太平記/巻第二十六
巻第二十六
216 正行参吉野事
安部野の合戦は、霜月二十六日の事なれば、渡辺の橋よりせき落されて流るゝ兵五百余人、無甲斐命を楠に被助て、河より被引上たれ共、秋霜肉を破り、暁の氷膚に結で、可生共不見けるを、楠有情者也ければ、小袖を脱替させて身を暖め、薬を与へて疵を令療。如此四五日皆労りて、馬に乗る者には馬を引、物具失へる人には物具をきせて、色代してぞ送りける。されば乍敵其情を感ずる人は、今日より後心を通ん事を思ひ、其恩を報ぜんとする人は、軈て彼手に属して後、四条縄手の合戦に討死をぞしける。さても今年両度の合戦に、京勢無下に打負て、畿内多く敵の為に犯し奪はる。遠国又蜂起しぬと告ければ、将軍左兵衛督の周章、只熱湯にて手を濯が如し。今は末々の源氏国々の催勢なんどを向ては可叶共不覚とて、執事高武蔵守師直、越後守師泰兄弟を両大将にて、四国・中国・東山・東海二十余箇国の勢をぞ被向ける。軍勢の手分事定て、未一日も不過に、越後守師泰は手勢三千余騎を卒して、十二月十四日の早旦に先淀に著く。是を聞て馳加る人々には、武田甲斐守・逸見孫六入道・長井丹後入道・厚東駿河守・宇都宮三川入道・赤松信濃守・小早河備後守、都合其勢二万余騎、淀・羽束使・赤井・大渡の在家に居余て、堂舎仏閣に充満たり。同二十五日武蔵守手勢七千余騎を卒して八幡に著く。此手に馳加る人々には、細川阿波将監清氏・仁木左京大夫頼章・今河五郎入道・武田伊豆守・高刑部大輔・同播磨守・南部遠江守・同次郎左衛門尉・千葉介・宇都宮遠江入道・佐々木佐渡判官入道・同六角判官・同黒田判官・長九郎左衛門尉・松田備前三郎・須々木備中守・宇津木平三・曾我左衛門・多田院御家人、源氏二十三人、外様大名四百三十六人、都合其勢六万余騎、八幡・山崎・真木・葛葉・鹿島・神崎・桜井・水無瀬に充満せり。京勢如雲霞淀・八幡に著ぬと聞へしかば、楠帯刀正行・舎弟正時一族打連て、十二月二十七日芳野の皇居に参じ、四条中納言隆資を以て申けるは、「父正成■弱の身を以て大敵の威を砕き、先朝の宸襟を休め進せ候し後、天下無程乱て、逆臣西国より責上り候間、危を見て命を致す処、兼て思定候けるかに依て、遂に摂州湊河にして討死仕候了。其時正行十三歳に罷成候しを、合戦の場へは伴はで河内へ帰し死残候はんずる一族を扶持し、朝敵を亡し君を御代に即進せよと申置て死て候。然に正行・正時已壮年に及候ぬ。此度我と手を砕き合戦仕候はずは、且は亡父の申しし遺言に違ひ、且は武略の無云甲斐謗りに可落覚候。有待の身思ふに任せぬ習にて、病に犯され早世仕事候なば、只君の御為には不忠の身と成、父の為には不孝の子と可成にて候間、今度師直・師泰に懸合、身命を尽し合戦仕て、彼等が頭を正行が手に懸て取候歟、正行・正時が首を彼等に被取候か、其二の中に戦の雌雄を可決にて候へば、今生にて今一度君の竜顔を奉拝為に、参内仕て候。」と申しも敢ず、涙を鎧の袖にかけて義心其気色に顕れければ、伝奏未奏せざる先に、まづ直衣の袖をぞぬらされける。主上則南殿の御簾を高く巻せて、玉顔殊に麗く、諸卒を照臨有て正行を近く召て、「以前両度の戦に勝つ事を得て敵軍に気を屈せしむ。叡慮先憤を慰する条、累代の武功返返も神妙也。大敵今勢を尽して向ふなれば、今度の合戦天下の安否たるべし。進退当度反化応機事は、勇士の心とする処なれば、今度の合戦手を下すべきに非ずといへ共、可進知て進むは、時を為不失也。可退見て退は、為全後也。朕以汝股肱とす。慎で命を可全。」と被仰出ければ、正行首を地に著て、兔角の勅答に不及。只是を最後の参内也と、思定て退出す。正行・正時・和田新発意・舎弟新兵衛・同紀六左衛門子息二人・野田四郎子息二人・楠将監・西河子息・関地良円以下今度の軍に一足も不引、一処にて討死せんと約束したりける兵百四十三人、先皇の御廟に参て、今度の軍難義ならば、討死仕べき暇を申て、如意輪堂の壁板に各名字を過去帳に書連て、其奥に、返らじと兼て思へば梓弓なき数にいる名をぞとゞむると一首の哥を書留め、逆修の為と覚敷て、各鬢髪を切て仏殿に投入、其日吉野を打出て、敵陣へとぞ向ける。
217 四条縄手合戦事付上山討死事
師直・師泰は、淀・八幡に越年して、猶諸国の勢を待調て、河内へは可向と議しけるが、楠已に逆か寄にせん為に、吉野へ参て暇申し、今日河内の往生院に著ぬと聞へければ、師泰先正月二日淀を立て二万余騎和泉の堺の浦に陣を取る。師直も翌日三日の朝八幡を立て六万余騎四条に著く。此侭軈て相近付べけれ共、楠定て難所を前に当てぞ相待らん。寄せては可悪、被寄ては可有便とて、、三軍五所に分れ、鳥雲の陣をなして、陰に設け陽に備ふ。白旗一揆の衆には、県下野守を旗頭として、其勢五千余騎飯盛山に打上て、南の尾崎に扣たり。大旗一揆の衆には、河津・高橋二人を旗頭として、其勢三千余騎、秋篠や外山の峯に打上て、東の尾崎に控へたり。武田伊豆守は千余騎にて、四条縄手の田中に、馬の懸場を前に残して控へたり。佐々木佐渡判官入道は、二千余騎にて、伊駒の南の山に打上り、面に畳楯五百帖突並べ、足軽の射手八百人馬よりをろして、打て上る敵あらば、馬の太腹射させて猶予する処あらば、真倒に懸落さんと、後ろに馬勢控へたり。大将武蔵守師直は、二十余町引殿て、将軍の御旗下に輪違の旗打立て、前後左右に騎馬の兵二万余騎、馬回に徒立の射手五百人、四方十余町を相支て、如稲麻の打囲ふだり。手分の一揆互に勇争て陣の張様密しければ、項羽が山を抜く力、魯陽が日を返す勢有共、此堅陣に懸入て可戦とは見へざりけり。去程に正月五日の早旦に、先四条中納言隆資卿大将として、和泉・紀伊国の野伏二万余人引具して、色々の旗を手に差上、飯盛山にぞ向ひ合ふ。是は大旗・小旗両一揆を麓へをろさで、楠を四条縄手へ寄させん為の謀也。如案大旗・小旗の両一揆是を忻り勢とは不知、是ぞ寄手なるらんと心得て、射手を分て旗を進めて坂中までをり下て、嶮岨に待て戦んと見繕ふ処に、楠帯刀正行・舎弟正時・和田新兵衛高家・舎弟新発意賢秀、究竟の兵三千余騎を卒して、霞隠れより驀直に四条縄手へ押寄せ、先斥候の敵を懸散さば、大将師直に寄合て、勝負を決せざらんと、少も擬議せず進だり。県下野守は白旗一揆の旗頭にて、遥の峯に控たりけるが、菊水の旗只一流、無是非武蔵守の陣へ懸入んとするを見て、北の岡より馳下馬よりひた/\と飛下て、只今敵のましぐらに懸入んとする道の末を一文字に遮て、東西に颯と立渡り、徒立に成てぞ待懸たる。勇気尤盛なる楠が勢、僅に徒立なる敵を見て、何故か些もやすらふべき。三手に分たる前陣の勢五百余騎、閑々と打て蒐る。京勢の中秋山弥次郎・大草三郎左衛門二人、真前に進て射落さる。居野七郎是を見て、敵に気を付じと、秋山が臥たる上をつと飛越て、「爰をあそばせ。」と射向の袖を敲て、小跳して進だり。敵東西より差合せて雨の降様に射る矢に、是も内甲草摺のはづれ二所箆深に被射、太刀を倒につき、其矢を抜んとすくみて立たる所を、和田新発意つと蒐寄て、甲の鉢をしたゝかにうつ。打れて犬居に倒れければ、和田が中間走寄て、頚掻切て差上たり。是を軍の始として、楠が騎馬の兵五百余騎と、県が徒立の兵三百余人と、喚き叫で相戦ふに、田野ひらけ平にして馬の懸引自在なれば、徒立の兵汗馬に被懸悩、白旗一揆の兵三百余騎太略討れにければ、県下野守も深手五所まで被て叶はじとや思けん、被討残たる兵と師直の陣へ引て去る。二番に戦屈したる楠が勢を弊に乗て討んとて、武田伊豆守七百余騎にて進だり。楠が二陣の勢千余騎にて蒐合ひ二手に颯と分て、一人も余さじと取篭る。汗馬東西に馳違、追つ返つ旌旗南北に開分れて、巻つ巻られつ互に命を惜まで、七八度まで揉合たるに、武田が七百余騎残少なに討るれば、楠が二陣の勢も大半疵を被て、朱に成てぞ控たる。小旗一揆の衆は、始より四条中納言隆資卿の偽て控たる見せ勢に対して、飯盛山に打上て、大手の合戦をば、徒によそに直下て居たりけるが、楠が二陣の勢の戦ひ疲て麓に扣たるを見て、小旗一揆の中より、長崎彦九郎資宗・松田左近将監重明・舎弟七郎五郎・子息太郎三郎・須々木備中守高行・松田小次郎・河勾左京進入道・高橋新左衛門尉・青砥左衛門尉・有元新左衛門・広戸弾正左衛門・舎弟八郎次郎・其弟太郎次郎以下勝れたる兵四十八騎、小松原より懸下りて、山を後に当て敵を麓に直下して、懸合々々戦ふに、楠が二陣千余騎僅の敵に被遮、進かねてぞ見へたりける。佐佐木佐渡判官入道道誉は、楠が軍の疲足、推量るに自余の敵にはよも目も懸じ。大将武蔵守の旗を見てぞ蒐らんずらん。去程ならば少し遣過して、迹を塞で討んと議して、其勢三千余騎を卒して、飯盛山の南なる峯に打上て、旗打立控たりけるが、楠が二陣の勢の両度数剋の戦ひに、馬疲れ気屈して、少し猶予したる処を見澄して、三千余騎を三手に分て、同時に時をどつと作て蒐下す。楠が二陣の勢暫支て戦けるが、敵は大勢也。御方は疲れたり。馬強なる荒手に懸立られて叶はじとや思けん、大半討れて残る勢南を差て引て行く。元来小勢なる楠が兵、後陣既に破れて、残止る前陣の勢、僅に三百余騎にも足じと見へたれば、怺じと見る処に、楠帯刀・和田新発意、未討れずして此中に有ければ、今日の軍に討死せんと思て、過去帳に入たりし連署の兵百四十三人、一所に犇々と打寄て、少しも後陣の破れたるをば不顧、只敵の大将師直は迹にぞ控て有らんと、目に懸てこそ進みけれ。武蔵守が兵は、御方軍に打勝て、敵しかも小勢なれば、乗機勇み進で是を打取んとて、先一番に細川阿波将監清氏、五百余騎にて相当。楠が三百騎の勢、些も不滞相蒐りに懸て、面も不振戦ふに、細川が兵五十余騎討れて北をさして引退く。二番に仁木左京大夫頼章、七百余騎にて入替て責るに、又楠が三百余騎、轡を双て真中に懸入り、火を散して戦ふに、左京大夫頼章、四角八方へ懸立られて一所へ又も打寄らず。三番に千葉介・宇都宮遠江入道・同参河入道両勢合て五百余騎、東西より相近て、手崎をまくりて中を破とするに、楠敢て破られず。敵虎韜に連て囲めば、虎韜に分れて相当り、竜鱗に結て蒐れば竜鱗に進で戦ふ。三度合て三度分れたるに、千葉・宇都宮が兵若干討れて引返す。此時和田・楠が勢百余騎討れて、馬に矢の三筋四筋射立られぬは無りければ、馬を蹈放て徒立に成て、とある田の畔に後を差宛て、箙に差たる竹葉取出して心閑に兵粮仕ひ、機を助てぞ並居たる。是程に思切たる敵を取篭て討んとせば、御方の兵若干亡ぬべし。只後ろをあけて、落ちば落せとて、数万騎の兵皆一処に打寄て、取巻体をば見せざりけり。されば楠縦小勢也とも、落ば落べかりけるを、初より今度の軍に、師直が頚を取て返り参ぜずは、正行が首を六条河原に曝されぬと被思食候へと、吉野殿にて奏し申たりしかば、其言をや恥たりけん、又運命爰にや尽けん、和田も楠も諸共に、一足も後へは不退、「只師直に寄合て勝負を決せよ。」と声声に罵呼り、閑に歩近付たり。是を見て細川讃岐守頼春・今河五郎入道・高刑部大輔・高播磨守・南遠江守・同次郎左衛門尉・佐々木六角判官・同黒田判官・土岐周済房・同明智三郎・荻野尾張守朝忠・長九郎左衛門・松田備前次郎・宇津木平三・曾我左衛門・多田院の御家人を始として、武蔵守の前後左右に控たる究竟の兵共七千余騎、我先に打取らんと、喚き呼で蒐出たり。楠是に些も不臆して、暫息継んと思ふ時は、一度に颯と並居て鎧の袖をゆり合せ、思様に射させて、敵近付ば同時にはつと立あがり、鋒を双て跳り蒐る。一番に懸寄せける南次郎左衛門尉、馬の諸膝薙れて落る処に、起しも立ず討にけり。二番に劣らじと蒐入ける松田次郎左衛門、和田新発意に寄合て、敵を切んと差うつぶく処を、和田新発意長刀の柄を取延て、松田が甲の鉢をはたとうつ。打れて錣を傾る処に、内甲を突れて、馬より倒に落て討れにけり。此外目の前に切て落さるゝ者五十余人、小腕打落されて朱になる者二百余騎、追立々々責られて、叶はじとや思ひけん、七千余騎の兵共、開靡て引けるが、淀・八幡をも馳過て、京まで逃るも多かりけり。此時若武蔵守一足も退く程ならば、逃る大勢に引立られて洛中までも追著れぬと見へけるを、少も漂ふ気色無して、大音声を揚て、「蓬し返せ、敵は小勢ぞ師直爰にあり。見捨て京へ逃たらん人、何の面目有てか将軍の御目にも懸るべき。運命天にあり。名を惜まんと思はざらんや。」と、目をいらゝげ歯嚼をして、四方を下知せられけるにこそ、恥ある兵は引留りて師直の前後に控けれ。斯る処に土岐周済房の手の者共は、皆打散され、我身も膝口切れて血にまじり、武蔵守の前を引て、すげなう通りけるを、師直吃と見て、「日来の荒言にも不似、まさなうも見へ候者哉。」と言を懸られて、「何か見苦候べき。さらば討死して見せ申さん。」とて、又馬を引返し敵の真中へ蒐入て、終に討死してけり。是を見て雑賀次郎も蒐入り打死す。已楠と武蔵守と、あはひ僅に半町計を隔たれば、すはや楠が多年の本望爰に遂ぬと見たる処に、上山六郎左衛門、師直の前に馳塞り、大音声を挙て申けるは、「八幡殿より以来、源家累代の執権として、武功天下に顕れたる高武蔵守師直是に有。」と名乗て、討死しける其間に、師直遥に隔て、楠本意を遂ざりけり。抑多勢の中に、上山一人師直が命に代て、討死しける所存何事ぞと尋れば、只一言の情を感じて、命を軽くしけるとぞ聞へし。只今楠此陣へ可寄とは不思寄、上山閑に物語せんとて、執事の陣へ行ける処に、東西南北騒ぎ色めきて、敵寄たりと打立ける間、上山我屋に帰り物具せん逗留無りければ、師直がきせながの料に、同毛の鎧を二両まで置たりけるを、上山走寄て、唐櫃の緒を引切て鎧を取て肩に打懸けるを、武蔵守が若党、鎧の袖を控て、「是は何なる御事候ぞ。執事の御きせながにて候者を、案内をも申され候はで。」と云て、奪止んと引合ける時、師直是を聞て馬より飛で下り、若党をはたと睨で、「無云甲斐者の振舞哉。只今師直が命に代らん人々に、縦千両万両の鎧也共何か惜かるべきぞ。こゝのけ。」と制して、「いしうもめされて候者哉。」と還て上山を被感ければ、上山誠にうれしき気色にて、此詞の情を思入たる其心地、いはねども色に現れたり。されば事の儀を不知して鎧を惜みつる若党は、軍の難義なるを見て先一番に落けれ共、情を感ずる上山は、師直が其命に代て討死しけるぞ哀なる。加様の事異国にも其例あり。秦穆公と申す人、六国の諸侯と戦けるに、穆公軍破て他国へ落給ふ。敵の追事甚急にして、乗給へる馬疲れにければ、迹にさがりたる乗替の馬を待給ふ処に、穆公の舎人共馬をば引て不来して、疲たる兵共二十余人、皆高手小手に縛りて、軍門の前に引居たり。穆公自ら事の由を問ふに、舎人答て申様、「召し替への御馬を引進り候処に、戦に疲れ飢たる兵共二十余人、此御馬を殺して皆食て候間、死罪に行ひ候はんが為に生虜て参て候。」とぞ申ける。穆公さしも忿れる気色なく、「死せる者は二度生べからず。縦二度生る共、獣の卑きを以て人の貴きを失はんや。我れ聞く、飢て馬を食せる人は必病む事有。」とて其兵共に酒を飲せ薬を与へて医療を加られける上は、敢て罪科に不及。其後穆公軍に打負て、大敵に囚はれ已討れんとし給し時、馬を殺して食たりし兵共二十余人、穆公の命に代り戦ける程に、大敵皆散じて穆公死を逃れ給ひにけり。されば古も今も大将たらん人は、皆罰をば軽く行ひ宥め賞をば厚く与へしむ。若昔の穆公馬を惜み給はゞ、大敵の囲を出給はんや。今の師直鎧を不与は、上山命に代らんや。情は人の為ならずとは、加様の事をぞ申べき。楠、上山を討て其頭を見るに、太清げなる男也。鎧を見るに輪違を金物に掘透したり。「さては無子細武蔵守を討てげり。多年の本意今日已達しぬ。是を見よや人々。」とて、此頚を中に投上ては請取、請取ては手玉についてぞ悦ける。楠が弟次郎走寄て、「何にやあたら首の損じ候に、先旗の蝉本に著て敵御方の者共に見せ候はん。」と云て、太刀の鋒に指貫差上て是を見るに、「師直には非ず、上山六郎左衛門が首也。」と申ければ、大に腹立して、此頭を投て、「上山六郎左衛門とみるはひが目か、汝は日本一の剛の者哉。我君の御為に無双の朝敵也。乍去余に剛にみへつるがやさしさに、自余の頭共には混ずまじきぞ。」とて、著たる小袖の片袖を引切て、此首を押裹で岸の上にぞ指置たる。鼻田弥次郎膝口を被射、すくみ立たりけるが、「さては師直未討れざりけり。安からぬ者哉。師直何くにか有らん。」と云声を力にして、内甲にからみたる鬢の髪を押のけ、血眼に成て遥に北の方を見るに、輪違の旗一流打立て、清げなる老武者を大将として七八十騎が程控へたり。「何様師直と覚る。いざ蒐らん。」と云処に、和田新兵衛鎧の袖を引へて、「暫思様あり。余に勇み懸て大事の敵を打漏すな。敵は馬武者也。我等は徒立也。追ば敵定て可引。ひかば何として敵を可打取。事の様を安ずるに、我等怺へで引退く真似をせば、此敵、気に乗て追蒐つと覚るぞ。敵を近々と引寄て、其中に是ぞ師直と思はん敵を、馬の諸膝薙で切居へ、落る処にて細頚打落し、討死せんと思ふは如何に。」と云ければ、被打残たる五十余人の兵共、「此義可然。」と一同して、楯を後に引かづき、引退く体をぞみせたりける。師直思慮深き大将にて、敵の忻て引処を推して、些も馬を動かさず。高播磨守西なる田中に三百余騎にて控たるが、是を見て引敵ぞと心得て、一人も余さじと追蒐たり。元来剛なる和田・楠が兵なれば、敵の太刀の鋒の鎧の総角、甲の錣二つ三つ打あたる程近付て、一同に咄と喚て、礒打波の岩に当て返るが如取て返し、火出る程ぞ戦ひける。高播磨守が兵共、可引帰程の隙もなければ、矢庭に討るゝ者五十余人、散々に切立られて、馬をかけ開て逃けるが、本陣をも馳過て、二十余町ぞ引たりける。
218 楠正行最期事
去程に師直と楠とが間、一町許に成にけり。是ぞ願ふ処の敵よと見澄して、魯陽二度白骨を連て韓構に戦ける心も、是には過じと勇悦て、千里を一足に飛て懸らんと、心許は早りけれども、今朝の巳刻より申時の終まで、三十余度の戦に、息絶気疲るゝのみならず、深手浅手負ぬ者も無りければ、馬武者を追攻て可討様ぞ無りける。され共多の敵共四角八方へ追散て、師直七八十騎にて控たれば、何程の事か可有と思ふ心を力にて、和田・楠・野田・関地良円・河辺石掬丸、我先我先とぞ進たる。余に辞理なく懸られて、師直已引色に見へける処に、九国の住人須々木四郎とて、強弓の矢つぎ早、三人張に十三束二伏、百歩に柳の葉を立て、百矢をはづさぬ程の射手の有けるが、人の解捨たる箙、竹尻篭・■を掻抱く許取集て、雨の降が如く矢坪を指てぞ射たりける。一日著暖たる物具なれば、中と当る矢、箆深に立ぬは無りけり。楠次郎眉間ふえのはづれ射られて抜程の気力もなし。正行は左右の膝口三所、右のほう崎、左の目尻、箆深に射られて、其矢、冬野の霜に臥たるが如く折懸たれば、矢すくみに立てはたらかず。其外三十余人の兵共、矢三筋四筋射立られぬ者も無りければ、「今は是までぞ。敵の手に懸るな。」とて、楠兄弟差違へ北枕に臥ければ、自余の兵三十二人、思々に腹掻切て、上が上に重り臥す。和田新発意如何して紛れたりけん、師直が兵の中に交りて、武蔵守に差違て死んと近付けるを、此程河内より降参したりける湯浅本宮太郎左衛門と云ける者、是を見知て、和田が後へ立回、諸膝切て倒所を、走寄て頚を掻んとするに、和田新発意朱を酒きたる如くなる大の眼を見開て、湯浅本宮をちやうど睨む。其眼終に塞ずして、湯浅に頭をぞ取られける。大剛の者に睨まれて、湯浅臆してや有けん、其日より病付て身心悩乱しけるが、仰けば和田が忿たる顔天に見へ、俯けば新発意が睨める眼地に見へて、怨霊五体を責しかば、軍散じて七日と申に、湯浅あがき死にぞ死にける。大塚掃部助手負たりけるが、楠猶跡に有共しらで、放馬の有けるに打乗て、遥に落延たりけるが、和田・楠討れたりと聞て、只一騎馳帰、大勢の中へ蒐入て、切死にこそ死にけれ。和田新兵衛正朝は、吉野殿に参て事の由を申さんとや思けん、只一人鎧一縮して、歩立に成て、太刀を右の脇に引側め、敵の頚一つ取て左の手に提て、東条の方へぞ落行ける。安保肥前守忠実只一騎馳合て、「和田・楠の人々皆自害せられて候に、見捨て落られ候こそ無情覚候へ。返され候へ。見参に入らん。」と詞を懸ければ、和田新兵衛打笑て、「返に難き事か。」とて、四尺六寸の太刀の貝しのぎに、血の著たるを打振て走懸る。忠実一騎相の勝負叶はじとや思けん、馬をかけ開て引返す。忠実留れば正朝又落、落行ば忠実又追懸、々々れば止り、一里許を過る迄、互不討不被討して日已に夕陽に及ばんとす。斯る処に青木次郎・長崎彦九郎二騎、箙に矢少し射残して馳来る。新兵衛を懸のけ/\射ける矢に、草摺の余引合の下、七筋まで射立られて、新兵衛遂に忠実に首をば取れにけり。総て今日一日の合戦に、和田・楠が兄弟四人、一族二十三人、相順ふ兵百四十三人、命を君臣二代の義に留めて、名を古今無双の功に残せり。先年奥州の国司顕家卿、安部野にて討れ、武将新田左中将義貞朝臣、越前にて亡し後は、遠国に宮方の城郭少々有といへ共、勢未振はざれば今更驚に不足。唯此楠許こそ、都近き殺所に威を逞くして、両度まで大敵を靡かせぬれば、吉野の君も、魚の水を得たる如く叡慮を令悦、京都の敵も虎の山に靠恐懼を成れつるに、和田・楠が一類皆片時に亡びはてぬれば、聖運已に傾ぬ。武徳誠に久しかるべしと、思はぬ人も無りけり。
219 芳野炎上事
去程に楠が館をも焼払ひ、吉野の君をも可奉取とて、越後守師泰六千余騎にて、正月八日和泉の堺の浦を立て、石川河原に先向城をとる。武蔵守師直は、三万余騎の勢を卒して、同十四日平田を立て、吉野の麓へ押寄する。其勢已に吉野郡に近付ぬと聞へければ、四条中納言隆資卿、急ぎ黒木の御所に参て、「昨日正行已に討れ候。又明日師直皇居へ襲来仕由聞へ候。当山要害の便稀にして、可防兵更に候はず。今夜急ぎ天河の奥加納の辺へ御忍候べし。」と申て、三種の神器を内侍典司に取出させ、寮の御馬を庭前に引立たれば、主上は万づ思食分たる方なく、夢路をたどる心地して、黒木の御所を立出させ給へば、女院・皇后・准后・内親王・宮々を始進せて、内侍・上童・北政所・月卿雲客・郎吏・従官・諸寮の頭・八省の輔・僧正・僧都・児・房官に至るまで、取物も不取敢、周章騒ぎ倒れ迷て、習はぬ道の岩根を歩み、重なる山の雲を分て、吉野の奥へ迷入る。思へば此山中とても、心を可留所ならねども、年久住狎ぬる上、行末は猶山深き方なれば、さこそは住うからめと思遣に付ても、涙は袖にせき敢ず。主上勝手の宮の御前を過させ給ひける時、寮の御馬より下させ給て、御泪の中に一首かくぞ思召つゞけさせ給ひける。憑かひ無に付ても誓ひてし勝手の神の名こそ惜けれ異国の昔は、唐の玄宗皇帝、楊貴妃故に安禄山に傾られて、蜀の剣閣山に幸なる。我朝の古は、清見原の天皇、大友の宮に襲はれて、此吉野山に隠給き。是皆逆臣暫世を乱るといへども、終には聖主大化を施されし先蹤なれば、角てはよも有はてじと思食准る方は有ながら、貴賎男女周章騒で、「こはそも何くにか暫の身をも可隠。」と、泣悲む有様を御覧ぜらるゝに、叡襟更に無休時。去ほどに武蔵守師直、三万余騎を卒して吉野山に押寄せ、三度時の声を揚たれ共、敵なければ音もせず。さらば焼払へとて、皇居並卿相雲客の宿所に火を懸たれば、魔風盛に吹懸て、二丈一基の笠鳥居・二丈五尺の金の鳥居・金剛力士の二階の門・北野天神示現の宮・七十二間の回廊・三十八所の神楽屋・宝蔵・竃殿・三尊光を和げて、万人頭を傾る金剛蔵王の社壇まで、一時に灰燼と成ては、烟蒼天に立登る。浅猿かりし有様也。抑此北野天神の社壇と申は、承平四年八月朔日に、笙の岩屋の日蔵上人頓死し給たりしを、蔵王権現左の御手に乗せ奉て、炎魔王宮に至給ふに、第一の冥官、一人の倶生神を相副て、此上人に六道を見せ奉る。鉄窟苦所と云所に至て見給ふに、鉄湯中に玉冠を著て天子の形なる罪人あり。手を揚て上人を招給ふ。何なる罪人ならんと怪て立寄て見給へば、延喜の帝にてぞ御座しける。上人御前に跪て、「君御在位の間、外には五常を正して仁義を専にし、内には五戒を守て慈悲を先とし御坐しかば、何なる十地等覚の位にも到らせ給ぬらんとこそ存候つるに、何故に斯る地獄には堕させ給候やらん。」と尋申されければ、帝は御涙を拭はせ給て、「吾在位の間、万機不怠撫民治世しかば、一事も誤る事無りしに、時平が讒を信じて、無罪菅丞相を流したる故に、此地獄に堕たり。上人今冥途に趣給ふといへ共、非業なれば蘇生すべし。朕上人と師資の契不浅、早娑婆に帰給はゞ、菅丞相の廟を建て化導利生を専にし給べし。さてぞ朕が此苦患をば可免。」と、泣々勅宣有けるを、上人具に承て、堅領状申と思へば、中十二日と申に、上人生出給にけり。冥土にて正く勅を承りし事なればとて、則吉野山に廟を建、利生方便を施し給し天神の社壇是也。蔵王権現と申は、昔役優婆塞済度利生の為に金峯山に一千日篭て、生身の薩■を祈給しに、此金剛蔵王、先柔和忍辱の相を顕し、地蔵菩薩の形にて地より涌出し玉ひたりしを、優婆塞頭を掉て、未来悪世の衆生を済度せんとならば、加様の御形にては叶まじき由を被申ければ、則伯耆の大山へ飛去給ぬ。其後忿怒の形を顕し、右の御手には三鈷を握て臂をいらゝげ、左の御手には五指を以て御腰を押へ玉ふ。一睨大に忿て魔障降伏の相を示し、両脚高く低て天地経緯の徳を呈し玉へり。示現の貌尋常の神に替て、尊像を錦帳の中に鎖されて、其涌出の体を秘せん為に、役の優婆塞と天暦の帝と、各手自二尊を作副て三尊を安置し奉玉ふ。悪愛を六十余州に示して、彼を是し此を非し、賞罰を三千世界に顕して、人を悩し物を利す。総て神明権迹を垂て七千余坐、利生の新なるを論ずれば、無二亦無三の霊験也。斯る奇特の社壇仏閣を一時に焼払ぬる事誰か悲を含まざらん。されば主なき宿の花は、只露に泣ける粧をそへ、荒ぬる庭の松までも、風に吟ずる声を呑。天の忿り何れの処にか帰せん。此悪行身に留らば、師直忽に亡なんと、思はぬ人は無りけり。
220 賀名生皇居事
貞和五年正月五日、四条縄手の合戦に、和田・楠が一族皆亡びて、今は正行が舎弟次郎左衛門正儀許生残たりと聞へしかば、此次に残る所なく、皆退治せらるべしとて、高越後守師泰三千余騎にて、石河々原に向城を取て、互に寄つ被寄つ、合戦の止隙もなし。吉野の主上は、天の河の奥賀名生と云所に僅なる黒木の御所を造りて御座あれば、彼唐尭虞舜の古へ、茅茨不剪柴椽不削、淳素の風も角やと思知れて、誠なる方も有ながら、女院皇后は、柴葺庵のあやしきに、軒漏雨を禦ぎかね、御袖の涙ほす隙なく、月卿雲客は、木の下岩の陰に松葉を葺かけ、苔の筵を片敷て、身を惜く宿とし給へば、高峯の嵐吹落て、夜の衣を返せども、露の手枕寒ければ、昔を見する夢もなし。況乎其郎従眷属たる者は、暮山の薪を拾ては、雪を戴くに膚寒く、幽谷の水を掬では、月を担ふに肩やせたり。角ては一日片時も有ながらへん心地もなけれ共、さすがに消ぬ露の身の命あらばと思ふ世に、憑を懸てや残るらん。
221 執事兄弟奢侈事
夫富貴に驕り功に侈て、終を不慎は、人の尋常皆ある事なれば、武蔵守師直今度南方の軍に打勝て後、弥心奢り、挙動思ふ様に成て、仁義をも不顧、世の嘲弄をも知ぬ事共多かりけり。常の法には、四品以下の平侍武士なんどは、関板打ぬ舒葺の家にだに居ぬ事にてこそあるに、此師直は一条今出川に、故兵部卿親王の御母堂、宣旨の三位殿の住荒し給ひし古御所を点じて、棟門唐門四方にあけ、釣殿・渡殿・泉殿、棟梁高造り双て、奇麗の壮観を逞くせり。泉水には伊勢・島・雑賀の大石共を集たれば、車輾て軸を摧き、呉牛喘て舌を垂る。樹には月中の桂・仙家の菊・吉野の桜・尾上の松・露霜染し紅の八しほの岡の下紅葉・西行法師が古枯葉の風を詠たりし難波の葦の一村・在原中将の東に旅に露分し宇津の山辺のつた楓、名所々々の風景を、さながら庭に集たり。又月卿雲客の御女などは、世を浮草の寄方無て、誘引水あらばと打佗ぬる折節なれば、せめてはさも如何せん。申も無止事宮腹など、其数を不知、此彼に隠置奉て、毎夜通ふ方多かりしかば、「執事の宮廻に、手向を受ぬ神もなし。」と、京童部なんどが咲種なり。加様の事多かる中にも、殊更冥加の程も如何がと覚てうたてかりしは、二条前関白殿の御妹、深宮の中に被冊、三千の数にもと思召たりしを、師直盜出し奉て、始は少し忍たる様なりしが、後は早打顕れたる振舞にて、憚る方も無りけり。角て年月を経しかば、此御腹に男子一人出来て、武蔵五郎とぞ申ける。さこそ世の末ならめ。忝も大織冠の御末太政大臣の御妹と嫁して、東夷の礼なきに下らせ給ふ。浅猿かりし御事なり。是等は尚も疎か也。越後守師泰が悪行を伝聞こそ不思議なれ。東山の枝橋と云所に、山庄を造らんとて、此地の主を誰ぞと問に、北野の長者菅宰相在登卿の領地也と申ければ、軈て使者を立て、此所を可給由を所望しけるに、菅三位、使に対面して、「枝橋の事御山庄の為に承候上は、子細あるまじきにて候。但当家の父祖代々此地に墳墓を卜て、五輪を立、御経を奉納したる地にて候へば、彼墓じるしを他所へ移し候はむ程は、御待候べし。」とぞ返事をしたりける。師泰是を聞て、「何条其人惜まんずる為にぞ、左様の返事をば申らん。只其墓共皆掘崩して捨よ。」とて、軈て人夫を五六百人遣て、山を崩し木を伐捨て地を曳に、塁々たる五輪の下に、苔に朽たる尸あり。或は■々たる断碑の上、雨に消たる名もあり。青塚忽に破て白楊已に枯ぬれば、旅魂幽霊何くにか吟ふらんと哀也。是を見て如何なるしれ者か仕たりけん、一首の歌を書て引土の上にこそ立たりける。無人のしるしの率都婆堀棄て墓なかりける家作哉越後守此落書を見て、「是は何様菅三位が所行と覚るぞ。当座の口論に事を寄て差殺せ。」とて、大覚寺殿の御寵童に吾護殿と云ける大力の児を語て、無是非菅三位を殺させけるこそ不便なれ。此人聖廟の祠官として文道の大祖たり。何事の神慮に違ひて、無実の死刑に逢ぬらん。只是魏の弥子瑕が鸚鵡州の土に埋まれし昔の悲に相似たり。又此山庄を造りける時、四条大納言隆陰卿の青侍大蔵少輔重藤・古見源左衛門と云ける者二人此地を通りけるが、立寄て見るに、地を引人夫共の汗を流し肩を苦しめて、休む隙なく仕はれけるを見て、「穴かはゆや、さこそ卑しき夫也とも、是程までは打はらず共あれかし。」と慙愧してぞ過行ける。作事奉行しける者の中間是を聞て、「何者にて候哉覧、爰を通る本所の侍が、浩ける事を申て過候つる。」と語りければ、越後守大に忿て、「安き程の事哉。夫を労らば、しやつ原を仕ふべし。」とて、遥に行過たりけるを呼返して、夫の著たるつゞりを着替させ、立烏帽子を引こませて、さしも熱き夏の日に、鋤を取ては土を掻寄させ石を掘ては■にて運ばせ、終日に責仕ひければ、是を見る人々皆爪弾をし、「命は能惜き者哉、恥を見んよりは死ねかし。」と、云はぬ人こそ無りけれ。是等は尚し少事也。今年石河川原に陣を取て、近辺を管領せし後は、諸寺諸社の所領、一処も本主に不充付、殊更天王寺の常燈料所の庄を押へて知行せしかば、七百年より以来一時も更に不絶仏法常住の灯も、威光と共に消はてぬ。又如何なる極悪の者か云出しけん。「此辺の塔の九輪は太略赤銅にてあると覚る。哀是を以て鑵子に鋳たらんに何によからんずらん。」と申けるを、越後守聞てげにもと思ければ、九輪の宝形一下て、鑵子にぞ鋳させたりける。げにも人の云しに不差。膚■無くして磨くに光冷々たり。芳甘を酌てたつる時、建渓の風味濃也。東坡先生が人間第一の水と美たりしも、此中よりや出たりけん。上の好む所に下必随ふ習なれば、相集る諸国の武士共、是を聞傅て、我劣らじと塔の九輪を下て、鑵子を鋳させける間、和泉・河内の間、数百箇所の塔婆共一基も更に直なるはなく、或は九輪を被下、ます形許あるもあり。或は真柱を切れて、九層許残るもあり。二仏の並座瓔珞を暁の風に漂はせ、五智の如来は烏瑟を夜の雨に潤せり。只守屋の逆臣二度此世に生れて、仏法を亡さんとするにやと、奇き程にぞ見へたりける。
222 上杉畠山讒高家事付廉頗藺相如事
此時上杉伊豆守重能・畠山大蔵少輔直宗と云人あり。才短にして、官位人よりも高からん事を望み、功少して忠賞世に超ん事を思しかば、只師直・師泰が将軍御兄弟の執事として、万づ心に任せたる事を猜み、境節に著ては吹毛の咎を争て、讒を構る事無休時。されども将軍も左兵衛督も、執事兄弟無ては、誰か天下の乱を静むる者可有と、異于他被思ければ、少々の咎をば耳にも不聞入給、只佞人讒者の世を乱らん事を悲まる。夫天下を取て、世を治る人には、必賢才輔弼の臣下有て、国の乱を鎮め君の誤を正す者也。所謂■尭の八元・舜の八凱・周の十乱・漢の三傑・世祖の二十八将・太宗の十八学士皆禄厚く官高しといへ共、諸に有て争ふ心ろ無りしかば、互に非を諌め国をしづめて、只天下の無為ならん事をのみ思へり。是をこそ呼で忠臣とは申に、今高・上杉の両家中悪くして、動もすれば得失を差て其権を奪はんと、心に挿て思へる事、豈忠烈を存ずる人とせんや。言長して聞に懈ぬべしといへ共、暫譬を取て愚なる事を述るに、昔異朝に卞和と申ける賎き者、楚山に畑を打けるが、廻り一尺に余れる石の磨かば玉に可成を求得たり。是私に可用物に非ず、誰にか可奉と人を待ける処に、楚の武王楚山に御狩をし給ひけるに、卞和此石を奉て、「是は世に無類程の玉にて候べし。琢かせて御覧候べし。」とぞ申ける。武王大に悦て、則玉磨を召て是を被磨に、光更無りければ、玉磨、「是は玉にては候はず、只尋常の石にて候也。」とぞ奏しける。武王大に忿て、「さては朕を欺ける者也。」とて、卞和を召出して其左の足を切て、彼石を背に負せて楚山にこそ被追放けれ。卞和無罪して此刑に合へる事を歎て、楚山の中に草庵を結て、此石を乍負、世に玉を知人のなき事をのみ悲で、年月久く泣居たり。其後三年有て武王隠れ給しが、御子文王の御代に成て、文王又或時楚山に狩をし給ふに、草庵の中に人の泣声あり。文王怪て泣故を問給へば、卞和答て申さく、「臣昔此山に入て畑を打し時一の石を求得たり。是世に無類程の玉なる間、先朝武王に奉りたりしを、玉磨き見知らずして、只石にて候と申たりし間、我左の足を被斬進せて不慮の刑に逢候き、願は此玉を君に献じて、臣が無罪所を顕し候はん。」と申ければ、文王大に悦て、此石を又或玉琢にぞ磨かせられける。是も又不見知けるにや、「是全く玉にては候はず。」と奏しければ、文王又大に忿て、卞和が右の足を切せて楚山の中にぞ被棄ける。卞和両足を切られて、五体苦を逼しか共、只二代の君の眼拙き事をのみ悲で、終に百年の身の死を早くせん事を不痛、落る涙の玉までも血の色にぞ成にける。角て二十余年を過けるに、卞和尚命強面して、石を乍負、只とことはに泣居たり。去程に文王崩じ給て太子成王の御代に成にけり。成王又或時楚山に狩し給けるに、卞和尚先にもこりず、草庵の内より這出て、二代の君に二の足を切れし故を語て、泣々此石を成王に奉りける。成王則玉磨きを召て、是を琢かせらるゝに、其光天地に映徹して、無双玉に成にけり。是を行路に懸たるに、車十七両を照しければ、照車の玉共名付け、是を宮殿にかくるに、夜十二街を耀かせば、夜光の玉とも名付たり。誠に天上の摩尼珠・海底の珊瑚樹も、是には過じとぞ見へし。此玉代代天子の御宝と成て、趙王の代に伝る。趙王是を重じて、趙璧と名を替て、更に身を放ち給はず。学窓に蛍を聚ね共書を照す光不暗、輦路に月を不得共路を分つ影明也。此比天下大に乱て、諸侯皆威あるは弱きを奪ひ、大なるは小を亡す世に成にけり。彼趙国の傍に、秦王とて威勢の王坐けり。秦王此趙璧の事を伝聞て、如何にもして奪取ばやとぞ被巧ける。異国には会盟とて隣国の王互に国の堺に出合て、羊を殺して其血をすゝり、天神地祇に誓て、法を定め約を堅して交りを結ぶ事あり。此時に隣国に見落されぬれば、当座にも後日にも国を傾けられ、位を奪るゝ事ある間、互に賢才の臣、勇猛の士を召具して才を■べ武を争習也。或時秦王会盟可有とて、趙王に触送る。趙王則日を定て国の堺へぞ出合ひける。会盟事未定血未啜先に、秦王宴を儲て楽を奏し酒宴終日に及べり。酒酣にして秦王盃を挙給ふ時、秦の兵共酔狂せる真似をして、座席に進出て、目を瞋し臂を張て、「我君今興に和して盃を傾むとし給ふ。趙王早く瑟を調て寿をなし給へ。」とぞいらで申ける。趙王若辞せば、秦の兵の為に殺されぬと見へける間、趙王力なく瑟を調べ給ふ。君の傍には必左史右史とて、王の御振舞と言とを註し留る人あり。時に秦の左太史筆を取て、秦趙両国の会盟に、先有酒宴、秦王盃を挙給ふ時、趙王自為寿、調瑟とぞ書付ける。趙王後記に留りぬる事心憂しと被思けれ共、すべき態なければ力なし。盃回て趙王又飲給ひける時に、趙王の臣下に、始て召仕はれける藺相如と云ける者秦王の前に進出て、剣を拉き臂をいらゝげて、「我王已に秦王の為に瑟を調ぬ。秦王何ぞ我王の為に寿を不為べき。秦王若此事辞し給はゞ、臣必ず君王の座に死すべし。」と申て、誠に思切たる体をぞ見せたりける。秦王辞するに言無ければ自ら立て寿をなし、缶を打舞給ふ。則趙の左大史進出て、其年月の何日の日秦趙両国の会盟あり。趙王盃を挙給ふ時、秦王自ら酌を取て缶を打畢ぬと、委細の記録を書留て、趙王の恥をぞ洗ける。右て趙王帰らんとし給ける時、秦王傍に隠せる兵二十万騎、甲冑を帯して馳来れり。秦王此兵を差招て、趙王に向て宣けるは、「卞和が夜光の玉、世に無類光ありと伝承る。願は此玉を給て、秦の十五城を其代に献ぜん。君又玉を出し給はずは、両国の会盟忽に破て永く胡越を隔る思をなすべし。」とぞをどされける。異国の一城と云は方三百六十里也。其を十五合せたらん地は宛二三箇国にも及べし。縦又玉を惜て十五城に不替共、今の勢にては無代に奪れぬべしと被思ければ、趙王心ならず十五城に玉を替て、秦王の方へぞ被出ける。秦王是を得て後十五城に替たりし玉なればとて、連城の玉とぞ名付ける。其後趙王たび/\使を立て、十五城を被乞けれ共秦王忽約を変て、一城をも不出、玉をも不被返、只使を欺き礼を軽して、返事にだにも及ばねば、趙王玉を失ふのみならず、天下の嘲り甚し。爰に彼藺相如、趙王の御前に参て、「願は君臣に被許ば、我秦王の都に行向て、彼玉を取返して君の御憤を休め奉るべし。」と申ければ、趙王、「さる事やあるべき、秦は已国大に兵多して、我が国の力及がたし。縦兵を引て戦を致す共、争か此玉を取返事を得んや。」と宣ひければ、藺相如、「兵を引力を以て玉を奪はんとには非ず。我秦王を欺て可取返謀候へば、只御許容を蒙て、一人罷向べし。」と申ければ、趙王猶も誠しからず思給ながら、「さらば汝が意に任すべし。」とぞ被許ける。藺相如悦て、軈て秦国へ越けるに、兵の一人も不召具、自ら剣戟をも不帯、衣冠正しくして車に乗専使の威儀を調て、秦王の都へぞ参ける。宮門に入て礼儀をなし、趙王の使に藺相如、直に可奏事有て参たる由を申入ければ、秦王南殿に出御成て、則謁を成し給ふ。藺相如畏て申けるは、「先年君王に献ぜし夜光の玉に、隠れたる瑕の少し候を、角共知せ進せで進置候し事、第一の越度にて候。凡玉の瑕をしらで置ぬれば、遂に主の宝に成らぬ事にて候間、趙王臣をして此玉の瑕を君に知せ進らせん為に参て候也。」と申ければ、秦王悦て彼玉を取出し、玉盤の上にすへて、藺相如が前に被置たり。藺相如、此玉を取て楼閣の柱に押あて、剣を抜て申けるは、「夫君子は食言せず、約の堅き事如金石。抑趙王心あきたらずといへ共、秦王強て十五城を以て此玉に替給ひき。而に十五城をも不被出、又玉をも不被返、是盜跖が悪にも過、文成が偽にも越たり。此玉全く瑕あるに非ず。只臣が命を玉と共に砕て、君王の座に血を淋がんと思ふ故に参て候也。」と忿て、玉と秦王とをはたと睨み、近づく人あらば、忽玉を切破て、返す刀に腹を切らんと、誠に思切たる眼ざし事がら、敢て可遮留様も無りけり。王秦あきれて言なく、群臣恐れて不近付。藺相如遂に連城の玉を奪取て、趙の国へぞ帰りにける。趙王玉を得て悦び給ふ事不斜。是より藺相如を賞翫せられて、大禄を与へ、高官を授給しかば、位外戚を越、禄万戸に過たり。軈て牛車の宣旨を蒙り、宮門を出入するに、時の王侯貴人も、目を側て皆道を去る。爰に廉頗将軍と申ける趙王の旧臣、代々功を積み忠を重て、我に肩を双ぶべき者なしと思けるが、忽に藺相如に権を被取、安からぬ事に思ければ、藺相如が参内しける道に三千余騎を構へて是を討んとす。藺相如も勝たる兵千余騎を召具して、出仕しけるが、遥に廉頗が道にて相待体を見て戦むともせず、車を飛せ兵を引て己が館へぞ逃去ける。廉頗が兵是を見て、「さればこそ藺相如、勢ひ只他の力をかる者也。直に戦を決せん事は、廉頗将軍の小指にだにも及ばじ。」と、笑欺ける間、藺相如が兵心憂事に思て、「さらば我等廉頗が館へ押寄せ、合戦の雌雄を決して、彼輩が欺を防がん。」とぞ望ける。藺相如是を聞て、其兵に向て涙を流て申けるは、「汝等未知乎、両虎相闘て共に死する時、一狐其弊に乗て是を咀と云譬あり。今廉頗と我とは両虎也。戦ば必ず共に死せん。秦の国は是一狐也。弊に乗て趙をくらはんに、誰か是をふせがん。此理を思う故に、我廉頗に戦ん事を不思一朝の欺を恥て、両国の傾ん事を忘れば、豈忠臣にあらん哉。」と、理を尽して制しければ、兵皆理に折れて、合戦の企を休てけり。廉頗又此由を聞て黙然として大に恥けるが、尚我が咎を直に謝せん為に、杖を背に負て、藺相如が許に行、「公が忠貞の誠を聞て我が霍執の心を恥づ、願は公我を此杖にて三百打給へ、是を以て罪を謝せん。」と請て、庭に立てぞ泣居たりける。藺相如元来有義無怨者なりければ、なじかは是を可打。廉頗を引て堂上に居へ、酒を勧め交を深して返しけるこそやさしけれ。されば趙国は秦・楚に挟て、地せばく兵少しといへども、此二人文を以て行ひ、武を以て専にせしかば、秦にも楚にも不被傾、国家を持つ事長久也。誠に私を忘て忠を存する人は加様にこそ可有に、東夷南蛮は如虎窺ひ、西戎北狄は如竜見る折節、高・上杉の両家、差たる恨もなく、又とがむべき所もなきに、権を争ひ威を猜て、動れば確執に及ばんと互に伺隙事豈忠臣と云べしや。
223 妙吉侍者事付秦始皇帝事
近来左兵衛督直義朝臣、将軍に代て天下の権を取給し後、専ら禅の宗旨に傾て夢窓国師の御弟子と成り、天竜寺を建立して陞座拈香の招請無隙、供仏施僧の財産不驚目云事無りけり。爰に夢窓国師の法眷に、妙吉侍者と云ける僧是を見て浦山敷事に思ひければ、仁和寺に志一房とて外法成就の人の有けるに、荼祇尼天の法を習て三七日行ひけるに、頓法立に成就して、心に願ふ事の聊も不叶云事なし。是より夢窓和尚も此僧を以て一大事に思ふ心著給ひにければ、左兵衛督の被参たりける時、和尚宣けるは、「日夜の参禅、学道の御為に候へば、如何にも懈る処をこそ勧め申べく候へ共、行路程遠して、往還の御煩其恐候へば、今より後は、是に妙吉侍者と申法眷の僧の候を参らせ候べし。語録なんどをも甲斐々々敷沙汰し、祖師の心印をも直に承当し候はんずる事、恐らくは可恥人も候はねば、我に不替常に御相看候て御法談候べし。」とて、則妙吉侍者を左兵衛督の方へぞ被遣ける。直義朝臣一度此僧を見奉りしより、信心胆に銘じ、渇仰無類ければ、只西天祖達磨大師、二度我国に西来して、直指人心の正宗を被示かとぞ思はれける。軈一条堀川村雲の反橋と云所に、寺を立て宗風を開基するに、左兵衛督日夜の参学朝夕の法談無隙ければ、其趣に随はん為に山門寺門の貫主、宗を改めて衣鉢を持ち、五山十刹の長老も風を顧て吹挙を臨む。況乎卿相雲客の交り近づき給ふ有様、奉行頭人の諛たる体、語るに言も不可及。車馬門前に立列僧俗堂上に群集す。其一日の布施物一座の引手物なんど集めば、如山可積。只釈尊出世の其古、王舎城より毎日五百の車に色々の宝を積で、仏に奉り給ひけるも、是には過じとぞ見へたりける。加様に万人崇敬類ひ無りけれ共、師直・師泰兄弟は、何条其僧の知慧才学さぞあるらんと欺て一度も更不相看、剰へ門前を乗打にして、路次に行逢時も、大衣を沓の鼻に蹴さする体にぞ振舞ける。吉侍者是を見て安からぬ事に思ければ、物語の端、事の次には、只執事兄弟の挙動、穏便ならぬ者哉と云沙汰せられけるを聞て、上杉伊豆守、畠山大蔵少輔、すはや究竟の事こそ有けれ。師直・師泰を讒し失はんずる事は、此僧にまさる人非じと被思ければ、軈て交を深し媚を厚して様々讒をぞ構へける。吉侍者も元来悪しと思ふ高家の者共の挙動なれば、触事彼等が所行の有様、国を乱り政を破る最たりと被讒申事多かりけり。中にも言ば巧に譬のげにもと覚る事ありけるは、或時首楞厳経の談義已に畢て異国本朝の物語に及ける時、吉侍者、左兵衛督に向て被申けるは、「昔秦の始皇帝と申ける王に、二人の王子坐けり。兄をば扶蘇、弟をば胡亥とぞ申ける。扶蘇は第一の御子にて御座か共、常に始皇帝の御政の治らで、民をも愍まず仁義を専にし給はぬ事を諌申されける程に、始皇帝の叡慮に逆てさしもの御覚へも無りけり。第二の御子胡亥は、寵愛の后の腹にて御座する上、好驕悪賢、悪愛異于他して常に君の傍を離れず、趙高と申ける大臣を執政に被付、万事只此計ひにぞ任せられける。彼秦の始皇と申は、荘襄王の御子也しが、年十六の始め魏の畢万、趙の襄公・韓の白宣・斉の陳敬仲・楚王・燕王の六国を皆滅して天下を一にし給へり。諸侯を朝せしめ四海を保てる事、古今第一の帝にて御坐かば、是をぞ始て皇帝とは可申とて、始皇とぞ尊号を献りける。爰に昔洪才博学の儒者共が、五帝三王の迹を追ひ、周公・孔子の道を伝て、今の政古へに違ぬと毀申事、只書伝の世にある故也とて、三墳五典史書全経、総て三千七百六十余巻、一部も天下に不残、皆焼捨られけるこそ浅猿けれ。又四海の間に、宮門警固の武士より外は、兵具を不可持、一天下の兵共が持処の弓箭兵仗一も不残集て是を焼棄て、其鉄を以て長十二丈金人十二人を鋳させて、湧金門にぞ被立ける。加様の悪行、聖に違ひ天に背きけるにや、邯鄲と云所へ、天より災を告る悪星一落て、忽に方十二丈の石となる。面に一句の文字有て、秦の世滅て漢の代になるべき瑞相を示したりける。始皇是を聞給て、「是全く天のする所に非ず、人のなす禍也。さのみ遠き所の者はよも是をせじ四方十里が中を不可離。」とて、此石より四方十里が中に居たる貴賎の男女一人も不残皆首を被刎けるこそ不便なれ。東南には函谷二■の嶮を峙て、西北には洪河■渭の深を遶らして、其中に回三百七十里高さ三里の山を九重に築上て、口六尺の銅柱を立、天に鉄の網を張て、前殿四十六殿・後宮三十六宮・千門万戸とをり開き、麒麟列鳳凰相対へり。虹の梁金の鐺、日月光を放て楼閣互に映徹し、玉の砂・銀の床、花柳影を浮て、階闥品々に分れたり。其居所を高し、其歓楽を究給ふに付ても、只有待の御命有限事を歎給ひしかば、如何して蓬莱にある不死の薬を求て、千秋万歳の宝祚を保たんと思給ひける処に、徐福・文成と申ける道士二人来て、我不死の薬を求る術を知たる由申ければ、帝無限悦給て、先彼に大官を授けて、大禄を与へ給ふ。軈て彼が申旨に任て、年未十五に不過童男丱女、六千人を集め、竜頭鷁首の舟に載せて、蓬莱の島をぞ求めける。海漫々として辺なし。雲の浪・烟の波最深く、風浩々として不閑、月華星彩蒼茫たり。蓬莱は今も古へも只名をのみ聞ける事なれば、天水茫々として求るに所なし。蓬莱を不見否や帰らじと云し童男丱女は、徒に舟の中にや老ぬらん。徐福文成其偽の顕れて、責の我身に来らんずる事を恐て、「是は何様竜神の成祟と覚候。皇帝自海上に幸成て、竜神を被退治候なば、蓬莱の島をなどか尋得ぬ事候べき。」と申ければ、始皇帝げにもとて、数万艘の大船を漕双べ、連弩とて四五百人して引て、同時に放つ大弓大矢を船ごとに持せられたり。是は成祟竜神、若海上に現じて出たらば、為射殺用意也。始皇帝已に之罘の大江を渡給ふ道すがら、三百万人の兵共、舷を叩き大皷を打て、時を作る声止時なし。礒山嵐・奥津浪、互に響を参へて、天維坤軸諸共に、絶へ砕ぬとぞ聞へける。竜神是にや驚き給けん。臥長五百丈計なる鮫大魚と云魚に変じて、浪の上にぞ浮出たる。頭は如師子遥なる天に延揚り、背は如竜蛇万頃の浪に横れり。数万艘の大船四方に漕分れて同時に連弩を放つに、数百万の毒の矢にて鮫大魚の身に射立ければ、此魚忽に被射殺、蒼海万里の波の色、皆血に成てぞ流れける。始皇帝其夜龍神と自戦ふと夢を見給たりけるが、翌日より重き病を請て五体暫も無安事、七日の間苦痛逼迫して遂に沙丘の平台にして、則崩御成にけり。始皇帝自詔を遺して、御位をば第一の御子扶蘇に譲り給たりけるを、趙高、扶蘇御位に即給ひなば、賢人才人皆朝家に被召仕、天下を我心に任する事あるまじと思ければ、始皇帝の御譲を引破て捨、趙高が養君にし奉りたる第二の王子胡亥と申けるに、代をば譲給たりと披露して、剰討手を咸陽宮へ差遣し、扶蘇をば討奉りてげり。角て、幼稚に坐する胡亥を二世皇帝と称して、御位に即奉り、四海万機の政、只趙高が心の侭にぞ行ひける。此時天下初て乱て、高祖沛郡より起り、項羽楚より起て、六国の諸侯悉秦を背く。依之白起・蒙恬、秦の将軍として戦といへ共、秦の軍利無して、大将皆討れしかば、秦又章邯を上将軍として重て百万騎の勢を差下し、河北の間に戦しむ。百般戦千般遭といへ共雌雄未決、天下の乱止時なし。爰に趙高、秦の都咸陽宮に兵の少き時を伺見て二世皇帝を討奉り、我世を取んと思ければ、先我が威勢の程を為知、夏毛の鹿に鞍を置て、「此馬に召れて御覧候へ。」と、二世皇帝にぞ奉りける。二世皇帝是を見給て、「是非馬、鹿也。」と宣ひければ趙高、「さ候はゞ、宮中の大臣共を召れて、鹿・馬の間を御尋候べし。」とぞ申ける。二世則百司千官公卿大臣悉く召集て、鹿・馬の間を問給ふ。人皆盲者にあらざれば、馬に非ずとは見けれ共、趙高が威勢に恐て馬也と申さぬは無りけり。二世皇帝一度鹿・馬の分に迷しかば、趙高大臣は忽に虎狼の心を挿めり。是より趙高、今は我が威勢をおす人は有らじと兵を宮中へ差遣し、二世皇帝を責奉るに、二世趙高が兵を見て、遁るまじき処を知給ければ、自剣の上に臥て、則御自害有てけり。是を聞て秦の将軍にて、漢・楚と戦ける章邯将軍も、「今は誰をか君として、秦の国をも可守。」とて、忽に降人に成て、楚の項羽の方へ出ければ、秦の世忽に傾て、高祖・項羽諸共に咸陽宮に入にけり。趙高世を奪て二十一日と申に、始皇帝の御孫子嬰と申しに被殺、子嬰は又楚項羽に被殺給しかば、神陵三月の火九重の雲を焦し、泉下多少の宝玉人間の塵と成にけり。さしもいみじかりし秦の世、二世に至て亡し事は、只趙高が侈の心より出来事にて候き。されば古も今も、人の代を保ち家を失ふ事は、其内の執事管領の善悪による事にて候。今武蔵守・越後守が振舞にては、世中静り得じとこそ覚て候へ。我被官の者の恩賞をも給り御恩をも拝領して、少所なる由を歎申せば、何を少所と歎給ふ。其近辺に寺社本所の所領あらば、堺を越て知行せよかしと下知す。又罪科有て所帯を被没収たる人以縁書執事兄弟に属し、「如何可仕。」と歎けば、「よし/\師直そらしらずして見んずるぞ。縦如何なる御教書也とも、只押へて知行せよ。」と成敗す。又正く承し事の浅猿しかりしは、都に王と云人のまし/\て、若干の所領をふさげ、内裏・院の御所と云所の有て、馬より下る六借さよ。若王なくて叶まじき道理あらば、以木造るか、以金鋳るかして、生たる院、国王をば何方へも皆流し捨奉らばやと云し言の浅猿さよ。一人天下に横行するをば、武王是を恥しめりとこそ申候。況乎己が身申沙汰する事をも諛人あれば改て非を理になし、下として上を犯す科、事既に重畳せり。其罪を刑罰せられずは、天下の静謐何れの時をか期し候べき。早く彼等を討せられて、上杉・畠山を執権として、御幼稚の若御に天下を保たせ進せんと思召す御心の候はぬや。」と、言を尽し譬を引て様々に被申ければ、左兵衛督倩事の由を聞給て、げにもと覚る心著給にけり。是ぞ早仁和寺の六本杉の梢にて、所々の天狗共が又天下を乱らんと様々に計りし事の端よと覚へたる。
224 直冬西国下向事
先西国静謐の為とて、将軍の嫡男宮内大輔直冬を、備前国へ下さる。抑此直冬と申は、古へ将軍の忍て一夜通ひ給たりし越前の局と申女房の腹に出来たりし人とて、始めは武蔵国東勝寺の喝食なりしを、男に成て京へ上せ奉し人也。此由内々申入るゝ人有しか共、将軍曾許容し給はざりしかば、独清軒玄慧法印が許に所学して、幽なる体にてぞ住佗給ひける。器用事がら、さる体に見へ給ければ、玄慧法印事の次を得て左兵衛督に角と語り申たりけるに、「さらば、其人是へ具足して御渡候へ。事の様能々試て、げにもと思処あらば、将軍へも可申達。」と、始て直冬を左兵衛督の方へぞ被招引ける。是にて一二年過けるまでもなを将軍許容の儀無りけるを、紀伊国の宮方共蜂起の事及難義ける時、将軍始て父子の号を被許、右兵衛佐に補任して、此直冬を討手の大将にぞ被差遣ける。紀州暫静謐の体にて、直冬被帰参しより後、早、人々是を重じ奉る儀も出来り、時々将軍の御方へも出仕し給しか共、猶座席なんどは仁木・細川の人々と等列にて、さまで賞翫は未無りき。而るを今左兵衛督の計ひとして、西国の探題になし給ひければ、早晩しか人皆帰服し奉りて、付順ふ者多かりけり。備後の鞆に座し給て、中国の成敗を司どるに、忠ある者は不望恩賞を賜り、有咎者は不罰去其堺。自是多年非をかざりて、上を犯しつる師直・師泰が悪行、弥隠れも無りけり。