小學國史教師用書

小學國史教師用書 著作兼發行者 文部省

凡例 一、本書は、尋常小學校國史上下両巻及び高等小學校國史両巻の教師用書として編纂したるものにして、兼ねて師範學校用國史教科書に充てしむ。 一、本書は、國體の特異を明らかにして國民性格の培養を期すると共に、各時代の人文を概括的に記述して、小學國史に説くところの事實を綜合大観せしめ、殊に稍詳しく道徳・教育の變遷を叙して徳性の涵養に努めたり。 一、本書は、我が國に關係ある外國の事項及び外来文化の推移等については、稍詳しくこれを記述して注意を喚起せり。 一、本書は、主要なる小學國史教材の原據を引用して、教師の國史教育に對する信念を確固ならしめ、併せて師範學校の生徒をして小學國史の教材を研究せしむるの料に供す。 一、本書に挿入せる圖表は、一には本文の理解を助けしめ、一には郷土研究の資たらしむ。かの上代の帝都及び國府・國分寺の所在地の如き、主として一般の通説に從へりと雖も、總てその地を是として、以て他を斥くるの意にあらざるなり。

第一 建國の體制 遠く神代において伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神初めて淡路・四國・隠岐・九州・壱岐・對馬・佐渡・本州の大八洲國を經營したまふ。また諸神を生みたまひて、この國土の山海草木に至るまで、それぞれこれを分掌たまへり。二神の間に生まれさせたまへる天照大神は、もとより天下に君たるべきお方と定まりたまふ。大神は保食神とともに御意を生民の上に注がせられ、水陸の田を分かちて稲粟稗などの五穀を植ゑしめ、また養蚕紡織の道を授けたまひたれば、萬民等しくその御恩澤に浴せざるはなし。かくて御聖徳の赫奕として周きこと、あたかも太陽の天上に輝き渡りてひろく宇宙を照らし、萬物これによりてその生育を遂ぐるが如くなりき。然るに大神の御弟素戔鳴尊は、強勇にまかせて、大神の農耕を妨げ、新嘗の宮殿を汚したまふなど、すこぶる荒々しき御振る舞いありしも、大神の寛洪海の如く、少しもこれを咎めたまはざりき。されど大神が祖神に奉るべき御衣を織らしめたまふ時、尊はその機殿をさえ汚したまふに及びて、大神はついに堪へかねて天石屋にこもりたまふ。ここにおいて八百萬の神々天安河原に會して相議し石凝姥命をして八咫鏡を鑄造せしめ、玉祖命をして八尺瓊曲玉を作らしめ、これを青白の和幣とともに榊の枝にかけて、太玉命これをささげ、天兒屋根の命祝詞を読み上げ、天鈿女命石戸前に神樂を奏して、大神を迎へ出したてまつりぬ。素戔鳴尊は、諸神に罰せられて出雲に降り、その地方を平らげたまひて天叢雲剣を、これを天照大神のに奉らる。またその御子五十猛命とともにはかりて、樟・杉・檜のたぐいを諸方に播殖せしめ、船を造りてしばしば朝鮮半島に往来したまへり。命の御子大國主命は少彦名の命と力を合わせて、さらに國土を開拓し、醫薬の方、禁厭の法などを定めて、國民を愛撫し、大いに勢威を張りぬ。天日槍も、その風を慕いて半島の地よりわが國に歸化せりという。時に天照大神はわが國を永く皇孫統治の下に置かんとて、諸神と計りて經津主命・武甕槌命らを出雲に遣わししてその御旨を諭さしめたまふ。大國主命は御子事代主命とともによく大義を辨へたれば、直ちにその命を奉じ、おのが經營せる國土を悉く奉りて、みづから杵築に引退したまへり。大神よりてその大功を賞し、宏壮なる宮殿を建て、大國主命をここにおらしめて、これを優遇したまへり。この宮殿儼然として古制の様式を存しここに命もまつりて上下の崇敬今にかはらず、これすなはち出雲大社なり。大國主命の國土を獻上するや、大神すなはち皇孫瓊瓊杵尊をこの國に君臨せしめたはんとし、八坂瓊曲玉・八咫鏡・天叢雲剣の三種の神器を授けて荘重無比の神勅を下したまふ。萬世一系天壌無窮皇運はここに始まり、世界に比類なきわが大日本帝國の基礎は實にここに定まりぬ。 ここに於いて皇孫は三種の神器を奉じ天兒屋根命・太玉命を天鈿女命石凝姥命・玉祖命の五部の神を從へ天忍日命・天久米命の武神を前駆として日向に降りたまふ。これより御三代の間はこの地におはしましてわが帝國をおさめたまひしが、第一代神武天皇が神勅の御旨を奉じて帝業を恢め、大和の橿原宮に初めて即位の禮を擧げたまひしより、萬世一系の天皇は代々三種の神器を皇位の御しるしとして連綿と榮えまし、列聖絶えず仁政を垂れて國民を愛撫したまふこと、かしこくも慈母の赤子におけるが如し。 この尊厳なる皇室を戴けるわが國民は、おほむね皇孫に從い、降り来たれる五部の神をはじめ、諸神の後(神別)なるか、又は神武天皇以来歴代の皇胤より出でたるもの(皇別)なり。この他支那・朝鮮などより歸化せるものの子孫(蕃別)、または太古よりわが國ありし熊襲・蝦夷などの異種族もあれど、はやくもわが國民と同化して、その間少しも區別を存することなく、相共に皇室を中心として忠誠を致し、もって今日の盛世を成せり。 かくてわが建國の悠久なること既に萬國に秀で、爾来星霜を積むことここに數千載、皇室と國民との由来するところ頗る古く、その情誼は實に一大家族の如し。しかも君臣本来の關係は毫も紊るることなく、萬古不易の國體は微動だにせず、これを諸外國の歴史に顧みて、諸外國が多く國民ありて後に君主を選び、また革命しばしば起こり、簒奪を事とし、今や建國當初の國體を保つもの殆どこれなきに比し、ますますわが國體の宇内に卓絶する所以を覺らん。北畠親房は嘗て神皇正統記を著し、優秀なるわが國體を頌していはく、「大日本は神國なり、(中略)日神長く統を傳へたまふ。我國のみ此事あり、異朝にはその類なし。」と。國民よくこの國體の尊厳なる所以を體して、いよいよ忠勤を勵み、國家の愛護に努めざるべからず。

第二 國内の統一 上古の社會・政治組織 瓊瓊杵尊日向に降りたまいてより御三代の間は、常にこの地方にましましければ、遼遠の地、いまだ皇化に霑はず、まま騒擾を極めたりき。こにおいて神武天皇中央なる大和平野の地に移りて、ひろく、天下の人民を愛撫し神勅の御旨を全うせんと皇兄五瀬命などと謀りて東征の途につきたまえり。天皇日向を發して瀬戸内海を航したまえり、行く行く行宮を建ててその地方を平らげ遂に浪速に着きて大和に入らんとしたもう。時に鳥見の酋長長髄彦なるもの、饒速日命を推戴して皇軍に抗したれば、五瀬命これがために傷つき、間もなく薨じたまえり。天皇は道を転じて紀伊より入らんとし、道臣命・大久米命を先鋒とし、峻嶺をよじ深谷を渡り進みたまひしが、あるいは天佑によりて反抗する者を破り、あるいは軍歌をもって士氣を勵まし遂に長髄彦を誅し饒速日命を歸順せしめ、その他降れるものはことごとくこれを懐柔して、全く大和地方を平定したまえり。 大和地方すでに平定せしかば、天皇畝傍山の東南橿原の地を相して帝都と定め、宮殿をここに營みいて、辛酉の年正月朔日、荘厳なる儀式を以て即位の禮を擧げたもう。この時事代主命の御娘五十媛命を立てて皇后となしたまへり。近く明治五年、この御即位の年を紀元元年と定め、ついでご即位の日を太陽暦に算して2月11日にあって、これを紀元節と名付けて祝日となせりかくの如く第一代天皇即位の年をもって帝國の紀元を立て、萬古變わりなきは獨りわが國のみにして、しかも西洋の紀元に先立つこと六百六十年、またもってその淵源の悠久なるを知るべし。 かくて天皇は大いに論功行賞を遂げたまい、朝官には、天種子命と天富命とに祭祀を掌らしめ、道臣命と大久米命をしてそれぞれ兵を率いて宮門を警めしめ、なお饒速日命の子可美眞手命を近衞の將して殿内を守らしめたまふ。また地方には、勲功ありしものを國造・縣主に任じてそれぞれ政務を行わしめたまえり。天皇また御心を殖産の上に留めたまひ、楮・麻などを阿波・安房・總の諸國に植えしめて、産業を勵ましたまひしなど、御功業全くなりて遂に崩じたまひぬ。すなわちこの日を推歩して太陽暦の四月三日に當て明治六年初めて神武天皇祭日と定む。 わが帝國の基は、神武天皇に至りていよいよ固くなりしが、當時皇威の及ぶ範圍なお狭かりしかば、第十代崇神天皇は御祖宗建國の御遺志を繼いで、ひろく教化を海内に布かんと思召し、四道將軍を諸方に派遣して皇命を諭さしめ、なお頑冥にして命を奉ぜざるものは、やむなくこれを討平らげしめたまふ。これより將軍の子孫それぞれその地方治めて、天下静謐におもむきしが、國内ようやく多端になりゆきしを以て、はじめて庶民の數を調査して税法を定め、男女にそれぞれ調役を課しぬ。 ここに於いて皇威頗る揚がりしも、なほ東西の邊陬に占居せる熊襲・蝦夷の種族は強暴にしてしばしば朝命に逆らへり。よりて第十二代景行天皇は、智勇絶倫なる日本武尊をしてこれを平らげしめたもう。尊は金枝玉葉の尊き御身をもって、西征東伐ほとんど寧日なく、具に辛酸をなめたまひしが、その妃弟橘媛は、ために海中に御身を投じたまひ、尊もいたく心身を勞して、かしこくも陣中に薨去したまへり。かくて命の御功績により、邊民に至るまであまねくを皇化に浴して、擧國太平を謳歌するに至りぬ。 景行天皇は、尊の平定する東北の諸國を親しく巡視し、御諸別王をその都督に任じたるをはじめ、數多くの皇子を諸國に封じて、それぞれその地方を治めしめたまふ。第十三代成務天皇その後を承けて、ますます治民に御心を注ぎたまひ、中央には武内宿禰を初めて大臣に任じて大政を補佐せしめ、また地方は山河の位置によりて國縣を分かち縦横の路にしたがいて邑里を定め、國造縣主などを増置したまいしかば、地方の制度大いに備わりぬ。ここにおいて崇神天皇以来擴張せる政治は、まさに一段落を告げ、大和朝廷の御稜威いよいよ四方に及ぶにつれ、「やまと」の稱はついに大八洲の國號となるに至れり。 當時我が社會組織はいわゆる氏族制度にして、同一の祖先より出でたるもの、一定の地に占居して團體を作りその職業を世襲せり。これを氏といひ、その稱はおおむね職業または住地の名を取りて、實に社會の單位をなせり。これを統ぶるものはすなわち氏上にして、朝廷よりそれぞれ臣・連などの姓を賜る。されば氏上はおのが氏人を支配して、その政務を執り行うとともに、またこれを率いて朝廷に仕へ、皇室を中心として忠勤を勵みたり。たとえば蘇我氏は地名による稱にして、その長たる蘇我臣は主に政事にあづかり、物部氏は職業にちなめる名にして、これが統領たる物部連は主に軍事を掌る。これらの臣・連家より出でて天皇を補弼し、國家の大政に参與するものは、すなわち大臣・大連にしてこれまたその職務を世々にせり。かくて當時の政教は専らこの氏族制度によりて行われたるものにて、かかる社會組織はやがて政治の組織と一致したりしなり。 かかる時代には、氏人のその氏の上を宗主として尊敬するは素より、その祖神を尊信するの念頗る強かりき。されば尊祖敬神はわが國古来の美風にして、神武天皇の橿原に奠都したふや、神籬を建てて神祇をまつり、ついて霊畤を鳥見山に建て、皇祖天神をまつりて大孝を申べたまえり。また天照大神の神鏡を皇孫に授けたまふに當たり、「この鏡を視ることを吾を視るが如く、床を同くし殿を共にして齋きまつれ。」仰せたまひしより、御歴代これに御剣・御玉を添えて殿中に齋きまつりしが、崇神天皇の御世に至り、その神威をけがさんことを畏れて、神鏡を大神の御霊代とし、御剣を添えて大和笠縫邑に祭らしめたもう。ついで第十一垂仁天皇の皇女倭姫命は更に大神鎭座の地を求めて伊勢に至り、五十鈴川の流れ清きほとり、底津磐根に宮柱太敷立て、高天原に千木高知れる瑞の御殿を立てて、これを齋きまつりぬ。これすなわち皇大神宮なり。その後日本武尊東征の途に就きたもうや、まづ神宮に参拝して遠征の旨を告げたてまつり、御剣を受けて東國に下りたまいしが、尊の薨後その妃宮簀姫これを熱田神宮にまつりたてまつれり。 朝廷特に皇大神宮を尊崇したまひ、御歴代未婚の皇女を選定して齋宮となし、伊勢に發向して、潔斎して神宮に奉侍せしめたまえり。この制は第九十六代後醍醐天皇の御世に至りて廢絶せしかども、今なお神宮の祭祀は皇族をもってこれに任じたもう。また式年遷宮とて二十年毎に社殿をすべて造替して遷し奉るの制も古くより存して、今にかわらず。しかして崇神天皇が神鏡・御剣を別宮に齋きまつりし際、新たにその寫しを作らしめて、神代傳来の御玉とともに宮中に留め、長く皇位の御しるしとしたまいしが、中にも神鏡は宮中の賢所に奉安して、御歴代大神の御膝下にましますが如く仕へたてまつる。臣民もまた大神を國家の祖神として、崇敬すること他に超え神宮に参拝するもの常に絶ゆることなし。氏族制度の代には、各地の氏族は皇大神宮をあがめまつるは素より、それぞれその住地に氏神をまつり、おのが守護神として厚くこれに奉仕せり。その祭祀には、氏上氏人を率いて森厳なる斎場に臨み、親しく荘重なる祝詞を読み上げて、皇室と自家との由来を説き、おのが祖神が君國に立てたる勲功を述べて、いたく氏人を感動せしむ。氏族はためにその團結を堅め、おのが家職に勵みて、祖宗の名をけがさざらんことを心掛くるのみならず、皇室を大宗家と仰ぎて、おのづから忠君愛國の精神を發揮せり。かくて祭祀は政事の最も重なるものとして、國家の大事は必ず神慮に問いてしかるのちに行い、財政の上にもいまだ神物・官物の別なく、すべてこれを齋蔵に納め、祭事を掌れる中臣・齋部の両氏はともに朝廷の要職を占めて、最も社會に勢力を得たりき。 かかる間に、社會の經濟もようやく進歩せり。わが國もと氣候中和にして地味肥え、緑滴る山谷は鳥獣の棲息に適し、参差たる海岸は魚介の棲息に便にして、頗る生物に富みたれば、狩猟・漁撈を營みて、いわゆる山幸・海幸をとるは當初おもなる國民の生業なりしが、農耕の道もまた次第に發達せり。崇神天皇は、農は天下の大本なりと勅して、盛んに農事を奨勵したまひ、垂仁天皇また先帝の御志を繼ぎて御心を勸業に留めたまい、諸國に八百の池溝を開かしめて、灌漑の便を與えたまいたれば、その業いよいよ興りて百姓を大いに富みぬ。 時代の進むにつれて、世の文化もおのづから開け行けり。言葉巧みに、且、荘重に綴られたる祝詞は、はやくより存して、國民文學の淵源といわれ、また悲喜の情切なるとき直ちにその懐を述べたる歌謡にも、古雅の調を帯ぶるもの少なからず。家屋は木造にして礎石なく、茅茨を葺きて雨露を凌ぎ、藤葛を以て梁柱を結べるが如き、極めて質素なる構造なれど、陵墓の規模は尊祖の美風に伴いて、概して壮大なり。その副葬品には生前の使用品、また祭器などありて、上古の文化を偲ぶに足るもの多し。食器は多く素焼の土器を用ひ、衣服の制は、男女殆ど同様にして、麻また楮の糸にて製し、既に色を染め文に織りなせるものもあり、紅緑の玉は頸または腕に纏われて、更にこれを飾り、人々悠々自然を樂しみて、古樸なる生活を送りぬ。

第三 朝鮮半島との關係 文化の進歩 成務天皇の朝に國内の制度大いに定まりしかば、國勢はさらに伸長して朝鮮半島に及び。これより皇威遠く海外に輝き、大陸の文物續々わが國に傳来して、我が經濟・文化に至大の影響を與えたりき。朝鮮半島は最も我が國に近く、僅かに一衣帯水の地に過ぎざれば、實に唇歯の關係を有し、彼の形勢は直ちに我に波及するを常とす。古来半島の地はおよそ漢江を界として南北の二部に分かれ、北部は朝鮮と稱して、はじめ殷の王族箕氏これに王たりしが、後、漢の武帝に滅さる。南部にはもと馬韓辰韓辨韓の三韓ありて、各々小國に分かれたり。その後、辰韓の地に新羅國起こり、ついで高麗國興りて半島の北部を合わせたりしが、やがて高麗の同族南下して馬韓の地に百濟國を建てて、三國あたかも鼎立の状をなし、わが國にてはなおこれを三韓と稱せり。然るに辨韓の地に任那國あり、新羅・百濟の間に介在して國力微弱なれば、常に両強の壓迫に苦しみしが、遂に新羅と地を争い、崇神天皇の朝、使いを送りて救いを我が國に請ふ。朝議鹽乗津彦遣わしてこれを助けしむ。これすなわち任那日本府の起源にして、この後永く半島統治の中心となりぬ。 國内にては、日本武尊の西征東伐以来海内久しく太平にして人民各々その堵に安んずることを得しが、第十四代仲哀天皇の御世に至りて、九州の熊襲また叛するに至れり。ここに於いて天皇、神功皇后とともに親征したまいしに、未だ平らがざるうちに陣中に崩じたもう。皇后熊襲の叛服常なきは新羅の後援あるがためなれば、まず新羅を從えなば、熊襲の如きはおのずから平ぐべしと思召しされ、紀元八百六十年武内宿禰と謀りて、舟師を率いて新羅を討ち、忽ちこれを降したまえり。その後も朝廷たびたび將士を遣わして半島の地を經營せしめたれば、高麗・百濟もついに服し・三韓悉く我が屬國となりて、熊襲もまた永く叛かざるに至れり。かくて彼我ともに平安なるを得て、互いにその幸福を増進し、武庫の港(兵庫)には三韓諸國の亭館設けられ、彼の貢船は舳艫相ふくみて毎年ここに入港し、頗る繁榮を致しぬ。 三韓諸國は、はやく漢の代より支那大陸と交通して、その文物を採り、學藝開けたれば、我が屬國となるに及びて、しきりにこれを傳えて、我が文物の進歩を助けたりき。すなわち第十五代應神天皇の朝に、百濟より阿直岐・王仁の諸學者来朝し、皇子菟道稚郎子これを師として典籍を學び、深くその義理に通じたまいたれば、後、高麗より上がりたる表文に「高麗王教日本國」の語在りしを見て、その無禮なるを怒り、大いに使者を詰責したまへり。漢字の使用、漢籍の學習これより起こりしが、殊に孔子によりて大成せられたる儒教は、わが國民思想に多大の裨益を與へぬ。蓋し祖先を尊び忠義孝貞の道を盡くすは、わが國古来の習俗にして、儒教の説くところ多くこれと一致したればなり。この後第二十六代繼體天皇の御世に五經博士、第二十九代欽明天皇の御代に醫・易・暦の諸博士いづれも百濟より来たりて分番交代し、さらに第三十三代推古天皇の御世には、天文・地理の諸學もまた百濟より傳来して、學習の範圍おいおい広まりしが、この間において我が學問の發達に功ありしは、おもに三韓歸化人の子孫なり。中にも王仁の子孫は河内に住し、王仁についで来朝せる阿知使臣の子孫は大和に移住し、これを東西文氏と稱して、世々朝廷の記録を掌り、後世に至るまで専ら文事にたづさわり、我が文運に貢獻するところ多かりき。文教と共に工藝もまた彼より傳われり。應神天皇の朝、秦の始皇帝の後裔弓月君百二十七縣の民を率いて百濟より来朝し、その人々養蚕・紡織を能くせしかば、その氏族をば機の義を取りて秦氏といふ。また彼の漢人阿知使臣の来るや、同族從類なる十七縣の民を率いて歸化し、これまた機織りの術に巧みなるより、文の義を取りてその氏族を綾氏と稱す。なほ天皇は阿知使臣を支那江南地方に遣わして縫女・兄媛・弟媛・職工・呉織・漢織を招かしめ、百濟よりは錦織の職工を召させたまへり。大陸の織縫術これよりわが國に行われ、外来の鍛冶術・醸酒法などもこの頃よりはじまりて、大いに我が技藝の發達を促しぬ。 この盛世の後を承けて第十六代仁徳天皇、都を交通の至便なる難波に定めたまふ。まづ人民を富ましめんとて、いたく御みづから倹約を力めさせられ、數年の間全く租税を免除して萬民を慈みたまいしのみならず、さらに進みて民業を發達せしめんがために、常に御心を民政に用いたまへり。されば秦氏を諸國に分配して養蚕・紡織業の發達普及を圖らしめ、また難波の堀江を開鑿して潴水を海に通じ、茨田堤を修築して淀川の氾濫を防ぎ、この他數多の池溝を掘り田地の灌漑に便して、おおいに農業を奨勵したまひ、なほ橋を架し大道を設けて、交通の便を開きたまへり。ここに於いて荒地は變じて良田となり、人民往来の利便を得て、皆聖徳の厚きに感泣し、各々その業を樂しみぬ。 かくて上代産業の發達は第二十一代雄略天皇の御世に至りて極まれり。天皇深く御心を殖産に用ひたまひ、遠く神代において天照大神を助けたてまつりて、農事に盡くさせたまへる豊受大神を丹波より伊勢に迎へて皇大神宮に近くまつりたてまつれり。後世この宮を外宮といひ、皇大神宮を内宮と稱して、竝びあがめまつる。天皇また皇后をして親しく蚕を養はしめて範を世に示さしめたまひたれば、國民ますますこの業に勵みぬ。この頃産業に從事する歸化人の子孫もおひおひに増加し、秦氏の數のみにても既に一萬八千餘人に上りて、その業にいそしみたるに、朝廷更に職工・縫工を支那より招き、陶工・鞍工・畫工などをも百濟より召させたまひしかば、各種の工藝竝び興りて國富大いに加わり、遂に三蔵の竝立を見るに至れり。さきに三韓服屬以来、彼の貢獻多く、加ふるに國内の工業發達して、絹布の製出をおびただしきを以て齋蔵の外に内蔵を建てて、漢氏をしてこれを掌らしめ、初めて神物・官物を區別せしに、今やまた國家の財政ますます擴大せしにより更に大蔵を建てて秦氏をしてこれを掌らしめ、新たに朝廷の内帑と政府の用度とを區別したり。この後、蘇我満智をしてこの三蔵を總轄せしめたるより、他日その同族の隆盛を致すと共に、古来齋蔵を掌りし齋部氏は、かへってその勢力を失ふに至りぬ。 外来諸種の技藝は、わが固有の技術と調和して大いに文運の進歩を促ししが、佛教の傳来によりて更に社會に大なる影響を與えたり。佛教はもとインドの釋迦牟尼が若くして出家し、苦學難行の後遂に大道を悟り、あまねく衆生を教化せるに始まる。この教えはすでに後漢の代に支那に傳はり、下りて東晋のころ朝鮮半島に入りしかば、早くわが國にも傳流し、繼體天皇の朝に支那人司馬達等歸化して大和に住し、佛を祭りてその法を弘めんとせり。されど人々これを外國の神として信奉するものなかりしに、紀元一千二百十二年欽明天皇十三年に至り、百濟の聖明王使いを遣わして、金銅釋迦佛の像、幡蓋・經論などを獻じ、別に表を上りて盛んに佛陀の功徳を禮讃せり。 天皇は佛相の端厳佛法の微妙を喜びたまひしも、わが國古来専ら神祇の崇敬を習とせしことなれば、まづ佛陀禮拝の可否につきて民意を徴せんがために、これを群臣にはかりたまへり。時の大臣蘇我氏は、祖先以来三蔵統べて秦漢両氏を支配し、早くも外来の思想文物に接觸したるを以てて、稲目馬子の父子はこの新来の佛教を尊ぶべきことを主張し、大連物部尾輿守屋父子は神祇の祭祀を世業とせる中臣の鎌子及び勝海とともに、これに反對して、両派の争いはおいおい激烈となりぬ。かくて反對黨は蘇我氏のために滅せられて、佛教を大いに勢いを得、遂に推古天皇の御世に至りてひろく一般に流布したり。ことに聖徳太子は深くその教えを信奉し、經典を高麗の僧恵慈に習ひて、大いにその意義に通達し、朝堂に百官を集めて親しく佛典を講説せられしのみならず、その攻究にも外人の解釋に甘んぜず、法華維摩勝鬘の諸經に自ら注疏を施したまふ。ここにおいてはじめて日本的佛教の樹立を見、寺院の創立せらるるもの四十餘、僧尼の數も千三百餘人に上りて、最も興隆の域に達したりき。 この佛法の流布は、國民の思想に甚深なる感化を與へたり。まづ佛陀を尊信して無量無辺の福徳果報を得よすすめ、しきりに諸悪莫作諸善奉行を説きて、國民の信念道徳を高めたりしが、殊に過去現在未来の三世を立てて、輪廻應報の理を説きたるは、最も深く人心を感動をせしめたるところなり。さればこれより社會の事相を専らこの因果説によりて解釋し、人々現時の不幸も前世の宿報としてこれに満足しむしろ未来の幸福を欣求するが如き傾向を生じ、そはいままでの人情を一變して、長く民心を支配したりき。またその慈悲の教えは、おのづから人心をやはらげ、從来の狩猟に變わりて、薬狩とて原野に薬草を採ることも行われ、施薬療病悲田の諸院設けらるるなど諸種の慈善事業相ついで起こるに至れり。 また佛典には堂塔を建て佛像を作ることを功徳として、大いにこれを奨勵し、彼の建築彫刻の技師も来朝して、その造營を助け、また高麗の僧曇徴も紙・墨・繪具などの製法を傳へしより、美術工藝はために著しく進歩したり。殊に推古天皇の御世には、佛法興隆の詔下り、諸王・群臣競うて寺塔・佛像を作りて君父の冥福を祈れり。さきに聖徳太子の物部氏と争ふや、戦勝を四天王に祈り蘇我の馬子もまた誓願を發したれば、戦勝の後、太子は攝津に四天王寺を建てたまひ、馬子は大和の國飛鳥の地に法興寺を起こしたりしが、それらの建物はいづれも失はれ、今に依然として當時の舊態を存するものには、大和の法隆寺あり。同寺は推古天皇が太子とともに第三十一代用明天皇の御遺命を奉じて建立したまへるものにて、金堂・五重塔・中門などの壮麗なる伽藍巧みに配置せられて壮観を極め、金堂には太子の冥福のために司馬達等の孫鳥佛師の作りたる金銅釋迦三尊佛、および太子が父天皇の御為に同じく鳥佛師をして作らしめたまひしと傳うる金銅薬師三尊佛などの諸佛安置せらる。堂内の壁畫も頗る巧みを極め、東洋美術の精粋と稱せらる。また太子の薨後、王妃が數多の女官とともに太子の浄土に往生するさまを畫きたる下繪に、五色の色糸を以て施したまへる美麗なる刺繍の一部も今に傳はりて、いわゆる推古時代の精巧なる技術の面影を残せり。

第四 支那との交通 政治の改新 大陸輸入の文化は、推古時代に至りて燦然たる光を放ちたるが、この頃また社會の制度にようやく弊害を生じ来たれり。古来行われたる氏族制度は、氏によりて職業を別にしこれを世襲するより、その業に専らにして事に精しきの利ある上に、氏族はそれぞれその氏上によりて統率せられ世業を守りて互いに相をかすことなく、各自の團結を固むるとともに、いずれも皇室を中心として一致協同し、整然たる社會組織の下に政治もよく行われたりき。されど大陸交通の結果は、彼の文明しきりに流入して漸次社會の複雑におもむくに及びては、從来の制度は到底進歩せる時勢に伴なふべくもあらず。すなわち職業世襲の習わしは、家業に適せざるものもなお父祖の後を繼ぎ、他に人材あるもこれを用ふるに餘地なきが如き弊害少なからず、また一方には有力なる氏族はほしいままに人民を私有して意のままにこれを駆使しあるいは勢いに任せて山海・林野を兼併し、年を逐うてますますその權をほしいままにするに至りぬ。中にも道臣命の後なる大伴氏と、可美眞手命の後なる物部氏とは、代々軍事にあづかるとともに、互いに大連となりて大政に参與し、これと相竝びて大臣として朝政を補佐するものに蘇我氏あり。蘇我氏は勲功竝びなき武内宿禰の裔にして、満智以来國家の財政權を握り、後、朝廷の外戚としてますます重きを加へたりき。かくてこれらの名族相對立して、各々強大となるに從いて互いにその權力を争いたりしが、大伴金村が對韓政策を誤りて、欽明天皇の朝、物部尾輿のために弾劾せられてより、大伴氏の勢威また舊の如くならず。然るにたまたま佛教の傳来は、さらに蘇我・物部両氏軋轢の端を啓き、遂に蘇我氏は物部氏を滅してその資産を収め、ひとり政權を占めたれば、馬子・蝦夷・入鹿の三代に至りては富皇室にもまさりて、無道の振る舞い少なからす。貴族専權の弊實にここに極まりぬ。

かかる社會の趨勢を視て、はやくも政治を革新し、皇威を振張せんとしたまへるは聡明なる聖徳太子なり。太子は佛典のほか儒學を博士覺哿に受け天文・地理の諸學を百濟の僧観勒に學びて悉く通達したまふ。さればまづ官位の制をはじめ、大小徳、大小仁、大小禮、大小信、大小義、大小智の十二階を定めて、紫・青・赤・黄・白・黒の六色を以て區別し、これを授くるに當たりては、舊来の家格にかかはらず、専ら事功あるものを選び、人材登庸の途を開きたまへり。また儒教と佛教とを折衷融和して、十七條の憲法制定し政治・道徳上の標準を官民に示したまひしが、特に豪族の土地・人民を私して専權を極むるの時弊を戒め、以て君臣の大義を明らかにしたまへり。

かく太子は政治を新たにし文化を進めて、一に國利民福を圖りたまひしに、不幸にも御病を得、御位に即くに及ばずして薨じたまひしかば、萬民愛惜して哭泣の聲行路に満てり。太子の御子山背大兄皇子また徳望一世に高かりしに、蘇我入鹿これを忌みてその御一族を滅したてまつりて、頗る暴虐を極む。英邁なる中大兄皇子はこれを憤りたまひ、太子の御遺志をつぎて皇威を回復せんとしたまふ。時に中臣鎌足天資忠誠にして夙に匡濟の志あり、たまたま法興寺の蹴鞠の遊を機として、皇子に親近したてまつり、相共に南淵請安に經學を學びて、往還の途上互に密議をこらし、紀元一千三百五年第三十五代皇極天皇の四年六月三韓朝貢の日、入鹿を大極殿に誅し、ついでその父蝦夷をもうち滅し、はじめて積年の宿志を達したりき。

多年驕奢専横を極めたる蘇我氏の宗家ここに絶え、その莫大なる領土・資産を悉く収公せられたれば、從来の積弊を一掃して社會の制度を革新するの機まさに到れり。この頃恰も我は支那と交通して大陸の事情に通ずるもの少なからず、加ふるにその國情は頗る我が情勢と似たるものありしかば、おのづから制度の模範を彼に取りていよいよ古来の氏族制度は改められぬ。これより先、支那大陸の文物は朝鮮半島を經て我が國に傳はりしが、年を經るに從いて紛亂しばしば半島の地に起こり、我が統帥また宜しきを得ず、遂に欽明天皇の二十三年任那日本府の滅亡せしより、歴朝これが復興を圖りたまいしも、半島の經營はますます困難となり行き、文物の輸入また意の如くならず。されば聖徳太子はむしろ支那と隣國の好を修め、兼ねて佛教・文物を直接彼に學ばんと思召され、紀元一千二百六十七年推古天皇の十五年、小野妹子を支那に遣はして、はじめて國交を結ばしめたまへり。時に支那は隋の世にして久しく分裂したりし全土を一統して、國勢俄に揚がり、煬帝に至りて統一の制度大いに整い、文物また燦然として四隣に輝きたり。我のはじめて國交を開きしは、恰も煬帝の大業三年にして、彼はみづから持すること尊大にして、殆ど他國を屬國視するの風ありしに、太子は堂々これと對等の國交を結びて、毫も我が國家の體面を辱かしめたまわざりき。 太子はまた歸化人の子孫なる高向玄理・南淵請安・僧旻など八人を小野妹子に從はしめて、支那に留學せしむ。すでにして支那にては隋滅びて唐の世となり第三十四代舒明天皇の御世には犬上御田鍬・薬師恵日らを遣唐使としてはじめて彼に派遣せしより、その後歴朝絶えず使節・留學生の發遣あり、唐使もまたしばしば来朝して、互いに聘信を贈答せり。これらの留學生は永く唐に留まりて修學し、頗る彼の制度・文物に通暁して歸朝したるに、我が國にては、恰も從来の社會制度を改廢して新たに統一制度を布かんとする際なれば、直ちにこれらの人々の新知識を利用して、いよいよ革新の政治を實施するに至れり。されば第三十六代孝徳天皇皇極天皇につぎて立ちたひ、ここに御英斷をもって政治社會の組織上に一大改新を決行したまはんとするにあたり、支那の制に倣ひてはじめて大化の年號を定めたもふ。これより中大兄皇子皇太子として専ら大政を翼賛したてまつりしが、太子はさきに南淵請安に就きて學び今や更に高向玄理・僧旻を國博士とし、これを顧問として新政に参與せしめ、制度の範を多く彼に取りぬ。まづ官制に於いては、執政世襲の制度を改め、中央政府には大臣・大連を廢して新たに内臣と左右大臣とを置き、功臣中臣鎌足を内臣に、名族蘇我石川麻呂、阿倍倉梯麻呂を以て各々左右大臣に任命せり。中央には、今までの國造・縣主などを止めて新たに國司などを置き、いづれも古来の家格にかかはらず、主として材幹あるものを用ひて、ひろく人材登庸の主義を實行せり。また天皇は從来皇族をはじめとして臣・連家などの所有する部民と田荘とを全廢し、天下の土地・人民を擧げて朝廷に歸して悉く公地・公民となしたまひしが、この際皇太子は御みづから率先して「天無双日國無二王是故兼併天下可使萬民唯天皇耳」と奏し、まづその所有したまへる部民五百二十四人及び屯倉一百八十一箇所を天皇に奉還し、以てこれが模範を示したまへり。 ここにおいて國民また大義名分のあるところを知り、全國の豪族いづれも太子に倣いて、その世襲する財産を奉獻したれば、聖旨は忽ちにしてよくを貫徹せられぬ。なほ今まで貴族がほしいままに土地を兼併して富貴を極むるに反し、貧民は尺土をさへ有せざるもの多く、貧富の懸隔甚だしくありし弊に鑑み、令して私に土地を賣買することを禁じ、更に全國の人民の數を調査して戸籍をつくり、これによりて新たに班田収授の法を行ひ、一旦収公せし土地を全國民に均一に班給することとせり。これを口分田といひ、國民は各自その田地を使用して収益を獲得するを許されて、生涯生活に安ずることを得たり。 かくて貧富の懸隔を一掃して、永久に持續の専權を絶たんとせり。しかして別に税法を制定し租税を租・庸・調の三類に分かち、これを國民一般に課して、國費を支辨することとせり。租は田地の収穫の一部を納めしめ、調は織物などの産物を納めしめ、庸は力役の代わりに布米を納めしむ。このほか新たに施設するところ頗る多かりしが、要は豪族の壟斷せし政權を中央に集めて天皇の親政とし、普天の下を率土の濱みな王臣・王土の實を擧ぐるに外ならず。世にこれを大化の改新と稱し、明治の維新と相竝びて、建國以来の一大革新となす。

これより漸次この改新の政治を實行せんとするに當たり、まづ國内を統一するの必要あり。よりて第三十七代斉明天皇の皇位に就きたまふや、中大兄皇子なほ皇太子として政治を助けたまへり、越國守阿倍比羅夫をして舟師を率いて日本海方面の蝦夷を降さしむ。この後も朝廷常にこれが懐柔に力めたまひたれば、皇威遠きに及びて王化次第に辺境に周かりき。されど朝鮮半島においては百濟・高麗の二國やうやく衰へて新羅獨りその勢を逞しうせしに、唐の勢力新たに半島に加ふるに及びて半島内の紛擾いよいよ甚だしく、新羅遂に唐の助けを借りて百濟を滅さんとするに到れり。 皇太子すなわち百濟の請により、これを援けたまはんとして、天皇を奉じて筑紫に親征したまひしに、たまたま天皇行宮に崩じたまひ、皇太子皇位を繼ぎたまいて第三十八代天智天皇と申したてまつる。半島にては、百濟の君臣相和せず、我の援軍も唐の水軍のために敗れて、將卒の忠勇なる働きもついに功を奏すること能はざりき。かくて百濟はついに滅び、ついで高麗もまた唐のために滅され、新羅全く半島を統一するに到れり。されば今や我が國が半島を保有するの困難なる時期に際し、我には内地の一日も忽にすべからざるものありて、長く海外のために國力を費やすの不利なる情勢にあり、天皇はこれを察したまいて、斷然半島との關係を斷ちたまへり。ここに於いて半島は全く我が國より離るるに至りしも、國内の政治はかへつて着々進捗しぬ。 天智天皇これより専ら御力を内治に用ひたまへり、まづ新都を交通に便利なる近江の大津に經營し、ここに遷りて儀禮を整へて即位の大典を擧げたまふ。よりて世にこれを近江の朝廷と申す。時に百濟亡命の民多く歸化せしかば、朝廷おもにこれを土地広闊にして人口稀薄なる東國に移住せしめ、學藝あるものは、特にこれを都の近地にとどめ、その學者を用ひて初めて學校を起こしたまへり。また天皇の御みづら作りたまへる漏刻を以て、参朝の時刻を正して朝臣を督勵し、日夕政務に勵みて綱紀を肅正したまひしが、中にも當時の學者を集め、大化以来の新政を整理して法令を撰集せしめたまひしは、いはゆる近江令として律令政治の基礎ここにはじめて確立しぬ。この間終始天皇を輔けたてまつりて法令・制度の設定にあづかりしは、かねて大化の改新に偉功樹てたる中臣鎌足なり。さればその病篤きに及び、天皇その第に親臨してこれを問はへたまひ、多年の勲功を賞して、大織冠を授け内大臣に拝し、また藤原の姓を賜へり。鎌足の薨後、これを大和多武峯に葬り、廟塔を建て木像を安置してこれを祭り、朝野の尊崇甚だ厚かりき。今の談判神社すなはちこれなり。ついで天皇も御病を得て、間もなく崩じたまふ。天皇夙に驕臣を滅して改新の鴻業を開き、不易の大憲を立てて内外の施政を整えたまひしかば、後世中興の英主として、永く國民の仰ぎたてまつるところとなる。 近江令の制定後、これが實施上の經験に徴し、また社會の進歩に伴ひてこれを修正するの必要あり、よりて第四十代天武天皇は近江令を改定したまひ、第四十一代持統天皇の御世にはじめてこれを頒布したりしが、ついで第四十二代文武天皇の立つに及び、更に忍壁親王・藤原不比等らに勅して、從来の法令を増損して新たに律令を撰定せしめ、紀元一千三百六十一年大寳元年に至りて完成せり。世にこれを大寳律令といふ。今に傳はれるものは、後これに多少の修正を加へたるもの(養老律令)なり。

この律令は、おもに唐制に準據し、これに本邦古来の風俗習慣を参酌して定めたるものなり。まず官制には、中央政府に神祇太政の二官あり、神祇官は神祇の祭祀を掌り、太政官は天下の政治を總理するところにして、太政大臣・左右大臣・大納言の諸官があり、その下に少納言局左右辨官局の三局ありて、少納言局は宮中の事務に當たり、左辨官局の下には中務・式部・治部・民部の四省、右辨官局の下には兵部・刑部・大蔵・宮内の四省あり、これらの八省いずれも數多の寮司を分かちて一切の政務を分掌せり。 地方はこれを畿内七道に大別し、その下に國・郡・里の行政區を置き、各々國司・郡司・里長をして民政を行はしむ。中にも西海道は國防・外交上の要衝にあるを以て、特に太宰府を置きてこれを管せしめたり。しかして國民が等しく田地を給せられて、生活の安定を得るとともに兵役・納税の義務を負うの制規もまたこの律令において整備せり。すなはち全國の民生まれて六歳に達すれば、人毎に一年間の食糧を収穫するに足るべき地積を標準として、男子には二段女子にはその三分の二の口分田を班給し、死すれば再び収公するものにて、六年毎に収受を行ふを常とす。田租は一段に稲二束二把を納めしめ、調は身に就き定率に從いて絹布・魚介など諸種の産物を出さしめ、庸は正丁一人毎年十日間夫役に服する代わり布二丈六尺を納めしむるの定めなり。兵制は國民皆兵の制にして、全國壮丁の三分の一を徴して兵士となし、これを諸國の軍團に配し、なほ京都及び西海の警備にも充てたり。京都の守備には、衞門府・左右衞士府・左右兵衞府の五衞府の設あり、後、變遷して左右近衞府左右兵衞府および左右衞門府の六衞府となりて後世に及べり。また學制には、京に大學、國に國學を置き、經學・法學・音韻・算道・書法などの分科ありて、その業を卒るものは試験によりて官吏に採用せらる。考試の成績によりて各々叙位任官に差等ありき。刑法もまた備り、刑罰には笞杖徒流死の五種あり、軽罪は國郡司の地方官にて取扱ふも、重罪に至りては太政官にてこれを決し、刑部省専らこれに當たる。罪状を數多きうちにも、國家・皇室・神祇・長者などに對する罪悪をもっとも重しとしてこれに厳罰を課せり。 かくてこの律令は朝廷施政の基本となりて、永く効力を失はざりしが、その規定するところは、ほぼ唐制と同じく、やや官僚偏重の嫌あり、教育も専ら官吏養成の機關にとどまり、有位者又は官吏の子弟に限りて入學を許し、未だ庶民の教育に及ばず。また刑法にも權貴に對する特典ありて、有位帯官の者の犯罪は常に刑罰を免るるが如き缺點少なしとせず。されど彼の繁冗なる官制を整理して、國情に合わせてこれを省略し、神祇・祭祀などに關することは、彼においては低き官省にてこれを取扱へるにかかはらず、我は特に神祇官を太政官の上に置く如きは、全くわが國體に基づきて、尊祖敬神の風習を参酌せしに外ならず。なほ孝子には特に兵役・課役を免じ、父祖に對する罪を最も重しとするが如きは、父祖を尊敬する國俗が、儒教の孝道の教えと合致するを以て、これを法制の上にあらはして道徳を按配せしなり。

第五 奈良時代の政治・文化 大寳律令既になり、典章全く備わりたれば、これよりこれを實施して、全國統一の制を布き、中央集權を堅むるに當たり、第四十三代元明天皇は、まづ唐制に倣いて貨幣制度を創始したまふ。古くは一般に物物交換行はれ、おもに稲・布などを交易の媒介物として用ひ来りしが、大化以後金銀銅の鑛物やうやく諸國より産出し、元明天皇の御世に至りて武蔵國秩父よりはじめて和銅を獻ぜしかば、これを祥瑞として年號を和銅と改め、鑄銭司を設けて、和同開珎なる銀銭及び銅銭を鑄造せしめられたり。されど民間にてはいまだ銭貨の便益を知らざりしかば、朝廷は銭を蓄へるものに位を授け、調・庸にも銭を以て代納するを許し、また富民をして米を路傍に賣らしめて、旅人をして自ら食料をたづさふるの勞を省かしむるなど、百方銭貨の通用奨勵したまひしを以て、ついには國民その便益を悟りて、盛んにこれを通用するに至りぬ。かくて第六十二代村上天皇の朝に至るまで、王權の盛んなる間は歴朝しばしば貨幣のを鑄造ありて、あまねく地方にも流通し、大いに商業の進歩を促ししと共に、京には東西の両市あり、地方の市も日を定めて開かれ、物品の賣買盛んに行はれて、經濟界の發達に一新氣運を與へたりき。 和銅元年天皇から奠都の旨を詔して、都城の經營に着手せしめ、紀元一千三百七十年和銅三年ほぼなりてここに遷りたまふ。蓋し上古の世は諸事簡素にして、都の規模も広大ならざれば、遷都も容易にして、おほむね御歴代都を改めたまふの慣例なりき。されど外に大陸と國交を結びて彼我使節の来往あり、内に中央集權を進めて政治機關を擴張するに及びては、帝都の美観、皇居の荘厳は最も緊急の事に屬せしに、一面社會の文化は著しく發達し、建築の術も頗る進歩したれば、ここに永久の帝都を設定して、壮麗なる宮殿を營まんとするに至れり。すでに孝徳天皇の御代のころより、唐制に倣ひて都城を計畫し来りしが、いまやその規模を擴張して、奈良に新都を完成したまふ。これを平城京といふ。平城京は唐の長安京の制に據れるものにて、今の奈良市の西に當たり、東西約四十町、南北約四十五町、周圍に羅城をめぐらして、南面に羅城門を設く。大内裏は北部にありて、その南門朱雀門より羅城門に通じる朱雀大路によりて京を左右に分かち、市街井然として未曾有の盛観を呈し、これより七代七十餘年間の帝都となれり。故にこの間を奈良時代と稱す。 この時代には官設の大學・國學の學業最も振るいて、明經(經學)・紀傳(歴史)・明法(律令)・算(數學)の四道専ら行はれ、いづれも漢籍によりて研究を遂げ、その業を卒れる大學生は式部省の選を受け、國學生は國司に選ばれて各々官吏に任用せらる。故に當時の政務はおおむねこれら官學の出身者によりて行はれたりしなり。また遣唐使の制度もこの頃いよいよ整ひて數多の留學生は漢學を傳へて文教を進めたり。當時遣唐使は四艘と定まり、大使以下の職員も備わり、從来の北方を迂回するの航路をやめて、博多より直ちに揚子江に航するの南路を取れり。遣唐使は風波覆没危險を冒して、おほむね歴朝派遣せられ、その使節の儀容温雅にして、君子國の誉れを揚げ、留學生の名聲を唐土に轟かしたるもの少なからず。吉備眞備・阿倍仲麻呂の如きは、その著しきものにて、眞備は多年彼の地に留學して、經史・衆藝に通じ、歸朝の後大學の助教となりて諸道を學生に授け、釋奠の義を整え、興學の功頗る多く、官も累進して遂に右大臣に上る。仲麻呂は詞藻最も秀で李白・王維など詩文の大家と相竝びて、文名を喧傳せられ、玄宗に徴せられて高官につきたりしが、故國思慕の懐を抱きて、不幸彼の土に没しぬ。 かく文運の進むにつれて、諸種の學問も興れり。これより先推古天皇の御代にはじめて支那大陸と國交を開き、對外關係の密接となるに及びては、わが國家に對する観念ますます強固となり、遂には日本なる國號も定まり、また國史の編修を見るに至れり。すでに聖徳太子は蘇我馬子と議して天皇記・國記などの記録を作りたまひしが、蘇我氏の滅亡に際し、それらの史書も焼失して傳はらず。よりて天武天皇の御代より、さらに國史の編修を計畫したまひしに、今や奈良時代に入り、漢文學の進歩すると共に、いよいよその事業の完成を告げぬ。元明天皇の御代に、太安萬侶勅を受けて稗田阿禮の記誦せる古傳により、神代より推古天皇まで歴世の事績を録して三巻とす。これを古事記いひ、記事おほむね質實にして、現存する史書の最も古きものなり。天皇また諸國に令し、國郡郷里の名は好字を選びて二字を用ひしむるとともに、各國の地誌を撰せしめらる。これはいはゆる風土記にして今に傳はれるものは、僅かに出雲・播磨・常陸・豊後・肥前の五國に過ぎず。ついで四十四代元正天皇の御時、舎人親王ら勅命を奉じて日本書紀三十巻を撰し、神代より持統天皇の朝までを録せしが、これより第六十代醍醐天皇の御代に至るまで、歴朝を相繼ぎて六國史の勅撰あり、いづれも漢文にて書かれ、さすが正史として整然たる編纂の體を備へたり。 漢文の巧みに綴られたるうへに、漢字を以て國語を記すの方法も既に行はれ、古事記の如きは、ままこの方法によりて記述せられたり。また從来口々に相傳へて記憶せられし古来の和歌もこの方法によりてこれを筆に上すを得るに至り、漢文學と竝びて和歌盛んに行はれ、有名なる歌人この前後に輩出せり。山部赤人は柿本人麻呂と歌仙として竝び稱せられ、しばしば諸國に遊びて名勝を探り、到る處風月を詠ぜざるなし。すなわちこれらの作をはじめ、おもに當代の和歌を集め、漢字の音訓を使用して書記したるものを萬葉集といひ、同じく有名なる歌人大伴の家持の撰するところなりとぞ。この集に収むるところの作者は、社會のあらゆる階級にわたり、詠歌は長歌・短歌などおよそ四千五百首に上り、歌調おおむね雄健にして、しかも韻致に富み、眞に奈良時代の詞華を發揚するのみならず、また當代の人情風俗を知るに好箇の資料たるべし。 かくてこの時代に於いて文化の最も開けたるは、第四十五代聖武天皇の御代なり。この時藤原氏より皇后を出すの例はじまり、不比等の女光明子皇后に立ちたまひ、天皇と共に篤く佛教を信仰したまふ。これより先、佛教は聖徳太子の尊信によりてやうやく興隆に向かひしが、さらに天武天皇の朝に諸國に詔して家毎に佛像をまつらしめ、ついで持統天皇は筑紫・陸奥の辺境にもこれを流布せしめたまひしかば、遂に全國に弘まり、聖武天皇の朝に至りて最も隆盛の域に達しぬ。天皇は御信仰のあまり、數多の寺塔・佛像を作らしめたまひ、中にも萬民のために災厄を攘ひ、天下の泰平國民の安穏を祈らしめんとて、國毎に僧尼の二寺を建てしめたまふ。これいわゆる國分寺にして大和の僧寺は東大寺、尼寺はすなはち法華寺なり。この東大寺内に特に宏壮なる大佛殿を建て、壮麗無比なる金銅盧舎那佛を安置したまひ、第四十六代孝謙天皇の御代に、その開眼供養を行ふに當たり、天皇は聖武上皇・光明皇太后とともに文武百官を率いて臨幸し、荘重厳肅なる儀式を擧げ、あらゆる歌舞・伎樂を演奏せしめたまひて、實に一代の盛観を呈したり。今の殿堂・佛像は再度の兵火にかかりて、當初の壮観を失ふところ少なからざるも、なほ木造の大建築として、世界第一と稱せらる。また地方の國分寺には當初の伽藍を存するものなきも、なほ「こくぶ」の地名にその遺跡を知り、壟圃草叢の間に堂塔の礎石を探りて、往時の宏壮なる規模を想見するに足るもの少なからず。 御歴代佛教を崇信せらること甚だ篤く、殊に聖武天皇、はじめて出家して三寳の奴と稱したまひ、孝謙天皇も相ついで佛門に入り、嘗て小塔百萬基を造らしめて、印版の經文を納め、これを諸大寺に寄せたまへる程なり。かかる折しも名僧の外國より来るもの多く、中にも唐僧鑑眞の如きは、しばしば風波の難を冒して東渡を企て、やうやく孝謙天皇の朝に来朝するや、直ちに勅命を受け、大佛の前に戒壇を設けて數多も人々に授戒せり。これ東大寺戒壇院の起こりにして、後には筑前の観音寺、下野の薬師寺とともに、天下の三戒壇と稱せられ、各々その地方の僧侶を養成しぬ。しかして一方教育制度の缺陷より、庶民は材幹あるも官學に入りて身を立つるの術なく、おほむね身を佛門に投じて社會上の地位を得んとしたれば、おのづから僧尼に優れたのものを出せり。當代民衆の教化に於いて最も功を奏せるを僧行基となす。行基は和泉の人にて、その教えを説くや、道俗これを慕ひて追随するもの千を以て數え、和尚来ると聞きては、巷里家を空しうし、争い集まりてこれを禮拝するに至り、時人尊びて菩薩と稱せりといふ。されば佛教はかかる内外の高僧によりてますます榮えに榮えたり。 ここに於いて佛教は當時の人々に偉大なる精神的感化を與へしのみならず、またその慈悲の教えは數多の社會事業を導きて、物質文明に寄與するところ少なからす。光明皇后は京都に悲田院を設けて貧民孤兒を収容し、また皇后宮織に施薬院を置き、諸國より薬草を集めて、貧民に施療せしめたまへり。その薬草は今に存して、皇后仁慈の御心をしのばしむ。和氣清麻呂の姉法均尼は棄兒を拾ひて八十三兒を養育し、いづれも朝廷より葛木首の姓氏を賜はれり。また行基の徒はその足跡全國に遍く、到る處寺を建て、橋を架し、道路を修め、地溝を掘り、堤防を築き、航路を開くなど、國利民福をはかりしの事功實に枚擧に遑あらず。蓋し行基ら徳望の高き、一度これらの事を起こすや遠近競い来りてその功を助け、日ならずして忽ち成就したりしなり。佛法の興隆につれて、美術・工藝の進歩驚くべきものあり。東大寺は朝廷の勅願寺として、藤原氏の氏寺たる興福寺と相竝びて名高く、この他新に起れる數多の寺院おほむね七堂伽藍の美観を具へ、建物の外部は多く朱塗りにして、内部の柱壁には悉く雄麗なる装飾を施し、ここに安置せられたる佛像には、金銅・木像の外、乾漆・塑造などあり、製作みな巧妙を極めて、端厳の風、微妙の相おのづから衆庶の渇仰を招けり。從ひて豊麗優美なる繪畫・彫刻の逸品にして、なほ現存するもの少なからざる中にも、東大寺の境内なる正倉院の寳庫に蔵せらるる御物は、その最も著しきものなり。この寳庫には、孝謙天皇が聖武天皇の御遺物を東大寺に寄せたまひたるものをはじめとして、珍寳の収めらるるもの樂器・織物・佛具・調度などおよそ三千餘點に及び。しかして校倉造りの寳庫は、よくこれら什寳の保存に適せしうへに、古来勅封として丁重に御物を寳蔵せしにより、千載後の今日、なほ完全に當時の面影をうかがうべく、いづれも卓抜なる意匠、精緻なる技巧・後人の容易に企て及ぶべからざるものあり、いはゆる天平時代の燦爛たる美術の光彩を放ちぬ。 かくて奈良時代は帝都一定して中央集權の實擧り、王權の最も振張したる一時期にして、文化また發達して一新生面を開き、國史の講究もはじめて行はれたり。日本書紀はわが國正史の祖にして、建國の體制を知るべければ、朝廷特にこれを重んじ、歴代天皇は諸卿ともに博士を召してしばしばこれを進講せしめたまひ、學校においても特にこれを講習せしめたりき。されど當時の文華は多く隋・唐の模倣に過ぎずして、未だ全く融和の域に進まず、しかも都鄙の文明はいたく懸隔して、未だ健實なる社會を形作らず、いはゆる青丹よし奈良の都は咲く花の匂うが如き盛況を呈し、都の士女は綾羅の唐衣麗はしく大路・小路を行き交ひ、悠々として世の太平洋を樂しみて、  御民吾生ける験あり、天地の   榮ゆるときにあへらく思へば。 と、大いに現實の生活を謳歌せり。これに反して、地方は一般に開けずして、交通も頗る不便を極めたりは、かの  家にあれば笥に盛る飯を草枕   旅にしあれば椎の葉に盛る。 の一首にても察せらるべし。 また當代とみに興隆せし佛教が幾多の新文明をもたらして、わが文化に燦然たる成果をあげしめたりしは明かなるも、造寺・造佛の熾なりしがために、やうやく財用の缺乏を来ししは、また疑ふべくもあらず。加ふるに僧侶が上下の尊信を一身に集めて、次第に勢力を増すに從い、往々政治に關與して當時の貴族と衝突し、しばしば紛亂を生じたり。中にも道鏡の如きは威權朝野を壓して、遂に非望を抱くに至りしに、忠烈なる和氣清麻呂はおのが一身の安危を忘れ、敢然起ちてこれを挫き、以て天壌無窮の皇運を扶翼したてまつりぬ。清麻呂の姉広虫(法均尼)は、第四十八代稱徳天皇に仕へて御信任頗る厚く、天皇に從ひて剃髪し、夙に崇高なる人格を以て稱せられしが、今や弟と心を一にして道鏡に當たり、姉弟ともに流竄の厄に遭いしも、間もなく京都に召還され、再び朝廷に奉仕して忠節を勵みたり。後、護王神社に両人を祭り今に至るまで國民その忠烈を欽慕して已まず。

第六 平安時代初期の趨勢 第四十九代光仁天皇の稱徳天皇について立ちたまふや、まづ和氣清麻呂らを召還して本位に復すると共に、道鏡を造下野國薬師寺別當に貶して、忠逆をただしたまひ、更に精を勵まして治をはかり、從来の積弊を一掃したまはんとす。當時財政窮乏の後を承けて、御みづから節約をはかりたまひ、たびたび天下の租税を免除し、地方の飢饉を救助し、また吏を諸國に派遣して國司の誅求を戒めたまへるなど、つとめて仁政を施して専ら民力の涵養をはかりたまへり。ここに於いて前代の弊政やうやく改まりて綱紀やや振ひたりしが、天皇の御子第五十代桓武天皇の御代に及びては、更に全く前代よりの面目を一新するに至りぬ。 桓武天皇は英邁にましまし、先帝の御遺志を繼ぎていよいよ積年の宿弊を刷新し、朝廷の綱紀を振張したまはんとするに當たり、まづ奈良の舊都を去りて、人心を新にするの必要を察したまへり。よりて山河交通の便ありて、まさに國運の發展に適切なる形勝の地を選び、ここに新都を建設せんとしたまひ、遂に和氣清麻呂の建議に基づきて、紀元一千四百五十四年延暦十三年都を平安京に奠めて萬代の帝都を期したまふ。この京は、その規模平城京よりもやや大にして、東西約四十二町、南北約四十九町にわたり、左・右両京の制、條坊の區畫など、ほぼ平城京と同じく、殿堂・邸第・輪奐の美を競い、子来の民軒を列ねて殷賑を極めたり。されど右京ははじめより榮えずして、左京のみ繁榮を来し、今の京都市は、主としてその左京とさらに洛東に發展したる市街とにより成立せるものなり。 奈良時代の餘弊は地方未開にして民力の疲弊せるを最とすれば、天皇特に大御心を地方の政治に寄せたまふ。當時國司は多く奸曲にして私利を貪り、民政頗る紊亂せしが、殊に國司の任期満ちて交代するの際に、紛擾を極むるを常としたれば、天皇新たに勘解由使を置き、その治績を勘査せしめて厳に理非をただし、更に辺境の開拓を進めて、良民の安堵をはかりたまへり。蝦夷の經略は日本海に面する地方には早く進捗せしが、太平洋に面せる地方には遅々として進まず。聖武天皇の朝に至りて、出羽經營の中心は既に秋田城に進みしも、陸奥の鎭所はようやく陸前の多賀城に達せしに過ぎず。さればあるいは直路を開き、あるいは城塞を設けて、つとめて両者の連絡を通ぜんとはかりしも、山岳畳畳兵をやるに困難にして、輜重の輸送また容易ならず、歴朝の鎭撫も未だ甚だしき功績を擧ぐることを得ざりき。ここに於いて桓武天皇は夷地の事情に通ぜる坂上田村麻呂を抜擢して征夷大將軍に任じ、これが征服をはからしめたまふ。田村麻呂は漢人の裔にして、武勇絶倫、大いに夷賊を破り、ついに陸中に膽澤・志波の両城を築きてこれに備えたれば、秋田城との連絡はじめて容易となり、蝦夷屏息して騒亂鎭定し、膽澤城はこれより鎭守府として、永く東北地方統御することとなりぬ。 また佛教は、奈良時代において隆盛を極めたれど、弊害も随ひて百出せしかば、桓武天皇はその匡正に力めさせられ、最澄・空海の二名僧を信任して、これが革新にあたらしめたまふ。最澄は近江の人にして、既に延暦七年比叡山上に延暦寺を建てしが、ついで詔を受けて入唐し天臺山國清寺の道邃法師に就きて、天臺宗の教理を學び、程なく歸朝をしてこれを弘めたり。後、第五十六代清和天皇の御世に至り、傳教大師の諡號を賜はりき。 空海は讃岐の人にして、最澄と共に入唐し、長安青龍寺の僧慧果に就きて眞言宗を學び、歸朝の後大いにこの宗旨を弘め、紀伊國高野山上に金剛峯寺を開き、第五十二代嵯峨天皇の深き御歸依を得て、更に京都の東寺を賜はれり。後、醍醐天皇空海に弘法大師の號を諡りたまいぬ。この両宗は、奈良時代の寺院を都市に營みたると異なり、峨峨たる山上翠緑の際にその堂塔を設けて、さらに森厳荘重の趣を加へたれば、かへつて衆庶の随喜渇仰をひけり。加ふるに、いづれも深遠なる教理を探り、加持・祈祷を主として、専ら國家の鎭護を旨としたれば、全く前代の宗教と面目を異にせり。また両僧の諸國をめぐりて布教に從事するや、つとめて社會の公益を起し、最澄は美濃・信濃の山中に宿舎を建てて旅人の便をはかり、空海は讃岐に満濃池の堤を築きて灌漑に便益を與えしが、なほ、最澄は専ら力を學僧の教育に盡し、空海は詩文・書道の發達に貢獻せしうへに、綜藝種智院を京都に開きて、貴賤・僧俗の別なく収容して儒・佛二道を授け、當時政府の毫も庶民教育を顧みざる間に、はやくも庶民・宗教學校の魁をなせり。かくてこの両宗はひろく上下の尊信を博して、ますます普及し永く社會に勢力を維持して、以て今日に至れり。 桓武天皇をはじめたてまつり、以後御歴代の天皇また御心を政治に留めて、ますます綱紀の振張をはかりたまひしかば、平安時代のはじめ數代の間は朝威最も盛んにして文化も隆盛を極めたり。桓武天皇の都を平安に奠めさせらるるや、新たに大學寮を設け、勸學田を寄せて大いに教育を奨勵したまひしかば、講堂寮舎の結構整備すると共に、文教勃然として起これり。中にも嵯峨天皇は大いに詩文を好みたまひ、爾来歴朝これを貴びたまひしかば、漢文學特に發達して勅撰の詩文集もあらはれ、文章は經國の大業なりとて經國集と題するに至りし程なり。從ひて小野篁・都良香のごとき著名なる文學者輩出して、空海などと共に才藻を以て稱せられしも、詩は唯唐の白樂天の調のみ慕ひ、文もまた六朝の四六駢儷を模して、字句の彫琢を主とするの傾きあり。書道は専ら晋の王羲之の流を傳へ、嵯峨天皇は空海・橘逸勢と共に草隷を巧みにしたまひ、殿閣諸門の額に染筆して、三筆の誉を得たまひしが、いづれも筆力雄渾後世の規範とたへらる。 かく當時の文化は、未だ大陸の模倣に過ぎずして、しかもおもに漢文學に傾きたれば、大學の分科中最も重んぜられたる紀傳道(歴史)も、文章を主として文章道とかはり、後には文章博士を置きて専ら詩文の研究に耽り、他の諸道の教育はいたく衰へはじめたり。されば歴史の講修は全く行はれず、朝堂に於ける日本書紀の進講も次第に振るはずして、遂に村上天皇の御代に及びてやみぬ。ここにおいて學問やうやく浮華に流れて實用に遠ざかり、國民の思想はまさに一變するに至りき。

第七 攝關政治 荘園 藤原氏はその祖鎌足が中大兄皇子を奉じて大化の改新を助成し、爾来政治に参與して大功を樹てたりしが、その子不比等または要路に立ちて律令を撰修し、枢機に列して勢力あり、加ふるに朝廷の外戚となりて一族大いに世に顯れたり。ここに於いてその家ますます繁榮し、平安時代の當初不比等の玄孫冬嗣に至りて最も隆盛となりぬ。冬嗣は嵯峨天皇の朝に仕え、蔵人頭として機密にあづかりてより、累進して左大臣に上る。冬嗣寛容にして見識に富み、専ら自家の興隆に力め、南圓堂を興福寺内に建てて子孫の福運を祈り、また勸學院を起こして一族子弟を教育し、施薬院を設けて同族の貧困なるものを収容せり。かくてその女順子(第五十四代仁明天皇の女御)の御腹なる第五十五代文徳天皇立ちたまふに及びて、外戚の權いよいよ重く、その家獨り榮えたりき。 當時貴族はおのが子弟教養のために各々競いて私立の學院を設け、藤原氏の外にも和氣氏の弘文院、橘氏の學館院、在原氏の奨學院など、續々として起こり、以て王朝の文華を飾りしが、中にも勸學院の教育最も振るいて、藤原家より幾多の英俊を出したり。しかしてこれらの人々は、いづれも自家を起こすの念にのみ駆られて、まま僣上の言動あり。冬嗣の子良房はその女明子を文徳天皇の後宮に納れたてまつり、後に右大臣より一躍して太政大臣に任ぜらる。太政大臣は則闕の官とて頗る重く、人臣にしてこれに任ぜらるる例なきに、良房一たびこの官に上りてより、殆どその一家の壟斷するところとなれり。ついで良房は、その外孫にあたらせたまふ幼冲なる清和天皇を擁立して、みづら攝政となり、また良房の養子基經は不遜にも第五十七代陽成天皇を廢して第五十八代光孝天皇を御位に即けたてまつりしが、第五十九代宇多天皇立ちたまふに及び、詔して萬機巨細となく基經に關白して後奏下せしめたもう。關白の稱ここに始まり、名は異なれども、實は攝政と相同じ。これより後、藤原氏は天皇御幼少の時は攝政となり、天皇長じたまふに至りて關白となるの例を開けり。蓋しわが國の制、攝政は必ず皇族の任じられたまふ定めなれば、人臣の攝政は全く異例なるにかかはらず、漢土に先例ありとて、時人も別にこれを怪しまざりしは、また以て思想の變遷せるを見るべし。 宇多天皇は一旦基經を關白に任じたまひしも、藤原氏の權力ますます強大にして專恣の行少なからざるを憂へたまひ、時弊を匡正したまはんがために、基經の薨ぜし後、菅原道眞を登用してその勢を抑へんとしたまふ。道眞は儒家の名門に生まれ、幼にして頴悟、早くより父祖の家學を受けて詩文に長じ、才學一世に秀でたるのみならず、天性忠誠にして徳望極めて高し。當時育英の業はおほむねおのが一族に限るの風なるに、獨り道眞は、その書斎紅梅殿をひろく世に開放して篤志のものの閲覽にまかせたれば、諸家の子弟ここに學びて立身せしもの多く、人呼んでこれを登竜門と稱したりといふ。されば宇多天皇は道眞の才徳を認めて、これを抜擢して蔵人頭の要職に補したまひしが、既にして御位を醍醐天皇に譲りたまふに及び、新帝なほ御幼年なりしも、別に攝政を置かず、道眞をして基經の子時平とともに政務を執らしめ、特に御遺誡を造りて新帝の御訓誡に供えたまへり。醍醐天皇また仁慈の御心深く、世は泰平にして延喜の聖代とうたはれ、後の村上天皇の天暦の御世と竝び稱せらるほどにて、父帝の御誡を奉じて、時平を左大臣、道眞を右大臣として相共に政務に勵ましめたまふ。かくて道眞の寵任日に加わり、聲望いよいよ高まるに從ひ、時平大いに不平を抱き、道眞の榮達を妬める人々と相結びてこれを讒奏したれば、朝廷遂に道眞を貶して太宰權帥とし、また數多の子弟男女を各地に配流したまひぬ。道眞罪なくして配所の月を眺むるも、毫も他を恨まず、かへつておのが潔白を天の照覽に訴へてみづから慰め、また日夜慎みて、門を閉ぢて文筆を友とし、恩賜の御衣を捧げては、天恩の涯なきを偲び、かりにも忠誠の念を失はざりき。よりてその薨後間もなく本官に復し、更にしばしば官位を追贈せられて、ついに正一太政大臣に至り、天満天神として深く上下の崇敬を受け、今に北野神社・太宰府神社をはじめ、山村僻邑に至るまで、その祠を見ざるところなく、殊に文學の神として永く世に敬慕せらる。 道眞配流せられて宇多天皇の御志空しくなりし後は、藤原氏は威權ますます盛んにして、おのれに縁なき貴族を次第に排斥したれば、他の名族舊家もいつしか屈服してその頤使に從い、藤原氏の勢または竝ぶものなし。されば攝關より大臣・大將など顯要の地位をば悉くその一門にて占め、獨り朝廷の政權をほしいままにせしうへに、また數多の荘園を私有して、いよいよ實力を加えたりき。荘園とはもと別荘・園地の義なれども、勲功をあるものに賜はる功田、寺社の寄附田、または開墾田などはおほむねその私有を許されたるより、いづれも荘園に編入し、租税を免除せらるるもの少なからず。殊に權門勢家は開墾・兼併などによりて、荘園の名義の下に広大なる土地を私有して租税を官に納めず、頗る専權を極めたり。ここに於いて公田おひおひに減じて班田収授の制度は行はるべくもあらず。貴族が天下の富を私して驕奢に流るるに引きかへ、朝廷の用度はますます窮乏して綱紀全く振はざるに至りぬ。 されば朝廷の政治はいつしか藤原氏の心のままになり行きし中にも、基經の孫九條師輔に至り一におのが一家の發展にのみ力め、その女安子を村上天皇の皇后に進めたてまつり、その庇護によりて、九條家の一流獨り繁榮して藤原氏の權勢を獨占するに至れり。ここに於いてもはや他の九條家に對抗すべきものなきを以て、權力の争いはかへつてその一門のうちにうつり、父子・兄弟牆に鬩ぐの醜態を呈したり。師輔の子兼通・兼家の兄弟が互いに攝關の地位を争ひ、兼家の死後その子道隆・道兼が相反目せるが如き、一身の利害のためには殆ど倫道を顧みざるの様なりしが、最後の勝利は遂に兼家の季子道長の手に歸しぬ。道長は豪邁にして頗る才略あり、第六十六代一條・第六十七代三條・第六十八代後一條天皇の三朝に歴任し、政柄を掌握することおよそ三十年、その女は三人まで立ちて皇后となり、その外孫に當たらせたもう皇子は三人まで引續きて帝位に登りたまふに至れり。かくてその家の荘園天下に遍く富皇室を凌ぎて驕奢を極め、専横の振舞また少なからず。三條天皇は道長の専權を快からず思召したまひ、心ならずも御位を去らんとていと哀れなる御製を残したまひしに、道長は同じ雲井の月を眺めて、望月の缺けたることのなきおのが榮華の程を誇れり。たまたま道長病みて入道し、法成寺を建ててこれに移り住みしが、その結構壮麗古今に絶し、世に極樂浄土の現出とうたはる。これが築造には僭越にも宮中・神泉苑などの石を運ばしめてその用に充て、その子頼通は諸國に令して、むしろ公事を緩うすともこの役に怠ることなかれといへり。驕慢もここに至りて極まれいといふべし。實に道長の一代は藤原氏隆盛の頂點にして、榮華物語・大鏡の類書は全くこの盛況を頌せんがために編述したるものなり。

第八 平安時代の文化 藤原氏政權を得てしだいに隆盛におもむくに當たり、東亞の形勢はようやく一變して、我が國の大陸諸國との國際關係に至大の影響を與ふるに至れり。從来唐の盛世には、我よりたびたび遣唐使・留學生を派遣して、しきりに彼の文物・制度を輸入したりしが、いまや唐の國勢衰へて騒亂を極め、文化もまた昔日の如くならず。さればもはや巨額の費を抛ち、風浪の險を冒して通交するの頗る得策ならざるを悟り、紀元一千五百五十四年宇多天皇の寛平六年菅原道眞の建議を用ひて、遣唐使を廢止したまへり。間もなく醍醐天皇の御代に唐朝滅亡して、彼我の國交は永く絶えぬ。 また今の満州および東蒙古に國を建てたる渤海は、奈良時代以来二百餘年の間、しばしば我が國来朝して貢獻を怠らざりしに、これも醍醐天皇の朝に契丹後の遼のために滅ぼされたるより、遂にその地方との交通も杜絶せり。また朝鮮半島は我が國と離れてより新羅これを統一して、國威の隆昌なること久しきにわたりしが、その後國勢やうやく亂るるに及び、王建國を建てて高麗と號し、第六十一代朱雀天皇の時遂に新羅を滅し、これに代わりて半島を統一せり。ここに於いて再度使を我に送りて入貢を請ひたれど、朝廷またこれを許したまはず。かくて大陸諸國との國交は、醍醐天皇の御代の前後に至りて全くを斷絶したりしなり。 さきに大陸との交通盛んにして、外来文化のしきりに輸入をせらるる間は、とかく模倣の傾向を免れざりしが、今や國交杜絶して外来文化の流入やみてより、かへつて從来移植したりし外國文明をしだいに消化して、新に國風の文化を發揮するに至れり。これ實に平安時代における文化の特色なりとす。 まづこれを法制の上に見んか、大寳律令はおほむね唐制のままを採用せしものにて、素より我が國の實情に適せざるものあり、または簡にして盡くさざる令條も少なからざるより、時宜に随ひて格・式を出して修正増補を施し、以て律令の實行を期せり。嵯峨天皇の弘仁年中、清和天皇の貞観年中、醍醐天皇の延暦年中に相ついでこれらの格・式を編輯せしめらる。これを三代格式といひ、當時社會一切のこと皆これを適用して處決せしなり。なほ朝廷の機密にあづかる蔵人、不法を取り締まる検非違使などをはじめ、令外の官多く設けられて、おひおひ實權を握るに至り、ために律令の官職を無効にせしものも少なからず。ここに至りて大寳律令の規定は大いに變更しぬ。 また佛教は奈良時代以来甚だ盛なりしも、わが尊祖敬神の念と相容れざるの虞ありしかば、はやくも神佛調和の思想はじまり、神も佛法を喜びてこれを護りたまふと考えられたり。されば東大寺大佛の開眼供養に當り、宇佐八幡神これに臨御せんとの託宣あり、朝廷迎神使を遣はして迎へたてまつりしことなどありしが、ついで最澄の延暦寺を創むるや、日吉神社を叡山に建て、空海は高野の山上に丹生明神を祭りて、以て霊地の鎭守とあがめぬ。かかる神佛の混合は佛教弘布の方便としてしきりに行はるるに及びて、遂には佛を主とするの思想にまで進み、佛は神の本地にして、佛の垂迹せるものすなわち神なりと考ふるに至れり。これいはゆる本地垂迹説にして、わが國の諸神をみな諸佛に配して、神號にも佛・菩薩・權現などの稱號を用ひ、神社に舎利を納め、修法を行ひ、また佛殿にも神體を安置するなど、社寺の行事も頗る混同したりき。 かくて佛法は深く人心に浸染すると共に、迷信もまた流行し、人の疾病にかかるは生霊・死霊の祟なりとて、祈祷を前にして醫薬を後にし、天變・人災すべて加持・祈祷を以てこれを攘はんとせり。さればその信仰は多く現世の幸福利益を求むるにありしかど、また當時社會の優柔なる、人々頗る感情に脆くして、花の散り月の傾くにも涙絶えせぬ様なりしかば、まして露の命をはかなみては、ひたすらに未来の安樂を希ひ、彌陀本願の極樂浄土を欣求するの念もおのづから起こりて、阿彌陀如来の信仰やうやく盛になり行けり。ここに於いて寺院には阿彌陀佛を本尊としてまつるもの多く、またこの思潮に應じて、平安時代の末には僧法然出でて浄土宗を起こし、専心念佛によりて極樂往生を教へ、民衆佛教の興隆する端を啓きたりき。 さきに漢學の盛なりし折は漢文専ら行はれたれば、漢字を使用する必要極めて多かりしのみならず、國語を寫すにもこれを利用する程なりしが、もと漢字は字畫多くして不便なるより、これを使用する間に、おのづから簡便なる法の案出せらるるに至れり。すなはち漢字の字畫を省略せる草體はやうやく變じて平假名となり、また漢字の點畫を省き扁旁を去りたる片假名もおのづから發達し、後にはこれを五十音圖に組み立て、いろは歌に綴るに至りていよいよ假名文字の完成を告げたり。ここに於いてかかる簡易軽便なる假名文字を以て自由に意思感情を表し得て、大いに國文學の發達を助成しぬ。 さればいまや前代の漢文に代わりて假名文の全盛となり、さきに詩賦のために壓倒せられし和歌は再び興隆の運に向ひたり。紀貫之・凡河内躬恒らは醍醐天皇の勅命を奉じて萬葉以外の秀歌を集め、古今集二十巻を撰して上りぬ。これ勅撰和歌集のはじめにして、この時、前代に盛んなりし長歌は既に衰へたるも、短歌は大いに發達し、文質華實を、兼備へ、歌調優麗にして後代の模範となれり。貫之嘗て土佐守となりて清廉の聞こえ高かりしが、任満ちて歸京するに當たり、假名文を以て日記を綴りたるは、すなはち土佐日記にして、實に假名文紀行の祖となり、この後は假名文盛んに行はれて物語・草子・日記・紀行など續々あらはれたり。なほ村上天皇の朝には、新に宮中に和歌所を設け、源順・大中臣能宣らの歌人に命じて古今集の後を承けて後撰集を撰せしめたまふ。これよりたびたび歌集の勅撰あり、歌詠は大宮人随一の娯樂として、久しく行はれたるも、徒に詞華の巧をのみ弄して、やうやく浮華に流れ歌道の實はしだいに衰へ行きぬ。 書道も平安時代の當初は未だ多く唐人の跡を追ふに過ぎざりしが、年を逐うてやうやく唐風を脱化して、優麗なる書風開かれぬ。中にも藤原行成は王羲之の流れを汲みて最も精巧を極め、小野道風・藤原佐理と共に本邦の三蹟として、いづれも國風を發揮せり。かかる折しも、また歌・物語りの隆盛はおのづから草假名の發達を促し、紀貫之をはじめ國文學者はたいてい皆優雅なる假名かきに巧みなりき。この頃また藤原氏は外戚の權を得んがために、争うてその女を宮中に納れんとするに當たり、あらかじめ家庭においてこれを教養するの必要あり、なほ入内の後もその侍女に才女を選びて文藝を競はしめしかば、この趨勢に應じて、文藝に勵む女子の輩出を見るに至れり。然るに男子はなほ漢文を主とせしより、平易なる假名文は専ら夫人の手にうつり、從ひて國文に長ぜる女流の一持に多かりしこと實に空前と稱せらる。中にも一條天皇の御時藤原道隆の女定子入りて皇后となりたまひ、藤原道長の女上東門院更に中宮として相竝立したまふに及び、歌文に長ぜる數多の侍女また相分れて互いに才藝を闘はせり。皇后宮に仕えて最も才氣に富める清少納言は簡勁鋭利なる才筆を振つて時時折々の感興を叙して枕草子を著し、中宮に奉仕して貞淑博識の誉高き紫式部は、婉曲流麗なる文辞を以て當代貴族の生活を如實に描寫して、源氏物語り五十四帖を綴り、共に後世永く詞藻の宗師と仰がる。この他にも和泉式部・小式部内侍・伊勢大輔など、才藻すぐれたる女流頗る多かりき。 かかる間に美術・工藝より風俗の末に至るまで、やうやく國風に同化して、前代と全く趣を異にするに至れり。藤原氏政權を占めて日々驕奢におもむくに從ひ、朝廷はいよいよ衰へて、大内裏も村上天皇の御代に炎上してより、また前日の宏壮なる結構に復する能はず、規模おひおひ狭小となりしに、貴族の邸第はかへつてますます壮麗となりぬ。その邸宅はいはゆる寝殿造りにして、すでに唐式の宮殿より脱化し、優美なる檜皮葺の屋舎相連なりて、遣水・前栽麗はしき庭園に臨み、風流いはんかたなし。道長の建てたる法成寺には御堂を設け、阿彌陀佛をまつりてみづらここに退き、頼通は宇治の別荘を改めて佛寺となし、平等院と名づけたり。道長が一代の富を盡くして集めたる銘木・寳石は今に片影をさへ留むるものなきも、平等院の佛殿鳳凰堂はなほ現存して、當代藝術の精華を發揮せり。堂は宇治川の清流に臨みて風光明媚なるうへに、殿廊の結構恰も鳥の両翼を張りて尾を曳くになぞらへ、棟の両端に立てる金銅造の鳳凰は風のまにまに舞ひて頗る技巧の妙を極む。堂内に本尊として安置せる、一代の名工定朝の作れる金色の丈六彌陀佛は、有名なる書家宅磨為成の極樂の圖を畫ける四壁の彩畫、または華麗精緻なる幾多の装飾品と相應じて、優美高雅なる風趣殆ど名伏すべからず。かくて彫刻繪畫の技も大いに發達し、嘗て寛平年中紫宸殿に賢聖障子を畫きて名を馳せたる巨勢金岡の流に名人多く、佛畫に巧みなるものまた少からzu。なほこれと別に一派を起こしたるものに藤原基光があり、纎麗なる土佐繪の祖と仰がれ、唐風の畫流に對し和様の一家を成して永く後世に及びぬ。 攝關家の榮華に耽るにつれ、京都の貴族はすべて華奢を極め、平安京近郊の勝地を擇びて、別墅・山荘を造り、園地の營みに數寄をこらし、ここに遊べる男女は綾羅錦繍の装いにひたすら容儀の鮮麗を競へり。當時貴族の装束はすでに唐服の模倣よりやうやく國風に脱化し、男子の正装たる束帯、女子の正装たる十二單の如きは、いづれも優美華麗にして、四季折々の配色に最も意匠をこらしぬ。かくて朝臣の生活は一般に遊惰に流れ、花の朝月の夕詩歌管弦を弄び宴樂遊興を事とせしかば、歌舞・音樂大いに發達し、内外のもの相融和して、大陸より傳来せる壮麗なる舞樂・朗詠などを歌いて奏づる閑雅なる管弦、盛んに竝び行はる。殊に一條天皇の朝には、これらの遊藝盛を極め、文藝に秀でたる縉紳輩出せしが、藤原公任・藤原齋信・源俊賢・藤原行成は四納言と稱せられて、特に才藝を以て今日にうたはる。中にも公任は道長の催せる大井川三船の雅遊に獨り誉を揚げ、またその著せる和漢朗詠集は後世傳誦して長く諷詠に用ひらる。

第九 院政 武士の勃興 源平二氏の興亡 藤原道長久しく枢要の地位を占め、外戚の權をほしいままにして、その欲するところ行はれざるなく、その子頼通もまたは永く關白となり、藤原氏の權勢のなほ盛なりしが、第七十一代後三條天皇立ちたまふに及びて、やうやく衰運に傾きはじめたり。天皇は東宮にましますこと二十餘年、藤原氏の専横を憂へたまひながらも、心静かに學藝を修めさせられ、大江匡房を師として古今の治體を究めたまへり。殊に天資剛邁厳明にましまししうへに、天皇の御母は三條天皇の皇女にして、從来の如き藤原氏と外戚の親絶えたれば、御即位の後は藤原氏を憚らずして萬機をみづからし、いたくその權を抑へたまへり。時に頼通は宇治に屏居し、弟教通代わりて關白の職にありしも、唯位に備りしのみ、權力これよりやうやく皇室に復歸しぬ。天皇勵精治をはかりたまひ、まづ權門勢家の専横を抑制するには荘園の整理を以て最も急務なりとしたまひ、親政の劈頭、勅して諸國新置の荘園を停止し、ついで記録所を太政官に設けて荘園の券書を諸家に徴し、匡房らをしてその虚實を検覈せしめて、厳に荘園を整理せしめたまひ、なほ進んで地方政治の刷新を志したまへり。當時往々國司が朝廷の用度を転じて重任を求むるのならひありて、弊害少からざりしより、厳命してその重任を禁止したまひき。かくて着々新政を行ひたまひ、また御みづら供御の料を節約したまひて、華奢の世風を矯正せられしかば、上下朝威をかしこみて綱紀大いに振張せり。 されど道長以来藤原氏の積威なほ大にして頼通はわざと荘園の券契を上らす、教通は強いて國司の重任を請へるなど、不遜の行動少からざりしかば、天皇革正の叡慮もために貫徹を妨げらるるの虞あり。ここに於いて天皇は御位を去り、院中にありて政を聴き、叡慮のままに改革の大業を遂げたまはんと思召し、御在位僅かに五年にして皇位を御子第七十二代白河天皇に譲りたまひしに、不幸にして御病を得て、間もなく崩御ましまししかば、上下擧りてこれを惜しみたてまつれり。白河天皇また剛毅果斷にましまし、父帝の御遺志を繼ぎて政治を藤原氏にまかせたまはず、御在位十四年にして紀元一千七百四十六年(應徳三年)皇位を第七十三代堀河天皇に譲りたまひたる後も、上皇としてなほ政を院中に聴きたまふこと四十餘年の久しきに及べり。これより院政は世々の慣例となり、その政務を行ふところを院廳といひ、別當以下の院司をして事に當らしめ、院宣を以て天下に號令したまへり。ここに於いて今まで機務を裁決せし攝關は唯名のみとなり、政權全く院中に歸し、藤原氏抑制の目的はじめてい達せられぬ。されど院宣は詔勅よりも重くなり行き、天皇の實權全く上皇にうつりしは、實に政變の甚だしきものなり。白河上皇は鳥羽の離宮をはじめ、しきりに土木を起こされしのみならず、また篤く佛教を尊信したまひて、御みづから入道して法皇となり、高野・熊野に御幸せらること前後十餘度に及び、造寺・造佛のおびただしき、殆ど枚擧すべからず。國庫ために空耗し、これが補給として賣官の風公に行はれ、米穀・絹布を上るものを國司に任じたれば、國司重任の弊再び興れり。また法皇御みづから盛に田園・資材を寺院に喜捨したまひしより、荘園の整理はとうてい望むべくもあらざりき。殊に京畿の諸大寺は數多の財物・荘園を占有して、頗る實力あるうへに、諸國奸民の課税を逃れんがために、みだりに剃髪して寺院に投ずるもの多く、遂には武器を蓄へ武藝を講じて、僧兵を組織するに至りしが、今や朝廷保護の厚きに乗じて、往々横暴を極めたり。中にも王城の鎭護を以て任ずる延暦寺、及び藤原氏の氏寺たる興福寺などは最も大衆を擁して、互いに争闘を事とし、いはゆる南都・北嶺の僧兵は各々春日の神木、日吉の神輿を奉じて事毎に朝廷に強訴を企てたり。然るに警衞の武官は弓矢の神輿・神木に及ばんことを恐れて、防禦意の如くならず、法皇も三歎を洩したまひて、これが制馭に苦しみたまひたりき。 此の時に當たり衞府の武官は京都の泰平になれて柔弱となり、おほむねその職を盡くすこと能わざりしかば、やむなく地方の武士を採用して、僧兵の暴行に備へしむるに至れり。蓋し武士の勃興はその来れるところ既に久しく、さきに藤原氏の一門やうやく權勢を得て京都の顯要なる官職を獨占するに及びては、慷慨の士才氣ありても青雲の志を遂ぐるの途なきより、京都を去りて國司となりて地方に下るもの多し。これらはおのが門閥名望を以て漸次にその勢力を扶植し、任期満つる時はすなはち百方重任を求め、遂にその地に永住して広大なる土地を占め、あるひは一族・縁者を招き、あるひは土民を懐柔しておびただしき家子・郎等を養へり。かくて所在豪族の勃興を見るに至れり。この頃朝臣は徒に花鳥風月を弄びて毫も地方の政治を顧みざれば奸悪なる國司は人民を虐げて私腹を肥やすもの多く、加ふるに荘園おひおひ増加して公田減少するに從ひ、所定の収入を得んがために、おのづから租税を加徴することとなれり。細民はこれに堪へかねて、本土を離れて諸方に流浪し、中には盗賊掠奪を事とするものあり、遂に山に海に群盗の横行を見るの様となりぬ。ここに於て地方の豪族はその莫大なる資産を保護せんがために、日夜弓馬の術を習ひ、以て自ら衞るに至れり。これすなはち武士の起源にして、遂に武士諸國に割據して、武力を以て地方を風靡せしうへに、また權門勢家の依託を受けて、諸國に散在せる荘園を支配せしかば、その實力確立して、もはや抜くべからず、政刑・兵馬の實權やうやくその手に落行きしなり。かくて武門の階級新に社會にあらはるるに及び、全國皆兵の制度全く破れて兵・農おのづから別れ、延喜・天暦の聖代も既に中央藤原氏の専權と共に、地方には武門の漸次確立して、まさに王政の移動を見んとするの機運となりき。 諸國に勃興する武士には皇族及び貴族の子孫少からざりしが、中にも桓武天皇の御子葛原親王の後裔たる平氏、清和天皇の御子貞純親王より出でたる源氏など最もあらはる。これらの武家は中央の貴族と同じく、いづれも自家の發展をはかりて互いにその勢力を争ふのみならず、遂には同族の間に於て相鬩ぎてしばしば紛亂を生じ、中には朝憲を蔑視して朝廷に背反するものも出づるに至れり。然るに當時朝廷の軍備大いに弛みてこれを鎭むること能はず、僅かに武士の力によりてこれを平定せしを以て、武士の勢力はためにますます加り、大いに朝野の嘱望するところとなりぬ。まず葛原親王の孫高望王臣籍に列して平氏を賜はり、上總の國司となりてより、子孫しだいに、東國に蔓延せしが、その孫將門同族と權を争ひて伯父國香を殺し、紀元一千五百九十九年朱雀天皇の天慶二年、遂に下總に據りて反をはかれり。弟將平順逆の理を説きて徐にいさめたれども聴かず、ますます凶暴を極めたりしに、國香の子貞盛は下野の豪族藤原秀郷(近江田原荘の名にちなみ田原藤太といふ)と共に將門を攻めてこれを誅せり。これと同時に藤原冬嗣の玄孫なる純友も嘗て伊豫の國司となり、任満ちても歸京せず、數多の海賊を率ゐて海上を横行し、暴威を瀬戸内海に振ひしかば・源經基らをしてこれを平らげしむ。時に天慶四年なり。 貞盛・秀郷・經基らは天慶の亂を鎭定せし功により、いづれも鎭守府將軍に任ぜられ、その子孫各々勢力を得たり。中にも經基はもと貞純親王の子にして源氏を賜はり、武蔵・上野など東國の國司に歴任して家を興し大いに武名を揚げたりしが、その子満仲・頼光・頼信は京都の攝關家に出入りして、その爪牙となりてますます家運を興しぬ。されば後一條天皇の朝に高望王の曾孫平忠常の東國に據りて反するや、その勢熾にして容易に鎭定せざりしに、頼信一たび追討の命を奉ずるに及び、忠常とうてい敵すべからざるを悟り、倉皇出でて降りしを以ても、源氏の聲望のいかに高かりしかを見るべし。ついで第七十代後冷泉天皇の御世に至り、陸奥の衣川以北奥六郡の地に據れる豪族安倍氏は勢の強大なるにまかせて貢賦を納めず、良民を劫略して猖獗を極めたれば、頼信の子頼義は朝命を奉じて子義家と共にこれを伐ち、出羽の豪族清原氏の力を借り、遂に阿倍氏を滅して大いに武功を樹てたり。(前九年の役)なほこの戦いの間にも、頼義は社寺の破却せるを修め、庶民をねぎらひて大いに慈愛を施し、義家は若年ながら力戦して八幡太郎の驍名を轟かししうへに、あるひは軍馬に鞭打ちて奥地に向ふ途すがらにも、花散る勿来の關に雅名を留め、あるひは死生の裡にありて敵と連歌を詠みかはししなど、さすがに悠々迫らざる古武士の面影を偲ばしむ。 清原氏は陸奥の騒亂に勲功を樹て、新に奥六郡の地を領して、安倍氏に代わりて勢力を奥羽地方に張れり。然るにその後清原氏一族の間に紛争興りて、その地再び亂れたりし折、たまたま源義家陸奥守として任に赴き、秀郷の後裔たる藤原清衡とともに討ちてこれを鎭定せり。(後三年の役)時に堀河天皇の御代にして、これより清衡また清原氏に代わり館を平泉に構へて東北地方に雄視するに至れり。この役義家が一たび敵城金沢柵を攻むるに當りて、鎌倉權五郎景正は剛胆無双の誉を揚げ、義家の弟新羅三郎義光は遙かに京都よりて下向し、兄を援けて大いに敵を破れり。されど城堅くして容易に抜けず、義家殊兵を率いて三度これを圍むや、飛雁俄に列を亂せるを見て、嘗て節を屈して大江匡房に學びたる兵書の知識を活用して、やうやく危難を免れ、また日毎に剛臆の座を定めて士氣を勵まし、遂にこれを陷れたり。義家は陣中ねんごろに部下の將士をいたはりうへに、朝廷この役を私闘として恩賞を下さざるに際し、義家私財を抛ちて部下をねぎらひたりしかば、東國の武士はいよいよその恩威に服し、心を傾けてこれに臣從するに至りぬ。 かくの如く地方に於いて頗る聲望を高めたる武士の遂に院中に用ひらるるに及びて、やうやく勢力を朝堂に布くに至りぬ。殊に義家の武威は四海を壓し、白河法皇に用ひられて、その警護に任じたりしが、義家の後は將才あるもの少なく、源氏はやや振はざりし間に、平氏俄に興りて、これを凌ぐに至れり。平氏は貞盛天慶の亂に功を樹て大いにあらはれ、その子孫伊勢にありて世に伊勢平氏と稱せしが、この流より出でて、剛勇の聞こえ高き忠盛は、父祖に引きつづきて西國の國司に歴任し、遂に白河鳥羽両法皇の院中に用ひられ、再度瀬戸内海の海賊を平らげて功ありしかば、源氏の東國を根據とせるに對し、平氏はいよいよ西國に勢力を得たり。なほ忠盛は南都・北嶺の僧兵を追捕し、また鳥羽法皇の得長寿院の造營にあづかりて功績頗る多く、特に抜きんでられて刑部卿を拝し、昇殿を聴されたり。當時朝廷の綱紀弛みて、刑法も行はれぬ勝なるに、武士は信賞必罰を以て厳に部下を取り締まりたれば、政府の威令はおひおひに軽くなり行くに反し、武士の實力ますます世に重んぜらるるに至りぬ。 武士の京都に權勢を進むるにつれ、さなきだに攝關の實權はいよいよ衰へたりしも、なほその名爵の貴きのみならず、この職に就くものは氏長者として同族を支配し、殊に殿下渡領とて、攝關の繼承すべき富裕なる荘園・什寳を獲得するを以て、その地位の競争は常に絶ゆべくもあらず。されば左大臣藤原頼長は博學多才にして父忠實の寵を得、その兄關白忠通と善からず、遂に崇徳上皇に親近し、その御子重仁親王を立てたてまつりて、おのれ攝政となり、兄に代わりて權力を占めんとし、紀元一千八百十六年保元元年上皇に勸めたてまつりて、源為義・為朝らの諸勇士を招きて白河殿に據りて兵を擧げたり。ここに於いて忠通は第七十七代後白河天皇を高松殿に奉じ、源義朝・平清盛らを召して守らしむ。為朝勇敢にしてよく射る、すなはち獻策して敵の備なきに乗じ夜襲の利を説きしも斥けられ、かへつて義朝らの夜襲を受け、白河殿は焼かれて全く敗北せり。よりて上皇は讃岐に遷されたまひ、頼長は流矢に中たりて死し、源氏の諸將多く捕斬せらる。(保元の亂)この變もと藤原氏が攝關の地位を競望して、兄弟墻に鬩ぎしに起り、遂には累を皇室に及ぼしたてまつり、源平の武士またその渦中に投ぜられたるものにて、父子・兄弟・叔姪相分かれて互いに殺傷し、倫常を破却し、名分を蔑如して、實に空前の亡状を極めたりき。 源氏は保元の亂のために多く一族の勇士を失ひしより、義朝はその羽翼を失ひて殆ど孤立の姿となり、これに反して清盛は戦功によりて特に重賞を蒙りしうへに、機敏にも當時の權臣藤原通憲(信西)と結び、、聲望遥かに義朝の右に出でしを以て義朝常に心平かならず。通憲は博學宏才にして政務に熟達し、朝堂に頗る勢力を振ひ、たまたま藤原信頼の近衞大將たらんとする望みを妨げたれば、信頼大いにこれを憤りて、さてこそ義朝と結託して通憲・清盛らを除かんと謀りしなれ。ここに於いて紀元一千八百十九年第七十八代二條天皇の平治元年、清盛・重盛父子の熊野に詣でたるを機とし、義朝・信頼俄に兵を擧げて大内裏に據り、おそれ多くも後白河上皇を天皇と共に幽閉したてまつり、且、通憲を殺せり。清盛ら途にこの變を聞き、直ちに歸りてひそかに天皇をおのが六波羅の第に迎へたてまつり、更に重盛らを遣はして義朝を攻めしむ。義朝はその子義平と奮戦大いに努めしも、程なく敗れて信頼らと相ついで誅せられ、義朝の子頼朝は伊豆に流されたり。(平治の亂)ここに於いて源氏全く衰へて平氏獨り全盛を極め、遂に政權は公家の手を離れて、今や實力ある武士の手に移るに至りぬ。 清盛は平治の戦功により、一朝從三位に叙せられて、はじめて武士の公卿に列するの例を開き、その後の榮達殊に速やかにして、未だ十年を經ざるに既に從一位太政大臣に陞りて人臣の榮を極めたり。清盛またその女徳子(建禮門院)を第八十代高倉天皇の中宮にすすめ、その御腹なる第八十一代安徳天皇を立てたてまつりて朝廷の外戚となり、なほ攝政家藤原基實と婚を通じてますます權勢を得たれば、その一門頗る繁榮して子弟一族いづれも顯要の地位を占むるに至りぬ。かくて一族の公卿たるもの十數人、殿上人は三十餘人人の多きに及び、その所領も三十餘國告、荘園五百餘箇所を數えて富裕他に竝ぶものなく、さきの藤原氏の榮華を繰り返して、遂に平氏にあらざるものは、これを人非人と呼ぶことさへありき。 かくの如く平家の顯榮は全く藤原氏の轍をふみたることとて、その生活も卿相を學びて歌舞・音曲を弄び、ひたすら奢侈に耽りたれば、平家の一族子弟は、いつしか武勇の業を忘れて優柔なる公達となり終りぬ。さればその多くは既に武士の特性を失ひしとはいへ、當時の文化に盡くしたるの功に至りてはまた没すべくもあらず。清盛は平素意を文學にも注ぎ、宋代の新著太平御覽を秘蔵して、これを朝廷に進獻し、また嘗て安藝守たりし時よりその地の厳島神社を崇敬し、新たに社殿を修造せしが、優雅なる殿廊海面に浮かびて美景いふべからず。清盛らしばしば浪路遙かにここに詣で、その途にあたれる音戸瀬戸を修理して航運に便し、また數多の珍什財寳を社殿に奉納せり。中にもその一門子女の筆になれる納經は、書畫の優美なる、装釘の優麗と相まちて當代の傑出する藝術を永く後世に傳えぬ。なほ清盛は攝津の要港兵庫に經島を築きて停泊に多大の便益を與へ、その地福原には、はやくより別墅を營みてたびたびここに遊び、時々至尊の御幸を請ひたてまつれり。嘗て後白河法皇の臨幸を仰ぎてひそかに宋使を引見し、時には宋國の商舶と兵庫に於いて貿易を行ひたりき。 平氏の勢い日に盛んなるに随ひ、清盛專恣の行ひやようやく多かりしかば、後白河法皇はこれを抑えへんとしたまいしも、御意にまかせず。法皇の近臣藤原成親これを憤り、僧西光・俊寛らとしばしば俊寛の鹿谷の山荘に會して平氏を滅さんことを謀りしが、謀もれ、西光まず捕へられて斬らる。清盛は激怒のあまり、成親の黨與を悉く捕斬せんとせしに清盛の子重盛これを諫め、諄々として積善の家餘慶あるの理を説きて、私怨を以てみだりに朝臣を殺すの非なるを述べしかば、清盛これに動かされて成親を備前、俊寛らを鬼界島に流し、辛うじて事おさまりぬ。 然るに清盛は法皇もこの謀にあづかりたまひしと怨み、遂に法皇を幽したてまつらんとせしに、重盛再びこれを切諫し、聲涙共に下りて君臣の大義を説き、條理を盡くして父の不忠をとどめしより、さすがの清盛もその至誠に動かされて一旦その暴擧を思ひとどまれり。重盛天性忠謹にして至孝、事毎に父の驕傲を諫めて名分をあやまらしめず、また子弟を戒めて朝廷を尊崇したてまつらしめたれば、中外深く望を屬したりき。 かくて清盛重盛を憚り、ややその行を慎みて横暴をほしいままにするに至らざりしに、不幸にして重盛父に先だちて薨ぜしかば、清盛また他に憚るところなく、よろづ心のままに振舞ひてついに皇威を軽んじたてまつるに至れり。すなはち重盛の薨ずるや、後白河法皇は關白藤原基房と謀りてその領邑を没収したまひしが、基房は平家の姻戚基實の弟にしてかねて平家と快からず。ここに於いて清盛大いに怒りて、基房以下法皇に親近せる朝臣三十餘人の官職を奪ひ、法皇を鳥羽殿に幽したてまつるの不遜を肯てせり。されば源三位頼政はこれを見るに忍びず、率先して平氏を討滅せんとし、法皇の御子以仁王を奉じ、その令旨を諸國にひそめる源氏に傳へ、園城寺・興福寺などの僧兵と結びて兵を起こさんとす。然るにその募兵の未だ集らざるうちに、頼政既に平氏の追撃を受け、これと宇治川に戦ひしも、衆寡敵せず、忽ち敗北して遂に自刃し、王は流矢に中りて薨じたまひぬ。 諸國に散在する源氏は、王の令旨を奉じて一時に旗を擧げしが、中にも久しく伊豆に蟄居せし頼朝は令旨を得るや大いに喜び、妻政子の父北條時政と謀りて兵を擧げたり。頼朝一たびは石橋山の戦に大敗せしも、源氏恩顧の東國武士は響應して来り屬し、兵勢再び振ひて相州鎌倉に據れり。よりて平維盛らの軍来り討ち、駿州富士川を挟みて源軍と對峙せしに、一夜水禽の羽音に驚きて脆くも潰走せり。頼朝はなほ東國の根據を堅めんとて軍を返ししに、かねて遥かに奥州に逃れてその地の豪族藤原秀郷に頼れる源九郎義經は兄頼朝の黄瀬川の陣營に来會し、共に手をたづへて鎌倉に歸りぬ。この頃源氏の諸方に蜂起せるもの、いづれもその勢力しだいに強大となるに反し、平氏の一族は永く遊惰の風に染みて、討伐の諸將みな敗れて還り、形勢日に非なるのうちに、清盛はからず病にかかり、悲壮の遺言を残して遂に薨去し、平氏の勢いますます振るはずなりぬ。 頼朝の石橋山に戦ふ頃、久しく信州木曽の山中に身を隠し居たりし源義仲もまた以仁王の令旨を奉じて兵を起こし、平維盛らの討手と越中礪竝山に對陣せしが、義仲奇計を以て敵を倶利伽羅谷に攻落し、勝に乗じて京都に迫れし。平宗盛大いにこれを恐れ、安徳天皇・建禮門院竝びに神器を奉じて周章都を落ちて西國に走る。よりて義仲は直ちに京都に入りしに、その將士放縦にして事體を辨へず、都下を掠奪して人民を苦しめ、遂には後白河法皇の御所を襲ひて法皇を幽閉したてまつるなど、頗る暴慢を極めたれば、法皇ひそかに頼朝を召したまふ。頼朝すなはち弟範頼・義經らをして、大兵を率ゐて義仲を討たしめ、宇治・勢多の戦いにこれを破らしめしかば、剛勇なる義仲も遂に叶はず、江州粟津原の露と消えうせぬ。 かかる間に、一旦九州に落行きし平氏は、再び兵勢を恢復し、やがて京都を復せんとて、軍を返して福原に據れり。されば範頼・義經は義仲を討滅しし勢いを以て福原に向ひ、範頼は生田森より義經は一谷より竝び討ちしが、義經別にみづから軽騎を率ゐて鵯越の險路を下り、不意に敵の背後を衝きしかば、平氏支ふること能はず、諸將を多く戦死し、宗盛らは讃岐の屋島に逃れたり。幾ばくもなく義經更に進みて屋島を襲ひ、火を民家に放ちて急にこれに逼りたれば、宗盛再び天皇を奉じて西走し、船を連ねて長門壇浦の海上に浮かぶ。間もなく義經數多の兵船を率ゐてこれを追撃し、潮流に乗じて平家の軍船を壓して全くこれを破り、平家の一族は悉く戦没し、おそれ多くも天皇は剣璽を擁して海に入りたまひ、門院も捕へられたまふ。宗盛父子また虜にせられしが、後、京都に送られて斬らる。ときに紀元一千八百四十五年寿永四年彌生の末つ方なりき。この戦、かねて至尊の御身につゆ恙なきを祈りし頼朝らの衷情は全くあだとなり、また法皇の切に神器の無事歸洛を望みたまひしかひもなく、御璽はこれを水中に求め獲しかど、御剣は遂に沈みて出でず、これよりしばらく晝御座剣をもってこれに代へたまひしが、後、伊勢神宮の御剣を以て永く代へたてまつることとなりぬ。かくて驕る平家二十餘年の榮華も、落花と共に忽ち散りはて、榮枯常なき人生にはさすがに勇士の袖をしぼらしめき。

第十 鎌倉幕府の成立 北條氏の執權政治 源頼朝は一旦石橋山の戦いに敗れしかども、程なく勢を挽回して房總の地方を從へ、北條時政をして甲信の諸侯を誘致せしめ、千葉常胤らの勸によりて、當時に於ける形勝の地にして、且、源氏累代の縁故深き鎌倉を選び、ここに居を定めて新第を起したり。よりて平氏を富士川に破りし後も、再び兵を鎌倉に返して、まづ東國の根據を固めんとし、譜代恩顧の將士みな第宅をここに構へ、庶民したがひて来集せしかば、從来もの寂しかりし一漁村も、俄に繁榮なる都會となりぬ。 頼朝は、平家がいつしか京都の優柔なる風に染みて失敗せし跡にかんがみ、士風剛健なる關東の地に據りて徐に實力を養ひ、やうやく平氏に代りて天下の政權も収めんとするに至れり。然るに、當時朝廷の綱紀弛みて官職は有名無實となり、加ふるに家格固定して人物登庸の途は開かるるべくもあらず。大江・中原・三善の徒は、もと學者の家より出でて法律・典故に通じ、久しく太政官の實務に當たりしも、いづれも卑官に留まりて、驥足を伸ばすこと能はざれば、むしろ實力ある武家と結託して自家を興さんとし、各々縁故を求めて東下し、頼朝の顧問となりぬ。ここに於いてまぢ侍所を置き、譜代の武將和田義盛をその別當として家人の進退及び軍事・警察のことを掌らしめ、ついで政所(公文所)を設け、大江広元を別當、中原親能らを寄人に任じて庶政をすべしめ、更に問注所を置きて訴訟・裁判にあづからしめ、算數に長ぜる三善康信をその執事となせり。かくて軍事・行政・司法の三機關を別ち、極めて簡約なる政治組織によりて法制の實行を期せしかば、王朝の制度がとかく煩瑣に過ぎて實際に疎きとは、全く面目を異にするに至れり。 かくて幕府の基礎は既に成りたれど、天下を控制するの途は未だ定まらざりしに、たまたま頼朝弟義經と善からず。頼朝天性猜疑に富み、弟の偉勳を建てて名聲朝野に高きを忌みたるに、義經もまた功にほこりて、往々頼朝の節度に從はず、その間ますます穏かならず。遂に義經が平宗盛らの捕虜を率いて鎌倉に凱旋せんとするや、頼朝はこれを腰越驛に抑留して、その鎌倉に入るを許さざりしかば、義經怏々として樂しまず、去りて途に宗盛らを殺して京都に歸りぬ。頼朝すなはち土佐坊昌俊をして義經の堀河第を襲はしめしかども、事成らざりき。これより義經は鎌倉の捜索を避けて、攝津・大和の間に逃竄し、兵亂起こるの風評しきりなりしかば、大江広元これに乗じて守護・地頭の制度を立てて騒亂を未發に防がんことを獻策す。頼朝大いに喜びて、北條時政を上京せしめてこれを奏請せしむ。時に攝關家の九條兼實は武家と提携して、百方これがためにはかるところあり、忽ち勅許を得たれば、頼朝は遍く部下の將士を海内に配置して守護・地頭となせり。守護は國毎にありて、國司と相竝びて、部内の軍事・警察を掌り、地頭は公領・荘園を問はず、一般に配置せられて、おもに租税の徴収にあづかる。ここに於いて國司の權はやうやく守護に移り、荘園の領主もまた地頭のためにその實力を奪はるることとなり、天下の實權おのづから鎌倉に歸するに至りぬ。 頼朝また朝廷に奏請して議奏の公卿を置き、機務に練達せる九條兼實をその首座として朝政に當らしめ、おのづから朝堂の權を収め、また東西の辺境には特に鎭撫の職制を布けり。九州にははやくより鎭西奉行を置きてこれを治めしめしが、奥羽には、平泉の藤原氏が三代の富強を集めて一方に雄視し、守護・地頭の制度もここに及ぶこと能はざれば、頼朝これを抑へていよいよ海内を統一せんとす。時に義經平泉に遁れ来りて、舊縁ある秀衡に頼り、秀衡心を盡くしてこれを擁護したりしに、その子泰衡は頼朝の壓迫に堪へかねて、遂に義經を衣川の館に襲殺し、その首を鎌倉に送りぬ。然るに頼朝はなほ、泰衡が久しく義經を隠匿せし罪を責めて、みづから大軍を率ゐて奥州を伐ち、しきりに敵の城寨を陷れて、程なくこれを滅せり。それより徐に三代の舊跡を巡覽せしが、累代榮耀を極めし平泉の館はすでに灰燼となりて、空しく廢虚に秋風の颯颯たるを聞くのみなりしも、幸類焼を免れたる中尊寺には、さすがに豪華の跡しのばれて、その結構の荘厳なるに驚嘆せり。ここに於て、奥州總奉行・陸奥留守職を置きて奥羽を管せしめ、多く平泉の遺制によらしむることとし、東北地方全く平定して、全國悉く鎌倉の威令に服するに至りぬ。 かくて海内統一の業全く成りて、紀元一千八百五十二年第八十二代後鳥羽天皇の建久三年、頼朝征夷大將軍に任ぜられ、幕府の名實共に備りぬ。蓋し征夷大將軍は、嘗て坂上田村麻呂の任ぜられしにはじまり、もと蝦夷征討將軍の義なりしに、この後は常に武門の棟梁の任ぜられて、天下の政權を掌握するものの稱となれり。また昔、將軍の出征するや、随處に幕を張りて本營を設け、ここに軍務を執りしを幕府と呼びしが、今や將軍の政廳の名となりき。ここに於て、皇室の尊厳は毫もその古に變らざりしが、政治の中心はおのづから京都を離れて鎌倉に移り、その實權全く幕府に歸せしは、實に政治上の一大變革にして、素よりわが國體上未曾有の變態たり。 頼朝武家政治を創始して巧みに天下を制馭し、王朝の政治の得喪にかんがみて、専ら實力の獲得に力めたれども、骨肉の間とかく相和せず、さきに義經を殺し、後また範頼を除きて、みづから羽翼を殺ぎしかば、家運しだいに衰へて、かへつて外戚のために制せらるるに至りぬ。はじめ頼朝の流されて伊豆にあるや、北條時政ひそかにこれを庇護し、妻あはすにその女政子を以てし、ついで頼朝の兵を擧げしより東國を從ふるに至るまで、事多く時政の方略に出で、幕府の創立せらるる、またその盡力に負ふところ少なからざりき。故に北條氏の幕府に於ける地位は、恰も藤原氏の朝廷に於けるが如く、常に内外の機務に参與して、その威勢甚だ盛なり。されば頼朝薨じて長子頼家將軍を嗣ぐや、外祖時政は子義時及び諸將と合議して庶政を所決し、頼家の獨裁を禁じたりしが、ついに頼家を廢して伊豆の修善寺に幽閉し、その弟千幡を立てたり。千幡實朝と稱して、征夷大將軍に任ぜらる。實朝性温雅にして文學を好み、頗る識見に富みたるも、常に北條氏のために拘束されて、よろづ意の如くならず。加ふるに譜代の功臣畠山重忠・和田義盛らの一族いづれも北條氏の陰謀によりて除かれ、殆ど孤立無援となりたれば、源家の命運ももはや久しからざるを察し、進んで顯官を拝して家名を顯さんと欲し、遂に累進して正二位右大臣に昇る。承久元年その拝賀の禮を鶴岡の八幡宮に行ふに當り、頼家の子公卿義時に使嗾せられて、實朝を父の仇なりとし、夜陰に乗じてこれを刺殺し、おのれもまた義時のために殺さる。ここに於て、源氏の正統は僅かに三代にして全く絶えたり。 ここに於いて政子は義時と謀りて、いささか源家と姻親ある藤原頼經の僅かに二歳なるを京都より迎へて將軍となし、政子簾中にありて専ら庶政を聴けり。政子は性明敏にして、夙に頼朝の創業にあづかりて内助の功多く、寡婦となりて薙髪したる後もなほ身を以て政局に當り、果斷を以て紛争を裁決し、將士を懐柔して聲望を集め、世に尼將軍と呼ばる。幕府の基礎ためにますます固くなりしが、北條氏の權力既に重く、時政さきに政所別當となりて執權と稱し、子義時その後を襲ひ、和田氏の滅亡は、更に侍所別當を兼ねて政治・兵馬の全權を占めたれば幕府の實權はここに全く北條氏の手にうつりぬ。義時の子泰時寛厚にして寡欲、頗る仁慈の心に富みて、深く部下を愛し庶民を憐れみたれば、人々悦服して各々その業を樂しめり。殊に泰時は頼朝の違法を守りて、専ら心を政務に留め、常に裁判の公平を期し、評定衆を置きてこれと謀りて庶政を決し、また三吉康連らに命じて貞永式目(御成敗式條)五十一箇條を議せしめ、訴訟・裁決の據るところを定めたり。この式目は主として武家の慣例によりて制定せられたるものにて、幕府の行政より民事・刑事・訴訟の法令に至るまでその大綱を備へて、深く徳義を法令の上に寓し、いづれも簡素・實際を旨として、永く武家政治の標準となりぬ。 泰時の孫時頼は母松下禅尼の庭訓を受けて、日常勤倹を以て下を率ゐ、執權中は一に貞永式目を守りて、風俗を正し、文弱を戒め、頗る善政を布きたり。後、病を得て職を辞し、山内最明寺に退居せし後も、みづから諸國を行脚して、民情を視察し、庶民の疾苦を問いて寃枉をただしたれば、風化大いに行われき。ここにおいて時頼の聲望特に高く、その卒するや、諸將士親疎となくこれを悲しみ、ために薙髪するもの甚だ多かりきといふ。

第十一 武士道 武家政治はじまりて政治の面目一新すると共に、社會の氣風も大いに改り、全く前代と趣を異にするに至れり。蓋しこの氣風の由来するところ古く、さきに武士の勃興するや、各々その家名を重んじ、節義を尚びしかば、戦陣に臨みても、まづおのが家系より祖先の功業を名乗り合ひて後、悠然として刃を交ふるを常とし、互いに武勇を競ひてひたすら家名を揚げんとせり。かの宇治川の先陣争、一谷の組打または屋島の扇の的など、源平抗争の際に於ける美談は、殆ど枚擧に遑あらず。頼朝に至りては、東國勇武の地に據りて専ら士風の養成に力め、厳に將士の卑怯・未練を戒むると共に、戦功あるものは直ちにこれを褒賞し、またしばしば那須の篠原・富士の裾野などに卷狩を催し、常に笠懸・流鏑馬・犬追物などの武技を練修せしめたれば、鎌倉武士は一般に勇武にして、頗る剛健なる氣風をなしぬ。北條氏また頼朝の遺志を體して、泰時・時頼などいたく文弱の弊を矯め、よくその士風を維持せしより、ひいて社會の風儀も大いに改善せられたりき。 頼朝居常素撲なる生活を送り、清廉を以て下を率ゐ、厳に部下の利欲の念にかかはるを戒め、また華奢の風をなすものを懲せり。ここに於いて士風ために一變せしが、泰時また無欲をもって政治の要諦となし、時頼もよろづ簡素を旨とし、共に質素倹約を奨めたれば、人々勤倹に勵みて、日常の生活も頗る簡易となり、その衣食の粗略なるは素より、住居も王朝の寝殿造よりいはゆる武家造にかはりて、簡素と實用とを主とするに至れり。 かかる間に、主從互いに恩義を重んじ、死生相結託するの道義もおのづから武士の間に砥勵せられたり。さきに奥州の勇士佐藤繼信は、その主義經のために壮烈なる忠死を遂げ、相州の豪族三浦義澄ら、父の最期の遺訓に感激して、遂に頼朝のために大功を樹てたるの類、その例に乏しからず。頼朝特に孝義を重んじ、嘗て伊東祐泰の平家に走るにまかせて、義士の名をなさしめ、また平泉の家臣河田次郎の不義を厳罰し、孝子曾我の兄弟を惜しみたるが如き處置は、自然に孝義の精神を涵養して、遂に恩誼のためには死を顧みざるの士風を養成しぬ。後、鎌倉の亡ぶるに當り、執權北條高時、すでに人望を失ひしにかかはらず、その先塋の地東勝寺に立籠るや、一族・郎等八百餘人悉く集り来り、枕を竝べて自刃したるは、さすがに鎌倉武士の義烈を偲ばしむ。 當時の武士は、おしなべて剛勇なるうちに、一面文雅の道を辨へ、禮節を守りて優しき言動を残ししもの少なからず。嘗て薩摩守平忠度は、あわただしき都落の折にも、深夜おのが和歌の師藤原俊成の門をたたきて、年ごろ詠み集めたる一巻をあづけ、はじめて心おきなく落ちゆきしが、やがて一谷の戦に箙に収めし秀歌と共に、須磨の渚に花と散り、梶原源太景季は、咲亂れたる梅が枝を箙に挿しそへて、芳名を生田の森に留め、あるひは奥州征伐に白河の關をよぎりては、忽ち懐を能因法師の「秋風」に寄せて、一首の即興に大將頼朝の旗風をたたへたるが如き、以て武辨風流の一端を察すべし。將軍實朝は和歌を藤原定家に學びて特に斯道に長じ、その歌調の雄健、巧に萬葉の古風を存し、歌想の壮烈、よく武夫の氣象を表し、實に奈良時代以後その比を見ざるところなりといはる。執權泰時も和歌風流の道を嗜みて、頗る禮譲に富み、時頼また恬淡にして、永くその高風を慕はる。ついで北條氏の名族實時武州金沢に退居し、稱名寺内に文庫を建てて、和漢の群書を集め、講學の便に供したりしが、その子孫累代學を好み、蓄籍年とともに加り、鎌倉の子弟のここに遊びて經史に親しむもの少なからず、鎌倉武士の風尚はここにもつちかはれたりき。後、實時の後裔貞將の鎌倉の滅亡に殉ずるや、「棄我百年命報公一日恩」との一絶を書し、これを鎧の裏に収めて、最期の義勇を飾りきといふ。 また、盛衰興亡の激烈なる當時の社會は、人々をしておのづから現世の夢幻を感ぜしめしが、さなきだに修羅の巷に出入りして、絶えず悲慘なる實況に直面する武士は、榮枯定めなき人生の無常に感ずるの念もまた頗る強きものあり。かの關東の勇士熊谷直實が敦盛を斬りて發心し、院の武士佐藤憲清が同族の頓死に忽ち世を棄てたるが如き、猛きが中にも情愛深きの事例は、皆これがために外ならず。從ひて宗教の信仰は一般に盛なりしが、特に頼朝は神佛を尊信するの念深く、あるひは東大寺を再建して盛大なる供養を修し、あるひは結構善美を盡くせる鶴岡八幡宮を起してみづから厚くこれを崇敬し、以て部下を率ゐたり。北條氏またその志を繼ぎ、泰時は夙に教えを京都栂尾の僧高辨(明恵)に受け、また貞永式目の劈頭に社寺を修造して祭祀・佛事を勤行すべきことを諭し、時頼その子時宗らは共に熱烈なる禅宗の信者にて、その修養によりて悟道を開き、部下の將士も専念佛道に歸依して、安心立命の境に達するもの少なからず。かくて當時の武士は神佛の信仰によりておのづから敬虔なる信念を養ひたりき。 かくの如く、武士の美風はおほむね源平二氏の養成するところにして、特に頼朝の鼓舞奨勵の間に涵養せらる。これを武士道と稱し、その精神は永く後世に傳はりて、國民道徳の一要素となりぬ。

第十二 大陸との交通 元寇 鎌倉時代より社會の秩序大いに整ひしと共に、支那大陸との關係もまた頗る密接となれり。これより先、支那は、醍醐天皇の御代に唐亡びてより、數多の國に分かれたりしを、村上天皇の朝に宋起りて、これを統一して國勢頗る盛なり。當時遣唐使の制は既に廢れて、國交は絶えたりといへども、彼我商船の往来するものなほ少なからざりしが、鎌倉時代に入りてますます繁くなり行き、宋及び高麗の商船は筑前の博多または薩摩の坊津に来航し、我が商人も彼に赴きて、盛んに貿易を營めり。彼よりは糸類・陶器・銭貨などを輸入し、我よりは米穀の類を輸出して、有無相通じて互いに利益するところ多かりき。 また、王朝以来我が僧侶の片々たる商船に便乗し、萬里の波濤をかして彼の地に渡り、修學するもの絶えざりしが、鎌倉時代に入りていよいよ著しくなりぬ。僧榮西は叡山に學びたる後、入宋して天童山に遊び、歸りて臨濟派の禅宗を傳へ、上下の信望頗る厚く、京都の建仁寺鎌倉の寿福寺の開祖となる。同じく叡山の學僧にして、後、榮西に就きて禅を學びたる道元は、更に天童山に赴き、曹洞禅を傳え来りしが、天性恬淡にして殊に名聞を厭ひ、世塵を避けて閑寂なる越前の永平寺に退隠し、厳肅なる制規を立てて僧侶を養成せり。またこの頃、禅僧の彼より来朝せるものも少からす。北條時頼は宋の僧道隆を鎌倉に招きて建長寺を建て、時宗も同じく祖元を請じて圓覺寺の開祖となしぬ。後世この建長・圓覺の二寺に、寿福・浄智・浄妙の諸寺を合はせて、鎌倉五山と呼び、永く禅宗の重鎭たりき。 かく僧侶の往来につれて、産業の新たに起れるものあり。榮西の宗より歸るや、茶の種子をもたらしてこれを栽培し、喫茶養生記を著してその効能を述べ、世人に茶の飲用を勸めたり。後、明恵更にこれを栂尾に移植せしより、やうやく諸國に広まり、製茶の術もしだいに進みぬ。また尾張の人加藤景正は道元に從ひて入宋し、製陶の術を究めて歸朝し瀬戸に窯業を開き、頗る精巧なる品(春慶の稱あり)を作りしが、子孫にも名匠輩出し、その製品廣く行はるるに及びて、遂に陶器を呼びて瀬戸物というに至れり。かくて工業の興るにつれて商業もまた發達し、各地の商估鎌倉に集り来りて、七座の市場さへ設けられ、また海舶輻輳の地には問丸と稱するものありて、諸國の貨物を取り扱ひたれば、問屋の制も既にはじまりき。 かくの如く彼我の交通は我が經濟・文化の進運助くるところ少なからざりしが、ここにはしなくも彼の来寇にあひて、我の剛勇をあらはすべき時機に際會しぬ。これより先、我が平安時代の末葉には、宗の國威やうやく衰へ、今の満州地方に遼・金などの強國を起りしが、更に蒙古國の勃興を見るに至れり。蒙古族は宋の北方に起りて、もと甚だ微々たるものなりしが、鎌倉時代の初成吉思汗の立つに及びて大いに勢を得、その後しきりに四方を攻略し、遂に金(當時既に遼を併せたり)を滅して支那北半の地を併せ、更に雲南・西蔵及び安南地方を平定し、西は遠く歐州に侵入してモスコー・ハンガリー・ポーランドなどを蹂躙するに至りぬ。かくて第九十代亀山天皇の朝、世祖忽必烈の即位するや南は宋を抑へて都を大都(北平)に奠め、東は高麗を從へて朝鮮半島を略し、その勢に乗じて我をも臣服せしめんとし、文永五年高麗王を介して國書を我に送り来れり。されどその國書の無禮なるより、朝議これに返報せざるに決せり。 然るに翌年蒙古の使者再び来るに及び、朝廷答書案を鎌倉に下してこれを議せしめたまふ。ときに時宗若年にして執權たりしが、生来頗る豪膽なる人なれば、毫も彼の威勢に懼れず、斷乎としてこれを拒絶し、その無禮を責めて使者を逐還し、鎭西の將士に命じてますます防備を厳にせしめたり。 蒙古はやがて國號を建てて元と稱し、しばしば使いを以て、我に服從を促ししに、いずれも返報を得ざりしかば、元主大いに怒りて、第九十一代後宇多天皇の文永十一年十月、忻都・洪茶丘らを將として大軍を率ゐて入冦せしめたり。その戦艦九百餘艘、まず對馬・壱岐を襲ひて虐殺をほしいままにし、進みて筑前に迫る。少弐・菊池・大友の諸軍これを博多灣頭に迎戦せしが、我は武器・戦術に於て頗る不利なりしかども、奮闘してやうやくこれを退けたり。たまたま暴風俄に興りて、敵の艦隊はために大損害を蒙り、辛うじて逃れ去りぬ。 元はこの失敗に懲りず、杜世忠らをしてまた國書を上らしめしが、時宗これを龍口に斬りて我が強硬なる態度を示し、さらに北條實政を九州に遣はして防備の充實をはからしむ。すなはち前役の經験により、極力敵の上陸を阻止せんがために、防塁を博多沿岸一帯に築かしめて再度の来寇に備えしのみならず、なほ彼の再来に先だち、かへつて我より進撃せんことをはかりて、着々遠征の準備を進め、老幼・婦女に至るまで、しきりに義憤を發して奮起するものあり、國民の意氣大いに揚りぬ。 かかる間に、元ははやくも宋を滅して全く支那を統一し、その餘威に乗じて一擧に我が國を從へんとし、紀元一千九百四十一年弘安四年、東路・江南の両軍を發して来り攻めしむ。忻都・洪茶丘ら東路軍四萬に將とし、まず發して博多に迫りしが、我が勇將河野通有・菊池武房・竹崎季長ら防塁によりて防戦し、敵兵を上陸せしめざるうへに、闇夜軽舸を飛ばし、しばしば敵艦を襲ひて彼の膽を寒からしむ。然るに范文虎の率ゐる江南軍十餘萬は、期に遅れて七月やうやく来着し、まさに東路軍と合して我に迫らんとせしが、たまたま晦日の夜半より吹きすさめる神風に、怒濤天を巻きて、幾千の艨艟秋の木の葉と散りみだれ、覆没するもの算なく、僅かに肥前の鷹島に敗残せる兵士も皆我が軍に捕獲せられたり。 かくて歐亞の天地を席巻して、向ふところかって敵なかりし元主も、さすがこの戦敗に懲りて、遂に我が國を不征國のうちに數へ、一指をだに我が土に染め得ざりしは、さきに泰時・時頼が善政を布きて人心を懷け、加ふるに勤倹貯蓄に力めて財政を豊富ならしめしより、一旦この國難に逢ふや鎌倉武士は忽ちその忠勇をあらはし、またよく莫大の軍費を支えたりしがためなり。されどこの勝利は主として擧國一致熱烈なる愛國の精神にまつところ多し。かしこくも亀山上皇は宸筆の願文を伊勢の神宮にささげ、御身を以て國難に代わらんことを祈りたまひ、時宗また一身を抛ちてこの難局に善處し、將士の奮起は素より、國民悉く義憤の精神を發揮し、庶民は兵食・武具の運搬に力めてしきりに勇士を後援し、全國の社寺は敵國降伏の熱祷をささぐるなど、かかる愛國精神の發揮が、やがてこの未曾有の國難をはらひ、國威を宇内に發揚せし所以なり。しかしてこの大勝が、わが國民の自覺を促し、神國の観念を強めたるの効すこぶる大なりとすべし。

第十三 鎌倉時代の文化 鎌倉時代は一般に武勇を尚びたるより、まづこれに關連する工藝・美術の發達を見たり。すなはち源平の抗争以来戦争うち續きて、刀剣の需要盛になりゆき、武士道の振興するにつれて鍛刀の術もいよいよ進歩せり。また京都に於ては、後鳥羽上皇大いに刀剣を好みたまひ、諸國の刀工を召して番鍛冶を定め、毎月鍛錬せしめたまひしより、その技ますます進みて、京都の粟田口吉光をはじめ名工諸國に輩出し、下りて鎌倉に岡崎正宗出でて特に精妙を極め、日本刀の誉は海外にまで轟けり。なほ明珍家は代々精巧なる甲冑を製作して名を揚げ、永く子孫に及べり。 佛教美術は前代より引續きて、鎌倉大佛の如き端麗なる金銅佛の傑作もあらわれしが、一般に勇壮なる木造の彫刻多く、よく當時の剛健なる特色を發揮せり。かの平安時代に有名なる佛工定朝の裔に運慶及びその子湛慶らの名手あり、當代の初に出でて、四天王・二王などの像を刻みしが、その雄渾なる刀法を以て巧に活動の諸相を寫ししは、前代の優美纎麗なる手法とは全く趣を異にしぬ。 また戦争を寫せる繪巻は、軍記物と伴なひてあらわれ、勇壮を喜ぶ當時の人心に歓迎せられしが、これらの繪畫は、おほむね前代より發達せる大和繪によりて、色彩豊かに、姿態も細かに寫し出されたり。中にも住吉慶忍の筆と傳ふる平治物語繪巻及び藤原長隆の蒙古襲繪詞などはその白眉と稱せらる。殊に藤原信實は寫生に長じて、後世肖像畫家の祖と仰がれ、なお佛教の隆盛につれて、社寺の縁起、高僧の傳記を主題とせる繪巻物も頗る流行せり。 この時代に新に傳来して、おもに上流社會に行はれし禅宗は、種々の方面に多大の影響を與へたり。その寺院の建築は、宏壮なる山門・佛殿・法堂など一直線に相竝びて建てられ、殿堂の床には甃を敷きつめ、柱楹多くは白木作り、頗る質實なる構造にして、全く宋風の模倣なれば、從来の唐風に基づきて建てられたる寺院とは著しく様式を別にして、一異彩を放ちぬ。また禅僧の簡素なる生活は、武士の剛健なる氣象に合したるうへに、座禅を組みて静慮開悟するの宗風が、よく精神の鍛錬に適するより、大いに武士の間に行はる。かの時頼の大度、時宗の膽勇なども、この修養に得るところ少なからざりき。 かく新しき宗教の傳はれるとともに、一方平安時代の宗教は、多くは加持・祈祷によりて現世の幸福を求め、遂には騒亂を事としてやうやく弊害を生ぜしのみならず、その説くところ高遠に過ぎて、かへつて通俗に悟り難かり傾あり。然るに他方興亡定なき世相に對せる當時の人々は、むしろ未来の安樂を希ふ念強くなり行きしかば、數多の善知識出でて、平易なる教えを以て未来を力説し、専ら庶衆の安心を得しむるに努めたり。ここに於て當代の宗教は、大いに前代と趣を異にするに至りぬ。法然は、平安時代の末より、浄土宗を開き、地力の難行を捨てて、専修念佛によりて極樂浄土に往生せんことを勸め、深く人心に感動を與へて、數多の弟子・信徒を得たりき。中にもその高弟親鸞はさらに眞宗(一向宗)を創め、從来行われ来りし一切の祈祷を退け、また自ら僧侶の戒律を捨てて肉食妻帯の生活をなし、専ら他力に頼りて彌陀の一向信念を高唱し、盛に南無彌陀佛の六字の名號を唱へしめたり。しかしてこの両宗は、ともに他宗の排撃に逢ひて、開祖のしばしば地方に流さるることをありしは、かへつて廣く諸國に流布するの機縁を作りぬ。殊に僧一遍は浄土宗より出でて別に時宗を開き、みづから諸國を遊行して専心念佛を勸め、遊行上人の稱を得たる程にて、普く地方を勸化するの効頗る大なりき。また僧日蓮は天臺宗より出でて新たに法華宗(日蓮宗)を開き、まづ立正安國論を著し、これを執權時頼に獻じて盛に法華經の功徳を述べ、日夜巷に立ちて熱烈に法を説き、南無妙法蓮華經の題目唱道によりて即身成佛を得よと教へたり。されど激烈に他宗を誹毀するより、往々世の迫害を受け、伊豆・佐渡などに流竄せらるることありしに、日蓮毫もこの法難に屈せず、ますます奮闘傳道に力めて、いたく人心を鼓舞し、甚大なる感化を社會に與へぬ。かくて、王朝の宗教がとかく上流社會に行はれて、貴族的佛教の傾向ありしに比し、これらの新佛教は、いづれも宗教の形式を顧みずして信仰を力説し、簡易なる教旨を以て當時の民心に適應し、この後民衆の間に弘通するに至りしは、また當代の特色なるべし。 かかる時勢の變遷にもかかはらず、和歌はなほ京都に於て常に盛んに行はれ、殊に後鳥羽上皇和歌を巧みにしたまひ、歌人としては、有名なる藤原俊成・定家の父子、同じく家隆、僧西行などあり。中にも定家は歌學を大成して永く歌聖と仰がれ、家隆と共に勅を奉じて新古今集を撰せしが、その歌調の流麗にして歌想の巧緻なる、實に勅撰歌集中の白眉と稱せらる。また定家が、いはゆる百人一首を書しておのが小倉の山荘に貼れりと傳うるものは、今に小倉色紙として世に珍重せらる。なほ西行の歌が寂びたるうちに情味に富める、實朝の詠が古雅にして雄渾なる、それぞれ趣を異にして、以て當代の盛況を偲ばしむ。されど後には歌學の家相分かれて、互いにその家勢を争い、歌風は唯舊套を墨守するに至りて流弊ようやく加り、歌道はいよいよ振るはざりき。 當時の文學に特に異彩を放ちて、新しき趣を加えたるは軍記物なり。すなわち尚武の世風につれて、源平以来の盛衰興亡を題材として著せる保元物語・平治物語・平家物語・源平盛衰記の類、ひろく人々に愛読せられしが、これらはいづれも明快なる假名交り文を以て如實に戦闘の様を寫し、その間に巧みに崇高なる佛語を交へ用ひ・離合生死の人情を説きて大いに人々を感激せしめたり。殊に平家物語は、これを琵琶に弾じて歌はれしより、ますます世に行はれ、壮烈なるうちに優しき風流・韻事を傳へ、人生の悲哀を感ぜしむるところもまた少なからざりき。 されば當代の文學も、前代の貴族階級より転じて、武士の間に移り、やうやく庶民の間に普及するの傾向を帯び来れり。しかして庶民の教育を受くるものは多く寺院に行き、僧侶に就きて読書習字などを學びしより、いはゆる寺子屋の源も開かれ、またわが國修身書の鼻祖といはるる十訓抄などの教訓書も、はじめて世に出でたり。從ひて女訓の類もようやくあらはれ、女子の風も、王朝の如き優柔・放縦のならひを去り、理智に富める尼將軍、または社會の救濟に志深き執權時宗の妻覺山尼をはじめ、貞烈なる婦女も多くあらはれて、その美風を發揮するに至りぬ。

第十四 朝廷と幕府との關係 建武の中興 鎌倉幕府の政治はおほむね行渡り、社會の秩序も整ひたりといへども、これを國體の上より見れば、素より一種の變態たり。蓋し萬世一系の天皇御みずから國家統治の大權を行ひたまふは、實に我が建國の大本なり。然るに時勢の變遷は、政權遂に武家の手に移り、幕府國政を執るの變態を生ぜしが、頼朝以来源氏の將軍は代々朝廷を尊崇し、常に恭順を失はざりしにより、公幕の間極めてなだらかなりき。されど源氏の滅後、北條氏幼主を擁して執權となるに及び、しばしば王命に從はず、ここに由々しき事變を生ずるに至りぬ。時に院政を開きたまへる後鳥羽上皇は英武の御氣象にましまし、夙に政權を朝廷に回復せんとの御志あり、院中に北面・西面の武士を置きて、まま關東の家人を以てこれに任じ、また刀剣を鍛へ、武藝を講習せしめて、機會の到るを待ちたまひしに、執權義時ますます不遜なるより、これを憤りたまひて、いよいよ鎌倉追討の御志を決したまへり。 第八十五代仲恭天皇の承久三年、義時追悼の院宣下るや、政子宿將を簾下に集め、ねんごろに頼朝の恩澤を説きて去就を決せしめしが、諸將みな感激して、一死舊恩に報いんことを誓へり。泰時は臣子の大義を説きて父義時を諫め、速やかに闕下に伏して朝命を奉ずべきことを勸めたれども、聴かれず。義時すなはち大江広元らの議により、泰時・時房(義時の弟)らをして大軍を率ゐて東海・東山・北陸の三道より直ちに京都に向はしむ。官軍これを大井戸・洲股・宇治などの要所に防ぎしも、時未だ到らず、將帥またその人を得ざりしより、いずれも敗走し、賊軍進みて京都を犯せり。 これより義時は、上皇の御謀に参與せし卿相を捕へ、鎌倉に護送する途にこれを慘殺し、また首謀者たる關東武士を斬りしは素より、その頑是なき幼兒までをも悉く虐殺せしは、さすがに人々の涙をそそりぬ。殊におそれ多くも天皇を廢して第八十六代後堀河天皇を立てたてまつり、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を遠島に遷してたてまつれり。上皇はいづれも長き憂き年月を孤島に送らせたまひ、朝な夕な煙波遙かに都の空にあこがれたまひながら、崩御せしが如き、實に開闢以来未曾有の大事變にして、北條氏の大逆無道罪死を容れずといふべし。 この時北條氏は、勤王の朝臣・武士の所領三千餘箇所を没収し、有功の將士をその地頭に任じてこれを新補地頭といひ、從前のいわゆる本補地頭に對して、特に優遇を加へたり。また亂後、泰時・時房を六波羅に留めて京畿を鎭壓せしめしより、南北の両六波羅府はじめて開かれ、爾来常にその一族をその探題に補して近畿・西國の政治を行はしめたれば、北條氏の根柢いよいよ固く、その權力ますます盛大となりぬ。ここに於いて六波羅探題をしてひそかに朝堂を監視せしめ、おそれ多くも皇位繼承の御事にさへ容喙し、遂には持明院(後深草天皇の御系統にて伏見上皇の京都持明院に閑居したまふよりはじまる)大覺寺(亀山天皇の御系統にて、御宇多上皇の嵯峨大覺寺に入りたまふよりはじまる)の両統更立の議を立て、力めて朝廷の權力を殺ぎ、また五攝家を分立して、かはるがはる攝關の職に任ぜらるることとして、藤原氏の權勢を割き、なほ鎌倉の將軍は常に宮家及び攝家より幼主を迎へ、その壮年に達するや、事に託してこれを廢黜するなど、百方策を立てて専ら自家勢力の維持をはかりたりき。 されど北條氏の實力はやうやく衰へはじめ、殊に元寇に要せる莫大なる軍費の支辨に、殆ど蓄積せる財政を盡ししのみならず、その後も社寺の寄進・將士の恩賞に國費多く、幕府の實力はこれがために一大打撃を受けたり。從ひて鎌倉の家人もその負担重きがうへに、戦勝の餘勢おのづから奢侈の風を生じ、所領の賣買・質入など盛んに行はれ、遂には窮乏の極みに陷りたれば、幕府はこれを救はんがために徳政の令を發して、從来賣買質入の田畠その値を出さずして本主に返さしむるに至り、頗る經濟界の不安をかもしぬ。かくてこの國力糜爛の際なるにかかわらず、執權高時暗愚にして、更に政治を顧みず、あるひは田樂に耽り、あるひは闘犬の技を好み、日夜宴遊を事として、驕奢を極めたり。ここに於て權臣長崎高資これに乗じて威福をほしいままにし、綱紀ますます紊亂して、反亂地方に起り、民心しだいに幕府を離れんとす。 時に京都には、第九十六代後醍醐天皇大覺寺統より出でて皇位に即きたまひしが、天資英邁おはしまし、儒佛の學に精通したまふ。ここに於いて御父御宇多法皇は院政を返したまひ、天皇記録所を開きて親しく大政をみそなはし、北畠親房・萬里小路宣房・吉田定房らの賢臣を擧用して、鋭意政治の革新をはかりたまへり。すなわち検非違使廳に命じて富裕の輩の買占めたる米穀を點検して、更に價を定めてこれを賣らしめ、また諸國に設けたる新關を停止して交通の煩を除き、なほ朝餉の御膳部を節して窮民に施行したまへるなど、朝廷の恩威竝び行はれて、綱紀頗る伸張したれば、天皇はこの機政權を朝廷に回復し、以て後鳥羽上皇の御遺志を完うせんとはかりたまへり。然るに北條氏は依然皇位の繼承に干渉して、専横を極むるより、天皇大いに憤りたまひて、いよいよこれを伐たんとしたまふ。 ここに於いて天皇はひそかに親近の朝臣らを召して、討幕の密議をこらされ、日野資朝・同俊基らをして近畿・東國を微行して、諸國の武士を徴さしめたまひ、また護良(尊雲)・宗良(尊澄)両親王を相ついで天臺座主に補して南都・北嶺の僧兵を結ばしめ、着々謀を進めたまひしが、事早くも幕府の探知するところとなり、資朝は捕へられて佐渡に流され、俊基は再度鎌倉に下されて、後、遂に斬らる。高時更に二階堂貞藤(道蘊)をして大兵を率ゐて西上せしめ、承久の例にならひ天皇の廢立を決行せんとす。貞藤武家執權の責務を説きてその不臣の企てを諫めたれども聴かれず。天皇はその計畫を察知したまひ、夜にまぎれて俄に宮中を出て、笠置山に行幸して近國の義兵を募りたまひしに、楠木正成河内の赤坂城に據りてこれに應じ奉りしをはじめとし、勤王の兵召に應じて来り集り、笠置の衆徒と共に力を合はせて行宮を護衞せり。然るに賊の大軍来り攻むるに及びて、笠置遂に陷り、天皇は藤房以下僅かに二三の朝臣を從へて、圍を脱し岩の枕草の茵ただ夢路をたどる御心地にて、赤坂さして落ちゆきたまひしに、途に賊兵のためにとらはれて、遂に隠岐に遷されたまふ。備前の豪族兒島高徳聖駕を播遷の御途に要して、これを迎へたてまつらんとして、果たさざりしことは、桜樹の題詩にその赤心をあらはせる勤王美談として世に頌はる。この時皇子以下勤王の卿相多く斬流せられはまひしが、天皇は隠岐の行宮に神器を奉じて、一に時機の到来を待ちたまへり。 かかる間に正成は金剛山の險に據り、さい爾たる千早の孤城に雲霞の如き鎌倉の大勢を引き寄せ、あらゆる奇計を以てこれを悩まして、おのづから四方の義氣を鼓舞し、これに乗じて護良親王は吉野より令旨を諸國に發して、勤王の兵を募りたまへり。ここに於て、勤王の軍所在竝び起りて、その勢やうやく盛なれば、天皇六條忠顯らを随へてひそかに隠岐を遁れ、伯耆に渡りたまひてその地の豪族名和長年に奉ぜられ、船上山の行在所に於て、義兵を召して東上の策を立てたまふ。かくて護良親王のかねての遠大なる御計畫は着々進捗し、幕府の海内に於ける政權の要地は、相前後して官軍のために悉く討滅されたり。すなはち九州には肥後の菊池武時博多の探題北條英時を攻めて勤王の魁をなししより、鎭西の諸豪おひおひこれに風動せし間に、伊豫の土居通増・得能通綱らをはじめ、四國の官軍は専ら長門の探題北條時直に向ひ、播磨の赤松則村は六條忠顯と共に山陰・山陽の義兵を合はせて六波羅を衝きしに、たまたま關東も討手として西上せる足利尊氏は俄に歸順して、共に六波羅を攻め、探題北條時益・仲時はいづれも戦死して、六波羅府ここに陷りぬ。更に東國にては、新田義貞ら上州より南下し、極樂寺坂・稲村崎の切所を破りて鎌倉に打入りしかば、高時以下一族・郎從東勝寺に入りて悉く自刃し、間もなく博多長門探題も亡びて、僅かに一箇月を出でざるうちに、各方面共に鎭定し、鎌倉幕府全く廢滅に歸せり。時に紀元一千九百九十三年元弘三年五月の末つ方なりき。 六波羅陷落の報上聞に達するや、天皇直ちに船上山の行在を發して、歸洛の途に就きたまふ。聖駕兵庫に到りてはじめて關東の捷報を聞召し、またここに奉迎せる楠木正成らを先駆として京都に入りたまひ、巡狩還幸儀を整へて皇宮に還御せり。ここに於いていよいよ公武一統して、後鳥羽上皇の御遺志はじめて達せられ、中興の新政大いに行はる。天皇まづ記録所に臨みて萬機を親裁したまひ、事必ずしも先例を追ひたまはず、「今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべし。」とて、新儀の勅裁頗る多かりき。また新に雑訴決斷所を設け、その寄人を公卿・諸將の中より選出して、五畿・七道の政務を分掌せしめ、武者所を置きて、新田義貞をその頭人として兵士を監督せしめらる。なほはやくよりを恩賞方を置きて復古の大業に關するものの論功行賞を遂げ、中興の主勲護良親王を征夷大將軍に任じて軍事を總べしめ、地方には公家國司の外勤王の諸將を各々守護に任じ、親王を以てこれを統括せしめ、以て各方面を鎭撫せしめたまへり。なほ久しく廢絶せる大内裏を造營せしめ、また王朝以来鑄造の絶えたる貨幣を新たに發行せしめらるるなど、建武中興の宏業一時大いに擧りぬ。 かくて積年幕府が掌握せし勢權初めて朝廷に返り、再び延喜・天暦の王政に復せしも、今や時勢はいたく王朝と異なり、武家の中心は既に倒れきとはいへ、社會の勢力は依然として武士の占しむるところなれば、かかる社會の情態を一新して武家政治の根本を抜くは、とうてい短日月の間に能くするところにあらず。殊にかかる革新の際には、とかく紛糾を重ぬるを常とすれば、朝臣の失政、將士の不平と相まちて、公武互いに相きしり、頗る雑然たる間に、かねて野心を包蔵せる尊氏はこれに乗じて事を擧げ、まま大義に明らかならざる武士これに靡きたれば、海内鼎沸してまた収拾すべからず。中興の大業忽ちにして挫折するに至りしは、誠に惜しむべく、歎ずべし。 足利氏はもと源氏の宗家に出でて、北條氏の下風に立つを潔しとせず、尊氏に至りて機を見て源氏の幕府を再興して父祖以来の宿志を果さんとす。護良親王は早くもその野心を看破したまひ、正成・義貞・長年らと謀りて天皇の綸旨を請ひこれを除かんとしたまひしに、かへつて尊氏の讒奏にあひ、親王はその犠牲となりて鎌倉に下り、東光寺に幽閉せられたまひ、後、遂に尊氏の弟直義のために弑せられたまへり。尊氏ほしいままに東下して、鎌倉に據りて反旗をひるがへし、新政を喜ばざる將士を誘致して勢猖獗を極め、追討の官軍を敗りて西上す。然るにまた正成・義貞らに討たれて、はるかに九州に敗走したるが、多々良濱辺の戦いに一たび菊池武敏を破りしより、その勢威鎭西を風靡し、海陸の大軍を率ゐて再び東上す。正成・義貞らこれを湊川に邀撃せしかど、衆寡敵せず、正成終日の奮闘に刀折れ矢盡きて遂に壮烈なる忠死を遂げ、義貞また敗れて京都に退きぬ。尊氏よりて直ちに京都を犯し、六條忠顯・名和長年ら勤王の將士しばしばこれと戦いて討死せり。ここに於て紀元一千九百九十六年(延元元年)、後醍醐天皇神器を奉じて吉野に遷幸し、義貞は勅命を承け皇太子恒良親王を奉じて北國に赴き、鋭意經略に力めしも、挽回の志成らずして遂に戦死し、かねて奥羽を經營せる北畠顯家は遥かに兵を率いて上洛し、しきりに賊軍に當たりしかど、これまた僅かに二十一歳の壮齢を以て赫赫たる功績を残して、泉州石津原に討死し、王師とかく振るはざる間に、天皇はからず御病を得、かしこくも悲痛なる御遺詔を留め、御劔を按じて吉野の行宮に崩御せり。 これより全國の武士官賊に分かれて相争ひ、海内鼎沸して永年の大亂となりしが、その間朝威とかく振るはず、吉野の行宮も時には大和の賀名生・河内の天野などに遷り、常に賊軍の壓迫を蒙られき。されど第九十七代後村上・第九十八代長慶・第九十九代後亀山の三天皇は、先帝の御遺詔を奉じて堅忍不抜の御意氣を以て萬難に當たり、常に王政の興復に努めさせたまひ、諸皇子またその天意を體して、宗良親王は關東に、懐良親王は鎭西に、各々御身を挺して王師を指揮したまふ。加ふるに、勤王の諸將は全く一身一家の利害を捨てて孤忠を守り、楠木正行・北畠親房菊池武光など、いずれも父子・兄弟相繼て赤誠を致し、いかなる逆境に臨みても、毫もその節を變ぜず、一意天歩の艱難をたすけたてまつりて、以てよく數十年の間、頽勢を支へ得たりき。 然るに後亀山天皇は天下の兵亂久しきにわたりて國民の塗炭に苦しむ憐れみたまひ、折しも足利義満がひたすら恭順の態度を以て降を請ひたてまつるに及び、天皇これを許したまひて京都に還幸し、はじめて神器を第百代後小松天皇に傳へたまふ。ときに紀元二千五十二年(元中九年)にして、世の浪風もここに静まり、萬民新たに聖運の隆昌を仰ぐに至りぬ。 第十五 室町幕府 足利尊氏はもと頼朝の跡にならひて鎌倉に據りて武家政治を開かんとする志なりしかども、吉野の朝廷に對抗するため自ら京地を去る能わず、遂に根據を京都に定め、鎌倉にはその子基氏を遣はし、關東管領として東國を鎭撫せしめたり。尊氏よりて政道の要を二階堂是圓ら有識の士に諮問し、建武式目十七條を定めて施政の基準となし、諸職を補任して制度もほぼ整ひぬ。されど公家との抗争に虚日なかりしうへに、その家風も亂れて骨肉相食み、尊氏・義詮父子は常に直義と善からず、部下の諸將も彼に走りこれに就きて互いに相戦ひ、紛擾絶間なかりしより、政綱未だ完備するに至らざりき。 然るに義詮の子義満年僅かに十歳にして家を嗣ぐや、その一族細川頼之義詮の遺嘱を受けてこれを補佐す。頼之は人となり謹厳にして才略あり、戒法三箇條を定めて近侍を戒め、また清廉の士を擧用して義満の師傅とし、孜孜としてこれを輔導したれば、足利氏の政綱やうやく完備しぬ。既にして義満、後亀山天皇の還幸を請ひたてまつりて多年の紛亂を一定し、はじめて征夷大將軍として幕府を室町に開き、これより大いに勢威を揚ぐるに至れり。 室町幕府の組織はおほむね鎌倉幕府の制度を襲ひ、多少の差異ありしに過ぎず。まづ將軍のもとに、さきの執權を廢して管領を置き、足利氏の元勲斯波・細川・畠山の三家かはるがはるこれに任ぜられ、三管領と呼ばれて幕政の首脳となる。その下に從来の政所・問注所・侍所の諸機關あれども、その所管はやや前と異なり、政所は財政・問注所は記録を掌りて共に昔日の權勢なく、侍所は軍事・警察を掌りて獨り勢力を占め、山名・一色・赤松・京極の四家その所司に任ぜられ、これを四職と稱せり。また地方にありては、鎌倉に於ける關東管領、恰も鎌倉時代の六波羅探題に相當し、最も要職にして威望を高かりき。その他鎭西・奥州の辺地にそれぞれ探題を置き、一般各地に守護・地頭を配せしは全く前代と異ならず。 かくて幕府の制度やうやく整頓するとともに、義満驕慢なる強族を誅鋤して大いに幕威を張れり。蓋し尊氏は諸將の力に頼りて武家政治再興の素志を遂げんとし、濫りに多大の領土を部將に與へ、力めて人心を収攬せり。ここに於て部將をこれになれて、ややもすれば強勢にまかせて足利氏に反抗するものありしも、これを抑制すること能はざりしに、義満に至りて能くこれを果せり。すなはち前には、山名氏清の一族が十一箇國の大封を領有して專恣なりしを討滅し、後には大内義弘がその功勞と富強とを恃みてやうやく驕傲なりしを除き、以て海内諸將の膽を寒からしめたり。また關東管領氏満・満兼の父子勢威を得るに從ひてとかく幕府の節度に從はず、ひそかに大内氏と通じたりしが、義満またこれを抑へて、幕府の威望いよいよ加りぬ。 かくて義満よろづ意の如くなるより、心やうやく驕りて豪奢に流れ、僣上の言動少なからず。義満は始より武家の家格を破りて朝廷の高官を拝せしが、將軍職をその子義持に譲るに及び、平清盛の先例を尋ねて、特に請ひて太政大臣に昇る。その入朝する毎に、公卿以下みな階を下り蹲踞してこれを迎へ、世に義満を尊稱して公方(もと朝家の義)といへり。義満のち官を辞し、落飾して道義と稱し、その叡山に上るや行列を上皇御幸の儀衞に擬し、また相國寺に七層の高塔を建て、その供養を行ふに當たりては、朝廷の御齋會に準じ、關白以下卿相をして扈從せしむるなど、驕慢もまた極まれり。殊に生涯華奢の限りを盡し、嘗ては室町邸に天下の名花を集め植ゑて花の御所とうたはれ、後、さらに壮麗なる別業を北山に營めり。いわゆる三層の金閣は、柱障・四壁・天井に至るまで、すべて金箔を押して光輝燦爛眼を驚かし、その林泉また幽邃の趣を極め、庭に麋鹿を放ちて鹿苑院の稱あり。當時多年亂離の後を承けて上下の疲弊の際にかかはらず、諸大名に課してこの大工事を起し、ために百萬貫の巨額を投じ、なほ諸寺建立のためにしきりに段銭を諸國に徴し、苛斂誅求、毫も國民の苦痛を顧みざりき。 義満についで義持・義量將軍職に就きしが、批政更に改らず、義量は早く薨じて嗣なかりしより義持の弟僧義圓還俗して職を嗣げり。これを將軍義教とす。時に關東管領足利持氏驕慢にしてみづから將軍職を望み、義教を軽侮してその命を奉ぜず。執事上杉憲實しばしば諫むれども聴かれず、かへつて忌まれて持氏のために討たれれんとせしかば、遂に上州に走りてこれを幕府に訴ふ。義教性剛毅にして夙に肅正の志あり、嘗て富士遊覽に託して諸將を率ゐて東下し、暗に管領家を威壓せしが、今や憲實を助けて持氏を討滅し(永享の亂)、やうやく他の強梁なる諸將を除き、一意幕威の振張をはかりしに、業未だ半ならずして赤松満祐のために害せらる(嘉吉の變)。ここに於いて管領細川持之は山名持豊(宗全)らの諸將をして満祐をその本領播磨に討たしめてこれを誅し、戦功によりて持豊らに赤松氏の舊領を與えしかば、これより山名氏再び世に顯はるに至れり。 義教逆臣の手に殪れてより、幕府の威武いよいよ衰へてまた挽回すべからず。もと足利氏は、大封を領有して強勢なる大大名を幕府の要職に据ゑて、政權をも併せ有せしめたれば、權臣跋扈して遂にこれを抑ふること能わざるに至りしは、實に必至の趨勢なり。加ふるに、武家が京都に居を占めて日夜公卿・僧侶と交流することとて、その環境はおのづから武人の特質を消磨せずんば已まず。殊に義満以来驕奢に耽りて國用多く、その財政の破綻はかの大名制馭法の拙劣と相待ちて、その弊はまさに將軍義政に至りて極まりぬ。 義政年僅かに九歳にして家を嗣ぎ、程なく征夷大將軍に任ぜられ、榮華の裏に育ちて得ん天下の治亂を顧みず、後、夫人日野富子らと共に、日夜驕奢遊宴を事とせり。從ひて嬖臣用ひられて批政百出し、功あるものややもすれば罰せられ、罪あるもの、かへつて賞にあづかることありしかば、當時「勘當に罪なく、赦免に忠なし。」との諺ありき。加ふるに、比年天災ありて五穀實らざるがうへに、悪疫流行して道路に斃死するもの多く、都下最も酸鼻を極めたるに、義政毫もこれを意とせず、室町第を修築して壮麗を極めたれば、第百二代後花園天皇深く叡慮を悩ましたまひ、御製の詩 賤民争採首陽薇、處處閉爐鎖竹扉、詩興吟酸春二月、満城紅緑為誰肥 を賜ひて義政を諷刺したまひしかば、さすがに義政も大いに恐懼し、ために暫く工役を停めたり。されど華奢豪遊の風なほやまず、あるひは糺河原の勸進能に、あるひは大原の花見に、行粧華美の限を盡くし、府庫頗る缺乏するに至れり。ここに於いて月に數回の倉役(質屋税)を課し、また前後十數度徳政の令を發して幕府の債務をさへ破棄するなど、暴政至らざるなく、諸國の領主またこれにならひて段銭・棟別銭など種々の税目によりて重税を課し、みづから奢侈に耽りしより、人民塗炭の苦に堪へず、處處に一揆を起こして掠奪をほしいままにするに至り、海内やうやく騒擾せり。 かかる間に大亂の禍根はやうやくきざし、足利氏の家督争を動機としていよいよ爆發し、當時最も權勢ある管領家細川勝元と四識家山名宗全とを黨首とし、海内の將士おのづから二派に分れて互に干戈を交へたり(應仁の大亂)。時に両氏の徴集に應じて京都に来集せる東(勝元)・西(宗全)両軍は、すべて二十餘萬の大衆に上りしも、いづれも將士に闘志なく、勝敗容易に決すべくもあらず。戦亂は紀元二千百二十七年第百三代後土御門天皇の應仁元年より文明九年に至るまで、前後十一箇年の久しきにわたり、公卿・武士の邸宅は素より、社寺の兵燹にかかりしもの甚だ多く、嘗て萬代を期せし花の都も今や蕭條たる一面の焦土と化しぬ。 かくて天下の事日にますます非にして將軍もはや如何ともすること能わず、義政これより一切の政務を放棄し、東山に別第を營み、ここに閑居して優遊自適を事とせり。第は山に倚り、瀟洒たる十數宇の殿閣數寄をこらせる園池に臨み風流いはんかたなし。義政ここに和漢の書畫・骨董を集めて愛翫し、茶會・聞香・立花などの風流・韻事を樂しみて、晏然として日を送りたれば、財政はますます窮乏し、人心いよいよ離畔して、幕府の威令毫も行はれず、社會の秩序を全く紊るるに至りぬ。

第十六 支那および朝鮮との交通 室町時代内治の弛張は、また當代の外交に關係するところ少なからず。先の弘安の役は一時彼我の交通を中絶せしめたるが、てき估の通商はなほ常に行はれ、殊に邦人の海事思想は外寇の刺激によりてかへつて啓發せられ、吉野朝廷の時代に及び、國内の騒亂するにつれて志を得ざるものは、海外にその驥足を伸ばさんとせり。中にも九州・瀬戸内海などの沿岸の住民は夙に航海に巧みなるより、しきりに支那・朝鮮地方に渡りて貿易の利を収めんとす。足利尊氏も京都に天龍寺を建つるに當り、その費用を補はんがために商船を元に遣わししが、爾来例となりて、毎年商船を送りて彼と貿易を營み、これを天龍寺船と稱しぬ。 これら勇敢なる西國邊民の海外に渡航するものは、彼の政府が俄に海禁令を布きて貿易を許さざるや、大いに怒りて忽ち奮起し、まま焚掠をも行ひ、その勇猛當たるべからざるものあり、彼の國人頗るこれを恐れたり。既にして朱元璋元を滅して明の太祖となり、やがて使を太宰府に送り来りて海寇を禁ぜんことを請ふ。時の西征將軍懷良親王、その書辞の無禮なるを責めてこれを却けたまひ、その後もしばしば彼の威嚇に屈せず、名分を固持して毫も國威を辱しめたまはざりき。然るに足利義満は、應永八年、商人肥富を僧祖阿と共に明に遣はして通交を求めしより、彼我の國交再び開かれたりしが、明主はみづから持すること尊大にして、我に對すること甚だ不遜なるにかかはらず、義満は貿易の實利を得るに汲々として大義を顧みず、みづから日本國王の號を僭稱し、臣禮を執りて明廷に朝聘し、彼の年號を用ひて平然たるなど、いたく我が國威を毀損せり。よりて義持は神託に託して斷然朝貢を拒絶せしに、義教に及びて修好復活し、さらに義政に至りて交通再び繁く、國交の體裁また義満の舊に復して名分を紊すところ頗る多かりき。 當時明との國交は、實は貿易の利を収むるを主とし、遣明船は三艘乃至十艘に達し、彼より勘合符を受け、これをもたらして官船の證とし、彼此對照して以て私船と區別せり。我は鑛物・刀剣・調度品などを搭載して寧波に渡り、彼の商貨と交換して巨利を博し、彼よりは主として銅銭・生糸・絹織物・薬品・書畫・骨董の類を輸入し、兵庫・堺・博多・坊津・平戸の諸港は、相ついで貿易港としてしだいに繁榮しぬ。されば幕府は屈辱を忍びてさへ、通交に力めてその財政の缺乏を補はんとし、諸國の大名・社寺・商人らまた勘合符を幕府に請受けて通商に勵みたり。殊に義政のころは府庫いよいよ窮乏を告げたれば、これを救はんがため、しきりに銭貨を彼に求めしが、我は既に王朝以来貨幣の鑄造絶えて通貨缺乏の際とて、彼の永樂銭はわが通貨として市場に流通し、専ら永高と稱して、物價もこれを標準として定まるの情態なりき。 諸大名の明と通商せし中にも、周防の大内氏は彼我交通の要路に當たるを以て早くより幕府の依託を受けて勘合符の事を管掌せしに、後、幕府の衰ふるに及びて、専ら明國通商の實權を握り、その國大いに富み、山口は外國貿易の商業地として一時頗る繁昌せり。されどこの後戦國の世となりて、大内氏亡びて日明の通行はおのずから衰へたり。 また朝鮮との修好は、對馬の島主宗氏早くよりこれにあづかれり。蓋し義満の頃より商船の高麗に往来するものやうやく繁くなりしが、その後、高麗はわが邊民の侵掠に苦しみしを、その將李成桂これを鎭壓して聲望を高め、高麗朝の疲弊に乗じて、元中九年遂にこれに代り、はじめて李氏の朝鮮を開きたり。これよりしばしば使を来朝せしめて修好を求め、我の需に應じてたびたび佛經・典籍などを送り来りしが、後、嘉吉三年癸亥條約を宗氏と結びて、宗氏の歳遣船を五十艘と定め、釜山浦、鹽浦・薺浦の三港を開き、勘合符を以て通商を營むこととせり。もと對馬は土地狭小にして地利に乏しきにより、朝鮮との貿易の利を収めて財政の不足を補給したることとて、これより三港に對馬の使館を置き、専らその通商權を握りたれば、諸國の大名も宗氏を介して彼と通商し、ひいて室町時代の末に及びぬ。

第十七 東山時代の文藝 明國との通商は、莫大なる利益をもたらして、我が財政を助けしのみならず、またしきりに大陸の文物を傳へてわが文化に資せるところ少からず。鎌倉時代以来の禅宗は、室町時代にも盛んに上流社會に行はれしに、たまたまさきの宋僧祖元の法系を引けるものに臨濟派の名僧疎石(夢窓)あり。嘗て尊氏は吉野の朝廷に對抗して天下の紛亂をかもしたれば、佛事によりてその罪障を消滅せしめんとの素志あり。すなはち疎石の勸めにより、京都に天龍寺を建て、供養を行ひいて後醍醐天皇の御冥福を祈りたてまつり、なほ各國に安國寺利生塔を設けて、元弘以来諸國戦死者の亡霊を弔ひたりしが、これらはいづれも臨濟派にて、この法流を最も盛なりき。疎石の門に義堂・絶海の諸名僧あり、義満またこれらの禅僧を尊信し、更に京都に相國寺を建てて壮観を極め、京都・鎌倉における著名なる禅刹の順位を定めて、天龍・相國・建仁・東福・萬寿の諸寺を京の五山と稱し、さきに亀山上皇の建立したまへる南禅寺を以てその上位に置けり。ここに於て、當時の文化はこの五山を中心として大いに興隆しぬ。 これら五山の僧侶は幕府の外交にあづかり、當時の外交文書は多くその手に成りしが、また遣明使に充てられてしばしば彼の地に渡り、彼の大家と詩文を贈答して文名を顯ししもの少なからず。この頃明の禅僧はおほむね詩文に耽り、書畫・骨董を翫び、また儒學を兼修するの風ありしより、わが入明の僧徒もこの影響を受けて専ら彼の文藝を學びて異彩を放ちしかば、世にこれを五山文學と稱す。かの義堂・絶海は當時詩文界の双璧とたたへられ、その諷誦するところは明土に於ても模範・基格と推奨せらるる程なり。なほ義堂は新に朱子學を傳へ、漢唐訓詁の風を脱して義理・名分を主唱し、從来の漢學に一新生面を與えたりき。この他にも、禅林の學徒はいづれも文學に長じ、翰墨に親しみて、かへつて佛學心法を疎んずるの傾向さへあらはれたれば、深く禅要に通徹る大徳寺の僧一休は、宗風の頽廢を憤りて江湖に放浪し奇行を以て一生を終りき。 かくて當代の建築・技藝も、禅宗の影響を受けておのづから一種の趣を加へぬ。金閣は王朝の寝殿造に禅刹風を折衷したる三層の樓閣にして、銀閣は更にこれに禅僧の學問所たる書院造を加味したる重層の樓閣なり。それぞれ室内に金銀の箔を押して佛間の荘厳を添へ、上層檜皮葺の屋根には金銅の鳳凰を載せて頗る優雅の様を呈し、その庭園はいづれも林泉の調和、木石の配置妙を極めて閑寂の趣名伏すべからず。庭作の術もはじめてこの頃より發達して、中にも相阿彌斯道の達人と呼ばれ、銀閣の庭園はその作るところなりと傳へらる。殊に書院造は、この後の一般住宅の様式となりしものにて、すなはち入り口に玄關を設け、室内に畳を敷詰め、襖・明障子を以て間毎を仕切り、上段に床の間・違棚の設けあり。床に懸けたる畫幅は、枝振面白き挿花、香炉より薫ずる名香と相應じて、頗る雅致を極めたり。随ひて香道・花道の技も、このころより方式・作法などはじまり、現今諸流の根源をなしぬ。 かくて諸種の風流なる行事もこの頃より起こりしが、中にも義政は奈良稱名寺の僧珠光を聘して茶事を嗜み・東山殿東求堂内に同仁齋なる四畳半の簡素なる茶室を設け、深夜・暁天心静かに一服の茶をすすりて世事を忘れんとせり。ここに於て静寂・清淡を旨とせる茶道はじめて成立し、その流行につれておのづから鑄金・製陶業の發達を促し、筑前の芦屋窯など大いに世に珍重せらる。この後、祥瑞五郎太夫明に渡りて製陶術を習ひ、歸朝して肥前に伊萬里窯を開き、唐津焼の名はさきの瀬戸物と併稱せられしが、いづれも茶宴に適せしめんがために、淡泊・雅致を主として、新たなる手法を出すに到れり。 義政また書畫骨董を好み、支那より名畫・珍器を輸入し、日夜これを愛玩したれば、諸種の繪畫工藝ために興起せり。中にも繪畫は新たに宋元の畫流を傳へて、雄渾にしてしかも雅淡、究めて氣韻に富める特色を發揮して、よく禅味を好める當時の趣味に應じ、いわゆる東山時代美術の粋といはる。はじめ東福寺の僧明兆(東福寺の殿司たるより兆殿司と稱す)彼の畫風を學びて道釋人物の畫を善くし、同じく相國寺の僧如拙は水墨山水に巧なりしが、ついで雪舟この流を傳へて、入神技古今に卓絶せり。雪舟幼より天才の誉高かりしうへに、更に明に遊び彼の土の名山・大川を探りてこれを寫生し、その技人々を驚嘆せしむ。雪舟の推擧により宋元畫を以て義政に仕へたるものに狩野正信あり、嘗て東山の殿舎に畫きて名聲を揚げたり。その子元信は父の畫風を受けて雄健なる筆法を學びしうへに、當時土佐繪を中興せる光信の女壻となりて、その流麗緻密なる畫流を習ひ、遂に和漢の粋を抜きて別に一機軸を出し、畫くところは彩墨を併せ、流麗と氣韻とを兼ね、その畫風大いに世に行はる。狩野家代々法眼に叙せらるるを以て、元信は特に古法眼と稱せられて、永く畫界の景仰するところたり。かくて繪畫の發達に伴なひて諸種の工藝も進歩し、漆器は多く土佐繪の下繪により蒔繪を施して、優美艶麗の妙技を極め、また彫金の名工に後藤祐乗あり、狩野派の下繪によりて、刀剣の目貫・小柄・笄の類に精妙なる刀法を揮ひ、その彫刻するもの皆神采生動の趣ありき。 また當代新興の文藝としては、能樂・謡曲と連歌とあり。鎌倉時代に流行せし田樂はやうやく廢れて、猿樂しだいに盛んになり行き、おもに神事の際に演ぜられたりしが、中にも春日神社に屬せる名人に観阿彌・世阿彌の父子ありて、猿樂・田樂を折衷し、その卑俗なるところを捨てて、新たに荘重なる能樂を創始せり。これより能樂は大いに將軍義満・義政に賞翫せられ、遂に武家の式樂として盛んに行はれ、観世・寳生・金剛・金春の四座は永く後世に傳はる。しかして能に用ふる謡曲はおほむね古傳説を採りて、流麗なる辞句に綴られ、僧侶の手に成るもの少からず、無常の理を説き因果の説を述べて、多く佛教の思想を含蓄せり。また和歌は世と共におひおひ歌學に拘泥し、奥義・秘傳などを立てて萎靡振はざる情勢なるに當り、おほむね和歌に比して法式の自由なる連歌かへつて盛んになり行き、句句相承けて、転々百句・千句に及ぶものあり、僧宗祇出でて斯道を大成し、新撰つ玖波集を撰せしが、一生四方を周遊して自然を友とし、晩年東國にて病にかかり、箱根に療養して、その没するに至るまで須臾も雅友と唱和を絶たず。その弟子頗る多かりしかば、連歌は遂に都鄙・貴賤の間に広く流行するに至りき。なほ散文としては、吉野朝廷時代に名著あらはれ、兼好法師の徒然草は世事・人情を説きて教訓を與え、さきの枕草子と共に随筆の双璧と呼ばれ、國文の模範として後世に愛読せらる。また吉野朝柱石の臣北畠准后親房は謹厳なる史筆をふるつて神皇正統記を著し、我が神國の深遠なる由来を説きて、吉野朝廷が皇位の正統なる所以を辨ぜしが、これについで小島法師は絢爛なる筆致を以て太平記を作り、官賊の騒亂を寫せる間に諸忠臣の義烈をたたへ、正統記と共に大いに勤王の志氣を鼓舞しぬ。なほ九十二代伏見天皇の皇子尊圓法親王は書道に長じたまひ、はじめ行成の筆跡を襲へるいわゆる世尊寺流の書法を學びて別に一家を成し、新に豊富優麗の體を開きたまひ、前代以来往々宋元の書風を傳へしとは全く趣を異にしたれば、これより朝野の書風一變し、これを御家流と稱して永く江戸時代に及べり。 かくて當時の風俗は京都の華奢なる風のおのづから武人の間に浸染して、鎌倉時代の素撲を失ひしと共に、一面また禅宗の影響を受けて、瀟洒の氣品を帯ぶるに至れり。家屋は、一般の寝殿造廢れて雅致ある書院造普及し、武人の服装は直垂より變じて素襖となり、長袴を着せしが、遂には省略して肩衣・半袴にうつり行き、女子は小袖を打掛けて着ることはじまり、時代の推移につれ、おひおひ簡便なる服装に傾きしが、布地にはまま綾羅・錦繍の贅を盡くすものあり。食物の調理法も進歩して、四條・大草などの諸流あらはれ、料理の作法も定まり、宴饗の儀式をはじめ、すべての禮節おひおひに厳格になり行けり。 これを要するに、東山時代の文化は明の文化の影響著しく、殊に禅宗の感化を受けて枯淡清雅の特色を發揮し、しかも上流社會よりやうやく民衆の間に移りて、広く一般に普及するの傾向あり。庶民の教育は僧侶の手によりて行はれ、後世寺子屋發達の起源をなし、また眞宗・法華宗など大いに民間の信仰を得たりしが、中にも應仁の頃本願寺に兼寿(蓮如)出でて、貧苦の間に人となり、日夜心身を鍛錬し、加ふるに天性辨舌に長じ、諸國を歴遊して庶民を誘導し、到る處道場を開き、平易なる御文章を作りて門徒を誨へしかば、老少・男女歸依尊崇して私財を喜捨するものおびただしく、本願寺ここに再興せられて、以て後世に及べり。すべて當代の文化が永くその流風を傳へて、現代文化と密接なる關係を結べるは、特に注意すべきことたるべし。

第十八 戦國時代の世相 室町幕府は大名制馭の宜しきを得ざるより、遂に權臣の跋扈を来し、應仁の大亂を惹起しながら、これを鎭定すること能はず、もはや國内統制の力なきことを暴露せり。ただ義政の子將軍義尚聡明にして壮志あり、夙に幕威を回復せんとす。義尚は幼より文武の業を修め、當代の博識一條兼良を師とし、樵談治要を上らしめて經世の要に備へたり。既にして、江州六角氏の暴慢なるを責めてみづから大軍を率ゐてこれを伐ち、厳に賞罰を正して天下に示さんとす。その陣中暇あれば、すなわち經史を繙き、餘裕綽々たる様なりしに、不幸陣中に薨じて幕府の中興また望むべからざるに至れり。その後の將軍は、おおむね虚位を擁するのみにて、その實權は管領細川氏に、細川氏の權は執事三好氏に、三好氏の權はその宰臣松永氏に、しだいに移り行きて、將軍義輝は遂に松永久秀らのために害せらるる程なりしかば、幕府存立の實全くうせ去りぬ。 されば地方には中央の威令毫も行はれず、功名富貴を望むもの所在に崛起し、互に侵略争奪を事とし、友を伐ち、主を滅して憚らず、遂に強は弱を併せ、大は小を呑みて、群雄割據の形勢を成し、兵戈を結んで解けざることおよそ一百年、從来の名門・舊家はたいていこの間に倒れ、家臣又は微族のこれに代わりて新たに興るもの多く、いはゆる下剋上の氣風は残りなく發揮せられ、全く社會の舞臺を一變せり。 名將・勇士が思ふままに智力を振ひたる、いはゆる戦國時代の世相は、まづ關東より展開せらる。さきに永享の亂に足利持氏亡びてより、上杉氏關東の政柄を握り、持氏の遺子成氏を管領に迎立し、山内上杉家の憲忠は執事に補せられ、家宰長尾景仲(昌賢)これが補佐となりて、東國の静謐をはかれり。然るに成氏は憲忠らを父の仇なりとしてこれを攻殺せしかば、景仲は扇谷上杉家と力を合はせて成氏に當り、成氏鎌倉を保つ能はずして下總の古河に走れり。これより古河公方の稱あり。かくてその勢威俄に衰へたりといへども、なほ名望を以て一方に雄視せしかば、上杉氏は更に將軍義政の弟政知を伊豆の堀越に迎へてこれに對抗せり。世にこれを堀越公方といふ。それより古河・堀越の両公方相對立し、千葉・里見など關東の八將は古河に、山内・扇谷の両上杉氏は堀越に、それぞれ分屬して相争ひ、以て關東の大勢を左右したりき。 長尾景仲もと文武の材に富み、儒者を聘して經史を講修し、主家を輔けて紛擾を制し、よく家政を執りしに、その没後山内家の勢威頓に衰へ、扇谷家の勢望かへつて大いに加る。當時扇谷定正の名臣に太田持資(道灌)あり、頗る文雅の道に長じ、殊に和歌に巧みにして、苅萱しげる武蔵野にもかかる言葉の花もありやと、至尊の叡慮を辱くせし程なり。加ふるによく軍政を修め、新に江戸城を築きて古河に備へ、將士競ひて来り屬し、扇谷家の勢い甚だ盛なりしより、山内顯定これを忌み、定正・道灌の主從を離間せしかば、道灌は定正のために誘はれて遂に悲慘なる最期を遂げぬ。これより後、両家の間に争起こり、交戦年をわたりて互いにその實力を消耗し、随ひて堀河公方家もしだいに衰へたり。 かかる東國の騒亂に乗じて、獨り漁夫の利を占めしは北條早雲なり。早雲はもと伊勢の人、天性豪邁にして覇氣横溢、風雲に乗じて關東を席巻せんとし、まづ駿河に下りて今川氏に寄食し、徐に形勢を察して古河に通じ、ひそかに堀越を窺ひたりしに、たまたま堀越家の内訌あるに乗じ、俄に襲ひてその公方家を滅し、遂に伊豆を略して韮山城に據れり。次いで關東の要扼たる小田原城に據らんとし、その城主大森藤頼を欺きてこれを奪ひ、遂に相模を從へて威武大いに關東に振へり。その子氏綱、孫氏康また智勇あり、父祖の遺業を繼ぎてしきりに隣國を侵ししかば、古河公方は両上杉氏と和し、聯合してこれに當りしが、北條氏はこれを破りて江戸・河越の両城を取り、更に房總に兵威を振へる里見氏と、下總國府臺に會戦してこれを破り、その勢力は両總にまで發展しぬ。かくて紀元二千二百六年第百五代後奈良天皇の天文十五年、川越の戦役に氏康大いに古河公方及び両上杉氏の聯合軍を撃破し、扇谷朝定は戦死し、山内憲政は上州に遁れたれば、後、程なく古河公方も滅亡し、北條氏これに代わりてはじめて關東の覇權を握り、小田原はその首都として繁榮せり。 山内憲政は氏康に逐はれて上州より越後に走り、その臣長尾景虎に頼る。景虎の父為景は上杉氏の家老長尾氏の庶族より起りて家を興し、規模頗る遠大なり。季子景虎勇敢にしてよく兵を用ひ、夙に老成の風あり、家を承けて春日山城に居り、後、久しからずして國内を平定し、更に兵威を隣國に振ひ、殊に義氣を以てあらはる。いまや憲政の来投するに及びて、景虎その譲を受けて上杉氏を稱し、關東管領職を嗣ぎ、ついで薙髪して謙信と號す。謙信憲政の依嘱により、しばしば兵を關東に出して北條氏と争ひしに、その勇悍に恐れて敵するものなく、幾重の山河、恰も無人の境を行くが如く、長駆小田原の城門に迫りしことあり。かくて攻争連年絶えざる間に、また謙信と拮抗して相下らざるものに、甲斐の名將武田晴信あり。晴信薙髪して信玄と號し、深沈にして知謀に富み、父信虎に代わりて躑躅崎の館にあり、しばしば兵を信州に出して諸族を降したれば、同國の豪族小笠原・村上の諸氏敵せずして越後に走る。謙信すなはちこれを援けてたびたび川中島に出戦して信玄と雌雄を争ひたりき。 その他東北地方の豪族に陸奥の伊達・南部、出羽の秋田・最上の諸氏ありて互いに封疆を争ひ、中にも伊達氏最も優勢なりしも、土地遠隔にして大勢に關係なかりしが、獨り本州の中部にありて、他日飛躍の基礎をつちかひつつたりしは尾張の織田氏なり。その家代々管領家斯波氏に仕へて、その領國尾張の守護代たり。夙に平野豊沃の地を占めて徐に實力を蓄へ、勢主家を凌ぎて遂に自立の志あり、信秀出づるに及びて同族を從へ、隣國を侵して俄に聲望を得しが、その子信長豪勇にして智略に富み、ますます家勢を張れり。時に駿河の名族に今川氏あり、勢力甚だ盛にして、既に遠江を略し、さらに版圖を三河に広め、その領主松平氏を服して岡崎城主広忠の子元康(家康)を質とせり。ここに於て紀元二千二百二十年第百六代正親町天皇の永禄三年、今川義元みづから駿・遠・参三國の大兵を率ゐ、元康を先鋒として尾張に侵入せしに、信長寡兵を以てこれを桶狭間に迎撃し、風雨に乗じて奇襲を試み、忽ち義元を殪ししかば、信長の威名いよいよ遠近に轟きぬ。 転じて中國の方面を見るに、出雲の尼子、周防の大内の両氏最も顯る。尼子氏は室町幕府の重職京極家の一族にして、累代出雲の守護代たりしが、經久出づるに及びて富田の月山城に據りて大いに家を興し、嫡孫晴久に至りてますます強大となり、常に大内氏と覇を争へり。大内氏は王朝以来の舊族にして、義興に至りて諸州を併呑し、また明と交易して財力豊富を極め、山口城下の繁榮は一時京都を凌ぐ程なりしに、その子義隆富強を恃みてやうやく驕奢に流れ、文雅に耽りて武事を軽んぜしかば、國政大いに亂れて遂に老臣陶晴賢のために滅さる。時に安藝に毛利元就あり、幼にして大志を抱き、同國吉田の小城より起り、しきりに比隣を掠めて、領土を広め、二子元春・隆景をして吉川・小早川両家の跡を嗣がしめ、その族を合はせて勢いますます盛なり。元就、晴賢の簒奪の罪を鳴らしてこれを伐ち、陶の大軍を狭隘なる厳島に誘致し、風雨晦冥の夜を機としてこれを襲ひ、一擧に晴賢を滅して大内氏に代れり。ついで富田を攻めて尼子氏を滅し、その領土をも併せたれば、毛利氏の版圖は中國より九州・四國にわたりて十餘國に及び、いよいよ中國の覇權を握りぬ。 四國には管領細川氏やうやく衰へ、長曽我部元親土佐より起りて諸族を平げ、ついに四國を統一せんとし、九州には少弐氏の家臣龍造寺隆信肥前に起り、豊後の大友宗麟(義鎭)出でて薩摩の島津氏に當り、三方相鼎立せしが、島津義久に至りてついに九州を席巻せんとするの傾あり。されど、これまた西方に偏して中央の大勢に關係するところ少なし。かくて海内悉く干戈を動かさざるところなく、世をなべて亂麻の様なれば、公卿・社寺の荘園はいづれも豪族のために横領せられ、かしこくも皇室の御料所さへその厄を免るること能はず。幕府また財政窮乏して皇室の御用度を辨ずるの資力なければ、皇室の式微實にその極に達せらる。後土御門天皇は應仁の大亂に難を避けたまひて、禁闕の外にましますこと十餘年、その崩じたまふや御葬儀の資に乏しく、霊柩黒戸御所に安置せらるること四十餘日に及べり。第百四代後柏原天皇・後奈良天皇相ついで践祚したまひしも、幕府の獻資なきを以て久しく即位の大禮を擧げたまふこと能はざるの御有様にて、節會・恒儀も多く行はれず、内裏破損すれども修理の途なく、おそれ多くも毎日の供御にさへ事缺きたまひしといふ。されば公卿は衣食に窮して諸國に流離し、縁を求めて大名・民家に寄食するものも少からざりき。 かかる朝廷の衰微にもかかはらず、天壌無窮の皇運は素より微動すべくもあらず。後土御門天皇をはじめ御歴代、御身の御窮迫を顧みずして常に國民の上に大御心を寄せさせられ、仁慈の後聖徳いつの代にもかはらせたまはず。殊に後奈良天皇は、皇居の頽廢はさて措き、伊勢神宮の廢壊を畏みてまづこれを修めたてまつらんとしたまひ、また宸筆を下して日々の供御を補ひたまへるが如き際にも、御みづから心經を寫したまひ、諸國に下して萬民の福利を祈らしめらる。國民聖徳の深きを思ひて、感泣せざるものなし。すなはち大内義隆・毛利元就・織田信秀をはじめ、今川・上杉・北條・朝倉の諸氏、本願寺・加賀白山など、いづれも御歴代即位の資または皇居修理の費などを奉獻し、また聖旨を體して伊勢神宮のために盡くすものもあらはれ、六角高頼・織田信秀らは相前後して神宮の修理費を奉納し、慶光院清順尼は、後奈良天皇の勅許を得て、諸國に勸化し、浄財を集めて遂に外宮を造營したてまつりしが如き勤王敬神の美績少からず。加ふるにこの際朝廷に於て一條兼良及び吉田神道家の兼倶・兼右らを召して、王朝以来久しく絶えたる日本紀の講修をはじめたまひ、地方に下れる公卿のこれを諸侯の家に講ずるものあり。しかして古来國民が最も光榮とする朝官朝爵はもはや幕府の手を經ずして直接朝廷より拝戴し、四方の群雄いづれも將軍に信頼せずして朝廷に葵向し、天皇を奉戴して天下に號令せんとせざるはなし。されば皇室の式微は毫もその尊厳を損することなく、直接國民との接近はかへつて臣民忠誠の精神を振起し、戦國紛亂の裏にも皇室中心思想のおのづからあらはれしは、また以て國體の精華とすべし。 また戦國のならひ、海内統一の政治は素より行はれざりきとはいへ、地方に割據する群雄は、各々兵戈を交へて日もこれ足らざる間にも、なほ心を文事に留め、政務に怠らざりしかば、諸國の民政はそれぞれに振へり。北條早雲は學を好み、いはゆる針を倉に積む程の勤倹なれど、しかも玉を砕きて惜しまずいといはるるばかり士民を愛撫したれば、人々皆これに心服せり。孫氏康また文雅の道に長じ、しばしば雅友を城中に招きて和歌の會を催し、殊に父祖に繼ぎて仁政を布きしかば、民政頗る整ひて、その家法に早雲寺殿二十一箇條と傳ふるものあり。また武田信玄は禅旨に通じ、兼ねて和歌を善くし、上杉謙信も詩歌に巧みなるうへに風流・遊藝の末技にさへ長ぜしが、中にも武田家は法制の整備を以て稱せられ、その家法に信玄百箇條あり。民政また行き届きて、鑛山の採掘、産業の奨勵と共に、賦税の軽減を以てひたすら民力の涵養に力めしかば、甲斐の國人永くこれを徳とせしのみならず、その貨幣制度及び衡座法は他日徳川氏に採用せられて広く全國に行はれぬ。また關東の今川氏は京都のしん紳と婚を通じ、有職・文雅の道にも長じ、義元は塗輿に乗りて陣中を駆けめぐれる程、公家風に化せしが、これと相竝びて關西には周防の大内氏あり、公卿・學者・僧侶の京都の亂を避けて同家に身を寄する者おびただしく、義隆はこれらと相交り、詩歌・蹴鞠・茶道などに耽りて餘念なく、經籍を遙かに支那・朝鮮に求めし外、また自國にても書籍を梓行し、文藝ために勃興して世に山口文學の稱あり。これに代わりて興れる毛利元就また文事を嗜みて、その歌集に春霞集あり、常に士民を愛撫して深く人心を収攬し、なお子孫を戒めて一心同力その家法を守らしめしかば、家道ますます榮えて永く後世に及びぬ。 かくて戦國時代の進むにつれて地方的統一はしだいに行はれ、兵威熾にして民治に巧みなる大名の城下には、士民四方より来集しておのづから都市をなせり。北條氏の善政を布くや、諸國の士民小田原に集中し、商賈城下に軒を竝べて、その繁盛一時往時の鎌倉を凌げり。これに對して山口は西都と呼ばれ、支那・朝鮮との貿易繁盛し、西國の商賈はここに来集せしのみならず、外人も少からず移住し、富裕一時天下に冠たりき。かく各地の城下がその地方の政治・經濟の中心となりて、城下町の發達をみたる外、堺・兵庫・門司・平戸などの如き、専ら通商のために新に都市の起こるものもありて、はやくも近世都市發達の起源をなしぬ。 されど昇平無事の日少かりし當時のこととて、教育は一般に振はざりしが、篤學の將上杉憲實下野の足利學校を再興して數多の經籍を寄せ、學規を立て、學僧を招きて講説を掌らしめしかば、學徒諸國より来遊して、講筵一時頗る榮え、さきの金沢文庫と併稱せられて、今に貴重の典籍を遺存せり。この他には別に學所の聞ゆるものなきも、當時の群雄はおほむね家庭の教育に注意し、謙信が剣戟のひまにみづから筆を執りてその子のために習字本を認め、信長・秀吉・家康らが幼時いづれも寺子屋に學びたるが如き、以てその一端を察すべし。女子に至りては殊に貞淑の教を旨としたれば、夫を天としてこれに仕へ、貞烈の誉をあらはしし美績また少なからず。

第十九 海内の統一 美術・技藝 應仁の亂後社會の秩序紊亂して忽ち混亂の情態に陷りしも、年所を經るに從ひて併呑しだいに各地に行われ、地方的統一の傾向は遂に全國統一の氣運に向ひつつあり。この氣運に乗じ、地の利と卓抜の知謀とを以て、よくその偉業成せるは織田信長なり。 信長の桶狭間に今川義元を殪すや、徳川家康は義元の子氏眞の共に為すなきを見て、かへつて信長と結びたれば、信長はじめて後顧の憂なく、専ら西上を策していち早く旗を京都に立てんとす。よりて、まづその途に當れる美濃の齋藤氏を滅してその稲葉山城を収め、清洲より移りてここを居城とし、周の文王岐山より起るの故事に因みて城下を岐阜と名づけたり。正親町天皇遥かに信長の威名を聞召し、立入頼隆を下して御料所の回復を委ねたまふ。信長父の志しを承けて夙に勤王の念深く、勅命を拝するに及びて大いに感激し、速かに朝廷の興復を果たして宸襟を安んじたてまつらんとせり。時に將軍義輝害に遭ひ、その弟義昭遁れて信長に来投し、また回復を依託せしかば、信長大いに悦び迎へ、紀元二千二百二十八年(永禄十一年)いよいよこれを擁して入京し、奏して義昭を將軍となし、壮麗なる二條城を築きてここに居らしむ。義昭欣喜してその恩を謝せしに、その後信長の威望日々に高きを忌み、自ら安んぜずして兵を起こし、これを除かんとはかりしかば、遂に紀元二千二百三十三年(天正元年)信長のため逐はれて足利氏こに滅亡し、信長これに代わりて兵威四隣を壓し、近畿悉くその命を奉ずるに至りぬ。 ここに於いて中央に志ある東西の群雄は、信長を除きてこれに代らんとするもの多し。まづ關東の名將武田信玄は、巧妙なる畫策を以て諸方を操縦する間に、西上の機いよいよ熟して、まず大兵を率いて南下し、途を東海道に取りて入京の宿志を果さんとす。ときに徳川家康遠州を略して濱松に居城し、信長の依嘱を受けてこれに當り、その援軍と三方原に邀撃せしも、衆寡敵せずして敗北せり。よりて信玄は更に兵を進めて三河に討ち入り、野田城を落としいれしに、たまたま宿痾再發して歸國の途中不幸にして病没す。ここに於いて多年剛勇を以てよく信玄に匹敵せし上杉謙信は、その好敵手を失ひたるを惜しみしが、これよりもはや後顧の憂なかりしかば、軍を北陸に進めて西上を決行せんとし、すでに越中・能登を略し、秋夜陣中一詩を賦しておのが得意を歌ひたりき。やがて天寒く雪深くして兵馬を進むるに不便なるより、一旦軍を班し、翌くる彌生、越路の野山雪解くるに至りて、更に大擧西上を決行せんとせし際、また俄に病没して志を果さず。その後家督の内訌ありて上杉氏ますます衰へぬ。また關西を代表する英傑毛利元就は、これより先既に入京の壮志を抱きて逝き、この他東西僻陬の群雄は未だ入京の志を伸ぶるの機に達せず。かく東西の英傑は宿志まさに成らんとして、いずれも俄に没し、いはゆる人事不測の變が獨り信長をして功業を収めしめ、その統一事業は着々として進捗するに至れり。 かくて信長は、その功業一段の進歩を見るに及びて、更に根據を西に進めんとし、新たに近江の安土に築城して岐阜よりここに移る。この地琵琶湖を控へて京都に近く、加ふるに東海・東山・北陸の要衝に當りて、これらの地を制するに便なり。城は丘陵に據りて漫々たる湖水に臨み、七重の天守閣高く天空にそびえて頗る壮観を極め、殿内の装飾また善美を盡くして絢爛目を驚かし、實に本邦城郭の制に一新紀元を與へ、麓には士邸甍を竝べ、商家軒を繼ぎて街道の往還晝夜絶ゆる間なし。信長すなわちこの地を中心として、まさに四方に號令せんとす。 この時に當り、武田信玄の嗣子勝頼天性勇猛にして、父の遺志を繼ぎて必ず覇業を成さんとし、しばしば南下して家康と兵戈を交へ、信長は家康を助けて専らこれに當らしむ。天正三年勝頼精鋭を擧げて三河の長篠城を攻圍せしに、城主奥平信昌死守して屈せず、信長・家康聯合して赴き援け、鐵砲隊を以て盛に敵を攻撃せしかば、勝頼大敗してその軍死傷するもの一萬餘、老功の名將多く討死して、武田家はために一大打撃を受けぬ。さればこの後は宜しく兵を休めて静かに武力を養ふべきに、勝頼血氣にはやりてなほ討伐をやめず、實力ますます消磨して家勢頗る衰へたり。ここに於いて紀元二千二百四十二年正親町天皇の天正十年、信長は家康・北條氏政(氏康のこ)らと共に、三方より兵を進めて甲斐を包圍攻撃せしに、勝頼既に人心を失ふこと久しく、その一族・諸將風を望みて違反投降し、さすがの勇將勝頼も如何ともする能はず、妻子を伴なひて一旦天目山に遁れんとし、その山麓田野に於て敵と奮闘して遂に自刃せり。勝頼の夫人北條氏も夫に殉じて悲壮なる最期を遂げ、あはれ貞烈の誉を残しぬ。これより信長は滝川一益に上州を與へ、厩橋(前橋)に居らしめて、關東を控制せしめたり。 勝頼關東に活動する間に、西方に於て毛利氏は、元就の没後もその遺族能く元就の遺訓を守りて協同し、家勢毫も衰へず、嫡孫輝元家を嗣ぎて、吉川元春・小早川隆景の両將をこれを援け、兵威日に強盛にして更に九州・南海に及びたれば、遙かに關東の武田・上杉氏と盟約して信長を牽制せり。然るに信長はみづから東國に當らざるべからざれば、部將秀吉を抜擢してこの方面の經略を委ねぬ。秀吉は尾張國中村の農家に生れ、はじめ木下藤吉郎と稱す。性明敏にして機智に富み、夙に大志あり、少年にして遠州に赴き、松下之綱に仕えて軍學を習ひしが、ついで尾張に歸りて信長の僕となる。その才幹やうやく信長に認められ、しだいに登用せられて遂にその部將に列し、しばしば戦功を樹てて頭角をあらはし、先輩丹羽長秀・柴田勝家の武名を慕ひて姓を改め、羽柴筑前守秀吉と稱せり。今や中國征討の大任を受くるに及びて、着々歩武を進めて天正十年備中に入り、清水宗治を高松城に圍み、折からの梅雨に乗じ、長堤を築きて河水を導き、城に灌ぎてこれを覆没せんとす。毛利輝元その急を聞き、元春・隆景らとともに大擧赴き援けしかば、秀吉また信長の来援を求めたり。ときに信長は東國より凱旋したるを以て、これを機としてみづから西下し、いよいよ毛利氏と雌雄を決せんとし、まづ明智光秀らにその先鋒を命じ、みづから上洛して本能寺に宿る。光秀は美濃の人、もと土岐氏の疎族にして、信長に仕へて大いに用ひられしが、嘗て信長に怨むところあり、俄に叛きて、六月二日の黎明、急に本能寺を襲ひて信長を害し、その子信忠をも二條城に攻殺せり。信長智略衆を抜き、能く人材を擢用せしも、天性豪放・部下を遇すること峻厳に過ぎて、まま他の怨恨を招き、ために忽ち逆臣の凶手に斃れ、統一の偉業半途にして挫折しぬ。 一方高松城は、日々の五月雨に水嵩増して、まさに陷落に瀕せしより、毛利輝元五國を割きて和を求め秀吉はさらに城將の自裁を促して和議容易に成らず。たまたま本能寺の變報秀吉の陣に至りしが秀吉深くこれを秘す。城將清水宗治は身を以て士卒の命に代わらんことを請ひ、進んで義烈なる自刃を遂げたれば、和議はじめて成れり。よりて秀吉直ちに軍を班し、途に織田信孝(信忠の弟)らと合して山崎の弔合戦に一擧に光秀を誅し、それより織田家の宿將と清洲に會同し、柴田勝家らの議を退けて信忠の子秀信を織田氏の嗣と定め、ついでみづから喪主となりて、故主信長父子のために盛大なる法會を大徳寺に營みて、おおいに上下の信望を博し、勢威嶄然宿將を凌げり。勝家これを忌み、滝川一益らと共に信孝を擁して兵を擧げ、秀吉を除かんことを謀る。秀吉機先を制して、大いにその軍を江賤岳に破り、勝に乗じて長駆して越前北荘に迫りて勝家を滅し、一益は力竭きて降り、信孝も自刃して亂全く平ぐ。ここに於て秀吉は越前を収め、前田利家を加賀に封じて北陸を控制せしむ。かくて織田氏の遺業をやうやく秀吉の手に移り行きしより、織田信雄(信孝の兄)はこれを憂へ、徳川家康に頼りて秀吉を除かんことをはかる。家康舊誼を重んじてこれに應じ、濃尾平野の要地小牧山に出陣し、秀吉また大兵を率ゐて、大阪より来たりて犬山に陣す。然るに家康は、かねて四國の長曽我部元親、紀州の根来・雑賀の一揆、及び越中の佐々成政らをひそかに誘致し、大阪城の虚を衝かしめんとしたれば、秀吉はこれに牽制せられて行動とかく意の如くならず。加ふるにその部將信輝森長可ら長久手に於て大いに家康のために破られしかば、秀吉はかくて曠日瀰久の不利なるを悟り、遂に和を講じ、程なくおのが妹を家康に嫁せしめて盟約を固めぬ。これより秀吉紀州を討ちしが、その陣中閑をぬすみて舟を和歌の浦に浮かべ、玉津島に打出て緑たちそふ布引の松をめでなどし、悠々として一揆を降し、ついで軍を四國に遣はして元親を伐たしめ、更にみづから越中を伐ちて成政を降し、忽ち北國を定めて上杉景勝と會盟せり。ここに於て秀吉の創業をはじめて成れり。 これより先、秀吉創業ほぼ成るや、まず天下を控制するの根據を定めんとし、かねて信長の遺圖を襲ひて、城を大阪本願寺の舊地に築かんとし、諸國に令して大石・巨材を運ばしめ、塁を高くし、堀を深くして、壮大なる城郭を造れり。その要害の堅固なるは殿宇の雄麗と相待ちて、實に天下第一の稱あり。諸將また居をその周圍に卜し、築地を構へ門戸を連ねて荘厳を極め、商家は簷を竝べて広大なる城下町を開けり。この地もと東と北とに大河を控へ、西は海に臨み、四通八達の地なれば、百貨輻輳して殷賑また海内に冠たりき。 ここに於て海内おほむね秀吉の威に靡きしかども、なほその命を奉ぜざるものに、九州に島津氏關東に北條氏あり、島津義久國富み兵強くして、大友・龍造寺の諸侯を壓し、遂に龍造寺隆信を敗死せしめ、しきりに大友氏の所領を蚕食せり。大友宗麟これを恐れ、みづから上洛して救を秀吉に請ふ。秀吉、信長の遺志を繼ぎて素より九州經略の意あり、まづ島津氏を招諭して朝覲を促ししに、義久秀吉を軽んじてこれを聴かず、かへって攻略をほしいままにせしかば、秀吉奏請して大擧島津氏を伐てり。天正十五年三月秀吉行粧美々しく大阪を發し、旌旗を春風にひるがへして西下せしに、胸中既に勝算あり、途に厳島に遊びて、聞きしより眺にあかぬ風光を賞し、悠々九州に入る。水陸の諸軍二十萬、軍容堂々、進んで鹿兒島に迫りしかば、諸城おほむね風を望みて潰え、義久ついに敵せずして薙髪して来り降る。秀吉これを許し、その侵略地を収めてほぼ舊領薩・隅日の三州を保たしむ。かくて恩威竝び行われて九州悉く平ぎぬ。また北條氏は早雲小田原に據りしより氏直に至るまでここに五世、久しく武威を東國に布き、殆ど關八州の地を掩有して日々攻略を事とせり。秀吉よりて氏政・氏直父子の上洛を促ししに、これまた秀吉を賤しみて命に應ぜざりしかば、秀吉その罪を責め勅命を奉じて出征し、徳川家康らを先鋒とし、軍を東海・東山の両道に分かちて竝び進ましむ。両軍箱根・碓氷の天險を破り、諸城を陷れて小田原に會し、城を包圍せしが、北條氏は城郭の堅固と一族・將卒の決死團結とを恃み、兵食また餘ありて容易に下らず。秀吉よりて持久の策を立て、陣中しばしば宴を張り、歌舞を催して、將士をねぎらふ間にも、陣營を峨峨たる石垣山上に營み、小田原城中を俯瞰して日夜攻略をはかれり。ここに於て城中の將士意氣おのづから沮喪し、衆心やうやく離叛して、ひそかに秀吉に通ずるものあり。されば、城中よく攻圍を支ふることを百餘日に及びしも、氏直遂に屈し出降り、小田原城はじめて陷る。秀吉すなわち氏政に自刃を命じ氏直を高野山に放ち、ついで北條氏の舊領を擧げて家康に與へ、その他それぞれ論功行賞を終へたり。この間に奥州の伊達氏をはじめ東北の諸侯も、遙かに兵威を望みて争ひてカンを秀吉に通じ、從来小田原のために遮斷せられし奥羽の地もまた秀吉に靡きて、天下悉くその威令を仰ぐに至りぬ。ここに於て應仁以降の騒亂全く平ぎ、全國統一の偉業はじめて完成せしは、恰も紀元二千二百五十年正親町天皇の天正十八年なりき。 かくて信長の遺策を繼承して海内を統一し、再び太平の世を開きたる秀吉は、經綸においても殆ど信長とその軌を一にせり。既に戦國紛亂の間に顯れたる尊王の思想はこの両雄によりて遺憾なく實現せらる。信長・秀吉共に勤王の志深く、夙に皇室を奉戴して四方に號令せんとし、信長は安土に、秀吉は大阪に城づきて、いづれも根據を京都の附近に置き、共に武人の最も光榮とせる將軍職を望まず、かへつて當初より朝官を拝し、信長は遂に右大臣に昇り、秀吉は關白に任ぜられ、ついで太政大臣に進み、豊臣の姓を賜る。蓋し關白の職たる、古来藤原氏の獨占にして他門のこれに陞りしものなかりしに、秀吉勲功の賞によりてこの顯職に上り、無上の榮達を極めたり。されば尊王敬神の美績また頗る多く、信長勅命を受けて入京するや、まず村井貞勝らに命じて皇宮を修理せしめ、殿堂・門廡悉く舊制に復せしむ。また米を上下両京の市民に貸與し、その利息を収めて内裏の供御に充て、後、更に御料所を復し、なほ資を獻じて朝儀を復興したてまつり、公卿の采地をも復してその窮乏を救ひたれば、公卿の流落せるものも再び京都に歸来し、都下やや舊観に復することを得たり。信長また伊勢神宮の廢頽して故典の擧がらざるを憂へ、資を獻じて内外両宮の造營を企て、所要の經費はいくばくにても支出せしめんとせしが、不幸本能寺の變ありて果さず。秀吉その遺業を繼ぎて、両宮の造進を遂げたれば、その正遷宮式はじめて擧げられ、戦國以降久しく廢絶せし式年遷宮の制ここに復活して、これより永く行はる。秀吉は氣宇宏大、嘗て地を京都内野に相してここに新第を營み、殿樓華麗、名づけて聚樂第といふ。すなはちここに第百七代後陽成天皇の行幸を仰ぎ、秀吉文武百官を率いて扈從したてまつりしが、貴賤・老少遠近より来集して盛儀を拝観し、感泣して曰く、「圖らざりき、今日または太平の象を観んとは」と。このとき秀吉は、天皇・上皇をはじめたてまつり、皇族に御料を奉獻し、公卿・女官に至るまで知行を頒ち、更に諸大名をして永遠に皇室の尊崇を誓はしむ。また和歌の御會には、松の千載に君の萬代をことほぎ、舞樂の天覽、管弦の御遊、善盡し美盡せる御饗宴に、ひたすら叡慮を慰めたてまつれり。盛事實に前古に超絶し、駐輦五日に及びて龍顔麗しく還幸したまふ。なほ秀吉更に皇宮を修め、その周圍に公卿の邸第を起こし、専ら皇運の挽回に盡くし、以て尊王敬神の大義を實行しぬ。 信長・秀吉はまた大いに民政に注意し、政治の統一も着々實行の運びに向ひぬ。さきに信長の入京するや、まず兵士をして皇宮を護らしめ、また吏を市中に派して厳に軍勢の亂暴狼藉を取り締りしかば、市内静謐にして人々皆心服せり。當時社寺・豪族至るところに私關を設けて通行税を徴發するならひなりしが、信長まづこれを廢止し、さらに竝木街道を開きて諸人交通の便をはかり、なほ都市を保護して諸役を免除し、百姓の賦役を軽減して生業に安んぜしむ。また折々馬揃・相撲などを催して部下の武藝を奨勵し、學問・美術は素より、苟も一藝一能に長ぜるものは必ずこれを優遇して民業の開發に力めたりしに、功業半にして終りしより、その後世に傳はれるもの極めて少し。その後を承けたる秀吉は、母に仕えて至孝、よく妻子を愛撫せしのみならず、かりそめにも師恩を忘れず、舊師松下之綱に所領を與へて舊恩に報いたるが如き、その眞情永く世の欽慕するところたり。加ふるに天空海濶の度量をもって悉く天下の英傑を包容し、広く士民を愛撫し、嘗て北野に大茶湯を催し、方一里の松原、木の下森の陰おのおの數寄をこらせる八百餘の茶席を設け、貴賤・貧富の別なく、風流に志あるものはことごとく来會せしむ。秀吉また多年蒐集せる秘蔵の珍器・名物を飾りて縦覽せしめ、衆庶と樂しみを共にせしが、ついで聚樂第の門前に莫大の金銀貨を積重ね、一々みづからこれを諸將に頒與せり。また秀吉は、かかる豪壮なる行動の間に、頗る意を國家の經濟に注ぎ、まづ力を京都の復興に盡して、市街を區畫整理し、周圍に土手を築きて外郭となし、京都の面目を一新せり。また全國のを田制を正さんとし、天正より文禄年間にわたりて、ひろく五畿七道に検田使を發して細密に田畝を丈量し、田制を改めて三百歩を一段とし、米穀の産額によりて田畠の等級を分ち、その収穫に應じて税率を定め、およそ収穫の三分の二を官に納れしむることとせり。世にこれを天正の石直、または文禄の検地といふ。またしきりに諸國の鑛山を採掘して巨額の金銀銅を収め、大小判金及び銀・銅の貨幣を鑄造して全國に流通せしめたれば、經濟界も頓に進展せり。殊に職制もしだひに整い前田玄以は京都の市政及び社寺の事を掌り、長束正家は財政、浅野長政・増田長盛・石田三成は訴訟その他の庶務に當り、これを五奉行と稱して政務を分掌せしが、後、更に徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝(初、小早川隆景)の五大老、または生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴の三中老など置かれて、共に大事を議することとし、政務の規律頗る確立しぬ。 かくて世の太平となるに從ひ、美術・技藝もおのづから發達せり。信長既に技藝に長ぜる者を優遇して藝術の進歩を圖り、從来工藝品に濫りに日本一の號を稱せるを禁じ、斯道の大家の審査を經たるものに限り、その號を許すこととして、粗製濫造の弊を矯めぬ。秀吉特に豪壮を好み、信長の安土城にならひて大阪城・聚樂第を營み、雄大華麗を極めたりしが、なほおのが功業を永く後世に傳へんとして、方広寺を京都の東山に建て、未曾有の大佛像を安置せり。膠漆塗金の木像、高さ十六丈、優に奈良の大佛を凌ぎ、堂宇また二十丈に上りて、京都の一偉観たり。晩年更に城を伏見に築きしに、この地山に倚り水に臨みて、展望に富み、京南の要地たり。秀吉諸大名に令してその工を援けしめ、夫を役すること二十五萬人、渠を通じ、道を開き、郭を築くこと三重、宏壮の樓閣高く聳えて、白壁十畳翠松に映じ、壮観いはんかたなく、殿宇の内外盛に彫刻・繪畫を利用して、豪華雄麗、最もよく當代の特色を發揮せり。當時著名なる畫家に狩野永徳あり。永徳は元信の孫にして、嘗て安土城天守閣の金壁に霊腕を振ひ、ついで秀吉に寵用せられて、大阪城・聚樂第に畫き、その養子山樂は、大阪・聚樂の外づ特に伏見城の装飾にあずかる。いづれも雄健なる宋元畫に優麗なる土佐派の筆法を融和し、その豪健なる筆力はよく殿閣の宏壮に相應じ、絢爛なる傅彩は燦爛たる金壁にふさはしく、雄大華麗前後に比なし。またあらゆる彫刻装飾は左甚五郎らの名手によりて施されたりといはれ、意匠の卓抜、手法の勁健また世に傑出せり。然るに豊臣氏亡びて伏見城また毀たれ、墾きて多く桃樹を植ゑ、その地を桃山と稱せしかば、桃山時代の名は當代の美術を代表する稱呼となり、今なほ京都の社寺に遺存せる伏見城の遺構(西本願寺の書院)・飛雲閣・唐門、豊國神社の唐門、近江竹生島都久夫須麻神社の拝殿)に、いはゆる桃山時代豪華の跡を偲ぶべし。また諸種の遊藝も時代につれて興りしが、中にも能樂は公武の間に流行して装束・調度に贅を盡し、茶道には泉州の人武田紹鴎さきの珠光の法を傳へて遂に一家を成し、その門弟千利休秀吉に用ひられて、斯道を興隆してその名海内に鳴れり。男女の服装は製作おほおひ簡素となり、肩衣・半袴は上下と稱して専ら武士の常服となり、女子は袴の着用を廢し、一枚の服を着流して帯を結ぶの風もはじまりたりしも、色合・模様などは時代につれて華麗となり、装飾・調度に金銀・珠玉をちりばめて、豪奢の風尚をあらはすもの少なからざりき。

第二十 西洋人の渡来 國民の對外活動 戦國時代國民の元氣旺盛なる折、たまたま西洋人初めて渡来し、わが社會に重大なる影響を與へたり。もと歐亞の交通は陸路によりしものにて、さきに鎌倉時代元の我が國に来寇せし頃、イタリヤ人。マルコ、ポーロ(Marco Polo)陸路をたどりて遙かに支那に来り、元主忽必烈に仕へたりしが、歸國の後東方紀行を著してジパングの名を以て初めて我が國を歐州に紹介し、その金銀・珠玉に富めることを張揚せり。この書はやく出版されて弘く各國に傳はり、大いに歐人の探險心を刺激しぬ。ついで室町時代に入り、トルコ帝國勃興して、小アジヤより歐州に侵入し、コンスタンチノープルを占領して東西の交通を遮斷せしより、歐人は新たに航路を求めて、東洋の貨物を得んとす。この頃恰も羅針盤など用ひられて、航海術頗る進歩せしかば熱心に東洋の遠征を試みんとするもの續々あらはれ、イタリヤ人コロンブス(Columbus)はマルコ、ポーロの紀行を読みて寳の國ジパングにあこがれ、これを探求せんとし、遂にイスパニヤ女王の助力を得て航海するの途中偶然アメリカ洲を發見し、またポルトガル人バスコ、ダ、ガマ(Vasco da Gama)はアフリカ洲の南端喜望峰を廻航して、はじめて印度に達せり。これよりポルトガル人は率先して東洋の經略に着手し、まづ印度の臥亞を占領し、さらに東進して支那の媽港(澳門)を根據として、盛に貿易に從事し、東洋の貨物を本國に輸送し、これを西歐諸國に賣りさばきて、莫大の利益を獲得しぬ。またイスパニヤ人はコロンブスの發見以来専らアメリカ洲の經營に從事したりしが、マゼランが南アメリカ洲を迂回して太平洋に出で、フィリピン群島に来着せしより、絶えず南洋諸島に渡来し、遂に呂宋のマニラに政廳を立てて貿易を營めれり。かくて両國の軍艦・商船しきりに派遣せられて、植民・貿易に努め、一時東洋の海上に雄飛せり。 かくてポルトガルの商船支那の近海を航行する際、たまたま颶風に遭いて、紀元二千二百三年後奈良天皇の天文十二年、大隅の種子島に漂着し、島主種子島時堯に鐵砲を傳へたり。これより鎭西の諸侯はポルトガル人のもたらせる奇貨・珍器を喜び争ひてこれを迎へしかば、彼の商船しきりに鹿兒島・大分などに来り、さらにイスパニヤの商船と共に肥前の平戸に進み、ついで長崎に転じ、遂に毎年ここに来航することとなれり。その商船は永く長崎港に停泊し、諸國の商人皆ここに来集して互いに貿易を營みしより、從来寂寥たりし一漁村は忽ちに變じて繁華なる海港となりぬ。當時彼の商船は主に歐州及び印度地方の薬種・織物または珍器なる動植物・雑貨などを輸入し、おおむね南洋より渡来するを以て、邦人は南蠻船・南蠻人と呼びて大いにこれを歓迎せり。南蠻渡来の貨物中にも、邦人が最も驚異の眼を放ちしは當初専ら種子島と呼びなせる鐵砲なり。はじめ種子島時堯巨財を投じてポルトガル人よりこれを購ひ、更に鐵砲と火薬との製法を學ばしめ、忽ち近畿・關東に至るまで弘まりしが、ついで大砲もまた豊後に傳はりぬ。折しも戦國騒亂の際とて、この利器は大いに武人の歓迎を受けて広く全國に使用せられ、軍事に種々の變動を與へたり。すなはち戦陣に鐵砲隊を配して敵を射撃し、忽ちその精鋭を摧くが如きは、從来弓矢刀槍を以て唯一の武器としたりし折には、殆ど夢想だにせざることにて、かの長篠役などは最も早く火器の威力を實際に發揮したるものなり。ここに於て今までの一騎打ちよりは、むしろ集團的行動を重んずるに至り、騎兵戦はおのづと歩兵戦に移り行き、戦術もこれがために一變したり。かくて飛道具として主に鐵砲の用ひらるるに及びては、これが防禦として鐵札の鎧、竹束の楯など發明せられ、いわゆる南蠻鐵の甲冑は最も世に珍重せらる。また鐵砲の威力に對して堅固なる防備の必要起こりしより、堀を廻らし、石垣を築き、高く櫓閣を起して、頗る宏壮なる規模を以て城郭を構營するに至り、安土・大阪・伏見城をはじめ、下りては江戸・名古屋・姫路の諸城など、近世城郭の出現せしは蓋し火器の普及に原由するところ多しとなす。 鐵砲傳来後間もなくキリスト教傳はりて、我が精神界に少なからざる影響を與へぬ。キリストは我が垂仁天皇をの御世に當り、ユダヤに生れ、新たに教法を説きしが、後、その教歐洲に弘まりローマ法王の權勢は優にヨーロッパ諸國の帝王を凌ぐに至れり。然るに我が戦國時代に至り、ドイツ人ルーテルは法王の専横を憤り、これに反對して新教を主唱し、宗教改革の叫は歐洲全土に響應せしが、その反動として、イスパニヤ人イグナチウス、ロヨラは耶蘇會を起して新教に反抗し、極力法王を擁護して舊教を宣傳せり。ここに於てロヨラの同志フランシスコ、ザビエルは印度に来り、マラッカに於いて布教に力め居たりしに、たまたま薩摩の一青年罪を犯して煩悶の極遥かに印度に渡り、ザビエルに就きて教えを聞き、はじめて安心を得たり。ザビエルはすなわちここに機縁を得て我が國の傳道を志し、この青年に導かれて、天文十八年初めて鹿兒島に来る。爾来諸國を巡歴して布教に從事するや、島津貴久・大内義隆・大友宗麟らの諸侯に歸依せられ、布教を許されて數多の信者を得たりき。ザビエルはやがて印度に歸りしが、その後宣教師續々来朝して傳道に努めたれば、九州は素より、中國・四國より漸次近畿地方にも傳播し、京都にては三好長慶の保護によりてますます進展しぬ。この間往々佛教徒の排斥にあひいしも奮闘屈せず、終始熱心に傳道して、おひおひ全國に弘通せんとす。邦人その教えを天主教または切支丹宗と稱せり。 かくて天主教はおいおい盛なりしも、當時朝廷・幕府ともに衰頽し、いまだその確認を得ること能はずして、その勢力は一進一退の様なりしが、程なく織田信長の海内を統一するに至りていよいよその保護を得て俄に勢力を増進しぬ。蓋し當代の佛教界を見るに、寺院は戦國の時世につれて、僧兵を組織してみづから護り、往々政令に從はず、中にも叡山の如きは早くより近江の浅井長政、越前の朝倉義景らを助けて信長に反抗せしかば、信長怒りて不意にこれを襲ひ、火を満山に放ちて堂塔・伽藍を焼き盡くし、悉く僧俗男女を虐殺し、永年王城鎭護の霊地忽ち焦土に化して、上下の耳目を聳動せり。また蓮如以来勢力を得たる本願寺も、兵甲を蓄え、その門徒處處に一揆を起して諸侯と争い、殊に北陸地方に猛威を逞しくして、諸國を攻略したりしが、光佐に至りて攝津石山城(大阪本願寺)により、しばしばある信長に對抗したるを以て、信長またこれを撃てり。かく信長は、僧侶がとかく佛學を修めずして、かえって兵戈を弄び、まま豪奢にして濫行なるを悪みたる際、たまたま天主教の宣教師を引見してその教えを聞くに及びて、説くところもおほむね卑近にして日用道徳に適切なるを喜び、佛教の抑壓に利用せんがために、天主教に保護を加ふるに到れり。すなはち京都・安土に南蠻寺を建てしめ、勅許を請うて自由にその宣教を許ししかばポルトガル・イスパニヤの宣教師はますます多く渡来し、いづれも熱心に人々を教導し、信徒いよいよ増加して、遠く關東・奥羽地方にも及び、教會堂も各所に設けらる。中にも大友宗麟及び肥前の大村純忠・有馬晴信の三侯の如きは、最も熱心なる信者にて、使節を遙かにローマに派遣して法王に敬意を表せしめたり。使節に選ばれたるは伊藤満所をはじめ、いずれも元氣溌剌たる少年にて、宣教師に伴なはれて、天正十年長崎を出帆し、煙波渺茫、萬里の鵬程を經てポルトガルのリスボン港に着き、イスパニヤに入りて國王に謁し、更にローマに進みて法王グレゴリー第十三世に信書を呈せしが、その入城式には盛大なる儀仗を備へ、大いに歓待を受け、地圖・地球儀・時計など珍貴なる什器を携へて歸朝しぬ。 然るに宣教師の中にはまま不謹慎なる態度をあらはすものあり、信徒も亦熱心度を超えて往々我が國情に悖るの行動をありしかば、心あるものをして、その布教は畢竟これを以て人心を収め領土を奪ふ手段なりとの危惧を抱かしむるに至れり。たまたま秀吉の島津氏を伐つや、九州各地に於て宣教師らがやうやく暴慢にして、神社・佛閣を破壊し、信徒が祖先の位牌を河に流し火に焼くの亡情を見るに及びて、危惧の念いよいよ深く、凱旋の歸途箱崎八幡宮の社前において、突然外教厳禁の令を下し、日を期して宣教師を我が國外にさらしめ、國内の信者を罰し、南蠻寺を毀たしむ。これより天主教やや衰へたりしが、秀吉は、もと教えは禁ずるといえども通商はなお繼續するの方針なりしかば、この後も宣教師のひそかに来るもの絶えず、信徒また各所に潜匿して、キリスト教は依然として潜勢力を有したりき。 教會堂の諸所に設けらるるや、學校の附設せられるもの少なからず。これらは多くローマ法王グレゴリー第十三世の資によりて成り、豊後の臼杵・府内、肥前の有馬、肥後の天草、近江の安土などに洋學校の設立を見るに至りぬ。この學校は教會堂とともに和洋折衷又は純洋式様式の建築法によりて作られ、室内の装飾もやうやく歐風に赴くの様なり。ここに於いて歐洲の學藝漸漸國民の間に傳はり、天文・地理・物理など新しき科學の知識を授けられ、イスパニヤ・ポルトガル・ラテン語などを習ひ、日常ローマ字などをも使用せしかば、これら外國語の國語として今に残れるもの多く、現存せる信者の消息は素より、印章・刀の鐔などにさへ往々ローマ字を用ふるを見る。また彼我の書籍の編纂・翻訳なども盛に行はれ、後には天草に印刷所を設けて、活字にて刊行するに至り、後世に遺存するものまた少からず。なほ宣教師は布教の傍、慈善事業を起し、孤兒院・慈善病院を設けて不幸の人々を救護し、その他珍奇なる海外の貨物をもたらして邦人の見聞を広めたれば、人々これを敬慕して信仰にすすむと共に、好奇の念に駆られて舶載品を歓迎し盛に賣買を行ふに至れり。 かくて當時の社會には進取の氣風漲り、かねてより發達せる國民の海事思想は西洋人の来航によりて更に激發せられぬ。されば邦人の朱印を受けて海外貿易に從事する者頗る多く、中にも博多・長崎・堺・京都の商人らが仕立てたる朱印船は年々にその數を増し、朝鮮・支那の近海より遥かに印度・フィリピン群島に渡航し、盛に通商を營みたり。秀吉すなはちかかる時代を統一して、外にはしきりに國民の海外渡航を奨め、内には盛に金銀鑛を採掘して、幣制・田制を改めたれば、國力やうやく増進し、對外活動の機運いよいよ熟したり。ここに於て秀吉の豪放なる天性は時代の趨勢と相待ちて海外進展を策し、空前の雄圖を抱き、朝鮮・支那は素より、印度・フィリピン・臺灣に至るまでその入貢を促して、遠く國威を異境に輝かすと共にまた通商・貿易の利を占めていっそう國力の充實をはかれり。 秀吉まず明と交を修めんと欲し、朝鮮王にその嚮導を託したりしに、王李えんは明の威を恐れて敢へて從はず。秀吉よりてまづ朝鮮を定めて明に及ばんとし、關白職を甥秀次に譲りて太閤と稱し本營を肥前の名護屋に構へ、諸國に課して兵食を備へ、戦艦を造らしめ、諸將を部署して、あらかじめ朝鮮略圖を作り、五彩を施してこれを諸將に頒ちたり。ここに於て紀元二千二百五十二年後陽成天皇の文禄元年、小西行長・加藤清正をはじめ、十三萬餘の大軍順次名護屋を發し舳艫相接し、旗幟天を覆いて進みしが、わが軍勇敢にして連戦連勝はやくも京城を陷れ、行長は國王を逐う平壌を略し、清正は遠く咸鏡道に進みてに二王子を擒にし、朝鮮全土忽ち我が旗風に靡きぬ。國王大いに恐れて、援を明に求む。明の大軍到れば、小早川隆景ら忽ちこれを碧蹄館に撃破して大いに日本男兒の面目を揚げたり。よりて明廷大いに驚愕し、行長に就いて和を求めしかば、秀吉和議の條項を提示してこれを許し、諸將を召還せり。然るに居中調停に當たりたる沈惟敬は行長らを欺瞞し、行長らまたひたすら和平を成さんがために一時を糊塗して秀吉の意に反すること多く、彼の講和使の来りて大阪城に秀吉に謁するや、そのもたらせる國書に、秀吉を封じて日本國王となすの語あり、秀吉大いにその無禮を怒り、明使を逐ひて即時再征の令を發せり。ここに於て慶長二年諸軍再び海を渡り、驍勇の誉高き清正は蔚山の籠城にあっぱれ義勇を示したしが、この時既に明の大軍南下して前役の如き戦績を擧ぐるを得ず、我が攻略はおもに朝鮮の南部にとどまれり。時にはからずも秀吉病を獲て薨じ、遺命して出征軍の撤退を命ぜしに、この時恰も島津義弘奮戦して明の大軍を泗川に潰亂せしめしかば、これを機として兵を班し、征外十數萬の大軍、彼の追躡を免かれ、相ついで無事凱旋せり。 秀吉は東洋經略の偉業僅かにその緒に就きて、不幸中道にして薨じ、雄圖空しく去りしかど、蓋世の大志はよく發展の時世を統治するに適し、後世をして永くその偉業を欽慕せしむ。殊に征韓の役に當たりても、軍紀を肅清して厳に沿道の掠奪を禁じ、ねんごろに良民をいたはらしめしは、後、島津義弘が該役戦病死者の供養碑を高野山に建て、敵味方の別なくこれを弔はしめし美績と共に、邦人博愛の精神を偲ぶに足る。また秀吉みづから名護屋の本陣を進めて渡海し、かねての抱負を實現せんと志ししに、病母の身を案じて果さず、遂に歸洛してねんごろに母の喪に服せり。かくて軍事を統督する間にも時々歸洛して種々の民政を處理したりしが、この内外多端の際また悠々として閑日月を樂しみ、綽々たる餘裕を示すものあり。老後の一子秀頼の徐生るるに及びて、秀吉大いにこれを愛撫し、これに大阪城を譲りてみづからは伏見城を營みて退隠の居城とし、また慶長三年彌生の半、醍醐の三寳院を修めて天下の名花を集め植ゑしめ、秀頼及び妻妾を伴なひて豪奢なる花見の宴を催し、數寄をこらせる茶屋を廻りて歌を詠み宴を張り、以て一日の歓を盡せり。然るに秀吉はこの遊興を最後として間もなくその五月より病を獲たるが、この時外には十數萬の出師ありて、未だ戦局の終わりを全うせず、内には世子秀頼幼少にして、將士ややもすれば黨を立てて一致せず、彼を思ひ此を念ひては憂慮懊悩、しきりに五大老・五奉行及び三中老らを召し、聲涙共に下りて懇々後事を依託し、また再三誓詞を上らしめて、協同して秀頼を擁護せしむ。かくて八月ついに六十三歳を一期として逝きしが、その生涯は實に波亂重畳、往時を回顧しては夢また夢、太閤の末路またあはれなるかな。

第二十一江戸幕府の成立 社會組織 織田信長・豊臣秀吉の後をうけて、國内統一の業を完うしたるは徳川家康なり。その先新田氏より出づと傳え、上州より移りて三河に入り、松平氏をつぎて七代を經、岡崎城主廣忠に至る。家康はすなはち廣忠の子にして、幼名を竹千代と呼べり。當時松平氏は、織田今川両氏の間に介在して、その勢力甚だ微弱なりければ、竹千代は幼少より織田今川両家に質として久しく抑留せられし程なりしが、天性聡明なる上、辛苦の間に人となりて、堅忍の性格を養へり。桶狭間の役に今川義元戦没し、その子氏眞の為すなきを見、家康斷然これと絶ちて信長と結び、遂に今川氏の所領遠江を略して濱松城に移り、ついで信長と共に武田勝頼を滅して駿河を併せたり。後幾ばくもなくして本能寺の變あり、關東の地また、頗る紛亂したれば、家康これに乗じて、更に甲・信の二國を略し、一躍して五國の太守となりぬ。それより織田信雄を助けて、小牧山の義擧に大いに威望を高めたりしが、ついで秀吉に從ひて小田原の役に大功を樹て、北條氏の舊領を受けたれば、豆・相・武・両總・上野などの諸圖を領し、濱松より移りて江戸に入城す。時に天正十八年八月朔日なり。江戸城はもと太田道灌の築くところにして、後、北條氏の有に歸し、その稗將の守るに過ぎず、城廓も極めて狭小なり。この地東南の一隅海を控へたる外、三面は漠々たる武蔵野にして、いたづらに蘆荻の茂るにまかせ、昔ながらの月影は、いはゆる草より出でて草に入るの様なりしに、家康は鋭意これが經營に着手し、丘陵を削り、海岸を埋立て、神田上水を引きて士民の便益をはかり、また諸侯に課して壮大なる江戸城を築造し、城下に市街を開かしめて、はやくも大都市の基礎を築きぬ。 かかる間に秀吉は内外多事憂慮懊悩のうちに薨去し、その遺言によりて、前田利家は大阪城にありて秀頼を輔け、家康は伏見城にありて庶政を掌りしに、程なく利家薨ずるに及び、家康の聲望獨り盛なり。その身既に内大臣の高位に居り、關東の大領土を有して、諸侯を威壓し、まゝ専權の傾ありしかば、石田三成は、その遂に豊臣氏のために不利ならんことを虞れ、ひそかにこれを除かんとす。三成才幹ありて吏務に長じ、夙に秀吉の恩顧を蒙りて頗る勢力ありければ、加藤清正・福島正則・浅野幸長ら攻城野戦の勇將は、三成が文吏にして權を弄するを憎み、素よりこれと善からず、黨争いよいよ激し。既にして三成は上杉景勝の老臣直江兼續と結託し、紀元二千二百六十年第百七代後陽成天皇の慶長五年景勝封邑會津にあり、しきりに兵備を修めて家康の命に抗せしかば、家康宿將鳥居元忠を留めて伏見城を死守せしめ、みづから大兵を率ゐて東下す。正則・幸長・黒田長政・細川忠興らまた相前後して軍に從ふ。三成その虚に乗じ、檄を四方に飛ばして家康の罪を鳴らし、大いに兵を募りしに、毛利輝元・島津義弘・宇喜多秀家・小早川秀秋・小西行長・長曾我部盛親・吉川廣家など有力なる諸侯檄に應じて来會し、輝元これが盟主たり。三成まづ大阪にありし東征諸將の妻子を収めて質とせんとせしに、忠興の妻明智氏拒みて自刃せしかば、その事遂に成らざりしも、程なく伏見城を陷れ、兵を進めて美濃に陣せり。一方家康は、わざと行程を緩めて悠々下野の小山に達せし時、その急報を得、子秀康を留めて景勝に當らしめ、みづからは東海道より、子秀忠は中山道より、直ちに軍を還して西上せり。中山道の軍は遂に信州眞田氏のために遮られし間に、東海道の軍は奮進して九月十五日敵と關原に合戦せり。この役、両軍の兵數ほゞ相當り、激戦數刻勝敗容易に決せざりしに、小早川秀秋ひそかに?を東軍に通じ、俄に味方の背後を衝くに及びて、西軍忽ち潰亂し、三成・行長以下多く捕斬せられ、景勝もついで降りぬ。家康すなはち戦後の賞罰を行ひ、秀家・盛親らの所領を没収し、輝元を山口に、景勝を米澤に移して各々その封土を削減し、これに反して有功の將正則を廣島に、幸長を和歌山に転封して、領土を加増するなど、その他變動頗る多かりき。かくて徳川氏の興敗は、いはゆる天下分目のこの一戦によりて決せられ、從来豊臣氏に仕へたりし諸侯も、おのづから家康の下風に立ち、その家臣に伍するに至り、これを外様大名と稱して、徳川氏譜代の大名と區別するに至れり。 家康海内の實權を握り、慶長八年征夷大將軍に任ぜられ、幕府を江戸に開きて天下の政治を統べたれば、覇府の名實共に備りぬ。越えて二年、家康は將軍職を秀忠に譲りて駿府に退隠せしも、なほ大事はみづから裁斷せり。然るに秀頼は、關原の役後は僅かに攝・河・泉六十五萬餘石を領して、一大名に過ぎざりしかど、故太閤の嫡子として名望おのづから高く、巨額の軍費を有して金城湯池の大阪城に據り、秀頼の生母淀君は大野治長らと謀りて豊臣氏の舊業を復せんとするの志あり、諸侯の中にも、太閤の舊恩を懐ひて、ひそかに心を大阪に寄するもの少からず。されば家康常にこれを憚りしに、おのが齢またやうやく傾きて、後事期すべからざるを念ひて、一日も心を安んずること能はざりき。たまたま秀頼家康の勸により、嘗て父の造營せる方廣寺の大佛を再興して、第百八代後水尾天皇の慶長十九年その供養を行はんとするに當り、新に鑄たれし巨鐘の銘に「國家安康…君臣豊樂、子孫殷昌」などの文字ありしにより、家康これを以て己を呪詛するものなりとし、俄に供養を中止せしめて、厳しく大阪を詰責す。秀頼の傳片桐且元駿府に赴きて百方辨疏せしも、家康更にこれを聴かず、且元らは努めて家康の意を損せずして、主家を全くせんと謀りしに、淀君・治長らはこれを斥け、秀頼に勸めて兵を擧げしめしかば、長曾我部盛親・眞田幸村・後藤基次ら天下の浪士四方より来集し、城中の勇士木村重成・薄田兼相らと力を合はせて城を守り、その將卒數萬に達せり。家康すなはち秀忠と共に大軍を發してこれを圍みしに、城中よく防ぎ、城また堅くしで容易に抜くべからず。よりてその十二月一旦和を結びて圍を解きぬ。これを大阪冬の陣といふ。 この構和の際大阪城の總濠(外濠の義)を埋むることを約せしに、家康士卒を發して外濠を埋めしむるに當り、更に内濠に及び、また二の丸をも壊ちしかば、城中大いにその詐謀を憤りて再擧を圖り、家康父子また来り攻む。然るに、さしもの堅城も城濠外廓既に失はれて、據守の利少きを以て、後藤・薄田・木村らの勇將は、いづれも河内の方面に出陣して邀撃せしに、利なくして悉く戦死し東軍勝に乗じて直ちに大阪に迫る。名將眞田幸村ら奮撃、しばしば敵の大軍を悩ししも、これまた敵はずして討死し、元和元年五月城遂に陷りて秀頼母子自刃し、治長以下皆これに殉じ、豊臣氏全く滅亡せり。これいはゆる大阪夏の陣にして、秀瀕の庶子國松は斬られ、その株は、後、剃髪して鎌倉の東慶寺に入り、秀吉の子孫は絶えて、海内あげて徳川氏に歸しぬ。これより兵革永く熄みたれば、世にこれを元和偃武といふ。 家康大阪を滅して多年不安の念を刈除し、翌年從一位太政大臣に任ぜられしに、程なく病を獲て駿府に薨ぜり。家康天性深謀遠慮にして、極めて耐忍力に富み、これを輔佐するに本多忠勝・榊原康政ら譜代の武將ありし上に、本多正信・正純父子、僧天海・崇傳の帷幄に参するあり、諸般の制度を創め、文教を興し、以て二百六十餘年泰平の基を定めたりき。朝廷特にその功を賞し、東照大權現の號を賜ひ、正一位を贈らせたまふ。一旦これを久能山に葬りしが、やがて日光山に改葬し、後、東照宮號の宣下あり。はじめ天海江戸に東叡山寛永寺を開きしが、その議によりて後、法親王こゝに迎へられ、輪王寺の宮として世々日光東照宮の事を管せらる。日光廟は更に家光によりて大いに改造せられ、殿舎門廡悉く精緻なる彫刻と燦爛たる金色五彩を施し、陽明門の如きは殊にその粋を集めたり。しかして構常寧ろ纎巧に過ぐるの観あるも、華麗の建築は、あたりの明媚なる山水と相映應して、實に天下の美観たり。 二代將軍秀忠は謹厚にしてよく家康の遺法を守り、福島氏をはじめ常に徳川氏の憚れる諸侯を除きて、幕府の威信を増ししかば、三代家光の治世に入りては、統制割合に易々たるの情勢なりき。加ふるに家光は生れながら將軍の嗣にして、女丈夫の誉高き春日局の教養を受け、人となり剛邁潤達なりし上に、土井利勝・阿部忠秋・松平信綱の諸名臣またこれが輔佐に努めたるより、幕府の基礎いよいよ堅く、家康以衆の諸制度大いに整へり。 江戸幕府の重職には大老・老中・若年寄の三役あり、その會同合議するところを用部屋といふ。大老は幕政を總括するも、常置の職にあらず、老中主として政務に當り、京都及び諸侯の事を掌る。若年寄は特に旗本・諸士を管掌す。これについで寺社奉行・勘定奉行・町奉行の三要職ありて、各々寺社、幕府の財政、江戸の市政を分担し、また別に大目付・目付ありて、大名・旗本を監察せり。なほ常備の軍卒ありて、平時の警衞に任ずるも、戦時にありては、以上の文官も立ちどころに武官と變わりて從軍し、大名・旗本・諸士と共に忽ち軍備を組織するの制たり。また地方には諸大名を封じたれども、重要の地は多く幕府の直轄とし、京都の所司代・二條城番、大阪・駿府の城代、甲府勤番、京都・大阪の町奉行をはじめ、奈良・伏見・山田・日光・佐渡・長崎・堺・下田・浦賀・函館・新潟・神奈川・兵庫などの要地には、前後それぞれ奉行を置きてこれを治めしめたり。 諸大名の統制に就きては、家康以来深く意を用ひ、はやくも封土配置の上に於て諸侯を制するの方策を立てたり。すなはち江戸を中心とせる關東八州、京都を中心とせる上方八箇國及びこの両處を聯絡するに枢要なる東海・東山二道には、譜代大名を配し、外様大名はおほむね辺陬の地に封ぜしが、またその間に、尾・紀・水の御三家をはじめ、徳川氏の親藩及び幕府の天領を交へ、天領は郡代または代官をしてこれを支配せしめ、犬牙錯綜の封地により、大小親疎の諸侯互に相牽制せしむることとせり。 また、諸侯權力の平均に就きても、頗る意を用ひたり。譜代大名は領地おほむね小なれども、幕府の要職に用ひられ、封地大なる外様大名は毫も幕政にあづからしめざれば、領土の大小と政權の多少とはよく平衡をたもちて、まま從来の武家政治に見るが如き諸侯跋扈の弊を斷ちたり。 なほ諸侯制肘の策として、譜代・外様の別なく、天下の諸大名をして、必ず隔年江戸に参勤交代せしめ、その妻子を江戸に置かしむるの制を立てたり。されば街道の要所に關所を設けて行旅を検するうちにも、殊に諸侯の江戸邸に於ける妻女の逃出を恐れて、女子の取調を最も厳にしぬ。この参勤制度は既に家康の時にはじまり、三代家光に至りて確定したるものにして、爾来多少の變更ありしも、幕末に至るまでよく繼續したりしが、十四代將軍家茂の時これを弛め、妻子をして國に就かしめ、その制遂にすたれて、程なく幕府の衰亡を見るに至れり。 また家康は學僧崇傳らをして武家諸法度十三條を制せしめて、これを公布せり。その後、將軍の禪代毎に更にこれを頒ち、その箇條に多少の増損ありしも、築城・徒黨・私婚などの厳禁、参勤交代制の遵守、文武の兼修、禮節・倹約の奨勵などを主とし、法令を以て部下に臨み、常にこれを勵行して諸侯を抑壓せり。 蓋し徳川氏の封建制度は最も整備せるものにて、幕府は唯政治の大綱を握るにとゞまり、諸藩の政治はあげてその自由にまかせたり。されど地方分權の弊を避けんがため、百方諸侯制馭の術を講じて、權力を中央に集むるに努めたるより、再び下剋上の弊をかもすことなく、よく永年の泰平を保ち得たりき。 當時社會は階級制度頗る厳格にして、將軍は上至尊を奉戴して下萬民を統率し、これに直屬せる大名には親藩藷代外様の別ありて、その親疎の家格・采地の大小により各々權力を異にし、官位禮遇より式日の服装・殿中の席次に至るまで、それぞれ差等を立て、高下の格式整然として毫も相冒すことなし。しかして幕臣の旗本・家人及び各藩の士人はいづれも世禄を賜はり、文武の両道を兼修して忠節・禮儀を尚ぶを旨とし、社會上流の地位を占む。これに支配せらるゝ庶民に至りては、農・工・商の三級に分れ、いづれも苗字・帯刀を許されず、極めて質實なる生活を營みたり。しかして庶民の日常生活は武家の干渉を受けず、かへつて地方の舊慣によりて自治の風習を保ちたれば、自治の制度はおのづからその間に發達し、名主または庄屋専ら村民を支配して、村内の産業。交通・教育・風俗などを取締り、その下に五人組制度により、村民は連帯責任を負ひて治安の維持に努め、大いに隣保團結の美風を發揮せり。 第二十二 海外諸國との交通 家康は秀吉の遺圖を襲ひて広く海外諸國と交り、進取の氣風みなぎれる社會の大勢に順應して通商貿易を奨勵し、大いに國富を増加せんとせり。 古来我と唇歯の關係ありし隣邦朝鮮とは、秀吉の出兵以来交通全く絶えたれば、家康まづこれを復活せんとし、對馬の宗氏をしてその交渉に當らしむ。宗氏は自國の經濟上朝鮮との通商を利とし、極力修交に力めしかば、遂に慶長十二年彼の使節来聘して圖書・信物を呈し、幕府大いにこれを優待し、國交こゝに復活して、爾来將軍の代る毎に、彼より慶賀使を送ることとなれり。しかして宗氏は、世々彼我の間にありて仲介の勞を取りしのみならず、貿易の權を獨占して慶長十四年彼と己酉約條を結び、對州人の館を釜山に設け、歳遣船二十艘を約して通商の利を収めたり。然るに幕府が彼の来聘使を過するの儀勅使よりも重く、應接・饗宴また厚きに過ぎて、いたづらに莫大の經費を要し、またかへつて我が國の體面を損ずること少からざりしかば、後、新井白石斷然新儀を立てて、その待遇法を改めたり。 家康また支那と隣交を修めんとし、明商に許して勘合符を求め、貿易の復活を切望せしに、國交は遂に成立を見ざりしも、彼の東南沿海地方の商船は常に長崎に来航し、我が京都・堺・長崎の商人及び大名・寺院などの朱印船しきりに彼に渡りて交易を營むもの頗る多し。程なく明亡びて清のこれに代るに及びても、長崎を互市場とし、こゝに唐館を設けて永く清商と貿易を繼續しぬ。明の遺臣鄭芝龍かつて平戸の田川氏を娶り、その子鄭森(朱成功)と共に明朝の回復を謀り、我に救援を請ひしに、幕議これを拒みしより、挽回の策遂に果さざりしも、後、鄭森は臺灣に抜り、その孫に至るまで、なほ孤忠を守りて清朝に抗敵せり。また明の遺民にして、まゝ我が國に来れるものあり。儒士朱之瑜(舜水)は水戸藩主徳川光圀の賓師となりて史學を興し、陳元贇は尾州藩の客として柔術を開き、僧隠元は宇治に萬福寺を開きて黄檗宗を傳へたるなど、我が文教の進歩を資けたるの數少からず。 琉球はもと我が國に屬し、室町時代より年々薩摩の島津氏に入貢したりしが、また明にも通じ、久しく我に貢を缺きしより、島津家久は家康に請ひてこれを招きしに、聴かず。。こゝに於て家久兵を遣はしてこれを伐ち、王尚寧を虜にして歸りしが、幕府これを優待して國に還らしめしかば、王は深くその恩に感じ、永く島津氏の附庸となりて、歳貢を獻ずることとなりぬ。 家康また廣く西洋諸國と通商を開かんとし、まづ、かねてより来航せるポルトガル(葡萄牙)・イスパニヤ(西班牙)両國との貿易を盛に奨勵せり。よりて歐洲諸國は、依然東洋の貨物を専らこの両國に仰ぎたりしが、イスパニヤの屬國にオランダ(和蘭)あり、はやくより新教を奉じて本國と信仰を異にし、遂に反きて獨立せしかば、もはや東洋の貨物を本國に求むること能はず。こゝに於てみづから進んで東洋の航路を開かんとし、東印度會社を立てて、しきりに船隊を派遣し、遂にマレー諸島を經略し、ジャワ島のバタビヤに根據を定め、ポルトガル人を壓倒して盛に貿易を營みたり。またイギリス(英吉利)人も夙に航海の術に長じ、東洋に来航してマレー諸島にては。オランダ人との競争に敗れしも、印度方面にては着々成功し、東印度會社を起してマドラス・ボンベイなどに占據し、しだいにその經營の歩を進めて、みづから東洋貿易の覇權を握らんとせり。さればかゝる東亞の形勢は、やがて我が國に及びて、新に國交を促進するに至れり。 オランダの東洋に派遣したる遠征隊五隻は、航海の途中種々の支障にあひ、唯そのうちの一隻、慶長五年豊後に漂着せり。家康命じてこれを浦賀に廻航せしめ、その乗組員オランダ人ヤン、ヨーステン(Jan Joosten耶楊子)イギリス人ウィリヤム、アダムス(William Adams三浦按針)の両人を江戸に召し、具に海外の情勢を聞きて、いよいよ通商を盛にせんとし、両人を優待して邸宅を與へ、外交の顧問として江戸に留らしむ。ヤン、ヨーステンは幕府に請ひて、はやく我が國を去りたるも、なほ八代洲河岸稱呼にその名を残せり。アダムスは最も家康の信任を得て、江戸の邸地の外、三浦半島にも領地を賜はり、永く幕府の外交に参與し、あるひは命ぜられて西洋型の大船を造り、あるひは蘭・英両國との交渉に力を盡くししが、安針町東京市日本橋區按針塚横須賀市逸見などの遺跡にその名残を留めぬ。 かくて蘭・英両國との國際關係も新に起るに至れり。慶長十四年オランダ船二隻平戸に来り、圖書・方物を幕府にさゝげて通商を請ひ、家康の國王に宛てたる答書と貿易公許の朱印状とを得たり。こゝに於て平戸に商館を設け、京・大阪・江戸などにも出張所を置きて盛に貿易を營むに至りぬ。ついで慶長十八年イギリス船もまた来航し、船長ジョン、セーリス(John Saris)國王ジェームス第一世(James Ⅰ)の國書をもたらし、アダムスの周旋によりて朱印状を得たれば、これより平戸に商館を置き、リチヤード、コックス(Richard Cocks)を館長として通商を開始したり。されど、とかくオランダ人に壓せられて、貿易の利少きを見、間もなくみづから退きしかば、オランダ人獨り通商の利益を占め、日蘭の親交は永く繼續しぬ。 家康またイスパニヤに屬せる呂宋とはやく通商を開きしが、更にイスパニヤ領なるメキシコ(濃毘數般Nova Hispania新西班牙の義)とも直接貿易を開始せんとす。たまたま呂宋の前太守我が國に漂着せしかば、幕府これを優遇し、メキシコに送還するに際し、京都の商人田中勝介らを同行せしめて、通商を求めしめしも成らず。こゝに於て伊達政宗更に將軍の内旨を受け、家臣支倉常長・六右衞門を使節として派遣せり。慶長十八年常長ら奥州・月浦を解纜して一路メキシコに渡り、更にヨーロッパに航して、イスパニヤ國王フィリップ第三世(PhilipⅢ)及びローマ法王ポール第五世(PaulⅤ)に拝謁し、到る處大歓迎を受け、呂宋を經て歸朝せり。この行前後七箇年の日子を費ししが、貿易の事は遂に成功せざりき。 かく西洋人の續々渡来するにつれて、さなきだに海事思想の發達したる我が國民は、これに刺激せられて、ますます海外雄飛の念を興し、頗る活氣を呈したれば、幕府もこの時勢に應じて外國貿易に至大の保護を加へたり。すなはち家康は外國人の治外法權を許し、沿海自由貿易を認めて、廣く國土を開放して輸入品を歓迎し、また國民の出貿易を奨勵して、請ふがまゝに渡海公許の朱印状を與へぬ。されば京都の角倉、茶屋、大阪の末吉、松阪の角屋、堺の納屋、長崎の末次などの商人をはじめ、西南地方の大名、近畿地方の寺院など、しきりに朱印船を支那・印度・南洋諸島に出して商利を博したり。よりて彼我の往来頗る盛にして、我よりはおもに銅・硫黄・樟脳及び銅器・漆器、その他調度品を輸出し、彼の生糸・絹織物・砂糖・薬種及び香木・硝子器などと交易して、通商の利益を占めしかば、江戸時代當初財政の豊富なりしは、これに原由するところ多しとなす。 したがつて國民進取の氣象大いに振ひ、海外に移住するものやうやく多く、呂宋・暹羅・安南・交趾などには日本町さへ建設せられ、多きは數百數千人の居留民を數ふるに至れり。駿河の人山田長政暹羅にありて、日本町の壮丁を糾合し、圖王を助けて内亂を鎭定し大功を樹てしかば、王の女婿となりて威名を轟かし、その戦艦の固を轟かに郷國駿州の浅間神社に奉納して、神恩を謝せしことあり。また當時オランダ人臺灣に占據し、我が商船の近海を過ぐるものを劫掠すること頻頻たりしかば、長崎の人濱田彌兵衞はこれを憤り、衆を率ゐて臺灣に渡り、いたく蘭人を懲せり。なほ天竺徳兵街が、少年の頃よりたびたび印度地方に渡航して商利を獲、松倉重政が呂宋を征せんとして、家臣を遣はしてこれを視察せしめしが如き、勇敢冒險の逸話また少からざりき。

第二十三 鎖國 家康は秀吉の方針を襲ひて、天主教を禁止せしかど、海外との通商はこれを奨勵せしかば、彼我の交通しげきにつれ、ポルトガル・イスパニヤの宣教師ひそかに渡来して布教に徒事し、我が國民の天主教を奉ずるものまた少からず。然るに家康素よりその教の國家に害あるを認めたる上に、かねてこの両國人と相容れざるオランダ人は、彼らが布教は、全く國土侵略の手段なる由を幕府に密告したれば、大いに驚きて慶長十七年以来たびたび禁令を發し、宣教師を海外に逐ひ、信徒を厳罰せり。されどこれが禁遏は、内外の交通貿易に制限を加へざれば、たうていその目的を達すること能わざるより、秀忠は元和二年西洋人の貿易を長崎・平戸に限り、家光は更に進みて寛永十年以来ますますその制限を厳にし、邦人の海外渡航及び異國居住者の歸國を厳禁し、遂に長崎港内に出島を築きて、ポルトガルの商人をこゝに移し、一切國民との交通を斷ち、以て天主教の傳播を防ぎたりき。 然るに九州はキリスト教初傳の地にして、かねてより信徒多く、殊に肥前島原半島は熱心なる信者有馬氏の所領にして、肥後の天草島は同じくキリスト教徒たりし小西行長の舊領なれば、この地方は實に信徒の淵藪にして、浸染の久しき、容易にこれを根絶すべくもあらず。よりて幕府は有馬氏を転封し、これに代るに、外教の嫌厭を以て有名なる大和五條の城主板倉重政を以てし、これが禁遏を圖らしむ。重政すなはち有馬氏の原城を毀ち、新に島原に城づきてこゝに居り、あらゆる峻刑苛法を以て教徒を抑壓し、その子勝家更に重税を課して領民を壓服せしかば、怨嗟の聲ますます高まれり。たまたま紀元二千二百九十七年、第百九代明正天皇の寫水十四年の秋、嘗てザビエルの豫言せるキリスト教復興の時到れりとて、信徒相集りて祈祷に耽りたるを、藩吏これを捕へんとして衝突したるを動機とし、遂に一揆の蜂起となりぬ。すなはち島原・天草などの信徒相結び、益田四郎時貞なる少年を擁して天使と稱し、原の城址を修めてこれに據りしが、その徒老幼男女すべて三萬七千餘人に及べり。幕府板倉重昌をしてこれを討たしめしに、賊勢猖獗にして、容易に抜く能はず。既にして、重昌は老中は松平信綱の己に代りて軍を督せんとするを開き、武士の面目を重んじて、翌年正月元日總攻撃を行ひ、挺身奮戦して遂に殪る。信綱ら来り、諸藩の兵會するもの十二萬餘に達せしが、また持久の策を取り、城中食盡くるを待ち、二月やうやくこれを陷れて、賊徒をみなごろしにせり。世にこれを島原の亂といふ。 幕府はこの亂に懲りて、寛永十六年長崎在留のポルトガル人を放逐し、斷然外國船の渡来を厳禁せり。これよりいはゆる鎖國となりて、社會に種々の影響を與へたり。 幕府はまづこの亂により、いよいよキリスト教の害を恐れ、國内の信徒を根絶せんがために、あらゆる禁教の制を布き、あるひは賞をかけて宣教師または信徒を捜索し、あるひは踏繪を以て信仰の眞偽を糺せり。しかして全國の民貴となく賤となく悉く佛教を奉ぜしめ、戸毎に所屬の寺院を定め、宗門帳を作りて寺院をしてその所屬を證明せしめ、遂には檀家の生死嫁娶に至るまでこれを監せしめたれば、古来の戸籍法こゝに於て一變し、吏員時を定めて宗門帳を検査せり。これを宗門改といふ。かくて佛教は殆ど國教となり、一向宗をはじめ禅・浄土・天臺・眞言・法華などの諸宗江戸時代を通じて行はれ、諸寺は一定の朱印地を給せられて、社會に甚大の勢力を有したり。されど幕府はこの保護を加ふると共に、一方には家康以来諸宗本山法度を下して、厳にこれを取締りたれば、王朝の寺院の如き横暴をほしいまゝにサることなく、また僧侶は保護の厚きになれて安逸に流れ、かへつて活氣を失ひ、文治おほむね三百年の間、かつて新宗派の興るものなかりき。 なほ幕府は天主教を恐るるあまり、洋書の輸入を禁じ、宗教に關するものは素より、天文・地理・暦數などの書籍に至るまで、おひおひ禁書の範圍を廣めたり。されば從来盛に傳来せし歐洲の學藝は、その途全く杜絶し、國民はために西洋の文明に遠ざかり、永く世界の進運に後るるに至れり。 また幕府は厳命して、爾後大船を造らしめず、絶對に邦人の海外渡航を禁止したれば、戦國時代以降社會にみなぎりし海外發展の氣勢は全く挫折せられたりし。さればたまたま印度・南洋諸島に出現せる日本町も忽ち衰滅し、圖南の大志空しくして酬ゐられず、萬恨涙をのんで異域の土となりしものまた少からず。はやくも我が植民したる島嶼は、ほしいまゝに歐人の蹂躙にまかせ、我は退いていたづらに太平の夢を貪るに至りぬ。 したがつて海外貿易は忽ち衰へて、また前日の盛況を見る能はず。島原の亂平ぐや、幕府は、ポルトガル人を長崎出島より放逐して、西洋人の渡来を禁止せしも、唯オランダ人は貿易を主として、かつて布教に關係せず、常に幕府に恭順なるを以て、これを平戸より出島に移し、支那人と同じく来りて通商することを許せり。これより長崎奉行に命じて取締を厳重にし、港灣の要處に守備を設け、鍋島・黒田の二侯をして隔年交代してこの地を警備せしむ。爾来オランダ人永く我が國との通商權を獨占し、毎年一回来航して出島に於て貿易を營みし上、まゝ遙かなる海上にて、ひそかに我が商人と交易を行ふことさへありき。然るに幕初以来とかく金銀の海外に流出すること夥しく、遂に國内正貨の缺乏を来ししより、後、新井白石の建議により、第百十四代中御門天皇の正徳五年、幕府長崎新例を發して、清・蘭二國の貿易の船數を限り、通商の額を制限して寳貨の濫出をとゞめ、また厳に奸商の私販を誡めたり。かくて、海外貿易はしだいに縮少せられてますます不振となり、以て幕末に及びぬ。 顧みれば、家光の鎖國政策は我が政治・經濟・文化の上にそれぞれ至大の影響を與へ、永く我が國を世界より隔離して、損失するところ少からざりきといへども、また多大の裨益を認めざるべからず。すなはち西洋との交渉を絶ちたるため、我が國を世界の波瀾のうちに投ぜず、よく國内の泰平を保ち得たれば、その間に封建の制度は完備し、内國の産業は發達し、儒學は普及し、かへつて本邦特有の思想・文化の進歩を促ししなり。殊に鎖國中も、世界の文明はなほ長崎の一角より傳はりぬ。毎年オランダ船の来るや、出島のオランダ商館長は船長らを伴なひて必ず江戸に参勤し、將軍に拝謁して恭順を表し、且、歐洲諸國の近情を報ぜしかば、幕府はこれによりてほゞ海外の大勢を知るを得たり。また後には、洋學の研究者が、これら蘭人の江戸滞留中、その宿舎に就きてひそかに蘭學を研究するの便宜を得、おのづから洋學の發達に資するところありき。

第二十四 學問の復興 戦國時代以降久しく振はざりし文教は、社會の進運につれ、上下の奨勵によりて俄に復活したり。後陽成天皇は和漢の學に通暁したまひ、日本紀神代巻・四書などの勅版あり、後水尾天皇は殊に和歌・國學に通達したまひ、また第百十代後光明天皇大いに儒學を好みたまひしかば、朝堂の諸卿も學に勵むもの多く、文運大いに京都より興れり。一方關東に於ても、家康幼より今川氏に學び、長じて和漢の書を愛読し、好學の念ますます強く、治國の要は畢竟文武両道の竝立にありとなし、専ら文教を興して、戦國殺伐の餘風を矯め、以て泰平の治を致さんとす。されば家康は兵馬倥偬のをり、はやくも京都の宿儒藤原惺窩を名護屋の陣中に引見して經史を講ぜしめ、ついでその門人林道春(羅山)を辟して幕府の儒官となし、政教の顧問に備へたり。道春は博覽強記、夙に意を宋學にひそめ、朱子の新註を以て論語を講ぜしかば、古来漢唐の古註を奉ぜる清原秀賢これに抗議せしに、家康直ちにこれを斥けて、人倫の道は自由にこれを討究せしむることとせり。かくて朱子の學説は最も穏健なりとて、幕府の官學として採用せられ、林家永く名教の維持者を以て任じたり。なほ家康は廣く古書の抄寫蒐集をはかり、江戸に富士見亭文庫を建てて、金澤文庫の蔵書を収め、また新に活字を鑄造して、足利學校に寳蔵せる孔子家語・貞観政要・群書治要などを刊行せしめ、向學の氣風やうやく海内にみなぎりぬ。 家康以後歴代の將軍相ついで學問に勵みしが、五代綱吉は天性聡明その生母桂昌院の輔導によりて、幼より學につとめ、經史を諷誦して病臥といへども手に書巻を放たず。その將軍となるに及びて、しばしば奨學の令を發し、みづから經書を城中に講じて、諸侯・士大夫らをしてこれを聴聞せしめし程なり。これより先、道春塾舎弘文院を上野忍岡に起し、尾張藩主徳川義直ために孔子の廟をこゝに建てたりしが、綱吉その規模の狭小なるを憾み、これを湯鳥に移し、新に宏壮なる大成殿・學寮を造る。これを總稱して湯島聖堂といふ。しかして道春の孫信篤(鳳岡)をして髪を蓄へて士籍に列し、大學頭に任じて祭祀を掌らしめ、綱吉みづから臨みて釋奠の禮を擧ぐ。將軍好學崇文のあまり、こゝに詣づることこ前後十數回に及べりといふ。これより林家代々大學頭に任じて文教を總轄し、春秋の両度釋奠を擧げ、學生をして文武両道を兼修せしめ、學は漢學にして専ら朱子學によらしむ。世にこの學舎を孔子の故郷昌平郷の名に因みて昌平校と稱し、寛政年間更に規模を擴張して幕末に及びぬ。ここに於て全國諸藩もまたこれにならひて各藩學を起し、藩士の子弟をして文武の両道に勵ましめたれば、士分の教育は駸々として進み、昌平校を中心として全國に普及せり。 かくて漢學しだいに盛となり、著名の學者おひおひに輩出して諸種の學派を生ずるに至れり。これより先、近江の人中江藤樹祖父に從ひて伊豫の大洲藩に仕へたりしが、郷里に残せる老母を案じて、致仕して歸郷し、奉養甚だ厚く、また諸侯の聘に應ぜず、塾を開きて門弟を教養せり。その信奉せる學は明の王陽明の主唱したる陽明學にして、専らおのが良知を恃み、知行合一を期するにあれば、日常實践躬行に努めて、その徳行隣里郷黨を感化し、世に近江聖人と稱せらる。その門人中熊澤蕃山最も傑出し、特に經濟の識に富む。はじめ備前侯池田光政を輔けて藩治に大功を樹て、後、京都に出でて學を講じ、名聲嘖々たりしが、かへつて幕府の忌むところとなりて遂に罪せられたり。これと同時に京都の碩學伊藤仁齋は宋儒の説を聖人の旨にあらずとして、敢然起ちて朱子學に反對し、多年論語・孟子二書を討究して、溯りて孔孟の眞意を尋ね、遂に古學を主張せり。仁齋人となり寛厚温順、その子東涯と共に道義の高きを以て聞えたれば、その堀川塾に来り學ぶもの殆ど海内に遍く、門下二千餘人、徳義に勵むもの頗る多し。これに對立して江戸に荻生徂徠あり、同じく古學なれども、孔孟の眞意に接するには、まづ古文・古語の研究に待つべきを主張せり。よりて特にこれを古文辞學といふ。徂徠性豪放にして規矩にかかはらざるを以て、いはゆる?門(徂徠の號?園に執る)の學風は堀川塾のそれとはいたく異なるところあるも、その教育は經學と文章とを兼ねて、多く海内の人材を集め得たり。されば太宰春臺の如き經學に名ある門弟もあれど、服部南郭をはじめ、詩文を以て一家をなすもの、むしろ多きを占めたり。また惺窩の門流に出でて加賀藩の儒臣となり、後、將軍綱吉に辟されたる宿儒に木下順庵あり、その學敢て新古の別を立てず、朱子學を宗として、乗ねて古學を唱へ、學徳共に高くして、専ら人材の養成に努めたれば、門弟各々その長所を發揮せり。中にも高弟新井白石は特に史學に精通し、室鳩巣は朱子學を固守して名教の維持を以て任じ、貝原益軒また實學を以て世を益しぬ。なほ儒學の外にも、保井算哲は天文・暦學に、關孝和は數學に、いづれも前人未發の術理を發見せるなど、科學の進歩もまたいちじるしきものありき。 かく申如く儒學は幾多の流派に分れて、學者各々獨自の説を主張し、實に空前の盛観を呈したり。しかしてこれらの儒者はたいてい諸侯に聘せられて藩の文教にあづかり、また帷を垂れて廣く子弟を教育し、盛に忠孝仁義の道を説きぬ。こゝに於て海内の士庶大いに徳義に勵みしが、特に封建の世態は主從の誼を重んじ一心同體喜憂を共にするの節義を砥勵したれば、復讐の如きは忠臣・孝子の美績と認め、官またその義烈を奨勵して士氣を振作せんとし、君父の仇討ははやくより行はる。中にも播州赤穂の遺臣大石良雄ら、その主浅野長矩のために仇を報じて法に死せしは最も著名なり。その義烈は當時古學派の大家山鹿素行の感化に由るところ少からず。また室鴻巣はために赤穂義人録を著しぬ。この書大いに世人に愛読せられ、赤穂義士の名は今に至るまで社會に喧傳せらる。 かく士分の教育はよく行はれたりしも、女子は別に學ぶに處なき様なりしが、文運の隆昌につれ、上流の女子は多く家庭に學びて博學なるものもあらはれたり。貝原益軒の妻東軒は經史に通じ、讃岐丸亀の井上通女は和漢の學に精しくして、賢婦人の誉高きが如き、女流文學者もその事例に乏しからず。唯庶民の教育は官府の顧みざるところにして、その自治にまかせ、寺子屋は津々浦々に至るまで、しだいに擴まり、兒童は手習師匠に就きて読み書き算盤など日用必須の實學を修め、また全國諸處に設けられたる心學舎に於て日常の道徳を學び、處世の途を教へられたり。心學は石田梅巌が佛儒の説に採りてみづから發明したるものにて、その卑近切實なる道話は大いに民衆に歓迎せられ、政令の風教に資するところ多く、特に當時世の顧みざる商業道徳・女子教育恵などにまで説及びて、多大の感激を與へたりき。したがつて民間に各種の往来物あらはれて寺子屋の教科書にあてられ、心學道話または數多の教訓書刊行せられて庶民男女の訓育に供せらる。また當時の儒者は、おほむね漢文を以て書を著ししにかゝはらず、益軒・鳩巣らは多く平易なる假名文を似てこれを記したるより廣く、士民に読まれたりしが、中にも益軒の著せる女大學の如きは、女子の修身書として世に行はれ、江戸時代を通じて永く女子教育の理想となりぬ。 かくて文化がやうやく上下にあまねかりし上に、社會の平和はうち續き、産業も興りて庶民のやうやく擡頭し来るにしたがつて、文藝もおのづからその間に發達しぬ。まづ俳句は連歌の盛なるにつれて以前より行はれしが、大阪に西山宗因出でて奇警軽快なる句法を以て更に滑稽味を加へ、其の流派一時世に流行せり。その門人に松尾芭蕉あり、若くして伊勢の藤堂氏に仕へしが、その主の早世せるに及び、深く哀悼して遂に遁世し、西行の風を慕ひて、一簑一笠、四方を周遊し、自然を友として吟詠をほしいまゝにす。こゝに於て俳句は從来め滑稽味を脱して幽寂の詩趣あふれ、まさに當時の文學界に一新生面を開き、門弟全國に遍くして、この流獨り海内を風靡せり。同じく宗因の門人に井原西鶴あり、元禄時代の人情世態を如實に描寫して、數多の小説を著せり。その種の小説は浮世草子と呼ばれて、廣く民間にもてはやさる。また一般の娯樂としてはやくより三味線に合はせて浄瑠璃を語り、操人形を舞はすこと興行せられしが、近松門左衞門(巣林子)出でて、浄瑠璃語り竹本義太夫のために筆を執り、流麗軽妙なる文辞を以て、巧みに世の義理人情を寫ししより、大いに世に歓迎せらる。中にもその傑作國姓爺合戦・曽我會稽山などは竹田出雲の脚色せる假名本忠臣蔵などと共に、普く山村僻邑にも流博して、興趣のうちに忠孝情義を子女に教へ、深く人心を感動せしめたり。なほ歌舞伎芝居も廣く上下の嗜好に合し、京阪及び江戸に盛に行はれ、元禄時代には名優東西に輩出して、浄瑠璃と共に當代民衆娯樂の隻璧たりき。 美術・技藝もまたおひおひ精巧の域に進みたり。繪畫には、さきに狩野永徳の孫に探幽(守信)出で、和漢古今の筆致を融合して更に典雅なる畫風を大成し、弱冠にして既に幕府の繪師となり、東西の社寺・殿舎の障壁などに、その霊腕を振ひぬ。門弟にも久隅守景をはじめ、著名の畫家多く、その門葉大いに繁榮して、永く斯界の重鎭たり。また探幽と時を同じくして、土佐光信の玄孫に光起出で、土佐の古流に漢畫の風を加味して精彩を極め、朝廷の繪所預となりて土佐家を中興せり。なほこの狩野と土佐との畫風を融和して、別に一新生面を開きたるは、京都の本阿彌光悦・俵屋宗達らの善くせる装飾畫にして、いづれも濃麗なる色彩を施してよく装飾美を發揮せり。しかしてこの両者の遺風をうけて、更にこれを大成したるは、京都の尾形光琳にして、巧みに華麗なる模様畫を畫き、また精彩なる蒔繪を善くせり。その畫くところいづれも濃艶なる色彩絢爛目を驚かす間に、おのづから豪壮と優雅の風格を備へて、元禄の時代を飾り、いはゆる光琳風は、盛に陶器・漆器・織物などの模様に利用せらる。また特に當代の世態人事を寫せる浮世繪は、江戸や菱川師宣によりて大いにあらはれ、巧妙なを構圖と優雅なる傳彩を以て如實に元禄時代市井の風俗を寫ししが、これらの繪畫は、更に美麗なる版畫として民衆の間に弘通愛賞せらる。かくて元禄時代は俳諧・小説に、浄瑠璃・芝居に、はた装飾畫に浮世繪に、いづれも平民的趣味を發揮し、民衆文藝の大成せるは蓋し當代の特色なるべし。