懐古園の城門に近く、桑畠くわばたけの石垣の側で、桜井先生は正木大尉に逢った。二人は塾の方で毎朝合せている顔を合せた。

 大尉は塾の小使に雇ってある男を尋ね顔に、

おとはどうしましたろう」

「中棚の方でしょうよ」桜井先生が答えた。

 中棚とはそこから数町ほど離れた谷間たにあいで、新たに小さな鉱泉の見つかったところだ。

 浅間のふもとに添うた傾斜の地勢は、あだかも人工で掘割られたように、小諸城址こもろじょうしの附近で幾つかの深い谷を成している。谷の一つの浅い部分は耕されて旧士族地を取囲とりまいているが、その桑畠や竹薮たけやぶうしろにしたところに桜井先生の住居すまいがあった。先生はエナアゼチックな手を振って、大尉と一緒に松林の多い谷間の方へ長大な体躯からだを運んで行った。

 谷々は緑葉に包まれていた。二人は高いがけの下道に添うて、耕地のある岡の上へ出た。起伏する地の波はその辺で赤土まじりの崖に成って、更に河原続きの谷底の方へ落ちている。崖の中腹には、小使の音吉が弟を連れて来て、道をつくるやら石塊いしころを片附けるやらしていた。音吉は根が百姓で、小使をするかたわら小作を作るほどの男だ。その弟も屈強な若い百姓だ。

 兄弟の働いている側で先生方は町の人達にも逢った。人々の話は鉱泉の性質、新浴場の設計などで持切った。千曲川ちくまがわへの水泳のついでに、見に来る町の子供等もあった。中には塾の生徒も遊びに来ていて、先生方の方へ向って御辞儀した。生徒等が戯れに突落す石は、他の石にぶつかったり、土煙を立てたりして、ゴロゴロ崖下の方へ転がって行った。

 堀起された岩の間を廻って、先生方はかわるがわる薄暗い穴の中をのぞき込んだ。浮き揚った湯の花はあだかも陰気なこけのように周囲まわりの岩に附着して、極く静かに動揺していた。

 新浴場の位置はほぼ崖下の平地ときまった。荒れるに任せた谷陰には椚林くぬぎばやしなどのい茂ったところもある。桜井先生は大尉を誘って、あちこちと見て廻った。今ある自分の書斎――その建物だけを、先生はこの鉱泉わきに移そうという話を大尉にした。

 対岸に見える村落、野趣のある釣橋つりばし、河原つづきの一帯の平地、遠い近い山々――それらの眺望は先生方をよろこばせた。日あたりの好いことも先生方を悦ばせた。この谷間は割合に豊饒ほうじょうで、傾斜の上の方まで耕されている。眼前めのまえに連なる青田は一面緑の波のように見える。士族地からここへ通って来るということも先生方を悦ばせた。あの樹木の蔭の多い道は大尉の住居すまいからもさ程遠くはなかった。

 その翌日から、桜井先生は塾の方で自分の受持を済まして置いて、暇さえあればここへ見廻りに来た。崖下に浴場を経営しようとする人などが廻って来ないことはあっても、先生の姿を見ない日はまれだった。そして、そこに土管が伏せられるとか、ここに石垣の石が運ばれるとか、何かしらずつ変ったものが先生の眼に映った。河原続きの青田が黄色く成りかける頃には、先生の小さな別荘も日に日に形を成して行った。霜の来ないうちに早くと、崖の上でも下でも工事を急いだ。

 雪が来た。谷々は三月の余も深くうずもれた。やがてそれが溶け初める頃、た先生は山歩きでもするような服装なりをして、人並すぐれて丈夫なあし脚絆きゃはんを当て、持病のリョウマチに侵されている左の手をふところに入れて歩いて来た。残雪の間には、崖の道までにじあふれた鉱泉、半ば出来た工事、冬を越しても落ちずにある茶色なくぬぎの枯葉などが見える。先生は霜のために危くくずれかけた石垣などまで見て廻った。

 この別荘がいくらか住まわれるように成って、入口に自然木の門などが建った頃には、崖下の浴場でもすっかり出来上るのを待たないで開業した。別に、崖の中途に小屋を建てて、鉱泉に老を養おうとする隠居さん夫婦もあった。

 春の新学年前から塾では町立の看板を掛けた。同時に、高瀬という新教員を迎えることに成った。学年前の休みに、先生は東京から着いた高瀬をここへ案内して来た。岡の上から見ると中棚鉱泉とした旗が早や谷陰の空にひるがえっている。湯場の煙も薄く上りつつある。


 桜井先生は高瀬を連れて、新開の崖の道を下りた。先生がまだ男のさかりの頃、東京の私立学校で英語の教師をした時分、教えた生徒の一人が高瀬だった。その後、先生が高輪たかなわの教会の牧師をして、かたわらある女学校へ教えに行った時分、誰か桜井の家名を継がせるものをと思って――その頃は先生も頼りにする子が無かったから――養子の話までほのめかして見たのも高瀬だった。その高瀬が今度は塾の教員として、先生の下で働きに来た。先生から見れば弟子か子のような男だ。

 石垣について、幾曲りかして行ったところに、湯場があった。まだ一方には鉋屑かんなくず臭気においなどがしていた。湯場は新開の畠に続いて、硝子ガラス窓の外に葡萄棚ぶどうだなの釣ったのが見えた。青黒く透明な鉱泉からは薄い湯気が立っていた。先生は自然と出て来る楽しい溜息ためいきおさえきれないという風に、心地こころもちの好い沸かし湯の中へ身を浸しながら、久し振で一緒に成った高瀬をながめたり、田舎風な浅黄あさぎ手拭てぬぐいで自分の顔の汗をいたりした。仮令たとえ性質は冷たくとも、とにもかくにも自分等の手で、各自てんでくわかついで来て、この鉱泉の脈に掘当てたという自慢話などを高瀬にして聞かせた。

「正木さんなどは、まるで百姓のような服装なりをして、シャベルを担いではって来たものでサ……」

 何ぞというと先生の話には、「正木さん、正木さん」が出た。先生は又、あの塾で一緒に仕事をしている大尉が土地から出た軍人だが、既に恩給を受ける身で、読みかつ耕すことに余生を送ろうとして、昔なつかしい故郷の城址の側に退いた人であることを話した。

「正木さんでも、私でも――矢張やはり、この鉱泉の株主ということに成ってます」

 と先生は流し場の水槽みずぶねのところへ出て、斑白はんぱくな髪をらしながら話した。

 東京から来たばかりの高瀬には、見るもの、聞くもの、新しい印象を受けるという風であった。

 二人は浴場を離れて復た崖の道を上った。その中途にある小屋へ声を掛けに寄ると、隠居さんは無慾な百姓の顔を出して、先生から預かっているかぎを渡した。

「高瀬さんに一つ、私の別荘を見て頂きましょう」

 と言って先生は崖にった小楼の方へ高瀬を誘って行った。「これが湯の元です」というところを通った。先生は岩の間に造りつけてある黒い扉を開けて高瀬に見せた。そこには、隠れた地の底からいて来たままの鉱泉がよどんでいた。

「どれ、御案内しましょう。まだ畳もすっかり入れてありません」

 先生は隠居さんから受取った鍵で錠前をガチャガチャ言わせて、誰も留守居のない、暗い家の中へ高瀬を案内した。閉めてあった雨戸を繰ると、対岸の崖の上にある村落、耕地、その下をはしり流れる千曲川が青畳の上から望まれた。

 高瀬はてすりのところへ行って、川向うから伝わって来るかすかな鶏の声を聞いた。先生も一緒に立って眺めた。

「高瀬さん、この家は見覚えがありましょう――」

 先生にそう言われると、高瀬にも覚えがある。高瀬は一度小諸を通って先生の住居を訪ねたことがある。形は変えられたが以前の書斎だ。

「どうせ、この建物はこうしてありますから、皆さんにお貸し申します……御入用いりようの時は、何時でも御使い下さい」

 と言いながら、先生は新規に造り足した部屋を高瀬に見せ、更に楼階はしごだんの下の方までも連れて行って見せた。そこは食堂か物置部屋にでもしようというところだ。崖を崩して築き上げた暗い石垣がまだそのままにあらわれていた。

 二人は復た川の見える座敷へ戻った。先生は戸棚を開けて、煙草盆などを探した。

「しかし、先生も白く成りましたネ」

 と高瀬が言出した。

 先生が長い立派なひげはやしたのもこの地方へ来て隠れてからだ。


 年はとっても元気の好い先生の後にいて、高瀬はやがてこの小楼を出、元来た谷間の道を町の方へ帰って行った。一雨ごとに山の上でも温暖あたたかく成って来た時で、いくらか湿った土には日があたっていた。

「桜井先生、あの高輪たかなわの方にあった御宅はどう成さいました」

「高輪の家ですか。あれは君、実に馬鹿々々しい話サ……好い具合に人に胡麻化ごまかされて了いました……」

 高瀬は先生の高輪時代をよく知っている。あの形勝の好い位置にあった、庭も広く果樹なども植えてあった、恐らく永住の目的で先生が建てた家を知っている。あの時代に居た先生の二度目の奥さんを知っている。あの頃は先生もまだ若々しく、時には奥さんに軽い洋装をさせ、一緒にさる町辺を散歩した……先生にもそういう時代のあったことを知っている。

 話し話し二人は歩いた。

 坂に成った細道を上ると、そこが旧士族地の町はずれだ。古い屋敷の中には最早もう人の住まないところもある。こわれた土塀どべいと、その朽ちた柱と、桑畠に礎だけしか残っていないところもある。荒廃した屋敷跡の間から、向うの方に小諸町の一部が望まれた。

「浅間が焼けてますよ」

 と先生は上州の空の方へなびいた煙を高瀬に指して見せた。見覚えのある浅間一帯の山脈は、旅で通り過ぎた時とは違って、一層ハッキリと高瀬の眼に映って来た。

 先生の住居に近づくと、一軒手前にある古い屋敷風の門のところは塾の生徒が出たり入ったりしていた。寄宿する青年達だ。いずれも農家の子弟だ。その家の一間を借りて高瀬はさしあたり腰掛に荷物を解き、食事だけは先生の家族と一緒にすることにした。横手の木戸を押して、先生は自分の屋敷の裏庭の方へ高瀬を誘った。

 先生の周囲は半ば農家のさまだった。裏庭には田舎風な物置小屋がある。下水のためがある。野菜畠も造ってある。縁側に近く、大きな鳥籠とりかごが伏せてあって、その辺には鶏が遊んでいる。今度の奥さんには子供衆もあるが、都会育ちの色の白い子供などと違って、「坊ちゃん」と言っても強壮じょうぶそうに日に焼けている。

 東京の明るい家屋を見慣れた高瀬の眼には、屋根の下も暗い。先生のような清潔好きれいずきな人が、よくこのむさくるしい炉辺ろばたに坐って平気で煙草がめると思われる程だ。

 高瀬の来たことを聞いて、逢いに来た町の青年もあった。どうしてこんな田舎へ来てくれたかなどと、挨拶あいさつも如才ない。今度の奥さんはミッション・スクウルを出た婦人で、先生とは大分年は違うが、取廻しよく皆なを款待もてなした。奥さんは先生のことを客に話すにも、矢張「先生は」とか「桜井が」とか親しげに呼んでいた。

「高瀬さんに珈琲コーヒーでも入れて上げたらかろう」

「私も今、そう思って――」

 こんな言葉を奥さんとかわした後、先生は高瀬と一緒に子供の遊んでいる縁側を通り、自分の部屋へ行った。庭の花畠に接した閑静な居間だ。そこだけは先生の趣味で清浄きれいに飾り片附けてある。唐本の詩集などを置いた小机がある。一方にはせんの若い奥さんの時代からあった屏風びょうぶも立ててある。その時、先生は近作の漢詩を取出して高瀬に見せた。中棚鉱泉の附近は例の別荘へ通う隠れた小径こみちから対岸の村落まで先生の近作に入っていた。その年に成るまで真実ほんとうに落着く場所も見当らなかったような先生の一生は、漢詩風のことばで、その中に言い表してあった。

 その晩、高瀬は隣の屋敷の方へ行って、一時借りている部屋で、東京の友人に宛てた手紙を書いた。一間ほど隔てて寄宿する生徒等の何かゴトゴト言わせる音がする。まだ他に部屋を仕切って借りている人達もあると見え、一方の破れたふすまの方からは貧しい話し声がボソボソボソボソ聞える。旅の行李の側に床を敷いてからも、場所の違ったのと、鼠の騒ぐのとで、高瀬はよく寝就かれなかった。彼の心はまだ半ば東京の方にあった。自分のために心配していてくれる人達のことなどが、夜遅くまで、彼の胸を往来した。


 朝早く高瀬は屋外そとに出て山を望んだ。遠い山々にはまだ白雪の残ったところも有ったが、浅間あたりは最早すっかり溶けて、牙歯きばのような山続きから、陰影の多い谷々、高い崩壊の跡などまで顕われていた。朝の光を帯びた、淡い煙のような雲も山巓いただきのところに浮んでいた。都会から疲れて来た高瀬には、山そのものが先ず活気と刺激とを与えてくれた。彼は清い鋭い山の空気をえた肺の底までも呼吸した。

 塾で新学年の稽古けいこが始まる日には、高瀬は知らない人達に逢うという心を持って、庭伝いに桜井先生を誘いに行った。早起の先生は時間を待ち切れないでとっくに家を出た。裏庭には奥さんだけ居て、主婦らしく畠を見廻っていた。

「でも、高瀬さん、田舎ですね。後の方にある桑畠まで皆なこの屋敷に附いてるんですよ――」

 と奥さんは言って聞かせた。

 草の芽が見える花畠の間を通って、高瀬は裏木戸から桑畠の小径へ出た。その浅く狭い谷一つ隔てた岡の上が、直ぐ塾の庭だ。樹木の間から白壁だの教室の窓などが見えるところだ。高瀬は谷を廻って、いくらか勾配こうばいのある耕地のところで先生と一緒に成った。

「ここへは燕麦からすむぎを作って見ました。私共の畠は学校の小使が作ってます」

 先生はその石の多い耕地を指して見せた。

 塾の庭へ出ると、桜の若樹が低い土手の上にも教室の周囲まわりにもあった。ふくらんだつぼみを持った、紅味のある枝へは、手が届く。表門のさくのところはアカシヤが植えてあって、その辺には小使の音吉が腰をかがめながら、庭をいていた。一里も二里もあるところから通うという近在の生徒などは草鞋穿わらじばきでやって来た。

 まだ時が早くて、高瀬は先生の室を見る暇があった。教室の上にある二階のすみが先生のデスクや洋風の書架の置並べてあるところだ。亜米利加アメリカに居た頃の楽しい時代でも思出したように、先生はその書架をうしろにして自分でも腰掛け、高瀬にも腰掛けさせた。

「好い書斎ですネ」

 と高瀬は言って見て、窓の方へ行った。蓼科たでしなの山つづきから遠い南佐久さくの奥の高原地がそこから望まれた。近くには士族地の一部の草屋根が見え、ところどころに柳の梢の薄く青みがかったのもある。遅い春がようやく山の上へ近づいて来た。

「高瀬さん、これを一つ君に呈しましょう」

 と言って先生が書架から取出したのは、古い皮表紙の小形の洋書だ。先生は鼻眼鏡をたかい鼻のところに宛行あてがって、過ぎ去った自分の生活の香気においぐようにその古い洋書を繰りひろげて見て、それから高瀬にくれた。

 正木大尉は幹事室の方に見えた。先生と高瀬と一緒にその室へ行った時は、大尉はすみのところに大きな机を控えていた。高瀬は、大尉とは既に近づきに成っていた。

「正木先生は大分漢書を集めて被入いらっしゃいます――法帖ほうじょうの好いのなども沢山持って被入いらっしゃる」と先生は高瀬に言った。「何かまた貴方あなたも借りて御覧なすったら可いでしょう」

「ええ、まあボツボツ集めてます……なんにも子供にのこして置く物もありませんから、せめて書籍ほんでも遺そうと思いまして……」

 大尉は黒いはかまの中へ両手を差入れながら笑った。

 その日、高瀬は始めて広岡理学士に紹介された。上田町から汽車で通って来るという。高瀬から見れば親と子ほども年の違った学者だ。

「高瀬さんは三年という御約束で、私共の塾へ来て下さいました」

 先生は今度雇い入れた新教員のことを学士に話した。

 初めての授業を終って、復た高瀬がこの二階へ引返して来る頃は、丁度二番の下り汽車が東京の方から着いた。盛んな蒸汽の音が塾の直ぐ前で起った。年のいかない生徒等は門の外へ出て、いずれも線路わきの柵に取附き、通り過ぎる列車を見ようとした。

「どうも汽車の音がやかましくて仕様が有りません。授業中にあいつをやられようものなら、硝子ガラスへ響いて、稽古も出来ない位です」

 大尉は一寸高瀬の側へ来て、言って、一緒に停車場の方へ向いた窓から見下した。大急ぎで駈出かけだして行く広岡理学士の姿が見えた。学士は風呂敷包から古い杖まで忘れずに持って、上田行の汽車に乗りおくれまいとした。

 これと擦違すれちがいに越後えちごの方からやって来た上り汽車がやがて汽笛の音を残して、東京を指して行って了った頃は、高瀬も塾の庭を帰って行った。周囲あたりにはあたかも船が出た後の港の静かさが有った。塾の庭にある桜は濃い淡い樹の影を地に落していた。谷づたいに高瀬はひとり桑畠の間を帰りながら、都会からのがれて来た自分の身を考えた。彼が近い身のほとりにあった見せかけの生活から――甲斐かいも無い反抗と心労とから――その他あらゆるものからのがれて来た自分の身を考えた。もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることは無いか。そのために、彼は他にもあった教師の口を断り、すこし土でも掘って見ようと思って、わざわざこの寂しい田舎へ入って来た。


「高瀬さん、一体貴方あなたはお幾つなんですか――」

 桜井先生の奥さんは庭づたいに隣の家の方から廻って来た高瀬に尋ねた。奥さんは縁側のところに出て、子供に鶏を見せていた。

 高瀬は庭に立ちながら、「二十八です」と答えた。

「まだお若いんですねえ」

「そう言えば、奥さんはお幾つです。女の方の年齢としというものは、よく分らないものですネ」

「私ですか――貴方あなたより二つ上――」

 奥さんは聞かなくても可いことをって聞いたという顔付で、やや皮肉に笑って、復た子供と一緒に鶏の方を見た。淡黄な色のひなは幾羽となく母鶏おやどり羽翅はがいに隠れた。

 先生が庭を廻って来た。町の方に見つけた借家へ案内しよう、という先生に随いて、高瀬はやがてこの屋敷を出た。

 城門前の石碑のあるあたりから、鉄道の線路を越え、二人は砂まじりのくぼい道を歩いて行った。並んだ石垣と桑畠との見える小高い耕地の上の方には大手門の残ったのが裏側から望まれた。先生はその高い瓦屋根を高瀬に指して見せた。初めて先生が小諸へ移って来た時は、その太い格子こうしはまった窓と重い扉のある城門の楼上が先生の仮の住居すまいであったという話をして聞かせた――丁度、先生はお伽話とぎばなしでもして聞かせるように。

 坂道を上ると、大手の跡へ出る。士族地の方へ行く細い流がその辺の町の間を流れて来ている。二人は広岡理学士のうわさなどをしながら歩いた。

 先生は思いやるように、

「広岡さんも今、上田で数学の塾を開いてますが、余程の逆境でしょう……まあ、私共も先生に同情して、いくらかの時間をけに来て頂くことにしたんです……それに、君、吾々の塾も中学の設備をして、認可でも受けようというには、肩書のある人が居ないと一寸ちょっとこれで都合が悪いからネ」

 高瀬も笑った。

 細い流について行ったところに、本町の裏手に続いた一区域がある。落葉松からまつの垣で囲われた草葺くさぶき屋根の家が先生の高瀬を連れて行って見せたところだ。近くまで汁粉屋が借りていたとかで、古い穴のあいた襖、すすけた壁、汚れた障子などが眼につく。炬燵こたつを切ったあたりは畳も焼け焦げて、紙をり着けてある。住み荒した跡だ。

「まあ、こんなものでしょう」

 と先生は高瀬に言って、一緒に奥の方まで見て廻った。

「一寸、今、他に貸すような家も見当りません……妙なもので、これで壁でも張って、畳でも入替えて御覧なさい、どうにか住めるように成るもんですよ」

 と復た先生が言った。

 同じ士族屋敷風の建物でも、これはいくらか後で出来たものらしく、蚕の種紙をあきなう町の商人の所有もちものに成っていた。高瀬はすこしばかりの畠の地所を附けてここを借りることにした。

 小使いの音吉が来て三尺四方ばかりの炉を新規にき上げてくれた頃、高瀬は先生の隣屋敷の方からここへ移った。

 家の裏には別に細い流があって、石の間を落ちている。山の方から来る荒い冷い性質の水だ。飲料には用いられないが、砂でも流れない時は顔を洗うに好い。そこにも高瀬はのままの刺激を見つけた。この粗末ながらも新しい住居で、高瀬は婚約のあった人を迎える仕度をした。月の末に、彼は結婚した。


 長く東京で年月を送って来た高瀬には、塾の周囲まわりだけでも眼に映るものが多かった。庭にある桜の花は開いて見ると八重で、花束のように密集かたまったやつが教室の窓に近く咲き乱れた。濃い花の影は休みの時間に散歩する教師等の顔にも映り、建物の白い壁にも映った。学生等は幹に隠れ、枝につかまり、まるで小鳥かなんどのようにその下を遊び廻って戯れた。

「広岡先生も随分かまわない人ですネ」

 と高瀬が桜井先生と正木大尉との居る前で言うと、大尉は笑って、

「関わないんじゃなくて、関えないんでしょう……」

 と言った。そういう大尉は着物から羽織まで惜げもなく筒袖にして、塾のために働こうという意気込を示していた。

 この半ば家庭のような学校から、高瀬は自分の家の方へ帰って行くと、頼んで置いたくわが届いていた。塾で体操の教師をしている小山が届けてくれた。小山の家は町の鍛冶かじ屋だ。チョンまげを結った阿爺おとっさんがってくれたのだ。高瀬はその鉄の目方の可成かなりあるガッシリとした柄のついた鍬を提げて、家の裏に借りて置いた畠の方へ行った。

 不思議な風体ふうていの百姓が出来上った。高瀬は頬冠ほおかぶり、尻端折しりはしょりで、股引ももひきも穿いていない。それに素足だ。さくの外を行く人はクスクス笑って通った。とは言え高瀬は関わず働き始めた。掘起した土の中からは、どうかすると可憐かれん穎割葉かいわればすももの種について出て来る。彼は地から直接じかに身体へ伝わる言い難い快感を覚えた。時には畠の土を取って、それを自分のあしの弱い皮膚にこすり着けた。

 塾の小使も高瀬には先生だった。音吉は見廻りに来て、鍬の持ち方から教えた。

 毎日のように高瀬は塾の受持の時間を済まして置いて、家へ帰ればこの畠へ出た。ある日、音吉が馬鈴薯じゃがいもの種をかごに入れて持って来て見ると、漸く高瀬は畠の地ならしを済ましたところだった。彼の妻――お島はまだ新婚して間もない髪を手拭で包み、紅い色の腰巻などを見せ、土掘りの手伝いには似合わない都会風な風俗なりで、土のついた雑草の根だの石塊いしころなどを運んでいた。

「奥さん、御精が出ますネ」

 と音吉は笑いながら声を掛けて、高瀬の掘起した畠を見た。サクの切り方が浅かった。音吉は高瀬から鍬を受取って、もっと深く切って見せた。

「この辺は、まるで焼石と砂ばかりのようなものでごわす。上州辺と違ってろくな野菜も出来やせん」

 と音吉が言った。

 彼は持って来た馬鈴薯の種を植えて見せ、なお葱苗ねぎなえの植え方まで教えた。

 この高瀬がわずかばかりの野菜を植え試みようとした畠からは、耕地つづきに商家の白壁などを望み、一方の浅い谷の方には水車小屋の屋根も見えた。細い流で近所の鳴らすなべの音が町裏らしく聞えて来るところだ。激しく男女の労働する火山のすその地方に、高瀬は自分と妻とを見出みいだした。


 塾では更に校舎の建増たてましを始めた。教員の手が足りなくて、翌年の新学年前には広岡理学士が上田から家を挙げて引移って来た。

 子安という新教員も、高瀬が東京へ行ったついでに頼んで来た。子安は、高瀬も逢ったことが無い。人の紹介だ。塾ではどんな新教員が来るかと皆な待ち受けた。子安が着いて見ると案外心やすい、少壮としわかな学者だ。

 こうなると教員室も大分にぎやかに成った。桜井先生はまだ壮年の輝きを失わない眼付で、大きな火鉢を前に控えて、盛んに話す。正木大尉は正木大尉で強い香のする刻煙草きざみたばこを巻きながら、よく「軍隊に居た時分」を持ち出す。時には、音吉が鈴を振鳴しても、まだ皆な火鉢の側に話し込むという風であった。

「正木さん、一寸この眼鏡を掛けて御覧なさい」

「まだ私は老眼鏡には早過ぎる――ヤ、これは驚いた――こう側へ寄せたよりも、すこし離した方が猶よく見えますナ――広岡先生、いかが」

「成程、よく見えます」

「ヒドイものですナ――」

 こんな話をしても、時は楽しく過ぎた。

 近くて湯のある中棚は皆なの交歓に適した場所だった。子安がいくらか土地に馴染なじんだ頃、高瀬も誘われて塾から直ぐに中棚の方へ歩いて行って見た。子安が東京から来て一月ばかり経つ時分には藤の花などが高い崖から垂下って咲いていた谷間が、早や木の葉の茂り合った蔭の道だ。暗いほど深い。

 岡の上へ出ると、なまぬるいかすかな風が黄色くなりかけた麦畠を渡って来る。麦の穂と穂のれる音が聞える。強い、おおい冠さって来るようなくさむら香気においは二人を沈黙させた。二語ふたこと三語みこと物を言って見て、復た二人とも黙って歩いた。

 崖の道を降りかけて、漸く二人は笑い出した。隠居さんの小屋のあたりで、湯場の方から上って来る正木大尉の奥さんにも逢った。大尉の奥さんは湯上りの好い顔色で、子供を連れて、丁寧に二人に挨拶あいさつして通った。

 浴場には桜井先生も広岡学士も来ていた。先生は身体を拭いて上りかけたところで、学士だけ鉱泉の中に心地よさそうに入っていた。硝子ガラス戸の外には葡萄ぶどうつるも延び延びとして、林檎りんごの植えられた畠なども見える。

「子安君はナカナカ好い身体ですネ――」

 と学士に言われて、子安は随分苦学もして来たらしい締った毛脛けずねでた。

「どうです、我輩の指は」

 とその時、学士は左の手をひろげて、半分しかない薬指を出して見せた。

「ホウ」と子安は眼を円くした。

「一寸気が着かないでしょう。これにはそもそも歴史がある――ベエスの記念でサ」

 学士は華やかな大学時代を想い起したように言って、その骨をくじかれた指で熱球を受け損じた時の真似まねまでして見せた。

 三人が連立って湯場を出、桜井先生の別荘の方へ上って行った時は、先生は皆なを待受顔に窓に近い庭石に水をそそいでいた。先生は石垣の上に試みたアカシヤの挿木さしきを高瀬に指して見せた。門の内には先生の好きな花も植えられた。

 別荘の入口には楼の名を彫った額も掛った。明るい深い緑葉の反射は千曲川の見える座敷に満ちて、そこに集った湯上りの連中の顔にまで映った。一年に二度ずつ黄色くなるてすりの外の眺めは緑に調和して画のように見えた。先生は茶を入れて皆なを款待もてなしながら、青田の時分に聞える非常に沢山な蛙の声、夕方に見える対岸の村落の灯の色などを語り聞かせた。

 間もなく三人は先生一人をこの隠れ家に残して置いて、町の方へ帰って行った。〈[#「。」は底本では「、」]〉学士がユックリユックリ歩くので他の二人は時々足を停めて待合わせては復たサッサと歩いた。

「しかし、女でも何でも働くところですネ」と子安は別れぎわに高瀬に言った。

 高瀬も佇立たちどまって、「畢竟つまり、よく働くから、それでこう女の気象が勇健つよいんでしょう」

「そうです。働くことはよく働きますナ……それに非常な質素なところだ……ですけれど、高瀬さん、チアムネスというものは全くこの辺の娘に欠けてますネ」

 子安は心から出た声で快活に笑った。「まるで、ゴツゴツした岩みたような連中ばかりだ」と彼は附添つけたした。

「しかし、君、その岩が好くなって来るから不思議だよ」と高瀬は戯れて言った。


 子安は先へ別れて行った。鉄道の踏切を越した高い石垣の側で、高瀬はユックリ歩いて来る学士を待受けた。

「高瀬さん、私も小諸の土に成りに来ましたよ」

 と学士は今までにない忸々なれなれしい調子で話し掛けて、高瀬と一緒に石垣わきの段々を貧しい裏町の方へ降りた。

「……私も今、朝顔を作ってます……上田ではよく作りました……今年はウマくいくかどうか知りませんがネ、まあ見に来て下さらんか」

 こう歩き歩き高瀬に話し掛けて行くうちに、急にポツポツ落ちて来た。学士は家の方の朝顔だなが案じられるという風で、大急ぎで高瀬に別れて行った。

 大きな石の砂に埋っている土橋のたもとあたりへ高瀬が出た頃は、雨が彼の顔へ来た。貧しい家の軒下には、茶色な――茶色なというよりは灰色な荒い髪の娘が立って、ションボリと往来の方を眺めていた。高瀬はみちを急ごうともせず、顔へ来る雨をむしろ楽みながら歩いた。そして寒い凍え死ぬような一冬を始めてこの山の上で越した時分には風邪かぜばかり引いていた彼の身体にも、いくらかの抵抗する力が出来たことをよろこんだ。ビッショリ汗をかきながら家へ戻って見ると、その年も畠に咲いた馬鈴薯の白い花がうなだれていた。雨に打たれる乾いた土の臭気においは新しい書籍を並べた彼の勉強部屋までも入って来た。

 七月に入って、広岡理学士は荒町裏の家の方で高瀬を待受けた。高瀬の住む町からもさ程離れていないところで、細い坂道を一つ上れば体操教師の家の鍛冶かじ屋の店頭みせさきへ出られる。高い白壁の蔵が並んだ石垣の下に接して、竹薮たけやぶや水の流に取囲とりまかれた位置にある。田圃たんぼに近いだけに、湿気深い。

「お早う」

 と高瀬は声を掛けて、母屋おもやの横手から裏庭の方へ来た。

 深い露の中で、学士は朝顔ばちの置並べてある棚の間をあちこちと歩いていた。丁度学士の奥さんは年長うえのお嬢さんを相手にして開けひろげた勝手口で働いていたが、その時庭を廻って来た。

 奥さんは性急せっかちな、しかし良家に育った人らしい調子で、

「宅じゃこの通り朝顔狂あさがおきちがいですから、小諸へ来るが早いか直ぐに庭中朝顔鉢にしちまいました――この棚は音さんが来て造ってくれましたよ――まあこんな好い棚を――」

 と高瀬に話した。奥さんはユックリ朝顔を眺められないという風に言ったが、夫の好きな花に趣味も持たない人では無いらしかった。彼女は学士が植えて楽む種々いろいろな朝顔の変り種の名前などまでもよく暗記そらんじていた。

「高瀬さんに一つ、私の大事な朝顔を見て頂きましょうか」

 と学士が言って、数ある素焼の鉢の中から短く仕立てた「手長」を取出した。学士はそれを庭に向いた縁側のところへ持って行った。鉢を中にして、高瀬に腰掛けさせ、自分でも腰掛けた。

 奥さんは子供衆の方にまで気を配りながら、

「これ、繁、塾の先生が被入いらしったに御辞儀しないか――勇、お前はまた何だッてそんなところに立っているんだねえ――真実ほんとうに、高瀬さん、私も年を取りましたら、気ぜわしくなって困りますよ――」

 奥さんの小言の飛沫とばしり年長うえのお嬢さんにまで飛んで行った。お嬢さんは初々ういういしい頬をあからめて、客や父親のところへ茶を運んで来た。

 この子供衆の多勢ゴチャゴチャ居る中で、学士が一服やりながら朝顔鉢を眺めた時は、何もかも忘れているかのようであった。

「今咲いてますのは、ホンの丸咲か、牡丹ぼたん種ぐらいなものです」と学士は高瀬に言った。「真実ほんとう獅子ししや手長と成ったら、どうしてもおくれますネ。そのうちに一つ塾の先生方を御呼び申したい……何がなくとも皆さんに集って頂いて、これで一杯げられるようだといんですけれど……」


 翌朝高瀬は塾へ出ようとして、例のように鉄道の踏切のところへ出た。線路を渡って行く塾の生徒などもあった。丁度そこで与良町よらまちの方からやって来る子安に逢った。毎時いつも言い合せたように皆なの落合うところだ。高瀬は子安を待合せて、一諸に塾の方へ歩いた。

 線路わきの柵について先へ歩いて行く広岡学士の後姿も見えた。

「広岡先生が行くナ」と高瀬が言った。

 子安も歩き歩き、「なんでもあの先生が上田から通って被入いらっしゃる時分には、大変お酒に酔って、往来の雪の中に転がっていたことがあるなんて――そんな話ですネ」

「私も聞きました」

「どうして広岡先生のような人がこんな地方へ入り込んで来たものでしょう」

「それは、君、誰も知らない――」

 塾の門前に近いところで、二人は学士に追い附いた。

 朝顔の話はそこでも学士の口から出た。

「高瀬さん、今朝も咲きましたよ」

「どうも先生の朝顔はむずかしくッて、私にはまだよく解りません」と高瀬は笑いながら言った。

「町の方でポツポツ見に来て下さる方もあります……好きな人もあるんですネ……しかし私はまだ、この土地にはホントに御馴染なじみが薄い……」

 学士は半ば独語ひとりごとのように言った。

 正木大尉が桑畠の石垣を廻ってニコニコしながら歩いて来た。皆な連立って教員室の方へ行って見ると、桜井先生は早くから来て詰掛けていた。先生は朝のうちに一度中棚まで歩きに行って来たとも言った。

 塾の庭にある樹木の緑も深い。すずしそうなアカシヤの下には石に腰掛けて本を開ける生徒もある。濃い桜の葉の蔭には土俵が出来て、そこで無邪気な相撲すもうの声が起る。この山の上へ来て二度七月をする高瀬には、学校の窓から見える谷や岡が余程親しいものと成って来た。その田圃側たんぼわきは、高瀬が行っては草をき、土の臭気においを嗅ぎ、百姓の仕事を眺め、畠の中で吸う嬰児あかんぼの乳の音を聞いたりなどして、暇さえあれば歩き廻るのを楽みとするところだ。一度消えた夏らしい白い雲が復た窓の外へ帰って来た。高瀬はその熱を帯びた、陰影の多い雲の形から、青空を流れる遠い水蒸気の群まで、見分けがつくように成った。

 休みの時間毎に、高瀬は窓へ行った。極く幼少おさない時の記憶が彼の胸に浮んで来た。彼は自分もまた髪を長くし、手造りにしたわらの草履を穿いていたような田舎の少年であったことを思出した。河へすくいに行ったかじかを思出した。の下で橿鳥かしどりが落して行った青いの入った羽を拾ったことを思出した。栗の樹に居た虫を思出した。その虫を踏みつぶして、緑色に流れる血から糸を取り、に漬け、引き延ばし、乾し固め、それで魚を釣ったことを思出した。彼は又、生きた蛙をつかまえて、皮をぎ、逆さに棒に差し、蛙の肉の一片ひときれに紙を添えてえさをさがしに来るはちに与え、そんなことをして蜂の巣の在所ありかを知ったことを思出した。彼は都会の人の知らない蜂の子のようなものを好んで食ったばかりでなく、田圃側に葉を垂れている「すいこぎ」、虎杖いたどり、それから「すい葉」という木の葉で食べられるのを生でムシャムシャ食ったことを思出した。

 高瀬の胸に眠っていた少年時代の記憶はそれからそれと復活いきかえって来た。彼は幾年となく思出したことも無い生れ故郷の空で遠い山のかなたに狐火の燃えるのを望んだことを思出した。気味の悪い夜鷹よたかが夕方にはよく頭の上を飛び廻ったことを思出した。彼は初めて入学した村の小学校で狐がついたという生徒の一人を見たことを思出した……

 学士が窓のところへ来た。

「広岡先生の御国はどちらなんですか」と高瀬が聞いた。

「越後」

 と学士は答えた。

 昼過に高瀬が塾を出ようとすると、急に門の外で、

「この野郎打殺ぶちころしてくれるぞ」

 と呼ぶ声が起った。音吉の弟は人をめがけて大きな石を振揚げている。

「あれで、冗談ですぜ」

 と学士もそこへ来て言って、高瀬に笑って見せた。

 荒い人達のすることは高瀬をあきれさせた。しかしその野蛮な戯れは都会の退屈な饒舌おしゃべりにもまさって彼を悦ばせた。彼はしばらくこの地方に足を留め、心易い先生方の中で働いて、もっともっと素朴な百姓の生活をよく知りたいと言った。谷の向うの谷、山の向うの山に彼の心はせた。


 それから二年ばかりの月日が過ぎた。約束の任期が満ちても高瀬は暇をもらって帰ろうとは言わなかった。「勉強するには、田舎の方が好い」そんなことを言って、かえって彼は腰を落着けた。

 更に二年ほど過ぎた。塾では更に教室も建増したし、教員の手もふやした。日下部くさかべといって塾のためには忠実な教員も出来たし、洋画家の泉も一週に一日か二日程ずつは小県ちいさがたの自宅の方から通って来てくれる。しかし以前のようなにぎやかな笑い声は次第に減って行った。皆な黙って働くように成った。

 教員室は以前の幹事室兼帯でも手狭なので、二階のすみにあった教室をあけて、そっちの方へ引越した。そこに大きな火鉢を置いた。鉄瓶てつびんの湯はいつでも沸いていた。正木大尉は舶来はくらい刻煙草きざみたばこを巻きに来ることもあるが、以前のようにはあまり話し込まない。幹事室の方に籠って、暇さえあれば独りで手習をした。桜井先生は用にだけ来て、音吉が汲んで出す茶を飲んで、復た隣の自分の室の方へ行った。受持の時間が済めば、先生は頭巾ずきんのような隠士風の帽子を冠って、最早もう若樹と言えないほど鬱陶うっとうしく枝の込んだ庭の桜の下を自分の屋敷かさもなければ中棚の別荘の方へ帰って行った。

 子安も黙って了った。子安は町の医者の娘と結婚して、士族屋敷の方に持った新しいホームから通って来た。後から仲間入をした日下部――この教員はまた性来もとから黙っているような人だ。

 この教員室の空気の中で、広岡先生は由緒いわれのありそうな古い彫のある銀煙管ぎんぎせるの音をポンポン響かせた。高瀬は癖のように肩をゆすって、甘そうに煙草をくゆらして、楼階はしごだんを降りては生徒を教えに行った。

 ある日、高瀬は受持の授業を終って、学士の教室の側を通った。学士も日課を済ましたところであったが、まだ机の前に立って何か生徒に説明していた。机の上には大理石のくず、塩酸のびん、コップなどが置いてあった。蝋燭ろうそくの火も燃えていた。学士は手にしたコップをすこしかしげて見せた。炭素がその玻璃板ガラスいたの間から流れると、蝋燭の火は水を注ぎ掛けられたように消えた。

 高瀬は戸口に立って眺めていた。

 無邪気な学生等は学士の机の周囲まわりに集って、口を開くやら眼を円くするやらした。学士がそのコップの中へ鳥か鼠を入れると直ぐに死ぬという話をすると、それを聞いた生徒の一人がすっくと起立たちあがった。

「先生、虫じゃいけませんか」

「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」

 問を掛けた生徒は、つと教室を離れて、窓の外の桃の樹の側に姿をあらわした。

「ア、虫を取りに行った」

 と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく戻って来て、捕えたものを学士に勧めた。

「蜂ですか」と学士は気味悪そうに言った。

「怒ってる――すぞ螫すぞ」

 と口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身をらして、螫されまいとする様子をした。蜂はコップの中へ押し入れられた。それを見た生徒等は意味もなく笑った。「死んだ、死んだ」と言うものもあれば、「弱い奴」と言うものも有った。蜂は真理を証するかのように、コップの中でグルグル廻って、身をもだえて、死んだ。

「最早マイりましたかネ」と学士も笑った。

 間もなく学士は高瀬と一緒に成った。二人が教員室の方へ戻って行った時は、誰もそこに残っていなかった。桜井先生の室の戸も閉っていた。

 正木大尉も帰った後だった。学士は幹事室に預けてある自分の弓を取りに行って、復た高瀬の側へ来た。

「どうです、弓は。この節はあまり御彎おひきに成りませんネ」

 誘うように言う学士と連立って、高瀬はやがて校舎の前の石段を降りた。

 生徒も大抵帰って行った。音吉が独り残って教室々々を掃除する音は余計に周囲まわりをヒッソリとさせた。音吉の妻は子供を背負おぶいながら夫の手伝いに来て、門に近い教室の内で働いていた。

 学士は親しげな調子で高瀬に話した。

「音さんの細君はもと正木先生のところに奉公していたんですッてネ。音さんが先生の家の畠を造りに行くうちに、畢寛つまり出来たんでしょう……先生があの二人を夫婦にしてやったんでしょうネ」

 二人が塵払はたきの音のする窓の外を通った時は、岩間に咲く木瓜ぼけのように紅い女の顔が玻璃ガラスの内から映っていた。

 新緑の頃のことで、塾のアカシヤの葉は日にチラチラする。やぶのように茂り重なった細い枝は見上るほど高く延びた。


 高瀬と学士とは懐古園の方へ並んで歩いて行った。学士は弓を入れた袋や、弓掛ゆがけ松脂くすねたぐいを入れたかばんを提げた。古い城址じょうし周囲まわりだけに、二人が添うて行く石垣の上の桑畠も往昔むかしいかめしい屋敷のあったという跡だ。鉄道のために種々いろいろに変えられた、砂や石の盛り上った地勢が二人の眼にあった。

 馬に乗った医者が二人に挨拶して通った。土地に残った旧士族の一人だ。

 学士は見送って、「あの先生も鶏に、馬に、小鳥に、朝顔――何でもやる人です。菊の頃には菊を作るし。よく何処の田舎にもああいう御医者が一人位はあるもんです。『……なアに、他の奴等やつらは、ありゃ医者じゃねえ、薬売だ、……とても、話せない……』なんて、エライ気焔きえんだ。でも面白い気象の人で、近在へでも行くと、薬代が無けりゃ畠の物でも何でも可いや、ねぎが出来たら提げて来い位に言うものですから、百姓仲間にはうけが好い。奇人ですネ」

 そういう学士も維新の戦争に出た経歴のある人で、十九歳で初陣ういじんをした話がよく出る。塾では、正木大尉はもとより、桜井先生も旧幕の旗本はたもとの一人だ。

 懐古園とした大きな額の掛った城門を入って、二人は青葉に埋れた石垣の間へ出た。その辺は昼休みの時間などに塾の生徒のよく遊びに来るところだ。高く築き上げられた、大きな黒ずんだ石の側面はそれに附着した古苔と共に二人の右にも左にもあった。

 旧足軽の一人が水を担いで二人の側を会釈して通った。

 矢場は正木大尉や桜井先生などが発起で、天主台の下に小屋を造って、かえでけやきなどの緑に隠れた、極く静かな位置にあった。丁度そこで二人は大尉と体操の教師とに逢った。まだ他の顔触かおぶれも一人二人見えた。一時は塾の連中がこぞってそこへ集ったことも有ったが、次第に子安の足も遠くなり、桜井先生もあまり顔を見せない。高瀬が園内の茶屋に預けてある弓の道具を取りに行って来て学士に交際つきあうというは彼としてはめずらしい位だ。

「そもそも大弓を始めてから明日で一年に成ります」と仲間うちでは遅く始めた体操の教師が言った。

「一年の御稽古けいこでも、しばらく休んでいると、まるで当らない――なんだか冗談のようですナ」強弓をひく方の大尉も笑った。

 何となくびれて来た矢場の中には、古城に満ちあふれた荒廃の気と、なりを潜めたような松林の静かさとに加えて、そこにも一種の沈黙が支配していた。皮のげたほど古い欅の若葉を通して、浅間一帯の大きな傾斜が五月の空によこたわるのも見えた。矢場の後にある桑畠の方からはサクを切る百姓のくわの音も聞えて来た。そこは灌木かんぼくの薮の多い谷を隔てて、大尉の住居にも近い。

 学士は一番弱い弓をひいたが、熱心でよく当るように成った。的も自分で張ったのを持って来て、掛け替えに行った。

「こりゃ驚いた。尺二ですぜ。しっかり御頼申おたのもうしますぜ」と大尉は新規な的の方を見て矢をつがった。

「ポツン」と体操の教師は混返まぜかえすように。

「そうはいかない」

 大尉は弓返ゆがえりの音をさせて、神経的に笑って、復た沈鬱な無言に返った。

 桑畠に働いていた百姓もそろそろ帰りかける頃まで、高瀬は皆なと一緒に時を送った。学士はそこに好い隠れ家を見つけたという風で、愛蔵するたかの羽の矢が白い的の方へ走る間、一切のことを忘れているようであった。

 大尉等を園内に残して置いて、学士と高瀬の二人は復た元来た道を城門の方へとった。

 途中で学士は思出したように、

「……私共の勇のやつが、あれで子供仲間じゃナカナカ相撲が取れるんですとサ。此頃このあいだもネ、弓のつる褒美ほうびに貰って来ましたがネ、相撲の方の名が可笑おかしいんですよ。何だって聞きましたら――岡の鹿」

 トボケて学士は舌を出して見せた。高瀬も子供のように笑出した。

「兄のやつも名前が有るんですよ。貴様は何とつけたと聞きましたら、父さんが弓が御好きだから、よく当るように、矢当りとつけましたとサ。矢当りサ。子供というものは真実ほんとうに可笑しなものですネ」

 こういう話を高瀬に聞かせながら帰って行くと、丁度城門のあたりで、学士は弓の仲間に行き逢った。旧士族の一人だ。この人は千曲川の谷の方から網を提げてスゴスゴと戻って来るところだった。

「この節は弓も御廃おはいしでサ」

 とその人は元気な調子で言って、更にことばを継いで、

「もう私は士族は駄目だという論だ。小諸ですこしほねぱしのある奴は塾の正木ぐらいなものだ」

 学士と高瀬はしばらくその人の前に立った。

「御覧なさい、御城の周囲まわりにはいよいよ滅亡の時期がやって来ましたよ……これで二三年前までは、川へ行って見てもあゆやハヤ(鮠)が捕れたものでサ。いくら居なくなったと言っても、まだそれでも二三年前までは居ました……この節はもう魚も居ません……この松林などは、へえもう、とっくに人手に渡っています……」

 口早に言ってサッサと別れて行く人の姿を見送りながら、復た二人は家を指して歩き出した。実に、学士はユックリユックリ歩いた。


 烏帽子山麓えぼしさんろくに寄った方から通って来る泉が、田中で汽車に乗るか、又は途次みちみち写生をしながら小諸まで歩くかして、一週に一二度ずつ塾へ顔を出す日は、まだそれでも高瀬を相手に話し込んで行く。この画家は欧羅巴ヨーロッパを漫遊して帰ると間もなく眺望の好い故郷の山村に画室を建てたが、引込んで研究ばかりしていられないと言っては、やって来た。

 高瀬はこの人が来ると、百姓画家えかきのミレエのことをよく持出した。そして泉から仏蘭西フランスの田舎の話を聞くのを楽みにした。高瀬は泉が持っている種々さまざまなミレエの評伝を借りて読み、時にはその一節を泉に訳して聞かせた。

「君は山田君が訳したトルストイの『コサックス』を読んだことがあるか。コウカサスの方へ入って行く露西亜ロシアの青年が写してあるネ。結局つまり、百姓は百姓、自分等は自分等というような主人公の嘆息であの本は終ってるが、吾儕われわれにも矢張やっぱりああいう気分のすることがあるよ。僕などはこれで随分百姓は好きな方だ。生徒の家へ行って泊まって見たり……人に話し掛けて見たり……まあいろんな機会を見つけて、音さんの家の蒟蒻こんにゃくの煮附まであそこの隠居やなんかと一諸に食って見た……どうしてもまだ百姓の心には入れないような気がする」

 こう高瀬は泉に話すこともあった。

 相変らず皆な黙って働いている塾の方から、高瀬は家へ帰ろうとして、午後の砂まじりの道を歩いた。停車場ステーション前へ出た。往来の両側には名物うんどん、牛肉、馬肉の旗、それから善光寺もうでの講中のビラなどが若葉の頃の風になぶられていた。ふと、その汽車の時間表と、ビイルや酒の広告と、食物をつくる煙などのゴチャゴチャした中に、高瀬は学士の笑顔を見つけた。

 学士は「ウン、高瀬君か」という顔付で、店頭みせさきの土間に居るかせぎ人らしい内儀かみさんの側へ行った。

「お内儀さん、今日は何か有りますかネ」

 と尋ねて、一寸そこへ来て立った高瀬と一諸に汽車を待つ客の側に腰掛けた。

 極く服装なりふりに関わない学士も、その日はめずらしく瀟洒しょうしゃなネクタイを古洋服の胸のあたりに見せていた。そして高瀬を相手に機嫌きげんよく話した。どうかすると学士の口からは軽い仏蘭西語などが流れて来た。

「そこはあまり端近です。まあ奥の方へ御通りなすって――」

 と亭主に言われて、学士は四辺あたりを見廻わした。表口へ来て馬をつなぐ近在の百姓もあった。知らない旅客、荷をしょった商人あきんど草鞋掛わらじがけに紋附羽織を着た男などが此方こちらのぞき込んでは日のあたった往来を通り過ぎた。

「広岡先生が上田から御通いなすった時分から見やすと、御蔭で吾家うちでもいくらか広くいたしやした」

 こう内儀さんも働きながら言った。

 そのうちに学士のあつらえた銚子ちょうしがついて来た。建増した奥の部屋に小さなチャブ台を控えて、高瀬は学士とさしむかいに坐って見た。一口やるだけの物がそこへ並んだ。

 学士はこの家の子のことなどを親達に尋ねながら、手酌で始めた。

「高瀬君、まあ話して行って下さいナ。ここは心易い家でしてネ、それにお内儀さんがあの通り如才ないでしょう、つい前を通るとこんなことに成っちまうんです」

「私も小諸へ来ましてから、いくらかお酒が飲めるように成りました」

「でしょう。一体にこの辺の人は強酒ごうしゅです。どうしても寒い国のせいでしょうネ。これで塾では誰が強いか。正木さんも強いナ」

 高瀬は酒が欲しくないと言って唯話相手に成っていた。彼は学校通いの洋服のポケットから田舎風な皮の提げ煙草入を取出した。都会の方から来た頃から見ると、髪なども長く延ばし、憂鬱な眼付をして、好きな煙草をふかし燻し学士の話に耳を傾けた。

「どうでしょう、高瀬君、今度塾へ御願いしましたせがれの奴は。あれで弟と違って、性質は温順すなおな方なんですがネ。あれは小学校に居る時代から図画が得意でして、その方では何時でも甲を貰って来ましたよ。私が伜に、お前は何に成るつもりだッて聞きましたら、僕は大きく成ったら、泉先生のように成るんだなんて……あれで物に成りましょうか……」

 学士はチビリチビリやりながら、言葉を継いだ。

「妙なもので、家内はまた莫迦ばかに弟の方を可愛がるんです。弟の言うことなら何でも閲く。私がそれじゃ不可いけないと言うと、そこで何時でも言合でサ……家内が、父さんは繁の贔負ひいきばかりしている、一体父さんは甘いから不可、だから皆な言うことを聞かなくなっちまうんだ、なんて……兄の方は弱いでしょう、つい私は弱い方の肩を持つ……」

 学士は頬と言わず額と言わず顔中手拭で拭き廻した。

「しかし、高瀬君、どうしてこんなに御懇意にするように成ったかと思うようですネ……貴方のところでも、今、お子さんはお二人か……実際、子供は骨が折れますよ。お二人位の時はまだそれでもう御座んす。私共を御覧なさい、あの通りウジャウジャ居るんですからネ……おまけに、大飯食おおめしぐらいばかりそろっていて」と言いかけて、学士は思い出したように笑って、「まさか、子供に向って、そんなに食うな、三杯位にして控えて置けなんて、親の身としては言えませんからナ……」

 包み隠しの無い話は高瀬を笑わせた。学士は更に、

「ホラ、勇の下に女の児が居ましょう。上田で生れた児です……真実ほんとに親の言うことなどは聞かない……苦しい時代に出来た児はああいうものかと思いますネ……ウッチャリ放しに育った児ですからネ……子などに関ってはおられなかったんです……しかし、考えて見ると、私の家内もよくやって来ましたよ。貧苦にえる力は家内の方が反って私より強い……」

 しばらく石のような沈黙が続いた。そのうちにかすかに酔が学士の顔に上った。学者らしい長い眉だけホンノリと紅い顔の中に際立きわだって斑白はんぱくに見えるように成った。学士は楽しそうに両手や身体を動かして、胡坐あぐらにやったり、坐り直したりしながら、高瀬の方を見た。そして話の調子を変えて、

「そう言えば、仏蘭西の言葉というものは妙なところに洒落しゃれを含んでますネ」

 と言って、二三のつながった言葉を巧みに発音して聞かせた。

「私も一つ、先生のお弟子入をしましょうかネ」と高瀬が言った。

「え、すこし御りなさらないか」

「今私が読んでる小説の中などには、時々仏蘭西語が出て来て困ります」

「ほんとに、御一緒に一つ遣ろうじゃありませんか」

 仏蘭西語の話をする時ほど、学士の眼は華やかに輝くことはなかった。

 やがて高瀬はこの家に学士を独り残して置いて、相生町の通りへ出た。彼が自分の家まで歩いて行く間には、幾人いくたりとなく田舎風な挨拶をする人に行き逢った。長いひげはやした人はそこにもここにも居た。


 休みの日が来た。

 高瀬が馬場裏の家を借りていることは、最早もう仮の住居とも言えないほど長くなった。彼は自分のものとして自由にその日を送ろうとした。

 南の障子へ行って見た。濡縁ぬれえんの外は落葉松からまつの垣だ。風雪の為に、垣も大分破損いたんだ。毎年聞える寂しい蛙の声が復た水車小屋の方からその障子のところへ伝わって来た。

 北の縁側へ出て見た。腐りかけた草屋根の軒に近く、毎年虫に食われて弱って行く林檎りんごの幹が高瀬の眼に映った。短い不恰好ぶかっこうな枝は、その年も若葉を着けた。微かな甘い香がプンと彼の鼻へ来た。彼は縁側にもたれて、五月の日のあたった林檎の花や葉を見ていたが、妻のお島がそこへ来て何気なく立った時は、彼は半病人のような、逆上のぼせた眼付をしていた。

「なんだか、俺は――気でもちがいそうだ」

 と串談じょうだんらしく高瀬が言うと、お島は縁側から空を眺めて、

「髪でも刈って被入いらっしたら」

 と軽い返事をした。

 急に大きな蜜蜂みつばちがブーンという羽の音をさせて、部屋の中へ舞い込んで来た。お島は急いで昼寝をしている子供の方へ行った。庭の方から入って来た蜂は表の方へ通り抜けた。

まあちゃんはどうしたろう」と高瀬がこの家で生れた姉娘のことを聞いた。

屋外そとで遊んでます」

「また大工さんの家の娘と遊んでいるじゃないか。あの娘は実に驚いちゃった。あんな荒い子供と遊ばせちゃ困るナア」

「私もそう思うんですけれど、泣かせられるくせに遊びたがる」

「今度誘いに来たら、断っちまえ。――吾家うちへ入れないようにしろ――真実ほんとに、串談じょうだんじゃ無いぜ」

 夫婦は互に子供のことを心配して話した。

 血気さかんなものには静止じっとしていられないような陽気だった。高瀬はしばらく士族地への訪問も怠っていた。しかしその日は塾の同僚をおとなうよりも、足の向くままに、好きな田圃道を歩き廻ろうとした。午後に、彼は家を出た。

 岩と岩の間を流れ落ちる谷川は到るところにあった。何度歩いても飽きない道を通って、赤坂裏へ出ると、青麦の畠が彼の眼にひらけた。五度いつたび熟した麦の穂は復た白く光った。土塀どべい、白壁の並び続いた荒町の裏を畠づたいに歩いて、やがて小諸の町はずれにあたる与良町の裏側へ出た。非常に大きな石が畠の間に埋まっていた。その辺で、彼は野良仕事をしている町の青年の一人に逢った。

 最早青年とも言えなかった。若い細君を迎えてかまどを持った人だ。しばらく高瀬は畠側の石に腰掛けて、その知人しりびとの畠を打つのを見ていた。

 その人は身を斜めにし、うんと腰に力を入れて、土のかたまりを掘起しながら話した。風が来て青麦を渡るのと、谷川の音と、その間には蛙の鳴声も混って、どうかすると二人の話はとぎれとぎれに通ずる。

「桜井先生や、広岡先生には、せめて御住宅すまいぐらいを造って上げたいのが、私共の希望なんですけれど……町のために御苦労願って……」

 とその人は畠に居て言った。

 別れを告げて、高瀬が戻りかける頃には、壮んな蛙の声が起った。大きな深い千曲川の谷間たにあいはその鳴声で満ちあふれて来た。飛騨ひだ境の方にある日本アルプスの連山にはまだ遠く白雪を望んだが、高瀬は一つ場処ところに長く立ってその眺望を楽もうともしなかった。不思議な寂寞さびしさは蛙の鳴く谷底の方からい上って来た。恐しく成って、逃げるように高瀬は妻子の方へ引返して行った。


「父さん」

 と呼ぶ子供を見つけて、高瀬は自分の家の前の垣根のあたりで鞠子まりこと一緒に成った。

まあちゃん、吾家おうちへ行こう」

 と慰撫なだめるように言いながら、高瀬は子供を連れて入口の庭へ入った。そこには畠をするくわなどがすみの方に置いてある。お島はあがかまちのところに腰掛けて、二番目の女の児に乳を呑ませていた。

「鞠ちゃんは、先刻さっきねえや(下婢)と一緒に懐古園へ遊びに行って来ました」

 とお島は夫に話して、復た乳呑児の顔を眺めた。その児は乳房を押えて飲むほどに成人していた。

おんにもおくれやれ」と鞠子は母が口をモガモガさせるのに目をつけた。

「オンになんて言っちゃ不可いけないの。ね。私に頂戴ッて」

 お島はなぐさみにするめんでいた。乳呑児の乳を放させ、姉娘に言って聞かせて、炉辺ろばたの戸棚の方へ立って行った。

「さあ、パン上げるから、おいで」と彼女は娘を呼んだ。

「ううん、鞠ちゃんパンいや――鯣」

 と鞠子は首を振ったが、間もなく母の傍へ行って、親子でパンを食った。

「鞠ちゃんにくれるくれるッて言って、皆な母ちゃんが食って了う」と鞠子は甘えた。

 この光景さまを笑って眺めていた高瀬は自分の方へ来た鞠子に言った。

「これ、悪戯いたずらしちゃ不可いけないよ」

「馬鹿、やい」と鞠子はあべこべに父をあざけった。――これが極く尋常あたりまえなような調子で。

 高瀬は歎息して奥へ行った。お島が茶を入れて夫の側へ来た時は、彼は独り勉強部屋に坐っていた――何事なんにもせずに唯、坐っていた。

「なんだか俺は心細く成って来た。仕方が無いから、こうして坐って見てるんだ」

 と高瀬は妻に話した。

 その日の夕方のことであった、南の戸袋を打つ小石の音がした。誰か屋外そとから投げ込んでよこした。

「誰だ」

 と高瀬は障子のところへ走って行って、濡縁の外へ出て見た。

「人の家へ石など放り込みやがって――誰だ――悪戯いたずらも好い加減にしろ――真実ほんとうに――」

 忌々しそうに言いながら、落葉松からまつの垣から屋外をのぞいた。悪戯盛りの近所の小娘が、親でも泣かせそうな激しい眼付をして――そのくせ、飛んだ器量好しだが――横手の土塀の方へ隠れて行った。

「どうしてこの辺の娘は、こう荒いんだろう。男だか女だか解りゃしない」

 こう高瀬は濡縁のところから、垣根越しに屋外に立っているお島に言った。

「大工さんの家の娘とはもう遊ばせないッて、先刻さっき誘いに来た時に断りましたら、今度は鞠ちゃんの方から出掛けて行きました……きっ喧嘩けんかでもしたんでしょう……石などを放って……女中でも子守でもこの辺の女は、そりゃ気が荒いんですよ……」

 お島はどうすることも出来ないような調子で言って、夕方の空を眺めながら立っていた。暮色が迫って来た。

「鞠ちゃん、吾家おうちへお入り」と彼女はそこいらに出て遊んでいる子供を呼んだ。

「オバケ来るから、サ吾家にお出」と井戸の方から水をんで来た下女も言葉を掛けて通った。

 山家の娘らしく成って行く鞠子は、とは言え親達を泣かせるばかりでも無かった。夕飯後に、鞠子は人形を抱いて来て親達に見せた。そして、「お一つ、笑って御覧」などと言って、その人形をアヤして見せた。

「かァさん、かさん――やくらか、やくや――ほうちさ、やくやくう――おんこしゃこ――もこしゃこ――」

 何処で教わるともなく、鞠子はこんなことを覚えて来て、眠る前に家中踊って歩いた。

 五月の町裏らしい夜は次第にけて行った。お島のもとへ手習に通って来る近所の娘達も、提灯ちょうちんをつけて帰って行った。四辺あたりには早く戸を閉めて寝る家も多い。沈まり返った屋外そとの方で、高瀬の家のものは誰の声とは一寸見当のつかない呼声を聞きつけた。

「高瀬君――」

「高瀬、居るか――」

 声は垣根の外まで近づいて来た。

「ア」

 と高瀬は聞耳を立てて、そこにマゴマゴして震えている妻の方へ行った。お島が庭口へ下りて戸を開けた時は、広岡学士と体操教師の二人が暗い屋外から舞い込むようにやって来た。

 高瀬は洋燈ランプあがはなのところへ運んだ。馬場裏を一つ驚かしてくれようと言ったような学士等の紅い磊落らいらくな顔がその灯に映った。二人とも脚絆きゃはんに草履掛という服装なりだ。

「これ、水でもげナ」

 と、高瀬が妻に吟附いいつけた。

 お島はやや安心して、勝手口のほうから水を持って来た。学士は身体の置き処も無いほど酔っていたが、でも平素の心を失うまいとする風で、朦朧もうろうとした眼をみはって、そこに居る夫婦の顔や、洋燈に映るコップの水などをよく見ようとした。

 学士のコップを取ろうとする手は震えた。お島はそれを学士の方へ押しすすめた。

「どうも失礼……今日は二人で山遊びに出掛けて……酩酊めいてい……奥さん、申訳がありません……」

 学士は上り框のところへ手をついて、正直な、心の好さそうな調子で、びるように言った。

 体操の教師は磊落に笑出した。学士の肩へ手を掛けて、助けて行こうという心づかいを見せたが、その人も大分上機嫌で居た。

 よろよろした足許で、復た二人は舞うように出て行った。高瀬は屋外そとまで洋燈ランプを持出して、暗い道を照らして見せたが、やがて家の中へ入って見ると、余計にシーンとした夜の寂寥さびしさが残った。

 何となく荒れて行くような屋根の下で、その晩遅く高瀬は枕に就いた。時々眼を開いて見ると、部屋の中まで入って来るえた鼠の朦朧と、しかも黒い影が枕頭まくらもとに隠れたり顕れたりする。時には、自分の身体にまで上って来るような物凄ものすごい恐怖に襲われて、眼が覚めることが有った。深夜に、高瀬は妻を呼起して、二人で台所をゴトゴト言わせて、捕鼠器ねずみとりを仕掛けた。


 その年の夏から秋へかけて、塾に取っては種々な不慮の出来事があった。広岡学士は荒町裏の家で三月あまりも大患おおわずらいをした。誰が見ても助かるまいと言った学士が危く一命を取留めた頃には、今度は正木大尉が倒れた。大尉は奥さんの手に子供衆を遺し、仕掛けた塾の仕事も半途で亡くなった。大尉の亡骸なきがらは士族地に葬られた。子供衆に遺して行った多くの和漢の書籍は、親戚の立会の上で、後仕末のために糴売せりうりに附せられた。

 桜井先生の長い立派なひげは目立って白くなった。毎日、高瀬は塾の方で、深い雪の積って行くような先生の鬚を眺めては、また家へ帰って来た。生命いのち拾いをした広岡学士がよくよく酒にりて、夏中奥さん任せにしてあった朝顔棚の鉢も片附け、種の仕分をする時分に成ると、高瀬の家の屋根へも、裏の畠へも、最早もう激しい霜が来た。こがらしも来た。土も、岩も、人の皮膚の色までも、灰色に見えて来た。日光そのものまで灰色に見える日があった。そのうちに思いがけない程の大雪がやって来た。戸を埋めた。北側の屋根には一尺ほども消えない雪が残った。鶏の声まで遠く聞えて、何となくすべてが引被ひっかぶらせられたように成った。灰色の空を通じて日が南の障子へ来ると、雪は光を含んでギラギラ輝く。軒から垂れるしずくの音は、日がな一日単調な、わびしい響を伝えて来た。

 冬籠ふゆごもりする高瀬は火鉢にかじりつき、お島は炬燵こたつへ行って、そこで凍える子供の手足を暖めさせた。家の外に溶けた雪が復た積り、顕われた土が復た隠れ、日の光も遠く薄く射すように成れば、二人は子供等と一緒に半ば凍りつめた世界に居た。雲ともつかぬ水蒸気の群は細線の群合のごとく寒い空に懸った。剣のように北側の軒から垂下る長い光った氷柱つららを眺めて、やっとの思で夫婦は復た年を越した。

 更に寒い日が来た。北側の屋根や庭に降った雪は凍って、連日溶くべき気色けしきもない。氷柱は二尺、三尺に及ぶ。お島が炉辺ろばたへ行って子供に牛乳をくれようとすると、時にはそれが淡い緑色に凍って、子供に飲ませることも出来ない。台処の流許ながしもとに流れる水は皆な凍りついた。貯えた野菜までも多く凍った。水汲に行く下女なぞは頭巾ずきんを冠り、手袋をはめ、寒そうに手桶ておけを提げて出て行くが、それが帰って来て見ると、手の皮膚は裂けて、ところどころ紅い血が流れた。こうなると、お島は外聞なぞは関っていられなく成った。どうかして子供を凍えさせまいとした。部屋部屋の柱がみ割れる音を聞きながら高瀬が読書でもする晩には、寒さが彼の骨までもとおった。お島はその側で、肌にあてて、子供を暖めた。

 この長い長い寒い季節を縮こまって、あだかも土の中同様に住み暮すということは、一冬でも容易でなかった。高瀬は妻と共に春を待ち侘びた。

 絶頂に達した山の上の寒さもいくらかゆるんで来た頃には、高瀬もようやく虫のような眠から匍出はいだして、復た周囲を見廻すようになった。その年の寒さには、塾でも生徒の中に一人の落伍者を出した。

 にわかに復活いきかえるように暖い雨の降る日、泉は亡くなった青年の死を弔おうとして、わざわざ小県ちいさがたの方から汽車でやって来た。その青年は、高瀬も四年手掛けた生徒だ。泉と連立って、高瀬はその生徒の家の方へ歩いて行った。

 赤坂という坂の町を下りようとする途中で、広岡学士も一緒に成った。

「なにしろ、十年来の寒さだった。我輩なぞはよく凍え死ななかったようなものだ。若い者だってこの寒さじゃたまりませんナ」

 と学士は言って、汚れた雪の上に降りそそぐ雨を眺め眺め歩いた。

 漸く顕れかけた暗い土、黄ばんだ竹の林、まだ枯々とした柿、すもも、その他三人の眼にある木立の幹も枝も皆な雨に濡れて、黒々ときたな寝恍顔ねぼけがおをしていない者は無かった。

 大きな洋傘こうもりをさしかけて、坂の下の方から話し話しやって来たのは、子安、日下部くさかべの二人だった。塾の仲間は雨の中で一緒に成った。

 有望な塾の生徒を、しかも十八歳で失ったということは、そこへ皆なの心を集めた。暮に兄の仕立屋へ障子張の手伝いに出掛け、それから急に床に就き、熱は肺から心臓に及び、三人の医者が立会で心臓の水を取った時は四合も出た。四十日ほど病んで死んだ。こう学士が立話をすると、土地から出て植物学を専攻した日下部は亡くなった生徒の幼少ちいさい時のことなどを知っていて、十歳の頃から病身な母親の世話をして、朝は自分で飯をき母の髪まで結って置いて、それから小学校へ行った……病中も、母親の見えるところに自分の床を敷かせてあった、と話した。

 式は生徒の自宅であった。そこには桜井先生を始め、先生の奥さんも見えた。正木未亡人も部屋の片隅に坐って、頭を垂れていた。塾の同窓の生徒は狭い庭に傘をさしかけ、縁側に腰掛けなどしていた。

 亡くなった青年が耶蘇やそ信者であったということを、高瀬はその日初めて知った。黒い布を掛け、青い十字架をつけ、牡丹ぼたんの造花を載せた棺の側には、桜井先生が司会者として立っていた。讃美歌さんびかが信徒側の人々によって歌われた。正木未亡人は宗教に心を寄せるように成って、先生の奥さんと一緒に讃美歌の本を開けていた。先生は哥林多コリント後書の第五章の一節を読んだ。亡くなった生徒の為に先生が弔いの言葉を述べた時は、年をとった母親が聖書を手にして泣いた。

 士族地の墓地まで、しとしとと降る雨の中を高瀬は他の同僚と一諸に見送りに行った。松の多い静かな小山の上に遺骸いがいが埋められた。墓地では讃美歌が歌われた。そこの石塔の側、ここの松の下には、同級生などが佇立たたずんで、この光景ありさまを眺めていた。


 ある日、薄い色の洋傘こうもりを手にしたような都会風の婦人が馬場裏の高瀬の家を訪ねて来た。この流行はやりの風俗をした婦人は東京から来たお島の友達だった。最早もう山の上でもすっかり雪が溶けて、春らしい温暖あたたかな日の光が青いこけの生えた草屋根や、毎年大根を掛けて干す土壁のところにあたっていた。

 丁度、お島は手拭で髪を包んで、入口の庭の日あたりの好いところで余念なく張物をしていた。彼女の友達がそこへ来た時は、「これがお島さんか」という顔付をして、しばらく彼女を眺めたままで立っていた。

 お島は急いで張物板を片附け、冠っていた手拭を取って、六年ばかりも逢えなかったもとの友達を迎えた。

「まあ、岡本さん――」

 とその友達は、お島がまだ娘でいた頃の姓を可懐なつかしそうに呼んだ。

 一汽車待つ間、話して、お島の友達は長野の方へ乗って行った。その日は日曜だった。高瀬は浅黄の股引ももひきに、尻端を折り、腰には手拭をぶらさげ、憂鬱な顔の中に眼ばかり光らせて、よそから帰って来た。お島は勝手口の方へ自慢の漬物を出しに行って来て、炉辺で夫に茶を進めながら、訪ねてくれた友達の話をして笑った。

「私が面白い風俗ふうをして張物をしていたもんですから、吃驚びっくりしたような顔してましたよ……」

「そんなに皆な田舎者に成っちゃったかナア」

 と高瀬も笑って、周囲を見廻した。すすけた壁のところには、歳暮せいぼの景物に町の商家で出す暦附の板絵が去年のやその前の年のまで、子供の眼を悦ばせるためにはり附けて置いてある。

「でも、貴方だって、小諸言葉が知らずに口から出るようですよ。人と話をして被入いらっしゃるところを側から聞いてますと――『ようごわす』――だの――『めためた』だの――」

「お前もナカナカ隅へは置けなく成ったよ」

 二人とも鼻へしわを寄せて笑った。

「お前のお友達は、それで何て言ったネ」と高瀬は聞いた。

旦那だんなさんが今洋行してますから、ちと高瀬さんにも遊びに被入いらしって下さいって」

「俺にか。旦那さんが居るから遊びに来いッてんなら解ってるが、旦那さんが留守だから遊びに来いは可笑おかしいじゃないか」

 復た二人は笑った。

 鞠子は大工さんの家の娘にも劣らないほど、いたずらに成った。北風が来れば、かしわの葉がぐ鳴るような調子で、

「畜生ッ。つぞ」

 髪を振って、娘は遊び友達の方へ走って行った。

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