巻第十九

168 光厳院殿重祚御事

建武三年六月十日、光厳院太上天皇重祚の御位に即進せたりしが、三年の内に天下反覆して宋鑒ほろびはてしかば、其例いかゞあるべからんと、諸人異議多かりけれ共、此将軍尊氏卿の筑紫より攻上し時、院宣をなされしも此君也。今又東寺へ潜幸なりて、武家に威を加られしも此御事なれば、争其天恩を報じ申さではあるべきとて、尊氏卿平にはからひ申されける上は、末座の異見再往の沙汰に及ばず。其比物にも覚へぬ田舎の者共、茶の会酒宴の砌にて、そゞろなる物語しけるにも、「あはれ此持明院殿ほど、大果報の人はをはせざりけり。軍の一度をもし給はずして、将軍より王位を給らせ給たり。」と、申沙汰しけるこそをかしけれ。


169 本朝将軍補任兄弟無其例事

同年十月三日改元有て、延元にうつる。其十一月五日の除目に、足利宰相尊氏卿、上首十一人を越て、位正三位にあがり、官大納言に遷て、征夷将軍の武将に備り給ふ。舎弟左馬頭直義朝臣は、五人を越て、位四品に叙し、官宰相に任じて、日本の副将軍に成給ふ。夫我朝に将軍を置れし初は、養老四年に多治比の真人県守、神亀元年に藤原朝臣宇合、宝亀十一年に藤原朝臣継綱。其後時代遥に隔て藤原朝臣小里丸、大伴宿禰家持・紀朝臣古佐美・大伴宿禰乙丸・坂上宿禰田村丸・文屋宿禰綿丸・藤原朝臣忠文・右大将宗盛・新中納言知盛・右大将源頼朝・木曾左馬頭源義仲・左衛門督頼家・右大臣実朝に至まで其人十六人皆功の抽賞に依て、父子其先を追事ありといへども、兄弟一時に相双で、大樹の武将に備事、古今未其例を聞ずと、其方様の人は、皆驕逸の思気色に顕たり。其外宗との一族四十三人、或は象外の選に当り、俗骨忽に蓬莱の雲をふみ、或乱階の賞に依て、庸才立ろに台閣の月を攀。加之其門葉たる者は、諸国の守護吏務を兼て、銀鞍未解、五馬忽策重山之雲、蘭橈未乾、巨船遥棹滄海之浪。総て博陸輔佐の臣も、是に向て上位を臨ん事を憚る。況や名家儒林の輩は、彼仁に列て下風に立ん事を喜べり。


170 新田義貞落越前府城事

左中将義貞朝臣・舎弟脇屋右衛門佐義助は、金崎城没落の後、杣山の麓瓜生が館に、有も無が如にてをはしましけるが、いつまでか右て徒に時を待べき。所々に隠れ居たる敗軍の兵を集て国中へ打出、吉野に御座ある先帝の宸襟をも休め進せ、金崎にて討れし亡魂の恨をも散ぜばやと思はれければ、国々へ潜に使を通じて、旧功の輩をあつめられけるに、竜鱗に付き、鳳翼を攀て、宿望を達せばやと、蟄居に時を待ける在々所々の兵共、聞伝々々抜々に馳集りける程に、馬・物具なんどこそきら/\敷はなけれ共、心ばかりはいかなる樊■・周勃にも劣じと思へる義心金鉄の兵共、三千余騎に成にけり。此事軈て、京都に聞へければ、将軍より足利尾張守高経・舎弟伊予守二人を大将として、北陸道七箇国の勢六千余騎を差副、越前府へぞ下されける。右て数月をふれ共、府は大勢なり、杣山は要害なれば、城へも寄えず府へも懸りへず、只両陣の堺、大塩・松崎辺に兵を出し合て、日々夜々に軍の絶る隙もなし。かゝる所に加賀国の住人、敷地伊豆守・山岸新左衛門・上木平九郎以下の者共、畑六郎左衛門尉時能が語に付て、加賀・越前堺、細呂木の辺に城郭をかまへ、津葉五郎が大聖寺の城を責落て、国中を押領す。此時までは平泉寺の衆徒等、皆二心なき将軍方にてありけるが、是もいかゞ思けん、過半引分て宮方に与力申し、三峰と云所へ打出、城をかまへて敵を待所に、伊自良次郎左衛門尉、是に与して三百余騎にて馳加る間、近辺の地頭・御家人等、ふせぎ戦に力を失て、皆己が家々に火を懸て、府の陣へ落集る。北国是より動乱して、汗馬の足を休めず。三峰の衆徒の中より杣山へ使者を立て、大将を一人給て合戦を致すべき由を申ける間、脇屋右衛門佐義助朝臣五百余騎を相副て三峯の陣へ指遣さる。牒使又加賀国に来て前に相図を定らるゝ間、敷地・上木・山岸・畑・結城・江戸・深町の者共、細屋右馬助を大将として、其勢三千余騎越前国へ打こへ、長崎・河合・川口三箇所に城を構て漸々に府へぞ責寄ける。尾張守高経は、六千余騎を随へて府中にたて篭られたりけるが、敵に国中を押取れて、一所に篭居ては兵粮につまりて、ついによかるまじとて、三千余騎をば府に残しをき、三千余騎をば一国に分遣て山々峯々に城を構へ、兵を二百騎・三百騎づゝ三十余箇所にぞ置れける。戦場雪深して馬の足の立ぬ程は、城と城とを合て昼夜旦暮合戦を致すといへ共、僅に一日雌雄を争ふ計にて、誠の勝負は未なかりけり。去程にあら玉の年立帰て二月中旬にも成ければ、余寒も漸く退て、士卒弓をひくに手かゞまらず、残雪半村消て、疋馬地を蹈に蹄を労せず。今は時分よく成ぬ。次第に府辺へ近付寄て、敵の往反する道々に城をかまへて、四方を差塞で攻戦べし。何くか用害によかるべき所あると、見試ん為に、脇屋右衛門佐僅百四五十騎にて、鯖江の宿へ打出られけり。名将小勢にて城の外に打出たるを、能隙なりと、敵にや人の告たりけん。尾張守の副将軍細川出羽守五百余騎にて府の城より打出鯖江宿へ押寄、三方より相近付て、一人もあまさじとぞ取巻ける。脇屋右衛門前後の敵に囲れて、とても遁ぬ所也と思切てければ、中々心を一にして少も機を撓さず。後陣に高木の社をあて、左右に瓜生畔を取て、矢種を惜まず散々に射させて、敵に少も馬の足を立させず、七八度が程遭つ啓つ追立追立攻付たるに、細川・鹿草が五百余騎、纔の勢に懸立られて、鯖江の宿の後なる川の浅瀬を打わたり、向の岸へ颯と引。結城上野介・河野七郎・熊谷備中守・伊東大和次郎・足立新左衛門・小島越後守・中野藤内左衛門・瓜生次郎左衛門尉八騎の兵共、川の瀬頭に打のぞみ、つゞいて渡さんとしけるが、大将右衛門佐、馬を打寄て制せられけるは、「小勢の大勢に勝事は暫時の不思議也。若難所に向て敵にかゝらば、水沢に利を失て、敵却て機に乗べし。今日の合戦は、不慮に出来つる事なれば、遠所の御方是をしらで、左右なく馳来らじと覚るぞ。此辺の在家に火を懸て、合戦ありと知せよ。」と、下知せられければ、篠塚五郎左衛門馳廻て、高木・瓜生・真柄・北村の在家二十余箇所に火を懸て、狼烟天を焦せり。所々の宮方此烟を見て、「すはや鯖江の辺に軍の有けるは、馳合て御方に力を合よ。」とて、宇都宮美濃将監泰藤・天野民部大輔政貞三百余騎にて、鯖並の宿より馳来。一条少将行実朝臣、二百余騎にて飽和より打出らる。瓜生越前守重・舎弟加賀守照、五百余騎にて妙法寺の城より馳下る。山徒三百余騎は大塩の城よりをり合ひ、河島左近蔵人惟頼は、三百余騎にて三峯の城より馳来り、総大将左中将義貞朝臣は、千余騎にて杣山よりぞ出られける。合戦の相図ありと覚へて、所々の宮方鯖江の宿へ馳集る由聞へければ、「未河ばたに叩へたる御方討すな。」とて、尾張守高経・同伊予守三千余騎を率して、国分寺の北へ打出らる。両陣相去事十余町、中に一の河を隔つ。此河さしもの大河にてはなけれ共、時節雪消に水増て、漲る浪岸をひたしければ、互に浅瀬を伺見て、いづくをか渡さましと、暫く猶予しける処に、船田長門守が若党葛新左衛門と云者、川ばたに打寄て、「此河は水だに増れば州俄に出来て、案内知ぬ人は、いつも謬する河にて候ぞ。いで其瀬ぶみ仕らん。」と云まゝに、白蘆毛なる馬に、かし鳥威の鎧著て、三尺六寸のかひしのぎの太刀を抜、甲の真向に指かざし、たぎりて落る瀬枕に、只一騎馬を打入て、白浪を立てぞ游せける。我先に渡さんと打のぞみたる兵三千余騎これを見て、一度に颯と打入て、弓の本筈末筈取ちがへ、馬の足の立所をば手綱をさしくつろげて歩せ、足のたゝぬ所をば馬の頭をたゝき上て泳せ、真一文字に流をきつて、向の岸へ懸あげたり。葛新左衛門は、御方の勢に二町ばかり先立て渡しければ、敵の為に馬のもろ膝ながれて、歩立に成て敵六騎に取篭られて、已に打れぬと見へける処に、宇都宮が郎等に清の新左衛門為直馳合て、敵二騎切て落し、三騎に手負せ、葛新左衛門をば助てけり。寄る勢も三千余騎、ふせぐ勢も三千余騎、大将は何れも名を惜む源氏一流の棟梁也。而も馬の懸引たやすき在所なれば、敵御方六千余騎、前後左右に追つ返つ入乱、半時ばかりぞ戦たる。かくては只命を限の戦にて、いつ勝負あるべしとも見へざりける処に、杣山河原より廻ける三峰の勢と、大塩より下る山法師と差違て、敵陣の後へ廻り、府中に火を懸たりけるに、尾張守の兵三千余騎、敵を新善光寺の城へ入かはらせじと、府中を指引返す。義貞朝臣の兵三千余騎、逃る敵を追すがうて、透間もなく攻入ける間、城へ篭らんと逃入勢共、己が拵たる木戸逆木に支られて、城へ入べき逗留もなかりければ、新善光寺の前を、府より西へ打過る。伊予守の勢千余騎は、若狭をさして引ければ、尾張守の兵二千余騎、織田・大虫を打過て、足羽の城へぞ引れける。都て此日一時の戦に、府の城すでに責落されぬと聞及て、未敵も寄ざる先に、国中の城の落事、同時に七十三箇所也。


171 金崎東宮並将軍宮御隠事

新田義貞・義助杣山より打出て、尾張守・伊予守府中を落、其外所々の城落されぬと聞へければ、尊氏卿・直義朝臣大に忿て、「此事は偏に春宮の彼等を御扶あらん為に、金崎にて此等は腹を切たりと宣しを、誠と心得て、杣山へ遅く討手を差下つるによつて也。此宮是程当家を失はんと思召けるを知らで、若只置奉らば、何様不思議の御企も有ぬと覚れば、潜に鴆毒を進て失奉れ。」と、粟飯原下総守氏光にぞ下知せられける。春宮は、連枝の御兄弟将軍の宮とて、直義朝臣先年鎌倉へ申下参せたりし先帝第七の宮と、一処に押篭られて御座ありける処へ、氏光薬を一裹持て参り、「いつとなく加様に打篭て御座候へば、御病気なんどの萌す御事もや候はんずらんとて、三条殿より調進せられて候、毎朝一七日聞食候へ。」とて、御前にぞ閣ける。氏光罷帰て後、将軍宮此薬を御覧ぜられて宣けるは、「未見へざるさきに、兼て療治を加る程に我等を思はゞ、此一室の中に押篭て朝暮物を思はすべしや。是は定て病を治する薬にはあらじ、只命を縮る毒なるべし。」とて、庭へ打捨んとせさせ給けるを、春宮御手に取せ給て、「抑尊氏・直義等、其程に情なき所存を挿む者ならば、縦此薬をのまず共遁べき命かは。是元来所願成就也。此毒を呑世をはやうせばやとこそ存候へ。「夫れ人間の習、一日一夜を経る間に八億四千の念あり。一念悪を発せば一生の悪身を得、十念悪を発せば十生悪身を受く。乃至千億の念も又爾也。」といへり。如是一日の悪念の報、受尽さん事猶難し。況一生の間の悪業をや。悲哉、未来無窮の生死出離何れの時ぞ。富貴栄花の人に於て、猶此苦を遁ず。況我等篭鳥の雲を恋、涸魚の水を求る如に成て、聞に付見るに随ふ悲の中に、待事もなき月日を送て、日のつもるをも知らず。悪念に犯されんよりも、命を鴆毒の為に縮て、後生善処の望を達んにはしかじ。」と仰られて、毎日法華経一部あそばされ、念仏唱させ給て、此鴆毒をぞ聞召ける。将軍の宮是を御覧じて、「誰とても懸る憂き世に心を留べきにあらず、同は後生までも御供申さんこそ本意なれ。」とて、諸共に此毒薬を七日までぞ聞食ける。軈春宮は、其翌日より御心地例に違はせ給けるが、御終焉の儀閑にして、四月十三日の暮程に、忽に隠させ給けり。将軍宮は二十日余まで後座ありけるが、黄疸と云御いたはり出来て、御遍身黄に成せ給て、是も終に墓なくならせ給にけり。哀哉尸鳩樹頭の花、連枝早く一朝の雨に随ひ、悲哉鶺鴒原上の草、同根忽に三秋の霜に枯ぬる事を。去々年は兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ、又去年の春は中務親王金崎にて御自害あり。此等をこそためしなく哀なる事に、聞人心を傷しめつるに、今又春宮・将軍宮、幾程なくて御隠れありければ、心あるも心なきも、是をきゝ及ぶ人毎に、哀を催さずと云事なし。かくつらくあたり給へる直義朝臣の行末、いかならんと思はぬ人も無りけるが、果して毒害せられ給ふ事こそ不思議なれ。


172 諸国宮方蜂起事

主上山門より還幸なり、官軍金崎にて皆うたれぬと披露有ければ、今は再び皇威に服せん事、近き世にはあらじと、世挙て思定ける処に、先帝又三種の神器を帯して、吉野へ潜幸なり、又義貞朝臣已に数万騎の軍勢を率して、越前国に打出たりと聞へければ、山門より降参したりし大館左馬助氏明、伊予国へ逃下り、土居・得能が子共と引合て、四国を討従へんとす。江田兵部大夫行義も丹波国に馳来て、足立・本庄等を相語て、高山寺にたて篭る。金谷治部大輔経氏、播磨の東条より打出、吉河・高田が勢を付て、丹生の山陰に城郭を構へ、山陰の中道を差塞ぐ。遠江の井介は、妙法院宮を取立まいらせて、奥の山に楯篭る。宇都宮治部大輔入道は、紀清両党五百余騎を率して、吉野へ馳参ければ、旧功を捨ざる志を君殊に叡感有て、則是を還俗せさせられ四位少将にぞなされける。此外四夷八蛮、此彼よりをこるとのみ聞へしかば、先帝旧労の功臣、義貞恩顧の軍勢等、病雀花を喰て飛揚の翅を伸、轍魚雨を得て■■の脣を湿すと、悦び思はぬ人もなし。


173 相摸次郎時行勅免事

先亡相摸入道宗鑒が二男相摸次郎時行は、一家忽に亡し後は、天に跼り地に蹐して、一身を置に安き所なかりしかば、こゝの禅院、彼の律院に、一夜二夜を明て隠ありきけるが、窃に使者を吉野殿へ進て申入けるは、「亡親高時法師、臣たる道を弁へずして、遂に滅亡を勅勘の下に得たりき。然といへ共、天誅の理に当る故を存ずるに依て、時行一塵も君を恨申処を存候はず。元弘に義貞は関東を滅し、尊氏は六波羅を攻落す。彼両人何も勅命に依て、征罰を事とし候し間、憤を公儀に忘れ候し処に、尊氏忽に朝敵となりしかば、威を綸命の下に仮て、世を叛逆の中に奪んと企ける心中、事已に露顕し候歟。抑尊氏が其人たる事偏に当家優如の厚恩に依候き。然に恩を荷て恩を忘れ、天を戴て天を乖けり。其大逆無道の甚き事、世の悪む所人の指さす所也。是を以当家の氏族等、悉敵を他に取らず。惟尊氏・直義等が為に、其恨を散ん事を存ず。天鑒明に下情を照されば、枉て勅免を蒙て、朝敵誅罰の計略を廻すべき由、綸旨を成下れば、宜く官軍の義戦を扶け、皇統の大化を仰申べきにて候。夫不義の父を誅せられて、忠功の子を召仕はるゝ例あり。異国には趙盾、我朝には義朝、其外泛々たるたぐひ、勝計すべからず。用捨無偏、弛張有時、明王の撰士徳也。豈既往の罪を以て、当然の理を棄られ候はんや。」と、伝奏に属して委細にぞ奏聞したりける。主上能々聞召て、「犁牛のたとへ、其理しか也。罰其罪にあたり、賞其功に感ずるは善政の最たり。」とて、則恩免の綸旨をぞ下れける。


174 奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛事

奥州の国司北畠源中納言顕家卿、去元弘三年正月に、園城寺合戦の時上洛せられて義貞に力を加へ、尊氏卿を西海に漂はせし無双の大功也とて、鎮守府の将軍に成れて、又奥州へぞ下されける。其翌年官軍戦破れて、君は山門より還幸なりて、花山院の故宮に幽閉せられさせ給ひ、金崎の城は攻落されて、義顕朝臣自害したりと聞へし後は、顕家卿に付随ふ郎従、皆落失て勢微々に成しかば、纔に伊達郡霊山の城一を守て、有も無が如にてぞをはしける。かゝる処に、主上は吉野へ潜幸なり義貞は北国へ打出たりと披露ありければ、いつしか又人の心替て催促に随ふ人多かりけり。顕家卿時を得たりと悦て、廻文を以て便宜の輩を催さるゝに、結城上野入道々忠を始として、伊達・信夫・南部・下山六千余騎にて馳加る。国司則其勢を合て三万余騎、白川の関へ打越給に、奥州五十四郡の勢共、多分はせ付て、程なく十万余騎に成にけり。さらば軈鎌倉を責落て、上洛すべしとて、八月十九日白川関を立て、下野国へ打越給ふ。鎌倉の管領足利左馬頭義詮此事を聞給て、上杉民部大夫・細川阿波守・高大和守、其外武蔵・相摸の勢八万余騎を相副て、利根河にて支らる。去程に、両陣の勢東西の岸に打臨で、互に是を渡さんと、渡るべき瀬やあると見ければ、其時節余所の時雨に水増て、逆波高く漲り落て、浅瀬はさてもありや無やと、事問べき渡守さへなければ、両陣共に水の干落るほどを相待て、徒に一日一夜は過にけり。爰に国司の兵に、長井斉藤別当実永と云者あり。大将の前にすゝみ出て申けるは、「古より今に至まで、河を隔たる陣多けれ共、渡して勝ずと云事なし。縦水増て日来より深く共、此川宇治・勢多・藤戸・富士川に勝る事はよもあらじ。敵に先づ渡されぬさきに、此方より渡て、気を扶て戦を決候はんに、などか勝で候べき。」と申ければ、国司、「合戦の道は、勇士に任るにしかず、兎も角も計ふべし。」とぞ宣ける。実永大に悦て、馬の腹帯をかため、甲の緒をしめて、渡さんと打立けるを見て、いつも軍の先を争ひける部井十郎・高木三郎、少も前後を見つくろはず、只二騎馬を颯と打入て、「今日の軍の先懸、後に論ずる人あらば、河伯水神に向て問へ。」と高声に呼て、箆橈形に流をせいてぞ渡しける。長井斉藤別当・舎弟豊後次郎、兄弟二人是を見て、「人の渡したる処を渡ては、何の高名かあるべき。」と、共に腹を立て、是より三町計上なる瀬を只二騎渡けるが、岩浪高して逆巻く波に巻入られて、馬人共に見へず、水の底に沈で失にけり。其身は徒に溺て、尸は急流の底に漂といへ共、其名は永く止て武を九泉の先に耀す。さてこそ鬚髪を染て討死せし実盛が末とは覚へたれと、万人感ぜし言の下に先祖の名をぞ揚たりける。是を見て、奥州の勢十万余騎、一度に打入れて、まつ一文字に渡せば、鎌倉勢八万余騎、同時に渡合て、河中にて勝負を決せんとす。され共先一番に渡つる奥勢の人馬に、東岸の流せかれて、西岸の水の早き事、宛竜門三級の如なれば、鎌倉の先陣三千余騎、馬筏を押破られて、浮ぬ沈ぬ流行。後陣の勢は是を見て、叶はじとや思けん、河中より引返て、平野に支て戦けるが、引立ける軍なれば、右往左往に懸ちらされて、皆鎌倉へ引返す。国司利根川の合戦に打勝て、勢漸強大に成と云ども、鎌倉に猶東八箇国の勢馳集て、雲霞の如なりと聞ければ、武蔵の府に五箇日逗留して、窃に鎌倉の様をぞ伺ひきゝ給ける。かゝる処に、宇都宮左少将公綱、紀清両党千余騎にて国司に馳加る。然共、芳賀兵衛入道禅可一人は国司に属せず。公綱が子息加賀寿丸を大将として、尚当国宇都宮の城に楯篭る。これに依て国司、伊達・信夫の兵二万余騎を差遣て、宇都宮の城を責らるゝに、禅可三日が中に攻落れて降参したりけるが、四五日を経て後又将軍方にぞ馳付ける。此時に先亡の余類相摸次郎時行も、已に吉野殿より勅免を蒙てければ、伊豆国より起て、五千余騎足柄・箱根に陣を取て、相共に鎌倉を責べき由を国司の方へ牒せらる。又新田左中将義貞の次男徳寿丸、上野国より起て、二万余騎武蔵国へ打越て、入間河にて著到を付け、国司の合戦若延引せば、自余の勢を待ずして鎌倉を責べしとぞ相謀ける。鎌倉には上杉民部大夫・同中務大夫・志和三郎・桃井播磨守・高大和守以下宗との一族大名数十人、大将足利左馬頭義詮の御前に参て、評定ありけるは、「利根川の合戦の後、御方は気を失て大半は落散候、御敵は勢に乗て、弥猛勢に成候ぬ。今は重て戦共勝事を得難し。只安房・上総へ引退て、東八箇国の勢何方へか付と見て、時の反違に随ひ、軍の安否を計て戦ふべきか。」と、延々としたる評定のみ有て、誠に冷しく聞へたる義勢は更になかりけり。


175 追奥勢跡道々合戦事

大将左馬頭殿は其比纔に十一歳也。未思慮あるべき程にてもをはせざりけるが、つく/゛\と此評定を聞給て、「抑是は面々の異見共覚へぬ事哉、軍をする程にては一方負ぬ事あるべからず。漫に怖ば軍をせぬ者にてこそあらめ。苟も義詮東国の管領として、たま/\鎌倉にありながら、敵大勢なればとて、爰にて一軍もせざらんは、後難遁れがたくして、敵の欺ん事尤当然也。されば縦御方小勢なりとも、敵寄来らば馳向て戦はんに、叶はずは討死すべし。若又遁つべくは、一方打破て、安房・上総の方へも引退て、敵の後に随て上洛し、宇治・勢多にて前後より責たらんに、などか敵を亡さゞらん。」と謀濃に義に当て宣ければ、勇将猛卒均く此一言に励されて、「さては討死するより外の事なし。」と、一偏に思切て鎌倉中に楯篭る。其勢一万余騎には過ざりけり。是を聞て国司・新田徳寿丸・相摸次郎時行・宇都宮の紀清両党、彼此都合十万余騎、十二月二十八日に、諸方皆牒合て、鎌倉へとぞ寄たりける。鎌倉には敵の様を聞て、とても勝べき軍ならずと、一筋に皆思切たりければ、城を堅し塁を深くする謀をも事とせず、一万余騎を四手に分て、道々に出合、懸合々々一日支て、各身命を惜まず戦ける程に、一方の大将に向はれける志和三郎杉下にて討れにければ、此陣より軍破て寄手谷々に乱入る。寄手三方を囲て御方一処に集しかば、打るゝ者は多して戦兵は少。かくては始終叶べしとも見へざりければ、大将左馬頭殿を具足し奉て、高・上杉・桃井以下の人々、皆思々に成てぞ落られける。かゝりし後は、東国の勢宮方に随付事雲霞の如し。今は鎌倉に逗留して、何の用かあるべきとて、国司顕家卿以下、正月八日鎌倉を立て、夜を日についで上洛し給へば、其勢都合五十万騎、前後五日路左右四五里を押て通るに、元来無慚無愧の夷共なれば、路次の民屋を追捕し、神社仏閣を焼払ふ。総此勢の打過ける跡、塵を払て海道二三里が間には、在家の一宇も残らず草木の一本も無りけり。前陣已に尾張の熱田に著ければ、摂津大宮司入道源雄、五百余騎にて馳付、同日美濃の根尾・徳山より堀口美濃守貞満、千余騎にて馳加る。今は是より京までの道に、誰ありとも此勢を聊も支んとする者は有がたしとぞ見へたりける。爰に鎌倉の軍に打負て、方々へ落られたりける上杉民部大輔・舎弟宮内少輔は、相摸国より起り、桃井播磨守直常は、箱根より打出、高駿河守は安房・上総より鎌倉へ押渡り、武蔵・相摸の勢を催るゝに、所存有て国司の方へは付ざりつる江戸・葛西・三浦・鎌倉・坂東の八平氏・武蔵の七党、三万余騎にて馳来る。又清の党旗頭、芳賀兵衛入道禅可も、元来将軍方に志有ければ、紀清両党が国司に属して上洛しつる時は、虚病して国に留たりけるが、清の党千余騎を率して馳加る。此勢又五万余騎国司の跡を追て、先陣已に遠江に著ば、其国の守護今河五郎入道、二千余騎にて馳加る。中一日ありて三河国に著ば、当国守護高尾張守、六千余騎にて馳加る。又美濃の州俣へ著ば、土岐弾正少弼頼遠、七百余騎にて馳加る。国司の勢六十万騎前を急て、将軍を討奉らんと上洛すれば、高・上杉・桃井が勢は八万余騎、国司を討んと跡に付て追て行。「蟷螂蝉をうかゞへば、野鳥蟷螂を窺ふ。」と云荘子が人間世のたとへ、げにもと思ひ知れたり。


176 青野原軍事付嚢沙背水事

坂東よりの後攻の勢、美濃国に著て評定しけるは、「将軍は定て宇治・勢多の橋を引て、御支あらんずらん。去程ならば国司の勢河を渡しかねて、徒に日を送べし。其時御方の勢労兵の弊に乗て、国司の勢を前後より攻んに、勝事を立ろに得つべし。」と申合れけるを、土岐頼遠黙然として耳を傾けゝるが、「抑目の前を打通る敵を、大勢なればとて、矢の一をも射ずして、徒に後日の弊に乗ん事を待ん事は、只楚の宋義が「蚊を殺には其馬を撃ず。」と云しに似たるべし。天下の人口只此一挙に有べし。所詮自余の御事は知ず、頼遠に於ては命を際の一合戦して、義にさらせる尸を九原の苔に留むべし。」と、又余儀もなく申されければ、桃井播磨守、「某も如此存候。面々はいかに。」と申されければ、諸大将皆理に服して、悉此儀にぞ同じける。去程に奥勢の先陣、既垂井・赤坂辺に著たりけるが、跡より上る後攻の勢近づきぬと聞へければ、先其敵を退治せよとて、又三里引返して、美濃・尾張両国の間に陣を取らずと云処なし。後攻の勢は八万余騎を五手に分、前後を鬮に取たりければ、先一番に小笠原信濃守・芳賀清兵衛入道禅可二千余騎にて志貴の渡へ馳向ば、奥勢の伊達・信夫の兵共、三千余騎にて河を渡てかゝりけるに、芳賀・小笠原散々に懸立られて、残少に討れにけり。二番に高大和守三千余騎にて、州俣河を渡る所に、渡しも立ず、相摸次郎時行五千余騎にて乱合、互に笠符をしるべにて組で落、々重て頚を取り、半時ばかり戦たるに、大和守が憑切たる兵三百余人討れにければ、東西に散靡て山を便に引退く。三番に今河五郎入道・三浦新介、阿字賀に打出て、横逢に懸る所を、南部・下山・結城入道、一万余騎にて懸合、火出程に戦たり。今河・三浦元来小勢なれば、打負て河より東へ引退く。四番に上杉民部大輔・同宮内小輔、武蔵・上野の勢一万余騎を率して、青野原に打出たり。爰には新田徳寿丸・宇都宮の紀清両党三万余騎にて相向ふ。両陣の旗の紋皆知りたる兵共なれば、後の嘲をや恥たりけん、互に一足も引ず、命を涯に相戦ふ。毘嵐断て大地忽に無間獄に堕、水輪涌て世界こと/゛\く有頂天に翻へらんも、かくやと覚るばかり也。され共大敵とりひしくに難ければ、上杉遂に打負て、右往左往に落て行。五番に桃井播磨守直常・土岐弾正少弼頼遠、態と鋭卒をすぐつて、一千余騎渺々たる青野原に打出て、敵を西北に請てひかへたり。是には奥州の国司鎮守府将軍顕家卿・副将軍春日少将顕信、出羽・奥州の勢六万余騎を率して相向ふ。敵に御方を見合すれば、千騎に一騎を合すとも、猶当るに足ずと見ける処に、土岐と桃井と、少も機を呑れず、前に恐べき敵なく、後に退くべき心有とも見へざりけり。時の声を挙る程こそ有けれ、千余騎只一手に成て、大勢の中に颯と懸入、半時計戦て、つと懸ぬけて其勢を見れば、三百余騎は討れにけり。相残勢七百余騎を又一手に束ねて、副将軍春日少将のひかへたる二万余騎が中へ懸入て、東へ追靡、南へ懸散し、汗馬の足を休めず、太刀の鐔音止時なく、や声を出てぞ戦合たる。千騎が一騎に成までも、引な引なと互に気を励して、こゝを先途と戦けれ共、敵雲霞の如くなれば、こゝに囲れ彼に取篭られて、勢もつき気も屈しければ、七百余騎の勢も、纔に二十三騎に打成され、土岐は左の目の下より右の口脇・鼻まで、鋒深に切付られて、長森の城へ引篭る。桃井も三十余箇度の懸合に七十六騎に打成され、馬の三図・平頚二太刀切れ、草摺のはづれ三所つかれて、余に戦疲ければ、「此軍是に限るまじ、いざや人々馬の足休ん。」と、州俣河に馬を追漬て、太刀・長刀の血を洗て、日も暮れば野に下居て、終に河より東へは越給はず。京都には奥勢上洛の由、先立て聞へけれ共、土岐美濃国にあれば、さりとも一支は支へんずらんと、憑敷思はれける処に、頼遠既に青野原の合戦に打負て、行方知らずとも聞へ、又は討れたり共披露ありければ、洛中の周章斜ならず。さらば宇治・勢多の橋を引てや相待つ。不然ば先西国の方へ引退て、四国・九州の勢を付て、却て敵をや攻べきと異議まち/\に分て、評定未落居せざりけるに、越後守師泰且く思案して申されけるは、「古より今に至まで、都へ敵の寄来る時、宇治・勢多の橋を曳て戦事度々也。然れ共此河にて敵を支て、都を落されずと云事なし。寄る者は広く万国を御方にして威に乗り、防ぐ者は纔に洛中を管領して気を失故也。不吉の例を逐て、忝く宇治・勢多の橋を引、大敵を帝都の辺にて相待んよりは、兵勝の利に付て急近江・美濃辺に馳向ひ、戦を王城の外に決せんには如じ。」と、勇み其気に顕れ謀其理に協て申されければ、将軍も師直も、「此儀然べし。」とぞ甘心せられける。「さらば時刻をうつさず向へ。」とて、大将軍には高越後守師泰・同播磨守師冬・細川刑部大輔頼春・佐々木大夫判官氏頼・佐々木佐渡判官入道々誉・子息近江守秀綱、此外諸国の大名五十三人都合其勢一万余騎、二月四日都を立、同六日の早旦に、近江と美濃との堺なる黒地河に著にけり。奥勢も垂井・赤坂に著ぬと聞へければ、こゝにて相まつべしとて、前には関の藤川を隔、後には黒地川をあてゝ、其際に陣をぞ取たりける。抑古より今に至まで、勇士猛将の陣を取て敵を待には、後は山により、前は水を堺ふ事にてこそあるに、今大河を後に当て陣を取れける事は又一の兵法なるべし。昔漢の高祖と楚の項羽と天下を争事八箇年が際戦事休ざりけるに、或時高祖軍に負て逃る事三十里、討残されたる兵を数るに三千余騎にも足ざりけり。項羽四十余万騎を以て是を追けるが、其日既に暮ぬ。夜明ば漢の陣へ押寄て、高祖を一時に亡さん事隻手の内に在とぞ勇みける。爰に高祖の臣に韓信と云ける兵を大将に成して、陣を取らせけるに、韓信態と後に大河を当て橋を焼落し、舟を打破てぞ棄たりける。是は兎ても遁るまじき所を知て、士卒一引も引心なく皆討死せよと、しめさん為の謀也。夜明ければ、項羽の兵四十万騎にて押寄、敵を小勢也と侮て戦を即時に決せんとす。其勢参然として左右を不顧懸けるを、韓信が兵三千余騎、一足も引ず死を争て戦ける程に、項羽忽に討負て、討るゝ兵二十万人、逃るを追事五十余里なり。沼を堺ひ沢を隔て、こゝまでは敵よも懸る事得じと、橋を引てぞ居りける。漢の兵勝に乗て今夜軈て項羽の陣へ寄んとしけるに、韓信兵共を集て申けるは、「我思様あり。汝等皆持所の兵粮を捨てゝ、其袋に砂を入て持べし。」とぞ下知しける。兵皆心得ぬ事哉と思ながら、大将の命に随て、士卒皆持所の粮を捨て、其袋に砂を入て、項羽が陣へぞ押寄たる。夜に入て項羽が陣の様を見るに、四方皆沼を堺ひ沢を隔て馬の足も立ず、渡るべき様なき所にぞ陣取たりける。此時に韓信持たる所の砂嚢を沢に投入々々、是を堤に成て其上を渡るに、深泥更に平地の如し。項羽の兵二十万騎終日の軍には疲れぬ。爰までは敵よすべき道なしと油断して、帯紐とひてねたる処に、高祖の兵七千余騎時を咄と作て押寄たれば、一戦にも及ばず、項羽の兵十万余騎、皆河水にをぼれて討れにけり。是を名付て韓信が嚢砂背水の謀とは申也。今師泰・師冬・頼春が敵を大勢也と聞て、態水沢を後に成て、関の藤川に陣を取けるも、専士卒心を一にして、再び韓信が謀を示す者なるべし。去程に国司の勢十万騎、垂井・赤坂・青野原に充満して、東西六里南北三里に陣を張る。夜々の篝を見渡せば、一天の星計落て欄干たるに異ならず。此時越前国に、新田義貞・義助、北陸道を順て、天を幹らし地を略する勢ひ専昌也。奥勢若黒地の陣を払ん事難儀ならば、北近江より越前へ打越て、義貞朝臣と一つになり、比叡山に攀上り、洛中を脚下に直下して南方の官軍と牒し合せ、東西より是攻めば、将軍京都には一日も堪忍し給はじと覚しを、顕家卿、我大功義貞の忠に成んずる事を猜で、北国へも引合ず、黒地をも破りえず、俄に士卒を引て伊勢より吉野へぞ廻られける。さてこそ日来は鬼神の如くに聞へし奥勢、黒地をだにも破えず、まして後攻の東国勢京都に著なば、恐るゝに足ざる敵也とぞ、京勢には思ひ劣されける。顕家卿南都に著て、且く汗馬の足を休て、諸卒に向て合戦の異見を問給ひければ、白河の結城入道進て申けるは、「今度於路次、度々の合戦に討勝、所々の強敵を追散し、上洛の道を開といへども、青野原の合戦に、聊利を失ふに依て、黒地の橋をも渡り得ず、此侭吉野殿へ参らん事、余に云甲斐なく覚へ候。只此御勢を以て都へ攻上、朝敵を一時に追落す歟、もし不然ば、尸を王城の土に埋み候はんこそ本意にて候へ。」と、誠に無予義申けり。顕家卿も、此義げにもと甘心せられしかば、頓て京都へ攻上給はんとの企なり。其聞へ京都に無隠しかば、将軍大に驚給て、急ぎ南都へ大勢を差下し、「顕家卿を遮り留むべし。」とて討手の評定ありしかども、我れ向んと云人無りけり。角ては如何と、両将其器を撰び給ひけるに、師直被申けるは、「何としても此大敵を拉がん事は、桃井兄弟にまさる事あらじと存候。其故は自鎌倉退て経長途を、所々にして戦候しに、毎度此兵どもに手痛く当りて、気を失ひ付たる者共なり。其臆病神の醒めぬ先に、桃井馳向て、南都の陣を追落さん事、案の内に候。」と被申しかば、「さらば。」とて、頓て師直を御使にて桃井兄弟に此由を被仰しかば、直信・直常、子細を申に及ばずとて、其日頓て打立て、南都へぞ進発せられける。顕家卿是を聞て、般若坂に一陣を張、都よりの敵に相当る。桃井直常兵の先に進んで、「今度諸人の辞退する討手を我等兄弟ならでは不可叶とて、其撰に相当る事、且は弓矢の眉目也。此一戦に利を失はゞ、度々の高名皆泥土にまみれぬべし。志を一に励して、一陣を先攻破れや。」と下知せられしかば、曾我左衛門尉を始として、究竟の兵七百余騎身命を捨て切て入る。顕家卿の兵も、爰を先途と支戦しかども、長途の疲れ武者何かは叶ふべき。一陣・二陣あらけ破て、数万騎の兵ども、思々にぞ成にける。顕家卿も同く在所をしらず成給ぬと聞へしかば、直信・直常兄弟は、大軍を容易追散し、其身は無恙都へ帰上られけり。されば戦功は万人の上に立、抽賞は諸卒の望を塞がんと、独ゑみして待居給たりしかども、更に其功其賞に不中しかば、桃井兄弟は万づ世間を述懐して、天下の大変を憑にかけてぞ待れける。懸る処に、顕家卿舎弟春日少将顕信朝臣、今度南都を落し敗軍を集め、和泉の境に打出て近隣を犯奪、頓て八幡山に陣を取て、勢ひ京洛を呑。依之京都又騒動して、急ぎ討手の大将を差向べしとて厳命を被下しかども、軍忠異于他桃井兄弟だにも抽賞の儀もなし。況て其已下の者はさこそ有んずらんとて、曾て進む兵更に無りける間、角ては叶まじとて、師直一家を尽して打立給ける間、諸軍勢是に驚て我も我もと馳下る。されば其勢雲霞の如にて、八幡山の下四方に尺地も不残充満たり。されども要害の堀稠して、猛卒悉く志を同して楯篭たる事なれば、寄手毎度戦に利を失ふと聞へしかば、桃井兄弟の人々、我身を省みて、今度の催促にも不応、都に残留られたりけるが、高家氏族を尽し大家軍兵を起すと云ども、合戦利を失と聞て、余所には如何見て過べき。述懐は私事、弓矢の道は公界の義、遁れぬ所也とて、偸かに都を打立て手勢計を引率し、御方の大勢にも不牒合、自身山下に推寄せ、一日一夜攻戦ふ。是にして官軍も若干討れ疵を被りける。直信・直常の兵ども、残少に手負討れて、御方の陣へ引て加る。此比の京童部が桃井塚と名づけたるは、兄弟合戦の在所也。是を始として厚東駿河守・大平孫太郎・和田近江守自戦て疵を被り、数輩の若党を討せ、日夜旦暮相挑。かゝる処に、執事師直所々の軍兵を招き集め、「和泉の堺河内は故敵国なれば、さらでだに、恐懼する処に、強敵其中に起ぬれば、和田・楠も力を合すべし。未微〔な〕るに乗て早速に退治すべし。」とて、八幡には大勢を差向て、敵の打て出ぬ様に四方を囲め、師直は天王寺へぞ被向ける。顕家卿の官軍共、疲れて而も小勢なれば、身命を棄て支戦ふといへども、軍無利して諸卒散々に成しかば、顕家卿立足もなく成給て、芳野へ参らんと志し、僅に二十余騎にて、大敵の囲を出んと、自破利砕堅給ふといへども、其戦功徒にして、五月二十二日和泉の堺安部野にて討死し給ければ、相従ふ兵悉く腹切疵を被て、一人も不残失にけり。顕家卿をば武蔵国の越生四郎左衛門尉奉討しかば、頚をば丹後国の住人武藤右京進政清是を取て、甲・太刀・々まで進覧したりければ、師直是を実検して、疑ふ所無りしかば、抽賞御感の御教書を両人にぞ被下ける。哀哉、顕家卿は武略智謀其家にあらずといへども、無双の勇将にして、鎮守府将軍に任じ奥州の大軍を両度まで起て、尊氏卿を九州の遠境に追下し、君の震襟を快く奉休られし其誉れ、天下の官軍に先立て争ふ輩無りしに、聖運天に不叶、武徳時至りぬる其謂にや、股肱の重臣あへなく戦場の草の露と消給しかば、南都侍臣・官軍も、聞て力をぞ失ける。