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寂しい島だ。
島の中央にタロ芋田が整然と作られ、その周囲を蛸樹たこやレモンや麵麭パン樹やウカルなどの雑木の防風木が取巻いている。その、もう一つ外側に椰子ヤシ林が続き、さてそれからは、白い砂浜―海―珊瑚礁さんごしょうといった順序になる。美しいけれども、寂しい島だ。
島民の家は西岸の椰子林の間に散らばっている。人口は百七、八十もあろうか。もっと小さい島を幾つも私は見て来た。全島珊瑚の屑ばかりで土が無いために、全然タロ芋(これが島民にとっての米に当るのだ)の出来ない島も知っている。虫害のためにことごとく椰子を枯らしてしまった荒涼たる島も知っている。それだのに、人口僅か十六人のB島を別にすれば、此処ここほど寂しい島は無い。何故なぜだろう?理由は、ただ一つ。子供がいないからだ。
いや、子供もいることはいる。たった一人いるのだ。今年五歳になる女の児が。そうして、その児以外の外に、二十歳以下の者は一人もいない。死んだのではない。絶えて生れなかったのだ。その女の児(外に子供はいないのだから、言いにくい島民名前などは持出さずに、ただ、女の児とだけ呼ぶことにしよう)が生れる前の十数年前、一人の赤ん坊もこの島に生れなかった。女の児が生れてから今に至るまで、まだ一人も生れない。恐らく、今後も生れないのではなかろうか。少くとも、この島の年老いた連中はそう信じている。それ故、数年前この女の児が生れた時は、老人達が集まって、この島の最後の人間―女になるべき赤ん坊を拝んだということである。最初の者が崇められるように、最後の者もまた崇められねばならぬ。最初の者が苦しみをめたように、最後の者もまたどんなにか苦しみを嘗めねばならぬであろう。そうつぶやきながら、いれずみをした老爺や老婆たちあ、哀しげにつつしみ深く、赤ん坊を礼拝したという。但し、それは老人だけの話で、若い者は、何年も見たことのない人間の赤ん坊というものが珍しさに、ワイワイ騒ぎながら見物に来たと聞いている。ちょうど女の児が生れる二年前に、戸口調査があり、その時の記録には人口三百と記されているのに、今ではもう百七、八十しか無い。こんな速やかな減少率があろうか。死ぬ者ばかりで生れる者が皆無だと、別に疫病に見舞われた訳でなくとも、こんなに速く減るものだろうか。当時の女の赤ん坊を拝んだ老人たちはもはや一人残らず死んでしまっているに違いない。それでも、老人たちの残したおしえは固く守られていると見えて、今でも、この島の最後の者たるべき女の児は、喇嘛ラマ活仏いきぼとけのように大事にされている。成人おとなばかりの間にたった一人の子供では、可愛がられるのが当り前のようだが、この場合は、それに多分の原始宗教的な畏怖いふと哀感とが加わっているのである。
何故、この島には赤ん坊が生れないのか。性病の蔓延まんえんや避妊の事実は無いか、と誰もが訊ねる。なるほど、性病も肺病も無いことはないが、それは何も、この島に限ったことではない。というよりむしろ、他の島々に比べて少い位なのだ。避妊に至っては己の島の絶滅を予感してその前におののいているものが、そんな事をする訳が無いのである。また、女性の身体の一部に不自然な施術をする奇習が原因だろうという者もあるが、この習慣の本家たるトラック地方の諸離島では人口減少の現象が見られないのだから、この推測は当らない。他の島々に比べてタロ芋の産出は豊かだし、椰子も麵麭樹も良く実り、食糧は余る位だ。別に天災地変に見舞われた訳でもない。では、何故なぜだ。何故、赤ん坊が生れないのか。私には判らない。恐らく、神がこの島の人間を滅ぼそうと決意したからでもあろう。非科学的とわらわれても、そうでも考えるより外、仕方が無いようである。よく手入れされた芋田と、美しい椰子林とを真昼のまぶしい光の下に見ながら、この島の運命を考えた時、あらゆる重大なことはすべて「にもかかわらずトロツツデム」起る、といった誰かの言葉を思い出した。ものが亡びる時は、こんなものなのかと思った。科学者たちはその滅亡の跡を見て数々の原因を指摘しては得々とくとくとしているが、その原因と称する所のものは、何ぞ図らん、原因ではなくて結果に過ぎないことが多いのである。
秋の終りの最後の薔薇ばらに、思いがけなく大輪の花が咲くことがあるように、この島の最後の娘もあるいは素晴らしく美しく怜悧れいりな子(もちろん島民の標準においてではあるが)ではあるまいかと、はなはだ浪漫的な空想を抱いて、私はその女の児を見に行った。そして、すっかり失望した。肥ってこそいたが、うす汚い、愚かしい顔付の、平凡な島民の子である。鈍い目にかすかに好奇心とおびえとを見せて、この島には珍しい内地人たる私の姿に見入っていた。まだいれずみはしていない。大切にされているとは言っても、フランペシヤだけは出来ると見える。腕や脚一面に糜爛びらんした腫物はれものがはびこっていた。自然は私ほどにロマンティストではないらしい。
夕方、私は独りなぎさを歩いた。頭上には亭々たる椰子樹が大きく葉扇を動かしながら、太平洋の風に鳴っていた。潮の退いたあとの湿った砂を踏んで行く中に、先刻から私の前後左右をしきりに陽炎かげろうのような・あるいは影のようなものがチラチラ走っていることに気が付いた。かになのである。灰色とも白とも淡褐色ともつかない・砂とほとんど見分けの付かない・ちょっと蝉のがらのような感じの・小さな蟹が無数に逃げ走るのである。南洋には、マングローブ地帯に多い・赤と青のペンキを塗ったような汐招き蟹なら到る所にいるが、この淡い影のような蟹は珍しい。初めてパラオ本島のガラルド海岸でこれを見た時、一つ一つ蟹の形は見えずに、ただ、自分の周囲の砂がチラチラチラチラと崩れ流れて走るような気がして、幻でも見ているような錯覚にとらえられたものであった。今この島でそれを二度目に見るのである。私が立停ってしばらくじっとしていると、蟹どもの逃走も止む。素速く走る灰色の幻も、フッと消えるのである。この島の人間どもが死絶えた(それはもうほとんど確定的な事実なのだ)後は、この影のような・砂の亡霊のような小蟹どもが、この島を領するのであろうか。灰白色の揺動く幻だけがこの島の主となる日を考えると、妙にうそ寒い気持がして来た。
薄明というものの無い南国のことで、陽が海に落ちると、すぐに真暗になる。私がさびしい東海岸から、それでも人家の集まっている西岸へと廻って行った頃は、もう既に夜であった。椰子樹の下の低い民家から、チラチラ灯が洩れる。その一軒に私は近付いて行った。裏の炊事場―パラオ語ではウムというが、此処南方離島では何と呼ぶか知らない―に、焔が音も無く燃えていた。その上に掛かった鍋には芋か魚でもはいっているのだろう。私が中にはいって行くと、火の傍にいた老婆が驚いて顔を上げた。黥をした、たるんだ皮膚が、揺れ動く焔にチラチラと赤く映える。手真似で食を求めると、老婆はすぐに前の鍋の蓋を取って覗いた。だぶだぶつゆの中に小魚が三、四匹はいっていたが、まだ煮えてないらしい。老婆は立上がって奥から木皿を持って来た。タロ芋の切ったのと、燻製らしい魚の切身が載っていた。別に空腹な訳ではない。彼らの食物の種類や味が知りたかっただけである。両方をちょっとつまんで味わって見てから、私は日本語で礼を言って、表へ出た。
浜へ出ると、遥か向うに、私の乗って来た―そうして、ここ数時間の中にはまた乗って立去る―小汽船の燈火が、暗い海に其処だけ明るく浮上っていた。ちょうど側を通りかかった島民の男を呼びとめ、カヌーを漕がせて、船に帰った。


汽船ふねはこの島を夜半につ。それまで汐を待つのである。
私は甲板に出て欄干てすりった。島の方角を見ると、闇の中に、ずっと低い所で、五つ六つの灯が微かにちらついて見える。空を仰いだ。ほばしら索綱つなの黒い影の上に遥か高く、南国の星座が美しく燃えていた。ふと、古代希臘ギリシャの或る神秘家が言った「天体のたえなる譜音」のことが頭に浮かんだ。賢いその古代人はこう説いたのである。我々を取巻く天体の無数の星どもは常に巨大な音響―それも、調和的な宇宙の構成にふさわしい極めて調和的な壮大な譜音―を立てて廻転しつつあるのだが、地上の我々は太初よりそれに慣れ、それの聞えない世界は経験できないので、ついにその妙なる宇宙の大合唱を意識しないでいるのだ、と。先刻さっき夕方の浜辺で島民どもの死絶えたあとのこの島を思い画いたように、今、私は、人類の絶えてしまったあとの・誰も見る者も無い・暗い天体の整然たる運転を―ピタゴラスのいう・巨大な音響を発しつつ廻転する無数の球体どもの様子を想像して見た。
何か、荒々しい悲しみに似たものが、ふっと、心の底から湧上って来るようであった。


 

注釈

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この著作物は、1942年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


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