嵐と砂金の因果率


嵐と砂金の因果率

甲賀三郎

一、暴風雨の夜


 広漠たる荒野の絶端が大洋の上に突出た低い小さな岬、両腹はえぐり取られたようにくぼんで、片腹は僅に狭い荒浜に続いている、その岬の上にポツンと立てられた、今は住む人もない一つ家、漆黒しつこくの天地を荒狂っている嵐の目標はこの家よりない。怒濤は三方から岬に嚙みついて、たださえ瘦せた腹へ穴を開けようとし、風は恐ろしい叫声を挙げて、腐れ落ちそうな壁を一挙にほふろうとする。槍のような雨は半ば崩れた屋根から、喚声と共に闖入ちんにゆうしている。そうしてこの廃屋の中には懐中電燈の一筋の光を頼りに二人の旅人が不安と恐怖に包まれてうずくまっているのだ。

 瀕死とも云うべき廃屋が、この物凄い嵐に抵抗しているのは奇蹟だ (だが、その廃屋の中に、しかもこの嵐の夜に、二人も人間が居るなんて、もっと奇蹟だ!)。柱は腐って壁は哀れな骨をむき出しにしている。床板はほとんど崩れ落ちて、名もない草がその間からスクスク生えている。奥の一間に僅に残った畳はブクブク脹れて、怪物の巣のようだ。屋内は異様な臭気、しめっぽい陰惨な臭が充ち満ちている。それに外には嵐が荒狂うており、雨と共に風は凄じく吹き込んで来る。二人の旅人は雨装束しようぞくのまましやがんでいるのだが、雨と風に追いすくめられて、だんだん身体を寄せながら、比較的安全な一隅に喘いでいる。

 二人の旅人はこの暴風雨の夜にこの崩れかかった一つ家で偶然落合ったのだ。二人とも厳重に身拵みごしらえをして、日に焼けた赤黒い顔に鋭い眼をギロリと光らして、一癖ありそうな、年の頃はどっちも三十五六だろうか、風雨にさらされた面構えは四十を越したかとも見える。この二人の男をようやく区別の出来る特徴は、天井に向けた懐中電燈の薄暗い反射でようやく認められる通り、一人は額に大きな打疵うちきずらしい痕があり、一人は類にこれは切疵らしい痕がある事だ。暴風雨あらしの夜、海岸の廃屋、顔に傷痕のある二人の旅人、彼等は何の為にこんな所へ来たのだろう。

 額に傷痕のある男が一足先きにここへ来たのだった。それからしばらくして頰に傷痕のある男がやって来た。彼等の向い合った時の驚駭きようがい、探るような眼つき、彼等は申合わせたように右手を着物の胸に突込んだ。そこにはピカピカ光る短刀がお互に秘めてあるのだ。だが、やがて二人は隔意かくいのないように打解けて、暴風雨をかこちながら、世間話を始めたのだった。

「じゃ、何かい、お前さんは三年前の、そうさ、矢張こんな嵐の夜だったが、この家で人殺しのあったのを知らねえと云うのかい」頰に傷痕のある男はギロリと眼を光らす。さっきからの続き話である。

「知らねえ」向疵の男はふんと云ったように受流す。

「そうかい。三年前によ、時候も秋口の丁度今時分だ。こんな嵐の晩だっけ、この家の主の年寄夫婦が絞め殺されたのさ」

「で、殺した奴は捕ったのか」

「いや、捕らねいのだ。現場にゃ、そうさ丁度お前さんの坐っている辺だ」頰傷の男は薄気味の悪い笑を浮べながら、「血がポタポタ垂れていたのさ。夫婦は絞められたのだから、血は出る筈がねえ。殺った奴が何かの拍子に血を出したらしいのだが、その外何の証拠になるものはなし、それにこんな人里離れた一つ家だ。とうとう分らずじまいさ」

「ふん、で、お前さんはそんな気味の悪い所と知りながら、暴風雨の晚に何だってここへ来なすったのだ」

「犯人にいにさ」

「え?」

「人殺しをした奴はきっと現場へ戻って来るものだからねえ」

「だが、お前さんの話だと、その人殺しと云うのは三年前の事だぜ」

「そうさ。三年前の丁度今晩だ。俺は三年目と云い、この暴風雨と云い、屹度きつときゃつは舞戻って来ると思ったのさ」

「そんなものかなあ」額に傷痕のある男はつまらなそう。

「所で、お前さんは一体何用あって、ここへ来なすったんだ」頰傷の問いは鋭い。

「わっしかい。ちったあ訳があるのさ。と云うのは今から六年前、そうさ、.さっきのお前さんの話が三年前だから、それから又三年前やっぱり今頃で、しかも今日のような暴風雨の晚さ。ぷっ――」

 折柄、巨獣の吠えるような音と共に、岩を嚙む怒濤と、恐ろしい疾風はやてが、大地震のように廃屋を揺り動かしたのである。

魂消たまげさせやがった、ひどい嵐だ」向疵の男は話を杜絶とぎらした。

「なに、六年前?」頰傷の男は膝を進めるように聞く。

「うん、六年前の嵐の晩の事なんだ」

「そう云えば、六年前にもこんな嵐があった」頰傷の男は独言ひとりごとのように云う。

「おお、お前さんもあの嵐を覚えているかい。あの頃にゃ、さっきお話の殺されたとか云うお爺さん婆さんは未だ達者よ。その嵐の晩に起った出来事、こいつあ、お前さん知るめいな」

「この家にかい」

「そうだ」

「知らねえ」頰傷の男は吐き出すように云う。

「そうだろう」

「どう云う出来事だか、一つ話して貰いたいな」

「話そうとも、事によったらお前さんの話と何か関係があるかも知れねえ」

 嵐は絶間たえまなく吹きすさんでいる。廃屋の中にしょんぼりと蹲った二怪人の姿は、いよいよ怪しく、薄暗い懐中電燈の反射光に、照らし出されているのだった。向疵の男はおもむろに口を切った。


二、最初の暴風雨の夜

(額に傷痕のある男の話)


 その晚の暴風雨はかなり酷かったと云う事だ。だが、家はこんなに腐っちゃいないし、年寄夫婦も達者でいたのだ。今晩ここにこうして、お前さんと一緒にいる程には気味悪くもなかったろうじゃないか。

 しかし人里から大きな荒野を隔てて、しかも海の上に突出た岬の上の一つ家だ。明けても暮れても、爺さんと婆さんとが鼻を突合していたんじゃ、家の空気はどうあっても陽気になりっこはねえ。たいていの若い者も一足家の中へ踏み込むと、じっと気が滅入ってしまったと云うのも、満更嘘じゃねえ。

 一体、何だって爺さん夫婦がこんな所にすまっているのか、後に思い合せば海のむこうに行ったと云う息子を慕って、こんな海の突端に住んで、毎日海を眺めていたのかも知れないが、それともほかに訳があるのか、俺は知らねえ。だが、とに角、二人でこんな淋しい所に住っていた事は事実なんだ。

 今云った嵐の晚、爺さん夫婦は沖に難破船でもなきゃ好いがと気遣いながら、真夜中までまんじりともしなかったが、果して夜中過ぎ、裏口を叩いて救いを求める声がしたのだった。爺さんが木戸を開けると、雨と風と一緒に、ひょろひょろと這入って来たのが、重そうな袋をかついで、何で怪我をしたのか、額からタラタラ血を流して、半面真紅あけに染った若い男だった。

 爺さんも婆さんも永い事こんな所にいて、難破船や、打上げられた半死半生の漁師や船員達は再々見たので、格別驚きもせず、息も絶え絶えになっている、その男を親切に介抱したのさ。

 男も追々元気を恢復してポツリポツリ話した事は、何でも小さな密漁船に乗込んでいたのが、この沖で嵐の為に難破したと云うのだ。この男は元からの船乗りじゃない。数年前に日本を飛び出して一攫千金いつかくせんきんを夢みて、カリフォルニヤママ州に密航したのだが、思わしい仕事もなく、ゴロゴロしている中に、偶然、同じ思いの野心に燃えている青年と知合ママになり、手を取って砂金掘りにアラスカへ出かけたのだ。そこで数年苦労した甲斐あって、大分砂金を溜め込んだので、幸い寄航した密漁船に頼んで乗せて貰って、船の仕事を手伝いながら、遥々はるばる懐しい日本へ帰って来たのだった。

 所が、もう陸が見えると云う沖合で、暴風雨さ。砂金の袋を背負って、ボートに飛乗ったがたちまち転覆して終った。しかし、幸にもしっかり板片を摑んでいたので、沈みもせず、砂金だけはどんな事があっても放せるものか、山のような荒波に乗りながら、揉みに揉まれていたのだ。

 暫くすると板片の端に泳ぎついて摑まる者がある。叫び合うと、それがアラスカの砂金掘りの仲間なんだ。きゃつも砂金の袋を背負しよいながら、必死になって板片に摑ろうとするのだった。

 それは悲しい事実だった。

 きゃつが板片に摑ると、板片はぶくぶく沈もうとするのだ。お互ママに砂金の袋を放して終えば、その一枚の板片で、どうやら二人が浮べたかも知れない。だが、袋を見放すのは死ぬより辛い事なのだ。考えて見ると二人は永い間の親友だった。異郷でめぐり合って、それから又極北極寒の地で数年間、危険な目に遭い、苦しい思いをする度に、お互に励まし合い救け合い、文字通り苦楽を共にし、死生め間を潜り抜けて来たのだった。だが、怒濤の間に一枚の板片を争う時に、ああ、たちまち不倶ふぐ戴天たいてんの仇敵になって終ったのだ。

 対手あいてたおすか、自分が死ぬか、それは真剣な、だが、浅間しい争だった。

 闇で見えなかったが、きゃつの顔はきっと悪鬼のようだったろう。俺の――いやその青年の顔も二目とは見られない兇悪なものだったろう。彼等は本能と本能、獣性と獣性とで、飽く事もなく闘った。これが平和な航海だったら、二人は上陸すると相抱いて嬉涙うれしなみだを流しながら、お互の幸運を祝福した事であろうに、漆黒の天地に雄叫おたけびの声を挙げて荒れ狂う、雨伯うはく風師ふうし、もろもろの悪魔、妖精、きっとそんな奴が二人の魂に野獣の心を吹込んだに違いない。二人はもう夢中だった。お互に自分の命を奪おうとする妖怪と闘っているとより思わなかった。二人は遂に血を流した。

 幾分間かの後、とうとう一方が勝ったのだ。彼は文字通り命懸いのちがけてママ奪った板にしがみついて、額からタラタラ血を流しながら、浜辺に打上げられた。彼は息も絶え絶えになりながら、僅に洩れる燈火を頼りに、ひょろひょろとこの一つ家に辿たどりついたと云う訳だった。

 彼は何もこんな事をくわしくしやべらなくても好かったのだ。けれども一つには彼はもうとても助らぬと覚悟した (それ程彼は苦しかったのだ)。一つには良心が蘇って来ると共に、彼の親友を裏切った事が、ひしひしと心を責めた。彼は懺悔ざんげの積りでこの話をしたのだった。所が、老人夫婦は根掘ねほ葉掘はほりきゃつときゃつの友達の事を聞くのだ。きゃつはとうとう自分と友達の名を云わされて終った。

 年寄夫婦がしつこく聞いたのには訳があった。夫婦には一人の息子があったのだ。その息子は十年も前にアメリカへ行って終い、最初の一、二年は便もあったが、それからバママッタリ消息がないのだ。人の噂さママではアラスカへ行って金掘りをしていると云うので、もしやと思って聞いて見たのだ。

 所がどうだ、現在眼の前で自分達夫婦が介抱している男がしかも自分達の住んでいる家の沖合で、愛する一人息子を、しかも成功して帰って来た息子を、無慙にも沈めて終ったと云うのだ!

 夫婦は顔を見合して、あきれるばかりだった。

 それでももしや間違いかと、いろいろ尋ねているうちに、ふと砂金の袋を見ると、そこには彼等の一人息子の名がちゃんと書いてあるではないか。

 これはこうだった。二人の青年は船の沈む騒ぎに、ついお互の砂金袋を取り違えて背負ったのだった。だが、夫婦はそうは思わない。彼等の所へ飛び込んで来た青年は、息子を海へ沈めただけでなく、砂金の袋を奪った、いや事によったら、砂金欲しさに息子の命を奪ったのかも知れないと思ったのだ。これは無理もない推測だった。

 夜明前の一時間、暴風雨の勢はようやく峠を越したが、未だ天地は兇暴に荒狂うていた。その時に、老人夫婦はよろけこんだ男の耳許に、お前は自分達の最愛の息子の生命を奪ったのだと囁いて、砂金の袋の代りに大きな石を背負わして、手取り足取り、この岬の突端から、ドブーンと怒濤の中へ抛込ほうりこんで終った。

 それから、噂によると夫婦はすっかり元気がなくなって、一日黙って坐り込み、まれに訪ねる付近の里人にさえ、笑顔は愚か、口さえ滅多に利かなくなったと云う事だ。だが、誰だって、こんな出来事のあった事は知らないのだ。


 空の凄じい雄叫び、岸を嚙む怒声、砂まじりの雨は依然として衰えなかった。語り終った男は薄気味の悪い笑を浮べていた。額の疵が薄ぼんやりした光線の当り工ママ合だろう、奇怪な爬虫類はちゆうるいが這いずっているように見えた。

 黙って聞手になっていた頰傷の男はやおら口を切った。


三、二度目の暴風雨の夜

(頰に傷痕のある男の話)


 ふん、そう云う事があったのか。そいつは少しも知らなかった。が、そう聞けば大きママに思い当る事がある。

 お前さんの話から三年目、今から丁度三年前、度々云った通り、今晩のような大嵐よ。一人の旅人が路に迷った挙句あげく、真夜中だった、この一つ家を訪ねたと思いねえ。そいつは何でも元この辺の者だった。久しい前に遠い国へ出稼ぎに出て一度は小金をこしらえて、故郷を目がけて帰ったが、嵐の為に流されて、どこの沖合だか分らねえ、とうとう船は沈んで終った。それでも不思議に命は助って、或る浜辺に打上げられた。その村の人達のお蔭で、どうやら元の身体になり、暫くはそこで漁師の仲間に入れて貰ったが、異国で酒と女の間を一か八かで通って来た悲しさ、どうでも正業とか云う奴は身につかねえ。だんだん身は持ち崩すし、それに持って生れた漂浪ひようろう性とか云う奴が、黙っていねぇ。又、ひょろひょろと旅に出て、乞食同様あちこちを歩き廻ったが、故郷ぼうじ難しと云う奴でフラフラこの辺へ舞戻ったが、大きな荒野で路に迷って終って、その上大嵐に遭い、散々の体たらくで、ようやくこの一つ家に辿りついたのだった。

 この家に一足踏み入れた時に、随分強情な俺――いや、そいつは随分強情な奴だったけれども、襟元からぞっとしたと云う事だ。何年前に建った家か、太い柱はへんに曲って、がっしりした木組も今はガタガ夕になって、壁は落ち畳は破れ、襖障子はすすで真黒になっているし、灯火と云えば小さなランプが吊してある切り、これがあったればこそ、彼もここへ辿りつく事が出来たのだが、ホヤは傾いて油烟ゆえんは出放題、それが時々風の為に消えそうになると云う奴で、人の住んでいる所とは思えない。いや、いっそ、人が住んでいなければ未だしもだが、例えば今ここにこうして腐りかかっている家で、嵐の中をお前さんと二人切りで、気味が悪いには悪いが、お互に血気と行かないまでも、まあ力にはなると云うものだが、その時には、この世の人と思えない老人夫婦がしょんぼりと坐っていたのだ。何と凄かろうじゃないか。

 老人と云っても後で考えて見りゃ、爺さんは六十そこそこ婆さんは五十少し出た位だったのだが、二人とも骨と皮だ。啞のように黙りこくって坐っているのだ。

 爺さんの方はまあ骸骨そっくりだった。頰骨が出て眼が窪んで、何かする度にガチガチと骨が鳴るのだ。いろりの前に坐って、骨張った細長い手をそろそろと蛇の這うように動かして、烟管きせるをまさぐっていた。婆さんは渋紙しぶがみのような光沢つやのない顔色に、額と頰の皺がくっきりとあざやかについて、ギロリとした底光りのする眼で、四辺をジロジロ見ながら、真夜中だと云うのにまないたの上で、庖丁を逆手に持って、何やら料理していた。廃屋同様の一つ家の薄暗い灯火の下で、正視に堪えないような物凄い老婆が庖丁を持っている姿は、人間でも料理しているようで、老婆の口が耳まで裂けているかと見えたと云う。旅人はすぐにこんな家に飛び込んだのを後悔した。だが、外は大荒れだ。広漠たる原野だ。ー晚彷徨したって宿るべき所はない。彼は度胸をめて坐り込んだ。

 老婆はいろりにかけた鍋から、どろどろしたものを碗に汲取って、やもりの丸焼のような、しかしそれは何かの魚を燻焼いぶしやきにしたものだったが、薄気味の悪い食物を彼に与えた。どうやら腹が出来ると、旅人はいくらか落着いた気になって、いろりの前にいざり寄り、煙草を一服無心した。

 快い一服に今朝からの疲れを忘れかけて、ふと爺さんの腰の辺を見るともなしに見やると、黄色い小粒がキラリと光る。オヤと見直すと、あちらにもこちらにも、おおよそ一摑み爺さんの坐っている廻りにバラ撒いてある。拾って見る迄もない見事な砂金だ! この男には懐しい、忘れる事の出来ない砂金なのだ!

「砂金!」思わず彼は声を挙げた。

「砂金よ」啞のように黙っていた爺さんは顎をガチガチ云わせながら、嘲けるように口を利いたものだ。

「砂金!」もう一度彼は叫んで、手を伸ばすと、畳の上をー摑み、十粒あまりを摑み取って、小供が熱望していた玩具おもちやを与えられたように、右の手から左の手に移し、左から右へ夢中になって楽しんだ。彼にとっては死んだ愛児に巡り遭ったのより嬉しいのだ。彼はこの為に何度死ぬような目に遭ったろう。どんな危険をおかし、どんな苦痛を忍んで、これを得る為に努力したか。そうして最後に彼は採集した砂金を船と共に海底に沈めて終ったのだ。

 猫が鼠に戯れるように砂金をもてあそんでいる旅人をじっと見つめながら、爺さんはニヤニヤと薄気味悪い笑を浮べていた。だが、旅人の背後の婆さんの相はみるみる険悪になった。彼がさっきの三年前の話を少しでも知っていれば、何とか要心する所もあったのだろうが、彼は微塵みじんもそんな事を知らなかった。その間に老婆は庖丁逆手にジリジリと彼の背後に迫ったのだ。旅人が何かの気配に気づいたか、それとも何の気なしにか、振り向くのと庖丁が飛んで来るのとが同時だった。あっと云う間もなく彼は頰をグサと一刺しやられた。

 彼がぱっと飛びしさって、悪鬼のような老婆と相対した時には、もう自分の生命を守るより外の事は考えなかった。彼は老婆の手許に飛込むと両手で頸を絞めた。後ろから飛びついて来た老爺を、忽ち押倒して同じく頸を力まかせに摑んだ。鶏を絞める程の力もいらなかった。もともと彼等二人が生きていたのが不思議な位なのだ。

 彼は茫然として二人の犠牲を眺めた。

 ああ、すべては砂金のさせた事だ。けれども、誰が彼の立場を認めて呉れるだろうか。牢獄、死刑、彼はぶるっとふるえた。

 彼はたちまち身をひるがえして暴風雨に荒れる外へ逃れ出た。

 これがまあ、三年前のこの家に起った夫婦殺しの顚末てんまつさ。


 語り終って、頰傷の男はニヤリと笑った。だが、その笑には隠すべからざる悲痛の色があった。


四、最後の暴風雨の夜


 二人の男の話が済んでも未だ暴風雨は止まなかった。廃屋は二人の男にそのすべての歴史を語り尽されて、もう敢えて存在する必要もないのだろう、今にも斃れそうに断末魔だんまつまの喘ぎをするのだった。

 顔を見合した二人の男はまじろぎもせず、お互にじっと見詰めた。

「お前無事でいたのか」額に傷痕のある男は云っだ。

「お前も無事でいたのか」頰に傷痕のある男は、鸚鵡返おうむがえしに云った。

「六年前にこの岬のとっ端から抛り込まれた時には、もうお終いと観念したが、未だ運が尽きないのか、こうして生きているよ」

「俺も六年前にお前から海の中へつッ放された時にはもう生命はないと覚悟したが、未だ死にもせず生きているよ」

「あの時はお互に危急存亡ききゆうそんぼうときだ、悪く思わないで呉れ」

「悪く思いやしないさ。あの時は俺が沈んでいなければお前が沈んでいるのだ。仕方がないさ。それよりもお前がここの夫婦から又海へ抛り込まれたとは、気の毒だった」

「何、それも運とあきらめるよりない。それより、俺の為にここの夫婦が気が変になり、三年後にお前に斬りつけるような事になって、とうとう親を手にかけたとは、何とも云いようない気の毒な事だなあ」

「俺もさっきお前の話を聞いた時に初めて、この家の主人とは切っても切れない親子の仲と知ったのだが、俺はほんとうに腹の中は涙で一杯だった。だが、――だが、今はもう何でもねえ、これも因縁とあきらめるさ」

「もっともだ、どんなにか泣きていママだろうなあ」

「な、泣きていさ。だが、その話はもうよして呉れ」

「うん」向疵の男はうなずいて、「それでお前は砂金はどうしたのだ」

「砂金たあ?」頰疵の男は不審顔である。

「お前が夫婦を殺して盗った砂金よ」向疵の男はきっとなった。

 嵐は依然として阿修羅あしゆらのように荒れ狂い、雨は益々激しく降リ込む。廃屋の闇は愈々いよいよ濃い。

「冗談云っちゃいけねえ」頰疵の男もきっとなった。

「俺は前にも云う通り、六年前の出来事は少しも知らねえ。知らねえばかりにとんだ間違いをし出かしたのだ。ここの夫婦が俺の現在の親と云う事は元より、砂金を一袋持っている事なぞは夢にも知らなかったのだ。どうしてそんなものを盗るもんか」

「白ばっくれるねえ」向疵の男は声を荒げた。

「お前は砂金の事をどっかで聞き出し、親とは知らずに嵐の晩に忍び込み、夫婦が抵抗するので絞め殺して、砂金を盗んだのに違いない。お前は冒頭のつけに何と云った、犯人はきっと現場を見に来るに違いないと、へん、いけ図々しい野郎だ」

「何をっ!」相手はかっとなった。「そう云うお前こそ、この嵐の晩に砂金を狙ってやって来たのだな」

「そうよ。狙うも何もねえ、砂金は元々俺のものなのだ。だが、三年前にお前に持って行かれた後とは、飛んだどじだった」

「待てよ」頰疵の男は少し語勢を軟げた。「じゃ、砂金はこの家のどっかにあるのだ」

「なにっ! じゃお前は手をつけなかったんだな」

「疑り深い奴だなあ。俺は砂金の事なんか知るものか。じゃ、何だな、手前が持って逃げた砂金はここにあるのだな」

「そうだ」

「そいつは有難い。早速探すとしよう」

「だが、探しても気の毒ながら俺のもんだぜ」

 向疵の男はひややかに云った。

「馬鹿を云え、袋には俺の名が書いてあったと云うからには俺のものだ」

「冗談云うな、俺が命懸けで持出したのだ」

「生命を懸けたのはお互様たがいさまだ。俺はお前に殺され損ったのだ」

「何と云っても、俺に正当の権利がある」

「そんな事があるものか」

「おい、お前は人殺しの兇状持ちじゃないか、俺が一言喋ればお前の首は飛ぶのだぜ」

「何をっ! そう云うお前だって、自慢する程潔白じゃあるめい。今云う砂金だって俺が一言滑らしゃ、素直にお前のものになるものか」

「そりゃ又どうしてだ」

「どうしてだと、へん、手前はその砂金をアラスカから正当に持出したのだと云うのか」

「うるせいっ、砂金は何と云っても俺のものだ」

「こう、待て」頰疵の男は仔細らしく云った。「喧嘩は後だ。とに角砂金を探さなくちゃ話にならねえ」

「何探すには及ばねえ」向疵の男は平然と答えた。「俺はさっきから砂金の袋に腰をかけているのだ。俺はお前より一足さきにここへ来て、ちゃんと縁の下から掘り出したのだ」

「なにっ!」

 頰疵の男は突然向疵の男を突飛ばした。不意を食って、彼はたちまち転った。その拍子に懐中電燈はふっ飛んで、パッと消えた。

 暴風雨はこの汚らわしい廃屋を倒さねば止まぬように吹きすさぶ。降り込む雨に床下は沼である。

 闇の中をんずほぐれつ、二人の男は六年前の浅ましい闘争を繰り返すのだった。


 翌朝嵐が過去って、真珠色の太陽が金色の光をこの小さい岬に投げかけた時に、廃屋は見る影もなく倒れていた。そうして、その中には一面に撒き散らされた黄金こがねの粒の上に、二人の荒くれ男が息も絶え絶えにもがいていた。

 二人はやがて死体となり、太陽はいつまでも、その上に輝いているだろう。この倒れた廃屋に再び人の訪れるのは、事によったら、又三年後の暴風雨の晚ではないだろうか。


(一九二六年十月号)

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