事実を読者の前に告白すると、去年の八月頃すでに自分の小説を紙上に連載すべきはずだったのである。ところが余り暑い盛りに大患後の身体をぶっ通しに使うのはどんなものだろうという親切な心配をしてくれる人が出て来たので、それを好い機会に、なお二箇月の暇を貪ることにとりきめて貰ったのが原で、とうとうその二箇月が過去った十月にも筆を執らず、十一十二もつい紙上へは杳たる有様で暮してしまった。自分の当然やるべき仕事が、こういう風に、崩れた波の崩れながら伝わって行くような具合で、ただだらしなく延びるのはけっして心持の好いものではない。
歳の改まる元旦から、いよいよ事始める緒口を開くように事がきまった時は、長い間抑えられたものが伸びる時の楽よりは、背中に背負された義務を片づける時機が来たという意味でまず何よりも嬉しかった。けれども長い間抛り出しておいたこの義務を、どうしたら例よりも手際よくやってのけられるだろうかと考えると、また新らしい苦痛を感ぜずにはいられない。
久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかある。それに自分の健康状態やらその他の事情に対して寛容の精神に充ちた取り扱い方をしてくれた社友の好意だの、また自分の書くものを毎日日課のようにして読んでくれる読者の好意だのに、酬いなくてはすまないという心持がだいぶつけ加わって来る。で、どうかして旨いものができるようにと念じている。けれどもただ念力だけでは作物のできばえを左右する訳にはどうしたって行きっこない、いくら佳いものをと思っても、思うようになるかならないか自分にさえ予言のできかねるのが述作の常であるから、今度こそは長い間休んだ埋合せをするつもりであると公言する勇気が出ない。そこに一種の苦痛が潜んでいるのである。
この作を公にするにあたって、自分はただ以上の事だけを言っておきたい気がする。作の性質だの、作物に対する自己の見識だの主張だのは今述べる必要を認めていない。実をいうと自分は自然派の作家でもなければ象徴派の作家でもない。近頃しばしば耳にするネオ浪漫派の作家ではなおさらない。自分はこれらの主義を高く標榜して路傍の人の注意を惹くほどに、自分の作物が固定した色に染つけられているという自信を持ち得ぬものである。またそんな自信を不必要とするものである。ただ自分は自分であるという信念を持っている。そうして自分が自分である以上は、自然派でなかろうが、象徴派でなかろうが、ないしネオのつく浪漫派でなかろうが全く構わないつもりである。
自分はまた自分の作物を新しい新しいと吹聴する事も好まない。今の世にむやみに新しがっているものは三越呉服店とヤンキーとそれから文壇における一部の作家と評家だろうと自分はとうから考えている。
自分はすべて文壇に濫用される空疎な流行語を藉りて自分の作物の商標としたくない。ただ自分らしいものが書きたいだけである。手腕が足りなくて自分以下のものができたり、衒気があって自分以上を装うようなものができたりして、読者にすまない結果を齎すのを恐れるだけである。
東京大阪を通じて計算すると、吾朝日新聞の購読者は実に何十万という多数に上っている。その内で自分の作物を読んでくれる人は何人あるか知らないが、その何人かの大部分はおそらく文壇の裏通りも露路も覗いた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつつ穏当に生息しているだけだろうと思う。自分はこれらの教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じている。
「彼岸過迄」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空しい標題である。かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持していた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日まで過ぎたのであるから、もし自分の手際が許すならばこの「彼岸過迄」をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている。けれども小説は建築家の図面と違って、いくら下手でも活動と発展を含まない訳に行かないので、たとい自分が作るとは云いながら、自分の計画通りに進行しかねる場合がよく起って来るのは、普通の実世間において吾々の企てが意外の障害を受けて予期のごとくに纏まらないのと一般である。したがってこれはずっと書進んで見ないとちょっと分らない全く未来に属する問題かも知れない。けれどもよし旨く行かなくっても、離れるともつくとも片のつかない短篇が続くだけの事だろうとは予想できる。自分はそれでも差支えなかろうと思っている。
(明治四十五年一月此作を朝日新聞に公けにしたる時の緒言)
風呂の後
敬太郎はそれほど験の見えないこの間からの運動と奔走に少し厭気が注して来た。元々頑丈にできた身体だから単に馳け歩くという労力だけなら大して苦にもなるまいとは自分でも承知しているが、思う事が引っ懸ったなり居据って動かなかったり、または引っ懸ろうとして手を出す途端にすぽりと外れたりする反間が度重なるに連れて、身体よりも頭の方がだんだん云う事を聞かなくなって来た。で、今夜は少し癪も手伝って、飲みたくもない麦酒をわざとポンポン抜いて、できるだけ快豁な気分を自分と誘って見た。けれどもいつまで経っても、ことさらに借着をして陽気がろうとする自覚が退かないので、しまいに下女を呼んで、そこいらを片づけさした。下女は敬太郎の顔を見て、「まあ田川さん」と云ったが、その後からまた「本当にまあ」とつけ足した。敬太郎は自分の顔を撫でながら、「赤いだろう。こんな好い色をいつまでも電灯に照らしておくのはもったいないから、もう寝るんだ。ついでに床を取ってくれ」と云って、下女がまだ何かやり返そうとするのをわざと外して廊下へ出た。そうして便所から帰って夜具の中に潜り込む時、まあ当分休養する事にするんだと口の内で呟いた。
敬太郎は夜中に二返眼を覚ました。一度は咽喉が渇いたため、一度は夢を見たためであった。三度目に眼が開いた時は、もう明るくなっていた。世の中が動き出しているなと気がつくや否や敬太郎は、休養休養と云ってまた眼を眠ってしまった。その次には気の利かないボンボン時計の大きな音が無遠慮に耳に響いた。それから後はいくら苦心しても寝つかれなかった。やむを得ず横になったまま巻煙草を一本吸っていると、半分ほどに燃えて来た敷島の先が崩れて、白い枕が灰だらけになった。それでも彼はじっとしているつもりであったが、しまいに東窓から射し込む強い日脚に打たれた気味で、少し頭痛がし出したので、ようやく我を折って起き上ったなり、楊枝を銜えたまま、手拭をぶら下げて湯に行った。
湯屋の時計はもう十時少し廻っていたが、流しの方はからりと片づいて、小桶一つ出ていない。ただ浴槽の中に一人横向になって、硝子越に射し込んでくる日光を眺めながら、呑気そうにじゃぶじゃぶやってるものがある。それが敬太郎と同じ下宿にいる森本という男だったので、敬太郎はやあ御早うと声を掛けた。すると、向うでも、やあ御早うと挨拶をしたが、
「何です今頃楊枝なぞを銜え込んで、冗談じゃない。そう云やあ昨夕あなたの部屋に電気が点いていないようでしたね」と云った。
「電気は宵の口から煌々と点いていたさ。僕はあなたと違って品行方正だから、夜遊びなんか滅多にした事はありませんよ」
「全くだ。あなたは堅いからね。羨ましいくらい堅いんだから」
敬太郎は少し羞痒たいような気がした。相手を見ると依然として横隔膜から下を湯に浸けたまま、まだ飽きずにじゃぶじゃぶやっている。そうして比較的真面目な顔をしている。敬太郎はこの気楽そうな男の口髭がだらしなく濡れて一本一本下向に垂れたところを眺めながら、
「僕の事はどうでも好いが、あなたはどうしたんです。役所は」と聞いた。すると森本は倦怠そうに浴槽の側に両肱を置いてその上に額を載せながら俯伏になったまま、
「役所は御休みです」と頭痛でもする人のように答えた。
「何で」
「何ででもないが、僕の方で御休みです」
敬太郎は思わず自分の同類を一人発見したような気がした。それでつい、「やっぱり休養ですか」と云うと、相手も「ええ休養です」と答えたなり元のとおり湯槽の側に突伏していた。
敬太郎が留桶の前へ腰をおろして、三助に垢擦を掛けさせている時分になって、森本はやっと煙の出るような赤い身体を全く湯の中から露出した。そうして、ああ好い心持だという顔つきで、流しの上へぺたりと胡坐をかいたと思うと、
「あなたは好い体格だね」と云って敬太郎の肉付を賞め出した。
「これで近頃はだいぶ悪くなった方です」
「どうしてどうしてそれで悪かった日にゃ僕なんざあ」
森本は自分で自分の腹をポンポン叩いて見せた。その腹は凹んで背中の方へ引つけられてるようであった。
「何しろ商売が商売だから身体は毀す一方ですよ。もっとも不養生もだいぶやりましたがね」と云った後で、急に思い出したようにアハハハと笑った。敬太郎はそれに調子を合せる気味で、
「今日は僕も閑だから、久しぶりでまたあなたの昔話でも伺いましょうか」と云った。すると森本は、
「ええ話しましょう」とすぐ乗気な返事をしたが、活溌なのはただ返事だけで、挙動の方は緩慢というよりも、すべての筋肉が湯に煠でられた結果、当分作用を中止している姿であった。
敬太郎が石鹸を塗けた頭をごしごしいわしたり、堅い足の裏や指の股を擦ったりする間、森本は依然として胡座をかいたまま、どこ一つ洗う気色は見えなかった。最後に瘠せた一塊の肉団をどぶりと湯の中に抛り込むように浸けて、敬太郎とほぼ同時に身体を拭きながら上って来た。そうして、
「たまに朝湯へ来ると綺麗で好い心持ですね」と云った。
「ええ。あなたのは洗うんでなくって、本当に湯に這入るんだからことにそうだろう。実用のための入湯でなくって、快感を貪ぼるための入浴なんだから」
「そうむずかしい這入り方でもないんでしょうが、どうもこんな時に身体なんか洗うな億劫でね。ついぼんやり浸ってぼんやり出ちまいますよ。そこへ行くと、あなたは三層倍も勤勉だ。頭から足からどこからどこまで実によく手落なく洗いますね。御負に楊枝まで使って。あの綿密な事には僕もほとんど感心しちまった」
二人は連立って湯屋の門口を出た。森本がちょっと通りまで行って巻紙を買うからというので、敬太郎もつき合う気になって、横丁を東へ切れると、道が急に悪くなった。昨夕の雨が土を潤かし抜いたところへ、今朝からの馬や車や人通りで、踏み返したり蹴上げたりした泥の痕を、二人は厭うような軽蔑するような様子で歩いた。日は高く上っているが、地面から吸い上げられる水蒸気はいまだに微かな波動を地平線の上に描いているらしい感じがした。
「今朝の景色は寝坊のあなたに見せたいようだった。何しろ日がかんかん当ってる癖に靄がいっぱいなんでしょう。電車をこっちから透かして見ると、乗客がまるで障子に映る影画のように、はっきり一人一人見分けられるんです。それでいて御天道様が向う側にあるんだからその一人一人がどれもこれもみんな灰色の化物に見えるんで、すこぶる奇観でしたよ」
森本はこんな話をしながら、紙屋へ這入って巻紙と状袋で膨らました懐をちょっと抑えながら出て来た。表に待っていた敬太郎はすぐ今来た道の方へ足を向け直した。二人はそのままいっしょに下宿へ帰った。上靴の踵を鳴らして階段を二つ上り切った時、敬太郎は自分の部屋の障子を手早く開けて、
「さあどうぞ」と森本を誘った。森本は、
「もう直午飯でしょう」と云ったが、躊躇すると思いの外、あたかも自分の部屋へでも這入るような無雑作な態度で、敬太郎の後に跟いて来た。そうして、
「あなたの室から見た景色はいつ見ても好いね」と自分で窓の障子を開けながら、手摺付の縁板の上へ濡手拭を置いた。
敬太郎はこの瘠せながら大した病気にも罹らないで、毎日新橋の停車場へ行く男について、平生から一種の好奇心を有っていた。彼はもう三十以上である。それでいまだに一人で下宿住居をして停車場へ通勤している。しかし停車場で何の係りをして、どんな事務を取扱っているのか、ついぞ当人に聞いた事もなければ、また向うから話した試もないので、敬太郎には一切がXである。たまたま人を送って停車場へ行く場合もあるが、そんな時にはつい混雑に取り紛れて、停車場と森本とをいっしょに考えるほどの余裕も出ず、そうかと云って、森本の方から自己の存在を思い起させるように、敬太郎の眼につくべき所へ顔を出す機会も起らなかった。ただ長い間同じ下宿に立籠っているという縁故だか同情だかが本で、いつの間にか挨拶をしたり世間話をする仲になったまでである。
だから敬太郎の森本に対する好奇心というのは、現在の彼にあると云うよりも、むしろ過去の彼にあると云った方が適当かも知れない。敬太郎はいつか森本の口から、彼が歴乎とした一家の主人公であった時分の話を聞いた。彼の女房の話も聞いた。二人の間にできた子供の死んだ話も聞いた。「餓鬼が死んでくれたんで、まあ助かったようなもんでさあ。山神の祟には実際恐れを作していたんですからね」と云った彼の言葉を、敬太郎はいまだに覚えている。その時しかも山神が分らなくって、何だと聞き返したら、山の神の漢語じゃありませんかと教えられたおかしさまでまだ記憶に残っている。それらを思い出しても、敬太郎から見ると、すべて森本の過去には一種ロマンスの臭が、箒星の尻尾のようにぼうっとおっかぶさって怪しい光を放っている。
女についてできたとか切れたとかいう逸話以外に、彼はまたさまざまな冒険譚の主人公であった。まだ海豹島へ行って膃肭臍は打っていないようであるが、北海道のどこかで鮭を漁って儲けた事はたしかであるらしい。それから四国辺のある山から安質莫尼が出ると触れて歩いて、けっして出なかった事も、当人がそう自白するくらいだから事実に違ない。しかし最も奇抜なのは呑口会社の計画で、これは酒樽の呑口を作る職人が東京にごく少ないというところから思いついたのだそうだが、せっかく大阪から呼び寄せた職人と衝突したために成立しなかったと云って彼はいまだに残念がっている。
儲口を離れた普通の浮世話になると、彼はまた非常に豊富な材料の所有者であるという事を容易に証拠立てる。筑摩川の上流の何とかいう所から河を隔てて向うの山を見ると、巌の上に熊がごろごろ昼寝をしているなどはまだ尋常の方なので、それが一層色づいて来ると、信州戸隠山の奥の院というのは普通の人の登れっこない難所だのに、それを盲目が天辺まで登ったから驚ろいたなどという。そこへ御参をするには、どんなに脚の達者なものでも途中で一晩明かさなければならないので、森本も仕方なしに五合目あたりで焚火をして夜の寒さを凌いでいると、下から鈴の響が聞えて来たから、不思議に思っているうちに、その鈴の音がだんだん近くなって、しまいに座頭が上って来たんだと云う。しかもその座頭が森本に今晩はと挨拶をしてまたすたすた上って行ったと云うんだから、余り妙だと思ってなおよく聞いて見ると、実は案内者が一人ついていたのだそうである。その案内者の腰に鈴を着けて、後から来る盲者がその鈴の音を頼りに上る事ができるようにしてあったのだと説明されて、やや納得もできたが、それにしても敬太郎には随分意外な話である。が、それがもう少し高じると、ほとんど妖怪談に近い妙なものとなって、だらしのない彼の口髭の下から最も慇懃に発表される。彼が耶馬渓を通ったついでに、羅漢寺へ上って、日暮に一本道を急いで、杉並木の間を下りて来ると、突然一人の女と擦れ違った。その女は臙脂を塗って白粉をつけて、婚礼に行く時の髪を結って、裾模様の振袖に厚い帯を締めて、草履穿のままたった一人すたすた羅漢寺の方へ上って行った。寺に用のあるはずはなし、また寺の門はもう締まっているのに、女は盛装したまま暗い所をたった一人で上って行ったんだそうである。――敬太郎はこんな話を聞くたびにへえーと云って、信じられ得ない意味の微笑を洩らすにかかわらず、やっぱり相当の興味と緊張とをもって森本の弁口を迎えるのが例であった。
この日も例によって例のような話が出るだろうという下心から、わざと廻り路までしていっしょに風呂から帰ったのである。年こそそれほど取っていないが、森本のように、大抵な世間の関門を潜って来たとしか思われない男の経歴談は、この夏学校を出たばかりの敬太郎に取っては、多大の興味があるのみではない、聞きようしだいで随分利益も受けられた。
その上敬太郎は遺伝的に平凡を忌む浪漫趣味の青年であった。かつて東京の朝日新聞に児玉音松とかいう人の冒険談が連載された時、彼はまるで丁年未満の中学生のような熱心をもって毎日それを迎え読んでいた。その中でも音松君が洞穴の中から躍り出す大蛸と戦った記事を大変面白がって、同じ科の学生に、君、蛸の大頭を目がけて短銃をポンポン打つんだが、つるつる滑って少しも手応がないというじゃないか。そのうち大将の後からぞろぞろ出て来た小蛸がぐるりと環を作って彼を取り巻いたから何をするのかと思うと、どっちが勝つか熱心に見物しているんだそうだからねと大いに乗気で話した事がある。するとその友達が調戯半分に、君のような剽軽ものはとうてい文官試験などを受けて地道に世の中を渡って行く気になるまい、卒業したら、いっその事思い切って南洋へでも出かけて、好きな蛸狩でもしたらどうだと云ったので、それ以来「田川の蛸狩」という言葉が友達間にだいぶ流行り出した。この間卒業して以来足を擂木のようにして世の中への出口を探して歩いている敬太郎に会うたびに、彼らはどうだね蛸狩は成功したかいと聞くのが常になっていたくらいである。
南洋の蛸狩はいかな敬太郎にもちと奇抜過ぎるので、真面目に思い立つ勇気も出なかったが、新嘉坡の護謨林栽培などは学生のうちすでに目論んで見た事がある。当時敬太郎は、果しのない広野を埋め尽す勢で何百万本という護謨の樹が茂っている真中に、一階建のバンガローを拵えて、その中に栽培監督者としての自分が朝夕起臥する様を想像してやまなかった。彼はバンガローの床をわざと裸にして、その上に大きな虎の皮を敷くつもりであった。壁には水牛の角を塗り込んで、それに鉄砲をかけ、なおその下に錦の袋に入れたままの日本刀を置くはずにした。そうして自分は真白なターバンをぐるぐる頭へ巻きつけて、広いヴェランダに据えつけてある籐椅子の上に寝そべりながら、強い香のハヴァナをぷかりぷかりと鷹揚に吹かす気でいた。それのみか、彼の足の下には、スマタラ産の黒猫、――天鵞絨のような毛並と黄金そのままの眼と、それから身の丈よりもよほど長い尻尾を持った怪しい猫が、背中を山のごとく高くして蹲踞まっている訳になっていた。彼はあらゆる想像の光景をかく自分に満足の行くようにあらかじめ整えた後で、いよいよ実際の算盤に取りかかったのである。ところが案外なもので、まず護謨を植えるための地面を借り受けるのにだいぶんな手数と暇が要る。それから借りた地面を切り開くのが容易の事でない。次に地ならし植えつけに費やすべき金高が以外に多い。その上絶えず人夫を使って草取をした上で、六年間苗木の生長するのを馬鹿見たようにじっと指を銜えて見ていなければならない段になって、敬太郎はすでに充分退却に価すると思い出したところへ、彼にいろいろの事情を教えてくれた護謨通は、今しばらくすると、あの辺でできる護謨の供給が、世界の需用以上に超過して、栽培者は非常の恐慌を起すに違ないと威嚇したので、彼はその後護謨の護の字も口にしなくなってしまったのである。
けれども彼の異常に対する嗜欲はなかなかこれくらいの事で冷却しそうには見えなかった。彼は都の真中にいて、遠くの人や国を想像の夢に上して楽しんでいるばかりでなく、毎日電車の中で乗り合せる普通の女だの、または散歩の道すがら行き逢う実際の男だのを見てさえ、ことごとく尋常以上に奇なあるものを、マントの裏かコートの袖に忍ばしていはしないだろうかと考える。そうしてどうかこのマントやコートを引っくり返してその奇なところをただ一目で好いからちらりと見た上、後は知らん顔をして済ましていたいような気になる。
敬太郎のこの傾向は、彼がまだ高等学校にいた時分、英語の教師が教科書としてスチーヴンソンの新亜剌比亜物語という書物を読ました頃からだんだん頭を持ち上げ出したように思われる。それまで彼は大の英語嫌であったのに、この書物を読むようになってから、一回も下読を怠らずに、あてられさえすれば、必ず起立して訳を付けたのでも、彼がいかにそれを面白がっていたかが分る。ある時彼は興奮の余り小説と事実の区別を忘れて、十九世紀の倫敦に実際こんな事があったんでしょうかと真面目な顔をして教師に質問を掛けた。その教師はついこの間英国から帰ったばかりの男であったが、黒いメルトンのモーニングの尻から麻の手帛を出して鼻の下を拭いながら、十九世紀どころか今でもあるでしょう。倫敦という所は実際不思議な都ですと答えた。敬太郎の眼はその時驚嘆の光を放った。すると教師は椅子を離れてこんな事を云った。
「もっとも書き手が書き手だから観察も奇抜だし、事件の解釈も自から普通の人間とは違うんで、こんなものができ上ったのかも知れません。実際スチーヴンソンという人は辻待の馬車を見てさえ、そこに一種のロマンスを見出すという人ですから」
辻馬車とロマンスに至って敬太郎は少し分らなくなったが、思い切ってその説明を聞いて見て、始めてなるほどと悟った。それから以後は、この平凡極まる東京のどこにでもごろごろして、最も平凡を極めている辻待の人力車を見るたんびに、この車だって昨夕人殺しをするための客を出刃ぐるみ乗せていっさんに馳けたのかも知れないと考えたり、または追手の思わくとは反対の方角へ走る汽車の時間に間に合うように、美くしい女を幌の中に隠して、どこかの停車場へ飛ばしたのかも分らないと思ったりして、一人で怖がるやら、面白がるやらしきりに喜こんでいた。
そんな想像を重ねるにつけ、これほど込み入った世の中だから、たとい自分の推測通りとまで行かなくっても、どこか尋常と変った新らしい調子を、彼の神経にはっと響かせ得るような事件に、一度ぐらいは出会って然るべきはずだという考えが自然と起ってきた。ところが彼の生活は学校を出て以来ただ電車に乗るのと、紹介状を貰って知らない人を訪問するくらいのもので、その他に何といって取り立てて云うべきほどの小説は一つもなかった。彼は毎日見る下宿の下女の顔に飽き果てた。毎日食う下宿の菜にも飽き果てた。せめてこの単調を破るために、満鉄の方ができるとか、朝鮮の方が纏まるとかすれば、まだ衣食の途以外に、幾分かの刺戟が得られるのだけれども、両方共二三日前に当分望がないと判然して見ると、ますます眼前の平凡が自分の無能力と密切な関係でもあるかのように思われて、ひどくぼんやりしてしまった。それで糊口のための奔走はもちろんの事、往来に落ちたばら銭を探して歩くような長閑な気分で、電車に乗って、漫然と人事上の探検を試みる勇気もなくなって、昨夕はさほど好きでもない麦酒を大いに飲んで寝たのである。
こんな時に、非凡の経験に富んだ平凡人とでも評しなければ評しようのない森本の顔を見るのは、敬太郎にとってすでに一種の興奮であった。巻紙を買う御供までして彼を自分の室へ連れ込んだのはこれがためである。
森本は窓際へ坐ってしばらく下の方を眺めていた。
「あなたの室から見た景色は相変らず好うがすね、ことに今日は好い。あの洗い落したような空の裾に、色づいた樹が、所々暖たかく塊まっている間から赤い煉瓦が見える様子は、たしかに画になりそうですね」
「そうですね」
敬太郎はやむを得ずこういう答をした。すると森本は自分が肱を乗せている窓から一尺ばかり出張った縁板を見て、
「ここはどうしても盆栽の一つや二つ載せておかないと納まらない所ですよ」と云った。
敬太郎はなるほどそんなものかと思ったけれども、もう「そうですね」を繰り返す勇気も出なかったので、
「あなたは画や盆栽まで解るんですか」と聞いた。
「解るんですかは少し恐れ入りましたね。全く柄にないんだから、そう聞かれても仕方はないが、――しかし田川さんの前だが、こう見えて盆栽も弄くるし、金魚も飼うし、一時は画も好きでよく描いたもんですよ」
「何でもやるんですね」
「何でも屋に碌なものなしで、とうとうこんなもんになっちゃった」
森本はそう云い切って、自分の過去を悔ゆるでもなし、またその現在を悲観するでもなし、ほとんど鋭どい表情のどこにも出ていない不断の顔をして敬太郎を見た。
「しかし僕はあなた見たように変化の多い経験を、少しでも好いから甞めて見たいといつでもそう思っているんです」と敬太郎が真面目に云いかけると、森本はあたかも酔っ払のように、右の手を自分の顔の前へ出して、大袈裟に右左に振って見せた。
「それがごく悪い。若い内――と云ったところで、あなたと僕はそう年も違っていないようだが、――とにかく若い内は何でも変った事がしてみたいもんでね。ところがその変った事を仕尽した上で、考えて見ると、何だ馬鹿らしい、こんな事ならしない方がよっぽど増しだと思うだけでさあ。あなたなんざ、これからの身体だ。おとなしくさえしていりゃどんな発展でもできようってもんだから、肝心なところで山気だの謀叛気だのって低気圧を起しちゃ親不孝に当らあね。――時にどうです、この間から伺がおう伺がおうと思って、つい忙がしくって、伺がわずにいたんだが、何か好い口は見付かりましたか」
正直な敬太郎は憮然としてありのままを答えた。そうして、とうてい当分これという期待もないから、奔走をやめて少し休養するつもりであるとつけ加えた。森本はちょっと驚ろいたような顔をした。
「へえー、近頃は大学を卒業しても、ちょっくらちょいと口が見付からないもんですかねえ。よっぽど不景気なんだね。もっとも明治も四十何年というんだから、そのはずには違ないが」
森本はここまで来て少し首を傾げて、自分の哲理を自分で噛みしめるような素振をした。敬太郎は相手の様子を見て、それほど滑稽とも思わなかったが、心の内で、この男は心得があってわざとこんな言葉遣をするのだろうか、または無学の結果こうよりほか言い現わす手段を知らないのだろうかと考えた。すると森本が傾げた首を急に竪に直した。
「どうです、御厭でなきゃ、鉄道の方へでも御出なすっちゃ。何なら話して見ましょうか」
いかな浪漫的な敬太郎もこの男に頼んだら好い地位が得られるとは想像し得なかった。けれどもさも軽々と云って退ける彼の愛嬌を、翻弄と解釈するほどの僻ももたなかった。拠処なく苦笑しながら、下女を呼んで、
「森本さんの御膳もここへ持って来るんだ」と云いつけて、酒を命じた。
森本は近頃身体のために酒を慎しんでいると断わりながら、注いでやりさえすれば、すぐ猪口を空にした。しまいにはもう止しましょうという口の下から、自分で徳利の尻を持ち上げた。彼は平生から閑静なうちにどこか気楽な風を帯びている男であったが、猪口を重ねるにつれて、その閑静が熱ってくる、気楽はしだいしだいに膨脹するように見えた。自分でも「こうなりゃ併呑自若たるもんだ。明日免職になったって驚ろくんじゃない」と威張り出した。敬太郎が飲めない口なので、時々思い出すように、盃に唇を付けて、付合っているのを見て、彼は、
「田川さん、あなた本当に飲けないんですか、不思議ですね。酒を飲まない癖に冒険を愛するなんて。あらゆる冒険は酒に始まるんです。そうして女に終るんです」と云った。彼はつい今まで自分の過去を碌でなしのように蹴なしていたのに、酔ったら急に模様が変って、後光が逆に射すとでも評すべき態度で、気燄を吐き始めた。そうしてそれが大抵は失敗の気燄であった。しかも敬太郎を前に置いて、
「あなたなんざあ、失礼ながら、まだ学校を出たばかりで本当の世の中は御存じないんだからね。いくら学士でございの、博士で候のって、肩書ばかり振り廻したって、僕は慴えないつもりだ。こっちゃちゃんと実地を踏んで来ているんだもの」と、さっきまで教育に対して多大の尊敬を払っていた事はまるで忘れたような風で、無遠慮なきめつけ方をした。そうかと思うと噫のような溜息を洩らして自分の無学をさも情なさそうに恨んだ。
「まあ手っ取り早く云やあ、この世の中を猿同然渡って来たんでさあ。こう申しちゃおかしいが、あなたより十層倍の経験はたしかに積んでるつもりです。それでいて、いまだにこの通り解脱ができないのは、全く無学すなわち学がないからです。もっとも教育があっちゃ、こうむやみやたらと変化する訳にも行かないようなもんかも知れませんよ」
敬太郎はさっきから気の毒なる先覚者とでも云ったように相手を考えて、その云う事に相応の注意を払って聞いていたが、なまじい酒を飲ましたためか、今日はいつもより気燄だの愚痴だのが多くって、例のように純粋の興味が湧かないのを残念に思った。好い加減に酒を切り上げて見たが、やっぱり物足らなかった。それで新らしく入れた茶を勧めながら、
「あなたの経歴談はいつ聞いても面白い。そればかりでなく、僕のような世間見ずは、御話を伺うたんびに利益を得ると思って感謝しているんだが、あなたが今までやって来た生活のうちで、最も愉快だったのは何ですか」と聞いて見た。森本は熱い茶を吹き吹き、少し充血した眼を二三度ぱちつかせて黙っていた。やがて深い湯呑を干してしまうとこう云った。
「そうですね。やった後で考えると、みんな面白いし、またみんなつまらないし、自分じゃちょっと見分がつかないんだが。――全体愉快ってえのは、その、女気のある方を指すんですか」
「そう云う訳でもないんですが、あったって差支ありません」
「なんて、実はそっちの方が聞きたいんでしょう。――しかし雑談抜きでね、田川さん。面白い面白くないはさておいて、あれほど呑気な生活は世界にまたとなかろうという奴をやった覚があるんですよ。そいつを一つ話しましょうか、御茶受の代りに」
敬太郎は一も二もなく所望した。森本は「じゃあちょっと小便をして来る」と云って立ちかけたが、「その代り断わっておくが女気はありませんよ。女気どころか、第一人間の気がないんだもの」と念を押して廊下の外へ出て行った。敬太郎は一種の好奇心を抱いて、彼の帰るのを待ち受けた。
ところが五分待っても十分待っても冒険家は容易に顔を現わさなかった。敬太郎はとうとうじっと我慢しきれなくなって、自分で下へ降りて用場を探して見ると、森本の影も形も見えない。念のためまた階段を上って、彼の部屋の前まで来ると、障子を五六寸明け放したまま、真中に手枕をしてごろりと向うむきに転がっているものがすなわち彼であった。「森本さん、森本さん」と二三度呼んで見たが、なかなか動きそうにないので、さすがの敬太郎もむっとして、いきなり室に這入り込むや否や、森本の首筋を攫んで強く揺振った。森本は不意に蜂にでも螫されたように、あっと云って半ば跳ね起きた。けれども振り返って敬太郎の顔を見ると同時に、またすぐ夢現のたるい眼つきに戻って、
「やああなたですか。あんまりちょうだいしたせいか、少し気分が変になったもんだから、ここへ来てちょっと休んだらつい眠くなって」と弁解する様子に、これといって他を愚弄する体もないので、敬太郎もつい怒れなくなった。しかし彼の待ち設けた冒険談はこれで一頓挫を来したも同然なので、一人自分の室に引取ろうとすると、森本は「どうもすみません、御苦労様でした」と云いながら、また後から敬太郎について来た。そうして先刻まで自分の坐っていた座蒲団の上に、きちんと膝を折って、
「じゃいよいよ世界に類のない呑気生活の御話でも始めますかな」と云った。
森本の呑気生活というのは、今から十五六年前彼が技手に雇われて、北海道の内地を測量して歩いた時の話であった。固より人間のいない所に天幕を張って寝起をして、用が片づきしだい、また天幕を担いで、先へ進むのだから、当人の断った通り、とうてい女っ気のありようはずはなかった。
「何しろ高さ二丈もある熊笹を切り開いて途をつけるんですからね」と彼は右手を額より高く上げて、いかに熊笹が高く茂っていたかを形容した。その切り開いた途の両側に、朝起きて見ると、蝮蛇がとぐろを巻いて日光を鱗の上に受けている。それを遠くから棒で抑えておいて、傍へ寄って打ち殺して肉を焼いて食うのだと彼は話した。敬太郎がどんな味がすると聞くと、森本はよく思い出せないが、何でも魚肉と獣肉の間ぐらいだろうと答えた。
天幕の中へは熊笹の葉と小枝を山のように積んで、その上に疲れた身体を埋めぬばかりに投げかけるのが例であるが、時には外へ出て焚火をして、大きな熊を眼の前に見る事もあった。虫が多いので蚊帳は始終釣っていた。ある時その蚊帳を担いで谷川へ下りて、何とかいう川魚を掬って帰ったら、その晩から蚊帳が急に腥さくなって困った。――すべてこれらは森本のいわゆる呑気生活の一部分であった。
彼はまた山であらゆる茸を採って食ったそうである。ます茸というのは広葢ほどの大きさで、切って味噌汁の中へ入れて煮るとまるで蒲鉾のようだとか、月見茸というのは一抱もあるけれども、これは残念だが食えないとか、鼠茸というのは三つ葉の根のようで可愛らしいとか、なかなか精しい説明をした。大きな笠の中へ、野葡萄をいっぱい採って来て、そればかり貪ぼっていたものだから、しまいに舌が荒れて、飯が食えなくなって困ったという話もついでにつけ加えた。
食う話ばかりかと思うと、また一週間絶食をしたという悲酸な物語もあった。それはみんなの糧が尽きたので、人足が村まで米を取りに行った留守中に大変な豪雨があった時の事である。元々村へ出るには、沢辺まで降りて、沢伝いに里へ下るのだから、俄雨で谷が急にいっぱいになったが最後、米など背負って帰れる訳のものでない。森本は腹が減って仕方がないから、じっと仰向に寝て、ただ空を眺めていたところが、しまいにぼんやりし出して、夜も昼もめちゃくちゃに分らなくなったそうである。
「そう長い間飲まず食わずじゃ、両便とも留まるでしょう」と敬太郎が聞くと、「いえ何、やっぱりありますよ」と森本はすこぶる気楽そうに答えた。
敬太郎は微笑せざるを得なかった。しかしそれよりもおかしく感じたのは、森本の形容した大風の勢であった。彼らの一行が測量の途次茫々たる芒原の中で、突然面も向けられないほどの風に出会った時、彼らは四つ這になって、つい近所の密林の中へ逃げ込んだところが、一抱も二抱もある大木の枝も幹も凄まじい音を立てて、一度に風から痛振られるので、その動揺が根に伝わって、彼らの踏んでいる地面が、地震の時のようにぐらぐらしたと云うのである。
「それじゃたとい林の中へ逃げ込んだところで、立っている訳に行かないでしょう」と敬太郎が聞くと、「無論突伏していました」という答であったが、いくら非道い風だって、土の中に張った大木の根が動いて、地震を起すほどの勢があろうとは思えなかったので、敬太郎は覚えず吹き出してしまった。すると森本もまるで他事のように同じく大きな声を出して笑い始めたが、それがすむと、急に真面目になって、敬太郎の口を抑えるような手つきをした。
「おかしいが本当です。どうせ常識以下に飛び離れた経験をするくらいの僕だから、不中用にゃあ違ないが本当です。――もっともあなた見たいに学のあるものが聞きゃあ全く嘘のような話さね。だが田川さん、世の中には大風に限らず随分面白い事がたくさんあるし、またあなたなんざあその面白い事にぶつかろうぶつかろうと苦労して御出なさる御様子だが、大学を卒業しちゃもう駄目ですよ。いざとなると大抵は自分の身分を思いますからね。よしんば自分でいくら身を落すつもりでかかっても、まさか親の敵討じゃなしね、そう真剣に自分の位地を棄てて漂浪するほどの物数奇も今の世にはありませんからね。第一傍がそうさせないから大丈夫です」
敬太郎は森本のこの言葉を、失意のようにもまた得意のようにも聞いた。そうして腹の中で、なるほど常調以上の変った生活は、普通の学士などには送れないかも知れないと考えた。ところがそれを自分にさえ抑えたい気がするので、わざと抵抗するような語気で、
「だって、僕は学校を出たには出たが、いまだに位置などは無いんですぜ。あなたは位置位置ってしきりに云うが。――実際位置の奔走にも厭々してしまった」と投げ出すように云った。すると森本は比較的厳粛な顔をして、
「あなたのは位置がなくってある。僕のは位置があって無い。それだけが違うんです」と若いものに教える態度で答えた。けれども敬太郎にはこの御籤めいた言葉がさほどの意義を齎さなかった。二人は少しの間煙草を吹かして黙っていた。
「僕もね」とやがて森本が口を開いた。「僕もね、こうやって三年越、鉄道の方へ出ているが、もう厭になったから近々罷めようと思うんです。もっとも僕の方で罷めなけりゃ向うで罷めるだけなんだからね。三年越と云やあ僕にしちゃ長い方でさあ」
敬太郎は罷めるが好かろうとも罷めないが好かろうとも云わなかった。自分が罷めた経験も罷められた閲歴もないので、他の進退などはどうでも構わないような気がした。ただ話が理に落ちて面白くないという自覚だけあった。森本はそれと察したか、急に調子を易えて、世間話を快活に十分ほどした後で、「いやどうも御馳走でした。――とにかく田川さん若いうちの事ですよ、何をやるのも」と、あたかも自分が五十ぐらいの老人のようなことを云って帰って行った。
それから一週間ばかりの間、田川は落ちついて森本と話す機会を有たなかったが、二人共同じ下宿にいるのだから、朝か晩に彼の姿を認めない事はほとんど稀であった。顔を洗う所などで落ち合う時、敬太郎は彼の着ている黒襟の掛ったドテラが常に目についた。彼はまた襟開の広い新調の背広を着て、妙な洋杖を突いて、役所から帰るとよく出て行った。その洋杖が土間の瀬戸物製の傘入に入れてあると、ははあ先生今日は宅にいるなと思いながら敬太郎は常に下宿の門を出入した。するとその洋杖がちゃんと例の所に立ててあるのに、森本の姿が不意に見えなくなった。
一日二日はつい気がつかずに過ぎたが、五日目ぐらいになっても、まだ森本の影が見えないので、敬太郎はようやく不審の念を起し出した。給仕に来る下女に聞いて見ると、彼は役所の用でどこかへ出張したのだそうである。固より役人である以上、いつ出張しないとも限らないが、敬太郎は平生からこの男を相して、何でも停車場の構内で、貨物の発送係ぐらいを勤めているに違ないと判じていたものだから、出張と聞いて少し案外な心持がした。けれども立つ時すでに五六日と断って行ったのだから、今日か翌日は帰るはずだと下女に云われて見ると、なるほどそうかとも思った。ところが予定の時日が過ぎても、森本の変な洋杖が依然として傘入の中にあるのみで、当人のドテラ姿はいっこう洗面所へ現われなかった。
しまいに宿の神さんが来て、森本さんから何か御音信がございましたかと聞いた。敬太郎は自分の方で下へ聞きに行こうと思っていたところだと答えた。神さんは多少心元ない色を梟のような丸い眼の中に漂よわせて出て行った。それから一週間ほど経っても森本はまだ帰らなかった。敬太郎も再び不審を抱き始めた。帳場の前を通る時に、まだですかとわざと立ち留って聞く事さえあった。けれどもその頃は自分がまた思い返して、位置の運動を始め出した出花なので、自然その方にばかり頭を専領される日が多いため、これより以上立ち入って何物をも探る事をあえてしなかった。実を云うと、彼は森本の予言通り、衣食の計のために、好奇家の権利を放棄したのである。
すると或晩主人がちょっと御邪魔をしても好いかと断わりながら障子を開けて這入って来た。彼は腰から古めかしい煙草入を取り出して、その筒を抜く時ぽんという音をさせた。それから銀の煙管に刻草を詰めて、濃い煙を巧者に鼻の穴から迸しらせた。こうゆっくり構える彼の本意を、敬太郎は判然向うからそうと切り出されるまで覚らずに、どうも変だとばかり考えていた。
「実は少し御願があって上ったんですが」と云った主人はやや小声になって、「森本さんのいらっしゃる所をどうか教えて頂く訳に参りますまいか、けっしてあなたに御迷惑のかかるような事は致しませんから」と藪から棒につけ加えた。
敬太郎はこの意外の質問を受けて、しばらくは何という挨拶も口へ出なかったが、ようやく、「いったいどう云う訳なんです」と主人の顔を覗き込んだ。そうして彼の意味を読もうとしたが、主人は煙管が詰ったと見えて、敬太郎の火箸で雁首を掘っていた。それが済んでから羅宇の疎通をぷっぷっ試した上、そろそろと説明に取りかかった。
主人の云うところによると、森本は下宿代が此家に六カ月ばかり滞っているのだそうである。が、三年越しいる客ではあるし、遊んでいる人じゃなし、此年の末にはどうかするからという当人の言訳を信用して、別段催促もしなかったところへ、今度の旅行になった。家のものは固より出張とばかり信じていたが、その日限が過ぎていくら待っても帰らないのみか、どこからも何の音信も来ないので、しまいにとうとう不審を起した。それで一方に本人の室を調べると共に、一方に新橋へ行って出張先を聞き合せた。ところが室の方は荷物もそのままで、彼のおった時分と何の変りもなかったが、新橋の答はまた案外であった。出張したとばかり思っていた森本は、先月限り罷められていたそうである。
「それであなたは平生森本さんと御懇意の間柄でいらっしゃるんだから、あなたに伺ったら多分どこに御出か分るだろうと思って上ったような訳で。けっしてあなたに森本さんの分をどうのこうのと申し上げるつもりではないのですから、どうか居所だけ知らして頂けますまいか」
敬太郎はこの失踪者の友人として、彼の香ばしからぬ行為に立ち入った関係でもあるかのごとく主人から取扱われるのをはなはだ迷惑に思った。なるほど事実をいえば、ついこの間まである意味の嘆賞を懐にして森本に近づいていたには違ないが、こんな実際問題にまで秘密の打ち合せがあるように見做されては、未来を有つ青年として大いなる不面目だと感じた。
正直な彼は主人の疳違を腹の中で怒った。けれども怒る前にまず冷たい青大将でも握らせられたような不気味さを覚えた。この妙に落ちつき払って古風な煙草入から刻みを撮み出しては雁首へ詰める男の誤解は、正解と同じような不安を敬太郎に与えたのである。彼は談判に伴なう一種の芸術のごとく巧みに煙管を扱かう人であった。敬太郎は彼の様子をしばらく眺めていた。そうしてただ知らないというよりほかに、向うの疑惑を晴らす方法がないのを残念に思った。はたして主人は容易に煙草入を腰へ納めなかった。煙管を筒へ入れて見たり出して見たりした。そのたびに例の通りぽんぽんという音がした。敬太郎はしまいにどうしてもこの音を退治てやりたいような気がし出した。
「僕はね、御承知の通り学校を出たばかりでまだ一定の職業もなにもない貧書生だが、これでも少しは教育を受けた事のある男だ。森本のような浮浪の徒といっしょに見られちゃ、少し体面にかかわる。いわんや後暗い関係でもあるように邪推して、いくら知らないと云っても執濃く疑っているのは怪しからんじゃないか。君がそういう態度で、二年もいる客に対する気ならそれで好い。こっちにも料簡がある。僕は過去二年の間君のうちに厄介になっているが、一カ月でも宿料を滞おらした事があるかい」
主人は無論敬太郎の人格に対して失礼に当るような疑を毛頭抱いていないつもりであるという事を繰り返して述べた。そうして万一森本から音信でもあって、彼の居所が分ったらどうぞ忘れずに教えて貰いたいと頼んだ末、もしさっき聞いた事が敬太郎の気に障ったら、いくらでも詫まるから勘弁してくれと云った。敬太郎は主人の煙草入を早く腰に差させようと思って、単に宜しいと答えた。主人はようやく談判の道具を角帯の後へしまい込んだ。室を出る時の彼の様子に、別段敬太郎を疑ぐる気色も見えなかったので、敬太郎は怒ってやって好い事をしたと考えた。
それからしばらく経つと、森本の室に、いつの間にか新らしい客が這入った。敬太郎は彼の荷物を主人がどう片づけたかについて不審を抱いた。けれども主人がかの煙草入を差して談判に来て以来、森本の事はもう聞くまいと決心したので、腹の中はともかく、上部は知らん顔をしていた。そうして依然としてできるようなまたできないような地位を、元ほど焦燥らない程度ながらも、まず自分のやるべき第一の義務として、根気に狩り歩るいていた。
或る晩もその用で内幸町まで行って留守を食ったのでやむを得ずまた電車で引き返すと、偶然向う側に黄八丈の袢天で赤ん坊を負った婦人が乗り合せているのに気がついた。その女は眉毛の細くて濃い、首筋の美くしくできた、どっちかと云えば粋な部類に属する型だったが、どうしても袢天負をするという柄ではなかった。と云って、背中の子はたしかに自分の子に違ないと敬太郎は考えた。なおよく見ると前垂の下から格子縞か何かの御召が出ているので、敬太郎はますます変に思った。外面は雨なので、五六人の乗客は皆傘をつぼめて杖にしていた。女のは黒蛇目であったが、冷たいものを手に持つのが厭だと見えて、彼女はそれを自分の側に立て掛けておいた。その畳んだ蛇の目の先に赤い漆で加留多と書いてあるのが敬太郎の眼に留った。
この黒人だか素人だか分らない女と、私生児だか普通の子だか怪しい赤ん坊と、濃い眉を心持八の字に寄せて俯目勝な白い顔と、御召の着物と、黒蛇の目に鮮かな加留多という文字とが互違に敬太郎の神経を刺戟した時、彼はふと森本といっしょになって子まで生んだという女の事を思い出した。森本自身の口から出た、「こういうと未練があるようでおかしいが、顔質は悪い方じゃありませんでした。眉毛の濃い、時々八の字を寄せて人に物を云う癖のある」といったような言葉をぽつぽつ頭の中で憶い起しながら、加留多と書いた傘の所有主を注意した。すると女はやがて電車を下りて雨の中に消えて行った。後に残った敬太郎は一人森本の顔や様子を心に描きつつ、運命が今彼をどこに連れ去ったろうかと考え考え下宿へ帰った。そうして自分の机の上に差出人の名前の書いてない一封の手紙を見出した。
好奇心に駆られた敬太郎は破るようにこの無名氏の書信を披いて見た。すると西洋罫紙の第一行目に、親愛なる田川君として下に森本よりとあるのが何より先に眼に入った。敬太郎はすぐまた封筒を取り上げた。彼は視線の角度を幾通りにも変えて、そこに消印の文字を読もうと力めたが、肉が薄いのでどうしても判断がつかなかった。やむを得ず再び本文に立ち帰って、まずそれから片づける事にした。本文にはこうあった。
「突然消えたんで定めて驚ろいたでしょう。あなたは驚ろかないにしても、雷獣とそうしてズク(森本は平生下宿の主人夫婦を、雷獣とそうしてズクと呼んでいた。ズクは耳ズクの略である)彼ら両人は驚ろいたに違ない。打ち明けた御話をすると、実は少し下宿代を滞おらしていたので、話をしたら雷獣とそうしてズクが面倒をいうだろうと思って、わざと断らずに、自由行動を取りました。僕の室に置いてある荷物を始末したら――行李の中には衣類その他がすっかり這入っていますから、相当の金になるだろうと思うんです。だから両人にあなたから右を売るなり着るなりしろとおっしゃっていただきたい。もっとも彼雷獣は御承知のごとき曲者故僕の許諾を待たずして、とっくの昔にそう取計っているかも知れない。のみならず、こっちからそう穏便に出ると、まだ残っている僕の尻を、あなたに拭って貰いたいなどと、とんでもない難題を持ちかけるかも知れませんが、それにはけっして取り合っちゃいけません。あなたのように高等教育を受けて世の中へ出たての人はとかく雷獣輩が食物にしたがるものですから、その辺はよく御注意なさらないといけません。僕だって教育こそないが、借金を踏んじゃ善くないくらいの事はまさかに心得ています。来年になればきっと返してやるつもりです。僕に意外な経歴が数々あるからと云って、あなたにこの点まで疑われては、せっかくの親友を一人失くしたも同様、はなはだ遺憾の至だから、どうか雷獣ごときもののために僕を誤解しないように願います」
森本は次に自分が今大連で電気公園の娯楽がかりを勤めている由を書いて、来年の春には活動写真買入の用向を帯びて、是非共出京するはずだから、その節は御地で久しぶりに御目にかかるのを今から楽にして待っているとつけ加えていた。そうしてその後へ自分が旅行した満洲地方の景況をさも面白そうに一口ぐらいずつ吹聴していた。中で最も敬太郎を驚ろかしたのは、長春とかにある博打場の光景で、これはかつて馬賊の大将をしたというさる日本人の経営に係るものだが、そこへ行って見ると、何百人と集まる汚ない支那人が、折詰のようにぎっしり詰って、血眼になりながら、一種の臭気を吐き合っているのだそうである。しかも長春の富豪が、慰み半分わざと垢だらけな着物を着て、こっそりここへ出入するというんだから、森本だってどんな真似をしたか分らないと敬太郎は考えた。
手紙の末段には盆栽の事が書いてあった。「あの梅の鉢は動坂の植木屋で買ったので、幹はそれほど古くないが、下宿の窓などに載せておいて朝夕眺めるにはちょうど手頃のものです。あれを献上するからあなたの室へ持っていらっしゃい。もっとも雷獣とそうしてズクは両人共極めて不風流故、床の間の上へ据えたなり放っておいて、もう枯らしてしまったかも知れません。それから上り口の土間の傘入に、僕の洋杖が差さっているはずです。あれも価格から云えばけっして高く踏めるものではありませんが、僕の愛用したものだから、紀念のため是非あなたに進上したいと思います。いかな雷獣とそうしてズクもあの洋杖をあなたが取ったって、まさか故障は申し立てますまい。だからけっして御遠慮なさらずと好い。取って御使いなさい。――満洲ことに大連ははなはだ好い所です。あなたのような有為の青年が発展すべき所は当分ほかに無いでしょう。思い切って是非いらっしゃいませんか。僕はこっちへ来て以来満鉄の方にもだいぶ知人ができたから、もしあなたが本当に来る気なら、相当の御世話はできるつもりです。ただしその節は前もってちょっと御通知を願います。さよなら」
敬太郎は手紙を畳んで机の抽出へ入れたなり、主人夫婦へは森本の消息について、何事も語らなかった。洋杖は依然として、傘入の中に差さっていた。敬太郎は出入の都度、それを見るたびに一種妙な感に打たれた。
停留所
敬太郎に須永という友達があった。これは軍人の子でありながら軍人が大嫌で、法律を修めながら役人にも会社員にもなる気のない、至って退嬰主義の男であった。少くとも敬太郎にはそう見えた。もっとも父はよほど以前に死んだとかで、今では母とたった二人ぎり、淋しいような、また床しいような生活を送っている。父は主計官としてだいぶ好い地位にまで昇った上、元来が貨殖の道に明らかな人であっただけ、今では母子共衣食の上に不安の憂を知らない好い身分である。彼の退嬰主義も半ばはこの安泰な境遇に慣れて、奮闘の刺戟を失った結果とも見られる。というものは、父が比較的立派な地位にいたせいか、彼には世間体の好いばかりでなく、実際ためになる親類があって、いくらでも出世の世話をしてやろうというのに、彼は何だかだと手前勝手ばかり並べて、今もってぐずぐずしているのを見ても分る。
「そう贅沢ばかり云ってちゃもったいない。厭なら僕に譲るがいい」と敬太郎は冗談半分に須永を強請ることもあった。すると須永は淋しそうなまた気の毒そうな微笑を洩らして、「だって君じゃいけないんだから仕方がないよ」と断るのが常であった。断られる敬太郎は冗談にせよ好い心持はしなかった。おれはおれでどうかするという気概も起して見た。けれども根が執念深くない性質だから、これしきの事で須永に対する反抗心などが永く続きようはずがなかった。その上身分が定まらないので、気の落ちつく背景を有たない彼は、朝から晩まで下宿の一と間にじっと坐っている苦痛に堪えなかった。用がなくっても半日は是非出て歩るいた。そうしてよく須永の家を訪問れた。一つはいつ行っても大抵留守の事がないので、行く敬太郎の方でも張合があったのかも知れない。
「糊口も糊口だが〈[#「糊口だが」は底本では「口糊だが」]〉、糊口より先に、何か驚嘆に価する事件に会いたいと思ってるが、いくら電車に乗って方々歩いても全く駄目だね。攫徒にさえ会わない」などと云うかと思うと、「君、教育は一種の権利かと思っていたら全く一種の束縛だね。いくら学校を卒業したって食うに困るようじゃ何の権利かこれあらんやだ。それじゃ位地はどうでもいいから思う存分勝手な真似をして構わないかというと、やっぱり構うからね。厭に人を束縛するよ教育が」と忌々しそうに嘆息する事がある。須永は敬太郎のいずれの不平に対しても余り同情がないらしかった。第一彼の態度からしてが本当に真面目なのだか、またはただ空焦燥に焦燥いでいるのか見分がつかなかったのだろう。ある時須永はあまり敬太郎がこういうような浮ずった事ばかり言い募るので、「それじゃ君はどんな事がして見たいのだ。衣食問題は別として」と聞いた。敬太郎は警視庁の探偵見たような事がして見たいと答えた。
「じゃするが好いじゃないか、訳ないこった」
「ところがそうは行かない」
敬太郎は本気になぜ自分に探偵ができないかという理由を述べた。元来探偵なるものは世間の表面から底へ潜る社会の潜水夫のようなものだから、これほど人間の不思議を攫んだ職業はたんとあるまい。それに彼らの立場は、ただ他の暗黒面を観察するだけで、自分と堕落してかかる危険性を帯びる必要がないから、なおの事都合がいいには相違ないが、いかんせんその目的がすでに罪悪の暴露にあるのだから、あらかじめ人を陥れようとする成心の上に打ち立てられた職業である。そんな人の悪い事は自分にはできない。自分はただ人間の研究者否人間の異常なる機関が暗い闇夜に運転する有様を、驚嘆の念をもって眺めていたい。――こういうのが敬太郎の主意であった。須永は逆わずに聞いていたが、これという批判の言葉も放たなかった。それが敬太郎には老成と見えながらその実平凡なのだとしか受取れなかった。しかも自分を相手にしないような落ちつき払った風のあるのを悪く思って別れた。けれども五日と経たないうちにまた須永の宅へ行きたくなって、表へ出ると直神田行の電車に乗った。
須永はもとの小川亭即ち今の天下堂という高い建物を目標に、須田町の方から右へ小さな横町を爪先上りに折れて、二三度不規則に曲った極めて分り悪い所にいた。家並の立て込んだ裏通りだから、山の手と違って無論屋敷を広く取る余地はなかったが、それでも門から玄関まで二間ほど御影の上を渡らなければ、格子先の電鈴に手が届かないくらいの一構であった。もとから自分の持家だったのを、一時親類の某に貸したなり久しく過ぎたところへ、父が死んだので、無人の活計には場所も広さも恰好だろうという母の意見から、駿河台の本宅を売払ってここへ引移ったのである。もっともそれからだいぶ手を入れた。ほとんど新築したも同然さとかつて須永が説明して聞かせた時に、敬太郎はなるほどそうかと思って、二階の床柱や天井板を見廻した事がある。この二階は須永の書斎にするため、後から継ぎ足したので、風が強く吹く日には少し揺れる気味はあるが、ほかにこれと云って非の打ちようのない綺麗に明かな四畳六畳二間つづきの室であった。その室に坐っていると、庭に植えた松の枝と、手斧目の付いた板塀の上の方と、それから忍び返しが見えた。縁に出て手摺から見下した時、敬太郎は松の根に一面と咲いた鷺草を眺めて、あの白いものは何だと須永に聞いた事もあった。
彼は須永を訪問してこの座敷に案内されるたびに、書生と若旦那の区別を判然と心に呼び起さざるを得なかった。そうしてこう小ぢんまり片づいて暮している須永を軽蔑すると同時に、閑静ながら余裕のあるこの友の生活を羨やみもした。青年があんなでは駄目だと考えたり、またあんなにもなって見たいと思ったりして、今日も二つの矛盾からでき上った斑な興味を懐に、彼は須永を訪問したのである。
例の小路を二三度曲折して、須永の住居っている通りの角まで来ると、彼より先に一人の女が須永の門を潜った。敬太郎はただ一目その後姿を見ただけだったが、青年に共通の好奇心と彼に固有の浪漫趣味とが力を合せて、引き摺るように彼を同じ門前に急がせた。ちょっと覗いて見ると、もう女の影は消えていた。例の通り紅葉を引手に張り込んだ障子が、閑静に閉っているだけなのを、敬太郎は少し案外にかつ物足らず眺めていたが、やがて沓脱の上に脱ぎ捨てた下駄に気をつけた。その下駄はもちろん女ものであったが、行儀よく向うむきに揃っているだけで、下女が手をかけて直した迹が少しも見えない。敬太郎は下駄の向と、思ったより早く上ってしまった女の所作とを継ぎ合わして、これは取次を乞わずに、独りで勝手に障子を開けて這入った極めて懇意の客だろうと推察した。でなければ家のものだが、それでは少し変である。須永の家は彼と彼の母と仲働きと下女の四人暮しである事を敬太郎はよく知っていたのである。
敬太郎は須永の門前にしばらく立っていた。今這入った女の動静をそっと塀の外から窺うというよりも、むしろ須永とこの女がどんな文に二人の浪漫を織っているのだろうと想像するつもりであったが、やはり聞耳は立てていた。けれども内はいつもの通りしんとしていた。艶めいた女の声どころか、咳嗽一つ聞えなかった。
「許嫁かな」
敬太郎はまず第一にこう考えたが、彼の想像はそのくらいで落ちつくほど、訓練を受けていなかった。――母は仲働を連れて親類へ行ったから今日は留守である。飯焚は下女部屋に引き下がっている。須永と女とは今差向いで何か私語いている。――はたしてそうだとするといつものように格子戸をがらりと開けて頼むと大きな声を出すのも変なものである。あるいは須永も母も仲働もいっしょに出たかも知れない。おさんはきっと昼寝をしている。女はそこへ這入ったのである。とすれば泥棒である。このまま引返してはすまない。――敬太郎は狐憑のようにのそりと立っていた。
すると二階の障子がすうと開いて、青い色の硝子瓶を提げた須永の姿が不意に縁側へ現われたので敬太郎はちょっと吃驚した。
「何をしているんだ。落し物でもしたのかい」と上から不思議そうに聞きかける須永を見ると、彼は咽喉の周囲に白いフラネルを捲いていた。手に提げたのは含嗽剤らしい。敬太郎は上を向いて、風邪を引いたのかとか何とか二三言葉を換わしたが、依然として表に立ったまま、動こうともしなかった。須永はしまいに這入れと云った。敬太郎はわざと這入っていいかと念を入れて聞き返した。須永はほとんどその意味を覚らない人のごとく、軽く首肯いたぎり障子の内に引き込んでしまった。
階段を上る時、敬太郎は奥の部屋で微かに衣摺の音がするような気がした。二階には今まで須永の羽織っていたらしい黒八丈の襟の掛ったどてらが脱ぎ捨ててあるだけで、ほかに平生と変ったところはどこにも認められなかった。敬太郎の性質から云っても、彼の須永に対する交情から云っても、これほど気にかかる女の事を、率直に切り出して聞けないはずはなかったのだが、今までにどこか罪な想像を逞ましくしたという疚ましさもあり、また面と向ってすぐとは云い悪い皮肉な覘を付けた自覚もあるので、今しがた君の家へ這入った女は全体何者だと無邪気に尋ねる勇気も出なかった。かえって自分の先へ先へと走りたがる心を圧し隠すような風に、
「空想はもう当分やめだ。それよりか口の方が大事だからね」と云って、兼て須永から聞いている内幸町の叔父さんという人に、一応そういう方の用向で会っておきたいから紹介してくれと真面目に頼んだ。叔父というのは須永の母の妹の連合で、官吏から実業界へ這入って、今では四つか五つの会社に関係を有っている相当な位地の人であったが、須永はその叔父の力を藉りてどうしようという料簡もないと見えて、「叔父がいろいろ云ってくれるけれども、僕は余進まないから」と、かつて敬太郎に話した事があったのを、敬太郎は覚えていたのである。
須永は今朝すでにその叔父に会うはずであったが、咽喉を痛めたため、外出を見合せたのだそうで、四五日内には大抵行けるだろうから、その時には是非話して見ようと答えたあとで、「叔父も忙がしい身体だしね、それに方々から頼まれるようだから、きっととは受合われないが、まあ会って見たまえ」と念のためだか何だかつけ加えた。余り望を置き過ぎられては困るというのだろうと敬太郎は解釈したが、それでも会わないよりは増しだぐらいに考えて、例に似ず宜しく頼む気になった。が、口で頼むほど腹の中では心配も苦労もしていなかった。
元来彼が卒業後相当の地位を求めるために、腐心し運動し奔走し、今もなおしつつあるのは、当人の公言するごとく佯りなき事実ではあるが、いまだに成効の曙光を拝まないと云って、さも苦しそうな声を出して見せるうちには、少なくとも五割方の懸値が籠っていた。彼は須永のような一人息子ではなかったが、(妹が片づいて、)母一人残っているところは両方共同じであった。彼は須永のように地面家作の所有主でない代りに、国に少し田地を有っていた。固より大した穀高になるというほどのものでもないが、俵がいくらというきまった金に毎年替えられるので、二十や三十の下宿代に窮する身分ではなかった。その上女親の甘いのにつけ込んで、自分で自分の身を喰うような臨時費を請求した事も今までに一度や二度ではなかった。だから位地位地と云って騒ぐのが、全くの空騒でないにしても、郷党だの朋友だのまたは自分だのに対する虚栄心に煽られている事はたしかであった。そんなら学校にいるうちもっと勉強して好い成績でも取っておきそうなものだのに、そこが浪漫家だけあって、学課はなるべく怠けよう怠けようと心がけて通して来た結果、すこぶる鮮やかならぬ及第をしてしまったのである。
それで約一時間ほど須永と話す間にも、敬太郎は位地とか衣食とかいう苦しい問題を自分と進んで持ち出しておきながら、やっぱり先刻見た後姿の女の事が気に掛って、肝心の世渡りの方には口先ほど真面目になれなかった。一度下座敷で若々しい女の笑い声が聞えた時などは、誰か御客が来ているようだねと尋ねて見ようかしらんと考えたくらいである。ところがその考えている時間が、すでに自然をぶち壊す道具になって、せっかくの問が間外れになろうとしたので、とうとう口へ出さずにやめてしまった。
それでも須永の方ではなるべく敬太郎の好奇心に媚びるような話題を持ち出した気でいた。彼は自分の住んでいる電車の裏通りが、いかに小さな家と細い小路のために、賽の目のように区切られて、名も知らない都会人士の巣を形づくっているうちに、社会の上層に浮き上らない戯曲がほとんど戸ごとに演ぜられていると云うような事実を敬太郎に告げた。
まず須永の五六軒先には日本橋辺の金物屋の隠居の妾がいる。その妾が宮戸座とかへ出る役者を情夫にしている。それを隠居が承知で黙っている。その向う横町に代言だか周旋屋だか分らない小綺麗な格子戸作りの家があって、時々表へ女記者一名、女コック一名至急入用などという広告を黒板へ書いて出す。そこへある時二十七八の美くしい女が、襞を取った紺綾の長いマントをすぽりと被って、まるで西洋の看護婦という服装をして来て職業の周旋を頼んだ。それが其家の主人の昔し書生をしていた家の御嬢さんなので、主人はもちろん妻君も驚ろいたという話がある。次に背中合せの裏通りへ出ると、白髪頭で廿ぐらいの妻君を持った高利貸がいる。人の評判では借金の抵当に取った女房だそうである。その隣りの博奕打が、大勢同類を寄せて、互に血眼を擦り合っている最中に、ねんね子で赤ん坊を負ったかみさんが、勝負で夢中になっている亭主を迎に来る事がある。かみさんが泣きながらどうかいっしょに帰ってくれというと、亭主は帰るには帰るが、もう一時間ほどして負けたものを取り返してから帰るという。するとかみさんはそんな意地を張れば張るほど負けるだけだから、是非今帰ってくれと縋りつくように頼む。いや帰らない、いや帰れといって、往来の氷る夜中でも四隣の眠を驚ろかせる。……
須永の話をだんだん聞いているうちに、敬太郎はこういう実地小説のはびこる中に年来住み慣れて来た須永もまた人の見ないような芝居をこっそりやって、口を拭ってすましているのかも知れないという気が強くなって来た。固よりその推察の裏には先刻見た後姿の女が薄い影を投げていた。「ついでに君の分も聞こうじゃないか」と切り込んで見たが、須永はふんと云って薄笑いをしただけであった。その後で簡単に「今日は咽喉が痛いから」と云った。さも小説は有っているが、君には話さないのだと云わんばかりの挨拶に聞えた。
敬太郎が二階から玄関へ下りた時は、例の女下駄がもう見えなかった。帰ったのか、下駄箱へしまわしたのか、または気を利かして隠したのか、彼にはまるで見当がつかなかった。表へ出るや否や、どういう料簡か彼はすぐ一軒の煙草屋へ飛び込んだ。そうしてそこから一本の葉巻を銜えて出て来た。それを吹かしながら須田町まで来て電車に乗ろうとする途端に、喫煙御断りという社則を思い出したので、また万世橋の方へ歩いて行った。彼は本郷の下宿へ帰るまでこの葉巻を持たすつもりで、ゆっくりゆっくり足を運ばせながらなお須永の事を考えた。その須永はけっしていつものように単独には頭の中へは這入って来なかった。考えるたびにきっと後姿の女がちらちら跟いて来た。しまいに「本郷台町の三階から遠眼鏡で世の中を覗いていて、浪漫的探険なんて気の利いた真似ができるものか」と須永から冷笑かされたような心持がし出した。
彼は今日まで、俗にいう下町生活に昵懇も趣味も有ち得ない男であった。時たま日本橋の裏通りなどを通って、身を横にしなければ潜れない格子戸だの、三和土の上から訳もなくぶら下がっている鉄灯籠だの、上り框の下を張り詰めた綺麗に光る竹だの、杉だか何だか日光が透って赤く見えるほど薄っぺらな障子の腰だのを眼にするたびに、いかにもせせこましそうな心持になる。こう万事がきちりと小さく整のってかつ光っていられては窮屈でたまらないと思う。これほど小ぢんまりと几帳面に暮らして行く彼らは、おそらく食後に使う楊枝の削り方まで気にかけているのではなかろうかと考える。そうしてそれがことごとく伝説的の法則に支配されて、ちょうど彼らの用いる煙草盆のように、先祖代々順々に拭き込まれた習慣を笠に、恐るべく光っているのだろうと推察する。須永の家へ行って、用もない松へ大事そうな雪除をした所や、狭い庭を馬鹿丁寧に枯松葉で敷きつめた景色などを見る時ですら、彼は繊細な江戸式の開花の懐に、ぽうと育った若旦那を聯想しない訳に行かなかった。第一須永が角帯をきゅうと締めてきちりと坐る事からが彼には変であった。そこへ長唄の好きだとかいう御母さんが時々出て来て、滑っこい癖にアクセントの強い言葉で、舌触の好い愛嬌を振りかけてくれる折などは、昔から重詰にして蔵の二階へしまっておいたものを、今取り出して来たという風に、出来合以上の旨さがあるので、紋切形とは無論思わないけれども、幾代もかかって辞令の練習を積んだ巧みが、その底に潜んでいるとしか受取れなかった。
要するに敬太郎はもう少し調子外れの自由なものが欲しかったのである。けれども今日の彼は少くとも想像の上において平生の彼とは違っていた。彼は徳川時代の湿っぽい空気がいまだに漂よっている黒い蔵造の立ち並ぶ裏通に、親譲りの家を構えて、敬ちゃん御遊びなという友達を相手に、泥棒ごっこや大将ごっこをして成長したかった。月に一遍ずつ蠣殼町の水天宮様と深川の不動様へ御参りをして、護摩でも上げたかった。(現に須永は母の御供をしてこういう旧弊な真似を当り前のごとくやっている。)それから鉄無地の羽織でも着ながら、歌舞伎を当世に崩して往来へ流した匂のする町内を恍惚と歩きたかった。そうして習慣に縛られた、かつ習慣を飛び超えた艶めかしい葛藤でもそこに見出したかった。
彼はこの時たちまち森本の二字を思い浮かべた。するとその二字の周囲にある空想が妙に色を変えた。彼は物好にも自ら進んでこの後ろ暗い奇人に握手を求めた結果として、もう少しでとんだ迷惑を蒙むるところであった。幸いに下宿の主人が自分の人格を信じたからいいようなものの、疑ぐろうとすればどこまでも疑ぐられ得る場合なのだから、主人の態度いかんに依っては警察ぐらいへ行かなければならなかったのかも知れない。と、こう考えると、彼の空中に編み上げる勝手な浪漫が急に温味を失って、醜くい想像からでき上った雲の峰同様に、意味もなく崩れてしまった。けれどもその奥に口髭をだらしなく垂らした二重瞼の瘠ぎすの森本の顔だけは粘り強く残っていた。彼はその顔を愛したいような、侮りたいような、また憐みたいような心持になった。そうしてこの凡庸な顔の後に解すべからざる怪しい物がぼんやり立っているように思った。そうして彼が記念にくれると云った妙な洋杖を聯想した。
この洋杖は竹の根の方を曲げて柄にした極めて単簡のものだが、ただ蛇を彫ってあるところが普通の杖と違っていた。もっとも輸出向によく見るように蛇の身をぐるぐる竹に巻きつけた毒々しいものではなく、彫ってあるのはただ頭だけで、その頭が口を開けて何か呑みかけているところを握にしたものであった。けれどもその呑みかけているのが何であるかは、握りの先が丸く滑っこく削られているので、蛙だか鶏卵だか誰にも見当がつかなかった。森本は自分で竹を伐って、自分でこの蛇を彫ったのだと云っていた。
敬太郎は下宿の門口を潜るとき何より先にまずこの洋杖に眼をつけた。というよりも途すがらの聯想が、硝子戸を開けるや否や、彼の眼を瀬戸物の傘入の方へ引きつけたのである。実をいうと、彼は森本の手紙を受取った当座、この洋杖を見るたびに、自分にも説明のできない妙な感じがしたので、なるべく眼を触れないように、出入の際視線を逸らしたくらいである。ところがそうすると今度はわざと見ないふりをして傘入の傍を通るのが苦になってきて、極めて軽微な程度ではあるけれどもこの変な洋杖におのずと祟られたと云う風になって、しまった。彼自身もついには自分の神経を不思議に思い出した。彼は一種の利害関係から、過去に溯ぼる嫌疑を恐れて、森本の居所もまたその言伝も主人夫婦に告げられないという弱味を有っているには違ないが、それは良心の上にどれほどの曇もかけなかった。記念として上げるとわざわざ云って来たものを、快よく貰い受ける勇気の出ないのは、他の好意を空くする点において、面白くないにきまっているが、これとても苦になるほどではない。ただ森本の浮世の風にあたる運命が近いうちに終りを告げるとする。(おそらくはのたれ死という終りを告げるのだろう。)その憐れな最期を今から予想して、この洋杖が傘入の中に立っているとする。そうして多能な彼の手によって刻まれた、胴から下のない蛇の首が、何物かを呑もうとして呑まず、吐こうとして吐かず、いつまでも竹の棒の先に、口を開いたまま喰付いているとする。――こういう風に森本の運命とその運命を黙って代表している蛇の頭とを結びつけて考えた上に、その代表者たる蛇の頭を毎日握って歩くべく、近い内にのたれ死をする人から頼まれたとすると、敬太郎はその時に始めて妙な感じが起るのである。彼は自分でこの洋杖を傘入の中から抜き取る事もできず、また下宿の主人に命じて、自分の目の届かない所へ片づけさせる訳にも行かないのを大袈裟ではあるが一種の因果のように考えた。けれども詩で染めた色彩と、散文で行く活計とはだいぶ一致しないところもあって、実際を云うと、これがために下宿を変えて落ちついた方が楽だと思うほど彼は洋杖に災されていなかったのである。
今日も洋杖は依然として傘入の中に立っていた。鎌首は下駄箱の方を向いていた。敬太郎はそれを横に見たなり自分の室に上ったが、やがて机の前に坐って、森本にやる手紙を書き始めた。まずこの間向うから来た音信の礼を述べた上、なぜ早く返事を出さなかったかという弁解を二三行でもいいからつけ加えたいと思ったが、それを明らさまに打ち開けては、君のような漂浪者を知己に有つ僕の不名誉を考えると、書信の往復などはする気になれなかったからだとでも書くよりほかに仕方がないので、そこは例の奔走に取り紛れと簡単な一句でごまかしておいた。次に彼が大連で好都合な職業にありついた祝いの言葉をちょっと入れて、その後へだんだん東京も寒くなる時節柄、満洲の霜や風はさぞ凌ぎ悪いだろう。ことにあなたの身体ではひどく応えるに違ないから、是非用心して病気に罹らないようになさいと優しい文句を数行綴った。敬太郎から云うと、実にここが手紙を出す主意なのだから、なるべく自分の同情が先方へ徹するように旨くかつ長く、そうして誰が見ても実意の籠っているように書きたかったのだけれども、読み直して見ると、やっぱり普通の人が普通時候の挨拶に述べる用語以外に、何の新らしいところもないので、彼は少し失望した。と云って、固々恋人に送る艶書ほど熱烈な真心を籠めたものでないのは覚悟の前である。それで自分は文章が下手だから、いくら書き直したって駄目だくらいの口実の下に、そこはそのままにして前へ進んだ。
森本が下宿へ置き去りにして行った荷物の始末については義理にも何とか書き添えなければすまなかった。しかしその処置のつけ方を亭主に聞くのは厭だし、聞かなければ委細の報道はできるはずはなし、敬太郎は筆の先を宙に浮かしたまま考えていたが、とうとう「あなたの荷物は、僕から主人に話して、どうでも彼の都合の宜いように取り計らわせろとの御依頼でしたが、あなたの千里眼の通り、僕が何にも云わない先に、雷獣の方で勝手に取計ってしまったようですからさよう御承知を願います。梅の盆栽を下さるという事ですが、これは影も形も見えないようですから、頂きません。ただ御礼だけ申し述べておきます。それから」とつづけておいて、また筆を休めた。
敬太郎はいよいよ洋杖のところへ来たのである。根が正直な男だから、あの洋杖はせっかくの御覚召だから、ちょうだいして毎日散歩の時突いて出ますなどと空々しい嘘は吐けず、と言って御親切はありがたいが僕は貰いませんとはなおさら書けず。仕方がないから、「あの洋杖はいまだに傘入の中に立っています。持主の帰るのを毎日毎夜待ち暮しているごとく立っています。雷獣もあの蛇の頭へは手を触れる事をあえてしません。僕はあの首を見るたびに、彫刻家としてのあなたの手腕に敬服せざるを得ないです」と好加減な御世辞を並べて、事実を暈す手段とした。
状袋へ名宛を書くときに、森本の名前を思い出そうとしたが、どうしても胸に浮ばないので、やむを得ず大連電気公園内娯楽掛り森本様とした。今までの関係上主人夫婦の眼を憚からなければならない手紙なので、下女を呼んでポストへ入れさせる訳にも行かなかったから、敬太郎はすぐそれを自分の袂の中に蔵した。彼はそれを持って夕食後散歩かたがた外へ出かける気で寒い梯子段を下まで降り切ると、須永から電話が掛った。
今日内幸町から従妹が来ての話に、叔父は四五日内に用事で大阪へ行くかも知れないそうだから、余り遅くなってはと思って、立つ前に会って貰えまいかと電話で聞いて見たら、宜しいという返事だから、行く気ならなるべく早く行った方がよかろう。もっとも電話の上に咽喉が痛いので、詳しい話はできなかったから、そのつもりでいてくれというのが彼の用向であった。敬太郎は「どうもありがとう。じゃなるべく早く行くようにするから」と礼を述べて電話を切ったが、どうせ行くなら今夜にでも行って見ようという気が起ったので、再び三階へ取って返してこの間拵らえたセルの袴を穿いた上、いよいよ表へ出た。
曲り角へ来てポストへ手紙を入れる事は忘れなかったけれども、肝心の森本の安否はこの時すでに敬太郎の胸に、ただ微かな火気を残すのみであった。それでも状袋が郵便函の口を滑って、すとんと底へ落ちた時は、受取人の一週間以内に封を披く様を想見して、満更悪い心持もしまいと思った。
それから電車へ乗るまではただ一直線にすたすた歩いた。考も一直線に内幸町の方を向いていたが、電車が明神下へ出る時分、何気なく今しがた電話口で須永から聞いた言葉を、頭の内で繰り返して見ると、覚えずはっと思うところが出て来た。須永は「今日内幸町からイトコが来て」とたしかに云ったが、そのイトコが彼の叔父さんの子である事は疑うまでもない。しかしその子が男であるか女であるかは不完全な日本語のまるで関係しないところである。
「どっちだろう」
敬太郎は突然気にし始めた。もしそれが男だとすれば、あの後姿の女についての手がかりにはならない。したがって女は彼の好奇心を徒らに刺戟しただけで、ちっとも動いて来ない。しかしもし女だとすると、日といい時刻といい、須永の玄関から上り具合といい、どうも自分より一足先へ這入ったあの女らしい。想像と事実を継ぎ合わせる事に巧みな彼は、そうと確かめないうちに、てっきりそうときめてしまった。こう解釈した時彼は、今まで泡立っていた自分の好奇心に幾分の冷水を注したような満足を覚えると共に、予期したよりも平凡な方角に、手がかりが一つできたと云うつまらなさをも感じた。
彼は小川町まで来た時、ちょっと電車を下りても須永の門口まで行って、友の口から事実を確かめて見たいくらいに思ったが、単純な好奇心以外にそんな立ち入った詮議をすべき理由をどこにも見出し得ないので、我慢してすぐ三田線に移った。けれども真直に神田橋を抜けて丸の内を疾駆する際にも、自分は今須永の従妹の家に向って走りつつあるのだという心持は忘れなかった。彼は勧業銀行の辺で下りるはずのところを、つい桜田本郷町まで乗り越して驚ろいてまた暗い方へ引き返した。淋しい夜であったが尋ねる目的の家はすぐ知れた。丸い瓦斯に田口と書いた門の中を覗いて見ると、思ったより奥深そうな構であった。けれども実際は砂利を敷いた路が往来から筋違に玄関を隠しているのと、正面を遮ぎる植込がこんもり黒ずんで立っているのとで、幾分か厳めしい景気を夜陰に添えたまでで、門内に這入ったところでは見付ほど手広な住居でもなかった。
玄関には西洋擬いの硝子戸が二枚閉ててあったが、頼むといっても、電鈴を押しても、取次がなかなか出て来ないので、敬太郎はやむを得ずしばらくその傍に立って内の様子を窺がっていた。すると、どこからかようやく足音が聞こえ出して、眼の前の擦硝子がぱっと明るくなった。それから庭下駄で三和土を踏む音が二足三足したと思うと、玄関の扉が片方開いた。敬太郎はこの際取次の風采を想望するほどの物数奇もなく、全く漫然と立っていただけであるが、それでも絣の羽織を着た書生か、双子の綿入を着た下女が、一応御辞儀をして彼の名刺を受取る事とのみ期待していたのに、今戸を半分開けて彼の前に立ったのは、思いも寄らぬ立派な服装をした老紳士であった。電気の光を背中に受けているので、顔は判然しなかったが、白縮緬の帯だけはすぐ彼の眼に映じた。その瞬間にすぐこれが田口という須永の叔父さんだろうという感じが敬太郎の頭に働いた。けれども事が余り意外なので、すぐ挨拶をする余裕も出ず少しはあっけに取られた気味で、ぼんやりしていた。その上自分をはなはだ若く考えている敬太郎には、四十代だろうが五十代だろうが乃至六十代だろうがほとんど区別のない一様の爺さんに見えるくらい、彼は老人に対して親しみのない男であった。彼は四十五と五十五を見分けてやるほどの同情心を年長者に対して有たなかったと同時に、そのいずれに向っても慣れないうちは異人種のような無気味を覚えるのが常なので、なおさら迷児ついたのである。しかし相手は何も気にかからない様子で、「何か用ですか」と聞いた。丁寧でもなければ軽蔑でもない至って無雑作なその言葉つきが、少し敬太郎の度胸を回復させたので、彼はようやく自分の姓名を名乗ると共に手短かく来意を告げる機会を得た。すると年嵩な男は思い出したように、「そうそう先刻市蔵(須永の名)から電話で話がありました。しかし今夜御出になるとは思いませんでしたよ」と云った。そうして君そう早く来たっていけないという様子がその裏に見えたので、敬太郎は精一杯言訳をする必要を感じた。老人はそれを聞くでもなし聞かぬでもなしといった風に黙って立っていたが、「そんならまたいらっしゃい。四五日うちにちょっと旅行しますが、その前に御目にかかれる暇さえあれば、御目にかかっても宜うござんす」と云った。敬太郎は篤く礼を述べてまた門を出たが、暗い夜の中で、礼の述べ方がちと馬鹿丁寧過ぎたと思った。
これはずっと後になって、須永の口から敬太郎に知れた話であるが、ここの主人は、この時玄関に近い応接間で、たった一人碁盤に向って、白石と黒石を互違に並べながら考え込んでいたのだそうである。それは客と一石やった後の引続きとして、是非共ある問題を解決しなければ気がすまなかったからであるが、肝心のところで敬太郎がさも田舎者らしく玄関を騒がせるものだから、まずこの邪魔を追っ払った後でというつもりになって、じれったさの余り自分と取次に出たのだという。須永にこの顛末を聞かされた時に、敬太郎はますます自分の挨拶が丁寧過ぎたような気がした。
中一日置いて、敬太郎は堂々と田口へ電話をかけて、これからすぐ行っても差支ないかと聞き合わせた。向うの電話口へ出たものは、敬太郎の言葉つきや話しぶりの比較的横風なところからだいぶ位地の高い人とでも思ったらしく、「どうぞ少々御待ち下さいまし、ただいま主人の都合をちょっと尋ねますから」と丁寧な挨拶をして引き込んだが、今度返事を伝えるときは、「ああ、もしもし今ね、来客中で少し差支えるそうです。午後の一時頃来るなら来ていただきたいという事です」と前よりは言葉がよほど粗末になっていた。敬太郎は、「そうですか、それでは一時頃上りますから、どうぞ御主人に宜しく」と答えて電話を切ったが、内心は一種厭な心持がした。
十二時かっきりに午飯を食うつもりで、あらかじめ下女に云いつけておいた膳が、時間通り出て来ないので、敬太郎は騒々しく鳴る大学の鐘に急き立てられでもするように催促をして、できるだけ早く食事を済ました。電車の中では一昨日の晩会った田口の態度を思い浮べて、今日もまたああいう風に無雑作な取扱を受けるのか知らん、それとも向うで会うというくらいだから、もう少しは愛嬌のある挨拶でもしてくれるか知らんと考えなどした。彼はこの紳士の好意で、相当の地位さえ得られるならば、多少腰を曲めて窮屈な思をするぐらいは我慢するつもりであった。けれども先刻電話の取次に出たもののように、五分と経たないうちに、言葉使いを悪い方に改められたりすると、もう不愉快になって、どうかそいつがまた取次に出なければいいがと思う。その癖自分のかけ方の自分としては少し横風過ぎた事にはまるで気がつかない性質であった。
小川町の角で、斜に須永の家へ曲る横町を見た時、彼ははっと例の後姿の事を思い出して、急に日蔭から日向へ想像を移した。今日も美くしい須永の従妹のいる所へ訪問に出かけるのだと自分で自分に教える方が、億劫な手数をかけて、好い顔もしない爺さんに、衣食の途を授けて下さいと泣つきに行くのだと意識するよりも、敬太郎に取っては遥かに麗かであったからである。彼は須永の従妹と田口の爺さんを自分勝手に親子ときめておきながらどこまでも二人を引き離して考えていた。この間の晩田口と向き合って玄関先に立った時も、光線の具合で先方の人品は判然分らなかったけれども、眼鼻だちの輪廓だけで評したところが、あまり立派な方でなかった事は、この爺さんの第一印象として、敬太郎の胸に夜目にも疑なく描かれたのである。それでいて彼はこの男の娘なら、須永との関係はどうあろうとも、器量はあまりいい方じゃあるまいという気がどこにも起らなかった。そこで離れていて合い、合っていて離れるような日向日蔭の裏表を一枚にした頭を彼は田口家に対して抱いていたのである。それを互違にくり返した後、彼は田口の門前に立った。するとそこに大きな自働車が御者を乗せたまま待っていたので、少し安からぬ感じがした。
玄関へ掛って名刺を出すと、小倉の袴を穿いた若い書生がそれを受取って、「ちょっと」と云ったまま奥へ這入って行った。その声が確かに先刻電話口で聞いたのに違ないので、敬太郎は彼の後姿を見送りながら厭な奴だと思った。すると彼は名刺を持ったまままた現われた。そうして「御気の毒ですが、ただいま来客中ですからまたどうぞ」と云って、敬太郎の前に突立っていた。敬太郎も少しむっとした。
「先程電話で御都合を伺ったら、今客があるから午後一時頃来いという御返事でしたが」
「実はさっきの御客がまだ御帰りにならないで、御膳などが出て混雑しているんです」
落ちついて聞きさえすれば満更無理もない言訳なのだが、電話以後この取次が癪に障っている敬太郎には彼の云い草がいかにも気に喰わなかった。それで自分の方から先を越すつもりか何かで、「そうですか、たびたび御足労でした。どうぞ御主人へよろしく」と平仄の合わない捨台詞のような事を云った上、何だこんな自働車がと云わぬばかりにその傍を擦り抜けて表へ出た。
彼はこの日必要な会見を都合よく済ました後、新らしく築地に世帯を持った友人の所へ廻って、須永と彼の従妹とそれから彼の叔父に当る田口とを想像の糸で巧みに継ぎ合せつつある一部始終を御馳走に、晩まで話し込む気でいたのである。けれども田口の門を出て日比谷公園の傍に立った彼の頭には、そんな余裕はさらになかった。後姿を見ただけではあるが、在所をすでに突き留めて、今その人の家を尋ねたのだという陽気な心持は固よりなかった。位置を求めにここまで来たという自覚はなおなかった。彼はただ屈辱を感じた結果として、腹を立てていただけである。そうして自分を田口のような男に紹介した須永こそこの取扱に対して当然責任を負わなくてはならないと感じていた。彼は帰りがけに須永の所へ寄って、逐一顛末を話した上、存分文句を並べてやろうと考えた。それでまた電車に乗って一直線に小川町まで引返して来た。時計を見ると、二時にはまだ二十分ほど間があった。須永の家の前へ来て、わざと往来から須永須永と二声ばかり呼んで見たが、いるのかいないのか二階の障子は立て切ったままついに開かなかった。もっとも彼は体裁家で、平生からこういう呼び出し方を田舎者らしいといって厭がっていたのだから、聞こえても知らん顔をしているのではなかろうかと思って、敬太郎は正式に玄関の格子口へかかった。けれども取次に出た仲働の口から「午少し過に御出ましになりました」という言葉を聞いた時は、ちょっと張合が抜けて少しの間黙って立っていた。
「風邪を引いていたようでしたが」
「はい、御風邪を召していらっしゃいましたが、今日はだいぶ好いからとおっしゃって、御出かけになりました」
敬太郎は帰ろうとした。仲働は「ちょっと御隠居さまに申し上げますから」といって、敬太郎を格子のうちに待たしたまま奥へ這入った。と思うと襖の陰から須永の母の姿が現われた。背の高い面長の下町風に品のある婦人であった。
「さあどうぞ。もうそのうち帰りましょうから」
須永の母にこう云い出されたが最後、江戸慣れない敬太郎はどうそれを断って外へ出ていいか、いまだにその心得がなかった。第一どこで断る隙間もないように、調子の好い文句がそれからそれへとずるずる彼の耳へ響いて来るのである。それが世間体の好い御世辞と違って、引き留められているうちに、上っては迷惑だろうという遠慮がいつの間にか失くなって、つい気の毒だから少し話して行こうという気になるのである。敬太郎は云われるままにとうとう例の書斎へ腰をおろした。須永の母が御寒いでしょうと云って、仕切りの唐紙を締めてくれたり、さあ御手をお出しなさいと云って、佐倉を埋けた火鉢を勧めてくれたりするうちに、一時昂奮した彼の気分はしだいに落ちついて来た。彼はシキとかいう白い絹へ秋田蕗を一面に大きく摺った襖の模様だの、唐桑らしくてらてらした黄色い手焙だのを眺めて、このしとやかで能弁な、人を外す事を知らないと云った風の母と話をした。
彼女の語るところによると、須永は今日矢来の叔父の家へ行ったのだそうである。
「じゃついでだから帰りに小日向へ廻って御寺参りをして来ておくれって申しましたら、御母さんは近頃無精になったようですね、この間も他に代理をさせたじゃありませんか、年を取ったせいかしらなんて悪口を云い云い出て参りましたが、あれもねあなた、せんだって中から風邪を引いて咽喉を痛めておりますので、今日も何なら止した方がいいじゃないかととめて見ましたが、やっぱり若いものは用心深いようでもどこか我無しゃらで、年寄の云う事などにはいっさい無頓着でございますから……」
須永の留守へ行くと、彼の母は唯一の楽みのようにこういう調子で伜の話をするのが常であった。敬太郎の方で須永の評判でも持ち出そうものなら、いつまででもその問題の後へ喰付いて来て、容易に話頭を改めないのが例になっていた。敬太郎もそれにはだいぶ慣れているから、この際も向うのいう通りをただふんふんとおとなしく聞いて、一段落の来るのを待っていた。
そのうち話がいつか肝心の須永を逸れて、矢来の叔父という人の方へ移って行った。これは内幸町と違って、この御母さんの実の弟に当る男だそうで、一種の贅沢屋のように敬太郎は須永から聞いていた。外套の裏は繻子でなくては見っともなくて着られないと云ったり、要りもしないのに古渡りの更紗玉とか号して、石だか珊瑚だか分らないものを愛玩したりする話はいまだに覚えていた。
「何にもしないで贅沢に遊んでいられるくらい好い事はないんだから、結構な御身分ですね」と敬太郎が云うのを引き取るように母は、「どうしてあなた、打ち明けた御話が、まあどうにかこうにかやって行けるというまでで、楽だの贅沢だのという段にはまだなかなかなのでございますからいけません」と打ち消した。
須永の親戚に当る人の財力が、さほど敬太郎に関係のある訳でもないので、彼はそれなり黙ってしまった。すると母は少しでも談話の途切れるのを自分の過失ででもあるように、すぐ言葉を継いだ。
「それでも妹婿の方は御蔭さまで、何だかだって方々の会社へ首を突っ込んでおりますから、この方はまあ不自由なく暮しておる模様でございますが、手前共や矢来の弟などになりますと、云わば、浪人同様で、昔に比べたら、尾羽うち枯らさないばかりの体たらくだって、よく弟ともそう申しては笑うこってございますよ」
敬太郎は何となく自分の身の上を顧みて気恥かしい思をした。幸にさきがすらすら喋舌ってくれるので、こっちに受け答をする文句を考える必要がないのをせめてもの得として聞き続けた。
「それにね、御承知の通り市蔵がああいう引っ込思案の男だもんでござんすから、私もただ学校を卒業させただけでは、全く心配が抜けませんので、まことに困り切ります。早く気に入った嫁でも貰って、年寄に安心でもさせてくれるようにおしなと申しますと、そう御母さんの都合のいいようにばかり世の中は行きゃしませんて、てんで相手にしないんでございますよ。そんなら世話をしてくれる人に頼んで、どこへでもいいから、務にでも出る気になればまだしも、そんな事にはまたまるで無頓着であなた……」
敬太郎はこの点において実際須永が横着過ると平生から思っていた。「余計な事ですが、少し目上の人から意見でもして上げるようにしたらどうでしょう。今御話の矢来の叔父さんからでも」と全く年寄に同情する気で云った。
「ところがこれがまた大の交際嫌の変人でございまして、忠告どころか、何だ銀行へ這入って算盤なんかパチパチ云わすなんて馬鹿があるもんかと、こうでございますから頭から相談にも何にもなりません。それをまた市蔵が嬉しがりますので。矢来の叔父の方が好きだとか気が合うとか申しちゃよく出かけます。今日なども日曜じゃあるし御天気は好しするから、内幸町の叔父が大阪へ立つ前にちょっとあちらへ顔でも出せばいいのでございますけれども、やっぱり矢来へ行くんだって、とうとう自分の好きな方へ参りました」
敬太郎はこの時自分が今日何のために馳け込むようにこの家を襲ったかの原因について、また新らしく考え出した。彼は須永の顔を見たら随分過激な言葉を使ってもその不都合を責めた上、僕はもう二度とあすこの門は潜らないつもりだから、そう思ってくれたまえぐらいの台詞を云って帰る気でいたのに、肝心の須永は留守で、事情も何も知らない彼の母から、逆さにいろいろな話をしかけられたので、怒ってやろうという気は無論抜けてしまったのである。が、それでも行きがかり上、田口と会見を遂げ得なかった顛末だけは、一応この母の耳へでも構わないから入れておく必要があるだろう。それには話の中に内幸町へ行くとか行かないとかが問題になっている今が一番よかろう。――こう敬太郎は思った。
「実はその内幸町の方へ今日私も出たんですが」と云い出すと、自分の息子の事ばかり考えていた母は、「おやそうでございましたか」とやっと気がついてすまないという顔つきをした。この間から敬太郎が躍起になって口を探している事や、探しあぐんで須永に紹介を頼んだ事や、須永がそれを引き受けて内幸町の叔父に会えるように周旋した事は、須永の傍にいる母として彼女のことごとく見たり聞いたりしたところであるから、行き届いた人なら先方で何も云い出さない前に、こっちからどんな模様ですぐらいは聞いてやるべきだとでも思ったのだろう。こう観察した敬太郎は、この一句を前置に、今までの成行を残らず話そうと力めにかかったが、時々相手から「そうでございますとも」とか、「本当にまあ、間の悪い時にはね」とか、どっちにも同情したような間投詞が出るので、自分がむかっ腹を立てて悪体を吐いた事などは話のうちから綺麗に抜いてしまった。須永の母は気の毒という言葉を何遍もくり返した後で、田口を弁護するようにこんな事を云った。――
「そりゃあ実のところ忙しい男なので。妹などもああして一つ家に住んでおりますようなものの、――何でごさんしょう。――落々話のできるのはおそらく一週間に一日もございますまい。私が見かねて要作さんいくら御金が儲かるたって、そう働らいて身体を壊しちゃ何にもならないから、たまには骨休めをなさいよ、身体が資本じゃありませんかと申しますと、おいらもそう思ってるんだが、それからそれへと用が湧いてくるんで、傍から掬くい出さないと、用が腐っちまうから仕方がないなんて笑って取り合いませんので。そうかと思うとまた妹や娘に今日はこれから鎌倉へ伴れて行く、さあすぐ支度をしろって、まるで足元から鳥が立つように急き立てる事もございますが……」
「御嬢さんがおありなのですか」
「ええ二人おります。いずれも年頃でございますから、もうそろそろどこかへ片づけるとか婿を取るとかしなければなりますまいが」
「そのうちの一人の方が、須永君のところへ御出になる訳でもないんですか」
母はちょっと口籠った。敬太郎もただ自分の好奇心を満足させるためにあまり立ち入った質問をかけ過ぎたと気がついた。何とかして話題を転じようと考えているうちに、相手の方で、
「まあどうなりますか。親達の考もございましょうし。当人達の存じ寄りもしかと聞糺して見ないと分りませんし。私ばかりでこうもしたい、ああもしたいといくら熱急思ってもこればかりは致し方がございません」と何だか意味のありそうな事を云った。一度退きかけた敬太郎の好奇心はこの答でまた打ち返して来そうにしたが、善くないという克己心にすぐ抑えられた。
母はなお田口の弁護をした。そんな忙がしい身体だから、時によると心にもない約束違いなどをする事もあるが、いったん引き受けた以上は忘れる男ではないから、まあ旅行から帰るまで待って、緩くり会ったら宜かろうという注意とも慰藉ともつかない助言も与えた。
「矢来のはおっても会わん方で、これは仕方がございませんが、内幸町のはいないでも都合さえつけば馳けて帰って来て会うといった風の性質でございますから、今度旅行から帰って来さえすれば、こっちから何とも云ってやらないでも、向うできっと市蔵のところへ何とか申して参りますよ。きっと」
こう云われて見ると、なるほどそういう人らしいが、それはこっちがおとなしくしていればこそで、先刻のようにぷんぷん怒ってはとうてい物にならないにきまり切っている。しかし今更それを打ち明ける訳には行かないので、敬太郎はただ黙っていた。須永の母はなお「あんな顔はしておりますが、見かけによらない実意のある剽軽者でございますから」と云って一人で笑った。
剽軽者という言葉は田口の風采なり態度なりに照り合わせて見て、どうも敬太郎の腑に落ちない形容であった。しかし実際を聞いて見ると、なるほど当っているところもあるように思われた。田口は昔しある御茶屋へ行って、姉さんこの電気灯は熱り過ぎるね、もう少し暗くしておくれと頼んだ事があるそうだ。下女が怪訝な顔をして小さい球と取り換えましょうかと聞くと、いいえさ、そこをちょいと捻って暗くするんだと真面目に云いつけるので、下女はこれは電気灯のない田舎から出て来た人に違ないと見て取ったものか、くすくす笑いながら、旦那電気はランプと違って捻ったって暗くはなりませんよ、消えちまうだけですから。ほらねとぱちッと音をさせて座敷を真暗にした上、またぱっと元通りに明るくするかと思うと、大きな声でばあと云った。田口は少しも悄然ずに、おやおやまだ旧式を使ってるね。見っともないじゃないか、ここの家にも似合わないこった。早く会社の方へ改良を申し込んでおくといい。順番に直してくれるから。とさももっともらしい忠告を与えたので、下女もとうとう真に受け出して、本当にこれじゃ不便ね、だいち点けっ放しで寝る時なんか明る過ぎて、困る人が多いでしょうからとさも感心したらしく、改良に賛成したそうである。ある時用事が出来て門司とか馬関とかまで行った時の話はこれよりもよほど念が入っている。いっしょに行くべきはずのAという男に差支が起って、二日ばかり彼は宿屋で待ち合わしていた。その間の退屈紛れに、彼はAを一つ担いでやろうと巧らんだ。これは町を歩いている時、一軒の写真屋の店先でふと思いついた悪戯で、彼はその店から地方の芸者の写真を一枚買ったのである。その裏へA様と書いて、手紙を添えた贈物のように拵えた。その手紙は女を一人雇って、充分の時間を与えた上、できるだけAの心を動かすように艶めかしく曲らしたもので、誰が貰っても嬉しい顔をするに足るばかりか、今日の新聞を見たら、明日ここへ御着のはずだと出ていたので、久しぶりにこの手紙を上げるんだから、どうか読みしだい、どこそこまで来ていただきたいと書いたなかなか安くないものであった。彼はその晩自分でこの手紙をポストへ入れて、翌日配達の時またそれを自分で受取ったなり、Aの来るのを待ち受けた。Aが着いても彼はこの手紙をなかなか出さなかった。力めて真面目な用談についての打合せなどを大事らしくし続けて、やっと同じ食卓で晩餐の膳に向った時、突然思い出したように袂の中からそれを取り出してAに与えた。Aは表に至急親展とあるので、ちょっと箸を下に置くと、すぐ封を開いたが、少し読み下すと同時に包んである写真を抜いて裏を見るや否や、急に丸めるように懐へ入れてしまった。何か急の用でもできたのかと聞くと、いや何というばかりで、不得要領にまた箸を取ったが、どことなくそわそわした様子で、まだ段落のつかない用談をそのままに、少し失礼する腹が痛いからと云って自分の部屋に帰った。田口は下女を呼んで、今から十五分以内にAが外出するだろうから、出るときは車が待ってでもいたように、Aが何にも云わない先に彼を乗せて馳け出して、その思わく通りどこの何という家の門へおろすようにしろと云いつけた。そうして自分はAより早く同じ家へ行って、主婦を呼ぶや否や、今おれの宿の提灯を点けた車に乗って、これこれの男が来るから、来たらすぐ綺麗な座敷へ通して、叮嚀に取扱って、向うで何にも云わない先に、御連様はとうから御待兼でございますと云ったなり引き退がって、すぐおれのところへ知らせてくれと頼んだ。そうして一人で煙草を吹かして腕組をしながら、事件の経過を待っていた。すると万事が旨い具合に予定の通り進行して、いよいよ自分の出る順が来た。そこでAの部屋の傍へ行って間の襖を開けながら、やあ早かったねと挨拶すると、Aは顔の色を変えて驚ろいた。田口はその前へ坐り込んで、実はこれこれだと残らず自分の悪戯を話した上、「担いだ代りに今夜は僕が奢るよ」と笑いながら云ったんだという。
「こういう飄気た真似をする男なんでございますから」と須永の母も話した後でおかしそうに笑った。敬太郎はあの自働車はまさか悪戯じゃなかったろうと考えながら下宿へ帰った。
自動車事件以後敬太郎はもう田口の世話になる見込はないものと諦らめた。それと同時に須永の従弟と仮定された例の後姿の正体も、ほぼ発端の入口に当たる浅いところでぱたりと行きとまったのだと思うと、その底にはがゆいようなまた煮切らないような不愉快があった。彼は今日まで何一つ自分の力で、先へ突き抜けたという自覚を有っていなかった。勉強だろうが、運動だろうが、その他何事に限らず本気にやりかけて、貫ぬき終せた試がなかった。生れてからたった一つ行けるところまで行ったのは、大学を卒業したくらいなものである。それすら精を出さずにとぐろばかり巻きたがっているのを、向で引き摺り出してくれたのだから、中途で動けなくなった間怠さのない代りには、やっとの思いで井戸を掘り抜いた時の晴々した心持も知らなかった。
彼はぼんやりして四五日過ぎた。ふと学生時代に学校へ招待したある宗教家の談話を思い出した。その宗教家は家庭にも社会にも何の不満もない身分だのに、自から進んで坊主になった人で、その当時の事情を述べる時に、どうしても不思議でたまらないからこの道に入って見たと云った。この人はどんな朗らかに透き徹るような空の下に立っても、四方から閉じ込められているような気がして苦しかったのだそうである。樹を見ても家を見ても往来を歩く人間を見ても鮮かに見えながら、自分だけ硝子張の箱の中に入れられて、外の物と直に続いていない心持が絶えずして、しまいには窒息するほど苦しくなって来るんだという。敬太郎はこの話を聞いて、それは一種の神経病に罹っていたのではなかろうかと疑ったなり、今日まで気にもかけずにいた。しかしこの四五日ぼんやり屈託しているうちによくよく考えて見ると、彼自身が今までに、何一つ突き抜いて痛快だという感じを得た事のないのは、坊主にならない前のこの宗教家の心にどこか似た点があるようである。もちろん自分のは比較にならないほど微弱で、しかも性質がまるで違っているから、この坊さんのようにえらい勇断をする必要はない。もう少し奮発して気張る事さえ覚えれば、当っても外れても、今よりはまだ痛快に生きて行かれるのに、今日までついぞそこに心を用いる事をしなかったのである。
敬太郎は一人でこう考えて、どこへでも進んで行こうと思ったが、また一方では、もうすっぽ抜けの後の祭のような気がして、何という当もなくまた三四日ぶらぶらと暮した。その間に有楽座へ行ったり、落語を聞いたり、友達と話したり、往来を歩いたり、いろいろやったが、いずれも薬缶頭を攫むと同じ事で、世の中は少しも手に握れなかった。彼は碁を打ちたいのに、碁を見せられるという感じがした。そうして同じ見せられるなら、もう少し面白い波瀾曲折のある碁が見たいと思った。
すると直須永と後姿の女との関係が想像された。もともと頭の中でむやみに色沢を着けて奥行のあるように組み立てるほどの関係でもあるまいし、あったところが他の事を余計なおせっかいだと、自分で自分を嘲けりながら、ああ馬鹿らしいと思う後から、やっぱり何かあるだろうという好奇心が今のようにちょいちょいと閃めいて来るのである。そうしてこの道をもう少し辛抱強く先へ押して行ったら、自分が今まで経験した事のない浪漫的な或物にぶつかるかも知れないと考え出す。すると田口の玄関で怒ったなり、あの女の研究まで投げてしまった自分の短気を、自分の好奇心に釣り合わない弱味だと思い始める。
職業についても、あんな些細な行違のために愛想づかしをたとい一句でも口にして、自分と田口の敷居を高くするはずではなかったと思う。あれでできるともできないとも、まだ方のつかない未来を中途半端に仕切ってしまった。そうして好んで煮きらない思いに悩んでいる姿になってしまった。須永の母の保証するところでは、田口という老人は見かけに寄らない親切気のある人だそうだから、あるいは旅行から帰って来た上で、また改めて会ってくれないとも限らない。が、こっちからもう一遍会見の都合を問い合せたりなどして、常識のない馬鹿だと軽蔑まれてもつまらない。けれどもどの道突き抜けた心持をしっかり捕まえるためには馬鹿と云われるまでも、そこまで突っかけて行く必要があるだろう。――敬太郎は屈託しながらもいろいろ考えた。
けれども身の一大事を即座に決定するという非常な場合と違って、敬太郎の思案には屈託の裏に、どこか呑気なものがふわふわしていた。この道をとどのつまりまで進んで見ようか、またはこれぎりやめにして、さらに新らしいものに移る支度をしようか。問題は煎じつめるまでもなく当初から至極簡単にでき上っていたのである。それに迷うのは、一度籤を引き損なったが最後、もう浮ぶ瀬はないという非道い目に会うからではなくって、どっちに転んでも大した影響が起らないため、どうでも好いという怠けた心持がいつしらず働らくからである。彼は眠い時に本を読む人が、眠気に抵抗する努力を厭いながら、文字の意味を判明頭に入れようと試みるごとく、呑気の懐で決断の卵を温めている癖に、ただ旨く孵化らない事ばかり苦にしていた。この不決断を逃れなければという口実の下に、彼は暗に自分の物数奇に媚びようとした。そうして自分の未来を売卜者の八卦に訴えて判断して見る気になった。彼は加持、祈祷、御封、虫封じ、降巫の類に、全然信仰を有つほど、非科学的に教育されてはいなかったが、それ相当の興味は、いずれに対しても昔から今日まで失わずに成長した男である。彼の父は方位九星に詳しい神経家であった。彼が小学校へ行く時分の事であったが、ある日曜日に、彼の父は尻を端折って、鍬を担ついだまま庭へ飛び下りるから、何をするのかと思って、後から跟いて行こうとすると、父は敬太郎に向って、御前はそこにいて、時計を見ていろ、そうして十二時が鳴り出したら、大きな声を出して合図をしてくれ、すると御父さんがあの乾に当る梅の根っこを掘り始めるからと云いつけた。敬太郎は子供心にまた例の家相だと思って、時計がちんと鳴り出すや否や命令通り、十二時ですようと大きな声で叫んだ。それで、その場は無事に済んだが、あれほど正確に鍬を下ろすつもりなら、肝心の時計が狂っていないようにあらかじめ直しておかなくてはならないはずだのにと敬太郎は父の迂闊をおかしく思った。学校の時計と自分の家のとはその時二十分近く違っていたからである。ところがその後摘草に行った帰りに、馬に蹴られて土堤から下へ転がり落ちた事がある。不思議に怪我も何もしなかったのを、御祖母さんが大層喜んで、全く御地蔵様が御前の身代りに立って下さった御蔭だこれ御覧と云って、馬の繋いであった傍にある石地蔵の前に連れて行くと、石の首がぽくりと欠けて、涎掛だけが残っていた。敬太郎の頭にはその時から怪しい色をした雲が少し流れ込んだ。その雲が身体の具合や四辺の事情で、濃くなったり薄くなったりする変化はあるが、成長した今日に至るまで、いまだに抜け切らずにいた事だけはたしかである。
こういう訳で、彼は明治の世に伝わる面白い職業の一つとして、いつでも大道占いの弓張提灯を眺めていた。もっとも金を払って筮竹の音を聞くほどの熱心はなかったが、散歩のついでに、寒い顔を提灯の光に映した女などが、悄然そこに立っているのを見かけると、この暗い影を未来に投げて、思案に沈んでいる憐れな人に、易者がどんな希望と不安と畏怖と自信とを与えるだろうという好奇心に惹かされて、面白半分、そっと傍へ寄って、陰の方から立聞をする事がしばしばあった。彼の友の某が、自分の脳力に悲観して、試験を受けようか学校をやめようかと思い煩っている頃、ある人が旅行のついでに、善光寺如来の御神籤をいただいて第五十五の吉というのを郵便で送ってくれたら、その中に雲散じて月重ねて明らかなり、という句と、花発いて再び重栄という句があったので、物は試しだからまあ受けて見ようと云って、受けたら綺麗に及第した時、彼は興に乗って、方々の神社で手当りしだい御神籤をいただき廻った事さえある。しかもそれは別にこれという目的なしにいただいたのだから彼は平生でも、優に売卜者の顧客になる資格を充分具えていたに違ない。その代り今度のような場合にも、どこか慰さみがてらに、まあやって見ようという浮気がだいぶ交っていた。
敬太郎はどこの占ない者に行ったものかと考えて見たが、あいにくどこという当もなかった。白山の裏とか、芝公園の中とか、銀座何丁目とか今までに名前を聞いたのは二三軒あるが、むやみに流行るのは山師らしくって行く気にならず、と云って、自分で嘘と知りつつ出鱈目を強いてもっともらしく述べる奴はなお不都合であるし、できるならば余り人の込み合わない家で、閑静な髯を生やした爺さんが奇警な言葉で、簡潔にすぱすぱと道い破ってくれるのがどこかにいればいいがと思った。そう思いながら、彼は自分の父がよく相談に出かけた、郷里の一本寺の隠居の顔を頭の中に描き出した。それからふと気がついて、考えるんだかただ坐っているんだか分らない自分の様子が馬鹿馬鹿しくなったので、とにかく出てそこいらを歩いてるうちに、運命が自分を誘い込むような占ない者の看板にぶつかるだろうという漠然たる頭に帽子を載せた。
彼は久しぶりに下谷の車坂へ出て、あれから東へ真直に、寺の門だの、仏師屋だの、古臭い生薬屋だの、徳川時代のがらくたを埃といっしょに並べた道具屋だのを左右に見ながら、わざと門跡の中を抜けて、奴鰻の角へ出た。
彼は小供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父さんから、しばしば観音様の繁華を耳にした。仲見世だの、奥山だの、並木だの、駒形だの、いろいろ云って聞かされる中には、今の人があまり口にしない名前さえあった。広小路に菜飯と田楽を食わせるすみ屋という洒落た家があるとか、駒形の御堂の前の綺麗な縄暖簾を下げた鰌屋は昔しから名代なものだとか、食物の話もだいぶ聞かされたが、すべての中で最も敬太郎の頭を刺戟したものは、長井兵助の居合抜と、脇差をぐいぐい呑んで見せる豆蔵と、江州伊吹山の麓にいる前足が四つで後足が六つある大蟇の干し固めたのであった。それらには蔵の二階の長持の中にある草双紙の画解が、子供の想像に都合の好いような説明をいくらでも与えてくれた。一本歯の下駄を穿いたまま、小さい三宝の上に曲がんだ男が、襷がけで身体よりも高く反り返った刀を抜こうとするところや、大きな蝦蟆の上に胡坐をかいて、児雷也が魔法か何か使っているところや、顔より大きそうな天眼鏡を持った白い髯の爺さんが、唐机の前に坐って、平突ばったちょん髷を上から見下すところや、大抵の不思議なものはみんな絵本から抜け出して、想像の浅草に並んでいた。こういう訳で敬太郎の頭に映る観音の境内には、歴史的に妖嬌陸離たる色彩が、十八間の本堂を包んで、小供の時から常に陽炎っていたのである。東京へ来てから、この怪しい夢は固より手痛く打ち崩されてしまったが、それでも時々は今でも観音様の屋根に鵠の鳥が巣を食っているだろうぐらいの考にふらふらとなる事がある。今日も浅草へ行ったらどうかなるだろうという料簡が暗に働らいて、足が自ずとこっちに向いたのである。しかしルナパークの後から活動写真の前へ出た時は、こりゃ占ない者などのいる所ではないと今更のようにその雑沓に驚ろいた。せめて御賓頭顱でも撫でて行こうかと思ったが、どこにあるか忘れてしまったので、本堂へ上って、魚河岸の大提灯と頼政の鵺を退治ている額だけ見てすぐ雷門を出た。敬太郎の考えではこれから浅草橋へ出る間には、一軒や二軒の易者はあるだろう。もし在ったら何でも構わないから入る事にしよう。あるいは高等工業の先を曲って柳橋の方へ抜けて見ても好いなどと、まるで時分どきに恰好な飯屋でも探す気で歩いていた。ところがいざ探すとなると生憎なもので、平生は散歩さえすればいたるところに神易の看板がぶら下っている癖に、あの広い表通りに門戸を張っている卜者はまるで見当らなかった。敬太郎はこの企図もまた例によって例のごとく、突き抜けずに中途でおしまいになるのかも知れないと思って少し失望しながら蔵前まで来た。するとやっとの事で尋ねる商売の家が一軒あった。細長い堅木の厚板に、身の上判断と割書をした下に、文銭占ないと白い字で彫って、そのまた下に、漆で塗った真赤な唐辛子が描いてある。この奇体な看板がまず敬太郎の眼を惹いた。
よく見るとこれは一軒の生薬屋の店を仕切って、その狭い方へこざっぱりした差掛様のものを作ったので、中に七色唐辛子の袋を並べてあるから、看板の通りそれを売る傍ら、占ないを見る趣向に違ない。敬太郎はこう観察して、そっと餡転餅屋に似た差掛の奥を覗いて見ると、小作りな婆さんがたった一人裁縫をしていた。狭い室一つの住居としか思われないのに、肝心の易者の影も形も見えないから、主人は他行中で、細君が留守番をしているところかとも思ったが、店先の構造から推すと、奥は生薬屋の方と続いているかも知れないので、一概に留守と見切をつける訳にも行かなかった。それで二三歩先へ出て、薬種店の方を覗くと、八ツ目鰻の干したのも釣るしてなければ、大きな亀の甲も飾ってないし、人形の腹をがらん胴にして、五色の五臓を外から見えるように、腹の中の棚に載せた古風の装飾もなかった。一本寺の隠居に似た髯のある爺さんは固より坐っていなかった。彼は再び立ち戻って、身の上判断文銭占ないという看板のかかった入口から暖簾を潜って内へ入った。裁縫をしていた婆さんは、針の手をやめて、大きな眼鏡の上から睨むように敬太郎を見たが、ただ一口、占ないですかと聞いた。敬太郎は「ええちょっと見て貰いたいんだが、御留守のようですね」と云った。すると婆さんは、膝の上のやわらか物を隅の方へ片づけながら、御上りなさいと答えた。敬太郎は云われる通り素直に上って見ると、狭いけれども居心地の悪いほど汚れた室ではなかった。現に畳などは取り替え立てでまだ新らしい香がした。婆さんは煮立った鉄瓶の湯を湯呑に注いで、香煎を敬太郎の前に出した。そうして昔は薬箱でも載せた棚らしい所に片づけてあった小机を取りおろしにかかった。その机には無地の羅紗がかけてあったが、婆さんはそれをそのまま敬太郎の正面に据えて、そうして再び故の座に帰った。
「占ないは私がするのです」
敬太郎は意外の感に打たれた。この小いさい丸髷に結った。黒繻子の襟のかかった着物の上に、地味な縞の羽織を着た、一心に縫物をしている、純然家庭的の女が、自分の未来に横たわる運命の予言者であろうとは全く想像のほかにあったのである。その上彼はこの婦人の机の上に、筮竹も算木も天眼鏡もないのを不思議に眺めた。婆さんは机の上に乗っている細長い袋の中からちゃらちゃらと音をさせて、穴の開いた銭を九つ出した。敬太郎は始めてこれが看板に「文銭占ない」とある文銭なるものだろうと推察したが、さてこの九枚の文銭が、暗い中で自分を操っている運命の糸と、どんな関係を有っているか、固より想像し得るはずがないので、ただそこに鋳出された模様と、それがしまってあった袋とを見比べるだけで、何事も云わずにいた。袋は能装束の切れ端か、懸物の表具の余りで拵らえたらしく、金の糸が所々に光っているけれども、だいぶ古いものと見えて、手擦と時代のため、派手な色を全く失っていた。
婆さんは年寄に似合わない白い繊麗な指で、九枚の文銭を三枚ずつ三列に並べたが、ひょっと顔を上げて、「身の上を御覧ですか」と聞いた。
「さあ一生涯の事を一度に聞いておいても損はないが、それよりか今ここでどうしたらいいか、その方をきめてかかる方が僕には大切らしいから、まあそれを一つ願おう」
婆さんはそうですかと答えたが、それで御年はとまた敬太郎の年齢を尋ねた。それから生れた月と日を確めた。その後で胸算用でもする案排しきで、指を折って見たり、ただ考がえたりしていたが、やがてまた綺麗な指で例の文銭を新らしく並べ更えた。敬太郎は表に波が出たり、あるいは文字が現われたりして、三枚が三列に続く順序と排列を、深い意味でもあるような眼つきをして見守っていた。
婆さんはしばらく手を膝の上に載せて、何事も云わずに古い銭の面をじっと注意していたが、やがて考えの中心点が明快纏まったという様子をして、「あなたは今迷っていらっしゃる」と云い切ったなり敬太郎の顔を見た。敬太郎はわざと何も答えなかった。
「進もうかよそうかと思って迷っていらっしゃるが、これは御損ですよ。先へ御出になった方が、たとい一時は思わしくないようでも、末始終御為ですから」
婆さんは一区限つけると、また口を閉じて敬太郎の様子を窺った。敬太郎は始めからただ先方のいう事をふんふん聞くだけにして、こちらでは喋舌らないつもりに、腹の中できめてかかったのであるが、婆さんのこの一言に、ぼんやりした自分の頭が、相手の声に映ってちらりと姿を現わしたような気がしたので、ついその刺戟に応じて見たくなった。
「進んでも失敗るような事はないでしょうか」
「ええ。だからなるべくおとなしくして。短気を起さないようにね」
これは予言ではない、常識があらゆる人に教える忠告に過ぎないと思ったけれども婆さんの態度に、これという故意とらしい点も見えないので、彼はなお質問を続けた。
「進むってどっちへ進んだものでしょう」
「それはあなたの方がよく分っていらっしゃるはずですがね。私はただ最少し先まで御出なさい、そのほうが御為だからと申し上げるまでです」
こうなると敬太郎も行きがかり上そうですかと云って引込む訳に行かなくなった。
「だけれども道が二つ有るんだから、その内でどっちを進んだらよかろうと聞くんです」
婆さんはまた黙って文銭の上を眺めていたが、前よりは重苦しい口調で、「まあ同なじですね」と答えた。そうして先刻裁縫をしていた時に散らばした糸屑を拾って、その中から紺と赤の絹糸のかなり長いのを択り出して、敬太郎の見ている前で、それを綺麗に縒り始めた。敬太郎はただ手持無沙汰の徒事とばかり思って、別段意にも留めなかったが、婆さんは丹念にそれを五六寸の長さに縒り上げて、文銭の上に載せた。
「これを御覧なさい。こう縒り合わせると、一本の糸が二筋の糸で、二筋の糸が一本の糸になるじゃありませんか。そら派手な赤と地味な紺が。若い時にはとかく派手の方へ派手の方へと駆け出してやり損ない勝のものですが、あなたのは今のところこの縒糸みたように丁度好い具合に、いっしょに絡まり合っているようですから御仕合せです」
絹糸の喩は何とも知らず面白かったが、御仕合せですと云われて見ると、嬉しいよりもかえっておかしい心持の方が敬太郎を動かした。
「じゃこの紺糸で地道を踏んで行けば、その間にちらちら派手な赤い色が出て来ると云うんですね」と敬太郎は向うの言葉を呑み込んだような尋ね方をした。
「そうですそうなるはずです」と婆さんは答えた。始めから敬太郎は占ないの一言で、是非共右か左へ片づけなければならないとまで切に思いつめていた訳でもなかったけれども、これだけで帰るのも少し物足りなかった。婆さんの云う事が、まるで自分の胸とかけ隔たった別世界の消息なら、固より論はないが、意味の取り方ではだいぶ自分の今の身の上に、応用の利く点もあるので、敬太郎はそこに微かな未練を残した。
「もう何にも伺がう事はありませんか」
「そうですね。近い内にちょっとした事ができるかも知れません」
「災難ですか」
「災難でもないでしょうが、気をつけないとやり損ないます。そうしてやり損なえばそれっきり取り返しがつかない事です」
敬太郎の好奇心は少し鋭敏になった。
「全体どんな性質の事ですか」
「それは起って見なければ分りません。けれども盗難だの水難だのではないようです」
「じゃどうして失敗らない工夫をして好いか、それも分らないでしょうね」
「分らない事もありませんが、もし御望みなら、もう一遍占ないを立て直して見て上げても宜うござんす」
敬太郎は、では御頼み申しますと云わない訳に行かなかった。婆さんはまた繊細な指先を小器用に動かして、例の文銭を並べ更えた。敬太郎から云えば先の並べ方も今度の並べ方も大抵似たものであるが、婆さんにはそこに何か重大の差別があるものと見えて、その一枚を引っくり返すにも軽率に手は下さなかった。ようやく九枚をそれぞれ念入に片づけた後で、婆さんは敬太郎に向って「大体分りました」と云った。
「どうすれば好いんですか」
「どうすればって、占ないには陰陽の理で大きな形が現われるだけだから、実地は各自がその場に臨んだ時、その大きな形に合わして考えるほかありませんが、まあこうです。あなたは自分のようなまた他人のような、長いようなまた短かいような、出るようなまた這入るようなものを待っていらっしゃるから、今度事件が起ったら、第一にそれを忘れないようになさい。そうすれば旨く行きます」
敬太郎は煙に巻かれざるを得なかった。いくら大きな形が陰陽の理で現われたにしたところで、これじゃ方角さえ立たない霧のようなものだから、たとい嘘でも本当でも、もう少し切りつめた応用の利くところを是非云わせようと思って、二三押問答をして見たが、いっこう埒が明かなかった。敬太郎はとうとうこの禅坊主の寝言に似たものを、手拭に包んだ懐炉のごとく懐中させられて表へ出た。おまけに出がけに七色唐辛子を二袋買って袂へ入れた。
翌日彼は朝飯の膳に向って、煙の出る味噌汁椀の蓋を取ったとき、たちまち昨日の唐辛子を思い出して、袂から例の袋を取り出した。それを十二分に汁の上に振りかけて、ひりひりするのを我慢しながら食事を済ましたが、婆さんの云わゆる「陰陽の理によって現われた大きな形」と頭の中に呼び起して見ると、まだ漠然と瓦斯のごとく残っていた。しかし手のつけようのない謎に気を揉むほど熱心な占ない信者でもないので、彼はどうにかそれを解釈して見たいと焦心る苦悶を知らなかった。ただその分らないところに妙な趣があるので、忘れないうちに、婆さんの云った通りを紙片に書いて机の抽出へ入れた。
もう一遍田口に会う手段を講じて見る事の可否は、昨日すでに婆さんの助言で断定されたものと敬太郎は解釈した。けれども彼は占ないを信じて動くのではない、動こうとする矢先へ婆さんが動く縁をつけてくれたに過ぎないのだと思った。彼は須永へ行って彼の叔父がすでに大阪から帰ったかどうか尋ねて見ようかと考えたが、自動車事件の記憶がまだ新たに彼の胸を圧迫しているので、足を運ぶ勇気がちょっと出なかった。電話もこの際利用しにくかった。彼はやむを得ず、手紙で用を弁ずる事にした。彼はせんだって須永の母に話したとほぼ同様の顛末を簡略に書いた後で、田口がもう旅行から帰ったかどうかを聞き合わせて、もし帰ったなら御多忙中はなはだ恐れ入るけれども、都合して会ってくれる訳には行くまいか、こっちはどうせ閑な身体だから、いつでも指定されて時日に出られるつもりだがと、この間の権幕は、綺麗に忘れたような口ぶりを見せた。敬太郎はこの手紙を出すと同時に、須永の返事を明日にも予想した。ところが二日立っても三日立っても何の挨拶もないので、少し不安の念に悩まされ出した。なまじい売卜者の言葉などに動かされて、恥を掻いてはつまらないという後悔も交った。すると四日目の午前になって、突然田口から電話口へ呼び出された。
電話口へ出て見ると案外にも主人の声で、今直来る事ができるかという簡単な問い合わせであった。敬太郎はすぐ出ますと答えたが、それだけで電話を切るのは何となくぶっきらぼう過ぎて愛嬌が足りない気がするので、少し色を着けるために、須永君から何か御話でもございましたかと聞いて見た。すると相手は、ええ市蔵から御希望を通知して来たのですが、手数だから直接に私の方で御都合を伺がいました。じゃ御待ち申しますから、直どうぞ。と云ってそれなり引込んでしまった。敬太郎はまた例の袴を穿きながら、今度こそ様子が好さそうだと思った。それからこの間買ったばかりの中折を帽子掛から取ると、未来に富んだ顔に生気を漲ぎらして快豁に表へ出た。外には白い霜を一度に摧いた日が、木枯しにも吹き捲くられずに、穏やかな往来をおっとりと一面に照らしていた。敬太郎はその中を突切る電車の上で、光を割いて進むような感じがした。
田口の玄関はこの間と違って蕭条りしていた。取次に袴を着けた例の書生が現われた時は、少しきまりが悪かったが、まさかせんだっては失礼しましたとも云えないので、素知らぬ顔をして叮嚀に来意を告げた。書生は敬太郎を覚えていたのか、いないのか、ただはあと云ったなり名刺を受取って奥へ這入ったが、やがて出て来て、どうぞこちらへと応接間へ案内した。敬太郎は取次の揃えてくれた上靴を穿いて、御客らしく通るには通ったが、四五脚ある椅子のどれへ腰をかけていいかちょっと迷った。一番小さいのにさえきめておけば間違はあるまいという謙遜から、彼は腰の高い肱懸も装飾もつかない最も軽そうなのを択って、わざと位置の悪い所へ席を占めた。
やがて主人が出て来た。敬太郎は使い慣れない切口上を使って、初対面の挨拶やら会見の礼やらを述べると、主人は軽くそれを聞き流すだけで、ただはあはあと挨拶した。そうしていくら区切が来ても、いっこう何とも云ってくれなかった。彼は主人の態度に失望するほどでもなかったが、自分の言葉がそう思う通り長く続かないのに弱った。一応頭の中にある挨拶を出し切ってしまうと、後はそれぎりで、手持無沙汰と知りながら黙らなければならなかった。主人は巻莨入から敷島を一本取って、あとを心持敬太郎のいる方へ押しやった。
「市蔵からあなたの御話しは少し聞いた事もありますが、いったいどういう方を御希望なんですか」
実を云うと、敬太郎には何という特別の希望はなかった。ただ相当の位置さえ得られればとばかり考えていたのだから、こう聞かれるとぼんやりした答よりほかにできなかった。
「すべての方面に希望を有っています」
田口は笑い出した。そうして機嫌の好い顔つきをして、学士の数のこんなに殖えて来た今日、いくら世話をする人があろうとも、そう最初から好い地位が得られる訳のものでないという事情を懇ごろに説いて聞かせた。しかしそれは田口から改めて教わるまでもなく、敬太郎のとうから痛切に承知しているところであった。
「何でもやります」
「何でもやりますったって、まさか鉄道の切符切もできないでしょう」
「いえできます。遊んでるよりはましですから。将来の見込のあるものなら本当に何でもやります。第一遊んでいる苦痛を逃れるだけでも結構です」
「そう云う御考ならまた私の方でもよく気をつけておきましょう。直という訳にも行きますまいが」
「どうぞ。――まあ試しに使って見て下さい。あなたの御家の――と云っちゃ余り変ですが、あなたの私事にででもいいから、ちょっと使って見て下さい」
「そんな事でもして見る気がありますか」
「あります」
「それじゃ、ことに依ると何か願って見るかも知れません。いつでも構いませんか」
「ええなるべく早い方が結構です」
敬太郎はこれで会見を切り上げて、朗らかな顔をして表へ出た。
穏やかな冬の日がまた二三日続いた。敬太郎は三階の室から、窓に入る空と樹と屋根瓦を眺めて、自然を橙色に暖ためるおとなしいこの日光が、あたかも自分のために世の中を照らしているような愉快を覚えた。彼はこの間の会見で、自分に都合の好い結果が、近い内にわが頭の上に落ちて来るものと固く信ずるようになった。そうしてその結果がどんな異様の形を装って、彼の前に現われるかを、彼は最も楽しんで待ち暮らした。彼が田口に依頼した仕事のうちには、普通の依頼者の申し出以上のものまで含んでいた。彼は一定の職業から生ずる義務を希望したばかりでなく、刺戟に充ちた一時性の用事をも田口から期待した。彼の性質として、もし成効の影が彼を掠めて閃めくならば、おそらく尋常の雑務とは切り離された特別の精彩を帯びたものが、卒然彼の前に投げ出されるのだろうぐらいに考えた。そんな望を抱いて、彼は毎日美くしい日光に浴していたのである。
すると四日ばかりして、また田口から電話がかかった。少し頼みたい事ができたが、わざわざ呼び寄せるのも気の毒だし、電話では手間が要ってかえって面倒になるし、仕方がないから、速達便で手紙を出す事にしたから、委細はそれを見て承知してくれ。もし分らない事があったら、また電話で聞き合わしてもいいという通知であった。敬太郎はぼんやり見えていた遠眼鏡の度がぴたりと合った時のように愉快な心持がした。
彼は机の前を一寸も離れずに、速達便の届くのを待っていた。そうしてその間絶ず例の想像を逞ましくしながら、田口のいわゆる用事なるものを胸の中で組み立てて見た。そこにはいつか須永の門前で見た後姿の女が、ややともすると断わりなしに入り込んで来た。ふと気がついて、もっと実際的のものであるべきはずだと思うと、その時だけは自分で自分の空想を叱るようにしては、彼はもどかしい時を過ごした。
やがて待ち焦れた状袋が彼の手に落ちた。彼はすっと音をさせて、封を裂いた。息も継がずに巻紙の端から端までを一気に読み通して、思わずあっという微かな声を揚げた。与えられた彼の用事は待ち設けた空想よりもなお浪漫的であったからである。手紙の文句は固より簡単で用事以外の言葉はいっさい書いてなかった。今日四時と五時の間に、三田方面から電車に乗って、小川町の停留所で下りる四十恰好の男がある。それは黒の中折に霜降の外套を着て、顔の面長い背の高い、瘠せぎすの紳士で、眉と眉の間に大きな黒子があるからその特徴を目標に、彼が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報知しろというだけであった。敬太郎は始めて自分が危険なる探偵小説中に主要の役割を演ずる一個の主人公のような心持がし出した。同時に田口が自己の社会的利害を護るために、こんな暗がりの所作をあえてして、他日の用に、他の弱点を握っておくのではなかろうかと云う疑を起した。そう思った時、彼は人の狗に使われる不名誉と不徳義を感じて、一種苦悶の膏汗を腋の下に流した。彼は手紙を手にしたまま、じっと眸を据えたなり固くなった。しかし須永の母から聞いた田口の性格と、自分が直に彼に会った時の印象とを纏めて考えて見ると、けっしてそんな人の悪そうな男とも思われないので、たとい他人の内行に探りを入れるにしたところで、必ずしもそれほど下品な料簡から出るとは限らないという推断もついて見ると、いったん硬直になった筋肉の底に、また温たかい血が通い始めて、徳義に逆らう吐気なしに、ただ興味という一点からこの問題を面白く眺める余裕もできてきた。それで世の中に接触する経験の第一着手として、ともかくも田口から依頼された通りにこの仕事をやり終せて見ようという気になった。彼はもう一度とくと田口の手紙を読み直した。そうしてそこに書いてある特徴と条件だけで、はたして満足な結果が実際に得られるだろうかどうかを確かめた。
田口から知らせて来た特徴のうちで、本当にその人の身を離れないものは、眉と眉の間の黒子だけであるが、この日の短かい昨今の、四時とか五時とかいう薄暗い光線の下で、乗降に忙がしい多数の客の中から、指定された局部の一点を目標に、これだと思う男を過ちなく見つけ出そうとするのは容易の事ではない。ことに四時と五時の間と云えば、ちょうど役所の退ける刻限なので、丸の内からただ一筋の電車を利用して、神田橋を出る役人の数だけでも大したものである。それにほかと違って停留所が小川町だから、年の暮に間もない左右の見世先に、幕だの楽隊だの、蓄音機だのを飾るやら具えるやらして、電灯以外の景気を点けて、不時の客を呼び寄せる混雑も勘定に入れなければなるまい。それを想像して事の成否を考えて見ると、とうてい一人の手際ではという覚束ない心持が起って来る。けれどもまた尋ね出そうとするその人が、霜降の外套に黒の中折という服装で電車を降りるときまって見れば、そこにまだ一縷の望があるようにも思われる。無論霜降の外套だけでは、どんな恰好にしろ手がかりになり様はずがないが、黒の中折を被っているなら、色変りよりほかに用いる人のない今日だから、すぐ眼につくだろう。それを目宛に注意したらあるいは成功しないとも限るまい。
こう考えた敬太郎は、ともかくも停留所まで行って見る事だという気になった。時計を眺めると、まだ一時を打ったばかりである。四時より三十分前に向へ着くとしたところで、三時頃から宅を出ればたくさんなのだから、まだ二時間の猶予がある。彼はこの二時間を最も有益に利用するつもりで、じっとしたまま坐っていた。けれどもただ眼の前に、美土代町と小川町が、丁字になって交叉している三つ角の雑沓が入り乱れて映るだけで、これと云って成功を誘うに足る上分別は浮ばなかった。彼の頭は考えれば考えるほど、同じ場所に吸いついたなりまるで動くことを知らなかった。そこへ、どうしても目指す人には会えまいという掛念が、不安を伴って胸の中をざわつかせた。敬太郎はいっその事時間が来るまで外を歩きつづけに歩いて見ようかと思った。そう決心をして、両手を机の縁に掛けて、勢よく立ち上がろうとする途端に、この間浅草で占ないの婆さんから聞いた、「近い内に何か事があるから、その時にはこうこういうものを忘れないようにしろ」という注意を思い出した。彼は婆さんのその時の言葉を、解すべからざる謎として、ほとんど頭の外へ落してしまったにもかかわらず、参考のためわざわざ書きつけにして机の抽出に入れておいた。でまたその紙片を取り出して、自分のようで他人のような、長いようで短かいような、出るようで這入るようなという句を飽かず眺めた。初めのうちは今まで通りとうてい意味のあるはずがないとしか見えなかったが、だんだん繰り返して読むうちに、辛抱強く考えさえすれば、こういう妙な特性を有ったものがあるいは出て来るかも知れないという気になった。その上敬太郎は婆さんに、自分が持っているんだから、いざという場合に忘れないようになさいと注意されたのを覚えていたので、何でも好い、ただ身の周囲の物から、自分のようで他人のような、長いようで短かいような、出るようで這入るようなものを探しあてさえすれば、比較的狭い範囲内で、この問題を解決する事ができる訳になって、存外早く片がつくかも知れないと思い出した。そこでわが自由になるこれから先の二時間を、全くこの謎を解くための二時間として大切に利用しようと決心した。
ところがまず眼の前の机、書物、手拭、座蒲団から順々に進行して行李鞄靴下までいったが、いっこうそれらしい物に出合わないうちに、とうとう一時間経ってしまった。彼の頭は焦燥つと共に乱れて来た。彼の観念は彼の室の中を駆け廻って落ちつけないので、制するのも聞かずに、戸外へ出て縦横に走った。やがて彼の前に、霜降の外套を着た黒の中折を被った背の高い瘠ぎすの紳士が、彼のこれから探そうというその人の権威を具えて、ありありと現われた。するとその顔がたちまち大連にいる森本の顔になった。彼はだらしのない髯を生やした森本の容貌を想像の眼で眺めた時、突然電流に感じた人のようにあっと云った。
森本の二字はとうから敬太郎の耳に変な響を伝える媒介となっていたが、この頃ではそれが一層高じて全然一種の符徴に変化してしまった。元からこの男の名前さえ出ると、必ず例の洋杖を聯想したものだが、洋杖が二人を繋ぐ縁に立っていると解釈しても、あるいは二人の中を割く邪魔に挟まっていると見傚しても、とにかく森本とこの竹の棒の間にはある距離があって、そう一足飛に片方から片方へ移る訳に行かなかったのに、今ではそれが一つになって、森本と云えば洋杖、洋杖と云えば森本というくらい劇しく敬太郎の頭を刺戟するのである。その刺戟を受けた彼の頭に、自分の所有のようなまた森本の所有のような、持主のどっちとも片づかないという観念が、熱った血に流されながら偶然浮び上った時、彼はああこれだと叫んで、乱れ逃げる黒い影の内から、その洋杖だけをうんと捕まえたのである。
「自分のような他人のような」と云った婆さんの謎はこれで解けたものと信じて、敬太郎は一人嬉しがった。けれどもまだ「長いような短かいような、出るような這入るような」というところまでは考えて見ないので、彼はあまる二カ条の特性をも等しくこの洋杖の中から探し出そうという料簡で、さらに新たな努力を鼓舞してかかった。
始めは見方一つで長くもなり短かくもなるくらいの意味かも知れないと思って、先へ進んで見たが、それでは余り平凡過ぎて、解釈がついたもつかないも同じ事のような心持がした。そこでまた後戻りをして、「長いような短かいような」という言葉を幾度か口の内でくり返しながら思案した。が、容易に解決のできる見込は立たなかった。時計を見ると、自由に使っていい二時間のうちで、もう三十分しか残っていない。彼は抜裏と間違えて袋の口へ這入り込んだ結果、好んで行き悩みの状態に悶えているのでは無かろうかと、自分で自分の判断を危ぶみ出した。出端のない行きどまりに立つくらいなら、もう一遍引き返して、新らしい途を探す方がましだとも考えた。しかしこう時間が逼っているのに、初手から出直しては、とても間に合うはずがない、すでにここまで来られたという一部分の成功を縁喜にして、是非先へ突き抜ける方が順当だとも考えた。これがよかろうあれがよかろうと右左に思い乱れている中に、彼の想像はふと全体としての杖を離れて、握りに刻まれた蛇の頭に移った。その瞬間に、鱗のぎらぎらした細長い胴と、匙の先に似た短かい頭とを我知らず比較して、胴のない鎌首だから、長くなければならないはずだのに短かく切られている、そこがすなわち長いような短かいような物であると悟った。彼はこの答案を稲妻のごとく頭の奥に閃めかして、得意の余り踴躍した。あとに残った「出るような這入るような」ものは、大した苦労もなく約五分の間に解けた。彼は鶏卵とも蛙とも何とも名状しがたい或物が、半ば蛇の口に隠れ、半ば蛇の口から現われて、呑み尽されもせず、逃れ切りもせず、出るとも這入るとも片のつかない状態を思い浮かべて、すぐこれだと判断したのである。
これで万事が綺麗に解決されたものと考えた敬太郎は、躍り上るように机の前を離れて、時計の鎖を帯に絡んだ。帽子は手に持ったまま、袴も穿かずに室を出ようとしたが、あの洋杖をどうして持って出たものだろうかという問題がちょっと彼を躊躇さした。あれに手を触れるのは無論、たとい傘入から引き出したところで、森本が置き去りにして行ってからすでに久しい今日となって見れば、主人に断わらないにしろ、咎められたり怪しまれたりする気遣はないにきまっているが、さて彼らが傍にいない時、またおるにしても見ないうちに、それを提げて出ようとするには相当の思慮か準備が必要になる。迷信のはびこる家庭に成長した敬太郎は、呪禁に使う品物を(これからその目的に使うんだという料簡があって)手に入れる時には、きっと人の見ていない機会を偸んでやらなければ利かないという言い伝えを、郷里にいた頃、よく母から聞かされていたのである。敬太郎は宿の上り口の正面にかけてある時計を見るふりをして、二階の梯子段の中途まで降りて下の様子を窺がった。
主人は六畳の居間に、例の通り大きな瀬戸物の丸火鉢を抱え込んでいた。細君の姿はどこにも見えなかった。敬太郎が梯子段の中途で、及び腰をして、硝子越に障子の中を覗いていると、主人の頭の上で忽然呼鈴が烈しく鳴り出した。主人は仰向いて番号を見ながら、おい誰かいないかねと次の間へ声をかけた。敬太郎はまたそろそろ三階の自分の室へ帰って来た。
彼はわざわざ戸棚を開けて、行李の上に投げ出してあるセルの袴を取り出した。彼はそれを穿くとき、腰板を後に引き摺って、室の中を歩き廻った。それから足袋を脱いで、靴下に更えた。これだけ身装を改めた上、彼はまた三階を下りた。居間を覗くと細君の姿は依然として見えなかった。下女もそこらにはいなかった。呼鈴も今度は鳴らなかった。家中ひっそり閑としていた。ただ主人だけは前の通り大きな丸火鉢に靠れて、上り口の方を向いたなりじっと坐っていた。敬太郎は段々を下まで降り切らない先に、高い所から斜に主人の丸くなった背中を見て、これはまだ都合が悪いと考えたが、ついに思い切って上り口へ出た。主人は案の上、「御出かけで」と挨拶した。そうして例の通り下女を呼んで下駄箱にしまってある履物を出させようとした。敬太郎は主人一人の眼を掠すめるのにさえ苦心していたところだから、この上下女に出られては敵わないと思って、いや宜しいと云いながら、自分で下駄箱の垂を上げて、早速靴を取りおろした。旨い具合に下女は彼が土間へ降り立つまで出て来なかった。けれども、亭主は依然としてこっちを向いていた。
「ちょっと御願ですがね。室の机の上に今月の法学協会雑誌があるはずだが、ちょっと取って来てくれませんか。靴を穿いてしまったんで、また上るのが面倒だから」
敬太郎はこの主人に多少法律の心得があるのを知って、わざとこう頼んだのである。主人は自分よりほかのものでは到底弁じない用事なので、「はあようがす」と云って気さくに立って梯子段を上って行った。敬太郎はそのひまに例の洋杖を傘入から抽き取ったなり、抱き込むように羽織の下へ入れて、主人の座に帰らないうちにそっと表へ出た。彼は洋杖の頭の曲った角を、右の腋の下に感じつつ急ぎ足に本郷の通まで来た。そこでいったん羽織の下から杖を出して蛇の首をじっと眺めた。そうして袂の手帛で上から下まで綺麗に埃を拭いた。それから後は普通の杖のように右の手に持って、力任せに振り振り歩いた。電車の上では、蛇の頭へ両手を重ねて、その上に顋を載せた。そうしてやっと今一段落ついた自分の努力を顧みて、ほっと一息吐いた。同時にこれから先指定された停留所へ行ってからの成否がまた気にかかり出した。考えて見ると、これほど骨を折って、偸むように持ち出した洋杖が、どうすれば眉と眉の間の黒子を見分ける必要品になるのか、全く彼の思量のほかにあった。彼はただ婆さんに云われた通り、自分のような他人のような、長いような短かいような、出るような這入るようなものを、一生懸命に探し当てて、それを忘れないで携さえているというまでであった。この怪しげに見えて平凡な、しかもむやみに軽い竹の棒が、寝かそうと起こそうと、手に持とうと袖に隠そうと、未知の人を探す上に、はたして何の役に立つか知らんと疑ぐった時、彼はちょっとの間、瘧を振い落した人のようにけろりとして、車内を見廻わした。そうして頭の毛穴から湯気の立つほど業を煮やした先刻の努力を気恥かしくも感じた。彼は自分で自分の所作を紛らす為に、わざと洋杖を取り直して、電車の床をとんとんと軽く叩いた。
やがて目的の場所へ来た時、彼はとりあえず青年会館の手前から引き返して、小川町の通へ出たが、四時にはまだ十五分ほど間があるので、彼は人通りと電車の響きを横切って向う側へ渡った。そこには交番があった。彼は派出所の前に立っている巡査と同じ態度で、赤いポストの傍から、真直に南へ走る大通りと、緩い弧線を描いて左右に廻り込む広い往来とを眺めた。これから自分の活躍すべき舞台面を一応こういう風に検分した後で、彼はすぐ停留所の所在を確かめにかかった。
赤い郵便函から五六間東へ下ると、白いペンキで小川町停留所と書いた鉄の柱がすぐ彼の眼に入った。ここにさえ待っていれば、たとい混雑に取り紛れて注意人物を見失うまでも、刻限に自分の部署に着いたという強味はあると考えた彼は、これだけの安心を胸に握った上、また目標の鉄の柱を離れて、四辺の光景を見廻した。彼のすぐ後には蔵造の瀬戸物屋があった。小さい盃のたくさん並んだのを箱入にして額のように仕立てたのがその軒下にかかっていた。大きな鉄製の鳥籠に、陶器でできた餌壺をいくつとなく外から括りつけたのも、そこにぶら下がっていた。その隣りは皮屋であった。眼も爪も全く生きた時のままに残した大きな虎の皮に、緋羅紗の縁を取ったのがこの店の重な装飾であった。敬太郎は琥珀に似たその虎の眼を深く見つめて立った。細長くって真白な皮でできた襟巻らしいものの先に、豆狸のような顔が付着しているのも滑稽に見えた。彼は時計を出して時間を計りながら、また次の店に移った。そうして瑪瑙で刻った透明な兎だの、紫水晶でできた角形の印材だの、翡翠の根懸だの孔雀石の緒締だのの、金の指輪やリンクスと共に、美くしく並んでいる宝石商の硝子窓を覗いた。
敬太郎はこうして店から店を順々に見ながら、つい天下堂の前を通り越して唐木細工の店先まで来た。その時後から来た電車が、突然自分の歩いている往来の向う側でとまったので、もしやという心から、筋違に通を横切って細い横町の角にある唐物屋の傍へ近寄ると、そこにも一本の鉄の柱に、先刻のと同じような、小川町停留所という文字が白く書いてあった。彼は念のためこの角に立って、二三台の電車を待ち合わせた。すると最初には青山というのが来た。次には九段新宿というのが来た。が、いずれも万世橋の方から真直に進んで来るので彼はようやく安心した。これでよもやの懸念もなくなったから、そろそろ元の位地に帰ろうというつもりで、彼は足の向を更えにかかった途端に、南から来た一台がぐるりと美土代町の角を回転して、また敬太郎の立っている傍でとまった。彼はその電車の運転手の頭の上に黒く掲げられた巣鴨の二字を読んだ時、始めて自分の不注意に気がついた。三田方面から丸の内を抜けて小川町で降りるには、神田橋の大通りを真直に突き当って、左へ曲っても今敬太郎の立っている停留所で降りられるし、また右へ曲っても先刻彼の検分しておいた瀬戸物屋の前で降りられるのである。そうして両方とも同じ小川町停留所と白いペンキで書いてある以上は、自分がこれから後を跟けようという黒い中折の男は、どっちへ降りるのだか、彼にはまるで見当がつかない事になるのである。眼を走らせて、二本の赤い鉄柱の距離を目分量で測って見ると、一町には足りないくらいだが、いくら眼と鼻の間だからと云って、一方だけを専門にしてさえ覚束ない彼の監視力に対して、両方共手落なく見張り終せる手際を要求するのは、どれほど自分の敏腕を高く見積りたい今の敬太郎にも絶対の不可能であった。彼は自分の住居っている地理上の関係から、常に本郷三田間を連絡する電車にばかり乗っていたため、巣鴨方面から水道橋を通って同じく三田に続く線路の存在に、今が今まで気がつかずにいた自己の迂闊を深く後悔した。
彼は困却の余りふと思いついた窮策として、須永の助力でも借りに行こうかと考えた。しかし時計はもう四時七分前に逼っていた。ついこの裏通に住んでいる須永だけれども、門前まで駈けつける時間と、かい摘んで用事を呑み込ます時間を勘定に入れればとても間に合いそうにない。よしそのくらいの間は取れるとしたところで、須永に一方の見張りを頼む以上は、もし例の紳士が彼のいる方へ降りるならば、何かの手段で敬太郎に合図をしなければならない。それもこの人込の中だから、手を挙げたり手帛を振るぐらいではちょっと通じかねる。紛れもなく敬太郎に分らせようとするには、往来を驚ろかすほどな大きな声で叫ぶに限ると云ってもいいくらいなものだが、そう云う突飛なよほどな場合でも体裁を重んずる須永のような男にできるはずがない。万一我慢してやってくれたところで、こっちから駆けて行く間には、肝心の黒の中折帽を被った男の姿は見えなくなってしまわないとも云えない。――こう考えた敬太郎はやむを得ないから運を天に任せてどっちか一方の停留所だけ守ろうと決心した。
決心はしたようなものの、それでは今立っている所を動かないための横着と同じ事になるので、わざと成効を度外に置いて仕事にかかった不安を感ぜずにはいられなかった。彼は首を延ばすようにして、また東の停留所を望んだ。位地のせいか、向の具合か、それとも自分が始終乗降に慣れている訳か、どうもそちらの方が陽気に見えた。尋ねる人も何だか向で降りそうな心持がした。彼はもう一度見張るステーションを移そうかと思いながら、なおかつ決しかねてしばらく躊躇していた。するとそこへ江戸川行の電車が一台来てずるずるととまった。誰も降者がないのを確かめた車掌は、一分と立たないうちにまた車を出そうとした。敬太郎は錦町へ抜ける細い横町を背にして、眼の前の車台にはほとんど気のつかないほど、ここにいようかあっちへ行こうかと迷っていた。ところへ後の横町から突然馳け出して来た一人の男が、敬太郎を突き除けるようにして、ハンドルへ手をかけた運転手の台へ飛び上った。敬太郎の驚ろきがまだ回復しないうちに、電車はがたりと云う音を出してすでに動き始めた。飛び上がった男は硝子戸の内へ半分身体を入れながら失敬しましたと云った。敬太郎はその男と顔を見合せた時、彼の最後の視線が、自分の足の下に落ちたのを注意した。彼は敬太郎に当った拍子に、敬太郎の持っていた洋杖を蹴飛ばして、それを持主の手から地面の上へ振り落さしたのである。敬太郎は直曲んで洋杖を拾い上げようとした。彼はその時蛇の頭が偶然東向に倒れているのに気がついた。そうしてその頭の恰好を何となしに、方角を教える指標のように感じた。
「やっぱり東が好かろう」
彼は早足に瀬戸物屋の前まで帰って来た。そこで本郷三丁目と書いた電車から降りる客を、一人残らず物色する気で立った。彼は最初の二三台を親の敵でも覘うように怖い眼つきで吟味した後、少し心に余裕ができるに連れて、腹の中がだんだん気丈になって来た。彼は自分の眼の届く広場を、一面の舞台と見傚して、その上に自分と同じ態度の男が三人いる事を発見した。その一人は派出所の巡査で、これは自分と同じ方を向いて同じように立っていた。もう一人は天下堂の前にいるポイントマンであった。最後の一人は広場の真中に青と赤の旗を神聖な象徴のごとく振り分ける分別盛りの中年者であった。そのうちでいつ出て来るか知れない用事を期待しながら、人目にはさも退屈そうに立っているものは巡査と自分だろうと敬太郎は考えた。
電車は入れ代り立ち代り彼の前にとまった。乗るものは無理にも窮屈な箱の中に押し込もうとする、降りるものは権柄ずくで上から伸しかかって来る。敬太郎はどこの何物とも知れない男女が聚まったり散ったりするために、自分の前で無作法に演じ出す一分時の争を何度となく見た。けれども彼の目的とする黒の中折の男はいくら待っても出て来なかった。ことに依ると、もうとうに西の停留所から降りてしまったものではなかろうかと思うと、こうして役にも立たない人の顔ばかり見つめて、眼のちらちらするほど一つ所に立っているのは、随分馬鹿気た所作に見えて来る。敬太郎は下宿の机の前で熱に浮かされた人のように夢中で費やした先刻の二時間を、充分須永と打ち合せをして彼の援助を得るために利用した方が、遥かに常識に適った遣口だと考え出した。彼がこの苦い気分を痛切に甞めさせられる頃から空はだんだん光を失なって、眼に映る物の色が一面に蒼く沈んで来た。陰鬱な冬の夕暮を補なう瓦斯と電気の光がぽつぽつそこらの店硝子を彩どり始めた。ふと気がついて見ると、敬太郎から一間ばかりの所に、廂髪に結った一人の若い女が立っていた。電車の乗降が始まるたびに、彼は注意の余波を自分の左右に払っていたつもりなので、いつどっちから歩き寄ったか分らない婦人を思わぬ近くに見た時は、何より先にまずその存在に驚ろかされた。
女は年に合わして地味なコートを引き摺るように長く着ていた。敬太郎は若い人の肉を飾る華麗な色をその裏に想像した。女はまたわざとそれを世間から押し包むようにして立っていた。襦袢の襟さえ羽二重の襟巻で隠していた。その羽二重の白いのが、夕暮の逼るに連れて、空気から浮き出して来るほかに、女は身の周囲に何といって他の注意を惹くものを着けていなかった。けれども時節柄に頓着なく、当人の好尚を示したこの一色が、敬太郎には何よりも際立って見えた。彼は光の抜けて行く寒い空の下で、不調和な異な物に出逢った感じよりも、煤けた往来に冴々しい一点を認めた気分になって女の頸の辺を注意した。女は敬太郎の視線を正面に受けた時、心持身体の向を変えた。それでもなお落ちつかない様子をして、右の手を耳の所まで上げて、鬢から洩れた毛を後へ掻きやる風をした。固より女の髪は綺麗に揃っていたのだから、敬太郎にはこの挙動が実のない科としてのみ映ったのだが、その手を見た時彼はまた新たな注意を女から強いられた。
女は普通の日本の女性のように絹の手袋を穿めていなかった。きちりと合う山羊の革製ので、華奢な指をつつましやかに包んでいた。それが色の着いた蝋を薄く手の甲に流したと見えるほど、肉と革がしっくりくっついたなり、一筋の皺も一分の弛みも余していなかった。敬太郎は女の手を上げた時、この手袋が女の白い手頸を三寸も深く隠しているのに気がついた。彼はそれぎり眼を転じてまた電車に向った。けれども乗降の一混雑が済んで、思う人が出て来ないと、また心に二三分の余裕ができるので、それを利用しようと待ち構えるほどの執着はなかったにせよ、電車の通り越した相間相間には覚られないくらいの視力を使って常に女の方を注意していた。
始め彼はこの女を「本郷行」か「亀沢町行」に乗るのだろうと考えていた。ところが両方の電車が一順廻って来て、自分の前に留っても、いっこう乗る様子がないので、彼は少々変に思った。あるいは無理に込み合っている車台に乗って、押し潰されそうな窮屈を我慢するよりも、少し時間の浪費を怺えた方が差引得になるという主義の人かとも考えて見たが、満員という札もかけず、一つや二つの空席は充分ありそうなのが廻って来ても、女は少しも乗る素振を見せないので、敬太郎はいよいよ変に思った。女は敬太郎から普通以上の注意を受けていると覚ったらしく、彼が少しでも手足の態度を改ためると、雨の降らないうちに傘を広げる人のように、わざと彼の観察を避ける準備をした。そうして故意に反対の方を見たり、あるいは向うへ二三歩あるき出したりした。それがため、妙に遠慮深いところのできた敬太郎はなるべく露骨に女の方を見るのを慎しんでいた。がしまいにふと気がついて、この女は不案内のため、自分の勝手で好い加減にきめた停留所の前に来て、乗れもしない電車をいつまでも待っているのではなかろうかと思った。それなら親切に教えてやるべきだという勇気が急に起ったので、彼は逡巡する気色もなく、真正面に女の方を向いた。すると女はふいと歩き出して、二三間先の宝石商の窓際まで行ったなり、あたかも敬太郎の存在を認めぬもののごとくに、そこで額を窓硝子に着けるように、中に並べた指環だの、帯留だの枝珊瑚の置物だのを眺め始めた。敬太郎は見ず知らずの他人に入らざる好意立をして、かえって自分と自分の品位を落したのを馬鹿らしく感じた。
女の容貌は始めから大したものではなかった。真向に見るとそれほどでもないが、横から眺めた鼻つきは誰の目にも少し低過ぎた。その代り色が白くて、晴々しい心持のする眸を有っていた。宝石商の電灯は今硝子越に彼女の鼻と、豊くらした頬の一部分と額とを照らして、斜かけに立っている敬太郎の眼に、光と陰とから成る一種妙な輪廓を与えた。彼はその輪廓と、長いコートに包まれた恰好のいい彼女の姿とを胸に収めて、また電車の方に向った。
電車がまた二三台来た。そうして二三台共また敬太郎の失望をくり返さして東へ去った。彼は成功を思い切った人のごとくに帯の下から時計を出して眺めた。五時はもうとうに過ぎていた。彼は今更気がついたように、頭の上に被さる黒い空を仰いで、苦々しく舌打をした。これほど骨を折って網を張った中へかからない鳥は、西の停留所から平気で逃げたんだと思うと、他を騙すためにわざわざ拵らえた婆さんの予言も、大事そうに持って出た竹の洋杖も、その洋杖が与えてくれた方角の暗示も、ことごとく忌々しさの種になった。彼は暗い夜を欺むいて眼先にちらちらする電灯の光を見廻して、自分をその中心に見出した時、この明るい輝きも必竟自分の見残した夢の影なんだろうと考えた。彼はそのくらい興を覚ましながらまだそのくらい寝惚けた心持を失わずに立っていたが、やがて早く下宿へ帰って正気の人間になろうという覚悟をした。洋杖は自分の馬鹿を嘲ける記念だから、帰りがけに人の見ていない所で二つに折って、蛇の頭も鉄の輪の突がねもめちゃめちゃに、万世橋から御茶の水へ放り込んでやろうと決心した。
彼はすでに動こうとして一歩足を移しかけた時、また先刻の若い女の存在に気がついた。女はいつの間にか宝石商の窓を離れて、元の通り彼から一間ばかりの所に立っていた。背が高いので、手足も人尋常より恰好よく伸びたところを、彼は快よく始めから眺めたのだが、今度はことにその右の手が彼の心を惹いた。女は自然のままにそれをすらりと垂れたなり、まるで他の注意を予期しないでいたのである。彼は素直に調子の揃った五本の指と、しなやかな革で堅く括られた手頸と、手頸の袖口の間から微かに現われる肉の色を夜の光で認めた。風の少ない晩であったが、動かないで長く一所に立ち尽すものに、寒さは辛く当った。女は心持ち顋を襟巻の中に埋めて、俯目勝にじっとしていた。敬太郎は自分の存在をわざと眼中に置かないようなこの眼遣の底に、かえって自分が気にかかっているらしい反証を得たと信じた。彼が先刻から蚤取眼で、黒の中折帽を被った紳士を探している間、この女は彼と同じ鋭どい注意を集めて、観察の矢を絶えずこっちに射がけていたのではなかろうか。彼はある男を探偵しつつ、またある女に探偵されつつ、一時間余をここに過ごしたのではなかろうか。けれどもどこの何物とも知れない男の、何をするか分らない行動を、何のために探るのだか、彼には何らの考がなかったごとく、どこの何物とも知れない女から何を仕出かすか分らない人として何のために自分が覘われるのだか、そこへ行くとやはりまるで要領を得なかった。敬太郎はこっちで少し歩き出して見せたら向うの様子がもっと鮮明に分るだろうという気になって、そろりそろりと派出所の後を西の方へ動いて行った。もちろん女に勘づかれないために、彼は振向いて後を見る動作を固く憚かった。けれどもいつまでも前ばかり見て先へ行っては、肝心の目的を達する機会がないので、彼は十間ほど来たと思う時分に、わざと見たくもない硝子窓を覗いて、そこに飾ってある天鵞絨の襟の着いた女の子のマントを眺める風をしながら、そっと後を振り向いた。すると女は自分の背後にいるどころではなかった。延び上ってもいろいろな人が自分を追越すように後から後から来る陰になって、白い襟巻も長いコートもさらに彼の眼に入らなかった。彼はそのまま前へ進む勇気があるかを自分に疑ぐった。黒い中折の帽子を被った人の事なら、定刻の五時を過ぎた今だから、断念してもそれほどの遺憾はないが、女の方はどんなつまらない結果に終ろうとも、最少し観察していたかった。彼は女から自分が探偵されていると云う疑念を逆に投げ返して、こっちから女の行動を今しばらく注意して見ようという物数奇を起した。彼は落し物を拾いに帰る人の急ぎ足で、また元の派出所近く来た。そこの暗い陰に身を寄せるようにして窺うと、女は依然としてじっと通りの方を向いて立っていた。敬太郎の戻った事にはまるで気がついていない風に見えた。
その時敬太郎の頭に、この女は処女だろうか細君だろうかという疑が起った。女は現代多数の日本婦人にあまねく行われる廂髪に結っているので、その辺の区別は始めから不分明だったのである。が、いよいよ物陰に来て、半後になったその姿を眺めた時は、第一番にどっちの階級に属する人だろうという問題が、新たに彼を襲って来た。
見かけからいうとあるいは人に嫁いだ経験がありそうにも思われる。しかし身体の発育が尋常より遥かに好いからことによれば年は存外取っていないのかも知れない。それならなぜあんな地味な服装をしているのだろう。敬太郎は婦人の着る着物の色や縞柄について、何をいう権利も有たない男だが、若い女ならこの陰鬱な師走の空気を跳ね返すように、派出な色を肉の上に重ねるものだぐらいの漠とした観察はあったのである。彼はこの女が若々しい自分の血に高い熱を与える刺戟性の文をどこにも見せていないのを不思議に思った。女の身に着けたものの内で、わずかに人の注意を惹くのは頸の周囲を包む羽二重の襟巻だけであるが、それはただ清いと云う感じを起す寒い色に過ぎなかった。あとは冬枯の空と似合った長いコートですぽりと隠していた。
敬太郎は年に合わして余りに媚びる気分を失い過ぎたこの衣服を再び後から見て、どうしてもすでに男を知った結果だと判じた。その上この女の態度にはどこか大人びた落ちつきがあった。彼はその落ちつきを品性と教育からのみ来た所得とは見傚し得なかった。家庭以外の空気に触れたため、初々しい羞恥が、手帛に振りかけた香水の香のように自然と抜けてしまったのではなかろうかと疑ぐった。そればかりではない、この女の落ちつきの中には、落ちつかない筋肉の作用が、身体全体の運動となったり、眉や口の運動となって、ちょいちょい出て来るのを彼は先刻目撃した。最も鋭敏に動くものはその眼であろうと彼は疾くに認めていた。けれどもその鋭敏に動こうとする眼を、強いて動かすまいと力める女の態度もまた同時に認めない訳に行かなかった。だからこの女の落ちつきは、自分で自分の神経を殺しているという自覚に伴なったものだと彼は勘定していた。
ところが今後から見た女は身体といい気分といい比較的沈静して両方の間に旨く調子が取れているように思われた。彼女は先刻と違って、別段姿勢を改ためるでもなく、そろそろ歩き出すでもなく、宝石商の窓へ寄り添うでもなく、寒さを凌ぎかねる風情もなく、ほとんど閑雅とでも形容したい様子をして、一段高くなった人道の端に立っていた。傍には次の電車を待ち合せる人が二三散らばっていた。彼らは皆向うから来る車台を見つめて、早く自分の傍へ招き寄せたい風に見えた。敬太郎が立ち退いたので大いに安心したらしい彼女は、その中で最も熱心に何かを待ち受ける一人となって、筋向うの曲り角をじっと注意し始めた。敬太郎は派出所の陰を上へ廻って車道へ降りた。そうしてペンキ塗の交番を楯に、巡査の立っている横から女の顔を覘うように見た。そうしてその表情の変化にまた驚ろかされた。今まで後姿を眺めて物陰にいた時は、彼女を包む一色の目立たないコートと、その背の高さと、大きな廂髪とを材料に、想像の国でむしろ自由過ぎる結論を弄あそんだのだが、こうして彼女の知らない間に、その顔を遠慮なく眺めて見ると、全く新らしい人に始めて出逢ったような気がしない訳に行かなかった。要するに女は先刻より大変若く見えたのである。切に何物かを待ち受けているその眼もその口も、ただ生々した一種華やかな気色に充ちて、それよりほかの表情は毫も見当らなかった。敬太郎はそのうちに処女の無邪気ささえ認めた。
やがて女の見つめている方角から一台の電車が弓なりに曲った線路を、ぐるりと緩く廻転して来た。それが女のいる前で滑るようにとまった時、中から二人の男が出た。一人は紙で包んだボール箱のようなものを提げて、すたすた巡査の前を通り越して人道へ飛び上がったが、一人は降りると直に女の前に行って、そこに立ちどまった。
敬太郎は女の笑い顔をこの時始めて見た。唇の薄い割に口の大きいのをその特徴の一つとして彼は最初から眺めていたが、美くしい歯を露き出しに現わして、潤沢の饒かな黒い大きな眼を、上下の睫の触れ合うほど、共に寄せた時は、この女から夢にも予期しなかった印象が新たに彼の頭に刻まれた。敬太郎は女の笑い顔に見惚れると云うよりもむしろ驚ろいて相手の男に視線を移した。するとその男の頭の上に黒い中折が乗っているのに気がついた。外套は判切霜降とは見分けられなかったが、帽子と同じ暗い光を敬太郎の眸に投げた。その上背は高かった。瘠ぎすでもあった。ただ年齢の点に至ると、敬太郎にはとかくの判断を下しかねた。けれどもその人が寿命の度盛の上において、自分とは遥か隔たった向うにいる事だけはたしかなので、彼はこの男を躊躇なく四十恰好と認めた。これだけの特点を前後なくほとんど同時に胸に入れ得た時、彼は自分が先刻から馬鹿を尽してつけ覘った本人がやっと今電車を降りたのだと断定しない訳に行かなかった。彼は例刻の五時がとうの昔しに過ぎたのに、妙な酔興を起して、やはり同じ所にぶらついていた自分を仕合せだと思った。その酔興を起させるため、自分の好奇心を釣りに若い女が偶然出て来てくれたのをありがたく思った。さらにその若い女が自分の探す人を、自分よりも倍以上の自信と忍耐をもって、待ち終せたのを幸運の一つに数えた。彼はこのXという男について、田口のために、ある知識を供給する事ができると共に、同じ知識がYという女に関する自分の好奇心を幾分か満足させ得るだろうと信じたからである。
男と女はまるで敬太郎の存在に気がつかなかったと見えて、前後左右に遠慮する気色もなく、なお立ちながら話していた。女は始終微笑を洩らす事をやめなかった。男も時々声を出して笑った。二人が始めて顔を合わした時の挨拶の様子から見ても彼らはけっして疎遠な間柄ではなかった。異性を繋ぎ合わせるようで、その実両方の仲を堰く、慇懃な男女間の礼義は彼らのどちらにも見出す事ができなかった。男は帽子の縁に手をかける面倒さえあえてしなかった。敬太郎はその鍔の下にあるべきはずの大きな黒子を面と向って是非突き留めたかった。もし女がいなかったならば肉の上に取り残されたこの異様な一点を確かめるために、彼はつかつかと男の前へ進んで行って、何でも好いから、ただ口から出任せの質問をかけたかも知れない。それでなくても、直ちに彼の傍へ近寄って、満足の行くまでその顔を覗き込んだろう。この際そう云う大胆な行動を妨たげるものは、男の前に立っている例の女であった。女が敬太郎の態度を悪く疑ぐったかどうかは問題として、彼の挙動に不審を抱いた様子は、同じ場所に長く立ち並んだ彼の目に親しく映じたところである。それを承知しながら、再びその視線の内に、自分の顔を無遠慮に突き出すのは、多少紳士的でない上に、嫌疑の火の手をわざと強くして、自分の目的を自分で打ち毀すと同じ結果になる。
こう考えた敬太郎は、自然の順序として相応の機会が廻って来るまでは、黒子の有る無しを見届けるだけは差し控えた方が得策だろうと判断した。その代り見え隠れに二人の後を跟けて、でき得るならば断片的でもいいから、彼らの談話を小耳に挟もうと覚悟した。彼は先方の許諾を待たないで、彼らの言動を、ひそかに我胸に畳み込む事の徳義的価値について、別に良心の相談を受ける必要を認めなかった。そうして自分の骨折から出る結果は、世故に通じた田口によって、必ず善意に利用されるものとただ淡泊に信じていた。
やがて男は女を誘なう風をした。女は笑いながらそれを拒むように見えた。しまいに半ば向き合っていた二人が、肩と肩を揃えて瀬戸物屋の軒端近く歩き寄った。そこから手を組み合わせないばかりに並んで東の方へ歩き出した。敬太郎は二三間早足に進んで、すぐ彼らの背後まで来た。そうして自分の歩調を彼らと同じ速度に改ためた。万一女に振り向かれても、疑惑を免かれるために、彼はけっして彼らの後姿には眼を注がなかった。偶然前後して天下の往来を同じ方角に行くもののごとくに、故意とあらぬ方を見て歩いた。
「だって余まりだわ。こんなに人を待たしておいて」
敬太郎の耳に入った第一の言葉は、女の口から出たこういう意味の句であったが、これに対する男の答は全く聞き取れなかった。それから五六間行ったと思う頃、二人の足が急に今までの歩調を失って、並んだ影法師がほとんど敬太郎の前に立ち塞がりそうにした。敬太郎の方でも、後から向うに突き当らない限りは先へ通り抜けなければ跋が悪くなった。彼は二人の後戻りを恐れて、急に傍にあった菓子屋の店先へ寄り添うように自分を片づけた。そうしてそこに並んでいる大きな硝子壺の中のビスケットを見つめる風をしながら、二人の動くのを待った。男は外套の中へ手を入れるように見えたが、それが済むと少し身体を横にして、下向きに右手で持ったものを店の灯に映した。男の顔の下に光るものが金時計である事が、その時敬太郎に分った。
「まだ六時だよ。そんなに遅かあない」
「遅いわあなた、六時なら。妾もう少しで帰るところよ」
「どうも御気の毒さま」
二人はまた歩き出した。敬太郎も壺入のビスケットを見棄ててその後に従がった。二人は淡路町まで来てそこから駿河台下へ抜ける細い横町を曲った。敬太郎も続いて曲ろうとすると、二人はその角にある西洋料理屋へ入った。その時彼はその門口から射す強い光を浴びた男と女の顔を横から一眼見た。彼らが停留所を離れる時、二人連れ立ってどこへ行くだろうか、敬太郎にはまるで想像もつかなかったのだが、突然こんな家へ入いられて見ると、何でもない所だけに、かえって案外の感に打たれざるを得なかった。それは宝亭と云って、敬太郎の元から知っている料理屋で、古くから大学へ出入をする家であった。近頃普請をしてから新らしいペンキの色を半分電車通りに曝して、斜かけに立ち切られたような棟を南向に見せているのを、彼は通り掛りに時々注意した事がある。彼はその薄青いペンキの光る内側で、額に仕立てたミュンヘン麦酒の広告写真を仰ぎながら、肉刀と肉叉を凄まじく闘かわした数度の記憶さえ有っていた。
二人の行先については、これという明らかな希望も予期も無かったが、少しは紫がかった空気の匂う迷路の中に引き入れられるかも知れないくらいの感じが暗に働らいてこれまで後を跟けて来た敬太郎には、馬鈴薯や牛肉を揚げる油の臭が、台所からぷんぷん往来へ溢れる西洋料理屋は余りに平凡らしく見えた。けれども自分のとても近寄れない幽玄な所へ姿を隠して、それぎり出て来ないよりは、遥かに都合が好いと考え直した彼は、二人の身体が、誰にでも近寄る事のできる、普通の洋食店のペンキの奥に囲われているのをむしろ心丈夫だと覚った。幸い彼はこのくらいな程度の家で、冬空の外気に刺戟された食慾を充たすに足るほどの財布を懐中していた。彼はすぐ二人の後を追ってそこの二階へ上ろうとしたが、電灯の強く往来へ射す門口まで来た時、ふと気がついた。すでに女から顔を覚えられた以上、ほとんど同時に一つ二階へ押し上っては不味い。ひょっとするとこの人は自分を跟けて来たのだという疑惑を故意先方に与える訳になる。
敬太郎は何気ない振をして、往来へ射す光を横切ったまま、黒い小路を一丁ばかり先へ歩いた。そうしてその小路の尽きる坂下からまた黒い人となって、自分の影法師を自分の身体の中へ畳み込んだようにひっそりと明るい門口まで帰って来た。それからその門を潜った。時々来た事があるので、彼はこの家の勝手をほぼ承知していた。下には客を通す部屋がなくって、二階と三階だけで用を弁じているが、よほど込み合わなければ三階へは案内しない、大抵は二階で済むのだから、上って右の奥か、左の横にある広間を覗けば、大抵二人の席が見えるに違ない、もしそこにいなかったら表の方の細長い室まで開けてやろうぐらいの考で、階段を上りかけると、白服の給仕が彼を案内すべく上り口に立っているのに気がついた。
敬太郎は手に持った洋杖をそのままに段々を上り切ったので、給仕は彼の席を定める前に、まずその洋杖を受取った。同時にこちらへと云いながら背中を向けて、右手の広間へ彼を案内した。彼は給仕の後から自分の洋杖がどこに落ちつくかを一目見届けた。するとそこに先刻注意した黒の中折帽が掛っていた。霜降らしい外套も、女の着ていた色合のコートも釣るしてあった。給仕がその裾を動かして、竹の洋杖を突込んだ時、大きな模様を抜いた羽二重の裏が敬太郎の眼にちらついた。彼は蛇の頭がコートの裏に隠れるのを待って、そらにその持主の方に眼を転じた。幸いに女は男と向き合って、入口の方に背中ばかりを見せていた。新らしい客の来た物音に、振り返りたい気があっても、ぐるりと廻るのが、いったん席に落ちついた品位を崩す恐があるので、必要のない限り、普通の婦人はそういう動作を避けたがるだろうと考えた敬太郎は、女の後姿を眺めながら、ひとまず安堵の思いをした。女は彼の推察通りはたして後を向かなかった。彼はその間に女の坐っているすぐ傍まで行って背中合せに第二列の食卓につこうとした。その時男は顔を上げて、まだ腰もかけず向も改ためない敬太郎を見た。彼の食卓の上には支那めいた鉢に植えた松と梅の盆栽が飾りつけてあった。彼の前にはスープの皿があった。彼はその中に大きな匙を落したなり敬太郎と顔を見合せたのである。二人の間に横わる六尺に足らない距離は明らかな電灯が隈なく照らしていた。卓上に掛けた白い布がまたこの明るさを助けるように、潔ぎいい光を四方の食卓から反射していた。敬太郎はこういう都合のいい条件の具備した室で、男の顔を満足するまで見た。そうしてその顔の眉と眉の間に、田口から通知のあった通り、大きな黒子を認めた。
この黒子を別にして、男の容貌にこれと云った特異な点はなかった。眼も鼻も口も全く人並であった。けれども離れ離れに見ると凡庸な道具が揃って、面長な顔の表にそれぞれの位地を占めた時、彼は尋常以上に品格のある紳士としか誰の目にも映らなかった。敬太郎と顔を合せた時、スープの中に匙を入れたまま、啜る手をしばらくやめた態度などは、どこかにむしろ気高い風を帯びていた。敬太郎はそれなり背中を彼の方に向けて自分の席に着いたが、探偵という文字に普通付着している意味を心のうちで考え出して、この男の風采態度と探偵とはとても釣り合わない性質のものだという気がした。敬太郎から見ると、この人は探偵してしかるべき何物をも彼の人相の上に有っていなかったのである。彼の顔の表に並んでいる眼鼻口のいずれを取っても、その奥に秘密を隠そうとするには、余りにできが尋常過ぎたのである。彼は自分の席へ着いた時、田口から引き受けたこの宵の仕事に対する自分の興味が、すでに三分の一ばかり蒸発したような失望を感じた。第一こんな性質の仕事を田口から引き受けた徳義上の可否さえ疑がわしくなった。
彼は自分の注文を通したなり、ポカンとして麺麭に手も触れずにいた。男と女は彼らの傍に坐った新らしい客に幾分か遠慮の気味で、ちょっとの間話を途切らした。けれども敬太郎の前に暖められた白い皿が現われる頃から、また少し調子づいたと見えて、二人の声が互違に敬太郎の耳に入った。――
「今夜はいけないよ。少し用があるから」
「どんな用?」
「どんな用って、大事な用さ。なかなかそう安くは話せない用だ」
「あら好くってよ。妾ちゃんと知ってるわ。――さんざっぱら他を待たした癖に」
女は少し拗ねたような物の云い方をした。男は四辺に遠慮する風で、低く笑った。二人の会話はそれぎり静かになった。やがて思い出したように男の声がした。
「何しろ今夜は少し遅いから止そうよ」
「ちっとも遅かないわ。電車に乗って行きゃあ直じゃありませんか」
女が勧めている事も男が躊躇している事も敬太郎にはよく解った。けれども彼らがどこへ行くつもりなのだか、その肝心な目的地になると、彼には何らの観念もなかった。
もう少し聞いている内にはあるいはあたりがつくかも知れないと思って、敬太郎は自分の前に残された皿の上の肉刀と、その傍に転がった赤い仁参の一切を眺めていた。女はなお男を強いる事をやめない様子であった。男はそのたびに何とかかとか云って逃れていた。しかし相手を怒らせまいとする優しい態度はいつも変らなかった。敬太郎の前に新らしい肉と青豌豆が運ばれる時分には、女もとうとう我を折り始めた。敬太郎は心の内で、女がどこまでも剛情を張るか、でなければ男が好加減に降参するか、どっちかになればいいがと、ひそかに祈っていたのだから、思ったほど女の強くないのを発見した時は少なからず残念な気がした。せめて二人の間に名を出す必要のないものとして略されつつあった目的地だけでも、何かの機会に小耳に挟んでおきたかったが、いよいよ話が纏まらないとなると、男女の問答は自然ほかへ移らなければならないので、当分その望みも絶えてしまった。
「じゃ行かなくってもいいから、あれをちょうだい」と、やがて女が云い出した。
「あれって、ただあれじゃ分らない」
「ほらあれよ。こないだの。ね、分ったでしょう」
「ちっとも分らない」
「失敬ね、あなたは。ちゃんと分ってる癖に」
敬太郎はちょっと振り向いて後が見たくなった。その時階段を踏む大きな音が聞こえて、三人ばかりの客がどやどやと一度に上って来た。そのうちの一人はカーキー色の服に長靴を穿いた軍人であった。そうして床の上を歩く音と共に、腰に釣るした剣をがちゃがちゃ鳴らした。三人は上って左側の室へ案内された。この物音が例の男と女の会話を攪き乱したため、敬太郎の好奇心もちらつく剣の光が落ちつくまで中途に停止していた。
「この間見せていただいたものよ。分って」
男は分ったとも分らないとも云わなかった。敬太郎には無論想像さえつかなかった。彼は女がなぜ淡泊に自分の欲しいというものの名を判切云ってくれないかを恨んだ。彼は何とはなしにそれが知りたかったのである。すると、
「あんなもの今ここに持ってるもんかね」と男が云った。
「誰もここに持ってるって云やしないわ。ただちょうだいって云うのよ。今度でいいから」
「そんなに欲しけりゃやってもいい。が……」
「あッ嬉しい」
敬太郎はまた振り返って女の顔が見たくなった。男の顔もついでに見ておきたかった。けれども女と一直線になって、背中合せに坐っている自分の位置を考えると、この際そんな盲動は慎しまなければならないので、眼のやりどころに困るという風で、ただ正面をぽかんと見廻した。すると勝手の上り口の方から、給仕が白い皿を二つ持って入って来て、それを古いのと引き更えに、二人の前へ置いて行った。
「小鳥だよ。食べないか」と男が云った。
「妾もうたくさん」
女は焼いた小鳥に手を触れない様子であった。その代り暇のできた口を男よりは余計動かした。二人の問答から察すると、女の男にくれと逼ったのは珊瑚樹の珠か何からしい。男はこういう事に精通しているという口調で、いろいろな説明を女に与えていた。が、それは敬太郎には興味もなければ、解りもしない好事家の嬉しがる知識に過ぎなかった。練物で作ったのへ指先の紋を押しつけたりして、時々旨くごまかした贋物があるが、それは手障りがどこかざらざらするから、本当の古渡りとは直区別できるなどと叮嚀に女に教えていた。敬太郎は前後を綜合わして、何でもよほど貴とい、また大変珍らしい、今時そう容易くは手に入らない時代のついた珠を、女が男から貰う約束をしたという事が解った。
「やるにはやるが、御前あんなものを貰って何にする気だい」
「あなたこそ何になさるの。あんな物を持ってて、男の癖に」
しばらくして男は「御前御菓子を食べるかい、菓物にするかい」と女に聞いた。女は「どっちでも好いわ」と答えた。彼らの食事がようやく終りに近づいた合図とも見られるこの簡単な問答が、今までうっかりと二人の話に釣り込まれていた敬太郎に、たちまち自分の義務を注意するように響いた。彼はこの料理屋を出た後の二人の行動をも観察する必要があるものとして、自分で自分の役割を作っていたのである。彼は二人と同時に二階を下りる事の不得策を初めから承知していた。後れて席を立つにしても、巻煙草を一本吸わない先に、夜と人と、雑沓と暗闇の中に、彼らの姿を見失なうのはたしかであった。もし間違いなく彼らの影を踏んで後から喰付いて行こうとするなら、どうしても一足先へ出て、相手に気のつかない物陰か何かで、待ち合せるよりほかに仕方がないと考えた。敬太郎は早く勘定を済ましておくに若くはないという気になって、早速給仕を呼んでビルを請求した。
男と女はまだ落ちついて話していた。しかし二人の間に何というきまった題目も起らないので、それを種に意見や感情の交換も始まる機会はなく、ただだらしのない雲のようにそれからそれへと流れて行くだけに過ぎなかった。男の特徴に数えられた眉と眉の間の黒子なども偶然女の口に上った。
「なぜそんな所に黒子なんぞができたんでしょう」
「何も近頃になって急にできやしまいし、生れた時からあるんだ」
「だけどさ。見っともなかなくって、そんな所にあって」
「いくら見っともなくっても仕方がないよ。生れつきだから」
「早く大学へ行って取って貰うといいわ」
敬太郎はこの時指洗椀の水に自分の顔の映るほど下を向いて、両手で自分の米噛を隠すように抑えながら、くすくすと笑った。ところへ給仕が釣銭を盆に乗せて持って来た。敬太郎はそっと立って目立たないように階段の上り口までおとなしく足を運ぶと、そこに立っていた給仕が大きな声で、「御立あち」と下へ知らせた。同時に敬太郎は先刻給仕に預けた洋杖を取って来るのを忘れた事に気がついた。その洋杖はいまだに室の隅に置いてある帽子掛の下に突き込まれたまま、女の長いコートの裾に隠されていた。敬太郎は室の中にいる男女を憚かるように、抜き足で後戻りをして、静かにそれを取り出した。彼が蛇の頭を握った時、すべすべした羽二重の裏と、柔かい外套の裏が、優しく手の甲に触れるのを彼は感じた。彼はまた爪先で歩かないばかりに気をつけて階段の上まで来ると、そこから急に調子を変えて、とん、とん、とんと刻み足に下へ駆け下りた。表へ出るや否や電車通を直ぐ向うへ横切った。その突き当りに、大きな古着屋のような洋服屋のような店があるので、彼はその店の電灯の光を後にして立った。こうしてさえいれば料理店から出る二人が大通りを右へ曲ろうが、左へ折れようが、または中川の角に添って連雀町の方へ抜けようが、あるいは門からすぐ小路伝いに駿河台下へ向おうが、どっちへ行こうと見逃す気遣はないと彼は心丈夫に洋杖を突いて、目指す家の門口を見守っていた。
彼は約十分ばかり待った後で、注意の焼点になる光の中に、いっこう人影が射さないのを不審に思い始めた。やむを得ず二階を眺めてその窓だけ明るくなった奥を覗くように、彼らの早く席を立つ事を祈った。そうして待ち草臥れた眼を移すごとに、屋根の上に広がる黒い空を仰いだ。今まで地面の上を照らしている人間の光ばかりに欺むかれて、まるでその存在を忘れていたこの大きな夜は、暗い頭の上で、先刻から寒そうな雨を醸していたらしく、敬太郎の心を佗びしがらせた。ふと考えると、今までは自分に遠慮してただの話をしていた二人が、自分の立ったのを幸いに、自分の役目として是非聞いておかなければならないような肝心の相談でもし始めたのではなかろうか。彼はこの疑惑と共に黒い空を仰ぎながら、そのうちに二人の向き合った姿をありありと認めた。
彼はあまり注意深く立ち廻って、かえって洋食店の門を早く出過ぎたのを悔んだ。けれども二人が彼に気兼をする以上は、たとい同じ席にいつまでも根が生えたように腰を据えていたところで、やっぱり普通の世間話よりほかに聞く訳には行かないのだから、よし今まで坐ったまま動かないものと仮定しても、その結果は早く席を立ったと、ほぼ同じ事になるのだと思うと、彼は寒いのを我慢しても、同じ所に見張っているより仕方なかった。すると帽子の廂へ雨が二雫ほど落ちたような気がするので、彼はまた仰向いて黒い空を眺めた。闇よりほかに何も眼を遮ぎらない頭の上は、彼の立っている電車通と違って非常に静であった。彼は頬の上に一滴の雨を待ち受けるつもりで、久しく顔を上げたなり、恰好さえ分らない大きな暗いものを見つめている間に、今にも降り出すだろうという掛念をどこかへ失なって、こんな落ちついた空の下にいる自分が、なぜこんな落ちつかない真似を好んでやるのだろうと偶然考えた。同時にすべての責任が自分の今突いている竹の洋杖にあるような気がした。彼は例のごとく蛇の頭を握って、寒さに対する欝憤を晴らすごとくに、二三度それを烈しく振った。その時待ち佗びた人の影法師が揃って洋食店の門口を出た。敬太郎は何より先に女の細長い頸を包む白い襟巻に眼をつけた。二人はすぐと大通りへ出て、敬太郎の向う側を、先刻とは反対の方角に、元来た道へ引き返しにかかった。敬太郎も猶予なく向うへ渡った。彼らは緩い歩調で、賑やかに飾った店先を軒ごとに覗くように足を運ばした。後から跟いて行く敬太郎は是非共二人に釣り合った歩き方をしなければならないので、その遅過ぎるのがだいぶ苦になった。男は香の高い葉巻を銜えて、行く行く夜の中へ微かな色を立てる煙を吐いた。それが風の具合で後から従がう敬太郎の鼻を時々快ろよく侵した。彼はその香いを嗅ぎ嗅ぎ鈍い足並を我慢して実直にその跡を踏んだ。男は背が高いので後から見ると、ちょっと西洋人のように思われた。それには彼の吹かしている強い葉巻が多少錯覚を助けた。すると聯想がたちまち伴侶の方に移って、女が旦那から買って貰った革の手袋を穿めている洋妾のように思われた。敬太郎がふとこういう空想を起して、おかしいと思いながらも、なお一人で興を催していると、二人は最前待ち合わした停留所の前まで来てちょっと立ちどまったが、やがてまた線路を横切って向側へ越した。敬太郎も二人のする通りを真似た。すると二人はまた美土代町の角をこちらから反対の側へ渡った。敬太郎もつづいて同じ側へ渡った。二人はまた歩き出して南へ動いた。角から半町ばかり来ると、そこにも赤く塗った鉄の柱が一本立っていた。二人はその柱の傍へ寄って立った。彼らはまた三田線を利用して南へ、帰るか、行くか、する人だとこの時始めて気がついた敬太郎は、自分も是非同じ電車へ乗らなければなるまいと覚悟した。彼らは申し合せたように敬太郎の方を顧みた。固より彼のいる方から電車が横町を曲って来るからではあるが、それにしても敬太郎は余り好い心持はしなかった。彼は帽子の鍔をひっくり返して、ぐっと下へおろして見たり、手で顔を撫でて見たり、なるべく軒下へ身を寄せて見たり、わざと変な見当を眺めて見たりして、電車の現われるのをつらく待ち佗びた。
間もなく一台来た。敬太郎はわざと二人の乗った後から這入って、嫌疑を避けようと工夫した。それでしばらく後の方にぐずぐずしていると、女は例の長いコートの裾を踏まえないばかりに引き摺って車掌台の上に足を移した。しかしあとから直続くと思った男は、案外上る気色もなく、足を揃えたまま、両手を外套の隠袋に突き差して立っていた。敬太郎は女を見送りに男がわざわざここまで足を運んだのだという事にようやく気がついた。実をいうと、彼は男よりも女の方に余計興味を持っていたのである。男と女がここで分れるとすれば、無論男を捨てて女の先途だけを見届けたかった。けれども自分が田口から依託されたのは女と関係のない黒い中折帽を被った男の行動だけなので、彼は我慢して車台に飛び上がるのを差し控えた。
女は車台に乗った時、ちょっと男に目礼したが、それぎり中へ這入ってしまった。冬の夜の事だから、窓硝子はことごとく締め切ってあった。女はことさらにそれを開けて内から首を出すほどの愛嬌も見せなかった。それでも男はのっそり立って、車の動くのを待っていた。車は動き出した。二人の間に挨拶の交換がもう必要でないと認めたごとく、電力は急いで光る窓を南の方へ運び去った。男はこの時口に銜えた葉巻を土の上に投げた。それから足の向を変えてまた三ツ角の交叉点まで出ると、今度は左へ折れて唐物屋の前でとまった。そこは敬太郎が人に突き当られて、竹の洋杖を取り落した記憶の新らしい停留所であった。彼は男の後を見え隠れにここまで跟いて来て、また見たくもない唐物屋の店先に飾ってある新柄の襟飾だの、絹帽だの、変り縞の膝掛だのを覗き込みながら、こう遠慮をするようでは、探偵の興も覚めるだけだと考えた。女がすでに離れた以上、自分の仕事に飽が来たと云ってはすまないが、前同様であるべき窮屈の程度が急に著るしく感ぜられてならなかった。彼の依頼されたのは中折の男が小川町で降りてから二時間内の行動に限られているのだから、もうこれで偵察の役目は済んだものとして、下宿へ帰って寝ようかとも思った。
そこへ男の待っている電車が来たと見えて、彼は長い手で鉄の棒を握るや否や瘠せた身体を体よくとまり切らない車台の上に乗せた。今まで躊躇していた敬太郎は急にこの瞬間を失なってはという気が出たので、すぐ同じ車台に飛び上った。車内はそれほど込みあっていなかったので、乗客は自由に互の顔を見合う余裕を充分持っていた。敬太郎は箱の中に身体を入れると同時に、すでに席を占めた五六人から一度に視線を集められた。そのうちには今坐ったばかりの中折の男のも交っていたが、彼の敬太郎を見た眼のうちには、おやという認識はあったが、つけ覘われているなという疑惑はさらに現われていなかった。敬太郎はようやく伸び伸びした心持になって、男と同じ側を択って腰を掛けた。この電車でどこへ連れて行かれる事かと思って軒先を見ると、江戸川行と黒く書いてあった。彼は男が乗り換えさえすれば、自分も早速降りるつもりで、停留所へ来るごとに男の様子を窺がった。男は始終隠袋へ手を突き込んだまま、多くは自分の正面かわが膝の上かを見ていた。その様子を形容すると、何にも考えずに何か考え込んでいると云う風であった。ところが九段下へかかった頃から、長い首を時々伸ばして、ある物を確かめたいように、窓の外を覗き出した。敬太郎もつい釣り込まれて、見悪い外を透かすように眺めた。やがて電車の走る響の中に、窓硝子にあたって摧ける雨の音が、ぽつりぽつりと耳元でし始めた。彼は携えている竹の洋杖を眺めて、この代りに雨傘を持って来ればよかったと思い出した。
彼は洋食店以後、中折を被った男の人柄と、世の中にまるで疑をかけていないその眼つきとを注意した結果、この時ふと、こんな窮屈な思いをして、いらざる材料を集めるよるも、いっそ露骨にこっちから話しかけて、当人の許諾を得た事実だけを田口に報告した方が、今更遅蒔のようでも、まだ気が利いていやしないかと考えて、自分で自分を彼に紹介する便法を工夫し始めた。そのうち電車はとうとう終点まで来た。雨はますます烈しくなったと見えて、車がとまるとざあという音が急に彼の耳を襲った。中折の男は困ったなと云いながら、外套の襟を立てて洋袴の裾を返した。敬太郎は洋杖を突きながら立ち上った。男は雨の中へ出ると、直寄って来る俥引を捕まえた。敬太郎も後れないように一台雇った。車夫は梶棒を上げながら、どちらへと聞いた。敬太郎はあの車の後について行けと命じた。車夫はへいと云ってむやみに馳け出した。一筋道を矢来の交番の下まで来ると、車夫は又梶棒をとめて、旦那どっちへ行くんですと聞いた。男の乗った車はいくら幌の内から延び上っても影さえ見えなかった。敬太郎は車上に洋杖を突っ張ったまま、雨の音のする中で方角に迷った。
報告
眼が覚めると、自分の住み慣れた六畳に、いつもの通り寝ている自分が、敬太郎には全く変に思われた。昨日の出来事はすべて本当のようでもあった。また纏まりのない夢のようでもあった。もっと綿密に形容すれば、「本当の夢」のようでもあった。酔った気分で町の中に活動したという記憶も伴なっていた。それよりか、酔った気分が世の中に充ち充ちていたという感じが一番強かった。停留所も電車も酔った気分に充ちていた。宝石商も、革屋も、赤と青の旗振りも、同じ空気に酔っていた。薄青いペンキ塗の洋食店の二階も、そこに席を占めた眉の間に黒子のある紳士も、色の白い女も、ことごとくこの空気に包まれていた。二人の話しに出て来る、どこにあるか分らない所の名も、男が女にやる約束をした珊瑚の珠も、みんな陶然とした一種の気分を帯びていた。最もこの気分に充ちて活躍したものは竹の洋杖であった。彼がその洋杖を突いたまま、幌を打つ雨の下で、方角に迷った時の心持は、この気分の高潮に達した幕前の一区切として、ほとんど狐から取り憑かれた人の感じを彼に与えた。彼はその時店の灯で佗びしく照らされたびしょ濡れの往来と、坂の上に小さく見える交番と、その左手にぼんやり黒くうつる木立とを見廻して、はたしてこれが今日の仕事の結末かと疑ぐった。彼はやむを得ず車夫に梶棒を向け直させて、思いも寄らない本郷へ行けと命じた事を記憶していた。
彼は寝ながら天井を眺めて、自分に最も新らしい昨日の世界を、幾順となく眼の前に循環させた。彼は二日酔の眼と頭をもって、蚕の糸を吐くようにそれからそれへと出てくるこの記念の画を飽かず見つめていたが、しまいには眼先に漂ようふわふわした夢の蒼蠅さに堪えなくなった。それでも後から後からと向うで独り勝手に現われて来るので、彼は正気でありながら、何かに魅入られたのではなかろうかと云う疑さえ起した。彼はこの浅い疑に関聯して、例の洋杖を胸に思い浮べざるを得なかった。昨日の男も女も彼の眼には絵を見るほど明らかであった。容貌は固より服装から歩きつきに至るまでことごとく記憶の鏡に判切りと映った。それでいて二人とも遠くの国にいるような心持がした。遠くの国にいながら、つい近くにあるものを見るように、鮮やかな色と形を備えて眸を侵して来た。この不思議な影響が洋杖から出たかも知れないという神経を敬太郎はどこかに持っていた。彼は昨夕法外な車賃を貪ぼられて、宿の門口を潜った時、何心なくその洋杖を持ったまま自分の室まで帰って来て、これは人の目に触れる所に置くべきものでないという顔をして、寝る前に、戸棚の奥の行李の後へ投げ込んでしまったのである。
今朝は蛇の頭にそれほどの意味がないようにも思われた。ことにこれから田口に逢って、探偵の結果を報告しなければならないと云う実際問題の方が頭に浮いて来ると、なおさらそういう感じが深くなった。彼は一日の午後から宵へかけて、妙に一種の空気に酔わされた気分で活動した自覚はたしかにあるが、いざその活動の結果を、普通の人間が処世上に利用できるように、筋の立った報告に纏める段になると、自分の引き受けた仕事は成効しているのか失敗しているのかほとんど分らなかった。したがって洋杖の御蔭を蒙っているのか、いないのかも判然しなかった。床の中で前後をくり返した敬太郎には、まさしくその御蔭を蒙っているらしくも見えた。またけっしてその御蔭を蒙っていないようにも思われた。
彼はともかくも二日酔の魔を払い落してからの事だと決心して、急に夜着を剥ぐって跳ね起きた。それから洗面所へ下りて氷るほど冷めたい水で頭をざあざあ洗った。これで昨日の夢を髪の毛の根本から振い落して、普通の人間に立ち還ったような気になれたので、彼は景気よく三階の室に上った。そこの窓を潔ぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸をした。こう精神作用を人間並に刺戟した後で、彼は一服しながら、田口へ報告すべき事柄の順序や条項について力めて実際的に思慮を回らした。
突きとめて見ると、田口の役に立ちそうな種はまるで上がっていないようにも思われるので、敬太郎は少し心細くなって来た。けれども先方では今朝にも彼の報告を待ち受けているように気が急くので、彼はさっそく田口家へ電話を掛けた。これから直行っていいかと聞くと、だいぶ待たした後で、差支ないという答が、例の書生の口を通して来たので、彼は猶予なく内幸町へ出かけた。
田口の門前には車が二台待っていた。玄関にも靴と下駄が一足ずつあった。彼はこの間と違って日本間の方へ案内された。そこは十畳ほどの広い座敷で、長い床に大きな懸物が二幅掛かっていた。湯呑のような深い茶碗に、書生が番茶を一杯汲んで出した。桐を刳った手焙も同じ書生の手で運ばれた。柔かい座蒲団も同じ男が勧めてくれただけで、女はいっさい出て来なかった。敬太郎は広い室の真中に畏まって、主人の足音の近づくのを窮屈に待った。ところがその主人は用談が果てないと見えて、いつまで待ってもなかなか現われなかった。敬太郎はやむを得ず茶色になった古そうな懸物の価額を想像したり、手焙の縁を撫で廻したり、あるいは袴の膝へきちりと両手を乗せて一人改たまって見たりした。すべて自分の周囲があまり綺麗に調っているだけに、居心地が新らし過ぎて彼は容易に落ちつけなかったのである。しまいに違棚の上にある画帖らしい物を取りおろしてみようかと思ったが、その立派な表紙が、これは装飾だから手を触れちゃいけないと断るように光るので、彼はついに手を出しかねた。
こう敬太郎の神経を悩ました主人は、彼をやや小一時間も待たした後で、ようやく応接間から出て来た。
「どうも長い間御待たせ申して。――客がなかなか帰らないものだから」
敬太郎はこの言訳に対して適当と思うような挨拶を一と口と、それに添えた叮嚀な御辞儀を一つした。それからすぐ昨日の事を云い出そうとしたが、何をどう先に述べたら都合がいいか、この場に臨んで急にまた迷い始めたうちに、切り出す機を逸してしまった。主人はまた冒頭からさも忙がしそうに声も身体も取り扱かっている癖に、どこか腹の中に余裕の貯蔵庫でもあるように、けっして周章て探偵の結果を聞きたがらなかった。本郷では氷が張るかとか、三階では風が強く当るだろうとか、下宿にも電話があるのかとか、調子は至極面白そうだけれども、その実つまらない事ばかり話の種にした。敬太郎は向うの問に従って主人の満足する程度にわが答えを運んでいたが、相手はこんな無意味な話を進めて行くうちに、暗に彼の様子を注意しているらしかった。そこまでは彼もぼんやり気がついた。しかし主人がなぜそんな注意を自分に払うのか、その訳はまるで解らなかった。すると、
「どうです昨日は。旨く行きましたか」と主人が突然聞き出した。こう聞かれるだろうぐらいの腹は始めから敬太郎にもあったのだが、正直に答えれば、「どうですか」という他を馬鹿にした生返事になるので、彼はちょっと口籠った後、
「そうです御通知のあった人だけはやっと探し当てました」と答えた。
「眉間に黒子がありましたか」
敬太郎は少し隆起した黒い肉の一点を局部に認めたと答えた。
「衣服もこっちから云って上げた通りでしたか。黒の中折に、霜降の外套を着て」
「そうです」
「それじゃ大抵間違はないでしょう。四時と五時の間に小川町で降りたんですね」
「時間は少し後れたようです」
「何分ぐらい」
「何分か知りませんが、何でも五時よっぽど過のようでした」
「よっぽど過。よっぽど過ならそんな人を待っていなくても好いじゃありませんか。四時から五時までの間と、わざわざ時間を切って通知して上げたくらいだから、五時を過ぎればもうあなたの義務はすんだも同然じゃないですか。なぜそのまま帰って、その通り報知しないんです」
今まで穏やかに機嫌よく話していた長者から突然こう手厳しくやりつけられようとは、敬太郎は夢にも思わなかった。
敬太郎は今まで下町出の旦那を眼の前に描いていた。それが突然規律ずくめの軍人として彼を威圧して来た時、彼はたちまち心の中心を狂わした。友達に対してなら云い得る「君のためだから」という言葉も挨拶も有っていたのだが、この場合にはそれがまるで役に立たなかった。
「ただ私の勝手で、時間が来てもそこを動かなかったのです」
敬太郎がこう答えるか答えないうちに、田口は今のきっとした態度をすぐ崩して、
「そりゃ私のために大変都合が好かった」と機嫌の好い調子で受けたが、「しかしあなたの勝手と云うのは何です」と聞き返した。敬太郎は少し逡巡した。
「なにそりゃ聞かないでも構いません。あなたの事だから。話したくなければ話さないでも差支ない」
田口はこう云って、自分の前に引きつけた手提煙草盆の抽出を開けると、その中から角でできた細長い耳掻を捜し出した。それを右の耳の中に入れて、さも痒ゆそうに掻き廻した。敬太郎は見ないふりをしてわざと自分を見ているような、また耳だけに気を取られているような、田口の蹙面を薄気味悪く感じた。
「実は停留所に女が一人立っていたのです」と彼はとうとう自白してしまった。
「年寄ですか、若い女ですか」
「若い女です」
「なるほど」
田口はただ一口こう云っただけで、何とも後を継いでくれなかった。敬太郎も頓挫したなり言葉を途切らした。二人はしばらく差向いのまま口を聞かずにいた。
「いや、若かろうが年寄だろうが、その婦人の事を聞くのはよくなかった。それはあなただけに関係のある事なんでしょうから、止しにしましょう。私の方じゃただ顔に黒子のある男について、研究の結果さえ伺がえばいいんだから」
「しかしその女が黒子のある人の行動に始終入り込んでくるのです。第一女の方で男を待ち合わしていたのですから」
「はあ」
田口はちょっと思いも寄らぬという顔つきをしたが、「じゃその婦人はあなたの御知合でも何でもないのですね」と聞いた。敬太郎は固より知合だと答える勇気を有たなかった。きまりの悪い思いをしても、見た事も口を利いた事もない女だと正直に云わなければならなかった。田口はそうですかと、穏かに敬太郎の返事を聞いただけで、少しも追窮する気色を見せなかったが、急に摧けた調子になって、
「どんな女なんです。その若い婦人と云うのは。器量からいうと」と興味に充ちた顔を提煙草盆の上に出した。
「いえ、なに、つまらない女なんです」と敬太郎は前後の行きがかり上答えてしまって、実際頭の中でもつまらないような気がした。これが相手と場合しだいでは、うん器量はなかなか好い方だぐらいは固より云い兼ねなかったのである。田口は「つまらない女」という敬太郎の判断を聞いて、たちまち大きな声を出して笑った。敬太郎にはその意味がよく解らなかったけれども、何でも頭の上で大濤が崩れたような心持がして、幾分か顔が熱くなった。
「よござんす、それで。――それからどうしました。女が停留所で待ち合わしているところへ男が来て」
田口はまた普通の調子に戻って、真面目に事件の経過を聞こうとした。実をいうと敬太郎は自分がこれから話す顛末を、どうして握る事ができたかの苦心談を、まず冒頭に敷衍して、二つある同じ名の停留所の迷った事から、不思議な謎の活きて働らく洋杖を、どう抱え出して、どう利用したかに至るまでを、自分の手柄のなるべく重く響くように、詳しく述べたかったのであるが、会うや否や四時と五時とのいきさつでやられた上に、勝手に見張りの時間を延ばした源因になる例の女が、源因にも何にもならない見ず知らずの女だったりした不味いところがあるので、自分を広告する勇気は全く抜けていた。それで男と女が洋食屋へ入ってから以後の事だけをごく淡泊り話して見ると、宅を出る時自分が心配していた通り、少しも捕まえどころのない、あたかも灰色の雲を一握り田口の鼻の先で開いて見せたと同じような貧しい報告になった。
それでも田口は別段厭な顔も見せなかった。落ちついた腕組をしまいまで解かずに、ただふんとか、なるほどとか、それからとか云う繋ぎの言葉を、時々敬太郎のために投げ込んでくれるだけであった。その代り報告の結末が来ても、まだ何か予期しているように、今までの態度を容易に変えなかった。敬太郎は仕方なしに、「それだけです。実際つまらない結果で御気の毒です」と言訳をつけ加えた。
「いやだいぶ参考になりました。どうも御苦労でした。なかなか骨が折れたでしょう」
田口のこの挨拶の中に、大した感謝の意を含んでいない事は無論であったが、自分が馬鹿に見えつつある今の敬太郎にはこれだけの愛嬌が充分以上に聞こえた。彼は辛うじて恥を掻かずにすんだという安心をこの時ようやく得た。同時に垂味のできた気分が、すぐ田口に向いて働らきかけた。
「いったいあの人は何なんですか」
「さあ何でしょうか。あなたはどう鑑定しました」
敬太郎の前には黒の中折を被って、襟開の広い霜降の外套を着た〈[#「着た」は底本では「来た」]〉男の姿がありありと現われた。その人の様子といい言葉遣いといい歩きつきといい、何から何まで判切見えたには見えたが、田口に対する返事は一口も出て来なかった。
「どうも分りません」
「じゃ性質はどんな性質でしょう」
性質なら敬太郎にもほぼ見当がついていた。「穏やかな人らしく思いました」と観察の通りを答えた。
「若い女と話しているところを見て、そう云うんじゃありませんか」
こう云った時、田口の唇の角に薄笑の影がちらついているのを認めた敬太郎は、何か答えようとした口をまた塞いでしまった。
「若い女には誰でも優しいものですよ。あなただって満更経験のない事でもないでしょう。ことにあの男と来たら、人一倍そうなのかも知れないから」と田口は遠慮なく笑い出した。けれども笑いながらちゃんと敬太郎の上に自分の眼を注いでいた。敬太郎は傍で自分を見たらさぞ気の利かない愚物になっているんだろうと考えながらも、やっぱり苦しい思いをして田口と共に笑わなければいられなかった。
「じゃ女は何物なんでしょう」
田口はここで観察点を急に男から女へ移した。そうして今度は自分の方で敬太郎にこういう質問を掛けた。敬太郎はすぐ正直に「女の方は男よりもなお分り悪いです」と答えてしまった。
「素人だか黒人だか、大体の区別さえつきませんか」
「さよう」と云いながら、敬太郎はちょっと考がえて見た。革の手袋だの、白い襟巻だの、美くしい笑い顔だの、長いコートだの、続々記憶の表面に込み上げて来たが、それを綜括ったところでどこからもこの問に応ぜられるような要領は得られなかった。
「割合に地味なコートを着て、革の手袋を穿めていましたが……」
女の身に着けた品物の中で、特に敬太郎の注意を惹いたこの二点も、田口には何の興味も与えないらしかった。彼はやがて真面目な顔をして、「じゃ男と女の関係について何か御意見はありませんか」と聞き出した。
敬太郎は先刻自分の報告が滞りなく済んだ証拠に、御苦労さまと云う謝辞さえ受けた後で、こう難問が続発しようとは毫も思いがけなかった。しかも窮しているせいか、それが順をおってだんだんむずかしい方へ競り上って行くように感ぜられてならなかった。田口は敬太郎の行きづまった様子を見て、再び同じ問をほかの言葉で説明してくれた。
「例えば夫婦だとか、兄弟だとか、またはただの友達だとか、情婦だとかですね。いろいろな関係があるうちで何だと思いますか」
「私も女を見た時に、処女だろうか細君だろうかと考えたんですが……しかしどうも夫婦じゃないように思います」
「夫婦でないにしてもですね。肉体上の関係があるものと思いますか」
敬太郎の胸にもこの疑は最初から多少萌さないでもなかった。改ためて自分の心を解剖して見たら、彼ら二人の間に秘密の関係がすでに成立しているという仮定が遠くから彼を操って、それがために偵察の興味が一段と鋭どく研ぎ澄まされたのかも知れなかった。肉と肉の間に起るこの関係をほかにして、研究に価する交渉は男女の間に起り得るものでないと主張するほど彼は理論家ではなかったが、暖たかい血を有った青年の常として、この観察点から男女を眺めるときに、始めて男女らしい心持が湧いて来るとは思っていたので、なるべくそこを離れずに世の中を見渡したかったのである。年の若い彼の眼には、人間という大きな世界があまり判切分らない代りに、男女という小さな宇宙はかく鮮やかに映った。したがって彼は大抵の社会的関係を、できるだけこの一点まで切落して楽んでいた。停留所で逢った二人の関係も、敬太郎の気のつかない頭の奥では、すでにこういう一対の男女として最初から結びつけられていたらしかった。彼はまたその背後に罪悪を想像して要もないのに恐れを抱くほどの道徳家でもなかった。彼は世間並な道義心の所有者としてありふれた人間の一人であったけれども、その道義心は彼の空想力と違って、いざという場合にならなければ働らかないのを常とするので、停留所の二人を自分に最も興味のある男女関係に引き直して見ても、別段不愉快にはならずにすんだのである。彼はただ年齢の上において二人の相違の著るしいのを疑ぐった。が、また一方ではその相違がかえって彼の眼に映ずる「男女の世界」なるものの特色を濃く示しているようにも見えた。
彼の二人に対する心持は知らず知らずの間にこう弛んでいたのだが、いよいよそうかと正式に田口から質問を掛けられて見ると、断然とした返答は、責任のあるなしにかかわらず、纏まった形となって頭の中には現われ悪かった。それでこう云った。――
「肉体上の関係はあるかも知れませんが、無いかも分りません」
田口はただ微笑した。そこへ例の袴を穿いた書生が、一枚の名刺を盆に載せて持って来た。田口はちょっとそれを受取ったまま、「まあ分らないところが本当でしょう」と敬太郎に答えたが、すぐ書生の方を見て、「応接間へ通しておいて……」と命令した。先刻からよほど窮していた矢先だから、敬太郎はこの来客を好い機に、もうここで切り上げようと思って身繕いにかかると、田口はわざわざ彼の立たない前にそれを遮ぎった。そうして敬太郎の辟易するのに頓着なくなお質問を進行させた。そのうちで敬太郎の明瞭に答えられるのはほとんど一カ条もなかったので、彼は大学で受けた口答試験の時よりもまだ辛い思いをした。
「じゃこれぎりにしますが、男と女の名前は分りましたろう」
田口の最後と断ったこの問に対しても、敬太郎は固より満足な返事を有っていなかった。彼は洋食店で二人の談話に注意を払う間にも何々さんとか何々子とかあるいは御何とかいう言葉がきっとどこかへ交って来るだろうと心待に待っていたのだが、彼らは特にそれを避ける必要でもあるごとくに、御互の名はもちろん、第三者の名もけっして引合にさえ出さなかったのである。
「名前も全く分りません」
田口はこの答を聞いて、手焙の胴に当てた手を動かしながら、拍子を取るように、指先で桐の縁を敲き始めた。それをしばらくくり返した後で、「どうしたんだか余まり要領を得ませんね」と云ったが、直言葉を継いで、「しかしあなたは正直だ。そこがあなたの美点だろう。分らない事を分ったように報告するよりもよっぽど好いかも知れない。まあ買えばそこを買うんですね」と笑い出した。敬太郎は自分の観察が、はたして実用に向かなかったのを発見して、多少わが迂闊に恥じ入る気も起ったが、しかしわずか二三時間の注意と忍耐と推測では、たとい自分より十層倍行き届いた人間に代理を頼んだところで、田口を満足させるような結果は得られる訳のものでないと固く信じていたから、この評価に対してそれほどの苦痛も感じなかった。その代り正直と賞められた事も大した嬉しさにはならなかった。このくらいの正直さ加減は全くの世間並に過ぎないと彼には見えたからである。
敬太郎は先刻から頭の上らない田口の前で、たった一言で好いから、思い切った自分の腹をずばりと云って見たいと考えていたが、ここで云わなければもう云う機会はあるまいという気がこの時ふと萌した。
「要領を得ない結果ばかりで私もはなはだ御気の毒に思っているんですが、あなたの御聞きになるような立ち入った事が、あれだけの時間で、私のような迂闊なものに見極められる訳はないと思います。こういうと生意気に聞こえるかも知れませんが、あんな小刀細工をして後なんか跟けるより、直に会って聞きたい事だけ遠慮なく聞いた方が、まだ手数が省けて、そうして動かない確かなところが分りゃしないかと思うのです」
これだけ云った敬太郎は、定めて世故に長けた相手から笑われるか、冷かされる事だろうと考えて田口の顔を見た。すると田口は案外にもむしろ真面目な態度で「あなたにそれだけの事が解っていましたか。感心だ」と云った。敬太郎はわざと答を控えていた。
「あなたのいう方法は最も迂闊のようで、最も簡便なまた最も正当な方法ですよ。そこに気がついていれば人間として立派なものです」と田口が再びくり返した時、敬太郎はますます返答に窮した。
「それほどの考がちゃんとあるあなたに、あんなつまらない仕事を御頼申したのは私が悪かった。人物を見損なったのも同然なんだから。が、市蔵があなたを紹介する時に、そう云いましたよ。あなたは探偵のやるような仕事に興味を有っておいでだって。それでね、ついとんでもない事を御願いして。止しゃあよかった……」
「いえ須永君にはそう云う意味の事をたしかに話した覚えがあります」と敬太郎は苦しい思をして答えた。
「そうでしたか」
田口は敬太郎の矛盾をこの一句で切り棄てたなり、それ以上に追窮する愚をあえてしなかった。そうして問題をすぐ改めて見せた。
「じゃどうでしょう。黙って後なんどを跟けずに、あなたのいう通り尋常に玄関からかかって行っちゃ。あなたにそれだけの勇気がありますか」
「無い事もありません」
「あんなに跟け廻した後で」
「あんなに跟け廻したって、私はあの人達の不名誉になるような観察はけっしてしていないつもりです」
「ごもっともだ。そんなら一つ行って御覧なさい。紹介するから」
田口はこう云いながら、大きな声を出して笑った。けれども敬太郎にはこの申し出が万更の冗談とも思えなかったので、彼は紹介状を携えて本当に眉間の黒子と向き合って話して見ようかという料簡を起した。
「会いますから紹介状を書いて下さい。私はあの人と話して見たい気がしますから」
「宜いでしょう。これも経験の一つだから、まあ会って直に研究して御覧なさい。あなたの事だから田口に頼まれてこの間の晩後を跟けましたぐらいきっと云うでしょう。しかしそれは構わない。云いたければ云っても宜うござんす。私に遠慮は要らないから。それからあの女との関係もですね、あなたに勇気さえあるなら聞いて御覧なさい。どうです、それを聞くだけの度胸があなたにありますか」
田口はここでちょっと言葉を切らして敬太郎の顔を見たが、答の出ないうちにまた自分から話を続けた。
「だが両方とも口へ出せるように自然が持ちかけて来るまでは、聞いても話してもいけませんよ。いくら勇気があったって、常識のない奴だと思われるだけだから。それどころじゃない、あの男はただでさえ随分会い悪い方なんだから、そんな事をむやみに喋べろうものなら、直帰ってくれぐらい云い兼ねないですよ。紹介をして上げる代りには、そこいらはよく用心しないとね……」
敬太郎は固より畏まりましたと答えた。けれども腹の中では黒の中折の男を田口のように見る事がどうしてもできなかった。
田口は硯箱と巻紙を取り寄せて、さらさらと紹介状を書き始めた。やがて名宛を認め終ると、「ただ通り一遍の文言だけ並べておいたらそれで好いでしょう」と云いながら、手焙の前に翳した手紙を敬太郎に読んで聞かせた。その中には書いた当人の自白したごとく、これといって特別の注意に価する事は少しも出て来なかった。ただこの者は今年大学を卒業したばかりの法学士で、ことによると自分が世話をしなければならない男だから、どうか会って話をしてやってくれとあるだけだった。田口は異存のない敬太郎の顔を見届けた上で、すぐその巻紙をぐるぐると巻いて封筒へ入れた。それからその表へ松本恒三様と大きく書いたなり、わざと封をせずに敬太郎に渡した。敬太郎は真面目になって松本恒三様の五字を眺めたが、肥った締りのない書体で、この人がこんな字を書くかと思うほど拙らしくできていた。
「そう感心していつまでも眺めていちゃあいけない」
「番地が書いてないようですが」
「ああそうか。そいつは私の失念だ」
田口は再び手紙を受け取って、名宛の人の住所と番地を書き入れてくれた。
「さあこれなら好いでしょう。不味くって大きなところは土橋の大寿司流とでも云うのかな。まあ役に立ちさえすればよかろう、我慢なさい」
「いえ結構です」
「ついでに女の方へも一通書きましょうか」
「女も御存じなのですか」
「ことによると知ってるかも知れません」と答えた田口は何だか意味のありそうに微笑した。
「御差支さえなければ、おついでに一本書いていただいても宜しゅうございます」と敬太郎も冗談半分に頼んだ。
「まあ止した方が安全でしょうね。あなたのような年の若い男を紹介して、もし間違でもできると責任問題だから。浪漫―何とか云うじゃありませんか、あなたのような人の事を。私ゃ学問がないから、今頃流行るハイカラな言葉を直忘れちまって困るが、何とか云いましたっけね、あの、小説家の使う言葉は。……」
敬太郎はまさかそりゃこう云う言葉でしょうと教える気にもなれなかった。ただエヘヘと馬鹿みたように笑っていた。そうして長居をすればするほど、だんだん非道く冷かされそうなので、心の内では、この一段落がついたら、早く切り上げて帰ろうと思った。彼は田口のくれた紹介状を懐に収めて、「では二三日内にこれを持って行って参りましょう。その模様でまた伺がう事に致しますから」と云いながら、柔かい座蒲団の上を滑り下りた。田口は「どうも御苦労でした」と叮嚀に挨拶しただけで、ロマンチックもコスメチックもすっかり忘れてしまったという顔つきをして立ち上った。
敬太郎は帰り途に、今会った田口と、これから会おうという松本と、それから松本を待ち合わした例の恰好のいい女とを、合せたり離したりしてしきりにその関係を考えた。そうして考えれば考えるほど一歩ずつ迷宮の奥に引き込まれるような面白味を感じた。今日田口での獲物は松本という名前だけであるが、この名前がいろいろに錯綜した事実を自分のために締め括っている妙な嚢のように彼には思えるので、そこから何が出るか分らないだけそれだけ彼には楽みが多かった。田口の説明によると、近寄悪い人のようにも聞こえるが、彼の見たところでは田口より数倍話しがしやすそうであった。彼は今日田口から得た印象のうちに、人を取扱う点にかけてなるほど老練だという嘆美の声を見出した上、人物としてもどこか偉そうに思われる点が、時々彼の眼を射るようにちらちら輝やいたにもかかわらず、その前に坐っている間、彼は始終何物にか縛られて自由に動けない窮屈な感じを取り去る事ができなかった。絶えず監視の下に置かれたようなこの状態は、一時性のものでなくって、いくら面会の度数を重ねても、けっして薄らぐ折はなかろうとまで彼には見えたくらいである。彼はこういう風に気のおける田口と反対の側に、何でも遠慮なく聞いて怒られそうにない、話し声その物のうちにすでに懐かし味の籠ったような松本を想像してやまなかった。
翌朝さっそく支度をして松本に会いに行こうと思っているとあいにく寒い雨が降り出した。窓を細目に開けて高い三階から外を見渡した時分には、もう世の中が一面に濡れていた。屋根瓦に徹るような佗びしい色をしばらく眺めていた敬太郎は、田口の紹介状を机の上に置いて、出ようか止そうかとちょっと思案したが、早く会って見たいという気が強く起るので、とうとう机の前を離れた。そうして豆腐屋の喇叭が、陰気な空気を割いて鋭どく往来に響く下の方へ降りて行った。
松本の家は矢来なので、敬太郎はこの間の晩狐につままれたと同じ思いをした交番下の景色を想像しつつ、そこへ来ると、坂下と坂上が両方共二股に割れて、勾配のついた真中だけがいびつに膨れているのを発見した。彼は寒い雨の袴の裾に吹きかけるのも厭わずに足を留めて、あの晩車夫が梶棒を握ったまま立往生をしたのはこのへんだろうと思う所を見廻した。今日も同じように雨がざあざあ落ちて、彼の踏んでいる土は地下の鉛管まで腐れ込むほど濡れていた。ただ昼だけに周囲は暗いながらも明るいので、立ちどまった時の心持はこの間とはまるで趣が違っていた。敬太郎は後の方に高く黒ずんでいる目白台の森と、右手の奥に朦朧と重なり合った水稲荷の木立を見て坂を上った。それから同じ番地の家の何軒でもある矢来の中をぐるぐる歩いた。始めのうちは小さい横町を右へ折れたり左へ曲ったり、濡れた枳殻の垣を覗いたり、古い椿の生い被さっている墓地らしい構の前を通ったりしたが、松本の家は容易に見当らなかった。しまいに尋ねあぐんで、ある横町の角にある車屋を見つけて、そこの若い者に聞いたら、何でもない事のようにすぐ教えてくれた。
松本の家はこの車屋の筋向うを這入った突き当りの、竹垣に囲われた綺麗な住居であった。門を潜ると子供が太鼓を鳴らしている音が聞こえた。玄関へかかって案内を頼んでもその太鼓の音は毫もやまなかった。その代り四辺は森閑として人の住んでいる臭さえしなかった。雨に鎖された家の奥から現われた十六七の下女は、手を突いて紹介状を受取ったなり無言のまま引っ込んだが、しばらくしてからまた出て来て、「はなはだ勝手を申し上げてすみませんでございますが、雨の降らない日においでを願えますまいか」と云った。今まで就職運動のため諸方へ行って断わられつけている敬太郎にも、この断り方だけは不思議に聞こえた。彼はなぜ雨が降っては面会に差支えるのか直反問したくなった。けれども下女に議論を仕かけるのも一種変な場合なので、「じゃ御天気の日に伺がえば御目にかかれるんですね」と念晴しに聞き直して見た。下女はただ「はい」と答えただけであった。敬太郎は仕方なしにまた雨の降る中へ出た。ざあと云う音が急に烈しく聞こえる中に、子供の鳴らす太鼓がまだどんどんと響いていた。彼は矢来の坂を下りながら変な男があったものだという観念を数度くり返した。田口がただでさえ会い悪いと云ったのは、こんなところを指すのではなかろうかとも考えた。その日は家へ帰っても、気分が中止の姿勢に余儀なく据えつけられたまま、どの方角へも進行できないのが苦痛になった。久しぶりに須永の家へでも行って、この間からの顛末を茶話に半日を暮らそうかと考えたが、どうせ行くなら、今の仕事に一段落つけて、自分にも見当の立った筋を吹聴するのでなくては話しばいもしないので、ついに行かずじまいにしてしまった。
翌日は昨日と打って変って好い天気になった。起き上る時、あらゆる濁を雨の力で洗い落したように綺麗に輝やく蒼空を、眩ゆそうに仰ぎ見た敬太郎は、今日こそ松本に会えると喜こんだ。彼はこの間の晩行李の後に隠しておいた例の洋杖を取り出して、今日は一つこれを持って行って見ようと考がえた。彼はそれを突いて、また矢来の坂を上りながら、昨日の下女が今日も出て来て、せっかくですが今日は御天気過ぎますから、も少し曇った日においで下さいましと云ったらどんなものだろうと想像した。
ところが昨日と違って、門を潜っても、子供の鳴らす太鼓の音は聞こえなかった。玄関にはこの前目に着かなかった衝立が立っていた。その衝立には淡彩の鶴がたった一羽佇ずんでいるだけで、姿見のように細長いその格好が、普通の寸法と違っている意味で敬太郎の注意を促がした。取次には例の下女が現われたには相違ないが、その後から遠慮のない足音をどんどん立てて二人の小供が衝立の影まで来て、珍らしそうな顔をして敬太郎を眺めた。昨日に比べるとこれだけの変化を認めた彼は、最後にどうぞという案内と共に、硝子戸の締まっている座敷へ通った。その真中にある金魚鉢のように大きな瀬戸物の火鉢の両側に、下女は座蒲団を一枚ずつ置いて、その一枚を敬太郎の席とした。その座蒲団は更紗の模様を染めた真丸の形をしたものなので、敬太郎は不思議そうにその上へ坐った。床の間には刷毛でがしがしと粗末に書いたような山水の軸がかかっていた。敬太郎はどこが樹でどこが巌だか見分のつかない画を、軽蔑に値する装飾品のごとく眺めた。するとその隣りに銅鑼が下っていて、それを叩く棒まで添えてあるので、ますます変った室だと思った。
すると間の襖を開けて隣座敷から黒子のある主人が出て来た。「よくおいでです」と云ったなり、すぐ敬太郎の鼻の先に坐ったが、その調子はけっして愛嬌のある方ではなかった。ただどこかおっとりしているので、相手に余り重きを置かないところが、かえって敬太郎に楽な心持を与えた。それで火鉢一つを境に、顔と顔を突き合わせながら、敬太郎は別段気がつまる思もせずにいられた。その上彼はこの間の晩、たしかに自分の顔をここの主人に覚えられたに違ないと思い込んでいたにもかかわらず、今会って見ると、覚えているのだか、いないのだか、平然としてそんな素振は、口にも色にも出さないので、彼はなおさら気兼の必要を感じなくなった。最後に主人は昨日雨天のため面会を謝絶した理由も言訳も一言も述べなかった。述べたくなかったのか、述べなくっても構わないと認めていたのか、それすら敬太郎にはまるで判断がつかなかった。
話は自然の順序として、紹介者になった田口の事から始まった。「あなたはこれから田口に使って貰おうというのでしたね」というのを冒頭に、主人は敬太郎の志望だの、卒業の成績だのを一通り聞いた。それから彼のいまだかつて考えた事もない、社会観とか人生観とかいうこむずかしい方面の問題を、時々持ち出して彼を苦しめた。彼はその時心のうちで、この松本という男は世に著われない学者の一人なのではなかろうかと疑ぐったくらい、妙な理窟をちらちらと閃めかされた。そればかりでなく、松本は田口を捕まえて、役には立つが頭のなっていない男だと罵しった。
「第一ああ忙がしくしていちゃ、頭の中に組織立った考のできる閑がないから駄目です。あいつの脳と来たら、年が年中摺鉢の中で、擂木に攪き廻されてる味噌見たようなもんでね。あんまり活動し過ぎて、何の形にもならない」
敬太郎にはなぜこの主人が田口に対してこうまで悪体を吐くのかさっぱり訳が分らなかった。けれども彼の不思議に感じたのは、これほどの激語を放つ主人の態度なり口調なりに、毫も毒々しいところだの、小悪らしい点だのの見えない事であった。彼の罵しる言葉は、人を罵しった経験を知らないような落ちつきを具えた彼の声を通して、敬太郎の耳に響くので、敬太郎も強く反抗する気になれなかった。ただ一種変った人だという感じが新たに刺戟を受けるだけであった。
「それでいて、碁を打つ、謡を謡う。いろいろな事をやる。もっともいずれも下手糞なんですが」
「それが余裕のある証拠じゃないでしょうか」
「余裕って君。――僕は昨日雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民でないからです。いくら他の感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」
「実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか」
「文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ」
松本は大きな火鉢の縁へ両肱を掛けて、その一方の先にある拳骨を顎の支えにしながら敬太郎を見た。敬太郎は初対面の客を客と感じていないらしいこの松本の様子に、なるほど高等遊民の本色があるらしくも思った。彼は煙草道楽と見えて、今日は大きな丸い雁首のついた木製の西洋パイプを口から離さずに、時々思い出したような濃い煙を、まだ火の消えていない証拠として、狼煙のごとくぱっぱっと揚げた。その煙が彼の顔の傍でいつの間にか消えて行く具合が、どこにも締りを設ける必要を認めていないらしい彼の眼鼻と相待って、今まで経験した事のない一種静かな心持を敬太郎に与えた。彼は少し薄くなりかかった髪を、頭の真中から左右へ分けているので、平たい頭がなおの事尋常に落ちついて見えた。彼はまた普通世間の人が着ないような茶色の無地の羽織を着て、同じ色の上足袋を白の上に重ねていた。その色がすぐ坊主の法衣を聯想させるところがまた変に特別な男らしく敬太郎の眼に映った。自分で高等遊民だと名乗るものに会ったのはこれが始めてではあるが、松本の風采なり態度なりが、いかにもそう云う階級の代表者らしい感じを、少し不意を打たれた気味の敬太郎に投げ込んだのは事実であった。
「失礼ながら御家族は大勢でいらっしゃいますか」
敬太郎は自から高等遊民と称する人に対して、どういう訳かまずこういう問がかけて見たかった。すると松本は「ええ子供がたくさんいます」と答えて、敬太郎の忘れかかっていたパイプからぱっと煙を出した。
「奥さんは……」
「妻は無論います。なぜですか」
敬太郎は取り返しのつかない愚な問を出して、始末に行かなくなったのを後悔した。相手がそれほど感情を害した様子を見せないにしろ、不思議そうに自分の顔を眺めて、解決を予期している以上は、何とか云わなければすまない場合になった。
「あなたのような方が、普通の人間と同じように、家庭的に暮して行く事ができるかと思ってちょっと伺ったまでです」
「僕が家庭的に……。なぜ。高等遊民だからですか」
「そう云う訳でも無いんですが、何だかそんな心持がしたからちょっと伺がったのです」
「高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」
敬太郎はもう何も云う事がなくなってしまった。彼の頭脳の中では、返事に行き詰まった困却と、ここで問題を変えようとする努力と、これを緒口に、革の手袋を穿めた女の関係を確かめたい希望が三ついっしょに働らくので、元からそれほど秩序の立っていない彼の思想になおさら暗い影を投げた。けれども松本はそんな事にまるで注意しない風で、困った敬太郎の顔を平気に眺めていた。もしこれが田口であったなら手際よく相手を打ち据える代りに、打ち据えるとすぐ向うから局面を変えてくれて、相手に見苦るしい立ち往生などはけっしてさせない鮮やかな腕を有っているのにと敬太郎は思った。気はおけないが、人を取扱かう点において、全く冴えた熟練を欠いている松本の前で、敬太郎は図らず二人の相違を認めたような気がしていると、松本は偶然「あなたはそういう問題を考えて見た事がないようですね」と聞いてくれた。
「ええまるで考えていません」
「考える必要はありませんね。一人で下宿している以上は。けれどもいくら一人だって、広い意味での男対女の問題は考えるでしょう」
「考えると云うよりむしろ興味があるといった方が適当かも知れません。興味なら無論あります」
二人は人間として誰しも利害を感ずるこの問題についてしばらく話した。けれども年歯の違だか段の違だか、松本の云う事は肝心の肉を抜いた骨組だけを並べて見せるようで、敬太郎の血の中まで這入り込んで来て、共に流れなければやまないほどの切実な勢をまるで持っていなかった。その代り敬太郎の秩序立たない断片的の言葉も口を出るとすぐ熱を失って、少しも松本の胸に徹らないらしかった。
こんな縁遠い話をしている中で、ただ一つ敬太郎の耳に新らしく響いたのは、露西亜の文学者のゴーリキとかいう人が、自分の主張する社会主義とかを実行する上に、資金の必要を感じて、それを調達のため細君同伴で亜米利加へ渡った時の話であった。その時ゴーリキは大変な人気を一身に集めて、招待やら驩迎やらに忙殺されるほどの景気のうちに、自分の目的を苦もなく着々と進行させつつあった。ところが彼の本国から伴れて来た細君というのが、本当の細君でなくて単に彼の情婦に過ぎないという事実がどこからか曝露した。すると今まで狂熱に達していた彼の名声が、たちまちどさりと落ちて、広い新大陸に誰一人として彼と握手するものが無くなってしまったので、ゴーリキはやむを得ずそのまま亜米利加を去った。というのが筋であった。
「露西亜と亜米利加ではこれだけ男女関係の解釈が違うんです。ゴーリキのやりくちは露西亜ならほとんど問題にならないくらい些細な事件なんでしょうがね。下らない」と松本は全く下らなそうな顔をした。
「日本はどっちでしょう」と敬太郎は聞いて見た。
「まあ露西亜派でしょうね。僕は露西亜派でたくさんだ」と云って、松本はまた狼煙のような濃い煙をぱっと口から吐いた。
ここまで来て見ると、この間の女の事を尋ねるのが敬太郎に取って少しも苦にならないような気がし出した。
「せんだっての晩神田の洋食店で私はあなたに御目にかかったと思うんですが」
「ええ会いましたね。よく覚えています。それから帰りにも電車の中で会ったじゃありませんか。君も江戸川まで乗ったようだが、あすこいらに下宿でもしているんですか。あの晩は雨が降って困ったでしょう」
松本ははたして敬太郎を記憶していた。それを初めから口に出すでもなく、今になってようやく気がついたふりをするでもなく、話してもよし話さないでもよしと云った風の態度が、無邪気から出るのか、度胸から出るのか、または鷹揚な彼の生れつきから出るのか、敬太郎にはちょっと判断しかねた。
「御伴がおありのようでしたが」
「ええ別嬪を一人伴れていました。あなたはたしか一人でしたね」
「一人です。あなたも御帰りには御一人じゃなかったですか」
「そうです」
ちょっとはきはき進んだ問答はここへ来てぴたりととまってしまった。松本がまた女の事を云い出すかと思って待っていると、「あなたの下宿は牛込ですか、小石川ですか」とまるで無関係の問を敬太郎はかけられた。
「本郷です」
松本は腑に落ちない顔をして敬太郎を見た。本郷に住んでいる彼が、なぜ江戸川の終点まで乗ったのか、その説明を聞きたいと云わぬばかりの松本の眼つきを見た時、敬太郎は面倒だからここで一つ心持よく万事を打ち明けてしまおうと決心した。もし怒られたら、詫まるだけで、詫まって聞かれなければ、御辞儀を叮嚀にして帰れば好かろうと覚悟をきめた。
「実はあなたの後を跟けてわざわざ江戸川まで来たのです」と云って松本の顔を見ると、案外にも予期したほどの変化も起らないので、敬太郎はまず安心した。
「何のために」と松本はほとんどいつものような緩い口調で聞き返した。
「人から頼まれたのです」
「頼まれた? 誰に」
松本は始めて、少し驚いた声の中に、並より強いアクセントを置いて、こう聞いた。
「実は田口さんに頼まれたのです」
「田口とは。田口要作ですか」
「そうです」
「だって君はわざわざ田口の紹介状を持って僕に会いに来たんじゃありませんか」
こう一句一句問いつめられて行くよりは、自分の方で一と思いに今までの経過を話してしまう方が楽な気がするので、敬太郎は田口の速達便を受取って、すぐ小川町の停留所へ見張に出た冒険の第一節目から始めて、電車が江戸川の終点に着いた後の雨の中の立往生に至るまでの顛末を包まず打ち明けた。固よりただ筋の通るだけを目的に、誇張は無論布衍の煩わしさもできる限り避けたので、時間がそれほどかからなかったせいか、松本は話の進行している間一口も敬太郎を遮ぎらなかった。話が済んでからも、直とは声を出す様子は見えなかった。敬太郎は主人のこの沈黙を、感情を害した結果ではなかろうかと推察して、怒り出されないうちに早く詫まるに越した事はないと思い定めた。すると主人の方から突然口を利き始めた。
「どうもけしからん奴だね、あの田口という男は。それに使われる君もまた君だ。よっぽどの馬鹿だね」
こういった主人の顔を見ると、呆れ返っている風は誰の目にも着くが、怒気を帯びた様子は比較的どこにも現われていないので、敬太郎はむしろ安心した。この際馬鹿と呼ばれるぐらいの事は、彼に取って何でもなかったのである。
「どうも悪い事をしました」
「詫まって貰いたくも何ともない。ただ君が御気の毒だから云うのですよ。あんな者に使われて」
「それほど悪い人なんですか」
「いったい何の必要があって、そんな愚な事を引き受けたのです」
物数奇から引き受けたという言葉は、この場合どうしても敬太郎の口へは出て来なかった。彼はやむを得ず、衣食問題の必要上どうしても田口に頼らなければならない事情があるので、面白くないとは知りながら、つい承諾したのだという風な答をした。
「衣食に困るなら仕方がないが、もう止した方がいいですよ。余計な事じゃありませんか、寒いのに雨に降られて人の後を跟けるなんて」
「私も少し懲りました。これからはもうやらないつもりです」
この述懐を聞いた松本は何とも云わず、ただ苦笑いをしていた。それが敬太郎には軽蔑の意味にも憐愍の意味にも取れるので、彼はいずれにしてもはなはだ肩身の狭い思をした。
「あなたは僕に対してすまん事をしたような風をしているが、実際そうなのですか」
根本義に溯ぼったらそれほどに感じていない敬太郎もこう聞かれると、行がかり上そうだと思わざるを得なかった。またそう答えざるを得なかった。
「じゃ田口へ行ってね。この間僕の伴れていた若い女は高等淫売だって、僕自身がそう保証したと云ってくれたまえ」
「本当にそういう種類の女なんですか」
敬太郎はちょっと驚ろかされた顔をしてこう聞いた。
「まあ何でも好いから、高等淫売だと云ってくれたまえ」
「はあ」
「はあじゃいけない、たしかにそう云わなくっちゃ。云えますか、君」
敬太郎は現代に教育された青年の一人として、こういう意味の言葉を、年長者の前で口にする無遠慮を憚かるほどの男ではなかった。けれども松本が強いてこの四字を田口の耳へ押し込もうとする奥底には、何か不愉快なある物が潜んでいるらしく思われるので、そう軽々しい調子で引き受ける気も起らなかった。彼が挨拶に困ってむずかしい顔をしていると、それを見た松本は、「何、君心配しないでもいいですよ。相手が田口だもの」と云ったが、しばらくしてやっと気がついたように、「君は僕と田口との関係をまだ知らないんでしたね」と聞いた。敬太郎は「まだ何にも知りません」と答えた。
「その関係を話すと、君が田口に向ってあの女の事を高等淫売だと云う勇気が出悪くなるだけだからつまり僕には損になるんだが、いつまで罪もない君を馬鹿にするのも気の毒だから、聞かして上げよう」
こういう前置を置いた上、松本は田口と自分が社会的にどう交渉しているかを説明してくれた。その説明は最も簡単にすむだけに最も敬太郎を驚ろかした。それを一言でいうと、田口と松本は近い親類の間柄だったのである。松本に二人の姉があって、一人が須永の母、一人が田口の細君、という互の縁続きを始めて呑み込んだ時、敬太郎は、田口の義弟に当る松本が、叔父という資格で、彼の娘と時間を極めて停留所で待ち合わした上、ある料理店で会食したという事実を、世間の出来事のうちで最も平凡を極めたものの一つのように見た。それを込み入った文でも隠しているように、一生懸命に自分の燃やした陽炎を散らつかせながら、後を追かけて歩いたのが、さもさも馬鹿馬鹿しくなって来た。
「御嬢さんは何でまたあすこまで出張っていたんですか。ただ私を釣るためなんですか」
「何須永へ行った帰りなんです。僕が田口で話していると、あの子が電話をかけて、四時半頃あすこで待ち合せているから、ちょっと帰りに降りてくれというんです。面倒だから止そうと思ったけれども、是非何とかかとかいうから、降りたところがね。今朝御父さんから聞いたら、叔父さんが御歳暮に指環を買ってやると云っていたから、停留所で待ち伏せをして、逃さないようにいっしょに行って買って貰えと云われたから先刻からここで待っていたんだって、人の知りもしないのに、一人で勝手な請求を持ち出してなかなか動かない。仕方がないから、まあ西洋料理ぐらいでごまかしておこうと思って、とうとう宝亭へ連れ込んだんです。――実に田口という男は箆棒だね。わざわざそれほどの手数をかけて、何もそんな下らない真似をするにも当らないじゃないか。騙された君よりもよっぽど田口の方が箆棒ですよ」
敬太郎には騙された自分の方が遥かに愚物に思われた。そうと知ったら、探偵の結果を報告する時にも、もう少しは手加減が出来たものをと、自から赧い顔もしなければならなかった。
「あなたはまるで御承知ない事なんですね」
「知るものかね、君。いくら高等遊民だって、そんな暇の出るはずがないじゃありませんか」
「御嬢さんはどうでしょう。多分御存じなんだろうと思いますが」
「そうさ」と云って松本はしばらく思案していたが、やがて判切した口調で、「いや知るまい」と断言した。「あの箆棒の田口に、一つ取柄があると云えば云われるのだが、あの男はね、いくら悪戯をしても、その悪戯をされた当人が、もう少しで恥を掻きそうな際どい時になると、ぴたりととめてしまうか、または自分がその場へ出て来て、当人の体面にかかわらない内に綺麗に始末をつける。そこへ行くと箆棒には違ないが感心なところがあります。つまりやりかたは悪辣でも、結末には妙に温かい情の籠った人間らしい点を見せて来るんです。今度の事でもおそらく自分一人で呑み込んでいるだけでしょう。君が僕の家へ来なかったら、僕はきっとこの事件を知らずに済むんだったろう。自分の娘にだって、君の馬鹿を証明するような策略を、始めから吹聴するほど無慈悲な男じゃない。だからついでに悪戯も止せばいいんだがね、それがどうしても止せないところが、要するに箆棒です」
田口の性格に対する松本のこういう批評を黙って聞いていた敬太郎は、自分の馬鹿な振舞を顧みる後悔よりも、自分を馬鹿にした責任者を怨むよりも、むしろ悪戯をした田口を頼もしいと思う心が、わが胸の裏で一番勝を制したのを自覚した。が、はたしてそういう人ならば、なぜ彼の前に出て話をしている間に、あんな窮屈な感じが起るのだろうという不審も自ずと萌さない訳に行かなかった。
「あなたの御話でだいぶ田口さんが解って来たようですが、私はあの方の前へ出ると、何だか気が落ちつかなくって変に苦しいです」
「そりゃ向うでも君に気を許さないからさ」
こう云われて見ると、田口が自分に気を許していない眼遣やら言葉つきやらがありありと敬太郎の胸に、疑もない記憶として読まれた。けれども田口ほどの老巧のものに、何で学校を出たばかりの青臭い自分が、それほど苦になるのか、敬太郎は全く合点が行かなかった。彼は見た通りのままの自分で、誰の前へ出ても通用するものと今まで固く己れを信じていたのである。彼はただかような青年として、他に憚かられたり気をおかれたりする資格さえないように自分を見縊っていただけに、経験の程度の違う年長者から、自分の思わくと違う待遇を受けるのをむしろ不思議に考え出した。
「私はそんな裏表のある人間と見えますかね」
「どうだか、そんな細かい事は初めて会っただけじゃ分らないですよ。しかしあっても無くっても、僕の君に対する待遇にはいっこう関係がないからいいじゃありませんか」
「けれども田口さんからそう思われちゃ……」
「田口は君だからそう思うんじゃない、誰を見てもそう思うんだから仕方がないさ。ああして長い間人を使ってるうちには、だいぶ騙されなくっちゃならないからね。たまに自然そのままの美くしい人間が自分の前に現われて来ても、やっぱり気が許せないんです。それがああ云う人の因果だと思えばそれで好いじゃないか。田口は僕の義兄だから、こう云うと変に聞えるが、本来は美質なんです。けっして悪い男じゃない。ただああして何年となく事業の成功という事だけを重に眼中に置いて、世の中と闘かっているものだから、人間の見方が妙に片寄って、こいつは役に立つだろうかとか、こいつは安心して使えるだろうかとか、まあそんな事ばかり考えているんだね。ああなると女に惚れられても、こりゃ自分に惚れたんだろうか、自分の持っている金に惚れたんだろうか、すぐそこを疑ぐらなくっちゃいられなくなるんです。美人でさえそうなんだから君見たいな野郎が窮屈な取扱を受けるのは当然だと思わなくっちゃいけない。そこが田口の田口たるところなんだから」
敬太郎はこの批評で田口という男が自分にも判切呑み込めたような気がした。けれどもこういう風に一々彼を肯わせるほどの判断を、彼の頭に鉄椎で叩き込むように入れてくれる松本はそもそも何者だろうか、その点になると敬太郎は依然として茫漠たる雲に対する思があった。批評に上らない前の田口でさえ、この男よりはかえって活きた人間らしい気がした。
同じ松本について見ても、この間の晩神田の洋食屋で、田口の娘を相手にして珊瑚樹の珠がどうしたとかこうしたとか云っていた時の方が、よっぽど活きて動いていた。今彼の前に坐っているのは、大きなパイプを銜えた木像の霊が、口を利くと同じような感じを敬太郎に与えるだけなので、彼はただその人の本体を髣髴するに苦しむに過ぎなかった。彼が一方では明瞭な松本の批評に心服しながら、一方では松本の何者なるかをこういう風に考えつつ、自分は頭脳の悪い、直覚の鈍い、世間並以下の人物じゃあるまいかと疑り始めた時、この漠然たる松本がまた口を開いた。
「それでも田口が箆棒をやってくれたため、君はかえって仕合をしたようなものですね」
「なぜですか」
「きっと何か位置を拵らえてくれますよ。これなりで放っておきゃ田口でも何でもありゃしない。それは責任を持って受合って上げても宜い。が、つまらないのは僕だ。全く探偵のされ損だから」
二人は顔を見合せて笑った。敬太郎が丸い更紗の座蒲団の上から立ち上がった時、主人はわざわざ玄関まで送って出た。そこに飾ってあった墨絵の鶴の衝立の前に、瘠せた高い身体をしばらく佇ずまして、靴を穿く敬太郎の後姿を眺めていたが、「妙な洋杖を持っていますね。ちょっと拝見」と云った。そうしてそれを敬太郎の手から受取って、「へえ、蛇の頭だね。なかなか旨く刻ってある。買ったんですか」と聞いた。「いえ素人が刻ったのを貰ったんです」と答えた敬太郎は、それを振りながらまた矢来の坂を江戸川の方へ下った。
雨の降る日
雨の降る日に面会を謝絶した松本の理由は、ついに当人の口から聞く機会を得ずに久しく過ぎた。敬太郎もそのうちに取り紛れて忘れてしまった。ふとそれを耳にしたのは、彼が田口の世話で、ある地位を得たのを縁故に、遠慮なく同家へ出入のできる身になってからの事である。その時分の彼の頭には、停留所の経験がすでに新らしい匂いを失いかけていた。彼は時々須永からその話を持ち出されては苦笑するに過ぎなかった。須永はよく彼に向って、なぜその前に僕の所へ来て打ち明けなかったのだと詰問した。内幸町の叔父が人を担ぐくらいの事は、母から聞いて知っているはずだのにと窘なめる事もあった。しまいには、君があんまり色気があり過ぎるからだと調戯い出した。敬太郎はそのたびに「馬鹿云え」で通していたが、心の内ではいつも、須永の門前で見た後姿の女を思い出した。その女がとりも直さず停留所の女であった事も思い出した。そうしてどこか遠くの方で気恥かしい心持がした。その女の名が千代子で、その妹の名が百代子である事も、今の敬太郎には珍らしい報知ではなかった。
彼が松本に会って、すべて内幕の消息を聞かされた後、田口へ顔を出すのは多少きまりの悪い思をするだけであったにかかわらず、顔を出さなければ締め括りがつかないという行きがかりから、笑われるのを覚悟の前で、また田口の門を潜った時、田口ははたして大きな声を出して笑った。けれどもその笑の中には己れの機略に誇る高慢の響よりも、迷った人を本来の路に返してやった喜びの勝利が聞こえているのだと敬太郎には解釈された。田口はその時訓戒のためだとか教育の方法だとかいった風の、恩に着せた言葉をいっさい使わなかった。ただ悪意でした訳でないから、怒ってはいけないと断わって、すぐその場で相当の位置を拵らえてくれる約束をした。それから手を鳴らして、停留所に松本を待ち合わせていた方の姉娘を呼んで、これが私の娘だとわざわざ紹介した。そうしてこの方は市さんの御友達だよと云って敬太郎を娘に教えていた。娘は何でこういう人に引き合されるのか、ちょっと解しかねた風をしながら、極めてよそよそしく叮嚀な挨拶をした。敬太郎が千代子という名を覚えたのはその時の事であった。
これが田口の家庭に接触した始めての機会になって、敬太郎はその後も用事なり訪問なりに縁を藉りて、同じ人の門を潜る事が多くなった。時々は玄関脇の書生部屋へ這入って、かつて電話で口を利き合った事のある書生と世間話さえした。奥へも無論通る必要が生じて来た。細君に呼ばれて内向の用を足す場合もあった。中学校へ行く長男から英語の質問を受けて窮する事も稀ではなかった。出入の度数がこう重なるにつれて、敬太郎が二人の娘に接近する機会も自然多くなって来たが、一種間の延びた彼の調子と、比較的引き締った田口の家風と、差向いで坐る時間の欠乏とが、容易に打ち解けがたい境遇に彼らを置き去りにした。彼らの間に取り換わされた言葉は、無論形式だけを重んずる堅苦しいものではなかったが、大抵は五分とかからない当用に過ぎないので、親しみはそれほど出る暇がなかった。彼らが公然と膝を突き合わせて、例になく長い時間を、遠慮の交らない談話に更かしたのは、正月半ばの歌留多会の折であった。その時敬太郎は千代子から、あなた随分鈍いのねと云われた。百代子からは、あたしあなたと組むのは厭よ、負けるにきまってるからと怒られた。
それからまた一カ月ほど経って、梅の音信の新聞に出る頃、敬太郎はある日曜の午後を、久しぶりに須永の二階で暮した時、偶然遊びに来ていた千代子に出逢った。三人してそれからそれへと纏まらない話を続けて行くうちに、ふと松本の評判が千代子の口に上った。
「あの叔父さんも随分変ってるのね。雨が降ると一しきりよく御客を断わった事があってよ。今でもそうかしら」
「実は僕も雨の降る日に行って断られた一人なんだが……」と敬太郎が云い出した時、須永と千代子は申し合せたように笑い出した。
「君も随分運の悪い男だね。おおかた例の洋杖を持って行かなかったんだろう」と須永は調戯い始めた。
「だって無理だわ、雨の降る日に洋杖なんか持って行けったって。ねえ田川さん」
この理攻めの弁護を聞いて、敬太郎も苦笑した。
「いったい田川さんの洋杖って、どんな洋杖なの。わたしちょっと見たいわ。見せてちょうだい、ね、田川さん。下へ行って見て来ても好くって」
「今日は持って来ません」
「なぜ持って来ないの。今日はあなたそれでも好い御天気よ」
「大事な洋杖だから、いくら好い御天気でも、ただの日には持って出ないんだとさ」
「本当?」
「まあそんなものです」
「じゃ旗日にだけ突いて出るの」
敬太郎は一人で二人に当っているのが少し苦しくなった。この次内幸町へ行く時は、きっと持って行って見せるという約束をしてようやく千代子の追窮を逃れた。その代り千代子からなぜ松本が雨の降る日に面会を謝絶したかの源因を話して貰う事にした。――
それは珍らしく秋の日の曇った十一月のある午過であった。千代子は松本の好きな雲丹を母からことづかって矢来へ持って来た。久しぶりに遊んで行こうかしらと云って、わざわざ乗って来た車まで返して、緩くり腰を落ちつけた。松本には十三になる女を頭に、男、女、男と互違に順序よく四人の子が揃っていた。これらは皆二つ違いに生れて、いずれも世間並に成長しつつあった。家庭に華やかな匂を着けるこの生き生きした装飾物の外に、松本夫婦は取って二つになる宵子を、指環に嵌めた真珠のように大事に抱いて離さなかった。彼女は真珠のように透明な青白い皮膚と、漆のように濃い大きな眼を有って、前の年の雛の節句の前の宵に松本夫婦の手に落ちたのである。千代子は五人のうちで、一番この子を可愛がっていた。来るたんびにきっと何か玩具を買って来てやった。ある時は余り多量に甘いものをあてがって叔母から怒られた事さえある。すると千代子は、大事そうに宵子を抱いて縁側へ出て、ねえ宵子さんと云っては、わざと二人の親しい様子を叔母に見せた。叔母は笑いながら、何だね喧嘩でもしやしまいしと云った。松本は、御前そんなにその子が好きなら御祝いの代りに上げるから、嫁に行くとき持っておいでと調戯った。
その日も千代子は坐ると直宵子を相手にして遊び始めた。宵子は生れてからついぞ月代を剃った事がないので、頭の毛が非常に細く柔かに延びていた。そうして皮膚の青白いせいか、その髪の色が日光に照らされると、潤沢の多い紫を含んでぴかぴか縮れ上っていた。「宵子さんかんかん結って上げましょう」と云って、千代子は鄭寧にその縮れ毛に櫛を入れた。それから乏しい片鬢を一束割いて、その根元に赤いリボンを括りつけた。宵子の頭は御供のように平らに丸く開いていた。彼女は短かい手をやっとその御供の片隅へ乗せて、リボンの端を抑えながら、母のいる所までよたよた歩いて来て、イボンイボンと云った。母がああ好くかんかんが結えましたねと賞めると、千代子は嬉しそうに笑いながら、子供の後姿を眺めて、今度は御父さんの所へ行って見せていらっしゃいと指図した。宵子はまた足元の危ない歩きつきをして、松本の書斎の入口まで来て、四つ這になった。彼女が父に礼をするときには必ず四つ這になるのが例であった。彼女はそこで自分の尻をできるだけ高く上げて、御供のような頭を敷居から二三寸の所まで下げて、またイボンイボンと云った。書見をちょっとやめた松本が、ああ好い頭だね、誰に結って貰ったのと聞くと、宵子は頸を下げたまま、ちいちいと答えた。ちいちいと云うのは、舌の廻らない彼女の千代子を呼ぶ常の符徴であった。後に立って見ていた千代子は小さい唇から出る自分の名前を聞いて、また嬉しそうに大きな声で笑った。
そのうち子供がみんな学校から帰って来たので、今まで赤いリボンに占領されていた家庭が、急に幾色かの華やかさを加えた。幼稚園へ行く七つになる男の子が、巴の紋のついた陣太鼓のようなものを持って来て、宵子さん叩かして上げるからおいでと連れて行った。その時千代子は巾着のような恰好をした赤い毛織の足袋が廊下を動いて行く影を見つめていた。その足袋の紐の先には丸い房がついていて、それが小いさな足を運ぶたびにぱっぱっと飛んだ。
「あの足袋はたしか御前が編んでやったのだったね」
「ええ可愛らしいわね」
千代子はそこへ坐って、しばらく叔父と話していた。そのうちに曇った空から淋しい雨が落ち出したと思うと、それが見る見る音を立てて、空坊主になった梧桐をしたたか濡らし始めた。松本も千代子も申し合せたように、硝子越の雨の色を眺めて、手焙に手を翳した。
「芭蕉があるもんだから余計音がするのね」
「芭蕉はよく持つものだよ。この間から今日は枯れるか、今日は枯れるかと思って、毎日こうして見ているがなかなか枯れない。山茶花が散って、青桐が裸になっても、まだ青いんだからなあ」
「妙な事に感心するのね。だから恒三は閑人だって云われるのよ」
「その代り御前の叔父さんには芭蕉の研究なんか死ぬまでできっこない」
「したかないわ、そんな研究なんか。だけど叔父さんは内の御父さんよりか全く学者ね。わたし本当に敬服しててよ」
「生意気云うな」
「あら本当よあなた。だって何を聞いても知ってるんですもの」
二人がこんな話をしていると、ただいまこの方が御見えになりましたと云って、下女が一通の紹介状のようなものを持って来て松本に渡した。松本は「千代子待っておいで。今にまた面白い事を教えてやるから」と笑いながら立ち上った。
「厭よまたこないだみたいに、西洋煙草の名なんかたくさん覚えさせちゃ」
松本は何にも答えずに客間の方へ出て行った。千代子も茶の間へ取って返した。そこには雨に降り込められた空の光を補なうため、もう電気灯が点っていた。台所ではすでに夕飯の支度を始めたと見えて、瓦斯七輪が二つとも忙がしく青い燄を吐いていた。やがて小供は大きな食卓に二人ずつ向い合せに坐った。宵子だけは別に下女がついて食事をするのが例になっているので、この晩は千代子がその役を引受けた。彼女は小さい朱塗の椀と小皿に盛った魚肉とを盆の上に載せて、横手にある六畳へ宵子を連れ込んだ。そこは家のものの着更をするために多く用いられる室なので、箪笥が二つと姿見が一つ、壁から飛び出したように据えてあった。千代子はその姿見の前に玩具のような椀と茶碗を載せた盆を置いた。
「さあ宵子さん、まんまよ。御待遠さま」
千代子が粥を一匙ずつ掬って口へ入れてやるたびに、宵子は旨しい旨しいだの、ちょうだいちょうだいだのいろいろな芸を強いられた。しまいに自分一人で食べると云って、千代子の手から匙を受け取った時、彼女はまた丹念に匙の持ち方を教えた。宵子は固より極めて短かい単語よりほかに発音できなかった。そう持つのではないと叱られると、きっと御供のような平たい頭を傾げて、こう? こう? と聞き直した。それを千代子が面白がって、何遍もくり返さしているうちに、いつもの通りこう? と半分言いかけて、心持横にした大きな眼で千代子を見上げた時、突然右の手に持った匙を放り出して、千代子の膝の前に俯伏になった。
「どうしたの」
千代子は何の気もつかずに宵子を抱き起した。するとまるで眠った子を抱えたように、ただ手応がぐたりとしただけなので、千代子は急に大きな声を出して、宵子さん宵子さんと呼んだ。
宵子はうとうと寝入った人のように眼を半分閉じて口を半分開けたまま千代子の膝の上に支えられた。千代子は平手でその背中を二三度叩いたが、何の効目もなかった。
「叔母さん、大変だから来て下さい」
母は驚ろいて箸と茶碗を放り出したなり、足音を立てて這入って来た。どうしたのと云いながら、電灯の真下で顔を仰向にして見ると、唇にもう薄く紫の色が注していた。口へ掌を当てがっても、呼息の通う音はしなかった。母は呼吸の塞ったような苦しい声を出して、下女に濡手拭を持って来さした。それを宵子の額に載せた時、「脈はあって」と千代子に聞いた。千代子はすぐ小さい手頸を握ったが脈はどこにあるかまるで分らなかった。
「叔母さんどうしたら好いでしょう」と蒼い顔をして泣き出した。母は茫然とそこに立って見ている小供に、「早く御父さんを呼んでいらっしゃい」と命じた。小供は四人とも客間の方へ馳け出した。その足音が廊下の端で止まったと思うと、松本が不思議そうな顔をして出て来た。「どうした」と云いながら、蔽い被さるように細君と千代子の上から宵子を覗き込んだが、一目見ると急に眉を寄せた。
「医者は……」
医者は時を移さず来た。「少し模様が変です」と云ってすぐ注射をした。しかし何の効能もなかった。「駄目でしょうか」という苦しく張りつめた問が、固く結ばれた主人の唇を洩れた。そうして絶望を怖れる怪しい光に充ちた三人の眼が一度に医者の上に据えられた。鏡を出して瞳孔を眺めていた医者は、この時宵子の裾を捲って肛門を見た。
「これでは仕方がありません。瞳孔も肛門も開いてしまっていますから。どうも御気の毒です」
医者はこう云ったがまた一筒の注射を心臓部に試みた。固よりそれは何の手段にもならなかった。松本は透き徹るような娘の肌に針の突き刺される時、自から眉間を険しくした。千代子は涙をぽろぽろ膝の上に落した。
「病因は何でしょう」
「どうも不思議です。ただ不思議というよりほかに云いようがないようです。どう考えても……」と医者は首を傾むけた。「辛子湯でも使わして見たらどうですか」と松本は素人料簡で聞いた。「好いでしょう」と医者はすぐ答えたが、その顔には毫も奨励の色が出なかった。
やがて熱い湯を盥へ汲んで、湯気の濛々と立つ真中へ辛子を一袋空けた。母と千代子は黙って宵子の着物を取り除けた。医者は熱湯の中へ手を入れて、「もう少し注水ましょう。余り熱いと火傷でもなさるといけませんから」と注意した。
医者の手に抱き取られた宵子は、湯の中に五六分浸けられていた。三人は息を殺して柔らかい皮膚の色を見つめていた。「もう好いでしょう。余まり長くなると……」と云いながら、医者は宵子を盥から出した。母はすぐ受取ってタオルで鄭寧に拭いて元の着物を着せてやったが、ぐたぐたになった宵子の様子に、ちっとも前と変りがないので、「少しの間このまま寝かしておいてやりましょう」と恨めしそうに松本の顔を見た。松本はそれがよかろうと答えたまま、また座敷の方へ取って返して、来客を玄関に送り出した。
小さい蒲団と小さい枕がやがて宵子のために戸棚から取り出された。その上に常の夜の安らかな眠に落ちたとしか思えない宵子の姿を眺めた千代子は、わっと云って突伏した。
「叔母さんとんだ事をしました……」
「何も千代ちゃんがした訳じゃないんだから……」
「でもあたしが御飯を喫べさしていたんですから……叔父さんにも叔母さんにもまことにすみません」
千代子は途切れ途切れの言葉で、先刻自分が夕飯の世話をしていた時の、平生と異ならない元気な様子を、何遍もくり返して聞かした。松本は腕組をして、「どうもやっぱり不思議だよ」と云ったが、「おい御仙、ここへ寝かしておくのは可哀そうだから、あっちの座敷へ連れて行ってやろう」と細君を促がした。千代子も手を貸した。
手頃な屏風がないので、ただ都合の好い位置を択って、何の囲いもない所へ、そっと北枕に寝かした。今朝方玩弄にしていた風船玉を茶の間から持って来て、御仙がその枕元に置いてやった。顔へは白い晒し木綿をかけた。千代子は時々それを取り除けて見ては泣いた。「ちょっとあなた」と御仙が松本を顧みて、「まるで観音様のように可愛い顔をしています」と鼻を詰らせた。松本は「そうか」と云って、自分の坐っている席から宵子の顔を覗き込んだ。
やがて白木の机の上に、櫁と線香立と白団子が並べられて、蝋燭の灯が弱い光を放った時、三人は始めて眠から覚めない宵子と自分達が遠く離れてしまったという心細い感じに打たれた。彼らは代る代る線香を上げた。その煙の香が、二時間前とは全く違う世界に誘ない込まれた彼らの鼻を断えず刺戟した。ほかの子供は平生の通り早く寝かされた後に、咲子という十三になる長女だけが起きて線香の側を離れなかった。
「御前も御寝よ」
「まだ内幸町からも神田からも誰も来ないのね」
「もう来るだろう。好いから早く御寝」
咲子は立って廊下へ出たが、そこで振り回って、千代子を招いた。千代子が同じく立って廊下へ出ると、小さな声で、怖いからいっしょに便所へ行ってくれろと頼んだ。便所には電灯が点けてなかった。千代子は燐寸を擦って雪洞に灯を移して、咲子といっしょに廊下を曲った。帰りに下女部屋を覗いて見ると、飯焚が出入の車夫と火鉢を挟んでひそひそ何か話していた。千代子にはそれが宵子の不幸を細かに語っているらしく思われた。ほかの下女は茶の間で来客の用意に盆を拭いたり茶碗を並べたりしていた。
通知を受けた親類のものがそのうち二三人寄った。いずれまた来るからと云って帰ったのもあった。千代子は来る人ごとに宵子の突然な最後をくり返しくり返し語った。十二時過から御仙は通夜をする人のために、わざと置火燵を拵らえて室に入れたが、誰もあたるものはなかった。主人夫婦は無理に勧められて寝室へ退ぞいた。その後で千代子は幾度か短かくなった線香の煙を新らしく継いだ。雨はまだ降りやまなかった。夕方芭蕉に落ちた響はもう聞こえない代りに、亜鉛葺の廂にあたる音が、非常に淋しくて悲しい点滴を彼女の耳に絶えず送った。彼女はこの雨の中で、時々宵子の顔に当てた晒を取っては啜泣をしているうちに夜が明けた。
その日は女がみんなして宵子の経帷子を縫った。百代子が新たに内幸町から来たのと、ほかに懇意の家の細君が二人ほど見えたので、小さい袖や裾が、方々の手に渡った。千代子は半紙と筆と硯とを持って廻って、南無阿弥陀仏という六字を誰にも一枚ずつ書かした。「市さんも書いて上げて下さい」と云って、須永の前へ来た。「どうするんだい」と聞いた須永は、不思議そうに筆と紙を受取った。
「細かい字で書けるだけ一面に書いて下さい。後から六字ずつを短冊形に剪って棺の中へ散らしにして入れるんですから」
皆な畏こまって六字の名号を認ためた。咲子は見ちゃ厭よと云いながら袖屏風をして曲りくねった字を書いた。十一になる男の子は僕は仮名で書くよと断わって、ナムアミダブツと電報のようにいくつも並べた。午過になっていよいよ棺に入れるとき松本は千代子に「御前着物を着換さしておやりな」と云った。千代子は泣きながら返事もせずに、冷たい宵子を裸にして抱き起した。その背中には紫色の斑点が一面に出ていた。着換が済むと御仙が小さい珠数を手にかけてやった。同じく小さい編笠と藁草履を棺に入れた。昨日の夕方まで穿いていた赤い毛糸の足袋も入れた。その紐の先につけた丸い珠のぶらぶら動く姿がすぐ千代子の眼に浮んだ。みんなのくれた玩具も足や頭の所へ押し込んだ。最後に南無阿弥陀仏の短冊を雪のように振りかけた上へ葢をして、白綸子の被をした。
友引は善くないという御仙の説で、葬式を一日延ばしたため、家の中は陰気な空気の裡に常よりは賑わった。七つになる嘉吉という男の子が、いつもの陣太鼓を叩いて叱られた後、そっと千代子の傍へ来て、宵子さんはもう帰って来ないのと聞いた。須永が笑いながら、明日は嘉吉さんも焼場へ持って行って、宵子さんといっしょに焼いてしまうつもりだと調戯うと、嘉吉はそんなつもりなんか僕厭だぜと云いながら、大きな眼をくるくるさせて須永を見た。咲子は、御母さんわたしも明日御葬式に行きたいわと御仙にせびった。あたしもねと九つになる重子が頼んだ。御仙はようやく気がついたように、奥で田口夫婦と話をしていた夫を呼んで、「あなた、明日いらしって」と聞いた。
「行くよ。御前も行ってやるが好い」
「ええ、行く事にきめてます。小供には何を着せたらいいでしょう」
「紋付でいいじゃないか」
「でも余まり模様が派手だから」
「袴を穿けばいいよ。男の子は海軍服でたくさんだし。御前は黒紋付だろう。黒い帯は持ってるかい」
「持ってます」
「千代子、御前も持ってるなら喪服を着て供に立っておやり」
こんな世話を焼いた後で、松本はまた奥へ引返した。千代子もまた線香を上げに立った。棺の上を見ると、いつの間にか綺麗な花環が載せてあった。「いつ来たの」と傍にいる妹の百代に聞いた。百代は小さな声で「先刻」と答えたが、「叔母さんが小供のだから、白い花だけでは淋しいって、わざと赤いのを交ぜさしたんですって」と説明した。姉と妹はしばらくそこに並んで坐っていた。十分ばかりすると、千代子は百代の耳に口を付けて、「百代さんあなた宵子さんの死顔を見て」と聞いた。百代は「ええ」と首肯ずいた。
「いつ」
「ほら先刻御棺に入れる時見たんじゃないの。なぜ」
千代子はそれを忘れていた。妹がもし見ないと云ったら、二人で棺の葢をもう一遍開けようと思ったのである。「御止しなさいよ、怖いから」と云って百代は首をふった。
晩には通夜僧が来て御経を上げた。千代子が傍で聞いていると、松本は坊さんを捕まえて、三部経がどうだの、和讃がどうだのという変な話をしていた。その会話の中には親鸞上人と蓮如上人という名がたびたび出て来た。十時少し廻った頃、松本は菓子と御布施を僧の前に並べて、もう宜しいから御引取下さいと断わった。坊さんの帰った後で御仙がその理由を聞くと、「何坊さんも早く寝た方が勝手だあね。宵子だって御経なんか聴くのは嫌だよ」とすましていた。千代子と百代子は顔を見合せて微笑した。
あくる日は風のない明らかな空の下に、小いさな棺が静かに動いた。路端の人はそれを何か不可思議のものでもあるかのように目送した。松本は白張の提灯や白木の輿が嫌だと云って、宵子の棺を喪車に入れたのである。その喪車の周囲に垂れた黒い幕が揺れるたびに、白綸子の覆をした小さな棺の上に飾った花環がちらちら見えた。そこいらに遊んでいた子供が駆け寄って来て、珍らしそうに車を覗き込んだ。車と行き逢った時、脱帽して過ぎた人もあった。
寺では読経も焼香も形式通り済んだ。千代子は広い本堂に坐っている間、不思議に涙も何も出なかった。叔父叔母の顔を見てもこれといって憂に鎖された様子は見えなかった。焼香の時、重子が香をつまんで香炉の裏へ燻るのを間違えて、灰を一撮み取って、抹香の中へ打ち込んだ折には、おかしくなって吹き出したくらいである。式が果ててから松本と須永と別に一二人棺につき添って火葬場へ廻ったので、千代子はほかのものといっしょにまた矢来へ帰って来た。車の上で、切なさの少し減った今よりも、苦しいくらい悲しかった昨日一昨日の気分の方が、清くて美くしい物を多量に含んでいたらしく考えて、その時味わった痛烈な悲哀をかえって恋しく思った。
骨上には御仙と須永と千代子とそれに平生宵子の守をしていた清という下女がついて都合四人で行った。柏木の停車場を下りると二丁ぐらいな所を、つい気がつかずに宅から車に乗って出たので時間はかえって長くかかった。火葬場の経験は千代子に取って生れて始めてであった。久しく見ずにいた郊外の景色も忘れ物を思い出したように嬉しかった。眼に入るものは青い麦畠と青い大根畠と常磐木の中に赤や黄や褐色を雑多に交ぜた森の色であった。前へ行く須永は時々後を振り返って、穴八幡だの諏訪の森だのを千代子に教えた。車が暗いだらだら坂へ来た時、彼はまた小高い杉の木立の中にある細長い塔を千代子のために指した。それには弘法大師千五十年供養塔と刻んであった。その下に熊笹の生い茂った吹井戸を控えて、一軒の茶見世が橋の袂をさも田舎路らしく見せていた。折々坊主になりかけた高い樹の枝の上から、色の変った小さい葉が一つずつ落ちて来た。それが空中で非常に早くきりきり舞う姿が鮮やかに千代子の眼を刺戟した。それが容易に地面の上へ落ちずに、いつまでも途中でひらひらするのも、彼女には眼新らしい現象であった。
火葬場は日当りの好い平地に南を受けて建てられているので、車を門内に引き入れた時、思ったより陽気な影が千代子の胸に射した。御仙が事務所の前で、松本ですがと云うと、郵便局の受付口みたような窓の中に坐っていた男が、鍵は御持ちでしょうねと聞いた。御仙は変な顔をして急に懐や帯の間を探り出した。
「とんだ事をしたよ。鍵を茶の間の用箪笥の上へ置いたなり……」
「持って来なかったの。じゃ困るわね。まだ時間があるから急いで市さんに取って来て貰うと好いわ」
二人の問答を後の方で冷淡に聞いていた須永は、鍵なら僕が持って来ているよと云って、冷たい重いものを袂から出して叔母に渡した。御仙がそれを受付口へ見せている間に、千代子は須永を窘なめた。
「市さん、あなた本当に悪らしい方ね。持ってるなら早く出して上げればいいのに。叔母さんは宵子さんの事で、頭がぼんやりしているから忘れるんじゃありませんか」
須永はただ微笑して立っていた。
「あなたのような不人情な人はこんな時にはいっそ来ない方がいいわ。宵子さんが死んだって、涙一つ零すじゃなし」
「不人情なんじゃない。まだ子供を持った事がないから、親子の情愛がよく解らないんだよ」
「まあ。よく叔母さんの前でそんな呑気な事が云えるのね。じゃあたしなんかどうしたの。いつ子供持った覚があって」
「あるかどうか僕は知らない。けれども千代ちゃんは女だから、おおかた男より美くしい心を持ってるんだろう」
御仙は二人の口論を聞かない人のように、用事を済ますとすぐ待合所の方へ歩いて行った。そこへ腰をかけてから、立っている千代子を手招きした。千代子はすぐ叔母の傍へ来て座に着いた。須永も続いて這入って来た。そうして二人の向側にある涼み台みたようなものの上に腰をかけた。清もおかけと云って自分の席を割いてやった。
四人が茶を呑んで待ち合わしている間に、骨上の連中が二三組見えた。最初のは田舎染みた御婆さんだけで、これは御仙と千代子の服装に対して遠慮でもしたらしく口数を多く利かなかった。次には尻を絡げた親子連が来た。活溌な声で、壺を下さいと云って、一番安いのを十六銭で買って行った。三番目には散髪に角帯を締めた男とも女とも片のつかない盲者が、紫の袴を穿いた女の子に手を引かれてやって来た。そうしてまだ時間はあるだろうねと念を押して、袂から出した巻煙草を吸い始めた。須永はこの盲者の顔を見ると立ち上ってぷいと表へ出たぎりなかなか返って来なかった。ところへ事務所のものが御仙の傍へ来て、用意が出来ましたからどうぞと促がしたので、千代子は須永を呼びに裏手へ出た。
真鍮の掛札に何々殿と書いた並等の竈を、薄気味悪く左右に見て裏へ抜けると、広い空地の隅に松薪が山のように積んであった。周囲には綺麗な孟宗藪が蒼々と茂っていた。その下が麦畠で、麦畠の向うがまた岡続きに高く蜿蜒しているので、北側の眺めはことに晴々しかった。須永はこの空地の端に立って広い眼界をぼんやり見渡していた。
「市さん、もう用意ができたんですって」
須永は千代子の声を聞いて黙ったまま帰って来たが、「あの竹藪は大変みごとだね。何だか死人の膏が肥料になって、ああ生々延びるような気がするじゃないか。ここにできる筍はきっと旨いよ」と云った。千代子は「おお厭だ」と云い放にして、さっさとまた並等を通り抜けた。宵子の竈は上等の一号というので、扉の上に紫の幕が張ってあった。その前に昨日の花環が少し凋みかけて、台の上に静かに横たわっていた。それが昨夜宵子の肉を焼いた熱気の記念のように思われるので、千代子は急に息苦しくなった。御坊が三人出て来た。そのうちの一番年を取ったのが「御封印を……」と云うので、須永は「よし、構わないから開けてくれ」と頼んだ。畏まった御坊は自分の手で封印を切って、かちゃりと響く音をさせながら錠を抜いた。黒い鉄の扉が左右へ開くと、薄暗い奥の方に、灰色の丸いものだの、黒いものだの、白いものだのが、形を成さない一塊となって朧気に見えた。御坊は「今出しましょう」と断って、レールを二本前の方に継ぎ足しておいて、鉄の環に似たものを二つ棺台の端にかけたかと思うと、いきなりがらがらという音と共に、かの形を成さない一塊の焼残が四人の立っている鼻の下へ出て来た。千代子はそのなかで、例の御供に似てふっくらと膨らんだ宵子の頭蓋骨が、生きていた時そのままの姿で残っているのを認めて急に手帛を口に銜えた。御坊はこの頭蓋骨と頬骨と外に二つ三つの大きな骨を残して、「あとは綺麗に篩って持って参りましょう」と云った。
四人は各自木箸と竹箸を一本ずつ持って、台の上の白骨を思い思いに拾っては、白い壺の中へ入れた。そうして誘い合せたように泣いた。ただ須永だけは蒼白い顔をして口も利かず鼻も鳴らさなかった。「歯は別になさいますか」と聞きながら、御坊が小器用に歯を拾い分けてくれた時、顎をくしゃくしゃと潰してその中から二三枚択り出したのを見た須永は、「こうなるとまるで人間のような気がしないな。砂の中から小石を拾い出すと同じ事だ」と独言のように云った。下女が三和土の上にぽたぽたと涙を落した。御仙と千代子は箸を置いて手帛を顔へ当てた。
車に乗るとき千代子は杉の箱に入れた白い壺を抱いてそれを膝の上に載せた。車が馳け出すと冷たい風が膝掛と杉箱の間から吹き込んだ。高い欅が白茶けた幹を路の左右に並べて、彼らを送り迎えるごとくに細い枝を揺り動かした。その細い枝が遥か頭の上で交叉するほど繁く両側から出ているのに、自分の通る所は存外明るいのを奇妙に思って、千代子は折々頭を上げては、遠い空を眺めた。宅へ着いて遺骨を仏壇の前に置いた時、すぐ寄って来た小供が、葢を開けて見せてくれというのを彼女は断然拒絶した。
やがて家内中同じ室で昼飯の膳に向った。「こうして見ると、まだ子供がたくさんいるようだが、これで一人もう欠けたんだね」と須永が云い出した。
「生きてる内はそれほどにも思わないが、逝かれて見ると一番惜しいようだね。ここにいる連中のうちで誰か代りになればいいと思うくらいだ」と松本が云った。
「非道いわね」と重子が咲子に耳語いた。
「叔母さんまた奮発して、宵子さんと瓜二つのような子を拵えてちょうだい。可愛がって上げるから」
「宵子と同じ子じゃいけないでしょう、宵子でなくっちゃ。御茶碗や帽子と違って代りができたって、亡くしたのを忘れる訳にゃ行かないんだから」
「己は雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男が厭になった」
須永の話
敬太郎は須永の門前で後姿の女を見て以来、この二人を結びつける縁の糸を常に想像した。その糸には一種夢のような匂があるので、二人を眼の前に、須永としまた千代子として眺める時には、かえってどこかへ消えてしまう事が多かった。けれども彼らが普通の人間として敬太郎の肉眼に現実の刺戟を与えない折々には、失なわれた糸がまた二人の中を離すべからざる因果のごとくに繋いだ。田口の家へ出入するようになってからも、須永と千代子の関係については、一口でさえ誰からも聞いた事はなし、また二人の様子を直に観察しても尋常の従兄弟以上に何物も仄めいていなかったには違ないが、こういう当初からの聯想に支配されて、彼の頭のどこかに、二人を常に一対の男女として認める傾きを有っていた。女の連添わない若い男や、男の手を組まない若い女は、要するに敬太郎から見れば自然を損なった片輪に過ぎないので、彼が自分の知る彼らを頭のうちでかように組み合わせたのは、まだ片輪の境遇にまごついている二人に、自然が生みつけた通りの資格を早く与えてやりたいという道義心の要求から起ったのかも知れなかった。
それはこむずかしい理窟だから、たといどんな要求から起ろうと敬太郎のために弁ずる必要はないが、この頃になって偶然千代子の結婚談を耳にした彼が、頭の中の世界と、頭の外にある社会との矛盾に、ちょっと首を捻ったのは事実に相違なかった。彼はその話を書生の佐伯から聞いたのである。もっとも佐伯のようなものが、まだ事の纏まらない先から、奥の委しい話を知ろうはずがなかった。彼はただ漠然とした顔の筋肉をいつもより緊張させて、何でもそんな評判ですと云うだけであった。千代子を貰う人の名前も無論分らなかったが、身分の実業家である事はたしかに思われた。
「千代子さんは須永君の所へ行くのだとばかり思っていたが、そうじゃないのかね」
「そうも行かないでしょう」
「なぜ」
「なぜって聞かれると、僕にも明瞭な答はでき悪いんですが、ちょっと考えて見てもむずかしそうですね」
「そうかね、僕はまたちょうど好い夫婦だと思ってるがね。親類じゃあるし、年だって五つ六つ違ならおかしかなしさ」
「知らない人から見るとちょっとそう見えるでしょうがね。裏面にはいろいろ複雑な事情もあるようですから」
敬太郎は佐伯の云わゆる「複雑な事情」なるものを根掘り葉掘り聞きたくなったが、何だか自分を門外漢扱いにするような彼の言葉が癪に障るのと、たかが玄関番の書生から家庭の内幕を聞き出したと云われては自分の品格にかかわるのと、最後には、口ほど詳しい事情を佐伯が知っている気遣がないのとで、それぎりその話はやめにした。そのおりついでながら奥へ行って細君に挨拶をしてしばらく話したが、別に平生と何の変る様子もないので、おめでとうございますと云う勇気も出なかった。
これは敬太郎が須永の宅で矢来の叔父さんの家にあった不幸を千代子から聞いたつい二三日前の事であった。その日彼が久しぶりに須永を訪問したのも、実はその結婚問題について須永の考えを確かめるつもりであった。須永がどこの何人と結婚しようと、千代子がどこの何人に片づこうと、それは敬太郎の関係するところではなかったが、この二人の運命が、それほど容易く右左へ未練なく離れ離れになり得るものか、または自分の想像した通り幻しに似た糸のようなものが、二人にも見えない縁となって、彼らを冥々のうちに繋ぎ合せているものか。それともこの夢で織った帯とでも形容して然るべきちらちらするものが、ある時は二人の眼に明らかに見え、ある時は全たく切れて、彼らをばらばらに孤立させるものか、――そこいらが敬太郎には知りたかったのである。固よりそれは単なる物数奇に過ぎなかった。彼は明らかにそうだと自覚していた。けれども須永に対してなら、この物数奇を満足させても無礼に当らない事も自覚していた。そればかりかこの物数奇を満足させる権利があるとまで信じていた。
その日は生憎千代子に妨たげられた上、しまいには須永の母さえ出て来たので、だいぶ長く坐っていたにもかかわらず、立ち入った話はいっさい持ち出す機会がなかった。ただ敬太郎は偶然にも自分の前に並んだ三人が、ありのままの今の姿で、現に似合わしい夫婦と