常陽四戦記
右山王堂ノ一戦稲川石見トイフ真壁カ侍其比十八歳タリシカ彼軍場ノ芝野ノ上明神山ニテ見物ス双方攻戦ノ間ハ戦場煙霞ノコトク時々成テ物ノ色メ見ヘス戦畢テ霧ノコトク晴シトナリ湖田竹岡モヒサシク存命坂戸ノ次第ナト物語スト云々
真壁ノ城主右衛門尉氏幹入道道無ト小田天庵多年相挑リ元亀四年癸酉四月天庵筑波山ノ続【 NDLJP:458】キ青柳山ヲ打越真壁ト山一ツ隔タル小幡村迄働テ道無是ヲ聞出張ステキハ真壁ノ西口ヨリ寄来ルト聞テ打出ケルカ西口ヘハヲシ来ラスヲハタニ敵アリト申ケレハ山手ヘ懸リ径ヲ経テ小幡ニ馳出其比大田美濃入道三楽斎其子梶原源太資晴柿岡ニ住ス源太ハ佐竹ノ媒ニテ道無ノ聟タリシユヘ父子此由ヲ聞微勢ヲ卒シテ出張シケレハナカ〳〵対当スヘキ敵ナラネハ小幡ノ近辺ニ要害無双ノ古屋形有シニ取入敵引ハ突テ出敵返セハ彼屋敷ヘ引入カクノ如クスル事数回ニシテ時刻ヲ移ス所ニ道無カ勢ユフクロ山ヲ越来其旗本見ヘケレハ天庵三楽父子ヲ捨真壁勢ニ向テ備ヲ立小幡ノ地形三方ハ山続テ中ノ平地ノ纔十町足サル狭キ所ナリ小田勢是ニ充満ナリ真壁勢山上ヨリ下シ懸テ相戦フ事良久シ道無下知シテ弓モ銭炮モ敵ノ前ヲ打セス跡ノ胴勢ヲ打ケル故小田勢裏ヲ崩シテ引退真壁勢追打ニス道無嫡子安芸守十六歳次男式部少輔十五歳也道無坂本信濃トイフ剛ノモノニ取カワシム安芸守敵ト組テ山上ヨリ上ニナリ下ニナリコロヒ落従者是ヲ助ケントスルヲ信濃叱シテ助ケシメス既ニ平場ニ落着敵上ニ成テ首カヽントスル時馬取ノ某シ〈後ニ芝内膳トイフ〉敵ノ右ノ手ヲ取并吉田隼人トイフ者駈ヨリテ安芸守ニ首ヲ捕ラシム式部少輔モ組討ノ高名シタリ小田勢敗北シテ最前ノ道路ヲ経テ小田ヘ引入真壁勢山ヲ上リ追打又小幡ヨリ小田迄三道四里ノ間天庵一度モ返ス事ナシ三楽ハ此戦ニ搆ハス逃ル敵ノ側ヲ斜ニ先立テ押行ニ小田近ク成時馬ニ策打テ小田城ヘ乗込門ヲ堅メテ楯籠ル天庵入事叶ハスシテ一里計後ノ藤沢ノ城ヨリ毎度働出迫合有リ三楽棲楼ヲ揚遠候ヲ置テ天庵カ働キ出ル様子ヲ見切近キ時ハ早鐘ヲツキ遠キ時ハ狼煙ヲ挙テ真壁ヘ告シラシメ相図ヲ定メテ加勢ヲ受ル故小田ヲ堅固ニ保テ太閤小田原陣ノ時迄三楽斎其子太田美濃守資晴在城ト云々
茨城郡笠間ノ城主大和守入道心休〈三万石領ス〉ト同国
文化八年辛未正月八日書写了 中山平四郎源花押
同年夏五上浣書写畢 温古堂
明治三十五年一月以大学本再校了 近藤圭造
この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。