大塚徹・あき詩集/海浜の虚


海浜の虚 編集

ぽっちりと、情艶の灯を点して
夕昏の雨のように、
私の胸にしのびこんできたオンナよ!

おまえは、眼のない魚の住むという

 杳い 深い 海底から来たのだろうか。
海藻の匂いを、敬虔しくその黒髪に束ねて、

その頃、私は永い牢獄の苦闘より解放されて、
眩惑めくらめく、故郷の白日の下に、
蹌踉と、科学に遅れ、思想に疲れ、今日明日
 の糧にも飢えて、
背骨を刺す人々の白い眼に、
ここしばらくを、阿呆のような、死のような、
 深い眠りがほしいとき、
ぶるる・るる・ぶるる・るる・・ ・・・
おまえの鳴らす海ほほづきの快よい階調を、
子守唄のように聞いて、私はいつか眠った。
 ――

絶えまもなく、胸の灯盞に蝋涙は滴りおちて、
それは幾春秋の永い永い海浜の虚無だったろ
 うか。

オンナは、いま自らの掌に、ふたたび情艶の
 灯を消して、
流木のように海の懐ろに帰ろうとするでは
 ないか。

〈昭和八年、神戸詩人〉