山下幸內上書
山 下 幸 內 上 書
山 下 幸 內 著
乍㆑恐奉㆓言上㆒事
恭白、天下の武將と備らせ給ふ御大將は、古より悉く奉㆑撰㆓將器㆒、判
衆人奉㆑譽候品
一 紀州より御供の面々へ過分の御加增不㆑被㆓下置㆒候事
一 法外の御物入御停、並御役人私欲不㆑成事
一 猥りに人を御殺し不㆑被㆑遊候事
一 まひない、けいはく御嫌いの事
一 下々奉公人、請人繼判御停止の事
一 諸國水損にて、田畑永否の場、國主、地頭の力に難㆑及普請の場有㆑之、訴出候得ば上よりも御力を御添可㆑被㆑遊趣の事
一 御目見以下の御家人與力迄、金銀を以て家督明渡し入替難㆑成事
一 今般新に御定被㆑遊候御高札之事
一 近代打絕候日本の武機御見付被㆑遊候事
右の趣當御代の珍寳と稱し奉候、扨此上にも御爲に成候筋可㆓申上㆒と無我の思召、萬民世に難㆑有御事に御座候、御爲と申は、天下國家の爲を指て御爲とは可㆑申候、當時通言に成候御爲とは、金銀の御德用と成候を御爲と存込罷在候ものも多御座候、至て下賤の口ずさびにて、大夫以上の御耳には不㆑入事に御座候、下拙言上に御爲と申上候は、曾て金銀の御爲にあらず候、天下萬民國家の御爲、萬代不易の御寳を奉㆑献候間、彼金玉の御爲と御くらべ、御感味被㆑遊候而已、他事無㆓御座㆒候
一 右體の御器量に渡らせられ候得共、乍㆑恐武門大道の御守、行末得と御熟得不㆑被㆑遊候歟、御政道思召儘に行屆かね、是のみ御身苦被㆑遊、御工風御思案止時なく、是全天下を掌に治給ふに非ず、先初に御心を案じ、能々御心の治りたる以後ならでは、天下は全く治らざるものと承り申候、當時泰平の御代に御座候得ば、事不動せば能治りたる御代と可㆑被㆓思召㆒候へども、四海泰平と申は、天下の萬民內外能服し奉りたるを、全御代の治りたると申候、上部は御威盛に恐れ服し顏にもてなし、心底には不㆑奉㆑服、縱ば竹を撓て我にしたがふといへども、撓の戾候時は元一倍反り申ごとく、何の用にも不㆑立物に御座候
一 慮知思辨を以御治可㆑被㆑遊と被㆑爲㆑量候は、御守行御不足成證據にて御座候、人才の知慮を離れ、生得照命の儘にて、全天下國家治り、萬士萬民も左を脫て服し奉るの法、其道に御座候、則武門の大道と申候、奧にあら〳〵申上候、此儀は不㆑及㆓申上㆒、被㆑爲㆓御存知㆒候御事に御座候へ共、御守行の厚薄と、又は其流善惡御座候得ば、乍㆑恐盲目蛇に不㆑恐の事わり、只天下國家の御爲、萬民を安からしめん事の大願方寸の中にみち、賤しき文筆を奉㆑捧、公聞に候は、其罪不㆑少奉㆑存候得共、萬士萬民の爲、一途に分別をはなれ、照命の御下知にまかせ、憚をも不㆑顧奉㆓言上㆒候儀、良藥口に苦習に御座候得ば、尊意に不㆑可㆑奉㆑叶候得共、尊意に當奉る所則御爲に御座候へば、彌恐を不㆑顧申上候、依て只今まで御政道の衆評を可㆓申上㆒候、惣て慮知思辨方便はかり事を以てなせる事には、是非の差別御座候、御壹人の非は天下の困、天下の困は日本の悲、日本の慙は內への御不忠、大切至極の御事に御座候
衆人奉㆑評品
一 金銀出入之公事御取上無㆓御座㆒候事を、天下德政被㆓仰出㆒と心得、一切借り方之者ども、大名小名下々に至迄、返辨不㆑仕候に付、追て德政にては無㆑之と被㆑仰㆓分之㆒樣に被㆑遊候事、天下之御觸事に間違の儀少しも御座候はゞ、御役人德なきと可㆑申哉、をのづから上之御悲と成候事
一 右之被㆓仰分㆒にても、金子の公事御取上無㆓御座㆒候上は、曾て返辨金は不㆑仕、依㆑之新規貸金仕候もの無㆓御座㆒候、日本の寳すくみとなり、困窮の種となり候、縱ば流に木を橫ふごとく、終に殃のはしと可㆑成御事に御座候、金銀は通るを以たからと仕候、惡敷道には移り安き世の習に御座候へば、當時大名方の借り金京大坂は不㆑及㆑申、江戶の町人共の買懸り等迄、先年切金に成り候をも曾て不㆑遣輩多く、古には無㆓御座㆒候大名の門に、妻子をつれたる町人共付しとひ、或は駕籠馬の尾に取付願ひかなしみ候といへども、其恥をも曾て恥とせず、名より利を取といふいやしき心の移り候は、上に御しまつ多く、下より過料等多御取被㆑遊候、其御心有によつて自然と下へ御風儀移り申候事、日月の光世界を照すごとく、善惡共に上より下へ移る事は、雷の坤竺へ響に同じ、うたがふべきにあらず、扨一旦借り人共德をになふといへども、後の爲には又貸手のなきに困窮し、或國主郡主も惡事の報いは頭をめぐらさゞる習ひに御座候得共、國々風雨旱損の難儀、年月を經ずして大損仕候事、最早御心當りも可㆑有㆓御座㆒候、また重ての德政と申上は、大分之年數御座候もの故、德政のあとは心安ものと承り傳へ申候、只いつとなしに金銀出入の公事御取上無㆑之と御極被㆑成候て、日本因窮の本と成候、かかる事をも委細に申上候御役衆も無㆓御座㆒候は、眞有人を御好不㆑被㆑爲㆑遊と世以愚察仕候所に御座候、當分金銀の御德附候事を申上るが御爲と存、亦上にも夫を尤と思召候は大成御違にて御座候、將軍樣の御しまつ被㆑遊金銀御溜め被㆑遊候へば、一天下の萬民皆々因窮仕候、纔の問屋共賣物を〆候てさへ、其儘其物の高直になる、無上のつまり申にて御賢慮可㆑被㆑遊候、況や公儀に於て寳を御〆被㆑遊下々の立可㆑申哉、はたして此以後に五穀打つゞき不作仕候、火災水難等多可㆑有㆓御座㆒候儀、是天性の化育と申事にて御座候、金銀はいか程澤山にても、金を喰ては一日も送らるゝ物にては無㆓御座㆒候、只大切成物は米穀に極り申候、當御風儀は米穀を輕く、金銀を重く被㆑遊候と相見へ、乍㆑恐紀州を御治被㆑遊候御質失不㆑申候、一國二國の主を初、一郡一村の地頭より下つ方の願には、金銀だに澤山に御座候へば、米穀は他領より何程も調安物にて御座候間、金銀は重く米穀は次に仕候ても事濟候事、夫さへ國主共備候人の心にはいやしき意地と、心有武士は可㆑笑事に御座候、まして況んや一天下を治させ給ふ御身に於ては、金銀は有生不滅の世寳にて、いつ迄も不㆑滅して天下に融通しめぐる物にて御座候へば、大名以下の心とは格別の違ひ、是第一の御事に御座候、米穀は一年切の物にて、惡年打續候得ば何方よりも入事なく、扨一日半日にても無て不㆑叶
- 昔大閤秀吉天下をしろしめして以後、兩度まで御藏拂被㆑遊候由、金銀を大分藏に納置は、能士を籠へ押込にひとしきとて、金藏不㆑殘明られ、天下の四民四通に悉被㆑下候事二度に及候由、大閤の御代には朝鮮攻其外金銀大分入用多時すら、如㆑此大勇󠄁を備へ給ふと語傳申候、尤成かな、天下の金銀は將軍の物なり、古より武將の金銀に御手支被㆑遊たるを不㆑聞、さらば御大事のあらん時は、海內の寳はおのづから集る事的然なり、縱ば不足に候へ共、由井丸橋ごときは大望にさへ金には手をつかんずと承傳候、いはんや治國太平の御代に於て、金銀を〆萬民を困め給ふ御小機はいかなる事に候哉、當時諸大名の困窮は如何成故と被㆓思召㆒候哉、日本の金銀は不㆑易日本に御座候へば、只すくむと能通るとの違にて、全此源を御考可㆑被㆑遊候事
一 御家人の御切米金子にて當年は御渡被㆑遊、大分の難儀申計も無㆓御座㆒候、米にて定候御切米は、いつ迄も米金にて定候、御給金はいつ迄も金子にて御渡被㆑遊候へば、いかほど損益御座候ても、上を恨み奉事無㆓御座㆒候、縱ひ上に御損被㆑遊、金子にて御渡被㆑遊候ても、不㆑定事は天下の御仕置にも有㆓御座㆒間敷奉㆑存候、殊更當年の被㆑遊方、上に御德眼前に御座候へば、御家人下心には奉㆑恨、色にこそ不㆑出共、人情の習御賢察可㆑被㆑遊候、上に御德と申は、當春御張紙の直段より町の米相場は高く、當冬御張紙直段高く被㆑遊候へば、其內を御借被㆑遊候に付、明かに御德用相見へ申候、ケ樣の儀御仕置とて、日本の萬民可㆑奉㆑服哉、不㆑服時四海掌に御治被㆑遊候と申ものにては無㆓御座㆒候、第一御大切の御家人を纔の事にて御責被㆑遊候へば、況下萬民の事において御憐愍の無ところ、乍㆑恐下下の奉㆑察事に御座候、御家人の難儀は御鉾先のなまりにて御座候へば、此一條に至りて御爲重き御事に御座候、御厚恩を蒙り奉る家人衆、心は附ながら御諫も不㆑被㆓申上㆒、其無㆓甲斐㆒とや、無㆓本意㆒とや可㆓申上㆒、下々了簡におち不㆑申候事
一 四季の御狩は武將の御役目にて御座候、其外御遊興一通りにて御座候得共、御用捨被㆑遊候事專一、江戶近在殊の外困窮仕候事、逐一に御存知不㆑被㆑遊候御事、是は御遊をさまたげ申候樣に似候得共、御鷹野より外に御樂に成候事餘にも可㆑有㆓御座㆒と奉㆑存候、只興を御慰に被㆑遊候はゞ、是より外に御遊興有㆓御座㆒間敷候、御遊山の爲に人民困め給ひ、御樂には被㆑爲㆑成間敷御事に奉㆑存候、人間の歡は天の御歡と承り候へ共、富るも不㆑奢、貧も不㆑恨、千々のこと草迄武門の美景を照し給はんは、無上之御樂と乍㆑恐奉㆑存候、頃日世話の風說に、御鷹野は假令の御事にて、備立人數あつかひ等被㆑遊、采配を以御人數を御仕ひ御ならし被㆑遊候趣專風聞仕候、四季の御狩は軍ならし被㆑遊候由に御座候へば、乍㆑恐御尤千萬奉㆑存候、然共今之御采配にて御自由に御人數御仕ひ被㆑遊候は業の采配にて、生死の場に於て誠の御用には立不㆑申候、前々申上候人を撓て御仕ひ被㆑遊候にて御座候、眞の采配にあらざれば、眞服の人を仕ふ事不㆑成ものに御座候、則奉献之采配を餘流と御たくらべ御感味可㆑被㆑遊事
一 神佛をおろそかに被㆑爲㆑成候樣に申候、乍㆑恐國家を御保被㆑遊候道具の一部にて御座候を、御心得不㆑被㆑遊候と相見へ申候、士農工商の四民を以て國の機とし、神佛儒醫の四道を以國の慣として、天下は治るものに御座候、其眞理は御守行の上にて明に知申候事に御座候、機慣全甲乙なく揃はざれば、國病難治片荷を附る馬のごとく、つり合ざるものに御座候
一 金銀は片寄安きものにて、多有所へ段々集り、少くとぼしき所は間も無滅するものにて御座候へ共、上より隨分融通自由に成候に御心を不㆑被㆑附候へば、兎角すくみ安きものにて御座候、是困窮と豐成の境にて御座候、只今新金、新銀、四寳銀等の御引替に付大分位の高下出來、其位違の所皆々上の御德用と相成候、旁以金銀の通用不自由成折柄、又候金銀の公事御取上無㆑之、彌すくみと成候故、日本困窮仕、めた〳〵と間もなく世上つまりと罷成候、別て銀子のみの通用仕國々は、大名小名悉く手詰に相成、近年御奉公向の事に付て困窮仕たる大名は及㆑見不㆑申候、殊更に大名小名の困窮程公儀の御損は無㆓御座㆒候、近可㆓申上㆒なれば、江戶惣門所々の御番所、或は京、大坂、駿府御番所等の御番人士列の者は大槪家來にて、步行以下の者共は皆々當分雇ひの日雇を以て番人に拵置候事、萬一少少御急󠄁變も御座候時、何の御用にか立可㆑申、士計にて四具の羽翼調はざれば、羽ぬけ鳥のごとくにて、一虎口も持るゝものにては無㆓御座㆒候、いかに御靜謐の御代とは申ながら、平生戰場、戰場平生と御座候へば、餘り御油斷千萬不心掛の至に乍㆑恐奉㆑存候、一を以て萬を知るにて御座候へば、此外共に武備の薄成事御賢察可㆑被㆑遊候、歷々の武士たるもの、近年はちと身を持たる町人方へ文通仕候に、大槪大方樣付の書通にて御座候、或は出會の節の挨拶等を承候に、互に殿付の口上に、武士町人の境も難㆓見分㆒、一座族間に御座候、是全く餘之儀にては無㆓御座㆒候、武威薄く成候證據にて御座候、何とやらん町人のかげにて武士も立候樣に覺、町人も我等が用を達するゆへに、武士も立候ほどと申族多、扨々苦々敷事と奉㆑存候、ケ樣の儀皆金銀を重く覺へ候故と、武家の困窮との二ツにて御座候
一 金銀箔類御停止被㆑遊、扨又子共手遊の大人形雛の道具等、結構成物の類御停止被㆑遊候の趣、乍㆑恐御器量せまく、則押付日本衰微の元にて御座候、乍㆑恐御評議を奉㆑察候に、世上奢申故困窮仕たると被㆑爲㆓思召㆒、無益之子共手遊等に箔をつかひ候儀、金銀をついやし候も一途に御了簡被㆑遊候と奉㆑存候、ケ樣の無益の物を高直に調申者は、貧賤の者の調ものにては無㆓御座㆒候、いづれも大身か內福ものもて遊ぶ事に御座候間、溜り金銀を出させ、小身なる細工人等へ金銀をはぶき、茲を以寳の通用と罷成申候、縱ば水道をさらへるごとく、全く費の樣にて曾て費とは成不㆑申候、取も替るも、同日本の中を廻る金銀に御座候へば、更に無益にはあらず候、箔に成失せ候金銀はをしき事の樣に御座候へ共、天運は是に限らず、西へ〳〵と入月日と思へば、東に出る月日、死失る人間とおもへば、人々人を產み、夜晝つかず流すたれる川水の盡る事もなく、一秋の五穀は一年に喰仕舞ても不足もなく、餘て捨し事もなく、金銀又土へ〳〵と落すたれども、又土より出る金銀、とかく世界は車の輪のごとく、行をとゞむれば、出るかたよはし、是天道の御律儀なる御よそほひにて御座候、しかるに右の被㆓仰出㆒、諸職人諸商人何を仕候ても賣れ不㆑申、其日を過しかね申候、扨こそ內福者の金銀動不㆑申、すくみ候故、おのづから世上困窮仕候、奢と申は下を困め、上たる者の婬逸遊興を悉く仕を奢ものとは申候、金銀澤山持たるものゝ高直成る物を調へ申候を奢とは不㆑申候、貧成る者の其日を暮しかね、なげき悲むは莫大の事にて、有福なるものゝ手遊び類結構成物無㆓御座㆒候とて、困事は曾て無㆓御座㆒候、然ば何成とも珍ら敷事を仕出し、內福者のすくみ置し金銀を出させ候が、通用自在の元にて、御靜謐成る御代の美景、武門の御手柄にて御座候、世上ケ樣に次第〳〵囂成候は、全く寳のすくみに相極申候、人は小天地にて、天地全兼俱たる物にて、天地を以人の上に縱候に、毫厘も違不㆑申候、寳のすくみたるを人の上において申候時は、血氣めぐらずして滯たるに御座候、氣血めぐらざれば腫物出來候は、輕分の煩敷物に御座候、眞そのごとく世上煩敷罷成候、前方に養生御加不㆑被㆑遊候は、腫物と成候ては身の內に疵付癒兼可㆑申候、中々細成費等に御心を被㆑爲㆑附候て、天下の困窮止申者には無㆓御座㆒、却て夫に付て困窮仕候、如㆑是を武門の小乘と申候て、格の內にかゝる自由自在曾て不㆑成物にて御座候、武門の大乘ならずしては、一天掌を見るがごとくには不㆑被㆑爲㆑成候、御守行の上にて明日にも相知申事にて御座候、とかく大上の御身においては、米穀を以て世界の本門と被㆑遊、金銀を以手足と被㆑遊候へば、其末あまねふして安く可㆑有㆓御座㆒候、當時御風儀乍㆑恐奉㆑伺候に、金銀を以て本心と被㆑遊、米穀を以支體と被㆑遊候、此前後黑白して大切至極の御事に御座候、只今此前後によつて、金銀の手足餘程不㆑叶樣に相見へ申候、しか〴〵只今療治の眞最中と奉㆑存候
一 近年井澤と申者の書に、明君家訓と申して上下二卷の書御座候、世俗專ら當將軍樣御直作の書とて、或は譽め、或は譏り、其評區々にて當時はやり申候、御上覽被㆑遊候歟、愚には全井澤が自作と決定奉㆑存候譯は、井澤が書に、武士訓と申書御座候、此文と質ひとしく御座候へば、全御上作とは不㆑奉㆑存候得共、世俗御上作とてもてはやし申候、文體は御上作に眞似敷物に御座候、若御上作にも御座候はゞ、恐ながら御氣質の顯れ申書を御弘め被㆑遊候事、心有武士は乍㆑恐淺間敷奉㆑存儀に御座候間、絕板に被㆓仰付㆒可㆑然奉㆑存候、此書の非は日本の弓箭と、漢傳の弓箭と相交、一質に覺綴りたる書にて、日本正道の弓箭に對して大成無禮至極なる書にて御座候、總て百乘の漢士〈七千五百人〉に、一備の倭兵〈武士五十騎、雜兵七百人也〉を以我が對鬪とする事天然の素性、末代といふともかはるべからず、〈神功皇后三韓退治、近大閤唐土攻、何も百乘三備の格を以て對鬪すること明也〉然れば兵權の要法に於て、異國を便るは兵家夫れあやまちにちかからんと、日本舊典を引て上杉謙信公宣ひしなり、都て異國の弓箭は人性の陰氣厚生付候故、謀作を以軍の利を得ん事を計り、不義にして帝王を殺奉り、下賤より十善の位に立、只荒强のみを武勇󠄁と覺申候氣質にて、言語いやしく
右の品々御感德の上、御用捨の二ツを御治定可㆑被㆑遊事に御座候、誠や天に口なし、人を以いはしむるにて御座候へば、衆人の口は天の口と可㆑被㆑爲㆓思召㆒候
上 書 之 外
山 下 幸 內 言
神儒佛はなれて外に御影なく
いつまでやみのありてはつべき
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