弘長記
一亀山院の御宇弘長元年六月に三浦若狭前司泰村か弟律師良賢は泰村滅亡ののち豆州御山にしのひて春秋を送り一属譜代の郎従等かすゑ〳〵こゝかしこにありけるをたつね求め聞出し密にかたらひあつめて鎌倉に入て失火をはなちつまり〳〵にて相州一家をほろほすへき反逆の計策をめくらしける
三浦若狭前司泰村は駿河守義村か嫡子にて累代の大名也右(左カ)京大夫泰村(時カ)の聟にして一家の門葉なるによつて国家の政務を相談せらる泰村舎弟光村家村以下の一族前将軍頼経公をしたひまいらせ左近大夫時頼に野心をさしはさむ事いさゝか露顕に及ふといへとも時頼泰村か野心を宥め世をしつめんため先泰村か次男駒石石丸を時頼の養子たるへきむね約諾ありされとも泰村ます〳〵独歩の威をたかうし将軍家の厳命を用ひす無礼にして奢侈日々に長し其後時頼をうたんと議しける事度々におよふの間宝治元年六月五日三浦の一家悉く誅せらると云々
斯て良賢か方人に日向七郎といふもの鎌倉に居住しけるか何とやらん平生の形気とちかひたる色を妾女かしこくてこれをみとかめいかなる事そとうかかふところに腹巻を本マヽ洞矢 の根をとくしかるへからさる用意とおもひひそかにこれを問七郎云汝をろか也兵仗の家に生るゝものはかゝる事におこたれる耻なりと云女云尤左あるへきなからあはたゝしき支度おほつかなしわれ女の身なりといへとも年比のなさけあさからすいのちを君にさゝく露はかりあらさせ給へ若反逆の事あらは是非おほしめしとゝまり給へといひけれは七郎おもはくはやくもさとられけり此女は青砥左衛門か内に所縁あれはもし女なれはつけしみする事もやあらんと思ひかれをさしころす此事青砥左衛門尉藤綱か方へもれ聞え則かの七郎をとらへて是を敖問す終に良賢か反逆を白状す依之いそきかの徒党を探出すへき由にて鎌倉中騒動不斜則良賢并同類与党生捕て首を刎由比の浜にかけらるそのゝち藤綱申さく謀反人の党類は根を切葉をからすへきものなるに御政道大やうなるによつて如此凡当時仏者のいへらくあたを恩にて報すと是政道のさまたけ真仏をしらさる故なりそれ天地の道は誠なり人は天地に則而人誠あらされは人の道にあらす所謂誠は二心なきの称也恩をもつてあたにむくひんと欲するものは二心なり古聖はあたに徳をもつてむくふとこそのたまへ抑徳といふは人々固有の本分にして自己の真仏なり不習して不利といふ事なし仁義礼智これよりいて喜怒哀楽よつてなるとかあるものをはにくみ義あるものをはよみんす是二心なくをのつからしかるゆへん也いかんそ恩を以あたにむくひんやと云々をの〳〵信服す
青砥左衛門尉藤綱其先をたつぬるに伊豆の国の住人大場十郎近郷去承久の兵乱の時宇治の手にむかつて抜群のほまれを揚其勲功他にことなりとて上総国青砥の荘を給り爾より相続して青砥左衛門藤綱に至る藤綱は妾の腹に生れてことに末子なりけれは然るへき所領もなし出家になれとて十一歳にて真言師に付て弟子となす幼き時より利根人【 NDLJP:348】にこえ学問を勤けるに一を聞て十を知いかなる所存にや二十一歳のとき還俗して青砥三郎藤綱とそ名乗けるそのゝち行印法師とてやんことなき儒仏兼学の沙門に随て累年これを勤生年二十八歳の時二階堂信濃入道口入として相模守時頼公に奉公す其身政道の器量たるによつて評定の末座につらなる終に評定衆の頭と成て天下の事大小となく口入して富て修らす威有て猛からす遊楽を好ます身のためには財宝みたりにちらさす数十ヶ所の所領を知行せしかは財宝豊なれとも衣裳には細布のひたゝれ布の大口朝夕の饌部にはほしたるうを焼しほより外はなし出仕の時は木鞘巻の刀をさし叙爵のゝちは木太刀に弦袋をつけ我身には少の
一正五位下行相模守平朝臣時頼入道諸国巡行は文応より弘長にいたる此間三年青砥左衛門藤綱か異見によると云々
時頼入道は天下政理(道カ)の正しからん事をおもひ四海太平の世を守りて仁を専らとし徳をおさめ給ふといへとも時すてに澆薄にくたり人また邪智のさかんなるゆへにや諸国の道義次第にすたれて非法非礼のみ行はれ正道正理はうつもれゆきしかは罰をうくるものは日を逐ておほくいましめをかうふるものは月にゑたかひてすくなからす奉行頭人といはるゝ人々も不孝不慈にして廉直ならすこれによつて職をあらため所領を放たるゝともからこれ更にたゆる事なし時頼入道朝夕これをなけき給ひ藤綱をめしてひそかに仰けるは汝は誠に学道を勤て仁義を治め廉恥を行ひ奉公に私なく行跡に非なしとみるゆへに他人にはかはりて貴き人とおほゆる也然るに時頼は今これ天下の執権として理民の政道をおもくし賞罰をあきらかにして無欲を専とすといへとも無道の訴論は年をふるにしたかひていよ〳〵重なり月をつむにまかせてます〳〵しけし万民上下猛悪の盛なる事頗る防きかたし抑是我行跡に非ある故かみつからかへりみるにしりかたし汝しつかに見及ふ所あらはありのまゝに申てきけよ直に諫言とはなしに聖賢の示教なりとおもひ侍らんと宣へは藤綱かうへを地につけ涙を流して申けるは危弱のそれかしもとより短才の身にて候へは君に非法のおはしますへき事いかてか見とかめたてまつるへきしかれとも心に存する趣を仰をかうふりなからもたして申さゝらんはかへつて不忠のおそれのかれかたく候へは心に存する所を以言上すへきにて候この比諸方のあいたにをいて政法をかろしめ無道の行ひおほく候事はまつたく御行跡に奸曲ましますにもあらす政道にあやまりありともおほえす候但し上下のとをきによつての御事にこそ国家に不孝無道のものかすをしらす訴論これよりおほく出来候とみえて候その中に訴論をかまへ内縁をもつて奉行頭人にうかゝへは非なるは罪科のかるへからすとて下にて某あつかひ侍らんとて理非のうつたへを上に通せすをして中分に決せらる理あるは半分のまけとなり非あるは大【 NDLJP:349】に勝おろかなるはこれ国法かとおもひ智あるはなけきさてやみ候これより遠境の守護目代等みな此かくにならひて非道をおこなひ百姓を責虐し押領重欲をもつはらとす天下かまひすしく相唱といへともさらにもつてしろしめさすこれより上下のとをくましますゆへにて候凡かちよりゆくものは一日に百里を過て行程とす堂上に有て一日にして聞しめさゝるは百里の情にとをさかり堂下に事有て一月に及ひて聞しめさゝるは千里の情にとをさかり門庭に事有て一年まてきこしめさすは万里の情にとをさかると申ものにて候奉行頭人私欲をかまへ君の耳目をおほひふさき下の情上に達せされはこのみたちにおはしましなから千万里をとをさかり給ふ毎事かくのことくならは国民たかひにうらみをふくみてその罪かならす一人に帰しはひこりて終に天下のみたれとなるへく候又当時鎌倉中に儒学さかんにはやり聖賢の経書とりあつかひ講読のせきをひらく事のきをならへてきこえ候かの学者の振舞さらに古聖のおきてをまもらす侫奸重欲なる事殆無学の人にまされり毀誉偏執を旨とし他の善をおほひねたみ悪をあらはしてすくふ事なしいはんや仏法はこれ王法の外護として国家平治のたすけとす道行殊勝の上人有て四海安穏のいのりをいたし生死出離の教をひろむるは仏法の正理なり然るを今鎌倉諸寺の僧法師といはるゝもの多は空見に落て仏祖の教にたかひ無智にして住持職をうけ僧綱高くすゝみ貧欲ふかく檀那をへつらひ何の用ともなき器物をたくはへ茶の湯遊興に遊(施カ)物をつゐやし濫行を恣にすまたその中に学智行徳の僧あるをはねたみにくむ事老鼠をみるかことく王法を恐れす公役もなしたま〳〵白俗にしめす所地獄浄土を方便の説とし三世不可得の理をやふり淳朴の人にもさいかくをおしへ罪悪に自性なしなとゝこれによつて檀那の心無道におちいり法衣をそむきみちをやふり世の災害となりゆき神職祝部のものは神道の源をとりうしなひ陰陽顕冥の相にまとひ新祷にことをよせて財宝をむさほり詫宣に詞をかつて利欲をむねとす武家よりはしめて儒仏神道に至るまて大道こと〳〵くすたれ利欲大きにさかん也奉行頭人より万民まて奸曲邪欲をもとゝしてたかひにうらみたかひにいかりむねにのろひ口にそしるこの故に国中しきりにかまひすし只殿御一人正道を重し正理を守り御威勢つよくまします故に社
一弘長元年十一月前陸奥守入道北条重時卒去あり今年六十四歳法名観覚極楽寺と号す
是は義時の三男として此子孫を赤橋と称す去ぬる康元元年三月に重時義時の執権の職を辞して舎弟北条政村その代として時頼と連判し天下の政治をおこなはれし也
一同三年十一月廿二日正五位下行相模守平朝臣時頼入道覚了房最明寺の北の亭にて逝去年三十七歳法名道崇最明寺と号す病気身をせめ身心こゝろよからす医療いさゝかもしるしなく終命こゝにせまりけれは最明寺にこもりこゝろしつかに臨終すへきとて尾藤太入道浄心宿屋入道何某只二人此外出入をとゝめられ臨命終に及て袈裟を着し縄床にのほり坐禅して辞世の頌を書していはく
業鏡高懸三十七年 一槌打砕大道垣然
【 NDLJP:352】年号月日道崇珍重と云々
時頼入道は左京権大夫泰時の孫故修理亮時氏の二男童名戒寿丸嘉禎三年四月廿二日前将軍頼経公泰時の亭に入御なり御前にをいて元服の儀をとけられ北条五郎時頼と号す駿河の前司義村理髪に候し将軍家加冠し給ふ建長三年七月正五位下に叙せらる康元元年十一月廿三日最明寺にしてかさりを落し法名覚了房道崇と号す生年三十歳日比の素懐と云々
然るに時頼は往初宝治のはしめ蜀の隆蘭渓日本に来りて仏心寺を弘通せらる寛元四年鎌倉の寿福寺に下向あり相州時頼政事のいとま相看して仏法の大道を問給ふ去ぬる建長二年に建長寺を建立し同五年十一月廿五日に落本マヽ慶 供養をとけられ道隆禅師をもつて開山とせらる後に蜀の僧普寧兀菴の本朝に来りしを鎌倉に招請し巨福山建長寺にとゝめて参礼し見性せん事をのそまれしに政務をとゝめて工夫をこらし然に開市せられしかは森羅万像山河大地自己と無二無別の理をあきらめらる普寧すなはち青々たる翠竹こと〳〵く是真如鬱々たる黄花般若にあらすといふ事なしとしめされしに時頼入道言下に契悟し二年来旦暮の望み満足すとて九拝歓喜せられけりなを藤綱等の賢臣を求て静謐の政事を聞て民安穏の仁徳を専ら心にこめられける有難き人なりしはしめ寛元四年より康元元年まて首尾十一年は執権の職に居て落飾の後七年にいたるすへて十八年
一今年(文永元年八月イ)時頼入道の嫡男左馬頭時宗時頼の家督をつき相模守に任し執権職に補せられ政村長時扶翼として政道をたすけらる天性篤実にして仁徳あり礼節をのつからその宜しきにかなふ時に十七歳童名正寿丸
長時は重時の二男赤橋武蔵守大夫将監
一同年時頼入道の次男式部丞時輔は京都にのほせられ北条重時の三男陸奥守左近大夫将監時茂と両六波羅として畿内西国の政道を執行と云々
以水戸彰考舘古蔵本写之 近藤瓶城校
明治三十四年十一月再校了 近藤圭造
この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。