妄想 (森鴎外)
には広々と海が横はつてゐる。
その海から打ち上げられた砂が、小山のやうに盛り上がつて、自然の堤防を形づくつてゐる。アイルランドとスコットランドとから起つて、ヨオロッパ一般に行はれるやうになつた
といふ は、かういふ処を して言ふのである。その砂山の上に、ひよろひよろした赤松が
がつて生えてゐる。余り年を経た松ではない。海を眺めてゐる白髪の主人は、此松の幾本かを切つて、松林の中へ
め込んだやうに立てた の に据わつてゐる。主人が
と世に立ち交つてゐる頃に、別荘の真似事のやうな心持で立てた此小家は、只 と台所とから成り立つてゐる。今据わつてゐるのは、東の方一面に海を見晴らした、六畳の居間である。据わつてゐて見れば、砂山の
が松の根に縦横に縫はれた、殆ど鉛直な、所々 に崩れた断面になつてゐるので、只 もない波だけが見えてゐるが、此山と海との間には、一筋の河水と の とがある。河は
して海に いでゐるので、 の下では甘い水と い水とが出合つてゐるのである。砂山の
の低い処には、漁業と農業とを兼ねた民家が らに立つてゐるが、砂山の上には主人の家が只一軒あるばかりである。いつやらの暴風に漁船が一艘
ね上げられて、松林の松の に引つ つてゐたといふ話のある此砂山には、土地のものは恐れて住まない。河は
の である。海は太平洋である。秋が近くなつて、
の掛かつてゐる松林の中の、清い砂を踏んで、主人はそこらを りして来て、 という老僕の へた をしまつて、今自分の居間に据わつた処である。あたりはひつそりしてゐて、人の物を言ふ声も、犬の鳴く声も聞えない。只
の浦の静かな、鈍い、重くろしい波の音が、天地の のやうに聞えてゐるばかりである。丁度
一尺位に見える の が、真向うの水と空と接した処から出た。水平線を基線にして見てゐるので、日はずんずん つて行くやうに感ぜられる。それを見て、主人は時間といふことを考へる。生といふことを考へる。死といふ事を考へる。
「死は哲学の為めに真の、気息を
き込む神である、導きの神(Musagetes)である」と は云つた。主人は此 を思ひ出して、それはさう云つても好からうと思ふ。併し死といふものは、生といふものを考へずには考へられない。死を考へるといふのは生が無くなると考へるのである。これまで種々の人の書いたものを見れば、大抵
が迫つて来るのに連れて、死を考へるといふことが段々切実になると云つてゐる。主人は過去の経歴を考へて見るに、どうもさういふ人々とは少し違ふやうに思ふ。* * *
自分がまだ二十代で、全く処女のやうな官能を以て、外界のあらゆる出来事に反応して、内には
て したことのない力を蓄へてゐた時の事であつた。自分は にゐた。列強の均衡を破つて、 といふ野蛮な響の にどつしりした重みを持たせたヰルヘルム第一世がまだ位にをられた。今のヰルヘルム第二世のやうに、 な威力を に加へて、抑へて行かれるのではなくて、自然の重みの下に社会民政党は ぎ えてゐたのである。劇場では が、あの 家の祖先を主人公にした脚本を興業させて、学生仲間の青年の心を支配してゐた。昼は講堂や 〈[#「、 いで」は底本では「 いで」]〉 に立ち働いて得意がるやうな心も起る。夜は芝居を見る。舞踏場にゆく。それから に時刻を移して、帰り道には街燈 が寂しい光を放つて、馬車を乗り廻す掃除人足が掃除をし始める頃にぶらぶら帰る。素直に帰らないこともある。
で、生き生きした青年の間に立ち交つて働く。何事にも不器用で、 といふやうな処のある 人を いでさて自分の住む宿に帰り着く。宿と云つても、
もあるおほ の入口の戸を、邪魔になる大鍵で開けて、三階か四階へ、 マッチを り り登つて行つて、やうやう の前に来るのである。高机一つに椅子二つ三つ。寝台に
に化粧棚。その外にはなんにもない。火を して着物を脱いで、その火を消すと直ぐ、寝台の上に横になる。心の寂しさを感ずるのはかういふ時である。それでも神経の平穏な時は故郷の家の様子が
に立つて来るに過ぎない。その幻を見ながら寐入る。 は人生の苦痛の余り深いものではない。それがどうかすると寐附かれない。又起きて火を点して、
をして見る。為事に興が乗つて来れば、余念もなく夜を徹してしまふこともある。明方近く、外に物音がし出してから一寸寐ても、若い時の疲労は直ぐ することが出来る。時としてはその為事が手に附かない。神経が異様に興奮して、心が澄み切つてゐるのに、書物を開けて、他人の思想の跡を
つて行くのがもどかしくなる。自分の思想が自由行動を取つて来る。自然科学のうちで最も自然科学らしい医学をしてゐて、 な学問といふことを にしてゐるのに、なんとなく心の飢を感じて来る。生といふものを考へる。自分のしてゐる事が、その生の内容を充たすに足るかどうだかと思ふ。生れてから今日まで、自分は何をしてゐるか。始終何物かに
うたれ駆られてゐるやうに学問といふことに してゐる。これは自分に或る働きが出来るやうに、自分を げるのだと思つてゐる。其目的は幾分か達せられるかも知れない。併し自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる。その勤めてゐる役の に、別に何物かが存在してゐなくてはならないやうに感ぜられる。 うたれ駆られてばかりゐる為めに、その何物かが する がないやうに感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生といふのが、皆その役である。赤く黒く塗られてゐる顔をいつか洗つて、一寸舞台から降りて、静かに自分といふものを考へて見たい、 の何物かの面目を いて見たいと思ひ思ひしながら、舞台監督の を背中に受けて、役から役を勤め続けてゐる。此役が即ち生だとは考へられない。 にある或る物が真の生ではあるまいかと思はれる。併しその或る物は目を まさう まさうと思ひながら、又してはうとうとして眠つてしまふ。此頃折々切実に感ずる故郷の恋しさなんぞも、浮草が波に揺られて遠い処へ行つて浮いてゐるのに、どうかするとその揺れるのが根に響くやうな感じであるが、これは舞台でしてゐる役の感じではない。併しそんな感じは、一寸頭を挙げるかと思ふと、直ぐに引つ込んでしまふ。それとは違つて、夜寐られない時、こんな風に舞台で勤めながら生涯を終るのかと思ふことがある。それからその生涯といふものも長いか短いか知れないと思ふ。丁度その頃留学生仲間が一人
になつて入院して死んだ。講義のない時間に、 へ見舞に行くと、伝染病室の しに、寐てゐるところを見せて貰ふのであつた。熱が四十度を超過するので、毎日冷水浴をさせるといふことであつた。そこで自分は医学生だつたので、どうも日本人には冷水浴は危険だと思つて、外のものにも相談して見たが、病院に人れて置きながら、そこの治療 に するのは不都合であらうし、よしや言つたところで採用せられはすまいといふので、傍観してゐることになつた。そのうち或る日見舞に行くと 死んだといふことであつた。その男の死顔を見たとき、自分はひどく感動して、自分もいつどんな病に感じて、こんな風に死ぬるかも知れないと、ふと思つた。それからは折々此儘 で死んだらどうだらうと思ふことがある。さういふ時は、先づ故郷で待つてゐる
がどんなに歎くだらうと思ふ。それから身近い種々の人の事を思ふ。中にも自分にひどく いてゐた、頭の毛のちぢれた弟の、故郷を立つとき、まだやつと歩いてゐたのが、毎日毎日兄いさんはいつ帰るかと問ふといふことを、手紙で言つてよこされてゐる。その弟が、 し兄いさんはもう帰らないと云はれたら、どんなにか嘆くだらうと思ふ。それから留学生になつてゐて、学業が成らずに死んでは済まないと思ふ。
し抽象的にかう云ふ事を考へてゐるうちは、冷かな義務の感じのみであるが、一人一人具体的に自分の の を尋ねて見ると、矢張身近い親戚のやうに、自分に からの苦痛、 の上の感じをさせるやうにもなる。かういふやうに
種々の な 思想が、次第もなく がり起つて来るが、それがとうとう な の上に帰着してしまふ。死といふものはあらゆる方角から引つ張つてゐる糸の してゐる、この自我といふものが無くなつてしまふのだと思ふ。自分は小さい時から小説が好きなので、外国語を学んでからも、暇があれば外国の小説を読んでゐる。どれを読んで見てもこの自我が無くなるといふことは最も大いなる最も深い苦痛だと云つてある。ところが自分には単に我が無くなるといふこと丈ならば、苦痛とは思はれない。只刃物で死んだら、其
に肉体の痛みを覚えるだらうと思ひ、病や薬で死んだら、それぞれの病症 に相応して、窒息するとか するとかいふ苦みを覚えるだらうと思ふのである。自我が無くなる為めの苦痛は無い。西洋人は死を恐れないのは野蛮人の性質だと云つてゐる。自分は西洋人の
ふ野蛮人といふものかも知れないと思ふ。さう思ふと同時に、小さい時 が、 の家に生れたのだから、切腹といふことが出来なくてはならないと度々 したことを思ひ出す。その時も肉体の痛みがあるだらうと思つて、其痛みを忍ばなくてはなるまいと思つたことを思ひ出す。そしていよいよ 野蛮人かも知れないと思ふ。併しその西洋人の見解が尤もだと承服することは出来ない。そんなら自我が無くなるといふことに就いて、平気でゐるかといふに、さうではない。その自我といふものが有る間に、それをどんな物だとはつきり考へても見ずに、知らずに、それを無くしてしまふのが口惜しい。残念である。漢学者の
ふ といふやうな生涯を送つてしまふのが残念である。それを口惜しい、残念だと思ふと同時に、痛切に心の空虚を感ずる。なんともかとも言はれない寂しさを覚える。それが煩悶になる。それが苦痛になる。
自分は
の の寐られない夜なかに、幾度も此苦痛を めた。さういふ時は自分の生れてから今までした事が、 の ら のやうに思はれる。舞台の上の役を勤めてゐるに過ぎなかつたといふことが、切実に感ぜられる。さういふ時にこれまで人に聞いたり本で読んだりした仏教や の思想の断片が、次第もなく心に浮んで来ては、直ぐに消えてしまふ。なんの をも与へずに消えてしまふ。さういふ時にこれまで学んだ自然科学のあらゆる事実やあらゆる推理を繰り返して見て、どこかに慰藉になるやうな物はないかと す。併しこれも徒労であつた。或るかういふ夜の事であつた。哲学の本を読んで見ようと思ひ立つて、夜の明けるのを待ち兼ねて、
の無意識哲学を買ひに行つた。これが哲学といふものを覗いて見た初で、なぜハルトマンにしたかといふと、その頃十九世紀は鉄道とハルトマンの哲学とを したと云つた位、最新の大系統として の声が しかつたからである。自分に哲学の
みを感ぜさせたのは の三期であつた。ハルトマンは幸福を人生の目的だとすることの不可能なのを証する為めに、錯迷の三期を立ててゐる。第一期では人間が現世で を得ようと思ふ。少壮、健康、 、恋愛、名誉といふやうに数へて、一々その を破つてゐる。恋なんぞも主に苦である。 は性欲の を断つに在る。人間は此 を犠牲にして、 かに世界の進化を してゐる。第二期では福を死後に求める。それには個人としての不滅を前提にしなくてはならない。ところが個人の意識は死と共に滅する。神経の はここに絶たれてしまふ。第三期では福を世界過程の未来に求める。これは世界の発展進化を前提とする。ところが世界はどんなに進化しても、老病困厄は絶えない。神経が鋭敏になるから、それを一層切実に感ずる。苦は進化と共に長ずる。 の三期を し尽しても、幸福は永遠に得られないのである。ハルトマンの
では、此世界は出来る 善く造られてゐる。併し有るが好いか無いが好いかと云へば、無いが好い。それを有らせる を無意識と名付ける。それだからと云つて、生を否定したつて、世界は依然としてゐるから駄目だ。現にある人類が首尾好く滅びても、又或る機会には次の人類が出来て、同じ事を繰り返すだらう。それよりか人間は生を肯定して、己を世界の過程に ねて、甘んじて苦を受けて、世界の を待つが好いと云ふのである。自分は此結論を見て頭を
つたが、 には強く引き附けられた。 にはひどく同情した。そしてハルトマン自身が錯迷の三期を書いたのは、 を読んで考へた上の事であると自白してゐるのを見て、スチルネルを読んだ。それから無意識哲学全体の だといふので、 つて を読んだ。スチルネルを読んで見ると、ハルトマンが紳士の態度で言つてゐる事を、
の態度で言つてゐるやうに感ずる。そしてあらゆる を破つた跡に自我を残してゐる。世界に むに足るものは自我の外には無い。それを先きから先きへと考へると、無政府主義に帰着しなくては まない。自分はぞつとした。
ショオペンハウエルを読んで見れば、ハルトマン・ミヌス・進化論であつた。世界は有るよりは無い方が好いばかりではない。出来る
悪く造られてゐる。世界の出来たのは である。 の安さが誤まつて せられたに過ざない。世界は認識によつて無の安さに帰るより外はない。一人一人の人は一箇一箇の失錯で、有るよりは無いが好いのである。個人の不滅を欲するのは失錯を無窮にしようとするのである。個人は滅びて人間といふ種類が残る。この滅びないで残るものを、滅びる の反対に、広義に、意志と名付ける。意志が有るから、無は絶待の無でなくて、相待の無である。意志が の物その物である。個人が無に帰るには、自殺をすれば好いかといふに、自殺をしたつて種類が残る。物その物が残る。そこで死ぬるまで生きてゐなくてはならないといふのである。ハルトマンの無意識といふものは、この意志が一変して出来たのであつた。自分はいよいよ頭を
つた。* * *
兎角する内に留学三年の期間が過ぎた。自分はまだ均勢を得ない物体の動揺を心の内に感じてゐながら、何の師匠を求めるにも
りの好い、文化の国を去らなくてはならないことになつた。生きた師匠ばかりではない。相談相手になる書物も、遠く足を運ばずに大学の図書館に行けば大抵間に合ふ。又買つて見るにも注文してから何箇月目に来るなどといふ面倒は無い。さういふ便利な国を去らなくてはならないことになつた。故郷は恋しい。美しい、懐かしい夢の国として故郷は恋しい。併し自分の研究しなくてはならないことになつてゐる学術を真に研究するには、その学術の新しい
を開墾して行くには、まだ の要約の けてゐる国に帰るのは しい。 て「まだ」と云ふ。日本に長くゐて日本を底から知り抜いたと云はれてゐる 人某は、此要約は今 けてゐるばかりでなくて、永遠に東洋の天地には生じて来ないと宜告した。東洋には自然科学を育てて行く は無いのだと宣告した。果してさうなら、帝国大学も、伝染病研究所も、永遠に の学術の結論丈を取り ぐ場所たるに過ぎない筈である。かう云ふ判断は、ロシアとの戦争の後に、欧羅巴の当り狂言になつてゐた なんぞに現れてゐる。併し自分は日本人を、さう絶望しなくてはならない程、無能な種族だとも思はないから、敢て「まだ」と云ふ。自分は日本で結んだ学術の果実を欧羅巴へ輸出する時もいつかは来るだらうと、其時から思つてゐたのである。自分はこの自然科学を育てる雰囲気のある、便利な国を跡に見て、夢の故郷へ旅立つた。それは勿論立たなくてはならなかつたのではあるが、立たなくてはならないといふ義務の為めに立つたのでは無い。自分の
の も、一方の皿に便利な国を載せて、一方の皿に夢の故郷を載せたとき、便利の皿を つた をそつと引く、白い、優しい手があつたにも らず、 かに夢の方へ傾いたのである。シベリア鉄道はまだ全通してゐなかつたので、
洋を経て帰るのであつた。一日行程の道を往復しても、往きは長く、 りは短く思はれるものであるが、四五十日の旅行をしても、さういふ感じがある。未知の世界へ希望を いて旅立つた昔に比べて寂しく又早く思はれた航海中、 の寝椅子に身を横へながら、自分は にどんなお を持つて帰るかといふことを考へた。自然科学の分科の上では、自分は結論丈を持つて帰るのではない。将来発展すべき
をも持つてゐる積りである。併し帰つて行く故郷には、その萌芽を育てる雰囲気が無い。少くも「まだ」無い。その萌芽も らに枯れてしまひはすまいかと気遣はれる。そして自分は な、鈍い、陰気な感じに襲はれた。そしてこの陰気な闇を
する光明のある哲学は、我行李の中には無かつた。その中に有るのは、ショオペンハウエル、ハルトマン系の厭世哲学である。現象世界を有るよりは無い方が好いとしてゐる哲学である。進化を認めないではない。併しそれは無に醒覚せんが為めの進化である。自分は
で、赤い の布を、頭と腰とに巻き附けた男に、美しい、青い翼の鳥を買はせられた。籠を げて舟に帰ると、フランス舟の乗組貝が妙な手附きをして、「 !」と云つた。美しい、青い鳥は、果して舟の横浜に着くまでに死んでしまつた。それも ない土産であつた。* * *
自分は失望を以て故郷の人に迎へられた。それは無埋もない。自分のやうな洋行帰りはこれまで例の無い事であつたからである。これまでの洋行帰りは、希望に
く顔をして、行李の中から道具を出して、何か新しい手品を取り立てて御覧に入れることになつてゐた。自分は丁度その反対の事をしたのである。東京では都会改造の議論が盛んになつてゐて、アメリカのAとかBとかの
かにある、独逸人の謂ふ のやうな家を建てたいと、ハイカラア が云つてゐた。その時自分は「都会といふものは、狭い地面に多く人が住むだけ が多い、殊に子供が多く死ぬる、今まで横に並んでゐた家を、 に積み ねるよりは、 や でも改良するが好からう」と云つた。又建築に制裁を加へようとする委員が出来てゐて、東京の家の軒の高さを一定して、整然たる外観の美を成さうと云つてゐた。その時自分は「そんな兵隊の並んだやうな町は美しくは無い、 ひて西洋風にしたいなら、 ろ反対に軒の高さどころか、あらゆる建築の様式を一軒づつ別にさせて、ヱネチアの町のやうに たる美観を造るやうにでも心掛けたら好からう」と云つた。食物改良の議論もあつた。米を食ふことを
めて、沢山牛肉を食はせたいと云ふのであつた。その時自分は「米も魚もひどく消化の好いものだから、日本人の食物は昔の儘が好からう、尤も牧畜を盛んにして、牛肉も食べるやうにするのは勝手だ」と云つた。改良の議論もあつて、コイスチヨーワガナワといふやうな事を書かせようとしてゐると、「いやいや、 はどこの国にもある、矢張コヒステフワガナハの方が しからう」と云つた。
そんな風に、人の改良しようとしてゐる、あらゆる方面に向つて、自分は
の を唱へた。そして保守党の仲間に ひ込まれた。洋行帰りの保守主義者は、後には別な動機で流行し出したが、元祖は自分であつたかも知れない。そこで学んで来た自然科学はどうしたか。帰つた当座一年か二年は
に這人つてゐて、ごつごつと馬鹿正直に働いて、 の に根拠を与へてゐた。正直に試験して見れば、何千年といふ間満足に発展して来た日本人が、そんなに反理性的生活をしてゐよう筈はない。初から知れ切つた事である。さてそれから一歩進んで、新しい地盤の上に新しい
を企てようといふ段になると、地位と境遇とが自分を から ね出した。自然科学よ、さらばである。勿論自然科学の方面では、自分なんぞより有力な友達が大勢あつて、跡に残つて奮闘してゐてくれるから、自分の撥ね出されたのは、国家の為めにも、人類の為めにもなんの損失にもならない。
只奮闘してゐる友達には気の毒である。依然として
の無い処で、高圧の下に働く潜水夫のやうに ぎ苦んでゐる。雰囲気の無い証拠には、まだ といふ日本語も出来てゐない。そんな概念を明確に言ひ現す必要をば、社会が感じてゐないのである。自慢でもなんでもないが、「業績」とか「学問の 」とか云ふやうな を、自分が自然科学界に置土産にして来たが、まだ といふ意味の簡短で明確な日本語は無い。研究なんといふぼんやりした は、実際役に立たない。 べも研究ではないか。* * *
かう云ふ閲歴をして来ても、未来の幻影を
うて、現在の事実を にする自分の心は、まだ元の である。人の生涯はもう下り坂になつて行くのに、逐うてゐるのはなんの影やら。「
にして人は己を知ることを得べきか。 を以てしては決して能はざらん。されど行為を以てしては或は くせむ。 の義務を果さんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。汝の義務とは何ぞ。 の要求なり。」これは の である。日の要求を義務として、それを果して行く。これは丁度現在の事実を
にする反対である。自分はどうしてさう云ふ境地に身を置くことが出来ないだらう。日の要求に応じて
るとするには足ることを知らなくてはならない。足ることを知るといふことが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のゐない筈の所に自分がゐるやうである。どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることが出来ないのである。道に迷つてゐるのである。夢を見てゐるのである。夢を見てゐて、青い鳥を夢の中に尋ねてゐるのである。なぜだと問うたところで、それに答へることは出来ない。これは只単純なる事実である。自分の意識の上の事実である。自分は此儘で人生の下り坂を下つて行く。そしてその下り果てた所が死だといふことを知つて居る。
併しその死はこはくはない。人の説に、老年になるに従つて増長するといふ「死の恐怖」が、自分には無い。
若い時には、この死といふ目的地に達するまでに、自分の眼前に横はつてゐる
を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなつた。次第に薄らいだ。解けずに横はつてゐる謎が見えないのではない。見えてゐる謎を解くべきものだと思はないのでもない。それを解かうとしてあせらなくなつたのである。この頃自分は
が事を聞いて、その男の書いた の哲学を読んで見た。此男は
の の三期を承認してゐる。ところであらゆる を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これは皆迷だが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して を ける。次いで死の廻りに大きい を いて、 しながら歩いてゐる。その圏が く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。
自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の
」も無い。死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。
* * *
謎は解けないと知つて、解かうとしてあせらないやうにはなつたが、自分はそれを打ち棄てて顧みずにはゐられない。宴会嫌ひで世に
ふ道楽といふものがなく、碁も打たず、 も差さず、 も かない自分は、自然科学の を出て、手に試験管を持たなくなつてから、 に画や彫刻を見たり、音楽を聴いたりする外には、境遇の与へる の要求を果した間々に、本を読むことを余儀なくせられた。ハルトマンは人間のあらゆる
を として打破して行く間に、こんな意味の事を言つてゐた。大抵人の と思つてゐる物に、酒の二日酔をさせるやうに の めないものは無い。それの無いのは、只芸術と学問との二つ丈だと云ふのである。自分は丁度此二つの外にはする事がなくなつた。それは利害上に打算して、跡腹の病めない事をするのではない。跡腹の病める、あらゆる を 好かないのである。本は随分読んだ。そしてその読む本の種類は、為事場を出てから、必然の結果でがらりと変つた。
西洋にゐた時から、
とか とか云ふやうな、専門の学術雑誌を初巻から へて十五六種も取つてゐたところが、為事場に出ないことになつて見れば、実験の かい記録なんぞを調べる必要がなくなつた。元来かう云ふ雑誌は学校や図書館で買ふもので、個人の買ふものではなかつたのを、政府がどれ丈雑誌に金を出してくれるやら分からないと思ふのと、自分がどこで為事をするやうになるやら分からないと思ふのとで、数千巻買つて持つてゐたが、自分は其中で専門学科の と進歩とを見るに最も便利な年報二三種を残して置いて、跡は く の学校に寄附してしまつた。そしてその代りに哲学や文学の書物を買ふことにした。それを時間の得られる限り読んだのである。
只その読み方が、初めハルトマンを読んだ時のやうに、
ゑて食を るやうな読み方ではなくなつた。 世にもてはやされてゐた人、 世にもてはやされてゐる人は、どんな事を言つてゐるかと、 へば道を行く人の顔を辻に立つて に見るやうに見たのである。冷澹には見てゐたが、自分は辻に立つてゐて、度々帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大勢あつたのである。
帽は脱いだが、辻を離れてどの人かの跡に附いて行かうとは思はなかつた。多くの師には逢つたが、一人の
には逢はなかつたのである。自分は度々此脱帽によつて誤解せられた。自然科学を
めて帰つた当座、食物の議論が出たので、当時の権威者たる の標準で した時も、或る先輩が「そんならフォイトを信仰してゐるか」と云ふと、自分はそれに答へて、「必ずしもさうでは無い、 くフォイトの に つて敵に当るのだ」と云つて、ひどく先輩に冷かされた。自分は一時の権威者としてフォイトに脱帽したに過ぎないのである。それと丁度同じ事で、 芸術の批評に口を出して、ハルトマンの美学を根拠にして論じてゐると、或る後進の英雄が云つた。「ハルトマンの美学はハルトマンの無意識哲学から出てゐる。あの美学を根拠にして論ずるには、先づ無意識哲学を信仰してゐなくてはならない」と云つた。なる程ハルトマンは自家の美学を自家の世界観に結び附けてはゐたが、 くその連鎖を つてしまつたとして見ても、彼の美学は当時最も完備したものであつて、而も創見に富んでゐた。自分は美学の上で、矢張一時の権威者としてハルトマンに脱帽したに過ぎないのである。ずつと後になつてから、ハルトマンの世界観を離れて、彼の美学の存立してゐられる、立派な証拠が提供せられた。ハルトマン以後に出た美学者の本をどれでも開けて見るが好い。きつと美の と云ふものを説いてゐる。あれはハルトマンが めたのでハルトマンの前には無かつた。それを誰も彼も説いてゐて、ハルトマンのハの字も言はずにゐる。黙殺してゐるのである。それは兎に角、辻に立つ人は多くの師に逢つて、一人の主にも逢はなかつた。そしてどんなに巧みに組み立てた
でも、一篇の抒情詩に等しいものだと云ふことを知つた。* * *
形而上学と云ふ、
の のやうな組立てに んだ自分の耳に、或時ちぎれちぎれの の旋律が聞えて来た。生の意志を
いて無に入らせようとする、ショオペンハウエルの に服従し兼ねてゐた自分の意識は、或時 の中から うち起された。それは
の 哲学であつた。併しこれも自分を養つてくれる食餌ではなくて、自分を酔はせる酒であつた。
過去の消極的な、利他的な道徳を家畜の
の道徳としたのは痛快である。同時に社会主義者の を、あらゆる特権を排斥する、愚な、とんまな群の道徳としたのも、無政府主義者の を、 の街に犬が吠えてゐると罵つたのも面白い。併し理性の約束を棄てて、権威に向ふ意志を文化の根本に置いて、 の為め、自我の為めに、毒薬と とを用ゐることを らない を、君主の道徳の典型としたのなんぞを、真面目に受け取るわけには行かない。その上ハルトマンの細かい倫理説を見た目には、 評価の革新さへ幾分の新しみを がれてしまつたのである。そこで死はどうであるか。「永遠なる再来」は
にはならない。 の に筆を し兼ねた作者の情を、自分は憐んだ。それから後にも
の流行などと云ふことも して来たが、自分は一切の に同情を有せないので、そんな思潮には触れずにしまつた。* * *
昔別荘の真似事に立てた、膝を
れるばかりの には、 の のやうになんの道具も只一つしか無い。それに主人の
は壁といふ壁を皆棚にして、棚といふ棚を皆書物にしてゐる。そして世間と一切の交通を絶つてゐるらしい主人の
に、西洋から書物の小包が来る。彼が生きてゐる間は、小さいながら財産の全部を保菅してゐる の手で、 の大部分が西洋の某 へ送られるのである。主人は老いても
のやうな視力を持つてゐて、世間の人が懐かしくなつた を訪ふやうに、古い本を読む。世間の人が に出て、新しい人を見るやうに新しい本を読む。めば砂の山を歩いて松の木立を見る。砂の浜に下りて海の を見る。
の める野菜の膳に向つて、飢を ぐ。
書物の外で、主人の翁の
んでゐるのは、小さい である。砂の山から摘んで来た小さい草の花などを見る。その外 の顕微鏡がある。海の の中にゐる小さい動物などを見る の望遠鏡がある。晴れた夜の空の星を見る。これは翁が自然科学の記憶を呼び返す、折々のすさびである。主人の翁はこの小家に来てからも幻影を追ふやうな昔の心持を無くしてしまふことは出来ない。そして
を回顧してこんな事を思ふ。 の要求に安んぜない権利を持つてゐるものは、恐らくは只天才ばかりであらう。自然科学で大発明をするとか、哲学や芸術で大きい思想、大きい作品を生み出すとか云ふ境地に立つたら、自分も現在に満足したのではあるまいか。自分にはそれが出来なかつた。それでかう云ふ心持が附き つてゐるのだらうと思ふのである。少壮時代に心の
に卸された種子は、容易に根を断つことの出来ないものである。 に哲学や文学の上の動揺を見てゐる主人の翁は、同時に重い石を一つ一つ積み ねて行くやうな科学者の労作にも、 ながら目を附けてゐるのである。の主筆をしてゐた旧教徒 が、科学の破産を説いてから、幾多の歳月を しても、科学はなかなか破産しない。 ての のものの無常の中で、最も大きい未来を有してゐるものの一つは、矢張科学であらう。
主人の
はそこで又こんな事を思ふ。人間の大厄難になつてゐる は、科学の力で予防もし治療もすることが出来る様になつて来た。種痘で を防ぐ。人工で した細菌やそれを ゑた動物の で、 を防ぎ を直すことが出来る。 のやうな猛烈な病も、病原菌が発見せられたばかりで、予防の見当は附いてゐる。癩病も病原菌だけは知られてゐる。結核も が予期せられた功を奏せないでも、防ぐ手掛りが無いこともない。 のやうな悪性 も、もう動物に移し植ゑることが出来て見れば、早晩予防の手掛りを見出すかも知れない。近くは梅毒が で直るやうになつた。 の楽天哲学が、未来に してゐる希望のやうに、人間の命をずつと延べることも、或は出来ないには限らないと思ふ。かくして最早
もなくなつてゐる生涯の を、見果てぬ夢の心持で、死を怖れず、死にあこがれずに、主人の は送つてゐる。その翁の過去の記憶が、稀に長い鎖のやうに、刹那の間に何十年かの跡を見渡させることがある。さう云ふ時は翁の
たる目が大きく られて、遠い遠い海と空とに注がれてゐる。これはそんな時ふと書き捨てた
である。
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