存在者と本質について
序章
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1哲学者の『天地論』第一巻(271b8-13)には、「最初のごく僅かな過ちも結論には大きな過ちとなる」、と言われており、またアヴィケンナがその『形而上学』の冒頭で言っているように、知性によって第一にとらえられるものは存在者と本質である。それゆえ、この存在者と本質とを知らないためにあとで大きな過ちをおかすということのないように、何よりもまず存在者と本質との難解な点を究明すべきであり、そのためには次のような事柄を論じなければならない。すなわち、〔1〕本質および存在者という名称によって何が意味表示されているか、〔2〕それらは種々異なる物事のうちにどのようなあり方で見出されるか、〔3〕それらは論理学の諸概念、すなわち類・種・種差とはどのように関係しているか、ということがそれである。
2なお、分かりやすいことから始めることによって我々はより適切に学問的認識をすすめることができるためには、合成物から単純なものの認識を得べきであり、「後なるもの」から出発して「先なるもの」へ到達すべきなのであるから、したがって存在者の意味から出発して本質の意味へと進んでいかなければならない。
第一章 存在者と本質という名称によって一般に何が意味表示されているか
編集2.
3そこでまずこういうことを知っておかなければならない。哲学者が『形而上学』第五巻(1017a22-35)で言っているように、存在者はそれ自身としては二様の意味で語られる。つまりそれは、一つの意味では十の範疇に分類されるものであり、もう一つの意味では命題の真理性を示すものである。ところで、この両者の相違は次の点にある。すなわち、第二の意味では、それについて肯定命題がつくられるものはすべて、たとえそれが何ら実在しないものを指しても、存在者と言われうる。この意味では「欠如」や「否定」すらも存在者と言われる。実際我々は、「肯定は否定の反対である」とか、「盲目は眼のうちにある」とか言っている。
これに対して、第一の意味では、何らかの実在するものしか存在者とは言われない。それゆえ、第一の意味では、「盲目」とかその他同様なものは存在者ではない。
4したがって、本質という名称が汲み取られるのは第二の意味で語られた存在者からではなく、第一の意味で語られた存在者からである。なぜなら、第二の意味では、「欠如」の例で明らかなように、何も本質を持っていないようなものでも存在者と言われるからである。註釈家〔アヴェロエス〕が同じ箇所において「事物の本質を示すところのものは第一の意味で語られた存在者である」と言っているのはそのためである。
5また、すでに述べられたように、この第一の意味で語られた存在者は十の範疇に分類されるものであるから、本質は当然、種々異なった存在者を様々な類と種とにあてはめるところのすべての本性に何か共通なものを指すものでなければならない。例えば、「人間性」は「人間」の本質であり、他の場合についても同様である。
6なお、事物をそれみずからの固有な類ないし種にあてはめるところのものは、その事物の何たるかを指示する定義によって示されるものである。哲学者たちが本質という名称を何性(quidditas)という名称におきかえているのはまさしくこのためである。これはまた、哲学者がしばしば「~とはもともと何であるか」と呼んでいるもの、つまり「或るものを何かであらしめるもの」でもあるわけである。
3.
なお、アヴィケンナがその『形而上学』第二巻で言っているように、本質は形相とも言われるのであるが、それは形相がそれぞれの事物の規定を示すという意味においてである。
7さらに、これは別名で本性(natura)とも言われる。ただこの場合の本性とは、ボエチウスが『二つの本性について』という著作であげているかの四つの意味のうち、第一の意味における本性を言う。つまり、如何なる仕方によるにせよ知性によってとらえられ得るものはすべて本性と言われるのである。なぜなら、事物はその定義と本質を通じてのみ知解され得るものだからである。哲学者が『形而上学』第五巻で、「本質はすべて本性である」としているのもそういう意味においてである。
8ただし、このような意味でとらえられた本性という名称が事物の本質を示すのは、それが事物の固有な働きへと秩序づけられている限りにおいてであると思われる。なぜなら、如何なる事物も自らの固有な働きを持っているからである。
ところが、何性という名称は、それが定義によって指示されることから汲み取られる。それに対して、本質と言われるのは、存在者がそれ〔本質〕を通して、またそのうちに存在を持つという意味においてである。
9さて、存在者とは無条件に(absolute)にして第一義的には実体(substantia)について語られ、付帯性については第二義的に、そして何らかの条件において語られるのであるから、したがって本質もまた本来的にして真なる意味においては実体のうちにあり、付帯性のうちには何らかの仕方で、そして何らかの条件で見出されるに過ぎない。ところで、実体には単純実体と合成実体とがあり、そのいずれにも本質がある。しかしながら単純実体がもっとも高貴な存在性をもっているという点から言って、合成実体の本質よりもいっそう真にして優れたかたちで見出される。なぜなら、単純実体――少なくとも単純なる第一実体すなわち神は、合成された実体の原因だからである。
10したがって、これら単純実体の本質は我々にいっそう隠されているから、分かりやすい事柄から始めることによって学問的認識をより適切にすすめることができるように、我々はまず合成実体の本質から着手しなければならない。
第二章 合成実体の本質はどのように見出され、またその本質という名称によって何が示されるか
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11さて、人間のうちに魂と身体とがあるように、合成実体のうちには形相と質料とが認められる。しかし、これら形相と質料とのいずれか一方だけが本質であるということはできない。事実、質料だけが事物の本質でないということは明らかである。なぜなら、およそ事物が認識され得るものとなり、種とか類とかに分類されるのは、それの本質を通じてなのであるが、質料は認識の原理でもなければ、何らかのものを種とか類とかにあてはめるものでもなく、それを種とか類とかにあてはめるものは現実態にあるところのものに外ならないからである。
12そうかといってまた、もっともそう主張しようとする人々もいるが、単に形相だけが合成実体の本質であるとも言われえない。確かに、すでに述べられたことから明らかなように、本質とは事物の定義によって示されるものである。ところが質料的実体の定義のうちには、単に形相のみならず質料も含まれている、さもなければ、自然学上の定義と数学上の定義とは同じものになってしまうであろう。
13なお、質料的実体の定義のうちに含まれている質料は、この実体の本質に外から付け加えられたものとか、その本質以外の存在者という意味にも理解されえない。なぜなら、このような仕方で定義されるのは付帯性に固有なことだからである。すなわち付帯性は完全な本質をもっていないのであり、したがって付帯性の定義のうちには付帯性の範疇外にある基体が含まれてこなければならないからである。それゆえ、本質が質料と形相とを包括していることは明らかである。
14ところで、本質が質料と形相との間にある関係を示しているとか、あるいは質料と形相とに付け加えられた何ものかを示しているということはできない。なぜなら、もしそういうものを指しているとすれば、必然的にそれは、事物〔の実体〕に属さない付帯性となるであろうし、事物は本質を通して認識されるということもなくなるであろう。ところが、実際はそれと反対で、本質は事物に属し、また事物は本質を通して認識されるものなのである。事実、質料は、質料の現実態である形相によって現実の存在者となり、ある特定のものとなるのである。したがってその後にさらに付け加わるものは、質料を端的に現実態に在らしめるものではなく、付帯性もそうでように、特定な在り方で在らしめるものに過ぎない。例えば、白が現実態の白いもので在らしめるように。それゆえ、何かが特定の〔付帯的〕形相を得た時に生成すると言われる場合も、それは端的に生成するということを意味するのではなくて、ある事柄において生成するのである。
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15要するに、合成実体のうちにある本質という名称は、質料と形相とから合成されたものを意味しているという結論が出てくる。ボエチウスの『範疇論註釈』で、「ウーシア」は合成されたものを意味すると言われているが、これはまさしくいまの結論と一致している。現に、ボエチウス自身『二つの本性について』で言っているように、ギリシア人の間で用いられている「ウーシア」とは、我々が本質と言っているものと全く同じものだからである。アヴィケンナもまた、合成実体の「何性」は形相と質料との合成にほかならない、といっている。また註釈家も、『形而上学』第七巻に注釈して、「種が生成する事物のうちに持っているところの本性は、何か質料と形相とから合成されたものである」といっている。
16なお、この結論は道理にも適っている。すなわち、合成実体があるということは、単に形相があるというだけのことでもなければ、単に質料があるというだけのことでもなく、その合成されたものがあるということを意味する。ところが、本質とは、事物がそれに基づいてあると言われるその当のものである。したがって、事物は存在者と言われるのは本質のゆえにであるが、この本質は単なる形相でもなければ単なる質料でもなく、その両者でなければならない。なるほど合成実体の原因と言えば、形相それだけがそれ独自の仕方でこの本質の原因なのであるが、しかしそれにもかかわらずこの本質そのものは、形相と質料との両者でなければならないのである。
17現に、多くの原理からできている他のものにあっても、これと同じようなことが認められる。つまり、事物はそれら諸原理のうちのどれか一つによって名づけられるのではなく、そのいずれをも包括しているものによって名づけられるのである。このことは、味を一例にとって考えてみれば明らかである。すなわち、甘さは湿気あるものを溶解する熱の働きによって生ずるのであり、その意味では熱が甘さの原因であるけれども、物体が甘いと名づけられるのは、熱によるのではなくて、熱と湿気あるものとを包括している味によるのである。
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18ところが、質料は個別化の原理であるということからして、自らのうちに形相と質料とを同時に含んでいる本質は、普遍的なものではなくて単に個別的なものであるといった結論が出てくるように思われるかもしれない。もしそうだとすると、いやしくも本質は定義によって示されるものであるなら、普遍的なものは定義されえないという結果になるであろう。
19それゆえ、こういう誤った帰結が出ないように、どんな意味の質料でありさえすればみな個別化の原理であるというわけではなくて、ただ「称された質料」(materia signata)だけが個別化の原理であるということを知っておく必要がある。ここで称された質料というのは、一定の次元のもとに考えられた質料を意味する。ところで、このような質料は、人間である限りにおける人間の定義のうちに含まれるべきものではない。しかし、もしかりに、ソクラテス〔という固体〕が定義されるということがあれば、ソクラテス〔という固体〕の定義のうちに含まれるであろう。ともかく、人間の定義のうちに含まれるべき質料とは、称されざる質料のことである。つまり、人間の定義のうちに含まれるのは、特定の骨とか特定の肉ではなく、骨一般とか肉一般とかいったものであって、こういうものがすなわち人間の称されざる質料なのである。
20こうして、人間の本質とソクラテスの本質との相違は、ただそれが称されているものであるか否かという点にかかっているのは明かになってきた。註釈家が『形而上学』第七巻に註釈して、「ソクラテスとは動物たることと理性的たることにほかならない、これがソクラテスの何たるかを示すものである」といっているのはそのためである。
21これと同じように、類の本質と種の本質との相違もまた指定されているものであるか否かという点にある。ただし、この場合と先の場合とでは、指定の仕方がそれぞれ異なっている。すなわち、種との比較において個物を指定するということ(先に問題にした指定)は、次元に限定された質料を通じてなされるのに対し、類との比較において種を指定するということ(今問題にしている指定)は、事物の形相からとられ、しかも事物を種にあてはめる働きをもった種差を通じてなされるのである。
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22ところで、類との関係において種のうちになされるところのこの限定とか指定とかいったものは、何か種の本質のうちにだけあって類の本質のうちには決して(nullo modo)ない何らかの質料を通してされるのではない。それどころかむしろ、種のうちにあるものは何であれことごとごとく、限定されないかたちで類のうちにも含まれているのである。例えば、もしかりに、動物ということが、人間であるということ全体を指すのではなく、単にその一部を指すにすぎないとすれば、それは人間について述語されないはずである。なぜなら、全体をつくりあげるいかなる部分も、その全体について述語されるということはありえないからである。
23なお、このようなことはどのようにしておこるかを知るには、物体ということが動物の部分と考えられる場合と、類と考えられる場合とで、どのように違ってくるかを検討すればよい。実際、物体は、全体をつくりあげる部分である場合と同じ意味で類であることはできないのである。
24そういうわけであるから、この「物体」(corpus)という名称は様々な意味に理解され得る。すなわち、それが実体の範疇に含まれる限りにおいては、自らのうちに三次元が指定され得るという性格を持ったものを意味する。ところが、この指定された三次元は、それだけでは量の範疇に含まれる物体なのである。ところで、実際上、一つの規定に達しているものが、さらに他の規定に達するという場合があり得る。このことは人間において明らかである。というのも、人間は感覚的本性を持っているが、さらにそれに加えて知的本性をも持っているからである。これと同様に、三次元をそのうちに指定し得る形相を持つというこの規定のうえに、さらに別の規定、例えば生命とか何かそのようなものが付け加えられ得るわけである。
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25したがって、この「物体」という名称は、事物のうちに三次元を指定し得るような形相、そういう形相を持っている何らかの事物を、その形相以外のものを捨象して示すことができる。このように捨象して示されるということはすなわち、当の形相からそれ以外のいかなる規定も生じてこないという仕方で示すことであり、たとえ何か他のもがそういう意味でいわれた物体に付け加わってくるとしても、そこに付け加わったものはこの物体の意味内容には含まれないという仕方で示すのである。物体が動物の全体をつくりあげる部分、すなわちその質料的部分であるのは、まさにこのような意味においてである。というのも、このような意味では、魂は物体との二つのものが二つの部分となって、この両者から動物ができあがるのである。
26なおまた、この「物体」という名称は、次のような形相を持っている何らかの事物を示しているとも考えることができる。つまりその形相というのは、それを持っている事物に三次元を指定し得る形相であればどんな形相でもいいのであって、この形相からさらに何かそれ以外の規定が生じてくるかこないかは問うところではない。物体が動物の類であるのはまさしくこの意味においてである。なぜなら、動物のうちに受け入れられるものはすべて物体のうちに潜在的に含まれているからである。すなわち魂は事物に三次元を指定し得るかの形相と別の形相ではない。それゆえ、先に物体とは三次元を指示し得る形相を持ったものであるといわれた時、その形相は動物性であれ、石性であれ、あるいはその他のどんな形相でもよいと考えられていたのである。そういうわけで、物体が動物の類であるという意味では、動物の形相は物体の形相に潜在的に含まれているのである。
27動物の人間に対する関係もまたこういう関係である。というのも、もしも動物が、単にそれ自らのうちにある原理によって感覚し運動することのできる規定を持っている事物だけを指示して、他の規定を捨象してしまうならば、それ以外のどんな規定が付け加わってこようとも、この物体は動物にたいして部分という関係にたち、動物の動物たるゆえのものに、潜在的に含まれるという関係にはたたないであろう。この場合、動物の類ではないであろう。動物が類であるのは、それが示している何らかの事物の形相から、感覚と運動とが生ずるなら、その形相が単に感覚的な魂であれ、感覚的であると同時に理性的な魂であれ、どんな形相でもかまわないという意味においてなのである。
9.
そういうわけであるから、類は、種のうちに含まれているもの全体を、限定されないかたちで指示しているということになる。事実、類は単に質料だけを指示しているのではない。
28同様に種差は形相だけではなく、全体を指示する。定義もまた全体を指示しており、種もまたそうである。しかし、その指示の仕方はそれぞれ異なっている。すなわち、類が全体を指示するのは、事物のうちにある質料的なものを、それの固有な形相による限定を加えずに、ただそれだけのものとして示す一種の限定という役割を持っているからである。類が質料ではないにもかかわらず質料の側からとられるのはそのためである。このことは次の事実からして明らかである。すなわち、あるものが物体と言われるのは、三次元をそれに指定し得るような完全性(規定)を持っているがゆえにこう言われるのであって、この完全性(規定)は、さらにその他の完全性(規定)に対しては質料的なものとしての関係にたっている。
29これに対して、種差が全体を指示するのは、一定の形相によるある種の限定としてであるが、この場合、種差の第一次的概念のうちに一定の質料が含まれているということは除外する。このことは例えば、「生き物」(animatum)すなわち「魂を持っているもの」が述べられる場合に明らかである。つまり、それが、何であるか、身体であるかそれとも何か別のものであるか、ということは何ら限定されないのである。それゆえ、アヴィケンナが言っているように、種差にあっては、類はその本質の部分としてではなく、ただその本質の外にある存在者として考えられている。基体が属性の概念のうちに含まれるのもこれと同じ意味においてである。それゆえまた哲学者が『形而上学』第三巻(998b24)および『トピカ』第六巻(122b22-26)で言っているように、類も、基体が属性について述語されるような意味以外は、それ自体としては種差については述語されない。こうして、定義ないし種は、類という言葉が指示する一定の質料と、種差という言葉が指示する一定の形相と、両者を包括しているのである。
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30以上のことからして、類と種および種差が実在界にある質料と形相および合成物とは全く同じものであるわけではないものの、それらに対して比例関係を持っていることは明らかである。というのも、類は質料そのものではなく、全体を示すものとしての質料からとられたものであり、種差もまた形相そのものではなく、やはり全体を示すものとしての形相からとられたものだからである。それゆえ我々は、「人間が理性的動物である」とは言うが、「人間が魂と身体とからできている」という場合と同じ意味で、「人間は動物と理性とからできている」とは言わない。というのも、「人間が魂と身体とからできている」と言われる場合の「人間」とは、二つの事物からできていながら、そのいずれでもない第三の事物という意味での「人間」だからである。実際、「人間」は「魂」だけでもなければ、「身体」だけでもないのである。
31しかしもし「人間」が何らかの意味で「動物」と「理性」とからできていると言われるならば、それは二つの事物から第三の事物が生じるという意味においてではなく、二つの概念から第三の概念が生じるという意味においてであろう。すなわち、「動物」という概念は、種的形相による限定を加えずに、究極的な規定に対しては質料的なものであるという意味で事物の本性を言い表すものであり、それに対して、「理性的」という種差の概念は、種的形相による限定というかたちで成立するものであって、これら二つの概念からして種ないし定義の概念が作り上げられるのである。それゆえ、複数のものから出来上がっている事物について、それを作り上げている部分がその事物について述語されないように、概念についてもまた、その概念を作り上げている部分概念が述語されるということはない。実際我々は定義が類であるとか種差であるとは言わないのである。
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32ところで類が種の本質全体を示しているとはいっても、類を同じくするいくつかの異なった種には一つの本質しかないというわけのものではない。というのも、類が一つであるということは、それが限定されていないということ、言い換えれば、種差を含んでいないということに基づくものだからである。とはいえ、その意味は、類によって示されるものが、いくつかの異なった種にわたって同一であり、その種を限定するところの種差が何か別なものとして――ちょうど、形相が数的に同一なる質料を限定するように、――付け加わってくるような本性であるというわけではない。そうではなくてむしろ、類が何らかの形相を示しているにしても、種差が限定されたかたちで示している個々の特定の形相を、限定されないかたちで示しているからなのであって、言い換えれば、種差が示している個々の特定の形相は、類が限定されないかたちで示していた何らかの形相に他ならないからである。それゆえ、註釈家は『形而上学』第12巻で、第一質料が一であると言われるのは、一切の形相をしりぞけることによってであり、類が一つであると言われるのは、指示された諸々の形相の共通性によってである、と言っている。それゆえ、類に種差を付け加えることによって、類は一つであるそもそもの原因、つまり非限定性を取り去ってしまえば、あとには本質的に異なった種だけ残るということは明らかである。
33ところで、すでに述べられたように、類の本性が種と比べて無規定であると同様、種の本性も個体と比べて無規定であるから、したがって類たるものが種について述語されるかぎり、判明にではないにしてもその意味内容のうちに種が限定されたかたちで持っている全体を意味していると同様に、種たるものもまた、それが個物について述語される限り、判明ではないにしても、個物が本質的に持っている全体を当然意味していなければならない。「ソクラテス」の本質が「人間」という名称で示され、したがって「人間」が「ソクラテス」について述語されるのはそのためである。
34ところが、もし種の本性が、固体化の原理であるところの指定された質料を捨象して示されるような場合には、部分という関係にたつであろう。この場合、種の本性は、「人間性」という名称で示される。すなわち、「人間性」とは「人間をして人間たらしめるゆえんのもの」を示しているのである。ところが、指定された質料は、「人間をして人間たらしめるゆえんのもの」ではない。であるからそれは、「人間をして人間たらしめるもの」のうちには、いかなる意味においても含まれないことになる。
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したがって「人間性」という概念のうちには「人間をして人間たらしめるもの」しか含まれないのであるから、指定された質料が「人間性」の意味内容から除外され捨象されることは明らかである。
35また、部分は全体について述語されないから、「人間性」が「人間」について述語されるということもなければ、「ソクラテス」について述語されるということもないわけである。それゆえ、アヴィケンナが言っているように、合成物の何性とは、たとえこの何性それ自身が合成されたものであるにしても、その何性を持っている合成物そのものを言うのではない。例えば、「人間性」は合成されたものであるにしても、ただちに「人間」なのではない。そうではなくてむしろそれは、指定された質料たる何らかのもののうちに受け取られるべきものなのである。
36しかしながら、すでに述べられたように、類に対して種を指定するということは、形相を通じてなされ、種に対して個物を指定するということは質料を通じてなされる。それゆえ、類の本性が得られるためのものを、種をつくりあげる一定の形相を捨象して示す名称は、例えば「身体」が「人間」の質料的部分であるように、全体そのものの質料的部分を示していなければならない。それに対して今度は、種の本性が得られるためのものを、指定された質料を捨象して示す名称は、全体そのもの形相的部分を示しているわけである。それゆえ、「人間性」は一種の形相として示され、全体の形相(forma totius)であると言われる。ただしここでいう形相とは、例えば家屋全体をつくりあげる諸部分に付け加えられた家の形相のように、本質的諸部分、すなわち形相と質料とに付け加えられた形相という意味での形相をいうのではなく、むしろ全体としての形相、言い換えれば、形相と質料を包括しているにもかかわらず、もともと質料を指定しておくべきはずのものを捨象している形相をいうのである。
37であるから、この「人間」という名称と、「人間性」という名称は、人間の本質を示していることは明らかであるが、すでに言われたように、その示し方がそれぞれ異なっているわけである。すなわち、「人間」という名称は、その本質を全体として示している。言い換えれば、質料の指定を捨象せずに、類が種差を含んでいると言われたと同じように、判明にではなく潜在的にではあるがそれを含んでいる、そういう意味において示しているのである。この「人間」という名称が個物について述語されるのはそのためである。それに対して、「人間性」という名称は、本質を部分として示している。というのも、その意味内容のうちには、「人間である限りにおける人間」しか含まれていないのであって、質料の指定を一切捨象しているからである。「人間性」という言葉が個物について述語されないのはそのためである。本質という名称にしても、例えば「ソクラテスは一種の本質である」と言われる場合のように事物について述語される時があったり、また例えば「ソクラテスの本質はソクラテスではない」という場合のように述語されない時があったりするのは、まさにこのような事情に基づいてのことである。
第三章 本質は、類とか種とか種差とかいった概念に対してどのような関係にたっているか
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38これまでのところで、本質という名称が合成実体において何を意味しているかを見てきたわけであるから、今度はそれが類とか種とか種差とかいった概念に対してどのような関係にたっているかを考察しなければならない。ところで、類とか種とか種差とかいったものは、指定された特定の個物について述語されるのであるから、部分という意味で述語される本質、例えば「人間性」とか「動物性」とかいった名称で示される本質は、普遍性という性格、すなわち、類とか種とかいったものの性格を持つことはできない。アヴィケンナが「理性的であること」は種差ではなく種差の原理であると言っているのはそのためである。同じ理由から、「人間性」も種ではなく、動物性も類ではない。
39同様にまた、本質は、プラトン主義者たちが言っていたように個物から独立して存在する一種の事物として述語されるならば、やはり、類とか種とかいった性格をもっているとは言われ得ない。もしかりにそう言われ得るとすれば、その場合類や種は特定の個体について述語されないことになるであろう。というのも、「ソクラテス」が「ソクラテス」から独立としたものであるなどとは言われ得ないし、さらにまた、その独立としたものが特定の個物を認識する上では役立つものであるなどとも言われ得ないからである。
40したがって我々は次のように結論することができる。類とか種とかいったものの本質とは、全体という意味で指示される本質、いいかえれば、固体のうちにある全体を、判明ではないにしても潜在的に含んでいるという意味において、例えば「人間」とか「動物」とかいった名称で示される本質をいうのである、と。
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41ところで、このように理解された本性ないし本質が、二つの仕方において考察され得るのである。すなわち、一つの仕方では、本質はその本来的な性格にしたがって考察される場合、それは本質を端的にとらえること(absoluta consideratio)である。この仕方では、本質について〔述語されることの中で〕真であるのは、本質である限りにおける本質にふさわしいもの以外にはあり得ない。それゆえ、この本質について述語されるそれ以外のものは何であれ、その述語はすべて偽である。例えば、人間である限りにおける人間には「理性的」とか「動物」とかまたその他に定義のうちに入ってくるものが含まれるのであって、「白い」とか「黒い」とかいうようなものでおよそ「人間性」という概念に入らないものは何でも、人間としての人間には含まれないのである。
42それゆえ誰かが、この意味でとらえられた本性は一と言えるか多と言えるかをたずねるなら、そのどちらをも認めるべきではない。なぜなら、「一である」ということも「多である」ということも「人間性」という概念には含まれていないのであって、たまたまこれが一である場合もあり、多である場合もあり得るというだけに過ぎないからである。すなわち、もしかりに「人間性」という概念に「多である」ということが含まれているとすれば、「人間性」という概念は決して一ではあり得なくなるであろうが、それが「ソクラテス」のうちにある限りにおいては一であるのは事実である。また同様に、「一である」ということがもしかりに「人間性」という概念に含まれているとすれば、その場合には「ソクラテス」と「プラトン」との「人間性」はまったく同一のものなってしまって、多数のものにおいて多数であるということはあり得なくなるであろう。
43なおまた、本質はもう一つ別な仕方でとらえることができる。すなわち本質は何らかの特定の個物のうちに存在しているという観点からとらえ、しがってその本質について付帯的に何かを述語され得るのである。例えば、「ソクラテスは白い人間である」ということから、「人間は白い」と言われる場合がそうである。ただしこの場合、「白い」ということは、人間としての人間に含まれているわけではないのである。
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44なおこの意味での本性は、二様の仕方で存在を持っている。つまり、個物のうちにある場合と、魂のうちにある場合とがある。そしていずれの場合にも、当の本性には付帯性がともなってくるのであり、のみならずまた、個物にあっては、個々のものの異なるに応じて多様な仕方において存在を持っている。しかしながら、純粋な意味で考察された本性、すなわち絶対的(absoluta)な考察のもとでの本性そのものは、今述べたいずれの仕方においても存在を持っているわけではない。例えば、人間である限りにおける人間の本性が特定の個人のうちに存在するということは真ではないのである。なぜなら、もしも人間である限りにおける人間が、本性上特定の個人のうちに存在するものであるとしたならば、その本性はこの特定の個人以外には決して存在し得ないことになろうが、これは事実に反するし、同様にまた、人間である限りにおける人間とは、その本性上決して特定の個人のうちにないとしたならば、その本性は決して個人内にはないことになり、これもまた事実に反するからである。そういうことはいずれも真ではないのであって、実際はむしろ、人間である限りにおける人間とは、その本性上、この個人とかあの個人とかいったある特定の個人のうちに存在するのではなく、また魂のうちに存在するものでもないのである。
45それゆえ、絶対的に考察された本性は、そのいずれかの存在の仕方をしなければならないという拘束を受けることもなく、それでいてこの両方の在り方を排除しないものであることは、明らかである。すべて個物について述語されるものとは、まさにこの意味で考察された本性なのである。
46とはいうものの、この意味で理解された本性には普遍性の概念が含まれているとは言えない。なぜなら、普遍性の概念には、一であるという性格と共通であるという性格とが含まれているが、絶対的にとらえられた人間の本性には、そのいずれの性格も含まれていないからである。実際、もしかりに共通性という性格が人間の概念に含まれているとしたならば、人間性が見出されるところならどこにでも共通性が見出されるはずである。が、これは事実に反するのである。なぜなら、例えばソクラテスのうちにはいかなる共通性も見出されないのであって、ソクラテスのうちにあるものはすべて固体化されているからである。
47同様にまた、固体のうちにある限りにおける人間の本性が、類とか種とかいった性格を持つとも言えない。なぜなら、すべての固体に共通な一つのものとして一である限りの人間性は、普遍性の概念が要求するように、個々の固体のうちには見出されないからである。
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48そこで、人間の本性が種という性格を持つのは、知性のうちに存在するあり方においてである、ということになる。すなわち、知性のうちにある人間の本性そのものは、あらゆる固体の条件から抽象されたものとしてあるのであって、したがってそれはまた、魂の外に実在するすべての固体に対して一様な関係を持っており、ひとしくすべての固体の類似であり、そしてまた人間である限りにおけるすべての人間を認識させる役割を演じるのである。知性が種の概念を考え出し、それを自分自身に帰する(attribuit sibi)のは、この種の概念がすべての固体に対してちょうど上に述べたような関係を持っているからにほかならない。註釈家が、『デ・アニマ』第一巻で「事物のうちに普遍性を生み出す(agit)のは知性である」と言っているのは、まさにそのためである。アヴィケンナもその『形而上学』においてやはりこれと同じことを言っている。
49したがって、知性によってとらえられたこの本性は、それらすべてのものに共通な一つの類似であるから、魂の外に実在する事物との関係においては普遍的性格をもつけれども、それが個々の知性のうちにある限りにおいては、知性によってとらえられた何らかの個別的な種なのである。
50それゆえ、註釈家は『デ・アニマ』第三巻において、知性によってとらえられた形相が普遍的であるということから、知性はすべての人間に共通な一つのものであるということを結論しようとしたのであるが、これは明らかに誤っている。なぜかといえば、知性によってとらえられた形相が普遍的であるのはそれが知性のうちそれぞれ単独にある限りにおいてではなく、事物の類似として事物に関係づけられる限りにおいてだからである。同様にしてまた、もし、多数の人間をあらわす一つの体の彫像があるとすれば、その似像または立像は、特定の資料のうちにある限りにおいては、それだけに固有な独自のあり方をしているにすぎないであろうが、多くの人間をあらわす共通者であるかぎりにおいては共通性という面を持つであろう。
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51なお、絶対的な意味での人間の本性はソクラテスについて述語されるのはふさわしいものであり、またこうしたとらえ方には種という性格はふさわしくないので、むしろこれは知性のうちにある限りにおける人間の本性にともなってくる付帯性にかぞえいれられるものであるから、種という名称がソクラテスに述語されて、「ソクラテスは種である」とは言えないわけである。もっとも、ソクラテスのうちにある限りにおける人間、あるいは絶対的に考察された人間、すなわち人間である限りにおける人間に、もしも種の性格があてはまるとしたならば、必然的にそういわざるをえないことになるであろう。なぜなら、人間である限りにおける人間にあてはまるものは何であれすべてソクラテスについて述語されてもかまわないはずだからである。
52にもかかわらずこれに対して類の方は、定義のうちに含まれているので、それは自ずと述語される性格を持っている。述語するということは、結合したり分離したりする知性の働きによってなされることであるが、それは、何か甲が乙について語られるという関係における甲乙両者の現実における共通領域(unitas)を根底に持っているのである。それゆえ、類も述語と同様に知性の働きによって作り上げられる概念でありながら、述語され得るという性格(predicabilitas)がその概念の意味表示の意図のうちに含まれるわけである。ただし、知性が甲を乙に結びつける場合、述語され得るという性格を示す概念が知性によってあてはめられるのは、類の概念そのものではなく、知性によって類の概念があてられているその当のもの、例えば「動物」という名称で示されるものである。
53以上のことから、本質ないし本性が種の概念に対してどういう関係を持っているかは明らかである。すなわち、種の概念は、絶対的に考察された本質ないし本性のうちに含まれるものにはかぞえられない。そかといってまた、「白」とか「黒」とかのように、魂の外に実在している限りにおける本質ないし本性にともなってくる付帯性にかぞえられるものでもない。そうではなくて、知性のうちに存在する限りにおける本質ないし本性にともなってくる付帯性にかぞえられるものなのである。類と種差の概念が本質ないし本性にあてはまるのも、この最後の仕方においてである。
第四章 本質は分離実体のうちにはどのようにあるか
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54なお、本質が分離実体、すなわち知的魂、英知体および第一原因においてはどのようにあるかという問題が残り、今度はそれについて検討しなければならない。
55ところで、第一原因の純粋性についてはすべての人々が同意しているにもかかわらず、英知体と魂とは質料と形相とから合成されているというふうに考えようとする人々がいる。このような主張の創始者は『生命の泉』の著者アヴィケンブロンだったらしい。しかし、このことは一般に哲学者たちの諸説に反する。なぜなら哲学者たちは、このような実体を質料から分離した実体と呼び、質料を持たずに存在するものであることを証明しているからである。
56その最も有力な論証は、それらの実体が持っている知解能力をそのよりどころとするものである。すなわち、我々の見るところによれば、形相は質料や質料的諸条件から切り離される限りにおいてのみ、そしてまた形相を自らのうちに受け取りかつ作り出すところの知的実体の能力を通してのみ現実的に可知的なもの(intelligibilis)となるのである。それゆえ、いかなる知的実体のうちにも質料は全く存在せず、したがって、知的実体は質料を自らの部分として持つのでもなければ、質料的形相のように、質料と結びついた形相であってもならないのである。
57そしてまた、質料でありさえすればどんな意味の質料でも、事物が知解されることの妨げになるとは限らず、その妨げとなるのはただ物体的質料だけである、というふうに主張することもできない。なぜなら、質料は、物体的形相のもとにある限りにおいてのみ物体的質料と言われるのであるから、もしかりに物体的質料だけが、事物の知解されることを妨げるということは、物体的形相に基づくものであることになろう。しかし、こういうことはありえない。なぜなら、物体的形相そのものもやはり、他の形相と同様に、それが質料から抽象される限りにおいては、現実的に知解され得るものだからである。
58それゆえ、魂と英知体とのうちにはいかなる意味においても質料と形相との合成はなく、したがってその本質は、物体的実体の本質と同じような仕方で認められるものでもない。ことになる。むしろそこでは、形相と存在との合成が見いだされるのである。それゆえ、『原因論』第九命題の註釈には、「英知体とは形相と存在とを持っているものである」、と言われており、ここでは形相は何性そのもの、ないし単純なる本性という意味にとられているのである。
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59そして、どうしてこうなるかということはたやすく理解できる。すなわち、一方が他方の存在原因であるという相互関係にあるものならどんなものでも、そのうちで原因としての性格を持っている方は、他方がなくとも存在し得るが、その逆は不可能である。
60ところが質料と形相との間は、質料が形相によって存在させられるという関係がみとめられる。それゆえ、質料は何らかの形相がなければ存在し得ないけれども、何らかの形相は質料がなくても存在することは不可能ではないのである。なぜなら、形相はまさに形相である限りにおいては何ら質料に依存するものではないからである。
61しかし、もし質料においてでなければ存在し得ないような形相があるとすれば、これらの形相がまさにそういう形相になっているのは、第一原理すなわち第一の純粋な現実態から遠く隔たっているからなのである。
62それゆえ、第一原理に最も接近している形相は質料なしに独立に存立する形相であるということになる。というのは、すでに述べられたように、いかなる種類の形相でも質料を必要とするというわけではないからである。そして、質料を必要としない形相が英知体である。それゆえ、この実体の本質ないし何性はどうしても、形相そのものにほかならないはずである。
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63それで、合成実体の本質と単純実体の本質との相違は次の点にある。すなわち、合成実体の本質は単に形相だけではなく、形相と質料とを含んでおり、これに対して単純実体の本質は単に形相だけであるという点がそれである。
64そしてこのことからして、他の二つの相違が出てくる。第一の相違は次のようなものである。合成実体の本質は全体としても部分としても指示され得る。こういうことは、すでに述べられたように、質料の指定を含んでいるか否かによって決まることである。それゆえ、合成物の本質は、合成物そのものについて、どのような仕方によっても述語できるというわけに行かない。例えば、人間はその何性であるとは言えないのである。
65これに対して、単純な事物の本質は自らの形相にほかならないので、全体としてしか指示され得ない。なぜなら、そこには形相以外にいわば形相を受け取るといったようなものは何もないからである。ゆえに、単純実体の本質はいかなる意味にとられようと単純実体について述語され得るわけである。それゆえにアヴィケンナは、「単純実体の何性はそれ自身全く単純なものである」と言っているのであるが、それは単純実体の何性を受け取るようなものは何もないからである。
66第二の相違は次のようなものである。合成実体の本質は、指定された質料のうちに受け取られるのであるから、この指定された質料が分割されれば、それに応じてこの合成実体の本質も複数となる。それゆえ、何らかのものは種的には同じであるが数的には異なっているということもおこり得る。これに対して、単純実体の本質は質料のうちにうけとられるようなものではないから、合成実体の本質と同じ意味で複数となることはあり得ない。したがって、この実体にあっては、同じ種に属する複数の固体が見出されるはずはないのであって、むしろそこでは、アヴィケンナが明言しているように、固体があると同じ数だけの種が見出されるのである。
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67ところで、たとえこのような実体は単なる形相であって、質料を持たないものであるにしても、あらゆる意味において単純なものであるわけでもなければ、純粋な現実態でもないのであって、そのうちに可能態が入り込んでいるのである。このことは以下の理由から明らかである。すなわち、本質ないし何性の概念に含まれないものはすべて、外から付け加わってきて本質と結合するものである。なぜなら、いかなる本質も、その本質の部分であるものを知解せずには知解することができない。ところが、いかなる本質ないし何性も、その存在について何ら知るところがなくても、我々はかなりそれを知解することができる。例えば、私は「人間とは何か」とか、フェニックスとは何か」を知っていて、しかもこれらのものが実在界に存在しているかどうかは知らないこともあり得るのである。したがって、存在は本質すなわち何性とは別のものであるということが明らかである。
68ただし、何性が自らの存在そのものである何かがあるとすれば、その場合話しは別である。そして、もしこのようなものがあるとすれば、それはただ一つしかありえず、しかも第一のものでなければならない。そのわけはこうである。およそ何かが複数化されるには、全部で次の三つの仕方しかない。〔1〕第一は、ちょうど類の本性がいくつかの種に複数化されるように、何らかの種差が付け加えられることによって複数化される。〔2〕第二は、ちょうど種の本性が異なる個体によって複数化されるように、形相が異なる質料のうち受け取られる場合である。〔3〕第三は、例えば何か分離された熱というようなものがあるとすれば、それは分離せざる熱とは本性上別のものであるように、一方は絶対的なものであり、他方は何らかのもののうち受け取られたものであるということによって複数化される場合である。
69ところで、もし何か存在のみであり、したがって存在そのものが自存するような何らかのものがあるとすれば、このような存在に種差が付け加えられるということはありえないであろう。なぜかと言えば、もし種差が付け加えられるとすれば、この存在は純然たる存在ではなくなり、存在でありながさらに加えて何らかの形相でもあることになるであろうからである。いわんや、このような存在に質料が付加されるということはなおさらありえないことである。なぜか、もし質料が付加されるとすれば、この存在はもはや自存する存在ではなくて、質料的存在になるからである。それように、自らが自らの存在ほかならないようなものは、ただ一つしかありえないという結論が出てくる。
70したがって、このようなものを除いた他のどんな事物においてもその存在はその何性すなわち本性ないし形相とは別のものでなければならない。ゆえに、英知体には、形相の他になお存在がなければならない。さきに、英知体は形相と存在とであると言われたのは、まさにそのためである。
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71ところで、何らかのものに属し得るものはすべて、自らの本性の原理が原因となって、例えば、人間の笑い得るという能力がそうであるように、そこから生じてきたものであるか、あるいはまた、例えば太陽の影響によって空中に光が生じる場合のように、何か外部的な原理から到達したものであるか、そのいずれかである。ところが、存在そのものは、形相ないし何性そのものが原因となって、そこから生じたのではあり得ない。ただしここでは原因ということを作用因の意味にとっているのであって、そういう意味においては、存在そのものは形相ないし何性そのものを原因として、そこから生じたものではあり得ないのである。なぜなら、もし存在そのものがこのような仕方で形相をその原因として、そこから生じてくるものであるとすれば、自分で自分自身の原因(causa sui)であるような事物、すなわち自分で自分自身を生み出すような事物が何かあることになろうが、こういうことは実際には不可能なことだからである。したがって、自らの存在と本性とが別である事物はすべて、その存在を他者に仰いでいるのでなければならない。
72しかも、他者によって存在するものはすべて、自らによって存在するものを第一原因としてそれに還元されるのであるから、自らが純然たる存在であるというまさにそのことによって、万物の存在原因であるような何らかのものがなければならない。さもなければ原因の系列を追って無限に進んでいくことになろう。なせなら、すでに言われたように、純然たる存在でないものはすべて、自分以外のものを自らの存在原因として持っているからである。
73ところで、甲が何か他のものから乙を受けとる場合には、甲は乙に対しては可能態にあり、また甲のうちに受けとられている乙は、甲の現実態である。したがって、それ自身英知体であるところに何性ないし形相は、神から受けとる存在に対しては可能態にあるはずであり、またそこに受けとられた存在は現実態というあり方をしている。そして、英知体のうちには、このような意味において可能態と現実態とが認められるわけであるが、しかし形相と質料ということは、〔物体的な実体の場合とは〕同名異議的(aequivoce)な意味でしか認められないのである。
74それゆえ、註釈家が『デ・アニマ』第三巻でいっているように、「働きを受ける」とか「受けとる」とか「基体となる」とか、その他質料があるために事物に属すると思われるこれに類した他のすべての事柄もまた、知的実体について言われる場合と物体的実体について言われる場合とでは言葉は同じでも意味は異なっている(aequivoce)のである。
75なお、すでに述べられたように、英知体の何性は知性そのものであるから、したがってその何性ないし本質は、英知体がまさにそれであるところのものにほかならないわけであり、また神から受けとったその存在は英知体を実在界に存立させるものとなるわけである。このような実体がある人々から、「〜由来するもの」(ex quo est)と「それであるところのもの〔何性〕」(quod est)とから、あるいはボエチウスが言っているように、「それであるところのもの〔何性〕」と「存在」(esse)とから合成されているといわれるのはまさにそのためである。
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76また、英知体のうちには現実態と可能態とがあるから、我々は英知体が複数存在するということを容易に認めることができるであろう。実際、そのうちにいかなる可能態もないとすれば、英知体が複数存在するということは決して認められない。ゆえに、註釈家は『デ・アニマ』第三巻において、「もしかりに、可能的知性の本性が我々に知られていないとしたら、我々は分離実体が複数存在するということを認めることはできなかったであろう」と言っている。したがって、これらの実体は現実態と可能態との段階に応じて相互に区別される。つまり、第一者に接近している上位の英知体にあっては、それが第一者に接近している程度に応じて現実性が多くなり、可能性が少なくなるのであり、他のものについてもこれと同じようなことがいえるのである。
77そしてこの段階は、知的実体のうちで最低の段階を占める人間の魂にいたって終結する。それゆえ、註釈家が『デ・アニマ』第三巻でいっているように、人間の可能的知性は可知的形相に対して、ちょうど可感的存在にあって最低の段階を占める第一質料が可感的形相に対するのと同じ関係にたっているのである。したがってまた哲学者も、可能的知性を何も記されていない平板になぞらえている。
78まさしくこのゆえに、人間の魂はそれ以外の知的実体よりも多くの可能態的な性格を持っているのである。したがって、人間の魂は質料〔物質〕的事物に非常に近いものとされているので、質料〔物質〕的事物をひきよせてこれに自らの存在性を分かち与えるわけであり、こうして魂と身体とから、一つの合成物のうちに一つの存在者が結果として生じてくるのである。しかしながらもちろん、その存在は魂の存在である限りにおいては決して身体に依存するものではない。
79そういうわけであるから、魂としての形相そのものにつづいて、魂より多くの可能態的性格を持ち、よりいっそう質料に接近しているがために、質料なしにはその存在がありえないような他の形相が見いだされる。これらの形相においてもまた順位と段階とが見いだされ、その順位と段階はもっとも質料に接近している四元(elementa)の原初的形相で終わっている。これらの形相はこれほど質料に接近しているがゆえに、能動的性質や受動的性質やその他、質料は形相を受け入れ得るような状態にされる性質に基づいてはじめて何らかの働きをなすのであり、それ以外には何の働きをもなさないのである。
第五章 どのようにして本質は種々異なったものにおいてはそれぞれ異なった仕方で見出されるか
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80今まで考察してきたことから、種々異なるもののうちにあって本質がどのような仕方で見出されるかは明らかである。すなわち、実体が本質を持つ仕方としては、三つの仕方が認められる。〔1〕そこでまず第一の仕方から検討しよう。たしかに、自らの本質が自らの存在である何ものかがある。神がまさしくそのようなものである。そこで、神の本質は神の存在にほかならないから、神は何性ないし本質を持たないと主張する哲学者たちもいるのである。また、神の本質は神の存在ほかならないということからして、神は類のうちには含まれないという帰結が出てくる。なぜなら、類に含まれるものはすべて、何性を自らの存在とは別に持っていなければならないからである。というのは、一つの類ないし種に含まれているものにあっては、その本性に関する限り、類あるいは種の何性ないし本性は区別されないけれども、それらの存在はそれぞれ異なっているからである。
81また、神は純粋な存在であると我々は言う場合に、神とはどんな事物をも形相的に存在させる普遍的存在であると主張した人々の誤謬に陥ってはならない。すなわち、神という存在はいかなる付加も受け入れない状態にあるものであり、したがってそれは自らの単純性によって他のいかなる存在からも区別された存在なのである。このことは、例えば、もし何か独立した色というものがあるとすれば、それは独立しているというまさにそのことによって独立しない色とは別なものである、という場合と同様である。『原因論』第九命題の註釈において、「それ自身純然たる存在であるところの第一原因は、純粋に善であるということによって固体化されている」といわれているのはまさにそのためである。これに対して、共通的存在は、自らの概念のうちにいかなる付加も含んでいないと同時に、いかなる付加の拒否も含まない。なぜなら、もしそうでなければ、ある存在のうちにさらに何かが付け加えられるようなものがあればその存在は理解できなくなるからである。
82同様にまた、神は純然たる存在であるにしても、存在以外の完全性と高貴性とが欠けているということはあり得ることではない。それどころか、『形而上学』第五巻で哲学者と註釈家とが言っているように、むしろ神はあらゆる種類のものに含まれているすべての完全性を自らのうちに持っているのであり、しかも他の事物よりはるかにすぐれた在り方において持っているのである。なぜなら、これらの完全性は、神のうちには一なるものとしてあるが、その他の事物においては種々異なるものとしてあるからである。それはなぜかといえば、これらすべての完全性は神の単純な在り方に即して神に含まれるからにほかならない。すなわち、もし誰か一人の人が一つの性質によってすべての性質の働きをすることができるとすれば、その一つの性質のうちにすべての性質を持つであろうように、神は自らの存在そのもののうちにすべての完全性をもっているのである。
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83〔2〕次に第二の仕方によると、本質は知的被造実体のうちに見出される。このような実体の本質は質料を含んではいないが、その存在と本質とはそれぞれ別なものである。それゆえ、このような実体の存在は無条件的(absolutum)なものではなく、受けとられたものであり、したがってまた、受けとるものの本性の受容能力に沿って限定と制限とを持っている。しかしながら、このような実体の本性ないし何性は絶対的(absoluta)なものであり、いかなる質料のうちに受けとられたものではない。それゆえ、『原因論』には、「英知体は下からは制限を受けないが、上からは制限を受ける」と言われている。すなわち、上位のものから受けとった自分の存在に関しては制限を受けているのであるが、下からは制限を受けないのである。なぜ下から制限を受けないかといえば、このような実体の形相がそれを受けとる何らかの質料の受容能力によって制限を受けることはないからである。したがってすでに述べられたようにこれらの知的被造実体においては、一つの種に複数の固体が属しているということはない。ただし、人間の魂は例外である。それは魂が身体と結びつくからである。
84また、魂は身体の現実態であるが、その身体のうちにおいてはじめて固体的存在を得るのであるから、人間の魂はその初生にあたっては臨機的に身体にたよることによって固体化されるのである。しかしそれにもかかわらず、身体がなくなればその個体性もなくなってしまうわけではない。それはどうしてかといえば、特定の身体の形相となることによって自らに個体的存在を得て人間の魂が絶対的存在を持つようになるから、その存在性は常に個体化されたままとどまるという理由に基づく。それゆえ、アヴィケンナが言っているように、魂は身体によって固体化され、複数となるのであるが、しかし身体にたよるのははじめだけのことであって、終わりまでたよっているわけではない。
85しかしそれにもかかわらず、このような何性と存在とは同じものではないから、これらの実体は範疇内に位置づけられ、したがってそれゆえに、このような実体のうちには類・種および種差が見出されるわけである。ただし、それらの固有な種差は我々には隠されている。実際、可感的な事物においてさえも、その本質的な種差は我々に知られていない。それゆえ、その本質的種差は、原因がその結果によって示されるように、本質的種差から生じてくる付帯的種差によって示されるわけである。例えば、「二足の」ということが人間の種差とされる場合がそうである。ところが、非質料的実体の固有な付帯性は我々には知らされていない。したがって我々は、このような実態の種差を、それ自身によっても、付帯的種差を通しても示すことはできないのである。
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86ただし、類とか種差とかいっても、これら非質料的実体のそれと可感的実体のそれとは同じ意味でとられるわけには行かないということに注意しなければならない。なぜなら、可感的実体の類は事物における質料的なものからとられ、種差は形相的なるものからとられる。したがって、アヴィケンナはその『デ・アニマ』冒頭において、質料と形相とから合成された事物の形相は、「形相に由来するものの単純なる種差である」と言っている。しかしこれは、形相そのものが種差であるという意味においてではなく、同じアヴィケンナがその『形而上学』で言っているように、形相が種差の原理(ミナモト)だからなのである。そしてこのような種差は、事物の何性の部分として見出されるもの、すなわち形相からとられるのであるから、単純種差といわれる。
87ところが、非質料的実体はそれ自身単純なる何性であるから、このような実体の種差は本質の部分であるようなものからとられるのではなく、何性全体からとられるのである。アヴィケンナがその『デ・アニマ』冒頭で、「単純種差を持っているのは、ただ自分の本質が質料と形相とから合成されているような種だけであって、それ以外のものではあり得ない」と言っているのはそのためである。
88これと同じように、単純実体の類もまた本質全体からとられる。ただしその仕方は違う。すなわち、それぞれの分離実体は他の分離実体とは非質料的なものであるという点で一致しているが、可能態から遠ざかり純粋現実態に接近している程度に応じた完全性の段階においては相違しているのである。したがって、分離実体の類は、このような実体が非質料的である限りにおいてこれらの実体にとものなってくるもの、例えば、「知性的であること」とか何かこのようなものからとられるのである。これに対して分離実体の種差は、これらの間に見出される完全性の段階にともなってくるものからとられる。ただし、我々は、それがどういうものであるかを知ることはできない。
89なおまた、分離実体の種差は、完全性の大小に基づく種差であるからといって、付帯的種差であるわけではない。なぜなら、付帯的種差は種を多様化しないのであるが、分離実体の種差は種を多様化するからである。すなわち、一つの形相を受けとる場合の完全性の段階、例えば、「白」という一つの同じ性格を共有する場合の「より白きもの」と「より少なく白きもの」とは種を多様化しないのであるが、これに対して共有された形相ないし完全性の種々異なった段階は種を多様化するのである。この段階はちょうど、哲学者が『動物論』第八巻(588b4-12)で言っていること、すなわち、自然が段階をおって植物から動物へ何か中間にあるものを通って進んで行くその段階をいうのである。
90さらにまた、知的実体が常に二つの真なる種差によって分離されるという必要はない。なぜなら、哲学者が『動物論』第十一巻(642b5-7)で言っているように、すべての事物が常に二つの真なる種差によって分割されるということはありえないからである。
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91最後に〔3〕第三の仕方によると、本質は質料と形相とから成る合成実体のうちに見出される。このような実体の存在はその存在を他者に仰いでいるということから、この存在は受けとられかつ制限を受けた存在というかたちで見出される。のみならず、このような実体の本性ないし何性もまた指定された質料のうちに受けとられているのである。したがって、合成実体は上からも下からも制限を受けているわけである。これらの実体においてはまた、指定された質料が分割されるという理由から、一つの種に多数の固体が属しているということも可能である。また、これらの実体において本質が論理的諸概念に対してどのような関係にたっているかはすでに述べられた。
第六章 本質は付帯的存在者のうちにはどのようにあるか
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92これまで我々は本質が実体においてどのような仕方で見出されるかをすべての実体にわたって述べてきたわけであるが、付帯的存在者においてはどのような仕方で見出されるかという問題がなお残っているから、今度はこれについて検討しなければならない。
93すでに述べられたように、本質とは定義によって示されるところのものであるから、当然付帯的存在においても同じように定義を持つ限りにおいて本質を持つということでなければならない。ところが、付帯的存在の持っている定義は不完全なものである。なぜなら、付帯的存在は定義される場合にはその定義のうちには必ず基体が入ってくるからである。それはなぜかといえば、付帯的存在は基体から離れてそれ自身独立して存在するものではなく、付帯的存在は基体と結合してはじめてその両者から付帯性が出てくるためである。これはちょうど、形相と質料とが合成される時にこの両者から実体的存在が成立するということと同じである。
94したがって、実体的形相もまた完全な本質を持っていないということになる。なぜなら、実体的形相の定義のうちにもその形相と結合しているところの質料が含まれていなければならないからである。したがって、実体的形相を定義する場合には、付帯的形相を定義する場合と同じように、その類の外にあるものを必ず付け加えなければならない。ただ自然的物体の形相である限りにおいてのみ魂を考察する自然学者が、魂の定義のうちに身体をも含めているのはそのためである。
95しかしながら、実体的形相と付帯的形相との間には次のような相違がある。実体的形相は、それを担うもの、すなわち質料がなければそれだけで独立に存在するものではないが、実体的形相を担うもの、すなわち質料もまたそれだけで独立に存在するものではない。したがって、事物がそれだけで存在するそのような存在は、形相と質料との結合からはじめて結果してくるのであり、形相と質料との結合からして自体的に一なるものが生じてくるのである。形相と質料との結合からある種の本質が出てくるのはそのためである。したがって、形相は、それ自身において考察される限り本質の完全な性格を持っているわけではないにしても、完全なる本質の一部分としての役割をもっているわけである。
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96実体的形相に対して今度は付帯的形相をみてみよう。およそ付帯的存在を担うものはそれ自体として完結する存在者であり、自らの存在において自存する存在である。このような存在はそれに付け加わってくる付帯性に本性上先行するものである。したがって、外から付け加わってくる付帯性は、なるほどそれを担うものと結合することによって、存在の原因となるにしても、事物がそのうちに自存するような存在、いいかえれば事物がそれによって自体的存在者となるような存在の原因となるのではなくて、何らかの第二次的な存在の原因となるにすぎないのである。ここでいう第二次的な存在とは、それがなくとも自存する事物は十分知られ得るといった性質の存在をいうのであって、ちょうど第二次的なものがなくても第一次的なものは十分知られ得るというのがそれにあたる。
97したがって、付帯性と基体とからは自体的に一なるものは生じてこないのであって、付帯的に一なるものが生じてくるにすぎないのである。したがって、付帯性と基体とからある種の本質が結果してくるという場合と、質料と形相との結合からある種の本質が結果してくるという場合とでは意味が違う。このようなわけであるから、付帯性は完全な本質の性格を持たないのみならず、完全な本質の部分でもなく、むしろそれはある意味での存在者にすぎないと同じように、ある意味での本質を持っているにすぎないのである。
98ところで、『形而上学』第二巻(993b24-27)で言われているように、どんな類のうちにおいてであれ、その類のうちで最もすぐれたかたちで見出され、最も真なるかたちで見出されるものは、それ以下につづいて同じ類のうちに見出されるものの原因であって、例えば、熱の最高度にある火は熱いものの原因なのである。したがって、存在者の類のうちで第一のものであり、最も真にしてすぐれたかたちで本質を持っているところの実体は、第二次的に、いわば何らかの意味で存在者という性格に参与しているにすぎない付帯性の原因でなければならない。
99ただし、付帯性が存在者の性格に参与するということは、種々異なる仕方で成り立つ。すなわち、実体は質料と形相とをその部分として持っているのであるから、付帯性のうちには、主として形相にともなってくる付帯性と、主として質料にともなってくる付帯性とがあるわけである。ところが、例えば知的魂がそうであるように、質料にたよらないで存在するような形相がありうる。これに対して、質料は形相を通してしか存在しない。
100したがって、形相にともなってくる付帯性のうちには、質料との交わり(communicatio)をもたない付帯性もある。例えば、哲学者が『デ・アニマ』第三巻(429a18-b5)で論証しているように、知解することがそれであって、これは身体器官にはたよらないものなのである。しかしながら形相にともなってくる付帯性のうちには、なるほど質料と交わるような付帯性、例えば「感覚」とかこれに類するものはあるけれども、質料にともなってくるような付帯性のうちには形相と交わらない付帯性は一つもないのである。
30.
101なお、質料にともなってくる付帯性のうちには何らかの相違が認められる。すなわち、質料にともなってくる付帯性のあるものは、特殊的形相に秩序づけられる質料にともなってくる付帯性であって、例えば、『形而上学』第十巻(1058b21-23)において言われているように、動物におけるオス(男性)とメス(女性)とが認められ、その相違は質料に帰せられるというのがちょうどそれにあたる。それゆえ、動物という形相が取り去られるならば、今述べた付帯性は同名異議的なものとしてしか残らないわけである。これに対して、質料にともなってくる付帯性のうち今いった付帯性以外のものは、一般的形相に秩序づけられる質料にともなってくる付帯性である。したがって、このような付帯性は特殊的形相が取り去られてもなお依然としてその一般的形相のうちに残るわけである。例えば、エチオピア人たちに認められる皮膚の黒さは四元の組み合わせによるものであって、魂というものに基づくものではないから、死後もなお残るというのがちょうどそれにあたる。
102そして、それぞれの事物は質料によって固体化され、自らの形相によって類ないし種にわりあてられるのであるから、それゆえ質料にともなってくる付帯性とは固体の付帯性といわれるわけであり、固体の付帯性によって諸々の固体は同じ種に属しながらも互いに相違することになるのである。
103これに対して、形相にともなってくる付帯性は類ないし種の固有な属性であり、それゆえそのような付帯性は、類ないし種の本性を共有しているすべてのもののうちに見出される。例えば、「笑う能力」が人間の形相にともなってくるということがそうである。なぜなら、笑うこととは人間の魂の一種の理解の仕方から生じるからである。
31.
104さらにまたこういうことをも知っておく必要がある。付帯性は、基体の本質的原理が完全に現実態である限りにおいてその原理から生み出されるという場合がある。例えば、いつでも現実態的に熱い火のうちにある熱がそれにあたる。これに対して今度は、基体の本質的原理が持っている素質という点から生み出され、それが外的能動因によって補全されるという場合がある。例えば、空気の透明であるという性質がそうであって、これは外的光体によって補全されるのである。このような場合においては、素質は基体と切り離すことのできない付帯性なのである。しかしながら、事物の本質外にある何らかの外的原因に由来するところの補全ということ、あるいは、事物の構成要素とはならないところの補全ということは、基体と切り離すことのできる付帯性であって、例えば、「動き」とかそれと類するようなものがこれにあたる。
105なおこういうことも知っておかなければならない。類・種差および種のとらえ方は、付帯性と実体とにおいてはそれぞれ異なっている。すなわち、実体においては実体的形相と質料とから自体的にある種の一なる本性が生じてくるわけであるが、それは形相と質料との結合から帰結としてくるのであり、本来的な意味において実体の範疇(praedicamentum)にあてられるものである。したがって、実体においては、例えば人間とか動物とかいった種ないし類のように、合成物を示すところの具体的名称は、本来的な意味において範疇のうちに入るといわれるわけである。しかしながら、形相または質料が前と同じく実体の範疇のうちに入るということは、第一原理が範疇のうちに入るといわれる場合のように、ただ還元を通じて(per reductionem)のみゆるされることである。
106これに対して、付帯性と基体とからは、自体的に一なるものは成立しない。したがって、付帯性と基体との結合からは、類とか種とかいった概念があてはまるような本性は何ら帰結してこないわけである。それゆえ、例えば、「白いもの」とか「教養あるもの」のように、具体的なかたちで語られた付帯的名称が、種ないし類として範疇のうちに置かれるということは、ただ還元を通じてのみゆるされることであり、付帯的名称が直接に範疇のうちに置かれるということは、例えば「白」とか「教養」のように、それが抽象的なかたちで示される場合だけに限られるのである。
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107また、付帯性は質料と形相とから合成されているものではないから、付帯性においては、合成実体の場合とはちがって、その類が質料からとられ、種差が形相からとられるということはありえない。付帯性の第一義的な類はむしろ、存在が十の範疇について、前後関係に応じてそれぞれ異なった仕方で語られるように、それぞれの付帯性の在り方そのものからとられるべきである。こうして、哲学者が『形而上学』第九巻(1045b27-32)で言っているように、存在は実体の尺度である場合は量といわれ、実体の状態である場合は性質といわれ、その他のものについてもこれと同じような仕方でいわれるというちょうどそのことを指しているものである。
108ところが、これに対して、付帯性の種差は付帯性の原因となる原理の相違からとられる。しかも、固有な属性とは基体の固有な原理から原因されるものであるから、例えば「獅子鼻」ということは鼻の湾曲のことであると言われる場合のように、付帯性が範疇のうちにあるという意味で抽象的に定義される場合には、それらの付帯性の定義のうちには種差の代わりに基体が含まれるということになる。
109しかしながら、付帯性が具体的に語られるという場合に定義されるとしたならば、その逆が真であることになろう。すなわち、基体が類として付帯性の定義のうちに含まれるであろう。なぜなら、その場合には、例えば「獅子鼻」は曲がった鼻であるという場合のように、類の概念が質料とられるような合成実体と同じ仕方で定義されることになるからである。
110なお、一つの付帯性が他の付帯性の原理である場合もこれと同様である。一例としては、能動・受動および量が関係の原理であるという場合がちょうどそれにあたる。哲学者が『形而上学』の第五巻(1020b26-32)で、関係をそのようなものとの関連において区分しているのも、一方が他方の原理であるということをよりどころにしてのことである。
111しかしながら、付帯性の固有な原理は必ずしも明白であると限らないから、時としては、付帯性の種差がそれらの結果からとられるような場合もある。例えば、光の量の多い少ないによってきまる「集約性」と「分散性」とが色の種差といわれ、そのことから色の異なる種が生じてくる場合がそうである。
結語
編集112以上のようなわけで、本質が実体および付帯性のうちにどのようにあるか、また合成実体と単純実体のうちにどのようにあるか、さらにまたこれらすべてのものうちで、論理的普遍概念はどのようなかたちで見出されるか、こういった問題は明らかになった。ただし、第一者だけは例外である。なぜなら、この第一者は本来無限に単純なものであり、まさにその単純性のゆえに、この第一者には類という性格も種という性格も見出されえないし、したがって定義も見出されえないからである。しかし、この論説が最後の仕上げを得、完結を見るのは実はほかならぬこの第一者に至ってのことであろう。
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