大鏡 (國文大觀)

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大鏡


大鏡卷之一

   五十五文德天皇

   五十六淸和天皇

   五十七陽成院

   五十八光孝天皇

   五十九宇多院

   六十醍醐天皇

   六十一朱雀院

   六十二村上天皇

   六十三冷泉院

   六十四圓融院

   六十五花山院

   六十六一條院

   六十七三條院

   六十八後一條院

さいつころ雲林院の菩提講にまうでゝ侍りしかば、例の人よりはこよなく年老いうたてげなる翁二人おんなときあひて同じところにゐぬめり。哀に同じやうなるものゝさまかなと見侍りしに、これらうち笑ひ見かはしていふやう「「年ごろむかしの人に對面していかで世の中の見聞く事どもをきこえあはせむ、この唯今の入道殿下の御有樣をも申しあはせばやとおもひしに、あはれに嬉しくも逢ひ申したるかな。今ぞ心やすくよみぢもまかるべき。おぼしき事いはぬはげにぞ腹ふくるゝ心ちしける。かゝればこそ昔の人は物いはまほしくなれば穴を堀りてはいひいれ侍りけめとおぼえ侍る。返す返す嬉しく對面したるかな。さてもいくつにかなり給ひぬる」」といへば、今一人の翁、「「いくつといふことも更に覺え侍らず。たゞしおのれは故太政のおとゞ貞信公の、藏人の少將と申しゝ折の小舍人わらは大犬丸ぞかし。ぬしはその御時の母の后の宮の御方のめしつかひ、かう名のおほやけのよつぎとぞいひ侍りしかしな。さればぬしのみとしはおのれにはこよなくまさり奉らむかし。みづからはこわらはにてありし時、ぬしは廿五六ばかりのをのこにてこそはいませ〈如元〉しか」」といふめれば、世繼「「しかしか、さ侍りしことなり。さてもぬしのみ名はいかにぞや」」といふめれば、「「故太政大臣殿にて元服仕うまつりし時、きんぢが姓は何ぞと仰せられしかば夏山となむ申すと申しゝを、やがてしげきとなむつけさせ給へりし」」などいふに、いとあさましくなりぬ。誰も少しよろしきものどもは見おこせゐよりなどしけり。年二十ばかりなるなまさぶらひめきたるものゝ、せちに近く寄りて、「「いでいと興ある事いふらうざたちよな。更にこそ信ぜられね」」といへば、翁二人見かはしてあざわらふ。繁樹となのるがかたざまに見やりて、「「ぬしはいくつといふ事覺えずといふめり。この翁どもは覺え給ふや」」と問へば「「更にもあらず。一百五十歲にぞ今年はなり侍りぬる。されば繁樹は百四十には及びさふらふらめ〈如元〉」」とやさしく申すなり。「「おのれは水の尾の御門の坐します年のむつきのもちの日生れて侍れば十三代にあひ奉りて侍るなり。けしうはさふらはぬ年なりな。まことゝ人おぼさじ。されど父がなまがくしやうにつかはれ奉りて、げらうなれどもみやこほとりといふ事も侍れば目〈如元〉を見たまへてうぶきぬに書きおきて侍りけるいまだ侍り。丙申の年に侍り」」といふもげにときこゆ。今ひとりに「「猶もおきなの年こそ聞かまほしけれ。生れけむ年はしりたりや。それにていとやすく數へてむ」」といふめれば、「「これはまことの親にもそひ侍らず。こと人のもとにやしなはれて十二三までそひて侍りしかば、はかばかしうも申さず。唯我は子產むわざもしらざりしに、しうの御使にいちへまかりしに、又わたくしにもぜに十貫を持ちて侍りけるに、にくげもなきちごを抱きたる女の、これ人にはなたむとおもふ、子を十人までうみて、これはし十たりの子にて、いとゞさつきにさへ生れてむづかしきなりといひ侍りければ、この持ちたる錢にかへてきにしなりと。姓は何とかいふと問ひ侍りければ夏山とは申しける。さて十二三にてぞおほき大殿には參り侍りし」」などいひて、「「さてもうれしく對面したるかな。佛の御しるしなんめり。年頃こゝ彼處の說經とのゝしれど何かはとて參ることもし侍らず、かしこくも思ひたちて參り侍りにけるが嬉しき事」」とて「「そこにおはするはそのをりの女人にやみえますらむ」」といふめれば、繁樹がいらへ、「「いでさも侍らず。それははやうせ侍りにしかば、これはその後相添ひて侍るわらはべなり。さては閣下はいかに」」といふめれば、世繼がいらへ「「それは侍りし時のなり。今日も諸共にまゐらむと出でたち侍りつれど、わらはやみをしてあたり日に侍りつれば口をしうもえ參り侍らずなりぬる」」などあはれにいひ語らひ泣くめれど、淚落つとも見えず。かくて講師侍つほどに我も人も久しうつれづれなるに、この翁どものいふやう「「いでさうざうしきにいざたまへ、むかしの物語してこのおはさふ人々に、さはいにしへの世はかくこそはありけれと聞かせ奉らむ」」といふめれば、今一人「「しかしか、いと興ある事なり。いでおぼえたまへ。時々さるべき事のさしいらへ繁樹もうちおぼえ侍らむかし」」といひて、いはむいはむと思ひたる氣色どもいつかと聞かまほしく奧ゆかしき心ちするに、そこらの人おほかりしかどものはかばかしく聞きわき、耳とゞむるもあらめど、人めにあらはれてはこのさぶらひぞよく聞かむとあとうつめりし。世繼がいふやう「「世はいかに興あるものぞや。さりとも翁こそ少々の事はおぼえ侍らめ。昔さかしき御門の御まつりごとのをりは國の內に年老いたる翁おんなやあると召したづねて、いにしへのおきての有樣を尋ね問はしめ給ひてこそは奏する事を聞し召し合せて世の政は行はしめ給ひけれ。されば老いたる身はいとかしこきものに侍り。若き人だち覺しなあなづりそ」」とて黑がいの骨の九つあるに黃なる紙はりたる扇をさし隱して、けしきだち笑ふほどもさすがにをかし。「「まめやかには世繼が申さむと思ふ事はことごとかは。唯今の入道殿下の御ありさまの世にすぐれておはしますことを道俗男女の御前にて申さむと思ふが、いと事多くなりて、あまたの御門きさきまた大臣公卿の御上をつゞくべきなり。その中に、さいはひ人におはしますこの御有樣申さむと思ふほどに、世の中の事のかくれなくあらはるべきなり。つてにうけたまはれば、法華經一部を說き奉らむとてこそまづ四經をば說きたまひけれ。それをなづけて五時敎とはいふにこそはあなれ。しかのごとくに入道殿の御さかえを申さむと思ふほどに、よきやうの說かるゝといひつべし」」などいふもわざわざしうことごとしう聞ゆれど、いでやさりとも何ばかりの事をかと思ふに、いみじうこそいひ續け侍りしか。「「世の中の攝政關白と申し、大臣公卿と聞ゆる、いにしへ今の時の入道殿の御有樣のやうにこそはおはしますらめとぞ今やうのちごどもは思ふらむかし。されどそれさもあらぬ事なり。いひもていけば同じ種一つすぢにぞおはすめれど、かどわかれぬれば、人々の御心もちゐも又それにしたがひてことごとになりぬ。この世はじまりて後、みかどはまづ神のよ七代をおき奉りて、神武天皇を始め奉りて、當帝まで六十八代にぞならせ給ひにける。すべからくは神武天皇を始め奉りてつぎつぎの御門の御次第をおぼえ申すべきなり。しかりといへども、それはいときゝ耳遠ければ唯近きほどより申さむと思ふに侍り。文德天皇と申す御門おはしましき。その御門よりこなた、今の御門まで十四代にぞならせ給ひにける。世をかぞへ侍れば、その御門位に即かせ給ふ嘉祥三年庚午の年よりことしまでは一百七十六年ばかりにやなりぬらむ。かけまくもかしこき君の御名を申すは忝なくさふらへども」」とていひつゞけはべりき。

     五十五代〈或る本に云ふ、田邑帝と申す。〉

「「文德天皇と申しける御門は仁明天皇の御第一の皇子なり。御諱は道康、御母は太皇太后藤原順子と申しき。その后左大臣贈正一位太政大臣冬嗣のおとゞの御むすめなり。この御門天長四年丁未八月に生れ給ひて、み心あきらかに、よく人をしろしめせり。承和九年壬戌二月廿六日御元服、同年八月四日東宮に立たせたまふ。御年十六。仁明天皇、もとおはする東宮をとりてこの御門を承和九年八月四日東宮に奉らせ給へるなり。いかに安からずおぼしけむとこそ覺え侍れ。嘉祥三年庚午三月廿一日位に即かせ給ふ。御年二十四。さて世を保たせ給ふ事九年。天安二戊刁の歲八月廿七日にうせさせ給ひぬ。御年三十二。陵、田村にあり。御母の后十九にてぞこの御門を產み奉りたまふ。嘉祥三年庚午の歲四月に后に立たせたまふ。御年四十三。齊衡元年甲戌皇太后宮にあがりゐ給ふ。貞觀三年辛巳二月廿九日御出家。〈灌頂せさせ給へり。〉同八年丙戌正月七日、太皇太后宮にあがりゐ給ふ。これを五條の后と申す。伊勢物語に業平の中將、「よひよひごとにうちもねなゝむ」とよみ給ひたるはこの宮の御事のやうにさふらふめる。いかなる事にか、二條の后に通ひ申されけるあひだの事とぞうけたまはり及ぶや。「春やむかしの」なども五條の后の御家と侍るは、わかぬ御中にてその宮にやしなはれ給へれば同じ所におはしけるにや。

     五十六代〈この御門御かたちめでたく御心いつくし。〉

つぎのみかど、淸和天皇と申しける。御諱惟仁、文德天皇の第四のみこなり。御母は明子〈皇太后宮〉とまうしき。太政大臣良房のおとゞの御むすめなり。このみかどは嘉祥三年庚午三月二十五日、母がたの御おほぢおほきおとゞの小一條の家にて、父みかどの位に即かせ給ひて五日といふ日生れ給へりけむこそいかに折さへ華やかにめでたかりけむと覺え侍れ。惟喬のみこの東宮あらそひし給へりけむもこの御事とこそ覺ゆれ。やがて生れ給へる年の十一月廿五日東宮に立ち給ひて、天安二年戊刁八月廿七日御年九歲にて位に即かせ給ふなり。貞觀六年正月七日御元服。〈元日御元服なり。〉御年十五なり。世をしらせ給ふ事十八年。〈貞觀十八年十一月廿九日、染殿院にておりさせ給ふ。元慶四年十二月四日うせさせたまふ。御歲三十一。〉元慶三年五月八日御出家なり。水の尾の御門と申す。この御すゑぞかし、今の世に源氏の武者のぞうは。これもおほやけの御かためとこそはなるめれ。御母二十三にて此の御門をうみ奉り給へり。貞觀六年甲申正月七日、皇后宮にあがりゐ給ふ。きさいのくらいにて四十一年おはします。そめどのゝきさきとまうす。その御ときの護持僧は智證大師におはします。〈天安二年つちのえ〉とらの年八月廿七日にぞうせさせたまふ。みさゝきたむらといふところにあり。〈天安以下四十二文字イ無衍歟〉御ものゝけのかなはざりけるこそ心うくは。今生寇なり。天安二年に唐よりかへりたまへり。

     五十七代〈この御門ものぐるほしくおはしましたりといへる本あり。〉

次の御門、陽成天皇と申しき。御諱さだあきら。淸和天皇第一の皇子なり。御母は皇太后宮高子とまうしき。贈太政大臣長良のおとゞの御むすめなり。この御門、貞觀十年つちのえね十二月十六日、染殿院にて生れたまへり。同十一年つちのとのうし二月一日、二歲にて東宮に立たせ給ひて、同十八年丙申十一月廿九日に位に即かせ給ふ。御年九歲。元慶六年壬刁正月二日御元服。御年十五。世をしらせ給ふ事八年。〈元慶八年二月四日、おりさせ給ふ。御年十七、二條院におはしましけるとぞ。〉のかせ給ひて六十五年なれば、八十一にて天曆二年九月廿九日にかくれさせ給ふ。御法事の願文に釋迦如來の一年のこのかみとは作られたるなり。智惠深く思ひよりけむ程いとけうあれど、佛の御年よりは御年高しといふ心の後世のせめとなむなれるとこそ人の夢に見えけれ。御母后、淸和の御門よりは九年の御姉なり。廿七と申しゝとし、この陽成院をば產み奉り給へるなり。元慶元年正月に后に立たせ給ひて中宮と申す。御年三十六。同六年壬寅正月七日、皇太后宮にあがり給ふ。御年四十一。この后の宮づかへしそめ給ひけむやうこそおぼつかなけれ。いまだよごもりておはしける時、在中將のしのびてゐてかくし奉りたりけるを御せうとの君たち、基經の大臣、國經の大納言などの若く坐しけむほどのことなりけむかし、とりかへしにおはしたりけるをり、「つまもこもれり我もこもれり」とよみ給ひたるはこの御事なれば「末の世に神代のことも」とは申しいで給ひけるぞかし。されば世のつねの御かしづきにては御覽じそめられ給はずやおはしましけむと覺え侍る。若し離れぬ御中にて染殿の宮に參り通ひなどし給ひけむほどの事にやとぞおしはからるゝ。及ばぬ身にかやうの事をさへ申すはいとかたじけなき事なれど、これは皆人のしろしめしたる事なり。いかなる人かはこの頃古今伊勢物語など覺えさせ給はぬはあらむずる。「見もせぬ人のこひしきは」など申す事もこの御中らひの程とこそはうけたまはれ。末の世まで書きおき給ひけむ、おそろしきすきものなりかしな。いかに昔はなかなかにけしきある事もをかしき事もありけるものとて」」とうち笑ふけしきことになりていとやさしげなめり。「二條の后と申すはこの御事なり。業平の中將の「よひよひごとにうちもねなゝむ」とよみ給ひたるも「春やむかしの」などもこの御事なめり。

     五十八代

次の御門、光孝天皇と申しき。御諱は時康、仁明天皇の第三の王子なり。御母贈皇太后宮澤子とまうしき。贈太政大臣總繼の大臣の御むすめなり。このみかど淳和天皇の御とき天長八年辛亥東六條の家にて生れ給ふ。御親の深草のみかどの御時、承和十三年丙寅正月七日四品し給ふ。御年十六。嘉祥三年庚午五月中務卿になりたまふ。御年二十。仁壽元年辛未十一月十一日三品にのぼり給ふ。御年二十二。貞觀六年甲申正月十六日、上野の大守かけさせたまふ。御年三十四。同八年丙戌正月十三日太宰帥に遷兼す。御年三十六。同十二年庚寅二月七日二品に昇りたまふ。御年四十。同年上野大守、同十八年丙申十二月廿六日式部卿にならせ給ふ。御年四十六。元慶六年壬刁正月七日一品にのぼらせ給ふ。御年五十二。同八年甲辰二月四日位に即きたまふ。御年五十四。世をしらせたまふこと四年。小松のみかどと申す。この御ときにふぢつぼのうへの御つぼねのくろどはあきたると聞きはべるはまことにや。〈或本に仁和三年八月廿六日うせさせ給ふ。御とし五十八。〉

     五十九代〈この御門業平の中將と相撲とりたまひて、負けてかうらん破れたることあり。おもひ人の時なり。〉

次の御門、亭子の御門と申しき。小松の御門の第三の王子なり。御諱さだみ、御母皇太后宮いみな班子と申しき。二品式部卿贈一品太政大臣中野親王の御むすめたり。この御門、貞觀九年丁亥五月五日生れたまふ。元慶八年甲辰四月十三日源氏になり給ふ。御年十八。王侍從など聞えて、殿上人にておはしける時、殿上のごいしの前にて業平の中將とすまひとらせ給ひける程に、ごいしに打ちかけられて、高欄折れにけり。そのをれめ今に侍るなり。仁和三年丁未八月廿六日東宮に立たせ給ひて、同じ日位に即かせ給ふ。御年廿一。世をしらせ給ふこと十年。寬平元年つちのとのとり十一月廿一日つちのとのとりの日、賀茂の臨時祭はじまる事この御時よりなり。使右近衞中將時平。〈北野の御かたき 、本院のおとゞの御事なり。〉昌泰元年つちのえうま四月十日、出家せさせたまふ。この御門、いまだ位に即かせたまはざりける時、十一月廿よ日の程に賀茂のみやしろのへんに鷹つがひ遊びありきけるに、賀茂の明神託宣し給ひけるやう「このへんに侍るおきなどもなり。春はまつり多く侍り。冬のいみじくつれづれなるに、祭り給はらむ」と申し給へば、その時に賀茂の明神の仰せらるゝと覺えさせ給ひて、「おのれは力及び候はず。おほやけに申させ給ふべきことにこそ候ふなれ」と申させ給へば「力及ばせ給ひぬべきなればこそ申せ。いたくきやうきやうなるふるまひなさせ給ひそ。さ申すやうあり」とて「ちかくなり侍り」とてかいけつやうに失せ給ひぬ。いかなる事にかと心えず思しめすほどに、かく位に即かせ給へりければ、臨時の祭せさせ給へるぞかし。賀茂の明神の託宣して祭せさせ給へと申させ給ふ日、酉の日にて侍りければ、やがてしも月のはての酉の日臨時の祭は侍るぞかし。あづまあそびの歌は敏行の朝臣のよみけるぞかし。

  「ちはやぶるかものやしろのひめ小松よろづ代ふとも色はかはらじ」。

これは古今に入りて侍り。人皆しらせ給へる事なれども、いみじくよみ給へるぬしかな。今に絕えずひろごらせ給へる御末、御門と申すともいとかくやはおはします。位に即かせ給ひて二年といふに始まれり。つかひ右近中將時平の朝臣こそはし給ひけれ。寬平九年七月五日おりさせ給ふ。昌泰二年つちのとのひつじ十月十四日出家せさせたまふ。御名金剛覺と申しき。承平元年七月十九日うせさせ給ひぬ。御年六十五。肥前のぞう橘の良利殿上に侍ひける、入道してすけの御供にこれのみつかまつりける。されば熊野にても日根といふ所にて「旅寢の夢に見えつるは」ともよむぞかし。人々なみだおとす、ことわりにあはれなることかな。この御門のたゞ人になり給ふ程なむ〈如元〉おぼつかなし。よくもおぼえ侍らず。御母洞院の后と申す。仲野の親王は桓武天皇の御孫なり。この御門の、陽成院の御時、殿上人にて神社の行幸にはまひ人などせさせ給へり。位に即かせ給ひて後、陽成院を通りて行幸ありけるには、「當帝は家人にはあらずや。惡しくも通るかな」とこそ仰せられけれ。

     六十代〈今の聖代桓算の事北野の御事をぞ世の中に申しつたへためる。〉

次の御門、醍醐天皇と申しき。御諱敦仁。是亭子太上法皇の第一の王子におはします。御母贈皇太后宮胤子と申しき。內大臣高藤〈此人は勸修寺の氏のはしめ〉このおとゞの御女なり。この御門、仁和元年乙巳正月十八日に生れ給ふ。寬平五年みづのとのうし四月二日に東宮に立たせ給ふ。御年九歲。同七年乙卯正月十九日、十一歲にて御元服。又同九年丁巳七月三日位に即かせ給ふ。御年十三。やがて今宵よるのおとゞより俄に御かうぶり奉りて、さしいでおはしましたりける。御手づからわざと人の申すはまことにや。さて世を保たせ給ふ事三十三年。この御年ぞかし、村上か朱雀院か生れおはしましたる御いかのもちひ殿上に出させ給へるに、伊衡の中將、和歌つかうまつり給へるとぞおぼゆめる。

  「一とせにこよひかぞふる今よりはもゝとせまでの月かげを見む」

とよむぞかし。御かへし、御門のしおはしましけむかたじけなさよ。

  「祝ひつることたまならばもゝとせののちもつきせぬ月をこそみめ」。

御集など見給ふるにぞ、いとなまめかしうかやうの方さへおはしましける。〈延長八年九月廿五日おりさせ給ふ。おなじ八日うせさせ給ふ。陵山科にあり。後の山科といふ。この時ぞかし。〉

     六十一代〈將門純友が事この時なり。〉

次の御門朱雀院天皇と申しき。御諱ひろあきら。これ醍醐の御門の御〈第歟〉十一の王子なり。御母皇太后宮穩子と申しき。太政大臣基經のおとゞの四つの娘なり。このみかど延長元年癸未四月廿七日生れさせ給ふ。同三年乙酉十月廿一日東宮に立ち給ふ。御年三歲。同八年庚寅九月廿二日位に即かせ給ふ。御年八歲。承平七年正月四日御元服。御年十五。世を保たせ給ふ事十六年。〈或本に廿四にて御すけ、天曆六年八月十五日うせ給ふとあり。御とし三十七、陵鳥邊野にあり。〉八幡の臨時の祭はこの御時よりあるぞかし。この御門生れさせ給ひては御格子もまゐらず夜晝火をともして御帳の內にて三つまでおほし奉らせ給ひき。北野におぢ申させ給ひてかくありしぞかし。この御門生れおはしまさずば藤氏のさかえいとかうしもおはしまさゞらまし。いみじきをりふし生れさせ給へりしぞかし。位に即かせ給ひて、將門がみだれ出できて、御願にてぞと聞え侍りし、この臨時の祭は。そのあづま遊の歌、貫之のぬしのよみたりし、

  「松もおひまたもかげさ〈こけむイ〉すいはしみづゆくすゑとほくつかへまつらむ」。

     六十二代〈天曆聖主此也。殿上有和歌會。〉

次の御門、村上の天皇と申しき。御諱なりあきら。これ醍醐の御門の第十四の皇子なり。御母后朱雀院の御同じ腹におはします。この御門、延長四年丙戌六月二日生れさせ給ふ。〈桂芳坊にて生れさせ給へるとぞ。〉天慶三年庚子二月十五日御元服。御年十五。同七年甲辰四月廿二日に東宮に立たせ給ふ。御年十九。同九年丙午四月廿九日位に即かせ給ふ。御年二十一。世をしらせ給ふ事廿一年。〈ある本に庚保四年五月廿五日うせさせ給ふ。御年四十二。御陵村上。〉御母后、延喜三年癸亥前坊うまれさせ給ふ。御年十九。同廿年女御の宣旨下りたまふ。御年三十六。同廿三年みづのとのひつじ朱雀院生れさせ給ふ。同四月廿五日后の宣旨かうぶらせ給ふ。御年三十九。やがて御門うみ奉り給ふ。同じ四月に后にも立たせ給ひけるにや。四十二にて村上はうまれさせ給ひけり。后にたゝせ給ふ日、前坊の御事を宮の內にゆかしがりて申し出づる人もなかりけるに、かの御めのと子に〈御めのとも〉〈五字衍歟〉大輔の君といひける女房のかくよみて出したりける、

  「わびぬれば今はたものを思へどもこゝろに似ぬはなみたなりけり」。

又御法事はてゝ人々まかりいづる日もかくこそはよまれたりけれ、

  「今はとてみ山をいづるほとゝぎすいづれの里になかむとすらむ」。

五月の事に侍りけり。げにいかにと覺ゆるふしぶし末の世まで傳はるばかりの事、いうに侍るかしな。さて前東宮におくれ奉りて限なく歎かせ給ふ。同じ年朱雀院生れさせ給ふ。われ后にたゝせ給ひけむこそ、さまざま御なげき御よろこび、かきまぜたる心ちつかうまつれ。世におほきさきとこれを申す。

     六十三代〈この御門に、元方のものゝけおはしまして、あさましかりしと、ある本に。〉

次の御門は、冷泉院天皇と申しき。御諱憲平。これ村上天皇の第二の王子なり。御母皇后宮安子と申す。右大臣師輔のおとゞの第一の御むすめなり。この御門天曆四年庚戌五月廿四日在衡のおとゞのいまだ從五位下にて備前介と聞えまつりし折の五條の家にて生れさせ給へり。同年七月廿三日東宮に立たせ給ふ。應和三年癸亥二月廿八日御元服。御年十四。康保四年丁卯五月廿五日、御年十八にて位に即かせ給ふ。世をたもたせ給ふ事二年。寬弘八年辛亥十月廿四日、御年六十にてかくれおはしましけるを、三條院位につかせ給ふ年にて大甞會などの延びけるをぞ折あしと世の人申しける。

     六十四代〈寬和元年八月廿九日出家。年三十七。御名金剛法。同二年三月廿二日於東大寺受戒。正曆二年二月十二日崩。年三十二。同月十九日葬圓融寺北原、量御骨於村上陵傍。〉

次の御門、圓融院天皇と申しき。御諱守平。これ村上の御門の第五の王子なり。御母冷泉院の同じ腹におはします。この御門、天德三年己未三月二日生れさせ給ふ。この御門の東宮に立たさせ給ふ程はいと聞きにくゝいみじき事どもこそ侍な。これは皆人のしろしめしたることなれば事も長し、とゞめ侍りぬ。安和二年己巳八月十三日にこそは位に即かせ給ひけれ。御年十一とぞ。さて天祿三年壬申正月三日御元服。御年十四。世を保たせ給ふ事十五年。惱ありて御出家、法名金剛法と申しき。正曆二年二月十二日うせさせ給ふ。御年三十三。母后の御年廿三四にて、うちつゞきこの御門冷泉院とうみ奉り給へり。〈御中に爲平の宮生れたまへり。うちつゞきはこの本のひが事なり。〉いとやんごとなき御宿世なり。御母方のおほぢ出雲守從五位下藤原の經邦といひし人なり。末の世にはそうせさせ給ひてこそは贈三位し給ひしか。いまさぬ跡なれど、この世の光はいとめいほくありかし。おほきさきと申すこの御事なり。女十宮うみ奉り給ふたびかくれさせ給へりし御歎こそいと悲しく承りしか。村上の御日記御覽じたる人もおはしますらむ。ほのぼの傳へうけたまはれども、及ばぬ心にもいと哀にかたじけなうさふらふな。そのとゞまりおはします女宮こそはおほ齋院よ。

     六十五代〈諱師貞。寬弘五年二月八日崩。四十一。〉

次の御門、花山院天皇と申しき。御諱師貞。冷泉院第一の王子なり。御母贈皇后宮懷子と申す。太政大臣伊尹のおとゞの第一のむすめなり。この御門、安和元年つちのえたつ十月廿六日、母方の御おほぢ一條の御家にて生れさせ給ふとあるは世尊寺の事にや。その日は冷泉院の御時の大甞會のごけいあり。同二年己巳八月十三日東宮に立たせ給ふ。御年二歲。天元五年壬午二月十九日御元服せさせ給ふ。御年十五。永觀二年甲申八月廿八日位につかせ給ふ。御年十七。寬和二年丙戌六月廿二日の夜あさましく候ひし事は、人にも知られさせ給はでみそかに花山寺におはしまして、御出家入道せさせ給へりしとぞ。御年十九。世を保たせ給ふ事二年。その後廿二年はおはしましき。あはれなる事はおりおはしましける夜は、藤壺の上の御局の小戶より出でさせ給ひけるに、有明の月のいみじうあかゝりければ、「見證にこそありけれ。いかゞあるべからむ」と仰せられけるを、「さりとてとまらせ給ふべきやう侍らず。神璽寳劔わたり給ひぬるには」と粟田のおとゞさわがし申し給ひけることは、まだ御門出させ給はざりけるさきに神璽寳劔手づからとりて、東宮の御方にわたし奉り給ひてければ、かへり入らせ給はむ事はあるまじくおぼしてしか申させ給ひけるとぞ。さやけき影をまばゆく思しめしつるほどに、月のかほにむら雲のかゝりて少しくらがりゆきければ、「我がすけは成就するなりけり」と仰せられて步み出でさせ給ふ程に、こき殿の女御の御文の日ごろやりのこして御身もはなたず御覽じけるを思しめしいでゝ、しばしとてとりに入らせ給ひけるほどぞかし、粟田殿の、「いかにかくは思しめしなりぬるぞ。只今過ぎなば、おのづからさはりとて出でまうで來なむ」とそらなきし給ひけるは。さて土御門よりひんがしざまにおはしますに、晴明が家の前をわたらせ給へば、みづからの聲にて手をおびたゞしくはたはたと打つなる。「御門おりさせ給ふと見ゆる天變ありつるが、旣になりにけりと見ゆるかな。參りて奏せむ。車にさうぞくとうせよ」といふ聲聞かせ給ひけむは、さりとも哀にはおぼしめしけむかし。「かつかつ式神一人だいりに參れ」と申しければ、目には見えぬものゝ戶おしあけていづ。御うしろをや見まゐらせけむ、「唯今これより過ぎさせおはしますめり」といらへけりとかや。その家は土御門町口なれば御道なりけり。花山寺におはしましつきて、御ぐしおろさせ給ひて後にぞ、粟田殿は「まかりいでゝ、おとゞにもかはらぬ姿今一度見え、かくと案內も申して必ず參り侍らむ」と申したまひければ、「われをばはかるなりけり」とこそ泣かせ給ひけれ。哀に悲しきことなりな。日比かく御弟子にてさぶらはむと契りすかし申し給ひけむがおそろしさよ。東三條殿は、もしさる事やし給ふとあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかゞしといふいみじき源氏の武者達をこそ御送にそへられたりけれ。京の程は隱れて、つゝみのわたりよりぞうちいで參りける。寺などにては、若しおして人などやなし奉るとて、一尺ばかりの刀どもを拔きかけて守り申しけるとぞ。〈或本に、寬弘五年二月八日うせさせたまふ。御年四十一。〉

     六十六代

次の御門、一條院天皇と申しき。御諱やすひと。これ圓融院の御門第一の王子なり。御母皇太后宮詮子と申しき。これ太政大臣兼家のおとゞの第二の女なり。この御門、天元三年庚辰六月一日、兼家のおとゞの東三條の家にて生れさせ給ふ。東宮に立たせ給ふ事、永觀二年甲申八月廿八日なり。御年五歲。寬和二年丙戌六月廿三日位に即かせ給ふ。御年七歲。永祚二年庚寅正月五日御元服。御年十一。世をたもたせ給ふ事廿五年。御母は十九にてこの御門をうみ奉り給ふ。東三條の女院とこれを申す。この御母は津の守藤原仲正のむすめなり。〈或本に、寬弘八年六月十三日おりさせ給ふ。同月の廿二日うせさせ給ふ。御年三十二。〉

     六十七代

次の御門、三條院のみかどゝ申しき。御諱ゐさだ。これ冷泉院第二の王子なり。御母贈皇后宮超子と申しき。太政大臣兼家のおとゞの第一の御女なり。この御門は貞觀元年丙子正月三日生れさせ給ふ。寬和二年丙戌七月十六日、東宮に立たせたまふ。同じ日御元服なり。御年十一。寬弘八年辛亥六月十三日位に即かせ給ふ。御年卅六。世をたもたせ給ふ事五年。院にならせたまひて御目を御覽ぜざりしこそいといみじかりし〈か脫歟〉。ことに人の見奉るには聊變らせ給ふ事おはしまさゞりければ、そら事のやうにぞおはしましける。御眼などもいときよらにおはしますばかり、いかなる折にか時々は御覽ずる時もありけり。「御簾のあみ緖の見ゆる」なども仰せられて、一品宮ののぼらせ給へりけるに、辨のめのとの御供に候ふが、さしぐしを左にさゝれたりければ、「あごよ、など櫛はあしくさしたるぞ」とこそ仰せられけれ。この宮をことのほかにかなしうし奉らせ給ひて、御ぐしのいとをかしげにおはしますをさぐり申させ給ひては、「かく美くしうおはする御ぐしをえ見奉らぬこそ心うけれ口惜しけれ」とて、ほろほろと泣かせ給ひけるこそあはれに侍れ。渡らせ給ふ度ごとにはさるべき物を必ず奉らせ給ふ。三條院の御券を具して歸りわたらせ給へりけるを、入道殿御覽じて、「かしこくおはしける宮かな。幼き御心にふるほぐとおぼしてうち捨てさせ給はで、もてわたらせ給へるよ」と興じ申させ給ひければ、「まさなくも申させ給ふものかな」と御めのとたち笑ひ給ひける。冷泉院も奉らせ給ひけれど、「むかしより御門の御領にてのみさふらふ所を今更に私の物になり侍らむ、びんなきことなり。おほやけものにて候ふべきなり」とて返し申させ給ひければ、代々のわたりものにて、朱雀院のおなじ事に侍るべきにこそ。この御目のためによろづにつくろひおはしましけれど、そのしるしあることもなきいといみじき事にて、もとより御風重くおはしますに、くすしどもの「大小寒の水を御ぐしにいさせ給へ」と申しければ、氷りふたがりたる水を多くかけさせ給ひけるに、いといみじく慄ひわなゝかせ給ひて、御色もたがひにおはし給ひたりけるなむ、いとあはれに悲しく人々見まゐらせ給けるとぞうけたまはりし。御病により金液丹といふ藥をめしたりけるを、その藥くひたる人はかく目を惱むなど人は申しゝかど、まことには桓算供奉の御ものゝけに顯はれて申しけるは、「御首にのりゐて左右のはねをうちおほひ申したるに、うちはぶき動かすをりに少し御覽ずるなり」とこそいひ侍りけれ。御位去らせ給ひしこと、多くは中堂にのぼらせ給はむとなり。さりしかどのぼらせ給ひて更にそのしるしおはしまさゞりしこそ口惜しかりしか。やがてをこたらせおはしまさずとも少しのしるしはあるべかりしことよ。さればいとゞ山の天狗のし奉るとこそさまざまに聞え侍るめれ。太秦にも籠らせ給へりき。さて佛のお前よりひんがしの廂にくみれはせられたるなり。御烏ばう子せさせ給へりけるは大入道殿にこそいとよく似奉り給へりけれ。御心さへいとなつかしうおいらかにおはしまして、世の人いみじうこひ申すめり。「齋宮の下らせ給ふ別の御櫛さゝせ給ひては、かたみに見かへらせ給はぬことを、思ひかけぬに、この院はむかせ給へりし。あやしとは見奉りしものを」とぞ入道殿おほせられける。〈寬仁元年五月九日うせさせ給ふ。御年四十二。〉

     六十八代

次の御門、當代、御諱あつなり。これ一條院の御第二王子なり。御母今の入道殿下の第一の御むすめなり。皇太后宮彰子と申す。唯今は誰かはおぼつかなく覺し思ふ人の侍らむ。されどまづすべらきの御事を申すさまにたがへ侍らぬなり。寬弘五年戊申九月十一日、土御門殿にて生れさせ給ふ。同八年辛亥六月十三日、東宮に立たせ給ひき。御年四歲。長和五年丙辰五月廿九日位に即かせ給ひき。御年九歲。寬仁二年戊午正月三日御元服。御年十一。位に即かせ給ひて十年にやならせ給ふらむ。今年萬壽二年乙丑とこそは申すめれ。おなじみかどゝ申せども、御後見多くたのもしくおはします。御おほぢにて唯今の入道殿下出家せさせ給へれど、世のおや一切衆生一子の如くはぐゝみおはします。第一の御をぢにて唯今の關白左大臣、一天下をまつりごちておはしますべき。次の御をぢと申すは內大臣にて左大將かけておはします。次の御をぢと申すは大納言、或ひは東宮大夫、中宮權大夫、中納言などさまざまにて坐します。斯の如くにおはしまさせば御後見多くおはします。昔も今もみかどかしこしと申せど、臣あまたしてかたぶけ奉るときは傾き給ふものなり。されば唯一天下は我が御後見の限にておはしませば、いとたのもしくめでたき事なり。むかし一條の院の御惱のをり、仰せられけるは、「すべからくは次第のまゝに一のみこをなむ春宮とすべけれど、後見すべき人なきにより思ひかけず。さればこの二宮をば立て奉るなり」とおほせられけるもこの當代の御事よ。げにさる事ぞかし。御門の御次第は申さずともありぬべけれど、入道殿下の御榮華も何によりひらけ給ふぞと思へば、先づ御門后の御ありさまを申すなり。植木は根をおほして、つくろひおほしたてつればこそ枝もしげりてこの實をもむすべや。しかあればまづみかどの御つゞきをおぼえて、次に大臣の御つゞきはあかさむとなり」」といへば、大犬丸をとこ、「「いでいでいといみじうめでたしや。こゝらのすべらきの御有樣をだに鏡をかけ給へるに、まして大臣などの御事は年ごろ闇にむかひたるに朝日のうらゝかにさし出でたるにあへらむ心ちもするかな。又翁らが家の女どものもとなるくしげの鏡の影見えがたく、とぐわざもしらずうち納めて置きたるにならひて、あかく磨ける鏡にむかひて我が身のかたちを見るに、かつは影はづかしく、又いとめづらしきにもむかへりや。あな興ありのわざやな。翁今十廿年の命は今日延びぬる心ちし侍り」」と痛くゆけするを、見聞く人々をこがましうをかしけれども、いひ續くる事どもはおろかならずおそろしければ物もいはで皆聞きゐたり。大犬丸をとこ、「「いで聞きたまへや。歌ひとつ作りて侍り」」といふめれば、世繼、「「いとかんあることなり」」とて、「「うけたまはらむ」」といふ。繁樹、いとやさしげにいひいづ。

  「「あきらけきかゞみにあへば過ぎにしも今ゆくすゑのことも見えけり」」

といふめれば、世繼いたく感じて、あまた度ずじてうめきて返し、

  「「すべらぎの跡もつぎつぎかくれなくあらたに見ゆるふるかゞみかも。

今やうのあふひ八花がたの鏡、蒔繪螺鈿の箱に入れたるにむかひたる心ちし給ふや。いでやそれは、さきらめけど曇りやすきところあるや。いかにいにしへの古代の鏡はかね白くて人手ふれねどかくぞあかき」」など、したり顏に笑ふかほつき繪に書かまほしく見ゆ。あやしながら、さすがなるけつきて、をかしく誠に珍らかになむ。世繼「「よしなしごとよりはまめやかなる事を申し出でむ。よりよりたれもたれも聞しめせ。今日の講師の說法は菩提のためとおぼし、又翁らが說く事は日本紀を聞くとおぼすばかりぞかし」」といへば、僧俗「「げに說經說法多くうけたまはれど、かくめづらしき事のたまふ人は更におはせぬなり」」とて年老いたる尼法師ども額に手をあてゝ信をなしつゝ聞きゐたり。「「世繼はいとおそろしき翁に侍り。眞實の心おはせむ人はなどかはづかしとおぼさゞらむ。世の中を見しり、うかべたてゝもちて侍る翁なり。目にも耳にも聞きあつめて侍る。よろづの事の中に唯今の入道殿下のありさま、いにしへを聞き今を見侍るにも、二つもなくまた三つもなく、ならびなくはかりなくおはします。たとへば一乘法のごとし。御有樣の返す返すめでたきなり。世間の太政大臣攝政關白と申せど、はじめをはりとめでたき事はえおはしまさぬことなり。法文聖敎の中にものたまふなるは、魚の子おほかれど、まことの魚となることはかたし。ありのみといふ木は花はしげゝれどこのみをむすぶことかたしとこそは說き給へれ。天下の大臣公卿の御中に、このたからの君のみこそ世にめづらかにおはすめれ。今ゆくすゑも誰の人かかばかりはおはせむ。いとありがたき御事なりや。誰も心をひとつにてきこしめせ。世にある事は何事をかは見のがし聞き殘して侍らむ。この世繼が申すことゞもはしも知り給はぬ人々多くおはすらむとなむ思ひ侍る」」といふめれば、「「すべてすべて申すべきならず」」とてきゝあへり。「「世はじまりて後、大臣皆おはしけり。されど左大臣右大臣內大臣太政大臣と申す位、天下になりあつまり給へるがかずへてみなおぼえ侍り。世はじまりて後今にいたるまで、左大臣三十人、右大臣五十七人、內大臣十二人なり。太政大臣は古の御門の代にはたやすくおかせ給はざりけり。或ひは御門の御おほぢ、或ひは御門の御をぢぞなり給ふめる。又しかの如く帝の御おほぢをぢなどにて御後見し給ふ大臣納言かずおほくおはす。うせ給ひて後、贈太政大臣などになり給へるたぐひあまたおはすめり。さやうのたぐひ七人〈或本十人〉ばかりやおはすらむ。わざとの太政大臣はなりがたく、すくなくぞおはする。神武大皇より三十七代に當り給へる孝德天皇と申したる御門の御代より、幷に八省百官左右大臣內大臣なりはじめ給へらむ。左大臣には安倍の倉橋麻呂、右大臣には蘇我の山田の石川麻呂、これは元明天皇の御おほぢなり。石川麻呂大臣、孝德天皇位に即き給ひて、元年乙巳大臣になり、五年つちのとのとり春宮のために殺され給へりとこそは。これはあまりあがりたる事なり。內大臣には大中臣の鎌子の連なり。かの時年號あらざれば月日申しにくし。又三十九代にあたり給へる御門天智天皇こそは始めて太政大臣をばなし給へりけれ。それはやがてわが第二の王子におはしける大友王子なり。正月に太政大臣になり給へり。天智天皇十年二月三日うせ給ひて後、大友の王子われ位に即かむとてしたまひしに、六月廿六日この王子を殺して、おほみの王子位に即き給ひて天武天皇と申し給ひき。世をしらせ給ふこと十五年。神武天皇より四十一代に當らせ給ふ持統天皇、又太政大臣にたけちの王子をなし給へり。天武天皇の王子なり。この二人の太政大臣はやがてみかどゝなり給へり。たけち王子、大臣ながらうせ給ひにけり。その後、太政大臣いとひさしく絕え給へり。但、職員令には太政大臣にはおぼろけの人はなすべからず。もしそれなくばたゞにおかるべしとこそありければ、おぼろけの位にはあらぬにや。四十二代に當り給ふ文武天皇の御時に年號定りて大寳元年といふ。文德天皇の末の年、齊衡四年丁丑二月十九日、御門の御おほぢ〈をぢとも〉右大臣從一位藤原良房のおとゞ太政大臣になり給ふ。御年五十四。このおとゞこそは始めて攝政もし給ひつれば、やがてこの殿よりして今の閑院大臣まで太政大臣十一人續き給へり。たゞしこれより以前、大友皇子高市皇子くはへ、すべては十三人の太政大臣なり。太政大臣になり給ひぬる人はうせ給ひて後、必ずいみなと申すものありけり。しかりといへど、大友皇子やがて御門にたち給へり。〈御門ながらうせ給ひぬればいみななし。〉高市皇子の御いみな覺束なし。又太政大臣といへど出家しつるはいみななし。さればこの十一人續かせ給ひたる二所は出家し給ひつれば諱おはせず。この十一人の太政大臣たちの御次第はじめをはり申し侍らむと思ふなり。流を汲みて源を尋ねてこそはよく侍るべきを、大織冠より始め奉りて申すべけれど、其は餘りあがりての世の事なり。この聞かせ給はむ人々もあなづりごとには侍れど、何ともおぼされざらむものから、こと多くて講師坐しなば、ことさめ侍りてくちをし。されば唯帝王の御事も文德の御時より申して侍れば、冬嗣のおとゞより申すぞ。その御門の御おぢ冬嗣のおとゞと申すは鎌足よりは第六に當り給ふ。世の人はふぢさしとこそ申すめれ。その冬嗣の大臣より申し侍らむ。その中に思ふに唯今の入道殿勝れさせ給へり。


大鏡卷之二

   臣家

   冬嗣大臣〈五條后のてゝなり〉

   良房大臣

   良相大臣

   長良中納言〈二條后のてゝなり〉

   昭宣公〈基經〉

   時平大臣〈基經太郞〉

     左大臣冬嗣

このおとゞは內麻呂のおとゞの三郞。公卿にて十六年、左の大臣の位にて六年、田邑の御おほぢにおはします。かるがゆゑに、嘉祥三年庚午七月七日、贈太政大臣になり給へり。閑院大臣と申す。このおとゞは大かたをのこ子十一人おはしたるなり。されどくだくだしきをんな子たちのことはくはしくしりはべらず。たゞし、田むらの御かどの御はゝきさき、贈太政大臣なが良のおとゞ、太政大臣よしふさのおとゞ、右大臣よしすけのおとゞはひとつ御はらなり。

     太政大臣良房

このおとゞは左大臣冬嗣の次郞なり。天安元年丁丑二月十九日太政大臣になり給ふ。同年四月十九日從一位。御年五十四。水の尾の御門の御孫におはしませば、天安二年八月廿七日に位に即かせ給ふ。同年戊寅十一月七日攝政の詔あり。年官年爵給はり給ふ。貞觀八年丙戌關白にうつりたまふ。御年六十三。うせ給ひての御いみな忠仁公となづけ奉る。又白川の大臣、染殿の大臣と申しつたへたり。たゞしこのおとゞは文德天皇の御をぢ太皇太后宮明子の御父、淸和天皇の御おほぢにて太政大臣准三宮位にのぼらせたまひ、年官年爵の宣旨くだり、攝政關白などしたまひて十五年こそはおはせしか。大かた公卿にて三十年、大臣の位にて廿五年ぞおはせし。この殿ぞ藤氏のはじめて太政大臣攝政したまふ。めでたき御ありさまなり。和歌もあそばしけるにこそ。古今にも數多侍るめる。前のおほいまうちぎみとはこの御事なり。おほかる中にもいかに御こゝろゆきめでたくおぼえてあそばしけむとおしはからるゝ。御むすめ染殿の后のおまへに櫻の花のかめにさゝれたるを御らんじて、かくよませたまへるとぞ。

  「年ふればよはひは老いぬしかはあれど花をし見ればもの思もなし」。

后を花にたとへ申させ給へるにこそ。かくれ給ひて白川にをさめたてまつる日、素性の君のよみたまへりしは、

  「ちのなみだおちてぞたぎつ白川は君が代までのなにこそありけれ」。

皆人しろしめしたらめど、物を申しはやりぬればさぞ侍る。かくいみじきさいはひ人の、子のおはしまさぬこそ口惜しけれ。御このかみの長良の中納言殊の外に越えられ給ひけむ折、いかばかりからう覺されけむ。又よじんもことの外に思ひ申しけめど、その御末こそ今に榮えおはしますめれば、行く末はことの外にまさり給へりけるものを。

     右大臣良相

このおとゞは御母白川の大臣におなじ。冬嗣大臣の五郞。大臣の位にて十一年、贈正一位西三條大臣と申す。淨藏定額の御祈の師にておはす。千手堂にて驗德かうぶり給へる人なり。この大臣の御女御子の事能くしらず。ひとりぞ水の尾の御時の女御。をのこ子は大納言常行卿ときこえし。御子二人おはせしも五位にて典藥助主殿頭などいひて、いと淺くてやみ給ひにき。かくばかり末榮え給ひける中納言殿をやへやへの御おとゝにて越え奉り給へりける、御あやまりにやとこそ覺え侍れ。

     贈太政大臣權中納言從二位左兵衞督長良

この中納言は冬嗣のおとゞの太郞、母は白川大臣西三條大臣に同じ。公卿にて十三年、陽成院の御時に御おほぢにおはするが故に、元慶元年丁酉正月に贈左大臣正一位、又贈太政大臣枇把大臣と申す。このおとゞ御子六人おはせし。その中に基經のおとゞすぐれ給へり。

     太政大臣基經

このおとゞは長良中納言の三郞におはす。この基經のおとゞの御むすめ、醍醐の御時の后、朱雀院天皇幷に村上二代の御母后におはします。このおとゞの御母、贈太政大臣總繼の女、贈正一位大夫人乙春なり。陽成院位に即かせ給ひて攝政の宣旨をかうぶりたまふ。御年四十一。寬平の御時、仁和三年丁未十一月廿一日關白にならせ給ふ。御年五十六にて寬平三年正月十三日うせ給ひにき。御いみな昭宣公と申す。公卿にて廿七年。大臣の位にて二十年。世をしらせ給ふ事十餘年かとぞおぼえ侍る。世の人堀川の大臣と申す。小松の御門の御母、この殿の御母のはらからにおはします。さてちごより小松の御門を親しく見奉らせ給ひて、事にふれてきやうざくにおはしますを、あはれ君かなと見奉らせ給ひけるが、良房のおとゞの大饗にや、むかしはみこたち必ずつかせ給ふことにて、渡らせ給へるに、雉足は必ず大饗にもる物にてありけるを、いかゞしけむ、尊者の御前にとり落してけり。陪膳する人、みこの御前のをとりて惑ひて尊者の御前にすうるを、いかゞおぼしめしけむ、お前にともしたる御殿油をやをらかいけたせ給ひける。このおとゞはそのをりは下﨟にて、座の末にて見奉らせ給ふに、いみじくもせさせ給ふものかなといよいよ見めで奉らせ給ひて、陽成院おりさせ給ふべき定めにさぶらはせ給ふ。とほるの大臣やんごとなくて位につかせ給はむといふ御心深くて、「近き王胤をたづねば、とほるらも侍るは」といひ出で給へるを、この大臣「王胤なれどしやうをたまはりてたゞ人にてつかへて位につきたるためしやある」と申し出でたまへれば、さもある事なれば、この大臣のさだめによりて、小松の御門は位に即かせ給へるなり。御門の御末も遙につたはり、大臣の末もつたはりつゝ後見申し給ふ。さるべくは契りおかせ給へる御中にやとぞ思ひ侍る。おとゞうせ給ひて深草の山にをさめ奉る夜、勝延僧都のよみたまへる、

  「空蟬はからを見つゝもなぐさめつふかくさの山けぶりだにたて」。

〈かの歌、へんじやうが悲しさに、御門の御さうそうによみてうせたり。〉又かんつけの峰雄といひし人のよみたる、

  「深草の野べのさくらし心あらばことしばかりはすみぞめにさけ」

なども、古今に侍ることゞもぞかしな。御家は堀川院と閑院とにすませたまひしを、堀川院をばさるべきことのをり、はればれしきれうにせさせ給ひ、閑院をば御物忌や又疎き人などは參らぬ所にて、さるべくむつましくおぼす人ばかりを御供にさぶらはせて渡らせ給ふをりもおはしましける。堀川院は地ぎやうのいといみじきなり。大饗のをり、殿ばらの御車のたちやうなどよ、尊者の御車は川よりひんがしにたて、牛はみはしのひらきばしらにひきつなぎ、こと上達部の車をば川より西にたてたるがめでたきをば、尊者の御車のべちにことに見ゆることは、こと所は侍らぬものをやと見給ふるに、この賀やう院殿にこそおされにて侍るめれ。方四町にて四面おほぢなる京中の家は冷泉院のみとこそ思ひ候ひつれ。世の末になるまゝにまさる事のみこそ出でまうでくめれ。この昭宣公のおとゞは陽成天皇の御をぢにて宇多の御門の御時、准三宮の位にて年官年爵を得たまふ。朱雀院幷に村上のおほぢにておはしまし、世覺えやんごとなしと申せばおろかなりや。御をのこ子四人おはしき。太郞左大臣時平、次郞左大臣仲平、四郞太政大臣忠平」」といふに、繁樹がけしきことになりて、まづうしろの人の顏うち見わたして、「「それぞこのいはゆる翁がたからの君、貞信公におはします」」とて扇うちつかふかほもちことにをかし。「「三郞に當らせ給ひしは從三位して宮內卿兼平の君と申してうせ給ひにき。さるは御母いとあてにおはす。みつよしの式部卿のみこの御むすめにて、かへすがへすもやんごとなくおはすべかりしかど、この三人の大臣たちを世の人三平と申しき。

     左大臣時平

このおとゞは基經のおとゞの御太郞なり。御母四品彈正尹人康親王の御むすめ。醍醐のみかどの御とき、この大臣左大臣の位にて年いと若くておはします。菅原のおとゞ右大臣の位にて坐します。そのをり御門おほん年いと若く坐します。左右大臣に世の政行ふべき宣旨下さしめ給へりしに、そのをり左大臣御年廿八九ばかり、右大臣御年五十七八にやおはしけむ。共に世の政をせしめ給ひし間、右大臣ざえも世にすぐれめでたくおはしまし、御心おきてもことの外にかしこくおはしまし、左大臣は御年もわかくざえも殊の外に劣り給へるにより、右大臣御おぼえことの外におはしましたるに、左大臣安からずおぼしたる程に、さるべきにやおはしけむ、右大臣の御ためによからぬ事出できて昌泰四年正月廿九日、太宰權帥になし奉りて流されたまふ。このおとゞの子どもあまたおはせしに、女君だちは聟どりし、男君だちは皆ほどほどにつけて位どもおはせしを、これも皆かたがたに流され給ひてかなしきに、をさなくおはしける男君女君だち慕ひ泣きておはしければ、ちひさきはあへなむとおほやけもゆるさしめ給ひしかば共にゐてくだり給ひしぞかし。みかどの御おきて極めてあやにくにおはしませば、この御子どもを同じ方にだに遣さゞりけり。かたがたにいと悲しくおぼして御まへの梅の花を御らんじて、

  「こちふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を〈なイ〉わするな〈れそイ〉」。

又ていしの御門に聞えさせたまふ。

  「流れゆくわれはみくづとなりはてぬ〈ぬともイ〉君しからみとなりてとゞめよ」。

なき事によりかく罪せられ給ふをかしこくおぼし歎きて、やがて山崎にて出家せしめ給ひてけり。その程極めて悲しき事おほかり。日ごろへて都遠くなるまゝに、あはれに心ぼそくおぼされて、

  「君がすむ宿の梢を〈のイ〉ゆくゆくと〈もイ〉かくるゝまでも顧みしかな〈はやイ〉」。

又播磨の國におはしつきて、明石のうまやといふ所に御やどりせしめ給ひて、うまやの長のいみじう思へる氣色を御覽じて作らしめ給へる詩いとかなし。

  「驛長無驚時變改

   一榮一落是春秋」。

かくて筑紫におはしまし着きて、哀に心ぼそくおぼさるゝ夕、をちかたに所々けぶりたつを御覽じて、

  「夕されば野にも山にもたつけぶりなげきよりこそもえまさりけれ」。

又、雲の浮きてたゞよふを御覽じても、

  「山わかれとびゆく雲のかへりくるかげ見る時は〈ぞイ〉尙賴まれぬ〈るゝイ〉」。

さりともと世をおぼしめされけるなるべし。月のあかき夜、

  「海ならずたゞよふ水のそこまでもきよきこゝろは月ぞてらさむ」。

これいと畏くあそばしたりかし。げに月日よりこそは照し給はめとこそはあめれ。誠におどろおどろしきことはさるものにて、かくやうのうたや詩などをさへ、いとなだらかにゆゑゆゑしういひ續け給ふ」」と見聞く人めもあやにあさましく哀にもまもりゐたり。物のゆゑ知りたる人なども、むげに近く居よりてほかめせず見聞くけしきどもを見て、いよいよはへて物を繰り出すやうにいひ續くるほどぞ誠にけうなるや。繁樹、淚をのごひつゝけうじゐたり。「「筑紫におはします所の御門もかためておはします。大貳の居所ははるかなれども、樓の上のかはらなどの心にもあらず御覽じやられけるに、又いと近く觀音寺といふ寺のありければ、鐘の聲をきこしめして作らせ給へる詩ぞかし。

  「都府樓纔看瓦色

   觀音寺只聽鐘聲」。

これは文集白居易、遺愛寺鐘欹枕聽、香爐峰雪撥簾看といふ詩にも、まさ〈り脫歟〉ざまに作らしめ給へりとこそむかしの博士どもの申しけれ。又かの筑紫にて、九月十日菊の花を御覽じけるついでに、まだ京におはしましゝ時、九月の今宵內裏にて菊の宴ありしに、このおとゞ作らしめ給へりける詩を御門かしこく感じたまひて御衣たまはり〈如元〉給へりしを、筑紫にもてくだらしめ給へりければ御覽ずるに、いとゞその折おぼしめしいでゝ、作らせ給ひける。

  「去年今夜侍淸凉

   秋思詩篇獨斷

   恩賜御衣今在

   捧持每日拜餘香」。

この詩いとかしこく人々感じ申されき。この事ども唯ちりぢりなるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせ給へりけるを書きあつめ一卷とせしめ給ひて後集となづけられたり。又折々の歌書きおかせ給へりけるを、おのづから世に散りきこえしなり。世繼が若う侍りし時、この事のせめて哀に悲しく侍りしかば、大學の衆どものなまふがうにはいますかりしを問ひ尋ねかたらひとりて、さるべきゑ袋わりごやうの物調じて、うち具してまかりつゝならひとりて侍りしかど、老のけの甚しきことは皆こそわすれ侍りにけれ。これはたゞすこぶる覺え侍るなり」」といへば、聞く人々「「げにげにいみじきすきものにもものし給ひけるかな。今の人はさる心ありなむや」」と感じあへり。「「又雨のふる日、うちながめ給ひて

  「あめのしたかわける程のなければや着てし濡衣ひるよしもなき」。

やがてかしこにてうせ給へる、夜の內に、この北野にそこらの松をおほさしめ給ひて渡り住み給ふをこそは唯今の北野宮と申して、あら人神におはしますめれ。おほやけも行幸せしめ給ふ。いとかしこく崇め奉り給ふめり。筑紫のおはしまし所は安樂寺といひて、おほやけより別當所司などなさせ給ひていとやんごとなし。內裏燒けて度々造らしめ給ひしも、圓融院の御時のことなり。たくみども、裏板どもをいとうるはしくかなかきて罷り出でつゝ、またのあしたに參りて見るに、昨日の裏板に物のすゝけて見ゆる所のありければ、はしにのぼりて見るに、夜の內に蟲のはめるなりけり。そのもじは、「つくるともまたもやけなむすがはらやむねのいたまのあらむかぎりは」とこそありけれ。それもこの北野の顯はし給へるとこそは申すめりしか。かくてこのおとゞは筑紫におはして、延喜三年みづのとのゐ二月廿五日にうせ給ひしぞかし。御年五十九。さて後七年ばかりありて左大臣時平のおとゞ、延喜九年己巳四月四日うせ給ふ。〈去年ばかりやおはしけむ。〉御年卅九。大臣の位にて十一年ぞおはしける。本院の大臣と申す。この時平のおとゞのむすめの女御もうせ給ひぬ。御孫の東宮も、一男八條の大將保忠卿もうせ給ひにきかし。この大將八條にすみ給へば、うちに參り給ふほどいとはるかなるにいかゞおぼされけむ、冬はもちひのいと大きなるをぞひとつ、ちひさきをばふたつ燒きてやき石のやうに御身にあてゝ持ちたまへりけるが、ぬるくなれば小きをばひとつづゝ、大きなるをば中よりわりて御車ぞひに投げとらせ給ひける、あまりなる御用意なりかし。その世にも耳とゞまりて人の思ひければこそかくいひ傳へ侍るらめ。この殿ぞかし、病つきたまひてさまざまのいのりし給ひしに、藥師經の讀經枕上にてせさせ給ふに、いはゆる宮毗羅大將とうちあげたるを、われをくびると讀むなりけりとおぼしける臆病に、やがて絕えいり給へり。經のもんといふ中にもこはき物のけにとりこめられ給へる人に、げに怪しくうちあげ侍るかし。さるべきとはいひながら、物はをりふしことに侍る事なり。その弟の敦忠中納言もうせ給ひにき。世にめでたき和歌の上手、管絃の道にも優れ給へりき。かくれ給ひて後、御遊びなどあるをりに博雅三位のさはる事ありて參られぬ時は今日の御遊はとゞまりぬと度々召されてまゐるを見て、ふるき人々は「世の末こそあはれなれ。敦忠中納言のいませし時はかゝる道にこの三位の、おほやけを始め奉りて、世の大事に思はるべきものにとこそ思はざりしか」とぞのたまひける。先坊に御息所參り給ふこと、本院のおとゞの御むすめ具して三四人なり。本院のはうせ給ひにき。中將の御息所ときこえし、後はしげあきらの式部卿のみこの北の方にて、齋宮の女御の御母にてそもうせ給ひにき。いとやさしくおはせし先坊を戀ひかなしみたまふ。大輔なむ夢に見奉るときゝておくり給へる、

  「時のまもなぐさめつらむ君はさぞゆめにだに見ぬわれぞかなしき」。

御返事、大輔、

  「こひしさは慰むべくもあらざりき夢のうちにもゆめと見しかば」。

今一人の御息所は玄上宰相の女にや。其後朝の使に敦忠中納言、少將にてし給ひける。宮うせ給ひて後、この中納言にはあひ給へるを、限なく思ひながら、いかゞ見給ひけむ、文範の民部卿、播磨の守にて殿のけいしにて侍らはるゝを「我は命みじかきぞうなり。かならず死なむず。その後君はこの文範にぞあひ給はむずる」とのたまひけるを「あるまじきこと」といらへ給ひければ、「天がけりても見む。世にたがへ給はじ」などのたまひけるが、誠にさていまするぞかし。唯この君たちの御中には大納言源昇の卿御女の腹の顯忠のおとゞのみぞ右大臣までなり給へる。その位にて六年おはせしかど、少しおぼす所やありけむ、出でゝありき給ふにも家のうちにても大臣の作法をふるまひ給はず。御ありきのをりはおぼろげにて御さきつがひ給はず、まれまれもほのかにぞまゐりし。ごぜんつがひたまはず、僅に數すくなにてぞ侍ひし。御車ぞひ四人つがはせ給はざりき。又はんざふだらひにて御手すまさず、寢殿のひんがしのまに棚をして、小桶にちひさきひさげ具しておかれたれば、仕丁のつとめてごとに湯もて參りて入れければ人してもかけさせ給はず、我出でさせ給ひて御手づからぞすましける。御めしものはうるはしく、ごきなどにもまゐり、すべて只御かはらけにて臺などもなく、折敷にとりすゑつゝぞまゐらせける。儉約し給ひしもさるべきことの折の御座と御ばんどころとにぞ大臣とは見えたまひし。かくもてなし給ひしにや、このおとゞのみぞ御ぞうの中に六十餘までおはせし。四分一の家にて大饗し給へる人なり。富の小路の大臣と申す。これより外の君だち皆三十よ四十にすぎ給はず。その故はたゞ事にはあらず、この北野の御歎になむあるべき。顯忠大臣の御子、重輔の右衞門佐とて坐せしが御子なり。今の三井寺の別當心譽僧都、山階寺の權別當快公僧都などこの君達こそは物し給ふめれ。敦忠の中納言をのこゞあまたおはしける中に兵衞佐なにがしの君とかや申しゝ、その君出家して徃生し給ひにきとか。その僧の御子なり、いはくらの文慶僧都は。敦忠公の御むすめは枇杷の大納言の北の方にておはしきかし。あさましき惡事を申し行ひ給へりし罪により、このおとゞの御末はおはせぬなり。さるはやまとだましひなどはいみじくおはしましたるものを、延喜の世のなかの作法したゝめさせ給ひしかど、くわさをえしづめさせ給はざりしに、この殿制を破りたる御さうぞくのことの外にめでたきをして、うちに參り給ひて殿上にさぶらひ給ふを、御門こじとみより御覽じて、御氣色いとあしくならせ給ひて、職事を召して、「世間の過差の制きびしきところに、左のおとゞの一の人といひながら美麗殊の外にて參れる、びんなきことなり。速にまかり出づべきよしおほせよ」とおほせられければ、うけたまはるもいかなる事にかとおそれおぼえけれど、參りてわなゝくわなゝくしかじかの事と申しければ、いみじくおどろきて、かしこまりうけたまはりて御隨身のみさきまゐるも制し給ひて急ぎまかり出で給へば、御前どもゝあやしと思ひてなむ。さて本院の御門一月ほどさゝせて御簾のとにも出で給はず、人などの參るとも勘當の重ければとて逢はせ給はざりけり。さりしにこそ世の中に過差はたひらぎたりしか。內々にうけたまはりしかば、さてばかりぞしづまらむとて御門と御心合せさせ給へりけるとぞ。この左大臣物のをかしさぞえねんぜさせ給はざりける。笑ひたゝせ給ひぬれば、すこぶる事も亂れけるが、北野に世をまつりごたせ給ふ間、非道なる事仰せられければ、さすがにやんごとなくてせちにし給ふことをばいかゞはとおぼして、「このおとゞのし給ふことなればふびんなりと見れど、いかゞすべからむ」と歎き給ひけるを、なにがしの史が「事にも侍らず。おのれがかまへにてかの御事をとゞめ侍らむ」と申しければ、「いとあるまじきこと、いかにしてかはなむ」とのたまはさせけるを、「只御覽ぜよ」とて座に着きて、事きびしく定めのゝしり給ふに、この史、ふんばさみに文はさみて、いらなくふるまひて、このおとゞに奉るとて、いと高やかにならして侍りけるに、おとゞ文もえとらずしてわなゝきてやがて笑ひて、「今日はすぢなし。右のおとゞにまかせ申す」とだにいひやりたまはざりければ、それにこそ菅原のおとゞの心のまゝにまつりごち給ひけれ。又北野の神にならせ給ひていと恐ろしく神なりひらめき淸凉殿に落ちかゝりぬと見えけるに、本院のおとゞ太刀を拔きさげて、「生きても我が次にこそものしたまひしか。今日神となり給ふとも、この世には我に所おき給ふべし。いかでかさらではあるべきぞ」と睨みやりてのたまひけるに、一度はしづまらせ給へりけるとぞ世の人申し侍りし。されどそれはかのおとゞのいみじくおはするにはあらず、王威のかぎりなくおはしますによりて、理非をしめさせ給へるなり。


大鏡卷之三

   枇杷左大臣仲平 基經次郞

   貞信公忠平 基經四郞

   淸愼公實賴

   廉義公賴忠

   小一條左大臣師尹

   九條殿師輔

     左大臣仲平

このおとゞは、これ基經のおとゞの次郞御母は本院の大臣におなじ。大臣の位にて十三年ぞおはせし。枇杷左大臣と申す。御子もたせたまはず。伊勢が集に、

  「花ずゝきわれこそしたに思ひしかほに出でゝ人にむすばれにけり」

などよみ給へるはこの人におはす。貞信公よりは御兄に當らせ給へど、二十年まで大臣になり後れ給へりし。遂になり給へれば、おほきおほい殿の御よろこびの歌、

  「おそくとくつひに咲きぬる梅の花たがうゑおきし種にかあるらむ」。

やがてその花をかざして御對面の日喜び給へる。庇の大饗せさせ給ひけるにも橫ざまにすゑさせ給ひけるこそ、年ごろ少しかたはらいたく思されける御心とけて、いかにかたみに心ゆかせ給へりけむと御あはひめでたけれ。この殿の御心ぞ誠に美はしく坐しましける。皆人きゝしろしめしたる事なり。申さじ。このおとゞに伊勢の御息所の忘られてよむ歌なり、

  「人しれずやみなましかばわびつゝもなき名ぞとだにいはましものを」。

     太政大臣忠平貞信公

このおとゞは是基經のおとゞの四郞君、御母本院の大臣、枇杷の大臣におなじ。廷長八年十一月廿一日攝政、天慶四年辛丑十一月、關白の宣旨かうぶらせ給ふ。公卿にて四十二年、大臣のくらゐにて三十六年、世をしらせたまふこと二十年。〈天曆三年八月十四日うせさせたまふ。御年七十。〉のちのいみな貞信公となづけ奉る。小一條の太政大臣と申す。朱雀院並に村上の御をぢにおはします。この御子五人。そのをりは我が御位太政大臣にて、御太郞左大臣にて、實賴のおとゞこれ小野の宮殿と申す。次郞右大臣師輔のおとゞ、これを九條殿と聞えさせき。第四郞師氏大納言と聞えき。五郞に又左大臣師尹のおとゞ、小一條殿と申しきかし。この四人の君たち、左右の大臣大納言にて、さしつゞきおはしましゝ、いみじかりし御榮華ぞかし。をんな子一所は先坊の御息所にておはしましき。常にこの三人の大臣だちの參らせ給ふれうに小一條の南かんでの小路には石だゝみをぞせられたりしがまだ侍るぞかし。むながたの明神おはしませば、洞院こじろのつじよりおりさせ給ひしに、雨などの降る日の料とぞうけたまはりし。大方その一町は人まかりありかざりき。今はあやしきものも馬車に乘りつゝみしみしとありき侍るはとよ。むかしのなごりにいとかたじけなくこそ見給ふれ。翁どもは今もおぼろげにては通り侍らず。今日も參るらむが腰のいたく侍りつれば、術なくてまかり通りつれど猶石だゝみをばよきてぞまかりつる。南のつらのいと惡しき泥をば蹈みこみて候ひつれば、きたなきものもかくなりて侍るなり」」とて引き出でゝ見す。「「先祖の御物は何も惜しけれど、小一條のみなむように侍らぬ。人は子うみしぬるれうにこそ家もほしく侍るに、さやうのをりはほかへわたらむ所は何にかはせむ。又大方常にもたゆみなくおそろしと〈こ脫歟〉そかの入道殿には仰せらるゝなれ。この貞信公は宗像の明神うつゝに物など申し給ひけり、「我よりは御位高くて居させ給へるなむ苦しき」、と申し給ひければ、いとふびんなる御事なるかなとて神位は申しまさせ給へるなり。かの殿いづれの御時とは覺え侍らず、思ふに延喜朱雀院の御程にこそは侍りけめ。宣旨うけたまはらせ給ひて、おこなひて陣の座ざまにおはします道に南殿御帳の後の程通らせ給ふほどに、ものゝけはひして御太刀のいしづきを捕へたりければ、いと怪しくて搜らせ給ふに毛はむくむくとおひたる手の、爪は長く刀のはのやうなるに、鬼なりけりといとおそろしくおぼしめしけれど、臆したるさま見えじと念ぜさせ給ひて、「おほやけの勅定うけたまはりて、さだめにまゐる人とらふるは何ものぞ。ゆるさずばあしかりなむ」とて御太刀をひきぬきてかれが手をとらへさせ給へりければ、まどひもち放ちてこそうしとらの隅ざまへ罷りにけれ。思ふに夜のことなりけむかし。この殿ばらの御事よりもこの殿の御事申すは忝くも哀にも侍るかな」」とて聲うち變りて鼻度々うちかむめり。「「いかなりけることにか、七月にて生れさせ給へるとこそ申し傳へたれ。〈天曆三年八月十四日にぞうせさせ給ひにける。正一位贈せさせたまふ。〉

     太政大臣實賴〈小野宮殿。安和三年五月十八日薨、七十一、贈正一位。〉

これ忠平のおとゞの一男におはします。小野宮のおとゞと申しき。御母寬平法皇の御むすめ。大臣の位にて廿七年、天下執行攝政關白し給ひて二十年ばかりや坐しけむ。小野宮の大臣と申しき。天祿元年五月十八日うせさせ給ひにき。御年七十一と申しき。御いみな淸愼公なり。和歌の道にもすぐれおはしまして、後撰にもあまた入れり。大かた何事にも有職に御心うるはしくおはします事は世の人の本にぞひかれさせ給ふ。小野宮の南おもてには御もとゞりはなちて出でさせ給ふ事なかりき。そのゆゑは「稻荷の杉のあらはに見ゆれば明神御覽ずらむに、いかでかなめげにては出でむ」との給はせていみじく謹ませ給ふに、自らおぼし忘れぬる折は御袖をかづかせ給ひてぞ驚き騷がせ給へる。このおとゞの御女子、女御にてうせ給ひにき。村上の御時にや、確に覺え侍らず。男君は時平のおとゞの娘の御腹に敦敏の少將とて坐せし、父おとゞの御先に隱れ給ひにきかし。さていみじう思し歎くに〈これはみちのくにの守のめになりて御めのとの若君のがりとて御馬をまゐらせたるとぞ。〉あづまの方よりうせ給へりともしらで馬を奉りたりければおとゞ、

  「まだしらぬ人もありけりあづまぢに我もゆきてぞすむべかりける」。

いと悲しき事なりな」」とて目おしのごふに「「おとゞの御わらは名をばうしかひと申しき。さればその御ぞうは、うしかひをばうしつきとのたまふなり。敦敏の少將の男子佐理大貳、世の手かきの上手、任はてゝ上られけるに伊豫の國のまへなるとまりにて、日いみじう荒れ、海のおもてあしくて風おそろしう吹きなどするを、少しなほりて出でむとし給へば、又同じやうにのみなりぬ。かくのみしつゝ日ごろの過ぐれば、いと怪しくおぼして、ものとひ給へば、神の御祟とのみいふにさるべき事もなし。いかなる事にかと恐れ給ひける。夢に見え給ひけるやう、いみじうけだかきさましたる男のおはして、「この日の荒れて日ごろ經給ふは、おのがしはべる事なり。それは萬の社に額のかゝりたるにおのがもとにしもなきが惡しければかけむと思ふに、なべての手して書かせむがいとわろく侍れば、われに書かせ奉らむと思ふによりこの折ならではいつかはとてとゞめ奉りたるなり」とのたまふに、「誰とか申す」と問ひ申し給へば、「この浦の三島に侍る翁なり」とのたまふに、夢の中にもいみじうかしこまり申すとおぼすに、おどろき給ひては又さらにもいはず。さて伊豫へわたり給ふに多くの日荒れつる日ともなく、うらうらとなりて、そなたざまにおひ風吹きて飛ぶが如くまうで着き給ひぬ。湯たびたびあみ、いみじくげさいしてきよまはりて日の裝束して、やがて神の御まへにて書き給ふ。社のつかさども召し出でゝうたせて、よく法の如くして歸り給ふに、つゆ恐るゝことなくて、すゑずゑの船に至るまでたひらかにのぼり給ひにき。我がすることを人間の人のほめ崇むるだに興ある事にてこそあれ。まして神の御心にさまでほしくおぼしけむこそいかに御心おごりし給ひけむ。又大かたこれにぞ日本第一の御手のおぼえはこの後ぞとり給へりしか〈如元〉。六波羅密寺の額もこの大貳のかき給へる。さればかの三島の神の額とこの寺のとは同じ御手に侍り。御心ばへぞ懈怠はすこし如泥人とも聞えつべくおはせし。故中關白殿東三條造らせ給ひて御障子に歌繪ども書かせ給ひし色紙形をこの大貳に書けとのたまはするを、いたく人さわがしからぬ程に參りて書かれなばよかりぬべかりけるに、關白殿わたらせ給ひて、上達部殿上人などさるべき人々あまた參りつどひて後に、日たかく待たれ奉りて參り給へりければ、少しこつなくおぼしめさるれど、さりとてあるべき事ならねば書きて罷りいで給ふに、女のさうぞくかづけさせ給ふを、さらでもありぬべくおぼさるれど捨つべき事ならねば、そこらの人の中をわけ出でられけるなむ猶懈怠の失錯なりける。のどかなるけさ疾くもうち參りて書かれたらましかば、かゝらましやはとぞ見る人もおもひ、自らもおぼしたりける。むげのその道のなべての下﨟などにこそかやうなる事はせさせ給はめと殿をもそしり申す人々ありけり。その大貳の御むすめ、いとこの懷平の左衞門督の北の方にておはせしは經任君の母上、大貳に劣らず女手かきにておはすめる。大貳の御妹は法住寺〈ためみつの〉のおとゞの北の方にておはす。その御腹の女君は花山院の御時の弘徽殿の女御、又入道中納言の北の方にて、又をのこ子は今の中宮大夫貞信卿とぞ申すめる。小野宮のおとゞの三郞〈是は二郞とぞ。大よしとも。〉敦敏少將のおなじ腹の君、右門衞督までなり給へりし。たゞとしとぞ聞えしかし。その御男君、播磨守これふんのむすめの腹に三ところおはせし。太郞高遠の君、大貳にてうせ給ひにき。二郞かねひらとて中納言右衞門督までなり給へりし、その御をのこ子なり。今の右兵衞督經通の君、また〈おい大納言ときこゆ。經通、資平の母は源中納言保光の女子。〉侍從宰相資平の君、いまの皇太后宮權大夫にておはすめり。そのたゞとしの君の御をのこ子、御おほぢ小野の宮のおとゞ御子にし給ひて實資とつけ奉り給ひていみじうかなしうし給ひき。此のおとゞの御名の文字なり、さねもじは」」といふ程もあまりざえがりたりや。「「わらは名はたいかく丸とぞつけたりける。その君こそ今の小野宮の右大臣と申して、いとやんごとなくておはすめり。〈賢人右大臣の事なり。九十三にてうせ給ふ。〉のおとゞの御子のなきなげきをし給ひて、我が御をひの〈大納言のことも。今の殿の中將あきつねのおほち。〉資平の宰相を養ひ給ふめり。〈顯實宰相のおほち〉又末に宮づかへ人をおぼしけるはらにいでおはしたるをのこゞは、法師にて內供良圓の君とておはす。又さぶらひける女房を召しつかひ給ひける程に、おのづから生れ給へりける女君、かぐや姬とぞ申しける。この女は賴定の宰相のめのと子、北の方は花山院の女御、爲平の式部卿の御むすめ。院背かせたまひて、この女御、殿にさぶらひ給ひしなり。この女君千日の講行ひたまふ。資家中納言のうへのはらなり。兼賴の中納言の北の方にてうせ給ひにき。大かた子かたくおはしけるぞうにや。これも中宮の權大夫のうへもまゝ子をやしなひ給へる。小野の宮のしん殿の東面に〈今の中宮權大夫のうへは、かくやひめのことなり。〉帳ゆかたてゝいみじうかしづきすゑ奉り、いかなる人か御聟となり給はむとすらむ。かの殿いみじきこもりとく人におはします。故小野宮のそこばくの寳の庄園は皆この殿にこそはあらめ。殿づくりせられたるさまいとめでたしや。對、寢殿、渡殿は例の事なり。たつみの方に三間四面の御堂建てられて、めぐり廊は皆供僧の坊にせられたり。湯屋におほきなる鼎二つぬりすゑられて烟絕えぬる日なし。御堂には金色の佛多くおはします。供米三十石定器ことにおかれて絕ゆる事なし。世の中に御堂にまゐる道には御前の池よりあなたを遙々と野に作らしめ給ひて、時々の花もみぢをうゑさせ給へり。又船にのりて池より漕ぎてもまゐる。これよりほかに道なし。住僧はやんごとなき智者、或は持經者、眞言師などゝもになむ。これに夏冬の法服をたまひ供料をあて給ふ。我が滅罪生善の御いのり、又姬君の御息災を祈らしめ給ふ。この小野の宮をあけくれ造らせ給ふ事、日にたくみの七八人絕ゆる時なし。世の中にて斧の音する所は東大寺とこの小野の宮とこそは侍れ。おほぢおほい殿のとりわき給ひししるしはおはする殿なり。まことこの御をのこ子、伯耆守資賴ときこゆめり。姬君の御ひとつはらにはあらず。いづれにかありけむ。

     太政大臣賴忠

このおとゞは小野宮實賴大臣の次郞なり。御母、時平大臣の御むすめ、敦敏少將同じ腹なり。大臣の位にて十九年、關白にて九年、この生は極せさせ給へる人ぞかし。三條よりは北、西洞院よりは東に住み給ひしかば三條殿と申す。このおとゞいみじき事どもしおき給へる人なり。賀茂詣に檢非違使車のしりに具する事、又馬の上の隨身さうに四人つがはしむる事もこの殿のしいで給へり。いにしへはものゝふしの限り一人づゝありて府さうはなくて侍りしなり。一の人おはすなど見ゆる事侍らざりけり。必ずかく侍るなりける事なりかし。あまりよろづしたゝめ餘り給ひて、おとゞの內によひにともしたる油を、又のつとめてさぶらひにあぶらがめをもたせて女房の局までめぐりて殘りたるをかへし入れて、又今日の油に加へてともさせ給ひけり。あまりにうたてある事なりや。一條院位に即かせ給ひにしかば、よそ人にて關白はのかせ給ひにき。唯おほきおほい殿と申して四條の宮にこそはひとつに住ませ給ひしか。それにこの前の帥殿は時の一の人の御孫にてえもいはず華やぎ給ひしに、六條殿の御聟にておはせしかば常に西洞院のぼりにありき給ふを、こと人ならばこと方よりもよきゝてもおはすべきを、大后、太政大臣のおはします前を馬にてわたりたまふ。おほきおとゞいと安からずおぼせども、いかゞはせさせ給はむ。猶いかやうにてかとゆかしくおぼして、中門の北の廊の連子よりのぞかせ給へば、いみじうはやる馬にて、御紐おしのけて雜色二三十人ばかりに、さきいと高くおはせてうち見いれつゝ馬の手綱ひかへて扇高くつかひて通り給ふを、あさましくおぼせど、なかなかなる事なればこと多くもの給はで、たゞ「なさけなげなるをのこにこそありけれ」とばかりぞ申し給ひける。非常の事なりや。さるは帥の中納言殿のうへの六條殿の姬君は母は三條殿の姬君におはすれば御孫ぞかし。されば人よりは參り仕うまつりだにこそし給ふべかりしか。この賴忠のおとゞ一の人におはしましゝかど御なほしにて內に參り給ふ事侍らざりき。奏せさせ給ふ事ある折は、ほうこにてぞ參り給ふ。さて殿上に侍はせ給ひ、年中行事の御障子のもとにてさるべき職事、くらびとなどしてぞ奏せさせ給ひ、又うけたまはり給ひてける。又あるをりは、御門鬼の間に出でさせ給ひてめしあるをりぞ參らせ給ひし。關白したまへど、よそ人にておはしましければにや。故中務宮よしあきらのみこの御娘の腹に御娘二人男一人おはしまして、大姬君は圓融院の御時女御にて中宮と申しき。御年二十六。〈天元五年壬午三月五日后に立たせ給ひき。〉みこうまれおはせず。四條の宮とぞ申すめりし。いみじき有心者有識にぞいはれ給ひし。功德も御いのりも如法に行はせ給ひし。年ごとの季の御どきやうなども常の事ともおぼしめしたらず、四日がほど二十人の僧を坊のかざりめでたうて、かしづきすゑさせ給ふ、湯あむしときなどかぎりなく如法に供養せさせ給ひ、御前よりもまたとりわきさるべき物ども出させ給ふ。御みづからも淸き御ぞ奉り、かぎりなくきよまはらせ給ひて、僧にたまはらするものどもは、まづ御前にとりすゑさせて拜ませ給ひてぞ後につかはしける。惠心僧都の頭陁行せられけるをりも京中にこぞりていみじき御ときを設けつゝまゐりしに、この宮よりはうるはしくかねのごきどもうたせ給へりしかばこそ、かくてはあまり見苦しとて僧都乞食とゞめ給ひてき。今一所の姬君は花山院の御時の女御にて、四條の宮に尼にておはしますめり。やがて后女御のひとつはらの男君、唯今按察大納言の公任と申す。小野の宮の御孫なればにや歌の道すぐれ給へり。世にはづかしう心にくきおぼえおはす。その御娘唯今の內大臣の北の方にて、年頃多く公達產みつゞけ給へる、こぞの正月にうせ給ひて、大納言よろづを知らずおぼし歎く事かぎりなし。又男君一人ぞおはする。左大辨定賴の君、若殿上人の中に心あり、歌なども上手に坐すめり。母北の方いとあてにおはすかし。村上の御九宮の御むすめ、多武峯入道少將まちをさ君の御娘の腹なり。內大臣殿のうへもこの辨の君もされば御中らひいといとやんごとなし。かの大納言殿、無心の言一度ぞのたまへるや。御妹の四條の宮后にたゝせ給ひて始めてうちへ入り給ふに、西洞院のぼりにおはしませば東三條の前をわたらせ給ふに、大入道殿も故女院も胸痛く思しめしけるに、按察大納言殿は后の御せうとにて御心ちよくおぼされけるまゝに、御馬をひかへて「この女御はいつか后に立ち給ふらむ」と、うち見いれてのたまへりけるを、殿をはじめ奉りて、その御ぞう安からずとおぼしけれど、男宮おはしませばたけくぞ、よその人々もやくなくものたまふかなと聞き給ふ。一條院位に即かせ給へば又女御后に立たせ給ひて內に入り給ふに、この大納言殿のすけに仕うまつり給ふに、出車より扇をさし出して「やゝ物申さむ」と女房のきこえければ「何事にか」とてうちより給へるに、進の內侍顏をさし出して「御妹のすばらの后はいづくにかおはする」ときこえかけたりけるに、先年の事を思ひおかれたるなりけり。みづからだにいかにと覺えつる事なれば道理なり。「なくなりぬる身にこそとこそ覺えしか」とのたまひけれ。されど人がらよろづによくなり給ひぬれば、事にふれて捨てられ給はず、かの內侍のとがなるにてやみにき。一とせ入道殿大井川の逍遙せさせ給ひしに、作文の船、管弦の船、和歌の船と分たせ給ひて、その道にたへなる人々をのせさせ給ひしに、この大納言殿の參り給へるを、入道殿、「かの大納言いづれの船にか乘らるべき」とのたまはすれば「和歌の船にのり侍らむ」とのたまひてよみたまへるぞかし。

  「をぐら山あらしの風のさむければもみぢのにしききぬ人ぞなき」。

申しうけ給へるかひありてあそばしたりな。御みづからものたまふなるは「作文の船にぞ乘るべかりける。さてかばかりの詩を作りたらましかば名のあがらむこともまさりなまし。口をしかりけるわざかな。さても殿いづれにとか思ふとのたまはせしなむ、我ながら心おごりせられし」とのたまふなる。ひと事のすぐるゝだにあるに、ましてかくいづれの道もぬけ出でたまひけむはいにしへも侍らぬことなり。三條のおとゞ永祚元年六月廿六日にうせ給ひて贈正一位になりたまふ。廉義公とぞ申しける。このおとゞの御末かくなり。

     左大臣師尹

このおとゞは忠平の大臣の五郞、小一條おとゞと聞えさすめり。御母九條殿におなじ。大臣の位にて三年。康保四年十二月に左大臣にうつり給ふ事、西宮の筑紫へ下り給ふ御かはりなり。〈安和二年五月右大臣になり給ひ、大將かけ給ふ。十月十四日うせさせ給ふ。御年五十。〉その御事のみだれは、この小一條のおとゞのいひいで給へるとぞ世の人聞えし。さて年もすぐさずうせ給ふなどこそ申すめりしか。それもまことにや。御むすめ村上の御時の宣耀殿の女御、かたちをかしげに美くしうおはしけり。內へ參り給ふとて御車にたてまつり給ひければ、我が御身は乘り給ひけれど、御ぐしのすそはもやの柱のもとにぞおはしける。一すぢをみちのくに紙におきたるに、いかにもさま見え給はずとぞ申し傳へためる。御目のしりの少しさがり給へるがいとゞらうたくおはするを、御門いとかしこく時めかさせ給ひてかく仰せられける。

  「生きての世しにてののちの後の世もはねをかはせる鳥となりなむ」。

御かへし、女御、

  「秋になることの葉だにもかはらずばわれもかはせる枝となりなむ」。

古今うかべさせ給へりと聞かせ給ひて、御門試に本をかくして女御には見せ奉りたまはで、やまとうたはとあるをはじめにて、末の句のことばを仰せられつゝ問はせ給ひけるに、いひたがへ給ふことばにても歌にてもなかりけり。かゝる事など父おとゞは聞き給ひて、御裝束し御手あらひなどしてところどころに讀經などし念じ入りてぞおはしける。御門御さうの琴をめでたくあそばしけるも、御心に入れてをしへなど限なく時めき給ふに、冷泉院の御母后うせ給ひてこそなかなかこよなくおぼえ劣り給へりとは聞えしか。「故宮のいみじくめざましく安からぬものにおぼしたりしかば、思ひ出づるにいとほしく悔しきなり」とぞ仰せられける。この女御の御腹に八宮とてをとこ親王生れ給へり。御かたちなどは淸げにおはしけれど、御心極めたる世のしれものとぞ聞き奉りし。世の中のかしこきみかどの御ためしには、もろこしには堯の帝と舜の帝と申す。この國には延喜天曆とこそは申すめれ。延喜とは醍醐の先帝の御事、天曆と申すは村上の先帝の御事なり。そのみかどの御子は小一條大臣のうまごにてしかしれ給へりける、いといと怪しき事なりかし。その母女御の御せうとなりときの左大將と申しゝ、長德元年四月二十三日にうせ給ひにき。御年五十三。この大將は父おとゞよりも御心ざまのわづらはしくくせぐせしきおぼえまさりて、あまり名聞になどぞおはせし。御妹の女御殿に村上の御琴敎へさせ給ひける御前に侍らひ給ひて聞きならひ給ふ程に、おのづから我もその道の上手に人にも思はれたまへりしを、おぼろげに心よくならひ給はず。さるべき事の折もせめてそゝのかされて、物一つばかりかきあはせなどこそし給ひしか。「あまりけにくし」と人にもいはれ給ひき。人の奉りたるにへなどいふものはお前の庭にとりおかせ給ひて、夜はにへ殿に納め、晝は又もとのやうにとり入れつゝおかせなど、又人の奉り代ふるまではおかせ給ひて取り動すことはせさせ給はぬ、あまりやさしき事なりな。人などのまゐるにもかくなむと見せ給ふれうなめり。むかし人はさる事をよきにはしけければ、そのまゝの有樣をせさせ給ふとぞ。かくやうにいみじう心ありと思したりし程よりは、よしなし事し給へりとぞ人にいはれ給ふめりし。御甥の八宮に大饗せさせ奉り給ひて、上ごにおはすれば、人々ゑひ〈はイ〉して遊ばむなど思して、「さるべき上達部達疾く出づるものならばしばしなどをかしきさまにとゞめさせ給へ」とよく敎へ申させ給ひけり。さこそ人がら怪しくしれ給へれど、やんごとなきみこの大事にし給ふことなれば人々あまた參り給へりしもこだいなりかし。されどおほやけ事さし合せたる日なれば急ぎ出でたまふに、まことさる事ありつと思しいでゝ大將の御方をあまた度見やらせ給ふに、めをくはせ申し給へば御おもていと赤くなりて、とみにえうちいでさせ給はず、物もえ仰せられで俄におびゆるやうに、おどろおどろしくあらゝかに人々のうへのきぬの片袂おちぬばかりとりかゝらせ給ふに、參りと參れる上達部は末の座まで見合せつゝ、えしづめずやありけむ、顏けしきかはりつゝ、とりあへずごとに事をつけつゝ急ぎ立ちぬ。この入道殿などは若殿上人にておはしましける程なれば、事末にてよくも御覽ぜざりけり。唯人々のほゝゑみていで給ひしをぞ見しとぞこの頃をかしかりし事に語り給ふなる。大將は何せむにかゝる事をせさせ奉りて、又しかのたまへとも敎へ聞えけむとくやしくおぼすに、御色も靑くなりてぞおはしける。誠にみこをばもとよりさる人と知り申したれば、人これをしもそしり申さず。この殿をぞかゝる御心と見る見るせめてなくてあるべき事ならぬに、かく見苦しき御ありさまをあまた人に見せ聞え給へる事とぞ誹り申しゝ。いみじき心ある人と覺えおはせし人の口惜しくてそくかうとり給へるよ。この殿の御北の方にては批把大納言延光の御女ぞ坐せる。女君二所男君三人ぞおはせし。女君は三條院の東宮にておはしましゝ折の女御にて宣耀殿と申していと時に坐しましゝ。をとこみこ四所、女宮二人。さて女君は三條院の東宮にて坐しましゝ時參り生れ給へりし程に東宮位につかせ給ひて又の年長和元年壬子四月十八日后に立ち給ひて皇后宮と申す。小一條の御母なり。又今一所の女君は父の殿うせ給ひにし後、御心わざに冷泉院の四のみこ帥宮と申す御うへにて二三年ばかりおはせし程に、宮、和泉式部に思し移りにしかばほいなくて小一條に歸らせ給ひし後、このころ聞けば心えぬ有樣のことのほかなるにてこそおはすなれ。〈いきふとこそかしやイ有〉小一條左大將殿の御おもて起し給ふは、皇后宮おはしますにはぢがましくいとほしきは今一人の御むすめにてこそあめれ。この宮の御腹の一のみこ敦明親王とて式部卿の宮とぞ申しゝほどに、長和五年正月廿九日三條院おりさせ給へば、當代位に即かせ給ひて、この式部卿の宮、東宮に立たせ給ひにき。御年二十三。但、道理あることゝ皆人思ひ申しゝほどに、院うせさせ給ひて後二年ばかりありていかゞ思し召しけむ、宮たちと申しゝをり、よろづに遊びならはせ給ひて、うるはしき御有樣いとくるしく、いかでかゝらでもあらばやとおぼしなられて皇后宮にかくなむおぼえ侍ると申させたまふを、いかでかはげにさもとはおぼさむずる。すべてあさましくあるまじき事とのみ諫め申させ給ふに、おぼしあまりて入道殿に御消息ありければ參らせ給へるに、御物がたりこまやかにて「この位去りて唯心安くてあらむとなむ思ひ侍る」と聞えさせければ、「更に更にうけたまはらじ。さは三條院の御末はたえねと思しめしおきてさせ給ふがいとあさましく悲しき御事なり。かゝる御心のつかせ給ふ御事はこと事ならじ。故冷泉院の御物のけなどの思はせ奉るなり。さらさら〈な脫歟〉おぼしめしそ」と啓し給ふに、「さらば唯ほいもあり。すけにこそはあなれ」とのたまはするに「さまで思しめすことならばいかゞは。ともかくも申さむ。內に奏し侍りてを」と〈如元〉させ給ふをりにぞ御氣色いとよくならせ給ひにける。さて殿うちに參らせ給ひて大宮にも內にも申させ給ひければ、いかゞは聞かせ給ひけむな。「このたびの東宮には式部卿の宮をとこそは思しめすべけれ。一條院のはかばかしき御後見なければ東宮に當代を立て奉るなり」と仰せられしかば、これもおなじ事なりとおぼし定めて、寬仁元年丁巳八月五日こそは九歲にて三宮東宮に立たせ給ひて、同月の廿三日にこそは壺切といふ太刀は內よりもて參りしか。當代位に即かせ給ひしかば、即ち東宮にも參るべかりしを、しかるべきにやありけむ、とかくさはりてこの年頃內のをさめ殿に候ひつるぞかし。寬仁三年己未八月廿八日、御年十一にて御元服せさせ給ひしか。さきの東宮をば小一院と申す。今の東宮の御有樣申す限なし。つひの事とは思ひながら、唯今かくとは思ひかけざりしことなりかし。小一條院、我が御心もてのがれ給へることは、これをはじめとす。世はじまりて後、東宮位とりさげられ給ふことは、八七代ばかりにやなりぬらむ。なかに法師東宮おはしけるこそは、うせ給ひてのちに贈太上天皇と申して祝ひすゑられ給へれ。おほやけもしろしめして崇道天皇とて官物のはつほさきに奉らせ給ふめり。この院のかくおぼし立ちぬる事、かつは殿下の御報の早くおはしますに壓れ給へるか。又多くは元方民部卿の靈の仕うまつりつるなり」」といへば、このさぶらひ、「「それもさるべきなり。このほどの御事こそことの外に變りて侍れ。なにがしはいと委しく承りたる事侍るものを」」といへば、世繼、「「さも侍らむ。傳はりぬる事はいでいで承らばや。ならひにし事なれば物の猶聞かまほしく侍るぞ」」といふ。興ありげに思ひたれば「「事のやうだいは三條院のおはしましけるかぎりこそあれ、うせ給ひにける後は世のつねの東宮の御やうにもなく、殿上人など參りて御あそびせさせ給ふや。もてなしかしづき申す人などもなく、いとつれづれに紛るゝ方なく思し召されけるまゝに、心やすかりし御有樣のみ戀しく、ぼけぼけしきまで覺えさせ給ひけれど、三條院おはしましつるかぎりは院殿上人などもまゐりや、御使もしげく參り通ひなどするに人目もしげくよろづ慰めさせ給ふを、院うせおはしましては世の中のものおそろしく、大路のみちかひもいかゞとのみわづらはしくふるまひにくきにより、みやづかさなどだにも參り仕うまつることも難くなりゆけば、ましてげすの心はいかゞはあらむ。とのもりづかさのしもべも朝ぎよめ仕うまつることもなければ庭の草もしげりまさりつゝ、いとかたじけなき御すみかにておはします。まれまれ參りよる人々は世にきこゆる事とて、三宮かくておはしますを心苦しく殿も大宮も思ひ申させたまふに、「もし內に男宮も出でおはしましなばいかゞあらむ。さあらぬさきに東宮に立て奉らばや」となむおほせらるなる。「さればおしてとられさせ給へるなり」などのみ申すを、まことにしもあらざらめど、げに事のさまもよと覺ゆまじければにや、聞かせたまふ御心ちはいとゞうきたちたるやうに思し召されて、ひたぶるにとられむよりは、われとやのきなましと思し召すに、又高松殿のみくしげ殿參らせ給ひて、殿の華やかにもてなし奉らせ給ふべかなりとて例の事なれば、世の人さまざま定め申すを皇后宮聞かせ給ひて、いみじう喜ばせ給ふを、東宮はいとよかるべき事なれど、さだにあらばいとゞ我が思ふ事えせじ、猶かくてえあるまじく思しめされて御母宮に、しかじかとなむ思ふと聞えさせ給へば、「更なりや、いといとあるまじき御事なり。みくしげ殿の御事をこそ誠ならばすゝみ聞えさせ給はめ、更に更に思し召しよるまじき事なり」ときこえさせ給ひて、御物怪のするなりと御いのりどもせさせ給へど更に思しめしとゞまらぬ御心の中をいかでか世ひともきゝけむ。さてなむみくしげ殿參らせ奉り給へとも聞えさせ給ふべかなるなどいふ事殿の方にもきこゆれば、誠にさもおぼしゆるぎてのたまはせば、いかゞすべからむなどおぼす。さて東宮は遂におぼしめしたちぬ。さて後にみくしげ殿の御事もいはむに、なかなかそれはなどかなからむなどよき方ざまに思しめしけむ、不覺の事なりやな。壺切などの事ひがことにあめり。故三條院たびたび申させ給ひしかども、とかく申しやりて奉らせざりしとこそ聞き侍りしか。されば故院もさばれなくとも立てゞはとておはしましゝなり。しかるべきとはおのづからのことを申させて、皇后宮にもかくとも申させ給はず、唯御心のまゝに殿に御消息聞えむと思しめすに、むつましうさるべき人も物し給はねば、中宮の權大夫殿のおはします四條の坊門と西の洞院とは宮近きぞかし。そればかりをこと人よりはとや思しめしよりけむ。藏人なにがしを御使にて「あからさまに參らせ給へ」とあるを、おぼしもかけぬ事なれば驚かせ給ひて「何しに召すぞ」と問はせ給へば、「申させ給ふべき事のさぶらふにこそ」と申すを、この聞ゆる事どもにやとおぼせど、のかせ給ふ事にはさりとも世にあらじ、みくしげ殿の御事ならむとおぼす。「いかにも我が御心ひとつには思ふべき事ならねば驚きながら參り候ふべきを、おとゞにあない申してなむさぶらふべき」と申させ給ひて、まづ殿にまゐり給へり。「東宮よりしかじかなむ仰せられたりつる」と申させ給へば、殿もおどろかせ給ひて「何事ならむ」と仰せられながら、大夫殿の御同じやうにぞ思しよられける。「誠にみくしげ殿の御事のたまはせむをいなび申さむも便なし。參り給ひなば、又さやうに怪しくてはあらせ奉るべきならず。又さては世の人の申すなるやうに春宮のかせ給はむの御思ひあるべきならずかしとはおぼせど、しかわざと召さむにはいかでか參らではあらむ。いかにものたまはせむ事を聞くべきなり」と申させ給へば、參らせ給ふ程日も暮れぬ。陣に左大臣殿の御車やごぜんどものあるをなまむづかしとおぼせど、歸らせ給ふべきならねば殿上にのぼらせ給ひて、「參りたるよし啓せさせよ」と藏人にのたまはすれば、おほい殿のお前にさぶらはせ給へば、「唯今はえなむ申し候はぬ」ときこえさするほど、見まはさせたまふに、庭の草もいとふかく、殿上のありさまも東宮のおはしますとは見えずあさましうかたじけなげなり。おほい殿出で給ひてかくと啓すれば、あさがれひの方にいでさせ給ひて、めしあれば參り給へり。「いと近くこち」と仰せられて「物せらるゝ事もなきに、あないするもはゞかり多かれど、おとゞに聞ゆべき事のあるを傳へものすべき人のなきにま近きほどなればたよりにもと思ひてせうそこし聞えつるなり。そのむねは、かくて侍るこそは本意あることゝ思ひ、故院のしおかせ給へる事をたがへ奉らむもかたがたに憚り思はぬにあらねど、かくてあるなむ思ひ續くるに罪深くも思ゆる。內の御行く末はいと遙にものせさせ給ふ。いつともなくてはかなき世に命もしりがたし。このありさまのきて心に任せておこなひをもし、物まうでをもし、安らかにてなむあらまほしきを、むげに先の東宮にてあらむは見苦しかるべきなむ。院號たまはりて、年にずらうなどありてなむあらまほしきを、いかなるべき事にかと傳へ聞えられよ」と仰せられければ、かしこまりてまかでさせ給ひぬ。その夜はふけにければ、つとめてぞ殿に參らせ給へるに、內へ參らせ給はむとて御さうぞくのほどなればえ申させ給はず。大方には御供に參るべき人々、さらぬもいでさせ給はむにげざんせむと多く參りつどひて物さわがしければ、御車に奉りにおはしまさむに申さむとて、その程寢殿のすみのまのかうしによりかゝりて居させ給へるを、源民部卿よりおはして、「などかくてはおはします」と聞えさせ給へば、この殿には隱し聞えさせ給ふべきことにもあらねば、「しかじかの事のあるを、人々のさぶらふめればえ申さぬなり」とのたまはするに、御氣色うちかはりてこの殿も驚きたまふ。「いみじうかしこき事にこそあなれ。唯疾く聞かせ奉らせたまへ。內に參らせ給ひなばいとゞ人がちにてえ申させ給はじ」とあれば、げにとおぼして、おはします方に參り給へれば、さならむと御心えさせ給ひて、すみのまに出させ給ひて、「東宮に參りたりつるか」と問はせ給へば、よべの御消息委しく申させ給ふに、さらなりや、おろかにおぼしめさむやは。おしておろし奉らむこと憚り思し召しつるに、かゝる事の出で來ぬる御喜なほつきせず。まづいみじかりける大宮の御宿世かなとおぼしめす。民部卿殿に申し合せさせ給へば、「唯疾く疾くせさせ給ふべきなり。何かよき日もとらせ給ふ。少しも延びばおぼしかへして、さらでありなむとあらむをばいかゞはせさせ給はむ」と申させ給へば、さる事とおぼして御こよみ御覽ずるに、今日もあしき日にもあらざりけり。やがて關白殿も參らせ給へるほどに、「疾く疾く」とそゝのかし申させ給ふ。「まづいかにも大宮に申してこそは」とて內におはしますほどなれば參らせ給ひて、かくなむと聞かせ奉らせ給へば、まして女の御心はいかゞは思し召されけむ。それよりぞ春宮に參らせ給ふ。かう申す事は寬仁元年八月六日の事なり。御子どもの殿ばら、又例も御供に參り給ふ上達部殿上人ひき具せさせ給へれば、いとこちたくひゞきことにておはしますを、待ちつけさせ給へる宮の御心ちはさりとも少しすゞろはしう思し召されけむかし。心もしらぬ人は露參りよる人だになきに、昨日二位中納言殿の參り給へりしだに怪しと思ふに、又今日かくおびたゞしく賀茂詣などのやうに御さきの音もおどろおどろしう響きて參らせ給へるをいかなる事ぞとあきるゝに、少しよろしき程のものは、みくしげ殿の御事申させ給ふになめりと思ふは、さも似つかはしや。むげに思ひやりなききはのものは、又我が心にかゝるまゝに、內のいかにおはしますぞなどまで心さわぎしあへりけるこそあさましうゆゝしけれ。母の宮だにも知らせ給はざりけり。かくこの御方に物さわがしきをいかなる事ぞと怪しくおぼして、あないし申させ給へど、例の女房のまゐるみちをかためさせ給ひてけり。殿には年ごろ思しめしつる事などこまかに聞えむと心强くおぼしめしつれど、誠になりぬるをりは、いかになりぬる事ぞとさすがに御心さわがせ給ひぬ。むかひ聞えさせ給ひては方々に臆せられ給ひにけりとや。唯昨日のおなじさまになかなかことずくなに仰せらるゝ御をりは、「さりともいかにかくは思し召しよりぬるぞ」などやうに申させ給ひけむかしな。御けしきの心苦しさをかつは見奉らせ給ひて、少しおしのごはせ給ひて、「さらば今日よき日なり」とて院になし奉らせ給ひて、やがて事ども始めさせ給ふ日萬の事定め行はせ給ふ。判官代には宮づかさども藏人などかはるべきにあらず。別當には中宮の權大夫をなし奉り給へれば、坐して拜し申させ給ふ事ども定まりはてぬればいでさせ給ひぬ。いとあはれに侍りける事は、殿のまださぶらはせ給ひける時、母宮の御方よりいづかたの道より尋ね參りたるにか、「あらはに御覽ずるも知らぬ氣色にていと怪しげなる姿したる女房のわなゝくわなゝくいかにかくはせさせ給へるぞと聲もかはりて申しつるなむ哀にも又をかしうも」とこそ仰せられけれ。勅使こそ誰ともえたしかにも聞き侍らね。祿などにはかにていかにせられけむ」」といへば「「殿こそはせさせ給ひけめ。さばかりの事になりて逗留せさせ給はむやは。火たきや陣屋などやらせけるほどにこそえ堪へず忍びなく人々侍りけれ。まして皇后宮堀川の女御殿などはさばかり心深くおはしまさふ御心どもに、いかばかり思し召しけむとおぼえ侍りし。世の中の人、堀川の女御殿の、

  「雲ゐまでたちのぼるべき烟かとみえしおもひのほかにもあるかな」

などいふ歌よみ給へりなど申すこそ更によもと覺ゆれど、いとさばかりの事に和歌の道思しよらじかしな。御心の中には自ら後にも覺えさせ給ふやうもありけめど、人の聞き傳ふばかりはいかゞありけむ」」といへば、翁「「げにそれはさる事に侍れど、昔も今もいみじきことの折かゝることいと多くぞ聞え侍りし」」とてさゝめく、「「さていかなる事にか、東宮御位せめおろしとり奉り給ひては、又御聟にとり奉らせ給ふほど、もてかしづき奉らせ給ふ御有樣、誠に御心も慰ませ給ふばかりこそ聞え侍りしか。おものまゐらするをりは大盤所におはしまして、御臺や盤などまで手づからのごはさせ給ふ。何をも召し試みつゝなむまゐらせ給ひける。御さうし口までもておはしまして、女房にたまはせ、殿上に出すほどにも立ちそひて、よかるべきさまにをしへなど、これこそは御ほいよとあはれにぞ。このきはに故式部卿の宮の御事ありけりといふ事もそらごとなり。何故ある事事もあらなくに昔事どもこそ侍れ、おはします人の御事申す、すぢなきことなりしかしな。さて式部卿の宮と申すは故一條院の一のみこにおはします。その宮をば年ごろそちの宮と申しゝを、小一條院の式部卿にておはしましゝが東宮にたゝせ給ふ。あく所にそちの宮をばのかせ給ひて式部卿の宮と申しゝぞかし。〈是高倉の宮の御おほぢなり。〉その後の度の春宮にもはづれ給ひておぼし歎きしほどに、うせ給ひて後又この小一條院御さしつぎの二の宮敦儀の親王をこそはいはくらの式部卿とは申すめれ。又次の三の宮敦平の親王を中務の宮と申す。次の四の宮師明親王と申す。幼くより出家して仁和寺僧正御かしづきものにておはしますめり。この宮たちの御妹の女宮二人、一所はやがて三條院の御時の齋宮にて下らせ給ひにしを、のぼらせ給ひて後、荒三位道雅にわたらせ給ひければ、三條院も御惱みの折いとあさましきことにおぼし歎きて、尼にならせ給ひてうせ給ひにき。今一所の女宮は坐します。〈これは大二條殿の北方。〉小一條大將の御姬君こそは唯今の皇后宮と申しつるよ。三條院の御時に后に立て奉らむとおぼしけるに、うちよりて大納言の娘にて后に立つ例なかりければ、御父のおとゞ小一條の大將を贈太政大臣になしてこそは后に立てさせ給ひてしか。されば皇后宮いとめでたくおはしますめり。御せうと一人は侍從入道、今一所は大藏卿通任の君こそはおはすめれ。又伊豫の入道もそれぞかし。今一所の女君こそはいと甚しく心うき御ありさまにておはすめれ。父大將のとらせ給へりけるそうぶんの領所近江にありけるを、人にとられければすべきやうなくて、かばかりになりぬれば物のはづかしさも知られずや思はれけむ、よるかちより御堂に參り給ひてうれへ申し給ひしはとよ。殿のおまへは御堂の佛の御前にねんじゆしておはしますに夜いたく更けにければ御脇息によりかゝりて少しねぶらせ給へるに、いぬふせぎのもとに人のけはひのしければ、怪しとおぼしめしけるに女のけはひにて忍びやかに、「物申し候はむ」と申すを、御ひが耳かと思しめすに、あまた度になりぬれば誠なりけりとおぼしめして、いとあやしくはあれど「たぞ、あれは」と問はせ給ふに、「しかじかの人の申すべことき候ひてまゐりたるなり」と申し給ひければ、いといとあさましくは思し召せど、荒く仰せられむもさすがにいとほしくて、「何事ぞ」と問はせ給ひければ、「これしろしめしたることに候ふらむ」とて事のありさまこまかに申したまふに、いとあはれにおぼしめして、「さらなり、皆聞きたることなり。いとふびんなることにこそあなれ。今しかすまじきよし速にいはせむ。かくいましたるいとあるまじき事なり。人してこそいはせたまはめ。疾くかへられね」とおほせられければ、「さこそは返す返すも思ひたまひ候ひつれど、申しつぐべき人の更にさぶらはねば、さりともあはれとは仰事に候ひなむとおもひかまへて參り候ひながらも、いみじくつゝましくさぶらひつるにかくおほせらるゝ申しやる方なくうれしく候ふ」とて、手をすりて泣くけはひに、ゆゝしくも哀にもおぼしめされて殿も泣かせ給ひにけり。出でさせたまふ道に南大門に人々ゐたる中をおはしければなにがしのぬしの引きとゞめられけるこそ、いとぶあいのことなりや。後に殿も聞かせたまひければ、いみじうむづからせ給ひて、いと久しう御かしこまりにていましき。さて御うれへのところは長く論あるまじく、この人の御領にてあるべきよし仰せ下されにければもとよりもいとしたゝかに領じたまふ。極めていとよし。さばかりになりなむには物の耻もしらでありなむ。かしこく申したまへるいとよきことゝ口々ほめ聞えしこそなかなかにおぼえ侍りしか。大門にてとらへたりし人は式部太夫政成が父なり。さばかり優におはしけむ御すゑこそ少しはかばかしき人なけれ。〈甲斐前司師季が先祖しなのゝいかうこそはあれどほふしなれば。〉


大鏡卷之四

   右大臣師輔

   關白次第

   世續名

     右大臣師輔九條殿

このおとゞは忠平のおとゞの御二郞君、御母右大臣源能有の御女〈この有能は田村帝の親王。〉いはゆる九條殿におはします。公卿にて廿六年、大臣の位にて十四年ぞおはしましゝ。天祿二年五月二日出家せさせたまひにき。御年五十三にて御孫にて春宮又四五宮を見おき奉りて隱れたまひけむは極めて口をしき御事ぞや。御年まだ六十にもたらせ給はねば、行く末遙にゆかしき事多かるべきほどにて」」と世繼せめてさゝやぐものから手をうちてあふぐ。「「その殿の御公達十一人、女五六人ぞおはせし。第一の御女は村上の先帝の御時の女御、多くの女御御息所の中に勝れてめでたくおはします。天德二年十二月廿六日后に立たせ給ふ。皇后宮と申しき。御年三十二。御門もこの女御殿にはいみじう心おき申させ給ひき。ありがたき事をも奏せさせ給ふ事をば、いなびさせ給ふべくもあらざりけり。いはむや自餘の事をば申すべきならず。少し御心さがなく、御物うらみなどもせさせ給ふやうにぞ世の人にいはれおはしましゝ。御門をも常にふすべ申させ給ひて、いかなる事のありける折にか、夕さり渡らせおはしましたりけるを、御格子を叩かせ給ひけれどあけさせ給はざりければ、叩きわづらはせ給ひて「女房になどあけぬぞと問へ」となにがしのぬしのわらは殿上したるが御供なるに仰せられければ、あきたる所やあるとこゝかしこ見給ひけれど、さるべき方は皆たてられて、ほそどのゝ口のみあきたるに人のけはひしければ、よりてかくとのたまひければ、いらへはともかくもせでいみじく笑ひければ、參りてありつるやうを奏しければ、御門もうち笑はせ給ひて、「例のことなり」と仰せられてぞ歸り渡らせおはしましける。このわらはゝ伊賀の前司資國がおほぢなり。藤壺弘徽殿とのうへの御局はほどもなく近きに、藤壺の方には小一條の女御、弘徽殿の方にはこの后のぼりておはしましあへるを、いと安からず思しめして、えやしづめ難くおはしましけむ、中へだての壁に穴をあけてのぞかせ給ひけるに、女御の御かたちの〈八宮の御母よ。御かたちは今少しよろしくとも世のつねの子をうみ給へる。〉いと美しうめでたくおはしければ、うべ時めくにこそありけれと御覽ずるに、いとゞ心やましくならせ給ひて、穴より通るばかりのかはらけのわれして打たせ給へりければ、御門のおはします程にて〈かの女御の御袂のうへにかはらけのわれ當れり。〉こればかりにはえ堪へさせ給はず、むづかりおはしまして、「かうやうの事は女房はえせじ。これまさ、兼通、兼家などがいひもよほしてせさするならむ」とおほせられて、皆殿上にさぶらせ給ふ程なりければ、みところながら御かしこまりになり給ひしかば、この折に后いとゞ大きに腹だゝせ給ひて、「渡らせ給へ」と申させ給へれば、思ふにこの事ならむと思しめして渡らせ給はぬを、度々なほなほと御せうそこありければ、渡らずばいとゞこそむづからめと恐しくいとほしく思しめしておはしましたるに、「いかでかゝる事はせさせ給ひたるぞ。いみじからむさかさまの罪ありともこの人々をばおぼし免すべきなり。いはむやまろが方ざまにてかくせさせ給ふはいとあるまじく心うき事なり。唯今召しかへせ」と申させ給ひければ、「いかでか唯今はゆるさむ。音ぎゝ見苦しき事なり」と聞えさせ給ひけるを、「更にあるべき事ならず」とせめ申させ給ひければ、「さらば」とて歸り渡らせ給ふを、「おはしましなば唯今しも免させ給はじ。唯こなたにてを召せ」とて御袖をとらへ奉りて立て奉らせ給はざりければ、いかゞはせむと思しめして、この御方にしきじ召して歸り參るべきよしの宣旨下させ給ひける。これのみにもあらず、かやうなる事どもいかに多く聞え侍りしかど、大方の御心はいとひろく、人の御ためなどにも思ひやりおはしまし、あたりあたりにあるべきほどほどはすぐさせ給はず御かへりみあり、かたへの女御達の御ためにも、かつは情あり、御みやびをかはさせたまふに、心より外にあまらせ給ひぬる時の御物ねたみのかたにや、いかゞおはしましけむ。この小一條の女御は、いとかく御形のめでたうおはすればにや、御ゆるされに過ぎたる折々の出でくるによりかゝる事もあるにこそ。その道に心ばへ侍るにもよらぬ事にやな。かやうの事までは申さじ。いとかたじけなし。大方殿上人女房さるまじき女官までもさるべき折のとぶらひをせさせ給ひ、いかなる折も必ず見すぐし聞き放たせ給はず、御覽じ入れてかへりみさせ給ふ。まして御はらからたちをばさらなりや。御兄をば親の樣に賴み申させ給ひ御おとゝをば子の如くにはぐゝみ給ふ御心おきてぞや。さればうせおはしましたりし、ことわりとはいひながら、ゐなかせかいまでこそ聞きつぎ奉りて惜み悲しび申しゝか。御門よろづの政をば聞えさせ合せてせさせ給ひけるに、人のためなげきのあるべき事をばなほさせ給ひ、よろこびになりぬべき事をばそゝのかし申させ給ふ。おのづからおほやけきこしめして、惡しかりぬべき事など人の申すをば、御口より出させ給はず。かうやうの御心おもむけのありがたくおはしませば、御祈ともなりて永く榮えおはしますにこそあべかめれ。冷泉院、圓融院、爲平の式部卿の宮と女宮四人との御母后にて又ならびなくおはします。御門東宮と申し代々の關白攝政と申すも多くは唯この九條殿の一すぢにおはしますなり。男宮達の御ありさまは代々の御門の御事なれば返す返す又はいかゞは申し侍らむ。この后の御腹には式部卿の宮こそは冷泉院の御次にまづ東宮にも立ち給ふべきに、西宮殿の御聟にておはしますにより、御おとゝの圓融院次の宮に引き越されさせ給へる程などのことどもいといみじく侍り。其の故は式部卿爲平御門にゐさせたまひなば西宮殿の高明御ぞうに世の中うつりて源氏の御榮になりぬべければ、御をぢ達の魂しひ深く、非道に御おとゝをば引き越し申させ奉らせ給へるぞかし。世の中にも宮の中にも殿ばらのおぼしかまへけるをばいかでかはしらむ。次第のまゝにこそはと式部卿の宮の御事を思ひ申したりしに、俄に「若宮の御ぐしかいけづり給へ」など御乳母だちに仰せられて、大入道殿御車にうち乘せ奉りて、北の陣よりなむおはしましけるなどこそ傳へ承りしか。されば道理あるべき御方の人たちはいかゞはおぼされけむ。その頃宮達あまたおはせしかど、ことしもあれ威儀のみこをさへせさせ給へりしよ、見給へりける人も哀なる事にこそ申しけれ。その程西宮殿などの御心ちよな、いかゞおぼしけむ、さてぞかし。恐しく悲しき御事ども出できにしかば、かやう申すもなかなかにいといと事愚なりや。かくやうの事は人中にて下﨟の申すにいとかたじけなし。とゞめさぶらひなむ。されどなほわれながらぶあいのものにておぼえ候ふにや。式部卿の宮爲平我が御身の口をしうほいなきをおぼしくづほれてもおはしまさで、猶末の世に花山院の御門は冷泉院のみこにおはしませば御甥ぞかし。その御時に御女奉り給ひて御みづからも常に參りなどし給ひけるこそさらでもありぬべけれ。世の人もいみじう誹り申しけり。さりとても御つぎなどのおはしまさば、いにしへの御ほいのかなふべかりけるとも見ゆべきに、御門出家し給ひなどせさせ給ひて後、又この今の小野宮左大臣殿の北の方にならせ給へりしよ、いと怪しかりし御事どもぞかし。その女御殿には道信中將の君も御せうそこ聞え給ひけるに、それはさもなくて、かのおとゞに參り給ひにければ、中將の申したまふぞかし。

  「うれしきはいかばかりかはおぼゆらむうきは身にしむこゝちこそすれ」。

今に人の口に入りたる秀歌にて侍るめり。まことこの式部卿の宮は世にあはせ給へるかひある折一度おはしましたるは、御ねの日のひぞかし。御おとゝのみこたちもいまだ幼くおはしまして、かの宮おとなにおはしますほどなれば、世おぼえ御門の御もてなしもことに思ひ申させ給へるあまりに、その日こそは御供の上達部殿上人などの狩さうぞく馬鞍まで內裏のうちに召し入れて御覽ずるはまたなき事とこそは承はれ。瀧口をはなちては布衣のもの內に參ることは、かしこき君の御時もかゝる事の侍りけるにや、大方いみじかりし日の見物ぞかし。物見車は大宮のぼりに所やは侍りしとよ。さばかりの事こそこの世には候はね。殿ばらののたまひけるは、「大路わたる事は常なり。藤つぼのうへの御局につふと、えもいはぬうちいでどもわざとこぼれいでゝ后の宮うちの御前などさしならび御簾の內におはしまして御覽ぜしに、お前通りしなむたふれぬべき心ちせし」とこそのたまひけれ。又それのみかは、大路にも宮の出車十ばかりをば引續けて立てられたりしは、一町かねてはあたりに人もかけらず、瀧口さぶらひの御前どもにえりとゝのへさせ給へりしさるべきものゝ子どもにて、心のかぎり今日は我が世と人はらはせ、きらめきあへりしきそくどもなど、よそ人誠にいみじう見侍りしか」」とて車のきぬの色などをさへ語り居たるぞあさましきや。「「さてこの御腹におはしましゝ女宮一人はいとはかなくうせ給ひにしぞかし。又女七の宮は御物のけこはくてうせ給ひにき。九の宮は今入道一品宮とて三條におはしましき。うせ給ひて十四年にやならせ給ひぬらむ。うみおき奉らせ給ひしたびの十の宮こそは今の齋院におはしませ。いつきの宮世に多くおはしませど、これは殊にうごきなく世に久しくたもちおはしますも、唯この御すぢのかく榮え給ふべきぞと見申す。御門たびたびうせ給へど、この齋院はうごきなくおはします。それも賀茂の明神のうけ給へればかくうごきなくおはしますなり。佛經などの事は昔の齋宮齋院はいませ給ひけれど、この宮には佛法さへ崇め申し給ひて朝ごとの御念誦欠かせ給はず。近うはこの御寺のけうの講にはさだまりて布施をこそおくらせ給ふめれ。いととうより神人にならせ給ひて、いかでかゝる事思し召しよりけむと覺え候ふは、賀茂のまつりの日、一條の大路にそこら集まりたる人、さながら共に佛とならむとちかはせ給ひけむこそなほあさましく侍れ。さりとて又現世の御榮華をとゝのへさせ給はぬかは。御禊よりはじめ、三箇日の作法、出車などのめでたさは、大方御さまのいというにらうらうじくおはしましたるぞ。今の關白殿、兵衞佐にて御禊の御前せさせ給ひしに、いとをさなくおはしませば、例は本院にかへらせ給ひて、人々に祿などたまはするを、これは河原より出でさせ給ひしかば、思ひかけぬ御事にてさる御心まうけもなかりければ、御前にめしありて御對面などせさせ給ひて、奉り給へりける御こうちぎをぞかづけ奉らせ給ひける。入道殿聞かせ給ひて。「いとをかしくもし給へるかな。祿なからむもびんなく、とりにやり給はむも程經ぬべければ、とりわきたるさまを見せ給ふなめり。えせものはえ思ひよらじかし」とぞ申させ給ひける。この當帝や東宮などのまだ宮達にておはしましゝ時、まつり見せ奉らせ給ひし御さじきの前過ぎさせ給ふほど、殿の御膝に二所ながらすゑまゐらせ給ひて、「この宮たち見奉らせ給へ」と申させ給へば、御輿のかたびらより赤色の御扇のつまをさし出で給へりけり。殿をはじめ奉りて、「猶心ばせめでたくおはする院なりや。かゝるしるしを見せ給はずば、いかでかは見奉らせ給ふらむともしらまし」とこそは感じ奉らせ給ひけれ。さて齋院より大宮に聞えさせたまへる、

  「光いづるあふひのかげを見てしよりとしつみけるも嬉しかりけり」。

御かへし、

  「もろかづら二葉ながらに君にかくあふひやかみのしるしなるらむ」、

げに賀茂明神などのうけ奉り給へればこそは五代までうち續きさかえさせ給ふらめな。この事いとをかしうせさせ給へりと世ひと申しき。前の帥殿のみぞ「追從深き老ぎつねかな。あな愛敬な」と申し給ひける。誠このきさいの宮の御おとゝの中の君は重明の式部卿の宮の北の方にてぞおはせしかし。そのみこは村上の御はらからにおはします。この宮の上さるべき事のをりは、物見せ奉りにとて后迎へ奉り給へば、忍びつゝ參り給ふに、御門ほの御覽じて、いと美くしうおはしましけるをいと色ある御心くせにて、宮にかくなむ思ふとあながちに責め申させ給へば、一二度しらず顏にてゆるし申させ給ひけり。さて後御心はかよはせ給ふげなる御氣色なれど、さのみはいかゞはとや思しめしけむ。后さらぬことだにこの方ざまにはなだらかにえつくりあへさせ給はざめる中に、ましてこれはよその事よりは心づきなうも思しめしぬべけれど御あたりを廣う顧み給ふ御心のふかさに、人の御ため聞きにくゝうたてあればなだらかに色にもいでずすぐさせ給ひけるこそいとかたじけなう悲しきことなれな。さて后の宮もうせおはしまし、式部卿の宮もうせ給ひて、御門わりなく戀しと思しければ、召しとりていみじく時めかさせ給ひて、貞觀殿の內侍のかみとこそ申しゝかし。世になくおぼえおはして、こと女御御息所猜み給ひしかどかひなかりけり。これにつけても九條殿の御さいはひとぞ人申しける。又三の君は西宮殿の北の方にて坐せしを、御子うみてうせ給ひしかばよそ人は君だちの御爲あしかりなむとて又御おとゝの五に當らせ給ふあい宮と申すにうつらせ給ひにき。四の君は疾くうせ給ひにき。六の君は冷泉院の東宮におはしましゝに參らせ給ふなんど女君たちは皆かくなり。男君たちは十一人の御中に五人は〈五人の中三人は關白攝政〉太政大臣にならせ給へり。それあさましくおどろおどろしき御さいはひなりかし。その御外は右兵衞督忠君、又北野三位遠度、又大藏卿遠量、多武峯入道少將君なり。法師にては飯室の權僧正、今の禪林寺の僧正などにこそはおはしますめれ。法師といへど世のなかの一の驗者にて、佛の如くに公私たのみ仰ぎ申さぬ人なし。又北野三位の御子は尋空律師、朝源律師なり。又大藏卿の御女子は〈今の左兵衞督の母上の事なり。〉粟田殿の北の方、今の左衞門のかみの母上、この御ぞうかやうにておはしますべきなかに、多武峯の少將の出家し給へりしほどは、いかにあはれにもやさしくもさまざまなる事どもの侍りしかば、なかにも御門の御消息遣したりしこそおぼろげならずば御心もやみだれ給ひけむとかたじけなくうけたまはりしか。

  「みやこより雲のやへたつおく山のよかはのみづ〈のきイ〉はすみよかるらむ」。

御かへし、

  「こゝのへのうちのみつねにこひしくてくもの八重たつ山はすみうし」。

始はよかはにすませ給ひしぞかし。後には多武峯にすませ給ひき。いといみじく侍りしことぞかし。されどもそれは九條殿后宮などうせおはしまして後の事なり。この右馬のかうの殿の御出家こそ親だちの榮えさせ給ふことのはじめをうちすてゝ、いといとありがたう悲しかりし御事よ。とうよりさる御心まうけはおぼしよらせ給ひにけるにや、御はらからの公達に具し奉りて、正月二七夜のほどに中堂に上らせ給へりけるに、更に御おこなひもせで大殿籠りたりければ、殿ばら「曉になどかくして臥し給へる。起きて念誦もせさせ給へかし」と申させ給ひければ、「今一度に」とのたまひしを、そのをりは思ひも咎められざりき。かやうの御有樣をおぼし續けゝるにやとこそこのをりには君達おぼしいでゝ申し給ひけれ。さりとてうちくんじやいかにぞやなどある御氣色もなかりけり。人よりことにほこりかに心ちよげなる人がらにてぞおはしける。この九條殿は百鬼夜行にもあはせ給へるは何ほどゝいふことはえ承らず。いみじう夜更けて內より出させたまふに、大宮より南ざまへおはしますにあはのゝ辻のほどにて御車のすだれうち垂れさせ給ひて「御車牛もかきおろせかきおろせ」と急ぎ仰せらるればあやしと思へどかきおろしつ。御隨身御前どもゝ「いかなる事のおはしますぞ」と御車のもとに近く參りたれば、御したすだれうるはしく引き垂れて御さくとりてうつぶさせ給へるけしきいみじきを人に畏まり申させ給へるさまにて坐します。「御車はしぢにかくな。唯隨身どもはながえの左右のくびきのもとにいと近く侍ひて、さきをたかくおへ。雜色どもゝ聲せさすな。御前どもゝ近くあれ」と仰せられて尊勝陁羅尼をいみじう讀み奉らせ給ふ。牛をば御車のかくれの方にひきたてさせ給へり。さて時中ばかりありてぞ御すだれ上げせさせ給ひて、「今は御牛かけてやれ」と仰せられけれど、つゆ御供の人々は心えざりけり。後々にしかじかの事のありしなど、さるべき人々にこそは忍びて語り申させ給ひけめどさるめづらしき事はおのづから散り侍りけることにこそは。元方の民部卿のうまご、まうけの君にておはする頃御門の御庚申せさせ給ふにこの民部卿參り給へるさらなり、九條殿さぶらはせ給ひて人々あまたさぶらひ給て、碁うたせ給ふついでに、冷泉院の孕まれおはしましたるほどにて、さらぬだに世ひといかゞと思ひ申したるに、九條殿「こよひのすぐ六つかうまつらむ」と仰せらるゝまゝに、「この孕まれ給へるみこ、男におはすべくは、でう六いでこ」とて打たせ給ひけるに、唯一どに出でくるものか。ありとある人目を見かはして感じもてはやし給ふ。我が御みづからもいみじとおぼしたりけるに、この民部卿の氣色いとあしうなりて、色もいと靑くこそなりたりけれ。さて後に靈にいでまして、その夜やがて「胸に釘はうちてき」とこそのたまひけれ。大かたこの九條殿、いとたゞ人にはおはしまさねにや。思しめしよる行く末の事などもかなはぬはなくぞおはしましける。口をしかりけることは、いまだいと若くおはします時、「夢に朱雀院の前に左右の足を西ひんがしの大宮にさしやりて北むきにて內裏を抱きて立てりとなむ見えつる」、とおほせられけるを、御前になまさかしき女房の侍ひけるが、「いかに御股痛くおはしましつらむ」と申したりけるに、御夢違ひてかく御子孫は榮えさせ給へど、攝政關白えしおはしまさずなりにしなり。又御末に思はずなるさまに御事のうちまじり、そち殿の御事などもこれがたがひたる故に侍るなり。いみじき吉左右の夢もあしざまに合せつればたがふと昔より申し傳へて侍る事なり。荒凉して心しらざらむ人の前にて夢がたりな、この聞かせ給ふひとびとしおはしましそ。今ゆくすゑも九條殿の御ぞうのみこそ、とにかくにつけてひろごり榮えさせ給はめ。いとをかしき事はかくやらむ、事なくおはします殿の貫之のぬしの家におはしましたりしこそ猶和歌はめざましきことなりかしと思え侍りしか。正月一日つけさせ給ふべきぎよたいの損はれたりければつくろはせ給ふほど、まづ貞信公の御もとに參らせ給ひて、かうかうの事の侍れば內に遲く參るよしを申させ給ひければ、おほき大殿驚かせ給ひて、年ごろもたせたまへりけるとりいでさせ給ひて、やがてあえものにもと奉らせたまふを、ことうるはしう松の枝につけさせ給へり。その御かしこまりのよろこびは御心の及ばぬにしもおはしまさゞらめど、猶貫之にめさむと思しめして渡りおはしましたるを、待ちつけ申しけむめいぼく、いかゞはおろかなるべきな。

  「吹く風にこほりとけたる池のうへをちよまで松のかげにかくれむ」。

集にかきいれたることわりなりかしな。いにしへより今に限もなくおはします殿の、唯冷泉院の御ありさまのみぞいと心うく口をしきことにてはおはします」」といへば、さぶらひ、「「されどこのれいには、まづその御時をこそはひかるめれ」」といへば、「「それはいかでかさらでは侍らむ。その御門のいでおはしましたればこそは永く藤氏の殿ばら今に榮えおはしませ。「さらざらましかばこの頃僅に我は諸大夫ばかりになりいでゝ、所々の御ぜんの雜役につかれありきなまし」とこそ入道殿は仰せらるれば、源民部卿は、「さるかたちしたるまうちきみたち候はましかばいかに見苦しうはべらまし」とこそ笑ひ申させ給ふなれ。かゝればおほやけわたくしその御時の事をためしと思ふことわりなり。御物怪こはくていかゞとおぼしゝに、大甞會の御けいにこそいとうるはしくて渡らせ給ひにしか。それは人の目にあらはれて、「九條殿なむ御うしろをいだき奉りて、御輿の內にさぶらはせ給ひける」とぞ申しゝ。げにうつゝにても、いとたゞ人とは見えさせ給はざりしかば、ましておはしまさぬ跡にはさやうに御まもりにてもそひ參らせ給ひつらむ。さらば殊に元方の卿、桓算供奉をぞ逐ひのけさせ給ふべきな。それは又しかるべきさきの世の御報にこそはおはしましけめ。さるは御心いとうるはしくて、世間の政もかしこくせさせ給ひつぐ〈ぐイ無〉べかりしかば、世にいみじうあたらしき事にぞ申すめりし。さて又今はこの九條殿御子どものかず、冷泉院、圓融院の御母后、貞觀殿の內侍のかみ、一條の攝政、堀川關白、大入道殿、忠君の兵衞督と六人は武藏守從五位上經邦のむすめのはらにおはしまさふ。世の人をんな子といふことはこの御事にや。大かた御腹ことなれど、男君たち五人は太政大臣、三人は攝政したまへり。

     關白次第

   良房 忠仁公

   基經 昭宣公

   忠平 貞信公

   實賴 淸愼公

   伊尹 謙德公

   兼通 忠義公

   賴忠 廉義公三條殿

   兼家 大入道殿東三條殿法名如實

   道隆 中關白殿

   道兼 粟田殿七日關白

   道長 御堂入道殿法名行觀

   賴通 大宇治殿

   敎通 大二條殿

   師實 京極殿

   師通 後二條殿

   忠實 知足院殿法名圓理

   忠通 法性寺殿

   基實 號中殿

   基房 號松殿

   基通 號近衞殿

   師家 號松殿小殿下

   兼實 號九條殿

     世續名

   一  月の宴

   二  花山たづぬる中納言

   三  よろこびの卷

   四  見はてぬゆめ

   五  浦々のわかれ

   六  かゞやく藤壺

   七  とりべのゝ卷

   八  はつはなの卷

   九  いはかげの卷

   十  ひかげかつら

   十一 つぼみのはな

   十二 玉のむらぎく

   十三 ゆふしでの卷

   十四 あさみどり

   十五 うたがひの卷

   十六 もとのしづく

   十七 おんがくの卷

   十八 玉の臺の卷

   十九 御もぎのまき

   二十 御賀のまき

   廿一 のちくいの大將

   廿二 鳥のまひ

   廿三 駒くらべの行幸の卷

   廿四 わかばの卷

   廿五 たまやの卷

   廿六 そこのゆめの卷

   廿七 衣のたまのまき

   廿八 わかみづのまき

   廿九 たまのかざり

   三十 つるのはやし


大鏡卷之五

   攝政謙德公伊尹

   攝政忠義公兼通

   恆德公爲光

   仁義公公季

   攝政大入道殿兼家

      已上九條殿息

     太政大臣伊尹のおとゞ

このおとゞ一條攝政と申しき。これ九條殿の一男におはします。いみじき御集つくりてとよかげとなのらせ給へり。大臣になり榮え給ひて三年、いと若くて天祿三年十一月一日にうせ給ひにき。御年四十九。御いみな謙德公と申しき。いと若くて失せおはしましたることは九條殿の御遺言をたがへさせ給へるけとぞ人申しける。されどいかでかはさらでもおはしまさむ。御葬送のさたをむげに略定に書きおかせ給へりければ、いかでかいとさはとて例の作法に行はせ給ふとぞ。これはことわりの御しわざぞかし。唯御かたち身のざえ、何事もあまりすぐれさせ給へれば、御命のみとゝのはせ給はざりけるにこそ。折々の御和歌などこそめでたく侍れな。春日の使におはしまして、かへさに女のもとに遣したりける、

  「くればとくゆきて語らむあふことのとほちの里のすみうかりしも」。

御かへし、

  「逢ふことはとほちの里にほどへしもよし野の山とおもふなりけむ」。

助信の少將、宇佐の使にて下られしに、殿上にてはなむけに菊の花のうつろひたるを題にて別の歌よませたまへる、

  「里とほくうつろひぬとかきくの花をりて見るだにあかぬこゝろを」。

御門の御をぢ東宮の御おほぢにて攝政せさせ給へば、世の中は我が御心にかなはぬことなく、くわさことの外に好ませ給ひて大饗せさせ給ふに、寢殿の裏板のかべの少し黑かりければ俄に御らんじつけてとかくみちのくに紙をつぶと押させ給へりけるが、なかなか白く淸らに侍りける。思ひよるべきことかはな。御家は今の世尊寺ぞかし。御ぞうの氏寺にておかれたるを、かやうの序には立ち入りて見給ふれば、まだその紙のおされて侍るこそ昔にあへる心ちしてあはれに見給ふれ。かくやうの御さかえを御覽じおきて、御年五十にだに足らでうせさせ給へるあたらしさは、父おとゞにも劣らせ給はずとこそ世ひと惜み奉りしか。その御をとこ女の君達あまたおはしましき。女君一人は冷泉院の御時の女御にて花山院の御母、贈皇后宮にならせ給ひにき。次々の女君二人は法住寺の大臣の北の方にてうち續きうせさせ給ひにき。九の君は冷泉院の御みこの彈正宮と申しゝ御うへにておはせしを、その宮うせ給ひて後、尼にていみじう行ひ勤めておはすめり。又忠君の兵衞督の北の方にておはせしが、後には六條の左大臣殿の御子の左大辨のうへにておはしけるは四君とこそは。又花山院の御妹の君、一宮はうせ給ひにき。女二君は圓融院の御時の齊宮にたゝせ給ひて、天延三年になり給ひて、貞元三年に圓融院の御時女御に參り給へりし。程もなく內の燒けにしかば火の宮と世の人もつけ奉りき。さて一二度參り給ひて程もなくうせさせ給ひにき。この宮に御覽ぜさせむとて三寶繪はつくれるなり。男君達は代明の親王の御女のはらに藏人の前少將後少將とて花を折り給ひし君達の、殿うせ給ひて三年ばかりありて、天延二年甲戌のとし、もがさおこりたるに煩ひたまひて前の少將は朝に失せ給ひ後の少將は夕にかくれ給ひしぞかし。一日がうちに二人の子を失ひ給へりし母北の方の御心ちいかなりけむ、いとこそ悲しく承りしか。後少將は義孝とぞきこえし。御かたちいとめでたくおはし年ごろきはめたる道心者にぞおはしける。病重くなるまゝに生くべうも覺え給はざりければ、母上に申し給ひけるやう、「おのれ死に侍りぬとも、とかく例のやうにせさせ給ふな。しばし法華經誦じ奉らむの本意侍れば、必ずかへりまうでくべし」とのたまうて、方便品を讀み奉り給ひてぞうせ給ひける。その遺言を母北の方忘れ給ふべきにあらねど物覺えでおはしければ、思ふに人のし奉りてけるにや、枕がへしなどにやと、例のやうなるありさまどもにしてければ、えかへり給はずなりにけり。後に母北の方の御夢に見えたまひける、

  「しかばかり契りしもの〈ことイ〉をわたり川かへるほどには忘るべしやは」

とぞよみ給へりける。いかなる心ちし給ふ、悔しくおばしけむな。さてのちほどへて賀緣阿闍梨と申すの僧の夢に、この君達二人おはしけるが、兄の前少將はいたう物思へるさまに見え給ひ、この後少將はいと心ちよげなるさまにて見えたまひければ、阿闍梨、「君はなど心ちよげにてはおはする。母上は君をこそあに君よりはいみじうこひ聞え給ふめれ」ときこえければ、いとあたはぬさまのけしきにて、

  「時雨とはちぐさの花ぞちりまがふなにふる里に袖ぬらすらむ」

などうちよみ給ひて、又誦し給ひける、

  「昔契蓬萊宮裏月

   今遊極樂界中風」

とぞのたまひける。〈さて後小野宮の實資のおとゞの御夢に、おもしろき花の蔭におはしけるを、うつゝにも語らひ給へりし御中にて、いかでかくはいづくにいてかなとめつらしがり申したまひけれは、御いらへにこの詩はありけり。〉極樂に生れ給へるにぞあなる。かやうにも夢などしめい給はずとも、この人の御徃生を疑ひ申すべきにあらず。世のつねの君達のやうにうちわたりなどにても、おのづから女房とかたらひ、はかなき事をだにのたまはせざりけるに、いかなるをりにかありけむ、ほそどのに立ちより給へれば、例ならずめずらしくて物語聞えさせけるに、やうやう夜中などにもなりやしぬらむと思ふ程に立ちのき給ふを、いづかたへかとゆかしうて、人つけ奉りて見せたりければ、北の陣より出で給ひけるほどより、法華經をいみじくたふとく誦し給ひ大宮のぼりにおはして世尊寺におはしましつきぬ。なほ見れば東の對のつまなる紅梅のいみじう盛に咲きたる下に立たせたまひて、滅罪生善往生極樂といふぬかを西にむかひてあまた度つかせ給ひけり。歸り侍りて御有樣語りければ、いといと哀に聞き奉らぬ人なし。このおきなもその頃大宮なる所にやどりて侍りしかば御聲にこそおどろきていといみじう承りしかば、翁いでゝ見奉りしかば、空はかすみわたりたるに月はいみじうあかくて、御なほしのいと白きにこき指貫に、よい程に御くゝりあげて、何色にか、色ある御ぞどものゆたちより多くこぼれ出でゝ侍りし御容體などよ。御顏の色月かげにはえて、いと白う見えさせ給ひしにびんぐさのけちえんにめでたくこそおはしましゝか。やがて見つぎ見つぎにおほん供に參りて御ぬかづかせ給ひて見も奉りはべりき、いと悲しくあはれにこそ侍りしか。御供にわらは一人ぞさぶらふめりし。又殿上の逍遙侍りし時さらなり、こと人は皆こゝろごゝろに狩裝束めでたうせられたりけるに、この殿はいとうまたれ給ひて、白き御ぞどもにかうぞめの御狩衣、薄色の御指貫、華やかならぬあはひにてさし出で給ひけるこそなかなか心を盡したる人よりはいみしうおはしけれ。常の御事なれば法華經御口につぶやきて、紫檀の御數珠の水精のさうぞくしたるひきかくして持ち給ひたりけり。御用意などの優にこそおはしましけれ。大かた一生精進始め給へる、まづありがたき事ぞかし。猶々同じ事のやうに侍れどいみじと見給へ聞きおきつる事は申さまほしくて。此の殿は御かたちのありがたく末の代もさる人や出でおはしましたがたからむとまでこそ見給へりしか。雪のいみじう降りたりし日、一條左大臣殿に參らせ給ひて、御前の梅の木に雪のいたう積りたるを折りてうちふらせ給へりしかば、御上にはらはらとかゝりたりしを、御なほしの裏の花なりけるがかへりていとまだらになりて侍りしにもてはやされさせ給へりし御かたちこそいとめでたくおはしましゝか。御兄の少將もいとよくおはしき。このおとゞのかくあまりにうるはしくおはしゝをもどきて少しよう悍にあしき人にてぞおはせし。その義孝少將、桃園の源中納言保光卿の女の腹に生ませ給へりし君ぞかし、今の侍從大納言行成卿世の手かきとのゝしり給ふは。この殿の御をのこゞ唯今の但馬守實經の君、尾張權守良經の君二人は泰淸三位の女の腹なり。むかひばらは少將行經の君、又女君は入道殿の御子高松ばらの權中納言殿の北の方にておはせし。姬君十五にてうせ給ひにきかし。又今のたばの守經賴の君の北の方にておはす。又大姬君おはしますとか。この侍從大納言殿こそひごのすけとてまだ地下にておはせし時藏人頭になり給ふなれ。いと珍らしき事よな。その頃は源民部卿殿は〈この民部卿心うるはしくして、おほやけにつかまりしにより、ゑんまわうくうに生れたると夢に見えたる人なり。〉職事にておはしますに、上達部になり給ひければ、一條院、「この次には又誰かなるべき」と問はせ給ひければ「行成なむまかりなるべき人に候ふ」と奏せさせ給ひけるを、「地下のものはいかゞあるべからむ」と、のたまはせければ、「いとやんごとなきものに候ふ。地下など思し憚らせ給ふまじ。行く末にもおほやけに何事にもつかまつらむに堪へたるものになむ。かくやうなる人を御覽じわかぬは世のためあしき事に侍り。善惡を辨へおはしませばこそ人も心づかひは仕うまつれ。このきはになさせ給はざらむはいと口惜しきことにこそさぶらはめ」と申させ給ひければ、道理の事といひながらなり給ひにしぞかし。大方むかしは前の頭の擧によりて後の頭はなることにて侍りしなり。されば殿上にわれなるべしなどさだのぶの民部卿中將にておはせしをり思ひ給へりける。この人はこよひと聞きて參り給へるに、いづこもとくかにさしあひ給へりけるを「たれぞ」と問ひ給へるに、御名のり給へば、思ひかけずおぼして、「何事に參り給へるぞ」とあれば、「頭になしたびたれば參りて侍るなり」とあるにあさましとあきれてこそ動きもせで立ち給ひたりけれ。げに思ひかけず道理なりや。この源民部卿、かく申しなし給へる事をおぼししりて、從二位のをりかとよ、越え申し給ひしかど更にかみに居給はざりき。かの殿出で給ふ日はわれ病申し、又共にいで給ふ日はむかへ座などにぞ居給ひし。さて民部卿正二位のをりこそはもとのやうに下臈になり給ひしか。大方この御ぞうの頭あらそひにかたきをつぎ給へば、これもいかゞおはすべからむ。皆人知しめしたることなれどあさなりの中納言と一條攝政と同じ折の殿上人にて、しなの程こそ一條殿とひとしからね、身のざえ世おぼえやんごとなき人なりければ頭になるべき次第いたりたるに、又この一條殿、さうなく道理の人にておはしましけるを、このあさ成の君申し給ひけるやう「殿はならせ給はずとも人わろく思ひ申すべきにあらず。のちのちにも御心に任せさせ給へり。おのれはこの度まかりはづれなばいみじうからかるべきことにてなむ侍るべきを、のかせ給ひなむや」と申し給ひければ、「こゝにもさ思ふ事なり。さらばさりまさむ」とのたまふを、いとうれしと思はれけるにいかにおぼしなりにけることにか、やがてとひ事もなくなり給ひにければ、かくはかり給ふべしやはといみじう心やましと思ひまされけるほどに、御中よからぬ事にて過ぎ給ふほどに、この一條殿の御つかうまつる人とかやのためになめき事し給ひたりけるを、ほいなしなどばかりは思ふとも、いかに事に觸れて我などをばかくなめげにもてなすぞとむづかり給ふと聞きて、あやまたぬよしも申さむとて參られたりけるに、さやうの人は我よりたかき所にまうでゝは、こなたへとなきかぎりはうへにものぼらでしもにたてる事にてなむありけるをこれは六七月のいと暑く堪へがたき頃、かくとまさせて今や今やと中門に立ちて待つ程に西日もさしかゝりて暑く堪へがたしとはおろかなり。心ちも損はれぬべきに、早うこの殿は我をあぶり殺さむとおぼすにこそありけれ、やくなくも參りにけるかなと思ふにすべて惡心起るなどはおろかなり。夜になる程さてあるべきならねば、さくをおさへて立ちければ、はたうと折れける。いかばかり心を起されにけるにか。さて家に歸りて、「このぞう永くたゝむ。若しをのこ子もをんな子もありともはかばかしくてはあらせじ。哀といふ人もあらば、それをも恨みむ」など誓ひてうせ給ひにければ、だいだいの御惡靈とこそはなり給ひたれ。さればましてこの殿近うおはしませば、いとおそろし。殿の御夢に、南殿の御後の戶のもと、必ず人の參るにたつ所よな。そこに人の立ちたるを誰ぞと見れば、顏は戶のかみに隱れたればよくも見えず。あやしうて、「たぞたぞ」とあまた度問はれて「朝成に侍り」といらふるに、夢の中にもいとおそろしけれど、念じて「などかくては立ち給ひたる」と問ひ給ひければ、「頭辨の參らるゝを待ち侍るなり」といふと見給ひて、おどろきて、「今日は公事ある日なれば疾くまゐるらむ。ふびなるわざかな」とて、「夢に見え給ひつることあるを、今日は御病申などもして物忌かたくして何かまゐり給ふ。こまかにはことづから」と書きて「急ぎ奉り給へ」とちかひて、いと疾く參り給ひにけり。まもりのこはくやおはしけむ、例のやうにはあらで、北の陣より藤壺後涼殿のはざまより通りて殿上に參り給へるに、こはいかに、「御消息奉りつるは御覽ぜざりつるか、かゝる夢をなむ見侍りつる。とくいでさせ給ひね」と聞えさせ給ひければ、手をはたとうちて、いかにぞとこまかにも問ひまさせ給はず、またふたつものものたまはで出で給ひにけり。さてぞ御祈などし給ひて、しばしは內へも參り給はざりけり。このものゝけの家は三條より北、西の洞院よりは西なり。今に一條殿の御ぞう、あからさまにも入らぬ所なり。この大納言殿萬にとゝのひ給へるを、和歌の方やすこし後れ給へりけむ。殿上にうたろぎといふ事出できて、その道の人々いかゞもだふすべきなど歌の學問より外の事もなきに、この大納言殿は物もの給はざりければ、いかなる事ぞとてなにがしとのゝ、「難波津にさくやこの花冬ごもり、いかに」ときこえさせ給ひければ、とばかり物ものたまはで、いみじうおぼし案ずるさまにもてなして、「えしらず」と答へさせ給へりけるに、人々笑ひてことさめ侍りにけり。少しいたらぬ事にも御たましひ深くおはして、らうらうしくなし給ひける御本性にて、みかどをさなくおはしまして、人々に「あそびものまゐらせよ」とおほせられければ、さまざまこがねしろがねなど心をつくして、いかなる事をがなとふりうをしいでゝもて參りあひたるに、この殿はこまつぶりにむらごの緖つけて奉り給へりければ、「あやしのものゝさまや。こは何ぞ」と問はせ給ひければ、「しかじかの物になむと申す。舞はして御覽じおはしませ。興ある物に」など申されければ、南殿に出させ給ひて舞はさせ給ふに、いと廣き殿のうちに殘らずくるべきあるけば、いみじう興せさせ給ひて、をこれのみ常に御覽じ遊ばせ給へば異物どもはこめられにけり。又殿上の人々扇どもして參らするに、こと人々は骨にまきゑをし、或はしろがね、こがね、ぢん、紫檀の骨になむすぢを入れほりものをし、えもいはぬ紙どもに人のなべて知らぬ歌や詩や、又六十餘國の歌枕に名あがりたる所々などを書きつゝまゐらするに、例のこの殿はほねの漆ばかりをかしげに塗りて、黃なるかうがみの下繪ほのかにをかしきほどなるに、おもての方には樂府をうるはしう眞にかき、裏には御筆をとゞめて草にめでたくかきて奉り給へりければ、うちかへしうちかへし御門御覽じて御手箱に入れさせ給ひて、いみじき御寳と思しめしたりければ、ことあふぎどもは唯御覽じ興ずるばかりにてやみ侍りにけり。いづれもいづれも帝王の御感侍るにますことやはあるべきな。いみじきすくの給へる人なり。このかや院殿にてくらべ馬ある日、皷は讃岐の前司あきまさの君ぞうち給ひし。一番にはなにがし、二番にはかゞしなどいひしかど、その名こそおぼえね、勝つべき方のつゞみをあしくうちさげてまけになりければ、その隨身のやがて馬の上にのりながら、ないばらをたちて見かへるまゝに「あなわざはひや、かばかりのことをだにしそこなひ給ふよ。かゝれば明理行成と一雙にいはれ給ひしかども、一の大納言にて、いとやんごとなくてさぶらはせ給ふに、くさりたる讃岐の前司ふるずらうの皷うち損ひてはたちたまひたるぞかし」とはうごしたいまつりたるを、大納言殿聞かせ給ひて、「明理のらんかうに行成がしこな呼ぶべきにあらず。いとからい事なり」とて笑はせ給ひければ、人々いみじうの給はせたりと興じ奉りて、その頃のいひごとにこそし侍りしか。又一條攝政殿の御をのこ子、花山院の御時御門の御をぢにてよしちかの中納言と聞えし少將だちの御同じはらよ。その御時はいみじう華やぎ給ひしに、御門出家せさせ給ひてしかば、やがて我もおくれ奉らじとて花山寺まで尋ね參りて中日一日をはさめて法師になり給ひき。飯室といふ所にいとたふとく行ひてぞかくれ給ひし。その中納言文盲にはおはせしかど、御心だましひいとかしこく、いうそくにおはして、花山院の御時のまつりごとは唯この殿とこれしげの辨として行ひ給へればいといみじかりしぞかし。その御門をば內おとりのとめでたとぞ世の人申しゝ。「冬の臨時の祭の日の暮るゝあしき事なり。辰の時に人々參れ」と宣旨下させ給ふを、さぞ仰せらるともみうまの時にぞおはしますらむなど思ひ給へりけるに、舞人の君だちさう束賜はりに參りおはさうじたりければ、御門は御さう束奉りて立たせおはしましたりける。この入道殿も舞人にておはしましければ、この頃語らせ給ふなるを傳へてうけたまはるなり。あかく大路などわたるがよかるべきにやと思ふに、御門馬をいみじう興ぜさせ給ひければ、舞人の馬をこうらう殿の北のめだうよりとほさせ給ひて、あさがれひの壺にひきおろさせ給ひて、殿上人どもを乘せて御覽ずるをだにあさましう人々思ふに、はては乘らむとさへせさせ給ふに、すべき方もなくてさぶらひあひ給へる程に、さるべきにや侍りけむ、入道中納言さし出で給へりけるに、御門御おもていと赤くならせ給ひて、すぢなげにおもほしめしたり。中納言もいとあさましう見奉り給へど、人々の見るに制し申さむもなかなかに見苦しければ、もてはやし興じ申し給ふさまにもてなしつゝ、自らしたがさねのしりはさみて乘り給ひぬ。さばかりせばき壺にをりまはし、おもしろうあげ給へば御氣色なほりて、あしき事にはあらぬことなりけりと思し召して、いみじう興ぜさせ給ひけるを、中納言あさましうも哀にもおぼさるゝ御けしきは、同じ御心によからぬ事をはやし申し給ふとは見えず。誰もさぞかしとは見しり聞えさする人もありければこそはかく申し傳へたれな。又みづから乘り給ふまではあまりなりといふ人もありけり。これならずひたぶるに色にはいたくも見えず、唯御本性のけしからぬさまに見えさせ給へばいと大事にぞ。されば源民部卿は「冷泉院のくるひよりは花山院のくるひこそすぢなきものなれ」と申し給ひければ、入道殿は「いとふびなる事をもまさるゝかな」とおほせられながら、いみじう笑はせたまひけり。この義懷の中納言の御出家、惟成辨のすゝめ聞えられたりけるとぞ。いみじういたりありける人にて、「今更によそ人にてまじらひたまはむほど見苦しかりなむ」ときこえさせければ、げにさもといとゞおぼしてなり給ひにしを、もとより起し給へる道心ならねばいかゞと人おもひ聞えしかど、おり居給へる御心の本性なればけたいなく行ひ給ひてうせ給ひしぞかし。その御子は唯今の飯室僧都守禪の君、又繪阿闍梨の君、入道中將成房の君なり。この三人は備中守爲雅が女の腹なり。その中將の御女は定經ぬしの御めにてこそはおはすめれ。一條殿の御ぞうはいかなる事にか御命みじかくぞおはしますめる。花山院の御出家の本意あり、いみじう行はせ給ひ、修行せさせ給はぬところなし。されば熊野の道にちさとの濱といふ所にて御心ちそこなはせ給へれば、濱づらに石のあるを御枕にて大殿ごもりたるに、いと近くあまの鹽燒く煙のたちのぼる心ぼそさ、げにいかにあはれにおぼされけむな。

  「旅の空夜はのけぶりとのぼりなばあまのもしほ火たくかとやみむ」。

かゝるほどに御驗もいみじうつかせ給ひて、中堂にのぼらせ給へる夜、驗くらべしけるを試みむとおぼしめして、御心のうちにねんじおはしましければ、護法つきたる法師おはします御屛風のつらに引きつけられてふつとうごきもせず。あまり久しくなれば、今はゆるさせ給ふをりぞつけつるを、僧どものがりをどりいぬるを早う院の御護法のひきとるにこそありけれと人々あはれに見奉る。それさることに侍り。驗もしなによることなればいみじきおこなひ人なりともいかでかなずらひ申さむ。前生の戒力に又國王位をすて給へる出家の御功德限なき御事にこそおはしますらめ。行く末までもさばかりにならせ給ひなむ御心には懈怠せさせ給ふべき事かはな。それにいと怪しくならせ給ひし、御心あやまちも唯御物怪のし奉りぬるにこそは侍るめりしか。中にも冷泉院の南の院におはしましゝ時、燒亡ありし夜、御とぶらひに參らせ給へりしあり樣こそふしぎにさぶらひしか。御親の院は御車にて二條町しもの辻に立たせ給へり。この院は御馬にて頂にかゞみ納れたる笠頭光に奉りて、「いづこにか坐しますいづこにか坐します」と御手づから人每に尋ね申させ給へば、「そこそこになむ」と聞かせ給ひて、おはしまし所へ近くおりさせ給ひぬ。御馬の鞭かひなにいれて御車の前に御袖うちあはせて、いみじうつきづきしう居させ給へりしは、さる事やは侍りしとよ。それに又冷泉院の御車のうちより高やかに神樂歌をうたはせ給ひしはさまざま興ある事をも見きくかなとおぼえ候ひしに、あきのぶのぬしのけはひいと猛なりや」との給ひけるにこそ萬人えたへず笑ひ給ひにけれ。さて又花山院のひとゝせ祭のかへさ御覽ぜし御ありさまは誰も見奉りけむな。まへの日事いださせ給へりし度のことぞかし。さる事あらむ時、今日は猶御ありきなどなくてもあるべきにいみじき異樣一のものども、かうぼうのらいせいをはじめとして御車のしりにうちむれ多く參りしきそくども、いへばおろかなり。何よりも御數珠のいと興ありしなり。ちひさき柑子を大方の玉につらぬかせ給ひて、だつまには大柑子をしたる御數珠いとながく御指貫に具して出させ給へりしはさる見ものやは候ひしな。人々むらさい野にて御車に目をつけ奉りたりしに檢非違使まゐりて、昨日事出したりしわらはべとらふべしといふ事出できにけるものか。この頃の權大納言殿、またその頃は若くおはしましゝほどぞかし、人はしらせて、「かうかうの事候ふ。疾くかへらせ給ひね」と申させ給へりしかば、そこらさぶらひつるものども蜘蛛の子を風の吹きはらふ如くに逃げぬれば、唯御車ぞひのかぎりにてやらせて、見もの車のうしろの方よりおはしましゝこそさすがにいとほしくかたじけなく覺えおはしましゝか。さてけびゐしつきや、いといみじうからうせめられ給ひて、太上天皇の御名は永くくださせ給ひにき。かゝればこそ民部卿殿の御いひごとはげにと覺ゆれ。さすがに遊ばしたる和歌はいづれも人の口にのらぬなく、優にこそうけたまはれな。

  「こゝろみにほかの月をも見てしがな我が宿からのあはれなるかと」

などは、この御有樣に思し召しよりける事とも覺えず、心苦しうこそさぶらへ。さて又冷泉院にたかんな奉らせ給へるをりは、

  「世の中にふるかひもなき竹の子はわがへむ年をたてまつるなり」。

御かへし、

  「年へぬるたけのよはひは返してもこの世をながくなさむとぞおもふ」。

かたじけなく仰せられたりと御集に侍るこそあはれに候へ。誠にさる御心にも祝ひ申さむと思し召しけむ悲しさよ。この花山院は風流者にさへこそおはしましけれ。御家造らせ給へりしさまなどよ、寢殿、對、渡殿などはつくりあひ、ひはだふきあはすることもこの院のしいでさせ給へるなり。昔はべちべちにてあはひに樋かけてぞはべりし。內裏は今にさこそは侍るめれ。御車やどりには板敷を奧は高く端はさがりて大きなる妻戶をせさせ給へる故は、御車のさうず〈如元〉くをさながら立てさせ給ひて、おのづからとみの事の折にとりあへず戶おしひらかばからからと人の手ふれぬさきにさし出されむがれうと面しろく思し召したる事ぞかし。御調度どもなどのけうらさこそえもいはず侍りけれ。六の宮のたえいり給へりし御誦經にせられたりし御硯の箱見給へき。海賊に蓬萊山手長足長などこがねしてまかせ給へりしこそ、かばかりの箱の漆つき蒔繪のさまくちおかれたりしやうなどのいとめでたかりしなり。又木だちつくらせ給ひしをりは、「櫻の花はいうなるに枝ざしのこはごはしくて、もとのやうなどもにくし。梢ばかりを見るなむをかしきとて中門よりとに植ゑさせ給へる、何よりもいみじく思しめしよりたりと人は感じ申しき。又撫子の種をついぢの上にまかせ給へりければ思ひかけず四方にいろいろに唐錦をひきかけたるやうに咲きたりしなどを見給ひしはいかにめでたく侍りしかば、入道殿のくらべ馬せさせ給ひし日はむかへ申させ給ひけるに、渡りおはします日の御よそほひは更なりおろかなるべきにもあらねど、それにつけても誠に御車のさまこそ又世にたぐひなくさふらひしか。御くつに至るまで、唯人の見物になるばかりこそ後にはもてありくと承りしか。あて御繪遊ばしたりしさまにけうあり。さははしり車の輪には薄墨にぬらせ給ひて、大きさの程やなどしるしには墨をにほはせ給へりし、げにかくこそ書くべかりけれ。あまりにはしる車はいつかはくろさのほどやは見え侍る。又たかんなのはを男のおよびごとに入れて、めかゝうしてちごをおどせば、顏赤めてゆゝしうおぢたるかた、また德人、たよりなしの家の內の作法などかゝせ給へりしが、いづれもいづれもさぞありけむとのみあさましうこそ候ひしか。この中に御覽じたる人もやおはしますらむ。

     太政大臣兼通のおとゞ

これ九條殿の二郞君、堀川の攝政と聞えさせき。攝政し給ふこと六年、安和二年正月七日宰相にならせ給ふ。閏五月廿一日宮內卿とこそは申しゝか。天祿二年壬二月廿九日中納言にならせ給ひて、大納言をばへで、十一月廿七日內大臣にならせ給ふ。いとめでたかりしことなり。弟の東三條殿の中納言殿におはしましゝに、まだこの殿は宰相にて、いとからき事に思したりしに、かくならせ給ひし、めでたかりし事なりかし。天延二年正月七日從二位せさせ給ふ。二月廿八日に太政大臣にならせたまふ。やがて正二位せさせ給ひててぐるまゆるさせ給ひて、三月廿六日關白にならせ給ひにしぞかし。宰相にならせ給ひし年より六年といふにかくならせ給ひにき。天延三年正月七日一位せさせ給ひてき。貞元二年十一月八日うせさせ給ひにき。御年五十三。同二十日贈正一位の宣旨あり。後の御いみな忠義公と申しき。この殿かくめでたくおはします程よりは、ひまなくて大將にえなり給はざりしぞ口をしかりしや。それかやうならむためにこそあれ、さてもありぬべき事なり。たゞ思しめせかしな。御母のことなきは一條殿のおなじにや。圓融院の御母后、このおとゞの妹におはしますぞ。この后村上の御時、康保元年四月廿九日にうせ給ひにしぞかし。この后のいまだおはしましゝ時に、このおとゞいかゞおぼしけむ。「關白は次第のまゝにせさせ給へ」とかゝせ奉りて、とり給ひたりける御文をまもりのやうに首にかけて年頃もちたりけり。御おとゝの東三條殿は冷泉院の藏人頭にて、この殿よりも先に三位して中納言にもなり給ひにしに、この殿ははづかに宰相ばかりにておはせしかば、世の中すさまじがりて內にも常に參り給はねば、御門も疎くおぼしめしたり。その時に兄の一條攝政、天祿三年十月にうせ給ひぬるに、この御ふみを內にもてまゐり給ひて、御覽ぜさせむとおぼすほどに、うへ鬼の間におはします程なりけり。をりよしと思し召すに、御をぢたちの中に疎くおはします人なれば、うち御覽じて入らせ給ひき。さしよりて「奏すべきこと」と申し給へば、立ちかへらせ給へるに、この文をひきいでゝ參らせ給へれば、とりて御覽ずれば、紫のうすえふ一かさねに故宮の御手にて、「關白をば次第のまゝにせさせたまへ。ゆめゆめたがへさせ給ふな」とかゝせ給へる、御覽ずるまゝにいとあはれげに思し召したる御氣色にて、「故宮の御手よ」などおほせられ、御文をばとりて入らせ給ひけりとこそは。さてかくいで給へるとこそは聞え侍りしか。いと心かしこくおぼしける事にて、さるべき御宿世とは申しながら、圓融院けうやうの心深くおはしまして母宮の御遺言たるべしとて、なしたてまつらせ給へりける、いとあはれなる事なり。その時賴忠のおとゞ右にておはしましゝかば道理のまゝならばこのおとゞのし給ふべきにてありしに、この文にてかくありけるとこそは聞え侍りしか。東三條殿もこの堀川殿よりは上臈にておはしましゝかば、いみじう思し召しよりたる事ぞかし。御はてのなきは一條殿のおなじにや。この殿の御袴着に貞信公の御もとに參り給へるを、物にそへさせ給ふとて貫之のぬしにめしたりしかば奉られたりし歌ぞかし。

  「ことに出でゝ心のうちにしらるゝは神のすぢなはぬ〈ひイ〉けるなりけり」。

ひきいで物に事をせさせ給へるにや。御かたちいと淸げにきらゝかになどぞおはしましゝ。堀川院にすませ給ひし頃、臨時かくの日寢殿のすみの紅梅盛に咲きたるを、事はてゝうへ參らせ給ふまゝに花の下にたちよらせ給ひて、一枝おしをりて御かざしにさして、けしきばかりうちかなでさせ給へりし日などはいとこそめでたく見えさせ給ひしか。この殿にはごやにめすばうすの御さかなには唯今殺したる雉子をぞまゐらせおけるにもてまゐりあふべきならねば宵よりぞ設けておかれける。業遠のぬしのまだ六位にて始めてまゐらるゝ夜、御沓櫃のもとにゐられたりければ櫃の內に物のほとほとゝしけるが怪しさに、暗きまぎれなればやをら細目にあけて見給ひければ、雉子のをとりはかゞまりをるものか。人のいふことはまことなりけりとあさましくて、人のねにけるをりにやをらとりいでつ。ふところにさし入れて冷泉院の山にはなちたりしかば、ほろほろと飛びてこそいにしか。「事しえたりし心ちはいみじかりしものかな。それにぞ〈如元〉我はかう人なりけりとはおぼえしか」となむ語られける。殺生は殿ばらのみなせさせ給ふ事なれどこれはむげのむやく事なり。この殿の御むすめ式部卿の宮、元平のみこの御女の腹の姬君、圓融院の御時の女御に參り給ひて、天延元年七月十一日后にたゝせ給ひて堀川の中宮と申しき。みこうまれ給はずなりにき。天延二年六月二日うせ給ひにき。をさなくおはしましゝほどは、いかなりけるにか、例の御おやのやうに常に見奉りなどもし給はざりしかば、御心いとかしこく又御後見などこそは申しすゝめけめ。物詣いのりをいみじうせさせたまひけるとか。稻荷の坂にてもこの女ども見奉りけり。いと苦しげにて御うしろおしやりて、あふがれさせ給ひける御姿つき、指貫のこしきはなども、さはいへど多くの人よりはけだかく、なべてならずぞおはしましける。かやうに勤めさせ給ふつもりにややうやうおとなび給ふまゝに、これよりおとななる御娘もおはしまさねば、さりとも后に立て奉らであるべきならねばかく參らせ奉らせ給ひて、いとやんごとなくさぶらはせ給ひしぞかし。今一所の姬君、內侍のかみにならせ給へりし、今におはします。六條左大臣殿の御子の讃岐の守のうへにて坐するとかや。又太郞君の顯光と聞えし、堀川の左大臣と申す。長德二年丙申七月二十日右大臣にならせ給ひにき。御年七十三四にやおはしましけむ。治安元年五月廿五日ぞうせ給ひし。この五年ばかりにやなりぬらむ。惡靈の左のおほいどのと申し傳へたるいと心うき御名ぞかし。その故ども皆はかたり侍るべし。この北の方には村上の先帝の女御の宮ひろかたの御息所の御腹ぞかし。その御腹に男一人女二人ぞおはしましゝ。男君は重家の少將とて心ばへいうそくに世おぼえ重くてまじらひ給ひし程に、世に久しくおはしますまじかりければにや出家してうせ給ひにき。女君一所は一條院の御時の承きやう殿の女御とておはせしかど、院うせ給ひて後、末には爲平の式部卿の宮の御子源宰相賴定の君の北の方にて、あまたの君達うみつゞけておはすめり。そのほどの御事どもは皆人ししろしめしたらむかし。その宰相うせ給ひてしかば尼になりておはします。今一所は今の小一條院のまだ式部卿の宮と申しゝをり、聟にとり奉らせ給へりしほどに、東宮に立たせたまへりしをうれしき事に思しゝかど、院にならせ給ひにし後は高松殿のみくしげ殿渡らせ給ひて、御心ばかりは通はせ給ひながら通はせ給ふ事絕えにしかば、女御も父おとゞもいみじうおぼし歎きし程に、御病にもなりにけるにや、過ぎにしひつじの年の二月ばかりにうせ給ひにき。いみじきものになりて、父おとゞ具してこそしありき給ふなれ。院の女御には常に附き煩はせ給ふなり。その腹に宮達あまた所おはす。又堀川の攝政殿の御次郞兵部卿ありあきら、この親王の御女の腹の君、中宮の御ひと腹にはおはせず。これは又閑院左大將あさ光と申して、父おとゞのおはしましゝ折、このかみの大臣宰相にておはしける程はこの殿は中納言にておはしける、ひきこされ給ひけるぞめでたく。その頃などすべていみじかりし御世覺えにて、かたちも心もすぐれ給へり。御まじらひの程など殊の外にきらめき給ひき。やなぐひの水晶の筈もこの殿の思ひよりしいで給へるなり。なにごとの行幸に仕うまつり給へりしに、このやなぐひ負ひ給へりしは、朝日の光にかゞやきてさるめでたき事やは侍りし。今はめなれにたれば珍らしからず人も思ひて侍るぞ。何事につけても華やかにもていでさせ給へりし殿の、父どのうせ給ひにしかば、世の中おとろへなどして、御病もおもくて、大將も辭し給ひてしこそ口をしかりしか。さて唯藤大納言とぞ聞えさせし。和歌などこそいとかしこく遊ばしゝか。四十五にてうせ給ひにき。北の方には貞觀殿の內侍のかみの御腹のしげあきらの式部卿の宮の御中姬君ぞおはせしかし。その御腹に男君三人、女君のかがやくごとなるおはせし。花山院の御時に參らせ給ひて一月ばかりいみじう時めかせ給ひしを、いかにしてける事にかありけむ。まうのぼり給ふこともとゞまり御門も渡らせ給ふこと絕えて御文だに見え聞えずなりにしかば、一二月さぶらひわびてこそは出させ給ひにしか。又さあましかりし事やはありし。御かたちなどの世のつねならずをかしげにて、おぼし歎く見奉り給ふ父の大將御せうとの君だちいかゞはおぼしけむ。その御一つ腹の男君三所太郞君は今の藤中納言ともつねの卿におはすめり。人に重く思はれ給へり。二郞三郞君は馬の頭、少將などにて皆出家しつゝうせ給ひにき。この馬の入道の御をのこゞなり、今の右京の大夫は。この閑院の大將殿は後にはこの君達の母をばさりて批把の大納言延光の卿のうせ給ひにし後、その上の年老いてかたちなどわろくおはしけるにや、殊なる事聞え給はざりしをぞすみ給ひし。とくにつき給へるとぞ世の人申しゝ。さて世おぼえも劣り給ひにしぞかし。もとのうへ御かたちもいとうつくしく、人のほどもやんごとなくおはしましゝかど、不合におはすとて、かゝる今北の方をまうけて去り給ひにしぞかし。この今のうへの御もとには女房卅人ばかり裳唐衣きせて、えもいはずさうぞきてすゑならべて、しつらひありさまより始めてめでたくしたてゝかしづき聞ゆる事かぎりなし。大將ありきて歸り給ふをりは、冬は火おほらかにうづみて、たきものおほきにつくりて、ふせごうちおきて、けに着たまふ御ぞをば暖かにてぞ着せ奉りたまふ。すびつにしろがねのひさげ二十ばかりをすゑて。さまざまの藥をおき並べてまゐり給ふ。又寐たまふ疊のうはむしろに綿入れてぞしかせ奉らせ給ふ。寢給ふ時には大きなる熨斗もちたる女房三四人ばかりいできて、かのお殿籠るむしろをば暖二のしなでゝぞ寢させ奉り給ふ。あまりなる御用意なりしかば大方のしつらひありさま、女房のさうぞくなどはめでたけれども、この北の方はねり色のきぬの綿厚きふたつばかりに、白袴うちきてぞおはしける。年四十よばかりなる人の、大將にはおやばかりぞおはしける。色黑くて額に花がたうちつきて、髮ちゞけたるにぞおはしける。御かたちのほどを思ひしりて、さまにあひたるさうぞくとおぼしけるにや。誠にその御さうぞくこそかたちにあひて見えけれ。さばかりの人の北の方と申すべくも見えざりけれど、もとの北の方重明の式部卿の宮の姬宮、貞觀殿の內侍のみの御腹、やんごとなき人と申しながら、かたち有樣めでたくおはしけるに、かゝる人に思しうつりてさり奉らせ給ひけむほど思ひはべる、たゞとくのありてかくもてかしづき聞ゆるに思ひのおはしけるにや。やんごとなき人だにこそかくはおはしけれ。あはれ翁らが心にだに、いみじき寳をふらしてあつかはむといふ人ありとも、年ごろの女どもをうち捨てゝまからむは、いとをかしかりぬべきに、さばかりにやんごとなくおはします人は不合におはすといふとも、翁らがやどりのやうに侍らむやは。この今の北の方、ことに世の人にも輕く思はれ、世おぼえも劣り給ふらし。いと口をしきことに侍るや。さばかりの事おぼしわかぬやう侍るべしや。あやしの翁らが心に劣らせ給はむやはと思ひ給ふれど、口をしく思ひ給ふることなりしかば申すぞや」」とてほゝゑむ氣色はづかしげなり。「さばかりの人だにかくおはしましければ、それより次々の人のいかなるふるまひもせむ、ことわりなりや。翁らが心ちの年頃あやしのやどりに、わりなき世を念じすごして侍りつるこそ有難く覺え侍りつれ。心よくうちすみたりし顏氣色こそいとをかしかりしか。さて時々もとの上の御もとへ坐しまさむとて、牛かひ車ぞひなどに、「そなたへ車をやれ」と仰せられけれど更に聞かざりけり。この今の北の方、侍、雜色、隨身、車ぞひなどにさうぞくものとらする事はさるものにて、日每に酒をいだして飮ませ遊せ、いみじき志どもをしける、そのけにやかくしけるを、それ又いと怪しき御心なりや。雜色牛かひの心にまかせて、それによりてえおはしまさゞりけむよ。さることやは侍るな。さばこの大將は御心ばへもかたちも人にすぐれてめでたくおはせし人なり。堀川殿の御子大藏卿正光ときこえしが御娘、源帥殿の御中の君の御腹ぞかし、今の皇太后宮のみくしげ殿とてさぶらひたまふ。唯今の左兵衞督の北の方、又かんづけのさきのかみ兼定の君ぞかし、まことや北面の中納言とかや世に人の申しゝは。時光の卿それ又右京のかみにておはせし。この右京のかみの御子ぞかし、今の仁和寺の別當律師尋淸君。堀川殿の御すゑかばかりか。このおとゞすべてひざうの御心ぞおはしましゝ。かばかり末絕えずさかえおはしましける東三條殿をゆゑなきことにより御つかさ位をとり奉り給へりし、いかに惡事なりしかば、天道も安からずおぼしめしけむを、その折の御門圓融院にぞおはしましゝ。東三條殿、かゝるなげきのよしを長歌によみて奉り給へりしかば、御門の御かへり、「いなふねの」とこそ仰せられければ、しばしばかりをおぼし歎きしぞかし。堀川殿はては我うせ給はむとては關白をば御いとこの賴忠のおとゞに讓り給ひしこそ世ひといみじきひが事と誹り申しゝか」」。このむかひをる侍のいふやう「「東三條殿のつかさなどとり奉らせ給ひしほどの事はことわりとこそ承りしか。おのれがおほぢおやはかの殿の年頃のものにて侍りしかば、こまかにうけたまはりしは、この殿たちのあにおとゞの御中、年頃のつかさ位のおとりまさりの程に御中あしくて過ぎさせ給ひしあひだに、堀川殿病重くならせ給ひて、今はかぎりにておはしましゝ程に、ひんがしの方にさきおふ音のすれば御まへにさふらふ人だち「たれぞ」などいふ程に、「東三條の大將殿參らせ給ふ」と人の申しければ、殿聞かせ給ひて「年ごろなからひよからずして過ぎつるに、今はかぎりになりたると聞きてとぶらひにおはするにこそは」とてお前なるくるしきものとりやり、おとのごもりたる所引きつくろひなどして、入れ奉らむとて待ち給ふに「早く過ぎて內へまゐらせ給ひぬ」と人の申すに、いとあさましく心うくて、お前に侍ふ人々もをこがましく思ふらむ。「おはしたらば關白など讓ることなど申さむとこそ思ひつるに、かゝればこそ年頃中らひよからで過ぎつれ。あさましく安からぬ事なり」とて、かぎりのさまにてふし給へる人の「かきおこせ」とのたまへば、人々あやしと思ふほどに「車にさうぞくせよ。御前もよほせ」と仰せらるれば、物のつかせ給へるか、うつし心はなくて仰せらるゝかと怪しく見奉るほどに、御かぶり召しよせてさうぞくなどせさせ給ひて內へ參らせ給ひて、陣のうちは君だちにかゝりて、瀧口の陣の方より御前へ參らせ給ひて、こうめいちのざうしのもとにさし出でさせ給へるに、日の御座に東三條の大將御前に侍ひ給ふ程なりけり。この大將殿は堀川殿既にうせさせ給ひぬと聞かせ給ひて、內に關白の事申さむと思ひ給ひて、この殿の門を通りて參りて申し奉るほどに、堀川殿のめをつゞらかにさしいで給へるに、御門も大將もいとあさましくおぼしめす。大將はうち見るまゝに立ちて鬼のまのかたにおはしぬ。關白殿御まへについゐ給ひて、御けしきいとあしくて、「最後の除目おこなひに參り給へるなり」とて、藏人頭召して、關白には賴忠のおとゞ、東三條殿おとゞをとりて小一條のなりときの中納言を大將になし聞ゆる宣旨下して、東三條殿をば治部卿になしきこえて出でさせ給ひて、程なくうせ給ひしぞかし。心いぢにておはせし殿にて、さばかりかぎりにおはせしに、ねたさに內に參りて申させ給ひしほど、こと人すべてもなかりし事ぞかし。されば東三條殿つかさどり給ふ事も、ひたぶるに堀川殿のひざうの御心にも侍らず。事のゆゑはかくなり。關白は次第のまゝにといふ御文思しめしより、御いもうとの宮に申してとり給へるも、最後におぼす事どもしてうせ給へるほども思ひ侍るに心强くかしこくおはしましける殿なり」」。〈この堀川の攝政の御末おひさらずこそあれいみじうしどけなかりけることかな。〉

     太政大臣爲光のおとゞ

「「これ九條殿の御九郞君、大臣の位にて七年、法住寺のおとゞと聞えさす。正曆三年六月十六日にうせ給ひにき。御年五十一。後の御いみな恆德公と申しき。御子をとこ七人、女君五人おはしき。女二所はすけまさの兵部卿の御いもうとの腹、今三所は一條攝政の御むすめの腹におはします。男君たちの御母、皆あかれあかれにおはしましき。女君一所は花山院の御時の女御、いみじう時におはせし程に、御子はらませ給ひて八月にてうせ給ひにき。今一所は入道中納言の北の方にてうせ給ひにき。男君太郞は左衞門督さねのぶときこえさせし、三十八にて惡心起してうせ給ひにしありさまは、いとあさましかりし事ぞかし。人に越えられからいめ見ることは、さのみこそおはしあるわざなるを、さるべきにこそはありけめ。同じ宰相納言におはすれ〈なイ〉ど弟には人がら世おぼえの劣り給へればにや、大納言あくきはに我もなられなむとおぼして、わざとたいめし給ひて、「この度の大納言のぞみ申し給ふな。こゝに申し侍るべきなり」ときこえ給ひければ、「いかでか殿の御前にはまかりなり侍らむ。ましてかく仰せられけむにはあるべき事ならず」と申し給ひければ、御心ゆきて、しかおぼして、いみじう申し給ふに及ばぬほどにやおはしけむ。入道殿このおとゞに、「そこは申されぬか」とのたまはせければ、「左衞門督の申さるればいかゞは」としぶしぶげに申し給ひけるに、「かの左衞門督はえならじ。又そこにさらずばこと人こそはなるべかめれ」とのたまはせければ、「かの左衞門督まかりなるまじくばよしなし。たふべきなり」と申し給へば、又かくあらむ、こと人はいかでかとてなりたまひにしを、いかに我にむかひてあるまじきよしをいひてはかりけるぞとおぼすに、いとゞ惡心おこして、ぢもくのあしたより手をつよくにぎりて、「我はたゞのぶ道長にはまれぬるぞ」といひいりて、物もつゆ參らずうつぶしうつぶし給へる程に、病づきて、七日といふにうせ給ひしに、握り給ひたりけるおよびはあまりつよくてうへにこそ通りていで給へりけれ。いみじき上戶にてぞおはせし。故中の關白殿の一とせの臨時客に、あまりゑひて御座に居ながら立ちもあへ給はで、物つき給へるにこそかう名のも〈ひ歟〉ろたかゞ書きたる樂府の御屛風にかゝりてそこなはれたなれ。この大納言になり給へるは今の中宮大夫たゞのぶの卿いと世覺えあり、よき人にておはしき。又權中將道信の君、いみじき和歌の上手にて心にくきものにいはれ給ひし程にうせ給ひにき。又唯今の左衞門督きんのぶの卿、法住寺の僧都の君、あざりの君おはす。又一條攝政殿の御むすめの腹の女君だち、三四五の御方おはします。三の御方は鷹司殿のうへとて尼になりておはします。四の御方は今の入道殿の俗におはしましゝ折の御子うみてうせたまひにき。五の君は今の皇后宮にさぶらはせ給ふ。このおとゞの御ありさまかくなり。たゞし法住寺をぞいといかめしうおきてさせ給へる、攝政關白せさせ給はぬ人の御しわざにてはいとまうなりし。このおとゞいとやんごとなくおはしましゝかど御末ほそくぞ。

     太政大臣公季

このおとゞたゞいまの閑院のおとゞにおはします。これ九條殿の十一郞、御母宮腹におはします。御子の女をぞ北の方にてはおはしましゝ。その御はらに女君一ところ、男君二ところ。女君は一條院の御時の弘徽殿の女御、いまにおはします。男一人は三昧僧都如源と申しゝうせたまひにき。今ひとところの男君は唯今の右衞門督さねなりの卿にぞおはする。この殿の御子、播磨守陳政の御むすめのはらに女君二ところ男一人おはします。大姬君は今の中宮の權太夫殿の御北の方、今一ところ源大納言俊賢の卿。これ民部卿と聞ゆ。其御子の唯今の頭中將顯基の君の御北の方にてぞおはすめる。男君をば御おほぢの太政大臣殿、我が御子にしたてまつり給ひて公成とつけ奉らせ給へるなり。藏人頭にて、いとおぼえことにておはする君になむ。この太政大臣殿の御ありさまかくなり。御門后立たせ給はず。このおほきおほとのゝ御母うへは延喜の御門の御女、女四宮と聞えさせき。延喜いみじくときめかせおもひたてまつらせたまへりき。御裳着の屛風に公忠の辨、「ゆきやらで」とよむはこのみこの宮のなり。つらゆきなどあまたよみて侍りしかども、人にとりて勝れのゝしり給ひし歌よ。朱雀院、村上二代のみかどのひとつ御腹のいもうとにおはします。さて內ずみしてかしづかれおはしましゝを、九條殿の女房をかたらひて、みそかに參らせ給へりしぞかし。世の人びなきことに申しゝ、村上のすめらぎも安からぬ事に思し召しおはしましけれど、色にいでゝ咎め仰せられざりにしも、この九條殿の御おぼえのかぎりなきによりてなり。さて又人々うちさゝめき、うへにも聞し召さぬ程に、雨おどろおどろしくふり神なりひらめきし日、この宮うちにおはしますに、「殿上の人々四の宮の御方に參れ。恐しく思し召すらむ」と仰ごとあれば誰もまゐり給ふに、小野宮のおとゞぞかし、「まゐらせしはおまへのきたなきに」とつぶやき給ふは。後にこそみかど思し召しあはせけめ。さて殿にまかでさせ奉りて、思ひかしづき奉らせ給ふといへば、さらなりや。さる程にこの太政大臣をはらみ奉り給ひて、いみじう物の心ぼそく覺えさせ給ひければ、「まろは更にあるまじき心ちなむする。よし見たまへよ」と男君に常にきこえさせ給うければ、「まことにさもおはしますものならば、片時もおくれ申すべきならず。もし心にあらずながらへさぶらはゞ、出家し必ず侍りなむ。又ふたつこと人見るといふ事はあるべきにも侍らず。天がけりても御覽ぜよ」と申させ給ひける。法師にならせ給はむことはあるまじとや思し召しけむ。ちひさき御唐櫃一よろひに片つかたは御ゑぼうし今かたつ方にはしたうづを一からびつづゝ御手づからつふとぬひいれさせ給ひけるを殿はさも知らせ給はざりけり。さて遂にうせさせ給ひにしは。さればこの太政大臣は生れさせ給へる日をやがて御忌日にておはしますなり。かのぬひおかせ給ひし御ゑぼうし、御したうづ御覽ずる度ごとには九條殿しほたれさせ給はぬをりなし。まことにその後はひとりずみにてぞやませ給ひにし。このうみおき奉らせ給へりし太政大臣殿をば御姉の中宮更なり、世のつねならぬ御ぞう思ひにおはしませば、やがて養ひ奉らせ給ふ。內にのみおはしまして、御門もいみじうらうたきものにせさせ給へば、常には御前にさぶらはせ給ふ。何事も宮達の御同じやうにかしづきもてなし申させ給ふに、御物めす御臺のたけばかりをぞ一寸おとさせ給ひけるをけぢめにしるき事にはせさせ給ひける。昔はみこたちにもをさなくおはします程は內ずみせさせ給ふ事なかりけるに、この若君のかくてさぶらはせ給へば、あるまじき事とそしり申せど、かくておひたゝせ給へれば、なべての殿上人などになずらはせ給ふべきならねど、若うおはしませばおのづから御たはぶれなどの程にも並々にふるまはせ給ひしなれば、圓融院の御門同じほどのをのこどもと思ふにや、「かゝらであらばや」などぞうめかせ給ひける。かゝる程に御年積らせ給ひて、又御うまごの頭中將公成の君をことの外にかなしがり給ひて、內にも御車のしりに具せさせ給はぬかぎりはまゐらせたまはず。さるべき事のをりもこの君遲くまかりいで給へば、ゆば殿に御さきばかり參らせ給ひてぞ待ち立たせ給へれば、見奉り給ふ人「などかくてはたゝせ給へる」と申させたまへば、「いでまかり侍るなり」とぞおほせられける。無量壽院の金堂供養に東宮行啓ある御車に侍はせたまひて、「ひとみち公成おぼしめせよおぼしめせよ」とおなじ事を啓せさせ給ひける、「あはれなるものから、をかしくなむありし」とこそ宮おほせられけれ。繁樹がめひのむすめの中務のめのとのものに侍るがまうで來て語り侍りしなり。頭中將顯基の君の御若君おはすとかや。御いかをば四條に渡しきこえて、太政大臣殿こそくゝめさせ給ひけれ。御おほぢの右衞門督ぞ抱き聞えたまへるにこの若君のなき給へば、「例はかくもむづからぬに、いかなればかゝらむ」と右衞門督たちゐ慰め聞え給ひければ、「おのづからちごはさこそはあれ、ましもさぞありし」と太政大臣殿のたまはせけるにこそさるべき人々參り給へりける皆ほゝゑみ給ひにけれ。中にも四位少將隆國の君は常に思ひ出でゝぞ今にわらひ給ふなる。かやうにあまりに古代にぞおはしますべき。むかしの御童名は宮を君とこそは申しゝか。

     太政大臣兼家のおとゞ

これ九條殿の三郞君、東三條のおとゞにおはします。御母一條攝政におなじ。冷泉院圓融院の御をぢ、一條院三條院の御おほぢ、東三條女院贈皇后宮の御父。公卿にて二十年、大臣の位にて十二年、世をしらせ給ふ事榮えて五年ぞおはします。正曆元年七月二日うせさせ給ひにき。御年六十二。出家せさせ給ひてしかば後の御いみななし。內に參らせ給ふにはさらなり、牛車にて北の陣まで入らせ給へば、それより內は何ばかりのほどならねど、紐解きて入らせ給ふとぞ。されどそれはさてもありなむ。すまひのをり東宮のおはしませば二所のぎよ前に何をもおしやりて御汗とりばかりにてさぶらはせ給ひけるこそ世にたぐひなくやんごとなき事なれ。末には北の方もおはしまさゞりければ男ずみにて、東三條殿の西の對を淸凉殿づくりに御しつらひより始めてすませ給ふなどをぞ、あまりなる事に人申すめりし。なほたゞ人にならせ給ひぬれば、御果報の及ばせ給はぬにや、さやうの御みもちに久しくは保たせ給はぬとも定め申すめりき。そのほどは夢ときもかんなぎも、かしこきものどもの侍りしぞとよ。堀川の攝政のはやり給ひし時に、この東三條殿は御つかさどもとゞめられさせ給ひて、いとからくおはしましゝ時に、人の夢に、かの堀川院より矢をいと多くひんがしざまに射るをいかなるぞと見れば、東三條殿に皆落ちぬと見えけり。よからず思ひ聞えさせ給へる方より矢おはせ給ふはあしき事あらむと思ひて殿にも申しければ、恐れ給ひて夢ときに問はせ給ひければ、「いみじうよき御夢なり。世の中のこの殿にうつりて、あの殿の人のさながら參るべきが見えたるなり」と申しけるが、あてざらざりしことかは。又その頃よきかんなぎ侍りき。賀茂の若宮のつかせ給ふとてふしてのみ物を申しゝかば、うちふしのみことぞ世ひとつけて侍りし。大入道殿召して物問はせ給ひけるに、いとかしこく申しければ、さしあたりたること、過ぎにしかたとは皆さいふことなれば、しか思し召しけるに、かなはせ給ふ事どものいでくるまゝには、後々には御さうぞくたてまつり御かうぶりせさせ給ひて御膝に枕せさせてぞものは問はせ給ひける。それに一事として後々の事申しあやまたざりけり。さやうに近く召しよするに、いふかひなき程のものにもあらで、少しおもと程のきはにてぞありける。この殿法興院におはしますことをぞ心よからぬ所と人はうけ申さゞりしかど、いみじう興ぜさせ給ひて聞きもいれで渡らせ給ひて程なくうせおはしましにき。御物忌の折渡らせ給はむとて、おはしましてはいかゞあると御うらをせさせおはしまして、そのたびほこ院にて御病づきてうせさせ給へるぞかし。みまやの馬に御ずゐじは乘せて粟田口へ遣はしたるが、「あらはにはるばると見ゆる」などをかしき事に仰せられて、月のあかき夜はげかうしもせでながめさせけるに、目に見えぬものゝはらはらとまゐりわたしたりければ、さぶらふ人々はおぢさわげど、殿はつゆおどろかせ給はで、御枕がみなる太刀をひき拔かせ給ひて、「月見るとて上げたる格子をおろすは何物のするぞ。いとびんなし。もとのやうに上げわたせ。さらずばあしかりなむ」とおほせられければ、やがてまゐりわたしなど大方おちゐぬ事ども侍りけり。さて遂に殿ばらの御領にもならで、かく御堂にはなさせ給へるなめり。このおとゞの御君達、女君四ところ、男君五人おはしましき。女二ところ男三ところは攝津守藤原中正のぬしの御むすめの腹におはします。三條院の御母の贈皇后宮と女院大臣三人ぞかし。この御母いかにおぼしけるにか、いまだ若うおはしけるをり、二條の大路に出でゝゆふけとひ給ひければ、しらいがいみじくしろき女のたゞ一人ゆくがたちとゞまりて、「何わざしたまふ人ぞ。もしゆふけとひ給ふか。何事なりともおぼさむことかなひて、この大路よりも廣く長くとも榮えさせ給へよ」とうち申しかけてこそまかりにけれ。人にあらで、さるべきものゝしめし奉りけるにこそ侍りけめ。女君一人は女院の后の宮にておはしましゝ折の宣旨にておはしき。又對の御方と聞えし御腹のむすめ、おとゞいみじう悲しうし聞えさせ給ひて、十一におはせし折、內侍のかみになし奉らせ給ひて內ずみせさせ奉らせ給ひし。御かたちいとうつくしうて、御ぐしも十一十二のほどに絲をよりかけたるやうにて、いとめでたくおはしませば、ことわりとて三條院の東宮にて御元服せさせ給ふ夜の御そひぶしに參らせ給ひて、三條院もにくからぬものに思し召したりき。夏いと暑き日わたらせ給へるに、御前なるひをとらせ給ひて、「これしばしもち給ひたれ。まろをおもひ給はゞ今はといはざらむ限は置き給ふな」とてもたせ聞えさせ給ひて御覽じければ、まことにかたの黑むまでこそ持ち給ひたりけれ。「さりともしばしぞあらむとおぼしゝに、あはれさ過ぎてうとましくこそ覺えしか」とこそ院は仰せられけれ。あやしき事は、源宰相賴定の君通ひ給ふと世に聞えて、さとに出で給ひにきかし。たゞならずおはすとさへ三條院聞かせ給ひて、この入道殿に「さることのあなるはまことにやあらむ」と仰せられければ、「まかりて見て參り侍らむ」とておはしたりければ、例ならず怪しくおぼして凡帳ひきよせ給ひけるを、押しやらせ給へれば、もと華やかなるかたちにいみじうけさうし給へれば常よりもうつくしう見えたまふ。春宮に參りたりつるに、「しかじか仰せられつれば見奉りに參りつるなり。空言にもおはせむに、しか聞しめされ給はむがいとふびんなれば」とて御胸をひきあけさせ給ひて、ちをひねり給へりければ御顏にさらと走りかゝるものか。ともかくものたまはせでやがて立たせ給ひぬ。東宮に參らせ給ひて、「まことに候ひける」とて、したまひつるありさまを啓せさせ給へれば、さすがにもと心苦しう思し召しならせ給へる御中なればにや、いとほしげにこそ思し召しけれ。內侍のかみは殿かへらせ給ひてのちに人やりならぬ御心づからいみじう泣き給ひけりとぞそのをり見奉りたる人かたり侍りし。東宮にさぶらひ給ひしほども宰相は通ひまゐり給ふこと、あまりこといでゝこそは宮もきこしめして「たちはきどもして蹴させやせましと思ひしかど、故おとゞの事をなきあとにもいかゞといとほしかりしかばさもせざりし」とぞ仰せられける。この御あやまちより、源宰相、三條院の御時は殿上もしたまはで地下の上達部にておはせしに、この御時にこそは殿上し、檢非違使の別當などになりてうせ給ひにしか。今ひとつの御腹のおほい君は冷泉院の女御にて、三條院、彈正宮、帥宮の御母にて、三條院位に即かせおはしましゝかば贈皇后宮と申しき。かの三人の宮たちをおほぢ殿殊の外にかなしう申させ給ひき。世の中にすこしの事もいでき、かみもなりなゐもふるときは、まづ東宮の御方に參らせ給ひて、をぢの殿ばらそれならぬ人々などを、「うちの御方にはまゐれ。この御方には我侍はむ」とぞ仰せられける。雲形といふ高名の御帶は三條院にこそは奉らせたまへれ。かこの裏に「東宮にたてまつる」と刀のさきして自筆にかゝせ給るなり。この頃は一品の宮にとこそうけ給はれ。この東宮の御おとゞの宮たちは少し輕々にぞおはしましゝ。師の宮のまつりのかへさ、和泉式部とあひのらせ給ひて御覽ぜしさまもいとけうありきやな。御車の口のすだれを中よりきらせ給ひて、我が御方をば高う上げさせ給ひ、式部のかたをばおろして、きぬながら出させて、くれなゐの袴に赤き色紙のものいみひろきつけて土とひとしう下げられたりしかば、いかにぞ物見よりはそれをこそ人見るめりしか。彈正の宮のわらはにおはしましゝ時の御かたちの美くしげさははかりもしらず、輝くとこそは見えさせ給ひしに、御元服おとりの殊の外にせさせ給ひにしをや。この宮達は御心の少し輕くおはしますこそ一家の殿ばらうけ申させ給はざりしかど、さるべき事の折などはいみじうもてかしづき申させ給ひし。帥の宮、一條院の御時の御作文に參らせ給ひしなどには御前などさるべき人多くて、いとこそめでたうて參らせ給ふめりしか。御前にて御したうづのいたうせめさせ給ひけるに、御心もたがひていと堪へ難うおはしましければ、この入道殿にかくと聞え申させ給ひて、鬼のまにおはしまして御したうづをひきぬぎ奉せせ給へりければこそ御心ちなほらせ給へりけれ。贈皇后宮の御一つ腹の今一所の姬君は圓融院の御時、梅壺の女御と申して、一のみこ生れ給へりき。そのみ子五つにて東宮に立たせ給ひ、七つにて位に即かせ給ひにしかば、御母女御殿、寬和二年ひのえいぬ七月五日后にたゝせ給ひて、中宮と申しき。この御門を一條院と申しき。その母后入道せさせ給ひて、太上天皇とひとしき位にて女院ときこえさせき。一天下をあるまゝにしておはしましゝ。この父おとゞの太郞の君、女院の御ひとつ腹の道隆のおとゞ、內大臣にて關白せさせ給ひき。次郞君は陸奧守倫寧ぬしの女の腹におはせし君なり。道綱ときこえさせて大納言までなりて右大將かけ給へりき。この母君極めたる和歌の上手におはしければ、この東三條殿の我が方に通はせ給ひけるほどの事、歌など書きあつめて、かげろふの日記となづけて世にひろめ給へり。殿のおはしましたりけるに、門をおそくあけゝれば、度々御せうそこいひいれさせたまふに、女君、

  「歎きつゝひとりぬる夜のあくるまはいかにひさしきものとかはしる」。

いと興ありとおぼしめして、

  「げにやげに冬の夜ながらまきの戶もおそく明くるはくるしかりけり」。

さればその御腹の君ぞかし。この道綱卿後には東宮の傅になり給ひて、ふの殿とぞ申すめりし。いとあつしくて大將をも辭し給ひてき。その殿今の入道殿の北政所の御はらからをすみ奉り給ひてうまれ給へりし君、宰相中將兼經の君よ。道命阿闍梨、極めたる和歌の上手におはしける。父大納言殿は寬仁四年十月十三日に出家、同十六日にうせ給ひにき。御年六十六とぞ聞き奉りし。大入道殿の御三郞は栗田殿、又四郞は堀川の治部少輔の君とて、世のしれものにて交らひもせで止み給ひぬとぞ聞き侍りし。五郞君は唯今の入道殿におはします。女院の御母北の方の御腹の君達三所の御ありさま申し侍らむ。昭宣公の御君達三平とは聞えさすめりしに、この三所をば三道とや世の人申しけむ。えこそうけたまはらずなりしか」」とてほゝゑむ。


大鏡卷之六

   中關白內大臣道隆

   粟田關白右大臣道兼

     東二條殿息

     內大臣道隆〈正曆六年三月日依病辭關白。四月六日出家。十月薨。四十二。〉

「「このおとゞ、これ東三條のおとゞの一男なり。御母は女院の御同じ腹なり。關白になり榮え給ひて六年ばかりや坐しましけむ、大疫癘の年にてうせさせ給ひしか。されどもその御病にはあらで御みきのみだれさせ給ひにしなり。をのこは上戶ひとつの興の事にすれど、過ぎぬるはいと不便なる折侍りや。祭のかへさ御覽ずとて、小一條大將、閑院大將と一つ御車にて紫野に出させ給ひぬ。鳥のついゐたるかたをかめに作らせ給ひて、興あるものにおぼして、ともすれば大みき入れてめす。今日もそれにて參らする。もてはやさせ給ふ程に、あまりやうやう過ぎさせ給ひて後は、御車のしりぐちのすだれ皆上げて、三所ながら御もとゞりはなちておはしましけるは、いとこそ見苦しかりけれ。大方この大將殿達の參り給へる、尋常にて出で給ふをばいとほいなく口惜しき事におぼしめしたりけり。ものもおぼえず御裝束もひきみだりて御車さしよせつゝ、人にかゝりて乘り給ふをぞいと興あることにせさせ給ひける。但この殿の御醉のほどよりは疾くさむることをぞせさせ給ひし。御賀茂詣の日は社頭にて三度の御かはらけ定りにてまゐらするわざなるを、その御時には禰宜神主も心えて、大かはらけををぞまゐらせしに、三度はさらなることにて七八度などめして、上社に參り給ふ道にては、やがてのけざまにしりの方を御枕にて不覺におほとのごもりぬ。一の大納言にてはこの御堂ぞおはしましゝかば、御覽ずるに、夜に入りぬれば御前の松の光にとほりて御覽ずるに、御すき影のおはしまさぬは怪しと思し召しけるに、參りつかせ給ひて御車かきおろしたれど、えしらせ給はず。いかにと思へど、御前どもゝえおどろかし申さで唯侍ふなめるに、入道殿おりさせ給へるに、さてあるべき事ならねばながえのとながら高やかに「やゝ」と御扇をならしなどせさせ給へど、おどろき給はねば、ゐよりてうへの御袴の裾を荒らかにひかせ給ふをりぞ、おどろかせ給ひて、さる御用意はならはせ給へれば、御櫛筓ぐし給へりける、とりいでゝつくろひなどしておりさせ給ひけるに、いさゝかさりげなく淸げにおはしましければ、さばかり醉ひなむ人の、その夜は起きあがるべきかは。それぞこの殿の御上戶はよくおはしましける。その御心のなほをはりまでも忘れ給はざりけるにや、御病つきてうせ給ひけるとき、西にかきむけ奉りて、「念佛申させたまへ」と人々のすゝめ奉りければ、「濟時朝光などもや極樂にはあらむずらむ」と仰せられけるこそあはれなれ。つねに御心にならひおぼしたることなれば、あの地獄の鼎のふたにかしらうちあてゝ、三寳の御名思ひ出でけむ人のやうなることなりや。御興のいとけそうにおはしましゝぞや。帥殿に天下執行の宣旨下し奉りに、この民部卿殿の頭辨にて參り給へりけるに、御病いたうせめて御裝束もえ奉らざりければ、御直衣にて御簾のとにゐざり出させ給ひしにも長押をおりわづらはせ給ひて、女裝束御手にとりて、かたのやうにかづけさせ給ひしなむいとあはれなりし。「こと人のいとさばかりなりたらむはことやうなるべきを、なほいとかはらかにあてにおはせしかば、病つきてしもこそ貌はいるべかりけれとなむ見えし」とこそ民部卿殿はつねにのたまふなれ。その關白殿は腹々に男子女子あまたおはしましき。今北の方は大和守高階成忠のぬしの御女なり。後の世は高二位とこそいひ侍りしか。さて積善寺の供養の日、この入道殿のかみに侍りしはいとめづらかなりしわざかな。その腹に男君三所、女君四所おはしましき。大姬君は一條院の十一にて御元服せさせ給ひしに、十五にてや參らせ給ひけむ。やがてその年の六月一日に后にたゝせ給ふ。中宮と申しき。さて關白殿などうせさせ給ひて後に、男みこ一人、女みこ二人うみ奉らせ給へりき。女宮は入道殿の一品宮とて三條におはします。女二宮は九歲にてうせさせ給ひにき。男親王式部卿の宮敦康親王とこそ申しゝか。たびたび御思ひたがひて、世の中をおぼし歎きてうせ給ひにき。御年廿九にてあさましうてやませ給ひにしかな。冷泉院の宮達などのやうに輕々におはしまさましかば、いとほしさもよろしうや世の人おもひ申さまし。御ざえいとかしこく、御心ばへもいとめでたくぞおはしましゝ。さてこの宮の御母后の弟中の御方は三條院の東宮と申しゝをりの淑景舍とて、華やかせ給ひしも、父殿うせさせ給ひし後御年廿二三ばかりにてうせさせ給ひにき。三の御方は冷泉院の四のみこ帥の宮と申しゝをこそは父殿聟どり奉らせ給へりしも、後々はやがて御中絕えにしかば、末の世は一條わたりいと怪しくておはするとぞ聞え給へりし。まことにや御心ばへなどのいとおちゐずおはしましければ、かたへは宮も疎み聞え給へりけるとかや。僧まらうどなどの參りたる折は、御簾をいと高やかにおしやりて御懷をひろげて立ち給へりければ、宮は御面うち赤めてなむおはしましける。さむらふ人も面の色たがふ心ちして、うつぶしてなむ、立たむもはしたにすぢなかりける。宮のちには「見かへりたりしまゝにうごきもせられず、物こそ覺えざりし」とこそ仰せられけれ。又學生ども召しあつめて作文しあそばせ給ひけるに、こがねを二三十兩ばかり屛風のかみより投げ出して人々うち給ひければ、ふさはしからずにくしとは思はれけれど、その座にて饗應し申してとりあらそひけり。「金賜はりたるはよけれども、さも見苦しかりしものかな」とこそ今に申さるなれ。人々文作りて講じなどするにも、よしあしいと高やかに定め給ふ折もありけり。二位の新發の御流にて、この御ぞうは女もみなざえのおはしましたるなり。母うへは高內侍ぞかし。されど殿上せられざりしかば、行幸節會などには南殿にぞまゐられし。それはまことしきもんざにて、御前の作文には文奉られしはとよ、少々のをのこにはまさりてこそ聞え侍りしか。さやうのをり召しけるにも、大盤所の方よりは參り給はで、弘徽殿の上の御局の方より通りて、二間になむ侍ひ給ひけるとこそ承りしか。古體に侍るにや。女のあまりざえかしこきはものあしと人の申すなるに、この內侍後にはいといみじう墮落せられにしも、そのけとこそ覺え侍りしか。さてその宮の上のさしつぎの四の御方は、みくしげどのと申しゝ、御かたちいと美くしうて、式部卿の宮の母しろにておはしましゝも早ううせ給ひにき。一つ腹の女君達かくなり。對の御方と聞えさせし人の御腹にも女君おはしけるは今の皇太后宮にこそはさぶらひ給ふなれ。またも聞え給ひし男君達は太郞君、故伊豫守守仁のぬしの女のはらにてかし。大千與君それは祖父おとゞの御子にし奉り給ひて道賴六郞君とこそは申しゝか。大納言までなり給へりき。父の關白殿うせ絡ひし年の六月十一日にうち續きうせ給ひにき。御年廿五とぞ聞えさせ給ひし。御かたちいと淸げに、あまりあたらしきさまして物よりぬけ出でたるやうにぞおはせし。御心ばへこそこと御はらからにも似給はね、いとよく又ざれをかしくもおはせし。この殿はことはらにおはす。皇后宮とおなじ腹の君、法師にて十あまりのほどに僧都になし奉り給へりし、それも三十六にてうせ給ひにき。今一所は小千與君とて後ほかばらの大千與君にはこよなくひきこし、廿一におはせし時に內大臣になし奉り給ひて、我うせ給ひし年、長德元年の事なり、御病重くなるきはに內へ參り給ひて、おのれかくまかりなりて候ふ程、この內大臣伊周のおとゞに百官幷に天下執行の宜旨給ふべきよし申し下さしめ給ひて、我が出家せさせ給ひてしかば、この內大臣殿を關白殿とて世の人集り參りし程に、粟田殿に渡りにしかば、手にすゑたる鷹をそらいたらむやうにて歎かせ給ふ。一家にいみじき事におぼしみだれしほどに、そのうつりつる方も夢の如くにてうせ給ひにしかば、今の入道殿、その年の五月十一日よりして世をしろしめしゝかば、かの殿いとゞ無得におはしましゝ程に、又の年花山院の御事出できて、御官位とられて、唯太宰の權帥になりて長德二年四月廿四日にこそは下り給ひしかは。御年二十三。いかばかり哀に悲しかりしことなりな。されどげに必ずかやうの事、我がをこたりて流され給ふべくもあらず。よろづの事身に餘りぬる人のもろこしにもこの國々にもあるわざにぞ侍るなる。むかしは北野の御事ぞかし」」などいひて鼻うちかむ程あはれに見ゆ。「「この殿も御ざえ日本には餘らせ給へりしかば、かゝる事もおはしますにこそ侍りしか。さて式部卿宮の生れさせ給へるよろこびにこそはめしかへされたまへれ。さて大臣になぞらふる宣旨かうぶらせ給ひて、あるき給ひしありさまもいとおちゐても覺え侍らざりき。いと見苦しき事のみいかに聞え侍りしものなとて內に參らせ給ひけるに、北の陣より入らせ給ひて西ざまにおはしますに、入道殿も侍はせ給ふ程なれば、梅壺の東の塀のはざまに下人どものいと多く居たるを、この帥殿の御供の人々いみじく拂へば、行くべき方のなくて梅壺の塀の內にはらはらと入りたるを、これはいかにと殿御らんず。あやしと人々見れど、さすがにえともかくもせぬに、なにがしといひし御隨身のそらしらずして、「何にか」といたうはらひ出せば、又とざまにいとらうがはしく出づるを帥殿の供の人々この度ははらひあへねば、ふとり給ひたる人とてすがやかにもえ步み給はで、登華殿のほそどのゝ蔀に押し立てられ給ひて、「やゝ」と仰せられけれど、せばきところにて雜人いと多くはらはれておしかけられ奉りぬれば、とみにえのかでいとこそふびんに侍りけれ。それはげに御罪にもあらねども、唯華やかなる御ありきふるまひをせさせ給はずば、さやうに輕々なる事おはしますべきことかはとぞかし。又入道殿御嶽にまゐらせ給へりし道にて、帥殿の方より便なき事あるべしと聞えて、常よりも世をおそれさせ給ひてたひらかに歸らせ給へば、「かの殿もかゝる事聞えたりけり」と人の申せば、いとかたはらいたくおぼされながら、さりとてあるべきならねば參り給へり。道のほどの物語などせさせ給ふに、帥殿いたく臆し給へる御氣色のしるき、をかしくも又さすがにいとほしくもおぼされて、「久しくすぐ六つかうまつらでいとさうざうしきに、今日あそばせ」とてすぐ六の秤を召しておしのごはせ給ふに、御氣色こよなうなほりて見え給へば、殿をはじめ奉りて參り給へる人々、あはれになむ見奉りける。さばかりの事を聞かせ給はむにすさまじくもてなさせ給ふべけれど、入道殿はあくまで情おはします御本性にて、人のさ思ふらむ事をばおしかへしなつかしくもてなさせ給ふなり。この御ばくやうはうちたゝせ給ひぬれば、二所ながらはだかにこしからませ給ひてよなか曉まであそばす。心をさなくおはする人にて、便なき事もこそ出でくれと人はうけ申さゞりけり。いみじき御かけ物どもこそ侍りけれ。帥殿はふるきものどもえもいはぬ、入道殿はあたらしきが興ある、をかしきさまにしなしつゝぞかたみにとりかはさせ給ひけれど、かやうの事さへ帥殿は常にまけ奉らせ給ひてぞまかでさせ給ひける。かゝれど唯今は一の宮おはしますをたのもしきものにおぼし、世の人もさはいへど、したには追從しおぢ申したりし程に、今の御門東宮さし續き生れさせ給へりしかば、世をおぼしくづほれて、月ごろ御病もつかせ給ひて、寬弘七年正月廿九日うせさせ給へ〈如元〉にしぞかし。御年三十七とぞ承りし。かぎりの御病とてもいたう苦しがり給ふ事もなかりけり。御しはぶき病にやなどぞ覺えける程におもり給ひければ、修法せむとて僧めせど參るものなきに、いかゞはせむとて道雅の君を御使にて入道殿に申し給ひにけり。夜いたうふけて人もしづまりにければ、やがて御格子のもとゐよりてうちしはぶき給ふ。「誰ぞ」と問はせ給へば御なりの申して、「しかじかの事にて修法始めむとつかうまつれば、阿闍梨にまうでくる人も候はぬを、給はらむ」と申し給へば、「いと不便なる御事かな。えこそ承らざりけれ。いかやうなる御心ちにぞ。いとだいたいしき御事にもあるかな」といみじう驚かせ給ひて、「誰を召したるに參らぬぞ」と委しく問はせふ。なにがし阿闍梨をこそは奉らせ給ひしか。されど世のすゑは人の心も弱くなりにけるにや、惡しくおはしますなど申しゝかど、元方の大納言のやうにやは聞えさせ給ふる。又入道殿猶すぐれさせ給へる威のいみじきに侍るめり。老の波にいひすごしもぞし侍る」」とけしきだちてこの程はうちさゝめく。「「源大納言重光卿の御女のはらに女君二所男君三所おはせしが、この君だち皆おとなび給ひて、女君は后がねとかしづき奉り給ひしほどに、さまざまおぼしゝ事どもたがひて、かく御病さへおもり給ひにければ、この姬君達をすゑならべてなくなくのたまひける。「年來佛神にいひじく仕うまつりつれば何事もさりともとこそ賴み侍りつれど、かくいふかひなきしにをさへせむことの悲しさ。かく知らましかば君達をこそ我よりも先にうせ給ひねといのり思ふべかりけれ。おのれ死なば、いかなるふるまひありさまをし給はむずらむと思ふがかなしく人わらはれになるべき事」といひ續けて泣かせ給ふ。「怪しきありさまをもしし給はゞなき世なりとも必ず恨み聞えむ」とぞ母北の方にもなくなく遺言し給ひけるかし。その君達大姬君は高松殿の春宮大夫殿の北の方にて、あまたの君だちうみ續けておはすめり。それはあしかるべき事ならず。お一所は大宮に參りて、帥殿の御方とていとやんごとなくて侍ひ給ふめりとこそはおぼしかけぬ御ありさまなめれ。あはれなめるかし。男君は松君とて生れ給ひしより祖父おとゞいみじきものにおぼしむかへ奉り給ふ度ごとに、贈物をせさせ給ふ。御乳母も饗應し給ひし君ぞかし。この頃三位しておはすめるは、この君を父おとゞ「あなかしこ、我がなからむ世にあるまじきわざをせず、又みすてがたしとてものおぼえぬみやうぶうちして、我がおもてませて、いでやさありしかどかゝるぞかしと人にいひのけてせさすなよ。世の中にありわびなむきはゝ出家すばかりなり」となくなくいひ仰せ給ひけるに、この君當代の東宮にておはしましゝ折の亮になり給ひて、いとめやすき事と見奉りしほどに、春宮亮通雅の君とていとおぼえおはしきぞかし。それもいかゞしけむ、位につかせ給ひし後に藏人の頭にもえなり給はず、坊官の勞に三位ばかりし給ひて中將をだにかけ給はずなりにしこそいとかなしかりし事ぞかし。あさましく思ひかけぬ事どもかな。この君故帥の中納言惟仲の女とぞすみ給ひて、男一人うませ給へりしは法師にて明尊僧正の御房にこそおはすめれ。女君いかゞ思ひ給ひけむ、みそかに逃げて今の皇太后宮にこそ參りて、大和宣旨とておはしたまふなれ。されば年ごろのめことやはたのむべかりける。なかなかそれしもこそあなづりてをこがましくもてなしけれ。あはれ翁が童部のさやうに侍らましかば、白髮をもそりて鼻をもかきおとし侍りなまし。よき人と申すものはいみじからぬなのをしければ、ともかくもし給はぬにこそあめれ。さるはかの君さやうにしれ給へる人かは。たましひはわき給ふ君をば、師殿はこの內の生れさせ給へりし七夜に和歌の序題かゝせ給へりしぞかし。なかなか無心のことかな。本體は參らせ給ふまじきを、それにさし出で給ふより、多くの人のめをつけ奉り、いかにおぼすらむ、なにせむに參り給へるぞとのみまもられ給ふ。いとはしたなき事にはあらずや。それにこの入道殿まことにかくすさまじからずもてなし聞えさせ給へるかひありて、にくさはめでたくこそかゝせ給へれ。當座の御おもては優にて、それこそ人々ゆるし申し給ひけれ。この帥殿の御一腹の十七にて中納言になりなどして、世の中のさかるものといはれ給ひし殿の御童名は阿古君ぞかし。この兄殿の御のゝしりにかゝりて、出雲權守になりて但馬にこそおはせしか。さて帥殿のかへり給ひしをり、この殿ものぼり給ひてもとの中納言になりし。又兵部卿などこそは聞えさせしか。それもいみじうたましひおはすと世人におもはれ給へりし。あまたの人々の下臈になりて、かたがたすさまじくおぼされながら、あるかせ給ふに、御賀茂詣につかうまつり給へるに、むげにくだりておはするがいとほしくて、殿の御車に乘せ奉らせ給ひて御物語こまやかにあるに、「ひとゝせのことはおのれが申し行ひたるとぞ世間にはいひ侍りける。そこにもしかぞおぼしけむ。されどもさもなかりし事なり。宣旨ならぬこと一言にても加へて侍らましかば、この御社にかくて參りなましや。天道も見給ふらむとおそろしき事とまめやかにのたまはせしなむ、なかなかにおもておかむ方なく術なくおぼえし」とこそ後にのたまひけれ。それもこの殿におはすれば、さやうにも仰せらるゝにぞ、帥殿にはさまでもや聞えさせ給ひける。この中納言殿は、かやうにえ去りがたきかたのをりをりばかりあるき給ひて、いといにしへのやうにまじらひ給ふ事はなかりけるに、入道殿の土御門殿にて御遊あるに、「かやうのことに權中納言のなきこそなほさうざうしけれ」とのたまはせて、わざと御消息聞えさせ給ふほど、さかづきあまた度になりて、人々みだれ給ひて紐おしやりてさぶらはるゝに、この中納言參り給へれば、うるはしくなりてゐなほりなどせられければ、殿「とかく御紐解かせたまへ。ことやぶれはべりぬべし」とおほせられければ、かしこまりて逗留し給ふを、公信卿うしろより解き奉らむとて寄り給ふに、中納言殿御氣色あしくなりて、「隆家は不運なる事こそあれ、そこだちにかやうにせらるべき身にもあらず」と荒らかにのたまふに、人々御氣色變り給へるなかにも、今の民部卿殿はうはぐみて人々の御顏をとかく見給ひつゝ、こといできなむず、いみじきわざかなとおぼしたり。入道殿うちわらはせ給ひて、「今日はかやうのたはぶれ事侍らでありなむ。道長とき奉らむ」とて、よらせ給ひて、はらはらと解き奉らせ給ふに、これらこそあるべきことよとて御氣色なほりて、さしおかれつる盃とり給ひてあまたゝびめし、常よりもみだれ遊ばせ給ひけるさまなど、あらまほしくおはしましけり。殿もいみじうもてはやし聞えさせ給ひけり。さて式部卿宮の御事をのみさりともさりともと待ち給ふに、一條院御惱み重らせ給ふきはに御前に參りたまひて御氣色たまはり給ひければ、「案の御事こそつひにえせずなりぬれ」と仰せられけるに、「あはれの人非人やと申さまほしくこそありしか」とのたまひけれ。さてまかで給ひて、我が御家のひがくしのまに尻うちかけて、手をはたはたとうち居給へりける。世の人は宮の御事ありて、この殿御後見もし給はゞ天下の政はしたゝまりなむとぞ思ひ申したりしかども、この入道殿の御さかえのわけらるまじかりけるにこそは。三條院の大甞會の御禊にきらめかせ給へりしさまなどぞ常よりもことなりしか。人のこのきはゝ、さりともくづほれ給ひなむと思ひたりしところを、たがへむとおぼしたりしなめり。さやうなる所おはしましゝこそ、節會行幸にはかいねりがさね奉らぬ事なるを、單衣靑くつけさせ給へれば紅葉襲にてぞ見えける。うへの御袴龍膽の二重織物にて、いとめでたくけうらにこそきらめかせ給へりしか。御目の損はれ給ひにしこそいといとあたらしかりしか。よろづにつくろはせ給ひしかども、やませ給て御まじらひ絕え給へる頃、大貳の闕いできて、人々のぞみのゝしりしに、唐人の目つくろふがあるなるに見せむとおぼして、「こゝろみにならばや」と申し給ひければ三條院の御時にて、又いとほしくもやおぼしめしけむ、ふたこととなくならせ給ひてしぞかし。その北の方には、伊豫守兼資のぬしの御女なり。その御腹の女君二所おはせし。一所は三條院の御子の式部卿の宮の北の方、今一所は傅殿の御子の今宰相中將兼經の君とぞ聞ゆる。二所の御聟をとり奉り給ひて、いみじういたはり聞え給ふめり。政よくしたまふとて、筑紫人さながら隨ひ申したりけり。例の大貳、十年が程にて上り給へりとこそ申しゝか。かの國におはしましゝ程、刀伊國のもの俄にこの國をうちとらむとや思ひけむ越えきたりけるに、筑紫には兼ての用意もなくて、大貳殿弓矢の本末をもしり給はねばいかゞと思しけれど、倭心かしこくおはする人にて、筑後、肥前、肥後、九國の人をおこさせ給ふをばさることにて、府の內につかうまつる人をさへおしとりて戰はしめ給ひければ、かやつが方のものどもいと多く死にけるに、さはいへど家たかくおはします。げにいみじかりし事平げ給へりし殿ぞかし。おほやけ大臣大納言にもなさせ給ひぬべかりしかど、御まじらひ絕えにたればたゞにはおはするにこそあめれ。この中にむねと射返したるものどもしるして、おほやけに奏せられたりしかば、みな賞せさせ給ひき。たねきは壹岐守になされ、その子は太宰監にこそはなさせ給へりしか。このたねきがぞうは純友うちたりしものゝすぢなり。この純友は將門おなじ心にかたらひて、おそろしき事企てたるものなり。將門はみかどをうちとり奉らむといひ、純友は關白にならむと同じく心をあはせて、この世界に我と政をし、君となりてすぎむといふ事を契り合せて、一人は東國にいくさをとゝのへ、一人は西國の海にいづくともなく大筏を數しらず集めて、筏の上に土をふせて植木をたふし、四方山の田をつくりすみつきて大方おぼろげのいくさにどうずべくもなくなりゆくを、かしこくかまへてうちてたてまつりたるはいみじき事なり。それはげに人のかしこきのみにはあらじ、王威のおはしまさむかぎりはいかでかさることはあるべき。さて壹岐對馬の人をいと多く刀伊國にとりもていきたりければ、新羅のみかど軍を起し給ひて、皆うちかへし給ひてけり。さて使をつけて、たしかにこの島に送り給へりければ、かの國の使には大貳金三百兩とらせてかへさせ給ひける。この程の事もかくいみじうしたゝめ給へるに、入道殿猶この帥殿を捨てぬものに思ひ聞えさせ給へるなり。さればにや世にもいとふり捨て難き覺えにてこそおはすれ。みかどにはいつかは馬車の三四絕ゆる時のある、又道もさりあへず立つ折もあるぞかし。この殿の御子男君、唯今藏人少將良賴の君、又右中辨經輔の君、又式部丞などにておはすめり。誠に世にあひて華やぎ給へりし折、この帥殿は花山院とあらがひ事申させ給へりしはとよ。いとふしぎなりし事ぞかし。「わぬしなりとも我が門はえ渡らじ」と仰せられければ、隆家「などてか罷り渡り侍らざらむ」と申し給ひて、その日に定められぬ。輪强き御車にいちもちの御牛かけて、御烏帽子直衣いとあざやかにさうぞかせ給へり。えびぞめの織物の御指貫少しゐ出させ給ひて、祭のかへさに紫野走らせ給ふ。君達のやうに、ふみ板にいと長やかにふみしだかせ給ひて、くゝりは土に引かれて、すだれいと高やかに卷きあげて、雜色五六十人ばかり聲のあるかぎりひまなく御さき參らせ給ひて、院には更なり、えもいはぬ勇悍幹了の法師ばら大中童子など合せて七八十人ばかりに大なる石五六尺ばかりなる杖ども持たせて、北南の御門辻より西へ、小一條の前、洞院のうらうへにひまなくたちみちて御門の內にも侍ひ、僧の若やかに力强き限さる設して侍ふ。さる事をのみ好み思ひたる、上下の今日にあへる氣色どもはげにいかゞはありけむ。いづ方にも石杖ばかりにて、誠しき弓矢は設けさせ給はず。中納言殿御車一時ばかり立ち給ひて、かでの小路よりは北に、御門の邊まではやり寄せ給へりしかど、猶え渡り給はで歸らせ給ふ。院方にそこら集ひたるものども、ひとつ心に目もかためまもりまもりて、やりかへし給ふほどは一度に笑ひ合せたりし聲こそいと夥しかりしか。さる見ものやは侍りしとよ。「王威はいみじきものなりけり。え渡らずなりぬるよ。無益の事をいひてけるかな。いみじきそくかうなりつる」とてこそ笑ひ給ひけれ。院はうちゑませ給ひけるをいみじと思したるさまも、ことしもあれ、誠しき事やうなり。この帥殿の御はらからといふ君だち數あまたおはすべし。賴親の內藏頭、周賴の木工頭などいひし人、片はしよりなくなり給ひて今は唯兵部大輔周家の君ばかりほのめき給ふなり。小一條院の御宮達の御乳母の夫にて、院のかくごして候ひまたふ、いとかしこし。又井手の少將とありし君は出家とか。故關白殿御心おきていとうるはしくあてにおはしましゝかど、御すゑあやしく御命も短くおはすめり。今の入道一品宮とこの帥殿〈殿衍歟〉中納言のみこそは殘らせ給ふめれ。

     右大臣道兼

このおとゞは、この大入道殿の御三郞、粟田殿とこそは聞えさすめりしか。長德元年乙未五月二日關白の宣旨かうぶらせ給ひて同じ月の八日うせさせ給ひにき。大臣にて五年、關白と申して七日こそ坐しましゝか。この殿ばらの御ぞうにやがて世をしろしめさぬたぐひ多く坐すれど、まだあらじかし。夢のやうにてや見給へるは、出雲守すけゆきのぬしのみ家にあからさまに渡り給へりしをり、關白の宣旨の下りしに、あるじの喜び給ひたるさま推し量り給へ。せばうて事の作法もあるまじとてたゝせ給ひし日ぞ御喜びをも申させ給ひし。殿の御前はえもいはぬものゝかぎりすぐれたるに、北の方の二條にかへり給ふ御供人が、よきもあしきも數知らぬまで、布衣などにてあるもまじりて殿出したて奉りて渡り給ひしほどの、殿の內のさかえ人のけしきは唯おぼせ〈如元〉やれ。あまりにもと見る人もありけり。御心ちは少し例ならずおぼされけれど、おのづからの事にこそはいまいましく、今日の御悅申しとゞめじとおぼして、念じてうち參らせ給へるに、いと苦しうならせ給ひにければ、殿上よりはえいでさせ給はで御湯殿のめだうの戶口に御前を召してかゝりて北の陣より出でさせ給ふに、こはいかにと人々見奉る。殿には常よりもけいめいして待ち奉り給ふに、人々にかゝりて御冠もしどけなくなり、御紐おしのけていといみじう苦しげにておりさせ給へるを見奉り給へる御心ち、出で給ひつるをりにたとしへなし。されどたゞさりともとさゝめきにこそさゝめけ、胸はふたがりながら心ちよがほをつくりあへり。されば世にはいとおびたゞしくも聞えず、今の小野宮の右大臣殿の御悅に參り給へりけるをり、も屋の御簾おろして呼び入れ奉り給へり。臥しながら御對面ありて、「みだれ心ちのいとあしくはべりて、とにはまかりいでねばかくて申し侍るなり。年ごろはかなき事につけても心のうちに喜び申す事なむ侍れど、させる事なきほどは每事にもえ申し侍らでなむ過ぎまかりつるを、今はかくまかりなりて侍れば、公私につきて報じ申すべきになむ。又大小の事も申し合せむと思ひ給ふれば、無禮をもえはゞからず、かくらうがはしき方に案內申しつるなり」などこまかにのたまへど詞もつゞかず、「たゞおしあてにさばかりなめりと聞きなさるゝに、御息ざしなどいと苦しげなるを、いと不便なるわざかなと思ひしに、風の御簾を吹き上げたりしはざまより見入れしかば、さばかりの重き病をうけ給ひてければ、いかでかは御色もたがひてきらゝかにおはする人ともおぼえず、ことの外に不覺になり給ひにけりと見え給ひながら、長かるべき事どものたまひしなむ哀なりし」とこそ後に語り給ひけれ。この粟田殿の御男君達三人ぞおはせしか。太郞君は福足の君と申しゝをさなき人はさのみこそはと思へどいと淺ましくまさなく惡しくぞおはせし。東三條殿の御賀に、この君舞をせさせ奉らむとてならはせ給ふ程も、あやにくがりすまひ給へど、よろづにをこづりいのりをさへして敎へ聞えさするに、その日になりて、いみじうし奉り給へるに、舞臺の上にのぼり給ひて、物の調子吹きいづるほどに、「わざはひかな、あれはまはじ」とて、びんづらひきみだり、御裝束をはらはらと引きやり給ふに、粟田殿御色をまあをにならせ給ひて、あれにもあらぬ御氣色も、ありとある人さおもへることよと見給へど、すべきやうもなきに、御をぢの中關白殿のおりて舞臺に上らせ給へば、いひをこづらせ給ふべきか、又にくさにえたへず追ひおろさせ給ふべきかとかたがた見侍りし程に、この君を御腰の程にひきつけさせ給ひて、御手づからいみじう舞はさせ給ひしこそ、樂もまさりおもしろく、かの君の御耻もかくれ、その日の興はことの外にまさりたりけれ。祖父殿もうれしとおぼしたりけり。父おとゞはさらなり、よその人だにこそすゞろに感じ奉りけれ。かやうに人のためなさけなさけしき所おはしましけるに、など御末かれさせ給ひにけむ。この君人しもこそあれ、くちなはれうし給ひて、そのたゝりにより、かしらに物はれてうせ給ひにき。この御弟の二郞君、今の左衞門督兼隆卿は大藏卿の女の腹なり。この左衞門督の君達男女あまたおはするなり。大姬君は三條院の三の御子敦平の中務宮を、このきさらぎかとよ、聟とり奉り給へるほどに、したしき御中にておはしますめり。また姬君なる四人おはす。また栗田殿の三郞前頭中將兼綱の君、その君の祭の日調じ給へりし車こそいとをかしかりしか。檜網代といふものをはりて、的のかたちに色どられたりし、車のよこざまのまとを弓の形にしたて、ふちをば矢の形にせられたりしさまの興ありしなり。和泉式部の君歌よまれて侍りき。

  「とをつらのうまならねども君のれば車もまとに見ゆるものかな」。

さてよき風流と見えしかど、人のくちやすからぬものにて、「賀茂明神の御矢めおひ給へり」といひなしてしかば、いと便なくやみにき。この君は頭とられ給ひにし、いといみじう侍りしことぞかし。頭になりて驚き喜び給ふべきならねど、あるべき事にてあると、粟田殿花山院すかしおろし奉り、左衞門督小一條院すかしおろし奉り給へり。御門東宮のあたり近づかでありぬべき御ぞうといふ事出できにしぞかし。いとけうあるに侍りきな。誰も聞し召ししりたる事なれど、男君たちかくなり。女君は故一條院の御乳母の藤三位の腹にいでおはしましたりしを、やがてその御時のくらべやの女君と聞えし、後にこの大藏卿通任の君の北の方にてうせ給ひにしぞかし。御むかへ腹に佛神に申して孕まれ給へる君、今の中宮に二條殿の御方とてこそは候ひ給ふめれ。父殿女子をほしがりて願をたて給ひしかど、御顏だにえ見奉り給はずなりにき。かやうに哀なる事どもの世に侍るぞかし。その殿の御北の方、粟田殿の御後は堀川殿の御子の左大臣の北の方にてこそは年ごろおはすと聞き奉りしか。その北の方九條殿の御子の大藏卿の君の女ぞかし。さればこの粟田殿の御ありさま、ことの外にあへなくおはしましき。さるは御心いとさがなくおそろしくて人々いみじうおぢられ給へりし殿の、あやしく末なくてやみ給ひにき。この殿父おとゞの御忌には御殿などにも居させ給はで、あつきにことつけて御簾も上げわたして、御念誦などもし給はず、さるべき人々呼びあつめ、後撰古今ひろげて興言し遊びてつゆなげかせ給はざりけり。そのゆゑは花山院をば我こそすかしおろし奉りたれ、されば關白をもゆづらせ給ふべきなりといふ御恨なりけり。世づかぬ御事なりや。さまざまよからぬ御事ども聞えしを、傅殿この入道殿二所は如法に孝し奉り給ひきとぞうけたまはりし。


大鏡卷之七

   太政大臣道長

     太政大臣道長

このおとゞ、法興院のおとゞの御五男。御母從四位上行攝津守右京大夫藤原中正朝臣の女なり。その朝臣は從二位中納言山陰卿の七男なり。この道長大臣は今の入道殿下これにおはします。一條院三條院のをぢ、當代東宮の御おほぢにておはします。この殿宰相にはなり給はで永延二年正月廿九日權中納言にならせ給ふ。御年二十三。その年上東門院生れさせ給ふ。正曆二年九月七日大納言にならせ給ふ。正曆三年四月廿七日に從二位したまふ。中宮大夫とぞ申しゝ。御年二十七。宇治殿生れ給ふとしなり。長德元年乙未四月廿七日、左近衞大將かけさせ給ふ。その年の祭のまへより世の中極めてさわがしきに、またの年いとゞいみじくなりたりしぞかし。まづは大臣公卿多くうせ給ひしに、まして四位五位のほどは數やはしりし。まづその年うせ給へる殿ばらの御數、閑院大納言殿三月廿八日、中關白殿四月六日出家したまひて、十日うせ給ひぬ。それは世のえにはおはしまさず、唯同じをりのさし合せたりし事なり。小一條左大將濟時卿は四月廿三日うせ給ふ。六條左大臣殿重信、粟田右大臣殿道兼、桃園源中納言保光卿、この三人は五月八日一度にうせ給ふ。山井大納言殿は道賴と申しゝ、六月十一日ぞかし、御年二十五にて又ありしかし。あがりての世にもかく大臣公卿七八人、二三月の中にかきはらひうせ給ふは希有なりしわざなり。それも唯この入道殿の御幸のかみ極め給へるにこそ侍るめれ。かの殿ばら次第のまゝに久しく保ち給はましかば、いとかくしもやはおはしまさまし。まづは帥殿の御心用ゐのさがさがしくおはしまさば父おとゞの御病のほど、天下執行の宣旨下り給へりしまゝに、おのづからさてもやおはしまさまじ。それに又おとゞうせさせ給ひにしかば、いかでかはちごみどり子のやうなる心おはする。殿の世の政し給はむとて、粟田殿に渡りにしぞかし。ふりをこはゞうつはものをまうけよと申す事誠にある事なり。さるべき御次第にて、それ又あるべきことを、あさましく夢などのやうにとりあへずならせ給ひにし、これはあるべきことかはな。この今の入道殿、そのをり大納言中宮大夫と申して御年いと若く、行く末を待ちつけさせ給ふべき御よはひのほどに、卅にて四月廿七日に大將にならせ給ふ。五月十一日に官中雜事まづ內覽の關白の宣旨うけたまひ、榮えそめさせ給ひにしぞかし。おなじ年の六月十九日に右大臣になら給ひて、長德二年七月二十日又左大臣にならせ給ひき。そのまゝにほかざまへも別れなりにしぞかし。今にもさこそは侍るめれ。この殿は北の政所二所おはします。この宮々の御母うへと申すは土御門左大臣雅信のおとゞの御女におはします。その雅信のおとゞは亭子の御門の御子一品式部卿宮敦實のみこの御子、左大臣時平のおとゞの御女の腹に生ませ給へりし御子なり。その雅信のおとゞの御女を今の入道殿下の北政所と申すなり。その御腹に女君四所、男君二所ぞ坐します。その御ありさまは唯今のことなれば皆人見奉り給ふらめど、ことばつゞけ申さむとなり。第一の女君は一條院の御時に長保元年十一月一日、御年十二にて女御に參らせ給ふ。又の年同じ長保二年かのえね三月廿五日、十三にて后に立たせ給ひて中宮と申しゝほどに、うちつゞき男御子二人うみ奉り給へりしこそは今の御門東宮におはしますめれ。二所の御母后、太皇太后宮と申して天下第一の母にておはします。その御さしつぎの女君、內侍のかみと申しゝ、三條院の東宮におはしましゝに參らせ給ひて、東宮位に即かせ給ひしかば、長和元年二月十四日に后にたゝせ給ひて中宮と申しき。御年十九。さて又の年長和二年みづのとのうしの年七月廿六日に女御子生れさせ給へるにこそは三四ばかりにて一品にならせ給ひて今に坐します。この頃はこの御母宮を皇太こ宮と申して枇杷殿に坐します。一品宮は三宮になずらへて千戶のみふをえさせ給へるはこの宮に后二所おはしますが如くなり。又次の女君、これも內侍のかみにて今の御門十一歲にて寬仁二年つちのえうま正月三日に御元服させ給ひて、その三月七日まゐり給ひて、おなじ年四月十八日女御の宣旨下されき。この日內裏造りいだして渡らせ給ふ日なり。おなじ年の七月廿九日、后に立て奉るべき宣旨ありき。使は源民部卿俊賢の君ぞしたまひし。中宮大夫にておはせしかばし給ひしにこそ侍るめれ。たゞ今の中宮と申して、うちにおはします。又次の女君はそれも內侍のかみ、十五におはしますに今の東宮十三にならせ給ふ年、治安元年二月一日參らせ給ひて、春宮の女御にてさぶらはせ給ふ。登華殿にぞおはしましゝ。殿入道せしめ給ひて後の事なれは、今の關白殿の御女となづけ奉りてこそは參らせ給ひしか。今年は十九にぞならせ給ふ。姙じたまひて七八月にぞ當らせ給へる。入道殿の御有さま見奉るに、必ずをのこ子にてぞおはしまさむ。この翁ら更によも申しあやまち侍らじ」」と扇をたかくつかひしこそをかしかりしか。「「女君達の御ありさまかくの如し。男君二所と申すは今の關白左大臣賴通のおとゞと聞えさせて、天下を我がまゝにまつりごちておはします。御年廿六にや內大臣攝政にならせ給ひけむ。御門およすげさせ給ひにしかば、寬仁三年十二月廿二日攝政の表奉らせ給ひて、同じき日關白の宣旨下りて、關白にておはします。二十餘にて納言などになり給ふをぞいみじき事にいひしかど今の世の御ありさまかくおはしますぞかし。これを宇治殿と申す。わらは名はたづ君なり。今一所は唯今の內大臣にて、左大將かけて敎道のおとゞと聞えます。世の一の人にておはしますめり。これは二條殿、御わらは名をや〈如元〉君。かゝれば女の御さいはひ、あるはこの北の政所のさかえ極めさせ給へり。御門東宮の御母后とならせ給ふ。あるは御親世の一の人にておはするには、御子も生れ給はねども后にゐさせ給ふめり。女の御さいはひは后こそ極めておはします御事なめれ。されどそれはいと所せげにおはします。いみじきとみの事あれどおぼろげならねばえうごかせ給はず。陣屋ゐぬれば女房たはやすくも心に任せてもえつかまつらず。かやうに所せげなり。たゞ人と申せと御門東宮の御うばにて三后になずらふ御位にて千戶のみふえさせ給ふ。年官年爵を賜はらせ給ひからの御車にていとたはやすく御ありきなどもなかなか御身安らかにてゆかしう思しめしけることは、世の中の物見何の法會やなどあるをりは御車にて御さじきにても必御らんずめり。內、東宮、宮々とわかれわかれこそをしくておはしませど、いづかたにも渡り參らせ給ひてはさしならびおはします。唯今三人の后、東宮の女御、關白左大臣の御母、御門東宮はた申さず、大方世のおやにて、二所ながらさるべき權者にこそおはしますらめ。御ながらひ四十年ばかりにやならせ給ひぬらむ。哀にやんごとなきものにかしづき奉らせ給ふといへばこそおろかなれ。世の中には、いにしへ今の國母大臣皆藤氏にてこそおはしますに、この北の政所ぞ源氏にて御さいはひ極めさせ給ひたる。をとゝしの御賀のありさまなどこそ皆人見聞き給ひしことなれど、猶返す返すもいみじく侍りしものかな。又高松殿のうへと申すもこれ源氏におはします。延喜の御子高明親王、左大臣左大將までならせ給へりしに思はざるほかの事により大臣とられて太宰權帥にならせ給ひて、ながされ給ひし、いとゞ心うかりし事ぞかし。その御女におはします。それをかの殿筑紫におはしましける年、この姬君まだいとをさなくておはしけるを、御をぢの十五の宮と申したるも同じ延喜の御子におはします。女子もおはせざりければ、この君をとり奉りて養ひかしづき奉りて用ゐ給へるに、西宮殿も十五の宮もかくれさせ給ひにし後に、故女院の后に坐しましゝをり、この姬君を迎へとり奉らせ給ひて、東三條殿の東の對に帳をたてゝ壁しろをひき、我が御しつらひにいさゝかおとさせ給はず、しすゑきこえさせ、女房、侍、けいし、しも人までべちにあかちあてさせ給ひて姬宮などのおはしまさせし如くに限もなく思ひかしづき聞えさせ給ひしかば、御せうとの殿ばら我も我もとけさうじ奉り給ひけれど、后かしこく制し申させ給ひて、今の入道殿をぞゆるし聞えさせ給ひければ、通ひ奉らせ給ひしほどに、女君二所男君四所おはしますぞかし。女君と申すは今の小一條院の女御、今一所は故中務卿宮具平親王と申す。村上の七のみこにおはしましき。その御男君三位中將師房の君と申すを今の關白殿の上の御はらからなる故に關白殿聟とり奉らせ給へり。淺はかに心えぬ事とこそ世の人申しゝか。殿の內の人も思したりしかど入道殿思ひおきてさせ給ふやうありけむとぞ〈如元〉かしな。男君は大納言にて春宮大夫賴宗と聞ゆ。御わらは名いは君。今一所はおなじ大納言中宮權大夫能信ときこゆ。今一所中納言長家、御わらは名こわか君。今一所は馬頭にて顯信とておはしき。御わらは名こけ君なり。長和元年壬子正月十九日入道し給ひて、この十餘年佛の如くして行はせ給ふ、いと思ひかけずあはれなる御事なり。みづからの御菩提申すべからず。殿の御ためにも、又法師なる御子のおはしまさぬが口をしうことかけさせ給へるやうなるに「さればやがて一度に僧正になして奉らむ」となむ仰せられけるとぞうけたまはるを、いかゞ侍らむ。うるはしき御法服宮々よりも奉らせ給ひ、殿よりはあさの御衣奉るをばあるまじき事に申させ給ふなるをぞいみじくわびさせ給ひける。出でさせ給ひける日は、緋の御あこめのあまた候ひけるを、これかれあまた重ねて着たるなむうるさき。「綿をひとつに入れなして、一つばかり着たらばや。しかせよ」と仰せられければ、「これかれそゝぎ侍らむもうるさきに、綿を厚くして參らせむ」と申しければ、「それは久しくもなりなむ。唯疾くと思ふぞ」と仰せられければ、思しめすやうこそはと思ひて、あまたが綿をひとつに入れて參らせたるを奉りてぞその夜はいでさせ給ひける。されば御めのとは「かくて仰せられけるものをなにしにまゐらせけむ、例ならずあやしと思はざりけむ心のいたりのなさよ」と泣きまどひ給ひけむこそいとことわりにあはれなれ。今年もそれにさはらせ給はむやうにかくと聞きつけ給ひては、やがて絕え入りて、なき人のやうにておはしけるを、かく聞かせ給はゞいとほしとおぼえて御心や亂れたまはむと今さらによしなし。「これぞめでたき事。佛にならせ給ひて我が御ためにも後の世のよくおはせむこそつひのこと」と人々いひければ、「佛にならせ給はむもうれしからず、我が身後に助けられ奉らむも覺えず、唯今のかなしさよりほかの事なし。殿もうへもあまたおはしませばいとよし。唯我ひとりが事ぞや」とぞふし轉び給ひけむ、げにさる事なりや。道心なからむ人は後の世の事までもしるべきかはな。高松殿の御夢に、左の方の御ぐしうしろを、なからよりそり落させ給ふと御覽じけるを、かくて後にぞこれが見ゆるなりけりと思ひさだめて、「ちがへさせいのりなどをもすべかりけるを」と仰せられける。かは堂にて御ぐしおろさせ給ひて、やがてその夜山へ上らせ給ひけるに、「賀茂川わたりしほどのいみじうつめたく覺えしなむ少しあはれなりし。今はかやうにてあるべき身ぞかしとおもひながら」とこそ仰せられけれ。いまの衞門督ぞ疾くより「この君は出家の相こそおはすれ」とのたまひて、中宮大夫殿のうへに御せうそこ聞えさせ給ひけれど、さる相ある人をばいかでかとて、後にこの大夫殿をばとりたてまつり給へるなり。正月にうちよりいで給ひて、この衞門督、「馬頭の物よりさしいでたりつるこそむげに出家の相近くなりて見えつれ。いくつぞよ」とのたまひければ、頭中將「十九にこそなり給ふらめ」と申し給ひければ、「さてはことしぞし給はむ」とありけるに、かくと聞きてこそ、「さればよ」とのたまひけれ。相人ならねど、よき人はものを見給ふなり。入道殿は「やくなし。いたうなげきて聞かれし心みだれせむもかの人のためいとほし。法師子のなかりつるいかゞはせむ。をさなくてもなさむと思ひしかど、すさみしかばこそあれ」とて唯例の作法の法師の御やうにもてなし聞え給ひき。受戒にはやがて殿のぼらせ給ふ。人々の我も我もと御供にまゐり給ひて、いとよそほしげなりき。威儀僧はえもいはぬものども立たせ給へり。御さきにうしき僧綱どもやんごとなきさぶらふ。山の所司殿の御隨身どもの人笑ひのゝしりて、戒擅にのばらせ給ひけるほどこそ入道殿はえ見奉らせ給はざりけれ。御みづからは本意なく傍いたしとおぼしたりけり。座主のたごしに乘りて、がいさゝせてのぼり給ひける程こそ、あはれ天臺座主の戒和尙の一やと見え給ひけれ。世繼が隣に侍るものゝその際にあひて見奉りけるが語り侍りしなり。春宮の大夫殿、中宮の權大夫殿などの大納言にならせ給ひしをり、されど御耳とゞまりて聞かせ給ふらむとおぼえしかど、その大饗のをりの事ども、大納言の座しきそへられしほどなど、語り申せ〈如元〉しかどいさゝか御氣色かはらず念ずうちして「かやうのことたゞしばしの事なりとぞうちのたまはせしなむ、めでたく優に覺えし」とぞみちなりの君のたまひける。この殿の君たち、男女合せて十二人、數のまゝにおはします。男も女も御官位こそ心にまかせ給ひつらめ、御心ばへ人がらどもさへいさゝか片ほにて、もどかれさせ給ふべきにもおはしまさず、とりどりにいうそくにめでたくおはしまさふも、たゞことごとならず、入道殿の御さいはひのいふかぎりなくおはしますなめり。さきざきの殿ばらの君だちおはせしかども、皆かうしも思ふさまにや坐せし。おのづから男も女もよきあしきまじりてこそおはしまさふめりしか。この北政所、二方ながら源氏におはしませば、末の世の源の榮え給ふべきと定めますめり。かゝればこの二ところ御ありさまかくの如し。但し殿の御前は三十より關白せさせ給ひて、一條院、三條院の御時世をまつりごち、我が御心のまゝにて坐しましゝに、又當代九つにて位に即かせ給ひにしかば、御年五十一にて攝政せさせ給ふとし、我が御身は太政大臣にならせ給ひ、攝政をば今の關白おとゞにゆづり奉らせ給ひて、御年五十四にならせ給ふ。寛仁三年つちのとのひつじ三月十八日夜中ばかりより胸やませ給ひて、わざとにはおはしまさねど、いかゞ思しめしけむ、俄に廿一日のひつじの時ばかりに起きゐさせ給ひて御かうぶりめし、かいねりの御したがさねに、ほうこをさしそがせ給ひて御てうづめせば、なに事にかと關白殿をはじめて殿ばらも思しめすに、寢殿の西の渡殿に出でさせ給ひて、南にむきて拜せさせ給ふ。春日の明神にいとま申させ給ふなりけり。きやうめい僧都、長義律師して御ぐしおろさせ給ふ。關白をはじめとして、君だち殿ばらなどいとあさましとおぼしめせどおぼしたちて俄にせさせ給ふことなれば、たれもたれもあきれてえせいし申させ給はず、あさましとはおろかなり。ゐげむ法印戒の師したまふ。信ゑ僧都の袈娑衣をぞ奉りそめける。俄の事にてまうけさせ給はざりけるにや、御名行觀とぞつかせ給へりし。後にしもの文字かへて行覺とぞ侍りし。かくて後にぞ、內、東宮の宮たちにもかくと聞えさせ給ひける。聞きつけさせ給へる宮たちの御心ども、あさましくおぼし騷ぐとも事もおろかなり。さるの時ばかり小一條院渡らせ給ひ、御門のとにて御車牛かけおろして、ひき入れて中門のとにておりさせ給ひてこそはおはしましゝか。よせておりさせ給ひて、かしこまり申させ給ふほど、いともかたじけなくめでたき御ありさまなりしぞかし。宮たちも夕さりこそは渡らせ給ひしか。中宮皇后宮などはひとつ御車にてぞ渡らせ給へりし。行啓のありさまもにはかにて例の作法にも侍らざりけり。おなじき年の九月廿七日奈良にて御受戒侍りし。かゝる御ありさまにつけても、めでたき事ども多く侍りしかば皆人しり給へる事どもなればこまかに申し侍らじ。御出家したまへれど、猶又おなじ五月八日准三宮の位にならせ給ひて、年官年爵えさせ給ふ。三人の后、關白左大臣內大臣あまたの納言の御父、御門東宮の御おほぢにておはします。世を知り保たせたまふこと、かくて三十一年ばかりにやならせ給ひぬらむ。今の年は六十におはしませば、かんのとのゝ御產の後に御賀あるべしとこそ人申すめれ。いかにまたさまざまおはしまさひてめでたく侍らむずらむ。大かた又世になき事なり。大臣の御むすめ三人、后にてさしならべ奉らせ給ふ事、あさましくけうのことなり。もろこしには昔三千人の后おはしけれど、それはすぢも尋ねでたゞかたちありと聞ゆるを隣の國までえらびいだして、その中に楊貴妃ごときはあまり時めき過ぎて悲しき事あり。王昭君はえびすの王にたまはりて胡の國の人となり、上陽人は楊貴妃にそばめられて御門に見え奉らで、春のゆき秋のすぐることをも知らずして、十六にて參りて六十までありけり。かやうなれば三千人のかひなし。我が國にはなゝ后こそおはすべけれど代々に四人ぞたてたまふ。この入道殿下のひとつかどばかりこそは、太皇太后宮、皇太后宮、中宮、三所出でおはしたれ。誠に希有希有の御さいはひなり。皇后宮一人のみこそはすぢ別れ給へりといへども、それも貞信公の御末におはしませば、それよそ人とおもひ申すべきことかは。しかあれば唯世の中はこの殿の御光ならずといふことなし。この春こそはうせ給ひにしかば、いとゞ唯三人の后のみこそは世におはしますめれ。この殿ことにふれて遊ばせる詩和歌など居易や赤人、人麿、躬恆、貫之といふともなどえ思ひよらざりけむとこそおぼえ侍れ。春日の行幸は、さきの一條院の御時よりはじまれるぞかし。それにまた當代をさなくおはしませども必ずあるべきことにて、はじまりたる例になりにたれば、大宮御輿にそひ申させ給ひておはします。めでたしなどいふも世のつねならず、時の御おほぢにてうちそひ仕うまつらせ給ふ。殿の御ありさま御かたちなど少し世の常にもおはしまさましかば、飽かぬことにや、そこら集まりたる田舍世界の民百姓、此こそ確かに見奉りけめ。唯轉輪しやう王などはかくやと光るやうにおはしますに、佛を見奉りたらむやうに、額に手をあてゝ拜み惑ふさまことわりなり。大宮の赤色の御扇さしかくして、御かたのほどなどは少し見え給ひけり。かばかりにならせ給ひぬる人は、つゆの御すきかげもふたぎ、いかゞとこそもてかくし奉るに、ことかぎりあれば今日はよそほしき御ありさまも少しは人の見奉らむもなどかはやともやおぼしけむ、殿も宮もいふよしなく御心ゆかせ給へりける事推し量られ侍るは。殿、大宮に、

  「そのかみやいのりおきけむ春日野のおなじ道にもたづねゆくかな」。

御かへし、

  「くもりなき世のひかりにや春日野のおなじ道にもたづねゆくらむ」。

かやうに申しかはさせ給ふほどの、げにげにと聞えてめでたく侍りし。中にも大宮のあそばしたりし、

  「三かさ山さしてぞきつるいそのかみふるきみゆきのあとを尋ねて」。

これらぞな、翁などが心の及ばぬにや、あがりてもかばかりの秀歌えさふらはじ。その日にとりては春日明神のよませ給へりけるにおぼえ侍り。今日かゝる事どものはえあるべきにて、前の一條の院の御時にも大入道殿の行幸申し行はせ給ひけるにやとこそ心えられ侍れな。大方さいはひおはしまさむ人の和歌の道後れ給ひつらむはことのはえもなくや侍らまし。この殿はをりふしごとに必ずかやうの事を仰せられて、ことをはやさせ給ふなり。ひととせの北の政所の御賀によませ給へりしは、

  「あかざり〈りなれイ〉しちぎりは絕えて今更にこゝろけがしに千代といふらむ」。

又この一品の宮の生れおはしましたりし御うぶやしなひの日、大宮せさせ給へりし夜の御歌は聞かせ給へりや。それこそいと與あることと人思ひよるべきにも侍らぬ和歌のていなれ。

  「おと宮のうぶやしなひをあねみやのやしなふ見るぞうれしかりける」

とかやぞうけたまはりし」とて心よくゑみたり。「四條大納言のかく何事もすぐれめでたくおはしますを、大入道殿、「いかでかゝらむ。うらやましくあるかな。我が子どもの影だにふむべくもあらぬこそ口惜しけれ」と申させ給ひければ、中關白殿、粟田殿などはげにさもやおぼすらむと耻かしげなる御氣色にて物ものたまはぬに、この入道殿はいと若うおはします御身にて、「かげをばふまで、つらをやはふまぬ」とこそ仰せられけれ。誠にこそさおもはすめれ。內大臣殿をだに近くて見奉り給はぬよ。さるべき人はとうより御心たましひのたけう御まもりもこはきなめりと覺え侍れば、花山院の御時に、五月しもつやみに、五月雨も過ぎて、いとおどろおどろしくかきみだれ雨の降る夜、御門さうざうしくや思しめしけむ、殿上に出でさせおはしまして遊びおはしましけるに、人々物がたりしたまひて、昔恐ろしかりける事どもなど申させ給へるに、「今宵こそいとむつかしげなる夜なめれ。かく人がちなるにだにけしきおぼゆ。まして物離れたる所などいかならむ。さあらむ所に一人いなむや」とおほせらけに、「えまからじ」とのみ申し給ひけるを、入道殿は「いづくなりともまかりなむ」と申し給ひければ、さる所おはしますみかどにて、「いと興あることなり。さらばいけ。道隆はぶらく院、道兼は仁壽院の塗籠、道長は大極殿へいけ」とおほせられければ、よその君たちはびんなきことをも奏してけるかなと思ふ。又承り給へる殿ばらは御氣色かはりてやくなしとおぼしたるに、つゆさる御氣色もなくて、「私の從者をば具し候はじ。この陣の吉上にまれ瀧口にまれ一人、昭慶門まで送れと仰せごとたべ。それより內に一人入り侍らむ」とまうし給へば、「證なき事にこそ」と仰せらるれば、「げに」とて御手箱におかせ給へる刀さして立ち給ひぬ。今二所もにがむにがむおのおのおはさうじぬ。ね四つと奏してかく仰せられ議するほどに丑にもなりにけむ。「道隆は右衞門の陣よりいでよ。道長は承明門より出でよ」とそれをさへ分たせ給へば、しかおはしましあへるに、中關白殿、陣まで念じておはしたるに、宴の松原のほどにそのものともなき聲どもの聞ゆるに、すぢなくてかへり給ふ。粟田殿は露臺のとまでわなゝくわなゝくおはしたるに、仁壽殿の東面のみぎりのほどに軒とひとしき人のあるやうに見え給ひければ、ものもおぼえで、「身のさぶらはゞこそ仰せ事もうけたまはらめ」とておのおのかへり參り給へれば、御扇をたゝきて笑はせ給ふに、入道殿はいと久しう見えさせ給はぬを、いかゞと思しめすほどにぞ、いとさりげなく事にもあらずげにて參らせたまへる。「いかにいかに」と問はせ給へば、いとのどやかに、御刀に削られたるものをとり具して奉らせ給ふに、「こは何ぞ」と仰せらるればたゞにて歸り參りて侍らむは證さぶらふまじきによりて、高みくらの南おもての柱のもとを削りてとりて候ふなり」とつれなく申し給ふに、いとあさましうおぼしめさる。こと殿達の御けしきはいまにもなほなほらでこの殿のかくて參り給へるを、御門より始め感じのゝしられ給へど、うらやましきにや、又いかなるにか物もいはでぞ侍ひ給ひける。猶疑はしく思しめされければ、つとめて藏人して「削りくづを遣し見よ」と仰せ言ありければ、もていきておしつけて見たうびければつゆたがはざりけり。そのけづりあとはいとけざやはやかにて侍るめり。末の世にも見る人はなほあさましきことにぞ申しゝかし。故女院の御修法して、飯室權僧正のおはしまし候ふ伴僧にて相人の候ひしを、女房どもの呼びて相せられけるついでに「內の大臣殿はいかゞおはする」と問ふに、「いとかしこうおはします。中宮大夫殿こそいみじくおはしませ」といふ。又栗田殿をとひ奉れば、「それもいとかしこうおはします。大臣の相おはします。又あはれ中宮大夫殿にこそいみじうおはしませ」といふ。また權大納言殿を問ひ奉れば、「それもいとやんごとなくおはします。いかづちの相おはします」と申しければ「いかづちはいかなるぞ」と問ふに、「ひときはいと高くなれどのちどものなきなり。されば御末いかゞおはしまさむと見えたり。中宮大夫殿こそかぎりなくきはなくおはしませ」とこと人をとひ奉る度にはこの入道殿を必ずひきそへ奉りてほめ申す。「いかにおはすればかく度ごとには聞え給ふぞ」といへば、「第一の相には虎子如渡深山峰なりと申したるに、聊かもたがはせ給はねばかく申し侍るなり。このたとひは虎の子のけはしき山の峰をわたるが如しと申すなり。御かたちようて、いはゞ毘沙門のいきほひ見奉るがやうにおはします、御さうかくの如しといへば、誰よりもすぐれ給へり」とこそ申しけれ。いみじかりける上手かな。あてたがはせ給へる事やはおはしますめる。帥のおとゞは大臣まですがやかになり給へりしを、はじめよしとはいひけるなめり。いかづちのおちぬれど又もあがるものを、星のおちて石となるにぞ譬ふべきにや。それこそかへりあがる事なけれ。をりをりにつけたる御かたちなどは、げに永きおもひいでとこそは人申すめれ。中にも三條院の御時賀茂の行幸の日、雪のことのほかにいたう降りしかば、御ひとへの袖をひきいでゝ、御扇をたかくもたせ給へるに、いと白く降りかゝりたれば「あないみじ」とてうち拂はせ給へりし御もてなしはいとめでたくおはしましゝものかな。上の御ぞは黑きに、御ひとへぎぬはくれなゐの華やかなるあはひに雪の色ももてはやされて、えもいはず坐しましゝものかな。高名のなにがしといひし御馬いみじかりしあくめなり。あはれそれを奉り鎭め給へりしはや。三條院もその日の事をこそ思しめしいでおはしますなれ。御病のうちにも、「賀茂の行幸の日の雪こそ忘れがたれけれ」と仰せられけむこそ哀に侍れ。かく世間のひかりにておはします殿の、一年ばかり物をやすからず思しめしたりしよ、いかに天道御らんじけむ。さりながらもいさゝかひげし御心やは徹させ給へりし。おほやけざまの公事作法ばかりにはあべき程にふるまひ、時たがふることなく勤めさせ給ひて、うちうちには所もおき聞えさせ給はざりしぞかし。帥殿の南の院にて人々集めて弓あそばしゝにこの殿渡らせ給へれば、思ひかけずあやしと中關白殿おぼし驚きて、いみじう饗應し申させ給ひて、下﨟におはしませど、さきに立て奉りて、まづ射させ奉り給ひけるに、帥殿の矢かず今ふたつおとり給ひぬ。中關白殿、又御前に侍ふ人々も「今二度のべさせ給へ」と申してのべさせ給へりけるに、安からずおぼしなりて、「さらばのべさせ給へ」と仰せられて、又射させ給ふとて仰せらるゝやう、「道長が家より御門后立ち給ふべきものならば、この矢あたれ」と仰せらるゝに、おなじものを中心には當るものかは。次に帥殿射たまふに、いみじう臆し給ひて御手もわなゝき候ふにや、的のあたり近くだによらず無邊世界を射給へるに、關白殿色靑くなりぬ。又入道殿射させ給ふとて「攝政關白すべきものならばこの矢當れ」とおほせらゝに始めとおなじやうに的のわるゝばかり射させ給ひつ。饗應しもてはやし聞えさせたまへる興もさめてことにがうなりぬ。父おとゞ、帥殿に、「なにかいる。ないそいそ」と制せさせ給ひて事さめにけり。入道殿矢もどして、やがて出でさせ給ひぬ。その折は左京大夫とぞ申しゝ。弓をいみじく射させ給ひしなり。又いみじく好ませ給ひしなり。けうに見ゆべき事ならねども人のさまのいひ出で給ふことのおもむきより、かたへは臆せられ給ふなめり。又故女院の御石山詣に、この殿は御馬にて帥殿は車にて參り給ふに、さはる事ありて粟田口より帥殿かへり給ふとて、院の御車のもとに參り給ひてあない申させ給ふに、御車もとゞめたればながえおさへて立ち給へるに、入道殿は御馬を押しかへして、帥殿の御うなじのもとにいと近ううちよらせ給ひて、「疾くつかうまつれ。日の暮れぬるに」とおほせられければ、あやしくおぼされて見かへり給へれど、驚きたる御氣色もなく、とみにものかせ給はで、「日くれぬ。疾く疾く」とそゝのかせ給ふを、いみじう安からずおぼせどいかゞはせさせ給はむ、やをら立ちのかせ給ひにけり。父おとゞにぞ申させ給ひければ、「大臣かろむる人のよきやうなし」とぞのたまはせける。三月上の巳日の御はらへに、やがて逍遙し給ふとて、帥殿、河原にさるべき人々あまた具していで給へり。ひらばりどもあまたうち渡したるおはし所に、入道殿もいでさせ給ひたる。御車を近くやれば、「便なきこと、かくなせそ。やりのけよ」とおほせられけるを、なにがし丸といひし御車副の、「何事のたまふ殿にかあらむ。かくきこえたまへれば、この殿は不運にはおはするぞかし。わざはひやわざはひや」とて、いたく御車牛をうちて、今少し平張のもと近くこそ仕うまつりよせたりけれ。「からうもこの男にいはれぬるかな」とぞ仰せられける。さてその御車副をば、いみじくらうたくせさせ給ひ御かへりみありしかば、かやうの事にてこの殿達の御中いとあしかりき。女院は入道殿をとりわき奉らせ給ひていみじう思ひ申させ給へりしかば、帥殿はうとうとしくもてなさせ給へりけり。御門、皇后宮をねんごろに時めかさせ給ふゆゑに、帥殿はあけくれ御前に侍はせ給ひて、入道殿をば更にも申さず、女院をもよからずことにふれて申させ給ふを、おのづから心やみさせ給ひけむ、いともほいなきことに思しめしける、ことわりなり。故入道殿の世をしらせ給はむことを御門いみじうしぶらせ給ひけり。皇后宮父おとゞおはしまさで、世の中をひきかはらせ給はむことをいと心苦しうおぼしめして、粟田殿をもとみにやは宣旨下させ給ひし。されど女院の道理のまゝの事をもおぼしめし、又帥殿をばよからず思ひ聞えさせ給ひければ、入道殿の御事をいみじうしぶらせ給ひけれど、「いかでかくは思しめしおほせらるゝぞ。大臣越えられたる事だにいといとほしう侍りしに、父おとゞのあながちにし侍りしことなれば、いなびさせ給はずなりにしにこそ侍れ。粟田のおとゞにはせさせ給ひて、これにしも侍らざらむはいとほしさより御ためなむいとたよりなく世の人もいひなし侍らむ」など、いみじう奏せさせ給ひければむつかしうや思しめされけむ、後には渡らせたまはざりけり。さればうへの御局にのぼらせたまひて、こなたへとは申させ給はで、我が夜のおとゞに入らせ給ひてなくなく申させ給ふ。その日は入道殿はうへの御局に侍はせ給ふ。いと久しういでさせ給はねば、御胸つぶれさせ給ひけるほどに、とばかりありて戶おしあけてさし出でさせ給へりける、御顏は赤みぬれつやめかせ給ひながら、御口は心よくゑませ給ひて、「あはや宣旨下りぬ」とこそ申させ給ひけれ。いさゝかの事だに皆この世ならず侍るなれば、いはむやかばかりの御ありさまは人のともかくも思しおかむによらせ給ふべきにもあらねど、いかでかは院をおろかに思ひ申させ給はまし。その中にも道理すぎてこそは報じ奉り仕うまつらせ給ひしか。御骨をさへこそはかけさせ給ひてしか。中關白殿、栗田殿うち續きうせさせ給ひて、入道殿に世うつりしほどは、さもむねつぶれてきよきよと覺え侍りしわざかな。いとあがりての世はしり侍らず。翁ものおぼえてのちはかゝる事候はぬものをや。今の世になりては一の人の貞信公小野宮殿をはじめ奉りては、十年と坐する近く侍らねば、この入道殿もいかゞと思ひ申し侍りしにいとゞかゝる運におされて、御兄だちはとりもあへず亡び給ひしにこそおはすめれ。それも又さるべくあるやうある事を、皆世はかゝるなめりと申す人々覺しめすとて、有樣少し又申すべきなり。世の中のみかど神の代七代をばさるものにて、神武天皇よりはじめ奉りて三十七代にあたり給ふ孝德天皇の御代よりこそはさまざまの大臣定まり給ふなれ。但しこの御時、大中臣の鎌子の連と申して內大臣になりはじめ給ふ。そのおとゞは常陸の國にて生れ給へりければ、三十九代にあたり給へる御門天智天皇と申す、その御門の御時にこそこの鎌足のおとゞの御姓、藤原と改まり給ひたれ。されば世の中の藤氏の初めは內大臣鎌足のおとゞをし奉れり、そのすゑずゑより多くの御門、后、大臣、公卿さまざまになりいで給へり。たゞしこの鎌足のおとゞをこの天智天皇いとかしこく時めかしおぼして、わが女御一人をこのおとゞに讓らしめ給ひつ。その女御、唯にもあらず孕み給へりければ御門の思さしめ給ひけるやう、この女御の孕める子、男ならば臣が子とせむ、女ならば朕が子とせむとおもほして、かのおとゞに仰せられけるやう、「男ならば大臣の子にせよ。女ならばわが子にせむ」と契らしめ給へりけるに、この御子男にて生れ給へりければ內大臣の御子とし給ふ。このおとゞはもとより男一人女一人をぞもち奉らせ給へりける。この御腹にさしつゞき女二人男二所生れ給ひぬ。その姬君は天智天皇の御皇子大友の皇子と申しゝが太政大臣の位にて、次にはやがて同じ年の內に御門となり給ひて天武天皇と申しける御門の御時の女御にて、二所ながらさし續きおはしけり。おとゞのもとの太郞君をば大中臣のおいみまろ〈つイ〉とて宰相までなり給へり。天智天皇の御子の孕まれ給へしは左大臣までなり給ひて藤原不比等のおとゞとておはしける。うせ給ひて後贈太政大臣になり給へり。鎌足のおとゞの三郞は宇合とぞ申しける。四郞はふじ丸と申しき。この男君だちみな宰相ばかりまでぞなり給へる。かくて鎌足のおとゞは天智天皇の御時、藤原の姓たまはりて、その年ぞうせさせ給へりける。內大臣の位にて廿三年そおはしましける。太政大臣極め給はねど、藤原の御いではじめのやんごとなきによりて、うせ給へる後のいみな淡海公と申しけり」」。この繁樹がいふやう、「「大織冠をばいかで淡海公とは申させ給ふぞ。大織冠は大臣の位にて廿五年、御年五十六にてなむかくれおはしましける。ぬしののたまふことゞも天の川をかきながすやうに侍れど、をりをりかゝるひが事ぞまじりたる。されど誰か又かくは語らむな。佛在世の淨名居士とおぼえ侍るものかな」」といへば、世繼がいはく、「「むかしからくにに孔子と申すものしりのたまひけるやう侍り。「智者も千のおもひばかりも必一つのあやまちあり」となむあれば、世繼年百歲におほくあまり、二百をかぞへぬほどにて、かくまでとはずがたりを申せば、むかしの人々もおとらざりけるにやあらむとなむおぼゆる」」といへば、繁樹、「しかじかまことに申すべき方なくこそ侍れ」」とて、かつは淚おしのごひなど感ずるさまことなるまことにいひてもあまりにぞ覺ゆるや。「「御子右大臣不比等のおとゞは實は天智天皇の御子なり。されど鎌足のおとゞの二郞になり給へり。この不比とうのおとゞ、御名のもじより始めてなべてならずおはしましけり。ならびひとしからずとつけられ給へる名にぞこのもじは侍りける。この不比等の大臣の御男君たち二人ぞおはしける。太郞は武智麿ときこえて左大臣までなりたまへり。二郞房前と申して宰相までなりたまへり。この不比等の大臣の御女二人おはしける。一所は聖武天皇の御母后、光明皇后とぞ申しける。今一所の御女は聖武天皇の御女御にて、御女子をぞうみ奉りたまへりける。女御子を聖武天皇、女帝にすゑ奉り給ひてけり、この女帝をば高野女帝とぞ申して二度位につかせ給ひたりける。弓削の法皇はこの時ぞかし。さて不比等の大臣男子四所を四家となづけて、皆門をわかち給へりけり。その太郞左大臣武智麿をば南家と名づけ、二郞房前をば北家と名づけ、御はらからの宇合の式部卿をば式家を名づけ、そのおとゞの大夫ふじ丸をば京家と名づけ給ひて、これを藤氏の四家とは名づけられたるなりけり。この四つの家より數多のさまざま國王、大臣、公卿おほくいで給ひてさかえおはします。しかあれと、北家の末今にえだ廣ごり給へり。その御次をまた一すぢに申すべきなり。絕えにたるかたは申さじ。人ならぬほどのものどもは、おのづからその御末にもや侍らむ。かの鎌足のおとゞよりの御つゞき、今の關白殿まで十三代にやならせ給ふらむ。その次第をきこしめせ。藤氏と申せば唯藤原をばさいふなりけりとぞ人はおぼさるらむ、さはあれど、もとすゑ知ることはいとありがたきことなり。

一 內大臣鎌足大臣、藤原の姓賜はり給ひての年の十月十六日うせさせ給ひぬ。御年五十六。大臣の位にて廿五年。この姓の出でくるを聞きて紀の氏の人のいひける、「藤かゝりぬる木は枯れぬるものなり。今ぞ紀氏はうせなんずる」とぞの給ひてけるに、まことにこそしか侍るめれ。この鎌足のおとゞの病づき給へるに、むかしこの國に佛法ひろまらず、僧などはたやすく侍らずやありけむ。聖德太子の傳へ給ふといへども、この頃だに生れたるちごも法花經を讀むと申せども、また讀まぬも侍るぞかし。百濟の國より渡りたりける尼して維摩經供養したまへりけるに、御心ち一度にをこたり侍りければ、その經をいみじきものにし給ひけるまゝに維摩會は侍るなり。

一 鎌足の大臣の次郞、左大臣正一位不比等大臣、御年六十二、養老四年八月三日うせたまふ。大臣の位にて十三年。贈太政大臣にならせ給へり。元明天皇、元正天皇の御時二代大臣にておはしましき。

一 不比等大臣の次郞、房前大臣、宰相にて二十年。大炊天皇の御時、天平寶字四年庚子八月七日贈太政大臣になり給ふ。元正天皇、聖武天皇二代、この間宰相にて、天平九年四月十七日にうせ給ひにき。

一 房前のおとゞの四男、眞楯大納言、稱德天皇の御時、天平神護二年三月十六日にうせ給ひぬ。御年五十二。贈太政大臣。公卿にて七年。〈年中行事、十二日うせ給ふとあり。〉

一 眞楯大納言の御二郞、右大臣從二位左近衞大將內麿の大臣、御年五十七。公卿にて二十年、大臣の位にて七年。贈從一位左大臣。桓武天皇、平城天皇二代にあひ給へり。

一 內麿大臣の御三郞、冬嗣大臣は、右大臣までなり給へり。贈太政大臣。この殿よりつぎさまざまあかしたればこまかに申さじ。

鎌足の御代よりさかえひろごり給へり。御末々やうやううせ給ひて、この冬嗣のほどはむげに心ぼそくなり給へり。その程は源氏のみこそさまざま大臣公卿に多くおはせしに、このおとゞ南圓堂をたてゝ丈六のふくえん〈さ脫歟〉すゑ奉り給ふ。さてやがて福緣讃經一千卷供養し給へり。今にその經ありつゝ、藤氏の人々とりてまもりにしあひ給へり。その佛經の力にこそ侍るめれ。またさかえて御門の御後見今にたえず。すゑずゑせさせ給ふめるはその供養の日ぞかし。こと姓の上達部あまた、日のうちにうせ給ひにければ、誠にや人々申すめり。〈或本に、源氏の內の大臣公卿日のうちに十一人うせ給ひにけりとあり。〉

一 冬嗣大臣の御太郞、長良中納言は、贈太政大臣までなり給ふ。

一 長良大臣の御三郞、基經のおとゞは、太政大臣までなりたまふ。

一 基經大臣の御四郞、忠平のおとゞは、太政大臣までなたまりふ。

一 忠平大臣の御次郞、師輔大臣は、右大臣までなりたまふ。

一 師輔右大臣の御三郞、兼家大臣は、太政大臣までなり給ふ。

一 兼家大臣の御五郞、道長大臣は、太政大臣までなりたまふ。

一 道長大臣の御太郞、只今の關白左大臣賴通のおとゞ、これにおはします。この殿の御子の今までおはしまさゞりつるこそいとふびんに侍りつるを、この若君の生れさせ給へるいとかしこき事なり。母は申さぬことなれど、これはいとやんごとなくさへおはするこそ、故左兵衞督は人がらこそいとゞも思はれ給はざりしかども、殿あて人におはするに、又かく世をひゞかす御孫のいでおはしたる、なきあとにもいとよし。七夜の事は入道殿せさせ給へるにつかはしたる歌、

  「年をへてまちつる松のわか枝にうれしくあへる春のみどりご」。

御門東宮をはなち奉りてはこれぞうまごの御さととてやがて御わらはなををさ君とつけ奉らせ給ふ。この四家の君たち、昔も今もあまたおはします中に、みちたえずすぐれ給へるはかくなり。その鎌足のおとゞ生れ給へるは常陸の國なれば、かしこの鹿島といふ所に氏の御神をすましめ奉り給ひて、その御世より今にいたるまで、あたらしき御門、后、大臣立ち給ふ折はみてぐら使必ずたつ。御門奈良におはしましゝ時は、鹿島祭とて大和國三笠山にふり奉りて、春日明神となづけ奉りて、今に藤氏の御氏神にて、おほやけ男女つかひたてさせ給ひ、后の宮その氏の大臣公卿皆この明神に仕うまつり給ひて二月十一月上の申日御祭にてなむさまざまの使立ちのゝしる。御門この京にうつらしめ給ひては、又近くふり奉りて大原野と申す。きさらぎの初卯の日、霜月初子の日と定めて年に二度のまつりあり。又同じくおほやけの使たつ。藤氏の殿ばら皆この御神にみでくら十列奉り給ふ。なほも近くとて、又ふり奉りて吉田と申しておはしますめり。この吉田の明神は山陰の中納言のふりたて奉り給へるぞかし。御祭の日四月、後の子日と十月下の申日とを定めて我が御ぞうに御門后の宮たち給ふものならば、おほやけまつりになさむと誓ひ奉りて坐しましければ、一條院の御時よりおほやけまつりにはなりたるなり。又鎌足大臣の御氏寺、大和國多武峯に造らしめ給ひて、そこに御骨ををさめたまひて、今に三昧行ひ奉りたまふ。不比等大臣は山階寺を建立せしめ給へり。それによりかの寺には藤氏をいのり申すに、このみ寺ならびに多武峯、春日、大原野、吉田に例にたがひ怪して事出できぬれは、御寺の住僧禰宜等など、おほやけに奏し申して、その時藤原氏長者殿占なはしめ給ふに、御つゝしみあるべきは、年の當り給ふ殿ばらたちのもとに御物忌とかきて一の所よりくばらしめ給ふ。大方かの寺よりはじまりて年に二三度會をおこなはる。正月八日より十四日まで八省にて奈良がたの僧を講師として御齋會行はしめ、おほやけより始め、藤氏の殿ばら皆かぐし給ふ。又三月七日よりはじめて十三日まで藥師寺にて最勝會七日、又山階寺にて十月十日より維摩會七日、皆これらの度に勅使下向してふすまつかはす。藤氏の殿ばらより五位まで奉り給ふ。南京法師は三會講師しつれば已講となづけてその次第をつくりて律師僧綱になる。かゝればかの御寺、いかめしくやんごとなき所なり。いみじき非道の事も山階寺にかゝりぬれば、又ともかくも人ものいはず、山しな道理とつけておきつ。かゝれば藤氏の御ありさまたぐひなくめでたし。おなじ事のやうなれど又つゞきを申すべきなり。后の宮の御おや、御門のおほぢとなり給へるたぐひをこそはあかし申さめとてこそ、さうをば申すべからず。

一 內大臣鎌足のおとゞの御女二所、やがて皆天武天皇に奉り給へり。をとこ女みこたちおはしけれど、御門東宮立たせ給はざめり。いみななし。

一 贈太政大臣不比等のおとゞの御女二所、一人の御女は文武天皇の時の女御。み子生れ給へり。其を聖武天皇と申す。御母をば宮子のいらつめと申しき。今一人の御女はやがて御甥の聖武天皇に奉りて后に立たせたまふ。これを光明皇后と申しき。この御腹に女御子をうみ奉り給へるを、女帝に立て奉り給へるなり。高野の女帝と申すこれなり。四十六代にあたり給ふ。それおり給へるに、又御門ひとりを隔てゝ又四十八代にかへりゐ給へるなり。母后を贈皇后と申す。しかれば不比等の大臣の御女二人ながら后におはしますめれど、高野女帝の御母后は贈皇后と申したるに、おはしまさぬよに后にゐ給へると見えたり。かるがゆゑに不比等大臣は光明皇后、又贈皇后宮の御父、聖武天皇ならびに高野女帝の御おほぢにおはします。〈或る本、又高野女帝の御母后生き給へる世に后に立ち給ひて其の御名を光明皇后と申すとなり。聖武の御母も坐しましゝ世に后となりて、贈后と見え給はず。〉

一 贈太政大臣冬嗣のおとゞは、太皇太后順子の御父、文德天皇の皇祖父。

一 太政大臣良房のおとゞは、皇太后宮明子の御父、淸和天皇の御おほぢ。

一 贈太政大臣長良のおとゞは、皇太后宮高子の御父、陽成院の御祖父。

一 贈太政大臣總繼のおとゞは、贈皇后宮澤子の御父、光孝天皇の御おほぢ。

一 內大臣高藤のおとゞは、皇太后后胤子の御父、醍醐天皇の御祖父。

一 太政大臣基經のおとゞは、皇后宮穩子の御父、朱雀天皇幷に村上帝二代の御祖父。

一 右大臣師輔のおとゞは、皇后宮安子の御父、冷泉院幷に圓融院の御祖父。

一 太政大臣伊尹のおとゞは、贈皇后宮懷子の御父、花山院の御祖父。

一 太政大臣兼家のおとゞは、皇太后宮詮子幷に贈后の御父、一條天皇幷に三條天皇の祖父。

一 太政大臣道長のおとゞは太皇太后宮彰子上東門院、皇太后宮姸子、中宮威子、尙侍嬉子、春宮の御息所の御父、當代幷に春宮の御祖父に坐します。こゝらの御中に后三人並びすゑて見奉らせ給ふことは、入道殿より外に聞えさせ給はざめり。關白左大臣、內大臣、大納言二人、中納言の御親にておはします。さりや聞し召しあつめよ。日本國には唯一無二おはします。まづは造らしめ給へる御堂などのありさま、鎌足のおとゞの多武峰、不比等大臣の山階寺、基經のおとゞ極樂寺、忠平のおとゞの法性寺、九條殿の楞嚴院、あめのみかどの造り給へる東大寺も、佛ばかりこそはおほきにおはしますめれど、猶この無量壽院にはならび給はず。まして餘の寺々はいふべきにあらず。大安寺は都率天の一院を天竺の祗園精舍にうつしつくれり。天竺の祗園精舍もろこしの西明寺に寫して造り、もろこし西明寺の一院をこの國の御門は大安寺にうつさしめ給へるなり。しかあれども唯今はこの無量壽院まさり給へり。南京のそこばく多かる寺ども猶あたり給ふなし。恆德公の法住寺いと猛なれど、猶この無量壽院すぐれ給へり。難波の天王寺など聖德太子御心に入れて造り給へれど、なほこの無量壽院まさり給へり。ならは七大寺十五大寺などを見くらぶるに、なほこの無量壽院いとめでたく、極樂淨土この世に顯れにけると見えたり。故にこの無量壽院を思ふに、おぼし願ずることも侍りけむ。淨妙寺は東三條殿、大臣になり給ひての御慶に木幡にまゐらせ給へり。御供に入道殿具し奉らせ給ひて御覽ずるに、多くの先祖の御骨おはするに、鐘の聲聞き給はぬいとうきことなり。我が身おもふさまになりたらば三昧堂建てむと御心のうちに思しめしくはだてたりけるとこそはうけたまはれ。昔もかゝる事多く侍りけるなかに、極樂寺法性寺ぞいみじく侍るや。御年などもおとなびさせ給へるだにも、思しめしよるらむ程なべてならず覺え侍るに、いづれの御時とはたしかにえ聞き侍らず。唯深草の御程にやなとぞ思ひやられ侍り〈如元〉芹川のみゆきせしめ給ひけるに、昭宣公童殿上にて仕うまつらせ給へりける。御門琴をあそばしける。この琴ひく人はべつのつめをつくりておよびにさし入れてぞ彈くことにて侍りし。さてもたせ給ひけるを落しおはしまして、大事におぼしめしけれど又造らせ給ふべきやうもなかりければ、さるべきにぞ思しめしよりけむ、おとなしき人々にも仰せられで、をさなくおはします君にしも、「もとめて參れ」と仰せられければ、御馬をうちかへしておはしましけれど、いづこをはかりともいかでかは尋ねさせ給はむ。見出でゝ參らせざらむことのいみじう思しめされければ、これ求め出でたらむ所には一伽藍を建てむと願じおぼして、もとめさせ給ひけるにいできにたる所ぞかし、極樂寺は。をさなき御心にいかでか思しめしよらせ給ひけむ。さるべきに御爪もおち、をさなくおはします人にも仰せられけるにこそははべりけめ。さてやんごとなくならせ給ひて、御堂建てさせにおはします御車に貞信公はいとちひさくて具し奉り給へりけるに、法性寺の前わたり給ふとて、てゝごに、「こゝこそよき堂どころなめれ。こゝに建てさせ給へかし」ときこえさせ給ひけるに、いかに見てかくいふらむとおぼえて、さし出でゝ御覽ずれば、まことにいとよく見えければ、をさなきめにいかでかく見つらむ、さるべきにこそあらめと思しめして、「げにいとよき所なめり。ましが堂をたてよ。われはしかじかの事のありしかば、そこに建てむずるぞ」と申させ給ひける。さて法性寺は建てさせ給ひしなり。また九條殿の飯室の事などはいかにぞ。橫川の大僧正御房にのぼらせ給ひし御供には繁樹もまゐりて侍りき。かうやうのことどもきこえ給ふれど、猶この入道殿世にすぐれ拔けいでさせ給へり。天地にうけられさせ給へるはこの殿こそおはしませ。何事も行はせ給ふをりに、いみじき大風吹きなが雨降れども、まづ二三日かねて空晴れ土かわくめり。かゝれば、或は聖德太子の生れ給へると申す。或は弘法大師の佛法興隆のために生れ給ふとも申すめり。げにそれは翁らがさがなめにもたゞ人とは見えさせ給はざめり。猶權者にこそおはしますめれとなむあふぎ見奉る。かゝればこの御世のたのしき事かぎりなし。そのゆゑは、むかしは殿ばら宮はらの馬かひ牛かひ、何の御靈會祭のれうとて、錢紙米などこひのゝしりて野山の草木をだにやはからせし。仕丁おものもちいできて人のものとり奪ふこと絕えにけり。又さとのとね村の行事出できて、火祭やなにやとわづらはしくせめし事今は聞えず。かばかり安穩泰平なる時にはあひなむやと思ふは、翁らが卑しきやどりも帶紐をときて、門をだにさゝで、安らかにのび臥したれば年もわかく命も延びたるぞかし。まづは北のかた賀茂河原につくりたる、のゝまめ、さゝげ、うり、なすびといふもの、この中ごろは更に術なかりし者をや。この年ごろはいとこそたのしけれ。人のとらぬをばさる者にて馬牛だにぞはまぬ。されば唯まかせ捨てつゝ置きたるぞかし。かくたのしき彌勒の世にこそあひて侍れや」」といふめれば、今ひとりの翁、「「唯今はこの御堂の夫をしきりに召すことこそ人は堪へがたげに申すめれど、それはさは聞き給はぬか」」といふめれば、世繼「しかしか、そのことぞある。二三日まぜにめすぞかし。されどそれ奉るにあしからず。故は極樂淨土のあらたに顯れ出で給ふべきためにめすなりと思ひ侍れば、いかで力堪へば參りて仕うまつらむ。行く末にこの御堂の草木となりにしがなとこそ思ひ侍れ。さればものゝ心しりたる人は望みても參るべきなり。されば翁らまだあらしか一度かゝず奉り侍るなり。さて參りたればあしきことやはある。いひさけしげくたび、もてまゐるくだものをさへ惠みたび、常に仕うまつるものは衣裳をさへこそはたまひ行はしめ給へ。されば參る下人もいみじういそがしがりて、進み集ふめる」」といへば、「「しかそれさる事に侍り。但し翁が思ひえて侍るやうは、いとたのもしきなり。翁いまだ世に侍るに、衣裳やれむづかしきめ見侍らず、又いひ酒にともしきめ侍らず、もしこの事どもすぢなからむ時は、紙三枚をぞもとむべき。故は入道殿下のお前に申文を奉るべきなり。その文につくるべきやうは、翁、故太政大臣貞信公の殿下の御時の小舍人童なり。それおほくの年つもりて、すぢなくなりにて侍り。閣下の君すゑの家の子におはしませば、おなじ君とたのみ仰ぎ奉る。物少し惠みたまはらむと申さむには、少々の物はたばじやはと思へば、それあるものにて倉におきたるが如くなむ思ひ侍る」」といへば、世繼、「「それはげにさる事なり。家貧しくならむをりはみ寺に申文奉らしめむとなむ、卑しきわらはべとうちかたらひ侍る」」とおなじ心にいひかはす。「「さてもさても嬉しく對面したるかな。年ごろの袋の口あけほころびをたち侍りぬることゝ、さてもこののゝしる無量壽院には、いくたび參りて拜み奉り給ひつ」」といへば「「おのれは大御堂供養の年の會の日は人いみじうはらふべかなりと聞きしかば、試樂といふ事三日かねてせしめ給ひしになむ參りて侍りし」」といへば、世繼、「「おのれはたびたび參り侍りぬ。供養の日のありさまのめでたさはさらにもあらずや。又の日、今日は御佛など近くて拜み奉らむ、ものどもとりおかれぬ先にと思ひて、參りて侍りしに、宮たちの諸堂拜み奉らせ給ひし見申し侍りしこそ、かゝる事にあはむとて今まで生きたるなりけりと覺え侍りしか。物覺えて後、さる事をこそまだ見侍らね。御てぐるまに四所奉りしぞかし。口に大宮、皇太后宮、御袖ばかりをいさゝかさし出でさせ給ひて侍りしに、枇杷殿の宮の御ぐしの土にいと長くひかれさせ給ひていでさせ給へりしは、いと珍らかなりし事かな。しりの方には中宮、かんの殿奉りて、唯御身ばかり御車におはしますやうにて、御ぞども皆ながらいでゝ、それも土までこそ引かれ侍りしか。一品の宮も中に奉りたりけるにや、御ぞどもはなにがしのぬしのもち給ひて御車のしりにぞさふらはれし。ひとへの御ぞばかりを奉りておはしますなめり。御車はまうち君達ひかれて、しりには關白殿をはじめ奉り、殿ばらさらぬ上達部殿上人、おほん直衣にて步みつかせ給へりし。いであないみじや。中宮權大夫殿のみぞ堅固の物忌にてまゐらせ給はざりし。さていみじく口をしがらせ給ひける。中宮の御裝束は權大夫殿せさせ給へりし。いと淸らにてこそ見え侍りしか。供養の日啓すべき事ありて、おはします所に參りて、いつところ居並ばせ給へりしを見奉りしかば「中宮の御ぞの優に見えしは我がしたればにや」とこそ大夫殿おほせられけれ。かく口ばかりさかしうたち侍れど、下﨟のつたなき事は、いづれの御ぞもほどへぬれば色どものふつと忘れ侍りにけるよ。殊にめでたくせさせ給へりければにや、下はくれなゐうす物の御ひとへがさねにや、御うはぎよくも覺え候はず。萩の織物の三重がさねの御唐衣に秋の野を縫ひものし、繪にも書かれたる綾とぞ目もおどろきて見給へし。こと宮々のも殿ばらの調じて奉らせ給へりけるとぞ人申しゝ。大宮は二重織物おり重ねられて侍りし。皇太后は總じてから裝束、かんの殿のは殿よりこそはせさせ給へりしか。こと御方々のもゑかきなどせられたりと聞かせ給ひて、俄にはくおしなどせられたりければ、入道殿御らんじて、「よき咒師の裝束かな」とわらひ申させ給ひけり。殿はまづ御堂御堂あけつゝ待ち申させたまふ。南大門のほどにて見申すだにゑましくおぼえ侍りしに御堂渡殿のはざまより、一品の宮の辨の乳母、今一人はそれも一品の宮の大夫、輔の乳母、中將の乳母とかや、三人とぞ承りし。御くるまよりおりさせ給ひてゐざりつゝかけ給ひつるを見奉り給へるぞかし。おそろしさにわなゝかれしかど、今日さばかりの事はありなむやとおもひて見まゐらするに、などてかはとて申しながら、いづれ聞えさすべくもなくとりどりにめでたくおはしまさふ。大宮の御ぐし御ぞの裾にあまらせ給へりし。中宮は御たけに少し餘らせ給ふにや。御扇をいと近くさしかくしておはします。皇太后宮は御ぞのすそに一尺ばかり餘らせ給へる御裾扇のやうにぞ。かんの殿、御たけに七八寸あまらせ給へり。皇太后宮は御扇少しのけてさしかくさせ給へりける。一品宮は「殿の御前なにかゐさう〈うイ無〉せ給ふ。立たせ給へ」とて長押のせり昇らせ給ふ御手をとらへつゝ、たすけ申させたまふ。あまりあまりなる事は目もおどろく心ちなむし給ひける。あらはならず引きふたぎなどつくろはせ給ひける程に、御覽じつけられたるものかは。あないみじ、宮づかへに宿世のつくる日なりけりと、生けるこゝちもせで三人ながらさぶらひ給ひける程に、「宮だち見奉りつるか。いかゞおはしましつる。このおい法師のむすめだちには、けしうはあらずぞおはしますな。なあなづられそよ」とうちゑみて仰せられかけて痛うもふたがせ給はで坐しましたりしなむ、いき出でたる心ちして嬉しなどはいふべきやうもなく、かたみに見れば顏はそこらけさうじたりつれども、草の葉の色のやうにて又、赤くなりさまざまのやうに汗水になりて見かはしたり。さらぬ人だにあざれたるもののぞきは、いとびなきことにするを、せめてめでたう思しめされければ、御悅に堪へでまたわれと思し召しつるにこそと思ひなすも、心おとりなむする」とのたまひいまさうじける。かうやうの事どもを見給ふまゝには、いとしもこの世の榮花の御さかえのみ覺えてそみつく心のいとゞますますにおこりつゝ道心つくべうも侍らぬに、河內の國そこそこに住むなにがしひじりは庵より出づることもせられねど後世のせめを思へばとてのぼり參らせたりけるに、關白殿の參らせ給ひて、雜人どもをはらひのゝしるに、これこそは一の人におはしますめれと見奉るに、入道殿の御前にゐさせ給へば、猶まさらせ給ふなりけりと見奉るほどに、また行幸なりてらんじやうし、まちうけ奉らせ給ふさま、み輿のいらせ給ふ程など見奉りつる殿達のかしこまり申させ給へば、猶國王こそ日本第一の事なりけれと思ふに、おりおはしまして阿彌陀堂の中尊の御まへについゐさせ給ひて拜み申させ給ひしに、猶々佛こそかみなくはおはしましけれと、この會の庭にはかしこう結緣し申して、道心なむいとゞ熟し侍りぬるとこそ申され侍りしか。傍にゐられたりしなり。やゝまことに忘れ侍りにけり。世の中の人の申すやう「大宮入道せしめ給ひて、太上天皇の御位とならせ給ひて女院となむ申すべき。この御寺に戒壇たてられて御受戒あるべきなれば、世の中の尼ども參りてうくべきなり」とてよろこびをこそなすなれ。この世繼がおんなどもゝかゝる事を傳へ聞きて申すやう、おのれもその折にだにしらがのすそそぎ捨てむとなむ。何か制する」とかたらひ侍れば、「何せむにか制せむ。たゞしさらむ後には、若からむめのわらはべもとめて、えさすばかりぞ」となむいひ侍れば「我がめひなる女ひとりあり。それを今よりいひかたらはむ。いとさしはなれたらむも情なき事なり。近くも遠くも身のためにおろかならむ人を、今さらによすべきかは」となむかたらひ侍る。「やうやう衣袈裟などのまうけに、よききぬ一二疋もとめ侍るなり」などいひて、さすがにいかにぞや、ものあはれげなる氣色のいでくるは、女どもに背かれむことの心ぼそきにやとぞ見え侍りし。さて今年こそは天變しきりにし、世の妖言などよからず聞え侍るめれ。かんの殿のかく懷姙せしめ給ひ、院の女御殿の常の御惱の中にも今年となりてはひまなくおはしますなりなどこそおそろしう承はれ。いでやかうやうの事うち思ひ續け申せば、昔の事こそ唯今のやうにおぼえ侍れ」」など見かはして、繁樹がいふやう「「いであはれ、かくさまざまにめでたき事ども、哀にもそこら多く見聞き侍れど、猶我がたからの君に後れ奉りたりし折のやうに物の悲しく思ひ給へらるゝをりこそ侍らね。八月十日あまりの事に候ひしかば、折さへこそ哀に、時しもあれと思ひ侍りしものかな」」とて鼻度々かみて、えもいひやらずいみじと思ひたるさま、まことにその折もかくこそはと見えたれ。「「一日片時生きて、世にめぐらふべきこゝちもし侍らざりしかど、かくまでさぶらふはいよいよひろごりさかえおはしますを見奉り悅び申さむとに侍り。さてまたの年の五月廿四日こそは冷泉院は誕生せしめ給へりしか。それにつけて、いとゞこそ口をしきをりのうれしさ、かばかりもおはしまさゞりしかな」」といへば、世繼「「しかしかと快く思へるさまおろかならず。朱雀院、村上などのうち續き生れおはしましゝは、又いかになどいふほどあまりにおそろしうぞ。又世繼が思ふことこそ侍れ。便なき事なれど、あすともしぬ身にはべれば唯申してむ。この一品宮の御ありさまのゆかしく覺えさせ給ふにこそ、又命をしう侍れ。その故は、生れおはしまさむとて、いとかしこき夢想見給ひしなり。さおぼえ侍りし事は、故女院この大宮など孕まれさせ給はむとてみえし、唯同じさまなる夢に侍りしなり。それにて萬推し量られさせ給ふ御ありさまなり。皇太后宮の宮にいかで啓せしめむと思ひ侍れど、その宮のへんの人にこそえあひ侍らぬが口をしさに、こゝら集り給へるなかに、もしおはしましやすらむと思ひ給へて、かつはかくは申し侍るぞ、行く末にもよくいひけるものかなとおぼしあはする事も侍りなむ」」といひしをりこそ、こゝにありとてさしいでまほしかりしか。


大鏡卷之八

     賀茂臨時祭始事

     八幡臨時祭始事

     九月九日節止事

いといとあさましくめづらかにつきせず二人かたらひしに、この侍「「いといと興ある事をもうけたまはるかな。さても物の覺えはじめは何事ぞや、それこそまづ聞かまほしけれ。語られよ」」といへば、世繼、「「六七歲より見聞き侍りし事はいとよくおぼえ侍れど、そのことゝなき事は證なければ用ゐる人も候はじ。九つに侍りし時の大事を申し侍らむ。小松の御門のみこたちにておはしましゝ時の御所は皆人しりて侍り。おのが親の候ひし所、大炊の御門よりは北、町じりよりは西にぞ侍りし。されば宮の傍にて、常に參りてあそび侍りしかば、いと閑散にてこそおはしましゝか。きさらぎの三日はつうまといへど、甲午最吉日常よりも世こぞりて稻荷まうでにのゝしりしかば、父のまうで侍りし供にしたがひまかりて、さは申せどをさなきほどに坂のこはきを登り侍りしかば、こうじてえその日の中に還向仕うまつらざりしかば、父がやがてその御社の禰宜の大夫が後見仕うまつりて、いとうるさくて候ひし宿にまかりよりて、一夜は宿り候ひて又の日歸り侍りしに、東の洞院よりのぼりまかるに大炊の御門より西ざまに人々のさゝとはしれば怪しくて見候ひしかば、我が家のほどにしも、いとくらうなるまで人たちこみて見ゆるに、いとゞおどろかれて、もし燒亡かと思ひてかみを見上ぐれば烟もたゝず。さは大きなるつゐぶくかなと、かたがたに心もなきまで惑ひまかりしかば、小野宮の程にて上達部の御車や、鞍おきたる馬ども、かうぶりうへのきぬなど着たる人々などの見え侍りしに心えずあやしくて、「何事ぞ何事ぞ」と人ごとに問ひ候ひしかば「式部卿の宮、御門にゐさせ給ふとて、大殿をはじめ奉りて皆人まゐらせ給へるなり」とて急ぎ罷りしなどぞ物覺えたる事にて見給へし。又七つばかりにや、元慶六年ばかりにや侍りけむ、式部卿宮の侍從と申して、寬平の天皇、常に狩をこのませおはしまして、霜月の廿餘日のほどにや、鷹狩に式部卿宮より出でおはしましゝ御供に走り參りてはべり。賀茂のつゝみのそこそこなる所に侍從殿鷹つかはせ給ひて、いみじう興にいらせ給へるほどに、俄に霧たちて、世間もかいくらがりて東西も覺えず、くれのいぬるとやとおぼえて、藪の中にたふれふしてわなゝきまどひ候ふほどに、時中ばかりや侍りけむ、後にぞうけたまはれば、賀茂の明神顯れおはしまして、侍從殿に物申させおはしける程なりけり。その事は世に日記しおかれて侍るなればなかなか申さじ。しろしめしたらむ。あはそかに申すべきにも侍らず。さて後六年ばかりありて賀茂の臨時の祭はじまりけむ、位に即かせおはしましゝ年とぞおぼえはべる。その日の酉の日にて侍りければ、やがて霜月のはての酉の日にては侍るぞ。はじめたるあづまあそびの歌、敏行の中將ぞかし。

  「ちはやぶる賀茂のやしろの姬小松よろづ代までもいろはかはらじ」。

古今に入りて侍り。皆人しろしめしたる事なれど、いみじくよみ侍るぬしかな。今に絕えずひろごらせ給ふ。御末に、御門と申せどかくしもやおはします。八幡の臨時の祭、朱雀院の御時よりぞかし。朱雀院生れさせ給ひて三年はおはします。殿の御格子參らず、夜畫火をともして御帳の內にておほしたて奉らせ給ふ。北野におぢ申させ給ひてなりけり。天曆の御門をばいとさもまもり奉らせ給はず、いみじき折ふしに生れさせ給へるぞかし。朱雀院生れおはしまさずは、藤氏のさかえいとかうしも侍らざらまし。さて位に即かせ給ひて將門がみだれ出で來てその御願にてとぞ承りし。その東遊の歌、貫之のぬしぞかし、集にもかきて侍るは。

  「松もおひまたもこけむすいは淸水ゆくすゑとほくつかへまつらむ」」」

といへば、またしげき、「「この翁もそのぬしの申されつるがごとくだくだしき事は申さじ。おなじ事のやうなれど、寬平延喜などの御讓位のほどの事などはいとかしこくたしかに覺え侍るをや。伊勢の君の弘徽殿の壁に書きつけ給へりし歌こそは、そのかみ哀なる事と人申しゝか。

  「わかるれどあひも思はぬもゝしきを見ざらむことのなにか悲しき」。

法皇の御かへし、

  「身一つのあらぬばかりをおしなべてゆき歸りてもなどかみざらむ」」」

といへば、傍なる人「「法皇のかゝせ給へりけるを、延喜の後に御覽じつけて、傍に書きつけさせ給へるとも承るはいづれかまことならむ。おなじ御門と申せど、その御ときに生れあひて候ひけるは、あやしの民のかまどまで、やんごとなくこそ。大に寒きころほひ、いみじう雪降りさえたる夜は、諸國の民百姓いかに寒からむとて御衣をこそ夜のおとゞより投げ出しおはしましければ、おのれらまでも惠み憐びられ奉りて侍る身とおもだゝしうこそは。さればその世に見給へしことは、猶末までもいみじきことゝ覺え侍るぞ。人々きこしめせ。この座にて申すははゞかりある事なれど、かつは若く候ひしほど、いみじと身にしみて思ひ給へし罪も今にうせ侍らじ。今日この伽藍にて懺悔仕うまつりてむとなり。六條式部卿の宮と申しゝは延喜の帝の一つ腹の御兄弟に坐します。野の行幸せさせ給ひしに、この宮供奉せしめ給ふべかりけれど、京の程遲參せさせ給ひしかば桂の里にぞ參りあはせ給へりしかば、御輿留めて先だて奉らせ給ひしに、なにがしといひし犬かひの、犬の前足を二つながらに肩にひきこして深き河の瀨渡りしこそ行幸につかうまつり給へる人々さながら興じ給はぬなく、御門も興ありげにおぼしたる御氣色にこそ見えおはしましゝか。さて山ぐちいらせ給ひしほどに、しらぜうといひし御鷹の鳥をとりながら御輿の鳳のうへに飛び參りてゐて候ひし。やうやう日は山の端に入がたに光のいみじうさして山の紅葉錦をはりたるやうなるに、鷹の色はいと白くて、雉子は紺靑のやうにて、羽うちひろげて居て候ひしほどは、まことに雪少しうち散りて、折ふしとり集めて、さる事やは候ひしとよ。身にしむばかり思ひ給へしかば、いかに罪得侍りけむとて、爪彈きはたはたとす。大かた延喜の帝常にゑみてぞおはしましける。そのゆゑは、「まめだちたる人には物いひにくし、うちとけたる氣色につきてなむ人はものはいひよき。されば大小の事聞かむがためなり」とぞおほせ言ありける。それさることなり。けにくき顏には物いひふれにくきものなり。さて「我いかでかふ月なが月にしにせじ。すまひのせち九日のせちのとまらむが口をしきに」とおほせられけれど、九月にうせさせ給ひて九日のせちは其よりとまりたるなり。その日左衞門の陣の前にて御鷹ども放たれしは、哀なりしものかな。とみにこそ飛びのかざりしか。公忠の辨をば大方のことにとりてもやんごとなきものに思しめしたりしなかにも、鷹のかたざまにはいみじう興せさせ給ひしなり。日々に政ごとを勤め給ひて、馬をいづこにぞや立て給ひて、事はつるまゝにこそ中山へはいませしか。官のつかさの辨の曹司の壁にはその殿のたかのものは未だつきて侍らむ。くぜのとりかたのゝとりのあぢはひはまゐりしりたりき。かたへは「そらごとをのたまふにこそ。試み奉らむ」とて、みそかに二所の鳥をつくりまぜて、しるしをつけて人のまゐりたりければ、いさゝかとりたがへず、「これは久世の、これは交野のなり」とこそまゐりしりたりけれ。かゝりければ、「ひたぶるの鷹飼にて侍ふものゝ、殿上に侍ふこそ見苦しけれ」と延喜に奏し申す人のおはしけれど、「公事をおろかにして狩をのみせばこそ罪はあらめ。一度まつりごとをもかゝで、おほやけ事をよろづ勤めて、後にともかくもあらむはなでふ事かあらむ」とこそ仰せられけれ。いで又いみじくはべりしことは、やがておなじ君の大井河の行幸に、とみの小路の御息所の御腹の御子の七歲にてまひせさせ給へりしばかりの事こそ侍らざりしか。萬人しほたれぬ人侍らざりき。あまり御かたちの光るやうにし給ひしかば、山の神めでゝとり奉り給ひてしぞかし。その御ときに、いとおもしろき事ども多く侍りきや。さて大かた申し盡すべきならず。まづ申すべき事も唯覺ゆるにしたがひてしどけなく申さむ。法皇の所々す行しあそばせ給ひて、宮瀧御覽ぜしほどこそいみじう侍りしか。そのをり菅原のおとゞのあそばしたりし和歌、

  「水ひきのしら絲はへておるはたはたびのころもにたちやかさねむ」。

大井の御幸も侍りしぞかし。さてみゆきありぬべき所と申させたまふ。事のよし奏せむとて、小一條のおほいまうちぎみぞかし、

  「をぐら山もみぢの色もこゝろあらば今ひとたびのみゆきまたなむ」。

あはれ優にも侍ひしものかな。さて行幸にあまたの題をたまはりて、やまと歌つかうまつりしなかに、猿山のかひにさけぶといふ題を、躬恆、

  「わびしらにましらな鳴きそ足曳の山のかひある今日にやはあらぬ」。

その日の序題は貫之のぬしこそ仕うまつりしか。朱雀院の母いうにおはしますとこそはいはれさせ給ひしかども、將門が亂などいできて、おそれすぐさせおはしましゝ程に、やがでかはらせ給ひにしぞかし。そのほどの事のありさまこそいとあやしう侍りけれ。母后の御もとに行幸せさせたまへりしを、かゝる御ありさまの思ふやうにめでたくうれしき事など奏せさせ給ひて、「今は春宮ぞかくて見聞えさせまほしき」と申させ給ひけるに、「心もとなく急ぎ思しめす事にこそありけれ」とて程なく讓り聞えさせ給ひけるに、きさいの宮は「さおもひて申さゞりしことを、唯行く末の事をこそ思ひしか」とていみじく泣かせ給ひけり。さておりさせ給ひて後、人々のなげきけるを御覽じて、院より后の宮にきこえさせ給へりし、國ゆづりの日、

  「日のひかりいでそふ今日のしぐるゝはいづれのかたの山邊なるらむ」。

きさいの宮の御かへし、

  「しらくものおりゐるかたやしぐるらむおなじみ山のひかりながらに」などぞきこえ侍りし。院は數月綾綺殿にこそはおはしましゝか。後には少し悔いおぼしめす事ありて、位にかへり即かせ給ふ御いのりなどせさせ給ひけりとあるはまことにや。御心いとなまめしくおはしましゝ、御心ち重くならせ給ひて、太皇太后宮のをさなくおはしますを見奉らせ給ひて、いみじくしほたれさせ給ひて、

  「くれ竹のわが世はことになりぬともねはたえせずぞなほなかるべき」。

誠に悲しくあはれにこそ承はりしか。村上の御門はた申すべきならず。なつかしうなまめきたる方は延喜にもまさり申させ給へりとこそ人まうすめりしか。「我をば人はいかゞいふなる」と人に問はせたまひけるに「ゆるになむおはしますと世には申す」と奏しければ、「さてはほむるなり。王のきびしくなりなば世の人いかゞたへむ」とこそ仰せられけれ。いとをかしうあはれに侍りし事は、この天曆の御時に淸凉殿の御前の梅の木の枯れたりしかば、もとめさせ給ひしに、なにがしのぬしの藏びとにていますかりし時うけたまはりて、「若きものどもはえ見知らじ。きんぢもとめよ」とのたまひしかば、ひと京罷りありきしかども侍らざりしに、西の京のそこそこなる家に、色濃く咲きたる木のやうだい美しきが侍りしをほりとりしかば、家あるじの、「木にこれゆひつけ候ひてもて參れ」といはせたまひしかば、あるやうはこそはとてもてまゐりて候ひしを「何ぞ」とて御覽じければ、女の手にて書きて侍りける、

  「勅なればいともかしこし鶯のやどはととはゞいかゞこたへむ」

とありけるに、あやしく思し召されて「何ものゝ家ぞ」と尋ねさせ給ひければ、貫之のぬしのみむすめの住む所なりけり。「遺恨のわざをもしたりけるかな」とて、あまえおはしましける。繁樹、この生のそくかうはこれや侍りけむ。さるは思ふやうなる木もてまゐりたりとて、きぬかづけられたりしもからくなりにき」」とてこまやかにわらふ。繁樹「「又いとせちにやさしく思ひ給へしことは、このおなじ御時の事なり。承香殿の女御と申すは齋宮の女御よ。御門久しく渡らせ給はざりける秋のゆふぐれに、琴をいとめでたく彈き給ひければ、急ぎわたらせ給ひて御傍におはしましけれど、人やあるともおぼしたらで、せめて彈き給ふをきこしめせば、

  「さらぬだにあやしき程の夕暮に荻吹くかぜのおとぞきこゆる」

とひきたりし程こそせちなりしかと御集に侍るこそいみじう候へといふはあまりかたじけなしやな」」。ある人「「城外やし給へる」」といへば「「遠國にはまからず。和泉の國にこそ貫之のぬしのみにんに下りて侍りしか。「ありどほしとは思ふべしやは」とよまれて侍りしたびのともにもさぶらひき。雨の降りしさまなど語りしこそ、ふる草子にあるを見れば程經たる心ちし侍るに、昔にあひたる心ちしてをかしかりしか」」。この侍もいみじう興じて繁樹がめに、「「女どもこそ今少しこまやかなる事どもは語られめ」」といへば、「「我は都人にも侍らず。たかき宮づかへなどもし侍らず。若くよりこの翁にそひ候ひにしかば、はかばかしき事をも見給はぬものをば」」といらふれば、「「いづれの國人ぞ」」と問ふ。「「陸奧の國あさかの沼にぞはべりし」」といふ。「「いかで京にはこしぞ」」。「「その人とはえ知り奉らず。歌よみ給ひし北の方おはせし守の御任にぞのぼり侍りし」」といふに、中務の君にこそと聞くもをかしくなりぬ。「「いといたきことかな。北の方をたれとかきこえし。よみ侍りけむ歌はおぼゆや」」といへば、「「その方に心もえでおぼえ侍らず。たゞのぼり給ひしに、逢坂の關におはしてよみ給へりし歌ぞところどころおぼえ侍る。

  「みやこにはまつらむものをあふ坂の關まできぬとつげややらまし」」」

など、いとたどたどしげに語るさま、まことに男にたとしへなし。繁樹、「「この人をばひとゝおぼすかとよ。さやうの方は覺ゆらむものぞ。世間たましひはしもいとかしこく侍るをとりどころにてえさり難くおぼえ侍るなり」」といふに、世繼、「「いでこのおきなの女一人こそいとかしこく物はおぼえ侍れ。今ひとめぐりがこのかみにて候へば、見給へぬほどの事などもあれは知りて侍るめり。染殿の后の宮のひすましに侍りけり。母もかんの刀自にて仕うまつりければ、をさなくより參りかよひて、忠仁公をも見奉りけり。わらはべかたちの程のいと物きたなうも候はざりけるにや。やんごとなき公達も御覽じいれて、兼輔中納言令峰衆樹の宰相の御文などもちてはべるめり。中納言はみちのくに紙に書かれ、宰相のはくるみ色の薄葉にてぞ侍るめる。この宰相は五十までさせる事なくほとほとおほやけに捨てられたるやうにていますかりけるが、八幡に參らせ給ひたるに雨いみじうふる。石淸水の坂登り煩ひつゝ參り給へるに、お前の橘の木少し枯れたりけるに立ちよりて、

  「千早振神のおまへのたちばなももろきもともに老いにけるかな」

とよみ給へば、神聞きあはれみさせ給うて、橘もさかえ、宰相も思ひかけず頭になりて宰相までなり給ふとこそ承りしか」」といへば、さぶらひ、「「賀茂の御まへにとかや、はるかの世の物がたりにわらはもし侍るは」」といらふれば、「「さもや侍りけむ。程經てひが言も申し侍るらむ。宰相をば見奉りしかど、人となりてこそ尋ね承れ」」といふ。さぶらひ、「「そはさなり〈九字イ無〉、五十六にてぞ宰相になり、左近中將かけてこそいませしか。そのをりは何とも覺え侍らざりしかど、この頃思ひいで侍れば、見苦しかりけることかなと思ひ侍れ。この侍、「「いかでさるいうそくをば物げなきわかうどにてはとりこめられしぞ」」と問へば、「「さればこそさやうにすきおき侍ひしものゝ心にもあらず、世繼が家にはまうできよりては、はちにしていかばかりのいさかひ侍りしかど、さばかりにこかけそめてあからめせさせ侍りなむや。さる程にゐつき候ひては、翁をまた一夜もほかめせさせはべらぬをや」」とほゝゑみたる口つきいとをこがまし。この女どもゝ世繼も、しかるべきとて侍りけるをそこの女二百ばかりになるとて侍り。「「兼輔の中納言もろきの宰相も、今まであとかばねだにおはせず、世繼にも今やうの若きものども更にかたらはれ侍らじ。かゝる命ながらの生きあはざらましかば、いと怪しう侍らまし」」とてこゝろよくわらふ。げにと聞えてをかしくもあり、聞くもうつゝの事とはおぼえず。「「あはれ今日具して侍らましかば、女房たちの御耳に今少しとまる事どもは聞かせ給ひてまし。私のたのむ人にては、兵衞內侍の御おやをぞし侍りしかば、內侍のもとへは時々まかるめりき」」といふに、「「こはたれにか」」といふ人のあれば、「「いでこの高名の琵琶ひきよ。すまひの節に玄上たまはりて、御前にて靑海波仕うまつられたりしはいみじかりしものかな。博雅三位などだにおぼろげにはえならし給はざりけるに、これは承明門まで聞え侍りしば、左の樂屋にまかりて承りしぞかし。かやうに物のはえかひがひしき事どもゝ、天曆の御時までなり。冷泉院の御代になりてこそ世にくれふたがりたるこゝちし侍りしか。世の哀ふることもその御時よりなり。小野宮殿も一の人と申せど、よそ人にならせ給ひて、若く華やかなる御をぢだちにうちまかせ奉らせ給ふ。又みかどはた申すべきにあらず。あはれに候ひける事、村上うせおはしまして、またの年小野宮に人々まゐり給ひて、いと臨時客などはなけれど、嘉辰令月などうち誦せさせ給ふついでに、一條左大臣殿、六條殿など柏子とりてむしろ田うちいでさせ給ひけるに「あはれ先帝のおはしまさましかば」とて御笏もうちおきつゝあるじ殿を始め奉りて事忌もせさせたまはず、うへの御衣どもの袖ぬれさせ給ひにけり。さる事なりや。何事も聞き知り見わく人のあるはかひあり、なきはいと口惜しきわざなり。今日かゝる事ども申すもわどのゝ聞きわかせ給へば、いとゞ今少しも申さまほしきなり」」といへば、さぶらひもあまえたりき。「「藤氏の御事をのみ申し侍るに、源氏の御事も申し侍らむ。この一條殿六條殿たちは六條一品式部卿の御子どもにおはします。寬平の御孫なりとばかりは申しながら、人の御ありさまいうそくにおはしまして、いづれをも村上の御門時めかし申させ給ひしに今すこし六條殿をば愛し申させ給へりけり。兄殿はいとあまり麗しく、公事より外の事は多分にはませさせ給はで、ゆるぎたる所の坐しまさゞりしなり。おとゝ殿はみそか事には無才にぞおはしましゝかど、わからかにあいぎやうづき、なつかしき方はまさらせ給へりしかばなめりとぞ人申しゝ。父の宮は出家せさせ給ひて仁和寺におはしましゝかば、六條殿修理のかみにて坐しましゝ程なれば、仁和寺へ參らせ給ふゆきかへりの道を、一度は東大宮より上らせ給ひて一條より西ざまにおはしまし、又一度は西大宮より下らせ給ひて二條より東ざまなどに過ぎさせたまひつゝ、內裏を御らんじて、やぶれたるところあれば修理せさせ給へり。いと手きゝたる御こゝろばへなりな。又一條殿の仰せられけるは、「親王たちのなかにて世の案內もしらず、たづきなかりしかば、さるべさ公事の折は人よりさきにまゐり、事はてゝも最末にまかりいでなどして、見ならひしなり」とぞのたまはせける。八幡放生會には御馬奉らせ給ひしを、御使などにも淨衣をたまはせ、御みづからもきよまはらせ給ひしかばにや、お前近き木に山鳩のかならずゐて、ひき出づるをりに飛びたちければ、かひありと喜び興ぜさせ給ひけり。御心いとゞうるはしくおはします人の、信をいたさせ給ひしかば大菩薩のうけ申させ給へりけるにこそ、一とせのひでりの御いのりにこそは。東三條院の御賀茂詣せさせ給ひしには、この一條殿も參らせ給ひき。大臣にならせ給ひぬればさる例なけれども、天下の大事なりとて御出立の所にはおはしまさず、我が御殿の前わたらせ給ひし程に、ひきいでゝ具し申させ給ひしなり。この生に御珠數とらせ給ふ事はなくて、唯每日に南無八幡大菩薩、南無金峰山金剛藏王、南無大般若波羅密多心經とふゆの御扇をかずにとりて一百八遍づゝぞ念じ申させ給ひける。それよりほかの事勤めさせ給はず。四條大宮の太后宮にかくなど申す人のありければ、聞かせたまひて、「なつかしからぬ御本尊かな」とぞおほせられける。この殿はあらたにおふるをば、なべてのやうに謠ひ返させ給ひければ、一條院の御時の臨時の祭に御まへのことはてゝ、上達部だちの物見にいで給ひしに、外記のすみの程過ぎさせ給ふとて、わざとはなくて口ずさみのやうに謠はせ給ひしが、なかなかいうに侍りし。とみくさの花手につみいれて、宮へまゐらむのほどを、例のには變りたるやうに承りしかば、とほきほどに、老のひが耳にこそはと思ひたまへりしを、この按察大納言殿もしかぞのたまはせける。殿上人にてありしかば遠くてよりも聞かざりき。「變りたるしやうのめづらしうさまかはりて覺えしは、あの殿の御事なりしかばにや、又も聞かまほしかりしかど、さもなくてやみにしこそ今に口をしくおぼゆれ」とこそのたまふなれ。この大臣殿たちの御おとゝの大納言優に坐しましき。大かた六條宮の御子どもの皆めでたくおはしましゝなり。御法師子は廣澤の僧正、勸修寺の僧正二所こそはおはしましゝか。大かたそのほどにはかたがにつけつゝ、いみじき人々のおはしましゝものをや」」といへば、「「このころもさやうの人はおはしまさずやはある」」とさぶらひのいへば、「「この四人の大納言たちよ、齊信、公任、行成、俊賢など申す君たちはまたさらなり。さて又おほくのみものし侍りし中にも花山院の御時の石淸水の臨時祭、圓融院の御覽ぜしばかり興ある事候はざりき。そのをりの藏人のとうにては今の小野宮の右大臣殿ぞおはしましゝ。御前の事はてけるまゝに、院はつれづれにおはしますらむかしと思しめして參らせ給へりければ、さるべき人もさぶらひ給はざりけり。藏人判官代ばかりしていといとさうざうしげにておはします。かく參らせ給へるをいと時宜善う思しめしたる御けしきをいとあはれに心苦しう見參らせさせ給ひて、「物御覽ぜよ」など御けしきたまはらせ給へば、「俄にはいかゞあるべからむ」とおほせられけるを、「かくて實資侍へば又殿上に侍ふをのこどもばかりにてあへるなむ」とそゝのかし申させ給ふ。御まやの御馬ども召して、さぶらひしかぎり御前つかうまつり、頭中將束帶ながら參りたまふ。堀川の院なれば程近くいでさせ給ふに、物見車ども二條大宮の辻に立ちかたまりて見るに、布衣衣冠なる御前したる車の、いみじう人はらひ、なべてならぬいきほひなるがくれば、誰ばかりならむと怪しく思ひあへるに、頭中將したがさねの尻はさみて、うつしおきたる馬に乘りておはするに院の坐しますなりけりと見て、車どもゝかち人も手惑し立ち騷ぎていと物騷がし。二條よりはすこし北によりて、冷泉院のついぢづらに御車たてつ。御前どもおりてさぶらひなみ給ふほどに、內より見物につゞき出で給ふ上達部たちの見給ふに、大路のいみじくのゝしれば、怪しくて「何事ぞ」と問はせ給ふに、「院のおはしますなり」と申しけるを、世にあらじとおぼすに「頭中將殿もおはします」といふにぞ、まことなりけりとおぼ〈びイ〉えつゝ、御車より急ぎおりつゝ皆參り給ひし。大臣二人は左右の御車のどうおさへて立たせ給へり。東三條殿、一條左大臣殿よ。さて納言以下は轅のこなたかなたにゐなませ給ふ。殿上人は御車のしり轅のかたに侍ひたまふ。なかなかうるはしからむ事の作法よりもめでたく侍りしものかな。舞人陪從はみな乘りてわたるに、時中源大納言のいまだ大藏卿と申しゝをりぞつかひにておはせし。御車の前近くたちとゞまりて、もとめこを袖のけしきばかり仕うまつり給ひてついゐたまひしまゝに、御片袖を顏におしあてゝ侍ひ給ひしかば、かうなる御扇さし出させ給ひて、「はやう」とかゝせ給ひしかば、少しおしのごひて立ち給ひしが、すべてさばかり優なる事又候ひなむや。げに哀なることざまなれば、人々も御けしきばかり院の御まへにもすこし淚ぐみおはしましけりとぞ後にうけたまはりし。神泉のうしとらのすみの垣の內にて見給へしなり。又若く侍りしをりも、佛法うとくて世のゝしる大法會ならぬにはまかりあふこともなかりしに、まして年積りては動きがたく候ひしかど、參河入道殿の入唐のうまのはなむけの講師、淸昭法橋のせられし日こそまかりたりしか。さばかり道心の無きものゝ始めて心起ることこそ候はざりしか。まづは神分の心經表白のたまひて鐘うち給へりしに、そこばく集まりたりし萬人さとこそ泣きて侍りしか。其は道理の事なり。又淸範律師犬のために法事しける人の講師に請ぜられていくを、淸昭律師同定の說法者なれば、いかゞすると聞くに、かしらつゝみて誰ともなくて聽聞しければ、「只今や過去聖靈は蓮臺のうへにてほとほえ給ふらむ」とのたまひけるを、「さればこそ、こと人はかく思ひよりなましや。猶かやうの魂しひある事はすぐれたるみばうぞかし」とこそほめ給ひけれ。まことに承りしにをかしくこそ侍りしか。これは又聽聞の衆どもさゝと笑ひてまかり歸りにき。いと輕々になる徃生人なりやな。むげによしなし事に侍れど、人のかどかどしくたましひあることの興ありて、いうに覺え侍りしかばなり。法成寺の五大堂の供養しはすには侍らずやな。極めて寒かりし頃、百僧なりしかば御堂の北の廂にこそは題名僧の座はせられたりしか。その料にその堂の庇はいれられたるなり。わざとの僧膳はせさせ給はで、ゆづけばかりたぶ。行事二人に五十人づゝ分たせ給ひて、僧座せられたる御堂の南おもてに鼎をたてゝ湯をたぎらかしつゝ、おものを入れて、いみじう熱くて參らせ渡したるを、ぬるくこそはあらめと僧たち思ひてざふざふと參りたるぞ、はしたなききはに暑かりければ、北風はいとつめたきにさばかりにはあらでいとよくまゐりたるみ房たちも今はさはしけり。後に「北むきの座にていかに寒かりけむ」など殿の問はせたまひければ「しかじか候ひしかば、こよなくあたゝまりて寒さも忘れはべりき」と申されければ、行事だちをいとよしと思しめしたりけり。ぬるくてまゐりたりと別の勘當などあるべきにはあらねど、殿を始め奉りて人にほめられ、行く末にもさこそありけれといはれたうばむは、たゞなるよりは惡しからずよき事ぞかし。いで又故女院の御賀にこの關白殿陵王、春宮大夫殿なつ蘇利舞はせ給へりしめでたさをいかに、陵王はいと氣高くあてに舞はせ給ひて祿賜はらせ給ひてもまひすてゝ、知らぬさまにて入らせ給ひぬる美くしさめでたさにならぶ事あらじと見參らするに、なつそりのいとかしこく又かうこそはありけめと見えて舞はせ給ふに、御祿をこれはいとしたゝかに御肩にかけさせ給ひて、今一かへりえもいはず舞はせ給へりし。今日は又かゝるべかりける業かなとこそ見え侍りしか。御師の陵王は必ず御祿はすてさせ給ひてむぞ、同じ樣にせさせ給はむめなれたるべければ、さまかへさせ奉り給へるなりけり。心ばせまさりたりとこそいはれ侍りしか。女院かうむり給はせしは大夫殿をいみじくかなしがり申させ給へばとぞ。陵王の御師は賜はらでいとからかりけり。それにこそ北の政所少しむつがらせ給ひけれ。さて後にこそ給はすめりしか。かたのやうに舞はせ給ふとも、あしかるべき御年の程にもおはしまさず、わろしと人申すべくも侍らざりしに、二所ながらこの世の人と見えさせ給はで、天童などのおりきたるとこそ見えさせ給ひしか。又この大宮の大原野の行啓はいみじく侍りし事ぞや。雨のふりしこそいと口をしう侍りしことよ。舞ひ人にたれたれそれぞれの君達など數へて一の舞はこの關白殿の君とこそはまはせ給ひしか。試樂の日搔練襲の下がさね、黑半臂奉りたりしはめづらしく侍りしものかな。わきあけに人のき給へりしは、まだ見侍らざりしば、行啓には入道殿のなにがしといひし御馬に奉りて、御隨身四人と我もらんもんにあげさせ給へりしはきやうきやうしかりしものかな。公忠がすこしひかへつゝ所おき申しゝを制せさせ給ひしかば、猶少し恐れ申すまでこそありしか。かしこく京の程は雨も降らざりしぞかし。閑院の太政大臣殿の西の七條より歸らせ給ひしこそ入道殿いみじう恨み申させ給ひけれ。堀川左大臣殿は御社まで仕うまつらせ給ひて御ひきいで物御馬ありき。枇杷殿の宮中宮とはこがねづくりの御車にて、まうち君たちのやんごとなき限えらせ給へる御まへ具し申させ給へりき。御車のしりには皇后宮の御めのと維經のぬしの御母、中宮の御めのと兼安實任ぬしの御母こそ侍ひけれ。殿の君達まだ男にならせ給はぬわらはにて皆仕うまつらせ給へりき。ついでなきことに侍れど、物のけと人の申しゝ事どものさせる事なくてやみにしはさきの一條院の御即位の日、大極殿の御裝束すとて人々あつまりたるに、たかみくらの內に髮つきたるものゝかしらのちうちつきたるを見つけたりける、あさましくいかゞすべきと行事思ひあつかひて、かばかりの事を隱すべきかはとて、大入道殿に「かゝる事なむ候ふ」となにがしのぬしして申させけるをいとねぶたげなる御けしきにもてなさせ給ひて物も仰せられねば、もし聞しめさぬにやとて、又御けしきたまはれど、うちねぶらせ給ひて猶御いらへなし。いとあやしく、さまで御殿籠り入りたるとは見えさせ給はぬに、いかなればかくておはしますぞと思ひて御前に侍ふにうち驚かせたまふさまにて「御裝束ははてぬなりや」と仰せらるゝに、聞かせ給はぬやうにてあらむと思しめしけるにこそと心えて、たちたうびける。げにかばかりのいはひの御こと、又今日になりてとまらむもいまいましきに、やをら引き隱してあるべかりける事を、心もなく申すものかなと、いかにおぼしめし候ふらむと後にぞその殿もいみじく悔しがり給ひける。さる事なりかしな。さればなでふの事か坐します。よき事にこそありけれ。又大宮のいまだをさなくおはしましける時、北の政所具し奉らせ給ひて春日にまゐらせ奉りけるに、おまへのものどもの參らせすゑたりけるを、俄につじ風の吹きまろびて、東大寺大佛殿の御まへにおとしたりけるを春日の御まへなるものゝ源氏の氏寺にとられたるを、よからぬ事にやとこれをもてそのをり世ひと申しゝかど、永く御末つがせたまふは吉相にこそはありけれとぞ覺え侍るな。夢も現もこれはよきことゝ人申せど、させることなくてやむこと侍り。かやうにあやしだちて見給へ聞ゆる事もかくよき事も候ふな。まことに世の中にいくそばく哀にもめでたくも興ありて、うけたまはり見給へ集めたることの數しらず積りて侍るが翁どもとか人々思しめす。やんごとなくも又下りても、ま近くみす簾垂の內ばかりやおぼつかなさ殘りて侍らむ。それなりともおのおの宮殿ばら次々の人のあたりに、人のうち聞くばかりの事は女房わらはべ申し傳へぬやうやは侍る。さればそれも不意に承らずしも候はず。されどそれをば何とかは語り申さむずる。唯世にとりて人の御耳とゞめさせ給ひぬべかりし昔の事ばかりをかくかたり申すだに、いとをこがましげに御覽じおこする人もおはすめり。今日は唯殿のめづらしう興ありげにおぼして、あとをよううたせ給ふにはやされ奉りて、かばかりも口あけそめて侍ればなかなかのこりおほく、又々申すべき事はごもなく侍るを、若しまことに聞しめしはてまほしくば駄一疋をたまはせよ。はひのりて參り侍らむ。かつは又やどりに參りて殿の御才學のほども承らまほしう思ひ給ふるやうは、いまだ年ごろかばかりもさしらひし給ふ人に對面たまはらぬに、時々くはへさせ給ふ御ことばのみ奉るは、翁らがやしは子のほどにこそはと覺えさせ給ふに、このしろしめしなる事どもは、思ふにふるき御日記などを御覽ずるならむかしとこゝろにくゝ、下﨟はさばかりのざえはいかでか侍らむ。唯見聞き給へし事を心に思ひおきて、かくさかしがり申すにこそあれ。まことに人にあひ奉りては、思し咎め給ふことも侍らむとはづかしうおはしませば、事はおいの學問にも承りあかさまほしうこそ侍れ」」といへば繁樹も「「たゞかうなりかうなり。さらむをりは必ず吿げ給ふべきなり。杖にかゝりても參りあひ申し侍らむ」」とうなづきあはす。「「たゞしさまでのわきまへをばせぬ若き人々は、そら物語する翁かなとおぼすもあらむ。我が心におぼえて一言も空しき事加へて侍らば、この御寺の三寶今日の座の戒わしやうに請ぜられ給ふ佛菩薩を證とし奉らむ。中にも若うより十戒の中に妄語をば保ちて侍る身なればこそ命もたもちて候へば、今日この御寺のむねとそれを授け給ふ。講の庭にしも參りてあやまち申すべきならず。大かた世のはじめは人の壽は八萬歲なり。それがやうやう滅しもていきて百歲になる時に佛いでおはしますなり。されど生死の定なきよしを人にしめし給ふとて猶二十年つゞめて八十と申しゝ年入滅せさせ給ひにき。その年より今年まで一千九百七十三年になり侍りぬる。釋迦如來滅したまふを期にて八十に究むべけれども、佛の命を不定なりと見せさせ給ふにや、この頃も九十百の人おのづから聞え侍るめれどこの翁どもの命はまれなる事甚深甚深希有希有なりとはこれを申すべきなり。いとむかしはかばかりの人侍り。神武天皇をはじめ奉りて二十餘代までの間に十代ばかりがほどは百歲百餘歲までは持ち給へる御門もおはしましたれど、末代にはけやけき命もちて侍る翁どもなりかし。かゝれば前生にも戒をうけたもちて候ひけると思ひ給ふれば、この生にも破らでまかりかへらむとおもう給ふるなり。今日この御堂に影向し給ふらむ神明冥道たちも聞しめせ」」とうちいひて、したりがほに扇うちつかひつゝ見かはしたるけしきことわりに、何事よりもおほやけわたくしうらやましくこそ侍りしか。「「さてもさても繁樹が年かぞへさせたまへ。たゞなるよりは年を知り侍らぬが口惜しきに」」といへば、侍「「いでいで」」とて、「「十三にておほき大殿にまゐりきとたのまへば、十ばかりにて陽成院おりさせ給ふ年はいますかりけるにこそ。これにて推し思ふに、あの世繼の主は今十餘年がおとゝにこそあめれば百七十には少し餘り、八十にも及ばれにたるべし」」など手を折りかぞへて「「いとかばかりのみとしどもは相人などに相ぜられやせし」」と問へば「「させる人にも見え侍らざりき。唯こまうどのもとに二人つれて罷りたりしかば、二人長命と申しゝかど、いとかばかりまで侍ふべしとは思ひかけ候ふべきことか。異ごと問はむと思う給へし程に、昭宣公の君達三人おはしましにしかばえ申さずなりにき。其ぞかし、時平のおとゞをば「御かたちすぐれ、心だましひかしこく、日本のかためと用ゐむに餘らせ給へり」と申す。枇杷殿仲平をば「あまり御心うるはしくすなほにて謟ひかざりたる事なくて、日本の小國にはおはせぬ相なり」と申す。貞信兵をば、「あはれ日本のかためやな。かく世をつぎ門を開く事唯この殿」と申したれば「我をあるが中にざえなく心てんごくなりと、かくいふはづかしきこと」と仰せらけるは。されどその儀にたがはずかどをひろげ榮花をひらかせ給へば、なほいみじかりと思ひ侍りて、又まかりたりしに、小野宮どのおはしましゝかばえ申さずなりにき。ことさらに怪しき姿をつくりて下﨟のなかに遠く居させ給へりしを、多かりし人のなかより延びあがり見奉りて、およびをさして物を申しゝかば何事ならむと思ひ給へしを、後にうけたまはりしかば、貴臣よと申しけるなり。あるはいと若くおはします程なりかしな。いみじきあざれ事どもに侍れど、誠にこれは德入りたる翁どもに候ふ。などか人のゆるさせ給はざらむ。又拙き下﨟のさる事もありけるはときこしめせ。亭子院の河尻におはしましゝに、しろ女といふあそびもの召して御覽じなどせさせ給ひて「遙に遠く侍ふよし歌に仕うまつれ」と仰事ありければ、よみて奉りし、

  「濱千鳥とびゆくかぎりありければ雲たつ山をあはとこそみれ」。

いといみじうめでさせ給ひて、ものかづけさせ給ひき。

  「命だに心にかなふものならばなにかわかれのかなしかるべき」。

このしろ女がうたなり。又鳥飼の院におはしましたる、例のあそびどもあまた參りたるなかに、大江の玉淵が娘のこよなくかたちをかしげなれば、あはれがらせ給ひて、うへに召しあげて、「玉淵はいとらうありて歌などよくよくみき。このとりかひといふ題を人々のよむに、おなじ心に仕うまつりたらば、誠の玉淵が子とはおぼしめさむ」と仰せ給ふ。承りて、即、

  「深綠かひある春にあふときはかすみならねどたちのぼりけり」

などめでめでたがりて御門よりはじめ奉りてものかづけたまふ」」ほどの事、南院の七郞君にこゝろむべき事など仰せられけるほどなど委しくかたる。「「延喜の御時古今撰ぜられしをり貫之はさらなり、忠岑や躬恆などは御書所に召されて候ひるけほどに、櫻の木に郭公の鳴くをきこしめして、四日二日なりしかばまだしのびねの頃にて、いみじう興じおはします。貫之召しいだして歌つかうまつらせ給へり。

  「ことならはいかゞなきけむ郭公このよひばかりあやしきぞなき」。

それをだにけやけき事に思ひたまへしに、おなじ御時に御あそびありし夜、御ぜんのみはしもとに躬恆をめして、「月をゆみはりといふこゝろは何のこゝろぞ、これがよしつかうまつれ」とおほせ事ありしかば、

  「てる月を弓はりとしもいふことは山邊をさしていればなりけり」

と申したるをいみじう感ぜさせ給ひて、おほうちぎたまはりて肩にうちかくるまゝに、

  「白雲のこのかたにしもおりゐるはあまつ風こそ吹きてきぬらし」。

いみじかりしものかな。さばかりのものを近う召しよせて勅祿賜はるべきことならねど、譏り申す人のなきも、君の重くおはしまし、又躬恆が和歌の道に免されたることこそ思ひ給へしか。かのあそびどもの歌よみしを感じ給へるはさぞ侍る。院にならせ給ひ、都離れたる所なればといふこそあまりにおよすけたれ」」。この侍問ふ、「「圓融院紫野の子日のひ、曾禰好忠いかに侍りけることぞ」」といへば「「それいと希有に侍りしことなり。さばかりの事に上下をえらばず和歌を賞せさせ給はむことげに口をしき事に侍れど、かくろへて優なる歌をよみ出さむだにいと無禮に侍るべき。殊に座にたゞつきにつきたりし、あさましき事ぞかし。小野宮殿、閑院大將殿などぞかし、ひきたてよひきたてよとおきてさせ給ひしは。躬恆が別祿たまはるにたとしへなき歌よみなりかし。歌いみじうとも折ふしきや〈りイ〉めを見て仕うまつるべきなり。けしうあらぬ歌よみなれど、からく劣りにしことぞかし」」といふ。さぶらひこまやかにうち笑ひて、「いにしへのいみじき事どもの侍りけむはしらず、なにがし物覺えて不思議なりしことは、三條院の大甞會の御禊のいだし車、大宮皇太后宮より奉らせ給へりしぞありしや。大宮の一の車の口のまゆにかうなうかけられて、空だき物たかれたりしかば二條の大路のつふとけぶりみちたりりしさまこそめでたく、今にさばかりのみもの又なし」」といへば、世繼、「「しかしか、いかばかり御心に入れていとみさせ給へりしかば、それに女房の御心のおほけなさはさばかりの事を簾垂おろして渡りたまひしはとよ。あさましかりし事ぞかしな。ものけたまはる口に乘るべしと思はれけるが、しりに押し下され給へりけるとこそ承りしか。げに女房のからきことにせらるなれども、しうの思しめさむ所もしらず、をとこはえしかあるまじくこそ侍れ。大かたその宮には心おぞましき人のおはするにや。一品宮の御裳着に、入道殿より玉を貫きいはほをたて水をやり、えもいはず調ぜさせ給へる裳唐ぎぬをまづ奉らせ給ひて「中にもとりわきて思しめさむ人にたまはせよ」と申させたまへりけるをさりともと思ひ給ひける女房のたまはらでやがてそのなげきに病づきて七日といふにうせ給ひにけるを、いとさまで覺え給ひけむ罪ふかく、ましていかにものねたみの心ふかくいましけむ」」などいふぞあさましくいかでかく萬の事御簾の內まで聞きたらむと恐しく、かやうなるおんなおきなゝどのふる事するはいとうるさく、聞かまうきやうにこそ覺ゆるに、此は唯昔に立ちかへりあひたる心ちして、又々もいへかしと、さしいらへこと問はまほしき事多く、心もとなきに、「「講師おはしましにたり」」と立ち騷ぎのゝしりし程に、かきさましてしかばいと口をしき、事はてなむに人つけて家はいづこぞと見せむと思ひしも、例のなからばかりが程に、その事となくとよみとてかいのゝしり出できて、居込みたりつる人も皆くづれ出づるほどに紛れていづれともなく見まぎらはしてし口をしさこそ、何事よりもかの夢の聞かまほしさに居所も尋ねさせむとし侍りしかども、ひとりひとりをだにえ見つけずなりにしよ。まことまこと御門の母きさいの御もとに行幸せさせ給ひて、御輿寄することは深草の御時よりありけることとこそ。それがさきはおりて乘らせ給ひけるを后の宮「行幸のありさま見奉らむ。唯寄せて奉れ」と奏せさせ給ひければ、その度さておはしましけるより、今はよせてのらせたまふとぞ。皇后宮の大夫殿書きつがはれたる夢なり。この年ごろ聞けば、百日千日の講行はぬ家々なし。老いたるも若きも後の世のつとめをのみ思し申すめるに、一日の講も行はず、唯つらつらといたづらに起きふしてのみ侍る罪ふかさに、ある所の千日の講、卯の時になむ行ふと聞きて參りたりけるに、人々所もなく車もかちの人もありけむ。やゝ待てど講師見えず、人々のいふを聞けば、「「今日の講は夕つ方ぞあらむ」」などいふに、歸らむも罪えがましくおもふに、百とせばかりにやあらむと見ゆる翁の居たる傍に、法師のおなじほどに見ゆる、人の中を分けてきてこの翁に「いとかしこく見奉りつけてあながちに參りつるなり。そもそもおまへは一とせ世繼の菩提講にて物語し給ひしに、あながちに居寄りて、あとうち給ひしと見奉るは老法師のひがめか」」といへば、男「「さもや侍りけむ」」といふ。これはいでけうありて、「「その世繼には又やあひ給へりし」」といへば、「「後三條院生れさせ給ひてなむあひて侍りし」」といへば、「「さてさていかなる事か申されけむ。そのかみごろも、みゝも及ばず承り思う給へし。その後さまざま興ある事も侍るを聞かせ給ひけむ。まことに今の世の事とりそへてたまはせよ。あはれいく年にならせ給ひ侍りぬらむ」」といへば、「二のまひの翁にてこそは侍らめ。さはありときかむと思しめさばすこぶる申し侍らむ。まづその年萬壽二年きのとの丑の年今年つちのとの亥の年とや申す。八十三年にこそなりにて侍りけれ。いでや何ばかり見聞きたる事のなさけも侍らず。かの世繼の申されし事も耳にとゞまるやうにも侍らざりき」」といへば、法師、「「いでいでさりとも八十三年の功德のはやしとは今日の講を申すべきなめり。今もむかしもしかぞ侍りし。二のまひの翁ものまねびの翁、僧らが申さむことを正敎になずらへて誰も聞しめせ」」といへば、翁「きこしめしどころも侍るまじけれど、かくせちにすゝめ給へば、今はのきざみにをこのものに笑はれ奉るべきにこそ。見聞き侍りしは、後一條院長元九年四月十七日うせさせ給へる、保天下二十一年、そのほどいらなく悲しき事多く侍りき。中宮はやがておぼしめし歎きて、おなじ年の九月六日うせさせ給ひにし。上東門院おぼしめし歎きしかど、これにも後れ奉らせたまひて、一品の宮さきの齋院をこそはかしづき奉らせ給ひしか。院のおほん葬送の夜ぞかし、常陸の國の百姓とかや、

  「かけまくもかしこき君が雲のうへにけぶりかゝらむものとやは見し」。

五月ばかり郭公をきこしめして、女院、

  「ひとことを君につげなむほとゝぎすこのさみだれはやみにまどふと」。

このおほんおもひに源中納言顯基の君す家し給ひて後、女院に申したまへりし、

  「身をすてゝ宿をいでにし身なれどもなほこひしきはむかしなりけり」。

御かへし、

  「時のまもこひしきことのなぐさまば世はふたゝびもそむかれなまし」。

その時は、かやうなる事多く聞え侍りしかど、かずかず申すべきならず。後朱雀院位に即かせたまうて、さはいへど華やかにめでたく世にもてなされて、しばしこそあれ。一宮の方に居させ給ふ一品宮、后に立たせ給ふ。後三條院生れさせ給ひにしかば、さればこそ〈如元〉昔の夢は空しかりけりや。なからむ末傳へさせ給ふべき君におはしますとぞ世繼申されし。今后弘徽殿におはしまし、春宮梅壺におはしまして、先帝の一品の宮、春宮にまゐらせたまひて藤壺におはしまして女院入らせ給ひて、ひとつにおほしたてまつらせ給へる宮達、いづれとも覺束なからず見奉らせ給ふめでたさに、故院のおはしまさぬなげき盡せず思しめしたりけり。關白殿に養ひ奉らせたまひし故式部卿の宮の姬君、うちにまゐらせ給ひて、弘徽殿におはしますべしとて、かねてきさいの宮いでさせ給ひしこそ、いかに安からず思しめすらむと世の人なやみ申しゝか。あすまかでさせ給はむとてうへにのぼらせ給ひて、御門いかゞ申させ給ひけむ、宮、

  「今はたゞくもゐの月をながめつゝめぐりあふべきほどもしられず」。

この宮に女宮二所おはします。齋宮齋院に居させたまうて、いとつれづれに宮だちこひしく、世もすさまじくおぼしめすに、五月五日にうちより、

  「もろともにかけしあやめの根をたえてさらにこひぢに惑ふ頃かな」。

御かへし、

  「かたがたにひき別れつゝあやめ草あらぬ根をやはかけむと思ひし」。

殿の御もてなし、かたはらいたくわづらはしくて、久しく入らせ給はず。されどこの宮おはしますこそはたのもしき事なれど、今の宮に男みこうみ奉り給ひては、うたがひなきまうけの君と思しめしたることわりなり。よき女房おほく、出羽少將、小辨、小侍從などいひて、手かき歌よみなど華やかにていみじうて侍はせたまふ」」。


大鏡

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