太平記/巻第五
巻第五
31 持明院殿御即位事
元弘二年三月二十二日に、後伏見院第一御子、御年十九にして、天子の位に即せ給ふ。御母は竹内左大臣公衡の御娘、後には広義門院と申し御事也。同年十月二十八日に、河原の御禊あて、十一月十三日に大嘗会を被遂行。関白は鷹司の左大臣冬教公、別当は日野中納言資名卿にてぞをはしける。いつしか当今奉公の人々は、皆一時に望を達して門前市を成し、堂上花の如し。中にも梶井二品親王は、天台座主に成せ給て、大塔・梨本の両門迹を合せて、御管領有しかば、御門徒の大衆群集して、御拝堂の儀式厳重也。加之御室の二品親王法守、仁和寺の御門迹に御移有て、東寺一流の法水を湛へて、北極万歳の聖運を祈り給ふ。是皆後伏見院の御子、今上皇帝の御連枝也。
32 宣房卿二君奉公事
万里小路大納言宣房卿は、元来前朝旧労の寵臣にてをはせし上、子息藤房・季房二人笠置の城にて被生捕て、被処遠流しかば、父の卿も罪科深き人にて有べかりしを、賢才の聞へ有とて、関東以別儀其罪を宥め、当今に可被召仕之由奏し申す。依之日野中納言資明卿を勅使にて、此旨を被仰下ければ、宣房卿勅使に対して被申けるは、「臣雖不肖之身、以多年奉公之労蒙君恩寵、官禄共に進、剰汚政道輔佐之名。「事君之礼、値其有罪、犯厳顔、以道諌諍、三諌不納奉身以退、有匡正之忠無阿順之従、是良臣之節也。若見可諌而不諌、謂之尸位。見可退而不退、謂之懐寵。々々尸位国之奸人也。」と云り。君今不義の行をはして、為武臣被辱給へり。是臣が予依不知処雖不献諌言世人豈其無罪許哉。就中長子二人被処遠流之罪。我已七旬の齢に傾けり。後栄為誰にか期せん。前非何又恥ざらんや。二君の朝に仕て辱を衰老の後に抱かんよりは、伯夷が行を学て飢を首陽の下に忍ばんには不如。」と、涙を流て宣ひければ、資明卿感涙を押へ兼て暫は言をも宣はず。良有て宣ひけるは、「「忠臣不必択主、見仕而可治而已也。」といへり。去ば百里奚は二仕秦穆公永令致覇業、管夷吾翻佐斉桓公、九令朝諸侯。主無以道射鉤之罪、世不皆奈鬻皮之恥といへり。就中武家如此許容の上は、賢息二人の流罪争無赦免御沙汰乎、夫伯夷・叔斉飢て何の益か有し。許由・巣父遁て不足用。抑隠身永断来葉之一跡、与仕朝遠耀前祖之無窮、是非得失有何処乎。与鳥獣同群孔子所不執也。」資明卿理を尽して被責ければ。宣房卿顔色誠に屈伏して、「「以罪棄生、則違古賢夕改之勧、忍垢苟全則犯詩人胡顔之譏」と、魏の曹子建が詩を献ぜし表に書たりしも、理とこそ存ずれ。」とて、遂に参仕の勅答をぞ被申ける。
33 中堂新常灯消事
其比都鄙の間に、希代の不思議共多かりけり。山門の根本中堂の内陣へ山鳩一番飛来て、新常灯の油錠の中に飛入て、ふためきける間、灯明忽に消にけり。此山鳩、堂中の闇さに行方に迷ふて、仏壇の上に翅を低て居たりける処に、承塵の方より、其色朱を指たる如くなる鼠狼一つ走り出で、此鳩を二つながら食殺てぞ失にけり。抑此常灯と申は、先帝山門へ臨幸成たりし時、古桓武皇帝の自ら挑させ給し常燈に準へて、御手づから百二十筋の燈心を束ね、銀の御錠に油を入て、自掻立させ給し燈明也。是偏に皇統の無窮を耀さん為の御願、兼ては六趣の群類の暝闇を照す、慧光法燈の明なるに、思食準へて被始置し常燈なれば、未来永劫に至迄消る事なかるべきに、鴿鳩の飛来て打消けるこそ不思議なれ。其を玄獺の食殺しけるも不思議也。
34 相摸入道弄田楽並闘犬事
又其比洛中に田楽を弄事昌にして、貴賎挙て是に着せり。相摸入道此事を聞及び、新座・本座の田楽を呼下して、日夜朝暮に弄事無他事。入興の余に、宗との大名達に田楽法師を一人づゝ預て装束を飾らせける間、是は誰がし殿の田楽、彼何がし殿の田楽なんど云て、金銀珠玉を逞し綾羅錦繍を妝れり。宴に臨で一曲を奏すれば、相摸入道を始として一族大名我劣らじと直垂・大口を解で抛出す。是を集て積に山の如し。其弊へ幾千万と云数を不知。或夜一献の有けるに、相摸入道数盃を傾け、酔に和して立て舞事良久し。若輩の興を勧る舞にてもなし。又狂者の言を巧にする戯にも非ず。四十有余の古入道、酔狂の余に舞ふ舞なれば、風情可有共覚ざりける処に、何くより来とも知ぬ、新坐・本座の田楽共十余人、忽然として坐席に列てぞ舞歌ひける。其興甚尋常に越たり。暫有て拍子を替て歌ふ声を聞けば、「天王寺のやようれぼしを見ばや。」とぞ拍子ける。或官女此声を聞て、余の面白さに障子の隙より是を見るに、新坐・本座の田楽共と見へつる者一人も人にては無りけり。或觜勾て鵄の如くなるもあり、或は身に翅在て其形山伏の如くなるもあり。異類異形の媚者共が姿を人に変じたるにてぞ有ける。官女是を見て余りに不思議に覚ければ、人を走らかして城入道にぞ告たりける。入道取物も取敢ず、太刀を執て其酒宴の席に臨む。中門を荒らかに歩ける跫を聞て、化物は掻消様に失せ、相摸入道は前後も不知酔伏たり。燈を挑させて遊宴の座席を見るに、誠に天狗の集りけるよと覚て、踏汚したる畳の上に禽獣の足迹多し。城入道、暫く虚空を睨で立たれ共、敢て眼に遮る者もなし。良久して、相摸入道驚覚て起たれ共、惘然として更に所知なし。後日に南家の儒者刑部少輔仲範、此事を伝聞て、「天下将乱時、妖霊星と云悪星下て災を成すといへり。而も天王寺は是仏法最初の霊地にて、聖徳太子自日本一州の未来記を留給へり。されば彼媚者が天王寺の妖霊星と歌ひけるこそ怪しけれ。如何様天王寺辺より天下の動乱出来て、国家敗亡しぬと覚ゆ。哀国主徳を治め、武家仁を施して消妖謀を被致よかし。」と云けるが、果して思知るゝ世に成にけり。彼仲範実に未然の凶を鑒ける博覧の程こそ難有けれ。相摸入道懸る妖怪にも不驚、益々奇物を愛する事止時なし。或時庭前に犬共集て、噛合ひけるを見て、此禅門面白き事に思て、是を愛する事骨髄に入れり。則諸国へ相触て、或は正税・官物に募りて犬を尋、或は権門高家に仰て是を求ける間、国々の守護国司、所々の一族大名、十疋二十疋飼立て、鎌倉へ引進す。是を飼に魚鳥を以てし、是を維ぐに金銀を鏤む。其弊甚多し。輿にのせて路次を過る日は、道を急ぐ行人も馬より下て是に跪き、農を勤る里民も、夫に被取て是を舁、如此賞翫不軽ければ、肉に飽き錦を着たる奇犬、鎌倉中に充満して四五千疋に及べり。月に十二度犬合せの日とて被定しかば、一族大名御内外様の人々、或は堂上に坐を列ね、或庭前に膝を屈して見物す。于時両陣の犬共を、一二百疋充放し合せたりければ、入り違ひ追合て、上に成下に成、噛合声天を響し地を動す。心なき人は是を見て、あら面白や、只戦に雌雄を決するに不異と思ひ、智ある人は是を聞て、あな忌々しや、偏に郊原に尸を争ふに似たりと悲めり。見聞の准ふる処、耳目雖異、其前相皆闘諍死亡の中に存て、浅猿しかりし挙動なり。
35 時政参篭榎嶋事
時已に澆季に及で、武家天下の権を執る事、源平両家の間に落て度々に及べり。然ども天道必盈を虧故に、或は一代にして滅び、或は一世をも不待して失ぬ。今相摸入道の一家、天下を保つ事已に九代に及ぶ。此事有故。昔鎌倉草創の始、北条四郎時政榎嶋に参篭して、子孫の繁昌を祈けり。三七日に当りける夜、赤き袴に柳裏の衣着たる女房の、端厳美麗なるが、忽然として時政が前に来て告て曰、「汝が前生は箱根法師也。六十六部の法華経を書冩して、六十六箇国の霊地に奉納したりし善根に依て、再び此土に生る事を得たり。去ば子孫永く日本の主と成て、栄花に可誇。但其挙動違所あらば、七代を不可過。吾所言不審あらば、国々に納し所の霊地を見よ。」と云捨て帰給ふ。其姿をみければ、さしも厳しかりつる女房、忽に伏長二十丈許の大蛇と成て、海中に入にけり。其迹を見に、大なる鱗を三つ落せり。時政所願成就しぬと喜て、則彼鱗を取て、旗の文にぞ押たりける。今の三鱗形の文是也。其後弁才天の御示現に任て、国々の霊地へ人を遣して、法華経奉納の所を見せけるに、俗名の時政を法師の名に替て、奉納筒の上に大法師時政と書たるこそ不思議なれ。されば今相摸入道七代に過て一天下を保けるも、江嶋の弁才天の御利生、又は過去の善因に感じてげる故也。今の高時禅門、已に七代を過、九代に及べり。されば可亡時刻到来して、斯る不思議の振舞をもせられける歟とぞ覚ける。
36 大塔宮熊野落事
大塔二品親王は、笠置の城の安否を被聞食為に、暫く南都の般若寺に忍て御座有けるが、笠置の城已に落て、主上被囚させ給ぬと聞へしかば、虎の尾を履恐れ御身の上に迫て、天地雖広御身を可被蔵所なし。日月雖明長夜に迷へる心地して、昼は野原の草に隠れて、露に臥鶉の床に御涙を争ひ、夜は孤村の辻に彳て、人を尤むる里の犬に御心を被悩、何くとても御心安かるべき所無りければ、角ても暫はと被思食ける処に、一乗院の候人按察法眼好専、如何して聞たりけん、五百余騎を率して、未明に般若寺へぞ寄たりける。折節宮に奉付たる人独も無りければ一防ぎ防て落させ可給様も無りける上、透間もなく兵既に寺内に打入たれば、紛れて御出あるべき方もなし。さらばよし自害せんと思食て、既に推膚脱せ給たりけるが、事叶はざらん期に臨で、腹を切らん事は最可安。若やと隠れて見ばやと思食返して、仏殿の方を御覧ずるに、人の読懸て置たる大般若の唐櫃三あり。二の櫃は未開蓋を、一の櫃は御経を半ばすぎ取出して蓋をもせざりけり。此蓋を開たる櫃の中へ、御身を縮めて臥させ給ひ、其上に御経を引かづきて、隠形の呪を御心の中に唱てぞ坐しける。若捜し被出ば、頓て突立んと思召て氷の如くなる刀を抜て、御腹に指当て、兵、「此にこそ。」と云んずる一言を待せ給ける御心の中、推量るも尚可浅。去程に兵仏殿に乱入て、仏壇の下天井の上迄も無残所捜しけるが、余りに求かねて、「是体の物こそ怪しけれ。あの大般若の櫃を開見よ。」とて、蓋したる櫃二を開て、御経を取出し、底を翻して見けれどもをはせず。蓋開たる櫃は見るまでも無とて、兵皆寺中を出去ぬ。宮は不思議の御命を続せ給ひ、夢に道行心地して、猶櫃の中に座しけるが、若兵又立帰り、委く捜す事もや有んずらんと御思案有て、頓て前に兵の捜し見たりつる櫃に、入替らせ給てぞ座しける。案の如く兵共又仏殿に立帰り、「前に蓋の開たるを見ざりつるが無覚束。」とて、御経を皆打移して見けるが、から/\と打笑て、「大般若の櫃の中を能々捜したれば、大塔宮はいらせ給はで、大唐の玄弉三蔵こそ坐しけれ。」と戯れければ、兵皆一同に笑て門外へぞ出にける。是偏に摩利支天の冥応、又は十六善神の擁護に依る命也。と、信心肝に銘じ感涙御袖を湿せり。角ては南都辺の御隠家暫も難叶ければ、則般若寺を御出在て、熊野の方へぞ落させ給ける。御供の衆には、光林房玄尊・赤松律師則祐・木寺相摸・岡本三河房・武蔵房・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎、彼此以上九人也。宮を始奉て、御供の者迄も皆柿の衣に笈を掛け、頭巾眉半に責め、其中に年長ぜるを先達に作立、田舎山伏の熊野参詣する体にぞ見せたりける。此君元より龍楼鳳闕の内に長とならせ給て、華軒香車の外を出させ給はぬ御事なれば、御歩行の長途は定て叶はせ給はじと、御伴の人々兼ては心苦しく思けるに、案に相違して、いつ習はせ給ひたる御事ならねども怪しげなる単皮・脚巾・草鞋を召て、少しも草臥たる御気色もなく、社々の奉弊、宿々の御勤懈らせ給はざりければ、路次に行逢ひける道者も、勤修を積める先達も見尤る事も無りけり。由良湊を見渡せば、澳漕舟の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重とも、しらぬ浪路に鳴千鳥、紀伊の路の遠山眇々と、藤代の松に掛れる磯の浪、和歌・吹上を外に見て、月に瑩ける玉津島、光も今はさらでだに、長汀曲浦の旅の路、心を砕く習なるに、雨を含める孤村の樹、夕を送る遠寺の鐘、哀を催す時しもあれ、切目の王子に着給ふ。其夜は叢祠の露に御袖を片敷て、通夜祈申させ給けるは、南無帰命頂礼三所権現・満山護法・十万の眷属・八万の金剛童子、垂迹和光の月明かに分段同居の闇を照さば、逆臣忽に亡びて朝廷再耀く事を令得給へ。伝承る、両所権現は是伊弉諾・伊弉冉の応作也。我君其苗裔として朝日忽に浮雲の為に被隠て冥闇たり。豈不傷哉。玄鑒今似空。神若神たらば、君盍為君と、五体を地に投て一心に誠を致てぞ祈申させ給ける。丹誠無二の御勤、感応などかあらざらんと、神慮も暗に被計たり。終夜の礼拝に御窮屈有ければ、御肱を曲て枕として暫御目睡在ける御夢に、鬟結たる童子一人来て、「熊野三山の間は尚も人の心不和にして大儀成難し。是より十津川の方へ御渡候て時の至んを御待候へかし。両所権現より案内者に被付進て候へば御道指南可仕候。」と申すと被御覧御夢は則覚にけり。是権現の御告也。けりと憑敷被思召ければ、未明に御悦の奉弊を捧げ、頓て十津河を尋てぞ分入らせ給ける。其道の程三十余里が間には絶て人里も無りければ、或は高峯の雲に枕を峙て苔の筵に袖を敷、或は岩漏水に渇を忍んで朽たる橋に肝を消す。山路本より雨無して、空翠常に衣を湿す。向上れば万仞の青壁刀に削り、直下ば千丈の碧潭藍に染めり。数日の間斯る嶮難を経させ給へば、御身も草臥はてゝ流るゝ汗如水。御足は欠損じて草鞋皆血に染れり。御伴の人々も皆其身鉄石にあらざれば、皆飢疲れてはか/゛\敷も歩得ざりけれ共、御腰を推御手を挽て、路の程十三日に十津河へぞ着せ給ひける。宮をばとある辻堂の内に奉置て、御供の人々は在家に行て、熊野参詣の山伏共道に迷て来れる由を云ければ、在家の者共哀を垂て、粟の飯橡の粥など取出して其飢を相助く。宮にも此等を進せて二三日は過けり。角ては始終如何可在とも覚へざりければ、光林房玄尊、とある在家の是ぞさもある人の家なるらんと覚しき所に行て、童部の出たるに家主の名を問へば、「是は竹原八郎入道殿の甥に、戸野兵衛殿と申人の許にて候。」と云ければ、さては是こそ、弓矢取てさる者と聞及ぶ者なれ、如何にもして是を憑まばやと思ければ、門の内へ入て事の様を見聞処に、内に病者有と覚て、「哀れ貴からん山伏の出来れかし、祈らせ進らせん。」と云声しけり。玄尊すはや究竟の事こそあれと思ければ、声を高らかに揚て、「是は三重の滝に七日うたれ、那智に千日篭て三十三所の巡礼の為に、罷出たる山伏共、路蹈迷て此里に出て候。一夜の宿を借一日〔の〕飢をも休め給へ。」と云たりければ、内より怪しげなる下女一人出合ひ、「是こそ可然仏神の御計ひと覚て候へ。是の主の女房物怪を病せ給ひ候。祈てたばせ給てんや。」と申せば、玄尊、「我等は夫山伏にて候間叶ひ候まじ。あれに見へ候辻堂に、足を休て被居て候先達こそ、効験第一の人にて候へ。此様を申さんに子細候はじ。」と云ければ、女大に悦で、「さらば其先達の御房、是へ入進せさせ給へ。」と云て、喜あへる事無限。玄尊走帰て此由を申ければ、宮を始奉て、御供の人皆彼が館へ入せ給ふ。宮病者の伏たる所へ御入在て御加持あり。千手陀羅尼を二三反高らかに被遊て、御念珠を押揉ませ給ければ、病者自口走て、様々の事を云ける、誠に明王の縛に被掛たる体にて、足手を縮て戦き、五体に汗を流して、物怪則立去ぬれば、病者忽に平瘉す。主の夫不斜喜で、「我畜たる物候はねば、別の御引出物迄は叶候まじ。枉て十余日是に御逗留候て、御足を休めさせ給へ。例の山伏楚忽に忍で御逃候ぬと存候へば、恐ながら是を御質に玉らん。」とて、面々の笈共を取合て皆内にぞ置たりける。御供の人々、上には其気色を不顕といへ共、下には皆悦思へる事無限。角て十余日を過させ給けるに、或夜家主の兵衛尉、客殿に出て薪などせさせ、四方山の物語共しける次に申けるは、「旁は定て聞及ばせ給たる事も候覧。誠やらん、大塔宮、京都を落させ給て、熊野の方へ趣せ給候けんなる。三山の別当定遍僧都は無二武家方にて候へば、熊野辺に御忍あらん事は難成覚候。哀此里へ御入候へかし。所こそ分内は狭く候へ共、四方皆嶮岨にて十里二十里が中へは鳥も翔り難き所にて候。其上人の心不偽、弓矢を取事世に超たり。されば平家の嫡孫惟盛と申ける人も、我等が先祖を憑て此所に隠れ、遂に源氏の世に無恙候けるとこそ承候へ。」と語ければ、宮誠に嬉しげに思食たる御気色顕れて、「若大塔宮なんどの、此所へ御憑あて入せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」と問せ給へば、戸野兵衛、「申にや及び候。身不肖に候へ共、某一人だに斯る事ぞと申さば、鹿瀬・蕪坂・湯浅・阿瀬川・小原・芋瀬・中津川・吉野十八郷の者迄も、手刺者候まじきにて候。」とぞ申ける。其時宮、木寺相摸にきと御目合有ければ、相摸此兵衛が側に居寄て、「今は何をか隠し可申、あの先達の御房こそ、大塔宮にて御坐あれ。」と云ければ、此兵衛尚も不審気にて、彼此の顔をつく/゛\と守りけるに、片岡八郎・矢田彦七、「あら熱や。」とて、頭巾を脱で側に指置く。実の山伏ならねば、さかやきの迹隠なし。兵衛是を見て、「げにも山伏にては御座せざりけり。賢ぞ此事申出たりける。あな浅猿、此程の振舞さこそ尾篭に思召候つらん。」と以外に驚て、首を地に着手を束ね、畳より下に蹲踞せり。俄に黒木の御所を作て宮を守護し奉り、四方の山々に関を居、路を切塞で、用心密しくぞ見へたりける。是も猶大儀の計畧難叶とて、叔父竹原八郎入道に此由を語ければ、入道頓て戸野が語に随て、我館へ宮を入進らせ、無二の気色に見へければ、御心安く思召て、此に半年許御座有ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度に、御還俗の体に成せ給ければ、竹原八郎入道が息女を、夜るのをとゞへ被召て御覚異他なり。さてこそ家主の入道も弥志を傾け、近辺の郷民共も次第に帰伏申たる由にて、却て武家をば褊しけり。去程に熊野の別当定遍此事を聞て、十津河へ寄せんずる事は、縦十万騎の勢ありとも不可叶。只其辺の郷民共の欲心を勧て、宮を他所へ帯き出し奉らんと相計て、道路の辻に札を書て立けるは、「大塔宮を奉討たらん者には、非職凡下を不云、伊勢の車間庄を恩賞に可被充行由を、関東の御教書有之。其上に定遍先三日が中に六万貫を可与。御内伺候の人・御手の人を討たらん者には五百貫、降人に出たらん輩には三百貫、何れも其日の中に必沙汰し与べし。」と定て、奥に起請文の詞を載て、厳密の法をぞ出しける。夫移木の信は為堅約、献芹の賂は為奪志なれば、欲心強盛の八庄司共此札を見てければ、いつしか心変じ色替て、奇しき振舞共にぞ聞へける。宮「角ては此所の御止住、始終悪かりなん。吉野の方へも御出あらばや。」と被仰けるを、竹原入道、「如何なる事や候べき。」と強て留申ければ、彼が心を破られん事も、さすがに叶はせ給はで、恐懼の中に月日を送らせ給ける。結句竹原入道が子共さへ、父が命を背て、宮を討奉らんとする企在と聞しかば、宮潛に十津河も出させ給て、高野の方へぞ趣かせ給ひける。其路、小原・芋瀬・中津河と云敵陣の難所を経て通る路なれば、中々敵を打憑て見ばやと被思召、先芋瀬の庄司が許へ入せ給ひけり。芋瀬、宮をば我館へ入進らせずして、側なる御堂に置奉り、使者を以て申けるは、「三山別当定遍武命を含で、隠謀与党の輩をば、関東へ注進仕る事にて候へば、此道より無左右通し進らせん事、後の罪科陳謝するに不可有拠候、乍去宮を留進らせん事は其恐候へば、御伴の人々の中に名字さりぬべからんずる人を一両人賜て、武家へ召渡候歟、不然ば御紋の旗を給て、合戦仕て候つる支証是にて候と、武家へ可申にて候。此二つの間、何れも叶まじきとの御意にて候はゞ、無力一矢仕らんずるにて候。」と、誠に又予儀もなげにぞ申入たりける。宮は此事何れも難議也。と思召て、敢御返事も無りけるを、赤松律師則祐進み出て申けるは、「危きを見て命を致すは士卒の守る所に候。されば紀信は詐て敵に降り、魏豹は留て城を守る。是皆主の命に代りて、名を留めし者にて候はずや。兎ても角ても彼が所存解て、御所を通し可進にてだに候はゞ、則祐御大事に代て罷出候はん事は、子細有まじきにて候。」と申せば、平賀三郎是を聞て、「末坐の意見卒尓の議にて候へ共、此艱苦の中に付纏奉りたる人は、雖一人上の御為には、股肱耳目よりも難捨被思召候べし。就中芋瀬庄司が申所、げにも難被黙止候へば、其安きに就て御旗許を被下候はんに、何の煩か候べき。戦場に馬・物具を捨、太刀・刀を落して敵に被取事、さまでの恥ならず。只彼が申請る旨に任て、御旗を被下候へかし。」と申ければ、宮げにもと思召て、月日を金銀にて打て着たる錦の御旗を、芋瀬庄司にぞ被下ける。角て宮は遥に行過させ給ぬ。暫有て村上彦四郎義光、遥の迹にさがり、宮に追着進せんと急けるに、芋瀬庄司無端道にて行合ぬ。芋瀬が下人に持せたる旗を見れば、宮の御旗也。村上怪て事の様を問に、尓々の由を語る。村上、「こはそも何事ぞや。忝も四海の主にて御坐す天子の御子の、朝敵御追罰の為に、御門出ある路次に参り合て、汝等程の大凡下の奴原が、左様の事可仕様やある。」と云て、則御旗を引奪て取、剰旗持たる芋瀬が下人の大の男を掴で、四五丈許ぞ抛たりける。其怪力無比類にや怖たりけん。芋瀬庄司一言の返事もせざりければ、村上自御旗を肩に懸て、無程宮に〔奉〕追着。義光御前に跪て此様を申ければ、宮誠に嬉しげに打笑はせ給て、「則祐が忠は孟施舎が義を守り、平賀が智は陳丞相が謀を得、義光が勇は北宮黝が勢を凌げり。此三傑を以て、我盍治天下哉。」と被仰けるぞ忝き。其夜は椎柴垣の隙あらはなる山がつの庵に、御枕を傾けさせ給て、明れば小原へと志て、薪負たる山人の行逢たるに、道の様を御尋有けるに、心なき樵夫迄も、さすが見知進せてや在けん、薪を下し地に跪て、「是より小原へ御通り候はん道には、玉木庄司殿とて、無弐の武家方の人をはしまし候。此人を御語ひ候はでは、いくらの大勢にても其前をば御通り候ぬと不覚候。恐ある申事にて候へ共、先づ人を一二人御使に被遣候て、彼人の所存をも被聞召候へかし。」とぞ申ける。宮つく/゛\と聞召て、「芻蕘の詞迄も不捨」と云は是也。げにも樵夫が申処さもと覚るぞ。」とて、片岡八郎・矢田彦七二人を、玉置庄司が許へ被遣て、「此道を御通り有べし、道の警固に、木戸を開き、逆茂木を引のけさせよ。」とぞ被仰ける。玉置庄司御使に出合て、事の由を聞て、無返事にて内へ入けるが、軈て若党・中間共に物具させ、馬に鞍置、事の体躁しげに見へければ、二人の御使、「いや/\此事叶ふまじかりけり。さらば急ぎ走帰て、此由を申さん。」とて、足早に帰れば、玉置が若党共五六十人、取太刀許にて追懸たり。二人の者立留り、小松の二三本ありける陰より跳出で、真前に進だる武者の馬の諸膝薙で刎落させ、返す太刀にて頚打落して、仰たる太刀を押直してぞ立たりける。迹に続て追ける者共も、是を見て敢て近付者一人もなし、只遠矢に射すくめけれ、片岡八郎矢二筋被射付て、今は助り難と思ければ、「や殿、矢田殿、我はとても手負たれば、此にて打死せんずるぞ。御辺は急ぎ宮の御方へ走参て、此由を申て、一まども落し進せよ。」と、再往強て云ければ、矢田も一所にて打死せんと思けれども、げにも宮に告申さゞらんは、却て不忠なるべければ、無力只今打死する傍輩を見捨て帰りける心の中、被推量て哀也。矢田遥に行延て跡を顧れば、片岡八郎はや被討ぬと見へて、頚を太刀の鋒に貫て持たる人あり。矢田急ぎ走帰て此由を宮に申ければ、「さては遁れぬ道に行迫りぬ。運の窮達歎くに無詞。」とて、御伴の人々に至まで中々騒ぐ気色ぞ無りける。さればとて此に可留に非ず、行れんずる所まで行やとて、上下三十余人の兵共、宮を前に立進せて問々山路をぞ越行ける。既に中津河の峠を越んとし給ける所に、向の山の両の峯に玉置が勢と覚て、五六百人が程混冑に鎧て、楯を前に進め射手を左右へ分て、時の声をぞ揚たりける。宮是を御覧じて、玉顔殊に儼に打笑ませ給て、御手の者共に向て、「矢種の在んずる程は防矢を射よ、心静に自害して名を万代に可貽。但各相構て、吾より先に腹切事不可有。吾已に自害せば、面の皮を剥耳鼻を切て、誰が首とも見へぬ様にし成て捨べし。其故は我首を若獄門に懸て被曝なば、天下に御方の志を存ぜん者は力を失ひ、武家は弥所恐なかるべし。「死せる孔明生る仲達を走らしむ」と云事あり。されば死して後までも、威を天下に残すを以て良将とせり。今はとても遁れぬ所ぞ、相構て人々きたなびれて、敵に笑はるな。」と被仰ければ、御供の兵共、「何故か、きたなびれ候べき。」と申て、御前に立て、敵の大勢にて責上りける坂中の辺まで下向ふ。其勢僅三十二人、是皆一騎当千の兵とはいへ共、敵五百余騎に打合て、可戦様は無りけり。寄手は楯を雌羽につきしとうてかづき襄り、防ぐ兵は打物の鞘をはづして相懸りに近付所に、北の峯より赤旗三流、松の嵐に翻して、其勢六七百騎が程懸出たり。其勢次第に近付侭、三手に分て時の声を揚て、玉置庄司に相向ふ。真前に進だる武者大音声を揚て、「紀伊国の住人野長瀬六郎・同七郎、其勢三千余騎にて大塔宮の御迎に参る所に、忝も此君に対ひ進せて、弓を控楯を列ぬる人は誰ぞや。玉置庄司殿と見るは僻目か、只今可滅武家の逆命に随て、即時に運を開かせ可給親王に敵対申ては、一天下の間何の処にか身を置んと思ふ。天罰不遠から、是を鎮ん事我等が一戦の内にあり。余すな漏すな。」と、をめき叫でぞ懸りける。是を見て玉置が勢五百余騎、叶はじとや思けん、楯を捨旗を巻て、忽に四角八方へ逃散ず。其後野長瀬兄弟、甲を脱ぎ弓を脇に挟て遥に畏る。宮の御前近く被召て、「山中の為体、大儀の計略難叶かるべき間、大和・河内の方へ打出て勢を付ん為、令進発之処に、玉置庄司只今の挙動、当手の兵万死の内に一生をも得難しと覚つるに、不慮の扶に逢事天運尚憑あるに似たり。抑此事何として存知たりければ、此戦場に馳合て、逆徒の大軍をば靡ぬるぞ。」と御尋有ければ、野長瀬畏て申けるは、「昨日の昼程に、年十四五許に候し童の、名をば老松といへり〔と〕名乗て、「大塔宮明日十津河を御出有て、小原へ御通りあらんずるが、一定道にて難に逢はせ給ぬと覚るぞ、志を存ぜん人は急ぎ御迎に参れ」と触廻り候つる間、御使ぞと心得て参て候。」とぞ申ける。宮此事を御思案あるに、直事に非ずと思食合せて、年来御身を放されざりし膚の御守を御覧ずるに、其口少し開たりける間、弥怪しく思食て、則開被御覧ければ、北野天神の御神体を金銅にて被鋳進たる其御眷属、老松の明神の御神体、遍身より汗かいて、御足に土の付たるぞ不思議なる。「さては佳運神慮に叶へり、逆徒の退治何の疑か可有。」とて、其より宮は、槙野上野房聖賢が拵たる、槙野の城へ御入ありけるが、此も尚分内狭くて可悪ると御思案ありて、吉野の大衆を語はせ給て、安善宝塔を城郭に構へ、岩切通す吉野河を前に当て、三千余騎を随へて楯篭らせ給けるとぞ聞へし。