太平記/巻第二十八

巻第二十八

235 義詮朝臣御政務事

貞和六年月二十七日に改元有て、観応に移る。去年八月十四日に、武蔵守師直・越後守師泰等、将軍の御屋形を打囲て、上杉伊豆守・畠山大蔵少輔を責出し、配所にて死罪に行ひたりし後、左兵衛督直義卿出家して、隠遁の体に成給ひしかば、将軍の嫡男宰相中将義詮、同十月二十三日鎌倉より上洛有て、天下の政道を執行ひ給ふ。雖然万事只師直・師泰が計ひにて有しかば、高家の人々の権勢恰魯の哀公に季桓子威を振ひ、唐の玄宗に楊国忠が驕を究めしに不異。


236 太宰少弐奉聟直冬事

右兵衛佐直冬は、去年の九月に備後を落て、河尻肥後守幸俊が許に坐しけるを、可奉討由自将軍御教書を被成たりけれ共、是は只武蔵守師直が申沙汰する処也。誠に将軍の御意より事興て被成御教書に非ずと、人皆推量を廻しければ、後の禍を顧て、奉討する人も無りけり。斯処に太宰少弐頼尚如何思けん、此兵衛佐殿を聟に取て、己が館に奉置ければ、筑紫九国の外も随其催促重彼命人多かりけり。是に依て宮方、将軍方、兵衛佐殿方とて国々三に分れしかば、世中の総劇弥無休時。只漢の代傾て後、呉魏蜀の三国鼎の如くに峙て、互に二を亡さんとせし戦国の始に相似たり。


237 三角入道謀叛事

爰石見国の住人、三角入道、兵衛佐直冬の随下知、国中を打順へ、庄園を掠領し、逆威を恣にすと聞へければ、事の大に成ぬ前に退治すべしとて、越前守師泰六月二十日都を立て、路次の軍勢を卒し石見国へ発向す。七月二十七日の暮程に江河へ打臨み、遥敵陣を見渡せば、是ぞ聞ゆる佐和善四郎が楯篭たる城よと覚て、青杉・丸屋・鼓崎とて、間四五町を隔たる城三つ、三壷の如峙て麓に大河流たり。城より下向ふたる敵三百余騎、河より向に扣てこゝを渡せやとぞ招たる。寄手二万余騎、皆河端に打臨で、何くか渡さましと見るに、深山の雲を分て流出たる河なれば、松栢影を浸して、青山も如動、石岩流を徹て、白雪の翻へるに相似たり。「案内も知ぬ立河を、早りの侭に渡し懸て、水に溺て亡びなば、猛く共何の益かあらん。日已に晩に及ぬ。夜に入らば水練の者共を数た入て、瀬踏を能々せさせて後、明日可渡。」と評定有て馬を扣へたる処に、森小太郎・高橋九郎左衛門、三百余騎にて一陣に進だりけるが申けるは、「足利又太郎が治承に宇治河を渡し、柴田橘六が承久に供御の瀬を渡したりしも、何れか瀬踏をせさせて候し。思ふに是が渡りにてあればこそ、渡さん所を防んとて敵は向に扣へたるらめ。此河の案内者我に勝たる人不可有。つゞけや殿原。」とて、只二騎真先に進で渡せば、二人が郎等三百余騎、三吉の一族二百余騎、一度に颯と馬を打入て、弓の本弭末弭取違疋馬に流をせき上て、向の岸へぞ懸襄たる。善四郎が兵暫支て戦けるが、散々に懸立られて後なる城へ引退く。寄手弥勝に乗て続て城へ蒐入んとす。三の城より木戸を開て、同時に打出て、前後左右より取篭て散々に射る。森・高橋・三吉が兵百余人、痛手を負、石弓に被打、進兼たるを見て、越後守、「三吉討すな、あれつゞけ。」と被下知ければ、山口七郎左衛門、赤旗・小旗・大旗の一揆、千余騎抜連て懸る。荒手の大勢に攻立られて、敵皆城中へ引入れば、寄手皆逆木の際まで攻寄て、掻楯かひてぞ居たりける。手合の合戦に打勝て、敵を城へは追篭たれ共、城の構密しく岸高く切立たれば、可打入便もなく、可攻落様もなし。只徒に屏を隔て掻楯をさかうて、矢軍に日をぞ送ける。或時寄手の三吉一揆の中に、日来より手柄を顕したる兵共三四人寄合て評定しけるは、「城の体を見るに如今責ば、御方は兵粮につまりて不怺共、敵の軍に負て落る事は不可有。其上備中・備後・安芸・周防の間に、兵衛佐殿に心を通する者多しと聞ゆれば、後に敵の出来らんずる事無疑。前には数十箇所の城を一も落さで、後ろには又敵道を塞ぬと聞なば、何なる樊■・張良ともいへ、片時も不可怺。いざや事の難儀に成ぬ前に、此城を夜討に落して、敵に気を失はせ、宰相殿に力を付進せん。」と申ければ、「此義尤可然。されば手柄の者共を集よ。」とて、六千余騎の兵の中より、世に勝たる剛の者をえり出すに、足立五郎左衛門・子息又五郎・杉田弾正左衛門尉・後藤左衛門蔵人種則・同兵庫允泰則・熊井五郎左衛門尉政成・山口新左衛門尉・城所藤五・村上新三郎・同弥二郎・神田八郎・奴可源五・小原平四郎・織田小次郎・井上源四郎・瓜生源左衛門・富田孫四郎・大庭孫三郎・山田又次郎・甕次郎左衛門・那珂彦五郎、二十七人をぞすぐりたる。是等は皆一騎当千の兵にて、心きゝ夜討に馴たる者共也とは云ながら、敵千余人篭て用心密しき城共を、可落とは不見ける。八月二十五日の宵の間に、えい声を出して、先立人を待調へさせ筒の火を見せて、さがる勢を進ませて、城の後なる自深山匐々忍寄て、薄・苅萱・篠竹なんどを切て、鎧のさね頭・冑の鉢付の板にひしと差て、探竿影草に身を隠し、鼓が崎の切岸の下、岩尾の陰にぞ臥たりける。かるも掻たる臥猪、朽木のうつぼなる荒熊共、人影に驚て、城の前なる篠原を、二三十つれてぞ落たりける。城中の兵共始は夜討の入よと心得て、櫓々に兵共弦音して、抛続松屏より外へ投出々々、静返て見けるが、「夜討にては無て後ろの山より熊の落て通りけるぞ、止よ殿原。」と呼はりければ、我先に射て取らんと、弓押張靭掻著々々、三百余騎の兵共、落行熊の迹を追て、遥なる麓へ下ければ、城に残る兵纔に五十余人に成にけり。夜は既に明ぬ。木戸は皆開たり。なじかは少しも可議擬、二十七人の者共、打物の鞘を迦して打入。城の本人佐和善四郎並郎等三人、腹巻取て肩に投懸、城戸口に下合て、一足も不引戦けるが、善四郎膝口切れて犬居に伏せば、郎等三人前に立塞ぎ暫し支て討死す。其間に善四郎は己が役所に走入、火を懸て腹掻切て死にけり。其外四十余人有ける者共は、一防も不防青杉の城へ落て行。熊狩しつる兵共は熊をも不追迹へも不帰、散々に成てぞ落行ける。憑切たる鼓崎の城を被落のみならず、善四郎忽討れにければ、残二の城も皆一日有て落にけり。兵、伏野飛雁乱行と云、兵書の詞を知ましかば、熊故に城をば落されじと、世の嘲に成にけり。其後越後守、石見勢を相順て国中へ打出たるに、責られては落得じとや思けん、石見国中に、三十二箇所有ける城共、皆聞落して、今は只三角入道が篭たる三隅城一ぞ残ける。此城山嶮く用心深ければ、縦力責に攻る事こそ不叶共、扶の兵も近国になし、知行の所領も無ければ、何までか怺て城にもたまるべき。只四方の峯々に向城を取て、二年三年にも攻落せとて、寄手の構密しければ、城内の兵気たゆみて、無憑方ぞ覚ける。


238 直冬朝臣蜂起事付将軍御進発事

中国は大略静謐の体なれ共、九州又蜂起しければ、九月二十九日、肥後国より都へ早馬を立て注進しければ、「兵衛佐直冬、去月十三日当国に下著有て、川尻肥後守幸俊が館に居し給ふ処に、宅磨別当太郎守直与力同心して国中を駆催間、御方に志を通ずる族有といへ共、其責に不堪して悉付順はずと云者なし。然間川尻が勢如雲霞成て宇都宮三河守が城を囲むに、一日一夜合戦して討るゝ者百余人、疵を被る兵不知数。遂に三河守城を被責落、未死生の堺を不知分。宅磨・河尻、弥大勢に成て鹿子木大炊助を取巻間、後攻の為少弐が代官宗利近国を相催すといへ共、九国二島の兵共、太半兵衛佐殿に心を通ずる間、催促に順ふ輩多からず。事已に及難儀候、急御勢を被下べし。」とぞ申ける。将軍此注進に驚て、「さても誰をか討手に可下。」と執事武蔵守に間給ひければ、師直、「遠国の乱を鎮めんが為には、末々の御一族、乃至師直なんどこそ可罷下にて候へ共、是はいかにも上さまの自御下候て、御退治なくては叶まじきにて候。其故は九国の者共が兵衛佐殿に奉付事は、只将軍の君達にて御座候へば、内々御志を被通事は候はんと存ずる者にて候也。天下の人案に相違して、直に御退治の御合戦候はゞ、誰か父子の確執に天の罰を顧ぬ者候べき。将軍の御旗下にて、師直命を軽ずる程ならば、九国・中国悉御敵に与すと云共、何の恐か候べき。只夜を日に継で御下候へ。」と、強に勧め申ければ、将軍一義にも不及給、都の警固には宰相中将義詮を残置奉て、十月十三日征夷大将軍正二位大納言源尊氏卿、執事武蔵守師直を召具し、八千余騎の勢を卒し、兵衛佐直冬為誅罰とて、先中国へとぞ急給ける。


239 錦小路殿落南方事

将軍、已明日西国へ可被立と聞へける其夜、左兵衛督入道慧源は、石堂右馬助頼房許を召具して、いづち共不知落給にけり。是を聞て世の危を思ふ人は、「すはや天下の乱出来ぬるは、高家の一類今に滅ん。」とぞ囁ける。事の様を知らぬ其方様の人々女姓なんどは、「穴浅猿や、こはいかに成ぬる世中ぞや。御共に参たる人もなし。御馬も皆厩に繋れたり。徒洗にては何くへか一足も落させ給ふべき。是は只武蔵守の計として、今夜忍やかに奉殺者也。」と、声も不惜泣悲む。仁木・細川の人々も執事の尾形に馳集て、「錦小路殿落させ給ひて候事、後の禍不遠と覚候へば、暫都に御逗留有て在所をも能々可被尋や候らん。」と被申ければ、師直、「穴こと/゛\し、縦何なる吉野十津河の奥、鬼海高麗の方へ落給ひたり共、師直が世にあらん程は誰か其人に与し奉べき。首を獄門の木に曝し、尸を匹夫の鏃に止め給はん事、三日が内を不可出。其上将軍御進発の事、已に諸国へ日を定て触遣しぬ。相図相違せば事の煩多かるべし。暫も非可逗留処。」とて、十月十三日の早旦に師直遂に都を立て、将軍を先立奉り、路次の軍勢駆具して、十一月十九日に備前の福岡に著給ふ。爰にて四国中国の勢を待けれ共、海上は波風荒て船も不通山陰道は雪降積て馬の蹄も立ざれば、馳参る勢不多。さては年明てこそ筑紫へは向はめとて、将軍備前の福岡にて徒に日をぞ送られける。


240 自持明院殿被成院宣事

左兵衛督入道慧源は、師直が西国へ下らんとしける比をひ、潜に殺し可奉企有と聞へしかば、為遁其死忍で先大和国へ落て、越智伊賀守を憑まれたりければ、近辺の郷民共同心に合力して、路々を切塞ぎ四方に関を居て、誠に弐なげにぞ見へたりける。後一日有て、石堂右馬助頼房以下、少々志を存る旧好の人々馳参りければ、早隠れたる気色もなし。其聞へ都鄙の間に区也。何様天気ならでは私の本意を難達とて、先京都へ人を上せ、院宣を伺申されければ、無子細軈て被宣下、剰不望鎮守府将軍に被補。其詞云、被院宣云、斑鳩宮之誅守屋、朱雀院之戮将門、是豈非捨悪持善之聖猷哉。爰退治凶徒、欲息父叔両将之鬱念、叡感甚不少。仍補鎮守府将軍、被任左兵衛督畢。早卒九国二島並五畿七道之軍勢企上洛、可令守護天下。者依院宣執達如件。観応元年十月二十五日権中納言国俊奉足利左兵衛督殿


241 慧源禅巷南方合体事付漢楚合戦事

左兵衛督入道、都を仁木・細川・高家の一族共に背かれて浮れ出ぬ。大和・河内・和泉・紀伊国は、皆吉野の王命に順て、今更武家に可付順共不見ければ、澳にも不著礒にも離たる心地して、進退歩を失へり。越智伊賀守、「角ては何様難儀なるべしと覚へ候。只吉野殿の御方へ御参候て、先非を改め、後栄を期する御謀を可被廻とこそ存候へ。」と申ければ、「尤此儀可然。」とて、軈て専使を以て、吉野殿へ被奏達けるは、元弘初、先朝為逆臣被遷皇居於西海、宸襟被悩候時、応勅命雖有起義兵輩、或敵被囲、或戦負屈機、空志処、慧源苟勧尊氏卿企上洛、応勅決戦、帰天下於一統皇化候事、乾臨定被残叡感候歟。其後依義貞等讒、無罪罷成勅勘之身、君臣空隔胡越之地、一類悉残朝敵之名条歎有余処也。臣罪雖誠重、天恩不過往、負荊下被免其咎、則蒙勅免綸言、静四海之逆乱、可戴聖朝之安泰候。此旨内内得御意、可令奏聞給候。恐惶謹言。十二月九日沙弥慧源進上四条大納言殿と委細の書状を捧て、降参の由をぞ被申たる。則諸卿参内して、此事如何が可有と僉議ありけるに、先洞院左大将実世公被申けるは、「直義入道が申処、甚以偽れり。相伝譜代の家人、師直・師泰が為に都を被追出身の措処なき間、聊借天威己為達宿意、奉掠天聴者也。二十余年の間一人を始進せて百司千官悉望鳳闕之雲、■飛鳥之翅事、然直義入道が不依悪逆乎。而今幸軍門に降らん事を請ふ、此天の与る処也。乗時是を不誅後の禍噛臍無益。只速に討手を差遣て首を禁門の前に可被曝とこそ存候へ。」と被申ける。次に二条関白左大臣殿暫思案して被仰けるは、「張良が三略の詞に、推慧施恩士力日新戦如風発といへり。是己謝罪者は忠貞に不懈誠以尽事、却て無弐故也。されば章邯楚に降て秦忽に破れ、管仲許罪斉則治事、尤今の世に可為指南。直義入道御方に参る程ならば、君天下を保せ給はん事万歳是より可始。只元弘の旧功を不被捨、官職に復して被召仕より外の義は非じとこそ覚へ候へ。」と異儀区にこそ被申けれ。諌臣両人の異儀、得失互に備ふ。是非難分。君も叡慮を被傾、末座の諸卿も言を出さで良久ある処に、北畠准后禅閤喩を引て被申けるは、「昔秦の世已に傾かんとせし時、沛公は沛郡より起り項羽は楚より起る。六国の諸候の秦を背く者彼両将に付順しかば、共に其威漸振て、沛公が兵十万余騎、漢の濮陽の東に軍だちし、項羽が勢は四十万騎、定陶を攻て雍丘の西に至る。沛公、項羽相共に古の楚王の末孫心と云し人、民間に下て羊を飼しを、取立義帝と号し、其御前にて、先咸陽に入て秦を亡したるらん者、必天下に王たるべしと約諾して、東西に分れて責上る。角て項羽已に鉅鹿に至時、秦の左将軍章邯、百万騎にて相待ける間、項羽自二十万騎にて河を渡て後、船を沈め釜甑を破て盧舎を焼。是は敵大勢にて御方小勢也。一人も生ては不返と心を一にして不戦ば、千に一も勝事非じと思ふ故に、思切たる心中を士卒に為令知也。於是秦の将軍と九たび遇て百たび戦。忽に秦の副将軍蘇角を討て王離を生虜しかば、討るゝ秦の兵四十余万人、章邯重て戦ふ事を不得、終に項羽に降て還て秦をぞ責たりける。項羽又新安城の戦に打勝て首を切事二十万、凡て項羽が向ふ処不破云事なく、攻る城は不落云事無りしか共、至所ごとに美女を愛し酒に淫し、財を貪り地を屠しかば、路次に数月の滞有て、末だ都へは不責入。漢の元年十一月に、函谷関にぞ著にける。沛公は無勢にして而も道難処を経しか共、民を憐み人を撫する心深して、財をも不貪人をも不殺しかば、支て防ぐ城もなく、不降云敵もなし。道開けて事安かりしかば、項羽に三月先立て咸陽宮へ入にけり。而共沛公志天下に有しかば、秦の宮室をも不焼、驪山の宝玉をも不散、剰降れる秦の子嬰を守護し奉て、天下の約を定めん為に、還て函谷へ兵を差遣し、項羽を咸陽へ入立じと関の戸を堅閉たりける。数月有て項羽咸陽へ入らんとするに、沛公の兵函谷関を閉て項羽を入ず。項羽大に怒て当陽君に十二万騎の兵を差副、函谷関を打破て咸陽宮へ入にけり。則降れる子嬰皇帝を殺奉て咸陽宮に火を懸たれば、方三百七十里に作双たる宮殿楼閣一も不残焼て、三月まで火不消、驪山の神陵忽に灰塵と成こそ悲しけれ。此神陵と申は、秦始皇帝崩御成し時、はかなくも人間の富貴を冥途まで御身に順へんと思して、楼殿を作瑩き山川をかざりなせり。天には金銀を以て日月を十丈に鋳させて懸け、地には江海を形取て銀水を百里に流せり。人魚の油十万石、銀の御錠に入て長時に灯を挑たれば、石壁暗しといへ共青天白日の如く也。此中に三公已下の千官六千人、宮門守護の兵一万人、後宮の美人三千人、楽府の妓女三百人、皆生ながら神陵の土に埋て、苔の下にぞ朽にける。始作俑人無後乎と文宣王の誡しも、今こそ思知れたれ。始皇帝如此執覚様々の詔を被残神陵なれば、さこそは其妄執も留給らんに、項羽無情是を堀崩して殿閣悉焼払しかば、九泉の宝玉二度人間に返るこそ愍なれ。此時項羽が兵は四十万騎新豊の鴻門にあり。沛公が兵は十万騎咸陽の覇上にあり。其間相去事三十里、沛公項羽に未相見。於是范増といへる項羽が老臣、項羽に口説て云けるは、「沛公沛郡に有し時、其振舞を見しかば、財を貪美女を愛する心尋常に越たりき。今咸陽に入て後、財をも不貪美女をも不愛。是其志天下にある者也。我人を遣して窃に彼陣中の体を見するに、旗文竜虎を書けり。是天子の気に非や。速に沛公を不討ば、必天下為沛公可被傾。」と申ければ、項羽げにもと聞ながら、我勢の強大なるを憑て、何程の事か可有と思侮てぞ居たりける。斯る処に沛公が臣下曹無傷と云ける者、潜に項羽の方へ人を遣して、沛公天下に王たらんとする由をぞ告たりける。項羽是を聞て、此上は無疑とて四十万騎の兵共に命じて、夜明ば則沛公の陣へ寄せ、一人も不余可討とぞ下知しける。爰に項羽が季父に項伯と云ける人、昔より張良と知音也ければ、此事を告知せて落さばやと思ける間、急沛公の陣へ行向ひ張良を呼出して、「事の体已に急也。今夜急ぎ逃去て命許を助かれ。」とぞ教訓したりける。張良元来義を重じて、節に臨む時命を思ふ事塵芥よりも軽せし者也ければ、何故か事の急なるに当て、高祖を捨て可逃去とて、項伯が云処を沛公に告ぐ。沛公大に驚て、「抑我兵を以て項羽と戦ん事、勝負可依運や。」と問給へば、張良暫く案じて、「漢の兵は十万騎、楚は是四十万騎也。平野にて戦んに、漢勝事を難得。」とぞ答へける。沛公、「さらば我項伯を呼て、兄弟の交をなし婚姻の義を約して、先事の無為ならんずる様を謀らん。」とて項伯を帷幕の内へ呼給て、先旨酒を奉じ自寿をなして宣ひけるは、「初我と項王と約を成て先咸陽に入らん者を王とせんと云き。我項王に先立て咸陽に入事七十余日、而れ共約を以て我天下に王たらん事を不思、関に入て秋毫も敢て近付処に非ず。吏民を籍し府庫を封じて項王の来給はん日を待。是世の知る処也。兵を遣して函谷関を守らせし事は、全く項王を防に非ず。他盜人の出入と非常とを備へん為也き。願は公速に帰て、我が徳に不倍処を項王に語て明日の戦を留給へ。我則旦日項王の陣に行て自無罪故を可謝。」と宣ば、項伯則許諾して馬に策てぞ帰にける。項伯則項王の陣に行て具に沛公の謝する処を申けるは、「抑沛公先関中を破らざらましかば、項王今咸陽に入て枕を高し食を安ずる事を得ましや。今天下の大功は然沛公にあり。而るを小人の讒を信じて有功人を討ん事大なる不義也。不如沛公と交を深し功を重じて天下を鎮めんには。」と、理を尽して申ければ、項羽げにもと心服して顔色快く成にけり。暫あれば沛公百余騎を随へて来て項王に見ゆ。仍礼謝して曰、「臣項王と力を勠て秦を攻し時、項王は河北に戦ひ臣は河南に戦ふ。不憶き、万死を秦の虎口に逋れて、再会を楚の鴻門に遂んとは。而るに今佞人の讒に依て臣項王と胡越の隔有らん事豈可不悲乎。」と首を著地宣へば、項羽誠に心解たる気色にて、「是沛公の左司馬曹無傷が告知せしに依て頻に沛公を疑き。不然何以てか知事あらん。」と、忽に証人を顕して誠に所存なげなる体、心浅くぞ見へたりける。項羽頻に沛公を留めて酒宴に及ぶ。項王項伯とは東に嚮て坐し、范増は南に嚮たり。沛公は北に嚮て坐し、張良は西嚮て侍り。范増は兼てより、沛公を討ん事非今日ば何をか可期と思ければ、項羽を内へ入て、沛公と刺違へん為に、帯たる所の太刀を拳て、三度まで目加しけれ共、項羽其心を不悟只黙然としてぞ居たりける。范増則座を立て、項荘を呼て申けるは、「我為項王沛公を討んとすれ共項王愚にして是を不悟。汝早席に帰て沛公を寿せよ。沛公盃を傾ん時、我与汝剣を抜て舞ふ真似をして、沛公を坐中にして殺ん。而らずは汝が輩遂に沛公が為に亡されて、項王の天下を奪はれん事は、一年の中を不可出。」と涙を流て申ければ、項荘一義に不及。則席に帰て、自酌を取て沛公を寿す。沛公盃を傾る時、項荘、「君王今沛公と飲酒す。軍中楽を不為事久し。請臣等剣を抜て太平の曲を舞ん。」とて、項荘剣を抜て立。范増も諸共に剣を指かざして沛公の前に立合たり。項伯彼等が気色を見、沛公を討せじと思ければ、「我も共に可舞。」とて同又剣を抜て立。項荘南に向へば項伯北に向て立。范増沛公に近付ば項伯身を以て立隠す。依之楽已に徹んとするまで沛公を討事不能。少し隙ある時に張良門前に走出て誰かあると見るに、樊■つと走寄て、坐中の体如何と問ければ、張良、「事甚急也。今項荘剣を抜て舞ふ。其意常に沛公に在。」と答ければ、樊■、「此已に喉迫る也。速に入て沛公と同命を失んにはしかじ。」とて、冑の緒を縮め、鉄の楯を挟て、軍門の内へ入んとす。門の左右に交戟の衛士五百余人、戈を支へ太刀を抜て是を入じとす。樊■大に忿て、其楯を身に横へ門の関の木七八本押折て、内へつと走入れば、倒るゝ扉に打倒され、鉄の楯につき倒されて、交戟の衛士五百人地に臥して皆起あがらず。樊■遂に軍門に入て、其帷幕を掲て目を嗔し、項王をはたと睨で立けるに、頭の髪上にあがりて冑の鉢をゝひ貫き、師子のいかり毛の如く巻て百千万の星となる。眦逆に裂て、光百練の鏡に血をそゝぎたるが如、其長九尺七寸有て忿れる鬼鬚左右に分れたるが、鎧突して立たる体、何なる悪鬼羅刹も是には過じとぞ見へたりける。項王是を見給て、自剣を抜懸て跪て、「汝何者ぞ。」と問給へば、張良、「沛公の兵に樊■と申者にて候也。」とぞ答ける。項羽其時に居直て、「是天下の勇士也。彼に酒を賜はん。」とて、一斗を盛る巵を召出して樊■が前にをき、七尾許なる■の肩を肴にとつて出されたり。樊■楯を地に覆剣を抜て■の肩を切て、少も不残噛食て巵に酒をたぶ/\と受て三度傾け、巵を閣て申けるは、「夫秦王虎狼の心有て人を殺し民を害する事無休時。天下依之秦を不背云者なし。爰に沛公と項王と同く義兵を揚、無道の秦を亡して天下を救はん為に、義帝の御前にして血をすゝりて約せし時、先秦を破て咸陽に入らん者を王とせんと云き。然るに今沛公項王に先立て咸陽に入事数月、然共秋毫も敢て近付る所非ず。宮室を封閉して以て項王の来給はん事を待、是豈沛公の非仁義乎。兵を遣して函谷関を守しめし事は、他の盜人の出入と非常とに備へん為也き。其功の高事如此。未封侯の賞非ずして剰有功の人を誅せんとす。是亡秦の悪を続で自天の罰を招く者也。」と、少も不憚項王を睨て申せば、項王答るに言ば無して只首を低て赤面す。樊■は加様に思程云散して、張良が末座に著。暫有て沛公厠に行真似して、樊■を招て出給ふ。潜に樊■に向て、「先に項荘が剣を抜て舞つる志偏に吾を討んと謀る者也。座久して不帰事危に近し。是より急我陣へ帰らんと思ふが、不辞出ん事非礼。如何すべき。」と宣へば、樊■、「大行は不顧細謹、大礼は不必辞譲、如今人は方に為刀俎、我は為魚肉、何ぞ辞することをせんや。」とて、白璧一双と玉の巵一双とを張良に与て留置き、驪山の下より間道を経て、竜蹄に策を進め給へば、■強・紀信・樊■・夏侯嬰四人、自楯を挟み戈を採て、馬の前後に相順ふ。其道二十余里、嶮きを凌ぎ絶たるを渡て、半時を不過覇上の陣に行至りぬ。初め沛公に順ひし百余騎の兵共は、猶項王の陣の前に並居て、張良未鴻門にあれば人皆沛公の帰給へるを不知。暫有張良座に返て謝して曰、「沛公酔て坏を酌に不堪、退出し給ひ候つるが、臣良をして、謹で足下に可献之と被申置。」とて、先白璧一双を奉て、再拝して項王の前にぞ置たりける。項王白璧を受て、「誠に天下の重宝也。」と感悦して、坐上に置て自愛し給ふ事無類。其後張良又玉斗一双を捧て范増が前にぞ置たりける。范増大に忿て、玉斗を地に投剣を抜て突摧き、項王をはたと睨て、「嗟豎子不足与謀奪項王之天下者必沛公なるべし。奈何せん吾属今為之虜とならん事。白璧重宝也といへ共豈天下に替んや。」とて、怒る眼に泪を流し半時ばかりぞ立たりける。項王猶も范増が心を不悟、痛く酔て帳中に入給へば、張良百余騎を順て覇上に帰りぬ。沛公の軍門に至て、項王の方へ返忠しつる曹無傷を斬て、首を軍門に被懸。浩りし後は沛公項王互に相見ゆる事なし。天下は只項羽が成敗に随て、賞罰共に明ならざりしかば、諸侯万民皆共、沛公が功の隠れて、天下の主たらざる事をぞ悲みける。其後項羽と沛公と天下を争気已に顕れて、国々の兵両方に属せしかば、漢楚二に分れて四海の乱無止時。沛公をば漢の高祖と称す。其手に属する兵には、韓信・彭越・蕭何・曹参・陳平・張良・樊■・周勃・黥布・盧綰・張耳・王陵・劉賈・■商・潅嬰・夏侯嬰・傅寛・劉敬・■強・呉■・■食其・董公・紀信・轅生・周苛・侯公・随何・陸賈・魏無知・斉孫通・呂須・呂巨・呂青・呂安・呂禄以下の呂氏三百余人都合其勢三十万騎、高祖の方にぞ属しける。楚の項羽は元来代々将軍の家也ければ、相順ふ兵八千人あり。其外今馳著ける兵には、櫟陽長史欣・都尉董翳・塞王司馬欣・魏王豹・瑕丘申陽・韓王・成・趙司馬■・趙王歇・常山王張耳・義帝柱国共敖・遼東韓広・燕将臧荼・田市・田都・田安・田栄・成安君陳余・番君将梅■・雍王章邯、是は河北の戦ひ破れて後、三十万騎の勢にて項羽に降て属せしかば、項氏十七人、諸侯五十三人、都合其勢三百八十六万騎、項王の方にぞ加りける。漢の二年に項王城陽に至て、高祖の兵田栄と戦ふ。田栄が軍破れて降人に出ければ、其老弱婦女に至るまで、二十万人を土の穴に入て埋て是を殺す。漢王又五十六万人を卒して彭城に入る。項羽自精兵三万人を将て胡陵にして戦ふ。高祖又打負ければ、楚則漢の兵十余万人を生虜て■水の淵にぞ沈めける。■水為之不流。高祖二度戦負て霊壁の東に至る時、其勢纔に三百余騎也。項王の兵三百万騎、漢王を囲ぬる事三匝、漢可遁方も無りける処に、俄に風吹雨荒して、白日忽に夜よりも尚暗かりければ、高祖数十騎と共に敵の囲を出て、豊沛へ落給ふ。是を追て沛郡へ押寄ければ、高祖兵共爰に支へ彼こに防で、打死する者二十余人、沛郡の戦にも又漢王打負給ひければ、高祖の父大公、楚の兵に虜れて項王の前に引出さる。漢王又周呂侯と蕭何が兵を合せて二十万余騎、■陽に至る。項王勝に乗て八十万騎彭城より押寄て相戦ふ。此時漢の戦纔に雖有利、項王更に物共せず。漢楚互に勢を振て未重て不戦、共に広武に張陣川を隔てぞ居たりける。或時項王の陣に高き俎を作て、其上に漢王の父大公を置て高祖に告て云く、「是沛公が父に非や。沛公今首を延て楚に降らば太公と汝が命を助ん。沛公若楚に降らずは、急に大公を可烹殺。」とぞ申ける。漢王是を聞て、大に嘲て云、「吾項羽と北面にして命を懐王に受し時、兄弟たらん事を誓き。然れば吾父は即汝が父也。今而に父を烹殺さば幸に我に一盃の羹を分て。」と、欺れければ、項王大に怒て即大公を殺さんとしけるを、項伯堅諌ければ、「よしさらば暫し。」とて、大公を殺事をば止めてけり。漢楚久相支て未勝負を決、丁壮は軍旅に苦み老弱は転漕に罷る。或時項羽自甲冑を著し戈を取、一日に千里を走る騅と云馬に打乗て、只一騎川の向の岸に控て宣けるは、「天下の士卒戦に苦む事已に八箇年、是我と沛公と只両人を以ての故也。そゞろに四海の人民を悩さんよりは、我と沛公と独身にして雌雄を決すべし。」と招て、敵陣を睨でぞ立たりける。爰に漢皇自帷幕の中より出て、項王をせめて宣けるは、「夫項王自義無して天罰を招く事其罪非一。始項羽と与に命を懐王に受し時、先入て関中を定めたらん者を王とせんと云き。然を項羽忽に約を背て、我を蜀漢に主たらしむ。其罪一。宋義、懐王の命を受て卿子冠軍となる処に、項羽乱に其帷幕に入て、自卿子冠軍の首を斬て、懐王我をして是を誅せしめたりと偽て令を軍中に出す。其罪二。項羽趙を救て戦利有し時、還て懐王に不報、境内の兵を掃て自関に入る。其罪三。懐王堅く令すらく、秦に入らば民を害し財を貪る事なかれと。項羽数月をくれて秦に入し後、秦の宮室を焼き、驪山の塚を堀て其宝玉を私にせり。其罪四。又降れる秦王子嬰を殺して、天下にはびこる。其罪五。詐て秦の子弟を新安城の坑に埋て殺せる事二十万。其罪六。項羽のみ善地に王として故主を逐誅たり。畔逆是より起る。其罪七。懐王を彭城に移して韓王の地を奪、合せて梁楚に王として自天下を与り聞く。其罪八。項羽人をして陰に懐王を江南に殺せり。其罪九。此罪は天下の指所、道路目を以てにくも者也。大逆無道の甚事、天豈公を誡刑せざらんや。何ぞいたづがはしく、項羽と独身にして戦ふ事を致さん。公が力山を抜といへ共我義の天に合るには如じ。而らば刑余の罪人をして甲兵金革をすて、挺楚を制して、項羽を可撃殺。」と欺て、百万の士卒、同音に箙を敲てどつと笑ふ。項羽大に怒て自強弩を引て漢王を射る。其矢河の面て四町余を射越して漢王の前に控たる兵の、鎧の草摺より引敷の板裏をかけず射徹し、高祖の鎧の胸板に、くつまき責てぞ立たりける。漢の兵に楼煩と云けるは、強弓の矢継早、馬の上の達者にて、三町四町が中の物をば、下針をも射る程の者也けるが、漢王の当の矢を射んとて矢比過て懸出たりけるを、項羽自戟を持て立向ひ、目を瞋かし大音声を揚て、「汝何者なれば、我に向て弓を引んとはするぞ。」と怒てちやうどにらむ。其勢に僻易して、さしもの楼煩目敢て物を不見、弓を不引得人馬共に振ひ戦て、漢王の陣へぞ逃入ける。漢王疵を蒙て愈を待程に、其兵皆気を失ひしかば、戦毎に楚勝に不乗云事なし。是只范増が謀より出て、漢王常に囲まれしかば、陳平・張良等、如何にもして此范増を討んとぞ計りける。或時項王の使者漢王の方に来れり。陳平是に対面して、先酒を勧めんとしけるに、大■の具へを為て山海の珍を尽し旨酒如泉湛て、沙金四万斤、珠玉・綾羅・錦綉以下の重宝、如山積上て、引出物にぞ置たりける。陳平が語る詞毎に、使者敢て不心得、黙然として答る事無りける時に、陳平詐驚て、「吾公を以て范増が使也と思て密事を語、今項王の使なる事を知て、悔るに益なし。是命を伝る者の誤也。」と云て、様々に積置ける引出物を皆取返し、大■の具へを取入て、却て飢口にだにもあきぬべき、悪食をぞ具へける。使者帰て此由を項王に語る。項王是より范増が漢王と密儀を謀て、返忠をしけるよと疑て、是が権を奪て誅せん事を計る。范増是を聞て、一言も遂に不陳謝。「天下の事大に定ぬ。君王自是を治め給へ。我已に年八十余、命の中に君が亡んを見ん事も可悲。只願は我首を刎て市朝に被曝歟、不然鴆毒を賜て死を早せん。」と請ければ、項王弥瞋て鴆毒を呑せらる。范増鴆を呑て後未三日を不過血を吐てこそ死にけれ。楚漢相戦て已に八箇年自相当る事七十余度に及ぶまで、天下楚を背といへ〔共〕、項羽度ごとに勝に乗し事は、只楚の兵の猛く勇めるのみに非ず。范増謀を出して民をはぐゝみ、士を勇め敵の気を察し、労せる兵を助け化を普く施して、人の心を和せし故也。されば范増死を賜し後、諸侯悉楚を負て漢に属せる者甚多し。漢楚共に■陽の東に至て久相支へたる時に、漢は兵盛に食多して楚は兵疲れ食絶ぬ。此時漢の陸賈を楚に使して曰、「今日より後は天下を中分して、鴻溝より西をば漢とし東をば楚とせん。」と和を請給ふに、項王悦て其約を堅し給ふ。仍先に生取て戦の弱き時には、是を烹殺さんとせし漢王の父太公を緩して、漢へぞ送られける。軍勢皆万歳を呼ふ。角て楚は東に帰り漢は西に帰らんとしける時、陳平・張良共に漢王に申けるは、「漢今天下の太半を有て諸侯皆付順ふ。楚は兵罷て食尽たり。是天の楚を亡す時也。此時不討只虎を養て自患を遺侯者なるべし。」漢王此諌に付て即諸候に約し、三百余万騎の勢にて項王を追懸給ふ。項羽僅十万騎の勢を以て固陵に返し合て漢と相戦ふ。漢の兵四十余万人討れて引退く。是を聞て韓信、斉国の兵三十万騎を卒して、寿春より廻て楚と戦ふ。彭越、彭城の兵二十万騎を卒して、城父を経て楚の陣へ寄せ、敵の行前を遮て張陣。大司馬周殷、九江の兵十万騎を卒して、楚の陣へ押寄せ水を阻て取篭る。東南西北悉百重千重に取巻たれば、項羽可落方無て、垓下の城にぞ被篭ける。漢の兵是を囲める事数百重、四面皆楚歌するを聞て項羽今宵を限と思はれければ、美人虞氏に向て、泪を流し詩を作て悲歌慷慨し給ふ。虞氏悲に不堪、剣を給て自其刃に貫れて臥ければ、項羽今は浮世に無思事と悦て、夜明ければ、討残されたる兵二十八騎を伴ふて、先四面を囲みぬる漢の兵百万余騎を懸破り、烏江と云川の辺に打出給ひ、自泪を押て其兵に語て曰、「吾兵を起してより以来、八箇年の戦に、自逢事七十余戦、当る所は必破る、撃つ所は皆服す。未嘗より一度も不敗北遂に覇として天下を有てり。然共今勢ひ尽力衰へて漢の為に被亡ぬる事、全非戦罪只天我を亡す者也。故に今日の戦に、我必快く三度打勝て、而も漢の大将の頚を取、其旗を靡かして、誠に我言処の不誤事を汝等にしらすべし。」とて、二十八騎を四手に分、漢の兵百万騎を四方に受て控へたる処に、先一番に漢の将軍淮陰侯、三十万騎にて押寄たり。項羽二十八騎を迹に立て、真前に懸入て、自敵三百余騎斬て落し、漢大将の首を取て鋒に貫て、本の陣へ馳返り、山東にして見給へば、二十八騎の兵、八騎討れて二十騎に成にけり。其勢を又三所に控へさせて、近く敵を待懸たるに、孔将軍二十万騎、費将軍五十万騎にて東西より押寄たり。項王又大に呼て山東より馳下、両陣の敵を四角八方へ懸散し、逃る敵五百余人を斬て落し、又大将都尉が頭を取、左の手に提て、本の陣へ馳返り、其兵を見給ふに纔七騎に成にけり。項羽自漢の大将軍三人の頭を鋒に貫て指揚、七騎の兵に向て、「何に汝等我言所に非ずや。」と問給へば、兵皆舌を翻て、「誠に大王の御言の如し。」と感じける。項羽已に五十余箇所疵を被てければ、「今は是までぞ、さらば自害をせん。」とて、烏江の辺に打臨給ふ。爰に烏江の亭の長と云者、舟を一艘漕寄せて、「此川の向は項王の御手に属して、所々の合戦に討死仕りし兵共の故郷にて候。地狭しといへ共其人数十万人あり。此舟より外は可渡浅瀬もなく、又橋もなし。漢の兵至る共、何を以てか渡る事を得ん。願は大王急ぎ渡て命をつぎ、重て大軍を動かして、天下を今一度覆し給へ。」と申ければ、項王大に哈て、「天我を亡せり。我何んか渡る事をせん。我昔江東の子弟八千人と此川を渡て秦を傾け、遂に天下に覇として賞未士卒に不及処に、又高祖と戦ふ事八箇年、今其子弟一人も還る者無して、我独江東に帰らば、縦江東の父兄憐で我を王とすとも、我何の面目有てか是に見ゆる事を得ん。彼縦不言共、我独心に不愧哉。」とて、遂に河を不渡給。され共、亭の長が其志を感じて、騅と云ける馬の一日に千里を翔るを、只今まで乗給ひたるを下て、亭の長にぞたびたりける。其後歩立に成て、只三人猶忿て立給へる所へ、赤泉侯騎将として二万余騎が真前に進み、項王を生取んと馳近付。項王眼を瞋し声を発して、「汝何者なれば我を討んとは近付ぞ。」と忿て立向給ふに、さしもの赤泉侯其人こそあらめ、意なき馬さへ振ひ戦て、小膝を折てぞ臥たりける。爰に漢の司馬呂馬童が遥に控たりけるを、項王手を挙て招き、「汝は吾年来の知音也。我聞、漢我頭を以て千金の報万戸の邑に購と、我今汝が為に頭を与て、朋友の恩を謝すべし。」と云。呂馬童泪を流して敢て項羽を討んとせず。項羽、「よしやさらば我と我頚を掻切て、汝に与へん。」とて、自剣を抜て己が首を掻落し、左の手に差挙て立すくみにこそ死給ひけれ。項王遂に亡て、漢七百の祚を保し事は、陣平・張良が謀にて、偽て和睦せし故也。其智謀今又当れり。然れば只直義入道が申旨に任て先御合体あらば、定て君を御位に即進せて、万機の政を四海に施されん歟。聖徳普して、士卒悉帰服し奉らば、其威忽に振て逆臣等を亡されんに、何の子細か候べき。」と、次での才学と覚へて、言ば巧に申されければ、諸卿げにもと同心して、即勅免の宣旨をぞ被下ける。被綸言云、温故知新者、明哲之所好也。撥乱復正者、良将之所先也。而不忘元弘之旧功奉帰皇天之景命、叡感之至、尤足褒賞。早揚義兵可運天下静謐之策。者綸旨如此、仍執達如件。正平五年十二月十三日左京権大夫正雄奉足利左兵衛督入道殿とぞ被成ける。是ぞ誠に君臣永不快の基、兄弟忽向背の初と覚へて、浅猿かりし世間なり。