕、鎌倉より上りて、尋ねまうできたりしが、まづさし入りて、「この庭の徒らに廣き事、淺ましく、あるべからぬことなり。道を知るものは、植うる事をつとむ。細道ひとつ殘して、みな畠に作りたまへ。」と諫め侍りき。誠にすこしの地をも徒らに置かむことはやくなきことなり。食ふ物、藥種などうゑおくべし。


225

多久資おほのひさすけ〔多氏、音樂家の家〕が申しけるは、通憲入道〔藤原信西、平治亂に殺された。〕、舞の手のうちに興ある事どもを選びて、磯の禪師〔舞姫、讚岐國小磯から出た。〕といひける女に教へて、舞はせけり。白き水干に鞘卷さうまき〈*原文ルビ「きうまき」〉〔鍔なき短刀の一種〕をささせ、烏帽子をひき入れ〔かぶる〕たりければ、男舞とぞいひける。禪師がむすめ靜といひける、この藝をつげり。これ白拍子の根源なり。佛神ぶっしんの本縁〔由來〕をうたふ。その後源光行〔歌人、光末の子〕、おほくの事をつくれり。後鳥羽院の御作もあり。龜菊〔京都白拍子〕に教へさせ給ひけるとぞ。


226

後鳥羽院の御時、信濃前司〔以前の國司〕行長〔傳不詳〕稽古のほまれありけるが、樂府〔漢詩の一詩形〕論議の番に召されて、七徳の舞〔秦王破陣樂の一名、武徳の頌語七つある、之を七徳と稱する。〕を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚くゎしゃう、一藝ある者をば、下部までも召しおきて、不便ふびんにせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。この行長入道平家物語を作りて、生佛〔琵琶の名手〕といひける盲目に教へて語らせけり。さて山門のことを殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事弓馬のわざは、生佛東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり。


227

六時禮讃〔淨土宗で、晝夜六時に禮拜讃美する歌〕は、法然上人の弟子安樂といひける僧、經文を集めて作りて勤めにしけり。その後太秦の善觀房〔傳不詳〕といふ僧、ふしはかせを定めて聲明しゃうみゃう〔印度聲樂の一、經文を美音で朗讀する事、一名梵唄〕になせり。一念の念佛〔稱名念佛、一聲口の念佛〕の最初なり。後嵯峨院の御代より始まれり。法事讚〔唱文の名〕も同じく善觀房はじめたるなり。


228

千本〔京都北野神社の東北にある大報恩寺〕の釋迦念佛〔同寺で三月九日から十五日まである法會〕は、文永のころ、如輪じょりん上人〔法然上人の門弟、澄空〕これを始められけり。


229

よき細工は、少し鈍き刀をつかふといふ。妙觀〔攝津勝尾寺の僧、同寺の觀音を刻む。〕が刀はいたく立たず。


230

五條の内裏には妖物ばけものありけり。とうの大納言殿〔藤原爲世の事であらう。〕語られ侍りしは、殿上人ども、黑戸〔清凉殿の北、瀧口の戸の西〕にて棊をうちけるに、御簾をかゝげて見る者あり。「そ。」と見向きたれば、狐、人のやうについゐてさしのぞきたるを、「あれ狐よ。」ととよまれて、まどひ逃げにけり。未練の狐化け損じけるにこそ。


231

「『園別當入道〔藤原基氏、基家の子〕は、さうなき庖丁者はうちゃうじゃ〔料理人〕なり。ある人の許にて、いみじき鯉を出したりければ、みな人、別當入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でむも如何とためらひけるを、別當入道さる人にて、「この程百日の鯉〔祈願により百日間、毎日鯉を切る事〕を切り侍るを、今日缺き侍るべきにあらず、まげて申しうけむ。」とて切られける、いみじくつきしく興ありて、人ども思へりける。』と、ある人北山太政入道殿〔西園寺公經〕に語り申されたりければ、『かやうの事、おのれは世にうるさく覺ゆるなり。切りぬべき人なくば、たべ〔自分の方へ賜への意〕、切らむといひたらむは、猶よかりなむ。なんでふ百日の鯉を切らむぞ。』と宣ひたりし、をかしくおぼえし。」と人のかたり給ひける、いとをかし。大かたふるまひて興あるよりも、興なくて安らかなるがまさりたることなり。賓客まれびとの饗應なども、ついで〔機會〕をかしき樣にとりなしたるも、誠によけれども、唯その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らむ。」といひたる、まことの志なり。惜しむよしして乞はれむと思ひ、勝負の負けわざ〔物をかけて勝負する事〕にことつけなどしたる、むつかし。


232

すべて人は無智無能なるべきものなり。ある人の子の、見ざまなど惡しからぬが、父の前にて人と物いふとて、史書の文をひきたりし、さかしくは聞えしかども、尊者の前にては、らずともと覺えしなり。

またある人の許にて、琵琶法師の物語をきかむとて、琵琶を召しよせたるに、ぢう〔琴ぢの類、絃の下に立て絲を受けるもの、琵琶ではぢうと云ふ。〕のひとつ落ちたりしかば、「作りてつけよ。」といふに、ある男のうちに、あしからずと見ゆるが、「ふるき柄杓ひさくありや。」などいふを見れば、爪をおふしたり。琵琶など彈くにこそ。めくら法師の琵琶、その沙汰にもおよばぬことなり。道に心えたるよしにやと、かたはらいたかりき。「ひさくの柄は、ひもの〔薄き檜の板を曲げしものを云ふ。〕木とかやいひて、よからぬものに。」とぞ、或人仰せられし。わかき人は、少しの事もよく見え、わろく見ゆるなり。


233

萬のとが〔過失〕あらじと思はば、何事にも誠ありて、人を分かず〔人を區別せず〕恭しく、言葉すくなからむには如かじ。男女なんにょ老少みなさる人こそよけれども、殊に若くかたちよき人の、言うるはしきは〔言葉の丁寧なのは〕、忘れがたく思ひつかるゝ〔印象を殘される〕ものなり。よろづのとがは、馴れたるさまに上手めき〔上手を衒ひ、上手ぶり〕、所得たるけしきして、人をないがしろにするにあり。


234

人の物を問ひたるに、知らずしもあらじ〔先方が知らないわけでもあるまい〕。有りのまゝにいはむはをこがまし〔馬鹿らしい〕とにや、心まどはす〔先方で理解出來ず迷ふ〕やうに返り事したる、よからぬ事なり。知りたる事も、猶さだかにと思ひてや問ふらむ。又まことに知らぬ人もなどか無からむ。うらゝか〔明瞭〕に言ひ聞かせたらむは、おとなしく〔穩健に〕聞えなまし。人はいまだ聞き及ばぬことを、わが知りたる儘に、「さてもその人の事の淺ましき。」などばかり言ひやりたれば、いかなる事のあるにかと推し返し問ひにやるこそ、こゝろづきなけれ。世にふりぬる事をも、おのづから聞きもらす事もあれば、覺束なからぬやうに告げやりたらむ、惡しかるべきことかは。かやうの事は、ものなれぬ人のあることなり。


235

ぬしある家には、すゞろなる人〔用のない人、むやみな人〕、心の儘に入り來る事なし。あるじなき所には道行人みちゆきびとみだりに立ち入り、狐梟やうの者も、人にせかれねば〔人の居る樣子に堰きとめられないから〕、所得顔に入り住み、木精こだま〔木魂、老樹の精靈など木石の化生物〕などいふけしからぬ〔多年の習慣で異樣なの意に用ゐて居る〕形もあらはるゝものなり。また鏡には、色形なき故に、よろづの影きたりてうつる。鏡に色形あらましかば、うつらざらまし。虚空〔中のからなもの〕よくものを容る。われらが心に、念々〔種々の考へ〕のほしきまゝにきたり浮ぶも、心といふものの無きにやあらむ。心にぬしあらましかば、胸のうちに若干そこばくのことは入りきたらざらまし。


236

丹波に出雲〔丹波の地名、そこに同名の國幣中社がある。〕といふ所あり。大社おほやしろ〔出雲大社〕を遷して、めでたく造れり。志太のなにがしとかやしる所〔領する所〕なれば、秋の頃、聖海上人〔不明傳〈*ママ〉、その外も人數多誘ひて、「いざたまへ〔さあおいでなさい〕、出雲拜みに。かいもちひ召させむ。」とて、具しもていきたるに、おの拜みて、ゆゝしく信起したり。御前なる獅子狛犬〔社前なる惡魔ばらひの裝飾〕、そむきて後ざまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやういと珍し。深き故あらむ。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら〔皆さん〕、殊勝の事は御覽じとがめずや。無下なり。」といへば、おのあやしみて、「まことに他に異なりけり、都のつと〔土産〕にかたらむ。」などいふに、上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官をよびて、「この御社の獅子の立てられやう、定めてならひあることにはべらむ。ちと承らばや。」といはれければ、「そのことに候。さがなきわらはべどもの仕りける、奇怪に候ことなり。」とて、さし寄りてすゑ直して往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。


237

やない筥〔柳の木の三角形の細木を編み合せた筥、後世はその編み合せたものに足をつけた机形〕にすうるものは、縦ざま横ざま、物によるべきにや。「卷物などは縦ざまにおきて、木のあはひより、紙捻かみひね〔かうより〕〈*こより〉を通して結ひつく。硯も縦ざまにおきたる、筆ころばずよし。」と三條右大臣殿〔不明〕おほせられき。勘解由小路かでのこうぢの家〔藤原行成の子孫で世尊寺と云ふ書道を以て立つた家〕の能書の人々は、假にも縦ざまにおかるゝことなし、必ず横ざまにすゑられ侍りき。


238

隨身近友〔傳不明〕が自讚〔自分自身をほめる事〕とて、七箇條かきとゞめたる事あり。みな馬藝ばげいさせることなき事どもなり。その例をおもひて、自讚のこと七つあり。

一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院〔京都の東の郊外、南禪寺内にあつた寺〕の邊にて、男の馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬たふれて落つべし、しばし見給へ。」とて立ちどまりたるに、また馬を馳す。とゞむる所にて、馬を引きたふして、乘れる人泥土の中にころび入る。その詞のあやまらざることを、人みな感ず。

一、當代〔後醍醐帝〕いまだ坊〔東宮坊、こゝでは皇太子を意味する。〕におはしまししころ、萬里小路殿までのこうぢどの御所なりしに、堀河大納言殿〔藤原師信、師繼の子、當時東宮大夫〕伺候し給ひし曹司〔曹子とも書く、部屋〕へ、用ありて參りたりしに、論語の四五六の卷をくりひろげ給ひて、「たゞ今御所にて、紫のあけうばふ事を惡む〔論語に「惡紫之奪朱也。」小人が賢者を壓倒する喩へ。〕といふ文を、御覽ぜられたき事ありて、御本を御覽ずれども、御覽じ出されぬなり。なほよくひき見よと仰せ事にて、求むるなり。」と仰せらるゝに、「九の卷のそこの程に侍る。」と申したりしかば、「あなうれし。」とて、もてまゐらせ給ひき。かほどの事は、兒どもも常のことなれど、昔の人は、いさゝかの事をもいみじく自讚したるなり。後鳥羽院の歌に、「袖と袂と一首の中にあしかりなむや。」と、定家卿〔藤原定家、俊成の子、新古今の撰者〕に尋ね仰せられたるに、

秋の野の草のたもとか花すゝきほに出でて招く袖と見ゆらむ〔古今集の在原棟梁の作〕

と侍れば、何事かさふらふべきと申されたることも、「時にあたりて本歌ほんか〔典據となる原歌〕を覺悟す〔記憶する〕、道の冥加〔歌道の名譽〕なり、高運なり。」など、ことしく記しおかれ侍るなり。九條相國伊通公の款状〔志願の申文〕にも、ことなる事なき題目をも書きのせて、自讚せられたり。

一、常在光院〔相國寺の末寺、東山附近〕撞鐘つきがねの銘は、在兼卿〔菅原在兼、在嗣の子〕の草〔草稿、草案〕なり。行房朝臣〔藤原行房、行成の子孫、能書家〕清書して、鑄型にうつさせむとせしに、奉行の入道〔鑄鐘を司る僧、人は不明〕かの草をとり出でて見せ侍りしに、「花の外に夕をおくれば聲百里はくりに聞ゆ。」といふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里あやまりか〔句の終りの字が平音陽唐の韻で出來てゐるのに里と云ふ仄音紙旨の韻が用ゐてあるから咎めたのだ〕。」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり。」とて、筆者の許へいひやりたるに、「あやまり侍りけり。數行すかうとなほさるべし。」と返り事はべりき。「數行。」もいかなるべきにか、もし「數歩すほ」のこゝろか、おぼつかなし。

一、人あまた伴ひて、三塔〔比叡山の東塔、西塔、横川を云ふ。〕巡禮の事侍りしに、横川の常行堂じゃうぎゃうだう〔常行三昧を修する堂〕うち、龍華院と書けるふるき額あり。「佐理・行成〔藤原佐理、敦敏の子、能書家、行成は前に出た。〕の間うたがひありて、いまだ決せずと申し傳へたり。」と堂僧ことごとしく申し侍りしを、「行成ならば裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず。」といひたりしに、裏は塵つもり、蟲の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、おの見侍りしに、行成位署ゐしょ〔官位姓名の書いてある事〕名字年號さだかに見え侍りしかば、人みな興に入る。

一、那蘭陀寺にて、道眼ひじり談義せしに、八災〔八つの修行得道の禍ひとなるもの、憂苦、喜樂、尋伺、出息、入息〕といふ事を忘れて、「誰かおぼえ給ふ。」といひしを、所化みな覺えざりしに、局のうちより、「これにや。」といひ出したれば、いみじく感じ侍りき。

一、賢助僧正〔藤原公守の子、醍醐院座主〕に伴ひて、加持香水かうずゐ〔眞言宗で行ふ呪法の一、ここでは正月八日から十五日まで行はるゝ宮中の法事〕を見はべりしに、いまだ果てぬほどに、僧正かへりて侍りしに、陣〔宮中眞言院の外陣、護衞兵の居所〕ほかまで僧都見えず。法師どもをかへして求めさするに、「おなじさまなる大衆だいしゅ多くて、えもとめあはず。」といひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それもとめておはせよ。」といはれしに、かへり入りて、やがて〔直に〕具していでぬ。

一、二月きさらぎ十五日、月あかきよる、うち更けて千本の寺〔大報恩寺、前出。〕にまうでて、うしろより入りて、一人顔深くかくして聽聞し侍りしに、優なる〔優美な〕女の、すがた匂ひ人よりことなるが、わけ入りて膝にゐかかれば、にほひなどもうつるばかりなれば、敏あし〔具合が惡い〕と思ひてすり退き〔外してのく〕たるに、なほ居寄りて、おなじさまなれば立ちぬ。その後、ある御所ざまのふるき女房の、そゞろごと〔雜談〕言はれし序に、「無下に色なき〔色氣のない〕人におはしけりと、見おとし〔輕蔑する〕奉ることなむありし。情なしと恨み奉る人なむある。」と宣ひ出したるに、「更にこそ心得はべらね。」と申して止みぬ。この事後に聞き侍りしは、かの聽聞の夜、局のうちより、人の御覽じ知りて、さぶらふ女房をつくり立てて、出し給ひて、「便よくば〔都合よくば〕ことばなどかけむものぞ。そのありさま參りて申せ、興あらむ。」とてはかり給ひけるとぞ。


239

八月はづき十五日、九月ながつき十三日は婁宿ろうしゅく〔二十八宿の一、天を二十八に分つたその西方の一を云ふ、毎日を二十八宿に當てはめてある。〕なり。この宿、清明なる故に、月をもてあそぶに良夜とす。


240

しのぶの浦〔岩代信夫郡の濱〕の蜑のみるめ〔海松と、共に海の植物、しのぶを人目を忍ぶとかけ、之を人の見る目とかけたのだ。〕も所狹く、くらぶの山〔山城の暗部山、暗路とかけた。〕も守る人〔山番の職、戀の番人にかけた。〕しげからむ〔多からうと樹木の茂りにかけた。〕に、わりなく通はむ心の色こそ、淺からずあはれと思ふふしの、忘れがたき事も多からめ。親はらからゆるして、ひたぶるに迎へすゑたらむ、いとまばゆかりぬべし〔心恥しからうといふ意〕。世にありわぶる女の、似げなきおい法師、怪しの東人なりとも、賑ははしきにつきて、「さそふ水あらば〔文屋康秀が小野小町を東國に誘つた時、小町の歌、「わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞおもふ」古今集〕。」などいふを、なかびといづかたも心にくきさまにいひなして、知られずしらぬ〔「うとくなる人を何しに怨むらむ知らず知られぬ折もありしに」新古今集〕人を迎へもて來らむあいなさよ。何事をかうち出づる言の葉にせむ。年月のつらさをも、分けこしは山の〔「筑波山は山しげ山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり」新古今集〕などもあひかたらはむこそ、つきせぬ言の葉にてもあらめ。すべてよその人のとりまかなひたらむ、うたて心づきなき事多かるべし。よき女ならむにつけても、品くだり、みにくく、年も長けなむ男は、「かく怪しき身のために、あたら身をいたづらになさむやは。」と、人も心劣りせられ、わが身はむかひ居たらむも、影はづかしくおぼえなむ、いとこそあいなからめ。梅の花かうばしき夜の朧月にたゝずみ、御垣みかきが原〔禁中の御垣附近〕の露分け出でむありあけの空も、わが身ざまに忍ばるべくもなからむ人は、たゞ色好まざらむにはしかじ。


241

望月のまどかなる事は、暫くもぢうせず、やがて虧けぬ。心とゞめぬ人は、一夜のうちに、さまで變る樣も見えぬにやあらむ。病のおもるも、住する隙なくして、死期しごすでに近し。されども、いまだ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念にならひて、しゃううちに多くの事を成じて後、しづかに道を修せむと思ふ程に、病をうけて死門に臨む時、所願一事も成ぜず、いふかひなくて、年月の懈怠けだいを悔いて、この度もしたち直りて、命を全くせば、夜を日につぎて、この事かの事怠らず成じてむと、願ひをおこすらめど、やがて、重りぬれば、われにもあらずとり亂して果てぬ。この類のみこそあらめ。この事まづ人々急ぎ心におくべし。所願を成じてのち、いとまありて道にむかはむとせば、所願盡くべからず。如幻にょげんの生の中に、何事をかなさむ。すべて所願皆妄想まうざうなり。所願心にきたらば、妄心迷亂すと知りて、一事をもなすべからず。直ちに萬事を放下して道に向ふとき、さはりなく、所作なくて、心身しんじんながくしづかなり。


242

とこしなへに、違順ゐじゅんにつかはるゝ事は、偏に苦樂の爲なり。樂といふは好み愛する事なり。これを求むる事止む時無し。樂欲げうよくするところ、一には名なり。名に二種あり。行跡かうせきと才藝とのほまれなり。二には色欲、三には味ひなり。萬の願ひ、この三には如かず。これ顛倒てんだう〔顛倒見或は顛倒の妄見と云ふ、此の世の無常を常と誤り、苦を樂と、無我を我と、不淨を淨と誤る人間の妄見。〕の相より起りて、若干そこばくの煩ひあり。求めざらむには如かじ。


243

八つになりし年、父〔兼好の父、卜部兼顯、治部少輔〕に問ひていはく、「佛はいかなるものにか候らむ。」といふ。父がいはく、「佛には人のなりたるなり。」と。また問ふ、「人は何として佛にはなり候やらむ。」と、父また、「佛のをしへによりてなるなり。」とこたふ。また問ふ、「教へ候ひける佛をば、何がをしへ候ひける。」と。また答ふ、「それもまた、さきの佛のをしへによりてなり給ふなり。」と。又問ふ、「その教へはじめ候ひける第一の佛は、いかなる佛にか候ひける。」といふとき、父、「空よりや降りけむ、土よりやわきけむ。」といひて笑ふ。「問ひつめられてえ答へずなり侍りつ。」と諸人しょにんにかたりて興じき。


徒然草 終

この著作物は、1943年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。