太平記/巻第二十一
巻第二十一
190 天下時勢粧事
暦応元年の末に、四夷八蛮悉く王化を助て大軍同時に起りしかば、今はゝや聖運啓ぬと見へけるに、北畠顕家卿、新田義貞、共に流矢の為に命を墜し、剰奥州下向の諸卒、渡海の難風に放されて行方知ずと聞へしかば、世間さてとや思けん。結城上野入道が子息大蔵少輔も、父が遺言を背て降人に出ぬ。芳賀兵衛入道禅可も、主の宇都宮入道が子息加賀寿丸を取篭て将軍方に属し、主従の礼儀を乱り己が威勢を恣にす。此時新田氏族尚残て城々に楯篭り、竹園の連枝時を待て国々に御座有といへ共、猛虎の檻に篭り、窮鳥の翅を削れたるが如に成ぬれば、戻眼空く百歩の威を闔、悲心遠く九霄の雲を望で、只時々の変有ん事を待計也。天下の危かりし時だにも、世の譏をも不知侈を究め欲を恣にせし大家の氏族、高・上杉の党類なれば、能なく芸無くして乱階不次の賞に関り、例に非ず法に非して警衛判断の識を司る。初の程こそ朝敵の名を憚りて毎事天慮を仰ぎ申体にて有しが、今は天下只武徳に帰して、公家有て何の用にか立べきとて、月卿雲客・諸司格勤の所領は云に及ず、竹園椒房・禁裡仙洞の御領までも武家の人押領しける間、曲水重陽の宴も絶はて、白馬蹈歌の節会も行れず、如形儀計也。禁闕仙洞さびかへり、参仕拝趨の人も無りけり。況や朝廷の政、武家の計に任て有しかば、三家の台輔も奉行頭人の前に媚を成し、五門の曲阜も執事侍所の辺に賄ふ。されば納言宰相なんど路次に行合たるを見ても、声を学び指を差て軽慢しける間、公家の人々、いつしか云も習はぬ坂東声をつかい、著もなれぬ折烏帽子に額を顕して、武家の人に紛んとしけれ共、立振舞へる体さすがになまめいて、額付の跡以外にさがりたれば、公家にも不付、武家にも不似、只都鄙に歩を失し人の如し。
191 佐渡判官入道流刑事
此比殊に時を得て、栄耀人の目を驚しける佐々木佐渡判官入道々誉が一族若党共、例のばさらに風流を尽して、西郊東山の小鷹狩して帰りけるが、妙法院の御前を打過るとて、跡にさがりたる下部共に、南底の紅葉の枝をぞ折せける。時節門主御簾の内よりも、暮なんとする秋の気色を御覧ぜられて、「霜葉紅於二月花なり。」と、風詠閑吟して興ぜさせ給けるが、色殊なる紅葉の下枝を、不得心なる下部共が引折りけるを御覧ぜられて、「人やある、あれ制せよ。」と仰られける間、坊官一人庭に立出て、「誰なれば御所中の紅葉をばさやうに折ぞ。」と制しけれ共、敢て不承引。「結句御所とは何ぞ。かたはらいたの言や。」なんど嘲哢して、弥尚大なる枝をぞ引折りける。折節御門徒の山法師、あまた宿直して候けるが、「悪ひ奴原が狼籍哉。」とて、持たる紅葉の枝を奪取、散々に打擲して門より外へ追出す。道誉聞之、「何なる門主にてもをわせよ、此比道誉が内の者に向て、左様の事翔ん者は覚ぬ物を。」と忿て、自ら三百余騎の勢を率し、妙法院の御所へ押寄て、則火をぞ懸たりける。折節風烈く吹て、余煙十方に覆ければ、建仁寺の輪蔵・開山堂・並塔頭・瑞光菴同時に皆焼上る。門主は御行法の最中にて、持仏堂に御座有けるが、御心早く後の小門より徒跣にて光堂の中へ逃入せ給ふ。御弟子の若宮は、常の御所に御座有けるが、板敷の下へ逃入せ給ひけるを、道誉が子息源三判官走懸て打擲し奉る。其外出世・坊官・児・侍法師共、方々へ逃散りぬ。夜中の事なれば、時の声京白河に響きわたりつゝ、兵火四方に吹覆。在京の武士共、「こは何事ぞ。」と遽騒で、上下に馳せ違ふ。事の由を聞定て後に馳帰りける人毎に、「あなあさましや、前代未聞の悪行哉。山門の嗷訴今に有なん。」と、云ぬ人こそ無りけれ。山門の衆徒此事を聞て、「古より今に至まで、喧嘩不慮に出来る事多といへ共、未門主・貫頂の御所を焼払ひ、出世・坊官を面縛する程の事を聞ず。早道誉・秀綱を給て、死罪に可行。」由を公家へ奏聞し、武家に触れ訴ふ。此門主と申も、正き仙院の連枝にて御座あれば、道誉が翔無念の事に憤り思召て、あわれ断罪流刑にも行せばやと思召けれ共、公家の御計としては難叶時節なれば、無力武家へ被仰処に、将軍も左兵衛督も、飽まで道誉を被贔負ける間、山門は理訴も疲て、款状徒に積り、道誉は法禁を軽じて奢侈弥恣にす。依之嗷儀の若輩、大宮・八王子の神輿を中堂へ上奉て、鳳闕へ入れ奉んと僉儀す。則諸院・諸堂の講莚を打停め、御願を停廃し、末寺・末社の門戸を閇て祭礼を打止。山門の安否、天下の大事、此時にありとぞ見へたりける。武家もさすが山門の嗷訴難黙止覚へければ、「道誉が事、死罪一等を減じて遠流に可被処歟。」と奏聞しければ、則院宣を成れ山門を宥らる。前々ならば衆徒の嗷訴は是には総て休るまじかりしか共、「時節にこそよれ、五刑の其一を以て山門に理を付らるゝ上は、神訴眉目を開くるに似たり。」と、宿老是を宥て、四月十二日に三社の神輿を御帰座成し奉て、同二十五日道誉・秀綱が配所の事定て、上総国山辺郡へ流さる。道誉近江の国分寺迄、若党三百余騎、打送の為にとて前後に相順ふ。其輩悉猿皮をうつぼにかけ、猿皮の腰当をして、手毎に鴬篭を持せ、道々に酒肴を設て宿々に傾城を弄ぶ。事の体尋常の流人には替り、美々敷ぞ見へたりける。是も只公家の成敗を軽忽し、山門の鬱陶を嘲弄したる翔也。聞ずや古より山門の訴訟を負たる人は、十年を過ざるに皆其身を滅すといひ習せり。治承には新大納言成親卿、西光・西景、康和には後二条関白、其外泛々の輩は不可勝計。されば是もいかゞ有んずらんと、智ある人は眼を付て怪み見けるが、果して文和三年の六月十三日に、持明院新帝、山名左京大夫時氏に被襲、江州へ臨幸成ける時、道誉が嫡子源三判官秀綱堅田にて山法師に討る。其弟四郎左衛門は、大和内郡にて野伏共に殺れぬ。嫡孫近江判官秀詮・舎弟次郎左衛門二人は、摂津国神崎の合戦の時、南方の敵に誅せられにけり。弓馬の家なれば本意とは申ながら、是等は皆医王山王の冥見に懸られし故にてぞあるらんと、見聞の人舌を弾して、懼れ思はぬ者は無りけり。
192 法勝寺塔炎上事
康永元年三月二十日に、岡崎の在家より俄失火出来て軈て焼静まりけるが、纔なる細■一つ遥に十余町を飛去て、法勝寺の塔の五重の上に落留る。暫が程は燈篭の火の如にて、消もせず燃もせで見へけるが、寺中の僧達身を揉で周章迷けれ共、上べき階もなく打消べき便も無れば、只徒に虚をのみ見上て手撥てぞ立れたりける。さる程に此細■乾たる桧皮に焼付て、黒煙天を焦て焼け上る。猛火雲を巻て翻る色は非想天の上までも上り、九輪の地に響て落声は、金輪際の底迄も聞へやすらんとをびたゝし。魔風頻に吹て余煙四方に覆ければ、金堂・講堂・阿弥陀堂・鐘楼・経蔵・総社宮・八足の南大門・八十六間の廻廊、一時の程に焼失して、灰燼忽地に満り。焼ける最中外より見れば、煙の上に或は鬼形なる者火を諸堂に吹かけ、或は天狗の形なる者松明を振上て、塔の重々に火を付けるが、金堂の棟木の落るを見て、一同に手を打てどつと笑て愛宕・大岳・金峯山を指て去と見へて、暫あれば花頂山の五重の塔、醍醐寺の七重の塔、同時に焼ける事こそ不思議なれ。院は二条河原まで御幸成て、法滅の煙に御胸を焦され、将軍は西門の前に馬を控られて、回禄の災に世を危めり。抑此寺と申は、四海の泰平を祈て、殊百王の安全を得せしめん為に、白河院御建立有し霊地也。されば堂舎の構善尽し美尽せり。本尊の錺は、金を鏤め玉を琢く。中にも八角九重の塔婆は、横竪共に八十四丈にして、重々に金剛九会の曼陀羅を安置せらる。其奇麗崔嵬なることは三国無双の鴈塔也。此塔婆始て造出されし時、天竺の無熱池・震旦の昆明池・我朝の難波浦に、其影明に写て見へける事こそ奇特なれ。かゝる霊徳不思議の御願所、片時に焼滅する事、偏に此寺計の荒廃には有べからず。只今より後弥天下不静して、仏法も王法も有て無が如にならん。公家も武家も共に衰微すべき前相を、兼て呈す物也と、歎ぬ人は無りけり。
193 先帝崩御事
南朝の年号延元三年八月九日より、吉野の主上御不予の御事有けるが、次第に重らせ給。医王善逝の誓約も、祈に其験なく、耆婆扁鵲が霊薬も、施すに其験をはしまさず。玉体日々に消て、晏駕の期遠からじと見へ給ければ、大塔忠雲僧正、御枕に近付奉て、泪を押て申されけるは、「神路山の花二たび開る春を待、石清水の流れ遂に澄べき時あらば、さりとも仏神三宝も捨進せらるゝ事はよも候はじとこそ存候つるに、御脈已に替せ給て候由、典薬頭驚申候へば、今は偏に十善の天位を捨て、三明の覚路に趣せ給ふべき御事をのみ、思召被定候べし。さても最期の一念に依て三界に生を引と、経文に説れて候へば、万歳の後の御事、万づ叡慮に懸り候はん事をば、悉く仰置れ候て、後生善所の望をのみ、叡心に懸られ候べし。」と申されたりければ、主上苦げなる御息を吐せ給て、「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、是如来の金言にして、平生朕が心に有し事なれば、秦穆公が三良を埋み、始皇帝の宝玉を随へし事、一も朕が心に取ず。只生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して、四海を令泰平と思計也。朕則早世の後は、第七の宮を天子の位に即奉て、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として天下を鎮べし。思之故に、玉骨は縦南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ。若命を背義を軽ぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。」と、委細に綸言を残されて、左の御手に法華経の五巻を持せ給、右の御手には御剣を按て、八月十六日の丑剋に、遂に崩御成にけり。悲哉、北辰位高して百官星の如に列と雖も、九泉の旅の路には供奉仕臣一人もなし。奈何せん、南山地僻にして、万卒雲の如に集といへ共、無常の敵の来をば禦止むる兵更になし。只中流に舟を覆て一壷の浪に漂ひ、暗夜に燈消て、五更の雨に向が如し。葬礼の御事、兼て遺勅有しかば、御終焉の御形を改めず、棺槨を厚し御坐を正して、吉野山の麓、蔵王堂の艮なる林の奥に、円丘を高く築て、北向に奉葬。寂寞たる空山の裏、鳥啼日已暮ぬ。土墳数尺の草、一経涙尽て愁未尽。旧臣后妃泣々鼎湖の雲を瞻望して、恨を天辺の月に添へ、覇陵の風に夙夜して、別を夢裡の花に慕ふ。哀なりし御事也。天下久乱に向ふ事は、末法風俗なれば暫く言に不足。延喜天暦より以来、先帝程の聖主神武の君は未をはしまさざりしかば、何と無共、聖徳一たび開て、拝趨忠功の望を達せぬ事は非じと、人皆憑をなしけるが、君の崩御なりぬるを見進て、今は御裳濯河の流の末も絶はて、筑波山の陰に寄人も無て、天下皆魔魅の掌握に落る世に成んずらんと、あぢきなく覚へければ、多年著纏進らせし卿相雲客、或は東海の波を蹈で仲連が跡を尋、或は南山の歌を唱て■戚が行を学んと、思々に身の隠家をぞ求給ける。爰に吉野執行吉水法印宗信、潜に此形勢を伝聞て、急参内して申けるは、「先帝崩御の刻被遺々勅、第七の宮を御位に即進せ、朝敵追伐の御本意を可被遂と、諸卿親り綸言を含せ給し事也。未日を経ざるに退散隠遁の御企有と承及候こそ、心ゑがたく存候へ。異国の例を以吾朝の今を計候に、文王草昧の主として、武王周の業を起し、高祖崩じ給て後、孝景漢の世を保候はずや。今一人万歳を早し給ふとも、旧労の輩其功を捨て敵に降んと思者は有べからず。就中世の危を見て弥命を軽ぜん官軍を数るに、先上野国に新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興、武蔵国に其家嫡左少将義宗、越前国に脇屋刑部卿義助、同子息左衛門佐義治、此外江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井・額田・一井・金谷・堤・青竜寺・青襲・小守沢の一族都合四百余人、国々に隠謀し所々に楯篭る。造次にも忠戦を不計と云事なし。他家の輩には、筑紫に菊池・松浦鬼八郎・草野・山鹿・土肥・赤星、四国には土居・得能・江田・羽床、淡路に阿間・志知、安芸に有井、石見には三角入道・合四郎、出雲伯耆に長年が一族共、備後には桜山、備前に今木・大富・和田・児島、播磨に吉河、河内に和田・楠・橋本・福塚、大和に三輪の西阿・真木の宝珠丸、紀伊国に湯浅・山本・井遠三郎・賀藤太郎、遠江には井介、美濃に根尾入道、尾張に熱田大宮司、越前には小国・池・風間・禰津越中守・大田信濃守、山徒には南岸の円宗院、此外泛々の輩は数に不遑。皆義心金石の如にして、一度も変ぜぬ者共也。身不肖に候へども、宗信右て候はん程は、当山に於て又何の御怖畏か候べき。何様先御遺勅に任て、継体の君を御位に即進せ、国々へ綸旨を成下れ候へかし。」と申ければ、諸卿皆げにもと思れける処に、又楠帯刀・和田和泉守二千余騎にて馳参り、皇居を守護し奉て、誠に他事なき体に見へければ、人々皆退散の思を翻て、山中は無為に成にけり。
194 南帝受禅事
同十月三日に、太神宮へ奉幣使を下され、第七の宮天子の位に即せ給ふ。夫継体君登極の御時、様々の大礼有べし。先新帝受禅の日、三種の神器を被伝て、御即位の儀式あり。其明年の三月に、卜部宿禰陰陽博士、軒廊にして国郡を卜定す。則行事所始ありて、百司千官次第の神事を執行る。同年の十月に、東の河原に成て御禊あり。又神泉苑の北に斎庁所を作て、旧主一日抜穂を御覧ぜらる。竜尾堂を立られ、壇上にして御行水有て、回立殿を建、新帝大甞宮に行幸あり。其日殊に堂上の伶倫、正始の曲を調て一たび雅音を奏すれば、堂下の舞人、をみの衣を袒て、五たび袖を翻す。是を五節の宴酔と云。其後大甞宮に行幸成て御牲の祭を行る程に、悠紀・主基、風俗の歌を唱て帝徳を称じ、童女・八乙女、稲舂の歌を歌て神饌を献る。是皆代々の儲君、御位を天に継せ給ふ時の例なれば、三載数度の大礼、一も欠ては有べからずといへども、洛外山中の皇居の事、可周備にあらざれば、如形三種神器を拝せられたる計にて、新帝位に即せ給ふ。
195 任遺勅被成綸旨事付義助攻落黒丸城事
同十一月五日、南朝の群臣相義して、先帝に尊号を献る。御在位の間、風教多は延喜の聖代を被追しかば、尤も其寄有とて、後醍醐天皇と諡し奉る。新帝幼主にて御座ある上、君崩じ給たる後、百官冢宰に総て、三年政を聞召れぬ事なれば、万機悉く北畠大納言の計として、洞院左衛門督実世・四条中納言隆資卿、二人専諸事を被執奏。同十二月先北国にある脇屋刑部卿義助朝臣の方へ綸旨を被成。先帝御遺勅異于他上は、不替故義貞之例、官軍恩賞以下の事相計て、可経奏聞之由被宣下。其外筑紫の西征将軍宮、遠江井城に御座ある妙法院、奥州新国司顕信卿の方へも、任旧主遺勅殊に可被致忠戦之由、綸旨をぞ下されける。義助は義貞討れし後勢微也といへども、所々の城郭に軍勢を篭置、さまでは敵に挟められざりければ、何まで右ても有べきぞ。城々の勢を一に合て、黒丸の城に楯篭られたる尾張守高経を責落さばやと評定有ける処に、先帝崩御の御事を承て、惘然たる事闇夜に灯を失へるが如し。さは有ながら、御遺勅他に異なる宣旨の忝さに、忠義弥心肝に銘じければ、如何にもして一戦に利を得、南方祠候の人々の機をも扶ばやと、御国忌の御中陰の過を遅とぞ相待ける。此両三年越前の城三十余箇所相交て合戦の止日なし。中にも湊城とて、北陸道七箇国の勢共が終に攻落さゞりし城は、義助の若党畑六郎左衛門時能が、纔二十三人にて篭たりし平城也。南帝御即位の初天運図に膺る時なるべし。諸卒同城を出て一所に集り、当国の朝敵を平げ他国に打越べき由を大将義助の方より牒せられければ、七月三日に畑六郎左衛門三百余騎にて湊城を出て、金津・長崎・河合・河口にあらゆる所の敵の城十二箇所を打落て、首を切事八百余人、女童三歳の嬰児迄のこさず是を差殺す。同五日に、由良越前守光氏、五百余騎にて西方寺の城より出て、和田・江守・波羅密・深町・安居の庄内に、敵の稠く構へたる六箇所の城を二日に攻落し、則御方の勢を入替て六箇所の城を守らしむ。同五日、堀口兵部大輔氏政、五百余騎にて居山の城より出て、香下・鶴沢・穴間・河北、十一箇所の城を五日が中に攻落して、降人千余人を引率し、河合庄へ出合はる。惣大将脇屋刑部卿義助は、禰津・風間・瓜生・川島・宇都宮・江戸・波多野が勢、三千余騎の将として、国府より三手に分て、織田・々中・荒神峯・安古渡の城十七箇所を三日三夜に攻落して、其城の大将七人虜り士卒五百余人を誅して、河合庄へ打出らる。同十六日四方の官軍一所に相集て、六千余騎三方より黒丸を相挟て未戦。河合孫五郎種経降人に成て畑に属す。其勢を率て、夜半に足羽の乾なる小山の上に打上て、終夜城の四辺を打廻り、時を作り遠矢を射懸て、後陣の大勢集らば、一番に城へ攻入んと勢を見せて待明す。爰に上木平九郎家光は、元は新田左中将の兵にて有しが、近来将軍方に属して、黒丸の城に在けるが、大将尾張守高経の前に来て申けるは、「此城は先年新田殿の攻られしに、不思議の御運に依て打勝せ給しに御習候て、猶子細あらじと思召候はんには、疎なる御計にて候べし。其故は先年此所へ向候し敵共、皆東国西国の兵にて、不知案内に候し間、深田に馬を馳こみ、堀溝に堕入て、遂に名将流矢の鏑に懸り候き。今は御方に候つる者共が多く敵に成て候間、寄手も城の案内は能存知候。其上畑六郎左衛門と申て日本一の大力の剛者、命を此城に向て止んと思定て向候なる。恐くは今時の御方に、誰か是と牛角の合戦をし候べき。後攻もなき平城に名将の小勢にて御篭候て、命を失はせ給はん事、口惜かるべき御計にて候。只今夜の中に加賀国へ引退せ給て、京都の御勢下向の時、力を合せ兵を集て、還て敵を御退治候はんに、何の子細か候べき。」とぞ申ける。細川出羽守・鹿草兵庫助・浅倉・斉藤等に至まで、皆此義に同じければ、尾張守高経、五の城に火を懸て、其光を松明に成て、夜間に加賀国富樫が城へ落給ふ。畑が謀を以て、義助黒丸の城を落してこそ、義貞の討れられたりし会稽の恥をば雪けれ。
196 塩冶判官讒死事
北国の宮方頻に起て、尾張守黒丸の城を落されぬと聞へければ、京都以外に周章して、助の兵を下さるべしと評定あり。則四方の大将を定て、其国々へ勢をぞ添られける。高上野介師治は、大手の大将として、加賀・能登・越中の勢を率し、加賀国を経て宮の腰より向はる。土岐弾正少弼頼遠は、搦手の大将として、美濃・尾張の勢を率し、穴間・郡上を経て大野郡へ向はる。佐々木三郎判官氏頼は江州の勢を率して、木目岳を打越て敦賀の津より向はる。塩冶判官高貞は船路の大将として、出雲・伯耆の勢を率し兵船三百艘を調へ、三方の寄手の相近付んずる黎、津々浦々より上て敵の後を襲、陣のあはいを隔て、戦を機変の間に致すべしと、合図を堅く定らる。陸地三方の大将已に京を立て、分国の軍勢を催れければ、塩冶も我国へ下て、其用意を致さんとしける最中に、不慮の事出来て、高貞忽に武蔵守師直が為に討れにけり。其宿意何事ぞと尋れば、高貞多年相馴たりける女房を、師直に思懸られて、無謂討れけるぞと聞へし。其比師直ちと違例の事有て、且く出仕をもせで居たりける間、重恩の家人共是を慰めん為に、毎日酒肴を調て、道々の能者共を召集て、其芸能を尽させて、座中の興をぞ促しける。或時月深夜閑て、荻葉を渡風身に入たる心地しける時節、真都と覚都検校と、二人つれ平家を歌けるに、「近衛院の御時、紫宸殿の上に、鵺と云怪鳥飛来て夜な/\鳴けるを、源三位頼政勅を承て射て落したりければ、上皇限なく叡感有て、紅の御衣を当座に肩に懸らる。「此勧賞に、官位も闕国も猶充に不足。誠やらん頼政は、藤壷の菖蒲に心を懸て堪ぬ思に臥沈むなる。今夜の勧賞には、此あやめを下さるべし。但し此女を頼政音にのみ聞て、未目には見ざんなれば、同様なる女房をあまた出して、引煩はゞ、あやめも知ぬ恋をする哉と笑んずるぞ。」と仰られて、後宮三千人の侍女の中より、花を猜み月を妬む程の女房達を、十二人同様に装束せさせて、中々ほのかなる気色もなく、金沙の羅の中にぞ置れける。さて頼政を清涼殿の孫廂へ召れ、更衣を勅使にて、「今夜の抽賞には、浅香の沼のあやめを下さるべし。其手は緩とも、自ら引て我宿の妻と成。」とぞ仰下されける。頼政勅に随て、清涼殿の大床に手をうち懸て候けるが、何も齢二八計なる女房の、みめ貌絵に書共筆も難及程なるが、金翠の装を餝り、桃顔の媚を含で並居たれば、頼政心弥迷ひ目うつろいて、何を菖蒲と可引心地も無りけり。更衣打笑て、「水のまさらば浅香の沼さへまぎるゝ事もこそあれ。」と申されければ、頼政、五月雨に沢辺の真薦水越て何菖蒲と引ぞ煩ふとぞ読たりける。時に近衛関白殿、余の感に堪かねて、自ら立て菖蒲の前の袖を引、「是こそ汝が宿の妻よ。」とて、頼政にこそ下されけれ。頼政鵺を射て、弓箭の名を揚たるのみならず、一首の歌の御感に依て、年月久恋忍つる菖蒲の前を給つる数奇の程こそ面目なれ。」と、真都三重の甲を上れば、覚一初重の乙に収て歌ひすましたりければ、師直も枕をゝしのけ、耳をそばだて聞に、簾中庭上諸共に、声を上てぞ感じける。平家はてゝ後、居残たる若党・遁世者共、「さても頼政が鵺を射たる勧賞に、傾城を給たるは面目なれ共、所領か御引出物かを給りたらんずるには、莫太劣哉。」と申ければ、武蔵守聞もあへず、「御辺達は無下に不当なる事を云物哉。師直はあやめほどの傾城には、国の十箇国計、所領の二三十箇所也とも、かへてこそ給らめ。」とぞ恥しめける。かゝる処に、元は公家のなま上達部に仕て、盛なりし御代を見たりし女房、今は時と共に衰て身の寄辺無まゝに、此武蔵守が許へ常に立寄ける侍従と申女房、垣越に聞て、後の障子を引あけて無限打笑て、「あな善悪無の御心あて候や。事の様を推量候に、昔の菖蒲の前は、さまで美人にては無りけるとこそ覚て候へ。楊貴妃は、一笑ば六宮に顔色無と申候。縦千人万人の女房を双べ居へて置れたり共、あやめの前誠に世に勝れたらば、頼政是を引かね候べしや。是程の女房にだに、国の十箇国計をばかへても何か惜からんと仰候はゞ、先帝の御外戚早田宮の御女、弘徽殿の西の台なんどを御覧ぜられては、日本国・唐土・天竺にもかへさせ給はんずるや。此御方は、よく世に類なきみめ貌にて御渡りありと思食知候へ。いつぞや雲の上人、花待かねし春の日のつれ/゛\に、禁裏仙洞の美夫人、九嬪更衣達を、花の譬にせられ候しに、桐壷の御事は、あてやかにうちあらはれたる御気色を奉見たる事なければ、譬て申さんもあやなかるべけれ共、雲井の外目も異なれば、明やらぬ外山の花にやと可申。梨壷の御事は、いつも臥沈み給へる御気色物がなしく、烽の昔も理にこそ御覧ぜらるらめと、君の御心も空に知れしかば、「玉顔寂寞として涙欄干たり。」と喩ゑし、雨の中の梨壷と名にほふ御様なるべし。或は月もうつろふ本あらの小萩、波も色ある井出の山吹、或は遍照僧正の、「我落にきと人に語るな。」と戯し嵯峨野の秋の女郎花、光源氏大将の、「白くさけるは。」と名を問し、黄昏時の夕顔の花、見るに思の牡丹、色々様々の花共を取々に譬られしに、梅は匂ひふかくて枝たをやかならず。桜は色ことなれ共其香もなし。柳は風を留る緑の糸、露の玉ぬく枝異なれ共、匂もなく花もなし。梅が香を桜が色に移して、柳の枝にさかせたらんこそ、げにも此貌には譬へめとて、遂に花のたとへの数にも入せ給はざりし上は、申も中々疎なる事にてこそ。」と云戯て、障子を引立て内へ入んとするを、師直目もなく打笑て、「暫し。」と袖をひかへて、「其宮はいづくに御座候ぞ。御年は何程に成せ給ふぞ。」と問けるに、侍従立留て、「近比は田舎人の妻と成せ給ぬれば、御貌も雲の上の昔には替り給、御年も盛り過させ給ぬらんと、思やり進て有しに、一日物詣の帰さに参て奉見しが、古の春待遠に有し若木の花よりも猶色深く匂ひ有て、在明の月の隈なく指入たるに、南向の御簾を高くかゝげさせて、琵琶をかきならし給へば、ゝら/\とこぼれかゝりたる鬢のはづれより、ほのかに見へたる眉の匂、芙蓉の眸、丹花の脣る、何なる笙の岩屋の聖なりとも、心迷はであらじと、目もあやに覚てこそ候しか。うらめしの結の神の御計にや。いかなる女院、御息所とも奉見か、さらずば今程天下の権を取るさる人の妻ともなし奉らで、声は塔の鳩の鳴く様にて、御副臥もさこそこは/\しく鄙閑たるらんと覚る出雲の塩冶判官に、先帝より下されて、賎き田舎の御棲にのみ、御身を捨はてさせ給ぬれば、只王昭君が胡国の夷に嫁しけるもかくこそと覚て、奉見も悲くこそ侍りつれ。」とぞ語ける。武蔵守いとゞうれしげに聞竭して、「御物語の余りに面白く覚るに、先引出物申さん。」とて、色ある小袖十重に、沈の枕を取副て、侍従の局が前にぞ置れたる。侍従俄に徳付たる心ちしながら、あらけしからずの今の引出物やと思て、立かねたるに、武蔵守近く居寄て、「詮なき御物語故に、師直が違例はやがてなをりたる心ちしながら、又あらぬ病の付たる身に成て候ぞや。さりとては平に憑申候はん。此女房何にもして我に御媒候てたばせ給へ。さる程ならば所領なりとも、又は家の中の財宝なり共、御所望に随て可進。」とぞ語ける。侍従の局は、思寄ぬ事哉。只独のみをはする人にてもなし。何としてかく共申出べきぞと思ながら、事の外に叶ふまじき由をいはゞ、命をも失れ、思の外の目にもや合んずらんと恐しければ、「申てこそ見候はめ。」とて、先づ帰りぬ。二三日は、とやせましかくや云ましと案じ居たる処に、例ならず武蔵守が許より様々の酒肴なんど送り、「御左右遅。」とぞ責たりける。侍従は辞するに言無して、彼女房の方に行向ひ、忍やかに、「かやうの事は申出に付て、心の程も推量られ進せぬべければ、聞しばかりにてさて有べき事なれ共、かゝる事の侍るをば如何が御計候べき。露計のかごとに人の心をも慰られば、公達の御為に行末たのもしく、又憑方なき我等迄も立よる方無ては候はじ。さのみ度重ならばこそ、安濃が浦に引綱の、人目に余る憚も候はめ。篠の小ざゝの一節も、露かゝる事有共、誰か思寄り候べき。」と、様々書くどき聞ゆれ共、北の台は、「事の外なる事哉。」と計り打わびて、少も云寄べき言葉もなし。さても錦木の千束を重し、夷心の奥をも憐と思しる事もやと、日毎に経廻て、「我にうきめを見せ、深き淵河に沈ませて、憐と計後の御情はあり共、よしや何かせん。只日比参仕へし故宮の御名残と思召ん甲斐には、責て一言の御返事をなり共承候へ。」と、兎角云恨ければ、北台もはや気色打しほれ、「いでや、ものわびしく、かくとな聞へそ。哀なる方に心引れば、高志浜のあだ浪に、うき名の立事もこそあれ。」と、かこち顔也。侍従帰て角こそと語りければ、武蔵守いと心を空に成て、度重らばなさけによはることもこそあれ、文をやりてみばやとて、兼好と云ける能書の遁世者を呼寄て、紅葉重の薄様の、取手もくゆる計にこがれたるに、言を尽してぞ聞へける。返事遅しと待処に、使帰り来て、「御文をば手に取ながら、あけてだに見給はず、庭に捨られたるを、人目にかけじと懐に入帰り参て候ぬる。」と語りければ、師直大に気を損じて、「いや/\、物の用に立ぬ物は手書也けり。今日より其兼好法師、是へよすべからず。」とぞ忿ける。かゝる処に薬師寺次郎左衛門公義、所用の事有て、ふと差出たり。師直傍へ招て、「爰に文をやれ共取ても見ず、けしからぬ程に気色つれなき女房の有けるをばいかゞすべき。」と打笑ければ、公義、「人皆岩木ならねば、何なる女房も慕に靡ぬ者や候べき。今一度御文を遣されて御覧候へ。」とて、師直に代て文を書けるが、中々言はなくて、返すさへ手やふれけんと思にぞ我文ながら打も置れず押返して、媒此文を持て行たるに、女房いかゞ思けん、歌を見て顔打あかめ、袖に入て立けるを、媒さては便りあしからずと、袖を引へて、「さて御返事はいかに。」と申ければ、「重が上の小夜衣。」と計云捨て、内へ紛入ぬ。暫くあれば、使急帰て、「かくこそ候つれ。」と語に、師直うれしげに打案じて、軈薬師寺を呼寄せ、「此女房の返事に、「重が上の小夜衣と云捨て立れける。」と媒の申は、衣小袖を調て送れとにや。其事ならば何なる装束なりともしたてんずるにいと安かるべし。是は何と云心ぞ。」と問はれければ、公義、「いや是はさやうの心にては候はず、新古今の十戒の歌に、さなきだに重が上の小夜衣我妻ならぬ妻な重そと云歌の心を以て、人目計を憚候物ぞとこそ覚て候へ。」と、哥の心を尺しければ、師直大に悦て、「嗚呼御辺は弓箭の道のみならず、歌道にさへ無双の達者也けり。いで引出物せん。」とて、金作の団鞘の太刀一振、手づから取出して、薬師寺にこそ引れけれ。兼好が不祥、公義が高運、栄枯一時に地を易たり。師直此返事を聞しより、いつとなく侍従を呼て、「君の御大事に逢てこそ捨んと思つる命を、詮なき人の妻故に、空く成んずる事の悲しさよ。今はのきはにもなるならば、必侍従殿をつれ進て、死出の山三途の河をば越んずるぞ。」と、或時は目を瞋て云ひをどし、或時は又顔を低て云恨ける程に、侍従局もはや持あつかいて、さらば師直に此女房の湯より上て、只顔ならんを見せてうとませばやと思て、「暫く御待候へ。見ぬも非ず、見もせぬ御心あては、申をも人の憑ぬ事にて候へば、よそながら先其様を見せ進せ候はん。」とぞ慰めける。師直聞之より独ゑみして、今日か明日かと待居たる処に、北台の方に中居する女童に、兼て約束したりければ、侍従局の方へ来て、「今夜このあれの御留主にて、御台は御湯ひかせ給ひ候へ。」とぞ告たりける。侍従右と師直に申せば、頓て侍従をしるべにて、塩冶が館へ忍び入ぬ。二間なる所に、身を側めて、垣の隙より闖へば、只今此女房湯より上りけりと覚て、紅梅の色ことなるに、氷の如なる練貫の小袖の、しほ/\とあるをかい取て、ぬれ髪の行ゑながくかゝりたるを、袖の下にたきすさめる虚だきの煙匂計に残て、其人は何くにか有るらんと、心たど/\しく成ぬれば、巫女廟の花は夢の中に残り、昭君村の柳は雨の外に疎なる心ちして、師直物の怪の付たる様に、わな/\と振ひ居たり。さのみ程へば、主の帰る事もこそとあやなくて、侍従師直が袖を引て、半蔀の外迄出たれば、師直縁の上に平伏て、何に引立れ共起上らず。あやしや此侭にて絶や入んずらんと覚て、兎角して帰したれば、今は混ら恋の病に臥沈み、物狂しき事をのみ、寐ても寤ても云なんど聞へければ、侍従いかなる目にか合んずらんと恐しく覚て、其行え知べき人もなき片田舎へ逃下にけり。此より後は指南する人もなし。師直いかゞせんと歎きけるが、すべき様有と案出して、塩冶隠謀の企有由を様々に讒を運し、将軍・左兵衛督にぞ申ける。塩冶此事を聞ければ、とても遁るまじき我命也。さらば本国に逃下て旗を挙、一旗を促て、師直が為に命を捨んとぞたくみける。高貞三月二十七日の暁、弐ろ有まじき若党三十余人、狩装束に出立せ、小鷹手毎にすへて、蓮台野・西山辺へ懸狩の為に出る様に見せて、寺戸より山崎へ引違、播磨路よりぞ落行ける。身に近き郎等二十余人をば、女房子共に付て、物詣する人の体に見せて、半時計引別れ、丹波路よりぞ落しける。此比人の心、子は親に敵し、弟は兄を失はんとする習なれば、塩冶判官が舎弟四郎左衛門、急武蔵守が許へ行て、高貞が企の様有の侭にぞ告たりける。師直聞之、此事長僉儀して、此女房取はづしつる事の安からずさよと思ければ、急将軍へ参て、「高貞が隠謀の事、さしも急に御沙汰候へと申候つるを聞召候はで、此暁西国を指て逃下候けんなる。若出雲・伯耆に下著して、一族を促て城に楯篭る程ならば、ゆゝしき御大事にて有べう候也。」と申ければ、「げにも。」と驚騒れて誰をか追手に下すべきとて、其器用をぞ撰れける。当座に有ける人々、我をや追手にさゝれんと、かたづを飲で、機を攻たる気色を見給て、此者共が中には、高貞を追攻て討べき者なしと思はれければ、山名伊豆守時氏と、桃井播磨守直常・太平出雲守とを喚び寄て、「高貞只今西国を指て逃下り候なる。いづく迄も追攻て打留られ候へ。」と宣ければ、両人共に一儀にも及ず、畏て領状す。時氏はかゝる事共知ず、出仕の装束にて参られたりけるが、宿所へ帰り、武具を帯し勢を率せば、時剋遷て追つく事を得がたしと思ひけるにや、武蔵守が若党にきせたりける物具取て肩に打懸、馬の上にて高紐かけ、門前より懸足を出して、父子主従七騎、播磨路にかゝり、揉にもみてぞ追たりける。直常も太平も宿所へは帰ず、中間を一人帰して、「乗替の馬物具をば路へ追付けよ。」と下知して、丹波路を追てぞ下りける。道に行合人に、「怪げなる人や通りつる。」と問へば、「小鷹少々すへたりつる殿原達十四五騎が程、女房をば輿にのせて急がはしげに通りつる。其合は二三里は過候ぬらん。」とぞ答へける。「さては幾程も延じ。をくれ馳の勢共を待つれん。」とて、其夜は波々伯部の宿に暫く逗留し給へば、子息左衛門佐・小林民部丞・同左京亮以下侍共、取物も取あへず、二百五十余騎、落人の跡を問々、夜昼の境もなく追懸たり。塩冶が若党共も、追手定て今は懸るらん。一足もと急けれ共、女性・少人を具足したれば、兎角のしつらいに滞て、播磨の陰山にては早追付れにけり。塩冶が郎等共、今は落得じと思ければ、輿をば道の傍なる小家に舁入させて、向敵に立向、をしはだぬぎ散々に射る。追手の兵共、物具したる者は少かりければ、懸寄ては射落し、抜てかゝれば射すへられて矢場に死せる者十一人、手負者は数を知ず。右ても追手は次第に勢重る。矢種も已に尽ければ、先女性をさなき子共を差殺して、腹を切らんとて家の内へ走り入て見ば、あてやかにしをれわびたる女房の、通夜の泪に沈んで、さらず共我と消ぬと見ゆる気色なるが、膝の傍に二人の子をかき寄て、是や何にせんと、あきれ迷へる有様を見るに、さしも武く勇める者共なれ共、落る泪に目も暮て、只惘然としてぞ居たりける。去程に追手の兵共、ま近く取巻て、「此事の起りは何事ぞ。縦塩冶判官を討たり共、其女房をとり奉らでは、執事の御所存に叶べからず。相構て其旨を存知せよ。」と下知しけるを聞て、八幡六郎は、判官が次男の三歳に成が、母に懐き付たるをかき懐て、あたりなる辻堂に修行者の有けるに、「此少人、汝が弟子にして、出雲へ下し進て、御命を助進せよ。必ず所領一所の主になすべし。」と云て、小袖一重副てぞとらせける。修行者かい/゛\しく請取て、「子細候はじ。」と申ければ、八幡六郎無限悦て、元の小家に立帰り、「我は矢種の有ん程は、防矢射んずるぞ。御辺達は内へ参て、女性少なき人を差殺し進て、家に火を懸て腹を切れ。」と申ければ、塩冶が一族に山城守宗村と申ける者内へ走り入、持たる太刀を取直して、雪よりも清く花よりも妙なる女房の、胸の下をきつさきに、紅の血を淋き、つと突とをせば、あつと云声幽に聞へて、薄衣の下に臥給ふ。五になる少人、太刀の影に驚て、わつと泣て、「母御なう。」とて、空き人に取付たるを、山城守心強かき懐き、太刀の柄を垣にあて、諸共に鐔本迄貫れて、抱付てぞ死にける。自余の輩二十二人、「今は心安し。」と悦て、髪を乱し大裸に成て、敵近付ば走懸々々火を散してぞ切合たる。とても遁まじき命也。さのみ罪を造ては何かせんとは思ながら、爰にて敵を暫も支たらば、判官少も落延る事もやと、「塩冶爰にあり、高貞此にあり。頚取て師直に見せぬか。」と、名乗懸々々々二時計ぞ戦たる。今は矢種も射尽しぬ、切疵負はぬ者も無りければ、家の戸口に火を懸て、猛火の中[に]走り入、二十二人の者共は、思々に腹切て、焼こがれてぞ失にける。焼はてゝ後、一堆の灰を払のけて是を見れば、女房は焼野の雉の雛を翅にかくして、焼死たる如にて、未胎内にある子、刃のさき[に]懸られながら、半は腹より出て血と灰とに塗たり。又腹かき切て多く重り臥たる死人の下、少き子を抱て一つ太刀に貫れたる、是ぞ何様塩冶判官にてぞあるらん。され共焼損じたる首なれば取て帰るに及ばずとて、桃井も太平も、是より京へぞ帰り上りける。さて山陽道を追て下りける山名伊豆守が若党共、山崎財寺の前を打過ける処に跡より、「執事の御文にて候、暫く御逗留候へ。可申事有。」とぞ呼りける。何事やらんとて馬を引へたれば、此者三町計隔りて、「余りにつよく走て候程に、息絶てそれまでも参り得ず候。此方へ打帰せ給へ。」山名我身は馬より下、若党を四五騎帰して、「何事ぞ。あれ聞、急馳帰れ。」とぞ下知しける。五騎の兵共誠ぞと心得て、使の前にて馬より飛をり、「何事にて候やらん。」と問へば、此者莞爾と打笑、「誠には執事の使にては候はず。是は塩冶殿の御内の者にて候が、判官殿の落られ候けるを知候はで伴をば不仕候。此にて主の御為に命を捨て、冥途にて此様を語り申べきにて候。」と云もあへず抜合、時移る迄ぞ切合ける。三人に手負せ我身も二太刀切れければ、是迄とや思けん、塩冶が郎等は腹かき破て死にけり。「此者に出しぬかれ時剋移りければ、落人は遥に延ぬらん。」とて、弥馬を早め追懸ける。京より湊河までは十八里の道を二時計に打て、「余りに馬疲ければ、今日はとても近付事有がたし。一夜馬の足を休てこそ追はめ。」とて、山名伊豆守湊河にぞとゞまりける。其時生年十四歳に成ける子息右衛門佐、気早なる若者共を呼抜て宣けるは、「北る敵は跡を恐て、夜を日に継で逃て下る。我等は馬労て徒に明るを待。加様にては此敵を追攻て討つと云事不可有。馬強からん人々は我に同じ給へ、豆州には知せ奉らで、今夜此敵を追攻て、道にて打留めん。」と云もはてず、馬引寄て乗給へば、小林以下の侍共十二騎、我も々と同じて、夜中に追てぞ馳行ける。湊河より賀久河迄は、十六里の道を一夜に打て、夜もはやほの/゛\と明ければ、遠方人の袖見ゆる、河瀬の霧の絶間より、向の方を見渡しければ、旅人とは覚ぬ騎馬の客三十騎計、馬の足しどろに聞へて、我先にと馬を早めて行人あり。すはや是こそ塩冶よと見ければ、右衛門佐川縁に馬を懸居て、「あの馬を早められ候人々は、塩冶殿と見奉るは僻目か、将軍を敵に思ひ、我等を追手に受て、何くまでか落られぬべき。踏留て尋常に討死して、此長河の流に名を残され候へかし。」と、言を懸られて、判官が舎弟塩冶六郎、若党共に向て申けるは、「某は此にて先討死すべし。御辺達は細路のつまり/\に防矢射て、廷尉を落奉れ。一度に討死にする事有べからず。」と、無らん跡の事までも、委是を相謀て、主従七騎引返す。右衛門佐の兵十二騎、一度に河へ打入て、轡を双て渡せば、塩冶が舎弟七騎、向の岸に鏃をそろへ散々に射る。右衛門佐が胄の吹返し射向の袖に矢三筋受て、岸の上へ颯と懸上れば、塩冶六郎抜合て、懸違懸違時移る程こそ切合たれ。小林左京亮、塩冶に切て落されて已に打れんと見へければ、右衛門佐馳塞て、当の敵を切て落す。残り六騎の者共、思々に打死しければ、其首を路次に切懸て、時剋を移さず追て行。此間に塩冶は又五十町計落延たりけれ共、郎等共が乗たる馬疲て、更にはたらかざりければ、道に乗捨歩跣にて相従ふ。右ては本道を落得じとや思けん、御著宿より道を替て、小塩山へぞ懸ける。山名続て追ければ、塩冶が郎等三人返合て、松の一村茂りたるを木楯に取て、指攻引攻散々に射る。面に前む敵六騎射て落し、矢種も尽ければ打物に成て切合てぞ死にける。此より高貞落延て、追手の馬共皆疲にければ、「今は道にて追付事叶まじ。」とて、山陽道の追手は、心閑にぞ下ける。三月晦日に塩冶出雲国に下著しぬれば、四月一日に追手の大将、山名伊豆守時氏、子息右衛門佐師氏、三百余騎にて同国屋杉の庄に著給ふ。則国中に相触て、「高貞が叛逆露顕の間、誅罰せん為に下向する所也。是を打て出したらん輩に於は、非職凡下を云ず、恩賞を申与ふべき由。」を披露す。聞之他人は云に不及、親類骨肉迄も欲心に年来の好を忘ければ、自国他国の兵共、道を塞ぎ前を要て、此に待彼に来て討んとす。高貞一日も身を隠すべき所無れば、佐々布山に取上て一軍せんと、馬を早めて行ける処に、丹波路より落ける若党の中間一人走付て、「是は誰が為に御命をば惜まれて、城に楯篭らんとは思食候や。御台御供申候つる人々は、播磨の陰山と申所にて、敵に追付れて候つる間、御台をも公達をも皆差殺し進て、一人も残らず腹を切て死て候也。是を告申さん為に甲斐なき命生て、是迄参て候。」と云もはてず、腹かき切て馬の前にぞ臥たりける。判官是をきゝ、「時の間も離れがたき妻子を失れて、命生ては何かせん、安からぬ物哉。七生迄師直が敵と成て、思知せんずる物を。」と忿て、馬の上にて腹を切、倒に落て死にけり。三十余騎有つる若党共をば、「城になるべき所を見よ。」とて、此彼へ遣し、木村源三一人付順て有けるが、馬より飛でをり、判官が頚を取て、鎧直垂に裹み、遥の深田の泥中に埋で後、腹かき切て、腸繰出し、判官の頚の切口を陰し、上に打重て懐付てぞ死たりける。後に伊豆守の兵共、木村が足の泥に濁たるをしるべにて、深田の中より、高貞が虚き首を求出して、師直が方へぞ送りける。是を見聞人毎に、「さしも忠有て咎無りつる塩冶判官、一朝に讒言せられて、百年の命を失つる事の哀さよ。只晉の石季倫が、緑珠が故に亡されて、金谷の花と散はてしも、かくや。」と云ぬ人はなし。それより師直悪行積て無程亡失にけり。「利人者天必福之、賊人者天必禍之。」と云る事、真なる哉と覚へたり。