學問の獨立と東京專門學校の創立
本編は明治三十年七月十五日、東京專門學校創立十五週年祝典に於ける演説なり[1]。
諸君、今日は東京專門學校に取つて最も喜ぶべき卒業式、且つ十五週年の祝典をも同時に擧行するといふ此の喜ぶべき式場に臨んで、卒業生諸君に向つて一言陳ぶることを得るは私の大に喜ぶ所であります。倂乍ら既に鳩山校長の式辭とか、或は近衛公爵の演説とかあつて、諸君に向つて大抵同じやうなことを繰返へされた樣でもあり、且つ隨分暑い處に長く時を費やすことは甚だ御來臨の諸君に對して御氣の毒にも存じますから、極く簡單に卒業生諸君に向つて一言陳べまして、次に此十五週年の祝典に就て聊か私の考を吐露しやうと思ひます(拍手)。
卒業生諸君は數年勉強の結果、今日此名譽ある得業の證書を貰つて始めて社會に御出になるのは、先づ謂はゞ複雜なる社會に於て勇戰奮鬪する初陣である、所が中々初陣といふものは餘程六ヶしい、どうも諸君が向ふ所には種々の敵が澤山ある、種々の伏兵にも出會ふ。今ま近衛公爵の御話の通りに道徳の腐敗或は社會の元氣の沮喪などゝいふ是は最も恐るべき敵である、既に出陣しない前に敵が現はれて來て居るのだ。此敵に向つて諸君は必らず失敗をする、隨分失敗をする、又成功があるかも知れませぬけれども、成功より失敗が多い、失敗に落膽しなさるな、失敗に打勝たなければならぬ、度々失敗するとそれで此大切なる經驗を得る、(拍手喝采)。其經驗に依つて成功を以て期さなければならぬのである。所で此複雜なる社會の大洋に於て航海の羅針盤は何であるか學問だ。諸君は其必要なる學問を修めたのである。倂乍ら中々まだ初步なのである。是から先き凡て此社會に現はれて航海する航海者は羅針盤と「バロメートル」を決して離し得ないものだ。其の「バロメートル」は何である、學問である。凡ての仕事をなすと同時に手に卷を持つて居らなければならぬ。本を持つて居らなければならぬ。之を止めたならば誰でも直ちに失敗をして再び社會に勢力を得ることの出來ないやうになつて仕舞ふのである。先づ此一言を以て諸君を戒めて置きます、(大喝采)。
それから東京專門學校の十五週年の祝典といふことに就て少しく既往に遡つて申します、是は今ま市島君から大略の報告がありましたけれども、まだ盡さぬ所があるに依つて、且つ幸ひ爰には文部大臣或は近衛公爵其他大學の校長、教育家、文學家、宗教家、或は政治家どうも見渡すと先づ凡そ社會に於てあらゆる勢力のある御方が御集まりになつたので、かういふことは容易にないことでありまするし、又學生諸君も十五年前のことは御存知ないこともあるかも知れませぬに依つて、此學校の創立に就ての私の理想を御話致し、さうして此學校が如何なる勢力を社會に持つたか又其間如何なる境遇を經て來たか、さうして今日に於て將來に對する如何なる希望を持つて居るかといふことを極手短に御話しやうと思ふ。是は私の理想………茲には哲學者も法律家も中々ゑらい先生方が御出になつて居る前で理想を御話するのも恥かしいやうなことではあるが、倂し何でも自分の思うたことを人に言ふことの出來ないのは惡るいことに違ひない。私は自から信じて居る。信じて居る故にどう云ふ大學者に向つても大宗教家に向つても憶せず御話し申すのである、(拍手大喝采)それは何であるかといふに、先づ私が熟〻考へるに、彼の「ペルリ」が來た以來洋學といふものが流行つた、流行つたといふ程ではないが、隨分有志家が西洋の事情を知ることに就て之を勉強した、私共も其一人だ、尤も今から四十年前のこと、其中に御維新になつて種々の學校といふものが出來た、出來たが皆重に西洋の學問をさせた、卽ち維新後凡て此制度文物悉く西洋の最も進んだものを日本に持つて來て、西洋の學問は必要だ、凡ての學問は西洋でなければならぬといふ譯で、英國、亞米利加、佛蘭西、獨逸あらゆる西洋の學問、其中には獨逸派も出來、英國派も出來、或は亞米利加派も出來た、卽ち政治家に於ても、法律家に於ても、或は軍人に於ても、さう云ふ色々な派が出來るやうになつた、そこで私が熟〻考へるに、是れでは日本の學問の根底がない、此日本といふ大國に少しも學問の根底がない、教育といふものは實に大切なものである、一國の國民の性質から凡て其土臺を組立てる所の大切なる教育に根底がない、そう云ふ外國の法に依つて日本人を教育されるといふは實に恐るべきことだ、是では往けない、國の獨立が危ぶない、どうしても學問は獨立させなければ往けない、先づ考へて見ると、歐羅巴でも近頃起つた露西亞といふ如き國は、彼の「ピートル」大帝といふ不世出の英主が出で、西の方歐羅巴の文明を導かうとして、あらゆる學術文藝を西の方から露西亞に導き入れたのである。そこでとう/\露西亞にも初めは日本と同じく方々の學問があつたが、兎も角も二年經たない中に露西亞の學問は獨立をしたのである、不充分ながら露西亞の學問を以て大學校が五つも六つも出來た……七つばかりあります。此數は御來會の學者先生方が明かでありませう、(大笑)。何しろ澤山出來た。一萬何千人といふ大學生が居る。そこで露西亞語を以てあらゆる高尚の學術(サイエンス)を教へるのである。教科書は皆露西亞語で書いたものだ。其實是は日耳曼人や英國人や方々の國の人達が書いた本であるかも知れぬが、それを露西亞語に直してそれで教へて居る。卽ち露西亞の國民を露西亞語で以て露西亞の大學校で教へて居るのである。日本にさう云ふものがあるか。どうも無かつたのである。是れは往かない。それ故にどうかして此日本語を以て充分高尚の學科を教へる所の學校を拵へることが必要である。然るに其當時は日本語は不充分だといふので色々此改良などゝ云ふ論もあつた。其中には隨分過激な論もあつて、日本語を英語にして仕舞ふなとゝ云ふ論者もあり、或は假名の會とか、羅馬字會とか、種々雜多なものが起つたのである。成程日本の文章は不充分、文字は不都合だ。支那の文字が一種變更したものであるからさうかも知れない。又此の如き不充分なる言葉、此の如き不充分なる文章を以て、充分に此複雜なる最も高尚なる「サイエンス」といふものを理解することが出來るか、解釋することが出來るかといふことの疑ひを世間は持つて居つたのである。それ故に此言葉の改良といふ論は隨分盛んに行はれた。けれども私の考には、若し日本人の言葉を以て之を充分に解釋することが出來ぬといふ譯ならば、日本の國は危い、決してさう云ふ道理はない、ないといふ證據は嘗て千三百年前に印度から………茲に島地默雷先生も居られるが、印度から大乘とか天台とか云ふやうな實に驚くべき高尚な哲學が日本に導かれた時に、日本の言葉はまだ不充分であつた、支那の文字が交つて居ない丈けが宜かつたかも知れないが、實に幼稚なものであつたが、それでも其高尚な佛學を皆理解した。支那人より一層能く理解した。それから續いて傳教とか空海とか云ふゑらい立法者が出來た。尤も今日言ふ所の立法者ではないが、先づ謂はゞ立法者である。印度の佛教を日本の宗旨になした人で、私は之を立法者といふて宜いと思ふ。實にゑらい人である。日本の不充分なる言葉、日本人自から言ふ所の不充分なる此言葉と文章で以て早や千有餘年前に此充分進んだ所の哲學………高尚なる佛學を日本人は解釋したのである。ゑらい力だ。それ故に私は決して今日の如何なる高尚の學問も日本の文字と言葉で言直すことが出來ぬ道理はないと思ふ。それ故に充分に學者達がそこに力を致したならば必らず日本の學問は、あらゆる教科書を皆日本の文字で日本語で講義をすることが出來る、それから進んで著述をし、或は又無いと云ふものは翻譯をすれば必らず出來ることゝ考へたから、乃ち私は學問の獨立といふことを大膽にも唱へたのである。其時には小野梓君、それから先刻市島君から申された六七人の大學の人が此時はまだ卒業はして居なかつた今に卒業しやうと云ふ前に小野梓君が連れて私の所に六七人の學生が來られた時分に其話をした、それから其人達が皆大いに尤もであると云ふことで、遂に此邦語を以て高尚なる學問を教へるといふことの端緒が現はれた。それならばなぜ英語を教へるかといふ論があるかも知れぬが、是は今日でも亦將來でも此英語其他の學問を多少やるのは必要である、彼の歐羅巴人でも、希臘羅甸をやるのが必要であると同じく、學問の硏究の爲めには隨分此外國の言葉を學ぶといふ必要は今日でも亦將來でもある。學問の充分に獨立した上のことである。それから其時の考には理科といふものを入れた。是も理科卽ち物理學は私はどうしても學問の土臺となるものと考へたのである。所が此私立學校で就中此理科にはどうも餘まり社會が注意して呉れぬ。さうして中々理科は金が要る。入費が要る。どうも貧乏なる學校では續かぬ。それから教師が宜う來て呉れぬ。そこで此理科は先刻御話する通り初陣に失敗をしたのである。此理科の失敗は千歳の遺憾である。理科所ではない、それから工科も矢張りやられなかつた。卽ち此の邦語でやるといふ大膽な企は、先づ初めに政治、法律それと理科といふものを置いた、中々工科とか其他のものへ及ぶ所ではない、先づさう云ふ目的で之れが始まつたのである。
それから此學校が十五年間に勢力を得たことは既に幹事から御話した通りであるが、此十五年間に學校が如何なる境遇にあつたかといふことは諸君は隨分耳を傾て聞く丈けの價値がある。是は實に非常なる困難であつた。それはどうも學校の貧乏のみならず、種々の敵それから種々の誤解、それから今近衛公爵の御話の通り離間中傷、是が其間に乘じ、種々の外道の爲めに、惡魔の爲めに、此東京專門學校は一時押潰される所であつた。然るに高山君なり天野君なり坪内君なり市島君なり其他山田君なりゑらい忍耐力を持つて居る講師諸君、其他の交友諸君の學校への忠義と、此忍耐力とで以て其外道をとう/\打拂つたのである、中々ゑらいことだ。それに就て隨分世間の誤解が酷いのである。是は餘程私と關係を持つて居るから、それを今日諸君の前に充分辯駁して置くことは學校の爲めにも利益、又私一身の爲めにも誤解されるのは甚だ遺憾であるから、それを陳べやうと思ふ、私が學校を立てた理由は、始めは今御話した學問の獨立であるが、次ぎは何であるかと云ふと、私の成立ちは、丁度ペルリの來た時は私は十五才であつた。それから御維新が丁度三十、丁度此の間十五年、最も大切なる學問の時期を……今日で云はゞ先づ壯士的運動の爲めに……少しばかり本は讀んだけれども學問の必要な時期を種々の出來事の爲めに全く無用でもなかつたか知らぬが今日の學問から云はゞ此必要な時期を無用に費したと言はなければならぬ。凡そ人といふものは凡て不足はある……物といふものはどうしても空所を充たすもので、今此「コップ」の水を飮む、水が無くなつた、倂しなくなつたと思ふは大間違ひ、其跡に空氣が入り代つて居るやうなもので、自分が學問をしないといふ不足を人に學問さしてそれで補なふといふ考であつた。其爲めに學問の獨立を偶然にも小野梓君といふゑらい熱心な人其他の諸君が贊成されたから、それで以て此學校が出來たのであります。それを世間はどう云ふ誤解をしたか、私は政治上に關係があるから政治上の目的を以て政治上に使用しやうといふ如き誤解だ。其中には眞に誤解した人もあるには違ない。又其中には近衛公爵の先刻の御話の通り離間中傷何か爲めにする所あつて……先生達がやつたんだらうと思ふ。甚だ困つたけれども私は學校に就ては一點の私心はない。御覽なさい、學校の諸君の顏を皆知らない、私に陰謀があるなら諸君の所へ來て話をするなり演説をするなりするが、實は私は五月蝿いから學校へ來て構はない。私は餘程奮發して之を造つたのであるが、今日始めて此講堂へ參つた位である。實に私は淡白な考、何故に來ないかといふに、世間で疑惑を致さぬやうに遠ざかつて居るのだ。世間で云ふアレは大隈の學校だ大隈はひどい奴だ、陰險な奴だといふやうなことを言ふ、甚だ迷惑千萬、その爲めに學校が不幸に陷つた、或場合に於ては隨分色々な御役人達が大學校から出で多く役所に居る人で傍らに盡して呉れる講師が、何か知らぬけれども專門學校へ行つて講釋をするとどうも大變な譯で、不本意乍ら近來工合が惡るいから當分學校に不熱心な考はないが事情があるからと言つて、少し政府に緣の近い教員先生は逃げて往く。そこで一時は教員の不足に餘程困つた、決して私はさう云ふ考はございませぬが、何でも此創立以來熱心なる諸君の盡力に依つて今日に至つたが、今日では稍〻此誤解が解けて來たやうに見える[2]。倂乍ら今日は私は御役人外務大臣であるが、私は隨分不人望な男で、又陰謀家と言はれて居る。果してさう言ふ者が惡るいのか、私が惡るいのか分らぬ。近衛公爵の先刻の御話は甚だ當るらしく思ふが、どちらがどうか諸君の公平なる無邪氣なる判斷に任して置く。どうかすると私は御役人を止めるかも知れぬ。止めると又大隈がといふ面倒が起るか知れぬ。それは私は一點さう云ふ量見は無いといふことを多數の御方の前で自白して置く。是はどうも一番必要である。決して私は嘘は吐かぬ。諸先生の前で決して嘘は吐かぬ、(大笑)。さう云ふ譯だから此學校は決して一人のものではない、國のものである、社會のものである。所がそれならばなぜ文部省がしないかといふに、茲に文部大臣も御出だが、文部省でさう何から何まで出來るものではない、それで時々國家も病氣してどうかすると一方に走る、それで何でも私立で權力の下に支配されずしてさうして獨立して意の向ふ所に赴くが必要、元來私立學校から大政治家、大國法家又は大宗教家も起る。そこで此私立は矢張り必要である。決して是は大隈のものではない。倂乍ら勿論私も是迄幾くらか學校の爲め力を盡したに違ひない、學校は寺みたいなものだ、私が檀家だ。檀家として大きな檀家であつたに相違ない。貧乏寺の檀家に過ぎない、大學校の如きは國庫といふ大きな檀家を持つて居るから氣樂である。倂しあれでも中々豫算じや議會じやといふて隨分……大學總長も今日御出でゝあるが中々骨が折れる、(大喝采)。此學校のやうな貧乏な御寺は澤山檀家を拵へることが必要だ。是迄は大隈の寺であると言はれて居つたが、決してさうではない。そこで此學校といふものは一體生産的のものではない。金を使ひ潰す所であるから、檀家を澤山拵へてそこから賽錢をドン/″\寄進しなければならぬのである。どうか其點を十分會得して御貰らい申して、私の從來の希望は少し大膽な企てのやうではあるが、どうも此學問の獨立を見たいといふことである、之が聊かでも其效が現はれたなれば、國家に對して我々は甚だ喜ぶ所である。それからどうも是が一步進んで大學とまでならずとも大學に近い……或は大學となるか知らぬが、學科を段々殖やして往くといふことの出來るやうになつたならば、私の充分滿足する所、又社會に對しても非常の面目、又此學校の交友或は學生諸君に於ても甚だ榮譽とする所である。どうか然かることを望むのである。倂乍ら是から諸君が社會に出で又續いて出る御方々が其意を以て是から働いたならば、澤山の檀家も出來て必らず盛んになるだらうと思ふ。(拍手大喝采)。
脚注
編集- ↑ 1897年7月20日:創立第15周年記念祝典を挙行。大隈重信が初めて学校公式行事に出席。
- ↑ 入力者注:底本には「見へる」とあるが、明らかな誤りなので修正した。
出典
編集- 近代デジタルライブラリー・大隈伯演説集 (国立国会図書館)
- 底本:「大隈伯演説集」 早稲田大学編輯部編 早稲田大学出版部 1907(明治40)年10月22日発行
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