一心不乱と云う事を、目に見えぬ怪力をかり、縹緲ひょうびょうたる背景の前に写し出そうと考えて、この趣向を得た。これを日本の物語に書きおろさなかったのはこの趣向とわが国の風俗が調和すまいと思うたからである。浅学にて古代騎士の状況に通ぜず、従って叙事妥当を欠き、描景真相を失する所が多かろう、読者のおしえを待つ。


 遠き世の物語である。バロンと名乗るものの城を構えほりめぐらして、人をほふり天におごれる昔に帰れ。今代きんだいの話しではない。

 何時いつの頃とも知らぬ。只アーサー大王たいおうの御代とのみ言い伝えたる世に、ブレトンの一士人がブレトンの一女子に懸想けそうした事がある。その頃の恋はあだには出来ぬ。思う人のくちびるに燃ゆる情けの息を吹く為には、わがひじをも折らねばならぬ、吾くびをもくじかねばならぬ、時としては吾血潮さえ容赦もなく流さねばならなかった。懸想されたるブレトンの女は懸想せるブレトンの男に向って云う、君が恋、かなえんとならば、残りなく円卓の勇士を倒して、われを世にたぐいなき美しき女と名乗り給え、アーサーの養える名高きたかを獲て吾もとに送り届け給えと、男心得たりと腰に帯びたる長きつるぎちかえば、天上天下に吾志を妨ぐるものなく、つい仙姫せんきたすけを得てことごとく女の言うところを果す。鷹の足をまとえる細き金の鎖のはしに結びつけたる羊皮紙を読めば、三十一カ条の愛に関する法章であった。所謂いわゆる「愛の庁」の憲法とはこれである。……たての話しはこの憲法の盛に行われた時代に起った事と思え。

 行くみちやくすとは、そのかみ騎士の間に行われた習慣である。幅広からぬ往還に立ちて、通り掛りの武士にたたかいいどむ。二人のやりの穂先がしわって馬と馬の鼻頭はなづらが合うとき、鞍壺くらつぼにたまらず落ちたが最後無難にこの関をゆる事は出来ぬ。よろいかぶと、馬諸共もろともに召し上げらるる。路を扼する侍は武士の名をる山賊の様なものである。期限は三十日、かたえの木立に吾旗を翻えし、喇叭らっぱを吹いて人や来ると待つ。今日も待ち明日あすも待ち明後日あさっても待つ。五六三十日の期が満つるまでは必ず待つ。時には我意中の美人と共に待つ事もある。通り掛りの上臈じょうろうは吾をまもる侍の鎧のそでに隠れて関を抜ける。守護の侍は必ず路を扼する武士と槍を交える。交えねば自身は無論の事、二世にせかけて誓える女性にょしょうをすら通す事は出来ぬ。千四百四十九年にバーガンデの私生子と称する豪のものがラ・ベル・ジャルダンと云える路を首尾よく三十日間守りおおせたるは今に人の口碑に存する逸話である。三十日の間私生子と起居を共にせる美人は只「清き巡礼の子」という名にその本名を知る事が出来ぬのは遺憾いかんである。……盾の話しはこの時代の事と思え。

 この盾は何時の世のものとも知れぬ。パヴィースと云うて三角をさかしまにして全身をおおう位な大きさに作られたものとも違う。ギージという革紐かわひもにて肩から釣るす種類でもない。上部に鉄の格子こうし穿けて中央の孔から鉄砲を打つと云う仕懸しかけの後世のものでは無論ない。いずれの時、何者がきたえた盾かは盾の主人なるウィリアムさえ知らぬ。ウィリアムはこの盾を自己のへやの壁に懸けて朝夕ちょうせき眺めている。人が聞くと不可思議な盾だと云う。霊の盾だと云う。この盾を持って戦に臨むとき、過去、現在、未来にわたって吾願を叶える事のある盾だと云う。名あるかと聞けば只幻影まぼろしの盾と答える。ウィリアムはその他を言わぬ。

 盾の形はもちの夜の月の如く丸い。はがね饅頭まんじゅう形の表を一面に張りつめてあるから、輝やける色さえも月に似ている。ふちめぐりて小指の先程のびょうが奇麗に五分程の間を置いて植えられてある。鋲の色もまた銀色である。鋲の輪の内側は四寸ばかりの円をかくして匠人の巧を尽したる唐草からくさが彫り付けてある。模様があまり細か過ぎるので一寸ちょっと見ると只不規則の漣漪れんいが、はだに答えぬ程の微風に、数え難きしわを寄する如くである。花かつたあるは葉か、所々がはげしく光線を反射して余所よそよりも際立きわだちて視線を襲うのは昔し象嵌ぞうがんのあった名残でもあろう。猶内側へ這入はいると延板のべいたの平らな地になる。そこは今も猶鏡の如く輝やいて面にあたるものは必ず写す。ウィリアムの顔も写る。ウィリアムの甲の挿毛さしげのふわふわと風になびく様も写る。日に向けたら日に燃えて日の影をも写そう。鳥を追えば、こだまさえ交えずに十里を飛ぶ俊鶻しゅんこつの影も写そう。時には壁から卸してみがくかとウィリアムに問えば否と云う。霊の盾は磨かねども光るとウィリアムはひとごとの様に云う。

 盾の真中まんなかが五寸ばかりの円を描いて浮き上る。これには怖ろしき夜叉やしゃの顔が隙間すきまもなくいだされている。その顔はとこしえに天と地と中間にある人とをのろう。右から盾を見るときは右に向って呪い、左から盾をのぞくときは左に向って呪い、正面から盾にむかう敵にはもとより正面を見て呪う。ある時は盾の裏にかくるる持主をさえ呪いはせぬかと思わるる程怖しい。かしらの毛は春夏秋冬の風に一度に吹かれた様に残りなく逆立っている。しかもその一本一本の末は丸く平たいへびの頭となってその裂け目から消えんとしては燃ゆる如き舌を出している。毛と云う毛は悉く蛇で、その蛇は悉く首をもたげて舌を吐いてもつるるのも、じ合うのも、じあがるのも、にじり出るのも見らるる。五寸の円の内部に獰悪どうあくなる夜叉の顔を辛うじて残して、額際から顔の左右を残なくうずめて自然じねんに円の輪廓りんかくを形ちづくっているのはこの毛髪の蛇、蛇の毛髪である。遠き昔しのゴーゴンとはこれであろうかと思わるる位だ。ゴーゴンを見る者は石に化すとは当時のことわざであるが、この盾を熟視する者は何人なんびともその諺のあながちならぬをさとるであろう。

 盾にはきずがある。右の肩から左へはすに切りつけた刀のあとが見える。玉を並べた様なびょうの一つを半ばつぶして、ゴーゴン・メジューサに似た夜叉の耳のあたりをまとう蛇の頭を叩いて、横に延板の平な地へかすかな細長いくぼみが出来ている。ウィリアムにこのきずの因縁を聞くとなんにも云わぬ。知らぬかと云えば知ると云う。知るかと云えば言い難しと答える。

 人に云えぬ盾の由来の裏には、人に云えぬ恋の恨みが潜んでいる。人に云わぬ盾の歴史のうちには世もいらぬ神もいらぬとまで思いつめたる望の綱がつながれている。ウィリアムが日毎夜毎に繰り返す心の物語りはこの盾と浅からぬ因果の覊絆きずなで結び付けられている。いざという時この盾を執って……望はこれである。心の奥に何者かほのめいて消え難き前世の名残の如きを、白日の下に引きいだして明ら様に見極むるはこの盾の力である。いずくより吹くとも知らぬ業障ごうしょうの風の、すき多き胸にれて目に見えぬ波の、立ちてはくずれ、崩れては立つを浪なき昔、風吹かぬ昔に返すはこの盾の力である。この盾だにあらばとウィリアムは盾の懸かれる壁を仰ぐ。天地人を呪うべき夜叉の姿も、彼が眼には画ける天女てんにょの微かにえみを帯べるが如く思わるる。時にはわが思う人の肖像ではなきかと疑う折さえある。只抜け出して語らぬが残念である。

 思う人! ウィリアムが思う人はここには居らぬ。小山を三つ越えて大河を一つわたりて二十マイル先の夜鴉よがらすの城に居る。夜鴉の城とは名からして不吉であると、ウィリアムは時々考える事がある。然しその夜鴉の城へ、彼は小児の時度々たびたび遊びに行った事がある。小児の時のみではない成人してからも始終訪問おとずれた。クララの居る所なら海の底でも行かずにはいられぬ。彼はつい近頃まで夜鴉の城へ行っては終日クララと語り暮したのである。恋と名がつけば千里も行く。二十哩は云うに足らぬ。夜を守る星の影がおのずと消えて、東の空に紅殻べにがらみ込んだ様な時刻に、白城の刎橋はねばしの上に騎馬の侍が一人あらわれる。……宵の明星が本丸のやぐらの北角にピカと見えむる時、遠き方より又ひづめの音が昼と夜の境を破って白城の方へ近づいて来る。馬は総身に汗をかいて、白い泡を吹いているに、乗手はむちを鳴らして口笛をふく。戦国のならい、ウィリアムは馬の背で人と成ったのである。

 去年の春の頃から白城の刎橋の上に、暁方あけがたの武者の影が見えなくなった。夕暮の蹄の音も野にせまる黒きもののうちに吸い取られてか、聞えなくなった。その頃からウィリアムは、おのれを己れのうちへ引き入るる様に、内へ内へと深く食い入る気色であった。花も春も余所よそに見て、只心の中に貯えたる何者かを使い尽すまではどうあっても外界に気を転ぜぬ様に見受けられた。武士の命は女と酒といくさである。吾思う人の為めにとはしの上げ下しに云う誰彼たれかれならって、わがクララの為めにと云わぬ事はないが、その声の咽喉のどを出る時は、ふさがる声帯を無理に押し分ける様であった。血の如き葡萄の酒を髑髏どくろ形のさかずきにうけて、縁越すことをゆるさじと、ひげの尾までらして呑み干す人の中に、彼は只額を抑えて、斜めに泡を吹くことが多かった。山と盛る鹿の肉に好味のとうふるう左も顧みず右も眺めず、只わが前に置かれたる皿のみを見詰めて済す折もあった。皿の上にうずたかき肉塊の残らぬ事は少ない。武士の命を三ぶんして女と酒といくさがその三カ一を占むるならば、ウィリアムの命の三二は既に死んだ様なものである。残る三分一は? いくさはまだない。

 ウィリアムは身のたけ六尺一寸、せてはいるが満身の筋肉を骨格の上へたたき付けて出来上った様な男である。四年前のたたかいに甲も棄て、鎧も脱いで丸裸になって城壁のうちに仕掛けたる、カタパルトをいた事がある。戦が済んでからその有様を見ていた者がウィリアムの腕には鉄のこぶが出るといった。彼の眼と髪は石炭の様に黒い。その髪は渦を巻いて、彼がかしらる度にきらきらする。彼のまなこの奥には又一双のまなこがあって重なり合っている様な光りと深さとが見える。酒の味に命を失い、未了の恋に命を失いつつある彼はきたるべき戦場にもまた命を失うだろうか。彼は馬に乗って終日終夜野を行くに疲れた事のない男である。彼は一片の麺麭パンも食わず一滴の水さえ飲まず、未明より薄暮まで働き得る男である。年は二十六歳。それでいくさが出来ぬであろうか。それで戦が出来ぬ位なら武士の家に生れて来ぬがよい。ウィリアム自身もそう思っている。ウィリアムは幻影まぼろしの盾をかざして戦う機会があれば……と思っている。

 白城の城主狼のルーファスと夜鴉の城主とは二十年来のよしみで家の子郎党ろうどうの末に至るまでたがいに往き来せぬはまれな位打ち解けた間柄であった。確執の起ったのは去年こぞの春の初からである。源因は私ならぬ政治上の紛議の果とも云い、あるは鷹狩の帰りに獲物争いの口論からと唱え、又は夜鴉の城主の愛女クララの身の上に係る衝突に本づくとも言触らす。過ぐる日の饗筵きょうえんに、卓上の酒尽きて、居並ぶ人の舌の根のしどろにゆるむ時、首席を占むる隣り合せの二人が、何事か声高こわだかののしる声を聞かぬ者はなかった。「月に吠ゆるおおかみの……ほざくは」と手にしたる盃を地になげうって、夜鴉の城主は立ち上る。盃の底に残れる赤き酒の、まだらに床を染めて飽きたらず、くだけたる觥片こうへんと共にルーファスの胸のあたりまで跳ね上る。「い烏の黒き翼を、切って落せば、地獄のやみぞ」とルーファスは革に釣る重き剣に手を懸けてするすると四五寸ばかり抜く。一座の視線は悉く二人の上に集まる。高き窓洩る夕日を脊に負う、二人の黒き姿の、この世の様とも思われぬ中に、抜きかけた剣のみが寒き光を放つ。この時ルーファスの次に座を占めたるウィリアムが「渾名あだなこそ狼なれ、君が剣にきざめる文字にじずや」と右手めてを延ばしてルーファスの腰のあたりをゆびさす。幅広きやいばつばの真下に pro gloria et patria と云う銘が刻んである。水を打った様な静かな中に、只ルーファスが抜きかけた剣を元のさやに収むる声のみが高く響いた。これより両家の間は長く中絶えて、ウィリアムの乗りれた栗毛くりげの馬は少しく肥えた様に見えた。

 近頃は戦さのうわささえしきりである。睚眦がいさいうらみは人を欺くえみの衣に包めども、解け難き胸の乱れは空吹く風の音にもざわつく。夜となく日となく磨きに磨く刃のさえは、人をほふる遺恨の刃を磨くのである。君の為め国の為めなる美しき名をりて、毫釐ごうりの争に千里の恨を報ぜんとする心からである。正義と云い人道と云うは朝あらしに翻がえす旗にのみ染めいだすべき文字もんじで、繰り出す槍の穂先には瞋恚しんいほむらが焼け付いている。狼は如何にして鴉と戦うべき口実を得たか知らぬ。鴉は何を叫んで狼をゆる積りか分らぬ。只時ならぬ血潮とまで見えてほとばしりたる酒のしずくの、胸を染めたる恨を晴さでやとルーファスがセント・ジョージに誓えるは事実である。尊き銘は剣にこそ彫れ、抜き放ちたる光のうちに遠吠ゆる狼を屠らしめたまえとありとあらゆるセイントに夜鴉の城主が祈念をこらしたるも事実である。両家の間の戦は到底免かれない。いつというだけが問題である。

 末の世の尽きて、その末の世の残るまでと誓いたる、クララの一門に弓をひくはウィリアムの好まぬところである。手創てきず負いてたおれんとする父とたよりなきわれとを、敵の中より救いたるルーファスの一家いっけに事ありと云う日に、ひざを組んで動かぬのはウィリアムの猶好まぬところである。封建の代のならい、主と呼び従と名乗る身の危きにおもむかで、人に卑怯ひきょうあざけらるるは彼のもっとも好まぬところである。かぶとも着よう、よろいも繕おう、槍も磨こう、すわという時は真先に行こう……然しクララはどうなるだろう。負ければ打死をする。クララには逢えぬ。勝てばクララが死ぬかも知れぬ。ウィリアムは覚えず空に向って十字を切る。今の内姿をやつして、クララと落ち延びて北のかたへでも行こうか。落ちた後で朋輩ほうばいが何というだろう。ルーファスが人でなしと云うだろう。内懐うちぶところからクララのくれた一束ねの髪の毛を出して見る。長い薄色の毛が、麻をきぬたで打って柔かにした様にゆるくうねってウィリアムの手から下がる。ウィリアムは髪を見詰めていた視線を茫然ぼうぜんとわきへそらす。それが器械的に壁の上へ落ちる。壁の上にかけてある盾の真中で優しいクララの顔が笑っている。去年分れた時の顔と寸分たがわぬ。顔の周囲を巻いている髪の毛が……ウィリアムは呪われたる人の如くに、千里の遠きを眺めている様な眼付で石の如く盾を見ている。日の加減か色が真青だ。……顔の周囲を巻いている髪の毛が、っきから流れる水に漬けた様にざわざわと動いている。髪の毛ではない無数の蛇の舌が断間なく震動して五寸の円の輪を揺り廻るので、銀地に絹糸の様に細い炎が、見えたり隠れたり、隠れたり見えたり、渦を巻いたり、波を立てたりする。全部が一度に動いて顔の周囲を廻転するかと思うと、局部がわずかに動きやんで、すぐその隣りが動く。見る間に次へ次へと波動が伝わる様にもある。動くたびに舌のれ合う音でもあろう微かな声が出る。微かではあるが只一つの声ではない、ようやく鼓膜に響く位の静かな音のうちに――無数の音が交っている。耳に落つる一の音が聴けば聴く程多くの音がかたまって出来上った様に明かに聞き取られる。盾の上に動く物の数多きだけ、音の数も多く、又その動くものの定かに見えぬ如く、出る音もかすかであららかには鳴らぬのである。……ウィリアムは手に下げたるクララの金毛を三たび盾に向って振りながら「盾! 最後の望は幻影まぼろしの盾にある」と叫んだ。

 戦はうしおの河に上る如く次第に近付いて来る。鉄を打つ音、はがねきたえる響、つちの音、やすりの響は絶えず中庭の一隅に聞える。ウィリアムも人に劣らじと出陣の用意はするが、時には殺伐な物音に耳をふさいで、高き角櫓すみやぐらのぼってはるかに夜鴉の城の方を眺める事がある。霧深い国の事だから眼にさえぎる程の物はなくても、天気の好い日に二十マイル先は見えぬ。一面に茶渋を流した様なこうせまらぬ波を描いて続く間に、白金しろがねの筋があざやかに割り込んでいるのは、日毎の様に浅瀬を馬で渡した河であろう。白い流れの際立ちて目をくに付けて、夜鴉の城はあの見当だなと見送る。城らしきものはかすみの奥に閉じられて眸底ぼうていには写らぬが、流るるしろがねの、けむりと化しはせぬかと疑わるまで末広に薄れて、空と雲との境に入る程は、かざしたる小手こての下より遙かに双のまなこあつまってくる。あの空とあの雲の間が海で、浪の切立きったち岩の上に巨巌きょがんを刻んで地から生えた様なのが夜鴉の城であると、ウィリアムは見えぬ所を想像で描き出す。しその薄黒く潮風に吹きさらされた角窓のうちに一人物を画き足したなら死竜しりょうたちまきて天にのぼるのである。天晴てんせいに比すべきものは何人なんびとであろう、ウィリアムは聞かんでもく知っている。

 目の廻る程急がしい用意の為めに、昼の間はそれとなく気が散って浮き立つ事もあるが、初夜過ぎに吾が室に帰って、冷たい臥床ふしどの上に六尺一寸の長躯ちょうくを投げる時は考え出す。初めてクララに逢ったときは十二三の小供で知らぬ人には口もきかぬ程内気であった。只髪の毛は今の様に金色であった……ウィリアムは又内懐うちぶところからクララの髪の毛を出して眺める。クララはウィリアムを黒い眼の子、黒い眼の子と云ってからかった。クララの説によると黒い眼の子は意地が悪い、人がよくない、猶太ユダヤ人かジプシイでなければ黒い眼色のものはない。ウィリアムは怒って夜鴉の城へはもう来ぬと云ったらクララは泣き出して堪忍かんにんしてくれと謝した事がある。……二人して城の庭へ出て花を摘んだ事もある。赤い花、黄な花、紫の花――花の名は覚えておらん――色々の花でクララの頭と胸と袖を飾ってクイーンだクイーンだとその前にひざまずいたら、槍を持たない者はナイトでないとクララが笑った。……今は槍もある、ナイトでもある、然しクララの前に跪く機会はもうあるまい。ある時は野へ出て蒲公英たんぽぽしべを吹きくらをした。花が散ってあとに残る、むく毛をつかねた様に透明な球をとってふっと吹く。残った種の数でうらないをする。思う事が成るかならぬかと云いながらクララが一吹きふくと種の数が一つ足りないので思う事が成らぬと云うつじうらであった。するとクララは急に元気がなくなって俯向うつむいてしまった。何を思って吹いたのかと尋ねたら何でもいいと何時になく邪慳じゃけんな返事をした。その日は碌々ろくろく口もきかないでふさぎ込んでいた。……春の野にありとあらゆる蒲公英をむしって息の続づかぬまで吹き飛ばしても思う様な辻占は出ぬ筈だとウィリアムは怒る如くに云う。然しまだ盾と云う頼みがあるからと打消すように添える。……これは互に成人してからの事である。夏をいろどる薔薇ばらの茂みに二人座をしめて瑠璃るりに似た青空の、鼠色に変るまで語り暮した事があった。騎士の恋には四期があると云う事をクララに教えたのはその時だとウィリアムは当時の光景を一度に目の前に浮べる。「第一を躊躇ちゅうちょの時期と名づける、これは女の方でこの恋をしりぞけようか、受けようかと思いわずらう間の名である」といいながらクララの方を見た時に、クララは俯向うつむいて、頬のあたりにかすかなるえみもらした。「この時期の間には男の方では一言も恋をほのめかすことを許されぬ。只眼にあまる情けと、息に漏るる嘆きとにより、昼は女のかたえを、夜は女の住居すまいの辺りを去らぬ誠によりて、我意中を悟れかしと物言わぬうちに示す」クララはこの時池の向うに据えてある大理石の像を余念なく見ていた。「第二を祈念の時期と云う。男、女の前に伏してねんごろに我が恋かなえたまえと願う」クララは顔をそむけてくれないの薔薇の花を唇につけて吹く。一弁ひとひらは飛んで波なき池のみぎわに浮ぶ。一弁は梅鉢の形ちに組んで池を囲える石の欄干にあたりて敷石の上に落ちた。「次に来るは応諾の時期である。誠ありと見抜く男の心を猶も確めん為め女、男に草々くさぐさの課役をかける。剣の力、槍の力で遂ぐべき程の事柄であるは言うまでもない」クララは吾を透す大いなる眼を翻して第四はと問う。「第四の時期を Druerie と呼ぶ。武夫もののふが君の前に額付ぬかずいてかわらじと誓う如く男、女の膝下しっかひざまずき手を合せて女の手の間に置く。女かたの如く愛の式を返して男に接吻する」クララ遠き代の人に語る如き声にて君が恋は何れの期ぞと問う。思う人の接吻さえ得なばとクララの方に顔を寄せる。クララ頬に紅して手に持てる薔薇の花を吾が耳のあたりになげうつ。花びらは雪と乱れて、ゆかしき香りの一群れが二人の足の下に散る。…… Druerie の時期はもう望めないわとウィリアムは六尺一寸の身を挙げてどさと寝返りを打つ。けんにあまる壁を切りて、高く穿うがてる細き窓から薄暗き曙光しょこうが漏れて、物の色の定かに見えぬ中に幻影の盾のみが闇に懸る大蜘蛛おおぐもまなこの如く光る。「盾がある、まだ盾がある」とウィリアムはからすの羽の様ななめらかな髪の毛を握ってがばと跳ね起る。中庭の隅では鉄を打つ音、はがねを鍛える響、槌の音やすりの響が聞え出す。戦は日一日とせまってくる。

 その日の夕暮に一城の大衆が、無下むげに天井の高い食堂に会して晩餐ばんさんの卓に就いた時、戦の時期はいよいよ狼将軍の口から発布された。彼は先ず夜鴉の城主の武士道にそむける罪を数えて一門の面目を保つ為めに七日なぬかの夜を期して、一挙にその城をほふれと叫んだ。その声は堂の四壁を一周して、丸く組み合せたる高い天井に突き当ると思わるる位大きい。戦はもとより近づきつつあった。ウィリアムは戦の近づきつつあるを覚悟の前でこの日この夜を過ごしていた。去れど今ルーファスの口から愈七日の後と聞いた時はさすがの覚悟もかにの泡の、あしの根をめぐらぬ淡き命の如くにいずくへか消え失せてしまった。夢ならぬを夢と思いて、思いおおせぬ時は、無理ながら事実とあきらめる事もある。去れどその事実を事実と証する程の出来事が驀地ばくちに現前せぬうちは、夢と思うてその日を過すが人の世の習いである。夢と思うは嬉しく、思わぬがつらいからである。戦は事実であると思案のほぞを堅めたのは昨日や今日の事ではない。只事実に相違ないと思い定めた戦いが、起らんとして起らぬ為め、であれかしと願う夢の思いかえって「事実になる」の念をおさゆる事もあったのであろう。一年は三百六十五日、過ぐるはつかの間である。七日とは一年の五十一にも足らぬ。右の手を挙げて左の指を二本加えればすぐに七である。名もなき鬼に襲われて、名なき故に鬼にあらずと、いて思いたるに突然正体を見付けて今更眼力のたがわぬを口惜くちおしく思う時の感じと異なる事もあるまい。ウィリアムは真青まっさおになった。隣りに坐したシワルドが病気かと問う。否と答えて盃を唇につける。充たざる酒の何に揺れてか縁を越して卓の上を流れる。その時ルーファスは再び起って夜鴉の城を、城の根に張るいわおもろともに海に落せと盃を眉のあたりに上げてはやぶさの如く床の上に投げくだす。一座の大衆はフラーと叫んで血の如き酒をすする。ウィリアムもフラーと叫んで血の如き酒を啜る。シワルドもフラーと叫んで血の如き酒を啜りながら尻目にウィリアムを見る。ウィリアムは独り立って吾へやに帰りて、人の入らぬ様に内側から締りをした。

 盾だ愈盾だとウィリアムは叫びながら室の中をあちらこちらと歩む。盾は依然として壁に懸っている。ゴーゴン・メジューサとも較ぶべき顔は例にって天地人を合せて呪い、過去現世げんぜ未来にわたって呪い、近寄るもの、触るるものは無論、目に入らぬ草も木も呪いつくさでは已まぬ気色けしきである。愈この盾を使わねばならぬかとウィリアムは盾の下にとまって壁間を仰ぐ。室の戸を叩く音のする様な気合けはいがする。耳をそばだてて聞くと何の音でもない。ウィリアムは又内懐うちぶところからクララの髪毛かみげを出す。たなごごろに乗せて眺めるかと思うと今度はそれを叮嚀ていねいに、室の隅に片寄せてある三本脚の丸いテーブルの上に置いた。ウィリアムは又内懐へ手を入れて胸の隠しのうちから何か書付の様なものをつかみ出す。室の戸口まで行って横にさした鉄の棒の抜けはせぬかと振り動かして見る。しまりは大丈夫である。ウィリアムは丸机にって取り出した書付をおもむろに開く。紙か羊皮かたしかには見えぬが色合の古び具合から推すと昨今の物ではない。風なきに紙の表てが動くのは紙がおのれと動くのか、持つ手の動くのか。書付の始めには「幻影の盾の由来」とかいてある。すれたものか文字のあとが微かに残っているばかりである。「なんじが祖ウィリアムはこの盾を北の国の巨人に得たり。……」ここにウィリアムとあるはわが四世の祖だとウィリアムが独り言う。「黒雲の地を渡る日なり。北の国の巨人は雲の内より振り落されたる鬼の如くに寄せ来る。こぶしの如きこぶのつきたる鉄棒を片手に振りかざして骨もくだけよと打てば馬も倒れ人も倒れて、地を行く雲に血潮を含んで、鳴る風に火花をも見る。人を斬るの戦にあらず、脳を砕き胴をつぶして、人という形を滅せざれば已まざるはげしき戦なり。……」ウィリアムはたけき者共よと眉をひそめて、舌を打つ。「わが渡り合いしは巨人の中の巨人なり。銅板に砂を塗れる如き顔の中にまなこ懸りて稲妻いなずまを射る。我を見て南方の犬尾をいて死ねと、かの鉄棒を脳天より下す。眼をさえぎらぬ空の二つに裂くる響して、鉄の瘤はわが右の肩先をべる。つなぎ合せて肩をおおえる鋼鉄はがねの延板の、もっとも外に向えるが二つに折れて肉に入る。吾がうちし太刀先は巨人の盾をななめってかつと鳴るのみ。……」ウィリアムは急に眼を転じて盾の方を見る。彼の四世の祖が打ち込んだ刀痕とうこんは歴然と残っている。ウィリアムは又読み続ける。「われ巨人を切る事三たび、三度目にわが太刀は鍔元つばもとより三つに折れて巨人の戴く甲の鉢金の、内側にゆがむを見たり。巨人のついを下すや四たび、四たび目に巨人の足は、血を含む泥をて、木枯の天狗てんぐの杉を倒すが如く、あざみの花のゆらぐ中に、落雷もじよとばかりどうと横たわる。横たわりて起きぬ間を、くも縫えるわが短刀の光を見よ。吾ながら又なき手柄なり。……」ブラヴォーとウィリアムは小声に云う。「巨人は云う、老牛の夕陽にゆるが如き声にて云う。幻影の盾を南方の豎子じゅしに付与す、珍重に護持せよと。われ盾をかざしてその所以ゆえんを問うに黙して答えず。いて聞くとき、彼両手を揚げて北の空をゆびさしていわく。ワルハラの国オジンの座に近く、火に溶けぬ黒鉄くろがねを、氷の如き白炎に鋳たるが幻影の盾なり。……」この時戸口に近く、石よりも堅き廊下の床を踏みならす音がする。ウィリアムは又って扉に耳を付けて聴く。足音は部屋の前を通り越して、次第に遠ざかる下から、壁の射返す響のみが朗らかに聞える。何者か暗窖あんこうの中へ降りていったのであろう。「この盾何の奇特きどくかあると巨人に問えば曰く。盾に願え、ねごうて聴かれざるなし只その身を亡ぼす事あり。人に語るな語るとき盾の霊去る。……汝盾を執って戦に臨めば四囲の鬼神汝を呪うことあり。呪われて後蓋天がいてん蓋地の大歓喜に逢うべし。只盾を伝え受くるものにこの秘密を許すと。南国の人この不祥の具を愛せずと盾を棄てて去らんとすれば、巨人手を振って云う。われ今浄土ワルハラに帰る、幻影の盾を要せず。百年の後南方に赤衣せきいの美人あるべし。その歌のこの盾のおもてに触るるとき、汝の児孫盾をいだいて抃舞べんぶするものあらんと。……」汝の児孫とはわが事ではないかとウィリアムは疑う。表に足音がしてへやの戸の前に留った様である。「巨人は薊の中にたおれて、薊の中に残れるはこの盾なり」と読み終ってウィリアムが又壁の上の盾を見ると蛇の毛は又うごき始める。隙間すきまなくもつれた中を下へ下へともぐりて盾の裏側まで抜けはせぬかと疑わるる事もあり、又上へ上へともがき出て五寸の円の輪廓りんかくだけが盾を離れて浮き出はせぬかと思わるる事もある。下に動くときも上に揺り出す時も同じ様に清水しみずなめらかな石の間をめぐる時の様な音が出る。只その音が一本々々の毛が鳴って一束の音にかたまって耳朶じだに達するのは以前と異なる事はない。動くものは必ず鳴ると見えるに、蛇の毛は悉く動いているからその音も蛇の毛の数だけはある筈であるが――如何いかにも低い。前の世の耳語ささやきを奈落ならくの底から夢の間に伝える様に聞かれる。ウィリアムは茫然ぼうぜんとしてこの微音を聞いている。いくさも忘れ、盾も忘れ、我身をも忘れ、戸口に人足の留ったも忘れて聞いている。ことことと戸をたたくものがある。ウィリアムは魔がついた様な顔をして動こうともしない。ことことと再び敲く。ウィリアムは両手に紙片を捧げたまま椅子を離れて立ち上る。夢中に行く人の如く、身を向けて戸口のかたに三歩ばかり近寄る。眼は戸の真中を見ているが瞳孔どうこうに写って脳裏に印する影は戸ではあるまい。外の方では気がくか、厚いかしの扉をこぶしにて会釈なく夜陰に響けと叩く。三度目に敲いた音が、物静かな夜を四方に破ったとき、偶像の如きウィリアムは氷盤を空裏に撃砕する如く一時に吾に返った。紙片を急にふところへかくす。敲く音は益せまって絶間なく響く。開けぬかと云う声さえ聞える。

「戸を敲くはぞ」と鉄の栓張しんばりをからりと外す。切り岸の様な額の上に、赤黒き髪の斜めにかかる下から、鋭どく光る二つのまなこが遠慮なく部屋の中へ進んで来る。

「わしじゃ」とシワルドが、進めぬ先から腰懸の上にどさと尻を卸す。「今日の晩食に顔色が悪う見えたから見舞に来た」と片足を宙にあげて、残れる膝の上に置く。

「さした事もない」とウィリアムはまたたきして顔をそむける。

夜鴉よがらす羽搏はばたきを聞かぬうちに、花多き国に行く気はないか」とシワルドは意味有気ありげに問う。

「花多き国とは?」

「南の事じゃ、トルバダウの歌の聞ける国じゃ」

ぬしがいにたいと云うのか」

「わしは行かぬ、知れた事よ。もう六つ、日の出を見れば、夜鴉のを根から海へ蹴落けおとす役目があるわ。日の永い国へ渡ったら主の顔色が善くなろうと思うての親切からじゃ。ワハハハハ」とシワルドは傍若無人に笑う。

「鳴かぬ烏の闇にり込むまでは……」と六尺一寸の身をのして胸板をつ。

「霧深い国を去らぬと云うのか。その金色の髪の主となら満更いやでもあるまい」と丸テーブルの上をゆびさす。テーブルの上にはクララの髪が元の如く乗っている。内懐うちぶところへ収めるのをつい忘れた。ウィリアムは身をしたまま口籠くちごもる。

「鴉に交る白い鳩を救う気はないか」と再び叢中そうちゅうに蛇を打つ。

「今から七日なぬか過ぎたあとなら……」と叢中の蛇は不意を打れてやむを得ず首をもたげかかる。

「鴉を殺して鳩だけ生かそうと云う注文か……それは少し無理じゃ。然し出来ぬ事もあるまい。南から来て南へ帰る船がある。待てよ」と指を折る。「そうじゃ六日目の晩には間に合うだろう。城の東の船付場へ廻して、あの金色の髪の主を乗せよう。不断は帆柱の先に白い小旗を揚げるが、女が乗ったら赤にえさせよう。いくさは七日目の午過からじゃ、城を囲めば港が見える。柱の上に赤が見えたら天下太平……」

「白が見えたら……」とウィリアムは幻影の盾をにらむ。夜叉やしゃの髪の毛は動きもせぬ、鳴りもせぬ。クララかと思う顔が一寸見えて又もとの夜叉に返る。

「まあ、よいわ、どうにかなる心配するな。それよりは南の国の面白い話でもしょう」とシワルドは渋色のひげを無雑作にいて、若き人を慰める為か話頭を転ずる。

「海一つむこうへ渡ると日の目が多い、暖かじゃ。それに酒が甘くて金が落ちている。土一升に金一升……うそじゃ無い、本間ほんまの話じゃ。手を振るのは聞きとも無いと云うのか。もう落付いて一所に話す折もあるまい。シワルドの名残の談義だと思うて聞いてくれ。そう滅入めいらんでもの事よ」宵に浴びた酒のがまだめぬのかゲーと臭いのをウィリアムの顔に吹きかける。「いやこれは御無礼……何を話す積りであった。おおそれだ、その酒のく、金の土に交る海の向での」とシワルドはウィリアムをのぞき込む。

ぬしが女に可愛かあいがられたと云うのか」

「ワハハハ女にも数多あまた近付はあるが、それじゃない。ボーシイルの会を見たと云う事よ」

「ボーシイルの会?」

「知らぬか。薄黒い島国に住んでいては、知らぬも道理じゃ。プロヴォンサルの伯とツールースの伯の和睦の会はあちらで誰れも知らぬものはないぞよ」

「ふむそれが?」とウィリアムは浮かぬ顔である。

「馬は銀のくつをはく、いぬは珠の首輪をつける……」

「金の林檎りんごを食う、月の露を湯に浴びる……」と平かならぬ人のならい、ウィリアムはあざける様に話の糸を切る。

「まあ水を指さずに聴け。うそでも興があろう」と相手は切れた糸をつなぐ。

「試合の催しがあると、シミニアンの太守が二十四頭の白牛を駆ってらちの内を奇麗に地ならしする。ならした後へ三万枚の黄金をく。するとアグーの太守がわしは勝ち手にとらせる褒美ほうびを受持とうと十万枚の黄金を加える。マルテロはわしは御馳走役じゃと云うて蝋燭ろうそくの火で煮焼にたきした珍味を振舞うて、銀の皿小鉢を引出物に添える」

「もう沢山じゃ」とウィリアムが笑いながら云う。

「ま一つじゃ。仕舞にレイモンが今まで誰も見た事のない遊びをやると云うてず試合のさくの中へ三十本のくいを植える。それに三十頭の名馬を繋ぐ。裸馬ではないくらも置きあぶみもつけくつわ手綱たづな華奢きゃしゃさえ尽してじゃ。よいか。そしてその真中へ鎧、刀これも三十人分、甲は無論小手こて脛当すねあてまで添えて並べ立てた。金高かねだかにしたらマルテロの御馳走よりも、かさが張ろう。それから周りへたきぎを山の様に積んで、火を掛けての、馬も具足も皆焼いてしもうた。何とあちらのものは豪興をやるではないか」と話し終ってカラカラと心地よげに笑う。

「そう云う国へ行って見よと云うに主も余程意地張りだなあ」と又ウィリアムの胸の底へ探りの石を投げ込む。

「そんな国に黒い眼、黒い髪の男は無用じゃ」とウィリアムは自ら嘲る如くに云う。

「やはりその金色の髪の主の居る所が恋しいと見えるな」

「言うまでもない」とウィリアムはきっとなって幻影の盾を見る。中庭のすみで鉄を打つ音、鋼を鍛える響、槌の音、ヤスリの響が聞え出す。夜はいつの間にかほのぼのと明け渡る。

 七日なぬかせまる戦は一日の命を縮めて愈六日となった。ウィリアムはシーワルドの勧むるままにクララへの手紙をしたためる。心がくのと、わきが騒がしいので思う事の万分まんぶ一も書けぬ。「御身の髪は猶わが懐にあり、只この使と逃げ落ちよ、疑えば魔多し」とばかりで筆をく。この手紙を受取ってクララに渡す者はいずこの何者か分らぬ。その頃流行はやる楽人の姿となって夜鴉の城に忍び込んで、戦あるべき前の晩にクララを奪い出して舟に乗せる。万一手順が狂えばすきを見て城へ火をかけても志を遂げる。これだけの事はシーワルドから聞いた、そのあとは……幻影の盾のみ知る。

 逢うはうれし、逢わぬは憂し。憂し嬉しの源から珠を欺く涙が湧いて出る。この清き者に何故流れるぞと問えば知らぬと云う。知らぬとは自然と云う意か。マリアの像の前に、ひざまずいて祈願を凝せるウィリアムが立ち上ったとき、長いまつげがいつもより重た気に見えたが、なぜ重いのか彼にも分らなかった。誠は誠を自覚すれどもその他を知らぬ。その夜の夢に彼れは五彩の雲に乗るマリアを見た。マリアと見えたるはクララを祭れる姿で、クララとは地に住むマリアであろう。祈らるる神、祈らるる人は異なれど、祈る人の胸には神も人も同じ願の影法師に過ぎぬ。祭る聖母は恋う人の為め、人恋うは聖母に跪く為め。マリアとも云え、クララとも云え。ウィリアムの心の中に二つのものは宿らぬ。宿る余地あらばこの恋はうその恋じゃ。夢の続か中庭の隅で鉄を打つ音、鋼を鍛える響、槌の音、ヤスリの響が聞えて、例の如く夜が明ける。戦は愈せまる。

 五日目から四日目に移るはせたる手を翻がえす間と思われ、四日目から三日目に進むは翻がえす手をもとかえす間と見えて、三日、二日より愈戦の日を迎えたるときは、手さえ動かすひまなきに襲い来る如く感ぜられた。「飛ばせ」とシーワルドはウィリアムを顧みて云う。並ぶくつわの間から鼻嵐が立って、二つの甲が、月下におど細鱗さいりんの如く秋の日を射返す。「飛ばせ」とシーワルドがかかとを半ば馬の太腹に蹴込む。二人のかしらの上に長くしたる真白な毛がはげしく風を受けて、振り落さるるまでになびく。夜鴉の城壁を斜めに見て、小高き丘に飛ばせたるシーワルドが右手めてかざして港のかたを望む。「帆柱に掲げた旗は赤か白か」とおくれたるウィリアムは叫ぶ。「白か赤か、赤か白か」と続け様に叫ぶ。鞍壺くらつぼに延び上ったるシーワルドはたいをおろすと等しく馬を向け直して一散に城門の方へ飛ばす。「続け、続け」とウィリアムを呼ぶ。「赤か、白か」とウィリアムは叫ぶ。「阿呆あほう、丘へ飛ばすよりほりの中へ飛ばせ」とシーワルドはひたすらに城門の方へ飛ばす。港の入口には、埠頭ふとうを洗う浪を食って、胴の高い船が心細く揺れている。魔に襲われて夢安からぬ有様である。左右に低き帆柱を控えて、中に高き一本の真上には――「白だッ」とウィリアムは口の中で言いながら前歯で唇をむ。折柄おりから戦の声は夜鴉の城をゆるがして、淋しき海の上に響く。

 城壁の高さは丈、丸櫓まるやぐらの高さはこれを倍して、所々に壁を突き抜いて立つ。天の柱が落ちてその真中に刺された如く見ゆるは本丸であろう。高さ十九丈壁のあつさは三丈四尺、これを四階に分って、最上の一層にのみ窓を穿うがつ。真上より真下にくだる井戸の如き道ありて、所謂いわゆるダンジョンはもっとも低く尤も暗き所に地獄と壁一重を隔てて設けらるる。本丸の左右に懸け離れたる二つの櫓は本丸の二階から家根付の橋を渡して出入しゅつにゅうの便りを計る。櫓をめぐる三々五々の建物にはうまやもある。兵士の住居すまいもある。乱を避くる領内の細民が隠るる場所もある。後ろは切岸きりぎしに海の鳴る音を聞き、砕くる浪の花の上に舞い下りては舞い上るかもめを見る。前は牛を呑むアーチの暗き上より、石に響く扉を下して、刎橋はねばしを鉄鎖に引けば人のえぬほりである。

 濠を渡せば門も破ろう、門を破れば天主も抜こう、志ある方に道あり、道ある方に向えとルーファスは打ち壊したる扉の隙より、黒金につつめるおおかみの顔を会釈もなく突き出す。あとに続けと一人が従えば、尻を追えと又一人が進む。一人二人の後は只我先にと乱れ入る。むくむくと湧く清水に、こまかき砂の浮き上りて一度にただよう如く見ゆる。壁の上よりは、ありとある弓を伏せての如く寄手の鼻頭はなさきに、かぎと曲るやじりを集める。空を行く長きの、一矢毎に鳴りを起せば数千の鳴りは一と塊りとなって、地上にうごめく黒影の響に和して、時ならぬ物音に、沖の鴎を驚かす。狂えるは鳥のみならず。秋の夕日を受けつくぐりつ、かぶとの浪よろいの浪が寄せては崩れ、崩れては退く。退くときは壁の上櫓の上より、傾く日を海の底へ震い落す程のときを作る。寄するときは甲の浪、鎧の浪の中より、吹き捲くる大風の息の根を一時にとめるべき声を起す。退く浪と寄する浪の間にウィリアムとシーワルドがはたと行き逢う。「生きておるか」とシーワルドが剣で招けば、「死ぬところじゃ」とウィリアムが高く盾を翳す。右にそばだつ丸櫓の上より飛び来る矢がかつと夜叉の額をかすめてウィリアムの足の下へ落つる。この時崩れかかる人浪はたちまち二人の間をさえぎって、鉢金をおおう白毛の靡きさえ、しばらくの間に、めぐる渦の中に捲き込まれて見えなくなる。戦はを過ぐる二た時余りに起って、五時と六時の間にもかた付かぬ。一度びはたけき心に天主をもほふる勢であった寄手の、何にひるんでか蒼然そうぜんたる夜の色と共に城門の外へなだれながら吐き出される。つ音の絶えたるは一の間か。暫らくは鳴りも静まる。

 日は暮れ果てて黒き夜の一すんの隙間なく人馬を蔽う中に、砕くる波の音が忽ち高く聞える。忽ち聞えるは始めて海の鳴るにあらず、吾が鳴りの暫らくんで空しき心の迎えたるに過ぎぬ。この浪の音は何里の沖にきざしてこの磯の遠きに崩るるか、思えば古き響きである。時の幾代を揺がして知られぬ未来に響く。日を捨てず夜を捨てず、二六時中繰り返す真理は永劫えいごう無極の響きを伝えて剣打つ音を嘲り、弓引く音を笑う。百と云い千と云う人の叫びの、はかなくてあわれむべきをののしるときかれる。去れど城を守るものも、城を攻むるものも、おのが叫びのわずかにやんで、この深き響きを不用意に聞き得たるときずかしと思えるはなし。ウィリアムは盾に凝る血のあとを見て「汝われをも呪うか」と剣を以て三たび夜叉の面を叩く。ルーファスは「烏なれば闇にも隠れん月照らぬ間にって棄よ」と息捲く。シーワルドばかりは額の奥にめ込まれたる如き双のまなこを放って高く天主を見詰めたるまま一こともいわぬ。

 海より吹く風、海へ吹く風と変りて、砕くる浪と浪の間にも新たに天地の響を添える。塔をめぐる音、壁にあたる音の次第に募ると思ううち、城の内にてにわかに人の騒ぐ気合けはいがする。それが漸々だんだん烈しくなる。千里の深きよりきたる地震の秒を刻み分を刻んで押し寄せるなと心付けばそれが夜鴉の城の真下で破裂したかと思う響がする。――シーワルドのまゆは毛虫をちたるが如くり返る。――櫓の窓から黒けむりが吹き出す。夜の中に夜よりも黒き烟りがむくむくと吹き出す。狭き出口を争うが為めか、烟の量は見る間に増して前なるは押され、あとなるは押し、並ぶは互に譲るまじとて同時にあふずる様に見える。吹き募る野分のわきともに烟を砕いて、丸く渦を巻いてほとばしる鼻を、元の如く窓へ圧し返そうとする。風に喰い留められた渦は一度になだれて空に流れ込む。暫くすると吹き出す烟りの中に火の粉が交じり出す。それが見る間に殖える。殖えた火の粉は烟諸共もろとも風に捲かれて大空に舞い上る。城を蔽う天の一部が櫓を中心として大なる赤き円を描いて、その円は不規則に海のかたへと動いて行く。火の粉を梨地なしじに点じた蒔絵まきえの、瞬時の断間たえまもなくあるいは消え或は輝きて、動いて行く円の内部は一点として活きて動かぬ箇所はない。――「占めた」とシーワルドは手をって雀躍こおどりする。

 黒烟りを吐き出して、吐き尽したる後は、太き火燄かえんが棒となって、熱を追うて突き上る風諸共、夜の世界に流矢のきを射る。あめを煮て四斗だる大の喞筒ポンプの口から大空に注ぐとも形容される。ぎる火の闇にせんなく消ゆるあとより又沸ぎる火が立ちのぼる。深き夜を焦せとばかり煮え返るほのおの声は、地にわめく人の叫びを小癪こしゃくなりとて空一面に鳴り渡る。鳴る中に燄は砕けて砕けたる粉が舞い上り舞いさがりつつ海の方へと広がる。濁る浪の憤る色は、怒る響と共に薄黒く認めらるる位なれば櫓の周囲は、すすとおす日に照さるるよりも明かである。一枚の火の、丸形に櫓をつつんで飽き足らず、横に這うてひめがきの胸先にかかる。炎は尺を計って左へ左へと延びる。たまたま一陣の風吹いて、逆に舌先を払えば、左へ行くべきほこさきを転じて上に向う。めぐる風なれば後ろより不意を襲う事もある。順に撫でて燄をけ抜ける時は上に向えるが又向き直りて行き過ぎし風を追う。左へ左へと溶けたる舌は見る間に長くなり、又広くなる。果は此所ここにも一枚の火が出来る、かしこにも一枚の火が出来る。火に包まれたる堞の上を黒き影が行きつ戻りつする。たまには暗き上から明るき中へ消えて入ったぎり再び出て来ぬのもある。

 ただれたる高櫓の、機熟してか、吹く風にさからいてしばらくは燄と共に傾くと見えしが、奈落までも落ち入らでやはと、三分二を岩に残して、さかしまに崩れかかる。取り巻く燄の一度にパッと天地をく時、堞の上に火の如き髪を振り乱してたたずむ女がある。「クララ!」とウィリアムが叫ぶ途端に女の影は消える。焼け出された二頭の馬が鞍付のまま宙を飛んで来る。

 疾く走る尻尾しりおつかみて根元よりスパと抜ける体なり、先なる馬がウィリアムの前にてはたととまる。とまる前足に力余りて堅き爪の半ばは、斜めに土に喰い入る。盾に当る鼻づらの、二寸を隔てて夜叉の面に火の息を吹く。「四つ足も呪われたか」とウィリアムは我とはなしにたてがみを握りてひらりと高き脊にまたがる。足乗せぬあぶみは手持無沙汰に太腹を打って宙に躍る。この時何物か「南の国へ行け」と鉄かたき手を挙げて馬の尻をしたたかに打つ。「呪われた」とウィリアムは馬と共にくうを行く。

 ウィリアムの馬を追うにあらず、馬のウィリアムに追わるるにあらず、呪いの走るなり。風を切り、夜を裂き、大地にかんばしる音を刻んで、呪いの尽くる所まで走るなり。野を走り尽せば丘に走り、丘を走り下れば谷に走り入る。夜は明けたのか日は高いのか、暮れかかるのか、雨か、あられか、野分のわきか、木枯か――知らぬ。呪いは真一文字に走る事を知るのみじゃ。前に当るものは親でも許さぬ、石蹴るひづめには火花が鳴る。行手をさえぎるものはしゅでもたおせ、闇吹き散らす鼻嵐を見よ。物凄き音の、物凄き人と馬の影を包んで、あっと見るまつげの合わぬ間に過ぎ去るばかりじゃ。人か馬か形か影かと惑うな、只呪いその物のたけり狂うて行かんと欲する所に行く姿と思え。

 ウィリアムは何里飛ばしたか知らぬ。乗り斃した馬の鞍に腰を卸して、右手めてに額を抑えて何事をか考えいださんとつとめている。死したる人のよみがえる時に、昔しの我と今の我との、あるは別人の如く、あるは同人の如く、つなぐ鎖りは情けなく切れて、しかも何等かの関係あるべしと思い惑う様である。半時なりとも死せる人の頭脳には、喜怒哀楽の影は宿るまい。むなしき心のふと吾に帰りて在りし昔を想い起せば、油然ゆうぜんとして雲のくが如くにその折々はむらがりきたるであろう。簇がり来るものを入るる余地あればある程、簇がる物は迅速に脳裏を馳けめぐるであろう。ウィリアムが吾にめた時の心が水の如く涼しかっただけ、今思い起すかれこれも送迎にいとまなきまで、糸と乱れてその頭を悩ましている。出陣、帆柱の旗、戦……と順を立てて排列して見る。皆事実としか思われぬ。「その次に」と頭の奧を探るとぺらぺらと黄色な燄が見える。「火事だ!」とウィリアムは思わず叫ぶ。火事は構わぬが今心の眼に思い浮べた燄の中にはクララの髪の毛がただよっている。何故あの火の中へ飛び込んで同じ所で死ななかったのかとウィリアムは舌打ちをする。「盾の仕業しわざだ」と口の内でつぶやく。見ると盾は馬の頭を三尺ばかり右へ隔てて表を空にむけて横わっている。

「これが恋の果か、のろいが醒めても恋は醒めぬ」とウィリアムは又額を抑えて、己れを煩悶はんもんの海に沈める。海の底に足がついて、世にうときまで思い入るとき、何処いずくよりか、かすかなる糸を馬の尾でこする様な響が聞える。睡るウィリアムは眼を開いてあたりを見廻す。ここは何処とも分らぬが、目の届く限りは一面の林である。林とは云え、枝を交えて高き日を遮ぎる一かかえ二抱えの大木はない。木は一坪に一本位の割でそのおおきさも径六七寸位のもののみであろう。不思議にもそれが皆同じ樹である。枝が幹の根を去る六尺位の所から上を向いて、しなやかな線を描いて生えている。その枝があつまって、中がふくれ、上ががって欄干の擬宝珠ぎぼうしゅか、筆の穂の水を含んだ形状をする。枝の悉くは丸い黄な葉をもって隙間なきまでに綴られているから、枝の重なる筆の穂は色の変る、面長な葡萄の珠で、穂の重なる林のさまは葡萄の房の累々と連なる趣きがある。下より仰げば少しずつは空も青く見らるる。只眼を放つはるむこうの果に、樹の幹がたがいに近づきつ、とおざかりつ黒くならぶ間に、澄み渡る秋の空が鏡の如く光るは心行く眺めである。時々鏡の面をうすものが過ぎ行さままで横から見える。地面は一面のこけで秋にってやや黄食きばんだと思われる所もあり、又は薄茶に枯れかかった辺もあるが、人の踏んだあとがないから、黄は黄なり、薄茶は薄茶のまま、苔と云う昔しの姿を存している。ここかしこに歯朶しだの茂りが平かな面を破って幽情を添えるばかりだ。鳥も鳴かぬ風も渡らぬ。寂然せきぜんとして太古の昔を至る所に描き出しているが、樹の高からぬのと秋の日の射透すので、さほど静かな割合に怖しい感じが少ない。その秋の日はきわめてあきらかな日である。真上から林を照らす光線が、かの丸い黄な無数の葉を一度に洗って、林の中は存外明るい。葉の向きはもとより一様でないから、日を射返す具合も悉く違う。同じ黄ではあるが透明、半透明、濃き、薄き、様々の趣向をそれぞれにこらしている。それが乱れ、まじり、重なって苔の上を照らすから、林の中に居るものは琥珀こはくびょうめぐらして間接に太陽の光りを浴びる心地である。ウィリアムは醒めて苦しく、夢に落付くという容子ようすに見える。糸のが再び落ちつきかけた耳朶じだに響く。今度は怪しき音の方へ眼をむける。幹をすかして空の見える反対の方角を見ると――西か東か無論わからぬ――ここばかりは木が重なりおう一畝ひとせ程は際立きわだつ薄暗さを地に印する中に池がある。池は大きくはない、出来そこないのうりの様に狭き幅を木陰に横たえている。これも太古の池で中にたたえるのは同じく太古の水であろう、寒気がする程青い。いつ散ったものか黄な小さき葉が水の上に浮いている。ここにもあめが下の風は吹く事があると見えて、浮ぶ葉は吹き寄せられて、所々にかたまっている。群を離れて散っているのはもとより数え切れぬ。糸の音は三たび響く。なめらかなる坂を、護謨ゴムの輪が緩々ゆるゆる練り上る如く、低くきより自然に高き調子に移りてはたとやむ。

 ウィリアムの腰はくらを離れた。池の方に眼を向けたまま音あるかたおもむろに歩を移す。ぼろぼろと崩るる苔の皮の、厚く柔らかなれば、あるく時も、坐れる時の如く林の中はしんとして静かである。足音に我が動くを知るものの、音なければ動く事を忘るるか、ウィリアムは歩むとは思わず只ふらふらと池のみぎわまで進み寄る。池幅の少しくせまりたるに、す牛を欺く程の岩が向側から半ば岸に沿うて蹲踞うずくまれば、ウィリアムと岩との間はわずか一丈余ならんと思われる。その岩の上に一人の女が、まばゆしと見ゆるまでに紅なる衣を着て、知らぬ世の楽器をくともなしに弾いている。みどり積む水が肌にむ寒き色の中に、この女の影をさかしまにひたす。投げいだしたる足の、長きもすそに隠くるる末まで明かに写る。水は元より動かぬ、女も動かねば影も動かぬ。只弓をる右の手が糸に沿うてゆるくうごく。かしらまとう、糸に貫いた真珠の飾りが、湛然たんぜんたる水の底に明星程の光を放つ。黒き眼の黒き髪の女である。クララとは似ても似つかぬ。女はやがて歌い出す。

「岩の上なるわれまことか、水の下なる影がまことか」

 清くさびしい声である。風のわたらぬこずえから黄な葉がはらはらと赤き衣にかかりて、池の面に落ちる。静かな影がちょと動いて、又元に還る。ウィリアムは茫然ぼうぜんとしてたたずむ。

まこととは思い詰めたる心の影を。心の影を偽りと云うが偽り」女静かに歌いやんで、ウィリアムのかたを顧みる。ウィリアムは瞬きもせず女の顔を打ち守る。

「恋に口惜くやしき命のうらを、盾に問えかし、まぼろしの盾」

 ウィリアムはがけを飛ぶ牡鹿おじかの如く、くびすをめぐらして、盾をとって来る。女「只懸命に盾のおもてを見給え」と云う。ウィリアムは無言のまま盾をいだいて、池の縁に坐る。寥廓りょうかくなる天の下、蕭瑟しょうしつなる林のうち、幽冷なる池の上に音と云う程の音はなんにも聞えぬ。只ウィリアムの見詰めたる盾の内輪が、例の如くめぐり出すと共に、昔しながらのかすかな声が彼の耳を襲うのみである。「盾の中に何をか見る」と女は水の向より問う。「ありとある蛇の毛の動くは」とウィリアムが眼を放たずに答える。「物音は?」「鵞筆がひつの紙を走る如くなり」

「迷いては、迷いてはしきりに動く心なり、音なき方に音をな聞きそ、音をな聞きそ」と女半ば歌うが如く、半ば語るが如く、岸を隔ててウィリアムに向けて手を波の如くふる。動く毛の次第にやみて、鳴る音もおのずから絶ゆ。見入る盾の模様はかすむかと疑われて程なく盾の面に黒き幕かかる。見れども見えず、聞けども聞えず、常闇とこやみの世に住む我を怪しみて「暗し、暗し」と云う。わが呼ぶ声のわれにすら聞かれぬ位かすかなり。

「闇に烏を見ずと嘆かば、鳴かぬ声さえ聞かんと恋わめ、――身をも命も、闇に捨てなば、身をも命も、闇に拾わば、嬉しかろうよ」と女の歌う声が百せきの壁をれて、蜘蛛くもの細き通い路よりきたる。歌はしばし絶えて弓擦る音の風誘う遠きより高く低く、ウィリアムの耳に限りなき清涼の気を吹く。その時暗き中に一点白玉はくぎょくの光が点ぜらるる。見るうちに大きくなる。闇のひくか、光りの進むか、ウィリアムの眼の及ぶ限りは、四面空蕩くうとう万里の層氷を建て連らねたる如くほがらかになる。頭を蔽う天もなく、足を乗する地もなく冷瓏れいろう虚無の真中まなかに一人立つ。

「君は今いずくにわすぞ」と遙かに問うはかのおんなの声である。

「無のうちか、有の中か、玻璃ハリびんの中か」とウィリアムがよみがえれる人の様に答える。彼の眼はまだ盾を離れぬ。

 女は歌い出す。「以太利亜イタリアの、以太利亜の海紫に夜明けたり」

「広い海がほのぼのとあけて、……橙色だいだいいろの日が浪から出る」とウィリアムが云う。彼の眼は猶盾を見詰めている。彼の心には身も世も何もない。只盾がある。髪毛の末から、足の爪先に至るまで、五臓六腑を挙げ、耳目口鼻じもくこうびを挙げて悉く幻影の盾である。彼の総身は盾になり切っている。盾はウィリアムでウィリアムは盾である。二つのものが純一無雑の清浄界しょうじょうかいにぴたりとうたとき――以太利亜の空はおのずから明けて、以太利亜の日は自から出る。

 女は又歌う。「帆を張れば、舟も行くめり、帆柱に、何を掲げて……」

「赤だっ」とウィリアムは盾の中に向って叫ぶ。「白い帆が山影をよこぎって、岸に近づいて来る。三本の帆柱の左右は知らぬ、中なる上に春風しゅんぷうを受けてたなくは、赤だ、赤だクララの舟だ」……舟は油の如くたいらなる海を滑って難なく岸に近づいて来る。へさき金色きんいろの髪を日に乱して伸び上るは言うまでもない、クララである。

 ここは南の国で、空には濃きあいを流し、海にも濃き藍を流してその中によこたわる遠山とおやまもまた濃き藍を含んでいる。只春の波のちょろちょろと磯を洗う端だけが際限なく長い一条の白布と見える。丘には橄欖かんらんが深緑りの葉を暖かき日に洗われて、その葉裏にはもも千鳥ちどりをかくす。庭には黄な花、赤い花、紫の花、くれないの花――すべての春の花が、凡ての色を尽くして、咲きては乱れ、乱れては散り、散りては咲いて、冬知らぬ空をたれに向って誇る。

 暖かき草の上に二人が坐って、二人共に青絹を敷いた様な海の面を遙かの下に眺めている。二人共にりの大理石の欄干に身をもたせて、二人共に足を前に投げ出している。二人の頭の上から欄干を斜めに林檎りんごの枝が花のかさをさしかける。花が散ると、あるときはクララの髪の毛にとまり、ある時はウィリアムの髪の毛にかかる。又ある時は二人の頭と二人の袖にはらはらと一度にかかる。枝から釣るすかごの内で鸚鵡おうむが時々けたたましいを出す。

「南方の日の露に沈まぬうちに」とウィリアムは熱き唇をクララの唇につける。二人の唇の間に林檎の花の一片ひとひらがはさまってれたままついている。

「この国の春はとこしえぞ」とクララたしなめる如くに云う。ウィリアムは嬉しき声に Druerie ! と呼ぶ。クララも同じ様に Druerie ! と云う。籠の中なる鸚鵡が Druerie ! と鋭どき声を立てる。遙か下なる春の海もドルエリと答える。海の向うの遠山もドルエリと答える。丘を蔽う凡ての橄欖かんらんと、庭に咲く黄な花、赤い花、紫の花、紅の花――凡ての春の花と、凡ての春の物が皆一斉にドルエリと答える。――これは盾の中の世界である。しかしてウィリアムは盾である。

 百年のよわいは目出度めでたく難有ありがたい。然しちと退屈じゃ。たのしみも多かろうが憂も長かろう。水臭い麦酒ビールを日毎に浴びるより、舌を焼く酒精アルコールを半滴味わう方が手間がかからぬ。百年を十で割り、十年を百で割って、あますところの半時に百年の苦楽を乗じたらやはり百年の生をけたと同じ事じゃ。泰山もカメラのうちに収まり、水素も冷ゆれば液となる。終生の情けを、ふんと縮め、懸命の甘きを点と凝らしるなら――然しそれが普通の人に出来る事だろうか? ――この猛烈な経験をめ得たものは古往今来ウィリアム一にんである。(二月十八日)

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。