妖光殺人事件



 私が弁護士手龍太の訪問を受けたのは、星合ほしあい予審判事の命令で、殺人被告人八木万助の精神鑑定をしようと云う前夜だった。手弁護士と云えば、諸君のうちには御存じの方もあるだろうが、どっちかと云うと小男なんだが、顔はと云うと人並外れて大きく、しかも、俗に鉤鼻と云う、先が曲って垂れ下っている鼻が、その大きな顔の大部分を占めていて、西洋の童話に出て来る妖婆そっくりと云う、グロテスクな人間なので、初対面の私は、彼がグリグリと眼を動かして話し出した時には、何を云い出すかと、内心やや不安を感じたが、彼は流石に弁護士だけあって、話術は甚だ巧みで、いつの間にか、私の心の中の不安は消えて、彼に幾分親しみを覚えるようになったのだった。

 彼は八木万助の義俠的の弁護人だったので、つまり、万助の精神鑑定に立会わして貰いたいと云うのだった。私はそれが法規上、許される事かどうかは、よく知らなかったが、彼が今までに度々万助に接していたとすると、万助が彼から何事か暗示を受けて、それが鑑定の邪魔になる事を恐れたので、万助と同室する事は断って、その代りに、隣室で問答を洩れ聞いている事を、許す事にした。手「それで結構じゃ」と云って、スタスタと帰って行った。

 さて、万助の精神鑑定の事であるが、私はその前に、彼がいかにして殺人を犯し、いかにして、精神鑑定に附せられるに至ったかと云う事を、簡短ママに説明しよう。

 今から約三月ばかり以前の二月五日の夜十一時過ぎ、郊外S町のゴミゴミした小住宅区域の一角に、突如として銃声がとどろいた。恰度附近を密行中だったS署の刑事は、直ぐに銃声のした所に駆けつけると、一軒の家の表戸が開け放しになって、その中では、一人の男が、女房らしい女のまげの根っ子を捕えて、コン畜生と云いながら、踏んだり、蹴ったり、散々な目に会わせている所だった。

 刑事は直ぐに割って入って、ヒーヒー悲鳴を上げて、口惜くやしそうに身顫みぶるいしている女房を、乱暴な亭主から、無理やりに放した。すると、男は、

「旦那、こん畜生は、間男まおとこをしやがったのです。うぬ、どうするか見ろ」

 と云いながら、再び女房に打って掛ろうとした。刑事は、

「乱暴はせッ、静かに話をすれば、分る」

 と、男を抱き留めたが、この時に、ふと、畳の上に一挺のブローニングが転がっているのが眼についたので、ハッと思いながら、

「貴様はピストルを撃ったんだなッ」

 と怒鳴ると、男は急に思い出したように、顔色を真蒼まつさおにして、畳の上にへタへタと坐ってしまった。

「旦那、すみません。やっちやったのです」

「なに、やっちゃった」

「へい、間男のやつを、撃っちゃったのです」

「えッ」

 刑事は驚いて、だんだん訊いて見ると、彼が外から帰ると姦夫があわてふためいて出て来て、そのまま逃げて行こうとしたので、おのれッと叫んで、背後うしろから一発ぶっ放したと云うのだった。

「確かに、手応えがありました」

 そう云って、彼は今更大罪を犯したのを、恐れるように、ブルブルと顫えるのだった。

 刑事は驚き怪しみながら、外に出て見ると、家の前から二間ばかり行った暗闇に、洋服を着た紳士風の男が、うつ伏しママになってたおれていた。

 斃れていた紳士は、間もなく理学博士脇田市造と判明した。射殺した男は、云うまでもなく、八木万助である。



 刑事の急報で、ただちに現場に駆けつけて来た係官に対し、八木万助の妻は、極力姦通の事実を否認した。

「私はあの方が誰やら少しも知りません。今夜初めてお目にかかった方です。あの方は、今夜八時頃、八木万助さんのお宅はこちらかな、と云って訪ねて来られました。私は万助は留守ですと申しますと、困ったような顔をしておられましたが、では、もう少ししたら来ようと云って、帰って行かれました。そうして、十一時頃、又、訪ねて来られました。未だ帰りませんと云いますと、それは困ったなあと云って、しばらくモジモジしておられましたが、どうしても、今晚中に会わなくては困るから、ここで待たして貰おうと云って、玄関の所に腰を掛けられました。暫くすると、外の方に人の足音がしましたので万助さんが帰って来られたようだと云って、外へ出られました。すると、その途端に、パンと云う妙な音がして、ハッと思う間もなく、うちのが飛込んで来まして、いきなり私に打ってかかると、訳も云わずに、こん畜生、太いあまだと、踏んだり蹴ったり、とても乱暴をしました。私は、弁解する事も出来ず、ヒイヒイと苦しい声を上げるばかりでした」

 女房が係官の訊問に答える間、万助は何回となく、

「うぬ、畜生! 噓つきめ」

 と叫んで、彼女に打ってかかろうとして、その都度つど刑事に抱き留められたが、いよいよ女房の話がすむと、

「あいつの云った事はみんな嘘です。あっしは、すっかり見ていたんです。あいつは、あの男を、あっしの留守に引張り込んで、巫山戯ふざけた真似をしていたに違いありません」

「見ていたって」

 女房の話す所が真実らしいと感じていた係官は、見ていたと云う万助の言葉に、やや驚きながら、

「どこで見ていたのか」

「遠くで見ていました」

「遠くで?」

「へい。芝から見ておりました」

「なにッ」

 係官はわが耳を疑うように、眼をパチパチさせながら、万助の顔をしげしげと眺めた。芝から、このS町までは鳥の飛ぶ距離にして、十キロに余るだろう。係官の頭には、早くもこの時に、万助の精神状態を疑う念が、ムラムラと起ったのだった。

 万助はしかし、真剣だった。

「芝から見ていました。それに違いありません」

「芝から、どうして、ここが見えるか」

 係官が呆れるように云うと、万助はニヤリと、不気味なえみを浮べた。

「旦那方は、そう云う便利な発明があるのを、無論、御存じだと思いますが、あっしは、テレビジョンていうやつで見ていたんですよ」

 この、一見粗野な、無教育らしい労働者風の男の口から、思いがけなく、最新科学に属する片仮名が飛出したので、係官は吃驚びつくりしたが、同時に、万助の精神状態を疑ってもいられなくなったので、

「なに、テレビジョンで見た。ふむ、くわしく話して見ろ」

「あっしは、今日夕方から浅草へ遊びに行きました。すると、八時頃、山羊やぎ鬚を生やした立派な紳士に、八木万助さんじゃないかと云つてね。馴々なれなれしく呼び留められたのです。あっしはまるで見覚えのない人だったので、薄気味が悪かったのですが、無理やりに近所の小料理屋に連れ込まれて、散々さんざん御馳走になりました。初めのうちはどうも変でしたが、しまいには何だか昔から知っているような気がしましてね、その癖、誰だか、さっぱり分らないんですけれども、勧められるままに、鳕腹たらふく呑んだと云う訳なんです。そのうちに、万助さん、うちへ来ないかいと云いますからね、酔った勢いでさあ、参りましょうてんで、出かけました。

 自動車に乗せられて、スーッといつたんで、酔眼モーローていママんですかね、眼がボーッとしていたんで、芝のどの辺だか、よく覚えていません。何でもね、立派な洋館造りでしたよ。ところが、あっしが第一におったまげたのは、その紳士がね、家の玄関の前に立つと、部の厚い、コンクリートのドアが、音もなくスーと開いたんでさあ。決して嘘じゃありません。全くなんで、ところが旦那、まだまだおったまげる事が、いくらでもあるんですぜ。こんな事は、ホンの序の口なんで」

 万助は、その音もなくスーッと開いた扉から、家の中に招き入れられた。家は、中々宏壮なものだったが、ガランとして他には誰もいないようだった。彼はやがて、部屋の入口らしい所に来た。すると、入口の扉は、又、音もなくスーッと開いた。部屋は四方真白な壁に囲まれて、まるで牢屋のようだった。

「あっしはしまったと思いましたね。こいつは、うまだまママされた、飛んでもない所へ連れ込まれ、てっきり生胆いきぎもを取られるんだと思いましたね。そう思うと、急に恐ろしくなって、よいが覚めちまいました。しかし、本当に酔が覚めて蒼くなったのは、その紳士が真白な壁に向って、大きな声で、開け! 悪魔! と云った時でさあ」

 万助はその時の事を、追想するように、首を縮めて、さも恐ろしそうに、ブルブル顫えながら、

「あっしは、てっきり、紳士は気が違ったのだと思いました。すると、どうでしょう。紳士が、開け! 悪魔! と叫んだ拍子に、真白な壁がグラグラと動き出したのです。そうして、パクリと大きな口を開けました。紳士は呆気あつけに取られて、尻込みしているあっしを、手招きしてそのパックリ開いた口から、次の室へ呼び入れました。恐る恐る、次の間を覗いたあっしは、思わずあッと声を出しましたぜ」

 その次の間と云うのが、実に素晴らしかったそうである。壁と云わず柱と云わず、金色こんじきまばゆい光を放って、天井には瓔珞ようらくのように、キラキラと珠玉を連ねたものが隙間から下って、床には燃えるような花模様の厚い絨氈が敷かれていた。

「ここを覗いて見給え」

 紳士が壁間にめ込んであった鏡をゆびさしたので、万助は何気なく覗いて見ると、彼はもう少しで卒倒する所だった。

「鏡に写ったのは、あっしの顔でなくて、角の生えた、恐ろしい鬼の顔なんです」

 万助が退るようにぎょッとすると、紳士はアハハハハと笑って、

「この部屋の番人の悪魔だ。その鏡の中に住んでいるのだよ」

 それから紳士は、万助を部屋の隅の壁に嵌め込みになっている、立派な戸棚の傍に連れて行って、

「開け! 悪魔! と呼んでごらん」

 と云うので、万助はその通りにすると、戸棚のドアは、スルスルと開いて、中には、何とも云えない美しい光りを、眩しいように発する大きな宝石が、ギッシリと這入っていた。

「ダイヤモンドだよ。アハハハハ」

 紳士は機嫌よく笑って、別の戸棚から、琥珀こはくを溶かしたような酒を取り出して、先ず、自ら一杯のみ、それから万助に勧めた。

「その味ったら、実に、たまらない旨さで、あっしは、もし、あれが毒だとしても、喜んで呑みましたよ」

 そんな事で、万助がまるで狐につままれたように、キョトキョトしていると、紳士は、

「万助さん、何もそう驚かなくてもいいよ。私は魔法使いでも、何でもない。今までみせた事は、みんな科学で出来る事なんだよ。万助さんは、テレビジョンと云って、遠方の事が、手に取るように見えて、声までがちゃんと聞えるのを、知っているかね」と云った。

「あっしは」万助は係官に云うのだった。「テレビジョンなんて、名はよく知らなかったんですが、そんなものが出来たと云う事は聞いていましたし、遠方の声が聞えるのは、ラジオがそうだし、写真がものを云うのは、トーキーていやつで知っていますから、今まで、散々に見せられた不思議と比べれば、遠方の事が見える位、なんでもないと思いましたよ」

 万助がテレビジョンの事は知っているが、見た事はないと云うと、紳士は、

「そう、それでは一つ見せて上げよう。何を見せたらいいだろうね。おお、そうだ。あなたの家を見せて上げよう」

 そう云って、彼はうなずきながら、仕度を始めたが、やがて、部屋の壁に開いていた小さい穴を指して、

「ここから、覗いてごらん。あなたの家の事が見えるから」

 と云って、スイッチをひねって、電燈を消したので、部屋はたちまち真暗になった。



 云われるままに、真暗になった部屋から、小さい穴に眼を当てて、次の間を覗くと、そこには、やや鮮明を欠いた活動写真のようなものが写っていた。そのうちに眼が馴れると、画面は万助の家の一室である事が分った

「暫く見ているうちに、あっしの髪の毛は逆立ちをしましたよ。女房のやつが、見馴れない男を引張り込んでいるじゃありませんか。男のやつの顔をどうかして見てやろうと苦心したんですが、どうもハッキルしないんです。けれども、畜生! いやらしく、男にしなだれかかりやがって、あなたや、って、変に甘たるい声を出しやがって――」

 万助は実に口惜しそうだった。

「そのうちに、テレビジョンの場面は――畜生! いくらなんでも、あっしや、人に話せねえや。あっしや、こう、頭と云わず、腹の中と云わず、身体中を引搔き廻されるようで、身体が変に熱ぽくなって、口がねばっこくなって、動悸がして、どうにもじっとしていられなくなったのです。思わず、畜生! と叫んで、懐中ふところに入れていたピストルをしっかり握りしめたんで」

 すると、彼の耳許みみもとで囁く声がした。それは勿論、彼の傍にいた怪紳士に違いないのだが、万助には、鏡の裏に住んでいる悪魔の囁きのように思えた。

「万助さん、ここでいくら口惜しがったって駄目だよ。それは、お前さんの家で起っている事だからね」

 万助は大きな涙をポロポロ落しながら叫んだ。

「旦那、後生ですから、あっしを家へやっておくんなさい。あっしは、あの野郎をぶち殺さなくちゃ、男の一分が立たねえや」

 紳士はしかし、容易に帰宅する事を許してくれなかった。が、最後にはとうとう万助の執拗な要求を退ける事が出来なくなって、

「乱暴な事をしてはいけないよ。それでは、途中まで送って行こう」

 と云って、万助を自動車に乗せて、新宿駅まで送ってくれた。

「あっしは、夢中で、省線電車に乗り、家に帰ったのです。すると、恰度、間男のやつが、家の中から出て、一散に逃げて行こうとしたので、この野郎と、背後うしろから一発浴せママて、ぶっ倒れた所を見届けると、家の中に飛込んで、女房のやつを、散々にぶちのめしたのです」

 万助の話は大約こんな事だったが、諸君も既にお気づきの通り、筋の通っているような、通っていないような、奇々怪々な話である。それに、係官の首を捻らせた事は、被害者の脇田博士が誰知らない者はないと云うほど、有名な物理学者で、年配もすでに五十を半ば近く越しているし、なるほど、一介の労働者の妻にしてはちょっと綺麗だし、がさつな夫に比べると、やや教育もあるようだが、博士ともある者が、こんな場末のあばら屋に来て、こう云う女と忍び合おうとは考えられない事だった。

 それに更に奇怪な事は、実はこれは読者諸君の興味をそそるように、わざと前後して書いたのだが、万助が、彼自身が射殺した屍体を見せられた時に、やや、と云って、退るほど驚いた事で、彼は、その屍体になっている男が、彼を芝の怪屋に連れ込んで、種々の怪奇な事を見せ、挙句にテレビジョンで、女房があだし男と忍び合っている所を見せた男に他ならないと云ったのだった。が、間もなく、彼はその不合理な事に気がついたらしく、よく似てはいるが、どこか違う所があると訂正したのだった。

 次に、係官は、万助に、彼が最新式のブローニング自働ママ拳銃ピストルを、常時ふだん懐中ふところに忍ばしていた理由と、拳銃ピストルをどうして手に入れたかと云う事について、厳重に訊問をした。万助はこの訊問については、知らぬ存ぜぬの一点ばりで、いっかな自白しなかったが、手をかえ、品をかえて、根強く責め問われて、とうとう、恐れ入って口を開いた。

 そこで、私は彼の自白を紹介しなければならないのだが、その前に、読者諸君も、既にお気づきになって、大いに気にしていられるであろう所の、脇田博士の事を、ちょっと述べて置こう。



 脇田博士は既に述べた通り、有名な物理学の権威者で、早くも、大学教授の栄職をなげうって、小石川の自宅に、ラボラトリーを設け、そこで孜々ししとして、研究を続けていた篤学者だった。研究題目は、高温度に於ける金属の性質と云う事だったが、門外漢の私には、くわしい事は分らぬ。一般に知られた博士の身辺を巡るゴシップは、博士が余程変屈な人である事と、若く美しい夫人を持っている事だった。が、そんな事よりも、一般世間の人を、アッと驚かしたのは、今から一年余り以前の、昨年の三月中旬に起った、博士邸の怪事件であろう。

 諸君のうちには、昨年の三月十四日の深更、博士邸に突如として、一大爆音が起って、木造家屋の一部は、猛烈な勢いで燃え上り、即座に駆けつけた消防隊の努カも無効で、鉄筋コンクリート造りの研究室を残して、宏壮な邸宅が全部烏有うゆうに帰した事件を、記憶せられている方が、少なからずあると思う。

 世間の人を驚かしたのは、物理学の権威脇田博士の邸内に、突如爆音が起って、忽ち同邸を焼き払ったと云う事だけに止らないで、更に、世人をアッと云わせたのは、焼跡から無残な焼死体が現われて、しかも、それが博士の若く美しい夫人で、検屍の結果他殺の疑いがあると発表せられた事だった。

 爆発に続いて、火災のあった当夜は、脇田博士は留守だった。彼は研究の結果をまとめるために、書類を持って、二日ばかり以前から伊豆の温泉に逗留中で、夫人は女中と二人きりで留守居をしていたのだったが、当夜は女中の親が急病で、暇を貰って行ったので、全く夫人一人だった。 急報に接して、愴惶そうこうとして帰って来た博士は、真黒に焦げた愛妻の屍体を、暗然と眺めながら、うめくような悲痛な声で、「あいつだ!」と呟いた。博士は無論、人に聞かすつもりはなかったのだが、彼の傍で様子をうかがっていた刑事は、その言葉を聞洩ききもらさなかった。そのために、博士は後に、官憲からかなり激しく追究されたが、彼はかきのように口をつぐんで、あいつだと云ったのが、誰を指すのか絶体ママに云わなかった。

 屍体は何しろ相好もよく分らないほど、焼けただれていたので、死因を極める事は非常に困難だったが、屍体の横わっていた位置と、状態とから、火災の起る以前に、既に死んでいた事が確められた。そうして、根気のいい刑事の捜索によって、屍体の横わママっていた現場附近から、ピストルの弾丸が発見せられた事によって、彼女は何者かに、ピストルで射殺せられたのであろうと云う事になった。犯人は彼女を射殺してから、犯跡をおおうために火を放ったのであろうが、何によって爆発が起ったのかは、全然不明だった。

 博士邸の怪火、しかも、若く美しい夫人が惨殺されて、焼跡から屍体になって出て来たと云う大事件であるから、警察当局は必死になって、犯人の検挙に努めたが、犯人を突き留める事はおろか、爪の先ほどの手掛りも摑む事が出来ないで、新聞では早くも迷宮入りを伝えられ、博士の研究が絶対秘密のものだっただけに、流言蜚語ひごが飛び交うと云う始末だった。

 捜索にあぐねた当局は、とうとう、脇田博士の愛弟子で、今は、学界では師の名声をしのぐほどで大学教授の現職にある横林博士を容疑者として拘引した。横林博士はく評判のいい学者だったので、当局者が、博士が脇田夫人と、何か情交関係でもあったような風説をもとにして同氏を拘引したのを、新聞では、血迷った当局などと、侮蔑的な記事を掲げて、冷笑したものだった。そうして、結果は新聞の嘲笑を裏書きして、何等なんら確定的な証拠が摑めないで、横林博士を放免する他はなかった。当時は、横林博士の拘引について、学界の暗闘とか、醜い学者心理とか云う題で、盛んに新聞紙上にデマが飛んだもので、学界の暗闘と云うのは、横林博士の反対派の教授が、当局に密告したと云うので、醜い学者心理と云うのは、暗に脇田博士を指したので、同博士が、愛妻の屍体を見た時に、あいつだと云う意味深長な言葉を、わざと聞えよがしに云って、犯人は同博士が親しく知っている人間である事を当局に暗示した事を指摘して、その後堅く口をつぐんでいるのは、益々横林博士の嫌疑を濃厚にしようと云う逆手だと云うのだった。中には、いかに偏狭な脇田博士でも、それほどまでに色眼鏡をかけて見るのはひどい、やはり博士は愛弟子を思う余り、口を閉じているのだろうと云うような説もあって、これらの説には、当局者も大いに動かされた訳で、ついに、横林博士の拘引になったのだからそれも今云う通り、何の得る所もなく放免と云う事になって、事件は全く迷宮入りとなったのだった。

 さうして、爾来、一年の間、何の進展も見せないで、迷宮のまま推移し、当局は無論まだ必死の捜索を続けていたが、忘れっぽい世人の記憶からは、もう殆ど消えかけた頃に、突如として、解決のたんちよが握られたのだった。と云うのは、先刻さつき、ちょっと話しかけて、後廻しにした八木万助のブローニングの出所が、思わぬ事件の展開を見せたのだった。



 八木万助は前に述べた通り、彼が所持していたピストルの出所を、容易に自白しなかったが、係官の厳重な訊問に、とうとう包み切れないで白状したところによると、意外にもそのピストルは小石川の脇田博士邸から盗み出したと云うのだった。 ここでいささか喜劇めいた悲劇が起ったのであるが、八木万助はどっちかと云うと、少し足りないような好人物で、左官の下職したしよくと云う事で、世間は勿論、彼の妻も堅く信じていたのだったが、内実は彼は月に一度か二度の割で、夜稼ぎをしていたのだった。八木万助が常習の窃盗であると云う事は、ちょっと信じにくい事で、彼の妻は係官からその事を聞かされた時には、冗談を云うにも程があると云って怒ったそうだが、やがて、それが本当だと云う事が分ると、ワッとばかりに泣き崩れて、係官を持て余させたと云う事だった。

 さて、ピストルの話に戻るが、八木万助は、これも最初は中々云わなかったのだが、博士邸に怪事件の起った当夜、同邸に忍び込んだのだった。彼が十二時過ぎに同邸に忍び込むと、思いがけなく、居間らしい所に電燈がついていて、そこから男女らしい二人の話声が洩れたので、彼は驚いて――当夜は博士は留守だったのだから、この万助の申立は可笑おかしい。しかし、暫く彼の云うままに記録しよう――廊下から逃げ出すと、その拍子にポンと何か蹴飛けとばして、ガラガラと云う音を立てたので、彼は二度吃驚びつくりして手にしていた懐中電燈を消すと、壁にへばりついて、呼吸いきらしたが、その時にふと前の方を見ると、うるしのような真暗闇の中から、恰度、彼の頭の高さ位の所に、スーッと一筋の光りが、まるでかすみもやのように、棚引たなびいているのだった、オヤッと思って、尚も眼を凝らすと、一筋の光りが、今度は明暗の縞のように分れ始めた。それは、しかし、あると云えばあるし、ないと云えばないと云う位の、モヤモヤとしたもので、ホンの薄煙みたいなものだったが、万助は何となく気味が悪くなったので、あわてて懐中電燈をつけて照らして見たが、そこはずっと廊下の続きになっていて、両側は壁になって、別に何の変った事もなかった。

 彼は、もう一度電燈を消して、フワフワした煙のようなものの正体を突きとめる勇気も、好奇心もなかったので、そのまま逃げるように歩き出したが、その時、ふと、足許あしもとを見ると、驚いた事には、一挺のピストルが落ちているのだった。彼が今し方蹴飛したものは、確かにこれらしい。

 彼は半ば無意識にピストルを拾い上げて、尚も歩き続けたが、やがて、彼は先刻、薄煙みたいなものがモヤモヤしていたあたりに来かかったので、今は別に何にも見えていないのだが、何となく煙につっかかるような気がしたので、ヒョイと頭を下げて、そこを通り過ぎた。(もし、彼がここで頭を下げなかったら、大変な事が起ったのだった)

 さて、そこを通り越して見ると、困った事には、廊下が突当りになっていて、そこにドアがあったが、鍵がかかっていて、ビクともしなかったので、つまり、先に行けない事になったのだった。彼はすっかり狼狼して、元の所へ引返そうと、クルリと向きを変えると、南無三、向うの方から人の来る気配がするのだ! あッと思う間もなく、廊下にパッと電燈がついた。見ると、美しい夫人が歩いて来るのだった。万助は絶対絶命だった。

 彼は手にしていたビストルを突きつけて、

「手を上げろ!」と叫んだ。

 夫人は極度の驚愕の色を見せて、サッと両手を高く上げた。すると、その途端に、プスッと云う異様な音がして、夫人はパッタリ斃れた。不意に夫人がパッタリ斃れたので、万助は何事を考える暇もなく、逃げ出そうとしたが、その時に、轟然と一大音響がして、彼は何事も分らずになってしまった。

 暫くして気がつくと、万助は廊下の床の上に倒れていた。あたりは火の海だった。万助は気絶していただけで、幸い、どこも怪我はしていなかったので、火の手の薄い所から、一散に外に逃げ出した。

 彼はその時に、夢中で、ピストルを握ったまま逃げた。そうして、その後、何と云う事なしに、そのピストルを肌身離さずに、持歩いていたのだった。



 以上で、八木万助に関する話はおしまいだが、出来事が前後したりしたから、もう一度、簡単に、順序よく配列して見よう。

 八木万助は窃盗常習犯だった。彼は或夜脇田博士邸に忍び込んで、そこで、ピストルを拾った。彼は夫人に見つかったので、拾ったピストルを突きつけた。すると、夫人は両手を高く上げたが、その途端に、夫人はパッタリと倒れて、殆ど同時に一大音響がして、かれはその場に気絶した。しかし、間もなく、気がついて、幸いに怪我もせずに、そこを逃げ出る事が出来た。

 それから、約一年たった或夜、万助は浅草で見知らない紳士に呼び留められた。その紳士は、後で分った事だが、脇田博士に非常によく似ていたのだった。紳士は芝にあると称する彼の家に万助を連れて行って、そこで、魔法使ママのような怪奇な事を、いろいろとやって見せた挙句、テレビジョンを見せてやると云って、彼に隣室を覗かせた。彼は、そこで、彼の留守宅の出来事を見た。彼の妻は怪しげな男を引張り込んで、姦通していたのだった。逆上した万助は、宙を飛んで我家に帰って、恰度我家を出かけて来た男を射殺した。射殺された男は、脇田博士で、万助の妻は極力姦通の事実を否定して、博士は今夜不意に訪ねて来た未知の人だと云った。

 と、まあざっとこんな事である。

 そこで、当局は万助の申立を基として、先ず犯行現場を調査したが、彼がテレビジョンを見たと云う事が、全く虚構である事が、第一に判明した。魔法ならばとにかく、科学を基礎としたテレビジョンは、受信装置と一緒に、送信装置がなければならぬ。ところが、現場附近には送信装置はおろか、そんな装置をした痕跡さえ認められなかった。万助が噓を云っているか、いないかと云う事は第二として、万助の見たものはテレビジョンではないのだ。そうなると、万助が申立てた童話の中の出来事のような話は、どうも信が置けないのである。もっとも、万助にはとてもこんな素晴らしい噓を発明する事は、出来そうにもないから、誰かに入智恵されたか、それとも、事実は万助の見た通りで、何者かが彼をなぶったかである。しかし、無智ママな窃盗常習犯を嬲るにしては、些か念が入り過ぎている。

 ところで、こうなって見ると、万助が一年以前に、脇田博士邸でピストルを拾ったと云う事や、彼がピストルを発射しないのに、夫人が斃れたと云う話は、どうも怪しいと云う事になる。脇田博士は死んでしまったから、今更、ピストルの紛失の有無を聞く訳にも行かないが、生前博士はそんな事は一言も云わなかった。もっとも、博士は火事のために一切が焼失したので、ピストルも一緒に焼けた事と思って、殊更にそんな事を云わなかったのかも知れないが、邸内の廊下に、ピストルがほうり出してあるなどと云う事は、常識では信ぜられない事である。夫人はピストルで殺されたとなっているのであるから、恰度事件のあった夜に、ピストルを夫人に突きつけたと自白している万助が、夫人を射殺したのだと考えるのが、一番考えやすい事である。

 脇田博士を射殺したピストルの弾丸たまと、夫人を射殺したと信ぜられている弾丸との比較研究は、後者の弾丸が火事のために、高熱に会っているので、遺憾ながら、確定的のものでなかった。ただ、同一のピストルから発射されたものらしいと云う、曖昧な鑑定が下されただけだった。

 けれども、万助の陳述は、ことごとく怪しい作り事をしていると思われる節が多い。万助は博士邸に窃盗に這入って、夫人を射殺したが、何かの拍子に、博士に顔を見られたので――博士は当時留守だったけれども、万助は博士は在宅だったと信じているから、もしかすると、彼はこんな事を、誤信したかも知れないのだ――不安のあまり、博士を殺したのではないか。もっとも、作り事にしては、万助の創意とは考えられない点もあり、且つ脇田博士が万助の家を訪ねたと云う事が、解き難い謎ではあるが、検察官の立場としては、万助を怪しいと睨んだのは、けだし当然である。

 万助はどんな調べ方をされたのか分らないが、結局、彼は博士夫人を射殺した事を認めた。どうせ一人は殺しているのだから、二人になっても同じ事だと考えたためか、とにかく、彼は調書に拇印ぼいんを押したのである。そこで、彼は二重殺人の他に、強盗未遂だとか、放火だとか、窃盗だとか、銃砲火薬取締規則違犯ママだとか、書き切れないほどの罪名で、検事局に送られ、間もなく、以上の罪名で起訴された。その結果、星合予審判事の取調べになったのだが、彼はそこで、再び元の陳述に戻って、博士夫人を射殺した事を、極力否認し始めた。

 星合判事は首を捻った。彼はやや万助の云う所を認めたのだった。しかし、何にしても、彼の申立てる事実が、精神状態を怪しまなければならないような奇怪さを持っていたので、この話の冒頭に述ベた通り、先ず、彼の精神鑑定を、私に命じたのだった。



 精神鑑定の話は煩わしいし、専門的にわたるから、省く事にするが、要するに、私の下した鑑定は、万助は多少智ママ能の低い所があり、判断力もややにぶいが、低能と呼ぶほどの事はなく、普通の常識を備え、精神的欠陥もなく、虚言うそを常習的に云う者ではないと云うので、つまり、今までに彼の述べた一見奇々怪々な事も、突際の判断は誤っているにせよ、彼が見聞みききした事を、ありのままに述べているものと信ぜられると判断したのだった。

 私の鑑定は万助に有利だったので、手弁護士は非常に満足したが、その後一週間ほどすると、彼は再び私を訪ねて来て、万助について、或る実験をしたいのだが、是非判事の許可を得るように尽力してくれと頼むのだった。

 重罪犯人を、弁護士側の希望で、無闇に実験に供すると云うのはどうかと思ったが、手の頼み方が余りに熱心なので、私は星合判事に取ついでみた。すると、判事は暫く考えていたが、彼は何とかして奇々怪々な謎を、一時も早く解決したいと急いでいた時でもあり、非公式に万助を実験に供する事を許可してくれたのだった。

 実験場には予審廷の一室がてられた。手の希望では、夜間と云う事だったが、それは許されないで、その代りに、暗室の装置をする事になった。

 実験の当日になると、手はキビキビした好男子の青年を一人連れて、私の家を訪ねて来た。その青年は、最近に大学を出た理学士で、今日の実験と云うのも、実は彼の発案にかかるものだった。

 私はこの青年理学士に、直ぐ好感が持てた。別に滔々とうとうと喋る訳ではないが、実に頼もしい所があって、私は何となしに、この青年なら、きっと奇怪な謎を解く事が出来るだろうと思った。

 三人は直ぐに自動車に乗って、実験場の法廷に向ったが、室に這入ると、青年理学士は忽ち器用な手つきで、持って来た器械の装置を始め、暗室の工合などを試して、忽ち実験の準備を整え終った。

 やがて、万助が護送されて来て、星合判事が附添って、実験室に這入って来た。万助は、手弁護士の希望によって、実験については、何等予備知識が与えられていなかったのだった。

 やがて、窓を蔽う厚い黒布は、二重に張られて、準備が整うのと、同時に、電燈は消された。部屋の中は全くの暗黒だった。全くの暗黒と云う言葉は可笑おかしいが、私は今までに、あんな完全な闇を見た事がない。自分の手を、どんなに眼に近づけても、何にも見えないのだ。

 私達は一種異様な感に打たれながら、深淵のような暗さのうちに、押し黙っていた。

 すると、突然、万助が叫び出した。

「アッ、あれだ。あれが見える」

 電燈がパッとつけられた。それと同時に、予審判事は、穏やかに訊いた。

「あれって、何か見えたのかね」

 万助は蒼ざめた顔で答えた。

「あれと云うのは、去年、博士の家に忍び込んだ時に、真暗な廊下の所で、煙のようにモヤモヤとしていた、薄い光のような、光でないようなものです」

「ふむ」

 予審判事は、当惑したような眼を、チラリと青年理学士の方に投げかけた。

 青年理学士は、

「八木君はあんな事を云いますが、皆さんには何か見えたでしょうか。もう一度、お試しを願います」

 部屋は再び、暗黒になった。

 私は一生懸命に眼を見張って、万助に見えると云う、モヤモヤを見ようと思ったが、どう気張きばっても、何にも見えなかった。

 暗闇から青年理学士の声がした。

「八木君、やはり見えるかね」

「はあ、見えます」

「これでは」

「見えません。消えました」

「これでは」

「又、見え初ママめました」

 電燈が再びつけられた。

 青年理学士は一座を見廻しながら、

「どなたか、八木君の云うようなものを、御覧になった方はありませんか」

「何にも見えん」

「私も」

「私も」

 予審判事と、手弁護士と私とは、殆ど同時に答えて、互に顔を見合した。

 実験はこれですんだ。しかし、私には何の事やら、少しも分らなかった。



 奇妙な実験がすんでから、二三日して、手弁護士が、例の青年理学士と一緒に、又もや、私の家を訪ねて来た。

 私は、この二三日のうちに、手について、聞き込んだ事があるので、やや、彼を警戒し始めていた。何でも、手と云う男は、非常に探偵的手腕があって、好んで義侠的な弁護を引受けて、幾多の奇怪な事件を、快刀乱麻を断つように解決するけれども、彼には隠れた目的があって、きっと、多額な報酬を、どこからか得るのだそうである。その報酬と云うのは、大抵の場合、法網を潜って、悪辣な手段で金櫧けをしている連中から、せしめるのだそうで、社会的に実害はないかも知れないが、非合法的である事は免かママれないので、無論私などは、彼にせしめられる何ものも持っていないから、一向差支えはないが、彼が無一文の八木万助などを、義侠と云う美名のもとに、弁護の労をろうとしている底意のほどが恐ろしい。彼はきっと、何か利益になる事をねらっているに違いないのだ。私は彼と一緒に行動している青年理学士が気の毒に思えてならなかった。彼は恐らく、手の隠された目的などを知らないで、一緒に仕事をしているのだろうが、ひどい迷惑をこうむらなければいいと思うのだ。

 手は非常に機嫌がよかった。

「この間の実験の結果が、実に成功でな、事件の解決はもう一息と云う所じゃで。ところで、今日は、小石川の脇田博士の研究室の調査に行きたいのじゃが、一緒に来て下さらんか」

 脇田博士の研究室と云うのは、去年の火災の時に、焼け残ったのと、その後新しく建てて博士が殺される日まで、立籠たてこもっていた新研究室と、二つあるのだが、手はそこから、何か手係りを得ようとするらしいのだ。

 私はどうしようかと思って迷っていると、青年理学士が、

「是非お出下さい」

 と、懇願するように云ったので、私は直ぐ承諾してしまった。

 私はどうもこの青年が好きで耐らないのだ。

 小石川へ行く自動車の中で、手弁護士は、時々青年理学士に助言を求めながら、大体次の次のような事を話した。

 彼の語る所によると、万助が怪紳士に連れられて、彼の家に行った時に、ドアが自然に開いたとか、「開け! 悪魔」と怒鳴って、戸棚の戸を開けたとか、鏡に覗いた人間の顔が写らないで、悪魔の姿が写ったとか云うのは、大して不思議な事ではないので、扉が自然に開くと云う事は、既にアメリカでは実用時代に這入っているそうで、扉の中に金属板が這入っていて、それが近づいて来る人間と対立して、電気的のコンデンサーを形造り、そのために生ずる振動が電流継続器に働いて、電流の回路を閉じ、それによって、扉が開くので、他の場合も、やはり同じように説明が出来ると云う事だった。

「では、何故、その紳士がそんな事をして見せたかと云うと」手は鼻をうごめかしながら云った。

「つまり、テレビジョンでもなんでもない、普通のトーキー映画を、テレビジョンだと思わせるためなのじゃ。と云うのは、もしいきなりそれを見せたら、万助は信じないかも知れない。それで、いろいろと、科学的な怪奇を見せて、徐々に万助を信じさせた訳なのじゃ。一つには、万助が後にこの事を人に語った時に、それが彼の出鳕目でたらめであると、思わせるためでもあったろうて」

「テレビジョンだと云って、トーキー映画を見せた訳は」

 私は訊いた。

「万助に嫉妬心を起させて、女房が見馴れない怪しい男と、一緒にでもいようなら、直ぐ、撃ち殺してしまわせるためじゃて。万助に見せたトーキー映画は、多分、特別に製作したものではなく、既製のものを利用したのじゃ。それだから、小穴の中から覗かせたり、わざと不鮮明にしたりしたのじゃ。映画は万助の嫉妬心を挑発するのに役立てばいいのじゃ。無論、映画の中の人物が、万助に殺させようと云う人物だったら、申分なかったのじゃが、そうはいかなかったので!」

「そうすると」私はハッと思い当りながら、「その紳士は、万助を利用して、脇田博士を殺させたのですね」

「その通りじゃ」

「しかしですね。紳士はどうして、脇田博士が万助の家に行く事を知っていたんでしょうか。又、脇田博士は何だって、万助の家に行ったんでしょう」

「そこが、問題じゃて」

 手が意味ありげにそう云った時に、自動車は恰度、脇田博士の研究所の前に停った。



 研究室は前に述べた通り二棟に分れていた。両方とも、灰色の壁に囲まれた、長方形の重苦しい感じのする建物だったが、一方の屋根は何の変哲もない、普通のものであるに反して、他方の屋根は、お椀を伏せたように円形に盛り上っていて、その上には、円盤の上に分度器を立てたような、奇妙な恰好をしたものが、飾りのつもりにしては変だと思うが、やはり、一種の装飾としか思えないように、チョコンと載って、正午近くの日に、キラキラと反射していた。

 その奇妙な装飾は、直ぐに青年理学士の眼に留った。彼は手に向って、

「こっちが、焼跡に立てられた、新しい方の建物ですね。変なものが、円屋根の上に載っていますね」

「うん、こっちが新しい方だ」手はうなずいた。「最近には、博士はこっちの方にばかりいたと云う事じゃ。屋根の上に載っているのは何だろうね」

「どうも日時計らしいと思うんですが、変だな」

「なるほど、日時計か。日時計は西洋ではよく、庭の飾りになどに使われる。装飾と実用を兼ねるから、理学博士でも考えつきそうなものじゃて」

「しかし、屋根の上に取りつけたのは変だ」

 青年は半ば独り言のように云って、不審に堪えないと云う風に、眉をひそめながら、じっと屋根を睨みつけた。

「大して不思議でもないて。屋根の上なら、日がよく当るから、都合がいいじゃないか」

「ところが、あんな高い屋根の上じゃ、誰も日の影の落ちる度盛どもりの所が読めませんからな。どうも変だ。ただの飾りにしては、実に不恰好だし」

 青年理学士には、未だ謎は解けないらしかったが、やがてあきらめたと云う風に、

「屋根の飾りを問題にした所で仕方がない。中を拝見しましょうか」

 研究室の中は、電気炉や変圧器や抵抗器のような電気機械や、ビウレットやピペットのような測定用硝子器具が一杯並べられていた。私や手弁護士は一向興味を覚えなかったが、青年理学士はこここそ自分の領分だと云わんばかりに、今までとは打って変って、玩具屋の店頭に立った子供のように、異様に眼を輝やかしながら、それらの機械器具の類を、撫でたり叩いたり、貼ってあるマークを覗いたり、傍目には狂喜しているとより思えないほどだった。

 やがて彼は誰に云うとなしに呟き始めた。

「この変圧器は、十ボルトから三十ボルトまで、自由に変ると云う特種ママのものですぜ。この加圧電気炉も、この真空電気炉も、珍らママしいものだ。脇田博士は金属の熔融状態に於󠄁ける性質を研究していたと云うが、金属なら、一千度乃至ニ千度までの温度で十分な筈だが、見たところ、白金と白金イリジウムの高温計パイロメーターは少しも使っていないようだし、かえって、光度高温計オプチカル・パイロメーターを盛んに用いている。これで見ると、三千度以上の高温を使っていたらしいぞ」

 彼は一通り旧研究室を見終ると、私達をうながして、新研究室に這入った。

 新研究室には、格別彼の注意を惹くようなものはなかった。彼は円天井の日時計ばかり気にしていたが、とうとう堪え切れなくなったと見えて、窓枠に伝って、何の危気あぶなげもなく、スルスルと天井に頭が届くほど高く登りつめた。そうして、暫くその辺を調べていたが、間もなく、再び猿のような身軽さで降りて来た。

「他に調べる事もないようです」

 こう云った彼の顔はやや蒼ざめていた。

 私達は新研究室の外に出た。すると、六尺近くもあろうかと思われる長身の好男子ではあるが、ひ どく神経質らしい、壮年の紳士に、パッタリと出会った。

 彼はジロジロと私達を見ながら、

「あなた方は、何ですか」

「横林博士ですな」手弁護士が云った。「私は手じゃ。一度お目にかかった事があると思いますて」

「そう云えば、お目にかかった事があるかも知れません。何の用で、来られたのですか」

「予審判事の許可を得て、研究室を拝見に来たのですわい」

「予審判事の許可? それは変ですね。ここは故脇田博士のやしきです。法廷ではありません。予審判事に、自由にここを見せる権利はないと思います。博士の死後は、私が管理人になっています。たとえ予審判事でも、私に断りなしに、ここに這入れない筈です」

「それはどうも失礼しました」

 手は大分しやくさわったらしかった。言葉は割に丁寧だったが、語気は大分荒いのだった。

「あなたがここの管理人になっておられる事を知らなかったものじゃから、ついお断りしなくてすまなかったが、私達は故脇田博士を殺害した真犯人を探すために、こうやって奔走していますのじゃが。あなただって、恩師の仇を探し出す事は不賛成ではありますまいて」

「ふむ。これは妙な事を承る。あなた方は警官ですか。いや、それよりも、脇田博士を殺した真犯人を探すと云うのはどう云う事ですか。犯人は既に検挙されている筈ですが」

「検挙されているのは真犯人ではないと思います」

 青年理学士は、始ママめてこの時に口を開いたのだった。

 横林博士は、身体を曲げて、青年理学士の顔を覗き込むようにしながら、

「ふむ、君は誰ですか。どうして、八木万助が、真犯人でないと云うのですか」

 私は横林博士が青年理学士の顔を知らないのは、些か不審だった。理科、殊に、理科のうちでも、 物理とか化学とかに限られると、学生の数も少ないし、教授は大抵学生の顔を覚えている筈である。 殊に青年は極く最近に大学を出たと云うのだから、尚更だと思うのだが。

「いえ、なに」

 青年は横林教授に鋭くなじられても、案外平気だったが、言葉の上では、急いで釈明した。「ただ、そんな気がしますだけで、確かな証拠がある訳ではありません」

「うむ」

 横林博士は不快そうに、眉をひそめた。

「どうも、君達は奇妙な事ばかり云う。しかし、今日は君達に係り合ってはいられない。僕は、脇田博士の研究書類を調べなくてはならないのだ。君達は帰ってくれ給え」

 博士はこう云い放つと、ツカツカと新研究室の中に這入って、ドアをバタンと締めた。


一〇


 私達三人は云い合したように、旧研究室の中へ這入った。手は眼をグリグリさせて、ひどく怒っていた。

「怪しからん。いかに大学教授か知らんが、我々をまるで泥棒のような扱いをするとは、言語同断じゃ」

「手さん、まあ、そう怒らないで下さい。私達は大きな目的を持っているのですから」青年理学士はなだめるように云った。「それよりも、時間が大切ですから、手さん、あなた直ぐに星合判事にここへ来るように云って下さいませんか」

「ここへ?」

 手は呑み込めないと云う顔をして、反問した。

「ええ、是非話したい事がありますから、御手数ですが、電話をかけて下さい。ああ、それから、その時、ついでに、万助に、テレビジョンを見せた紳士は、背が高かったか、低かったか訊いて来るように云って下さい」

 手が電話を掛けに外へ出て、再び戻って来てから、星合予審判事がやって来るまでの間、青年理学士は、何回となく時計を取り出して、その都度そっと新研究室の様子をうかがってしきりにいらいらしていた。(私は今までに、この青年理学士が、こんな焦燥な態度を示したのを、見た事がなかった)ママ

 青年理学士は、星合判事の顔を見ると、ホッとしたようだったが、判事がどことなく思慮深そうな眼で、額越しに一座をジロリと見廻しながら、

「私を呼ばれたのは、どう云う用事ですか」

 と、云った時に、一座を代表するように、

「どうも、お呼立してすみませんでした。実は重大なお知らせをしなければなりませんので」

「重大な知らせとは」

「それより以前に、先ほど、お願いいたしました万助の答えは、いかがでしたろうか」

「万助は、テレビジョンを見せてくれた紳士は、彼より少し背が高かったと云いました。万助の身長は五尺六寸余ですから、紳士は余程、背の高い部に這入るでしょう」

存難ありがとうございました。私も、多分そうだろうと思っていました。どうぞ、ここへお掛け下さい。是非、聞いて頂きたい事がありますから」

「どう云う事だか知らんが」

 この時に、手弁護士は青年理学士の出しゃばるのが、少し面白くないと云う風に、

「僕に相談せずに、無暗な事を、判事の耳に入れて、別に困るとは云わんが、どうかな、大丈夫かな」「ええ、決して、その御心配には及びません」

 予審判事は、ジロリと手に一瞥を与えながら、青年に促すように云った。

「どう云う事ですか。承りましょう」

「は、では」

 始めますと云う言葉を口の中で云って、青年理学土は、まるで時間を切って講演でもする人のように、おもむろにポケットから時計を出して、机の上に置いた。(私は彼の動作に釣られて、そっと時計を見たが、二時を三十五分ばかり過ぎていた)ママ

「お話を始めます以前に、よく知って頂かなくてはならない事は、学者と云う者が、いかに偏狭で、名誉心が強いかと云う事であります。もっとも、学者が全部そうだと申すのではありませんが、もし、商人が金のためにどんな事でもすると云う事が、云えますならば、学者は名誉のためなら、どんな事でもすると云えると存じます。例えば学者は、彼の愛弟子が彼をしのぐような名声を得て参りますと、喜ぶ代りに非常な嫉妬を起します。又、自分の研究は秘し蔵しながら、他人の研究は、これを盗んでてんとして恥じないものであります。師弟の間柄と申しますと、そこには、云うに云われない、美しい情愛がかもされるべきだと思いますのに、それが最高権威の学者であればあるだけ、反って、師弟は互に嫉妬し合い、疑い合い、探り合い、さながら、仇敵のように憎み合うと云う事は決してまれではないのであります」

 私にはこの青年が、何を云い出すつもりであるかと云う事が、ほぼ分った。星合判事にも、又、手にも、やはりその事は分ったのであろう。彼等は私と同じく、熱心に青年の云う所に耳を頃けていたのだった。

「みなさん、ここに一人の偏狭な学者があったと御想像下さい。彼はその専門の学問に於て、最高権威であると、自らも許し、又、人も許していると信じていました。彼は全く学問の方では素晴らしい業績を残していました。そうして、今や、彼は表面学界を隠退して、秘密裡に孜々ししとして、或る研究に没頭していました。

 彼に一人の愛弟子がありました。ところが、いけない事には、弟子も師に負けないほど偏狭で、その上に、斯界の名声に於ても、次第に師を圧するほどになって来たのでした。更にいけない事は、彼が師の研究に感づいた事です。彼も学問に於ては素晴らしいものでした。ですから、師の研究に感づく力もあり、それを盗む力もあった訳です、いや、彼を置いては、他にそれだけの力のあるものはありますまい。師の学者が、この弟子に非常な脅威を感じたのは、けだし当然の事でありました。

 以上に挙げただけでも、この師弟の間に、もしかすると、互に相手の消失を願うと云う、非人情的でもあり、又人間的でもある願望が浮ばなかったとは云えません。ところが、最後に、それを決定的にしたものは、師の学者の妻が若く美しく、弟子の学者もまた若く美しかった事でした。

 私は最後の問題については、確定的な事を云うのは控えますけれども、一二の事実から、この若き二人の男女の間に、老いたる学者の疑惑を起すに足る十分なものがあったと信じます。営々として、築いた学界の名声が、手塩にかけて育て上げた弟子によって、脚下から崩され、半生の努力を尽して、まさに成功しようとしている研究は、彼によつて危殆に瀕し、その上に、最愛の妻さえ危く盗まれようとしているのを感じた老博士は、その愛弟子に対して、限りない憎悪と、嫉妬と、憤激を感じたのでした。

 これが市井しせいの、眼に一丁字もない人間の間に起ったとしたら、うに、原始的な兇器を振り廻して、新聞の社会面の片隅を賑わしていた事でしょう。しかし、二人の科学者の間に起った人間闘争は、そんな簡単な生優しいものではありませんでした」

 この青年はさして雄弁家とは思われなかった。しかし、その荘重な弁舌と、暗示的な言葉は、私に何かしら、科学者の恐るべき闘争について、戦慄の予感を与えた。科学について、多少理解している私でさえそうだったから、科学とは大分縁の遠い予審判事と、弁護士とは、恐怖に近い予感を与えられたらしく、前者の顔はやや蒼白になり、後者の、いつも人を小馬鹿にしているような顔は、今までになく緊張していた。

「普通の人間の場合なら、短刀が飛ぶ、ピストルが鳴る、それだけの事でしたろう。ところが、二人の闘争は、表面的には小波さざなみ一つ立たない池のおもてのようで、しかも内心には火花を散らして、いかにして安全に相手を消失させるべきか、と云う事ばかり考え続けていたのです。

 先ず、闘いは老博士から始まりました。彼は若い博士を取除く素晴らしい考案をしました。それは見えない光線を使う事でした。紫外線赤外線と云えば、みなさんはよく御存じですから、くだくだしい説明はいたしませんが、我々の眼には光線のうち、ある範囲の波長のものだけ見えて、その波長より大きい紫外線と、その波長より小さい赤外線は見えません[入力者注 1]。しかし、それらの光線は、我々の眼には感じないが、或種の化学的及び物理的の働きは立派にするのです。

「みなさんは赤外線を利用した盗難報知器を御覧になった事はありませんか。それは、一見何の仕掛もない場所を横切ると、ベルがけたたましく鳴り始めるのです。一見何の仕掛もない所には、実は光電池フオト・セルが隠されていて、それに、眼に見えない赤外光線が当てられています。そうして、赤外光線によって、電流の平衡が保たれていますが、人がその前を横切って、赤外光線を遮ぎりますと平衡が破れて、電流が流れ始め、ベルが鳴るのです。

 仮にベルの代りにピストルを置き、ベルを鳴らさせる代りに、ピストルの曳金ひきがねかせたらどうでしょうか。赤外光線は、全然人の眼に触れませんから、何の気もつかずに、それを遮った人が、ピストルの自動発射で、殺されてしまう訳です。

 老博士はこの恐るべき考案をした時に、定めし狂喜した事でしょう。彼は、彼が旅行にでも出かければ、彼の妻がきっと、若い博士を呼び込むと考えました。そこで、彼は寝室に通う廊下に、この装置をしたのです。もっとも、その前に、老博士は、この装置が若い博士にだけ働く事を、考案しなくてはなりませんでした。彼の妻や、女中が廊下を歩いた時に、ピストルが発射しては何にもならないからであります。

 この難問は、幸いに若い博士が非常に長身である事が、解決してくれました。彼は博士夫人や、女中に比べて、七八寸は背が高かったのです。赤外光線を夫人の頭よりやや高い所に置けば、夫人が通っても遮りませんから、装置は何等働きませんが、それに反して、もし若い博士が通れば、忽ち光電池フオト・セルの平衡は破れて、ピストルの弾丸たまは瞬間に飛出す筈であります。

 老博士は更に第二段の考慮をしました。それは、幸いに思う相手を斃す事が出来ても、装置を発見されては何にもならないので、ピストルの発射と同時に、火を発して、証拠となるべき装置を焼いてしまうと云う事です。博士は、ピストルが発射されると同時に、火薬が爆発する仕掛をしました。爆発と云う事は、疑惑を招き易い恐れはありますが、もし、ピストルの弾丸が外れて、相手に致命傷を与え得なかった場合には、相手に逃げられて、すべてのトリックが暴露しますから、たとえ、ピストルのねらいは外れても、完全に犯行が成し遂げられる方法を取ったのです。 尚、この方法の隠れた目的の一つは、こうして相手が射殺され、家屋が焼失した時に、嫌疑は第一に、居留守をしていた彼の妻にかかるでしょう。老博士はこうして、間接に彼の妻にも復讐を試みる積りだったのです。彼は妻を愛する余り、殺してしまおうとは考えませんでしたが、さりとて、すべてを黙許するほど、寛大でもありませんでした。彼は妻が殺人の嫌疑を受けて苦しむのを、心地よげに見守ろうとしたのです。

 老博士は考えに考え、水も洩らさない計画を完成した後に、気味の悪い笑いを洩らしながら、旅行に出かけました。

 すべては旨く運びました。もし、ここに一人の道化役が出場しなかったら、博士の目的は完全に達せられたでしょう。が、哀れなピエロの登場は、博士の計画を木葉微塵にしました。最早、お気づきの事と思いますが、道化役と云うのは八木万助です。彼は何にも知らずに、博士夫人にピストルを突つけました。夫人は両手を高く上げました。そこは、赤外線の仕掛けてあった真下でした。科学は正確で無情です。赤外線は、横林博士の頭に遮られても、又、脇田夫人の手に遮られても、効果には少しも変りはないのでした。ここで、ちょっとつけ加えて置きますが、廊下にピストルが抛り出してあったと云うのは、恐らく、博士が夫人に拾わせて、後の嫌疑の種の一つにする積りではなかったのでしょうか。

 今まで申上げた事は全部私の推定ですが、この推定に多分誤りはないだろうと考えますのは、八木万助が博士邸に忍び込んだ時に、真暗な廊下にモヤモヤした妖しい光を見たと云う言葉から思いつきまして、みなさんも御承知のように実験を試みたのでありますが、この妖光こそ、赤外光線でありました。誠に信じ難い事でありますが、八木万助の視覚は特異でありまして、一般の人に見えない筈の赤外線を、やや感ずるのであります。万助はこの独特の霊妙な力によりまして、私に事件を解決するヒントを与えると共に、彼自身も生命いのち拾いをしました。もし、彼がモヤモヤした妖光を見た所を、頭を下げて通らなかったら、彼は脇田博士の犠牲になっているところでした。

 脇田博士は思わぬ失敗に歯がみをしました。彼は無論八木万助が邪魔をした事を知りませんから、横林博士が計画を見破って、夫人を犠牲にしたものと信じ、以前に増した憎悪と憤激を持って、復讐の企てを練り始めました。一方横林博士は脇田博士の奸策を知り、彼自身と夫人の復讐のために、八木万助を利用したのです。時間が迫りましたから簡単に申しますが、横林博士は、多分問題の夜、脇田博士邸にいたので、万助を認めて、顔を知っていたのでしょう。彼は万助を見つけ出すと同時に、万助の名で、脇田博士に手紙を送って、当夜の事情を知っていると云って、脇田博士に危惧きぐの念を起させて、万助の家を訪ねなければならないようにしたのでしょう――アッ、星合さん、どちらへお出になります」

「僕は検事の注意を促すために、電話を掛けに行くのです。検事は多分僕に横林博士に拘引状を要求するでしょう」

「ちょ、ちょっとお待ち下さい。もう少しです。もう少し説明したい事がありますから」

 青年理学士の言葉に、予審判事は渋々しぶしぶ元の所に腰を下した。

「もう少しです」理学士は弁解するように云った、「横林博士は安全のため、脇田博士に変装して、万助を呼留よびとめ、彼にテレビジョンだと云って、いい加減な映画を見せて、彼の心情を乱し、姦夫に対して殺意を起させて、家に帰しました。すると、恰度脇田博士が――」

 この時、突然、ドーンと云う鈍い大きな音がして、ズシンと地響じひびきがすると同時に、窓硝子がビリビリと振動した。

「アッ」

 判事を始め、手も私も共に腰を浮かしたが、青年理学士は平然としながら、窓の外を指した。

「御覧なさい。新研究室が小爆破をしました。恰度、横林傅士が坐って、脇田博士の研究を調べている所です。脇田博士は死後の復讐を遂げたのです。あの新研究室は、脇田博士が第一次の失敗後、新たに建設したもので、円天井の上に、日時計をとりつけたように見せかけて、小さい隙間スリツトが作ってあって、そこから、或る一定の日の、一定の時間に、太陽の光線が這入るようになっていました。脇田博士は、今度は赤外線を使わずに、堂々と太陽の光線を使ったのです。今日は横林博士、脇田博士の遺言状によって、研究書類を見に行ったのです。私は先刻天井を調べて、四時半きっかりに、研究室が爆発するのを知っていました」

 私は死後の恐ろしい復讐の遂げられるのを知りながら、平然とそれを見送った青年の顔を眺めて、ここにもまた、科学者の冷さママを発見して慄然とした。

 そうして、眼を転じて窓外の半ば崩れ落ちた円天井を見た時に、血みどろになって、組んずほぐれつ摑み合って、そのまま力尽きた二人の人間の残骸を、まざまざと見せつけられたような気がした。


一一


 脇田博士と横林博上の浅間あさましい血みどろの闘争は、世間に発表されずにすんだ。横林博士は先師の遺志で、研究室で実験中に、誤って爆死したと云う事で、すべての醜い秘密は葬られたのだった。万助は過失殺人で、軽い刑ですむ事になった。

 私はその後暫く経って、手弁護士に会ったので、青年理学士の事を聞いた。

 すると、彼は大きな鼻を呑んでしまう位、大きな口を開いてカラカラと笑いながら、

「いや、手龍太散々の失敗じゃ。きゃつは万助が見たと云うモヤモヤの光に心当りがあるからと云って来たので、一つ利用して、何か旨い汁を吸ってやろうと思ったのじゃが、馴れないはたけで、手も足も出ないので、あべこべに、きゃつに旨い汁を吸われてしまいましたわい。龍太も、法律や文字ばかりではいかん。科学の勉強をしなければな」

「すると、あの理学士は」

「真赤な偽者じゃ。きゃつ、名前ははっきりせんが、いずれ相当のれ者に相違ない。きゃつの目的は脇田博士の研究を横どりする積りだったのじゃ。いや、研究そのものではない研究の結果じゃ。脇田博士はダイヤモンドを作っていたのじゃ。炭素を高温で熔融してな、結晶させるのじゃ。きゃつめ研究室を調べて、早くもその事を悟り、研究室の爆破を知らん顔で、見送って置いて、後でそっと、出来上っていたダィヤを盗み出して逃げたのじゃ。最近にわしにその事を手紙で知らして来たわい。憎いような可愛い奴じゃて。ハハハハハ」

(「新青年」昭和七年六月号)

編集

  1. 甲賀のこの説明は誤っている。恐らく周波数の大小と波長の長短を混同している。紫外線は、可視光よりも波長 (周波数) が短く (大きく)、赤外線は可視光よりも波長 (周波数) が長い (小さい)。
 

この著作物は、1945年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。